ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

タグ:敬虔

 
  敬虔5
  (過去記事「謙遜」を修正アップ)
 
 
例えば元気で熱心な信仰者に、ありがちな発言として、
「「神のうちに生き、動き、存在している」という視点に立つとき、私たちの存在の意味や価値を謙遜に見極めることができる」
というのを聞いたか読んだかしたことがあります。
 
折に触れて、自分について、神の意志は?と考えるのは、信仰者としては当然ですが、「御心、測りがたし」の思いがあるからこそ、最終的な真偽や正邪を、神の運びに任せる敬虔がありうるのであります。私たち信仰者は、不完全です。
 
「見極めることが出来る」ならば、神の意思を確信することになるから、それは敬虔とは違います。そこに敬虔はないです。ゆえに、この場合「謙遜」は、取って付けたような虚飾に過ぎません。私たち信仰者は、不完全なのです。
 
また「神の導き」「キリストによる罪の贖い」「聖霊の注ぎ」などという言葉、即ち、聖書語を、まるで公式のように、常套句のように繰り返し使い、それで信仰を伝えたつもりになるのは、信仰ではなく、ただの思い上がりです。
 
そういう間違いの起こる理由は「聖書の真理だから」という信念であり、その信念については、説明できる経験からの実感と実体がないままなのは慢心であり、そう覚えているだけであるなら、信仰の言葉にはならないということです。
 
その時その場で、与えられている人間としての経験と知性や感性などを働かせることなく、聖書的な言葉を並べて伝えた気持ちになってしまう。いずれの場合も謙虚・謙遜・へりくだる姿勢・敬虔とは無縁であり、カルトなどに、よく見られる高慢であります。
 
聖書が「生ける神の言葉」であっても、それを受け取り、伝えようとする人は、人の言葉しか持ち合わせておらず、神と違って不完全なのだから、人が人に伝えるべき「生ける人の言葉」としては、伝える努力が及ばないこともあることを知っておくべきでしょう。
 
伝わらないときに、彼には恵みがなかった、などと相手のせいにするのは、もはや、偽善者の言であります。聖書は真理でも、言葉だけ実感のないまま語って、神の導きにお任せしますと、反省も努力もせずにいたら、責任放棄であり自己満足なのです。
 
人と人が互いに、表す言葉の拙さを共感し共有する意識が必要であります。いかなる言葉も、いつも実感を持てるとは限りません。祈りとともに、努力を続けることが信仰生活なのです。敬虔はそこにあるのであって、実感のないまま繰り返される聖句や信仰の言葉の数にあるのではないからです。
 
 
 
よくある信仰についての勘違いですが、罪は赦されたから罪なき者となったのではなく、罪人だったけど悔い改めたので罪が無くなったのでもありません。
 
信仰者は、罪を犯しても正直に祈ることで赦されて生きる道を与えられたのです。
 
この地上の世に生きてきて、信仰を与えられている我が身を振り返って、自らの来し方を思い、行く末を考えるならば、自分がそんなに立派になったとは考えられないのが正常であり、見違えるような聖となって罪が無いなどと信じることは、直観的にあり得ないと分かるはずなのです。
 
私たちキリスト信仰者は、信仰によって思い上がるのではなく、信仰によって敬虔を学ばなければいけません。信仰者は感動をもって成長する道を与えられたのであって、何もかもが良くなって完全になるなんていうのはカルトか多幸症の高揚気分に過ぎません。
 
神は、全知全能・絶対完全・永遠不変であり、私たち人間は、それらの神の性質を持ち得ないことを知ることで、救い主イエス・キリストとの、同伴と共感の絆(きずな)を持ち得るのであります。
 
神を恐れるとは、完全なる全能の神の存在によって、不完全で小さい人が自らの尊大と傲慢を砕かれ、それゆえに柔和になることです。言い換えれば、神のもとで生きる砕かれた魂という新たな尊厳を与えられることであります。
 
 
敬虔 砕かれた魂

敬虔 砕かれた魂
 
 
(2011年)(2019年)
(2020年)(2021年)
(2022年05月18日、再録+加筆)
 
 
 
  逃避
 
命には限りがある
出会いにも限りがある
愛にも限りがある
なのに別れだけは永遠だ
いつまでバイクに乗っていられる
いつまで生きていられる
すべてを変えてしまった時の長さに
深く刻まれた沈黙の中を
捧げるあてもない命
運んで俺のバイクは
永遠を噛みしめながら
走り続ける
かすかな記憶の
さいはてに向かって
 
(90年代か)
 
 
  去り際の願い
 
いくつかの微笑と
数々の哀しげな顔や
苦悩の表情が
私とともにあって
それらが皆
去り際の人間の顔として
私とともに流れてきて
私は今ここにある
(どこか)
私はどこに
いざなわれるのだろう
いったい私の去り際に
(いつか)
どんな顔を
誰に向けるのだろう
 
願わくは
眠りに入る刹那のような
安らぎとともにあらんことを
ぬるい夢に流れてゆく
私の呆(ほう)けた顔が
その時だけは雲間から淡く
広がる光の中に
小さくきらめく
雫(しずく)のようであらんことを
何よりも無邪気ならんことを
 
(90年代か)
 
 
  祈り・恐れてはならないもの
 
生も死も恐れている
それ以上に神を恐れている
同じくらい主を頼みとしている
 
♪迷わば訪ねて曳(ひ)き返りませ
 
この先
たとい人を世界をこの国を
いかなる艱難(かんなん)が襲って来ようとも
 
♪世の友われらを捨て去るときも
 
たとい死の陰の谷を歩むとも
わざわいを恐れません
と言えますように
 
 
(かなり昔の作)
※ ♪は、讃美歌の歌詞です。
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
謙譲、謙遜、謙虚、ということから、最も遠いのが楽山です。しかし、そう見せる芝居をしてきます。それで安心して受け入れると、罠にはまることになります。曖昧で語尾の否定肯定を濁すボンヤリ言語、謙譲芝居のセリフであるトホホ言語と呼んでいます。責任逃れと隠し事で出来ている楽山です。
 
 
 
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  人間が受け取れること2
 
 私の記事「人間が受け取れること」
  補足修正して再録します。
 
 
信仰は
神・キリスト・聖霊という神性について
それぞれ、こうだと分かって信じることではありません。
そういう信じ方を決めつけ思い込みの信じ込みと言っています。
 
信仰は
人が神のもとにあるという希望です。
それは絶えることのない希望です。
 
信仰は
キリストの愛と共感によって
絶対孤独から解放された人間が
キリストの愛と共感に答えて
キリストを愛することです。
 
人間が受け取ることの出来る信仰とはどういうものでしょう。
 
超常の奇跡も仕組みも
人間が、分かったと受け取れるものではありません。
しかし聖書に書いてあるのだから否定されるものでもありません。
 
教理としてまとめられた解釈は糧(かて)となりますが、
それを、そのまま話しても、
恐らく人間に対する説得力はないでしょう。
 
教理は、聖書解釈から、妥当な道筋を表したもので、
それを信じ込んで、信仰となるわけではないのです。
私たちは、経験の中から、敬虔な信仰を学んでゆくのです。
 
そういう手に負えない救いの仕組みについて
神に任せるしかない超常の話について
私たちは正直に、分からない、と答えるべきであります。
それが神のもとにあって
人が不完全であることの自覚であり
敬虔なのです。
 
敬虔は礼儀ではありません。
敬虔は信仰に密接に結びついており
信仰になくてはならないものです。
 
人間には何が分かるのでしょう。
人間に分かるのは人間に起こることです。
また人間によって営みとできることです。
 
人間には知性と感性があります。
どちらにも直観的または直感的な理解というものもあります。
この2つの熟語の区別は、私の中では、はっきりしてはいません。
人間に起こることでも心の中のことは
人間には明確につかむことの出来ないことが多くあります。
 
知性に拠って理路となり実行可能となること
感性によって納得できて心を活発にすること
これらは人間にとって
完全ではなくとも
手に負えることです。
つまりこれらを用いて聖書を読み
これらを用いて信仰生活で必要なことを考えてゆきます。
 
聖書の中で
処女懐妊、奇跡、肉体の復活について
人間は、そう書いてありますと言っても
それを理解することは出来ません。
これらは神のわざですから
神のものは神に任せるべきであります。
 
神に任せることについて
生命保険のような保証を得たと思うのはカルトのすることです。
神に任せたのであれば
喜びをも悲しみをも、最後には地上での死をも
与えられることを受け容れるべきでしょう。
 
 
聖書の中で
キリストと人間が交わって
キリストが何を見抜いたか
そして、交わした言葉と態度が、人間にとっては何よりも重要です。
 
聖書の中で
キリストが、いかなる人を救ったか、
キリストが、いかなる人を批判し否定したか、
この両方から、キリストの意志と意図を読み取るべきです。
 
そして、聖書を読んで、キリストに癒やされた経験があるなら、
それは、魂の奇跡、または、心の奇跡と、呼ぶべき奇跡なのです。
この奇跡だけは、人間に理解可能です。
 
 
既に、記事に書いたことではありますが、
 
 (創世記、口語訳)4:5
しかしカインとその供え物とは顧みられなかったので、カインは大いに憤って、顔を伏せた。
 (創世4:5、旧約聖書)
 
カインは、創造主が省みなかったとき、憤りました。
相手は創造主なのだから、本来、深く悲しんで理由を聞くべきだったのです。
 
カインのこういう在り方は、サイコパスの特徴ではないかと思います。
 
 (マタイによる福音書、口語訳)
19:20
この青年はイエスに言った、「それはみな守ってきました。ほかに何が足りないのでしょう」。 
19:21
イエスは彼に言われた、「もしあなたが完全になりたいと思うなら、帰ってあなたの持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に宝を持つようになろう。そして、わたしに従ってきなさい」。 
19:22
この言葉を聞いて、青年は悲しみながら立ち去った。たくさんの資産を持っていたからである。 
 (マタイ19:20-22、新約聖書)
 
守ってきたという青年の高慢をくじくために、キリストは、総てを捨てるように、青年に言います。
そして、青年は、出来ないことを言われたので、悲しみながら立ち去ります。
カインとは違うところです。
この青年が、その後、どうなったかは、聖書には書いてありませんが、
この青年に、その後の導きがありますようにと、祈るのには十分でしょう。
悲しむことの出来る人は、神のもとにあって、幸いです。
 
このように、神から、そのときは離れてゆく、という人にも違いがあります。
そこに、救いに与(あずか)るために必要なヒントが書いてあるように思います。
 
 (マタイによる福音書、口語訳)5:4
悲しんでいる人たちは、さいわいである、
彼らは慰められるであろう。
 (マタイ5:4、新約聖書)
 
カインと、青年の、2つの聖句で表された、怒りと悲しみは、不都合なことが起ったときの感情として、憎しみと暴力につながるか、悲しみと反省と悔い改めにつながるか、という大きな違いがあります。前者はカインの道であり、後者は信仰者の道であります。
 
それは、そのまま、人間の感情の方向が、御心に、適(かな)うか、適わないか、ということでもあります。聖書は、怒りよりも、悲しみを、信仰の義に至る経過としているようです。
 
カインは、その後、弟アベルを殺します。殺したら、取り返しがつきません。
 
青年のその後は、書かれていないようですから、推測するしかありませんが、立ち去っても、戻ることは可能です。悲しみは、内省やアドバイスによって、元気を取り戻すことが可能な感情です。
 
憎しみは、外に向かう攻撃性で、暴力につながりやすく、
 
悲しみは、内に向かう分、反省につながる可能性があります。
 
悔い改めの正直な祈りは、多く、悲しみを経ています。怒りや憎しみからは生まれません。
 
怒りは、とっさの反応として湧き上がってくるものです。それが、憎しみという持続する陰性の感情になるかどうかは、とても重要だということです。
 
悲しみは、長く続くと、心の病につながることもあり、悲しまないでいられるほうがよいのかもしれませんが、生きておれば、自他ともに人間は不完全ですから、多かれ少なかれ、悲しみは、必ず訪れてくるものです。
 
悲しみと、憎しみと、どちらを抱えている人に、人は近づこうとするでしょう、言うまでもなく、前者であります。助けになれる可能性があるからです。
 
 (マタイによる福音書、口語訳)5:4
悲しんでいる人たちは、さいわいである、
彼らは慰められるであろう。
 (マタイ5:4、新約聖書)
 
誰かに慰められるだけでなく、癒しと救いという信仰の本質に直結する大事な聖句です。怒りに身を任せる人、憎しみに身を任せる人には、人も近づかず、神も近づかない、というより、近づいたことに、人が気づかなくなるのです。
 
怒りには、義憤というものもあります。不正に対する怒りであり、短絡しなければ、必ずしも、いつも悪いとは言えません。しかし、憎しみや怨念になってしまうと、災いとなることが多いでしょう。
 
最も災いなのは、無感情と無反応です。何があっても、感情的にならないのではなく、感じない者は、また、感じなくていいと思っている者は、結局、さらに感性が鈍麻してゆき、無反省になるので、そこから、知性も成長しなくなってしまうのです。
 
無感情、無反応、無反省は、人間ならば、ありえないことのよう思われますが、傾向としては、人格障害において起こりえます。カルトの刷り込みなどによっても、起こりえます。帰結するところは、人格崩壊、または、自暴自棄の混乱状態となってゆくでしょう。
 
 
(メモ的に)
 
神のほうが人から離れてゆくことはありません。
神の全知全能は、人の総てをも知るのであって、離れることはないのです。
だから、人は、離れても、いつでも、神のもとに帰ることが出来ます。
神は、いつも、待っておられるということです。
 
神ではなく、人のほうが、勝手に離れてゆき、
神への節操を忘れて、正直な告白と悔い改めをしなくなることがあり、
そういう者に限って、心の中に別の守り神?を捏造してゆきます。
そして、盛んに讃美するのです。
 
神は人を裏切りません。
 
また、自由意志のない動植物は神を裏切りません。
 
人だけが神を裏切ることがあります。
 
その中で最も重い罪は、自分に都合の良い偶像を神?と言うことです。さらに、自己正当化と自己顕示欲のために、悲しみに気づかないならば、代わりに、自分を高める嘘を吐くようになるからです。
 
悲しむ心を持たないで、沸き起こる怒りと継続し増幅する憎しみに任せる精神状態は、悔い改めとは逆方向の、あざ笑いと復讐の念をを生じるでしょう。不都合に怒るカインにおいて、サイコパスの起源として、典型であります。
 
悲しみをいだくということは、それほどに、人間が救われる重要な要素なのです。
 
 
今、悲しむ者は幸いなり

今、悲しむ者は幸いなり
 
 
(2019年08月18日)
(2020年08月21日、加筆修正して再録)
(2021年08月22日、再録+加筆)
 
 
 
  低い人
 
低みを流れる風に吹かれて
川を眺める
緩やかな流れに揺らめく空の高み
あの青い風に吹かれたいのは
 
長い影をつくり
森を沈ませ
闇へと消してゆく
ひとときの
雲の縁を輝かせ
じりじりと焦がしていく
あの熱に焼かれたいのは
 
星の地図よりも星と星の間
小さな星を瞬かせ
夜の空をつくっている
黒い曲面よりも平坦な
深海よりも深い立体の
あの底の底へ旅したいのは
 
人ひとりの
喜びや悲しみも測れないでいて
忘れることも割れることも
地上で覚え育った
鏡よりも
低い
 
 
  茶柱
 
私の夢よ
憧憬(あこがれ)よ
その茶柱を取ってくれ
そして息になぞらえて
吸い込む姿勢で待ってくれ
私は去りはしない
 
絶え間なく裏切りの
喪章をつけた野良犬が
喜びに餌も忘れて
茶の間から宵闇への道
半旗の中を走っていくよ
 
私の歌よ
悲しみよ
その茶柱を取ってくれ
そして眉間にながらえて
戸惑う息に耐えてくれ
私は去りはしない
私は笑っては いない
 
 
  これで息
 
ごはん炊いて
ラップに包んで
冷凍する
これで数日は息抜きできる気分
 
悪いこころ集めて
これこれと反省して
お祈りする
これでしばらくは息吹き返す気分
 
悲しいこころ集めて
じっと乾く涙を待って
目を閉じる
これでほんの少し
ため息つける気分
 
良いこころ集めて
あれこれと考えて
わからないと気づく
これでこれからも虫の息
 
スープ飲む?
 
 
(90年代か)
 
 
 
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  謙虚2
 
 
神を知性で捉えて理解することは出来ない
これは地上の人間にとって真実である。
 
しかしそう言いながら
解釈においては
人にとって常識的な論理つまり知性を用いて
人は神との関係を持つことが出来る。
それが神を知ることだと語る。
 
ここまでは
「信仰の原罪」であろうか
不可避である。
信仰者にとって生きるために必要なこともある。
そして、聖書にて
神は・・こう言われています
という書き方になる。
 
信仰は
神を理解することではなく
キリストの命を賭した愛と共感をもって
神を信じ仰ぐことであり
神に正直に祈ることである。
 
しかし
神との関係を持ち
神を知った者が
やはり常識的な論理の言葉を用いていて
 
つまり死ぬまで人知によらざるを得ないのに
 
様々な個別の出来事や事柄を
人の及ばない秘め事であるのに
神の行為と結びつけて判断し
確信の固定をもって伝え広めようとするなら
 
聖三位と同等の振る舞いになり
神と人に対して
明らかな傲慢不遜である。
 
 
神のしもべであっても
様々の驚くべき出来事について
しもべは主(あるじ)が
人知を超えた御方であることを知るゆえに
 
信仰をもって
それを恐れ
主なる神の行いについて
しもべの浅知恵や
限りある経験によって
断定することをも恐れるのであります。
 
慎ましく受け取り
間違いのない神とは違うのだから
確信を持って声高に語ることをせず
慎ましく語り
何事も包み隠さず正直に祈ります。
 
少なくとも都合の悪いことに
目をつぶったり
耳を塞いだり
口をつぐんだり
他者の口を封じたりはいたしません。
 
さらに自らの瑕疵(かし)を消して
まるで最初から
なかったかのように
見せかけたりもいたしません。
 
さもなければ
起こっている悲劇を聞きながら
我が身の多幸を感謝して
自分を満たすために
信仰に見せかけた心地よいの砦を作って
抵抗しない人だけを招き入れ
自分の解釈に神秘の味付けを加え
自分の花園をこしらえ
造花を植えて愛でて
満悦するような偽善者になってしまうからです。
 
 
分かっていなければならないのが信仰ではなく
分からないならば分からないと正直に言うのが信仰です。
 
 
 
 
「いいね」を入れてくれたから見てみると、その人のブログでは、批判というものを害毒のように言ってるようです。
 
批判を書いている人はいっぱいいると思いますが、まず、この人が書いているのは批判ではないのでしょうか。さらに、批判についての基本的な誤解~曲解があるようです。
 
批判と言われているものには2種類あると思います。
 
1)相手を変えるために批判する・・これは、双方向が成り立つ間柄で、忠告や提案をすることにとどめておいたほうがよいでしょう。それ以上は、大方、うまくいかないと思います。
 
2)として、1)のやり方で相手を変えることは難しいけど、放置しておいたら害が増えるだけと思われる場合は、こんなおかしい人がいますから関わらないようにしてください・・というような、情報を公開してゆくことが必要です。
 
私の批判は、おもに、2)であります。つまり、批判記事は、こんなおかしい人がいますから、だまされないようにしてほしいという願いを込めて書いています。つまり、記事を読んでほしいのは、批判対象ではなく、一般読者であります。
 
批判対象は、記事を読んでも読まなくても、都合の悪いことは無視して、平気でいるような輩です。
 
明確な意志と方法を持って批判しているなら、批判することで不安になるようなことはありません。
 
悪いことをする人の情報を書かなくなったら、悪人は、どんどん蔓延ってしまいます。それと、悪い人の中には、善を気取ってだましてくる、いわゆる偽善者もいます。批判を全然しないのが正しいと思い込んでいる人は、偽善者クラスの悪人の手助けをしていることになるでしょう。
 
自分が批判するしないは個人の自由ですが、一般論として、批判はよくないと決めつけるのは、それこそ、認識不足と自説への慢心による間違い~偽善と言うべきであります。
 
 
いかなる天上を信ずるのか

いかなる天上を信ずるのか
 
 
(2011年05月31日)
(2021年08月19日、再録+)
 
 
 
  きぼう
 
そらをみれば
そらにすわれ
こなごなになって
きえてしまいそうで
 
ひとをみれば
ひとみのおくにすわれ
すきとおる こどくのなかで
いきが たえて しまいそうで
 
いつのまにか
うすい いのちに さく
はなのあいだに
ただようかおりまつみの
ほのかな
ぬくもりのかげに にている
 
 
  高い窓
 
壁の 絵の
幼い少女は 手を伸べて
あそこよ と 指さしている
 
それが最初に見た
希望の形だった
 
伸びてゆく 手 が
かすかな影を ふるわせながら
うすい 光の 向こうで
声 を 待っている
 
孤独な 光だけが
医者のように 顔色を変えないで
夜じゅう 診ていたらしい
しらんでゆく窓に 衰弱して
くぼんだ 血管の 足音を聴いている
 
その小さなふるえから身を引いて
あきらめた 手 が
狭い視野から
落ちてゆくころ
 
また朝焼けの始まる
高い 窓の
物陰に隠れて
 
目覚めてはいるが・・・
 
 
 
 楽山のツイッターですが(再録)
 
楽山は、記事も、ツイッターも、自らは、はっきり言わず、責任を逃れようとしながら、他者の言から都合のよい文言を引用して、味方にしようとします。それで、引用の責任さえも、負わないでいいと思うような無責任ぶりであります。
 
心機一転★こも楽山さんがリツイート
優しい藤倉善郎
@SuspendedNyorai
今日の靖国神社前での戦利品は、幸福の科学、顕正会、法輪功、キリストの幕屋の各パンフ類。それぞれが入り混じって配布活動してた。
藤「幸福の科学は宿敵じゃないんですか」
顕正会「相手にしてないです」
藤「顕正会と一緒にビラまきしてて仲いいですね」
幸福の科学「国難ですから!(笑顔)」
午後7:49 · 2021年8月15日·Twitter Web App
 」
 
「キリストの幕屋」は、右翼の教団で、信条に大和魂が入っているという話を聞いたことがあります。純粋なキリスト教とは言えないでしょう。そして、楽山は、右翼のA級戦犯を褒め讃えるネトウヨであります。楽山は、今も、まだ、クラゲのように、蠢(うごめ)いているようです。
 
 
 
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  キリストの心2
 
 
キリストは、救われる人々に対して
物や肉体の奇跡をおこなっただけでしょうか。否であります。
 
こんなことが出来るから従え
という救い主でしょうか。否であります。
 
確かにキリストは
神の権威をもって語ったかもしれない。
物や肉体の奇跡も、私は、否定はしません。
しかし、それが、私が信仰者になった理由ではありません。
 
キリストは、大きな働きをする正しい善人を選んで義とし、救ったでしょうか。否であります。
 
神の前の、正直と本気、信仰には必要なのは、それだけです。
 
 
 (マタイによる福音書、口語訳)
8:2-5
朝早くまた宮にはいられると、人々が皆みもとに集まってきたので、イエスはすわって彼らを教えておられた。 すると、律法学者たちやパリサイ人たちが、姦淫をしている時につかまえられた女をひっぱってきて、中に立たせた上、イエスに言った、 「先生、この女は姦淫の場でつかまえられました。 モーセは律法の中で、こういう女を石で打ち殺せと命じましたが、あなたはどう思いますか」。 
8:6
彼らがそう言ったのは、イエスをためして、訴える口実を得るためであった。しかし、イエスは身をかがめて、指で地面に何か書いておられた。 
8:7-8
彼らが問い続けるので、イエスは身を起して彼らに言われた、「あなたがたの中で罪のない者が、まずこの女に石を投げつけるがよい」。 そしてまた身をかがめて、地面に物を書きつづけられた。
8:9-11
これを聞くと、彼らは年寄から始めて、ひとりびとり出て行き、ついに、イエスだけになり、女は中にいたまま残された。 そこでイエスは身を起して女に言われた、「女よ、みんなはどこにいるか。あなたを罰する者はなかったのか」。 女は言った、「主よ、だれもございません」。イエスは言われた、「わたしもあなたを罰しない。お帰りなさい。今後はもう罪を犯さないように」。〕
 (マタイ8:5-11、新約聖書)
  
善人だから救った、ということではないことは明らかです。女性は、キリストの前にも、もはや、打ち殺されるだけの力なき小ささを、そのまま任せるしかない状況だったから、キリストは救ったのでしょう。キリストは、女性の心を洞察し思いやっています。
 
 (マタイによる福音書、口語訳)
9:20-21
するとそのとき、十二年間も長血をわずらっている女が近寄ってきて、イエスのうしろからみ衣のふさにさわった。 み衣にさわりさえすれば、なおしていただけるだろう、と心の中で思っていたからである。 
9:22
イエスは振り向いて、この女を見て言われた、「娘よ、しっかりしなさい。あなたの信仰があなたを救ったのです」。するとこの女はその時に、いやされた。 
 (マタイ9:19、新約聖書)
 
キリストに対して、衣の一部でもいいから触ろうとすることは、縋りつくような強引さではなく、端っこでもいいから、という、救われたい気持ちの必死さと、身の程を弁えた敬虔の表れです。
 
信仰が、辻褄合わせではなく、保険のように保証があるからでもなく、一途であり、その結果を問わないほど、他にないという本気から始まっていることを表しています。
 
 
 (マタイによる福音書、口語訳)
15:22
すると、そこへ、その地方出のカナンの女が出てきて、「主よ、ダビデの子よ、わたしをあわれんでください。娘が悪霊にとりつかれて苦しんでいます」と言って叫びつづけた。 
15:23-24
しかし、イエスはひと言もお答えにならなかった。そこで弟子たちがみもとにきて願って言った、「この女を追い払ってください。叫びながらついてきていますから」。 するとイエスは答えて言われた、「わたしは、イスラエルの家の失われた羊以外の者には、つかわされていない」。
15:25-27
しかし、女は近寄りイエスを拝して言った、「主よ、わたしをお助けください」。 イエスは答えて言われた、「子供たちのパンを取って小犬に投げてやるのは、よろしくない」。 すると女は言った、「主よ、お言葉どおりです。でも、小犬もその主人の食卓から落ちるパンくずは、いただきます」。
15:28
そこでイエスは答えて言われた、「女よ、あなたの信仰は見あげたものである。あなたの願いどおりになるように」。その時に、娘はいやされた。
 (マタイ15:21-28、新約聖書)
 
女性は、他の誰も癒せなかった娘の病を癒されたい一心から、どこまでも低く遜る敬虔を弁えていたのでしょう。他に希望がなかったからです。このような一途な正直さだけが、キリストの心を動かしています。
 
キリストは、女性が「主よ、お言葉どおりです。でも、小犬もその主人の食卓から落ちるパンくずは、いただきます」とまで言ったことで、食い下がるような救いへの渇望と、自分を小犬に喩えた女性の、低く低く遜(へりくだ)った心を見逃しませんでした。
 
この女性は、遜るのが、とても上手です。何だか、断られないための言質を知っていたかのようですが、恐らく、言葉だけでなく、態度や表情にも、娘への愛情の一途さと必死さとともに、自分はどこまで低くてもいい、という敬虔が表れていたのだと思います。
 
本気の告白を、キリストが、そして、神が、無視しないことが顕れています。
 
私の経験から、言葉だけの敬虔芝居は、実に醜いものです。
 
 
 (マタイによる福音書、口語訳)
26:6-7
さて、イエスがベタニヤで、らい病人シモンの家におられたとき、 ひとりの女が、高価な香油が入れてある石膏のつぼを持ってきて、イエスに近寄り、食事の席についておられたイエスの頭に香油を注ぎかけた。 
26:8-9
すると、弟子たちはこれを見て憤って言った、「なんのためにこんなむだ使をするのか。 それを高く売って、貧しい人たちに施すことができたのに」。 
26:10
イエスはそれを聞いて彼らに言われた、「なぜ、女を困らせるのか。わたしによい事をしてくれたのだ。
 (マタイ26:6-10、新約聖書)
 
女性は、効率の悪いことをして、優れた働きとは、とても言えないのですが、キリストは、ご自身を愛するがゆえに精いっぱいだった女性の心を見逃しませんでした。
 
 
3つのエピソードに共通しているのは、救われたいという一途さと、そのために、"神の前に、どこまでも自分を低くできる敬虔"にあります。何よりも、救いが他にない、という深い悲しみからの自覚です。
 
敬虔は、静かではなく、穏やかでもなく、行いや主張が控えめなのでもなく、神の前に、いくらでも自分は低くてかまわないと、ありのままの自らを主の前に投げ出す情熱であります。
 
そして、無力な自分を自覚し、神の前に正直に捧げることが、信仰において、いかに大切かを聖書は教えています。
 
すなわち、何よりも大事なことは、神の前に、正直だけを捧げることです。正直であれば、本気であれば、食い下がるような祈りでも、神は、無視しないということでしょう。
 
神様の前だから滅多なことは言えない、などと、立派そうに言葉を仕上げて飾るのは、信仰の義をけがすことであります。それは、カルトや偽善者が、いつもやっていることだからです。
 
信仰においては、言っていることが、行いが、正しいから救われる・・ではないことを学ぶべきです。
 
私たちは、キリストのために正しいことをして信仰の義を得るのではありません。信仰の義は、神のような正しさではなく、神に対する人間の身の程を弁えた態度や姿勢の正しさであります。そこにおいて、人の信仰の義は、絶対の神の義とは、明確に区別されているのです。
 
むしろ、折に触れて、罪を犯した可能性、つまり、間違えたかもしれない、嘘を吐いたかもしれない、自分を飾ったかもしれないことなども、気づいたときに、正直に告白して、赦されることで救われ、癒され、生きることが出来るのです。
 
 
救われるためには不完全の自覚が不可欠であり、信仰について、偉そうに、完全でないと信じないとか、信じたから完全だとか言う得意顔が、毛ほどの価値もないことは明らかです。
 
 
心2

こころ
 
 
(2020年05月12日)
(2021年05月18日、再録+)
 
 
 
  罪と神の御業(みわざ)
 
病むことの苦しみは
病んだ者にしかわからない
 
病気は罪の結果であり
病人は罪人であり
近づく者さえ汚(けが)れた者とされた時代
一人の盲人について
「誰の罪ですか」と問う弟子にイエスは
「誰の罪でもない
ただ神の御業が現れるためである」と答えた
そのように公然と言うことが、ゆくゆく
どれほど危険な結果を招いていくか
百も承知で
 
負わされることの苦しみは
負わされた者にしかわからない
 
長い間いわれもなく
負わされてきた「罪」が
「神の御業」に言い換えられたとき
そう公言して憚(はばか)らない人が
目の前にいることが
癒し・奇跡と言えるほどの
驚くべきことであったのだと思う
 
聖書はそのあと
盲人の目が見えるようになったと記している
あげれば忘れてしまいそうなくらい
同じような奇跡物語が多く記されている
 
奇跡が実際起こったのかどうか
私は知らない
どちらとも信じていない
疑いの中をさまよいながら私は思う
それでも使徒たちが伝えないではおれないほどに
驚くべき何かがその時々にあったのだ
それはきっと
肉体や物を揺さぶるよりはるかに強く
彼らの魂を揺さぶったのであろうと
 
 
(90年代か)
 
 
 楽山のツイッターですが
 
心機一転★こも楽山
@komo266
「この人、いいこと言ってる」と思って、ファンになり、その人のことを追っかけているうちに、いつのまにか引き返せないところまで深入りしてしまってることもありますからね。要注意。
午後7:59 · 2021年5月17日·Twitter Web App
 
楽山の、自分が言われそうなことを他者に当てはめて、自分については安心だという印象を刷り込む詭弁です。以前から指摘していることです。「いいこと言ってる」のではなく、誘導です。楽山には、本当のファンはいないと思いますが、だまされた人がいると思います。
 
私は、数か月、だまされて、楽山を、まともな人だと思っていました。その後、約2年余り、批判しています。引き返すのではなく、私のように批判する人以外は、いっさい関わらないことが大事です。楽山は、人の話を、受け取っていないし、全く理解していません。
 
楽山の、無反省、無責任、無神経、高等感情の鈍麻、他者無視、良心の欠如、自己中、訂正不能、などの、人間にとって致命的な欠陥が、楽山のもっともらしい言い回しにならされると伝染する恐れがあります。楽山は、恨みを買うことを、気にせずにいられる自己愛性人格障害なのです。
 
楽山は、人をあざ笑うのが生き甲斐のようで、「要注意」どころではなく、悪意があると思いますから決して近づかないでください。楽山は、人真似しか出来ません。それで、インテリを気取ります。楽山の言は、糧(かて)になるようなことを、何ひとつ、もたらしません。この2年間がそうでした。
 
 
 
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  敬虔4
  (過去記事「謙遜」を修正アップ)
 
 
例えば元気で熱心な信仰者に
ありがちな発言として
 
「「神のうちに生き、動き、存在している」
という視点に立つとき、
私たちの存在の意味や価値を謙遜に見極めることができる」
 
折に触れて
自分について
神の意志は?と考えるのは
信仰者としては当然だが
 
「御心、測りがたし」の思いがあるからこそ
最終的な真偽や正邪を
神の運びに任せる敬虔がありうるのであって
 
「見極めることが出来る」ならば
神の意思を自ら排他的に確信することになるから
そこに敬虔はない
 
すなわち、この場合「謙遜」は
取って付けたような虚飾に過ぎない
 
また
「神の導き」
「キリストによる罪の贖い」
「聖霊の注ぎ」
などという言葉を
まるで公式のように
常套句のように繰り返し使い
それで真理が伝わると信じてはいけない
 
その理由は「聖書の真理だから」
という信念であり
その信念については
説明できる実感と実体がないまま
そう覚えているだけであるなら
信仰の言葉にはならない
 
その時その場で
与えられた人知としての
経験と知性や感性などを働かせることなく
聖書的な言葉を並べて
伝えた気持ちになってしまう
 
いずれの場合も
謙虚・謙遜・へりくだる姿勢・敬虔
とは無縁である
 
聖書が「生ける神の言葉」であっても
それを受け取り、伝えようとする人は
神と違って不完全なのだから
人が人に伝えるべき「生ける人の言葉」としては
伝える努力が及ばないこともあるだろう
 
そのようなときに大切なのは
聖書は真理でも
それを実感のないまま語って
神の導きにお任せしますと
出来ることもせずに
責任放棄して自己満足に浸ることではなく
 
人と人が互いに
表す言葉の拙さを共感し共有することである
 
敬虔と呼ばれる信仰者の謙虚さはそこにあるのであって
 
実感もなく繰り返される言葉の数にあるのではないからだ
 
 
 
よくある信仰についての勘違いですが
罪は赦されたから罪なき者となったのではなく
罪人だったけど悔い改めたので罪が無くなったのでもなく
 
罪を犯しても正直に祈ることで赦されて生きる道を与えられたのです。
 
この地上の世に生きてきて
信仰を与えられている我が身を振り返って
自らの来し方を思い、行く末を考えるならば
 
自分がそんなに立派になったとは考えられないのが正常であり
見違えるような聖となって罪が無いなどと信じることは
直観的にあり得ないと分かるはずなのです。
 
信仰者は感動をもって成長する道を与えられたのであって
何もかもが良くなって完全になるなんて言うのは
カルト思想か多幸症の高揚気分に過ぎません。
 
神を恐れるとは
完全なる全能の神の存在によって
不完全で小さい人が自らの尊大と傲慢を砕かれ
それゆえに柔和になることです。
 
言い換えれば
神のもとで生きる砕かれた魂
という新たな尊厳を与えられることであります。
 
 
砕かれた魂

砕かれた魂
 
 
(2011年07月15日)
(2019年04月20日、修正)
(2020年05月05日、さらに修正再録)
(2021年05月15日、再録+)
 
 
 
  逃避
 
命には限りがある
出会いにも限りがある
愛にも限りがある
なのに別れだけは永遠だ
いつまでバイクに乗っていられる
いつまで生きていられる
すべてを変えてしまった時の長さに
深く刻まれた沈黙の中を
捧げるあてもない命
運んで俺のバイクは
永遠を噛みしめながら
走り続ける
かすかな記憶の
さいはてに向かって
 
(90年代か)
 
 
  去り際の願い
 
いくつかの微笑と
数々の哀しげな顔や
苦悩の表情が
私とともにあって
それらが皆
去り際の人間の顔として
私とともに流れてきて
私は今ここにある
(どこか)
私はどこに
いざなわれるのだろう
いったい私の去り際に
(いつか)
どんな顔を
誰に向けるのだろう
 
願わくは
眠りに入る刹那のような
安らぎとともにあらんことを
ぬるい夢に流れてゆく
私の呆(ほう)けた顔が
その時だけは雲間から淡く
広がる光の中に
小さくきらめく
雫(しずく)のようであらんことを
何よりも無邪気ならんことを
 
(90年代か)
 
 
  祈り・恐れてはならないもの
 
生も死も恐れている
それ以上に神を恐れている
同じくらい主を頼みとしている
 
♪迷わば訪ねて曳(ひ)き返りませ
 
この先
たとい人を世界をこの国を
いかなる艱難(かんなん)が襲って来ようとも
 
♪世の友われらを捨て去るときも
 
たとい死の陰の谷を歩むとも
わざわいを恐れません
と言えますように
 
 
(かなり昔の作)
※ ♪は、讃美歌の歌詞です。
 
 
 
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