ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

タグ:暗号

 
  考える信仰3
 
 
宗教そして信仰は
一見、客観性を失わせるように見えるかもしれません。
 
というのは
信仰を知らなければ
まず信仰については語れない。
信仰者であれば
信じているのだから客観的には語れない
というような理屈になるのでしょう。
 
しかし
ここには大きな勘違いがあります。
信仰が
超常から日常まで教えられたとおりに
信じ込むことだという勘違いです。
 
キリスト信仰の場合
教えられるのは大方言葉であり
そのまま思い込み信じこんでも信仰にはなりません。
 
言葉の意味する概念や情緒が
誰にとっても完全一致するわけではありません。
同じ言葉でも、厳密には、
時と場合と人によって伝わる内容は異なります。
人間にとって言葉は
交流と理解のための暗号に過ぎないのです。
 
キリスト信仰において期待されるのは
不変の悟りではなく
即ち言葉を鵜呑みにすることではなく
感じることと考えることです。
 
考えることには感じることが必要であり
感受したことについて考えるわけだから
そこには
正直に感じることで
当然生じる疑いというものがあります。
おもに超常の奇跡についてです。
 
疑いを気合いで排除するのが信仰ではありません。
それはカルトのやることです。
 
疑いを含めて考えることが信仰です。
したがってキリスト信仰が
人生を縛ることではなく
むしろ人生の知情意の活性を促進するからこそ
私は信じているのです。
 
キリスト信仰は
神を絶対としますが
神を人は詳細に知りえないので
人が自らを相対化することでなければ
神を信じることは成り立ちません。
 
したがって
人が教えられ覚えた言葉である信条を
絶対化することは
即ち信仰を絶対化することは
背教であります。
 
信仰の相対性については
既に言われてきたことだが
何故か、絶対でなければ、絶対でなければと
思い込んでいる人が少なくないようです。
 
神の絶対を人が負えるかと聞かれて
負えると、また、負うべきと言う者は
少なくとも勘違いしているか
最悪の場合、思い上がった背教者です。
 
人が信じる総てのものは
いつも絶対ではなく相対的である。
人は不完全で罪深いということを自覚しているなら
当たり前のことであります。
 
信仰は
絶対の神の存在を仰ぐゆえに
自らを絶対ではない者とすることです。
 
聖書は、絶対の神を伝え、ゆえに、
人間は絶対ではないことを伝えています。
これは、信仰の大きな目的であります。
 
そうでなければ
悔い改めの祈りなど意味がなくなるでしょう。
 
私たちキリスト信仰者が
折に触れて正直に告白して
悔い改める
即ち祈りにおいて
神との関係を新しくしていただくのは
まさに私たちが
心貧しく不完全であることを
正直に認めて
神に憐れんでいただくためであります。
 
自ら信仰を絶対として
神に対して讃美ばかりを豪語するような
偽善者になってはいけません。
 
私たちキリスト信仰者は
心の解放を受け取ったのだから
信仰についての疑問も含めて
よく感じ、よく考えて、折に触れて正直に祈り
反省し学習し成長することが期待されています。
 
 
ゆえに
楽山がボンヤリ曖昧に言うような
またシャロームが豪語するような
信じ込むことが信仰であるという固定観念は
全く信仰を知らない偽善者の言であり
この二人は信仰について
何も知らずに言い張っているだけなのです。
 
 
 
   宗教と狂気と堕落
 
ユダヤ教は選民思想と排他的色彩の強い宗教です。聖戦の名のもとに短い勝利と長い敗北の歴史をもち、その中でつちかわれた唯一神への絶対的信仰とその形式としての律法・掟を持っています。長い歴史をもつユダヤ教を母体としていても、キリスト教は成立当時は新興宗教と思われました。
 
律法の中には慈愛や思いやりを感じさせるものもあるのですが、イエスの時代には律法主義という形式主義・教条主義を頑なに守っていた人たちがイエスの敵となりました。
 
その後ユダヤの内外にキリスト教を広めるにあたっては当然、国により民族により宗教観も異なり布教するうえでの意見の対立や問題も多かったのでしょう。そのために福音書をはじめとして種々の異なった色付けをされてキリスト教は伝えられ広められていきました。
 
聖書を読むということは、それを書いた、あるいは書かざるを得なかった著者たちの目的とインスピレーションを信頼するということなのでしょう。そこに、神聖に対する思いこみや決めつけの先入観や偏見があってはいけません。神聖は、神のものであり、人のものではありません。
 
聖職者も、神と違って、信仰者と同じ人間だから、不完全という罪深さを持っており、ゆえに、教えられたことを鵜呑みにして、思考停止してはいけません。信仰は、思考と感性を、活性化してゆく道である。信仰の道は、成長してゆく道であります。
 
宗教は、うっかり訂正不能にしてしまうと、古い新しいを問わず人間離れという狂気へ走る危険性と風俗習慣へ堕してしまう危険性を常にもっていることを忘れてはいけません。ゆえに、経験から感じることを、じっくり考えてゆくべきです。
 
宗教だけから戦争が起こるということは、少なくとも正当なキリスト教においてはありえないことのように思われるのですが、利害関係や政治的な争いに宗教がからんで訂正不能の過ちを犯す経過では、戦争の中の信仰は、狂気とも言うべき残酷なものとなることがあります。
 
一方、クリスチャンの接頭語のように付けられる「敬虔な」という言葉があらわすものは何かを考えると、おとなしくて静かで、社会のお邪魔にならない、影響力の乏しい人畜無害のような印象になることがありますが、もちろん、これは間違いです。信仰は、生きて成長するための道です。
 
確かに宗教が社会に有害であってはなりません。しかし、キリスト教の大きな迫害の歴史とその殉教者たちの死を思うとき、主イエスキリストの愛と魂の救済という強い目的意識を持ちつづけることの難しさを感じざるを得ません。ゆえに、信仰者は、試練に遭い、ときに、砕かれます。
 
人間の感性と知性を軽んじて、神霊を訂正不能に思い込むような、成長を忘れた信仰は、聖書の言葉をも、意味を固定してしまって、カルトと同じようなものになるでしょう。そして、何か言われると、聖書語を振り回して豪語するでしょう。これは信仰者の態度ではありません。
 
人間の罪深さ、また、人間の言葉の曖昧さ、即ち、不完全さを思うとき、反省と修正と成長のない信仰が、いかに自分信仰になりやすいかを知るべきであります。神ではなく、自分の持っている神の概念を、神と呼んでいるのは、自分信仰です。大事なことは、訂正不能にしないことです。
 
キリストの教えは、人間に理解できない超常奇跡よりも、はるかに、人間に対する共感と愛に満ちています。それに反応する信仰者は、キリストへの共感という愛に生きる道に気づくようになるのです。
 
それを、贖罪の辻褄と超常の仕組みとして信じ込む信仰?によって損なうことのないように、日々の祈りの正直さだけが求められていると思います。
 
 
考えること 共感すること

考えること 共感すること
 
 
(2020年)
(2021年)
(2022年10月28日、再録+加筆)
 
 
 
  無意味の意味
 
すべての人はそれぞれに
生まれてきた意味がある
使命さえある
私はそれに気づいていない
気づいていない以上
それは神様だけが知っている
ということだから今
私は考える動物として
生きる意味など持とうとせず
生きることは死なずにいること
くらいの無意味で充分だ
 
守らねばならぬ節というものがある
それがどんなに空しく
負の人生であろうとも
私はその虚無を愛さねばならない
 
 
  やさしい人
 
線香花火は
線香に変われるだろうか
風前の灯火(ともしび)は
蝋燭(ろうそく)に変われるだろうか
 
また来る春には
土壌の妖気となり
また来る夏には
壺(つぼ)を出て飛び回り
また来る秋には
小舟に乗せられサヨナラ
また来る冬には
まだ生きていたりする
 
燃えたかった風前の線香花火は
くずれゆく鬼の面相で
きれいに巻かれた煙草を
灰に変える
 
ぽろぽろ落ちる灰の熱では
無理な注文だろうか
やさしい人よ
やさしかった人に変われるだろうか
 
 
  傷つけて
 
古びてゆく
時間がたてば置かれているものはみな
命があることを
いや命がないことさえ
考えずに触っていた
道端や公園や街並みに
並んでいる遊びのような
色と形をもちながら
触れてゆく手は多くても
注がれる目は逸れていたから
 
人の手に触れたものは
かつて雨や風に耐えてきたもの
しかし人の手には耐えられない
敏感で弱いものたちだったかもしれない
今そこここに
相変わらずの姿で立っているけど
眼に見えない傷にいたみつづける
傷を見ない目に見られて
 
 
 
楽山日記のこれは、誰のコメントなのでしょう。
コメント欄から引用
 
「間違ったら 誤ったら 素直に詫びて
 自分 正さなくちゃいけない」
 
「それが出来て 初めて人間だと
 それ出来ないなら 人ではないと」
 
「嘘ばかり 重ねる君よ
 保身だけの 卑怯者の君よ
 そんな君は 魅力の欠片もないのに」
 
「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は
 最大限の償いと 最大限の反省と共に
 開いた出店を 畳むしかないんだよ」
 
「人間で在り続けるのなら
 人で在り続けるのなら」
 
楽山は、人間であり続けることを、拒み続けています。
 
 
 
楽山の害毒メモ:
 
今までに表れてきたこと。これは、楽山に限らず、聖書においてキリストの敵となった宗教指導者や、世に数多いる偽善者の特徴でもあります。この世で最も迷惑な人の特徴です。楽山は無責任です。決して信用しないでください。
 
楽山は、1つのことを書いて、別の時には、それに反することを平気で書いてきます。そこで、反省、修正、というステップを書かず、あたかも最初から思っていたことのように書いてきます。自分に誤りを認めない自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)だからです。
 
偽善者の特徴でもあります。
 
人格:
自己愛が強く自己中である。
笑いと怒りしかなく、悲しみの情がない。
共感がなく、罪悪感がなく、反省しない。
自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)と思われる。
平気で嘘を吐く。様々な詭弁を弄して、柔和に見せかける。
深い情感がなく、共感性がない。相手が疲れるのを見て快感を得る。
後悔、反省、修正ができない。学習による成長がない。
罪悪感、羞恥心が見られない。サイコパスと思われる。
アドラー心理学の宣伝をしていた。自己中心である。
中身や実質のない形骸的精神機能しか持たない。
 
奇怪な単細胞。
 
議論:
議論や交流が、表面的で、整わないし、できないし、元々する気もない。
相手の意見を受け取っていないので、反論、弁明が成り立っていない。
理路が常識的にも浅く、基本的に訂正不能である。理解力がない。
自分なりの堅実な理路を組み立てられない。
読書自慢。感想は平板で、独創性や深みがない。
様々な気取り。読書家気取り、評論家気取り、インテリ気取りなど。
分かっているという我執から離れられない。
非を指摘されると、逆に、こちらに当てはめて被害者面をする。
人を批判~誹謗中傷するが、その言葉で自分が斬られるブーメラン現象。
真面目に応答~議論すればするほど、病的な徒労感と疲労のみをもたらす。
ボンヤリ言語:語尾を濁し曖昧で婉曲的な言い方で、印象を刷り込もうとする。
トホホ言語:謙虚で弱いと思わせて悪意を隠すための嘘の芝居。
しばしば、自身への同意を期待して、見え透いた世辞を言う。
「反省。とほほ」などと書くが、不自然であり、前後で何も変わらないので嘘です。
騙して、言い分を詭弁や嘘で通そうとする、通っていると思い込む。
 
訂正不能の偏執。
 
宗教:
反キリスト、反宗教。聖書およびキリスト信仰を、貶めてくる。
キリスト教とキリスト信仰を字面だけで云々し、理解していると思い込む。
HSを脱会したと言っているが、真実かどうか、疑わしい。
霊能者のつもりだが、それに見合う直観的洞察は皆無である。
 
慢心して中身の無い形骸。
 
楽山の書いた文章を、3年数か月のあいだ見てきた結果ですから、大きく変わることはないでしょう。これらについては、新しい情報によって、必要なら加筆し、繰り返し載せることになるでしょう。
 
 
 
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  教条主義
 
 
教条は、心の面倒を見ない。
 
教条化した思想は、心の面倒を見ない。
 
教条化したイデオロギーは、心の面倒を見ない。
 
(ネットより)
きょうじょうしゅぎ
【教条主義】
権威者が述べた事を、その精神を深くも理解せず、杓子定規(しゃくしじょうぎ)に振りまわす態度。独断論。
▷ dogmatism の訳語。
 
ここで、杓子定規とは、書いてある言葉を、文字通りに受け取って、人間として中身を吟味せず、その通りに守っていると思い込み、行動が、画一化、儀式化することを表している。
 
偽善の多くが、教条主義の所産である。そして、偽善は、悪が善のふりをすることで、悪よりも、悪性度が高い最悪である。
 
その典型例は、聖書のパリサイ人の戒律主義に見られる。パリサイ人は、定められたとおりに実行したと思い込み、人間の心を忘れていた。よって、キリストにとって最悪の敵となったのである。
 
多くの思いは言葉で表される。言葉は伝達のための暗号である。つまり、ダイレクトに思いを伝えているわけではないことを弁えておく必要があるだろう。
 
しかし、暗号である言葉に頼らなければ生きるのに支障をきたすことも明らかである。口頭や書面で話が出来ない人は別の手段を工夫し、何とか伝達する手段を持つことになる。
 
人によって、時によって、状況によって、言葉の表すものは違ってくる。思想・哲学・宗教・信仰など、人文系では、特に、そうなってくる。
 
真実と言っても、ある分野の正解であったり、それを目指す心がけであったり、当為と事実が混同している場合もある。
 
神は偉大であるといっても、その偉大さを、人はつぶさに知ってはいない。神を信じている、という意志表示に過ぎない場合がある。神の偉大さを知って信じるのではない、しかし、神の偉大さに触れて信仰に至ることはある、などというように、言葉による表現は、曖昧であることが多い。
 
しかし、それは、変えてはいけないと思い込み、同じ言葉に基づいているから正しいと思い込むところに、教条主義は生まれてくる。
 
そこで、失われるのは、人間的な情感であり、さらに、人間的な配慮であり、言い換えれば、良心の所産が、損なわれてゆくといってもよいだろう。
 
すなわち、思いやり、罪悪感、悔いる心、反省、罪を認めること、などがあり、これらが欠けてゆくと、救いの教条と思ったことが、災いをもたらすこともある。多くは、言葉を盲信することで、その込められた心を、損なってゆくのである。
 
また、教条主義に陥ると、直観的に、または、直感的に、おかしいと気づけることを、心が無いために、気づかず、言葉に沿っているから正しいと思ってしまうことがある。
 
典型は、やはり、パリサイ人である。また、理屈倒れになって、人間として必要なことを汲み取れないで、慢心して言い張るということもある。
 
人格においては、訂正不能の教条を持ってしまうと、自己愛性人格障害として、非人間的な言動が目立つようになる。進行すると、論理性が、辻褄合わせになり、さらに、故意に合わせるために、的外れな理路になったり、人間ならば分かるはずのことが分からなくなり、無理を押し通す欲動となって、破綻してゆく。実際は、とても不自然な言動となって表れるだろう。
 
思想・宗教・信仰に関わる人々は、このことを、しっかり心に留めておかないと、自分の人格を損なうだけでなく、他者の人格を傷つけてゆくだろう。
 
教条主義に陥っている自己愛性の人格は、根拠に基づく説明や説教が出来なくなってゆく。いつのまにか、自分を、教条に沿っている自覚から完璧だと思うようになり、何事につけ自己正当化をして、修正不能となって他者の意見を聞かなくなり、教える立場の自覚から、受信をしなくなり、発信だけをするようになる。
 
そして、人間らしい考え方や感じ方が出来ないので、生き方にも破綻をきたすことが多いだろう。理路も情緒も深く考えたり感じたりすることが出来なくなって、単純化しやすく、短絡しやすく、不祥事や欠点を、反省せず、ことごとく、他者や相手のせいにする特徴を持つ。
 
心から、思いやり、共感、感動、罪悪感、反省力、修正能力などが欠けてゆき、学習せず、成長せず、批判や苦言に対する反応として、怒り、恨み、憎しみ、怨念などの陰性の感情が目立ってくる。
 
その例は、やはり、聖書のパリサイ人であるが、卑近なところでは、長らく批判してきたところの、偽牧師のシャローム、反キリストの楽山、さらに、恐らく、多くのカルト教祖と信者も似たような人格の変容を来たしやすいだろう。
 
自己愛性人格障害が先なのか、狂信が先なのか、分かりにくい場合もあるが、どちらも、人格にとって、言動において、人間関係において、破綻をごまかしてくる場合が多いことに注意するべきである。
 
一見、柔和で、やさしい人柄に見せかけてくることが多く、自身もそう思っていることが多いと思う。多くは、芝居がかっていて、問い詰めると理路の破綻から馬脚をあらわすことになるが、人によっては、だまされたまま、似たような人格になってゆくことが、大きな災いである。
 
 
心が壊れてゆく教条主義と自己愛性人格障害、そして狂信、などについては、今後も、考察を続けるつもりです。
 
 
人格破壊
人格破壊
 
 
(2021年04月17日)
 
 
  言質(げんち)
 
何を言いに来られた
何を怒っておられる
怒りは怒りを呼ぶことはあっても
怒りからは何も善いものは生まれぬ
 
いつくしみぶかき主イエスでさえ
エルサレムの神殿で怒りをあらわにされ
商人たちを追い出したことを知らないのか
 
神は絶対にして神の怒りもまた絶対である
主は正義にして主の怒りもまた正義である
しかるに
自らの怒りを主の怒りになぞらえる
汝はいったい何者か
 
(聖なる立場で物を言うべからず)
 
されど汝と呼んでしまったときの
悪しき思いと浅き知恵は裁かれるであろう
聖なる立場で物を言ってしまったのは誰なのか
何故いつもいつも信仰は
その恵みを垣間見ていながら
悔いと嘆きの中にあるのか
 
 
  絆(きずな)
 
どんなに固く抱きしめても
心は移ろい離れてゆく
たとえどんなに心通わせても
この世に別れの尽きることはない
 
痛みと傷と
涙と悔いと
もう別れはたくさんだと
吐き捨てるように
首を振る
誰に向かって
 
あの田舎の町の
片隅の
小さい木造の
貧しい礼拝堂の隅で
さらに小さくうつむいて
ふるえるように顔さえ見せず
ひたむきに手を組んでいた
あなたよ
他によるべのない
あなたよ
その信仰を少し分けてもらえまいか
私と愛する人々のために祈ってもらえないだろうか
 
心貧しきは幸いなり
心貧しきは宝なり
 
 
(ずっと昔)
 
 
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