ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

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※ 光への接続工事は、9月5日と聞きましたが、書類では9月9日のようです。失礼しました。
 
 
  すいすい曲解する楽山
 
 『超訳 種の起源』ダーウィン著、夏目大訳
 2022年09月04日 楽山日記(LD)
   を批判。
 
楽山には、正常ならばあるはずの学習機能がありません。学習して成長するということがありません。平板な褒め言葉だけを並べて、一人前のつもりでいられるのは、自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)の症状なのです。考えても単純な賛同の言葉しか浮かばないのでしょう。
 
そして、楽山自身の人格崩壊が進行したのか、書けば書くほど、ますます浅くなるようです。よかった・・と言うのと同じことしか書けず、正直を忘れた未熟者が、発作的に書いたところで、おおよそ感想文としては小学生レベルであることから、正常な節操を失っているという判断になります。
 
 
*読みやすい本
著者の言葉によれば、本書はダーウィンの『種の起源』を「できるかぎり内容を損なわないよう、簡潔にわかりやすく書き直した本」(p.8)とのことである。
そのわかりやすさはどの程度かというと、『種の起源』を数ページで挫折して完読できなかった自分でも、すいすい読めるくらいである。おかげで最後まで楽しく読めた。これほど読みやすく面白い進化についての本と出会えたのは、ドーキンスの『進化とは何か』以来である。
 
読書を悦びながら、一ページ程度の、しかも、褒め言葉だけのイージーライターが楽山です。つまり、言論の無法者、放浪者ということです。改造バイクではなく、壊れた一輪車に乗って、転んで、また乗って、すぐ止めてしまって、短くて中身の無い一記事でも、数え歌に加えて気持ち良いのでしょう。
 
楽山が「すいすい読める」と言っているのは、すいすい曲解してゆくからでしょう。極めて単純に、自分の自己愛の妄想に合っていることだけを、すいすい飲み込んでゆく楽山の読書のやり方は、楽山の自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)人格を、正当化し、促進し、破壊します。
 
「読みやすく面白い進化」「楽しく最後まで読めた」とだけを書いて、感想文のつもりです。自分なりの評価がなく広がりのない楽山の読書は、巻き込まれてはいけないし、決して鵜呑みにしてはいけないものです。中身の無い単純べた褒めモードを真に受けるならば、楽山の闇に感染するでしょう。
 
 
*自然選択と変化の速度
 個人的には本書の中でもっとも刺激を受けたのは、次の箇所だった。
自然選択は、生物に多様性をもたらす一方で、生物の多様化を抑制するはたらきもしている。
(『超訳 種の起源』ダーウィン著、夏目大訳、技術評論社、2019年、p.82) 
 」
自然界の生物に、飼育栽培されているものほど急激な変化が生じないのはなぜか。それは、個体差の多くが、自然界では、生存にとって不利になるからである。
(同上、p.81)
 」
自然選択は進化を生じさせ、促進するというイメージがあったけれども、これは言われてみれば、なるほどその通りだ。こんな風に自力ではとても思いつけなかったことを教えてもらえるのは有難い。本を読んだり、人の意見を聞くと、こういうことがあるから実に楽しい。
 
楽山は、自分の妄想思想に合わせて読書したことにするのです。、この短い記述で種の起源や進化論を理解したつもりになる軽率さが、楽山の特徴です。「その通り」と言ってますが、楽山は「本を読んだり、人の意見を聞く」ことはありません。結論は、訂正不能に決めつけています。
 
楽山の、妄想に近い決めつけに合っているように読めば、それは「実に楽しい」でしょう。違う意見を、全く受け付けず、全く問題外として、何を言われても、同じことを、ネチネチと言い続けて、うんざりした批判者が去ることを待つやり方は、もはや、正常人の神経では説明できません。
 
楽山の「なるほど」は、なるほど自分の見方に合っているから合格、という、上から見下ろした褒め言葉なので、議論によって深くなる可能性もなく、何かが修正されて新しくなることもなく、楽山の自画自賛おのうちに読書した気分になってしまう習性から、洞察も理解も生まれようもないのです。
 
楽山は、感想を書いても、賛同するために自分と同じ方向の本を読んでいるだけなので、理解の実感を表すことが出来ません。だから、とても単純な褒め言葉「なるほど」「有り難い」「実に面白い」しか書けないのです。反省も学習もしないので、褒めるために選んで読んで、ただ褒めているだけです。
 
 
イージー 安易

イージー 安易
 
 
(2022年09月06日)
 
 
 
  メッキは剥がれて
 
板よりも紙よりも細胞膜よりも
薄いスチールをメッキして
それに塩水をかけてゆく
 
成長と老化
 
剥(は)がれてゆくメッキの中は
恐らく醜(みにく)く見にくい
 
好きになれない自分のために
メッキは錆びて剥がれて
ボロボロになりながら
時々そっと中身を垣間(かいま)見せる
 
人を愛するためには
まず自分を好きにならなければ
と多くの人が言う
 
でもどうしてもやってしまうなら
自己嫌悪
それは愛すべき高さを持っている
 
 
自己満悦
それは憎むべき低俗であります
 
自分を愛するためには
自らを省みて
人に共感し
人を愛することを学ぶことが必要です。
 
人を愛せない者に
自分を愛することはできません。
 
 
  希死と質量
 
体重はあるが
質量がない
と自己評価を
重力以上に下げて
死にたいと思ってしまうとき
その陰で軽々しくも罪を
誰かの何かのせいにしてはいないか
 
自ら死にたいと望んだとしても
死ぬことを好む者はいない
死を思う分だけ切実な
生きる願望
死を思う分だけ薄弱な
生きる欲望
当たり前だったはずだから
意識されなかった生きるための条件
 
しばしば希死において考慮されないのは
自己評価は下げるのに
生きているという事実に基づいて
生きる条件を下げる試みである
 
差し迫って今
誰かが何かが殺しに来る予定はなく
仮にあったとすれば
希死にかかわりなく死ぬのであるから
今息をしている
というところまで
条件を下げることが出来たら・・・
とは言っても辛いとは思うのだ
 
体重はあるが質量がない
これが下げるものは重くも軽くもない
量(はか)れない質(たち)なのである
 
 
量れないものを
我欲から高く見積もって
満悦する者は
実に
体重を量って悦び
心の成長を無視して悦び
満悦して人を侮る者となっている
 
そして無条件に
鏡を見て悦ぶのである
 
 
 
★こも/楽山日記3さんがリツイートしました
本ノ猪
@honnoinosisi555
9月3日はドラえもんの誕生日。
「自分の意見をしっかり持つということと、
 相手の意見を認めないということは、
 まったくちがうんだ。」
(『じょうずに話せ、発表できる』小学館、P127)
午前8:59 · 2022年9月3日·Twitter for iPhone
 
楽山は、自分の妄想的な意見を訂正不能に持ち、他者の反対意見を、批判できないのに認めません。これは、言論というより、むしろ、そういう恣意の生き方だということです。煽動屋、そして、他者を低く見て、上から決めつけて見なしの結論の塊だけを投石してくるのです。人間の生き方ではありません。
 
なお、人の意見が、公共の福祉に反していて、自己中心で、反省もしないならば、その意見を、決して認めてはいけません。その意見は、しっかりしておらず、身勝手な自己中だからです。その意見に、流されてもいけません。批判が苦手ならば、決別し、関わらないことが、いちばんの批判になります。
 
上のような、楽山のリツイートは、その意味を、楽山の、巣穴のような狭小ワールドで歪曲して、都合よく偏向した自己中正当化に悪用するものです。自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)は、このように偏りながら、嘘と詭弁で擦り寄ってきます。決して近づかないでください。
 
 
 
楽山の害毒メモ:
今までに表れてきたこと。これは、楽山に限らず、聖書においてキリストの敵となった宗教指導者や、世に数多いる偽善者の特徴でもあります。この世で最も迷惑な人の特徴です。楽山は無責任です。決して信用しないでください。
 
楽山は、1つのことを書いて、別の時には、それに反することを平気で書いてきます。そこで、反省、修正、というステップを書かず、あたかも最初から思っていたことのように書いてきます。自分に誤りを認めない自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)だからです。
 
人格:
自己愛が強く自己中である。
笑いと怒りしかなく、悲しみの情がない。
共感がなく、罪悪感がなく、反省しない。
自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)と思われる。
平気で嘘を吐く。様々な詭弁を弄して、柔和に見せかける。
深い情感がなく、共感性がない。相手が疲れるのを見て快感を得る。
後悔、反省、修正ができない。学習による成長がない。
罪悪感、羞恥心が見られない。サイコパスと思われる。
アドラー心理学の宣伝をしていた。自己中心である。
中身や実質のない形骸的精神機能しか持たない。
 
単細胞。
 
議論:
議論や交流が、表面的で、整わないし、できないし、元々する気もない。
相手の意見を受け取っていないので、反論、弁明が成り立っていない。
理路が常識的にも浅く、基本的に訂正不能である。理解力がない。
自分なりの堅実な理路を組み立てられない。
読書自慢。感想は平板で、独創性や深みがない。
様々な気取り。読書家気取り、評論家気取り、インテリ気取りなど。
分かっているという我執から離れられない。
非を指摘されると、逆に、こちらに当てはめて被害者面をする。
人を批判~誹謗中傷するが、その言葉で自分が斬られるブーメラン現象。
真面目に応答~議論すればするほど、病的な徒労感と疲労のみをもたらす。
ボンヤリ言語:語尾を濁し曖昧で婉曲的な言い方で、印象を刷り込もうとする。
トホホ言語:謙虚で弱いと思わせて悪意を隠すための嘘の芝居。
しばしば、自身への同意を期待して、見え透いた世辞を言う。
「反省。とほほ」などと書くが、不自然であり、前後で何も変わらないので嘘です。
騙して、言い分を詭弁や嘘で通そうとする、通っていると思い込む。
 
宗教:
反キリスト、反宗教。聖書およびキリスト信仰を、貶めてくる。
キリスト教とキリスト信仰を字面だけで云々し、理解していると思い込む。
HSを脱会したと言っているが、真実かどうか、疑わしい。
霊能者のつもりだが、それに見合う直観的洞察は皆無である。
 
 
楽山の書いた文章を、3年数か月のあいだ見てきた結果ですから、大きく変わることはないでしょう。これらについては、新しい情報によって、必要なら加筆し、繰り返し載せることになるでしょう。
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
 
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
私が1~3日休むと書いたら、楽山は、すぐ記事を書いてきました。楽山は、ここまで我欲のみに執着しているのでしょうか。楽山が書いたところで、ろくな記事ではないので批判しているわけです。ただ、こういうことから楽山の原始的な自己顕示欲からの無反省がバレてゆくわけです。
 
 
 
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  楽山の聖書曲解3
 
 「第六講 神学者ビルダデ語る」(『ヨブ記講演』内村鑑三著)
 2020年07月30日 楽山日記(LD)
  を改めて批判。
 
 
信仰者でもないのに、信仰の欠片も持たないのに、楽山は、なぜ、聖書について書いてくるのでしょう。それは、知っている、分かっていると、自分を誇るためでしかないのです。楽山は、何も理解できないのに、聖書とキリスト教をおとしめているつもりのサディストに過ぎません。
 
 
第六講を読了。内容をメモしてみる。
第8章の研究。
第8章に入る前に、まず前章について、7.17-18は、詩篇より引用か。
ヨブに限らず、「健全なる人にして、神が罪の故を以て我を苦むるとの霊的実感を味わいし人が少なくない」。
「ヨブの呟き」は、神より離れていないためのもの。神を離れてはこの呟きもなくなる。「全く神を棄つるよりは呟きつつも神を保つを優に勝れり」。
ヨブは友と語り、神に訴え、自己に語りつつ、少しずつ神に近づいている。
 
 (ヨブ記、口語訳)
7:17
人は何者なので、あなたはこれを大きなものとし、
これにみ心をとめ、
7:18
朝ごとに、これを尋ね、
絶え間なく、これを試みられるのか。
7:19
いつまで、あなたはわたしに目を離さず、
つばをのむまも、わたしを捨てておかれないのか。
7:20
人を監視される者よ、わたしが罪を犯したとて、
あなたに何をなしえようか。
なにゆえ、わたしをあなたの的とし、
わたしをあなたの重荷とされるのか。
7:21
なにゆえ、わたしのとがをゆるさず、
わたしの不義を除かれないのか。
わたしはいま土の中に横たわる。
あなたがわたしを尋ねられても、
わたしはいないでしょう」。
 (ヨブ7:17-21、旧約聖書)
 
ヨブは、神に近づいてはいません。
背きそうな心情を、神に向かって、正直に訴えているのです。
 
例えば、自分は、神にとって、何なのか、監視していながら、神は全能でありながら、苦しみを与えるのか、なぜ救ってくださらないのか、もう駄目になりそうです、というような、気持ちを、正直に、神に向けています。苦難の時にも、それを神に訴える分だけ、信仰者にとどまっています。
 
とどまっているのであって、近づいてはいません。人から、神に近づくことは出来ません。人は叫びのような祈りをするしかありません。楽山は、神を知らず、信仰を知らないので、いい加減なことを言って、反信仰を表しているだけです。
 
楽山を是としないでください。楽山は、何も理解せずに書いています。「少しずつ神に近づいている」は、楽山の無理解を表しています。ヨブに賛同するのは、楽山が部外者だからでしょう。楽山にとって、信仰者を、楽山の考えるヨブの延長?として、最終的に、神から引き離すのが目的です。
 
 
第8章において、ビルダデはヨブの子の死は罪のためとする。ヨブに悔い改めをせまる。「無情なる浅薄なる神学者」である。「ビルダデの説く所に多少の真理ががないではない。しかしこの場合にヨブを慰むる言としては全然無価値である」。
 
悔い改めも知らず、信仰も知らない楽山が書いています。今までの、キリスト教と神否定の文言という自分の言さえ、なかったかのように無視して、あたかも賛同するようなことを書いている楽山の悪意の企みに、決して惑わされてはいけません。
 
信じる気など微塵も持っておらず、ゆるされることを、自尊のために、受け入れることもないなら、黙っておればよいものを、分かったふうに、キリスト教に、ちょっかいだけを出してくる楽山という悪魔的存在に、決して近づかないようにしてください。
 
楽山の言は、悪質な、遠回しの誘導です。楽山は、神も、人も、いちばん恥ずべき自分をも、見ようとしてはいません。自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)が、信仰から、いかに遠いかという実例となっています。
 
 (ヨブ記、口語訳)
8:4
あなたの子たちが彼に罪を犯したので、
彼らをそのとがの手に渡されたのだ。
8:5
あなたがもし神に求め、全能者に祈るならば、
8:6
あなたがもし清く、正しくあるならば、
彼は必ずあなたのために立って、
あなたの正しいすみかを栄えさせられる。
 (ヨブ8:4-6、旧約聖書)
 
ビルダデは、パリサイ的な、行為義認を、因果応報みたいに、ヨブに当てはめています。これで、悔い改める人はいないでしょう。正しいことをすれば栄える・・これは結果として表れることだとしても、正しい人など、一人もいないのです。
 
 
アブラハムの一夫多妻を記したのは、それが害であり、一夫一妻が善いことを示すため。ビルダデの無情さが描かれているのは反面教師としての意。
ヨブ8章と合わせて、コリント前13章を読むべし。愛なくば知識も信仰も空である。すべては愛ありてこそ。
 
 (コリント人への第一の手紙、口語訳)
13:4-7
愛は寛容であり、愛は情深い。また、ねたむことをしない。愛は高ぶらない、誇らない、 不作法をしない、自分の利益を求めない、いらだたない、恨みをいだかない。 不義を喜ばないで真理を喜ぶ。そして、すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを耐える。
 (1コリント13:4-7、新約聖書)
 
誰にとっても、この聖句は、理想であり、あるいは、神の愛を表しているのであって、全部否定形にすれば人の現実となります。ゆえに、相当な戒めの言葉になるでしょう。ここを読んで、いい気持になるだけでは、読んだことにならないと思います。楽山は浅はかです。
 
楽山は、寛容ではなく、情深いどころかサディスティックであり、また、ねたみ、高ぶり、誇り、不作法を省みず、自分の利益を求め、いらだち、恨み、仕返しを企みます。不義を喜び笑い、真理を憎み、そして、何も忍ばず、自分以外、何も信じていません。
 
楽山のように、愛も共感性もない者は、知識をひけらかしても空しいだけです。愛も共感もない楽山には、総てが空しいだけです。楽山が、愛の賛歌と呼ばれるコリント13章を挙げるのは、笑止であり、愛の対極にいる典型が、学習も反省もしない楽山であります。
 
楽山は、ただ、自分で自分を高めるためだけに聖書を読んだふりをして、学識と理解を装っている偽善者なのです。恐らく、楽山は、先入観抜きで、聖書を、例えばヨブ記を、まじめに読んだことはないのだろうと思います。
 
何も神に望みを置かず、何も耐えず、いちずに、神と人に復讐を企んでいます。楽山は、殆どサイコパスであり、凶暴で執拗な反キリストです。上に書いたように、愛の賛歌の言葉を、すべて否定形にしたところに、楽山がいます。
 
自分の発信したブログの、背教の記事と発言を、今だけ無視して、聖書について厚かましく書いてくることこそが、楽山の、傲慢不遜の証拠であり、反キリストの頑強な悪魔性の証しなのです。書けば書くほど、白々しさが楽山を否定するのです。楽山は、罠をかけようとして罠にはまってしまう例です。
 
 
ここで特に心に残ったのは三箇所。一つはヨブの呟きは神から離れていないからだというところ。神に対して否定的批判的なことを言うと、即、不信仰だの冒涜だのと責められることがある。でもそういうことは神に無関心ではなく、縁がつながっているからこそ出る言葉なのだろう。
 
楽山は、この記事のように、あたかも、神の側にいるかのような記事を書くことで、本心ではなく、嘘だとバレており、人心を惑わせる企みによって「否定的批判的なことを言う」人ですから、キリストからも決して赦されることのない偽善者です。
 
楽山の言は、ヨブなどの信仰者の、本心からの、叫びに近い祈りとは全く別のもの、というより、逆であります。訂正不能で悪意だけの自己愛性パーソナリティ障害NPDの楽山は、真っ向からのキリストとキリスト者の敵です。
 
楽山は、「神に無関心ではなく、縁がつながっているからこそ出る言葉」と言って、またしても、自分も批判したが、神との縁がつながっている、という自己正当化を図っています。楽山の今までの履歴が、楽山が反キリストであることを示し、この楽山の言を否定しています。
 
楽山の詭弁は、自己愛によるもので、正直な疑いを本心から訴えているヨブとは、全然、違います。
 
楽山は、いちずに読者をだまそうとしています。これが、楽山の本性です。自ら滅びを選んでいる者に、近づいてはいけません。楽山は、何も気づかず、笑っているだけの人です。
 
 
もう一つはヨブは友人から誤解され、責められて傷付くが、それが真理に眼を開き、光明に近づく切っ掛けになっているという指摘だ。苦は出来れば避けたいことではあるが、それによって真理に導かれるということもあるとすると、ここは神義論、弁神論と関連が出てくる。
 
ヨブが、友人から誤解されたのではなく、友人が、信仰を曲解し、思い込んで、ヨブを責めているのです。そのような者たちが救いの助けになることはないのです。楽山が、信仰?を語れば、似たような教条の上辺だけになってしまうのです。中身のない評論家気取りに過ぎません。
 
楽山の、今までの、神義論(弁神論)の記事は、詭弁と嘘の、成り立たない理路だったし、いかにも、信仰を理解できない好事家がでっち上げた自分信仰の産物でした。楽山に、聖書とキリスト教理解を求めてはいけません。言いように利用され、疲労と人格破壊をもたらされるだけです。
 
今回も、反省もなく、自粛もせず、キリスト教と聖書を知っているかのような記事を書くこと自体が、信仰者の敬虔に反していており、偽善者に相当する楽山です。
 
 
三つ目は著者がビルダデを強く批判しているところだ。「人情の機微をも知らずして、ただちにわが神学的断定を友の頭上に加えて得々たるところ」云々とかなり手厳しい。
 
楽山は、人を誘導し巻き込みますから、そこは、蜘蛛の巣のような、罠に満たされます。神がいるならなぜ悪があるのか、と言って、神を否定した者が、今、信仰について肯定的であるかのように云々しているのです。嘘を吐くことへの罪悪感のない証拠です。
 
楽山は、精神の詐欺師であること以外に、何を伝えたつもりでいるのでしょう。ここまで白々しい者に掛ける言葉は、どこからも、あっちに行け!・・以外には、ありません。
 
 
これには穴があったら入りたい心持ちにさせられる。というのも自分は某宗教の信者だったころ、その教義によって人を裁いてばかりいたからだ。「人情の機微を知らずして」教義を基準にしてああだこうだと人に説教していたのだった。しかもこういう悪癖は、今も完全に治ったとは言い難いのだから情けない。反省。
 
「穴があったら入りたい心持ち」ならば、穴に入って出てこないでほしいです。こういう、心にもないことを平気で書くのが、楽山が吐く嘘の特徴です。そして、今も、侮って裁いていることが、このペテンの敬虔芝居に表れています。
 
そういう楽山だから、神に、キリスト教に、いちゃもんを、平気でつけてきたのです。そして、また、今度は、聖書について知ったかぶりをしようというのです。そのようにして、楽山は、自らを、高みへ高みへと上げるつもりで、実は、闇へ闇へと転げ落ちてゆくのです。
 
楽山が、聖書とキリスト教の記事を書けば書くほど、だまされる人は増えるかもしれません。しかし、楽山が、神とキリスト教に対して、無反省に暴言を放っておきながら、あとになって「反省」と書き、ほめ言葉を書いて、まるで、物質のように中和できると思うのは、愚かな企みであります。
 
むしろ、中和も平和もなく、逆に、偽りに偽りを重ねることで、楽山の性根の腐れ具合が尋常ではないという証拠になってゆくのです。いずれ、ひきつった笑い顔で、鏡を見ることになるでしょう。情緒面が、ますます壊れてゆくでしょう。
 
楽山は、今でも、人情の機微を知らないことが、記事を書くたびに、ますます明らかになっています。共感による思いやりも知らず、ゆえに、肯定的なメッセージも、子供だましのレベルです。文章表現が、ますます壊れてゆくでしょう。
 
楽山を批判している理由は、内村鑑三のような有名人の本を引用して、字面だけ読んでも、心の無い者にキリスト教を語ることは出来ないのに、無理解と自己愛と自己顕示欲で語れば、さらに、嘘を吐き、偽りを広めることになるからです。
 
キリスト教について、嘘を吐いて、しかも、その責任を負おうとしない楽山は、勝手すぎて、赦される道理がないのです。楽山の視野とは全く違うところに、楽山とは全く縁のないところに、キリスト教とキリスト信仰は、活性をもって、働いているのです。
 
楽山は、既に約10年ものあいだ批判対象となっている偽牧師で偽善者で反キリストであるシャロームの、罪は悔い改めなくても赦されるから気にしなくていい、という信条?に、あっさり賛同しました。何も理解していない証拠です。さらに、何も考えていない証拠でもあります。
 
このことは、楽山が、キリスト教もキリスト信仰も、全く理解していない証拠となるだけでなく、無反省に反信仰を語り続けるケダモノでもあるということです。反省して、正直な祈りによって、悔い改めるのが、信仰であり、悔い改めなくていいキリスト教など、どこにも存在しないからです。
 
このような経過があるので、私には、疲労だけを与えてきた楽山を説得しようなどという意図は既にありません。楽山は、シャロームと、恐らく、同一か、カルト的つながりを持つ仲間であろうと思っています。説明や説得など、元々する気のない訂正不能の病的ナルシストです。
 
キリスト者でもなく深い理解も共感も伝えたことのない楽山に、宗教と信仰は手に負えるテーマではないのに、こちらが、いくら、おかしいところを指摘して批判しても、楽山は、また、理解を装って書いてきます。恐らく、理解を示したつもりのうえで、否定したいからでしょう。
 
この自己顕示欲の醜い有り様こそが、楽山の、おぞましい正体であり、実際には、宗教と信仰への根深い怨念による悪意が、逆に、表れている結果となっているのです。人間は、ここまで腐ってしまう、という悍ましい有り様を見ています。
 
楽山は、情感も共感も理路も人生の学習を怠ってきたゆえに、宗教・信仰・思想が不可能になっている自身について、考えもせずに、悔いもせずに、白々しくあたかも別の顔であるかのように成りすまして、聖書と信仰の話を平気で書いてきます。三文芝居で出来ている仮面の人生です。
 
それで、何か言えることがあると考え、何とかなると思っていることが、何よりも、現実におけるホラーの異常性となって表れているのです。楽山の自己愛と自己満悦は、今後、さらに、異様な様態を表してゆくでしょう。
 
 
粉のように 無理解だから書いてくる

粉のように 無理解だから書いてくる
 
 
(2020年)
(2021年)
(2022年09月01日、再録+加筆)
 
 
 
悪魔については、自分にも当てはめて考える必要があります。超常の化け物としてより、怖い悪魔が、人の心には、棲んでいるのです。それに気づきもせず、笑っているのが、楽山であります。感情と情緒に深みがなく、企みに満ちて、他者の不出来だけがエサとなっているケダモノです。
 
楽山は、今のところ、3つのブログと、3つのHNで、2つのツイッターを書いています。これから、また、さらに別のキャラに成りすましてくることが予想されます。誰も近づいてはいけないと思います。HNを変えれば分からなくなるでしょう。だから、自己中の筆致を覚えておくためでもあります。
 
 
 
  悪魔
 
悪魔とは何か。
それは今、私の中に満ちているもの
と考えてみる必要が常にあるだろう。
他人について魔女狩りをする前に、
自らの中に潜んでいる悪魔狩りをしてみるべきである。
それが到底できないことに気づくであろう。
 
私はさびしく語るほかはない。
他人を見る心において
私はしばしば悪と親しく、
絶望のふちにおいて
私は魔と友人である。
 
私は人をむさぼり
自らをむさぼり
むしばまれてゆくだけなのか。
父なる神はどこにおられるのか、
わが救い主はどこにおられるのか。
 
皿に盛られた料理を汚く残したまま
私はかつて笑いの中で主の盃に加わり、
今は嘆きの中で顔をそむける。
 
そむけた顔の後ろに、忘れようとして
忘れることのできない言葉のまなざしに
主よ、あなたの御名によって・・・
私という名の悪魔が
父の手によって裁かれますように。
私はさびしくつぶやき
不遜の祈りを語り続けるだろう。
 
 
 
前に載せましたが
2019年07月26日 22:53
楽山に送られたコメント
 
「 
隆くんへ 
・・・
嘘ばかり 重ねる君よ
保身だけの 卑怯者の君よ
そんな君は 魅力の欠片もないのに
・・・
失敗した君は 大きな過ちを犯した君は
最大限の償いと 最大限の反省と共に
開いた出店を 畳むしかないんだよ
 」
 
これに対して楽山は、
 
「これも一種の、人間の性なんでしょうかね。」
と書いて、人間一般の話にすり替えています。
 
どうしようもない人です。
 
 
 
 楽山の成りすましが疑われる taka のツイッターですが
 ( 楽山から raku、隆から taka )
 
taka
@taka84156681
·2時間
物申す系YouTuberで誰かを追い込んで自殺させた例はまだいないとされる(シバターにはあるらしいが自殺とは断定されていない)
ただ今の時代は誰かを吊し上げて正義という名の集団リンチをなにかと目にするので将来的にそうなる可能性は十二分にある、そうなるとその物申す系は人を死なせたレッテルが
午前1:47 · 2021年8月17日·Twitter for Android
 
楽山は、悪事を好きなように続けさせないと自殺するぞ・・とでも言いたいのでしょうか。被害者のつもりなのでしょうか。通らないものは、通らないと言い続けるほかはないのです。誰も近づかないようにと批判しています。放置すれば、人格と人生を破壊されてしまう人が出てくるからです。
 
楽山は、自己愛性パーソナリティ障害からの害を、自己愛性パーソナリティ障害者だから自覚できないということでしょうか。それとも、また、正義の味方気取りなのでしょうか。悲劇のヒーロー気取りなのでしょうか。加害者が、被害者面して、何を言っているのでしょう。
 
私は、楽山について、2年半の経過から言っています。罪悪感、後悔の念、羞恥心が、楽山にはありません。宗教・信仰など、真実の追求という大きなテーマを書く上で、楽山は、反省する気がなく、責任も負いません。言論の責任を負わない人に、言論の自由はありません。
 
 
 
心機一転★こも楽山さんがリツイート
優しい藤倉善郎
@SuspendedNyorai
·8月15日
今日の靖国神社前での戦利品は、幸福の科学、顕正会、法輪功、キリストの幕屋の各パンフ類。それぞれが入り混じって配布活動してた。
藤「幸福の科学は宿敵じゃないんですか」
顕正会「相手にしてないです」
藤「顕正会と一緒にビラまきしてて仲いいですね」
幸福の科学「国難ですから!(笑顔)」
午後7:49 · 2021年8月15日·Twitter Web App
 
このように、人の意見を拾って他の宗教を、あざ笑うのが、楽山の趣味です。こういう人には、宗教心も信仰もありませんし、ありえないと思います。自分を見ることが出来ない人なのです。だから、自分の問題に気づくこともないし、そういう人は、宗教とも信仰とも、真逆の人生になります。
 
つまり、信仰を持つ人を、自分より劣った人と見なしているということです。こぼれ話で、信仰者の失敗や失言を漁り、それを笑うことに生きがいを感じるのでしょう。楽山を批判して、3年余り、そういう態度ばかりでした。
 
信仰者は、人生の問題として、信仰を考えます。楽山は、なんで悩んでいるの?、宗教なんて意味ないでしょ・・とばかり、笑っているのです。信じないなら信じなくていいけど、信じることを笑う人は、人間性に欠陥のある人です。楽山の実在は、そういうモデルとなっているのです。
 
 
 
楽山の害毒メモ:
今までに表れてきたこと。これは、楽山に限らず、聖書においてキリストの敵となった宗教指導者や、世に数多いる偽善者の特徴でもあります。この世で最も迷惑な人の特徴です。楽山は無責任です。決して信用しないでください。
 
楽山は、1つのことを書いて、別の時には、それに反することを平気で書いてきます。そこで、反省、修正、というステップを書かず、あたかも最初から思っていたことのように書いてきます。自分に誤りを認めない自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)だからです。
 
人格:
自己愛が強く自己中である。
笑いと怒りしかなく、反省と共感がない。
自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)と思われる。
平気で嘘を吐く。様々な詭弁を弄して、柔和に見せかける。
深い情感がなく、共感性がない。相手が疲れるのを見て快感を得る。
後悔、反省、修正ができない。学習による成長がない。
罪悪感、羞恥心が見られない。サイコパスと思われる。
アドラー心理学の宣伝をしていた。自己中心である。
中身や実質のない形骸的精神機能しか持たない。
 
議論:
議論や交流が、表面的で、整わない、できないし、する気がない。
相手の意見を受け取っていないので、反論、弁明が成り立っていない。
理路が常識的にも浅く、基本的に訂正不能である。理解力がない。
自分なりの堅実な理路を組み立てられない。
読書自慢。感想は平板で、独創性や深みがない。
様々な気取り。読書家気取り、評論家気取り、インテリ気取りなど。
分かっているという我執から離れられない。
非を指摘されると、逆に、こちらに当てはめて被害者面をする。
人を批判~誹謗中傷するが、その言葉で自分が斬られるブーメラン現象。
真面目に応答~議論すればするほど、病的な徒労感と疲労のみをもたらす。
ボンヤリ言語:語尾を濁し曖昧で婉曲的な言い方で、印象を刷り込もうとする。
トホホ言語:謙虚で弱いと思わせて悪意を隠すための嘘の芝居。
しばしば、自身への同意を期待して、見え透いた世辞を言う。
「反省。とほほ」などと書くが、不自然であり、前後で何も変わらないので嘘です。
 
宗教:
反キリスト、反宗教。聖書およびキリスト信仰を、貶めてくる。
キリスト教とキリスト信仰を字面だけで云々し、理解していると思い込む。
HSを脱会したと言っているが、真実かどうか、疑わしい。
霊能者のつもりだが、それに見合う直観的洞察は皆無である。
 
楽山の書いた文章を、3年数か月のあいだ見てきた結果ですから、大きく変わることはないでしょう。これらについては、新しい情報によって、必要なら加筆し、繰り返し載せることになるでしょう。
 
 
 
私の「ウソの国ー詩と宗教」ブログ:
 
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   いちゃもん2
 
  とこしえの御座 (詩編9:8)
  https://blogs.yahoo.co.jp/jiyuu2013/41564781.html
  楽山のブログ。
 
楽山は、まじめに読んでもいない聖書に苦情を言っています。
 
主は裁きのために御座を固く据え
とこしえに御座に着いておられる。
(詩編9:8)
 
詩篇9:7のようです。
 
 (詩篇、口語訳)
9:5
あなたはもろもろの国民を責め、
悪しき者を滅ぼし、
永久に彼らの名を消し去られました。
9:6
敵は絶えはてて、とこしえに滅び、
あなたが滅ぼされたもろもろの町は
その記憶さえ消えうせました。
9:7
しかし主はとこしえに、み位に座し、
さばきのために、みくらを設けられました。
9:8
主は正義をもって世界をさばき、
公平をもってもろもろの民をさばかれます。
9:9
主はしえたげられる者のとりで、
なやみの時のとりでです。
9:10
み名を知る者はあなたに寄り頼みます。
主よ、あなたを尋ね求める者を
あなたは捨てられたことがないからです。
 (詩篇9:5-10、旧約聖書)
 
このように、裁きと救いの聖句です。
しかし、楽山は、永遠にこだわっているようです。
 
聖書の文脈を読まないで、
気になった言葉だけで考えているようです。
 
そういう自分を反省することなく、
聖書に文句を言う自己愛性人格障害だからでしょう。
 
 
以前は、
とこしえ、永久、永遠という言葉は、けっこう好きだった。
でも近頃は、
そういうことを想像するだけで圧倒されてしまうし、
ふっと気が遠くなるような心持ちがする。
 
けっこう好きだった・・などという趣味的な言葉で聖書は語れません。圧倒されて・・というのは、どうやら、感動ではなく、気味が悪いという気持ちに近いようです。「気が遠くなる」という大仰だが月並みな言葉です。楽山は、またしても、信仰を、おとしめるつもりでしょうか。
 
 
たとえば、とこしえという時間は、
宇宙の百倍の大きさの石があるとして、
一兆年に一度、鳥の羽根でかるく撫でることを繰り返し、
すべてが摩耗して塵になるまでの時間よりも、ずっとずっと長いのだろう。
そのくらいの間、神は御座についておられると想像したら、
あまりにスケールが大きすぎて、めまいがする。
 
聖書の、とこしえ、という言葉が、物理的な時空で語れないのは当たり前のことです。楽山の、信仰に対する、いい加減なスタンスからは、めまい、というのは、嘘だと思います。また、信仰を、おとしめるつもりのようです。「気が遠くなる」「めまいがする」・・安易で空疎な感想です。
 
 
また、人が永遠の命を得たとしたら、
そういう時間を生きることになるのだろうし、
これも想像しただけで、足下がふらふらしてくる。ちょっと怖い気もする。
 
「足下がふらふら」「怖い気」がする、嘘だと思います。信じるかどうかは、自由ですが、楽山は、信じてもいないのに、いちゃもんをつけるつもりのようです。どこまでも、超常ホラー趣味の域を出ることのない大嘘吐きの飾り言葉だけの楽山です。
 
 
そんなわけで以前は、
とこしえ、永久、永遠という言葉には憧れを持ってたりもしたけれども、
最近はどうも、そういうことは想像することさえ躊躇してしまう気分になってきている次第である。
 
とこしえ、永久、永遠、という言葉だけに、何らかの興味を持つという、少年の空想的な想像からの興味から、卒業しないまま、想像できないから躊躇してしまうほど気分がよくないと言って、暗に、常識的想像では、信仰は成り立たないと言いたいのでしょう。
 
このように、楽山という反信仰者は、暗に、ほのめかすことによって、信仰をおとしめ、その印象を吹き込もうとするのです。いい加減な読み方しかしてこなかった自分について、何の反省もなく、軽口で言ってしまいます。
 
結局、何が言いたいのかが、わからないほど、記事を、ボンヤリ言語の弊害で満たしています。はっきり否定せず、肯定せず、しかし、否定的な印象をすり込んでゆくのでしょうか。この記事、書く必要が、どこにあったのでしょう。
 
そう感じるから、そう書いた、というのでしょうか。
そう感じたなら、そう書く前に、考えるべきです。
 
ふつうは、いい加減な読み方をしたという自覚があれば、いちゃもんは、遠慮して、書かないものですが、楽山は、自尊第一で自分の合理化の意味付けのために、考える前に、自己中のクレームを書いてしまうのでしょう。それが自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)の因業であります。
 
考えもなく、欲求のおもむくままにするのは、欺いてばかりだったことの災いとして、起こってきます。まっすぐ問題に取り組む姿勢をなくしてしまって、ピンと来なくなり、感動できなくなり、不快になり、言葉だけ大袈裟になるのです。楽山は、そういう経過で、反キリストとなっています。
 
それは、すでに、心と理路の秩序を失っているところの、シャロームの、讃美噴射とボロクソ節に表れてきたのです。キリスト信仰は、教えられたことを鵜呑みにして、同じことを唱えると褒められるカルトとは決定的に違います。
 
 
キリスト信仰は、訂正不能になった者たちには決して分からないのです。なぜなら、彼らは既に分かったつもりでいるからです。いちばん分からない人が、いちばん分かっているつもりになっている、このことが、もたらす害は測りしれません。
 
キリスト信仰は、人間として、感じ取り、考えて、神の前に、分からないことを、分からないと言う正直さが基本です。
 
 
 
楽山は、無理解と偏見からの、いちゃもん屋です。聖書の短い聖句だけを引用して、前後の文脈など、お構いなしに、はっきり言って子供のような、いちゃもんをつけているに過ぎません。程度の低さを、自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)のために感じないのでしょう。
 
「ふっと気が遠くなるような」「めまいがする」「ふらふらしてくる」などと、山の上から景色を見ているような書き方をするのは、聖書の伝えようとする意味を、分からないのではなく、わざと、日常感覚の言葉を使って、的を外し、読者を聖書的な意味への道から遠ざけようとする悪意によります。
 
つまり、記事本文に書いてある言い方は、キリスト教って、おかしいね、という、刷り込みであり、印象操作であり、この、背伸びしただけの、ふざけた書き方によって、感想ではなく、作為の揶揄だと分かるのです。心貧しさとは正反対の、精神の貧困が表れています。
 
楽山は、いつも、一見、ふつうに感想を述べているように見せかけます。一見、ふつうに見せる、これが、楽山のボンヤリ言語です。しかし、実際は、反信仰、反宗教、反キリストの楽山の悪意の企みであり、ここでは、キリスト信仰の言葉を、あざ笑っているわけです。
 
キリスト信仰は、訂正不能になった者たちには決して分からないのです。何故なら、彼らは、既に分かっているつもりでいるからです。いちばん分からない人が、いちばん分かっているつもりになっているからです。そして、正直に祈る心を持たない者は、自己顕示するしかないのでしょう。
 
しかし、聖句を、からかっても、何の解説にもならず、意地悪にヘラヘラ笑っている姿をあらわにするしかないという例です。大人の振りをする楽山のような自己愛者の児戯は、何の価値もなく、感想としても、見苦しいだけなのです。
 
キリスト信仰は、人間として、感じ取り、考えて、神の前に、分からないことを分からないと言う正直さが基本です。信仰者が、神の前に祈るとき必要なのは、そのとき精いっぱいの正直さだけです。
 
それしか神には通じないことを、楽山は知る由もなく、神聖を侮(あなど)り、低め、あざ笑いながら、結局、分かったふうに、自分の高ぶりだけを表すことになるのです。この虚偽は、神の前に、一番やってはいけないことなのですが、楽山には分かっていません。
 
 
無思考の雑言

無思考の雑言
 
 
(2020年8月13日)
(2022年08月16日、再録+加筆)
 
 
 
  人が生まれて
 
人が生まれて
罪が生まれた
人が増えて
罪に罪を重ねた
言葉が生まれて
嘘が生まれた
心にもないことを言い
心にあることを隠した
 
虐げられた救い主のように
人は長い間
ウソの中から真実を見つけなければならなかった
人は長い間
ウソを並べて真実を表わさなければならなかった
産みの苦しみは
楽園を追われたときから
長く
長く続いた
 
「罪は決して許されることはない」
「あなたの罪は許された」
二つの言葉は
言う人と言われる人によって
正しかったり間違っていたりする
反対だったり同じだったりする
 
 
  動かない死
 
肉体は座ったまま
動かなかったので
次第に乾いていった
頭皮から離れたフケが髪の間に点々として
かつて食したであろう食物の残渣が口角でひび割れ
鼻から頬にかけての皮脂が乾いて
こわばったうろこのように落ちかけていた
 
そのまま消えていくと思っていた
座ったまま便通は圧迫され
腸の動きは眼のように不明だった
眼脂に覆われていたのである
 
やがて形なく
透き通り
消えてゆくはずのもくろみは
思いに反して
よりかたくなで
固い肉体を作り出していた
 
心は座ることができなかったので
乾いてはいても
絶えず何かを思わずにはいられなかった
とうに周囲とは無縁であったが
いつしか清潔な裸体を想像していた
 
明日はなく
昨日は捨て
今日の消滅を願っていた
来る日も来る日も
死は肉体よりも心に近く
そのくせ清潔な裸体ばかりを描いていた
 
 
  これで息
 
ごはん炊いて
ラップに包んで
冷凍する
これで数日は息抜きできる気分
 
悪いこころ集めて
これこれと反省して
お祈りする
これでしばらくは息吹き返す気分
 
悲しいこころ集めて
じっと乾く涙を待って
目を閉じる
これでほんの少し
ため息つける気分
 
良いこころ集めて
あれこれと考えて
わからないと気づく
これでこれからも虫の息
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
 
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
楽山は、理路の見せかけて、いちゃもんばかりを書いてきました。よく読めば、その文脈は、楽山の偏見と先入観によって乱され、成り立っていないことが分かるのですが、楽山のボンヤリ言語の曖昧表現と、トホホ言語の謙虚芝居によって騙されている人は多いようです。
 
 
 
★こも/楽山日記3
@komo266
若い頃はこういう言葉に感動したけど、年を取って、さまざまな理不尽があることを知ると…ね。
たとえば、実の親から虐待され殺された子、通り魔や暴走車によって突然命を奪われた人…そういう人に向かって「その体験は人生を磨く砥石にすぎない」なんて言えないと思う。
>>
ryuho-okawa.org
人生を光らせる砥石
たといどのような苦しい地上人生を送ったにしても、わずか六十年七十年の苦しみは、永遠の人生から見たら、ほんの一瞬の出来事でしかないのだ。 たといどのような困難がふりかかろうとも、それらは私たちの人生を磨き、光らせるための砥石にしか過ぎないのだ。
<<
午後8:00 · 2022年8月14日·Twitter Web App
 
突然の悲劇に、お伽噺は通用しません。しかし、楽山は「「その体験は人生を磨く砥石にすぎない」なんて言えない」と言いながら、その力動を、キリスト教の信仰否定に費やしています。なのに、救われて生きるヒントになることなど、楽山は何も提示できないという不細工でしかありません。
 
 
★こも/楽山日記3
@komo266
霊的人生観は大切だというのは分かるけど、巷には霊的人生観を持ってるのに人格的に問題ある人もいれば、霊も神も信じてないのに善良な人もいる。
このことからすれば、精神性を高め、よい人生を送れていれば、霊的人生観や信仰を持とうが、持たなかろうが関係ないと思う。
ryuho-okawa.org
正しい人生観
どうか、正しい人生観を持っていただきたいのです。正しい人生観に基づいて生きていただきたいのです。それが、後悔しない生き方なのです。 「死んでからあと、死後の世界があります。 あなたの本質は肉体ではありません。肉体のなかに宿る精神的存在、魂、別の言葉で言うならば、心と呼ばれているものが、あなた自身の本質です。 その事実をもとにして、現在ただいまの生き方を考えてください。そうすれば、残された人生...
午後8:21 · 2022年8月15日·Twitter Web App
 
「霊的人生観は大切だというのは分かる」・・分かっていないと思います。楽山は「人格的に問題ある人」です。「霊も神も信じてないのに善良な人」ではない。「精神性を高め、よい人生を送れて」いないのが楽山です。今日も、平気で白々しい嘘を吐いています。楽山の言葉が楽山を裏切ってゆきます。
 
 
 
信仰の恵みとは
人間が
いずれ死ぬという定めにおいて
生きるられるようにすることであります。
それを
キリストの共感の同伴が
可能にするのが魂の奇跡であります。
 
超常の奇跡ばかりを追う精神には
とうてい理解できることではないでしょう。
 
 
 
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  とこしえのマンガ2
 
 とこしえの御座 (詩編9:8)
 2019年07月27日 楽山日記(LD)
 
 
「主は裁きのために御座を固く据え
 とこしえに御座に着いておられる。  
 (詩編9:8)」
 
 (詩篇、口語訳)
9:7
しかし主はとこしえに、み位に座し、
さばきのために、みくらを設けられました。
9:8
主は正義をもって世界をさばき、
公平をもってもろもろの民をさばかれます。
9:9
主はしえたげられる者のとりで、
なやみの時のとりでです。
 (詩篇9:7-9、旧約聖書)
 
救いに関する大事な教えが書いてあるのに、楽山は、自らの空想に都合のよいところしか引用していません。楽山が、「しえたげられる者」ではなく、しえたげる者だからでしょうか。
 
 
以前は、とこしえ、永久、永遠という言葉は、けっこう好きだった。
 
楽山が好きなのは、超常言葉であることが表れています。人間の心に目を向けないことも、ここに、表れていると言ってよいでしょう。しかも、聖書に表された神の性質を、神を否定している楽山が、ほとんど趣味的な表現で「けっこう好き」だったに過ぎません。
 
 
でも近頃は、そういうことを想像するだけで圧倒されてしまうし、ふっと気が遠くなるような心持ちがする。
 
「圧倒されてしまう」「気が遠くなる」・・とこしえ、ということを、想像することは、3次元+時間軸に縛られている人間には出来ないはずです。楽山は、どんな想像をして、気が遠くなったのでしょう。超常だからすごい、ということくらいでしかないと思います。
 
ボクって感受性が過剰・・とでも言いたいのでしょうか。芝居がかっていて、わざとらしいですから、その分、浅くて軽い気持ちの嘘だと分かります。
 
 
たとえば、とこしえという時間は、宇宙の百倍の大きさの石があるとして、、一兆年に一度、鳥の羽根でかるく撫でることを繰り返し、すべてが摩耗して塵になるまでの時間よりも、ずっとずっと長いのだろう。
 
何という分かりにくい喩えなのでしょう。「宇宙の百倍の大きさ」も「一兆年」も、人間には、想像の域を超えているはずですが、自分は分かるんだと言いたいのでしょうか。自尊過大の誇大妄想的な表現としか言えないでしょう。あるいは、何かの物語のパクりでしょうか。
 
 
そのくらいの間、神は御座についておられると想像したら、あまりにスケールが大きすぎて、めまいがする。
 
とこしえ、だから、永久なわけです。そこで、人間の限界を感じるはずです。神の御坐を持ち出す必要はないと思います。なんか、ズレていると感じます。「めまい」は、またしても、軽い気持ちの、嘘でしょう。なんだか、気障(きざ)というか、安いというか、自分で分からないのかと思います。
 
 
また、人が永遠の命を得たとしたら、そういう時間を生きることになるのだろうし、これも想像しただけで、足下がふらふらしてくる。ちょっと怖い気もする。
 
永遠を、時間としか考えられない楽山です。ときに聞くことのある、一瞬が永遠、という言葉も、楽山には理解不能なのでしょう。小学校の時空の認識のまま止まっている感じです。想像力が、正常に発達していないのかもしれません。能力の問題ではなく、体質の問題でしょう。
 
「足下がふらふらしてくる」「怖い気もする」も、軽い気持ちの、嘘でしょう。全体に、楽山は、実感がないことを補うかのように、大袈裟で単純な言い方をしてきます。飾りだけの作文です。かなり、気持ち悪いです。
 
 
そんなわけで以前は、とこしえ、永久、永遠という言葉には憧れを持ってたりもしたけれども、最近はどうも、そういうことは想像することさえ遠慮したい気分になってきている次第である。
 
楽山の「憧れ」ほど、怪しいものはないでしょう。想像は遠慮できる性質のものでしょうか。浮かんでくるものではないでしょうか。想像は、楽山にとって、はっきり決意して、浮かばせるものなのでしょうか。想像は、できるときに、してしまうものです。
 
しかし、神の性質は、想像さえできないものです。恐らく、楽山の永久(とこしえ)は、いくつもの作り話が可能になるような、紙に書いたマンガのような、平面的なものなのでしょう。
 
 
とこしえの加害

とこしえの加害
 
 
(2021年)
(2022年08月09日、再録+加筆)
 
 
 
  友
 
あなたが多くの人に出会ったとして
どれほどの人に愛されたであろうか
どれほどの人に傷つけられたであろうか
と考えるよりも先に
どれほどの人を愛したであろうか
どれほどの人を傷つけたであろうか
どれほどの人に悪意をいだいたであろうか
 
人は到底それらすべてを知り得ない
 
傷つけられたことは覚えているのに
傷つけたことは容易に忘れてしまうか気づいてさえいないものである
忘れることをすべて幸いといえるだろうか
 
すべてを忘れることの不幸を少しでも思うならば
父なる神、主を恐れることは知恵の始めである
 
あなたに多くの友がいるとして
どれだけが欲の友であろうか
どれだけが虚礼の友であろうか
どれだけが理屈の友であろうか
どれだけが誠の友であろうか
 
たとえ誠の友・真の友・愛する友がいたとしても
人の心はうつろいやすく命には限りがあるのだから
友が先に死んだならば取り残され
あなたが先に死んだならば友が取り残されるのである
 
別れと孤独を少しでも思うならば
永遠の友、主を覚えることは愛の始めである
 
 
  命のほとり
 
いのちの
ほとりで
あそぼ
 
いのちの
のこり火に
手をかざそ
 
投げられた
ちいさな つぶて
ひとつひとつに
ていねい過ぎるほど
苦しんで
 
たかぶる神経
その線の果て
 
なにもかも
むだ
だったのでしょうか
失うものばかり
だったでしょうか
わからないことにさえ
苦しんで
 
あきらめの
ふちで
こころおきなく
なけるなら
言ってみたい
ことばがあります
 
もういつ死んでもいいです
もういつ生きてもいいです
 
いのちのほとりで
あそぼ
 
 
  ウソの国
 
男は登っていく
深夜の階段を
息せき切って走っていく
走らねばならないのだ
走らねばならない
遅れてはならない
遅れてはならない
 
遅れた
男は人前に連れ出され
何人もの男から
したたか腹を殴られたが
痛みはなかった
 
夕暮れの街を歩いていく
人々は夕闇と過去に追われながら
すでに死んだ油の眼で
われにもない毒の顔をさらして
ネオンの間から間へ
苦しい巡礼を始める
あぁ この七色の 肉色の
光のおりが天国とは
拳を握りしめて
「何もない」
「何もない」と
壁に向かって叫び続ける男
誰もいない街角に向かって
手を振り続ける女
眼を振り続ける人々
通り過ぎる車が
水たまりをはねて
尻が濡れた
時が引き裂かれた
青春と人情の墓場から抜け出し
人通りの少ない路地で
恋人に声をかける
お茶でも?
あいされたいわ たれからも
 
吐物をまき散らしながら
男は逃げる
転びそうになりながら
 
幾分か小高い丘に
塀のある幼稚園があった
数人の子供が砂場で遊んでいる
ジャングルジムがある
子供たちが登れるようになると
外が見えるようになるわけだ
 
男は登ってみる
もう吐き気はしない
尻のあたりの濡れた感触もない
男はようやく安んじて眺めている
人っ子一人いない街の風景を
 
あたりはもうすっかり明るい
 
 
 
楽山の害毒メモ:
 
今までに表れてきたこと。これは、楽山に限らず、聖書においてキリストの敵となった宗教指導者や、世に数多いる偽善者の特徴でもあります。この世で最も迷惑な人の特徴です。
 
人格:
自己愛が強く自己中である。
笑いと怒りしかなく、反省と共感がない。
自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)と思われる。
平気で嘘を吐く。様々な詭弁を弄して、柔和に見せかける。
深い情感がなく、共感性がない。相手が疲れるのを見て快感を得る。
後悔、反省、修正ができない。学習による成長がない。
罪悪感、羞恥心が見られない。サイコパスと思われる。
アドラー心理学の宣伝をしていた。自己中心である。
中身や実質のない形骸的精神機能しか持たない。
 
議論:
議論や交流が、表面的で、整わない、できないし、する気がない。
相手の意見を受け取っていないので、反論、弁明が成り立っていない。
理路が常識的にも浅く、基本的に訂正不能である。理解力がない。
自分なりの堅実な理路を組み立てられない。
読書自慢。感想は平板で、独創性や深みがない。
様々な気取り。読書家気取り、評論家気取り、インテリ気取りなど。
分かっているという我執から離れられない。
非を指摘されると、逆に、こちらに当てはめて被害者面をする。
人を批判~誹謗中傷するが、その言葉で自分が斬られるブーメラン現象。
真面目に応答~議論すればするほど、病的な徒労感と疲労のみをもたらす。
ボンヤリ言語:語尾を濁し曖昧で婉曲的な言い方で、印象を刷り込もうとする。
トホホ言語:謙虚で弱いと思わせて悪意を隠すための嘘の芝居。
しばしば、自身への同意を期待して、見え透いた世辞を言う。
「反省。とほほ」などと書くが、不自然であり、前後で何も変わらないので嘘です。
 
宗教:
反キリスト、反宗教。聖書およびキリスト信仰を、貶めてくる。
キリスト教とキリスト信仰を字面だけで云々し、理解していると思い込む。
HSを脱会したと言っているが、真実かどうか、疑わしい。
霊能者のつもりだが、それに見合う直観的洞察は皆無である。
 
楽山の書いた文章を、3年数か月のあいだ見てきた結果ですから、大きく変わることはないでしょう。これらについては、新しい情報によって、必要なら加筆し、繰り返し載せることになるでしょう。
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
 
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
自分は優れているという自覚で、実質が伴わないのを、嘘と詭弁で飾ることによって、自意識を保っているのが、自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)です。反省しないことと罪悪感の欠如が、最も加害性につながります。思いやりや共感などの高等感情がありません。
 
 
 
★こも/楽山日記3
@komo266
これも、よく分かるわあ。
「えっ!?」という違和感は、安易にスルーするのでなく、大事にしないといけないとしみじみ思う。
(引用ツイート)
モラル・ハラスメント
@mayawhite222
 · 8月5日
関係の初期に感じた、なにか奇妙だという感覚。それが後になり、自己愛性が原因だったとわかるが、本人に自覚させることは困難。
 」
 2022年8月6日
 
「よく分かるわあ」・・よくも、こんな白々しいことが言えるものです。奇妙、自己愛、・・最も感じさせてきたのが、楽山です。この期に及んで、まだ、こういう言い逃れの詭弁を弄するところに、楽山の底知れない悪意が垣間見えてくるのです。楽山は既に「なにか奇妙」ではなく、はっきり異常です。
 
 
 
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  楽山の聖書曲解2
 
 「第六講 神学者ビルダデ語る」(『ヨブ記講演』内村鑑三著)
 2020年07月30日 楽山日記(LD)
 
 
信仰者でもないのに、信仰の欠片も持たないのに、楽山は、なぜ、聖書について書いてくるのでしょう。それは、知っている、分かっている、読んでいる自分を誇るためでしかないのです。言動の動機が自己顕示欲だけの自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)だからです。
 
 
第六講を読了。内容をメモしてみる。
第8章の研究。
第8章に入る前に、まず前章について、7.17-18は、詩篇より引用か。
ヨブに限らず、「健全なる人にして、神が罪の故を以て我を苦むるとの霊的実感を味わいし人が少なくない」。
「ヨブの呟き」は、神より離れていないためのもの。神を離れてはこの呟きもなくなる。「全く神を棄つるよりは呟きつつも神を保つを優に勝れり」。
ヨブは友と語り、神に訴え、自己に語りつつ、少しずつ神に近づいている。
 
 (ヨブ記、口語訳)
7:17
人は何者なので、あなたはこれを大きなものとし、
これにみ心をとめ、
7:18
朝ごとに、これを尋ね、
絶え間なく、これを試みられるのか。
7:19
いつまで、あなたはわたしに目を離さず、
つばをのむまも、わたしを捨てておかれないのか。
7:20
人を監視される者よ、わたしが罪を犯したとて、
あなたに何をなしえようか。
なにゆえ、わたしをあなたの的とし、
わたしをあなたの重荷とされるのか。
7:21
なにゆえ、わたしのとがをゆるさず、
わたしの不義を除かれないのか。
わたしはいま土の中に横たわる。
あなたがわたしを尋ねられても、
わたしはいないでしょう」。
 (ヨブ7:17-21、旧約聖書)
 
「少しずつ神に近づいている」・・ヨブは、神に近づいてはいません。背きそうな心情を、神に向かって、訴えているのです。楽山は、小学生レベル、偏見と先入観レベルであり、深い情緒を持っていません。楽山は、聖書について、何も分かっていません。楽山が書けば、それだけが表れてきます。
 
ヨブは、例えば、自分は、神にとって、何なのですか。監視していながら、神は全能でありながら、苦しみを与えるのか、なぜ、赦してくださらないのか、もう駄目になりそうです、というような、気持ちを、正直に、神に向けています。苦難の時にも、それを神に訴える分だけ、信仰者にとどまっています。
 
とどまっているのであって、近づいてはいません。人から、神に近づくことは出来ません。人は叫びのような祈りをすることがあるということです。楽山は、何も分かっていません。楽山を是としないでください。楽山は、何も理解せずに書いています。
 
楽山の「少しずつ神に近づいている」は、楽山の無理解を表しています。ヨブに賛同するのは、部外者だからでしょう。楽山にとって、信仰者を、楽山の考えるヨブの延長?として、最終的に、神から引き離すのが目的です。それだけ悪魔性が強いということです。
 
 
第8章において、ビルダデはヨブの子の死は罪のためとする。ヨブに悔い改めをせまる。「無情なる浅薄なる神学者」である。「ビルダデの説く所に多少の真理ががないではない。しかしこの場合にヨブを慰むる言としては全然無価値である」。
 
悔い改めも、信仰も知らない楽山が書いています。今までの、キリスト教と神否定の文言という自分の言さえ、なかったかのように無視して、あたかも賛同するようなことを書いている楽山の悪意の企みに、決して惑わされてはいけません。
 
信じる気など微塵も持っておらず、ゆるされることを、自尊のために、受け入れることもなく、分かったふうに、キリスト教にちょっかいだけを出してくる悪魔的存在に、決して近づかないようにしてください。悪質な、遠回しの誘導です。楽山は、神も、人も、いちばん恥ずべき自分も、見ようとしてはいません。
 
 (ヨブ記、口語訳)
8:4
あなたの子たちが彼に罪を犯したので、
彼らをそのとがの手に渡されたのだ。
8:5
あなたがもし神に求め、全能者に祈るならば、
8:6
あなたがもし清く、正しくあるならば、
彼は必ずあなたのために立って、
あなたの正しいすみかを栄えさせられる。
 (ヨブ8:4-6、旧約聖書)
 
パリサイ的な、行為義認を、因果応報みたいに、ヨブに当てはめています。これで、悔い改める人はいないでしょう。
 
 
アブラハムの一夫多妻を記したのは、それが害であり、一夫一妻が善いことを示すため。ビルダデの無情さが描かれているのは反面教師としての意。
ヨブ8章と合わせて、コリント前13章を読むべし。愛なくば知識も信仰も空である。すべては愛ありてこそ。
 
楽山のように、愛も共感性もない者は、知識をひけらかしても空しいだけです。愛も共感もない楽山には、総てが空しいだけです。楽山が、コリント13章を挙げるのは、笑止であります。
 
楽山は、ただ、自分で自分を高めるためだけに聖書を読んだふりをして、学識と理解を装っている偽善者なのです。恐らく、楽山は、先入観抜きで、聖書を、例えばヨブ記を、まじめに読んだことはないのだろうと思います。
 
楽山は、寛容ではなく、情深いどころかサディスティックであり、また、ねたみ、高ぶり、誇り、不作法を省みず、自分の利益を求め、いらだち、恨み、仕返しを企みます。
楽山は、不義を喜び笑い、真理を憎み、そして、何も忍ばず、何も信じず、何も神に望みを置かず、何も耐えず、いちずに、復讐を企んでいます。楽山は、殆どサイコパス、凶暴で執拗な反キリストです。
 
自分の発信したブログの、背教の記事と発言を、ここでだけ無視して書いてくることこそが、楽山の、傲慢不遜の証拠であり、反キリストの頑強な悪魔性の証しなのです。書けば書くほど、白々しさが楽山を否定するのです。罠をかける悪魔の性質に酷似してきます。
 
 
ここで特に心に残ったのは三箇所。一つはヨブの呟きは神から離れていないからだというところ。神に対して否定的批判的なことを言うと、即、不信仰だの冒涜だのと責められることがある。でもそういうことは神に無関心ではなく、縁がつながっているからこそ出る言葉なのだろう。
 
楽山は、本心ではなく、人心を惑わせる企みによって「否定的批判的なことを言う」人であり、キリストからも決して赦されることのない偽善者の一人です。またしても、楽山は、詭弁を弄しています。
 
楽山の言は、ヨブなどの信仰者の、本心からの、叫びに近い祈りとは全く別のもの、というより、逆であります。訂正不能で悪意だけのナルシストは、真っ向からのキリストの敵です。
 
楽山は、「神に無関心ではなく、縁がつながっているからこそ出る言葉」と言って、またしても、自分も批判したが、神との縁がつながっている、という自己正当化を図っています。
 
楽山の詭弁は、自己愛によるもので、正直な疑いを本心から訴えているヨブとは、全然、違います。
 
楽山は、いちずに読者をだまそうとしています。これが、楽山の本性です。自ら滅びを選んでいる者に、近づいてはいけません。楽山は、何も気づかず、笑っていると思います。
 
 
もう一つはヨブは友人から誤解され、責められて傷付くが、それが真理に眼を開き、光明に近づく切っ掛けになっているという指摘だ。苦は出来れば避けたいことではあるが、それによって真理に導かれるということもあるとすると、ここは神義論、弁神論と関連が出てくる。
 
ヨブが、友人から誤解されたのではなく、友人が、信仰を曲解し、思い込んで、ヨブを責めているのです。そのような者たちが救いの助けになることはないのです。楽山が、信仰?を語ると、このようなものに近くなるでしょう。
 
楽山の、神義論と弁神論の記事は、詭弁と嘘の、成り立たない理路だったし、いかにも、信仰を理解できない好事家が、でっち上げた自分信仰の産物でした。楽山に、聖書とキリスト教理解を求めてはいけません。言いように利用され、疲労と人格破壊をもたらされるだけです。
 
つまり、このような記事を書くこと自体が、信仰者の敬虔に反していて、偽善者に相当する楽山です。楽山は、神の前で、神に気づかず、役に立たない知識を振りまワズ自己顕示欲の奴隷として、あらゆる真実の追求に対する反逆者であります。
 
 
三つ目は著者がビルダデを強く批判しているところだ。「人情の機微をも知らずして、ただちにわが神学的断定を友の頭上に加えて得々たるところ」云々とかなり手厳しい。
 
 (ヨブ記、口語訳)
8:13
すべて神を忘れる者の道はこのとおりだ。
神を信じない者の望みは滅びる。
8:14
その頼むところは断たれ、
その寄るところは、くもの巣のようだ。
8:15
その家によりかかろうとすれば、家は立たず、
それにすがろうとしても、それは耐えない。
8:16
彼は日の前に青々と茂り、
その若枝を園にはびこらせ、
8:17
その根を石塚にからませ、
岩の間に生きていても、
8:18
もしその所から取り除かれれば、
その所は彼を拒んで言うであろう、
『わたしはあなたを見たことがない』と。
8:19
見よ、これこそ彼の道の喜びである、
そしてほかの者が地から生じるであろう。
 (ヨブ8:13-19、旧約聖書)
 
「人情の機微をも知らずして」、まさに、楽山の拠るところは、蜘蛛の巣のような、罠に満ちています。神がいるならなぜ悪があるのか、と言って、神を否定した者が、今、信仰について肯定的であるかのように云々しているのです。精神の詐欺師であること以外に、何が言えるでしょう。
 
こういう者に掛ける言葉は、あっちへ行け!、以外には、ありません。
 
 
これには穴があったら入りたい心持ちにさせられる。というのも自分は某宗教の信者だったころ、その教義によって人を裁いてばかりいたからだ。「人情の機微を知らずして」教義を基準にしてああだこうだと人に説教していたのだった。しかもこういう悪癖は、今も完全に治ったとは言い難いのだから情けない。反省。
 
「穴があったら入りたい心持ち」、ならば、穴に入って出てこないでほしいです。こういう、心にもないことを平気で書くのが、楽山が吐く嘘の特徴です。そういう楽山だから、神に、キリスト教に、いちゃもんを、平気でつけてきて、今度は、聖書について知ったかぶりをしようというのです。
 
こういう聖書とキリスト教の記事を書けば、だまされる人は増えるかもしれませんが、楽山の、神とキリスト教に対して放った無反省の暴言を、あとになって、ほめ言葉を書けば、中和できる、反省しなくてもごまかせる、という企みであり、逆に、楽山の性根の腐れの証拠になってゆくのです。
 
楽山は、今でも、人情の機微を知らないことが、記事を書くたびに、ますます明らかになっています。共感による思いやりも知らず、ゆえに、肯定的なメッセージも、気味の悪い三文芝居か子供だましのレベルです。内村鑑三を引用して、字面だけ読んでも、心の無い楽山にキリスト教を語ることは出来ません。
 
キリスト教について、嘘を吐いて、しかも、その責任を負おうとしない楽山は、赦される道理がないのです。楽山の視野とは全く違うところに、楽山とは全く縁のないところに、キリスト教とキリスト信仰はあるとしか言えないでしょう。
 
楽山は、既に約10年ものあいだ批判対象となっている偽牧師で偽善者で反キリストであるシャロームの、罪は悔い改めなくても赦されるから気にしなくていい、という信条?に賛同しました。
 
このことは、キリスト教もキリスト信仰も、全く理解していない証拠となっています。悔い改めなくていいキリスト教など、どこにも存在しないからです。
 
このような経過があるので、私には、疲労だけを与えてきた楽山を説得して、言うことを聞かせようというような意図は全くありません。楽山は、シャロームと、恐らく、カルト的つながりを持つ仲間であろうと思っています。説明や説得など、まるで通じない訂正不能の病的ナルシストです。
 
キリスト者でもなく深い理解も共感も伝えたことのない楽山に、宗教と信仰は手に負えるテーマではないのに、こちらが、いくら、おかしいところを指摘して批判しても、また、理解を装って書こうとする、この不感不応の醜い姿勢こそが、楽山の、おぞましい悪意であり、宗教と信仰への根深い怨念なのです。
 
情感も共感も理路も反省も、人生の学習を怠ってきた楽山には、不能になっていることを考えもせずに、悔いもせずに、あたかも別の顔であるかのように成りすまして、聖書と信仰の話を平気で書いて、それで何とかなると思っていることが、何よりも、殆どホラーに近い異常性として表れています。
 
 
デタラメしか出てこない

デタラメしか出てこない
 
 
(2020年)
(2022年08月08日、再録+加筆)
 
 
 
  死んでいます
 
私は日々死んでいます
聖者の叫びは程遠く
詩人の鐘さらに遠く
私は日々滅びています
体は衰え心は萎え
気力は失せて
私の耳は砕け散ったかけら
響きも笛も聞こえない
私の目は汚れた鱗
涙ながらに涙は流れず
渇いて乾いて
重なるものを見抜けない
私の昼は空しい排泄に終わり
私の夜は繰り言の始め
ありふれた風景
世界の末席から転げ落ちて
私は日々死んでいます
私は日々滅びています
しかもそれらすべてが
必ずしも悲しみだけではない日々を過ごしています
 
 
  行きます
 
その日が来たら
私は行きます
彼方の彼方へ
私は行きます
私は来ました
と言ったように
約束どおり
私は行きます
一滴の涙を土に埋めて
誰にさよならも告げないで
私は行きます
だから待っていて下さい
きっと私は行きます
でもその日が来て
もし私に行く力がなかったら
彼方の彼方から
すぐそばまで来て下さい
そして私の手を引いて
連れて行って下さい
その日が来たら
約束どおり
彼方の彼方へ
 
 
  シンプルに
 
私はだんだん
シンプルになっていくようです
口数も少なくなりました
言葉もめっきり減りました
ああ太陽
ああ夕空
ああ星と星
といった調子です
身の回りは相変わらず汚れていて
身のうちには
たくさん傷や悔いや感動がありますが
もう深くはのぞけなくなりました
しあわせが浮いていくようです
それが私なのか何なのか
昔のことはだんだん忘れて
見るもの聞くもの遠のくようで
裏返し
と唐突に言ってみたり
口を開けてじっとしていること
ときどきできます
私はシンプルに
命になって
いつか少し笑って
目をゆっくり閉じて
いつか少し泣いて
あとは
あとは
おまかせします
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
 
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
「自分もそんな風です」と、「人間の性」という言い訳で、反省をしない楽山です。反省をしない人は、人間ではないのです。成長もないのです。したがって、そういう人は、人間としての発言は出来ないし、してはならないのです。
 
 
 
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