ウソの国-詩と宗教:st5402jp

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タグ:曲解

 
  心の理論3
 
   楽山日記(LD)
   に対する私の批判「心の理論」
   を加筆して再録。
 
 
楽山の原点のような見当違いの曲解です。心理学を、著しく歪曲して、心霊の話にしています。殆ど妄想だと思います。楽山は、まだ、何かを人に教えられると思っているのでしょうか。
 
今回、「心の理論」という心理学の話を、楽山自らの霊感みたいな経験を正当化する曲解によって、書いてきています。理路の読解力のなさが明らかとなり、インチキも甚だしい、というところを見てほしいと思います。
 
先ず、心の理論について引用しておきます。
 
(ネットより)
心の理論(ウィキペディアより)
他者の心の状態、目的、意図、知識、信念、志向、疑念、推測などを推測する心の機能のことである。
マクシ課題
1.マクシは、母親が買い物袋をあける手伝いをしている。
2.彼らはチョコレートを<緑の棚>に入れる。
3.マクシが遊びに行った後、母親はチョコレートを取り出して、今度は<青の棚>に戻す。
4.母親が卵を買うために出て行ったあと、マクシが遊び場から戻ってくる。
上記の場面を被験者に示し、「マクシはチョコレートがどこにあると思っているか?」と質問する。正解は「緑の棚」だが、心の理論の発達が遅れている場合は「青の棚」と答える。
 
 」
 
最初、何のことか、よく分かりませんでしたが、「誤信念を理解すること」というのは、誤信念の存在を正当化することではなく、誤信念を他者が持っているということを理解することのようです。ゆえに、直観的であっても理路があるから、理論というのでしょう。
 
批判というのは、多くの場合、そのような誤った信念があることを発見し、その根拠と理解によって為されるものです。楽山の引用した「心の理論」は、まさに、例えば、ここでは、楽山の誤信念を批判する根拠と理路になるでしょう。楽山は、思った以上に理解力がないようです。
 
マクシ課題について:
 
注意してほしいのは、問われていることが「チョコレートがどこにあるか」ではなく、「チョコレートがどこにあるとマクシが思っているか」というところです。
 
マクシは遊びに出ていたので、母親がチョコレートを<青の箱>に入れたことを知りません。したがって、「マクシはチョコレートがどこにあると思っているか?」という質問の正解は、「緑の箱」です。マクシは、誤った信念を持つ例として書かれています。
 
「心の理論」は、そういう、子供の発達過程での、誰でも分かるような、極めてシンプルな理路が書いてあるのです。これは、私たちが「心の理論」を持っているかどうかということです。大方の人は正解を出せるでしょう。楽山は、心霊の話に持ってゆくという恐ろしい誤謬に至っています。
 
 
最初、児童心理学の話かと思っていましたが、子供だけではなく、心理学の話であり、さらに、"誤信念" は、思い込みや、先入観、固定観念、カルト妄想にも関係してくる話であり、広く思想形成に関わってくる話だと思います。
 
正解することは、他者(マクシ)が誤った信念(誤信念)を持つことを理解しているということであり、つまり、これを心の理論が発達しているということです。
 
発達していない人は、「緑の箱」に入っていることしか知らないマクシの思考を考えることが出来ず、今「青の箱」にあるからと、そのまま「青の箱」と答えてしまう、ということです。
 
心の理論は、心理学的な理路の話であって、霊感とも、宗教とも、何の関係もないのです。
 
心の理論とは、他者という存在の心の正誤を知るということであり、それが出来ないのは、前にシャロームが、やたら言っていた、一種の自他未分化だろう、という話なのです。
 
ところが、楽山は、そのことを理解せず、自分の極めて怪しい霊感みたいなもの?を、正当化する話に持っていきます。やめておけばいいのに、ここが、都合の悪いことを無視して反省しない人の、何の意味もないのに、実に執拗な、煩わしい執着となっているのでしょう。
 
自他の誤信念を考えること、広く、誤解することは、誰にでもあることです。しかし、楽山の場合、事実を知らされても、誤信念を、訂正することが出来ない、というところに、重大な問題があるのです。それゆえに、楽山は、心理学の話を、心霊の話にしてしまうのです。
 
こういう、楽山には発達障害のようなものが前提となって、病質によって訂正不能の嘘吐きとなっています。事実を事実として受け取れず、自己中の妄想話に置き換えてしまうのです。
 
楽山は、アドラー教に従って、気に入らなければ無視して、全く改めずに、また同じような手練手管で書いてくる見苦しさであり、人間性をなくしてゆく方向へと、どんどん進んでいるのでしょう。次に引用するところの楽山の言い分は、目を覆わんばかりです。
 
 
先日は、お彼岸だったので親戚の家に行ったら、ちょっとしたやりとりが切っ掛けで爆笑されてしまった。その内容は、大体こんな感じ…。
自分 (仏間から、居間に戻る)
おば「仏様、拝んだかい?」
自分「うん、よろこんでたよ」
おば「えっ?」
 自分「拝んだら、仏様が『ありがとう』ってよろこんでた」
おば「仏様、よろこんでたんだ!? ふははははっ…」 (親戚一同爆笑)
 
親戚の人は、奇想天外のことを言う楽山を笑っています。
 
 
自分は多少冗談っぽい言い方をしたので、笑ってもらうのはいいけど、おばさんたちは仏様の気持ちは全然感じないっぽいのには驚いてしまった。
 
常識的に、おばさんたちが笑ったのは、楽山が冗談っぽい言い方をしたからではありません。魔法のように現実離れしたことを言う楽山に呆れたから笑ったのです。つまり、なに、バカなことを言ってるの、という笑いでしょう。
 
こういうときの病質者の解釈は、自己正当化のために異様です。楽山は、笑われたことから感じることや考えることが出来ない人だと分かる部分です。
 
カルトの萌芽を感じます。楽山は、言い換えると、自分のことを、仏様の気持ちが分かるっぽい?、と言っているのです。この時点で、自分の誤信念を、訂正できなかったのが、今日の楽山を形成しているような気さえします。
 
楽山は、「笑ってもらうのはいいけど、おばさんたちは仏様の気持ちは全然感じないっぽいのには驚いてしまった」と、わざとらしい丁寧語で書いていますが、恐らく、こういう場面で、本音は、お前たちには分からないんだ・・と心のうちに笑って、慢心してゆく楽山の病質形成が表れているように思えます。
 
既に、自分は霊能者という妄想が表れているのです。楽山は、楽山の書いた2年に及ぶ文章から、目覚めや、感動を、人に与えたことはないと思います。おばさんたちが「感じないっぽい」ことを異常のように楽山は言っていますが、感じたと言っている楽山のほうが病気であります。
 
 
もっとも仏様が何を考えているかなんて本当のところは分からないことだけど、仏様が喜んでるか、悲しんでるか、怒ってるか…そういうことは何となしに感じるものだと思うんだ。こういう感覚は、やはり個人差が大きいのだろうか。
 
楽山は、仏様が何を考えているかなんて本当のところは「分からない」と言っておきながら、仏様が喜んでいるか、悲しんでるか、怒ってるかは「感じるもの」だ、と言っています。つまり、仏様の心を自分は感じるから分かるんだ、と言っているのです。ボンヤリ言語の詭弁となっています。
 
こういう、いい加減なところから、カルトの詭弁は始まります。楽山は、知りえないはずの超常の存在である仏様を、自分の視野で分かったことにしてしまっています。それこそ、超常が分かるという自分を表しています。それは、そのまま、楽山の誇大妄想であります。
 
楽山が、キリスト教の神を、自分の幼稚な先入観の固定観念で云々して否定してしまう原初的病因が、ここにあるのです。
 
いい加減と言うより、楽山が、仏間の仏像について、「仏様が喜んでるか、悲しんでるか、怒ってるか…そういうことは何となしに感じるものだと思うんだ。」というのは、とても、異常で、気味悪く、怖い話だと思います。
 
楽山は、そのまま心が成長せず、体だけ成長して、大人になっても、同じような考え方で、宗教と信仰を、上から見ているということです。
 
楽山は、自分には、心霊が分かるっぽい、という、特別な感受性があるんだ、と言いたいのかもしれないが、その誤信念からの超常意識が、訂正されず、人格形成に影響して、病質形成に至っていることを暗示している体験話になっています。
 
楽山は、笑われて恥をかいて、よほど悔しかったのでしょうか、神仏を恐れもしないで、神仏と自分の自他未分化のまま、神秘の世界に入り込める自分を自慢するかのように、また、婉曲表現で自己正当化して、我を張っているのです。楽山という人の、カルト体質の原点を思わせる話です。
 
 
ちなみに自分としては以前は、これは霊感の一種なんだろうと思ってた。でも近頃は、「心の理論」の延長上にあるという説に説得力を感じてる。相手の心を推測する機能が拡大されて、人以外の存在…仏様、神様、ご先祖様に向けられたのではないかと…。
 
楽山は、「霊感の一種」「相手の心を推測する機能が拡大されて、人以外の存在…仏様、神様、ご先祖様に向けられたのではないか」などと言っています。ここで、既に、日常を超常に結びつける妄想が、訂正不能に形成されているのです。
 
「心の理論」を、勝手に延長して、神仏を、分かる、あるいは、感じることと、受け取っているようです。しかし、これは、全くの誤謬であり、妄想的曲解であります。「心の理論」の延長線上に、霊感によるような神仏理解は、全くないのです。全面的に楽山の危険な妄想です。
 
つまり、楽山は、最初に述べた「心の理論」を全く理解しないまま妄想に結びつけて、楽山自身は、誤信念を持っていることに、今も、まるで気づいていないということです。
 
心の理論は、少しも誤信念を正当化してはいません。誤りは誤りと書いてあるのを、楽山は曲解して、誤信念の神がかりを、心霊によって正当化しようとしているのです。意図的ならば、悪質な詐欺の企みと言えるでしょう。
 
 
ただこの感覚は、すごくリアリティーがあるので、人類が進化の過程で獲得した「心の理論」による錯覚にすぎないと割り切ってしまえないのが難しいところである。どうもこの辺りの問題は、一生解決できなそうだ。〈了〉
 
楽山は、自らの神がかった感覚にリアリティーがあると言っています。さらに、それを、人類が進化の過程で獲得した、ゆえに、錯覚だと割り切れない、と言っています。恐怖です。
 
そう言ったにもかかわらず、一生解決できない、などと言い訳して、見せかけの謙譲を装っているのです。こういう騙し文句を出してくることを忘れないでください。これが、楽山の、だましの理路と自己正当化なのです。どうか警戒して、決して好意的に近づかないでください。
 
知恵と良心の足らない霊能者気取りの自他未分化の楽山が、自己顕示欲から、自分の霊能は学問に基づいていると言いたくて、詭弁を弄すると、こういうことを平気で言ってくるのです。この記事の虚偽性は、恐ろしいものがあります。
 
念のために申し上げますが、楽山の言に、洞察も、有益性も、深い理解も、一度も見られたことはありません。楽山の言うことは何の役にも立たないと思います。通念的な固定観念から、嘘と詭弁で、超常に飛んでゆく妄想家、それが楽山です。
 
 
*参考
「心の理論」という言葉は、何となしにスピっぽい雰囲気があるけど、検索してみるとそっち系の言葉というわけでもないらしい。専門家ではないので確かなことは言えないけど。
 
心理学である「心の理論」は心理学という学問であり、スピリチュアルっぽい雰囲気など、皆無であります。確かなことは言えないと言いながら、上では、自分の霊感みたいなもの?を進化とまで正当化しているのです。騙されないでください。
 
 
最初に引用し説明したように、私が上記のウィキペディアの記事で見る限り、「心の理論」は、全くスピリチュアルとは関係のない心理学の話です。
 
(ネットより)
心の理論(こころのりろん、英: Theory of Mind, ToM)は、ヒトや類人猿などが、他者の心の状態、目的、意図、知識、信念、志向、疑念、推測などを推測する心の機能のことである[1]。
 
正常ならば、そういう、他者の誤信念の推測と判断が出来るようになる、という話です。それを理解できない楽山は、全く学問的ではないところの、霊感話に変えてしまっているのです。宗教と信仰を語る者として、完全に失格であり、恥ずかしい妄想的自己愛性の病質者です。
 
(ネットより)
心の理論とは、他者の心を類推し、理解する能力である。特に発達心理学において、乳幼児を対象にさまざまな研究が行われるようになった。ヒトおよびヒト以外の動物が心の理論を持っているかどうかについては、誤信念課題によって調べられる。この課題で他者の信念についての質問に正答することができた場合に、心の理論を持っていると結論される。一般的に4歳後半から5歳の子どもはこれらの課題に通過することができる。自閉症患者では障害が認められる。
 
楽山は、その意を全く理解していないばかりか、注意を向けてもいません。自閉症患者と同等の障害なのでしょうか。自閉症にしては、厚かましい男です。
 
4歳後半から5歳の子どもはこれらの課題に通過することができる、という、誤信念についての課題を、楽山は、自己正当化に使うほどに、正答が出来ていないのです。楽山は「専門家ではないので確かなことは言えない」と言いながら、著しい誤謬を、堂々と披露しています。
 
「自閉症患者では障害が認められる。」・・私は、故意のペテンか、カルトに陥りやすい自他未分化だと思います。こういう心性のままであることは、怖いと言ってよいでしょう。以上より、楽山は、心の理論を持っていないと判断できるでしょう。危険人物です。
 
 
・進化心理学と「心の理論」が神と同様にプラシーボ効果を見出すのだろうか?
 
このサイトに書いていること:
意図や目的を持った知的行為者(=神)を明確に心に描く人なら、こう推論する(物語る)かもしれません。「治癒が得られたのは、神が本来持つ機能(奇跡)のおかげである」
 
キリスト教は、全知全能の神を説いていますが、それは、治癒が神の機能だと言うためではありません。神を信じれば、病気が魔法のように治るでしょうか、そんな理路も教理も、否です。今の時代の少なくとも滅多に物や肉体の奇跡が起こっていないという現実が、その根拠になるでしょう。
 
キリスト者が信じている神は、信じれば病気を治してくれるご利益の神ではありません。したがって、信仰は、プラシーボ効果でもありません。楽山という心を持たない者の妄想です。
 
楽山は、とても幼稚な神を想定して、それよりも、という、学問の味付けをしたつもりの一種のカルト思想を宣伝しています。警鐘として、はっきり繰り返します。楽山に騙されないでください。行き着くところは、極めて危険です。
 
楽山は、シャロームと同様に、無反省に妄想正当化のために詭弁を弄するペテン師であり、宗教についても、学問についても、語る資格などないと思います。
 
キリスト信仰の立場からは、明確な敵対者として、反キリストとして意識して、私のブログ等々を介して、警戒情報を敷衍してゆくしかありません。どうか、楽山を相手にしないでください。楽山に関わらないでください。楽山に近寄らないでください。危険です。
 
 
キリスト教とキリスト信仰は、むしろ、この地上に溢れている嘘八百の超常カルト妄想に囚われることからも、楽山のような軟派カルト宣伝者の教祖願望からも、人間を解放し、人間の学習と成長を促し、より人間として相応しい温もりと潤いを求めるためにあります。
 
キリスト信仰は、けっして神がかりの感覚や奇跡や境地などではなく、人間として学びながら歩んでゆく地道で一途な道です。その歩みを支えるのは、聖書を読むことからの、キリストからの愛であり、キリストへの愛であります。
 
 
誤謬 妄想

誤謬 妄想
 
 
(2019年03月31日)
(2021年03月02日)
(2022年03月08日、再録+加筆)
 
 
 
  妄想(疑心暗鬼)
 
見えなかったものが
ぼんやりと見えてくる
閉ざされた沈黙の奥に
歪んでいく闇がある
ぼんやりとしか見えなかったものが
血を引くように
薄暗い
顔に近づき
不明の表情を持ち
青白い
体になり
地を離れ
次から次へと
倒れ込むように重なり
命のない眼が訴えるように揺れ
色が揺れ
熱を帯びて
息がさまよい
口が開いて
黒ずんだ肉を求め
吐き出されたものが
輪郭をあらわにするとき
爛れた粘膜を貫いて
暗闇から
鬼の目が光る
 
 
  不眠と対抗(一部)
 
危ない情動を青白い顔の端末に隠して
先祖のぶら下がりの血の重み
妄想の救い難い正直さ
あらゆる血の徘徊を
飲み込もうとして咽頭が裂ける
薬で癒されぬ重い風の迷いの中

無理な睡眠に逃げていこうとする
無理な答えに問いに
また悪夢から悪夢へ
のめり込む遊びの前に
明日はすでに数え始めている
眠れなかったとは言えない速さで
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
元々妄想癖のある楽山が、宗教や、カルトや、超常アニメ、などを好むのは、他に何も出来ないことからの必然かもしれません。著しく現実感を欠いているから、今も、いつものように好きなことをやっているつもりなのでしょう。人は人、自分は自分、・・その自分の狂気に、今も気づかないのです。
 
 
 
私の「ウソの国ー詩と宗教」ブログ:
 
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   楽山の自己讃美2
 
 「第十三講 ヨブ答う 終に仲保者を見る(下)」
 (『ヨブ記講演』内村鑑三著)
 楽山日記(LD) 2021年02月06日
 
 
楽山が、ヨブを引用するのは、ヨブが正しいのに神に試されたという思い込みがあって、自分もそうだ、自分は正しい、苦難に耐えているぅ、自分は偉いぃ、という自己賛美をしたいためだと思います。執拗に、内村鑑三を、餌食にしている楽山です。楽山は、こういうことを、平気でします。
 
ヨブは、神に試されました。そして、悔い改めました。神以外に寄る辺がない信仰者だからです。楽山は、神に試されたのではなく、だまして快感を得るという自業自得の沼から、おめいているのです。最も神にも人にも憎まれる因業の者です。
 
 
「第十三講 ヨブ答う 終に仲保者を見る(下)」の要点を抜き出しつつメモ。
第十七章の研究
ヨブは「今や罪の故ならずして死せんとしている。友はそれを罪の故と断定して彼を責めている。しかし神は彼の無罪を知り給う。しかり神のみが彼の無罪を知り給う」
 
神の前に無罪の者はいません。ヨブは、自己正当化から、神によって試され、最後には気づいて、塵・灰の中で悔いて、信仰を回復します。
 
 (ヨブ記、旧約聖書)42:6
それでわたしはみずから恨み、
ちり灰の中で悔います」。
 (ヨブ記42:6、旧約聖書)
 
楽山が自己正当化をすることと決定的に違うのは、楽山には微塵も悔いる心が無いということです。ずっと、自己正当化だけなのです。楽山は、神に試されたのではなく、自らの悪意と欺瞞の罪性と因業によって壊れているのです。
 
 
「ヨブは神が罪なき彼を苦めつつある事を認めてこれを怨じながら、今また同一の神に無罪の証明を求めている」
 
楽山は、どうしても、ヨブを罪がないのに苦しめられたと決めつけたいようです。ヨブは、豊かな暮らしのために高慢になっていた可能性があります。また、ヨブ記は、試練が悔い改めによって、信仰の実となるという話なのです。
 
無罪の証明を神に求めるのは、背教でありますが、一方で、ヨブが、神以外に訴える相手がいないという寄る辺のない自らを表すところの、信仰告白でもあるでしょう。信仰者は、神に無罪の証明を求めるのではなく、赦しと癒しと救いを求めるのです。
 
楽山は、無反省・無責任の自己中でありながら、無罪であるかのように高慢で、神に対しても、人に対しても、欺きを表し、反キリストであることを自ら証明しているのです。自己正当化のために、ヨブ記を、無罪なのに神が苦しめると言う楽山は、聖書をも誤読し曲解しています。
 
楽山が、悔い改めることがなく、いわゆる汲むべき情状酌量の余地が、まるでなく、悪と罪と偽善の実績を積んでおきながら、神に対して、ヨブを引き合いに出して、自己正当化するなどは、信仰以前に、まず、人間とは思えないことなのです。
 
 
神は人の罪を裁く。「この時人の側よりして、仲保者を要求する心は当然起らざるを得」ないが、人のために神に対して弁ずることができる者は「神自身」以外には存在せず、したがって「同一の神が我を責めかつわがために弁護す」ることになる。
 
楽山が、妄想的自己中の反キリストであるのは、ヨブという聖書の人物を引き合いに出して、無罪だと自己正当化するような、罪人の自覚が全く見られない自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)だからです。
 
(ネットより)
仲保者
〘名〙 神と人との間の宥和(ゆうわ)媒介をする人。イエス‐キリストをいう。
 
神が、神をなだめるような理屈に、楽山は、賛同しているのでしょうか。実に、神を対象にして、ぬけぬけと保身の正当化を図る冒涜者らしい話です。楽山は、自分が神だから、自ら仲保者となって、自らを救うと言っているのでしょうか。笑止です。
 
だとすれば、楽山の仲保者は、キリストでもなく、神でもないこと、即ち、救われる理由など全くないことを、楽山自身が語っていることになります。楽山の自尊過大が招いているところの、宗教的に重篤な病態が、ここに表れています。自己満悦のための聖書の悪用は、神も最も嫌うところでしょう。
 
 
「まことに人は神と争いて苦むとき、我を苦しむる神の所に往くほかに逃げ場所はないのである」
 
こういうことは、どうしようもなく苦しい時に、なぜ?と神に問いながら、救いと癒しを祈りながら、やはり、神のみに寄って依ってゆく信仰者の態度なのです。信仰者には、他にないからです。信仰の「し」の字も知らない楽山は、詭弁で邪魔をしたいだけです。
 
楽山は、神が苦しめ、神が救うというパラドックスに興味でもあるのでしょうか。神は、人に試練を与えることで成長を促しますが、その試練を完全に無視して、文句だけを言っているのが、楽山です。無反省・無責任で悔いる心の無い楽山が、試練の自覚もなく、救いも拒んでいるだけなのです。
 
 
「イエスを称して最大の無神論者という人がある」。最期に「わが神わが神何ぞ我を棄て給うや」という嘆きを残しているからである。しかしこれによって「多くの患難悲痛にある人々が彼によって救わるるのである」「そは「最大の無神論者」は実は最大の有神論者である」
 
無神論=有神論みたいな逆説的な書き方に、楽山のような、不思議・超常・ホラー大好き人間は、魅力を覚えるのでしょうか。罪ある人が、罪を認めて、信仰の義を与えられるということに気づかず、神に不満だけをぶつけている楽山は、足らざる者らしく、ヨブ記の字面と言葉遊びしているだけです。
 
ここでの無神論は、神はいないと、楽山などが言うのとは、全く違います。楽山が信仰を理解できないことが表れています。神を信じているからこそ、神に、なぜ?と問わずにいられないことを、理解できない災いが楽山です。ヨブではなく、書くことで、楽山が、神の敵、救いの敵となっています。
 
神亡きがごとき地上に救いを求めるヨブの信仰であり、それを悔い改めに導いて生かす神の話なのです。安い辻褄で、神がいるなら悲劇が起こるのはおかしい、などという傲慢で安易な見なしを学者気取りで言ってくる楽山には理解できないことです。
 
反キリストの楽山は、それらしく、自分が何をしているか、まるで分かっていません。ここまで、悪意で、神と信仰を汚して、何が得られるというのでしょう。楽山が手にするのは、誰も近づいてはいけない異常人格の自己満足だけであり、楽山は、自らの鼻をほじって笑っているだけなのです。
 
ヨブ記は、罪のないヨブが試される話ではなく、人間の罪と信仰の話であり、また、ヨブが富を回復するのが救いではなく、ヨブが悔い改めて信仰を新たにすることが救いなのです。楽山は、神と取引でもするような高慢な立ち位置が目立ち、恐れも共感もないことが、ここでも表れているのです。
 
 
「さりながら義しき者はその道を堅く保ち、手の潔浄きものはますます力を得るなり」(第九節)に注意。
「罪のためならずして大災禍に逢える彼が、その大災禍の中にありて正と義の勝利を確信したのである。ヨブの偉大よ! またヨブ記著者の偉大よ!」
 
 (ヨブ記、口語訳)17:9
それでもなお正しい者はその道を堅く保ち、
潔い手をもつ者はますます力を得る。
 (ヨブ17:9、旧約聖書)
 
まだ自己正当化を続けるヨブの発言です。ヨブは、正義を貫いたのではありません。正義は、神のものです。人が自らを正義と思い込むようになるから、神に文句を言おうとするのです。そういう罪は、人間一般の罪であります。ヨブは、最後に、神によって、悔い改めたのです。
 
楽山は、悪と罪と偽善を貫いています。悔い改めることもないのでしょう。楽山は、反省もせず、悔いることもなく、文句ばかり言って、自己正当化だけをしているために、ますます神にも人にも憎まれる途上であります。
 
楽山は、どんどん、人格障害からの悪意が表れ、サイコパスらしくなってきました。引用にも、引用した者の意図は表れてくるのです。楽山は、他者を書いたつもりで、寒くなるような自らの悪意を漏らし続けるのです。無神教と背教の宣伝者、楽山に、誰も関わらないことだけを願ってやみません。
 
 
「神は最後まで義の味方であって悪の敵である。われらの求むべきは義に歩むの生涯である。自身神の道に立ち正義公道の命ずる処に歩むの覚悟あらば、我らはすなわち大磐石の上に立って安らかなのである」
 
人が、"義" と言うとき、その義が、その人の判断に過ぎないことを弁えるべきです。「義に歩むの生涯」「自身神の道に立ち正義公道の命ずる処に歩むの覚悟」「大磐石の上に立って安らか」などは、楽山は好むのでしょうが、私は、豪語が過ぎて、食傷気味であります。
 
悲劇と艱難の前にある人に、正義に歩め、などと言うのは、乱暴であります。ただ、なぜ?・・と、神に祈ることで、忍耐し、待ち望む信仰者たるを得るのが精いっぱいでしょう。
 
豪語は、偽牧師のシャロームや、ペテン師の楽山のような、利得だけを考えるような、心の深みのない偽善者の好むところです。信仰者は、ただ、正直に祈るべきであります。
 
 
「さわれ失望中に一閃の希望ありて、ヨブ記が失望の書にあらず希望の書たることを知るのである。一閃また一閃、遂に暗黒悉く去って光明全視界を蔽う処まで至るがヨブ記の経過である」
 
「一閃の希望」ではなく、神の絶対と、人の不完全を対照させて、ヨブや友人という信仰者に、また私たちに、ありがちな浅はかな見なしや自己正当化によって、人の偽善と罪を浮き彫りにするところに、ヨブ記の意義があるのです。「光明全視界」は、大袈裟だと思います。それは、神のものです。
 
 
この講演を読むと、夜明け前が一番暗いだとか、闇の底に光があるということがよく分かる。
 
楽山は、何も分かっていないと思います。闇の底に光、などと讃美しても無駄なのです。わざとらしい芝居、吐き気がします。楽山は、嘘を吐き、詭弁を弄して、闇に棲み、光を無視し、楽山の言う丁寧語のごまかし言葉では、スルーして、逃げまくっているだけです。
 
闇の底というのは、闇を経験し悔い改めて神を知るという意味なら分かりますが、闇をずっと行って掘り下げれば光が見えるという意味ではありません。楽山の世界には、いかにも気安い嘘が闇を覆い尽くして、光をさえぎっているだけです。
 
 
「人を相手にせず、天を相手にせよ。天を相手にして、己を尽くし、人を咎めず、我が誠の足らざるを尋ぬべし」という西郷隆盛の名言も思い出される。人に理解を求めるよりも、神と向き合う方が大切であるし、尊い。
 
楽山は、天を相手にしたいのでしょうか、神と向き合うのでしょうか。たちまちのうちに燃え尽きて消滅するでしょう。天、そして、神とは、そのような存在です。安い豪語など通用しないのです。「尊い」などと、愚かな。楽山の嘘っぱちの本性が丸出しになってきました。
 
西郷の言であるなら、それは、大きな視野と立場を持つことを言っているのだろうと思います。それを「人に理解を求めるよりも、神と向き合う方が大切である」などと、実にバレバレな嘘の豪語に短絡して、他者無視の楽山自身の正当化を図っています。低級です。
 
楽山の人格の低格化と荒廃が、さらに進んだと見るべきでしょう。まさに、サイコパス全開か、と同時に、楽山の底も見え見えになってきます。楽山は、生まれて育って、今まで、一度も、真実を語ったことがないような気がします。
 
 
ああそうだ。論語には「人の己を知らざるを患(うれ)えず、人を知らざるを患うるなり」という言葉もあったのだった。
友に理解されないことを嘆き、苦しむヨブをみていると、ヨブ記にはこういうテーマも含まれていそうだ。
 
「ああそうだ」が、白々しい、大根役者の三文芝居、そして、様々な魂胆を抱えている楽山です。楽山は、人が自分を知らないことを、人に理解されない自分の天才ゆえ、とでも思っているのでしょうか。背筋が寒くなります。
 
他者の言葉を歪曲して「ああそうだ」と悟ったかのように、自らを高めようとするとは見苦しい限りです。楽山は、知られるべき実績ゼロの病質者です。楽山が、罵倒されることはあっても、誰にも理解されることはないと思います。それが、楽山の因業です。
 
また、楽山は、人を見下しているので、人を知らないことを憂えてなどいません。こういうことが、3年にわたって続いているのです。楽山の厚顔無恥は、悪化して、楽山を、ますます見苦しくしてゆくだけなのです。楽山には、しんみりとした悲しみの情がないと思います。
 
楽山の、中立・中庸芝居も、言い方が変わってきて、そろそろ限界のようです。右翼の、しかも、変質者の楽山が、崩壊しながら、牙を剥いてくるでしょう。児戯に等しい詭弁ですが、自己愛による訂正不能の性質を持っているので、とても危険です。
 
今回も、気持ち悪い楽山の文章でした。終わりなき欺きのようです。楽山に関わっている人は、直ちに逃げてください。どうか、人格破壊の楽山を相手にしないでください。楽山に関わらないでください、近づかないでください。祈っています。
 
 
 ※
 
真善美について、人は、努力することしか出来ません。その結晶が、作品となり、人生となるのです。真善美の完全な結実は、いつも、すべて、神に任されています。人は、できることをして、悲しくてたまらないときは悲しみを、神に、正直に捧げることが信仰であり祈りであります。
 
 
自己賛美の澱(おり)

自己賛美の澱(おり)
 
 
(2021年02月07日)
(2022年02月08日、再録+加筆)
 
 
 
  覚えてしまった
 
空腹を覚える前に
食べることを覚えてしまった
夜の澱粉質の中を
重く泳いでいる
目指す島は
秘密の酵母に託されていて
見つからない
放蕩の鍵
泥酔の臓腑どもは
消化しきれず
騒いでいる細菌どもが
恐れている荒野は
無機質の誕生の前に
渇くことを覚えてしまった
 
 
  新しく古く
 
新しいことが鮮やかだとは限らない
陰で傷むこと
人知れず壊れること
死ぬことであるかもしれない
しかし新しいことに変わりはない
古さに戻ることはないのだ
古いことが温められているとは限らない
並んで咲く花壇もなく
捨て去るための焼き場もなくて
行方知れずだったり
行方をたずねるすべもないまま
たとえどんなに変わり果てても
虚名と無名の湖の底に
しかし時折今の水面に唐突に波を立て
驚くときすでに沈みゆく
もはや手の届かない
深い深い澱(おり)の中に
せめて驚く前に目を留められたら
次々に古くなってゆく
新しさに沈められる前に
 
 
 
 楽山のツイッターですが
 
★こも/楽山日記3
「私とトラブルになった人のヤバイ個人情報集まるのよねー。」
これは情報収集能力を誇ってるのかもしれんけど、見方によっては、「私たちは、本人の許可無く、個人情報を横流ししてます!」という自爆になってるね。
 
誰と誰のトラブルかはさておき、批判には本人の許可は要りません。自爆ではありません。迷惑で有害で病識のない楽山に対しては、トラブルの情報を限りなくドンドン書き込んでほしいと思います。詭弁屋で嘘吐きの楽山は、言論の世界にいてはならない人です。
 
★こも/楽山日記3
ちなみに、かつてのブログ村騒動で、もっとも驚いたことの一つが、こういうことに罪悪感を感じてないらしい信者たちが散見されたことでした 顔文字(しかめっつら)
 
楽山は、何を驚いているのでしょう。楽山こそは、無反省、無責任、無神経で、高等感情がなく、罪悪感を少しも感じていない人です。こういう人こそ、決して許してはいけないと思います。精神病質、人格障害、精神の詐欺師、異常人格のペテン師なのです。
 
 
 
 楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
楽山の「そんな風」は、平気で嘘を吐き、詭弁を弄し、単方向に気に入らないものを罵倒し、それを丁寧語で、インテリであるかのように、まじめに言っているかのように、見せかけるペテン師の生業(なりわい)に過ぎません。楽山特有の悪と偽善です。だまして悦に入る時が過ぎ去ることを祈ります。
 
 
 
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  信仰の反例
 
  より
 
キリスト信仰の、曲解のパターンをあげてみます。
 
1.悟りを得たかのような平安の薄笑み
 
イメージと雰囲気に陶酔する信仰です。信仰の初期に見られやすいものですが、そこで固定してしまうと、うわべだけ安らかな気分で、中身の罪深さを隠すようになり、偽善の方向へ向かいます。
 
2.いかにも敬虔?という控えめな態度、世辞、褒め言葉、批判禁忌
 
信仰は、控えめになることだという短絡です。丁寧語や世辞を言うようになり、偽善に偽善を返すことになるなら、自らが偽善者になってしまう可能性があります。信仰は、社交ではありません。信仰に基づく人間としての優しさや柔和は、社交ではありません。
 
3.この世を敵とするような剣幕の豪語
 
自分は信仰者だから救われ、あいつらは信仰がないから滅ぼされる、という、復讐心の信じ込みです。ルサンチマン(負け犬根性)とも言います。ざまあみろ信仰、いまにみていろ信仰です。
 
4.信仰の弱者に怒り、弱者を笑う偽善
 
弱気な人を信仰が薄いと思い、上から責めたり、軽蔑したりする心性です。それぞれ個人は、できることをして正直に祈り、結果を神に任せるのです。できることの質も量も異なると自覚するべきです。批判することはあっても、最終的に裁くのは神だけです。
 
5.何でもうまくいく、御心が導くから、という決めつけ
 
御心の深淵を、人は知り得ません。自分のしていることが正しいかどうかの結果は、神に委ねるのです。人が勝手に、神の意志と行為を決めつけてはいけません。
 
6.どんな不幸も、喜んで受けろというのか、という疑問
 
神の計画を、人は、詳細には知り得ません。不幸も試練ですが、外見的に、ハッピーエンドとなるかどうかは分かりません。殉教を思えば、最終的な裁きは、神に任せられています。全部が、この地上で、自分に分かるわけではなく、神に任せるという自覚が、神の民としての信仰であります。
 
7.信仰の戒めを守って完全になれる
 
このような信条は、神の完全を自分のものにしたいという傲慢であり、殆どパリサイ人です。信仰は、神のごとく完全になるためではありません。信仰を支えるのは、欲望や野望の成就ではなく、キリストの共感によって結ばれた絆(きずな)であります。地上で完全になる人はいません。
 
 
共感に導かれ運ばれる

共感に導かれ運ばれる
 
 
(2022年01月25日)
 
 
 
  漕いでみます
 
広さを狭さを
高さを低さを
長さを幅を奥行きを
空気を漕いでいます
少しも進みません
わかっているのです
当たり前のことだと
 
時間を漕いでいます
加速も減速もしません
進んでいる感触もありません
 
いや実は感じることがあるのです
ときに呆然とするほどに
でも大方それらは意に反していて
わかっているのです当たり前のことだと
何を為すところもなく
何を為すときもないまま
無為に過ごせば
経過においては
永遠のように長く苦しく
結果においては
まるで無かったかのように空しい
 
だから横になったり
坐ったり立ったりしながら
空しく且つ無いものを
もうしばらく漕いでみます
 
自分を漕ぐことが
当たり前のように進ませることが
できないから
 
 
  浴びる光
 
弱々しい光を浴びながら
待宵(まつよい)の影が
命の帰趨(きすう)へ落とす
一滴(ひとしずく)の収斂(しゅうれん)でもよく
 
弱々しい光を浴びながら
夜明けの朝靄(あさもや)が
次第の熱に命を捨てるように
霧散し発散するのでもよい
 
いつの日か時空と呼べる光の場が
いかに虚妄であっても構いはしない
 
真っ直ぐに進もうとしても
強い力には引かれて曲がり
手に取られ守られることはなく
逆に手を囲み
その脆(もろ)さを教え
水に取られても
吸収する何ものもなく
逆に吸収され減衰しながら
 
幾たびも屈折し
幾たびも反射して
しばしば陰り隠されそうになりながら
衰える光は
衰える光を浴びている
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
楽山は、小理屈を振り回して、相手が弱ってゆくのが快感だったのでしょう。それで自分を確認して、一生うまくいくとでも思ったのでしょうか。実際は、嘘と詭弁で、だましてきたのですから、告発され、どこに出ても恥ずかしいペテン師になってきたわけです。反省せずに正しい人は、いません。
 
 
 
 「幸福の科学」の勝訴(宏洋敗訴)
 幸福の科学とは何だろう?2022年01月22日
 
争点となった発言について、HS側の動画では説明されているが、こちらの動画では、3年前の動画のことだから忘れた、どーでもいいとして具体的に話す気はないようだ。ここはすごく対照的である。
 
「忘れた、どーでもいい」精神も、他者の意見を、ことごとく無視できる心性というより病質も、具体的に、あるいは、真剣に、話す気がないことも、楽山に、特徴的に見られることです。他者のことを悪く言えば、その悪さが、楽山自身に、最もよく当てはまる、つまり、ブーメランです。
 
しかも
宏洋氏は、訴訟を起こしたそうだ
では、
「ちなみに、自分はこの動画を見て、宏洋氏は愛と正義の人だなと思ってしまった。」と言っていた楽山が、上では、あら捜しをしているのです。いかに、楽山が、人を見る目も、さらに自分を見る目も、いい加減であるかということが分かる文章です。書けば、みすぼらしい自分を表してしまうブーメランです。
 
 
 
私の「ウソの国ー詩と宗教」ブログ:
 
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  滅裂な訂正不能2
 
 2020年06月07日
 『人類はなぜ〈神〉を生み出したのか?』レザー・アスラン著、白須英子訳
 楽山日記(LD)
 
 
前に否定されて、何も返せなかったのに、また「心の理論」のことを、前と同じように持ち出して、同じ主張をしているようです。もはや、妄想化しているのかもしれません。ひどい詭弁しか、楽山は、書けなくなっています。その評価も無視しますから、これで、言い得たと満悦する病気です。
 
『人類はなぜ〈神〉を生み出したのか?』を読了。同著者の『イエス・キリストは実在したのか?』も面白かったが、本書もそれに次ぐくらい面白い。
 
人類が神を生み出す、という題から、既に、人が神を作ったみたいな、無神論前提だろうということは分かるわけです。それを面白がるわけですから、真剣味などないということです。
 
その本を読んで、この記事を書いている楽山は、クリスチャン芝居をしたり、キリスト教の悪口を言ったり、幼稚な疑問で神不在を言い張ったり、逆に肯定したりと、言ってることがメチャクチャな、反キリストであります。書いて自慢することだけはやめられない自我の奴隷です。
 
内容はといえば、まず序盤では宗教の起源について、さまざまな仮説を紹介している。人は夢で死者と会うことで死者は今も別世界で生きていると考えるようになった、自然の脅威を目の当たりにして創造主の存在を意識するようになった、宗教による連帯団結は生存に有利であった、宗教は願望の充足のために用いられた、
 
これは、宗教の起源ではなく、楽山が、宗教を否定するために、持ち出したものです。ここに書いてあることから生まれる宗教は、例えばシャロームの偽キリスト教や、キリスト教系カルトの発想であります。
 
夢は夢です。夢での不思議物語は、人間を生かす信仰にはなりません。死者と会う・・楽山の超常ホラー趣味に過ぎません。自然の驚異・・楽山の大袈裟に走る宗教観です。楽山の好みに過ぎません。個人の生き方と命のことを、何も書けないのが、楽山なのです。
 
自然の脅威は、脅威であり、自然の驚異は、驚異ですが、それが何らかの恐れを感じるものであっても、人間を支える信仰にはなりません。楽山は、宗教に恐れしか感じないので、本当の宗教と信仰を、まるで理解できないのです。それで、慢心しているから、害毒なのです。
 
連帯は連帯であり、生活様式に影響はあっても、それを信仰と呼ぶのは、楽山のような、信仰の心を全く持たない者です。「生存に有利」「願望の充足」・・楽山の生き方を表しているようです。
 
願望の充足は、必ずしも、宗教や信仰によってもたらされません。願望には欲望が含まれることがあるから、という以上に、神を、人の願望に従わせることは出来ません。
 
楽山のような足らざる者が、上のような軽口の悪口をあげて、宗教と信仰をおとしめても、宗教と信仰は、神に対して不遜で不敬虔の愚かな者によって左右されることはなく、信仰を必要としている人々の正直さに答えて、変わることのない神から、恵まれ続けるでしょう。
 
進化の過程で獲得された「心の理論」などが宗教を生んだ等々。ここでは著者はどうも最後の仮説を支持しているらしい。
 
私の記事「心の理論」
 
「心の理論」は、進化の過程で獲得されたと楽山が書いていますが、楽山は、それを、霊感が獲得されたかのように曲解して受け取って記事を書いていたのです。しかも、今回、それを、宗教の起源として書いているのです。
 
楽山は、単なる学習障害からの無知ではなく、妄想性障害か、故意の悪意の妄想として固定している無恥ということを考えるべき人です。あるいは、背後にカルト組織があるのかもしれません。楽山は、その指示を実行していて、それゆえに、責任を一切負わないのかもしれません。実態は不明です。
 
(ネットより)
心の理論(こころのりろん、英: Theory of Mind, ToM)は、ヒトや類人猿などが、他者の心の状態、目的、意図、知識、信念、志向、疑念、推測などを推測する心の機能のことである[1]。
「心の理論」はもともと、霊長類研究者のデイヴィッド・プレマックとガイ・ウッドルフが論文「チンパンジーは心の理論を持つか?」("Does the Chimpanzee Have a "Theory of Mind")において、チンパンジーなどの霊長類が、同種の仲間や他の種の動物が感じ考えていることを推測しているかのような行動をとることに注目し、「心の理論」という機能が働いているからではないかと指摘したことに端を発する(ただし、霊長類が真に心の理論を持っているかについては議論が続いている)。
この能力があるため、人は一般に他人にも心が宿っていると見なすことができ(他人への心の帰属)、他人にも心のはたらきを理解し(心的状態の理解)、それに基づいて他人の行動を予測することができる(行動の予測)。
 
霊長類とは書いていますが、それは、ヒトやサルなどの動物の種類のことで、心霊現象や霊感とは何の関係もないことです。「心の理論」は、宗教の起源とは関係ありません。他者の正誤を見分けるという発達しうる知性のことです。楽山が、怠慢によって育て損なった能力です。
 
楽山が書いてくるのは、すべてが、書籍や聖書などの、他者がどうしたという話です。自分はどうだということを考えることが出来ないのです。それを、心の理論という心理学を曲解した話や、心的状態などという学術用語を並べて、もっともらしく見せても、底が知れており、無駄なのです。
 
楽山は、人の迷惑を省みず、聞かずに書いてきます。他者に迷惑かけることを、罪悪感がないために、全く気にしない楽山という異常人格だから平気で嘘を吐くのでしょう。楽山の妄想が、壊れた人格によって、訂正不能の妄想の方向に病理を深めているだけなのです。
 
中盤では一神教の起源について語られている。ユダヤ教は元来は多神教であり、「初代王サウルでさえ、息子をヤハウェにあやかってイェホナタン(ヨナタン)と名付けるのと並行して、他の二人の息子をバアル神にあやかってエシュバアル、メリブバアルと名付けていた」(p.149)し、エル(アブラハムの神)とヤハウェ(モーセの神)は別々の神(p.150)だったので、イスラエルがバビロニアに敗北したときには、「バビロニアの神マルドゥクがヤハウェより強かったというのが神学的結論」(p.139)となり、多くの人々が「名前もバビロニア風に変え、バビロニアの言葉を学び、彼らの神々を拝むようになった」(p.139)のであるが、その後イスラエルの敗北はヤハウェがマルドゥクに敗北したためではなく、すべてはイスラエル人を罰するためのヤハウェによる計画であり、「マルドゥクなど、そもそもいなかった」(p.140)とされて、神は唯一ヤハウェだけが存在するという考え方が生まれたという。
 
このように、字面だけゴチャゴチャ書いて、知ったかぶりをするのが、楽山です。国と神の名前を追うだけでは、聖書の理解など出来るはずはないのです。楽山には、聖書に共感するための人間らしい心がないから、こういうことをひけらかして、勉強家を気取ってきます。
 
また一神教については、ユダヤ教に先んじて、アクエンアテン、ザラスシュトラらの試みがあったが、そのどちらも長くは続かず忘れられるか変質させられてしまったとのことである。キリスト教については、初期には旧約の神と、イエスの神とは別個の存在だという考え方もあったが、「キリスト教会が唯一の司教――つまり、ローマの司教下の統治システムを法的に有効にしよう」(p.172)という意図によって、唯一神とは異なる多神教的な考え方は排除されたという。
 
唯一神信仰が、陰謀の産物であるかのように書いているのは、楽山が、唯一神信仰を必要としていないからでしょう。ならば、書かなければよいものを、自己顕示欲と、妄想のために、自分が勝ってるということにしないと気が済まないのでしょう。
 
何の役にも立たない、何の益にもならない、楽山の、独り芝居と独り言に、決して関わらないでください。上の2段落は、長い話を書けばよいというものではない、ということが分かるような、楽山という知ったかぶりの独り満悦悪です。理解していない者ほど、言葉だけ過剰になるのです。
 
楽山は、本を選んで、本を曲解して、都合の良い箇所を選んで載せているだけだと思います。何故なら、聖書についても、良いものを何も受け取らないまま、自尊から、分かってるんだという高慢だけで、書いてくるからです。過剰で無意味なプライドのゴミ捨て場になっている楽山ブログです。
 
終盤では、著者は一神教から汎神論的な信仰観を導き出している。神は唯一であり、不可分であるならば、神が創造を行う時、その材料は神以外のものではあり得ず、神自身であったことになる、創造の前には神のみが唯一存在し、不可分であれば当然にそうなる、とすれば神は神を材料として創造を行ったのであり、神と被造物とは別個のものではなく、同一である、つまりすべては神であり、神ではないものは存在せず、神はあらゆるところに遍在している云々。
 
すごい詭弁です。創造の材料も、被造物も、神だと、楽山という神がかりが決めつけて、汎神論に持ってゆこうとしています。ただの一度も、神に、キリストに、聖霊に、信仰に、巡り合ったことのない者の筆致です。
 
楽山の短絡~安楽思考は、神と被造物には厳然たる違いがあることを直観できないのです。主体と客体の区別もつかない誤認識は、それこそ、「心の理論」の育っていない病質者の症状を表しています。自他未分化~神と人未分化の我執だけで捏造した安い神細工(紙細工)です。
 
神の一神遍在論というのはあります。一人の神が、全能ゆえに、普く存在している、ゆえに、ひとりひとりの祈りを聞いておられる、という考え方ですが、学説に過ぎません。そもそも、神の存在のあり方を、存在の次元の限られている人間が解明することなど、ありえないのです。
 
本書全体を通読すると、著者の視点はテーマによって移行しており、宗教の起源については進化論的視点で語り、一神教のはじまりについては現実的政治的視点で語り、一神教から汎神論的な信仰観を導くときは宗教的神秘的視点で語っているようだ。
 
宗教を、インテリ気取りで、何学的視点で、などと言う楽山は、まず、しっかりした視点も論点も持っていません。何学を勉強しても、聖書に表された心を学ぶことがなければ、聖書を読んだことにはなりません。聖書学習の、最も避けるべき迷路を、楽山は徘徊しています。
 
今まで、楽山が書いてきたのは、幼稚な作り話か、詭弁か、いつまでも、小中学生レベルの疑問のままで、学習と成長による進歩がなく、そこで慢心してしまっているだけの、神否定の嫌がらせに過ぎなかったのです。まことに、自分を見ないということのもたらす堕落の惨劇であります。
 
楽山のようになったら正常に戻ることは困難かもしれない、と思わせる記事が楽山日記には満載です。自己愛性人格障害によって、整った説得力のある話が、まるで書けないために、自尊のためには、誇大的になり、妄想的になり、詭弁になり、寄せ集めの言葉だけになるという堂々巡りの末路です。
 
また一神教を突き詰めると汎神論に行き着くというのは、アニミズム的なものからはじまった宗教が、多神教から一神教へと移り、しまいにはまた元に戻っているようにもみえる。ものごとはなんでも円環をなすという話があるけれども、宗教もその例外ではないとすると、これもまた解脱すべき輪廻であり業であるということにならないとは言えなそうだ。
 
「一神教を突き詰めると汎神論に行き着く」・・どういう妄想でしょうか。わざと複雑なことを言ったり、しかもそれを説明しなかったりするのは、君らには分からないだろうね、という、救いがたい自慢・高慢・傲慢を表すこと、楽山は、全く気づかないのです。
 
一神教は一神教、汎神論は汎神論です。被造物まで、神に仕立て上げる楽山の混乱と迷走です。自己顕示欲によって人間性の器を潰してしまったあとに残るのは、原始反応の本能から、快楽原則のみから、自慢だけしてくるような、みじめさだけになります。楽なお山は、虫食いだらけです。
 
輪廻まで持ち出して、「ならないとは言えなそうだ」・・こういう婉曲表現が、ボンヤリ言語の典型です。楽山は、これで、決めつけでない柔和さを示したつもりなのです。言っていることの内容について、他者について、自身について、考えることが出来ないと、こういうゴミになります。
 
本書は宗教を信じ、かつ進化論や歴史的視点から宗教を判断することに嫌悪を感ずる人にとってはあまり愉快なものではないかもしれないが、その辺りのことにはこだわらず多角的視点から宗教とは何か、または神とは何かを考えてみたいという人にとっては興味深く、一読して損はない本であると思う。ちなみに自分は後者なので、冒頭に書いた通り本書は面白く読めた。
 
宗教は、信仰のためにあります。学問は、その糧になります。しかし、偏向した妄想的観念が支配している楽山のような者が、学問に関わり、本を読み、「こだわらず多角的視点」と言っているのは、まさに、楽山が、宗教憎しの妄想的確信の固まりだからなのです。
 
結局、楽山は、記事を書くことによって、神も人間も宗教も真実も、妄執からの針の穴を通して見ており、それで、通ったつもりの愚かなラクダになっていて、言い換えれば、全く多角的視点のない、妄執で出来ている、ということだけが、次から次への、明らかになるのです。
 
 (マタイによる福音書、口語訳)
19:23
それからイエスは弟子たちに言われた、「よく聞きなさい。富んでいる者が天国にはいるのは、むずかしいものである。 
19:24
また、あなたがたに言うが、富んでいる者が神の国にはいるよりは、らくだが針の穴を通る方が、もっとやさしい」。 
 (マタイ19:23-24、新約聖書)
 
この「富んでいる」は、単にお金だけでなく、楽山のように、自分は出来るんだ、分かってるんだ、知っているんだ、という、心を固定観念だらけで満たして固めている思い上がりを含んでいると思います。そういう慢心した人は、心を砕かれない限り、実に、信仰から遠いからです。
 
信仰とは神とは何かを考えてみたいという人にとっては、楽山のような無思考と偏見は、何の役にも立たないばかりか、同じ偏向を、ボンヤリ言語で、刷り込もうとする我執~企み~陰謀でしかないのです。どうか、楽山に、決して、近づかないでください。
 
もはや、私の、楽山批判は、恐らく、道に糞が落ちているを見つけて、糞を踏まないで、と読者に言っているようなものでしょう。楽山は、おびただしい病原を含んでいます。
 
楽山は、徒労と疲労と偏見と病質と絶望の宣伝者です。楽山批判は、楽山を変えるためではなく、楽山のような者に関わって訂正不能の偏見だらけになることのないように、楽山にだけは近づかないでほしいという気持ちを伝えるために書いています。
 
 
"楽山" というネーミングは、名所であるとか、縁起が良いとかで、ひょっとしたら、食堂などの施設の名前になっているかもしれません。これらは関係ありません。私が批判しているのは、自己愛性人格障害で偽善者の楽山です。
 
 
偏見は理路にならない

偏見は理路にならない
 
 
(2020年06月08日、同日一部修正)
(2021年06月11日、再録+加筆)
 
 
 
  無能の面
 
計算される数式の値として作表される片隅の一つのセルのように
あまりにも危うく日々に過ぎて
収まっては壊されやすい脆い仮面であるのかもしれない
 
歩みを止め足を踏む木彫りの面
古びた皺と凹凸は罅(ひび)と剥離を伴い
熱を押し殺し秘めた息を舞う
 
計算も予測も不能な傷の
責め際に割れかけて
なお私を離れぬ面
 
紐で括るか
内側で噛みつくか
 
(90年代か)
 
 
 
 楽山のツイッターですが
 
他の人の「宇宙戦艦ヤマト」についての霊言みたいなHS話があったとかのツイートに反応している楽山です。笑えない世界に住んでいる楽山は、いつものように、笑いに飢えています。宗教・信仰と、趣味のお笑いを混同してきた楽山です。
 
心機一転★こも楽山
@komo266
·12時間
ヤマトの話が出てるね。
「宇宙戦艦ヤマト2199」だったら、今、gyaoで無料公開してるよ。
午後10:13 · 2021年6月9日·Twitter Web App
 
楽山は、なごみ、そして、笑いたいのでしょう。誰かを、笑いのネタにして、楽しむ趣味なのでしょう。今まで、楽山が、かき乱してきた命と宗教の問題からの、無責任な現実逃避もいいとこです。楽山は、現実問題は、何も解決していないのに、平気でいられる冷血の人です。
 
趣味と真実追求の深いテーマを混同して、同じ軸の上で、ヤジってきた報いを、楽山は受けるべきです。楽山の大好きな霊言や超常フィクションと、キリスト信仰の生き方と言葉を、混同し、問題を無視してアハハと笑う顔と、命を賭した救い主を、混同し、侮辱してきたのが、楽山です。
 
 
 
(古い記事は載っていません)
 
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  知らないこと(改)2
 
 
神と神の国、私は、よく知らないです。聖書を読んで、知らない自分を弁えて、キリストを好きになることが信仰です。私にとって希望がそこにしかないからです。
 
人に、ひょいひょいと分かるような神なら、私は疑い深いので、信じなかったでしょう。
 
キリストについて、人が分かることというのは、キリストが、その最高の洞察力と共感力で、人間と交わったことだけです。
 
キリストが、二千年前そうであったように、今も、人間と神の仲保者として、同伴していることを、生きるために否定できなくなった人が、信仰者となります。
 
感動することで、止まっている人間は動き出します。それが、人間にとって、いちばん大切なことです。いつもいつも感動しているわけではありませんが、感じて、受け取り、考えて、わが身を省みて、祈る日々に、何かを学んでゆくことが、その人なりの人生と信仰の成長であります。
 
それは今も、地上の人間にとって、折々の成長として、もたらされるものであり、一気に悟るものではないので、人間において完成することはありませんが、生きる "道" となっています。
 
私たち人間は、生涯のうちに、未完成の自分と、未完成のまま地上で学んだことと為し得たことを、そのまま神に見せて、祈り、捧げて、その懐に生き、いつの日か、帰るのです。
 
 
今までに見たところの
神を知ってるつもりの偽善者とカルトの間違い~大嘘~反信仰:
 
「罪は、悔い改めなくても救われるから、気にしなくていい」と言う。実際、いかなる不祥事にも、罪を認めない。また「悔い改めは神が与える」とも言うのだが、
 
これは、悔い改めないことの言い訳の詭弁。これらは、反信仰、反キリストの偽善者の暴言である。
 
神は悔い改めを与えるにあたって、人を操り人形みたいに変身させて、他動的に悔い改めさせたりはしない。そのような記事は聖書にはない。神秘体験は、人間としての感動体験に他ならない。
 
カルトは、信条だけでなく、不都合に際しても、自分に都合の良い魔法をでっちあげる。決して本当の反省をせず、総ての不都合を、他者のせいにする。
 
 
悔い改めるのは、誰なのか、人である。人は、その人格の自由意志において、自ら悔い改めるのが信仰である。
 
「アブラハムは、神に義とされたから、どこまでも正しい」・・信仰の義と神の義の混同。
「女ではなく、他人の妻だから、情欲の教えを守れる」・・自己正当化・無罪化は反信仰。
「教えを守って完全になれる」・・パリサイ人と同じ完全欲の偽信仰。
 
これらは、キリスト教の初歩において、人間というものを、また、神と人の関係を、まるで学んでいないがゆえの誤解が、曲解から信条にまでなっているカルトの例である。
 
アブラハムだけでなく、ダビデも、キリストの弟子たちも、罪を犯したのち、悔い改めて、祖となり、王となり、あるいは、使徒となった人々です。
 
 (マタイによる福音書、口語訳)5:28
しかし、わたしはあなたがたに言う。だれでも、情欲をいだいて女を見る者は、心の中ですでに姦淫をしたのである。
 (マタイ5:28、新約聖書)
   ↓
 (マタイによる福音書/ 05章 28節、新共同訳)
しかし、わたしは言っておく。みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも、既に心の中でその女を犯したのである。
 
新共同訳は嫌いです。女 → 他人の妻、という書き換えは、キリストの教えを、守りやすい道徳に変質させる邪悪な意図を感じます。信仰は、道徳ではありません。キリストが、守れないことを承知で言っていることを忘れてはなりません。
 
それに、「女」を「他人の妻」に言い換えても、情欲は湧いてくる欲望であって、情欲を湧かせないようにすることはできない。つまり、教えを守れる人はいない。
 
ゆえに、罪なき人は、一人もいない。だから、正直な悔い改めの祈りが必要なのです。
 
これなら守れるでしょうと、易い行為義認に走れば、著しく心の問題を疎かにするだろう。
 
守れる、完全になれる、という方向性に走っては、前に、完全欲のカルトが、勝ち誇ったかのように喜んでいました。これは、神への冒涜であり、背教です。
 
完全なのは、ただ神お一方のみです。
 
 
キリストは、人間の肉体を持ち、神性と人間性を兼ね備えた御方であり、
 
私たちは、キリストの神性の表れとしての、処女懐妊、物や肉体への奇跡、復活、について、何かを理解しているとは到底言えない。私たちが人間だからだ。
 
これらの超常の奇跡に、人間の真実の心はふるえない。分かっていないし、現代では滅多に起こらないし、驚きはあっても、それは、理解できないことへの驚きであり、人間らしい感動ではなく、人間を人間として成長させることはないからだ。
 
これらについては、否定する必要はないが、史実性は不明として保留するべきである。
 
私たちが理解でき共感できるのは、キリストの人間性への共感力である。二千年前に、現代も悪の本質である偽善を見抜いて赦さなかったイエス・キリストの、人間性への慈しみに溢れた共感力である。
 
キリストは、人の敬虔の本質の有無を洞察し、罪深さを知っている人々に共感し寄り添ったのである。
 
そして、キリストは、誰もご自身を本当には理解していない状況を承知の上で、命をささげた。心ある人々は、それがどんなに孤独で、どんなに苦痛であったかに、共感して信仰に至る。
 
共感とは、悲しみと愛の情感を共にすること。真善美は、そこから生まれる。
 
 
キリストは、偽善を見抜き、神の真実のために、理解者ゼロの境遇にもかかわらず、命をささげたから、私たち信仰者は、キリストの愛と共感を忘れられず、キリストから離れられないのである。
 
キリストの犠牲から、当時の心ある人々を動かして、贖罪の教理が生まれたが、教理は信仰にとって、糧に過ぎない。何故なら、信仰と希望と愛は、その言葉自体だけを語っても、教理的な概念以外、何も表したことにはならないからである。
 
キリストの死を、罪を背負って死んでくれてありがとう、などという、軽はずみの感謝の言葉にするのは、贖罪の教理が字面の理屈になり、理屈のうわべを辻褄合わせで滑っているだけの、心無い鈍感である。教条は心の面倒を見ない・・ということの表れた弊害である。
 
 
キリストの共感力に、次は、人間が共感して、言葉を紡ぐ努力が必要である。私たち信仰者は、アガペー(神の愛)を与えることは出来ないが、キリストの死によって、そして、キリストの同伴という希望によって、アガペーを既に受けている。
 
信仰者の努力は、少なくない失敗を経て、反省し、そのたびに正直な祈りによって告白し悔い改めて新しくなることで、学習し、少しずつ成長する生き方である。
 
キリスト教は、その成立から今に至るまで、政治などによって、迫害され、利用され、また、カルトの宣伝にさえ利用されてきたけれども、
 
一方で、聖書を通して、また、心あるキリスト者を通して、言葉で表せない一番大切なことを、信仰者に、そして、非信仰者にも、キリストは、今も伝え続けている。
 
 
言葉だけで分かったつもりの教条主義、信条を捏造しているカルトや、平気で嘘を吐き、それを社交の世辞と預言者気取りで糊塗して隠蔽している厚顔な偽善者に、決して騙されてはいけません。
 
これらの者たちは、神を、本当には、信じてなどいないし、恐れてもいない。また、キリストを、本当には愛してなどいない。人を騙し、人よりも上に立つためのツールとしているのです。
 
彼らは、命をすてても・・みたいな大仰な言い方をすることもありますが、本当に命を懸けている人は、そういうことを人前で言うことについて、神への恐れのために控えるはずです。真に受けないでください。
 
彼ら反キリストたちは、もっともらしい言葉?の字面のみを武器に、超常の物語の辻褄だけにこだわり、人間の心を疎かにして、人間ならば分かるはずの理路と共感を捨ててしまった者たちです。
 
つまり人間らしさを持たず、むしろ人間を嫌っていると思われます。世辞の優しそうな言葉を使うが、共通して、敬虔、謙虚、謙遜が、実質として見られず、かつ、尊大であり、無反省で自己中心の訂正不能であることを特徴としています。
 
 
(2019年06月04日、同日一部修正)
(2020年06月06日、修正再録、同日一部修正)
(2021年06月08日、再録+) 
 
 
知らないということを知るべきなのに

知らないということを知るべきなのに
 
 
 
  無能の面
 
計算される数式の値として作表される
片隅の一つのセルのように
あまりにも危うく日々に過ぎて
収まっては壊されやすい
脆い仮面であるのかもしれない
 
歩みを止め足を踏む木彫りの面
古びた皺と凹凸は罅(ひび)と剥離を伴い
熱を押し殺し秘めた息を舞う
計算も予測も不能な傷の
責め際に割れかけて
なお私を離れぬ面
紐で括るか
内側で噛みつくか
 
 
  今は今
 
記憶は澱(おり)の底から上ってきて
臭ってくる
匂ってくる
聞こえてくる
見えてくる
触れてさえくる
ときに鮮やかな
生々しくも今は幻
記憶を再び実行することはない
今は今
されど記憶に頼らず
実行できるものは何もない
 
 
(90年代か)
 
 
 
楽山の記事
救い、悔い改め、予定について(『聖なるもの』オットー著)
2021年06月04日 楽山日記(LD) 
に対する批判について補足。
 
恵みの体験について、楽山は、
「この感覚については自分にも多少の経験はあるし、前に記事にも書いたことがあるのでよく納得できる。」
と言っていました。
 
神からの恵みの感覚は、「多少の」で修飾できるものではありません。原体験としての宗教体験であり、信仰の原初となる有無の体験です。だから、楽山は、謙虚のつもりで書いて、結果、大嘘を吐いていることがバレるわけです。分かるのではなく、分かったようなふりをすることの崩れ方です。
 
楽山が「多少の経験はある」と書いているのは、楽山のホラー超常気分の空想で、何やら神秘的な気持ちになったことを言っているに過ぎないと思います。それは、気分次第の一時的なもので、宗教的な恵みの体験ではありません。その証拠に、楽山は、変わらず、今も、反キリストです。
 
楽山は、何でも、経験している、分かっている、自分の視野に納まる、という立場で書いて、受け入れの器を演じているのです。しかし、その自己顕示と不正直によって、楽山は、さらなる不祥事を加え、こともあろうに、それを自慢する結果となっている醜いピエロなのです。
 
分かってるふうを装い、知識人を装い、他者を言いくるめようとする楽山の企みは、このように、言葉の端々に、破綻が表れ、そのみすぼらしい安っぽさが、あらわになります。命果てるまで、嘘を吐き続け、一生が虚偽になり、共感せず、共感されないペテン師、楽山の因業が表れています。
 
神からの恵みは、楽山の言うような超常体験でも神秘体験でもありません。「多少」あるとか無いとかではありません。神秘は、神の秘密であり、人が知ることは出来ません。
 
神からの恵みは、人間としての感動体験です。支えを失った者が、支えを与えられる、という、絶対孤独からの解放とでも言うべき体験なのです。
 
(2021年06月08日)
 
 
 
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