カルトの棄教3
 
 信仰も棄ててしまえばあっけないもの
 楽山のブログ。2019/6/30(日) 午前 10:37
 
楽山の仕業である可能性を濃厚に疑っているウイルスらしいものによる間欠的フリーズが続いています。これで罪悪感をいだかないでいられるのは、不都合に対して罪悪感を感じることもなく悪意の衝動的な行動に走るサイコパスの犯罪者としか思えません。羞恥心のない恥知らずです。
 
入力が遅くなるけどマウス入力を試しています。間欠フリーズと比べて、入力時、精神的に楽な方を選ぶことになるでしょう。これだけの迷惑をもたらして、平気でいられる犯罪者は、とうてい人間とは思えません。決して関わってはいけません。
 
サイコパスは、罪悪感がないから、悪いことをしても、うまくいかなくても、失敗とは考えずに、反省せず、人のせいにします。まともな情がないので、説得力もないのに、詭弁の屁理屈をこねます。いつも上から、評論家気取りで、裁き主のように、ぐだぐだと人のことばかり言って満悦します。
 
犯人は、自分もウイルスに攻撃されました、などという言い逃れをしてくるかもしれません。サイコバスは平気で嘘を吐きます。サイコパスは、罪悪感、羞恥心、悔いる心を持ちません。人に共感したり人を愛することが出来ません。責められると憎んで、仕返しすることしか考えません。
 
 
「信仰も棄ててしまえばあっけない」というのは、下にあるようにkeitaという人の言で、佐倉哲という人が引用したものです。二人とも神否定のようです。これを、楽山は、反キリストのサイコパスらしく、キリスト教と神を否定するために引用~悪用しています。佐倉哲の筆致は、楽山に似ています。
 
はたして信仰は「捨ててしまえばあっけないもの」でしょうか。決めつけられない絶対の存在を妄想的に断定するカルトや無神教カルトにおいてのみ、あっけない、と言えることです。宗教と信仰の真実の深みを何も知らないのに、この記事で、楽山は、分別もなく棄教を勧めています。
 
真の信仰は、関係であり、絆(きずな)であります。神のほうから救いの約束を反故(ほご)にすることはありません。人が救いを拒むことはありますが、あっけなく捨ててしまうことは出来ないと思います。狭き門は、いつも、狭く開いているのです。心無い楽山には見えないだけです。
 
ただ、シャロームのような、悪意が継続するような偽者は、捨てるというより、最初から、信じる気などなくて、自尊の飾りとして言葉だけ「信じている」と言い、中身の乏しさを埋めるかのように、讃美しまくったり、全く成り行きも道理も立場も弁えず、余裕ありげに振る舞います。
 
人間の最も下等な欲望に生きている自己中のケダモノは、笑いと怒りしか持っておらず、しんみりした悲しみの情がありません。だから、反省せず、不都合を無視して、人間離れに快感を感じるのです。平気で人を傷つけて、それを自らの優位と感じて満悦するのでしょう。
 
 
・「信仰を棄ててしまえばあっけないものです」 keitaさん
http://www.j-world.com/usr/sakura/replies/neo/n148.html
わたし自身の(キリスト教)棄教の経験から言っても「信仰を棄ててしまえばあっけないもの」です。これは、棄教とは無理を止めることだからだと思います。無理な姿勢を止めて自然体に戻るからだと思います。本当は何も知らないくせに、まるで何か知っているかのごとく振る舞う無理(信仰)をやめて、知らないことは「知らない」と、自らの無知を認めること。これが棄教の本質だと思います。
 
カルトは、超常を決めつけるところから始まっています。つまり、人間の手に負えないところを、決めつけて信じ込むために、無理が生じます。強く思い込み信じ込むことに、大きなエネルギーの無駄遣いをするのです。それを、キリスト教といっしょにするのは、甚だ迷惑です。
 
「棄教とは無理を止めること」と言っていますが、楽山の言は、思い込みだらけ、無理だらけです。他者のことを、とやかく言っても、自分のことについて何も気づかない楽山です。何かの忠告をしても、気づきがないのだから、当たり前のことしか言えなくなり、インテリ芝居をするしかないのです。
 
そのために、上に書いてあるように、何も知らないのに、知っているかのように振る舞う無理があるのです。自然体と書いてあるのは、不完全であることを自覚する人間に戻ることであり、必要なことですが、楽山は、妄想的に訂正不能の否定をもって語る、極めて、犯罪性の高い異常人格です。
 
楽山とシャロームは、言葉遣いは、わざとらしく丁寧ですが、徹底して自己中心です。シャロームは神の意志と行為を決めつけて、どんでん返しの奇跡で救われると言い、罪を認めず悔い改めることのない偽牧師です。
 
楽山は、不都合な一切のことを無視して、ボンヤリ言語の曖昧さで語るだけです。そうやって慢心できることこそが異常なのです。二人は、同一の成りすましかもしれませんし、どちらも、罪悪感のない、自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)だと思います。
 
 
キリスト教にも、神を思い込んで信じ込んで、神の前で祈りの体裁を整えようとする信仰者もいるかもしれません。間違っていると思います。まるで社交の礼儀のような、神に失礼なことを言わないように整えて善いことばかりを唱えても、正直な本心でないなら救われることはないと思います。
 
誰も、神の前で、立派に物が言えることなどあり得ないからです。それは、聖書の中の、胸を打ち、赦しを乞う取税人の祈りに表れているのです。それがキリストの教えであり、楽山とシャロームは、そこを全く理解していません。それぞれ、反キリストと偽牧師としか言いようがありません。
 
何度も言いますが、神の前には、精いっぱいの正直しか通用しません。祈るとき、すでに心を見透かされているのです。したがって、祈りが立派かどうかを神は見ているのではなく、人の信仰の唯一の正しさとして、正直な祈りを、神は待っておられると考えるべきなのです。
 
処女懐妊、奇跡、肉体の復活を、起こったと信じ込むことが信仰なのではありません。それらが史実であってもなくても、人間の手には負えないことゆえに、史実と信じ込んでも、人間の心には、固定観念か強迫観念が生まれるだけなのです。正直に、分からないと言うべきです。
 
これも何度も言いますが、神の完全と人の不完全を弁え、キリストと人間との交流から、キリストの共感と同伴すなわち愛を知った人間は、人間として生きて成長するために、キリストを忘れることが出来ないから、キリスト者(クリスチャン)なのです。
 
これは、観念でも論理でもなく、キリストの愛に触れて、キリストを好きになること、すなわち、愛によって絆(ほだ)されることです。だから、人間性を超えるものなど、要らないし、むしろ、信仰者にとっては邪魔なのです。愚かにも、その超常の奇跡を信じ込んでいるのが偽牧師シャロームです。
 
 
keitaさんの文章を再読してみたけど、その通りのように思う。
信仰は棄ててしまえばあっけないものだ。
宗教の教え…特にその世界観は、
信じているうちはリアルに感じられるけれども、
信じなければ少しもリアルではなくなる。
そのあっけなさは、驚くほどだ。
 
楽山は、真の信仰を知らないから、また、自身の完全欲から世界観を欲望しているだけだから、たとえ、楽山が信仰を捨てたと言っても、真の信仰は人を捉えて離しません。何故なら、共感に満ちた愛というのは理屈ではないからです。楽山が、あっけないのは、不都合な思考と記憶を捨てることでしょう。
 
信仰を捨てても、心のどこかに残るでしょう。一度、道を外れ、否定したとしても、真面目に信仰を考える人には、また、祈りにおいて、飾ったり、嘘を吐いたりした人にも、再び、罪を悔い改める機会は、いつでも与えられています。それが神の寛容です。
 
信仰は、一気に悟る境地ではなく、信仰は、学習し成長するための道です。その旅を支え続けるのは、聖書であり、キリストからの共感は、キリストへの共感となり、正直な告白と祈りとなってゆきます。神聖の辻褄など、地上の人には、理解できるものではありません。
 
自分の日常における罪や善悪についてさえ、人は、自分の言動の影響を、影響がなくなる果てまで追うことなど出来はしません。罪の自覚と善悪は、人にとって、時々に、感じることであり、完全に知ることではないのです。私たちの不完全は、ここに明らかであります。
 
あっけないのは、カルトのほうでしょう。カルトは、妄想に理屈が絡んだだけのものだからです。カルトの場合、それで救われるかどうかは根拠がないために、殆ど、無謀で投機的な賭けの持続になるのです。だから、株券のような信仰を捨ててしまうと、あっけなく終わるのでしょう。
 
以前の記事で、運命論肯定のように、自由意志を否定しておきながら、取っ払ってしまえば、などと、信じているものを、自分で取っ払うことが出来るような言い方です。何も持っていないから、楽山の忘却こそ「あっけなさは、驚くほどだ」ということです。
 
 
ついでに言えば、これと同じことは、宗教以外のことにも言える。
たとえ自分が、これには意味がある、価値があると信じていることであっても、
そういう思いを取っ払ってしまえば、とたんにそれは無意味、無価値になってしまうものだ。
 
またまた、楽山の、詭弁というか、壊れた理路の瓦礫です。一般的な話になりますが、信じていることなら、思いを取っ払うことは出来ないはずです。その、出来ない状態の自覚を、信じている状態というのです。楽山は、何も本気で信じていないから「無意味、無価値」という暴言に至ります。
 
 
この点、GO!GO!7188の歌詞は、当たってる。
 やり切って やり切って やり切って
 初めて気づいた
 ずっとこだわってたことってよく見るとすごく小っちゃい
 ほんとうにバカみたい笑っちゃう
・飛び跳ねマーチ
曲はこんな感じ(上の歌詞の該当部分)。
・飛び跳ねマーチ/GO!GO!7188
https://youtu.be/crKVjNW-aEg?t=1369
一曲まるごとだとこう。
・飛び跳ねマーチ/GO!GO!7188
https://www.nicovideo.jp/watch/sm20383667
ちなみに、こういう状況の対抗策としては、次のような考え方があるという。
「一切は無意味であるなら、自分で意味を見出せばいいのだ。
一切は無意味であるからこそ、人は何にどのような意味をつけるか自由に決定できるのだ」
意味、価値のあっけなさに気が付いたものの、虚無的にはなりたくない人にとっては、
これは一理ある考え方ではないかと思う。
 
またまた、恐ろしい脱線です。無意味であるなら、自由に自分で意味を決定できる、と言っています。無意味が本質なら、自分で、捏造してよいということになるのです。つまり、詐欺でよいと言っているのです。極めて悪質です。楽山は自分で意味を捏造する人です。
 
無意味であるなら、というのは、どういう仮定なのでしょう。本質を指して言っているのでしょうか。本質が無意味なら、どこまでも、無意味です。楽山は、何を言っているのでしょう。・・ちょっと、耐えがたいので、発散のため、ひと言、罵詈雑言、吐きます。・・馬鹿か・・
 
あとで暴言吐いたと言われそうですが、その通り、暴言吐きました。私の場合、理由と根拠を示してきた批判や意見に対して、相手の無礼なオトボケや無反応が続く場合、ガス抜きすることはあります。暴言ですから罪ですが、楽山のように無視して、やさしさ芝居するよりはましだと思います。
 
楽山やシャロームという病質者は、ガス抜きが必要なほど何の役にも立たない雑言を、殆ど発作の重積のように繰り返すのです。聞く者の理路を混乱させ、ボンヤリさせて、その深い情緒や理性を破壊してゆきます。その先には、人格破壊が待っています。どうか、この二人に近づかないでください。
 
 
((コメント欄))
 
>(シャローム)
楽山さん こんにちは
記事を読んでふと孫悟空の話を思い出しました。
まちがいかな?
あちこち、飛び回り、ふと気がつくて、どうもまたおなじところに行き着いたようだ。ふと見上げると優しいまなざしに見つめられているのに気づいた。なんと自分があちこち飛び回っていたのはお釈迦様の御手の中で、ぶつかっては止まっていたのはお釈迦様のゆびだったのだと。宗旨替えしたわけではありませんよ。(笑)
2019/6/30(日) 午後 0:38[ shalom ]返信する
 
確かに、シャロームは、学習も成長も拒否しているので、達しえたところという自覚に安穏として薄笑いを絶やさず、世界の総てが成長を求めて変転していっても、ずっと同じところにいるわけです。神の意志を決めつけて、これで大丈夫と信じ込む腐った信条の沼に浸かって、笑っていられるらしいです。
 
孫悟空のストーリーから言うと、どれだけ遠くに飛んだつもりでも、お釈迦様の、手のひらをさえ超えるものではなかった、という、悟空の思い上がりを戒める話だったと思います。つまり、それで、悟空は、絶対者を知り、恐れ、崇めるようになるのでしょう。シャロームとは、真逆です。
 
それを、遠く離れても、いつも神は自分の味方という身勝手な話にすり替えています。自己中心に凝り固まってしまうと、いくら神聖の名を唱えても、余裕の笑いを見せても、偽善になってしまうということです。それは、真っ向からの背教であります。
 
本質を何も弁えず、思想家・宗教家・聖職者のつもりでいるシャロームが、また「(笑)」をつけて、和みのつもりのコメントを入れています。真摯に批判に向き合う信仰も思慮もないので、笑って、和みの嘘芝居しか出来なくなっています。
 
シャロームの和みは、嘘を土台として、無条件に、いつでも生まれます。状況を無視して気安く笑えるのです。現実離れしたカルトというのは、反省がなく、後悔もせず、気楽に、とんでもないことを書いてきます。前に「罪は悔い改めなくても許されるから気にしなくていい」という暴言がありました。
 
キリスト信仰から宗旨替えしたのではなく、シャロームは、キリスト信仰者ではないのです。シャロームが、いくら、宗旨替えしていないと言って、いくら神を讃美しても、自尊から生まれた信仰?を訂正不能に信じ込んで、罪を認めず、悔い改めをしないのだから、堕落するプロセスでしかいないのです。
 
 
楽山とは、自己中心という共通点のために、好意的に付き合っているシャロームです。一人の成りすましの可能性もあります。シャロームと楽山に近づかないでください。キリスト信仰は自己中心とは正反対のところにあります。
 
シャロームは、総ての不都合を、楽山と同様に、無視しているから、笑えるのです、というか、笑ってしまうのです。笑っている場合ではないことが8年続いていても、分からないで、笑って済ませられるのでしょう。。
 
シャロームも、楽山も、前にコメントの遣り取りをしたことがありますが、こちらの話を全く理解できず、偏向した仲間ぼめだけを、ぶつけてきました。人間なら分かるはずのことが、分からない、そして、受け取る気がないのです。だから、今では、直接のコメントの遣り取りはしない方針です。
 
 
「またおなじところに行き着いたようだ。ふと見上げると優しいまなざしに見つめられているのに気づいた」・・なぜ、シャロームは、こういう白々しいことが書けるのでしょう。それは、シャロームが、信仰者キャラなので、悟ってるふうを装っているからです。
 
戒めの話は、戒めとして、神の救いと祈りに結び付いてゆくのですが、シャロームは、戒める神も懲らしめる神も信じていませんから、シャロームにとって神?は、いつも、シャロームの総てを肯定してくれるだけの守り神?でなければならなくなります。
 
シャロームにおいては、戒めの話も、自分が何をしても、神?が、いつも自分を守ってくれる、という都合の良い話に、ほぼ自動的に、変換してしまうのです。これは、妄想であり、カルトであり、悪魔性でしかありません。この神への冒涜は、楽山の言と、よく似ています。
 
楽山とシャロームは、嘘を吐いて、騙して尊敬を得ようとする病質者です。それは、神と人の違いを弁えず、不正直であり、自己正当化することであり、聖書において、神が最も嫌う人の姿です。キリストによって痛烈に批判されたパリサイ人と同じ人格障害者です。
 
真の神は、このような身勝手をゆるしたでしょうか、否です。聖書を読めば、その多くの記事において、明らかなのです。自分で決めつけた聖三位?と信仰?を絶対として慢心し続ける者も、否定し続ける者も、神が赦して信仰の義を与えることは永遠にないということです。
 
 
魂胆は嘘の培地

魂胆は嘘の培地
 
 
(2021年)
(2023年01月13日、再録+加筆)
 
 
 
  偽物
 
真実を悟っていると少しでも思うときには
たとえば信仰について
いちばん信じていることに
自ら偽物の称号を与えてごらんなさい
少しはへりくだった気持ちになれるでしょう
少しは自ら信じることに嘘がないか
内省してみる気持ちになれるでしょう
それを謙虚と呼びたいのです
 
人は人が知るべき真実に
近づき触れる機会を与えられていながら
見かけの美しい言葉で飾らなければ
理屈で辻褄を合わせ思いで納得しなければ
真実として人前に出せないような気がして
どこにも響かない空気の流れや
派手な排泄物にしてしまうのです
 
 
  微生物
 
疲れたときには伝説が一つ
散ることも咲くこともなく
終わりのない物語の
序曲と余韻に
しおりを挟んで
明日への冷ややかな虚構と
原稿から本棚への疑問符とともに
すうっと胸に落ちるだけでいいのに
 
あたり一面に
眠らない微生物が
静けさを沈黙に変えて
沈黙の耳を敷き詰め
殺すでも生かすでもなく
責めるでも癒すでもなく
渇きの荒れ野に放り出す
 
姿は見えず消え去ることもなく
まだ終わらない一日を問い続ける
物言わぬ声
問いに問いを重ねて
耳に止まない歌声は
いつしか私の中にいつも住んでいて
昼となく夜となく
微生物たる証を求める
微生物たる私を求める
 
 
  偽りの時間
 
巷に時間を売る商売の流行るころ
深緑の儒学の森を歩いて
樹木のまばらな所を見つけて
根っこに腰掛けた
 
地面が枯れ葉に覆われているのを
おかしいとも思わないで
拾った汚い画集を
逆さと気づかないまま
ゆっくり開く動作をしながら
吸えるだけ空気を吸った
 
そして死なずにいてくれた人たちのために
用意することのできなかったものを
死んでしまった人たちのために
背負うことのできなかったものを
偽りの指で数え始めて呟く
ごめんよ
まだ何気ない一言で
壊れてゆく人がいる
戻れない洞窟もたくさん残っている
 
ボンベが閉められたらしい
この森についていえば作り物かどうかを
誰も知らずに来ている
巷の時間を買えなかったんだ
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
 
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら 誤ったら 素直に詫びて 自分 正さなくちゃいけない」「それが出来て 初めて人間だと それ出来ないなら 人ではないと」
「嘘ばかり 重ねる君よ 保身だけの 卑怯者の君よ そんな君は 魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと 最大限の反省と共に 開いた出店を 畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
嘘ばかり重ねる罪と偽善と崩壊を「これも一種の、人間の性なんでしょうかね」で済ませようとする無反省の楽山は、恐らく一生、反省、とほほ、などと、ふざけて書いても、本当に反省することはないようです。しかし、無反省で無理解のまま、言葉だけ書いて済む世界など存在しないのです。
 
楽山の人生観を、その言葉と意志から見てゆくと、とても、貧相で悲惨です。うわべの世辞で好感を得て満悦し、都合が悪くなると嘘と詭弁で混乱させて満悦し、誰とも心が通わないのにインテリ気取りで満悦する、という、中を見れば何もない、実質、作り話の空想に過ぎないのです。
 
自己愛性人格障害者~サイコパスは、正体がパレれば、何の魅力も能力もない人です。自己顕示欲のために、高い位置に立っているつもりで気取って書いて、醜い正体をさらしても、何も気づかないのです。人類の敵は、○○主義ではなく、いつの日も、いつの時代も、罪悪感のないサイコパスなのです。
 
 
 
私の「ウソの国ー詩と宗教」ブログ:
 
(古い記事は載っていません)
 
http://st5402jp.livedoor.blog/
(古い記事もインポート済み)
 
ツイッター:
(ここは、たまにブログ記事をリンクする程度)
 
 
ブログ村ランキングリング:INポイントが付かない。
にほんブログ村 ポエムブログ 暗い詩へ(文字をクリック)]
にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ(文字をクリック)]
 
ブログランキング