ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

タグ:楽山

 
  超常の神、日常の人 2
 
 
人には手に負えないところの
全知全能・絶対完全・永遠不変
という神の性質は
人が神を恐れるためにあります。
 
人がそれらを身につけるためでもないし
理解するためでもありません。
 
人は、神の性質・意志・行為を
推測したり想像したり
行動するために判断したりすることはありますが
それは経過と結果を神の前に祈りとして捧げて
人が人として反省し成長するためであります。
 
全知全能ではない人は
限られたこの地上で
人に限られた能力しか持たないのだから
全知全能の神を理解することはないのです。
 
神は、こんなだ、すごいだろ
と言うのが伝道ではありません。
神のすごさを理解できる人はいないのです。
 
また
神のすごさを信じ込んで
人は何を受け取るのでしょう。
 
すごい神が味方だとでも思って
強くなりたいのでしょうか。
これは
強い自分を誇ることであって
神を恐れる態度ではありません。
 
愛と寛容の神は
妬む神でもあります。
金の偶像を否定するだけではありません。
神を思い込む心の偶像をも妬まれるでしょう。
 
神を恐れる態度は
愛と寛容の神だけを信じることだけではなく
戒める神と懲らしめる神を恐れる態度です。
神の妬みを買わないように生きるのが信仰の道です。
 
戒める神と懲らしめる神の妬みを恐れることは
神のごとく完全になる欲望ではなく
神のごとく完全になれないことを弁えるためなのです。
 
道徳を守ったからと
施しをしたからと
誰かを助けたからと
罪深い自分を忘れるくらいなら
 
道徳を守れない意志の弱さを
施しのできない貧しさを
誰も助けることのできない臆病を
そのまま祈り、神に捧げるほうが
まだマシな信仰なのです。
 
 (マタイによる福音書、口語訳)18:9
もしあなたの片目が罪を犯させるなら、それを抜き出して捨てなさい。両眼がそろったままで地獄の火に投げ入れられるよりは、片目になって命に入る方がよい。
 (マタイ18:9、新約聖書)
 
 (ヨハネによる福音書、口語訳)9:41
イエスは彼らに言われた、「もしあなたがたが盲人であったなら、罪はなかったであろう。しかし、今あなたがたが『見える』と言い張るところに、あなたがたの罪がある。
 (ヨハネ書9:41、新約聖書)
 
神について、信仰について、
見える、知っている、分かっている、と思い上がることは、
罪であり、傲慢であり、信仰に反します。
 
揺るがない信仰、そして、
固く信じる、ということは
信仰の忍耐強さを表しています。
思い込みを固くすることではありません。
 
信仰の忍耐強さを支えるのは
キリストの同伴という共感であり、
キリストの愛であり、キリストへの愛に他なりません。
 
 
       きずな・共感

               絆(きずな)は共感
 
 
(2020年05月10日)
(2021年05月12日、再録+)
 
 
古い古いポエム
 
 
  私の青春は
 
かみ合わなかった歯車
 
倒れるときの独楽(こま)
 
誰もいない部屋で
まわり続けたレコード
 
最後までからみもせず
ほどけもしなかった
君と 僕の いと
 
気の抜けた苦ビール
 
ふためと見られぬ顔をしていた
酔いつぶれた翌朝の
鏡の中の気分のように
 
電線にかかった凧(たこ)の糸
ちぎれて 汚れて
それと気づかれることもなく
今は春風に揺れている
 
 
  きぼう
 
 
そらを みれば
 
そらに すわれ
 
こなごなに なって
 
きえて しまいそうで
 
 
ひとを みれば
 
ひとみの おくに すわれ
 
すきとおる こどくの なかで
 
いきが たえて しまいそうで
 
 
いつのまにか
 
うすい いのちに さく
 
はなの あいだに
 
ただよう かおり まつみの
 
ほのかな
 
ぬくもりのかげに にている
 
 
(90年代か)
 
 
※ いい気持で結びたかったのに、性懲りのない楽山のツイッターで、また、汚れてしまいますが、
 
心機一転★こも楽山
@komo266
·1時間
もう一つ、付け足してはどうだろう。
④ ①②③を理解しない相手には近づかない事
引用ツイート
Testosterone
@badassceo
 · 3時間
①自分が間違ってるかもしれないと常に自分を疑う事
②世の中には絶対的に正しい意見なんてないと認識する事 
③立場が変われば正義も正解も変わると意識しておく事
視野が狭い人、偏見や思い込みが激しい人、他人とよくモメてしまう人はこの3点を覚えておくだけでだいぶ改善するのではないでしょうか
 」
午後9:29 · 2021年5月11日·Twitter Web App
 
⑤ 視野が広く偏見も思い込みもなく他人とうまくやってるつもりだけの楽山には、近づかない事。
 
楽山は、訂正不能の自己愛のために、自分の間違いに気づかず、視野狭小にて理解力がなく、正義も正解も固着した偏見のままで、深く考えることができず、どこまでも、笑いながら、人を不快にしてしまうのです。まるで自覚と自省がないのです。舞い上がり方が、とても陰険です。
 
楽山は、人間の心と理路が育っていない自己愛性人格障害なので、どこまでも、人のせいにして、気づかない人です。因業とでもいうか、芝居をするしかない変質者で、反省せず、どんなに恥ずかしいことになっても、書くことをやめないのです。舞い上がり方が、とても陰険です。
 
楽山が、他者を悪く言うとき、その悪口は、ことごとく、楽山に当てはまります。それでも、楽山は、書かずにはおれないのです。わざわざ、自身の醜さを、自分で、あらわにしてゆく、という、恐らく不治の、体質的な病です。のぼせ方が、さらに、舞い上がり方が、とても陰険です。
 
本性がバレてしまって、それでも、書いて、楽しいのでしょうか、楽山の保身と他罰のリピートについては、理解不能です。未熟と不足と欠損のまま、修正不能だから、人間としての、どん底の評価が変わることもなかったし、今後も続くのですが、舞い上がり方が、とても陰険です。
 
 
(2021年05月12日)
 
 
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  楽山の滅裂理路
 
 道から外れることはできるのだろうか?
 (『神皇正統記』北畠親房著)
 2021年05月09日 楽山日記(LD)
 
 
いつものように詭弁だらけで、さらに、理路が混乱し、収拾がつかなくなっている楽山です。元々、ベースとなる宗教の理解も共感もなく、思いつきだけで自己満悦を求める姿勢には、真実の道など、通ることはないのです。
 
楽山は、理屈を言っていてもまとまりません。すっきり理路が整うことがありません。平気で、嘘を吐き、詭弁を弄して、人を惑わしてきた報いなのでしょう。
 
*道とは?
『神皇正統記』を読んでいたら、気になる文章があったのでメモしておきたい。
古の聖人は「道からはかりそめにも離れてはいけない。ちょっとでも離れることができるようなものは道とはいえない」と言っている。
(『神皇正統記』北畠親房著、松村武夫訳、教育社、1990年、p.111)
 」
前々から、「『道を踏み外してはいけない』とか、『真理に反した行いをしてはいけない』というけれど、そもそもすべてを統べる真理、法というものがあるとして、そこから外れることなんて可能だろうか? 
 
「道を踏み外して」「真理に反した」・・楽山が、継続的にやっていることです。
 
そして、早速、「真理、法というものがあるとして、そこから外れることなんて可能だろうか?」と、真理に反することを話題にしています。楽山は、ずっと、外れっぱなしです。
 
楽山のような単純断定や幼稚な詭弁では、言うまでもなく、信仰は理解不可能ですが、そうでなくても、信仰は、道とか真理とかいう言葉の概念だけで把握できるようなものではありません。
 
それまでの体験があり、聖書を読んで、キリストの共感を感受し、キリストに共感することから、信仰は始まります。今まで知らなかった温もりを救いとして生きるのが信仰の世界です。
 
 
私たちが、聖書と、経験から、何を考えられるかと言えば
 
全能の神を知るということは、
神の完全に対する人の不完全を知ること以上ではありません。
そこに人の罪に気づく必然があります。
 
また救いを知るということは、
主イエスの共感を知ること以上ではありません。
そこに神の愛を知る必然があります。
 
不完全な人間は、
神を恐れ、罪人の自覚を持ち、
キリストの同伴を得て
共感という恵みのうちに耐え忍んで
この地上を生きるのです。
主イエスの共感は神の愛であります。
 
 
外れることができた時点でそれはすべてを統べる真理でも、法でもないことになるのではないか」という疑問を持っていたので、
 
いいえ、楽山独りが、外れてゆくのであり、外れているのです。真理とか法とか、楽山らしい見栄で硬い熟語を使っていますが、要は、人間らしい良心を持っているかどうかということです。
 
楽山は、またしても、屁理屈で、真理は相対的だから外れてもいいと言いたいのでしょうか。外れていいなんてことはないが、人間は、しばしば、外れてしまいます。
 
それが、楽山には無いところの、現実認識です。そこで、為すべきことは、自分を振り返り、立ち直れるかどうかであり、楽山のように外れたことを正当化することではありません。
 
良心があれば分かることです。前から言っていますが、楽山には、自己愛性人格障害のために、良心がなく、修正能力がないので、外れることを、自己正当化の切っ掛けにさえしてしまいます。結局、こんな初歩的なことも楽山は分からないほど未熟な人格なのです。
 
「ちょっとでも離れることができるようなものは道とはいえない」という一文は我が意を得たりという心持ちがする。
 
人間が歩むべき "道" でも、人間は不完全で罪深いのですから、道を離れることはあるわけです。したがって、そこから、どう立ち直るかが問題なのです。
 
楽山の「我が意を得たり」は、「道とはいえない」が都合がいい、というだけの意味です。高等感情と理性が鈍麻している楽山は、信仰の道を否定し、勝手に道ではないものに真理や宗教を当てて、また、自己を誇大化して見せたいのでしょう。
 
良心がないと、人間とは思えないほど精神が、病的に変質して、詭弁に走ってゆくという例となります。楽山の言葉、特に褒め言葉には、誠意がなく、代わりに、詭弁が隠れているのです。
 
もっともこれはこの一文だけに注目した自分の解釈であって、この文章全体の意味は、君に忠、親には考を尽くすのが人の道であって、これに反してはならぬ、もしそうするなら相応の報いがあり、無事には過ごせぬだろう、人は道から離れては生きては行けぬものなのだということなのだろうけど…。
 
「一文だけに注目した自分の解釈」・・だったら、書くな、ということです。あとは、言い訳が見苦しいだけです。楽山は、この「自分の解釈」というところで、恐ろしい訂正不能と自己中を、漏らすように、表してくるのです。どこまでも、詭弁に走る楽山の悪意の因業です。性懲りもないところです。
 
◇◆ 追記 2021.5.9 ◆◇
*詩編
この記事を書いたあと、ツイッターを見たら、詩編139が話題になっていた。
どこに行けば/あなたの霊から離れることができよう。/どこに逃れれば、御顔を避けることができよう。/天に登ろうとも、あなたはそこにいまし/陰府に身を横たえようとも/見よ、あなたはそこにいます。
(詩編139:7-8)
胎児であったわたしをあなたの目は見ておられた。/わたしの日々はあなたの書にすべて記されている
(詩編139:16)
なんとなしに、お釈迦様から離れることのできない孫悟空を連想してしまうが、人は全能者の定めた範囲から一歩も外にでることができないというのはその通りではあろうと思う。
 
楽山は、あからさまに、嘘を吐いています。ここでは、楽山は神の常在を支持する理路など持たないのに、離れられないようなことを書き、上のほうは、離れるような道なら、それは道ではない、という正当化に結びつけようとしています。
 
全能者の定めた範囲というのが、楽山に分かるのでしょうか、否です。この詭弁によって、宗教は、人を縛るんですよ・・という先入観を吹き込みたいのです。汚い。宗教は、人を縛るのではなく、それこそ楽山のような者から守るためにあります。これを魂の解放といいます。
 
身勝手で滅裂な楽山に縛られるのは人格破壊の滅びであります。嘘を吐き、収拾を付けられず、ただでさえ詭弁だらけの楽山の理路が、混乱~パニック状態にあるようです。人を、惑わせ、混乱させ、疲労させるだけの楽山ブログは、早く消えてほしいです。
 
元々詭弁だけで、怠慢と病質のために理路を立てられない楽山は、このままでは、支離滅裂になってゆくでしょう。楽山の自業自得による支離滅裂が、宗教や真実を装うのは、非常に迷惑であり、害悪であります。楽山は、次第に、犯罪に近づいているように思われます。誰も近づかないでください。
 
良心がないと、自尊過大の自己中のために、間違いを正当化しようとして、このような醜い有り様になるということです。しかも、楽山は、反省という言葉を書いても口だけで、その前後で何も変わることがなく、つまり、反省など一度もしたことはないという恐怖なのです。
 
楽山の理路は、多く、"全か無" という進め方をします。また、一部と全体の区別もつかない、ということが、今まで、明らかになっています。常識的な論理の進め方すら学んでいないのは、言論者として失格なのです。多くは、作為の詭弁ですが、常習化して、抜け出すことが出来なくなるのでしょう。
 
まっとうな言論ではなく、詭弁と専門用語で、小学生レベルの幼稚な理屈を、自己満悦するために曲げて、まともに見せかける芝居をしてきたのが楽山です。
 
一人前の人格からは、どこまでも遠い楽山の、当然のごとく予想された経過なのです。何度も、続ければ、自他の人格破壊に至ることを、ずっと警告してきたのです。
 
上の聖句は、いずれも、いかなる時も、神は人とともにおられる、神は人を知っておられる、いつも神は人を見ておられる、神は人を見捨てない、神は人を導く、ということを言っているのです。
 
それを、全く理解せず、勝手なことばかり言って、神をけなし、真理がどうの、道がどうのと、難しいことが分かっているかのように見せかける芝居は、ただただ、不様で、見苦しいだけです。
 
楽山は、恥ずかしいほど、おかしなことを言って、それを指摘されると、不感不応によって黙り込み、答えません。そして、しばらくすると、また、何事もなかったかのように、求められてもいないのに、ベラベラとしゃべりまくります。
 
恐らく、楽山には、生きている実感がないのでしょう。何から何まで、芝居をして押し出していなければ、自身の精神世界が成り立たないのではないかと思います。
 
どう批判しても無駄で、無視するだけの楽山に対しては、誰も楽山の被害者とならないように、偽善者についての資料として記録してゆくしかありません。それをもって、近づかないようにという警告と情報を敷衍(ふえん)するしかないのです。そのために、楽山の、書かずにおれない自己顕示欲を利用します。
 
 
滅裂な孤独

滅裂な孤独
 
 
(2021年05月11日)
(2021年05月12日、一部修正)
 
 
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  楽山の読書くずれ
 
 「第二十一講 ヨブの終末」(『ヨブ記講演』内村鑑三著)
 2021年05月07日 楽山日記(LD)
 
 
楽山は、批判記事を書かれると、新しい記事を上に重ねて、自分の批判対象記事の場所を下げるのです。それで、目立たなくしたからと安心するのでしょうか。いかに、言論者としての自覚がないかということです。学習し努力してゆくという向上心がゼロなのです。
 
このところ、狂ったように記事を書き続ける楽山ですが、楽山自身の意見が異常に少なくなっています。前にもあったことですが、書けないものだから、他人の都合のいい言葉を漁り、例によって、誤解~曲解して、自己正当化しているつもりなのでしょう。この姿勢も、真実を追求する者として、アウトなのです。
 
「読んだので」「感想をメモ」・・感想文という文章になっていません。それで、メモと言っていますが、メモにさえ、反キリストらしい悪意も、宗教と自己中と自己愛性人格障害も、表れてくるのです。
 
何より、批判されたくないのか、殆ど引用だけです。自分の文章が書けない楽山は、書かないことよりも、書いたかのように見せかけることを選んでいます。そこが、また、病質を表す結果となっています。
 
読書感想文として成り立っていない記事が続いています。
 
「第二十一講 ヨブの終末」を読んだので、その要点と感想をメモ。
「第四十二章七節以下の研究」。
文学は「悲痛を以て終るは不健全の印である。喜びを以て終って、真に人生に徹せる健全なる文学というべきである」。
 
楽山が「読んだので」というのを信用しないでください。自己愛性の人格障害によって、正しい読み方など出来ない人です。楽山にとって、美味しい言葉を、都合のよい文言だけをを、漁って引用することだけが、楽山の読書です。そういう無理解も曲解も、先入観と偏見と曲解という形で表れてくるのです。
 
付き合えば付き合うほど、人に、疲労と "悲痛" しか与えない楽山の文章は、書かないほうがマシなのです。楽山は、詭弁と嘘、そして、自己中方向しか持っていません。改める気がないならば、楽山は、公開しないで部屋で読んで、独り笑いしているほうが、公共にとっては、まだマシなのです。
 
七、八節によって、「エホバの審判三友人の上に下って、その愚は明示せられたのである。彼らは論理において精確なりしも、その根本思想において全然愚妄であったのである。これに反してヨブは所論支離滅裂なりしもその精神において正しく、その心は三友よりもかえって神と真理とに近かったのである」。
 
ここで、楽山が受け取る論理というのは、固くて訂正不能で柔和さに欠け、心が無いために共感性を欠いた楽山の教条からの理屈ですから、正しいということとは違います。教条は心の面倒を見ない、言い換えれば、人間の不完全な辻褄を満たしたように見えても、人間の心を満たせない空想なのです。
 
ヨブは「三友のすべての悪罵と無情とを赦して、彼らのために祈るに至った」。「愛は謙遜に伴う、大なる謙遜に入りし彼は大なる愛を現わし得たのである」。「わが心神の前に深く謙へりくだるに至って無情なる友をも、またいかなる敵をも愛し得るのである」。
 
ここに書いてあることと、正反対なのが、楽山です。無反省、無責任、無神経ということは、敵のみならず、味方になる人をも、軽視~無視し、疲れさせ、傷つけては、それに自己満悦する楽山の生業であります。へりくだる、ということが、欠損しているので、見かけの丁寧語をばらまいている楽山です。
 
ヨブ記のはじめと終わりだけを読み、悔い改めれば物的幸福を得るとし、物的恩恵に恵まれていないのは悔い改めをしていないからだとするのは早計である。また「災禍の下るはその人の信仰足らざるためであると見做す。かくなっては三友人と全く等しき愚妄に陥ったのである」。
 
楽山が宗教そして信仰について、悔い改めをしたら物質的恩恵が来るぅ・・というような原始的なご利益宗教を批判しているのですが、誰の信仰なのでしょう。楽山こそは、目の前の、書いた・・という満悦という快感だけを得ようと、空しい思い込みと曲解を並べているのです。
 
いくら時間をかけても、早計でしかないのは、楽山のほうです。言われそうなことを、逆に、言って、言い訳とするのは、シャロームも同様でした。
 
「ヨブ記のはじめと終わりだけを読み」・・楽山は、キリスト教をけなすためだけに書いていますから、本だけ読んで、聖書のヨブ記を、始めも、終わりも、直接は読んでいないのではないかと思います。だから、言い訳みたいなことで満たさないといけなくなるほど愚かな妄想に陥るのです。
 
それと、悔い改めなければ、生き方も、理解も、感動も、共感も、生まれません。楽山は、自分が悔い改めないことを、妄想的に、詭弁によって、正当化しようとして、また、墓穴を掘っています。楽山の掃き出すゴミが、楽山に帰してゆくブーメランは、今に始まったことではないのです。
 
「ヨブは後の繁栄にありても、必ず過去の災禍苦難を想起したことであろう。去りし妻のこと、失いし子のこと、雇人のこと、その他身の病苦と人の無情、いずれも彼の心に深く食いこんだものであって、到底忘るるを得ない事である。故に彼は新しき幸福に浴せしために、旧き禍いを忘れて満足歓喜に入ったのではない」。
 
高慢だったことを自覚せず、悔い改めないでいるあいだ、家族のこと、信仰のこと、人生のことは、旧き禍いではなく、忘れられない記憶となっていたでしょう。ゆえに、神の与えた試練だと気づいたときの喜びは大きかったわけです。
 
ここに至って、楽山は、ヨブの不幸が、幸福に変わったことを、単純に喜び賛同し、引用しています。楽山は、神が試練を与え、ヨブが悔い改めて、神によって立ち直った、というところを、書いていません。
 
神との関わりという聖書が伝えようとするいちばん大事なところを、楽山の得意なことですが、スルーしているのです。反キリストの楽山にとって、神が救ったことを認め賛同することは、論外なのでしょう。
 
楽山の論は、楽山の頭の中にしかなく、結論から始まる詭弁であり、正当には誰にも通用しないことが表れています。書けば、何でも、自己中の方向に、ねじ曲げるしかないのです。
 
こういうところに、詭弁屋で、悪魔性で、策を弄する楽山が表れます。ゆえに、聖書も、本も、楽山が読後感想として書いたことは、幼稚な自慢であり、一切、当てにしてはいけないということになるのです。
 
当初ヨブは「己に信仰がありて神に事えて正しき故、この幸福を以て恵まれていると」考えていた。「すなわち自己の善き信仰と善き行為の結果としての物的繁栄を認めた。これ権利または報賞として、幸福を見たのである」。しかしその後のヨブは「何ら値なき自分に、全く恩恵として幸福の与えられし事を認むるに至ったのである」。
 
自分は正しい、だから神についても言える、という、楽山は、その報酬として、自他の人格破壊を自ら選んでいるのです。人を巻き込まないでほしいです。
 
「値なき自分」「全く恩恵として幸福の与えられ」・・このことを、楽山は理解していないので、どこまでも、反キリストとして語り、ゆえに、その語る言葉が多ければ多いほど、破壊も進んでゆきます。最近、まさに、その通りになっています。
 
何の恩恵も与えられないのは、自らの罪と偽善が、自らを壊してきたからだと、気づく良心を、全く持たない楽山です。
 
キリスト教を理解しないで、キリスト教を批評していること、しかも、それを、公開して、評論家のように高みから神を見下ろすこと、いずれも、楽山の人間離れの神がかりのゆえであり、執念であり、我執であり、実に、生涯にわたって、救いを拒んできた者の因業として表れているのです。
 
ヨブの「前の状態は不信者のそれであって後は信者のそれである。不信者は物の所有を以て正当の権利と考う。故にそれにおいて薄き時は不平が堪たえない。しかし信者は僅少の所有物を以て満足する。これ一切自己の功によらず、全く神の恩恵によると思うからである」。
 
持ち物、欲望、地位、賞賛、そういった基準から、キリストの同伴、神との関わり、という信仰を得て、価値観が変わるわけですが、ヨブも、そして、私たち信仰者も、試みに会わなければ、なかなか気づかないことが多いようです。
 
楽山は、神の恩恵どころか、ただただ、自分で自分を肯定するしかない人生なので、反省することなく、学習することなく、一途に、自己正当化を図り続けて、ゼロに、マイナスに、なってゆくのです。
 
これは、非信仰者の人生だからということで済ませることは出来ません。平均80年の寿命を、何も良きものを受け取らずに過ごすのです。こうはなりたくないという不幸です。楽山は、神に文句を言ってきましたが、すべて、楽山の自覚しない自己責任なのです。
 
この講演はヨブ記の要点を簡潔にまとめてあり、かつよく納得できることばかりである。宗教的な話には独断的にすぎたり、飛躍がありすぎると感じることも少なくないのだが、本講演にはそのようなところがなくてすんなり心に響いてくる。要点をしっかり掴んでいるからこそ、このような話ができるのだろう。
 
「よく納得できることばかり」・・楽山は、キリスト信仰のベースがないのに、謙虚さがなく、分かるんだ根性そのままに、賛同しています。楽山においては、謙虚芝居が、高慢を表すことになります。
 
楽山が、こういうことを言うとき、大方、嘘です。いちばん大事な心の問題を理解できないという、約2年間の履歴があります。実際には恐らく生涯にわたる自己愛の慢心なのでしょう。自分を見ないものの宿命のようです。
 
楽山というHNは、中国の地名かもしれないが、実際は、落ちるための山、堕落する惨めさ、などと当てたほうがいいような不似合いなHNです。自主的に、あるいは、誘われて、楽山に加担する人も、楽山の味方になる人も、一人もいなくなることを、切に祈り願っています。
 
 
※ 
 
私は、神にだけは正直に祈ることを強調してきました。それは、人には嘘吐いてもいいという意味ではありません。また、誰に対しても絶対に嘘を吐くなという戒律を語るつもりもありません。
 
人間は、必ず、いつか、どこかで、嘘を吐きます。人間は不完全だからです。それが罪の性質だからです。完全に正直に・・というのは、人間には無理なのです。
 
ゆえに、神の前に "正しく" あろうとすれば、次第に、言い訳めいてきて、偽善に走りやすくなります。ゆえに、祈りにおいては、精いっぱいの正直のほうが、人間の信仰に適い、救いと癒しになると思っています。
 
人間にとっては、正義よりも、正直であることが信仰だと思うのは、神の前では、人間は、正直以上に正しくなどなれないからです。神に対して、人は、正直であろうと努めることで、精いっぱいなのです。
 
そして、神の前に、砕かれた魂をもって、へりくだり、正直に祈る人は、人の前でも、少なくとも、だますような悪意をもって、白々しい嘘を吐くことは出来なくなるだろう、という希望でもあります。
 
信仰は、良心を育てるためにあります。言い換えれば、良心のない楽山やシャロームのような偽善者にならないためにあるのです。
 
 
リアルでもネットでも、そういう悪意の企みの虚言で、だまし、刷り込もうとする者がいます。そういう者が、いちばん救いからは遠いのですが、そういう者こそ、救いとか、宗教とかを、説教したがるのです。彼らは、都合の悪いことを、隠して無視したり、人のせいにしたりします。
 
何故かというと、宗教とか信仰だと、厳格な資格試験もないし、ごまかし方が、いっぱいあるだろうと見込んで、舐めているわけです。その手の偽善者を批判しています。これは、私に批判が出来るあいだ、やめてはいけないことであります。
 
残念ながら、老化によって体調は劣化してゆくので、ずっと続ける・・というわけにはいきません。さらに、信仰を語る時には、必ず、自分自身の罪性を考えないわけにはいきません。
 
人を斬る刃は、自分をも斬ることになります。それは承知しているつもりなので、私の欠点をマシュマロで包んで隠すことはするまいと思っています。よって、知力衰え、めっきり忘れっぽくなってきましたので、鬼のように批判したり、弱音を吐いたりもします。折に触れて祈っています。失礼。
 
 
崩れ

くずれ
 
 
(2021年05月10日)
 
 
 楽山のツイッターですが
 
心機一転★こも楽山
@komo266
この思考回路はなぞだ?
彼らの中では、こういうことは全部無かったことになってて、アンチの捏造にすぎないと思いこんでる?
引用ツイート
@kusaweod
意味分からん。事実じゃん。
こいつらにとっては都合の悪い事実は全部通報対象なのか?
 」
午前6:51 · 2021年5月9日·Twitter Web App
 
不正を批判しているようですが、楽山については、過去の失言も、無理解も、いちゃもんも、「全部無かったことになって」いるようです。楽山の思考回路は、謎というより、正気ではないのです。
 
信仰は一生を左右するものですが、自己愛性人格障害の楽山には、他のアンチの人々と比べて、真剣味や切実さが感じられません。
 
楽山は、まだ、誰かを批判できると思っているのでしょうか、まだ自身に正論が成り立つと思っているのでしょうか。・・モンスターならではの恣意的自己中思考回路です。良心がないから自省だけはしない楽山です。
 
(2021年05月10日)
 
 
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  楽山の神噛み
 
 神に通じる祈りとは?(『神皇正統記』北畠親房著)
 2021年05月08日 楽山日記(LD)
 
 
楽山は、祈りません。ただ、あの神、この神と、批評して回るのです。したがって、救いの「す」の字も与えられることはありません。神について少しでも知りたいという求める動機ではなく、神々を見物して知ったことにしたいだけなのです。
 
最近の楽山は、自分の言葉が成り立たないものだから、書かない時の原始反応として、引用が大部分を占めるようになっています。同じことです。引用部分の内容とつながりから、楽山が何を暗示しようとしているかを考えます。そこに、曲解に基づく作為と悪意が満ちているからです。
 
『神皇正統記』を読んでいたら、祈りについて書いてあったのでメモしておきたい。
天照大神はただ正直だけを御心としていらっしゃる。
(『神皇正統記』北畠親房著、松村武夫訳、教育社、1990年、p.109)
 」
皇太神・豊愛の太神が倭姫命に神がかりして託宣なさったことは「人というものは元来神に通じた霊妙なものである。したがって心神(正直な心)を失ってはいけない。神は誠意をもって祈る者にまず現れ、神の冥加はまず第一に正直な者の上に加えられる」ということであった。
(同上、p.109)
 」
これは「心だに誠の道にかなひなばいのらずとても神やまもらむ(菅原道真)」に通じるものがありそうだ。
 
楽山は、正直ということを語るのに、人間としての当たり前に理解できる正直では分かったことにならず、「神に通じた霊妙なもの」というのを持ち出してきます。人として当たり前のことが、楽山には成り立っていないからでしょう。
 
そして、楽山は、次には、祈らなくても、神は守ってくれるだろう、と引用しています。しかし、楽山は、人間として、誠の道に、ことごとく背いているのです。
 
何が「通じる」というのでしょう。自分を見ない者が、いくら、キレイごとを言っても、そのキレイさが、自分を斬ってくるという例になってしまいます。
 
こういう自動的な返り討ちブーメランは、楽山の常態です。まともぶれば、まともぶるほど、自分が自分の言葉にズタズタに斬られてゆくのです。呆れるほど、いつまでも、気づかない楽山です。
 
私事ながら随分前に、とある宗教の信者だったころに信仰のことで悩んだことがあった。「自分はこの宗教はどこかおかしいと感じるようになってきており、信じきることができていない。信じきろうと努力しても、どこかおかしいという思いを消し去ることはできない。教祖は信仰の綱を手放せば地獄に堕ちるとしている。自分は地獄に堕ちるのだろうか…」と。
 
また、正義ぶって、まとも芝居をしています。どこか、軽々しい楽山劇場ですが、いちばん、おかしいのは、いつも、楽山です。しかも、関わると、関わった相手をも、おかしくしてゆきます。
 
「自分は地獄に堕ちるのだろうか」・・あざとい楽山の、お悩み芝居です。言葉だけで、深刻味が、まるでありません。楽山の、こういう台詞を真に受けて、巻き込まれないようにしてください。言っておきますが、楽山は、既に地獄にいるのです。だから、言葉も、心も、信仰も、嘘だらけです。
 
最後はこういう結論となった。「信じきれないないなら、信じきれないとするしかない。もし神様がすべてを見通せる正しい存在なら、信じきれていないのに信じきっているふりをするより、信じきれないものは信じきれないと正直になる方をよしとしてくれるだろう。
 
恐ろしい詭弁です。信じていない楽山は、その本質的な自己愛の性根から、正直の欠片もないモンスターになっています。楽山は、詭弁で、ごまかしていますが、楽山は、信じ切れない正直ではなく、信じる心が、まるでない、ウソッピ物語なのです。これで、自分は正しいと思い込めるなら、ホラーです。
 
もし信仰の綱を手放したら地獄に堕ちるとしても、信じていると嘘をついて天国に行くより、信じられないと正直にいって地獄に堕とされる方がましでもある。少なくとも自分の心に正直でいる限りは、どこにいたって気がとがめることもないだろう」。
 
信じられないのではなく、信じる気など最初から無いのが、楽山です。どうでしょう、これで、正直な自分を表したつもりなのです。いったい誰に、嘘つき楽山が「信じられないと正直に」言って、受け入れられると思っているのでしょう。
 
しかも、楽山は、それで「気がとがめることもない」のだそうです。良心が無い凶悪性の証明でしょう。狼が来たと嘘を吐いていると、本当に狼が来たとき、誰も信じてくれなくて、狼に食われてしまうという「狼と少年」の嘘吐き少年そのままでしょう。一言も正直のない手遅れ地獄か。
 
信仰芝居も、お祈り芝居も、神否定も、反宗教・反キリストも、様々、ほしいままに、三文芝居で欺いてきて、今さら「信じられない正直」などと都合のよい新作造語で言われても、笑止であるにとどまらず、地獄へのガイダンスに過ぎません。まさに悪魔のプレゼンです。堕ちるなら、独りで地獄に堕ちてください。
 
いくら正直であることが大切だといっても、世の中は決して嘘はつかず、正直でありさえすればよいというほどは単純ではあるまいが、信仰という自らの心の内に関することについては自らに嘘をついて誤魔化すよりも、正直でいる方がいいと思うので、自分としてはこの結論に満足している次第である。
 
世の中には、こういうことでは決して嘘を吐いてはいけない、ということがあるのです。それは、自らの信用問題と存在についてのことです。楽山は、そこを踏みにじったわけです。
 
さすが地獄の大根役者そして偽善者、「この結論に満足している」と自画自賛しています。楽山は「自らに嘘をついて」いるのではなく、他者に嘘を吐いて、だましてきたのです。
 
楽山の心に信仰はなく、もはや悪意と虚偽性だけをもって、こういう詭弁を仕掛けてくるのです。信仰者が、神の前に正直であるべきということの、対極にいて、あざ笑っているのが、楽山です。いつまでも、嘘で、ごまかそうとしてくることが、悪魔性を証明しています。寒い寒い楽山の世界です。
 
 
嘘と詭弁の孤独

嘘と詭弁の孤独
 
 
(2021年05月09日)
 
 
 幸福実現党の移民政策
 2021年05月08日 
 幸福の科学とは何だろう?ブログ(楽山)
 
 
楽山は、批判ツイートの管理人かアドバイザーにでもなってるつもりでしょうか。楽山には、批判する資格もなく、批判を云々する資格もありません。
 
楽山は、嘘と詭弁で刷り込むだけの自己愛性の欠陥人格です。楽山は、何を言われても、反省もしなければ、責任を負うこともありません。この楽山のようなやり方は、言論には通用しません。楽山は、早く消えてほしいだけの偽善者です。
 
*移民政策
幸福実現党の移民政策について、及川幸久氏がツイートしていた。
及川さん
移民万歳だけ改めてください!
そしたら応援したいです!
 」
返信
及川幸久 香港加油!
@oikawa_yukihisa
·5月6日
返信先: 
@viva_mattu
さん, 
@YouTube
さん
実は幸福実現党は移民万歳ではないんです。10年以上前にそういう主張をしたのは確かですが、その中身は逆で、今の自民党の緩すぎる移民政策を批判し、移民受け入れの厳しい基準を主張しています。とくに反日国からの受け入れは。
 」
これには疑問に思うことを、一つ、二つ呟いてみたけれども、いまのところ回答なし。残念。
 
楽山には関わらないでください。回答があってもなくても、楽山は、ずっと、残念で、かつ、残忍な人です。それ以外、何もない人です。楽山は、いつも、ゲーム感覚だと思います。
 
*疑問(一)
疑問内容についてここでも書いておくと、まず一つは移民受け入れには厳しい基準を設けるということは、移民を抑制する方向に行くはずなのに、そうはならず移民一億人をめざすというように移民拡大に向かうのはチグハグではないかということである。
また移民一億人をめざしながら、移民万歳ではないというのもチグハグだ。
ニッポン繁栄 8つの提言【3】めざせ!人口3億人国家
 
「チグハグ」?・・楽山自身は、無反省と無責任で、裏切って、けなして、面白がっているだけなのです。何を、他者のことを、一人前の常識人みたいに言っているのでしょう。そんな資格はありません。まず、楽山を、批判する人々と批判される人々から、つまり、真面目な言論者から、除外するべきであります。
 
*疑問(二)
もう一つは、移民は一億人に限定せず、二億人でも大歓迎としていたが、それについて及川氏はどう考えるかということ、またこれは党の政策として今も変わらないか、もし変わっているなら何故変わったか教えてほしいということ。
下の動画では、55分過ぎから一億人移民が議論になっており、57分過ぎには移民は二億人でも大歓迎という発言も出ている。
 
こういう問題は、理屈遊びができるから、楽山は小理屈をこねていますが、テーマが倫理や道徳や人間性や良心や共感するべきことになると、楽山は、心が無いので、まるで、ロボットのようなことしか書けなくなります。
 
*疑問(三)
ついでにもう一つ疑問を書くと、幸福実現党が提案する移民選定の基準は、深刻な人権問題に発展するのではないかということである。
 
偉そうに書いていますが、他者の人権も尊厳も、屁とも思っていないのが、楽山です。ましてや、神の全能など、何も知りません。約2年間、楽山の書くものに、その卑怯さは、表れてきました。
 
反日国からの移民は認めないだとか、英語圏の白人の移民を期待するだとか、国籍、人種によって選定することは果たして許されることだろうか。また移民には日本国への忠誠を誓わせる…つまりは反日思想を持った移民は認めないということであろうけれども、これは思想信条によって人に対する扱いを変えることになるのではあるまいか。
幸福実現党はこの辺りのことについては見直す必要があると思う。
 
趣味で茶々を入れてくる楽山の目的は、正義でも人道でもなく、自分が評論家みたいに書いて、そう見られることが、悪魔性の悦楽だからです。
 
楽山は、A級戦犯に賛同しているネトウヨです。しかも、しっかりした思想も信条もありません。いわゆる、荒らし的な、いちゃもん屋です。だから、何を言われても、平気で無視します。
 
そのことが、もたらすのは、無反省と無責任で、真面目な議論や批判において、自分が追及されると無視して、逃げるだけなので、話にならず、何の役にも立たないということです。そういうことを、平気で、長く続けているわけです。
 
 
(2021年05月09日)
 
 
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  楽山の狂信
 
 「第二十講 ヨブの見神(四)」(『ヨブ記講演』内村鑑三著)
 2021年05月06日 楽山日記(LD)
 
 
楽山には信仰がありません。あるのは、それこそ、カルト的な自分信仰です。自分の物差しで何でも測れるという慢心は、もはや、人間として存在の節操を失っていると思います。
 
不感不応で、まともに感受する心のない楽山は、あらゆる信仰の節操をも失って、解体、崩壊してゆくようです。把握も解釈も命題も理路も当為も、何一つ、成り立っていません。自己愛と自己顕示欲の意地または石になっているのです。転がり、破裂し、落ちて、欠損してゆくのでしょう。
 
「第二十講 ヨブの見神(四)」を読んだので、例の如くその内容と感想をメモしてみる。
ヨブ記第三十八章三十九節~四十二章六節の研究。
三十八章一節~三十八節は「宇宙の諸現象の中に神の穎智と力を認めたもので」あり、三十九節~四十一章は「生物界において神の穎智と愛を――殊に愛を強く――認めたものである」。
 
楽山は、まだ、自然は偉大 → 神は偉大 という内村鑑三氏の話の解釈に拘泥して、書いてきます。まだ、ヨブの無力を、神≒自然と比較して語りたいようです。
 
ヨブは、人間として無力であることを、試練を通して、慢心を砕かれて、目覚めることになります。そこに、神と人の立場の違いがあるのです。目覚めなど全くないまま慢心する楽山です。
 
「鴉は人に嫌わるる鳥である」が、神はその鴉でさえ「養い給う」。
「エホバは諸現象を引きまた動物を引きて、神智神力の無限と、人智人力の有限とを教えた」。「神は絶対の力であるに、ヨブは絶対の無力である」。
 
人に嫌われるカラスを神は養う、と書いて、楽山は、何を言いたいのでしょう。インチキと詭弁の偽善にまみれて嫌われる楽山自身も、神に養われるという詭弁のつもりなのでしょうか。
 
今さら、神に、断定はしてないから救ってもらえますよね、とでも言いたいのでしょうか。楽山には、別のものが巣食ってくるでしょう。楽山を、楽山に相応しいところへ、楽山自身が誘導しているということです。
 
楽山は、無力なのに、またしても、自己正当化するのでしょうか。無反省で成長のない楽山は、書き続けるという性懲りのなさで、ますます、無力に、邪悪になっています。今後も、破壊と腐乱のジュクジュクした炎症を味わうのでしょう。
 
ヨブは、神によって、砕かれ、頽(くずお)れて、悔い改めました。
 
楽山は、神の不在を説いたり、神を偉大と言ったり、性懲りの無さを、わざわざ見せつけて、救いも癒しも分からないのにヘッピリな自分を表しています。
 
(ネットより)
へっ‐ぴり【×屁っ▽放り】 の解説
《「へひり」の促音添加》
1 屁をひること。また、その人。
2 つまらぬ奴。人をののしっていう語。
「どいつらも―のくせに」〈滑・八笑人・二〉
 
「毅然として友に降らざりしヨブも、今は神御自身の直示に接して、この謙遜の心態に入るに至った」。
ヨブは神を知っているつもりだったが、そうではなく「神について聞いていたに過ぎなかった」。その「知識を所有していたに過ぎなかった」。「今は万象を通じて、神を直観直視するの域に至った」。
 
「神御自身の直示」と氏が書いているなら、自然→神、ではなく、神→驚くべき現象ということでしょう。森羅万象が、神の創造物であるから、神の偉大さに気づくという氏の話を、楽山は理解していないと思います。自然の驚異=神、とでも言うのでしょうか。
 
それは、キリスト教の神ではありません。キリスト教の神は、人格的唯一神であります。神の人格との共感が、キリストによって表されたということです。
 
楽山は、人の言うことを聞かない人です。知識も曲解の先入観に過ぎません。楽山が、神を直視するに至ることはなく、神を肯定する必然も、どこにも表れていません。また、だまそうとしています。
 
ヨブは神学によっても人の言によっても安心はできなかった。「苦悶者の真の行き場所は教会にあらず、教師にあらず、宗教書類にあらず、神の所作物たる自然の万物万象である」。
ヨブが天然に神を見たのは「彼の受けし艱難、彼の抱きし希望、これが彼の天然観を変えた」ためである。
 
楽山は、人間として宗教を理解できない者の特徴として、どうしても、人格に共感する神を、自然が暗示するだけの抽象名詞にしたいようです。「天然に神を見」るのは、天然観が変わったからではありません。信仰観が新たになったからです。
 
楽山は、ここまで、神を対象としてゆくなら、信仰の救いに気づくこともなく、自身がどうなってゆくかを自覚はしないまま、粘りつく油と砂を味わってゆくだけの定めしかないように思われます。
 
釈尊の場合はすべてを観察した上で一切は苦であるとし、それらに対する執着を去り、厭い離れることを覚ったというが、内村鑑三によればヨブは天然自然に神を見てその中にある幸福を覚ったということらしい。
 
自己愛に執着し、自己愛から自己中になり、執着だけになっている楽山は、神から、厭われ離れられることを自覚しないままであることが、明らかとなっています。
 
「ヨブは天然自然に神を見てその中にある幸福を覚った」楽山は、神には人格がないことを強調しています。天然自然に表れる神も、人格に寄り添う神も、共感の主イエスも、つまり、創り主も救い主も、楽山には縁がなく、よって、自然そのものを神だと言い張るに至っています。
 
楽山のような呆れた偽善者に安く規定される神ではありません。ヨブは、天然自然を見ることが神を見ることだと分かったのではありません。自然を支配する神の力を見せられたのであります。
 
これらは正反対の行き方にも思えるが、どちらにも一理あると感じられるのはなぜだろう。これはちょっと不思議。
 
楽山は、どこが「正反対」だと言うのでしょう。何をもって、上から「どちらにも一理ある」なのでしょう。何も説明できていないことが楽山の本質です。神は、楽山のような裁きの対象にしかならない人に、上から規定されたり評価されたりすることはありません。
 
楽山の、神なき自然が神とでも言うような詭弁は、どこにも成立しません。楽山は、批判に対して、まともな返しも弁明も出来ない人です。知性も感性も失って皆無になってゆく途上であります。
 
分かっていないのだから、分からないと言って、引っ込むべきです。人の口を悪用して出来もしない自己主張をするのは、宗教、特に、キリスト教を、理もなく、心もなく、おとしめる公害です。
 
どこまでも、信仰を理解せず、理解しないのに信仰について書いてくるのは、信仰の意義を、否定し、消し去りたい楽山の、訂正不能の自己顕示欲でしょう。楽山は、既に、自己愛性人格障害を経て、単なる無神論ではなく、ある種の強迫症状の悪魔性に変貌しているようです。
 
こうなる前に、不遜に気づくのが人間であり、共感するのが信仰者です。何も気づかないのが楽山です。
 
そういう資質すら無いゆえに、うんざりするほど、楽山は、繰り返し、繰り返し、有名人の名前を出してきて、引用して自慢し、悪用して我を張ることで、神を上から見るような自己愛性の誇大妄想性を表しています。
 
知ることもなく、感じることもなく、説明も出来ない、というこの楽山の、我の張り方は、子供レベル以下だと思います。
 
 
自己愛の妄想

自己愛の妄想
 
 
(2021年05月08日、同日一部修正)
 
 
 楽山のツイートですが
 
心機一転★こも楽山
@komo266
信仰告白は尊いと思います。
でも正直言って、及川さんがこの方を神だと信じ崇めているというのは、うまく想像できないです。すいません。
午後9:38 · 2021年5月6日·Twitter Web App
 
ORが、翼を付いた仮装をして両手をあげている写真です。楽山の白々しい嘘が明らかです。「信仰告白は尊い」などと思っていません。「すいません」・・楽山は本気で謝罪などしたことがありません。皮肉のつもりなのでしょう。
 
独りで見て、あざ笑い、さらに、これ見てよ・・とばかり出してくる、批判者ではなく、卑怯者、いちゃもん屋の、変わりない楽山の所業です。独り満悦が、醜いです。
 
根拠を示して批判するのは自由ですが、人をバカにして笑う、というのは、正当な批判の出来ない楽山の図式です。責任を負わなくて済むように、楽山は、これで、表現をやわらげたつもりなのです。あざ笑いが目に見えるようです。
 
(2021年05月08日)
 
 
(古い記事は載っていません)
 
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