ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

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  楽山の弁神論(1)2
 
 神義論、弁神論についての対話 1
 2020年06月23日 楽山日記(LD)
  を改めて批判。
 
 
弁神論は、神義論とも言い、神の正しさについて追究する学問のようですが、学問で、論理で、神の正しさが証明できる、ということについて、私は、気持ち悪いだけです。楽山のような、半端な知識を振り回す者は、弁神論が大好きなようです。
 
楽山の悪意が発火しています。愚か者は、冷静な理路を通さずに、怒り始めています。これが、楽山の正体なのです。楽山の立場は、反キリストです。惑わされないでください。
 
*再訪
信者 「こんばんは」
老人 「どうも、こんばんは。息が荒いようだが走ってきたのかな」
信者 「走ってなんかいません。あなたのブログ記事に呆れたんです。いつにもまして酷い事を書いてますね。ったく、腹立たしくてなりません!」
老人 「どの記事のことを言っているのかな。そんなに立腹されるようなことを書いた覚えはないのだが…」
信者 「つまり、悪い事をしたという自覚がないんですね。最悪…」
老人 「ともかく、私の記事のどこが問題なのか、具体的に指摘してほしいのだが…」
信者 「具体的に指摘したら削除しますか」
老人 「現時点ではそんな約束はできないが、話の内容によっては検討しないでもない」
信者 「随分と逃げ腰で、歯切れの悪い返答だこと(笑)。でも、まあいいでしょう。問題はここですよ。『神が存在するなら、なぜこの世界に悪があるのだろうか。この世にこれだけ悪があるということは、神は存在しないということを示しているのではなかろうか。そんな疑問を抱かざるを得ない』って何ですか。神がいないわけがないでしょう。何をバカなことを言ってるんですか」
 
「どこが問題なのか」に対して答えずに、「神がいないわけがないでしょう」と言って、頑な護教を示しています。注意してください。楽山に護教精神などありません。悪い例として、論(あげつら)いたいだけなのです。二人は、いずれも、楽山その人であります。
 
*神義論、弁神論の前提
老人 「それは神は存在しないと結論付けているのではなくて、『神がいるなら、なぜ悪があるのか?』という問題提起だね。私は基本的には不可知論的な立場だから、あれこれ考えはしても、神は存在するとか、存在しないとか、断言はしない」
信者 「おやまあ、また逃げてますね」
老人 「逃げるもなにも、どうも誤解があるようだから、自分の立場を理解してもらえるように、説明しているだけなのだが」
信者 「言い訳がしたいなら、好きなだけ言い訳をしたらいいですよ」
老人 「そうかね。では、あと一つ、ついでに説明すると、この問題は、神は全能、絶対、完全、善、正義である等とした場合に生じるものだ。これを前提とすると、『神は全能であるなら、悪を止めることができるはずだ、それなのに止めないのはなぜだ?』『神は絶対、完全なら、悪はどこから生まれたのか? 悪は一体どこから来たのか?』などの疑問が出てくるということだよ」
信者 「いつもの屁理屈がはじまりましたね」
老人 「間違っていたら申し訳ないのだが、あなたが信じている神は、どのような神なのかな。もし前述の全能、絶対、完全な神ではなく、いわゆる多神教的な神々だとか、高級諸神霊というような存在を念頭において、この問題を考えているなら、それはちょっとズレてると言わざるを得ない。ここのところは、よく気をつけてほしい」
信者 「そんなことは、いちいち言われなくても分かってますよ」
老人 「そうか、それならよかった」
 
先ず、楽山は、不可知論的な立場ではありません。ただの、安っぽい無神論者です。しかも、とても下劣で、卑怯な詐欺師のような人物です。そこを棚に上げて、論者を気取り、一流を気取っているところの、偽善者です。
 
私は、神の意志と行為を説明できる論は人間の側にはない、ということを、以前から言っています。説明できる、知っている、分かっている、という意見を、背教として否定している立場です。しかしながら、楽山に学問はありません。学んだ人とは思えないことを言ってくることが根拠です。
 
楽山は、「神は全能、絶対、完全、善、正義である等とした場合に生じる」と言っていますが、違います。問題は、その全能を、人知で理解しようとするから起こることです。それで判断すれば、かえって、分からないことだらけになるでしょう。そして、神を否定する楽山が出来上がります。
 
それゆえに、楽山は、理解力がないのに、ますます、意地悪に貶(けな)してくるのです。読まなければ、バカだと思われる。読めば、妄想にしかならない。読んだことにすれば、自己中の正当化の詭弁しか出てこないのです。
 
何でも分かる、ということにしないと気の済まない楽山が、その思い上がりによって、上のような理屈を捏(こ)ね上げているだけなのです。楽山は、自らの、"完全"、に思い上がっているものだから、神に、信仰に、いちゃもんをつけてくるのです。
 
人間として、不完全や罪深さを自覚できないので、とんがって吹聴し、結果、最も醜い様を曝(さら)しているわけです。「『神は絶対、完全なら、悪はどこから生まれたのか? 悪は一体どこから来たのか?』などの疑問」、呆れます。悪は、楽山のような、人から生まれてきます。
 
これは楽山などの自己愛の疑問であって、人間の疑問ではありません。人間として、人間の罪の性質を、自覚できない楽山です。神?として君臨したい妄想が表れています。ゆえに、楽山は、多神教のようなと、いい加減な見方で、どうにでもなる神?を、「分かっていますよ」と言っています。
 
楽山は、神?を哀れみたいのです。この場合、楽山は、どういう立場でしょう、神の上に君臨するものという立場に舞い上がっているわけです。恐らく、この辺りの小理屈で、楽山は、一生涯、堂々巡りをすることになるのでしょう。こういう楽山ですから、誰も近づいてはいけません。
 
 
 楽山の偽善性・・再録+αです。
 
平気で嘘を吐く。様々な詭弁を弄して、柔和に見せかける。
後悔、反省、修正ができない。学習による成長がない。
理路が常識的にも浅く、破綻しがちであることに気づかない。
相手の意見を受け取っていないので、反論、弁明が全く出来ない。
基本的に訂正不能である。自己愛性人格障害の可能性。
特に批判に対して不感不応なのは、理路が理解できないからだろう。
 
障害の自覚に、全く不釣り合いな満悦感から、厚かましく、学者・批評家・読書家・インテリ気取りで、分かっているという我執から離れられない。
 
深い情感がなく、共感性がない。
後悔することがなく、罪悪感、羞恥心がない。
世辞と社交以上の、議論や交流が、できないし、する気がない。
 
ボンヤリ言語:曖昧で婉曲的な言い方をして印象だけでも刷り込もうとする。
ボンヤリ言語の、曖昧な筆致でごまかしながら、書き続けて、書き続けて、偏見を刷り込む。
 
トホホ言語:謙虚で弱いと思わせて悪意を隠すための嘘の反省言葉。やさしさ芝居。柔和芝居。
トホホ言語と芝居で、謙虚を装いながら、好感を誘い、好感を得るだろうと、自己満悦する。
 
アドラー心理学の宣伝をしていたが、それが抜けずに、自己中が表れてくる。
HSを脱会したと言っているが、真実かどうか、疑わしい。
 
反キリストである。聖書およびキリスト信仰を、貶めてくる。
聖書を字面だけで読んで、理解したと思い込んでいる。
成長がなく、幼稚な疑問のまま、止まっている。
聖書や、他の文章も、心で受け取る、ということがない。
文章の、心無い字面(じづら)の皮相を、いつも、こすっているだけ。
 
霊能者のつもりだが、それに見合う直観的洞察は皆無である。
 
対話形式とか、記事の体裁を変えても無駄だと思います。
 
情報化社会の現代は、聖書の時代と違って、迫害者や偽善者や反キリストが、それだと、すぐに分かるような時代ではありません。彼ら邪悪な者たちは、様々な、だまし方をもって、良心を攻撃してくるでしょう。
 
楽山は、否定か肯定か、はっきり言わず、キリスト者とも付き合い、ときには、世辞も言いますが、最後には、キリスト教は正しくないと言えなくもない、などと言って、裏切るでしょう。楽山は、自らが教祖になる企みを持ち歩いている狡猾な偽善者です。
 
人間らしい心があれば、誰でも、深い信仰に至ることは可能ですが、自己中で無反省の心無い者だけは、どんなに見せかけの知性を振り回しても、真のキリスト者にはなれないでしょう。
 
楽山は、人の意見を全く聞かずに自分の言いたいことだけを言うことに、恥も罪も感じないほど、それゆえに、また、ネットでもリアルでも、彼に出会うことは不幸としか言いようがないほど、疲労だけを与えて混乱させる人格破壊者です。
 
怒鳴るより悪い、嫌らしい言い方、というのがありますが、楽山には分からないんでしょう。殴るより悪いことをしているのが、楽山です。こちらは、殴り返すことが出来ないからです。
 
※ 
既に、ある程度、そろってきて、資料となっている "楽山の偽善性" については、今後も楽山の記事によっては加筆修正して、再録することになるでしょう。
 
 
殴られるより悪いことがある

殴られるより悪いことがある
三島由紀夫原作映画「午後の曳航」台詞字幕
 
 
(2020年06月27日)
(2021年06月30日、再録+)
 
 
 
  発熱
 
寒い夜に張り詰めた
細い線が切れてゆく
断端が曲がって
幾本も幾本も
ぱらぱらと揺れる
不意の停電のように
像が消える
音がしたかしなかったかと
思う間もなく
次の像が暗闇へ落ちてゆく
次から次へ
落ちては消え
落ちかかっては消え
熱と痛み
幻と記憶の中で
横たわるベッドだけが白い
支える床がない
足がない
この視線の罪に
ふさわしい名前さえない
 
(90年代か)
 
 
 
 ※※ 
 立ち上がったばかりのツイッターがあります。
 
taka
@taka84156681
フォローされています
色々と呟いていこうと思います
2021年6月からTwitterを利用しています
2 フォロー中
0 フォロワー
フォローしている人にフォロワーはいません
 
そして、次のようなツイートを書いています。
 
taka
@taka84156681
·7時間
SNSの社会では常に何かを叩かないと気が済まない人が本当に多い。脳化学者の中野信子さんの著書「人は、なぜ他人を許せないのか?」のなかでそんな人たちの事をを「正義中毒」と呼んでいる。
#正義中毒
午後2:47 · 2021年6月28日·Twitter for Android
 
「正義中毒」は、有名人を引用~悪用してきた楽山の記事に載っていた言葉です。そんなに、よく見る言葉ではありません。私に当てた言葉ですが、私は、批判の根拠も理由も書いているので、ブーメランとして、楽山に返ってゆくだけです。このツイート、楽山の筆致によく似ています。
 
正義中毒という言葉に込められた、善悪と、さらに、特に、偽善、という意味を、理解できない楽山は、今、自らに当てはまっていることを考えもしないで、浅知恵で、そうだ!そうだ!とばかり飛びついて使っています。
 
「人は、なぜ他人を許せないのか?」という大きな一般の問題にしたいようです。私が批判して、問題としているところは、無反省・無責任・自己中で、詭弁を弄する嘘吐きを許すべきでしょうか、という問題です。もちろん、答えは、否です。
 
楽山は、楽山という"個別の特殊"な問題を、"一般" の道徳にすり替える詭弁を使っているのです。楽山は、こう言う詭弁を弄してきます。"人それぞれ" だからと、自らの "自己中" を正当化しようとしたりします。この2つ、全く違います。楽山の言を、信用してはいけません。
 
楽山は、今まで、真実とか正直とかいう言葉が嫌いで、特に、正義という完全言葉に、正義中毒を当てて侮辱するような自己愛者の性癖が、身についているのでしょう。ここまでなら、条件反射的な、自己正当化の保身の反応~習性です。
 
しかし、それを、根拠もなく、見境もなく、婉曲的とはいえ、特定の批判者に向けるのは、悪意の企みと見なすしかないと思います。楽山は、内省と常識的判断によるブレーキが効かない、というより、そういう自分に対するブレーキを育てていないのです。楽山のようです。
 
taka
@taka84156681
·7時間
つまり正義中毒者になると脳は常に誰かを叩く事を求めるようになります。しかもこの状態が続くと、相手への共感や、感情をコントロールする働きを持つ脳の機能である「前頭前野」が衰え萎縮してしまい、そうなると、頑固で他人の意見を聞かなくなる状態になってしまいます。
#正義中毒
午後3:34 · 2021年6月28日·Twitter for Android
 
正義中毒について続けています。やはり、楽山の筆致のように思われます。今まで、いくつものHNを利用・悪用してきた経過があります。「共感や、感情をコントロールする働き」が欠落していて、「他人の意見を聞かなくなる状態」が続いているのは楽山です。
 
taka
@taka84156681
·6時間
今のSNSの時代になると、誰もが意見を書き込める時代になっているが、これによって、ふとした発言での炎上がそこらへんで起こるのがもはや普通になっている。こうなると正義中毒者が増えるのも無理はないと思ってしまう。常に物事を俯瞰的に見ることが大事だと思う。
#正義中毒
午後3:50 · 2021年6月28日·Twitter for Android
 
正義中毒は、他でもない、楽山なのです。俯瞰的には決して見ることのできない神を、見たつもりで、いちゃもんばかり、嘘と詭弁で、書いてきたのは、楽山です。人の言うことを受け取らず、訂正不能なのも、楽山のほうです。その結果、楽山の理路は、孤独な幻となって散逸してゆきます。
 
楽山は、何事についても「常に物事を俯瞰的に見る」ことは一度もないと思います。妄想的で、整わないことを俯瞰だと思い込んでいるようです。そういう思い込みで書けば、訂正不能になります。今まで、そういう書き方だったので、こちらは、誰の参考にもならない雑言だと批判してきました。
 
恐らく、このツイッターは、楽山でしょう。このような、ごまかしで、隠れては、何か書いてくる。楽山は、喩えるなら、ゴキブリかネズミのような習性をもっている薄汚い人だと思います。
 
また一つ、批判対象サイトが増えることになりそうです。"taka"サイト・・とでも、呼んでおきます。混乱と徒労と疲労と、ついには人格破壊をもたらす悪魔性のサイトです。
 
楽山と、コメントやツイートで、直接の遣り取りはしません。2年以上前に、遣り取りをしたときに、こちらの言い分を全く受け取らず、あることないこと混ぜこぜにして言ってきて、恐ろしく疲労を覚えたからです。楽山は、他者の精神衛生を破壊する病質者です。
 
 
 
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  人の復活(修正)2
 
 
死人が蘇る話よりも
先に考えるべきことがある。
 
信仰はその原初から
神との関係への人生の依拠であり
かなりの依存でもある。
 
人への依存は病気だが
神への依存は信仰である。
 
ゆえに自立した信仰などありえず
信仰は紛れもなく
神に人が依存し
かなり甘えることに他ならない。
 
神に勝手なことばかり言うことではないので
語弊があるなら
神のみに依り頼むことと言ってもよい。
 
神に依存し甘えるとは
祈りにおいて神に対して
人は既に
かなりの無礼を働いているということだ。
 
私たちの信仰は
100%を目指すことは出来ない。
 
100%を目指せば目指すほど
思い込みを強くして
偶像信仰になってゆくだろう。
 
何故なら私たち人間は
一人の人間である他者さえ
完全には理解できないでいる。
 
ならば
神の全知全能・絶対完全・永遠不変など
理解できるようなものではない。
 
私たちの信仰は本質的に
決して100%を目指すものではない。
 
神はそれをご存知で
人に福音を賜ったと思うべきである。
 
すなわち不可知の神への依存は
人間として地上における自立を促す。
 
 
 100%を目指し
 奇跡を固く信じ込んだばかりに
 日常の人間性を疎かにして
 100%に近い傲慢だけになり
 他者に負けない尊大な態度ばかり示して
 敬虔はおろか
 信仰の節操さえも弁えず
 大口をたたいては
 人間の理路を破壊し
 人間の共感を滅ぼして
 信仰者ではなく
 思い込みの化け物になった者もいる
 
 
信仰のいちばん大事なところは決して難しくはない。
しかし、そこを間違えれば
おぞましい反信仰に陥るだけの欠点が人間にはある。
 
 
主の復活にまつわる聖句
 
 (ヨハネによる福音書、口語訳)
20:28
トマスはイエスに答えて言った、「わが主よ、わが神よ」。
20:29
イエスは彼に言われた、「あなたはわたしを見たので信じたのか。見ないで信ずる者は、さいわいである」。
 (ヨハネ書20:28-29、新約聖書)
 
見ないで信じるということは
今信じていることを固定することではない。
 
信仰を固定しようとすることは
動かなければ成長しない人間の
成長すらも拒む姿であり
それは目のチリにも梁(はり)にも気づかない盲目であり
偽善者やカルトの信じ方である。
 
信仰は
不明を呑みこんで信じ込むことではない。
 
信仰において信じるということは神を理解することではなく
100%を目指すことではない。
 
救いの成就が目に見えなくても信仰は
一生の付き合いとなるほどの
賜物を心に受けて起こることである。
 
だから、見ないで信じたと、人がことさら自慢すれば
慢心からの信仰自慢に他ならない。
自慢することは既に信仰ではない。
 
それに、誰が、神を見て信じるというのだろう。
今の人間は、当たり前に、見ないで信じるしかない。
 
心に受けた賜物を知っている敬虔は
賜物が必要なほど不完全な自分を知っている。
 
境地自慢のように信仰をひけらかすことはしない。
 
それでも人間の信仰は不完全である。
それは人間が不完全だからに他ならない。
 
だから固定されたまま成長しない信仰はあり得ない。
 
信仰は固定ではなく成長であり
信仰は境地ではなく道である。
 
 
「聖書は神の言葉」と言われるのは
それ以上に尊いものを他に知らないという讃美である
 
讃美を振り回すことが望ましくないのと同様に
「聖書は神の言葉」という言葉を振り回すことは望ましくない
 
 
 大袈裟な讃美を聞いて
 大袈裟な讃美を繰り返して満悦するような
 大袈裟な信仰?はキリスト信仰にはない。
 何故なら神の前で
 信仰者は神を恐れるので
 決して大袈裟にはなれないからである。
 
 
人の言葉で読み書きされている聖書が
様々なカルトに悪用されて
白々しい讃美や否定の言葉になっている。
 
聖書に心を揺さぶられたことがなく
心に受けたものがないまま
讃美と信じ込みが信仰になることはない。
 
人が真の神を相手にすることは出来ない。
そんな能力は人にはなく
真の神に人知はどこまでも及ぶことがない。
 
ならば信仰は否定されるだろうか。
人は神を信じてはいけないのだろうか。
 
人が考えて
矛盾がないから信じるのではない。
整っているから信じるのでもない。
 
人を信じられず
自分を信じられないとき
いかなる言葉も整わず
たとい偶像と言われ
背教と言われようと
 
たとい土の器から
這ってゆくような醜い姿であっても
その結実が悲惨な生と死であっても
 
捧げるべき何ものもなく
飾るべき何ものも持たず
祈り願い
最後は叫ぶ以外にない必死の必要なら
それはやはり信仰である。
 
信仰に保険は効かない。
信じるという不可避の必要が
人の側にあるだけである。
 
昔、キリスト者が、支配することを捨てて、殉教を貫いたのは
信じることを捨てるよりは、召されることを選んだからだろう。
 
すなわち決して飾りではなく
論理でも手続きでも仕組みでもなく
信仰の必要性は
神の正しさを知ることよりも先に
人が信仰を必要とするからである。
 
その人の側の必要性がない間は
信仰の入り口にいるのだから
信仰者は求道者と同じである。
 
洗礼は
人から神への信仰告白である。
洗礼は
神秘を保証しているわけではない。
 
いったい、この世の何処に
信ずるに足るものがあろうか
それは信仰においても同じことだ。
 
悪い夢を見て
目が覚めたら
現実はもっとひどい悪夢だったとき
実在が幻想と化して
善悪が糞尿ほどの価値も持たないとき
逃げようもなく
絶望的に無力な狂気が
すがりつく糸も
しがみつく藁も信仰である。
 
多くの信仰は
他に何もなくなってから生まれている。
 
私たち信仰者は
まさに、すがりつく糸として、キリストを知ったのである。
私たちの信仰は高々そのような程度のものである。
 
そこには、いかなる復讐心も、憎しみもなく、
頽(くずお)れる自らの倒れる方向を与えられる。
 
信仰するということは、
他の、いかなるものにも代えがたい絆(きずな)を求め
それを知ることである。
 
信仰は
神の意志を理解することからではなく
人の必要性から始まっている。
 
人が神の正しさを知ったからと信じ込めば
偶像信仰になってゆくだろう。
 
ゆえに信仰は決して固定できない
ということをむしろ知るべきなのである。
 
他にない
という人にとってのみ信仰なのであって
 
他にもあるけど・・という信仰なら
気軽に付き合いのように分かったと言うべきではない。
 
そこは人間にとって不可欠な真実からは
まだ遠いと弁えるべきである。
 
少なくとも一度は来るはずの
生と死への境界に立つときまでに
自らが信仰と思っているものを省みるべきである。
 
もはや神の器に成り上がった微笑の調和も
バランスも保つことなど出来はしない。
 
何を捨て
何に捨てられているのか
そこにすべての教義は死に絶え
踏絵は踏みひしがれ
 
神の御業を知らない
キリストの奇跡を知らない
聖霊の体験を知らない
讃美も感謝も知らない
 
語るべき何ものもなく
ずれた顎から舌を垂らし
眼球は偏(かたよ)り流れ
手も足も投げ出されて
ぶらぶらと関節の規則を外れて曲がり
人の形を失ったその果てに
受けとめる器があろうとなかろうと
落下に任せるしかない時があり
任せる相手がいることを信じるのが信仰である。
 
人によらず
人にあらず
収めようとすればするほど
壊される土の器の日常である。
 
土の器は強くはない。
むしろ脆くて壊れやすい。
 
それでも学ぶことを止めないのは
他に頼るものがないからである。
 
そのとき信仰は
壊れた魂の土の器を
神の前に捧げて祈るしかないからだ。
 
大言壮語の讃美では
傷心しやすい弱小のわが身は癒えることがない。
何故なら自分で強さを呼び寄せようとしているからだ。
 
来たるべき艱難に備えるのは
傷心しやすい弱小のわが身を弁えて
神の導きを受け容れられる我が身であることを
修正可能なわが身の弁えを神の前に捧げて
赦しと癒しと救いと導きを祈り願うことだけである。
 
手足は萎えて
目はかすみ
耳は遠くなり
口は著しく無駄に思えるときも
生きるために必要とするならば
 
他にないというほどの愛の賜物を受けること
それが地上を生きる人間にとって
復活でと言ってよいだろう。
 
それは喜びに満ちているとは限らない。
勘違いしないでほしいのは
失望~絶望で明確な生きる望みを失っていても
それでも御心を想って生きてゆくとき
そこに溢れるほどの喜びがあるとは限らないということだ。
 
救われたのだから喜びにあふれて讃美するはずだと
信仰に生きることを理不尽に限定して
疲れる作業にしてはいけない。
 
神様に縁付いたのだからと
ようやく衰えを受け容れて
生きることだけで精いっぱいであるなら
讃美など出来ない信仰生活もあるだろう。
 
 (詩篇、口語訳)
119:123
わが目はあなたの救いと、
あなたの正しい約束とを待ち望んで衰えます。
119:124
あなたのいつくしみにしたがって、しもべをあしらい、
あなたの定めを教えてください。
 (詩篇119:123-124、旧約聖書)
 
 
(2011年12月08日)
(2019年05月17日、修正)
(2019年05月18日、一部修正)
(2020年05月29日、一部加筆修正投稿)
 
 
復活

復活
 
 
(2021年06月05日、再録+)
 
 
艱難(かんなん)
依り頼む(よりたのむ)
脆い(もろい)
藁(わら)
萎える(なえる)
 
 
 
 楽山のツイッターですが
 
返信先: 
@asasfjgg
さん
>月影さんが・・・・・説明してもらえませんか。
 」
始めから『「一文言」だけを抜き出すという歪んだ方法』と書いています。
多くの事を語っているにも関わらず、
その大半を無視し、
都合の良い1文だけを抜き出し、
筆者の意図とは異なる意味を被せて論じる事は、
ズルい方法と思います。
午後4:14 · 2021年6月4日·Twitter Web App
 
上記引用元ではなく、楽山を批判しています。
 
「都合の良い1文だけを抜き出し」て、利用~悪用するのは、楽山の、"読書しました自慢" における常套手段です。
 
心機一転★こも楽山
@komo266
いやいや、この原因は、総裁には極論、ハッタリ、放言が多いということだよ。
・総裁が極論を述べる
・炎上、祭になる
・信者らはカルト視を逃れるため総裁の極論を薄めようとがんばる
コロナ死滅の話もそうだし、今ペンさんがしてるのもこれだよ。信者数、霊言、神罰、エルカン宣言もこのパターン。
午後7:53 · 2021年6月4日·Twitter Web App
 
「極論、ハッタリ、放言」が多く、さらに、理路の短絡、妄想的固着、なども、楽山の破綻として、よく見られることです。人のことばかり言う楽山ですが、不可避的に、楽山の傲慢からの詭弁に加えて、否応なしに、楽山の "教祖願望" が、言外に、体臭のように、表れています。
 
楽山に、人のことを言う資格はありません。
 
 
 
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  神と人知2
 
 
超常への憧れから信仰者になった人は現実問題に向き合うことが苦手になるかもしれません。
 
現実問題に疲れた人が、何らかの機会を得て、信仰者になる場合には、信仰は、超常ではなく、キリストの愛と共感によって、心で受け取っていると思います。
 
超常信仰は、信仰を驚くべき神のわざとしてしか受け取っていないために、元々の関心が向いていないところの人間性を磨くということを怠りやすく、あるいは、キリストと救われた人々との共感ということに思い至らず、信仰に、超常のしるしを当てはめがちになるでしょう。
 
そういう人は、キリスト教系カルトにつながりやすいので、その人の身近にいるキリスト者が、説明~説得してゆく必要があります。一時の誤解にとどまらず、継続的な曲解になり固定されてゆくのは、カルトの方向です。
 
最も悪質なカルトは、元々、人間性が欠落しているので、超常を決めつけるしかない者たちです。例えば、キリストの奇跡や復活から信仰に入ってくる人は、キリストの人間性や共感という言葉を聞いても、神の恵みを人知で扱おうとするのは不当だ、などと、考えやすくなります。
 
しかし、私たちには、人間性と人間の能力しかないのです。物や肉体の奇跡だけから信仰に入ることは、ありえないと知るべきです。つまり、人間は、人知しか持っていないわけですから、神の与えたものの中で、人知で理解可能なものだけしか、受け取れないはずなのです。
 
聖書には、これまで書いてきたように、人知で、人間性で、人間のふつうの知性と感性で、理解と共感が可能なことが、いっぱい、書いてあります。
 
また、神学や哲学など学問的知識から信仰者になった人は、共感と言った情緒や感性的な側面について、苦手だったり、表現に不自由したりするかもしれません。
 
聖書から受け取ることはいちばん大切なことですが、聖書の解釈について、知識についても、思い込んではいけないことがあります。何より、聖書の教えこそが、聖書についての、人間の思い込みを戒めているのです。
 
 (ヨハネによる福音書、口語訳)9:41
イエスは彼らに言われた、「もしあなたがたが盲人であったなら、罪はなかったであろう。しかし、今あなたがたが『見える』と言い張るところに、あなたがたの罪がある。
 (ヨハネ書9:41、新約聖書)
 
 
人によって解釈が違うところで正邪を語るなら、自己解釈正当化の言い張り合戦にしかなりません。解釈が違うということこそ、人の避けられない原罪であります。
 
大事なことは、神の前に、私たちは、神に比べれば、皆一人一人、厄介な罪人であり、何も、絶対に正しいなどとは言えないということです。
 
その根拠は、人は自らの言動の影響を、その影響がなくなる時と所まで、追うことなど出来ない。それは、風を追うような(捕らえるような)ものだからです。ゆえに、良かれと思って、傷つけるということが起きるのです。
 
ただ、その自覚をもって、神に、正直に祈ることだけが、神から、"信仰の義" を恵まれる条件であります。つまり、信仰と救いの条件は、正邪ではないのです。神の前の、精いっぱいの正直であります。そこまでしか、私たちは、神に捧げることは出来ないのです。
 
一方、偽キリスト者や、カルトは、必ず、神の前に、嘘と飾りを捧げます。
 
私たちは、神の前で生きているということです。そして、神に向かって祈るということです。そこで、神とは違う人としての身の程を弁えないならば、信仰は成り立ちません。
 
言葉だけ丁寧な尊敬語を使っても、頻りに讃美の言葉を弄しても、人に思い込んでいることがあれば、神は、それを、総て、見抜いておられます。
 
 
信仰について、神聖について、人の思い込みは、偶像と成りえます。
 
パリサイ人は、そういう決めつけの思い込みで満たされていたので、キリストの言葉を聞き入れませんでした。同じようなことは、今の、特にキリスト教内外のカルトでも起こっています。
 
しかし、カルトではない伝統的なキリスト教の教派なら心配ないかと言えば、決して、例外ではないと申し上げます。何故なら、それは、人の性質、特に、罪の性質が、そうさせるように出来ているからです。罪の性質を警戒しないで、安心の境地にいるつもりの人は、要注意なのです。
 
人は、安心したがります。そのために受け取った良いことを固定したがります。それを、揺るがない信仰などと言いたがります。実際は、思い込みを固定するようになります。思いこみは、心の中の偶像になります。
 
むしろ、そういう偶像については、人間は、持っているもんだという自覚を持つことが、罪の性質を自覚することにつながるでしょう。心の中の偶像は、目に見える偶像のようには、排除したことを確認することが難しいものだからです。目に見えないものは、いつも、確認しにくく出来ています。
 
何かを、信仰について、判断し、実行はしても、御心を思い込んではいけません。神の御心は測りがたいものです。そして、神聖に対する思いこみを防ぐためのヒントがないわけではありません。
 
思い込みはいけないと言われても、ときには、強く思うことが必要です。しかし、強く思うことと、思い込みは違います。強く思うことには、強く思う動機があります。しかし、思い込みには、心を踊らせず快活でない圧力はあっても、大方、心を動かす動機のない教条的なものが含まれています。
 
「神は、こう思っているに違いない」とか「神はこうなさるに違いない」とかを、人に言いたくなるような場合、同じことを、神の前に、キリスト・イエスの御名によって、神に向かって、そのまま言えるかどうかを、まず、考えてください。そうすれば、大方、恐れ多いことに気づくでしょう。
 
正常な祈りは、私はこう思っているのですが云々、とか、私はこうしようと思っています、という言い方にしかならないのです。それを、神を恐れるところの、敬虔といいます。
 
また、神聖に関わることで、自分が思うことの正しさについて、自分が感動という心の動きを自覚しているかどうか、というを考えてみてもよいでしょう。
 
思いこみは、誇大的であったり、陶酔気分であったりはしますが、大方、本当の心の感動を伴っていません。思いこみは、大方、退屈で、ときには、教条的な強迫観念となっていることもあります。
 
 
ちなみに、揺るがない信仰は、忍耐強いのであって、固定しているのではありません。
 
それに、前から言っているように、信仰は、神と人の双方向であります。そのために、祈りがあります。信仰のもたらす平安は、人の、活性のある心において起こる現象であって、不変の悟りの境地ではありません。
 
ゆえに、平安は、安らぎとともに、情熱を与えます。それが忍耐強さにつながります。それらは、多く、祈りに答えて与えられます。
 
神は、人知を超えたことをなさるかもしれません。しかし、神は、人間に対しては、人知、言い換えれば、人間の心に働きかけ、人間の心を導きます。
 
ここで、人知は、知識と思考だけではありません。人知といえば、思考とか知性とかいうと論理を思うかもしれませんが、知・情・意は、人間において一体であり、独立してはいません。
 
 
キリスト信仰者(クリスチャン、キリスト者)は、神のもとにあって、神よりも劣る不完全な存在つまり罪人であること、ゆえに、神からの、赦し、癒し、救い、導きを必要としていることを、神の前に、認めた人であります。したがって、神と人の決定的な違いを弁えているはずです。
 
そのキリスト者が、神聖について、思い込んでいたら、信仰が成り立たないのは当然のことです。思いこみは、あらゆる正しいと思われることに及びます。教理や信条という、一般に正しいと認められたことも、その言葉だけによって心を固定することは思い込みの一種であります。
 
心と言葉は、いつも一体であるとは限りません。聖書を読んだからといって、人の持つ言葉は、神の言葉と、いつも同一とは限りません。その原因は、ひとえに、人間が不完全だからです。
 
一つの言葉が、いつも、一つの心と同一とは限らないということです。変質したり、尾ひれがつくことがあるということです。一つの言葉が、心を動かしても、別の時には、動かさないか、違う作用になっていることもあります。
 
聖句は、同じ言葉だととしても、受け取り側の人の器は、安定しているわけではないのです。心は絶えず動いているものです。ゆえに、理解を新たにする、という成長もありうるわけです。心は固定できません。無理して固定しようとすると壊れてゆくかもしれません。
 
心が活発に動くことで、人間は、生きているのであり、成長もするのです。成長に必要なことは、反省すること、そして、修正可能であることです。新たな感動が待っている可能性があるわけですから訂正不能にしないこと、学習と成長を、積極的に望み、かつ、努めることです。
 
これらの信仰の弁えは、人間の、欲望、特に、完全欲とは対立することが多いので、自発的に積極的に意識することが必要です。キリスト信仰の学習や修養は、ここにあるのでしょう。ゆえに、信仰は、不変の境地ではなく、努力と再生の、生きている間ずっと続く道です。道ゆえに成長が可能なのです。
 
 
神と人知

神と人知
 
 
(2020年05月26日)
(2021年06月01日、再録+)
 
 
 
  不信仰告白
     (キリスト以外の
      神を知らない)
 
私は一本の髪の毛を
恐る恐る
火にかざしてみるのだ
 
 誰が神を
 神と名付けたか
 誰がやさしい父を呼ぶように
 神を呼んだか
 流された夥しい血を
 皿の上の相づちで受けながら
 誰が気安く許される
 罪を認めたのか
 
私は生きるのに向かない
私は宗教に向かない
私は神の国に向かない
私は神を知らない
私は主に仕える水の泡である
 
 
(90年代か)
 
 
 
 楽山のツイッターですが
 
心機一転★こも楽山さんがリツイート
mm
@masakimuro
《KKことHSがカルト宗教だと言える理由》最初は、愛、知、反省、発展、それから正しき心の探求というのをキーワードとして入信させ、いざ学んでいったら『霊』のことばかり言ってくる。人生は霊によって支配されていると思い込ませる。人の弱い所を見えない物によって恐怖心を煽る。これがカルトの正体
午後2:24 · 2021年5月30日·Twitter for Android
 
リツイートの引用元を批判する気はありません。批判対象は、楽山です。
 
楽山が自己愛性人格障害(NPD)だと言えるのは、思いやり、深い思慮、反省力、責任感、学習と成長、こう言ったものが、全く見られない自己中からです。そして、楽山ブログの記事は、多く「『霊』のこと」を、宗教や信仰と混同して、刷り込んでくる無知、そして、無恥です。
 
楽山は、言葉の概念の表層だけを並べて、一見、論理的に見せかけて、人を、だましています。本当の理路を求めている人は、反省力があり、修正能力も高く、かつ、実質において、柔和で、決めつけることのない視野を持っているので、よく成長して知識が豊富なのです。楽山は、逆です。
 
「人の弱い所を見えない物によって恐怖心を煽る。これがカルトの正体」・・そして、嘘と詭弁しか身に着けていない楽山の正体であり、反宗教と、楽山の自己中ボンヤリ鈍麻思想を、刷り込んできます。楽山は、HSアンチではなく、自家製カルト思想で自己満悦を得るために、人を、だまします。
 
楽山は、リツイートや引用で、人の口を利用して、柔和な味方であることをアピールしてきますが、実際は、とんでもない自己中であり煽動屋であり詭弁屋であり、平気で嘘を吐く人です。楽山の言を真に受けないでください、丁寧語に、だまされないでください。約2年間、批判しています。
 
楽山には、深い情緒的な共感性がありません。だから、罪悪感を持ちえず平気で、嘘を吐けるのです。こちらも、楽山の気持ちを知ろうなどと思ってはいけません。批判する人には、楽山に対して、けっして感情移入せず、乾燥遺物を見るようなスタンスが必要です。楽山は紙屑の資料です。
 
楽山は、つぶやくだけならいいだろう、と軽く考えているかもしれないが、性根や魂胆というものは、自分の書いた文章のみならず、どういう本を読み、どういうツイートを読み、どういうことを引用するか、どういうツイートをリツイートするか、ということにも表れてくるものです。
 
都合がよいと思ったら、あとさき考えずに、引用・リツイートするというのは、楽山の場合、以前から、やってきたことですし、表面的に善を表す都合のよいこと、でなければ、相手に都合が悪いこととを、引用して、弁明できない腹いせにしたり、悪口の代用にするということです。
 
引用だから、リツイートだから、責任はない、ということでは決してないのです。無反省・無責任の楽山は、そういうことも、分かっていないことが明らかになっています。これからも、病識も罪悪感もない楽山は、自らの程度の低劣さと邪悪さを、平気で、見せてくるのでしょう。
 
 
 
(古い記事は載っていません)
 
http://st5402jp.livedoor.blog/
(古い記事もインポート済み)
 
ツイッター:
(ここは、ブログ記事をリンク・抜粋)
 
 
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