ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

タグ:楽山

 
  自由と解放3
 
 
信仰は
欲望や、世俗のしきたりや、先入観や偏見などの
戒律みたいなものに縛られる心から
基本的に
神の御心を思う世界へ
生き方の方向を変えることです。
神様のほうを向くという表現もあります。
つまり生き方の方向転換と言えるでしょう。
 
こだわる物事が別のものへ変わるのではなく
こだわりという不自由からの解放
つまり自由ということです。
そうでなければ信仰は無意味だからです。
 
信仰は取引ではありません。
何かを捨てて別の何かを得るという交換ではありません。
信仰は気づきの世界であり
物事の集合を本質としてはいないからです。
 
つまり信仰は
自分を縛っていた様々な不必要なことへの隷属から
人を解放することであり
世俗への強迫的こだわりからの自由でもあります。
 
それが新たな"信仰?"への縛りに強迫するのでは
もはや望ましい信仰ではないのです。
つまり
信仰は信条への束縛ではなく
世俗へのこだわりからの解放であり
どこまでも
自由意志によるところの信仰です。
そうでなければ意味がありません。
 
ゆえに信仰は
決して強制できない本質を持つと言えます。
 
ゆえに信仰は
人間の自由意志による可逆性を持つとも言えます。
 
ゆえに信仰は
縛られることではないということです。
 
信仰者になって
様々な信条や教理に
新たに縛られたのでは話になりません。
 
ゆえに
信仰において忘れてはいけないことは
神への正直な祈りだけです。
 
あとは折に触れて聖書に親しむこと
というようなシンプルさであることが必要です。
信仰の知識はその中で自然と学ぶこと以上ではありません。
 
 注意してください。
 信仰を
 神についての妄想的教理に誘うもの
 何でも神が味方という自己中に誘うもの
 優しくて穏やかな神だけを伝えるもの
 逆に教条の戒めにうるさいものとするなら
 これらはキリスト信仰ではありません。
 
信仰は
神に対する善でも正しさではありません。
そんな正しさ、地上の誰も持ち得ません。
 
信仰は
神に対する正直だけが本質です。
それだけが神に対して人の出来ることだからです。
 
ですから、また、
信仰は道徳の寄せ集めではありません。
 
世俗からの解放は
世俗の物事を全否定することではなく
世俗にこだわり縛られる心を解放することであります。
 
ですから信仰は
世俗のあらゆることを捨てて
世捨て人になることではありません。
 
また信仰は
教理や信条だけで言動するように
他の関心事を捨てることではありません。
 
というのは
そのようになってしまうことは
信仰に献身したというより
信仰から人間性を外して
信仰が単純なマシーンになるようなもので
むしろ神が与えた心や自由意志を捨ててしまうことであり
一種の強迫神経症に過ぎないからです。
 
 
人間の知情意は
神からの恵みの賜物であります。
そこから良心も人間としての正義も生まれます。
しかし人間に絶対はないので
意見があり、また、批判があるのです。
 
最悪なのは、神の名によって、それらを封じることであります。
 
二番目に悪いのは、神の名によって、
都合の良いほうを残し、不都合なほうを封じることであります。
 
次に悪いのは、封じることはしないが、無視することであります。
それは、信仰においても、人間性においても、まともではありません。
 
カルトや自己中やサイコパス的人物は、
そういう、隠蔽、無視、などをする者たちであります。
いかなる社会においても、まともに付き合えない者たちであります。
 
信教の自由と言論の自由は
信教の責任と言論の責任を負う
という前提において保証されるべき自由であります。
 
カルトや自己中やサイコパスは、
自由勝手に言動し、かつ、責任を負わない者たちです。
ゆえに、平気で、人を無視し、嘘を吐けるのです。
 
 
信仰において許される自由は
信仰によって与えられる解放に伴うものです。
 
人間の知情意は
神からの恵みの賜物であります。
信仰は決して人間の知情意を束縛するものであってはいけません。
それは、神をけがす行為であります。
 
信仰は人間の知情意の良心を促進するものであり
縛られていた心の束縛からの解放によってもたらされます。
 
いつのまにか人間の心をだまし束縛する者がいて
そういう者を、誤って信頼したり、鵜呑みにしていると
いつのまにか自由を失って人格が破壊されてゆきます。
 
間違っても信仰が神?による束縛や縛りになりませぬように。
 
信仰が魂と心の自由への解放となりますように。
 
 
信仰は禁欲に置き換えられるものではありません。
禁欲は、修養としてはありますが、
それで信仰が成るわけではありません。
 
欲に縛られるから、
縛られないように欲を捨てる
という幼稚な戒めで信仰は語れません。
欲は死ぬまでついてくるからです。
 
信仰は関係であり絆であり共感であります。
ゆえに生きる希望と愛になりうるのであります。
 
 (マタイによる福音書、口語訳)5:28
しかし、わたしはあなたがたに言う。だれでも、情欲をいだいて女を見る者は、心の中ですでに姦淫をしたのである。
 (マタイ5:28、新約聖書)
 
情欲の聖句は
情欲についての戒めにとどまりません。
聖句のモジリを書いておきます。
 
人を欲の目で見る者は姦淫を犯したのである。
 
つまり人はしばしば欲の目で見ており
すでに、そして、これからも、姦淫を犯します。
姦淫は、情欲だけでなく、偶像崇拝であり、
この場合、欲への崇拝を意味しています。
 
情欲の目を慎みましょう
などと言う道徳では決して表せないものです。
 
「情欲をいだいて女を見る者」は総ての人であり
総ての人が罪人であることを表すための聖句です。
 
「女」(口語訳)→「人の妻」(新共同訳)に書き換えて
安い道徳におとしめるのは偽善者と言われても仕方ないのです。
キリスト信仰は
浮気をしなかったら救われるという単純な道徳ではありません。
 
したがって罪なき者は一人もいないのであって
信仰者は、心の向きを変えて、
神とキリストのほうを向いて祈るでありましょう。
 
欲から自由になることが信仰なのではない。
欲は誰にでもあり、信仰者だから清潔ということはない。
何を仕出かしても、
神の義のほうを向く心があるかどうかだけが信仰の有無であり
すなわち
正直に罪を告白し祈る心があるかどうかだけが信仰の有無であります。
 
祈りは、おもに、悔い改めのためにあります。
悔い=人に言えなくても、罪悪感を持ち、罪を自覚し、罪を後悔すること。
改め=折に触れて、祈ること、
即ち、そのとき、"神のほうを向く"ことになる。
 
それが、世俗から神へ、拠り所の向きを改めるということです。
そして、正直に罪を告白して、赦しを乞い、願いを述べる。
というのが信仰者の務めであります。
 
信仰は取り引きでも魔術でもありませんので
すぐ何もかも解決したり幸福が訪れたりするわけではありませんが、
祈ることで、何らかの心の安らぎを得る
というのは、多くの信仰者が経験していると思います。
 
地上の現象としては、心理的効果と言われるでしょう。
それでもよいと思うのは
神のもたらす働きを
地上の人は、いちいち、これは神が、
きっと神がと、確認できるわけではありません。
 
神という絶対者に、キリスト・イエスの御名によって、
祈るということを旨とする暮らしが、何よりも大切であります。
 
祈ったことは、すべて、神によって、聞かれている
というのは、祈りの信仰の中心であります。
 
しかしながら、
その祈りは必ず神に受け入れられている、ということは言いにくいのです。
というのは、偽善者も、欲望実現のために、偽りの祈りはするからです。
 
神は、確かに、一言一句漏らさず、聴かれるでしょう。
しかし、届く意味は、信仰者と偽善者では、正反対になります。
 
ちなみに、私が聖書を読んで考える善悪の言葉は、
悪性度の高い順に、偽善>悪>善>偽悪、と考えています。
 
キリスト信仰は
偽善を最も忌み嫌うことが聖書に表されています。
 
 
人間一般に、かなり蔓延している病のような欠点があります。その欠点を認識するかしないかで、罪人の信仰を持ちうるか、偽善者の傲慢を持ってしまうかが決まります。
 
その病は、"分からないと言えない" ことです。
 
 
神の前に正直な祈りを

神の前に正直な祈りを
 
 
悔いても、過去も未来も、改められないことが人間にはあるでしょう。
 
悔い改めとは、完全になることではなく、生きる方向を改めることであり、
神に対してだけは、正直に告白することです。
 
 
思考実験として、自分のいちばん大事にしている利点や利益や物や、さらに人が奪われたら、信仰を捨てるかと自分に問いかけてみる。私の場合、信仰に条件をつけてはいけないから信仰を捨てない・・とまで言えるかどうか分からない。けれど、他に支えがないから・・とは言えそうです。
 
 
(2020年)(2021年)
(2022年06月23日、再録+加筆)
 
 
 
  信仰告白
 
人間がなしうる
最も良質な
精一杯の信仰告白は
不信仰告白である
 
 
  (抜粋)
 
耐える
という愛の行為は
耐えがたい状況における感情
を吐き出すことなしに始まるだろうか
(感情の発散は
 詩の持つ唯一の効用と言われるが
 もちろん詩だけではない)
書くこと・話すこと
何よりも神の前に総てを
背教の念も不信仰も
さらけ出して告白したいと思う
 
神の前で背教の念など以ての外?
背教の念を抱いたことなど全くない
と言えるならそれでよい
しかし少しでも覚えがあるのなら
告白しないことは自分を偽り
神を偽ろうとしていることになる
不義を喜び真理を喜ばないで
真実に蓋をすることになる
 
人前では隠したいこともある
繕(つくろ)わねばならないときもある
喋(しゃべ)りすぎて損をした気持ちにもなる
しかしクリスチャンにとって
人から神へ訴える唯一の手段
祈りの場においては正直でありたいと思う
 
 
  (抜粋)
 
少なくとも一つ以上の自分ではあがないようもない罪を知り罪の意識にさいなまれて正直に告白している人にだけ「あなたの罪は許された」という言葉は命をもって与えられます。「告白すれば罪が消える」「罪を免れる」と安易に思っている人は言われるべきです。「罪は決して許されることはない」。
 
 
  夜明けのテロリスト
 
与えられなければありえなかったのに
人生切り取り放題と言わんばかり
聞いてもしようがないのは
成功者の格言めいた話だ
しかもそれが誰にとってもお宝のように
賛美する脇役や端役
騒ぎ立てる石ころや石焼きイモだ
 
夜は腹が減る
 
体は動物のように正直だな
賢者の話なら聞いてもよいが
賢者が賢者だと
わかるほど賢くはないのでね
 
 
  行きます
 
その日が来たら
私は行きます
彼方の彼方へ
 
私は来ました
と言ったように
約束どおり
私は行きます
 
一滴の涙を土に埋めて
誰にさよならも告げないで
私は行きます
だから待っていて下さい
きっと私は行きます
でもその日が来て
もし私に行く力がなかったら
彼方の彼方から
すぐそばまで来て下さい
そして私の手を引いて
連れて行って下さい
 
その日が来たら
約束どおり
彼方の彼方へ
 
 
  (雑感)
 
人間は
たぶん
孤独でも
孤独でなくても
騒がしくても
騒がしくなくても
心に
温もりと
潤いを持てるあいだ
生きてゆけると思います。
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
楽山は、恐らく、誰にも正直な告白や祈りをしたことはないと思います。楽山が書いてくる文章は、「反省。とほほ」など、白々しい芝居や世辞や嘘ばかりです。楽山ような人は、自分に対しても正直になれず、正当化して飾るための言葉を集めているから、結局、理路までも壊れてしまうのです。
 
心に、感情としては、笑いと怒りしか持てないのが、サイコパス人格です。何が欠けているかと言えば、しんみりとした悲しみの情です。悲しみは、人間としての不完全を自覚し、じっくり反省するために必要です。悲しみの時が訪れても、怒り、狼狽するだけなのだがサイコパス人格です。
 
 
 
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  祈りとは3
 
 
祈りは
人から
神への
言葉による唯一の音信であります。
 
そこにのみ、言葉での
神に対する人の自発性が表れます。
 
出来事
思うこと
感じたこと
学んだこと
悔いていること
罪の告白
赦しと導きを乞うこと
 
信仰を固定してはいけません。
 
心の中が定まったからと思って
心の中をそのまま変えないことが
信仰だと勘違いしてはいけません。
 
定まって変わらないのは
神の御心であって
人の心ではないのです。
 
人が自分の心を変えないようにと思っても
人には心を不変に保つだけの強さはありません。
 
言葉が変わらなくても
心は変わります。
 
言葉が違えば気づくでしょう。
心が違うことは気づきにくいのです。
心は変わるものと思っておくべきです。
 
人の心を変えないようにすることは
人が自らを弁えず無理をすることであり
神が人を変えようとすることを
つまり成長させようとすることを
拒む行為であります。
 
信仰において
人が自らの分を超えて無理することは
かえって心を損なうでしょう。
しかも、御心に背く行為なのです。
 
罪なら罪の
願いなら願いの
ありのままを正直に神に告白し
そのとき告白できなかったことは
気づいたときに改めて告白して
改めて神の導きを乞い
そして出来ることをして
待つのが信仰です。
 
不安定になってはいけないと
いつも同じようなことを祈るのは
人が不完全であり罪の性質を持っていて
さらに
元々不安定であることを知らないからです。
 
人間ならば
日々、様々なことをして
様々なことを思うのであり
日々がまるで一緒ということはないはずです。
 
人の避けられない変化を
やみくもに変わってゆくことから
神の御心によって変わることが出来るように
神によって心が解放されるのが信仰です。
 
まるで悟りの境地に達した気分で
人が完全不変を自分で保つかのように
神が開いた心を変わらないようにすることは
新たな導きを拒む姿勢なのです。
 
赦しに加えて
癒しと
落ち着きと
安らぎという恵みは
信仰によって
神から与えられるのであって
 
人が自分で癒えるように落ち着くように安らぐように
自分で心の姿勢や態度を固めようとするのは
神の導きを拒むことであり
信仰を自分で保てると慢心することなのです。
 
揺るがない信仰というのは
忍耐強さのことであり
けっして不変や固定を意味してはいません。
 
人は地上に生きているあいだ
頻繁に他者の影響を受け
さらに我執の誘惑に直面しています。
 
それは悪魔の誘惑に近く
つまり
人は悪魔性を内蔵しているということです。
 
悪魔性に
信仰の確信?を貼りつけてはいけません。
 
偽善者は
まさに自らの悪魔性に動かされて
癒えることなく落ち着くことなく安らぐことなく
他者を下に見る分
いつも他者を気にして
他者に刷り込みを繰り返し
神の御心から離れてゆきます。
 
要は努めるべきこととして
人として
神の前でだけは
何よりも正直を心掛けることだけが
信仰において唯一正しいと言える弁えであります。
 
"ねばならない"
ということは多くはないのです。
「無くてならぬものは多くはない。いや、一つだけである」
(ルカ10:42)
という教えは
信仰がシンプルであることを教えています。
 
神の前に、正しさをいくら述べても通用しないのです。
最も正しい御方が相手だからです。
 
神の前に、どれだけ愛を語っても通用しないのです。
最高の愛を持っている御方が相手だからです。
 
神の前に、正直以外は、通用しない。
 
このことは、私たちが、
余計な荷を下ろし
無くてはならないもののほうを選ぶためです。
 
 (マタイによる福音書、口語訳)11:30
わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからである。
 (マタイ11:30、新約聖書)
 
信仰は
他者に対しても
自分に対しても
人間の自由意志に働くのであって
脅迫でも強迫でもありません。
 
 
祈る 心

祈る 心
 
 
(2020年)(2021年)
(2022年06月22日、再録+加筆)
 
 
 
  小屋から
 
小屋から屠殺(とさつ)場まで
死ぬのは一瞬で
死んだあと食われること
など分からないから
殺されるとも知らずに
飼葉(かいば)をのんびり食(は)んでいます
涎(よだれ)を垂らして何度も何度も
反芻(はんすう)しながら
 
小屋から刑場まで
飼葉桶(かいばおけ)から十字架まで
殺されると知りながら
血と肉の
ブドウ酒とパンの福音を
罪人とされた人々に述べ伝えながら
来し方・行く末を何度
反芻されたのでしょうか
 
民族も人種も違う東の国の
家畜以下の怠け者が一人
深い罪の淵(ふち)で
あなたに こだわっています
気の遠くなるような時を超えて
 
 
  ウソの胸
 
風通しのよい胸だ
ほとんど風化している
どんな風が吹き抜けたのか
吹き抜けた風は
今どこに
見知らぬ野原で
草を揺らしているのか
昔懐かしい人の前を
一瞬でも通り過ぎたか
答えようもない問いが
ぽっかりあいた胸の中で
ときに胸をひらひらと揺さぶっている
 
風通しのよいことが
気持ちよいとは限らない
空っぽの胸はウソの胸
吹き抜ける風はウソの風
通いなれた道を通り
なじみの街を過ぎ
風化した穴に
今も聖なる心と
聖なる血を求めて
ため息で祈る
 
 
  呪いの丘
 
晴れた日の光をいっぱいに浴びて
洗礼を受けたばかりの若者が
翌日落雷に打たれて死んだ
しばらくは指が動いていたという
つり上がった目が空をにらんでいたという
 
彼が死んだその丘は
その後長きにわたって呪いの丘とされ
ある者は悪魔を恐れるように神を恐れ
ある者は笑いながら
あるいは泣きながら歩み去った
 
人々は
その事件について口にするのをはばかり
最初たてられた十字架は
何者かによって倒された
 
誰も訪れることのない
その丘に
血まみれのキリストだけが
息もたえだえに祈りを捧げている
 
 
  不信仰告白
     (キリスト以外の
      神を知らない)

私は一本の髪の毛を
恐る恐る
火にかざしてみるのだ

 誰が神を
 神と名付けたか
 誰がやさしい父を呼ぶように
 神を呼んだか
 流された夥しい血を
 皿の上の相づちで受けながら
 誰が気安く許される
 罪を認めたのか

私は生きるのに向かない
私は宗教に向かない
私は神の国に向かない
私は神を知らない
私は主に仕える水の泡である
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
楽山は、祈りとも詩ともつかぬものを書いたことがあります。飾り言葉だけで書いたつもりになるのは、やはりナルシストでしょう。しかも、反省せず、学習せず、ゆえに成長しないのは、病的なナルシスト、即ち、自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)なのです。
 
 
 楽山についてですが
 
昨日の楽山の記事を読んでいて、つくづく思うことですが、楽山が、言葉を並べても、何か思想を書いていると思ってはいけません。楽山は、病質に従って、症状として、悪臭と病原付きの排泄をしているに過ぎません。楽山の生理~病理現象なのです。楽山の糞尿を飲み食いしてはいけません。
 
"自分で考え、判断することのすすめ" という言葉で、自己中を正当化する、とんでもない楽山です。楽山は、まともに考えたことはないと思います。判断は、すべて、自己顕示の我欲のみから発しています。自由意志の尊重を言っても、楽山にあるのは、自由ではなく、訂正不能の我執だけです。
 
楽山の病状は、ますます、悪化してゆくだろうと思います。整理がつかないまま、推敲できずに、量を書くだけのようです。もしパニックにでも至るならば、優しさ芝居は出来なくなるので、何をやらかすか分からないと思います。本性剥き出しになってゆく楽山に、どうか近づかないでください。
 
 
 
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  我執の正当化3
 
 楽山日記(LD)2020年06月13日
 『イエス伝』ルナン著
  を改めて批判。
 
 
自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)であることを否定もしない楽山は、今回、信仰者らしい人の言を、自分の都合に合わせて、悪用しています。このように、楽山は、自分を正当化し高めるために手段を選ばない人です。楽山は、そういう傲慢から、キリスト教をおとしめてくるのです。
 
(ネットより)
ジョゼフ・エルネスト・ルナン(Joseph Ernest Renan、1823年2月28日コート=ダルモール県トレギエ - 1892年10月12日パリ)は、フランスの宗教史家、思想家。思想家。近代合理主義的な観点によって書かれたイエス・キリストの伝記『イエス伝』の著者。「反セム主義」という語を最初に用いたともされる[1]。
ウィキペディア:ルナン
 
反セム主義について:
(ネットより)
反ユダヤ主義(はんユダヤしゅぎ)とは、ユダヤ人およびユダヤ教に対する敵意、憎悪、迫害、偏見のこと[4]。また、宗教的・経済的・人種的理由からユダヤ人を差別・排斥しようとする思想のこと[5]。
19世紀以降の人種説に基づく立場を反セム主義(はんセムしゅぎ)またはアンティセミティズム(英: antisemitism)と呼び[4][6]、近代人種差別主義以前のユダヤ人憎悪(英: judeophobia,独: Judenhass)[7] とは区別して人種論的反セム主義ともいう[8]。セムとはセム語を話すセム族を指し、アラブ人やユダヤ人を含む。19世紀にエルネスト・ルナンやヴィルヘルム・マルなどによってセム族とアーリア族が対比され、反ユダヤ主義を「反セム主義」とする用語も定着した[* 1]。 
 
楽山は、自分で考えることをせず、人の文章を恣意的に利用して、しかも誤読し曲解して、さらに字面だけを漁っては書いてくる人です。しかも、それを批判しても、まともな反論も弁明もしたことがありません。他者を差別し侮辱するのに、なぜか、情熱的でさえあります。
 
正当には何も返せないのに、思いつきだけを単方向で言ってくる楽山の冷淡でサディスティックな人格が、書くたびに表れてきます。楽山は、自己正当化を人の口を借りて執拗に言い続けることの見苦しさを感じることが出来ない人なのでしょう。
 
こちらが関わっても、理路が壊れていることと、共感性がないことから、対話にならず、疲労するだけという結果ですから、もはや、コメントなどをやり取りするに値せず、楽山の文章を、記事で批判して、読者に警鐘を鳴らすしかない現状です。
 
 
ルナンの『イエス伝』は、出版当時は大変な議論をよんだというので、どういうことが書いてあるのか確かめてみたいと思い、通読してみた(昭和25年 第4刷)。自分には難しい本だったが、とにもかくにも一読後の感想をメモしておきたい。
まず巻頭に掲げられている亡き姉への献辞は、悲しくも美しい文章だ。涙が出る。イエスの生涯についての記述は想像していたよりずっと少ない。大部分は著者の論考で占められており、イエスの生涯をなぞるように書いている部分は全体の三分の一、いや五分の一と言った程度ではなかろうか。ここは残念。でも終わりに近づくにしたがってイエスの言行についての記述が多くなっているのはうれしい。
 
楽山は、「涙が出る。」などという褒め言葉を、芝居がかって、わざとらしく未熟だと感じないのでしょうか。読者が、そのまま受け取って、心が優しい人だと思うことを期待しているようですが、表れているのは、表現の拙劣と、高等感情の鈍麻だけになります。
 
飾り言葉は、楽山の口から、マシな表現を思いつかないのか、実に気安く出てきます。その感動が文章に、深く表れたことは、一度もありません。単純で深みのない言葉、これを真に受けると、楽山の悪意を見逃してしまいます。
 
「悲しくも美しい」「涙が出る」など、むしろ、楽山の情緒の乏しさが書かせる、わざとらしい飾り言葉は、月並みな言葉を大袈裟に言うことになるために、表現というものを、感動ということを、分かっていない者の筆致だとバレてしまいます。意地の悪さだけが楽山から漏れ出てくるのです。
 
恐らく、感情の深みの無い、ぼうっとした顔のまま、書いていると思います。そして、その気安さのまま、神について、イエスキリストについて、無根拠のまま、無責任に、否定を暗示する記事を書いてくるのです。つまり、今回も、書けば真っ赤な嘘だとバレてしまうのです。
 
 
自分は著者のイエスに対する信仰の強さをひしひし感じたので、そういう著者が悪魔呼ばわりされ、ひどく非難されたという話は理解し難いものがあるのだが、やはりラザロの復活などの超自然的な事柄や、伝説的な話には距離をおいていたり、イエスは教義体系だとか儀礼的なことにはこだわりは無かったろうとしているところなどが、それらを重んずる人々には問題視されたということだろうか。
 
信仰を、字面の辻褄でしか考えられず、分かったつもりだけで、信仰と人間の本質を外しまくってきた楽山が、「信仰の強さをひしひし感じた」というのは、ひしひしプンプンと虚言臭が鼻を突く嘘だと感じます。また、反省もしないで、平然と嘘を吐いてくるのは、自己愛の自己顕示欲でしかないのです。
 
楽山の言う神と宗教・信仰は、概念の言葉だけの辻褄の教義についてであり、それが合わないからと否定するやり方であります。楽山がこだわるのは、超常とか霊とか超自然とか、情緒・情感・共感のない空想であることが、既に表れてきました。言葉だけ「ひしひし」と書いても無駄なのです。
 
 
たとえば、「法と信仰箇条とを含む一宗教的経典といふ観念が、どんなにイエスの思想から距つてゐたか、注意を乞ふ必要はない」(p.264)、「彼の教理は、少しもドグマ的なものでなく、彼はそれを決して書こうとも、書かせようとも思はなかった」(p.362)、「イエスは、教義の建設者でなく、信条の作者でなく、世界を新精神に通ぜしめた人である」(p.362)、「神の重んじ給ふものはただ一つ心の正しさのみである」(p.170)など。
 
信仰を、恣意によって、教理的小理屈に置き換えて、好きなように、いじくって、いちゃもんをつけてきたのは、楽山であります。つまり、楽山は、引用元の著者ルナンに、むしろ、批判されるべき人物でしかありません。白々しい楽山は、どこまで深く墓穴を掘るのでしょう。
 
読んでゆくうちに、楽山が言いたいのは、教理と信条を否定したいのだと分かってきます。楽山は、そういう気持ちで読み、そして、書いています。そのために、本を、無理に反宗教に引き寄せています。なお、教理と信条は、要約のようなものですから、そこに信仰が一致して表れるわけではありません。
 
そこを、いくら否定しても、否定されるのは楽山の情緒と誠意と読解力だけなのです。楽山は、白々しい言葉を使うことで、情感の表現の拙劣さが表れ、月並みな褒め言葉しか書けないので、言い方だけ大仰にするしかないのです。
 
 
また訳者の後記によれば、孫引きになってしまうのだけれども、ルナンは次のように書いていたという。「教会を棄ててもイエスに対する信仰は変わらないといふ考えが私を占めた。心霊の出現を信ずることができたら屹度イエスはいふだろう、『私の弟子となるために私をすてよ』と」(p.398)(引用文の旧字は新字に改めた)。
 
私たち信仰者においては「心霊」という、楽山が好む超常用語を多用するのではなく、あくまで心を持つ人間としての信仰を語ることが必要になります。楽山に、心を大切にする態度が見られたことはありません。またしても、超常的な心霊の意味を無理に引き寄せて、嘘を吐いています。
 
福音伝道に対して、言論において、最も狡猾に、最も無責任に、最も無反省に、最も無秩序な文章で、文句をつけてきたのが、楽山であります。自分が満悦できれば、今までの主張などお構いもなく、別方向へ話を進めて、よく見られようと企むのです。そして、責任は一切負いません。
 
気をつけてください。悪魔性の厚顔無恥の強さは、白々しい芝居を平気でしますし、平気で嘘を吐きますし、不感不応・無頓着・無反省の記事を、気軽に書いて、説明・説得ではなく、刷り込んで誘導するということと、反対できないように疲れさせることしか出来ないのです。
 
病質人格の楽山の感情鈍麻は、だますための故意と、慢心からの恣意が入っているので、統合失調症のそれよりも、重症で、かつ、有害だと思います。誰からも注目されていないのに、自分が思想をリードしているつもりですから、どうしようもないのです。
 
 
自分は信仰は個人的なものであって、それを突き詰めるほどに他者とは共有できぬものになるだろうし、組織化された宗教および宗教団体は神というより、人によるものだろうと考えているので、上の文章にはさして違和感はなく、その通りだと感ずるのではあるが、
 
信仰は、個人と神の関係です。楽山は、信仰を個人の所有物のように言っている時点でアウトなのです。「共有できぬ」ということから、何でもいいじゃないか、という軽視への誘導が表れています。今に至るまで、そういう語る口の自尊過大と、平気で心にもないことを言う厚顔だけなのです。
 
批判してきた3年以上の楽山の記事やコメントから、楽山は、神にも、キリストにも、聖書の言葉にも、全く、真摯に向かう態度がなく、ゆえに、一滴の恵みも受け取ってはいないと思います。したがって、信仰のことをいくら語っても、的を射ることはないのです。
 
 
こういう考えはいつの世でも護教的で教団の安泰を守ることを第一に考え、信徒にはまず教団に従順であることを求める人からは歓迎されることはなく、それはたとえ天地がひっくり返ったとしても変わることはないだろうとは思う。
 
楽山は、キリスト教と信仰を「護教的で教団の安泰を守ることを第一に考え、信徒にはまず教団に従順であることを求める」と決めつけて、自己の立場の保身に、著者ルナンを持ち出して、歓迎されないと言っています。いくらでも、他者の言を悪用してくる楽山を、どうか受け入れないでください。
 
楽山が歓迎されないのは、言論において、部外者にとどまらず、その体質である無知と無恥から、勝手なドグマをボンヤリ言語で刷り込もうとすることで、言論の迫害者、信仰の迫害者となっているからです。さらに、他者の口を借りて箔をつけなければ、何も言えない人だということでもあります。
 
護教的でなく、教団の安泰を守るのでもなく、教団に従順でもなく、誰よりも、自らの未熟を知っている信仰者が、ゆえに、真実を真摯に求める信仰者が、結局は、楽山の決めつけを全否定するでしょう。空転する楽山の反宗教と反キリストを、許容する余地は、どこにもないと思います。
 
 
ルナンの『イエス伝』に対する批判は読んでいないのではっきりしたことは分からないが、やはりこの辺りが問題だったのだろうか。もしそうであれば自分は間違いなくバツ判定されることになりそうだし、特定の宗教に属することで平安を得ることはなさそうだ。
 
楽山の、とんでもない被害者意識です。楽山がバツ判定されるのは、言い換えると全否定されるのは、楽山が、言論において、実直さや真摯さが全く見られない無反省と単方向の、言いたがるだけの異常者だからです。明らかに「バツ判定される」のは、楽山のほうであります。
 
しかも、そこに、詭弁と嘘を持ちこんで、だまそうとしているのです。教義に沿っていないとかではありません。分からないくせに、分かったふうを装い、数々の卑怯な真似をしておきながら、反省せずに、また、書いてくる厚顔無恥の馬糞紙だからです。
 
 
随分前に、「孤独のとなり」というエッセイ集を読んだ記憶があるが、なんだかまた読み返してみたい気分。
 
楽山は、同情すべき孤独などではなく、自己中のために他者との言論による交流が出来ないばかりか、その無責任によって、信頼もされないだけなのです。その理由は、自分勝手、凝り固まった自己愛性人格障害、そして反キリスト・反宗教だからです。楽山は、読書家気取りで自分を飾っているだけです。
 
反キリストというのは、非クリスチャンではなく、キリスト信仰に対して、何らかの恨みからか、劣等感の裏返しからか、批判として成り立つような意見も持っていないのに、しつこく悪口や嫌がらせだけで疲れさせるようなダメージを与えてくる人のことです。
 
楽山の場合は、知ったかぶりの、実際は無知と無恥にもかかわらず、読書家気取り、批評家気取りで、反キリストの記事を書き続けてきます。楽山には、批判する前、半年ほど、だまされていて、まともだと思っていた時期があります。楽山は、油膜の虹色のように様々に汚れたペテン師です。
 
もう一人のシャロームの場合は、キリスト者そして元牧師を装い、正反対の妄想教理をもって、あざ笑ってきます。私は、シャロームには、妄想教理に気づいて批判する前、数年間、だまされて聖書の先生だと思っていたのです。水たまりほどの深さもない人です。
 
そういう人は、楽山とシャローム以外にも、たくさんいると思いますが、交流することが人格破壊につながるために、リスクを承知の批判者以外、決して関わらないことが必要です。彼らの我執の隣に寄り添うのは、悪意と詭弁と虚言なのです。
 
この二人については、読者を舐めきっていて、だまし文句と詭弁を用意していますから、決して、コメントなどで対話してはいけないし、また、同情もしてはいけない人です。ゆえにカルトと同じ扱いしかないのです。
 
 
 2020年06月13日 楽山日記(LD)
 神通力修行
 
 
楽山の興味・関心の方向・好む方向が表れています。この精神で、キリスト教とキリスト信仰を語られるのは、甚だ迷惑な話です。キリスト信仰は、神通力や霊感などの、いわゆる超能力マニアとは、何の関係もありません。
 
 
ネットがまだ一般的ではなかった大昔のことだが、戦前の本探しに凝って市中のリサイクルショップ巡りばかりしていた時期がある。当然ながら空振りばかりだったが、時には掘り出し物が見つかることもあって面白かった。歴史方面の本もそうだが、宗教関係の本でも珍しいものがあった。たとえば、神通術についての本がそれだ。戦前に出版された本の復刻版で、函入り、和綴じ、限定数百部のもので、購入後はチラ見しただけで積読状態だったのだが、最近見返してみたら初見の印象とは大分違って奥が深いもののように思えてきたのだから我ながら不思議である。
 
魔術を求めてリサイクルショップ巡り、宗教関係と言って神通力の本だと言い、奥が深いと言っています。どういうふうに奥が深いのでしょう。少なくとも、信仰の奥深さとは無縁です。こういう男に、キリスト信仰について語ってほしくないです。
 
この記事は、楽山の興味が、信仰の心ではなく、超常の神通力にあることを示しており、上の信仰を肯定するかのような記事が嘘っぱちであることの傍証になるでしょう。
 
 
ただ秘伝と銘打ってあり、タイトル、著者名、内容については全公開は憚られるので、それについては申し訳ないが限定公開としたい。失礼。
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秘伝と書いているように、楽山も自説を秘伝にしたいのでしょう。もったいぶってログイン許可が必要だと言っています。おともだちのあなたにだけ秘伝?みせてあげますよ・・と誘う秘密の超常同好会でしょうか、秘密結社づくりでしょうか。楽山は秘伝の hidden鼻糞でも見せる気でしょうか。
 
こういう超常趣味だけの男が、キリストは、神は、とか語ってくるのです。超常オタクが、キリスト教を魔術として面白がっている以上のものを何も持っていないのです。信仰という生き方と命の問題を、超常魔法のネタにおとしめている楽山です。詐欺師の臭いがプンプンしています。
 
様々な資料や書籍および史実は、救いを担保しません。救いは信仰のみによって与えられます。楽山は、信仰以外の材料で、信仰を否定したつもりになっているから、いつも、そして、ますます、書いていることが、的外れから狂気に向かってゆきます。それこそ、狂ったカルト信念なのです。
 
楽山は、超常空想の世界のマニアのようで、前には、キリストが青森に現れた!という話をリツイートしていました。どこそこに現れたではなく、信仰者は、自らが神の前に生きていることを信じて、キリストの臨在を信じて、祈りを捧げているのです。それが全てであります。
 
楽山は、自己愛性人格障害からの自己顕示欲によって、信仰を侮辱するために、超常話を載せている反キリストです。楽山批判には、鼻クソをほじるくらいの意味しかありませんが、見過ごすわけにもいかない楽山の執拗さに、対立軸となるしかないのです。どうか、決して、楽山に近づかないでください。
 
 
はてしなくゴミをあさる

はてしなくゴミをあさる
 
 
(2020年)(2021年)
(2022年06月21日、再録+加筆)
 
 
 
  (私見抜粋)
 
少なくとも一つ以上の自分ではあがないようもない罪を知り罪の意識にさいなまれて正直に告白している人にだけ「あなたの罪は許された」という言葉は命をもって与えられます。「告白すれば罪が消える」「罪を免れる」と安易に思っている人は言われるべきです。「罪は決して許されることはない」。
 
 
  (聖書抜粋)
 
伝道の書7:14-17
順境の日には楽しめ。逆境の日には考えよ。神は人に将来どういう事があるかを、知らせないために、彼とこれとを等しく造られたのである。
わたしはこのむなしい人生において、もろもろの事を見た。そこには義人がその義によって滅びることがあり、悪人がその悪によって長生きすることがある。
あなたは義に過ぎてはならない。また賢きに過ぎてはならない。
あなたはどうして自分を滅ぼしてよかろうか。
悪に過ぎてはならない。また愚かであってはならない。
あなたはどうして、自分の時のこないのに、死んでよかろうか。
(旧約聖書)
 
 
  最後の夏
 
最後の夏よ
お前が残したものは
いつも大事なときに雨を降らせるテレビと
ぬるぬると滲むスクリーンと
戻そうとして空回りする切れたビデオテープと
薄っぺらな模倣を繰り返して
乾いた指を湿らす舌のひび割れた日々と
もうお前を呼ばなくなったことと
お前を覚えることも
忘れることも出来なくなったことだ
 
 
(90年代か。一部修正)
 
 
  死んでいます
 
私は日々死んでいます
聖者の叫びは程遠く
詩人の鐘さらに遠く
私は日々滅びています
体は衰え心は萎え
気力は失せて
私の耳は砕け散ったかけら
響きも笛も聞こえない
私の目は汚れた鱗
涙ながらに涙は流れず
渇いて乾いて
重なるものを見抜けない
私の昼は空しい排泄に終わり
私の夜は繰り言の始め
ありふれた風景
世界の末席から転げ落ちて
私は日々死んでいます
私は日々滅びています
しかもそれらすべてが
必ずしも悲しみだけではない日々を過ごしています
 
 
  満たされるとき
 
人のいる場所で
歩いているとき
腰掛けて順番を待っているとき
人目(ひとめ)を気にする
緊張と不安
不安は対象のない恐怖だ
そんなとき逆に居直ってみる
見下(みくだ)されよ
見縊(みくび)られよ
侮(あなど)られよ
貶(おとし)められよ
忌(い)み嫌われよ
蔑(さげす)まれよ
嘲(あざけ)られよ
誰からも嘲笑(あざわら)われよ
不審者か変質者のような
二目(ふため)と見られぬ
お前の醜(みにく)い顔を晒(さら)せ
この世では何の益(えき)も意味もないが
それが仕事だ
それが役目だ
それがお前の時ならば
悦(よろこ)び安んじて死を賜(たまわ)れ
神の御手のうちに死ぬるがよい
聖霊の働きを待ち望んでいるのだ
我がうちに巣くう諸々の邪悪よ
恐怖よ悪意よ敵意よ…
…去れ
と自らの心に語りかける
力が柔らかく抜けて目蓋(まぶた)が少し温もり
周(まわ)りの人を見る目が
優しい気持ちに変わるなら
緩(ゆる)やかに謙(へりくだ)り遜(へりくだ)り
自らを神の懐(ふところ)に投げ出している
 
 
  聖霊のとき
 
聖霊というものについて
眼を閉じて祈り求めながら
独り静かに想いに耽っていた
 
いかなる悪意もなく
憎しみも嫉妬も消える
裸体の体さえない忘我と
恍惚の安らぎ
至上の優しさに内も外も溢れており
もはや痛みも苦しみもなく
負うべき何物もなく
そのままで満たされている
ここは既に聖なる領域なのか
聖霊が満ちているのか
独りなのに独りだとは思えない
眼を開ければ御国にいるかのような
いかなる富をもってしても
買うことのできない
至福のとき
 
この想いのうちに
どこにいたか
思い浮かべてしまったのは
磔刑に打ち付けられて
血まみれの死を迎える姿なのだ
 
最初で最後の
最も大いなる艱難のとき
最初で最後の
最も聖なる時が訪れる
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
楽山のような人は、まともな働きも出来ないでしょうし、まともな評価も受けないでしょう。しかし、世辞と柔和芝居で、だまして、迷惑をかける可能性は高いです。反省しない時間は、成長しない経過であり、責任を負わない人生は、人生ではなく、気づきのない日々は、ただただ、傍迷惑な空白なのです。
 
 
 
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  楽山の偽善性2
 
 楽山日記(LD) 2020年06月17日
 『読む力 現代の羅針盤となる150冊』松岡正剛・佐藤優 著
 
 
楽山は、有名人、知識人、学者、などインテリが大好きです。しかし、自分に好都合なところだけを引用したり、賛同したりして、結局、自分もインテリだと言いたいだけの自己顕示欲だということが、以前から、表れており、信頼度はゼロなのです。
 
 
常々、もっと本が読みたい、もっと読解力を身につけたいと思っているので、タイトルにひかれて読んでみた。その中身はどうかといえば、どうも自分には高尚過ぎてついていけないところも多いのだが、全体的には期待した通り面白くて一気に読んでしまった。
 
一気に読んだと言っている楽山が言いたいことはというと・・
 
面白かったところをいくつか挙げるとすると、まずは宗教の通俗化についての話がある。恐らくは学者が書いた宗教関連書籍のことを念頭においての発言のようだが、佐藤優は「面白くないし、本質において宗教を信じる人の内在的論理がわからない。これはセンスの問題ですからどうしようもないです」(p.219)とし、さらには著名な宗教学者の名を出して、「読んでいると、本当に眠くなってくる」(同上)とバッサリ切り捨てているのには驚いたし、おかしくもあった。信仰のある人には、この発言に賛成する人は多そうではある。
 
いかなるジャンルの本にも、文章にも、面白いものと、面白くないものは、あるでしょう。面白くないだけなら、読むのをやめることも出来るわけです。しかし、楽山は、面白くないと書いてある本が大好きなようです。
 
宗教は、宗教自体の問題もありますが、楽山のように、興味本位で読んでいるだけだと、楽山のように、自分を見ず、反省もできないような、揶揄するだけの偽インテリにしかならないと思います。あざ笑って悦に入る者は、恐らく、いかなる宗教も信仰も理解できないでしょう。
 
楽山の書く文章は、面白くないだけでなく、有害な文章でもあります。何よりも、共感が全くなく、書いた人の妄想とインテリ気取りと無理な自慢だけというのもあるから厄介なのです。宗教と信仰にとって、妨害行為になるので、批判しないといけないからです。
 
ここで、楽山は、知識人の口から、眠くなる、という感想を持ってきます。全か無で、いつも、自分と同じ意見を漁っては、書いてくるのが、楽山の特徴です。キリスト教、面白くない、というのを、印象付けたいのでしょう。いちばん面白くなくて有害なのは、楽山自身です。
 
「眠くなってくる」だけなら、読むのをやめればよいのです。つまり、楽山は、バカにすることで生き甲斐を感じる人だということです。こういう人は、弱い人に対しても、同じような態度で、おとしめて笑う、ということがあるので、決して近づいてはいけないと思います。
 
楽山の文章は、面白くないだけでなく、狡くて、嘘や詭弁が溢れており、汚い口で、読者をマイナス方向に誘導してきますから、キリスト者としては、読むのをやめるだけでなく、抗議の批判を書くことになります。誰も、一人も、楽山に、近づいてほしくないからです。
 
 
もう一つ本書のなかで面白かったところを挙げるとすると、渡部昇一が高く評価されているところだ。「世間は「右側」の色でしか見ていないけれども、非常に優れたカトリック知識人だということは、やっぱり記録に残しておかなければいけない」(p.178)と、佐藤優は最上級の評価をしてベタ褒めをしている。
 
渡部昇一のことは、よく知りません。Wikiによると、宗教の著作より、はるかに、政治思想の著作が多いようです。しかし、楽山は、カトリック知識人ということを重視しています。そういう立場の人のことを書いて、自分を高め、宗教と低く見なして、やはり、悦に入るのでしょう。
 
 
自分は渡部昇一は大好きで愛読していた時期があったのだが、そのうちに言ってることがあんまり大雑把すぎると思いはじめて遠退き、「書痴の楽園」を見てやっぱり面白いと思いなおしそのままになっていたのだった。でも根が単純なので、氏を高評価している文章を読むと、また読みたくてたまらなくなってくる。口述筆記のものは読みやすくていいが、そうではない初期のエッセイなどは特に中身が濃くて、着眼点も新鮮で面白かったと記憶している。いま読み返しても以前のように面白いと思えるか試してみたい。
 
ぐだぐだと書いているようですが、言葉の字面だけを並べてキリスト教をおとしめ、今までほとんど聖書も本も理解できていないことが明らかになっているところの、楽山にとって、新鮮で面白かったというのは、どういうことでしょう。説明できないから、面白かったと書くだけではないでしょうか。
 
 
あとは、「読む力」ではなくて、書く方の話も面白かった。文章を書く際には誰に向けて書くか、その対象となる読者を明確にしておくべきだとか、書評における引用の必要性やケチをつけないことという心得も興味深かった。これらは文章作法の基本ではあろうが、ともすれば忘れがちなことでもあろうし、文章を書く毎に再確認しておくべきことである。
 
「ケチをつけないこと」を当てつけています。私は、ケチをつけているのではなく、楽山が語る宗教と信仰の記事を、ほぼ、全否定しているのです。自己愛と自己中は、宗教と信仰には縁はないのです。楽山は、反省と学習が出来ないので、読むことも、書くことも、まともに出来ていません。
 
というのは、楽山は、反省と学習ができない自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)だからです。自分の気に入った文言だけしか、読み取らないし、書くことも出来ないのです。読めば読むほど、書けば書くほど、その自己中だけが、表れてくるでしょう。
 
 
本書はタイトル通りに、本、読書についての話題は豊富であるし、読むべき本のリストも提示されているので、本好きにとって楽しい本である。ただし一読すれば、まちがいなく読書欲を刺激されて、濫読したくてたまらなくなってしまうので、読書時間を十分に確保できている時以外は読むのは控えた方が無難ではある。そうしないと読みたいのに読めないというストレスで大変なことになるだろうから。
 
楽山のように、自己愛による自尊過大の人は、心で読む、心に深みを感じる、ということが出来ないし、そういう深みや人間味を感じさせる文章になっていないという事実経過が、書いてくる文章に表れてきました。楽山が、読んで面白いとか、分かったと思って、書くことは災いにしかなりません。
 
そういう人は、乱読も、熟読も、少なくとも、その感想文が、誰かの糧になるということはないのです。この記事も、解説につながることは、何も書いていません。自身の意見も、一般の意見も、書かず、解説もしていないことを、見逃してはなりません。楽山は、以前から、そういう人です。
 
読むのは勝手だが、書いて公表すれば責任が生じることを知らないのです。だから、好きなように、平気で他者を侮辱してきます。小学校の作文も、採点がついて、公表されるのは優秀作品だけでしょう。扱っているテーマはとても大きいのに、楽山には、小学生レベルの心得も出来ていないのです。
 
自己主張ばかりして、不都合な他者の意見つまり批判を無視している楽山は、いつまでも、自由に伴う責任というものを、自覚できずにいるのでしょうか。それは、読者家としてはもちろん、常識人として、人として、失格なのです。
 
 
 
    今までに表れてきたこと。楽山についての資料まとめ。
    このまとめ記事は、加筆修正しながら、
    前半は前の記事と重複しますが、
    これからも、たびたび再録することになるでしょう。
 
 楽山についての、資料を、繰り返しもありますが、まとめて、
 加筆しておきます。
 
自己愛が強く自己中である。自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)。
 
平気で嘘を吐く。世辞と、謙虚芝居と、様々な詭弁を弄して、柔和と中立に見せかける。
 
後悔、反省、修正ができない。学習による成長がない。しかも訂正不能である。
 
理路が常識的にも浅く、理解も出来ない。特に批判に対しては不感不応、または、無視するだけ。
 
相手の意見を受け取っていないので、反論、弁明が全く成り立たない。障害に全く不釣り合いな満悦感から、厚かましく、学者・批評家・読書家・インテリ気取りで、分かっているという我執から、いつまでも離れられない。
 
深い情感がなく、共感性がない。広く、人間として好ましい心が無い。
 
後悔することがなく、罪悪感、羞恥心がない。
 
世辞と社交以上の、議論や交流が、できないし、する気がない。
 
 
ボンヤリ言語:曖昧で婉曲的な言い方をして印象だけでも刷り込もうとする。
 
トホホ言語:謙虚で弱いと思わせて悪意を隠すための嘘の反省言葉。やさしさ芝居。柔和芝居。
 
ボンヤリ言語の、曖昧な筆致でごまかしながら、決めつけて、決めつけて、偏見を刷り込む。
 
トホホ言語と芝居で、謙虚を装いながら、暗に、自慢して、自慢して、自己満悦する。
 
 
アドラー心理学の宣伝をしていたが、それが抜けない自己中が表れてくる。
 
HSを脱会したと言っているが、真実かどうか、疑わしい。
 
 
反キリストである。聖書およびキリスト信仰を、貶めてくる。
 
聖書を字面だけで読んで、理解したと思い込んでいる。
 
成長がなく、幼稚な疑問のまま、止まっている。
 
聖書や、他の文章も、心で受け取る、ということがない。
 
文章の、心無い字面(じづら)の皮相を、いつも、さすっているだけ。
 
 
霊能者のつもりだが、それに見合う直観的洞察は皆無である。
 
 
楽山は、学習の結果としての自身の顔を持ちません。ゆえに、反キリストでありながら、キリスト教に執着したりなど、一定の見解もなく、求めることもなく、いくつもの良さそうな仮面を作っては見せびらかし、自己顕示して自己満足するだけなのです。
 
ボンヤリ言語は、狭義には、少し誇張した例で言うと、・・であるに違いないと言えなくもない、といったような、二重否定の肯定で、自信の無さよりも、謙遜味を出すこと、あるいは、あとでつけ込まれないように、安全策を施したつもりでしょうか。
 
まるで、無事に帰ってくるかどうか分からない自分の発言という船を見送る不安を減らすための、虚空相手の自慰行為のような癖が染みついているのでしょうか。こう言っとけば、柔和で中立と思ってくれるじゃろ・・という書き方が多い。
 
それと、ボンヤリ言語は、加えて、文脈の進め方として、回りくどく、粘着するような言い方をして、読者が、ああそうですか、というような、めんどくさがりながら、同意するという、角の立たない受け入れをしてくれるように誘導してくることが多い。
 
私の経験から、いい文章は、その一部にでも、大なり小なり、はっとするような感動を伴います。そういう文章を誰もが書きたいと思うし、努力するのでしょう。しかし、楽山には、その方向に努力する意志もなく、既に、感動を、自己満足で置き換えている。
 
そのために、読んで、否定はしにくいが、退屈であり、平凡であるのに、よく読んで批判されることが、いちいち不当にしか思えないのでしょう。楽山の実際は、読書においては、楽山は、本当の自己満足を打ち砕くような感動をしたことがないのでしょう。
 
だから、字面の辻褄があっただけでも、文字列検索一致だけでも、涙した、などと、また、自分の言葉で表現できないために、そのまま、あっと驚いた、などという、原始的な書き方をすることになっているのだろうと思います。
 
上のような言葉の悩みは、私にもありますし、多かれ少なかれ、誰にもあるのかもしれませんが、だからといって、あんまり、白々しい、まんま表現だけで書いて、それで、そのあとに満悦するなんてことはないと思います。それに、言ったことには責任が伴うことを、普通は知っています。
 
ましてや、謙虚な自分を、トホホ言語の謙虚芝居の、わざとらしい書き方で表したつもりになるというのも、これも、同じ、まんまだけの、字面だけのものになるわけです。「反省、とほほ」などという言い方が、典型になります。
 
即ち、楽山は、自身の、字面の平面を、いつも、滑っているだけになり、他者の言葉を借りて、文章を書き、それで足りるとか出来たとか、のつもりになっている間、どこにも届かない字面のジレンマが続くことになり、だます方向に行ってしまうのだろうと思います。
 
言語表現に向かない人は、絵を描くとか、音楽とかの、別の世界にという可能性もありますが、少なくとも、言葉と伝達の、一対一対応という幻想に満悦固定してしまって、字面=言いたい内容として、書いた書いたと満悦し、批判に当てつけだけ書いてくる間は、どうにもならないのです。
 
 
参考までに、前に何度も、結果だけは書いてきたことですが、次は、シャロームshalom と楽山の関係を示している事実です。
 
  偽善者の自滅
 
シャロームのことです。自滅というのはシャロームの言論・信条の自滅のことです。私は、シャロームには、キリスト者に不可欠の、罪の意識がないと思ったので、それと問いただしていました。すると、シャロームは言ったのです。
 
「罪は悔い改めなくても赦されるから気にしなくていい」
 
シャロームは、悔い改めて罪を認める、ということを否定したのです。これは、いかなるキリスト教、キリスト信仰にも、ありえないこと、というより、反キリストの証明になります。当然、そこを、追及することになります。
 
すると、シャロームは、その場を繕うような、白々しい詭弁で言い逃れをしてきます。
 
「悔い改めは、神が与える」
 
シャロームは、神が与えるなら、悔い改める、今は違う、とでも言いたかったのでしょう。
 
しかし、この文脈で、この発言は、シャロームがキリスト者ではないことを表しているのです。
 
なぜなら、シャロームが、今に至って悔い改めをしないのは、神が、シャロームに、悔い改めに必要な信仰の導きを与えていないということになるからです。つまり、シャロームは、自身がキリスト者でないことを、自ら証明してしまっているのです。
 
そして、このシャロームの言説に、無条件で賛同したのが、楽山なのです。楽山は、シャロームの妄想発言に賛同しました。このことは、楽山が、自主性の無い人であり、シャロームの、成りすまし、親族、仲間、そのいずれかであることを、楽山が、自ら、証明したことになります。
 
 
参考までに、神が人を悔い改めに導くという聖句です。↓
 
 (ローマ人への手紙、口語訳)
2:3
ああ、このような事を行う者どもをさばきながら、しかも自ら同じことを行う人よ。あなたは、神のさばきをのがれうると思うのか。 
2:4
それとも、神の慈愛があなたを悔改めに導くことも知らないで、その慈愛と忍耐と寛容との富を軽んじるのか。 
2:5
あなたのかたくなな、悔改めのない心のゆえに、あなたは、神の正しいさばきの現れる怒りの日のために神の怒りを、自分の身に積んでいるのである。
 (ローマ2:3-5、新約聖書)
 
神を信じて善人になりましたという信仰の因果ではなく、神の前に、キリストの前に、悔い改めて、正直に告白した、あるいは、弱みを見せざるを得なかった人が、キリストによって、救われていることを覚えてください。救われないパリサイ人は、讃美はするが、告白の正直さがなかったのです。
 
 
偽善の花と鼻

偽善の花と鼻
 
 
(2020年06月18日)
(2022年06月19日、再録+加筆)
 
 
 
楽山のツイッター
 
★こも/楽山日記3
@komo266
図をよく見ると、
「人間の自己中心主義」というよりも、
「人間の男の自己中心主義」になってるじゃないか。
宗教は、神という上位の存在を想定するものだから、それを信じれば信じるほど、何でも上か下かでしか見られなくなるのかもしれないな。
 
図(省略)には、人間が三角形の頂点にある EGO と題された絵と、人間が動物の円の中にある NATURE と題された絵が描いてあります。様々な生命という意味で意義はあるでしょう。しかし、楽山のような自己中心の欲望しか持っていない者が、これを宗教否定に使うのは、著しい妄想的筋違いであります。
 
楽山はいつも、他者を、上から見下ろして勝手な文句ばかり言います。「何でも上か下かでしか見られなく」なっているのは、まさに、楽山であります。またしても、斬るための発信によって、楽山が斬られているという証拠なのです。楽山の口は災いです。楽山は、カルト的決めつけの害虫です。
 
正常な信仰においては、神のみが上であり、その下に不完全で罪深い人間がいるということです。楽山は、そのことを、まるで理解していません。理解できないのに、文句だけは書いてくるのです。いちゃもんしか言えない楽山、・・こうなったら、おしまいかもしれません。
 
楽山は、ここしばらくの間、私の知っている楽山ブログでは記事を書いていませんが、他にブログがあるのかもしれません。さらに、このように、ツイッターで、持ち前の実に嫌らしい捨て台詞のような筆致で当てつけをしてきます。あらゆる人間の良心のセンスを持たない病質者です。
 
 
 
  偽物
 
真実を悟っていると少しでも思うときには
たとえば信仰について
いちばん信じていることに
自ら偽物の称号を与えてごらんなさい
少しはへりくだった気持ちになれるでしょう
少しは自ら信じることに嘘がないか
内省してみる気持ちになれるでしょう
それを謙虚と呼びたいのです
 
人は人が知るべき真実に
近づき触れる機会を与えられていながら
見かけの美しい言葉で飾らなければ
理屈で辻褄を合わせ思いで納得しなければ
真実として人前に出せないような気がして
どこにも響かない空気の流れや
派手な排泄物にしてしまうのです
 
 
  求めよ
 
求めよ、さらば与えられん
・・・・・
あまりにも有名な聖書の言葉
しかしいったい何が与えられるのであろうか
言うまでもないことだが、求めればいつでも
欲しいものが与えられることではないわけで
むしろ苦難の時の霊的な賜物というべきか
勇気や安らぎに似たものか
こころゆくまで苦悩を表現したときに感じる
昇華作用のようなものがあるかもしれない
精神的効用と言ってしまえばそれまでだし
表現する相手によっては損をしたような気色にもなる
しかし相手が神様となると事情は違うだろう
はかない独り言のように思えても
限りない包容といつくしみを
忘れかけている者にとって
祈り求めることは違った働きを持つ
 
無限といっても有限といっても
奇跡といっても気休めといっても
霊的といっても心理的といっても
心の底の底、奥の奥まで
人にわかるはずもなく
またそこまで理解する必要もない
祈り求めることは
生きた働きをもって返されれば充分である
 
偽りのない
正直な祈りは
告白を伴って受けとめられ
信仰がまさに絶えんとするきわに
神と人との契約
基督と個人とのきずなによって約束された
閉じた目のぬくもりを身近に目覚めさせるだろう
 
 
  森の叫び
 
霧の酸を散らし
薬の雨を浴びる
森の叫びよ
かつて空気を水を浄化した
森の面影よ
迷い込んで途方に暮れて
蹲(うずくま)る旅人に告げよ
この地は最早(もはや)
旅人を癒す泉も潤いも持たず
刹那の益に流された血と汗と油と
股間を擦(す)り抜けた風の
腐敗の住処(すみか)になるのだと
砂塵を防いだ森林は
砂塵によって妨げられる
変わり果てる色彩は声よりも叫ぶ
滅びゆく森の最後の叫びは
乾いた砂の咽喉から病んでゆき
木々は虫食いの古文書に記(しる)され
果実は偽りの花押となって落ちてゆき
古びた墓碑が
眠らない屍の埋もれる砂の中に倒れていると
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
良心と良識のある人間でありたい人は、楽山と交流や議論をしてはいけません。楽山は、だますための嘘と詭弁だけを身に着けていて、まともそうに見える屁理屈へ誘導し、異常な疲労を与える病原だからです。楽山は、ただの無神論というレベルではなく、悪意の軍団なのかもしれません。
 
 
 
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  笑止い自慢の楽山2
 
 「ヨブの信仰」羽仁もと子著
 楽山日記(LD)2020年06月16日
 
 
(辞書より)
笑止い(しょうしい):気の毒、滑稽。(東北・信越地方で)恥ずかしい、おしょしい。
笑止(しょうし):大変なこと。困ったこと。気の毒なこと。笑うべきこと。おかしいこと。恥ずかしく思うこと。
( Ex-word 広辞苑 )
 
 
楽山は意地になっているのでしょうか。それとも、びくともしないことを示したいのでしょうか。出力は、受け取れば、必ず、その性質が表れます。
 
その積み重ねがあり、そこに問題があれば、自然の流れとして、問題点についての資料が多ければ多いほど、詳細な文章となって返されることになります。楽山は、鈍感~無視~厚顔を鍛えるために、それを望んでいるのでしょうか。驚くべき不感不応で、書き続けているのです。
 
 
 楽山の偽善性
  改めて、今までに表れてきたことから現状の、楽山についての資料まとめ。
  
自己愛が強く自己中である。
自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)であろう。
平気で嘘を吐く。様々な詭弁を弄して、柔和に見せかける。
後悔、反省、修正ができない。学習による成長がない。
理路が常識的にも浅く、基本的に訂正不能である。
特に批判に対しては不感不応。理路が理解できないからだろう。
相手の意見を受け取っていないので、反論、弁明が全く出来ない。
 
自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)という障害の自覚に全く不釣り合いな満悦感から、厚かましく、学者・批評家・読書家・インテリ気取りで、分かっているという我執から離れられない。
 
深い情感がなく、共感性がない。
後悔することがなく、罪悪感、羞恥心がない。
世辞と社交以上の、議論や交流が、できないし、する気がない。
 
ボンヤリ言語:曖昧で婉曲的な言い方をして印象だけでも刷り込もうとする。
トホホ言語:謙虚で弱いと思わせて悪意を隠すための嘘の反省言葉。やさしさ芝居。柔和芝居。
 
ボンヤリ言語の、曖昧な筆致でごまかしながら、決めつけて、決めつけて、偏見を刷り込む。
トホホ言語と芝居で、同情を誘い、謙虚を装いながら、暗に、自慢して、自慢して、自己満悦する。
 
このような小細工をすることで、楽山の文章は、何ともじれったく辛気臭いものになっている。
 
アドラー心理学、実は、アドラー教という自己中推進カルトの宣伝をしていたが、それが抜けない自己中が表れてくる。
HSを脱会したと言っているが、真実かどうか、疑わしい。
 
反キリストである。聖書およびキリスト信仰を、貶めてくる。
聖書を少しばかり字面だけで読んで、理解したと思い込んでいる。
成長がなく、幼稚な疑問のまま、止まっている。
聖書や、他の文章も、心で受け取る、ということがない。
文章の、心無い字面(じづら)の皮相を、いつも、さすっているだけ。
 
霊能者のつもりだが、それに見合う直観的洞察は皆無である。
 
以上の多くは、シャロームと共通である。楽山は、シャロームや易坊の、キャラを変えた芝居の成りすましではないかという疑惑がある。でなければ、親族か、カルト仲間か、筆致を変えているが、内容が、実に、よく似ている。
 
この楽山の資料まとめは、必要があれば修正加筆して、これからも載せるつもりです。
 
 
楽山は、他者の言葉を借りて、自分を高めようとしてきました。いかなる他者の言葉を引用しようとも、楽山が選んで自己満足のために書いてきたものなので、楽山の意見として、責任を追及し、批判することになります。
 
 
『羽仁もと子著作集 第十五巻 信仰篇』に収録されている「ヨブの信仰」を読んだ。ヨブが「悶掻きつつあらゆる言葉で神を怨じるのは、神の愛を信じきっているから」であり、神はこれを喜んだとのことである。
これは、あっと驚かされると同時に、妙に納得させられた。胸にストンと収まる感じだ。彼は神に恨み言をいいつつも、心の奥では神を信じきっており、神はそのことをすべてご存知の上で、受け入れてくださったというのであれば涙が出る。
 
「あっと驚かされる」「ストンと収まる」「涙が出る」・・大嘘です。ヨブは、悲劇に遭って神が助けてくれないので裏切り、自己正当化をして、神と議論したいなどと、神に悪態をつきます。しかし、神が顕れて叱りつけると、すぐに、悔い改めました。
 
ですから、ヨブは、神を "信じきっている" というのは、間違いです。
 
苦痛の中でも、神を信じ切っていたのは、キリストだけです。
 
私たち信仰者は、神が目に見えない地上の世界に住んでいます。したがって、代わりに与えられた聖書から、感じ取り、考え、信仰を受け取ってゆく必要があります。
 
そう考えると、楽山の無理解の経過から、妙に納得、胸にストン、というのは、嘘であり、実際は、分かっているふう、ちゃんと読んでいるふうを装っている嘘であり芝居に過ぎない、ということが感じ取れるわけです。
 
ましてや、涙が出る、に至っては、今までの記事とコメントの流れ、文章の中の前後関係から言って、質量の無い文脈の典型で、嘘吐きペテン師である楽山の、ふざけた三文芝居であることも分かるのです。
 
文章を読むときに、その文章だけではなく、過去の文章とその主張の流れを把握しておくことが大切です。過去と一致せず、反省もしていないならば、言い逃れの嘘と判断できるでしょう。
 
楽山にとって、言葉は、真実を表す手段ではなく、自分をよく見せる安いツールでしかないと思います。ここまで、平気で、偽りを続ける楽山に、毛ほどの信頼も寄せてはいけません。
 
楽山の 隠された悪意の本性は、随所に、深みの無い、まともな文脈の無い、罪悪感の無い、皮のような垢のような思い付きの、泡を吹くような、きれいごとによって、化けの皮が剥がされてゆくでしょう。
 
ここに至って、なお、平気で、恐らく笑いながら、白々しい記事を書いてくるところに、楽山の、不治の病巣の深さが表れてきます。もはや、悪魔性、全開です。
 
 
宗教界隈では、神に対する恨み言を呟いてしまったなら、もうそれだけで、即、バツ判定されることも珍しくないけれども、神はそんなことはせず、もっと深いところまで理解してくださるというのであれば、こんな有り難いことはない。
 
本音の疑問なら、私も祈りにおいて言うし嘆くことこともあります。しかしながら、楽山のように、嘘を吐き、だまし目的で語るところの、おとしめと、けなし言葉と、嘘の納得を、受け入れる神ではないのです。
 
楽山は、神を知らないから平気で言っていますが、露骨な悪意を、平気な顔で、今に至るまで、神に対して、さらし続けているということです。恐ろしいことなのです。
 
 
でも考えてみれば、実際こんなものかもしれない。ちょこっと順序だてて説明するなら、神の愛を信じていなければ恨み言なんて言えるはずもなく、ただもう怖くて怖くてコチコチに緊張しているしかないが、それを心の奥で信じきっているならば、自分がどのようなものであれ受け入れてもらえることを予期できるわけで、
 
神の愛を信じていないから、恨み言を、だまし文句を多用して、平然と言えるような根腐れ者もいる、ということが、楽山を通して分かるわけです。
 
肯定的な文言が、ことごとく世辞や嘘や芝居であるような偽善者が、神に受け入れられることは決してないことが、聖書を読めば、どういう人が救われ、どういう人が敵となったか、キリストの言葉を知れば、ふつう、分かるのです。到底、赦されないことを、楽山は、言い続けてきました。
 
楽山は、人間性のない乾燥麻薬のような害毒だから、反省も成長も後悔もしないでいられるのです。凝固した人格が、麻薬のような粉の言をまき散らしながら、人格を失ってゆくプロセスが、楽山を通して表れています。
 
このリスクは、神の裁きが下るまでは、人間が、自分の自由意志で、回避するしかないのです。それまでの間、楽山は、束の間の全能感に浸ることになるでしょう。
 
 
だからこそ心にある思いをそのまま口に出し、自分のありのままの姿をさらけ出せるのであり、神はそのことをすべてご存知だということである。
 
このことを信じている楽山なら、今までの、そして、今回の、嘘と偽善と自己中、ましてや、霊が分かるっぽい慢心に至ることはなかったわけです。ここに至っても、あるいは、ここに至るほどに、楽山の言を、楽山自身の言が否定している、ということに、全然、気づかない楽山です。
 
 
この辺りの機微を解せぬ、頭がかたい人は、誰かが不敬発言をしたなら、それだけでもって怒り、裁き、受け入れを拒否するけれども、真の神はそんなものではなく、もっと深く包容力があるということ。
 
神は、キリストは、偽善者に対しては、対立し、批判しました。楽山の言は、信仰を求める心からの不敬発言ではなく、神と人を騙そうとする偽善の反信仰発言です。こういうことを平気で言ってくるのは、聖書のキリストの言葉を、楽山が、まるで受け取っていないことの証拠です。
 
 (マタイによる福音書、口語訳)
23:27
偽善な律法学者、パリサイ人たちよ。あなたがたは、わざわいである。あなたがたは白く塗った墓に似ている。外側は美しく見えるが、内側は死人の骨や、あらゆる不潔なものでいっぱいである。 
23:28
このようにあなたがたも、外側は人に正しく見えるが、内側は偽善と不法とでいっぱいである。
 (マタイ23:27-28、新約聖書)
 
 
こういう流れをリアルに感じることができるかどうかは、人によるのだろうけれども、自分はこれを現実以上にリアルに感じる性質ではある。
 
今になって、何を自慢しているのでしょう。しかも、"現実以上に" リアルに感じる、と言っているのは、自分が霊能者だと、自慢しているのです。病巣が、むき出しになってきました。どこまでも、自己正当化を図るゆえに、ますます、病巣を露わにする偽善者、楽山です。楽山にリアルはありません。
 
 
即物的に考えれば、こういうどこまでも甘い神をリアルに感じるのは、自分の幼少時の親子関係や、他人に甘い自分の姿を投影しているだけにすぎないのだろうが、自分には、何かというとすぐに怒り、裁く厳格でいかめしい神は想像できず、こういう大甘な神しか考えられないのだから仕方ない。
 
楽山の幼少時代は知りませんが、他人に甘い自分というのは、自身のボンヤリ言語にかこつけて、またしても自慢であり、今度は、やさしさ自慢と自己満悦であります。楽山は、とても卑怯で陰険な人です。「大甘な神しか考えられないのだから仕方ない」で、正当化できる何ものもありません。
 
このように、発言が、いちいち自慢ベースで語られるのが、病原ナルシストの特徴です。シャロームも同様でした。意識しなくても自慢してしまうようになってしまうのでしょう。
 
「大甘な神しか考えられない」・・だから、楽山は、知恵もなく、情緒もなく、良心もなく、キリスト者ではなく、中立でもなく、偽善を生業(なりわい)とする偽善の反キリスト、宗教詐欺師なのです。これも証拠と言ってよいでしょう。
 
 
羽仁もと子の著作は、まだ全然といっていいほど読んだことはないのだけれども、俄然、興味がわいてきた。羽仁もと子が信じている神は一体どんな神なのだろう。この「ヨブの信仰」からすると、自分の感じている神と近いところがある気もするけれどもどうかな。ちがうかな。
 
引用元のことは知りません。しかし、楽山が、興味を持つと、ろくなことはないでしょう。楽山の感じている神と近いと言われることは、最大の背教、最大の裏切り、最大のペテン、最大の侮辱だからです。
 
 
本書について検索してみたら、二種あるようだ。自分は新版で読んだが、こうなると文語体の方もどんなものだか見てみたくなるなあ。
 
楽山の聖書や書物の誤読と曲解については、今までも書いてきました。それに、何の弁明もしないまま、「文語体の方も」「見てみたくなるなあ」などと、これもボンヤリ言語ですが、恥ずかしげもなく書いてくるところなど、次々に、自らの偽善性を、虚偽性を、自ら証明している楽山です。
 
優しさと親しみと冷静を装う楽山の、今回の記事も、「なるなあ」排泄も、前の「言えなくもない」も、ボンヤリ言語であり、嘘っぱちであります。そのたびに、反キリストぶりを表しているのです。
 
はっきりと物が言えないくせに、前の記事で、他者の言葉を引用して「キレる高齢者、暴走老人」などと当てつけてくる楽山の、どこが中庸でしょう、どこが中立でしょう、どこが柔和でしょう、どこが弱いでしょう。楽山にあるのは、高慢と、無反省と、自己中の、厚顔無恥だけなのです。
 
 
真っ赤な嘘だらけ

真っ赤な嘘だらけ
 
 
(2020年06月17日)
(2022年06月18日、再録+加筆)
 
 
 
  知らない町
 
昔、駆けていった子供らが
大人の顔で帰ってくる
知らない町へ行ったらしい
蝶々追いかけていた子供らが
花を咲かせておいた
その一輪を
その匂いを
また蝶々が追いかける
知らない蝶々は
区別がつかない
知らない子供らは
知らない大人になる
花を知らない大人たち
匂いをかいでごらんなさい
においに覚えがないのなら
今ここは知らない町です
 
 
  神と私(わたくし)
 
真理は神にある
人にあるのではない
それを知るところから宗教が始まる
それを「知っている」と言うところから邪教が始まる
 
真実は神による
人によるのではない
それを知るところから信仰が始まる
それを「知っている」と思うところから狂信が始まる
 
言葉は神による
人によるのではない
それを知るところから謙虚が始まる
それを「我がもの」と決めるところから嘘が始まる
 
人には人に
限られた真理
人には人の
知るべき真実
人には人を
生かす言葉
与えられ、蓄えられ
泉のように湧き出づる
 
 
  偽物
 
真実を悟っていると少しでも思うときには
たとえば信仰について
いちばん信じていることに
自ら偽物の称号を与えてごらんなさい
少しはへりくだった気持ちになれるでしょう
少しは自ら信じることに嘘がないか
内省してみる気持ちになれるでしょう
それを謙虚と呼びたいのです
 
人は人が知るべき真実に
近づき触れる機会を与えられていながら
見かけの美しい言葉で飾らなければ
理屈で辻褄を合わせ思いで納得しなければ
真実として人前に出せないような気がして
どこにも響かない空気の流れや
派手な排泄物にしてしまうのです
 
 
  (抜粋)
 
はじめに言葉ありき、言葉は神なりき
真実の言葉を語りたかったのです
しかし言葉が人に渡ったとき嘘が生まれ
人の中で言葉がもまれればもまれるほど
それは踏みつけられ、互いにむさぼり
言葉は人の中で死んでいくのです
 
 
  涙の定め
 
売れない役者の嘘の涙
売れる役者から買った涙
忘れたくないのは
演じることのできない
孤独な舞台に立たされて
売ることも買うこともできない涙
を受け止める器(うつわ)において
忘れたはずの涙も
今流している涙も
隠して耐えることをしなくても
いずれ必ず乾く定めを持っており
元々涙は売ることも
買うこともできないということだ
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
楽山の白々しい嘘は、神によって、全て見抜かれています。それだけでなく、今までの経過を知っておれば、人によって見抜かれてもいます。どれだけ長い間、嘘を吐いてきたのでしょう。嘘は、結局、嘘を吐いた者に返ってくるのです。とんでもない人格を破壊するために。
 
 
 
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(古い記事は載っていません)
 
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