ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

タグ:正直

 
  キリストの心2
 
 
キリストは、救われる人々に対して、物や肉体の奇跡をおこなっただけでしょうか。否であります。こんなことが出来るから従え、という救い主でしょうか。否であります。
 
確かにキリストは、神の権威をもって語ったかもしれない。物や肉体の奇跡も、私は、否定はしません。
しかし、それが、私が信仰者になった理由ではありません。
 
神の前の、正直と本気、それだけが信仰には必要です。キリストは、大きな働きをする正しい善人を選んで義とし、救ったでしょうか。否であります。
 
 
 (マタイによる福音書、口語訳)
8:2-5
朝早くまた宮にはいられると、人々が皆みもとに集まってきたので、イエスはすわって彼らを教えておられた。 すると、律法学者たちやパリサイ人たちが、姦淫をしている時につかまえられた女をひっぱってきて、中に立たせた上、イエスに言った、 「先生、この女は姦淫の場でつかまえられました。 モーセは律法の中で、こういう女を石で打ち殺せと命じましたが、あなたはどう思いますか」。 
8:6
彼らがそう言ったのは、イエスをためして、訴える口実を得るためであった。しかし、イエスは身をかがめて、指で地面に何か書いておられた。 
8:7-8
彼らが問い続けるので、イエスは身を起して彼らに言われた、「あなたがたの中で罪のない者が、まずこの女に石を投げつけるがよい」。 そしてまた身をかがめて、地面に物を書きつづけられた。
8:9-11
これを聞くと、彼らは年寄から始めて、ひとりびとり出て行き、ついに、イエスだけになり、女は中にいたまま残された。 そこでイエスは身を起して女に言われた、「女よ、みんなはどこにいるか。あなたを罰する者はなかったのか」。 女は言った、「主よ、だれもございません」。イエスは言われた、「わたしもあなたを罰しない。お帰りなさい。今後はもう罪を犯さないように」。〕
 (マタイ所8:5-11、新約聖書)
  
善人だから救った、ということではないことは明らかです。女性は、キリストの前にも、もはや、打ち殺されるだけの力なき小ささを、そのまま任せるしかない状況だったから、キリストは救ったのでしょう。キリストは、女性の心を洞察し思いやっています。
 
 
 (マタイによる福音書、口語訳)
9:20-21
するとそのとき、十二年間も長血をわずらっている女が近寄ってきて、イエスのうしろからみ衣のふさにさわった。 み衣にさわりさえすれば、なおしていただけるだろう、と心の中で思っていたからである。 
9:22
イエスは振り向いて、この女を見て言われた、「娘よ、しっかりしなさい。あなたの信仰があなたを救ったのです」。するとこの女はその時に、いやされた。 
 (マタイ9:19、新約聖書)
 
キリストに対して、衣の一部でもいいから触ろうとすることは、縋りつくような強引さではなく、端っこでもいいから、という深い信仰の敬虔です。
 
信仰が、辻褄合わせではなく、保険のように保証があるからでもなく、一途であり、その結果を問わないほど、他にないという本気から始まっていることを表しています。
 
 
 (マタイによる福音書、口語訳)
15:22
すると、そこへ、その地方出のカナンの女が出てきて、「主よ、ダビデの子よ、わたしをあわれんでください。娘が悪霊にとりつかれて苦しんでいます」と言って叫びつづけた。 
15:23-24
しかし、イエスはひと言もお答えにならなかった。そこで弟子たちがみもとにきて願って言った、「この女を追い払ってください。叫びながらついてきていますから」。 するとイエスは答えて言われた、「わたしは、イスラエルの家の失われた羊以外の者には、つかわされていない」。
15:25-27
しかし、女は近寄りイエスを拝して言った、「主よ、わたしをお助けください」。 イエスは答えて言われた、「子供たちのパンを取って小犬に投げてやるのは、よろしくない」。 すると女は言った、「主よ、お言葉どおりです。でも、小犬もその主人の食卓から落ちるパンくずは、いただきます」。 
15:28
そこでイエスは答えて言われた、「女よ、あなたの信仰は見あげたものである。あなたの願いどおりになるように」。その時に、娘はいやされた。
 (マタイ15:21-28、新約聖書)
 
女性は、他の誰も癒せなかった娘の病を癒されたい一心から、どこまでも低く遜る敬虔を弁えていたのでしょう。他に希望がなかったからです。このような一途な正直さだけが、キリストの心を動かしています。
 
キリストは、「主よ、お言葉どおりです。でも、小犬もその主人の食卓から落ちるパンくずは、いただきます」とまで言って、女性の食い下がるような救いへの渇望と、自分を小犬に喩えた女性の、低く低く遜(へりくだ)った心を見逃しませんでした。
 
この女性は、遜(へりくだ)るのが、とても上手です。何だか、断られないための言質を知っていたかのようですが、恐らく、言葉だけでなく、態度や表情にも、娘への愛情の一途さと必死さとともに、自分はどこまで低くてもいい、という敬虔が表れていたのだと思います。
 
本気の告白を、キリストが、そして、神が、無視しないことが顕れています。
 
一方、私の経験から、これみよがしの偽善者の、言葉だけの敬虔芝居は、実に臭くて醜いものです。
 
 
 (マタイによる福音書、口語訳)
26:6-7
さて、イエスがベタニヤで、らい病人シモンの家におられたとき、 ひとりの女が、高価な香油が入れてある石膏のつぼを持ってきて、イエスに近寄り、食事の席についておられたイエスの頭に香油を注ぎかけた。 
26:8-9
すると、弟子たちはこれを見て憤って言った、「なんのためにこんなむだ使をするのか。 それを高く売って、貧しい人たちに施すことができたのに」。 
26:10
イエスはそれを聞いて彼らに言われた、「なぜ、女を困らせるのか。わたしによい事をしてくれたのだ。
 (マタイ26:6-10、新約聖書)
 
女性は、効率の悪いことをして、優れた働きとは、とても言えないのですが、キリストは、ご自身を愛するがゆえに精いっぱいだった女性の心を見逃しませんでした。
 
 
3つのエピソードに共通しているのは、救われたいという一途さと、そのために、"神の前に、どこまでも自分を低くできる敬虔"にあります。何よりも、救いが他にない、という深い悲しみからの自覚です。
 
敬虔は、静かではなく、穏やかでもなく、行いや主張が控えめなのでもなく、神の前に、いくらでも自分は低くてかまわないと、ありのままの自らを主の前に投げ出す情熱であります。そして、無力な自分を自覚し、神の前に正直に捧げることが、信仰において、いかに大切かを聖書は教えています。
 
すなわち、何よりも大事なことは、神の前に、正直だけを捧げることです。正直であれば、本気であれば、食い下がるような祈りでも、神は、無視しないということでしょう。
 
神様の前だから滅多なことは言えない、などと、立派そうな言葉で仕上げて飾るのは、信仰の義をけがすことであります。それは、カルトや偽善者が、いつもやっていることだからです。
 
信仰においては、言っていることが、行いが、立派だから救われる・・ではないことを学ぶべきです。
 
私たちは、キリストのために正しいことをして信仰の義を得るのではありません。信仰の義は、神のような正しさではなく、神に対する人間の身の程を弁えた態度や姿勢の正しさであります。そこにおいて、人の信仰の義は、絶対の神の義とは、明確に区別されているのです。
 
むしろ、折に触れて、罪を犯した可能性、つまり、間違えたかもしれない、嘘を吐いたかもしれない、自分を飾ったかもしれないことなども、気づいたときに、正直に告白して、赦されることで救われ、癒され、生きることが出来るのです。
 
 
救われるためには不完全の自覚が不可欠であり、信仰について、偉そうに、完全でないと信じないとか、信じたから完全だとか言う無神教カルトの得意顔が、毛ほどの価値もないことは明らかです。
 
 
正直に反省と学習

正直に反省と学習
 
 
(2020年05月12日)
(2022年05月22日、再録+加筆)
 
 
 
  見つめていたい
 
私の心に慈愛の目があったなら
あなたが私から何を奪っていくのか
静かに見つめていたい
私があなたから奪ったものを
あなたが取り返すのを見ていたい
 
あなたが私を嫌うなら
嫌われた裸のままの心で
どこが傷つくか見つめてみたい
 
あなたは傷つき
私も傷ついた
傷つけることで傷つき
傷つくことでわかるものがあるなら
あなたの心に同期して
傷が示すものを知りたいと思う
 
私がまだ泣けるなら
奪われなかったもののために
泣きたいと思う
 
すべて私が
まだ人間であるなら
あなたの心を癒すよりも
あなたの心を聞きたいと思う
 
耳を澄まして
あなたの傷ついた
あり方を知りたい
私の傷ついた
あり方を知るために
 
そしてゆっくりと
考えてみたい
人間はどのようにして
傷ついていくのかを
 
病める心の
癒えぬ部分の
こだわりに
言葉で上手にあてる
包帯を持たない
私の貧しさを
あなたが許せない分
私が傷つき
年老いていく姿を
今しずかに
見つめていたい
裁かれるときを待ちながら
 
 
  傷ついた犬
 
何か言いたそうな
傷がある
その傷を癒すために
なめつづける舌も傷ついている
それを見る眼も傷ついて
しばしば視線がそれている
うるんだ眼が揺れるたびに
流れる涙こそ傷を示すのに
歪んだ目から涙は見えない
ただどこを見ていいのか 探して
戸惑うように動く眼球
 
親から子へ
傷だけを相続した
兄と弟が
傷だけを共有した
互いに癒すこともできずに
 
傷でできている人間
同じ傷は一つとしてないから
痛みを通り越して
ありとあらゆる
あきらめを
諦めて
砂を受け入れている
あてるガーゼもない
巻く包帯もない
もう出血もしない
 
無数の傷を積み重ねて
人の形ができていて
遊んでいる
さらに傷つきながら
それが命と言いたげに
 
疲れて眠ろうとして
眠れない
粘液が乾いたので
見るに耐えない
傷口の中は暗く冷たそうだ
傷の縁が黒い血痕を残して
乱れている紅色
傷は笑っている
ぽっかり口を開けて
何か言いたげに
 
 
  遠い約束
 
あれは遠い約束
君は待っていたのかもしれない
きれいな人
ひょっとしたら辛かっただろうか
少しは痩せたりもしただろうか
まだ先生と呼ばれていた頃
花嫁募集と冷やかされていた頃だった
癒すために歩く道を
病人を乗せた自転車が
いつか追い越していくこと
恐れていたのかもしれない
折れたハンドル
潰れたタイヤの転倒に
どうしても君を
巻き添えにする気には
なれなかった
許せないなら許さなくていい
春の移り気な光を浴びて
忘れてくれたらと願っている
君が乗り越えるための低い壁
あるいは踏台
君は明日に向かって跳んだと信じている
きれいな人
あの日を償えるものなど何もないけれど
眠れない夜
素直に喜べない四季の移りに
うずくまっている座布団の顔
病み綴る日々の今
それがあの日に返す答だ
 
 
  もういい
 
電柱に凭(よ)り掛かり
地べたに腰を下ろして
膝を抱えて坐っている
ときに項垂(うなだ)れ
ときに遠くを
暮れ泥(なず)む空を見遣(みや)りながら
少し脹(ふく)れっ面の疲れた様子で
ジーパン姿の若さのまま
書きかけて止(や)めた文章の
最終行に背を向けて
もういい は いつも坐っている
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
神を、悲劇が起こっているから、史実ではないから、などと、貧相な辻褄で、いないと語る愚かさは、受け取る器の貧困を、敬虔のない人格の荒廃を、神を恐れない傲慢を、自己中の思い込みから発して、詭弁と嘘を添えて、非人間の迷路へと、けがれた製氷の皿から砕けて落ちてゆく、暗黒の下水道です。
 
 
 
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  矛盾の信仰3
 
 
神は人知を超えた御方だから、神は人知を超えた奇跡を起こされるのだと、なぜか、神の奇跡とその意味を得々と語る人がいます。神は人知を超えているのに、なぜ神の奇跡を人知が説明できるというのでしょう。そのような説明は不可であり、それが確信ならば、その確信は信仰ではありません。
 
人は考える動物だから、人と、神という超常の主との違いも弁えているはずなのに、もし、人が、自らの確信を、超常からのお告げのように、信仰として神の御心として語るなら、神を恐れない身の程知らずであります。神の意志と行為を、希望することはあっても、決めつけてはいけません。
 
その最悪の例は、楽山のように自らの狭い概念の中に納まるような軽薄な神概念を真の神の共通概念と勘違いして、否定して、信仰を否定することです。分からない、知らない、ということを弁えることのない自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)の悍(おぞま)しい有り様なのです。
 
聖書は神の言葉でも、人の解釈を通さずに読まれることはなく、人は聖書の言葉を人の言葉として生かす思慮が必要なのに、しばしば聖書を解釈した自分の言葉を神の言葉として語ることで満足してしまうのは、明らかに、神に対する越権行為であり、背教であります。
 
一方、信仰者には、神を信じようとする確信の意気の強さだけで理想化された偶像として人に作られてゆく神概念ということが起こる危険があります。このように、自らの信仰は原初において自分の理想化という過ちによれば、既に矛盾しているのです。
 
その矛盾を省みず、神について聖書について、誤解や間違いや思い込みの可能性を考えず、確信として押し通せば、楽山と同様の救いがたい妄想となって、もはや信仰ではないのです。
 
そういう矛盾を超克する手段は、呆れるほどシンプルです。そのシンプルさゆえに、全ての人に信仰を語る伝道が成立しています。
 
それは、神に対しては、嘘を吐かず、飾ることなく、正直に祈ることです。
 
それだけが、人間が、神に対して出来る最大の真実だからです。
 
人間において、矛盾の原罪は避けることが出来ません。それが、思い描く神はどこにもいない、思い込むのは信仰ではない、また、聖書を人の言葉の能力で読んでいる、ということの理由であり、人の罪性に直接に執拗に関わってくるのです。ここに気づいている人は、驚くほど少ないでしょう。
 
矛盾は信ずるに値しないと思うのは誤っています。矛盾や疑問が何もないならば、信じる必要はないからです。その場合、完全に理解できないなら信仰は捨てたほうがよいのではなく、矛盾や疑問があっても、キリストに繋がってしまった者においては、祈るしかない、ということの理由となるのです。
 
動物よりもマシに生まれて、寸足らずの思慮を持って、矛盾があることを認めても、正直に祈ることをやめられないならば、それが理屈抜きの信仰であり、尾ひれの付かない信仰であり、原初からの信仰の流れが続いている信仰の経過であります。
 
神が人知を超えた御方というのは、人知を超えている神を確信することではなく、神を思えば思うほど、神について自分の確信をもって語ることは出来なくなるという、神への恐れ、敬虔なのです。
 
神の立場はもちろん人にはなく、人の立場においても、場合によっては、達し得たと思うとき既に足元は崩れつつあるという常態があります。ゆえに信仰の言動において、柔和でバランスの取れた口数の少ない「敬虔なクリスチャン」は社会通念のイメージに過ぎません。
 
神を "正しく" 信じるのが正当なら、救われるクリスチャンは、私を含めて一人もいません。自分が正しくないことを認めたところから信仰は始まって、その罪が信仰によって赦されることはあっても、信仰によって正しさが担保されることはないのです。
 
神を恐れる人は、矛盾の信仰に身を置いている自らを知る人であり、それでも離れられない信仰について謙虚でしかありえない人です。しかし、うわべだけ「神への畏れ」を語る者は多くても、本当に「神への恐れ」を知る人は極めて少ないでしょう。
 
神のみに希望を寄せる者は、この地上では、孤立しており、倒れており、這っており、狂っており、狂っていると見なされて、ときに悲鳴のように呼ばわるが、その声を聞く人が殆どいないという現実に返され、うちのめされているでしょう。
 
そういう状況でも、神の与える希望が絶えることはなく、キリストの目に見えない臨在も絶えることがなく、信仰者は、キリストの共感によって生きているのであります。信仰者は祈り、乏しい信仰の心のうちに讃美するでしょう。 ホサナ(救いたまえ) そして ハレルヤ
 
 人からの白目の視野に生きて雪
 
 
矛盾を超える絆(きずな)とは

矛盾を超える絆(きずな)とは
 
 
(2012年)(2020年)(2021年)
(2022年04月08日、再録+加筆)
 
 
 
  祈り(抜粋)
 
父なる神よ
私はここにいます
あなたに恥ずかしく
隠れようとして隠せず
あきらめようとしても未だ救いを求めているのです
 
一体どこで
いつ私は裁かれるでしょう
いつ私は召されるでしょう
恐れる心を隠せないのです
隠す知恵もなく
隠してもあなたは見通されるからです
 
父なる神よ
いつまで待てばいいのでしょうか
何か私にできることがあるのでしょうか
あなたがお望みなら
それが御心ならば
私のこの世の欲に構うことなく
私の苦しみに構うことなく
御心を成就させてください
 
私がどんなにあがいても抗っても
すべてが御心のままになることを知っています
すべてが御心のままになることを教えてください
 
いつ死んでもよく
いつ生きてもよいと
私が言えますように
そして行なえますように
私の恐れを取り去ってください
私という矛盾があなたの手の中にありますように
主の御名によって祈ります。アーメン。
 
 
(ただ私は、人の悪意から遠ざかれたとしても自らの悪意からは遠ざかれるものではなく、そのために罪に打ちひしがれ「私は打ちひしがれるために生まれたのですか」という裸の嘆きのあるがままの姿で、限りある命の終わりを迎える前に「自分で自由にやっていく」ことの不自由さを体験したのだから、それを福音として受けとめるほかはなく、永遠の同伴者・永遠の友・主イエスキリストによって表わされた父なる神の愛にこの魂を委ねるほかはないのである。)
 
私という矛盾があなたの手の中にありますように
私というウソがあなたの手の中にありますように
あなたの真実が私の中に与えられますように
私の病気があなたの手の中にありますように
私の健康があなたの手の中にありますように
私の命があなたの手の中にありますように
私の寿命があなたの手の中にありますように
私の生も死もあなたの手の中にありますように
私におとずれる幸いも災いもすべて
あなたから与えられますように
私の不幸と幸福があなたの手の中にありますように
私の喜びも悲しみもすべてあなたの手の中にありますように
あなたのお叱りと救いが私とともにありますように
私の信仰と希望と愛があなたによって導かれますように
私の受けるべき盃が
たとえ苦くても甘くても
あなたから与えられますように
いつの日かあなたの御手にいだかれて
眠ることができますように
わが魂を御手にゆだねます
主の御名によって、アーメン。
 
 
  マイナス
 
マイナスの贈り物が
喜ばれないことは知っている
受け取ってさえもらえないことも
 
それは後ろ向きの霧の眼差し
踏み付けた霜柱に眠る
後味の悪い生き物だから
 
しかめっ面の鼻先で飛ばされるか
このようにはなりたくない
とさえ言われるものだ
 
出口のない迷路から
屈折して飛び出した矛盾だ
でもその成行きに生まれ育って
生きている以上
いまさら
プラスのプラグを差し込んで
充電することなどできはしない
 
急に残された世界で神妙になったり
子供のように従順になって
笑って見せたりすることには
昔から失敗してきたから
 
美しいと呼ばれる朝と朝が来るときにも
沈んでいった夕暮れの足跡を
足音を求めるばかり
 
腹を空かした犬に
パンのかけらをくれてやっても
犬の暮らしを知ることはない
 
名残惜しい我が身の一日と一日
そうやって生死の悔いの狭間で
沈んだ日々が朝の中で
割られた薄氷のように
覚めてゆく
 
 
 
 楽山のツイッターです
 
心機一転★こも楽山
@komo266
優秀な人に対しては、たいていの人は「すごい」と称賛するか、「よし、自分も頑張ろう」と励みにするかであって、劣等感の虜になって自分を全否定したり、嫉妬の炎を燃やす人はそんなに多くないのではなかろうか?🤔
午後8:50 · 2021年3月31日·Twitter Web App
 
不遇の体験から、信仰に目覚めるのではなく、勘違いの逆恨みで、神は何もしてくれない!と、激しく憎み、それが、持続する怨念となって、神を否定し続けて、人を恨み、宗教について、人を騙すことだけに専念している者もいます。
 
神が、勝手に、自分の都合に合う存在でないと気が済まず、その、矛盾と思い込んだことを克服できず、単純に、怒り、憎しみ、恨み、その陰性の感情を隠して、丁寧語で、神不在を宣伝するものとなっています。
 
その報いであるかのように、単純で浅い思慮と鈍い感性によって、ますます、聖書や本のみならず、人の言葉すらも理解できなくなり、むごたらしい有り様となっています。自分信仰に走って、反省も後悔もしなくなったからです。
 
自分なりに頑張ろうとは思わず、それこそ、神に対しても、人に対しても、「劣等感の虜になって自分を全否定したり、嫉妬の炎を燃やす人」即ち、ルサンチマンの人になって、痛めつけることばかり考えているのです。近づくと危険な人になって黒い道をふらついています。
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
1のコメントが、楽山ブログを今まで見てきたかぎりでは、一番まともなコメントだと思います。楽山の書く文章は、いつも、自己中と、語尾の曖昧さと、評論家気取りが、臭くて臭くて、とても読めたものではないです。ゆえに、毎回、このコメント1と、楽山のふざけたレスを載せています。
 
 
 
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  受け取るべきこと2
 
 
Q.
 
キリストは
いわれなき罪のために十字架につかれました。
パリサイ人たちは悪い奴です。
彼らが憎いです。
 
A.
 
何を言っている。
キリストを殺したのは私たちだ。
そうあってはならないから
キリスト者は祈っている。
 
そのことを、神は既にご存知であるのに、どうして、信じることを、分かっていることにしてしまうのか。信仰者は罪深くて不完全であるのだから、神の前で、知っている、分かっている、見えている、守っている、・・これらは、信仰自慢である。分からないという正直さを、神の前で持つべきである。
 
 
キリストの言行録で、私たち人間が感動できるのは、キリストの愛に溢れた洞察力と共感力だと思います。何度も言ってきたことですが、物や肉体の奇跡の話は、驚きこそすれ、今の時代、物や肉体の奇跡は滅多に起こらないという現実があるのだから、信仰の中心にはなりません。
 
数々の奇跡のみに注目して、いつか起こる、いつか起こると、物や肉体の奇跡ばかりを祈り願い待ち望んで、それで人生が終わるのがキリスト者ではありません。魔法を願って思考停止することを、神は人に求めるでしょうか。神は人を考える存在として造られました。
 
奇跡頼みは、私たちの日常において、考えるべき様々の課題から目を逸らすことになりはしないか。奇跡の話ばかりして讃美しまくり、信仰者の弁えとしての神への恐れを全く無視している者を見ると、人格を自ら破壊して、まるでケダモノのような卑しさを感じます。
 
物や肉体の奇跡は、人間にとって、わけのわからないことです。即ち、真似のできないことであり、心掛けようのないことであり、誰でも与えられる恵みとして期待するほうが無理ということです。努めようもないことなのです。
 
また、情欲の聖句や、敵を愛せよ、など、守れもせぬ教えを、できるだけで守っている気分になっていると、旧約が伝える神と人の絶対的な違いや、新約が伝える神格が人格に与えるものを、疎かにしかねないと危惧しています。
 
冒頭に書いたように
私たちが受け取って感動し共感できるのは
魂あるいは心の奇跡と呼んでいるもの
即ち、救われた人々との交流において表されたところの
キリストの洞察と共感(=愛)である。
私たちが受け取れるもので
私たちに分かるのは
それ以外にはないと言ってよい。
 
キリストの愛と洞察と共感を受け取れば
私たちの中で確かに生きてくる賜物となり力となるだろう。
 
このことは人間という存在を考えるとき
必ず、思い考え、さらに憧れてよいことである。
どうしてそのことに心を砕かないのだろう。
 
物や肉体の奇跡のことは
御心のままにしかならないものとして
私たちも御心のままにと祈るほかはない。
 
私たちは自由意志を与えられているのだから
教えや聖句について
今の自分の受け取ったと思うものを
固定するべきではない。
 
私たちは成長することで
堕落に対抗することが必要であり
それが可能になるためには
聖書についても、読んだとき聞いたとき
分かったつもりになることを避けて
正直な心で疑問は疑問として保留にしておくべきだ。
いつか本当に分かって感動するまでは
というより地上に生きている間は
理解が腐敗することのないように
訂正不能にせず、保留にしておくべきだ。
 
私たちは
神の言葉を即座に理解するほど優秀ではない。
さらに私たちは
理解したつもりのことを不変に保持することは出来ない。
心は、揺らぎ、移り変わり、場合によっては腐敗する。
 
神には起こらない不安定が起こるのが人間であり
風を追うようなものとは、私たちすべての人のことである。
その証拠は、私たちの、死すべき定めにおいて明らかである。
 
私たちの成長は、
成就しても限りあるけれども
それさえも
神の前に、飾ったり、偽ったりする者には
決して達成されることがない。
 
日々、精いっぱい正直に神に告白し祈ることで
はじめて、ようやく、達成に方向付けされるだろう。
 
 
私の言うことを取るも取らぬも読む人の自由です。
しかし、取る、あるいは、取らない、ということを、
今、決めてしまうことも
不完全で罪深い私たち信仰者の成長のあり方ではないと思います。
もし心に残るなら、時に、考えてほしいと思います。
 
悪口に、悪口だけを返すことのないように
侮辱されて、侮辱だけを返すことのないように
憎まれて、憎しみだけに固まることのないように
自分の快楽原則のみで他者を無視するようにならないために
迫害されて、お返しに、害することのないように
自分を守るために、神の名によって、硬く自閉することのないように
悪しき刺激を受けても、心がいつまでも乱れていることのないように
攻撃されても、神の復讐だけを願う生き方にならないように
被害的念慮と他罰的念慮に凝り固まることのないように
神の裁きを求めることが、人の人への復讐祈願にならないように
神を信じることが、他者を呪うことではなく、解放であるように
 
主の御名によって祈っています。拝。
 
 
(私個人の祈り)
 
どうか母をお守りください。
どうか兄をお守りください。
今は亡き父とおばちゃんたちが安らかでありますように。
私が愛する人々と私が思っている人々をどうか守り導いてください。
 
年を重ねるごとに心身の衰えが目立ってきました。
御心ならば、私の痛みと苦しみを取り去ってください。
わが罪をお赦しください。
この罪人をお赦しください。
どうか離れないでください。
 
この祈り、主イエス・キリストの御名を通して
御前にお捧げいたします。アーメン。
 
(※ 御心、御名、御前の、御は「み」と読んでいます。)
 
 
祈り 音信

祈り 音信
 
 
(2020年03月10日)
(2022年03月22日、再録+加筆)
 
 
 
  ウソの胸
 
風通しのよい胸だ
ほとんど風化している
どんな風が吹き抜けたのか
吹き抜けた風は
今どこに
見知らぬ野原で
草を揺らしているのか
昔懐かしい人の前を
一瞬でも通り過ぎたか
答えようもない問いが
ぽっかりあいた胸の中で
ときに胸をひらひらと揺さぶっている
 
風通しのよいことが
気持ちよいとは限らない
空っぽの胸はウソの胸
吹き抜ける風はウソの風
通いなれた道を通り
なじみの街を過ぎ
風化した穴に
今も聖なる心と
聖なる血を求めて
ため息で祈る
 
からっぽになりたいです
 
 
  涙
 
暗幕の下に賑わう目と目
代価を払って買った涙
計算機は壊れない
ガラスは割れない
安心して夢見る少女
愛情を運ぶトラック
何の保証もなく
世の中は便利になった
 
唇に青い瞳を
真昼の星に輝きを
汗をまき散らして変転する太陽
耐えた腕が鳴らす独裁
 
別れたのは父と母であったか
妻と夫であったか
親と子であったか
結ばれたのは残された国境
未来への合唱と
泣きながら遠ざかる沈黙
 
ビルの窓に反射する
まぶしい笑いと
人波の上に
今日も
代価を払っても買えない涙が
 
 
  これで息
 
ごはん炊いて
ラップに包んで
冷凍する
これで数日は息抜きできる気分
 
悪いこころ集めて
これこれと反省して
お祈りする
これでしばらくは息吹き返す気分
 
悲しいこころ集めて
じっと乾く涙を待って
目を閉じる
これでほんの少し
ため息つける気分
 
良いこころ集めて
あれこれと考えて
わからないと気づく
これでこれからも虫の息
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 」
 
 
嘘と詭弁で妄想を刷り込んできて、人を偽りでだましてきた罪を、「反省。とほほ」と言い、ここでは「一種の、人間の性」で済まそうとする楽山を、許してはならず、赦してはならず、放置してはならず、同じことを続けさせてはならないと思います。
 
楽山は、悔い改める日は来ないかもしれません。しかし、私たちが、悔い改めない楽山に、操られる日が来てはなりません。楽山が、何らかのカルトを始めたり、嘘で人をだましたり、嘘を吐いて何らかの偉そうな地位についたりしてはなりません。その時の被害は、今より遥かに大きいからです。
 
 
 
(ツイッターに書いたこと:)
 
私は、数か月、楽山と直接の遣り取りをしました。人格が壊れそうなほど、異常な疲労と徒労を味わいました。人生で初めてです。よって、以後今まで3年余りは、直接の遣り取りを禁忌として、こんな異常者がいると知らせるためにブログとツイッターを利用しています。その間、判断が覆ったことはありません。
 
st氏が自分はブログやツイッターに楽山批判を書くが、楽山は出入り禁止(書き込み禁止)とした事実は変えることはできない
 
楽山は、遣り取りするだけで害を及ぼすからです。犯罪者や害虫や猛獣や危険物と同じ扱いになります。家には決して入れずに、警戒情報を発しています。
 
 
どうか、楽山に、関わること、近づくこと、応答すること、一切、しないでください。ご自身の精神衛生のためです。楽山は、嘘と詭弁で、人を振り回し、疲労させ、壊してゆくサイコパスです。3年間、変わることのなかった判断ですから、人間レベルでは、結論といっていいと思います。
 
私は、努めて、できることをして、それ以上は神にお任せします。人間は、できることを精いっぱいすることが使命、そして、そこまでが能力なのです。楽山は、病質者であり、公共の害毒~病原です。
 
 
 
 幸福の科学は、宏洋氏に勝訴したそうだ。
 2022年03月20日 幸福の科学とは何だろう?
 
物事は一方の言い分だけで判断してはいけないというのは本当だと改めて思う。
 
HSについての記事のようですが、楽山は、自分の言い分だけを、ちょいと書いて、他者の意見を無視し続けています。そういう人が、上のように書くことは、実に、白々しい。楽山の言うことは、いたるところに自己正当化の詭弁が含まれてくるということです。印象操作による刷り込みと言います。
 
当たり前の道徳を書いて作為を隠すのが、楽山の気持ち悪い筆致です。今までも「人それぞれ」「人は人、自分は自分」「意見を言ってはいけないのでしょうか」などと書いて、自分の身勝手を正当化するなど、はっきりした主張をせず、ほのめかしてきました。一般的なことを、個別に印象付ける詭弁です。
 
正面から物が言えない半端者は、このようにして、憂さを晴らすのでしょうか。それとも、暗示によって、人を操る教祖願望の表れでしょうか。いずれにしても、個人でも、組織の一員であっても、まともに付き合ってはいけない自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)の楽山です。
 
今まで見てきたことから、楽山は、理論家を気取りますが、まともな思考の理路が拙劣です。かつ、深い共感を持ちません。思索できず、感受できず、分かっていると思わせて、インテリを気取り、詭弁と嘘で信頼を得ようとします。遣り取りを続けると、結局は、一種異様な疲労を味わうことになります。
 
 
 
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  善悪と判断3
 
 私の前の記事「できることを」
 の続きのようなものですが
 
 
アメリカのドラマで、よく聞く台詞です。
 " Do the right thing. "
 
正しいことをしなさい、やるべきことをしなさい、という意味でしょう。とてもシンプルな言葉だなと思いますが、この台詞に文句を言うつもりはありません。日本でも、日本語で似たようなことは言われるでしょう。
 
私たちは、個人の利益や幸福を妨げることを、悪いことだとを判断しているようです。そこには、加害者がいて、犯人または悪人と呼んでいます。そして、陰性の感情をいだきます。しかし、私たちは、自分のこと以外では、被害者と加害者について、詳しい経過を知っているわけではありません。
 
つまり、その時その場で、善悪の判断をしているのであって、その判断は相対的だが、それで、行動が必要ならば、行動の基準としています。そうしちゃいけないという理由はありません。というより、そうするしかないわけです。
 
ただ、本当に、どこも間違いのない善悪の判断になっているか、その判断には誤りが全くないか、ということについては、私たちは、完璧な根拠を持ち得ません。総ての状況と、総ての影響を、知っているわけではないからです。
 
人間が、行動するときの、事前の判断は自分でするしかなく、その判断について、誤りの可能性を自覚しているでしょうか。だから、正しい信仰を、ということではありません。信仰者においても、人間としての善悪の判断能力は、同じです。信仰は、誤りのない正義を与えるわけではありません。
 
むしろ、信仰者であるなら、神の絶対に対しての、人間の非絶対性つまり相対性を、罪深さとして自覚しているはずですから、非信仰者よりも、よりいっそう、自分の判断に、神に対する恐れをいだいて、決めつけようとする傾向を抑制するのでなければ、信仰に生きているとは言えないはずです。
 
人間は、絶対正しいから実行するのではなく、その時、判断しているに過ぎません。人間の判断には、絶対はありません。例えば、批判が続くのは、批判対象に、改める様子が全く見られない場合です。批判を続けるかどうかについても、同様に判断をすることになります。
 
 
ですから、信仰について、信仰者のキリスト教的通念的道徳を押し付けてはいけない、ということは言えるでしょう。信仰は、神と人の関係、キリストと人の関係であり、道徳的行動はそれに伴うものであって、副次的なものです。他者に勝るものでも匹敵するものでもありません。人の義は不完全です。
 
神が人に与える義は、正直な祈りに対する信仰義認であって、正しいことをしたという行為義認ではないのです。
 
さらには、丁寧で控えめで、人を責めたりしない、という、これもキリスト教的な通念的道徳となると、殆ど、意味を持たなくなるでしょう。これらのうわべの態度は、むしろ、信仰とは無関係に、人が、単純なイメージで、生み出した先入観に過ぎません。
 
前から言っているように、聖句から、悪口を言ってはいけない、という道徳を語るには注意が必要です。批判のことを悪口というのは、カルト的な言論者が、批判に対して発してくることだからです。そして、信仰者自身が批判されたときに、信仰者も、思いやすく、言いやすいことだからです。
 
 (エペソ人への手紙、口語訳)4:29
悪い言葉をいっさい、あなたがたの口から出してはいけない。必要があれば、人の徳を高めるのに役立つような言葉を語って、聞いている者の益になるようにしなさい。
 (エペソ4:29、新約聖書)
 
批判には根拠があることを何度も言ってきました。しかし、批判は絶対ではありません。批判だけでなく、人間の言動は、絶対の正しさではありません。批判する必要があって、批判する気があって、批判できる人がすることに過ぎません。
 
人は、自らの言動の影響を、影響がなくなる時と所まで追うことは出来ません。ゆえに、良かれと思って、逆に、傷つけるということが起こり得るわけです。
 
つまり、あらゆる言論は、それを否定し改めさせるほどの優れた意見によって、修正される余地を残しているという弁え、それが、敬虔であります。最終的には、神に任されるべきことであり、人は、そのことを自覚していなくてはいけません。そういう、動きうる心が大事だということです。
 
 
動かなくなった心は、停滞してゆきます。人間の不完全性すなわち罪の性質によって、そういう心は、停滞にとどまらず歪曲したり固着したりする恐れがあります。無条件に、さらには、実際は快楽原則の不快という原始反応のみによって、他者を否定したり、退けたりするようになる恐れさえあります。
 
揺るがない信仰、というものを、勘違いしないでください。救いのありがたさに満たされ、そこに満たされた信仰は、信仰の確信のつもりで、ときに、動く心を失ってしまって、観念のように固定されて、逆に、感謝や讃美のお芝居をさせるようになるからです。
 
揺るがない信仰というのは、忍耐強い信仰のことです。動くゆえに、喜怒哀楽が起きて、悲哀や苦難に忍耐が必要だからです。
 
 
判断し行動することには、人間として、疑問の余地がありません。そうするしかないことです。ゆえにこそ、神を恐れるならば、自分で、善悪の"絶対"基準を作らないことが大事です。
 
絶対でなくても、判断することは出来ますし、行動することも出来ます。その思いや行為や、経過と結果は、祈りにおいて、神に捧げられるべきものなのです。それによって、信仰についても、行為についても、内省力が保たれるでしょう。
 
信仰は、神と人との双方向です。しかし、前から言っていますが、人は、神に語ったつもりでも、直接、その時、神から返事を聞くことは出来ません。祈りは、人から神への唯一の音信であり、神に対する発言であり、人と神の双方向を保つ唯一の行為なのです。
 
その信仰の正直であろうとする姿勢こそが、立派に完全になりたい、という、人間の思いこみの欲望から、また、悪意や憎しみから、人間を解放し救うのであって、それゆえに、私たちは敬虔でありうることを求め、感謝するのです。
 
双方向と言っても、神様やキリストや聖霊が、人と同じように、直接、言葉で教えてくれるわけではありません。神聖の臨在の体験を声高に豪語する向きには注意が必要です。自分が神聖な特別の者になりたがる欲望が働いている恐れがあります。
 
天国に行き、神聖になって、永遠になって、神のように聖なる者になる、などということは、人間には分からないことであります。神に任されることです。ましてや、生きている地上では、神聖に近づくよりも、神聖との違いを弁えるべきです。
 
しかしながら、人間として、信仰者として、正直な祈りによって、心が洗われるような、神妙な気持ちになるような、気が済むような、重荷が取れるような、安らかになるような、そういう体験を持ったことのある人は、少なくないと思います。
 
それが、少なくとも、人生の終わる時まで、同伴者がおられることによる癒しであり、人間の側から分かる祈りの効用です。神秘は神の秘密として知りえなくても、癒しの体験は、信仰を通して、人にも分かることです。
 
それが、ただの気休めでないことは、祈りの信仰によって生きてゆく人が、数えきれないほど、いる、そして、いたことが、証しとなっているからであります。
 
いかなる人間の判断も、絶対ではありません。神の前に、自分が絶対ではないことを表すために、精いっぱい正直に告白する祈りこそが、信仰において最も大切な、悔い改めなのです。悔い改めとは、世俗ではなく、神のほうを向く、すなわち、祈ることです。
 
 
信じ仰ぐ

信じ 仰ぐ
 
 
(2020年02月27日)
(2022年03月04日、再録+加筆)
 
 
 
  私の青春は
 
かみ合わなかった歯車
 
倒れるときの独楽(こま)
 
誰もいない部屋で
まわり続けたレコード
 
最後までからみもせず
ほどけもしなかった
君と 僕の いと
 
気の抜けた苦ビール
 
ふためと見られぬ顔をしていた
酔いつぶれた翌朝の
鏡の中の気分のように
 
電線にかかった凧(たこ)の糸
ちぎれて 汚れて
それと気づかれることもなく
今は春風に揺れている
 
 
  きぼう
 
そらをみれば
そらにすわれ
こなごなになって
きえてしまいそうで
 
ひとをみれば
ひとみのおくにすわれ
すきとおる こどくのなかで
いきが たえて しまいそうで
 
いつのまにか
うすい いのちに さく
はなのあいだに
ただようかおりまつみの
ほのかな
ぬくもりのかげに にている
 
 
 
 
楽山の、意地悪な自己中リツイートについては、前にも批判しましたが、いくつか、さかのぼって見てみると、もっとありました。ちょこちょこと、人の口を借りて、・・楽山の姑息です。
 
心機一転★こも楽山さんがリツイート
片柳弘史
@hiroshisj
·2月22日
自分を見失いそうになるほど忙しいとき、苦しいときは、ちょっと無理をしてでも、自分が好きなことをするための時間をつくりましょう。自分が本当にしたいこと、心の底から望んでいることさえ忘れなければ、自分を見失うことはありません。今晩も、皆さんの上に神様の祝福がありますように。
午後11:56 · 2021年2月22日·Twitter Web App
 
忙しくなくても、自分を見失っている楽山です。だから、深く考えもせずに、他者の口を利用します。考えて新しく記事を書くのではなく、コピペして、見境もなく、多量の、多数の記事を書いていることを既に報告しました。まるで発作か衝動のようです。
 
「本当にしたいこと」「心の底から望んでいること」というのには、自分を律すること、考えることが、必須であります。楽山は、欲望しているに過ぎません。空恐ろしい敵意と悪意であります。楽山のような嘘吐きは、神の祝福から、最も遠い人です。
 
心機一転★こも楽山さんがリツイート
新無神論bot
@AtheismBotJP
·2月23日
コメディアンに宗教をジョークにするのをやめさせたいって?だったら宗教がこんなに素晴らしいネタの宝庫でいるのをやめたらいいんじゃないかな。トム・バラード(オーストラリアのコメディアン)
午後5:53 · 2021年2月23日·twittbot.net
 
このツイートを選んで引用して、楽山が言いたいことは明らかです。宗教なんてお笑いのネタだと揶揄したいわけです。底意地の悪さが、引用にも出てくる例でしょう。楽山こそ、地獄の火の車なのです。巻き添えを求めて、だまそうとしてきます。
 
宗教の勘違いがもたらす、おかしな話というのは、恐らく、いっぱいあるでしょう。しかし、それは、勘違いによって起こるものであり、楽山のように、本来の宗教の根本を好きなように揶揄していい、悪口を言って否定していい、ということの根拠には決してなりません。
 
楽山は、悲劇が起こるから神はいない、霊が分かるっぽい自分が偉くなれないから神はいない、と言っているに等しいことを、今まで書いてきたのです。言い換えれば、神はいない、自分は偉い、と言っているようなものです。
 
そう思わせたくて、楽山は、自己顕示欲から、丁寧語の詭弁を、数え切れないほど発してきました。楽山は、実に、自分の家には柱も床も塀も焼け焦げているのに、隣りの家が、汚いと言い、貧乏だと言って、笑っているような人です。放っておくと町が焼けてしまいます。
 
心機一転★こも楽山さんがリツイート
陣内 侘助
@muAscLTeYb2WlXo
·2月23日
画像:
君らの神の正気は
一体どこの誰が
保証してくれるのだね?
 
神の正気は、楽山とは何の関係もないわけです。
つまり、楽山などに全能者の心配は無用です。
 
楽山は自らの正気を疑うべきです。
神も、人も、誰も、保証しないからです。
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
「人間の性」では決して説明できないような、罪と悪と偽善を重ねて、一片の正直も表したことのない楽山です。つまり、人間であり続けることを、ずっと拒み続けています。代わりに、霊が分かるっぽい?という教祖願望に至り、ますます、空想パニックに堕ち続けているのです。
 
楽山は、自分の不出来を棚に上げたまま、他者を批判してきました。それこそ、遅くとも9年前から、実際は、もっと前からでしょう。「反省。とほほ」と書いた後も、変わりはありません。そして、最近、さらに醜い悪口を発作的に並べています。楽山の悪は、偽善を伴って、不治と判断するしかないのです。
 
「st氏からつきまとわれる」「前々から、st氏には、誤読、歪曲、投影、決めつけ、邪推、妄想…などが多すぎることは指摘していますが、残念ながら今回も同じ感想を持ちました。」・・こういう書き方ですが、何も根拠を示せない楽山です。しぶとく、しぶとく、批判を重ねるしかありません。
 
 
 
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  赦すこと3
 
 
※ 人格異常で批判対象となっている楽山が、余計なことを書いてくるので、このところ、後付けの批判のために、記事が長くなっています。
 
 
私が最初に牧師から習ったのは、罪の赦しは、許可ではなく、赦免ということでした。だから、漢字では、許す、ではなく、赦す、を使うのでしょう。
 
 (マタイによる福音書、口語訳)
6:14
もしも、あなたがたが、人々のあやまちをゆるすならば、あなたがたの天の父も、あなたがたをゆるして下さるであろう。 
6:15
もし人をゆるさないならば、あなたがたの父も、あなたがたのあやまちをゆるして下さらないであろう。 
 (マタイ6:14-15、新約聖書)
 
過ちも罪ですから、罪を赦すことについての、赦しなさい、という、キリストの教えです。過ちだと自覚がある場合です。
 
赦されない罪があります。
過ちだと、あるいは、罪だという自覚のない場合です。
罪だと思っていないならば、赦す、ということ自体が無意味です。
 
一つは気づいていない場合。赦すと言われても何の事だかわかりません。もう一つは偽善という罪。罪を犯しながら、罪を隠して善に見せかける罪です。キリストの敵となった者たちは、そういう者たちでした。彼らは、赦しを求めないので、赦すことが意味を持ちません。
 
さて、罪を赦されたら、どうなるでしょう。赦された、ああよかった、これで、清廉潔白になったと思うでしょうか。・・そう思うなら、そう思うことが、罪であります。
 
赦しは、また、これからも罪を犯すであろう罪人としての弁えを学習することです。人間は、この地上では、清廉潔白にはなりません。赦されることで心の解放感はあるでしょう。しかし、ああよかった、と言って安穏とするのは、信仰の態度ではなく、なお偽善者の態度なのです。
 
人間の立場から見ると、赦されて安心することよりも、赦しを神に求めることのほうに、生き方の学習があります。したがって、罪を犯しても大丈夫と学ぶのではなく、罪を犯す自分を知ることであります。その学習があるからこそ、私たちは、また、赦されることを求めるのです。
 
 
キリストの十字架の贖いによって、罪に死んだから、罪はない、などと信じている偽善者もいるようですが、そのような者は、反キリストの役割を果たしているだけなのです。罪はないと信じ込んだ人間がどうなるかということを考え推測して否定するということができないだけの偽善者です。
 
人は、他者の罪を赦すべきか、という問題については、上のほうにあげたように、赦すことが無意味である場合があります。気づかない人は、気づかせる、または、気づくことを待つしかないのでしょう。
 
しかし、キリスト信仰を、自己中心に考えて、あるいは、何も考えないで、何でも赦される、または、赦されることを求めてさえないか、最初から信仰が嘘である場合も含めて、決して、赦してはいけません。偽善と反キリストを増長させるだけです。それは、神に対する罪になります。
 
そういう者を、批判することが苦手なら、無理して批判する必要はありません。神に与えられた務めは、人それぞれです。ただ、批判は、悪口とは違うし、批判する気のある人が、批判しなければいけない場合があることは、承知してください。批判対象にしかならない者がいます。
 
その者は、いつも他者を下に見て、自分を高めるために、教えたがります。放置すれば、会う人ごとに嘘を吹き込み、その人を洗脳して人格をおとしめ、破壊してゆきます。凶悪カルトとカルト支援者は、悔い改めより、赦しが先だと言って、さらに、自分を高める背教を勧めるのです。
 
悔い改めは、祈りによる罪の告白です。罪を認めないで隠して、平気で嘘を吐いている者が、どうして赦されるでしょう。どの罪を赦せというのでしょう。どんな罪も、告白しないまま赦されるなら、地上は、偽善者の楽園になるでしょう。そんなことも分からない愚か者が、実際に、いるのです。
 
カルトは、批判者に対しては、いたずらに決めつけることを繰り返して、疲労させ、批判者の人格を破壊してゆきます。こういうことは、宗教が絡むとき、カルトが絡むとき、とても醜悪な遣り取りになりますから、批判というものは、自分を、ある程度は、コントロールできる人がするべきことです。
 
何でもかんでも総ての罪を赦すのがキリスト教の理想などということでは、決して、ありません。むしろ、罪の自覚があるから赦しが意味を持つのです。罪を認めて、神の前に告白して、罪を犯しやすい自分の性質を反省することで、思い上がることなく、罪を赦される恵みに気づくことができるのです。
 
何でも赦してくれる神?を信じているカルトは、罪人の自覚を全く持たないで、神に対しても、極めて、お気楽に構えており、平気で罪を犯し、嘘を吐いて、偽善者となり、神のしもべたる自身を永遠に弁えないまま、罪業の穴へ、ぬるぬると滑り落ちてゆくでしょう。
 
悔い改めより赦しが先だなどという詭弁を弄する者は、悔い改めなくても赦されるという我欲からの妄想欲求が、そう言わせているだけです。
 
罪の自覚のない者に、赦しを与えることは、いったい何を赦されるのか悟ることもないのだから、赦すこと自体が無意味です。悔い改めない者に、赦しを与えれば、勝手放題の地獄が開かれるだけです。
 
 
罪の自覚があり、それを神に対して正直に告白することで、世俗や我執から、神へと、自らの向きを正すことが悔い改めです。そのために祈りの機会が与えられているのです。
 
 
罪の赦しは無罪ではなく赦されて生きること

罪の赦しは、無罪ではなく、赦されて生きること
 
 
(2020年02月)
(2022年03月02日、加筆して再録)
 
 
 
信仰者が、聖書の言葉から、弱いからこそ強い、という逆説を、理解不十分なまま、説明せずに豪語すると、生き馬の目を抜くように、反キリストから、それこそ、キリスト教の嘘と偽善だと言われ、広められるでしょう。
 
(ネットより)
生き馬の目を抜く(いきうまのめをぬく)
生き馬の目を抜くとは、すばしっこく人を出し抜き、抜け目がなくて油断できないさまのたとえ。
 
強いのは、いつも神であります。神のみであります。神が憐れむのは、弱さを知っている人であります。ゆえに、神の憐れみがあるから、信仰者は忍耐強いということの、逆説の真実なのです。ゆえに、豪語していいような性質の言葉ではありません。
 
私たちは、神でもなく、キリストでもなく、預言者でもないのだから、力比べは、いけません。
 
信仰を超常奇跡物語としてしか見ていない人もいます。私たちキリスト信仰者は、神の業(わざ)であって人には手に負えない超常奇跡ではなく、人として生きてゆくために必要な、愛に通じる共感として、神とは違う低さと罪深さを弁え、祈りの信仰生活を送ることが大切です。
 
 
 ※ 批判における厳しい表現について
 
まじめなことを淡々と書いている記事は、一般の読者に対しては、十分ではなくても、意志の伝達として成り立ちます。
 
しかし、私の批判対象は、批判をスルーつまり無視すると公言していますし、言葉も理路も理解する能力も失っている人なので、普通の批判をしても何も受け取らないでしょうし、気にもしないでしょうし、脅威にならないから、読むことさえしないでしょう。
 
一般に、厳しい表現や、辛辣な比喩は、文章の中で目立ちます。ゆえに、批判対象だけでなく、一般にも嫌われるでしょう。無反省と無責任そして体質的に鈍感であるために無視してくる批判対象に対して、表現を大人しくすることは、こちら側の体面のために本音を隠しがちです。
 
それに、破綻した理路と要領を得ない筆致や詭弁を見続けることは、ストレスがたまってくるという、こちらの精神衛生の問題でもあります。即ち、辛辣な比喩など、厳しい表現は、激情に駆られて用いるのではなく、激情を治めるために用いるという意味があります。
 
というわけで、今まで、批判対象に向けてきた辛辣な比喩をあげると、亡者、ヒト型生物、疲労物質、放屁、排泄物、糞尿、病原、寄生虫、害虫、ゴキブリ、ドブネズミ、狂犬、等々あります。とうてい全部は思い出せません。
 
なお、嘘吐き、詭弁屋、精神詐欺師、偽善者、病質者、人格障害、高等感情鈍麻、サイコパス、エナジーバンパイア、などは、比喩表現ではありません。
 
以前、キリスト教系カルトの者が、私の批判に対して、それこそボロクソに、個人情報まで持ち出して、ギャーギャー吠えるように、罵詈雑言を連発してきたことがあります。それを読んで、私は、この人はギャーギャー言っているんだ・・としか受け取れませんでした。
 
辛辣な表現も、質が問われることを、そのとき思いました。あまりひどいので、サーバーに報告したところ、相手の記事が削除されることもありました。
 
一方、病質者の書くところの、大人しく見せかける文章は、大方、概念的な言葉や熟語を並べただけのものであり、そこに、生活者としての実感が表れていない、という特徴があります。つまり、概念遊び、即ち、机上の空論なのです。
 
そういう文章は、書いた人に学習意欲も真摯さも向上心も反省力も見られないから、繰り返し読まされるほどに、うんざりするか、がっかりするか、ろくな気持ちにならない、ゆえに、疲れるという体験だけを与える文章になります。
 
また、過去の非を認めないまま、きれいごとを書いてくれば、それだけで、嘘吐きだと分かるわけです。人間の歩みとして、成り立っていないからです。パンツに漏らしたウンコを洗わず拭かないでいて、ニオイが、むわ~と伝わってくるようなものなのです。
 
 
 
  前進か後退
 
前には足跡がある
後ろには足跡がない
戻ることはあり得ない
止まることも許されない
嫌だ嫌だの挙げ句の果て
後ろを向いて後退(あとずさ)り
だから転んでは気を失い
目覚めればいつも仰天している
 
 
  罪の足跡
 
まっすぐ歩いたつもりが
振り返れば随分と曲がっている
右に左に
無駄な道のり
それら徒労
受け容れるしかないものたち
 
無数の足跡に紛れたり
別の足跡と交叉して離れたり
途切れているところもある
一度は死んだのかも知れぬ
 
いずれ満ち潮が
すべてを攫(さら)って消してゆく
足跡一つ残せませんでした
と泣きながら倒れるようにひれ伏して
許しを乞わねばならないだろうか
 
後ろがどうであれ
後でどれだけ消えてしまおうと
今ここで決めねばならぬことがある
 
目の前で一歩踏み出せば
足跡は一つ増える
踏み出すことは
踏みしめること
踏みつけること
踏み拉(ひし)ぐこと
何かを
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
発作のように、コピペで大量の記事を書き、どんなもんだいとでも言いたいような楽山ですが、当たり前のことさえ、ずっと出来ないままなのです。反省、責任、どれもこれも、できないばかりか、理解さえしていないで、いかなる霊が分かるっぽい?のでしょう。呪いの悪霊でしょうか。
 
過去のコメントを断片的に引用して、「議論とは関係ない挨拶、雑談にまで、ずうっとケチをつけてくるというのはどうかしている。st氏にもこういうバカバカしさに気づいてほしいが、多分それは無理なのだろうな。残念。」などと書いています。無理な楽山に対しては、実際、ずうっと無理なのです。
 
NPDの症状は、日記的な話にも表れてきます。しかし引用された記事とコメント、私は覚えていません。楽山は、執念深く、細かいところまで引用したつもりでしょうが、今に至るまで、ずっと、楽山の無法は、表れてきたのです。それが、体質というものです。ピントをずらそうとしても無駄なのです。
 
 
 
 st氏から、つきまとわれる理由
 2022年02月28日 楽山日記(LD)
   さらに批判します。
 
st氏からつきまとわれる切っ掛けになった場面があったので保存しておきたい。
 
「つきまとわれる」という言い方をしていますが、つきまとうのではなく、批判するということです。楽山が、こんなふうに、しらばくれるわけですから、批判は、書けるあいだ、一生にわたります。根腐れを放置することは出来ません。
 
st氏は、シャローム氏と話をする私を異常だとして、批判しはじめている。
 
楽山とシャロームshalomにだまされたことに気づいたころの話だと思います。楽山とシャロームは、異常な偽善者です。ここに至っては全否定で、これからも批判を続けているということです。凶悪な訂正不能の悪の根性を持っています。
 
次に、st氏は、私の記事に対する反発心をあらわにしている。「人は人、自分は自分」という考え方は、よくあるものだけども、st氏にはどうにも我慢がならなかったらしい。
 
「人は人、自分は自分」・・・公共の福祉に反しない限りでという条件があることを知らないのならば、楽山は、無知であります。キリスト教について、嘘と詭弁で、デタラメなことをばらまいている楽山を容認することは出来ません。
 
年始の挨拶をしたのであるが、たったそれだけのことでst氏は敵意をあらわにし、悪口を言うようになった。
 
年始の挨拶をしている場合ではないということです。しらばくれる楽山は、人間とは思えない不感不応です。傍らで人が傷ついていても死んでいても、あけましておめでとう・・などと挨拶を交わしそうな者たちです。冷酷で、情がなく、攻撃的で、卑怯です。全否定で臨みます。
 
st氏から敵と認定された後は、すぐに次のようなモラハラを受けた。
質問だと思ってこたえたら、「明確な質問ではなく、疑問です」って…意味分からん。
 
何かを問うているのではなく、そのような場合ではなく、疑問を持って批判しているという意味です。質問などはしません。応答が、全く信用できない楽山だからです。今は疑問はありません。楽山とシャロームは異常者です。一人による成りすましも疑われます。
 
私が楽山を批判する理由について、楽山は、何も分かっていない、または、分かっているのに言い逃れと悪口しか返せないでいるのです。健全な社会には、いてはならない病質者です。くれぐれも、関わることのないようにしてください。相手を消耗させるエナジーバンパイアでもあります。
 
神からも、人からも、許されては、赦されては、いけない者たちがいます。強制力もなく、言論だけが頼りになるところで平気で嘘を吐き人をだます者たちです。いずれ、あるいは、既に、何らかの犯罪者であるかもしれません。匿名のネットをいいことに、怠慢と虚偽の地獄に生息しているのです。
 
人類の敵とは、国でも組織でもありません。楽山のような、人間の心を持たない輩、反社会性人格障害者のことであります。戦争を始める者、戦場で残虐行為をする者、その群れの中に、楽山のような高等感情を持たない者たちがいるのです。
 
 
 
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http://st5402jp.livedoor.blog/
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