ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

タグ:気づかない

 
  気づかない楽山
 
 2022年11月03日
 『秘密の法』大川隆法著
  を批判。
 
 
自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)の楽山は、自分の無責任に気づきません。素の自己中の立場を、まともだと思い込んで、そこから、他者に向けて書いているので、書いた文章には、嘘と詭弁と無反省と無責任など、害毒がいっぱい表れてきます。
 
ここまで、白を切り、嘘を吐き、詭弁を弄し、なおも他者に影響を与えようとするのは、サイコパスとしか言えないと思います。楽山の発言は、信頼度ゼロです。平気で嘘を吐きます。リアルでどう生きているのかを思うと恐ろしいです。
 
 
*まえおき
『秘密の法』を読んだので、その中で賛同できた部分、賛同できなかった部分について、記事の前半後半に分けて書いてみた。
 まず以下が賛同できた部分である。
*触らぬ神に祟りなし
全体的に見ておかしいと思うものからは、やはり、距離を取ることが大事ではないかと思います。
(『秘密の法』大川隆法著、幸福の科学出版、2021年、p.91)
 」
大川隆法総裁はここで、おかしいと思う宗教には近付かない方がいいとしているが、これには私も賛成である。
仮に、「この宗教は正しい」と確信を持って近付いたとしても、あとで「何か、おかしい」という違和感を覚えたなら、早々に離れた方が賢明である。
 
自分の「何か、おかしい」ところに気づかないのが、楽山です。生まれて一度も気づかないから、今のようになっていると思います。正しい宗教は、現実の個人の生活において、実感できることや知っておくべきことから気づきが得られることでしょう。楽山は、何も気づいいていません。
 
 
*責任
やはり、年齢相応に成熟して、自分のことは自分でできるようになり、あるいは、自分以外の人にも「責任」を負えるようにならなくてはいけません。
(同上、p.152)
 」
これもその通りだ。世の中で生きていくということは、その立場によって責任を負い、義務を果たすことを求められるということだろう。人の立場は、人それぞれ異なるので、その責任や義務の中身はそれぞれ異なるだろうけれども、責任や義務は世の中で生きている限りはついてまわるし、それらを果たしてこそ人は幸福を実感できるのだと思う。
 
楽山は、たとえば自分の言論について、全く責任を負わない人です。忘れるのかもしれませんが、否定を言い肯定を言ったから断定じゃないので責任問題は生じない・・と言っていました。丁寧語で、かつ、語尾をごまかす筆致もそのためだろうと思います。
 
 
*相性
世の中には「相性」というものもあるので、相性の悪い人もどうしても出てきますが、それはしかたがないことです。すべての人に愛されはしません。
(同上、p.160)
 」
 これもその通りだし、自分にもよく理解できる。世の中には、さまざまな個性を持った人たちがいて、それぞれ感性も、考え方もちがっている。それならその中に自分と気が合う人がいる一方で、合わない人もいるのは当たり前である。
 すべての人たちと仲良くするのが理想ではあるけれども、どうしても合わない人は敬して遠ざけるしかない。
 
また、自己中の自己正当化です。相性が合わないと発言の責任はないのでしょうか、違います。相性と責任問題は、全く別のことです。楽山のような嘘つきには、精神衛生上、関わるだけで、否定も肯定もない無責任ワールドの餌食となります。
 
 
*石橋を叩いて渡る
このように、自分自身を客観的に見て、平均率を見て、さらに、「細分化の原理」等を通して、「キャパオーバーでアウトになること」をできるだけ避けていくことが大事だろうと思います。
(同上、p.131)
 」
これはその通りだと思う。適度なストレスは必要かもしれないが、過度のストレスは避けた方がいいし、時には新たな挑戦をすることも大切だろうけれども、無謀な賭けは止めておいた方がいい。
 
楽山は、自分のストレスだけを避けようとします。ストレスを避けたいなら、何も書かないことです。言論は、双方が責任を負いながら進めることです。自分だけ、詭弁や嘘や論理遊びの迷路で遊んで、人にストレスを与えて笑っていられるのは、サディストです。
 
 
*学問
特に、あの世で長い間、地獄界とか裏側とかにいる人には、はっきりと勉強していない人も多いので、教学を続けている態度が、彼らの言葉や惑わかしを、ある程度避けることにもなるのです。
(同上、p.145)
 」
あやまちを防ぐには、人はいかに生きるべきかという意味での学問があった方がいいのはその通りだ。
学問があれば絶対に大丈夫だというわけではないが、ないよりは、あった方がずっと良い。
 
いかに生きるべきかは、学問だけの問題ではありません。そういう意味で、楽山が、キリスト教を、あまりにも幼稚な偏見で否定することを批判してきました。学問は、あった方が良い、という問題ではありません。言論に必須の条件である責任感と反省力を、楽山は、全く学んでいません。
 
 
*唖然
ここからは、賛同できなかった部分について書く。
まず私は、この発言はあまりに酷いと感じないわけにはいかなかった。
残念ながら、アッラーの神は向こうで応えたまわないのです。もう少し、“東”のほうに向かって呼んでいただければ光を送れるのですが、天上に向かって拝んでいるので、残念ながら聞こえていないことも多いのです。
(p.291)
 」
 これはつまり、至高神エル・カンターレである自分に向かって祈れということだろうか。冗談か、本気かわからないが、真面目に祈っている人たちに向かって、こんなことは言うべきではないだろう。
 
超常世界の解説と、超常マニアの楽山の批判です。おおよそ、常識からは乖離していて、読んで理解するのは不可能でしょう。なお、楽山は、真面目に祈ることなど、一度もしたことはないと思います。祈る人であれば、今までの、厚顔無恥は無かったはずだからです。
 
 
*神罰?
「これらが、なぜ同時に起きるのか」ということについては、今は内緒です。ただ、まったくの内緒でもなく、少しぐらいは分かるかもしれません。「エル・カンターレが下生しているのに、人類はたるんでいる!」という意味での自然現象も起きているかもしれないのです。
(同上、pp.302-303)
 」
これはさまざまな自然災害の例を上げたあとの発言だが、まるでそれらの自然災害は、エル・カンターレである自分を信じない人々に対する神罰であると言いたげである。
前々から疑問だが、神様が「自分を信じない者は懲らしめる」というのは、神様が奪う愛をしているということであり、これはHSの愛の教えからすれば大きな矛盾になるのではないだろうか。
 
奪うというなら、神は、必ず、人間の命を奪うわけです。それが、肉体の死です。しかし、老化の果てに、まだ、さらに永遠に生きるなら、そのほうが、想像を絶する悲劇でもあります。神の凝らしめは、楽山においては、すでに起きていることでしょう。楽山が、罪も罰も、不感不応なだけです。
 
 
*礼儀
高級霊が来る場合でも、今はわりと普通に話をしているように見えていると思いますが、私が霊道を開いた最初のころは、もう少し畏れ多く、「遠い高い世界から来るものだ」と思い、「こちらも人間として、高級霊を敬わなければいけない」といった気持ちもありました。ところが、悟りの内容が、こちらのほうがだんだん高くなってくると、逆転してくるような感じがはっきりと出てきたので、これも相対的なものにしかすぎないのではないかという気はしています。
(同上、pp.26-27)
 」
この発言の背後には、他者との関係を霊格の上下で判断し、上の者は下の者に礼を尽くさなくて良いという発想が見て取れる。
また高級霊と立場が逆転してきたというのは、悟りが高くなったからというより、悟りが落ちて傲慢になったというだけのことだろう。
私は、「実るほど頭を垂れる稲穂かな」という考え方に共感するので、より謙虚になり、相手を尊敬するようになるのでなくては、悟りが高まっているとは思わない。
 
楽山は、上下や、高い低いで、人間も神も判断しているようです。人間は、神より、明らかに低い存在であるのが、信仰です。そして、楽山の「実るほど頭を垂れる稲穂かな」に、いちばん反しているのが、楽山その人であります。またしてもブーメランです。
 
 
*イエス・キリスト
世界に二十億人もの信者がいるといわれているキリスト教のイエス・キリストでさえ、幸福の科学のなかでは、一人の指導霊にしかすぎません。その現実を知ったときに、「幸福の科学という宗教が、どれほど大きな力を背後に秘めているか」ということを、どうか知っていただきたいと思います。 
(同上、pp297-298)
 」
イエス・キリストは神のひとり子ではなく、たくさんいる指導霊のうちの一人にすぎないと…。
私は自分の傲慢さを反省することがあるけれども、総裁を見てると、そんな自分がすごく謙虚に思えてくる。というより、総裁を基準としてみるなら、世の中には傲慢な人は一人もいないことになるのではないかと思う。
 
また、楽山は、嘘を吐いています。楽山は、決して謙虚ではありません。傲慢を反省することもないと思います。楽山は、特別に傲慢であり、不遜であり、他者を滅ぼす異常者です。このような嘘吐きは、早く滅びたほうがよいと思いますし、何かのリーダーになることなど、決してあってはならないことです。
 
 
*一番?
日本のなかでは、「戦後において最大に発展した宗教」として記憶されるでしょうけれども、まだ、それ以上のものではありません。しかし、やはり、世界的に知られる必要があるのです。
(同上、p.331)
 」
総裁は、幸福実現党の選挙結果を知らないのだろうか。それとも忘れてしまったのだろうか。
幸福実現党の選挙結果をみれば、HSは「戦後において最大に発展した宗教」とは言えないだろうと思う。
 
楽山は、このように、他者のことを、批判というより悪口で、貶めることはしても、他者に良い影響を与えることは決してありません。この3年以上のブログの言動が、楽山の言を否定します。またブーメランです。楽山が他者を批判することは、楽山が自分の言に殴られることです。
 
 
*金縛り
幽霊は横回転に弱いようです。金縛り状態では、縦には起き上がれないので体が動きませんけれども、幽霊は、横に回転する動きを止める方法をあまり知らないような感じがします。
(同上、p.49)
 」
総裁は横回転で金縛りを解いた経験から、この結論を得たそうだが、これは幽霊がどうこうとうより、横臥している人は、縦に起き上がるより、横に寝返りを打つ方が簡単だということではないだろうか。
また至高神エル・カンターレの本体であり、偉大な霊能者である総裁が、金縛りにあうというのはおかしな話である。
 
楽山は、幽霊話を引用していますが、楽山を、金縛りにするのは、恐らく、楽山自身だろうと思っています。病識のない精神障害は、放置すれば、患者を破壊してゆきます。楽山は自己愛性パーソナリティ障害NPD(自己愛性人格障害)によって、思い上がり、ゆえに、破壊されてゆくのです。
 
 
*脱毛症
ある女性に妬まれて、髪の毛が抜けて、丸ハゲがいくつもできた女性に、来ている生霊を特定し、「生霊退散」を私が命じると、一、二カ月で、髪がボウボウと生えてくるのである。
(同上、p.336)
 」
生霊退散を命じてすぐに髪の毛が生えたというなら奇跡かもしれないが、症状改善に一、二カ月かかったというのは、病院での治療効果が現れるのにそれだけの時間がかかったというだけのことに思える。
また結界に守られ、総裁の傍にいる女性が生霊の被害にあったというなら、これもまたおかしな話だ。
 
こういう奇跡話に、楽山が、その期間がどうとか言って否定してゆくという判断は、すっかり超常現象が分かる、判断できるという安易な自覚になり、魔界の審判員にでもなった自覚なのだろうと思います。超常現象を語って、超常の霊能者気取りに陥っているのもブーメランでしょう。
 
 
*昇進試験?
 また、「天使系」の方だと、あの世でも何段階かの試験を受け、イニシエーション(秘儀)を受けないと、上に上がっていけないことが多いのです。
(同上、p.74)
 」
天使が試験を受けるというのは、まるで漫画のような話であるが、HS的には漫画が現実の天上界の仕組みを写したということになるのだろうか。
総裁は、まえがきで「本書では、不思議なエピソードや体験が満ちあふれている」と書いているが、自分にはそこに神秘性よりも、どうしても漫画っぽさを感じてしまうのである。この意味で、HSは宗教というより、スピリチュアルエンターテイメントであり、サブカルだといった方がいいのではないかと思う。
 
魔法のような神霊の秘儀を受けると言うのは、キリスト教にはありません。秘蹟と言われているのは、神の秘密であって、神の為さることを、人は解説など出来ないという身の程を弁えるべきです。このように、カルトを、カルトが、批判しているというのは、どこまでも成り立つことはないのです。
 
楽山は、サブカルチャーにもなりません。楽山の無神教カルトは、エンタにはなりません。害を及ぼすだけです。楽山のようになったら、おしまいです。関わっている人は、直ちに離れてください。病識のない楽山に対しては、批判者以外、関わらず、逃げることだけが必要です。
 
サイコパスに対しては、治療薬はありません。言動の範囲を最小限に限定してゆくしかありません。それよりも、サイコパスの影響を受けないように、情報を拡散することが必要になるでしょう。緊急避難信号が必要かもしれません。人格が有害なら、その人格の影響を少なくするしかないのです。
 
 
 
 『安岡正篤「こころ」に書き写す言葉』安岡正篤著
 2022年10月29日 楽山日記(LD)
  を批判。
 
楽山は、しばしば、自分とは逆のことを勧めたり、そういうことが書いてある本を引用したりします。自分を悪から除外するための保身の悪知恵なんでしょう。醜い限りです。
 
 
*概略
「はじめに」によると、本書は、名言集としてまとめられ、好評を得た小冊子『天籟の妙音』に新たな内容を加えたものであるという。
目次を見ると、安岡正篤の言葉は、以下のテーマ別に整理されている。自己修養、人生の知恵、日々の心得、「人望」という財産、成功する人、心と体の養生、人間の品格、学び続ける人生…と。
 
3年以上見てきて、楽山は、自己修養をする気がなく、知恵がなく、心得もなく、人望は陰謀であり、騙しており、成功もしてはおらず、養生を乱すだけで、品格も学習も阻害するだけの、異常人格です。自己愛性パーソナリティ障害NPD(自己愛性人格障害)の害を被らないようにする必要があります。
 
 
*熏習
名言集であれば気が向いた時にでも、つまみ読みしたらいいだろうという軽い気分でいたのだが、本書を開いてみると、膝を打ちたくなったり、思わす背筋を伸ばしたくなるような言葉が並んでいた。
心に書き写したいと感じた言葉のいくつかを、ここにメモしておきたい。
我々は、何のために学ぶのか。何のためでもない。学ばなければならないから学ぶのだ。学ばずにはいられないから学ぶのだ。学問の第一義は、道心の長養でなければならぬ、道徳の発揮でなければならぬ。
(『安岡正篤「こころ」に書き写す言葉』安岡正篤著、三笠書房、2007年、p.202)
 」
我々は学んで初めてその足らざるを知り、教えて初めて到らざるを知る。そこで自ら反り、強めるのだ。
(同上、p.196)
 」
中国の最も突きつめた哲学では、人間の意識の内にあるようでは駄目で、いわゆる無意識、無でなければならん。人にほめられるようではまだまだ駄目で、人が気付かないくらい偉くならなければいかん。こういうのが理想なのだ。
(同上、p.165)
 」
何でもこつこつ根気よく努力を続けてゆくと、たとえ愚でも、それはそれなりに味が出てくるもので、俄造りはどんなに器用に見えても、必ず駄目になるものだ。
(同上、p.25)
 」
自分にとって、本書の言葉は自らの至らなさを思い知らせつつも、もっと頑張ろうという前向きな気持ちにさせてくれる本である。これなら多くの人々が本書の刊行を希望したというのも納得である。
 
反省と学習の必要を説いている本のようです。「人が気付かないくらい偉くならなければいかん」というのは、目立とうとして自己主張するのではなく、目立たない努力が必要だということでしょう。勉強も学習も反省も努力もせずに、自己主張だけしてくる楽山は、この本に対する最悪の例であります。
 
 
散乱する我欲

散乱する我欲
 
 
(2022年11月05日)
 
 
 
  郷愁
 
椅子にうたた寝しながら
誰かの呼び声を聞いた
低く小さい声
やさしげな声だった
 
果てしなく続く
原野を旅していた
暖かいのに
太陽はどこにも見えなかった
空は青くもなく
雲があるわけでもなかった
起伏に富んだ
果てしない原野
誰の心の中だろう
 
金網の向こうに山が見えた
濃い緑に包まれた山々が
どこまでも続く金網は国境である
警備している兵隊はいない
金網をつかんで
もたれていると
人の形をした黒い影のようになった
なったのが見える
それでいてどこか眠たく
金網の
一体どちらが祖国であったかなどと考えていた
 
海辺の岩に腰掛けていた
何故か苛立つ心を抑えきれない
もっと冷たく激しい風を欲して
でも白波のない海に
遠く釣り舟が一そう
よく見えないのに知っているような気がして
 
それが思い出というものだ
呼びながら届かない
呼ばれながら行くすべもない
海鳴りよりも遠く
やがて眠りを誘うだろう
見つからない故郷(ふるさと)のように
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
 
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
楽山は、また雑な投稿を多数アップする衝動に駆られているようです。その分、中身は、単純に安っぽく空っぽになってゆきます。自分で考えなくなってゆく症状なのでしょう。整理して書くことが出来なくなってゆきます。言葉も乱れるでしょう。視野は狭小となり、考えもまとまらなくなるでしょう。
 
 
 
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  楽山の実現したいこと2
 
 2021年05月15日
 幸福実現党の移民政策(2)
 幸福の科学とは何だろう?ブログ(楽山)
 
 
楽山は、秘密モードにすると言っていましたが、今度は、ツイッターの画像を引用して、幸福実現党を批判しているつもりです。もっともらしく見せるボンヤリ言語と、弱いんです芝居のトホホ言語が、詭弁屋の楽山の、唯一の武器なのです。
 
そして、その正体は、自身を省みずに、人を責めて笑う楽山です。幸福の科学を批判しながら、人を惑わせ、不幸に陥れるような詭弁と嘘を発信してきたのは、自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)の、楽山その人であります。
 
自身が、カルト的霊能者気取りでありながら、アンチというカルト批判者を装い、上から見下ろして、他者を云々してきたのです。いったい、どういう立場で、自身の罪悪・無反省・無責任を棚に上げて、批判者を気取っていられるのでしょう。
 
 
*移民一億人と打ち上げたのは事実
及川幸久氏が、移民一億人についてツイートしていた。
幸福実現党は立党時には、移民一億人を目標としていたが、その後は取り下げたとのことである。
20210515 今移民1億人も入れたら日本でなくなる
https://twitter.com/oikawa_yukihisa/status/1392852601247436802?s=20
 
空想的で荒唐無稽な移民政策だと思いますが、取り下げたのだそうです。楽山は、好きなように自己中心の自己愛から、得々として、反キリスト、神否定、右翼礼賛、霊能の自覚などを、思想家気取りで、語ってきました。取り下げることもしていません。言ったら、言いっぱなしです。
 
 
*素朴な疑問
移民一億人というのは、政治の素人がみても暴論、放言でしかないことは分かるだろうに、どうして党の数値目標とされたのだろうか。
言い出しっぺは誰? どうして誰も反対しなかったのか? もしかしたら党内の最高権威者が言い出したことなので誰も反対できなかった? どうなんだろう?
 
楽山は、問題視し詮索し追及したいようです。しかし、楽山自身の発言についてだけは、何の問題意識も持っておらず、修正もしないのです。それで、また言ってくる病質の厚顔無恥であります。自分のことを何も分かろうとせず、何も言えないから、人のことばかり言うのでしょう。
 
 
>*対照的 
ところで、幸福実現党が移民一億人を政策として掲げていたことについて、及川幸久氏は立党時にはそのようなこともあったとしているが、西野あきら氏はそのようなことはなかったとしていた。アンチの印象操作、嘘、捏造だとでもいいたげである。ここは正反対になっているのは面白い。
20210515 「移民で一億人」という印象づけをしたいのでしょう
 
他者の意見が「正反対になっているのは面白い」・・真実に関することで揶揄して面白がるのは、ナルシストそしてサディストの、楽山の特徴です。一人前の正常人のつもりで書いていますが、病質に侵されて訂正不能になっているのが自己愛性人格障害者なのです。
 
 
ていうか、西野あきら氏は及川幸久氏のツイートをリツイートしているではないか。
20210515 (3)西野あきら氏、一億人移民リツイート
(*赤線は引用者による)
 
若者気取りのボンヤリ言語「ていうか」が出てきました。一切の言論の責任を取らない楽山の言い方、"ていうか"、ゴシップネタの言い方、議論なのか駄弁なのかをぼかす言い方で、自身の嘘と詭弁の事実以外、何も表れていない楽山の落ちてゆく岩盤でしょう。
 
テーマは宗教、つまり、真実の追求という重要な問題の一つなのです。宗教について、何かを語れば、それは、その宗教を信じている人々に対しての発言であり、人間の生き方の問題になり、つまり、冗談半分で書いてはいけないことなのです。
 
「ていうか」だけでなく、今まで目立ってきた、ボンヤリ言語の婉曲、トホホ言語の同情芝居、当てつけ、いちゃもん、根拠のない決めつけ、等々、無責任に書いてくる楽山の軽い姿勢は、既に、あらゆる門前において、アウトなのです。
 
 
自分の発言に間違いがあったことがはっきりしても修正しないで知らんふりってよく分からん。
 
「自分の発言に間違いがあったことがはっきりしても修正しないで知らんふり」しているのは、楽山です。今までも、自己愛性パーソナリティ障害の証拠を、自ら、みすぼらしさとともに、露呈してきたのです。それだけをしながら、楽山は、余生を送り、そして、人生を終わりへ向かうのでしょうか。
 
楽山は、自分の嘘と詭弁を後ろに隠しながら、他者を批評・批判する病気で、病識のない精神障害で、かつ、体質によるものだから治療法も治療薬もなく、白々しさと、執拗さだけで、人をだまして、ネットに、リアルに?、生きてきて、実際は、真実が、どこにもない嘘吐きなのです。
 
嘘吐きとは、嘘を吐く人ですが、実際は、本当と嘘を混ぜこぜにして、人を、惑わし、だまし、あらぬ方向へ誘導する人、そして、その罪悪を隠す人です。部分的に、もっともだと思っても、決して、相手にしてはいけません。真実と言えるような、まとまりは、どこにもないのです。
 
 
 
  楽山と詩
 
 2021年05月16日
 『詩集 私のパンセ』をチラ見してみた
 幸福の科学とは何だろう?ブログ(楽山)
 
 
詩を理解できるとは思えない楽山が、ORの詩を笑うという記事です。似たようなカルト精神を持っていて、つまり、楽山は、アンチではなく、人をバカにして、あざ笑うことで、批判したつもりになるだけの安っぽい身の程知らずなのです。教祖願望があると思います。
 
 
書店で、大川隆法の詩集『私のパンセ』をチラ見してみたのだが、人を厳しく裁く父なる神を退けて、限りなく優しい母なる神を賛美していて、あっ!と驚いてしまった。最近、自分も似たような事を考えていたので…。面白い偶然もあったものだ(笑)。
 
「母なる神」を「考えていた」のでしょうか。楽山の教祖願望の傍証となります。しかし、楽山の優しさは、偽物です。基本的に、高みから人をおとしめて笑う姿勢が随所に表れてきたのです。楽山は、意地悪な因業ババア・・のほうが近いです。
 
楽山の思想は、ORに似ているのでしょう。楽山は、批判精神より、はるかに教祖願望のほうが強いということです。だから、批判を書いても、「(笑)」となり、バカにして笑うほうに書いてしまうのです。オレのほうが上だ・・という気持ちが勝ってしまうのです。
 
 
詩集全体をざっと見た感じでは、素朴で、短い詩が多いようだった。その雰囲気を真似て書くと、こんな感じかな。
 
 
どこまでも
どこまでも
広く
透き通った
美しい空
いつか私も
そんな心に
なりたく思う
 
月並みな表現で飾っているだけですが、すごいと思うのは「真似て書」けると思っていること。楽山は、自分が見えないので、今の自分が、どれほど、醜いかを感じないのです。楽山の記事と同様に、真善美の深みに触れることのないキレイごとだけで、正直言って、かなり、寒くて、痒いです。
 
 
自分でいうのもなんだけど、こういうスピリチュアルっぽいノリの文章であれば、いくらでも書けそう(笑)。
 
ここに、楽山の体質が、十分に表れています。「スピリチュアルっぽいノリの文章」・・って、詩でしょうか。楽山は、「いくらでも書けそう(笑)」なのだそうです。こういう侮辱の仕方もあるのでしょうか。楽山が「(笑)」なら、私としては、笑止です。寒気です。
 
楽山は「スピリチュアルっぽいノリの文章」を書けば詩になると思っているのでしょうか。批判のつもりで、他者の高慢をあざ笑うことで、自らの高慢を表してしまっています。あきれた自惚れ屋、のぼせて書いて吐き気と不快だけを与える、それが、楽山です。
 
今回「(笑)」が2つですが、恐らく、楽山は、自分が詩を読めないし書けないものだから、詩をバカにしていると思います。同様に、感受できないものだから、宗教と信仰をバカにしているのです。自分が出来ないことはバカにする・・恐らく、自己愛性人格障害の特徴だろうと思います。
 
私も詩のようなものを書いていますが、私のが優秀ということではなく、私は、現代詩を読んで感動した経験があり、詩を書ける人に尊敬の念をいだくとともに、できることをしているという気持ちだけです。「いくらでも書けそう」などとは、間違っても言えません。
 
恐らく、楽山は、罪悪感と羞恥心がないために、目から火が出るような恥ずかしさを味わったことがないのでしょう。だから、いかに自分が醜いかを感じることが出来ないのです。無恥であることに無知であることが、楽山の非道を加速しています。
 
 
楽山の詩が見たい人は
例えば
 
生きていれば、
いろいろなことがあって、
いろいろな気持ちになるし、
どんな気持ちもそれぞれ尊いけど、
揺れを戻し、整えることも大事。
 
詩ではなく「いろいろ」で済ませて改行した独り言でしょう。「いろいろな気持ち」と書いて、「尊い」と言い、「揺れを戻し、整える」「大事」と説教を書いて・・これは詩でしょうか。よく他者の詩のことを言えると思います。嘘と詭弁でだまして、「いろいろな」悪事を隠してきた楽山です。
 
 
ポエムを吠える

ポエムを吠える
 
 
(2021年)
(2022年05月27日、再録+加筆)
 
 
 
 楽山のツイッターですが
 
心機一転★こも楽山
@komo266
幸福実現党の提案する大統領制を、幸福の科学にあてはめれば、
幸福の科学のトップは信者らの選挙で選び、その権限、責任を拡大し、
大川隆法とその一族は違う次元の存在なので、教団運営とは全く関係ないものとする、これが大川家を守ることにもなる、ということか。
信者には噴飯ものだな、これは。
午前7:01 · 2021年5月16日·Twitter Web App
https://twitter.com/komo266/status/1393688044679491586
 
「大統領制」を「噴飯もの」と言って、また笑っている楽山です。人を笑うことが、楽山の生き甲斐なのでしょう。唯我独尊の楽山に「あてはめれば」、ずっと人間としても、また、最近は、ブログに秘密モードを宣言するほど、不遇と孤立が続いています。
 
霊能者気取りの楽山の望むことは、自分の「権限、責任を拡大し」さらに自分が「違う次元の存在」となり、高く高く舞い上がったつもりの陶酔気分に浸りたいのでしょう。人を笑えば自分が笑われますが、楽山の言は、噴飯ものどころではなく、糞飯もの、いわゆる、クソ食らえのレベルなのです。
 
(ネットより)
ふんぱん‐もの【噴飯物】 の解説
食べかけの飯をこらえきれずに噴き出してしまうほどに、おかしくてたまらない出来事。もの笑いのたねになるような、みっともない事柄。「政治屋が政界浄化を語るなど噴飯物だ」
[補説]文化庁が発表した平成24年度「国語に関する世論調査」では、本来の意味とされる「おかしくてたまらないこと」で使う人が19.7パーセント、本来の意味ではない「腹立たしくて仕方ないこと」で使う人が49.0パーセントという逆転した結果が出ている。
 
 
心機一転★こも楽山
@komo266
信仰継承についての天照大神の霊言では、
天皇は、天照大神の子孫という建前だが、宗教儀式をすることで存続を許されており、それを怠るなら危機的状況に陥ると語られていたかと。
これは万世一系も、天皇の神聖も認めないという意味だと思いますが、及川氏の考えはこれとは違うみたいですね。
午後3:36 · 2021年5月16日·Twitter Web App
https://twitter.com/komo266/status/1393817509174808585
 
「天照大神の霊言」というのがあるのでしょうか。一般に認められているのでしょうか。HSの主張でしょうか。本の名前なら、著者の善川三郎は、ORの父親のようです。このように、あちこちに、HS由来のことを当たり前のように引用している楽山です。
 
楽山は、アンチHSでしょうか、違うと思います。楽山の、いつも気持ち悪い「ですね」口調と「みたい」の婉曲は、恐らく、批判に見せかけた刷り込みです。楽山は、HSを批判している自分こそ、教祖に相応しいと思っているのでしょう。卑しい教祖願望です。
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
自分を見ず、反省せず、学習せず、成長のない者は、他者のことを、あげつらいながら、逆に、自らの出来の悪さを陳列してゆくことになります。自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)だから仕方ない・・ではなく、自分に相応しい時と所とテーマを、弁えない悲劇です。
 
 
 
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