ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

タグ:気取り

 
  楽山の偽り2
 
 2021年02月25日
 楽山の「幸福とは何だろう?ブログ」
 大川裕太氏のこと(宏洋と広報チャンネル)
  改めて、抜粋して批判
 
 
楽山は、自説ではなくて批判なら、自分が書いてもいいだろうと思うのでしょうか。評論家気取り全開といっていい筆致です。誰に対する批判であれ、自己愛の身勝手さで書いている楽山には、理解も共感も生まれません。楽山の、約3年の履歴が、言論者~批判者としての楽山を否定しています。
 
「あるまい」「なかろうか」「難しいだろう」「有効な教訓だと思う」というようなアドバイス的な書き方をしている楽山は、反省もせず、責任も負わずに書いてくる人です。ありがた迷惑というより、ただの迷惑なのです。自己中は、人が自分についてくるという妄想でもあります。
 
楽山は、誰の忠告も、誰も批判も、受け取らず、聞かず、無視して、書いているということを忘れてはいけません。むしろ、このような受け狙いの丁寧語をボンヤリ言語と呼んで警戒しています。バランスがとれているように見せかける柔和芝居に、どうか、だまされないでください。
 
 
*双方の動画を見て思ったこと
広報チャンネルの「確証がないのに変なタイトルをつけて名誉棄損してる」という主張は正論だと思う。タイトルの最後に「?」をつけておけば、確たる証拠もなしに何を言ってもいいというわけでもあるまい。
 
確証もなく、根拠もなく、初歩的な理解もなく、確たる証拠もなしに、キリスト教の悪口を、印象操作と詭弁で広めようとしてきた厚顔無恥の楽山は、誰に対しても、アドバイスできるような人ではありません。楽山が使う批判の言葉は、楽山に返ってゆきます。
 
 
ただ広報チャンネルは、本人でもないのに女性問題はないと断言して大丈夫なのだろうか。こういうことは秘め事であって他人には分からぬことであろうし、断言は本人にしかできないのではなかろうか。
 
もちろん本人でもないし、信者でもないのに、神はいないと、刷り込もうとしてきたのが楽山です。いい加減に信じるのが望ましい宗教、というようなことを言ってきたこともあり、全くの無理解で、著しく宗教と信仰の的を外したクレームで、いちゃもんをつけてきたのが楽山です。
 
信仰は有無であります。それこそ、髪の毛一本、神に、つながっていてほしいという願いが、信仰なのです。神と協力してとか、神の国の民の使命、などと、自分が高められたことを匂わせる信仰は、神の裁きを待つことになるでしょう。悲哀の河の、他にない寄る辺として、信仰はあるのです。
 
楽山の無知のシリーズには、批判を当てるしかありません。楽山は、自分についての、あらゆる問題を無視する人です。そして、他者の問題だけを、評論家気取りで言っては、自己満悦して、他者の評価に関わらず、批判されても、なお、スルー、つまり、無視し続けるという傍迷惑な性質を持っています。
 
 
教団内の自由恋愛については、宏洋氏の話に驚きはない。大川隆法の結婚相手は一度目も二度目も信者職員だ。その子供たちも、宏洋氏以外はみな、HSの信者や職員と結婚してる。このことからすると、大川家の面々は、信者職員を恋愛および結婚の対象としては見ていないと言い切ることは難しいだろう。
 
「信者職員を恋愛および結婚の対象としては見て」はいけないと、楽山は言いたいのでしょうか。そう見ているのが事実なのに、見ていないと言うことが間違いだと言っているのでしょうか。その楽山は、平気で嘘を吐いて、st問題とか言って、おとしめの言葉を返してくることしかできない人です。
 
そういう体質しか持っていないと判断しています。付き合えば、いつか、逆らって苦言を呈したときに、ひどい目に遭います。恐ろしい自分信仰を、バランスが取れていると思い込んで、さらに、責任逃れのために批判したつもりの悪口を言い、利用するときは賛同めいたことを言う、という、いい加減さです。
 
ネットの猥雑なワームの一人だと判断しています。批判に答えることなく、批判を受け取ることもなく、ふつうを装って、書いてくる楽山の、目的は、今も不明ですが、楽山については、主張も、結局、不明であります。恐らく、自己満足していないと気が済まないのでしょう。
 
楽山は、子供のときからの霊が分かるっぽい?自覚から、宗教を離れて自分の言に従うことを欲しているようですから、既に、カルト教祖願望があるのかもしれません。楽山はカルトの犠牲者ではないと思います。自分以外、自分の教祖願望と妄想以外、何も、信じていないからです。
 
楽山は、言っていることの責任を、いっさい負う気がない、ということだけは忘れないでほしいと思います。まともに反応できる心がないのです。過去には、心理学の話を、霊の話にすり替えて、成り立たない非合理の妄想を、分かったふうに、吹聴していました。感性も理路も整わない人です。
 
 
古い話ではあるが、フライデー騒動のときに、支部で「マスコミはお金と異性問題を攻めてくるから注意してください」という指導があったことを今でもよく覚えているけれども、こういうスキャンダルを聞くと、これは今でも有効な教訓だと思う。
 
楽山が、批判を無視して書いてくることを心に留めて、警戒してください。楽山は、大きなスキャンダルと萌芽として、準備状態なのかもしれませんし、上から物を言う立場に快感を感じているだけなのかもしれません。芸能ネタは、大好きのようですが、わが身を省みることをしない人です。
 
楽山の言は、スキャンダルではなく、一途に災いであり、不祥事なのです。楽山からは有益な教訓は出てきません。益を奪うものであって、益を与えられるものではないのです。徳を奪うものであって、徳を教えるものではありません。良きものを、楽山は、持ったことがないのです。その反動しかありません。
 
楽山は、柔和なインテリ気取りで書いてきますが、真実の追求に必要な節操も理路も弁えておらず、情感も共感も持ち得ない病質者です。ボンヤリ言語と呼んでいる婉曲表現の丁寧語と、トホホ言語と呼んでいる謙譲・反省芝居で、まともに見せかけてきます。
 
楽山において、バランスは、書く動機において、既に、壊れています。こういう楽山の見かけの腰の低さは、詐欺師の勧誘に似ているとともに、インチキ占い師や、インチキ商売の勧誘に、よく見られるものであります。さらに狡猾かもしれません。
 
こちらとしては、もはや、無理解と無責任だけをネチネチ返してきて過剰な疲労しか与えない楽山に対しては、直接のコメントの遣り取りをする愚を避けて、専ら批判記事をブログに書くことにして、偽善者の資料としているだけです。
 
 
独り芝居の明け暮れ

独り芝居の明け暮れ
 
 
(2021年02月26日)
(2022年03月03日、再録+)
 
 
 
  白い目のピエロ
 
薬をのむ
白い目のピエロが現れる
鉛のような倦怠が襲ってくる
長いトンネルの無為にふらつく
 
暗闇で見る幻に
縫合の糸をかける踊り
血を抜いた
平気な顔をして笑う好褥の皮膚
その傷から生えてくる
歯を抜いた
 
血の味 細菌の熱をのどで飲み込む
昔のんだ鼻血の味が残っている
拳銃と注射器の危うさに
火の粉とガラスをまき散らす
 
白い目のピエロ
何度も身を引いて
しばらくすると戻ってくる
静まりかえった舞台で踊る
曲もなく詞もなく拍手もなく
そのたびに眼が白くなっていったという
 
不眠に遊び
白髪を覆い隠して
笑うために ピエロ
また薬をのむ
脳に回った毒が笑う
泣く
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
狂ったように過去記事コメントをコピペして長文記事を書き続ける楽山。私は、確かに、勘違いをして、偽善者を褒め、のちに、批判した経験があります。楽山は、それを、次の記事のように、私を加害者として批判したいようですが、楽山は、いつも決めつけの結論だけで、根拠も説得力もないのです。
 
st問題資料集(4_3)st氏の過去、数人もの被害者?
私が、現在所在不明のシャロームを批判をして、それを、楽山は、シャロームが被害者だと言っています。その経緯から、楽山とシャロームが仲間か同一成りすましを疑って、現在に至っています。 
 
今の楽山は、コメントを書きまくる荒らしと同様だと思います。そういう書きぶりで、本性がバレることを考えないようです。多量の刷り込みだけの機能に期待している楽山は、相変わらず、人間の、最も見苦しい有り様を表してゆくのでしょう。発作的衝動かもしれないので関わらないでください。
 
何の資格もなく、人に上から教える態度を丁寧語でごまかして、たくさんの記事とツイートとリツイートを書いてくる。褒められると世辞を言い、批判されるとスルーすると言って無視する。この単純な二進法のような対応をするのが、楽山です。正常な理解力が極端に欠損しているのです。
 
 
 
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  汚い読書3
 
 2020年02月11日
 理想の世界の存在と現象世界との関係について
 (『宗教的経験の諸相』W・ジェイムズ著)
 楽山日記(LD)
 
 
読書という行為にも、ある種の人間においては、汚い、と言わざるを得ないことがあるようです。楽山において、それは明らかであります。
 
 
しばらく積読にしたまま放置していた『宗教的経験の諸相(上)』を開いてみたら、冒頭の原著序に著者の結論は論考の最後にあるといかにももっともな助言があったので、根がどこまでもせっかちかつ単純にできている自分としてはさっそく著者の言う通りにしないわけにはいられず、下巻の後記を確認してみた。なかなかに難解な文章ではあるけれども、三歩進んで二歩下がるようにして文字を追うならば、幸いなことにおぼろげながらではありつつも著者の思想は理解できなくもない。有体に言えば著者の文章の背後には評判通りの心霊主義的な思想が深く根を下ろしているようだ。
 
(ネット検索)
ウィリアム・ジェームズ(William James、1842年1月11日 - 1910年8月26日)は、アメリカ合衆国の哲学者、心理学者である。意識の流れの理論を提唱し、ジェイムズ・ジョイス『ユリシーズ』など、アメリカ文学にも影響を与えた。パースやデューイと並ぶプラグマティストの代表として知られている。弟は小説家のヘンリー・ジェームズ[1]。著作は哲学のみならず心理学や生理学など多岐に及んでいる。心理学の父である。
ウィキペディア
 
ウィキペには、W・ジェイムズは、哲学者、心理学者と書いてありますが、霊が分かるっぽい?楽山は、心霊主義と言っています。それは、宗教でも信仰でもなく、そのまま、スピリチュアルであり、心理よりも心霊という超常や魔法とかを意味しています。
 
「著者の思想は理解できなくもない」というのは、楽山が、自分の霊能力を誇示するのに、都合の良い文章が見つかったということに過ぎません。楽山は、自己顕示欲という偏りによって、冷静な読書が出来なくなっているようです。楽山の解釈は理解ではなく、何かの狙い、または、妄想なのです。
 
 
まず著者は、思想家を自然主義者と超自然主義者とに分け、次に超自然主義者を洗練された超自然主義と愚かしい超自然主義とに分け、前者は理想の世界とこの世界とを交わることのないものとし、
 
こういう分け方は、その学者の説であって、本当に分けられるかどうかは、別であります。評価というものは、多くのことを説明しうるか、また、その説明が新しい理解を促すかによって評価されるものです。楽山の言は、いかなる理解でもなく、楽山の満悦のためにあるだけです。
 
(ネットより)
【超自然主義】 の解説
《supernaturalism》哲学・宗教学などで、理性では説明のつかない事象の存在を認め、これを超自然的な力や神の啓示・奇跡などによって説明しようとする立場。
 
上のような言い方で、現実離れした超自然の世界を夢想して、そこから、他者を愚かしいと言うことが、楽山には快感なのでしょうか。楽山は、スーパーナチュラルになりたいのでしょうか、既に、なっていると言いたいのでしょうか。実に、アンナチュラルで、愚かしいことです。
 
 
後者は理想の世界とこの世界とは交わることのないものではなく、理想の世界からの何らかの影響をこの世界が受ける可能性は否定しないというものであるらしい。そして著者は自らを愚かしい方の超自然主義に属するであろうとしている。
 
「ないものではなく」「あるらしい」「であろうとしている」・・楽山の筆致は、いつものように、曖昧な語尾の、ボンヤリ言語で、はっきり言っていませんが、理想の世界というのは、上に書いてあるように、超自然の世界のことなのでしょう。
 
つまり、読んだ本が、楽山の大好きな心霊の世界を言っていると楽山は思い込んでいるようです。そして、現実の世界が何らかの影響を受ける、というのは、霊が分かるっぽい?自覚の楽山自身を正当化しして、自分は特別な存在だと思いこみたいからなのでしょう。
 
"心の理論"でも、似たような、超常を自分に引き寄せる?かのような解釈をして、実に幼稚な空想と言うべき誤謬にしてしまいました。つまり、子供の発達心理学の話を捻じ曲げて、心霊の話として読むという酷い誤読であります。楽山は無理解ということの根拠であります。
 
また、奇跡の話においては、とんでもない理路の詭弁があり、楽山の理路の検証能力と常識的な理路の組み立てが破壊されていることを指摘しました。楽山の、無神経で、成り立たない屁理屈遊びです。
 
そのようなことがあって、楽山が人に自説を信じさせるためには、詭弁などの騙しのテクニックを使うしかないし、使ってきたし、これからも使うだろう、という判断になっているのです。
 
超自然は、現実に影響しても、超自然つまり超常なのだから、その影響の仕方など、人間に分かることはない、ということを考えないで、楽山は、自分を、超常の影響を受けて驚くべきわざを知り、かつ、行なう人だと思い込みたいのでしょう。
 
しかし、影響を受けるということは、この世界に影響するような超常世界が存在する可能性という考え方ですから、一般的な可能性の話であって、我欲と我執のナルシシスト楽山の霊能や超能力を指示も支持もしてなどいないのです。邪悪な楽山が超自然の者なら、地上は既に滅びているはずです。
 
こういうところにでも、楽山は、自己愛によって本の話を、理路も根拠もなく自分に引き寄せ、自分を高めようとしてくるのです。何も実のあることを語れない楽山です。信仰は、信じこみや思い込みや妄想であってはいけません。
 
 
また著者は数多の宗教的経験が証明していることはただ一つであって、それは人は自己よりも大きいあるものと合一し、それによって平安を得ることが可能だということであるという。あるものとは自己の内の自己を超えたもののことを言っているのか、自己の内とも自己の外ともいえる理想的ですべてを受容しうるもののことを言っているのかどうも判然としないところもなくもないが、心霊主義的な解釈によればそれがなにを指しているか、そう悩むことなくおおよその意味は了解できそうではある。
 
楽山は、「判然としない」と言いながら、心霊主義的に「おおよその意味は了解できそう」と言っています。この2つの言を並列してしまうところに、楽山の無分別が表れています。つまり、楽山が理解と言うとき、理解は、心霊のように、判然としていないことになります。
 
人文科学の学者の主張というのは、自然科学の法則や定理と違って、大方、決定的な結論に至ることはありません。説として、説得力と信頼度が評価されて、一定の位置を占めるだけなのです。すでに書いたのですが、楽山には、説得力がなく、信頼度はゼロです。
 
にもかかわらず、楽山は、自分に都合の良い主張を、自分に当てはめて、しかも、暗示的な表現で、実は、決めつけているのです。これが、カルト的な偽霊能者の自覚と自尊に囚われた病的ナルシシスト楽山の書物アサリの目的なのでしょう。
 
このような目的で、本を、冷静に読んだとは全く言えませんし、ますます、楽山のカルト精神に、学者の名前まで利用しているだけです。まるで、超能力者とか高名な学者とかを気取る子どもが、実際は、九九を覚えられず、掛け算を何度も間違えているようなものです。
 
人間としての身の程を弁えないということは、本当に人格を偏らせ、破壊してゆきます。読書家気取り、評論家気取り、インテリ気取り、霊能者気取り、など、楽山には、いろいろな、よくない霊が取りついているようです。
 
 
とはいえ当然ながらそれを体現し、実感として知ることは誰にでも即日可能というわけではないだろうが、一応の知識として記憶にとどめるだけであればその意欲さえ保持しているならば誰にでも可能のはずではある。
 
「即日可能というわけではないだろうが」「誰にでも可能のはず」と言って、いつかは自分も出来る、誰でもできる、と言っています。超自然を知ることは、楽山には、自然を失うことのように思われてなりません。空約束を語って恥ずかしくないのでしょうか。
 
すぐには無理だが、いつの日か、超常からの影響を悟ることができるだろうという可能性を自分に当てはめているのです。自分が霊が分かるっぽい霊能者で超能力者であることを、やんわり、ボンヤリと、しかも、強調しているのです。これが、楽山の企みの印象操作です。
 
同時に、楽山が、ボンヤリ言語で、今まで、いかなる狡い詭弁や、婉曲表現で、キリスト教とキリスト信仰をおとしめてきたかを考えれば、この人だけは、霊の力など身につけてほしくないと願わざるを得ません。ひどい悪霊になるからです。それに、今でも、酷い悪と偽善です。
 
楽山は、自分はちゃんとしていて、柔和で、超常の霊の恵みに値する能力と、客観性を併せ持ちうるということを暗示したいようですが、今まで、ずっと、鋭く深い洞察や共感の欠片も見られない楽山の文章から、すべて思い込みの無意味な作り話だと分かる記事になっています。
 
何故なら、楽山の、霊の話、"心の理論"の理解、聖書理解、奇跡についての話、いずれも、あきれるほど、幼稚な誤謬に過ぎなかったからです。学問までも平気で捻じ曲げて悪用する楽山の病質と悪意が表れているだけです。
 
 
最近はどうももっぱら超のつかない自然の世界のことに興味は限定されがちであり、実在界とも呼ばれることがあるだろう理想世界の方面の事柄については以前ほどの関心は持ち得ぬようになり、さらにはそういう課題が存在することさえも忘れていることも増えてきていたのではあるが、
 
実在界・理想世界に興味と関心と思い込みが薄いならば、厚かましく超常を語る記事は書かないはずなのです。つまり、真っ赤な嘘とは、このことです。この記事も、それまでの記事も、自分を正当化し飾るためだけに書いてきたのです。心霊に全く値しない楽山の実態だけが浮き彫りになっています。
 
 
やはりこういう文章を読むとなんとなしに懐かしい心持がしないではいられないのだからおかしなものだ。やはり自分では意識することもない心のどこかではそれを欲し続けているということなのかもしれぬ。
 
文脈から、超自然主義の超常の理想世界を「欲し続けている」のだそうです。昔そこに自分はいた、という、今度は、昔話でも捏造したいのでしょうか。霊が分かるっぽい?楽山の正体です。薄っぺらな動機で、存在しない霊能力を自我に結びつけるとこのように壊れるのですという例です。
 
楽山の霊が分かるっぽい?自覚を指示する材料は何もないにもかかわらず、楽山は、自分は悟って教える立場なんだ、特別なんだ、特別なんだと、藁をつかもうとして、いつも失敗してきました。今も変わらないのは、それだけ、我執が訂正不能に無反省に執拗に粘着していることだけなのです。
 
 
結局のところ、理想は外にあるとは限らず、もしそれが中にあるというならばそれがふさわしい時にいずれは浮上し影響力を行使するようなるであろうし、
 
このように、理想が中にあることを自分で言っています。狡猾なのは、自分の霊力と言わず、理想を主語として、「中にあるというならば」と言って、一般的な事柄に見せかけて、自分の将来を高めようとする哀れな醜態をさらしていることです。
 
今までのことを知らない人なら、うっかり受け入れてしまいそうな表現を使う詭弁が、楽山のボンヤリ言語です。ここは、楽山自身のことを書いているのですから、実際に言いたいのは、心霊の力が自分の中にあって、いずれ浮上し影響力を行使するようになると、妄想的な予言?をしているわけです。
 
いつの日か、自己中しか持たない楽山が、霊能者として脚光を浴びることを夢見ているなら、寒気のすることです。霊とか霊能とかいうものが存在するとしても、楽山なんぞの手に負えるような安っぽいものではないでしょうから。
 
 
それならそれを信頼して無理に力むことなく、自然体で寛ぎつつ待つというのが自分には合っているということなのだろう。
 
楽山やシャロームなどの易坊類は、自然体を全く知りません。楽山が自然体と言っているのは、周りが何と言おうと無視して平気でいることでしょう。つまり、無反応で一方的で、楽に、力を発揮するだろうと、反省も学習もせずに、労せずに、ご馳走を食べたがる低劣さなのです。
 
彼らが書いてくる文章は、よく読めば、いつも不自然であり、文脈がつながらず、無根拠で一方的であったり、詭弁であったり、印象操作であったり、おとぎ話か空想か妄想であったり、世辞であったり、わざとらしく芝居がかっていたり、奇奇怪怪なものだらけです。
 
自然というより、不自然さらに不全か憮然あるいは悲惨と言うべきでしょう。しかも、本人は、まともなつもりで、いい文章を書いているつもりでも、今まで、あらゆる詭弁を弄して、婉曲的に、ボンヤリ言語で、キリスト教には、負の、心霊と超常には、正の、印象の刷り込みをしてきました。
 
それらは、全部、どこにも通用しないような無理を通そうとしたものです。"自然体で寛ぎつつ"などと、よく言えたものです。体質的な、精神の異常であり、病質であり、虚妄の泥風呂に浸かって、のぼせているようなものです。楽山は、不自然であり、さらに、病的だと思います。
 
中身がないのに、ぼうっとしたまま、空を見上げて、口を開けて、奇跡の霊力が降ってくるのを、待っている姿勢です。これは、もともと、恵みばかりを欲しがる信仰の誤った姿勢に当てる喩えだったのですが、ここで、楽山にぴったり当てはまるとは、むしろ驚きです。
 
ここまで執拗に、詭弁を弄して印象操作で自己顕示してくる楽山に対しては、自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)という見方をせざるを得ず、シャロームの場合と極めて近い判断になり、同一の成りすましか、悪意の企みか、ともかくも、決して近づいてはいけない人格です。
 
楽山に似合っていること、楽山がするべきことを言うなら、だましの細工をしないこと、自らの置かれている立場を弁えること、今までのことを悔いて反省すること、これらは人間として当然のことですが、それができないならば、公開文書を書く資格はないと思います。
 
しかし、高等感情のない楽山は、既に3年以上、平気で続けていますから、私のブログでは、批判を貼り続けるしかないのです。余計なお世話ではなく、楽山のネット活動は、害毒であるという情報の敷衍(ふえん)が必要です。
 
 
暗い

暗い
 
 
(2020年02月20日)
(2022年02月26日、再録+)
 
 
 
  一つの嘘
 
お前(私)は祈りの中で嘘をついたな
御心ならばわが命に代えて、などと
お前は確かに嘘をついた
もしお前が健康で有能で仕事がうまくいっていたら
わが命に代えて、などと祈れたか
仕事がうまくいかずに
やけを起こしていたからだろう
命と引き換えに奇跡が起こって
聖人にでもなるつもりだったか
お前のやけに彼女を引き合いに出すなんて
知らないうちに、一週間も前に
もう死んでしまった人を引き合いに出していたなんて
 
さっきから煙草を吸ったり握ったり
煙草の箱をくるくる回したり
パソコン周りの空き缶や書類やごみ
下の方を見回したり何をやっている
 
馬鹿野郎・・
 
 
  書いていたい
 
一日に一つ二つ
日記のような
ポエムのようなものを書いて
故意に嘘はつかず
あまり人になつかぬくせに
一人芝居が癖で
過ちは悔い
罪は背負い
背負いきれずに倒れ
倒れたままにも耐えきれず
倒れた先に小川でもあれば
小川に映る泡の光に
泡の笑みを流して
古い韻律の流れを見送って
見送る人はなく
居場所はなく
在る場所にいて
一日に一つ二つ
過ちのようなものを書いていたい
 
 
  夢に出てきた
 
初恋の人が夢に出てきた
若い頃はよく出てきた
近年お久しぶり
夢に出てくる彼女
後ろ姿だけのこともある
似ても似つかぬ人だったりする
頭に二~三個、円形脱毛症だったこともある
思い出せば全く別の人
夢の中ではしっかり彼女になっている
今日のは割とまともだったな
勝手に批評している
若い彼女
年とった彼女
ご丁寧に二人も登場した
年とった彼女など知るはずもない
もう二十年以上経つ
どう形成したのか
若い彼女より硬くて冷たい顔だった
どこか寂しげ
そこまでいくと嘘になる
目覚めのとき忘れてしまった
思い出せない彼女
もっとたくさん見たのだろうな
夢見る間だけで消えた人
本物は何処の空の下やら
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
過ちの記録も記憶も自覚も、楽山にはないのでしょう。だから、平気でいられるのです。ふつうは、慙愧(ざんき)の心があり、深く恥じて、そこから反省と成長が始まるのですが、始まるところが、楽山にはないのです。何をやらかしても気にしないでいて、成長より先に、老化が始まっているのです。
 
楽山は、また「st問題資料集」を、ほぼコピペでしょうか、6記事ほど書いています。反省もせず、責任も負わず、それでも自分が正しいと言いたいのでしょうか。異常者の心理は、病理ですから、理解できません。制御不能なので相手にしません。こうはなりたくない。
 
 
 
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  楽山の嘘と詭弁2
 
 
霊能者・評論家などの気取り、無反省・無責任・無理解・訂正不能、高等感情の鈍麻、理路の未熟と荒廃、などが見られる反キリストの楽山の詭弁について、今までの約3年の経過から、メモしたことを投稿しておきます。宗教と事実の話ではなく、楽山の、執着と虚実の話になります。
 
既に、反キリストの偽善者の例として、約3年間の資料となっている楽山は、宗教も信仰も、趣味的に、甘く見た楽山の、宿命のような我執に対する、おのずからの報いとして、自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)によって、他者の人格を破壊し、自らも人格破壊を来たしています。
 
楽山の、批判されても、弁明も反論も出来ず、にもかかわらず自分の言いたいことだけ書き続けることこそが、体質的な執着の奴隷と化して、宗教に対する無理解を表し続け、議論と交流の相手にしてはいけない単方向性の習性となっているものです。
 
子供のときから、仏様の心が分かるっぽい?と思い込んでいた教祖願望とか、発達心理学を心霊の話にしたり、哲学者を心霊学者と言ったり、語っている詭弁が循環論法の矛盾を来たしたり、もはや、関わる人の、神経と精神を害するだけの、愚かさを積み上げてゆく不感不応の醜態と言わざるを得ません。
 
 
楽山の、道徳的正論に見せかけた詭弁を弄した、ありえない"道徳的な詭弁"は、実体が、虚偽であり、ただ単純に、道徳に反する経過と結果だけをもたらしています。楽山は、当然、宗教と信仰にも反する企みの暴言者、反キリストであります。
 
楽山にとっての、自然のままであることは、道徳や節操を無視して、悪意をもって、嘘を吐き、詭弁に専念すること、そして、自己満悦に浸って、自己愛に溺れる病質のことです。誰に対しても、思いつきのインチキしか示せず、真摯、誠意、真面目、というものを、あざ笑っているような変質者であります。
 
例えば、思考も情緒も意志もなく因果もない悪の台詞を、気持ちがいいのでしょうか、真実であるかのように語ります。語ることに根拠が無く、お伽噺で宗教を語ったつもりになる自閉の回路から、必要とされてもいないのに、無理を、詭弁で飾って押し出してきます。
 
裏切ることも、同じ人間の心から生まれているからいいんだ、正しいとか正しくないとかないんだ、とでも言いたいようです。恐らく、楽山には、基本的な節操・分別さえもないのでしょう。楽山には、基本的な人権を考えることが無意味になるでしょう。
 
楽山は自分の意見に反することを、「堅苦しい主義や封建的道徳」などと見なしてくるところに、まともな道徳による判断の欠如が、真実に目を向けないことが、さらに自慢として、表れています。否定を言い、肯定を言い、断定していないから、責任問題は生じないなどと言う外れ方です。
 
主義や道徳は、堅苦しかったり、封建的であったりするものばかりではないでしょう。人間ならば守るべき節操というものがあります。楽山は、思いやりと共感、温もりと潤い、そういったことを学習していないので、人間なら当然の反応が出来ないのです。
 
具体的に間違いを認めて反省するのではなく、そして修正するのではなく、曖昧に「生来の情緒を取り戻し」などと言っていましたが、またしても、有能な人間だと自慢したいだけなのです。誰にも認められていないからこそ、皮だけを整えたつもりで飾って、インテリぶっているケダモノです。
 
楽山については、カルトが自身を言い表すのと同様に、全く説得力が無いために、超常や神聖や心霊の体験を持ち出して、だますしかないという習性があり、心霊、スピリチュアル、死後の世界、超常体験、などの超常が大好きな楽山の特徴となって、結果的に、理路の錯乱を、容易く表してしまう現状です。
 
一気に、安易に、超常になりたい教祖願望は、楽山やカルトの特徴であろうと思います。超常ホラーを否定しないだけでなく、むしろ、自分に当てはめている楽山は、しかし、霊が分かるっぽいという自覚だけであり、実際には、洞察力は皆無で、いかなるスピリチュアルの深さも、書けたことはありません。
 
 
都合の良い他者の口を引用し悪用し、都合の悪い他者の口を無視するのは、まさに、カルトの断線した回路であり、邪悪の一本道であり、自己中の沼であり、反宗教の身投げであります。
 
 
楽山が、批判されても批判されても、弁明も反論も出来ないでいて、全くお構いなしに、無視して、平気で、言いたいことだけを書いてくるのは、心性に欠陥がある病質としか思えず、常人のものではないと思っています。もはや、楽山の話を聞くくらいなら、犬猫の鳴き声を聞くほうがマシなのです。
 
楽山においては、きれいごとのボンヤリ言語「ありのままの自分に正直になり、自然体でいること」が、病質・変質の詭弁として、他者の良心と感性と思慮をもてあそんで、精神を食い荒らしてゆく、という愚鈍なケダモノになることを意味することになります。
 
「生きている他者との会話ができなくなってゆく恐れ」などと、わざわざ書いて、「注意の大切さを実感した経験がないでもない」と言って、つまり、自分は常識人そして霊能者だ、という印象操作と宣伝です。「ないでもない」「と言えなくもない」等の、語尾のぼかし方も、ボンヤリ言語の特徴です。
 
楽山は、ボンヤリ言語で、どこが詭弁や誘導であるか、ちょっと読んだだけでは分かりにくい書き方をするので、豪語するカルトと違って、邪悪さに気づきにくい傾向がありますから、何より、楽山を相手にしないこと、楽山に関わらないこと、近づかないことが大切です。
 
 
私は、数か月、だまされていました。受け答えがハッキリしないため、次に、責任を負うことが大切だ、といった牽制・指摘によって問いただしたら、ごまかして応じなかったため、相手にしてはいけない人だと気づきました。実際には、実のある何ものも持っていない人です。
 
批判して、信頼度ゼロと判断しましたが、その判断を覆すような記事を、楽山は、一度も書いたことがありません。楽山は、批判に対して、嫌がらせ、言いがかり、嘘、詭弁を書いてくるだけだ、という証拠も、約3年分、同時に積み重ねられて資料となっています。
 
 
「かなあ」「ていうか」「言えなくもない」「反省、トホホ」「信じやすい性分」など、芝居がかった若者言葉や、逆に、同情をひく年寄り言葉や、曖昧表現、婉曲表現、丁寧語で、言い逃れようとします。
 
ちょっと変に丁寧だけど、いい人そう、と思うような人を待っているホラーが楽山です。楽山の、嘘と詭弁に、自己中に、自他破壊、そして、絶望伝道に、どうか、巻き込まれないように、警戒し、関わらないようにしてください。ネットには、いろいろな、具体的に関わると大変な、ペテン師がいます。
 
 
はてしない脳天気

はてしない脳天気
 
 
(2021年01月20日、同日一部修正)
(2022年01月22日、再録+加筆)
 
 
 
  ウソの国
 
男は登っていく
深夜の階段を
息せき切って走っていく
走らねばならないのだ
走らねばならない
遅れてはならない
遅れてはならない
 
遅れた
男は人前に連れ出され
何人もの男から
したたか腹を殴られたが
痛みはなかった
 
夕暮れの街を歩いていく
人々は夕闇と過去に追われながら
すでに死んだ油の眼で
われにもない毒の顔をさらして
ネオンの間から間へ
苦しい巡礼を始める
あぁ この七色の 肉色の
光のおりが天国とは
拳を握りしめて
「何もない」
「何もない」と
壁に向かって叫び続ける男
誰もいない街角に向かって
手を振り続ける女
眼を振り続ける人々
通り過ぎる車が
水たまりをはねて
尻が濡れた
時が引き裂かれた
青春と人情の墓場から抜け出し
人通りの少ない路地で
恋人に声をかける
お茶でも?
あいされたいわ たれからも
 
吐物をまき散らしながら
男は逃げる
転びそうになりながら
 
幾分か小高い丘に
塀のある幼稚園があった
数人の子供が砂場で遊んでいる
ジャングルジムがある
子供たちが登れるようになると
外が見えるようになるわけだ
 
男は登ってみる
もう吐き気はしない
尻のあたりの濡れた感触もない
男はようやく安んじて眺めている
人っ子一人いない街の風景を
 
あたりはもうすっかり明るい
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
詫びることもなく、反省や修正をすることもなく、思いつきを、プラスもマイナスも、好きなように語って責任を負わない楽山は、結局、"ええかっこしい" のインテリ気取りだけであり、実質的には、何も語っておらず、何も持っておらず、何も考えていない、という、空しい疲労だけを与えてきます。
 
楽山はキリスト教とキリスト信仰について幼稚な悪口を書いてきました。批判を受け取って反省できる人なら書き続けても迷惑ではないが、無反省に無責任に偏見を垂れ流すだけなら、そのたびに批判記事を当てるしかありません。既に資料となっているので今後も加筆して投稿することになるでしょう。
 
 
 
 楽山のツイッターですが
 
★こも/楽山日記3さんがリツイート
「人は〔利を求めて〕自分を与えてはならない。自分を捨て去ってはならない。ひとは、善い〔やさしい〕ことばを放つべきである。悪い〔粗暴な〕ことばを放ってはならない。〔やさしいことばを口に出せ。荒々しいことばを口に出すな。〕」(中村元訳『ブッダ 神々との対話』岩波書店、P101)
午後2:03 · 2022年1月21日·Twitter for iPhone
 
楽山は、自分を捨て去った人です。人間を捨て去ったと言ってもいいでしょう。だから、丁寧語で言えばいいと思い、人間とは思えないような醜い嘘と詭弁を含ませることが出来るのです。粗暴な言葉を控えて、丁寧語に軽蔑を込めるのは、分かりやすい悪口より悪質です。偽善者と対話してはいけません。
 
 
 
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  人の気持ちが分からない楽山
 
 「人の気持ちがわかるには」を読んだ。
 2021年11月23日 幸福の科学とは何だろう?
 
 
書けば、書いただけ、白々しさが表れてくる楽山です。今までの嘘つきの弁が、追いかけてきて、楽山を否定してゆきます。なのに、また、否定を呼ぶかのように、書かずにはおれない楽山です。精神衛生のために、どうか、楽山と、交流しないでください。楽山に、関わらないでください。
 
楽山ほど、人の気持ちが分からない人は珍しいです。自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)のために、共感や罪悪感や羞恥心などの高等感情が楽山には、ありまません。楽山にとって、他者は、利用するか、無視するか、あざ笑う対象でしかありません。
 
*心の指針
「人の気持ちがわかるには」を読んだ。
202110 人の気持ちがわかるには― 心の指針203―
・人の気持ちがわかるには―大川隆法総裁 心の指針203―
 」
相手の気持ちを知るには、まずその話をよく聞こうというのには賛成である。人の話を聞くのは大事なことだ。
 
人の話を全く聞かないで無視してきた楽山が言っています。だから「人の話を聞くのは大事なことだ」は、大嘘です。それと、楽山は、アンチではないことが、表れています。ORを否定できないから、読んで、部分的に賛同しているのです。
 
私は、楽山に、部分的にも、賛同できるところは全くありません。これほど、人を欺いてきた人は珍しいと思います。だから、今も欺いているのです。この期に及んで、まだ、当たり前の道徳「人の話を聞くのは大事」を書いているところが、異常者であることを証明しています。
 
*神仏の気持ち
とはいえ、この部分はどうにも気にかかる。
神や仏のように、
はるかなる高次元から、
迷える衆生を見守れたら、
一体どれほど胸がスッキリすることか。
 」
著者は、高みから迷える衆生を見ることに爽快感を感じるのだろうか。
 
楽山に言う資格はないと思います。楽山こそ、霊が分かるっぽい自覚で、インテリ気取りで、高みから見下ろす満悦ぶりが、今まで、数えきれないくらい記事に表れてきたのです。こういうところを見ても、本当に、楽山が、自分を見ることの出来ない人だということが分かります。
 
自分だったら、とてもそんな風にはなれない。たぶん、ハラハラしたり、心配したりで気が休まることはなくなりそうだ。
 
だから、これは、真っ赤な嘘です。楽山が嘘を吐けば、楽山の今までが、嘘を暴いてゆくのです。自業自得とはこのことです。「ハラハラ」も「心配」もせずに、平気で嘘を吐いてきた楽山です。気が休まらないのは、だんだん、誰からも、支持も信頼もされなくなっているからでしょう。
 
また神様とは、高みから迷える衆生を見ているばかりでなく、その傍らに寄り添い、救けようとする存在であるとも思う。もし高みから迷える衆生を見てスッキリしているとしたら、それは神様失格だろう。
 
寄り添い、同伴する神を、楽山は知りません。むしろ、高みから、無神論を引用したり、いちゃもんを言って、人を迷わせ、神を否定してきたのが、楽山です。このペテン師に、どうか、だまされないでください。
 
「高みから迷える衆生を見てスッキリしているとしたら、それは神様失格」・・どういう神のことでしょう。また、楽山に、神の合否を決める資格はありません。さらに、詭弁屋で嘘吐きの楽山に、人の是非を決める資格もありません。
 
好き嫌いで物事を判断するのは、あまり褒められたことではないことは承知しているが、やっぱり自分は著者のこういうところは好きになれないなと思う。
 
信仰は、聖書を読んで、キリストを好きになり、人生の同伴者として、生きる縁(よすが)として頼みとすることです。楽山に褒められる必要は全くありません。といっても、楽山が、世辞以外で、褒めているのは、いつも、楽山自身です。
 
冒頭では著者に賛成し、ここでは、著者を好きになれないと言っています。この記事の文脈は、始めと終わりで、楽山の精神が分裂しているようです。楽山は、基底となる気分と精神が、ボンヤリしているので、そこから何か言っても、一貫性がないのです。
 
楽山は、信頼度ゼロになって久しいのに、言ってることもバラバラなのが書くたびに表れるのに、いつまで、理性も情緒もないところから、繰り言か寝言のような記事を書いて、興ざめさせてくるのでしょう。多くの人に、精神の疲労と危機を与えてきたツケが回ってきているのに。
 
 
薄もやに棲む支離の人

薄もやに棲む支離の人
 
 
(2021年11月25日)
 
 
 
 キーワード: 気持ち
 
 
  意識の怪談
 
私らには奇跡的に意識がある
しかも全く別のことをしながら
確かめたわけではないが
どうやら同じ時を過ごしているらしい
とりわけ私の意識は
私にしかないので
私は離れて暮らしている
しかしすでに私の中には
逝ってしまったはずの意識が
たくさん住み着いている
 
だから悪く思わないでくれ
私が意識を失うとき
君らの中に忍び込むかもしれない
 
失った意識は思うに任せない
逃げようとしても無駄なのだ
いやそうではない
私など人畜無害の
アレルゲンにもならない埃に過ぎないから
隅に置いてもらえばいい
君らは忘れた気持ちでいられるだろう
 
万が一の逆の場合のことだ
君らが私の中に入ってきたとき
私が迎えるに当たって
むさくるしいところへようこそ
と寝起きの顔のまま
欠けた歯をむき出しにして
ニッコリ笑っても
悲鳴を上げないで欲しい
失った意識は逃げようとしても無駄なのだ
 
 
  父に言ったこと
 
昔のことである
父に言ったことがある
大学を留年して進路に迷っていた時期
「言いたいことがある」と言う父に
私は言ったことがある
「僕はお父さんを信頼していない」
 
父は言葉を詰まらせた
「お、お前ねぇ・・・
人の気持ちというものを・・・」
そのあと父が何を言ったか
言わなかったか覚えていない
 
父は読書家である
戦争のために貧しさのために
大学へは行けなかったが
努力家で物知りである
 
父は自らを厳しく律してきた
家族のためである
だからそれなりに
人生観に自信があったのかもしれない
よく説教めいた話をした
 
しかしあの頃だけは
何も言って欲しくなかった
すでに二十代半ばの私を
ただ黙って見ていて欲しかった
 
ずるい私は承知の上だった それが
ひと言で父を黙らせる
最も有効な手段であること そして
最も父を傷つける一言だということも
 
 
  救急車
 
深夜に救急車のサイレン
近づいてくる
止む
遠くないところで
何か不幸でもあったのか
急病人でも出たのだろうな
 
急に思い出して
父と母が二人だけで住んでいる家に
同じことが起こっていないかと
しばしおののく
 
サイレンが再び鳴り響いて
音階を低く変えながら
夜に吸い込まれていく
 
親の安否をちょっとだけ気遣う息子
もう聞こえないサイレンに切り捨てられて
夜に一人だけ取り残された気持ちで
何もできるものかと首を振って
ときに手足をふらつかせながら
仰向けになって
見えない空と戯れている格好だ
 
 
 
 楽山のツイッターですが
 
★こも/楽山日記3さんがリツイート
新無神論bot
@AtheismBotJP
信仰者に対する無神論者の批判は「神は何があっても存在しない!」と主張しているのではない。単に、「自分の主張が真であると主張したいのなら客観的根拠を提出しなさい。それができないのなら、根拠の無いものを真実であると語るべきでない」と言っているにすぎない。基本的なモラルの問題なのだ
午後8:51 · 2021年11月23日
 
信仰者の主張は、神が存在することや、神が真であることや、自分の主張が真であることが、証明出来ることを根拠とはしていない。客観的証拠があるなら、信じる必要はない。なお「根拠の無いものを真実であると語る」のは、楽山に見られる所業である。
 
人が根拠を示せるのは、客観に成りえない個人の精神生活に起こることである。絶望が希望に変わることを経験した者は、その恵みを信じて、生きる縁(よすが)にするのは、至極当然の成り行きであり、客観的根拠など、科学を持ち込んで理屈を求めるのは、勘違いも甚だしい。
 
 
★こも/楽山日記3さんがリツイート
カルト被害相談窓口・心の相談室りんどう
@soudanrindou · 10時間
何度でも繰り返して言いますが、「嫌だな」とか「変だな」と感じたらその感覚を大事にしてください。その感覚はあなたが属する組織や信じている人に「どこかおかしな点がある事」を知らせる大切なサインです。
午前11:39 · 2021年11月24日
 」
午後0:38 · 2021年11月24日 
 
身近な危険に「気づけるチャンスは沢山」あります。「嫌だな」とか「変だな」と感じることから、邪悪な働きに気づいてゆきます。楽山の丁寧語は、そういう嫌な感じに溢れています。楽山は「どこかおかしな点がある事」というより、よく読めば、おかしなところだらけです。
 
楽山は、このツイートを、逃避と自己正当化のために引用しています。楽山の正義の味方芝居に、決して、だまされないでください。長年の自分の嘘と詭弁の罪と偽善から目を背け、他者の目を逸らせようとしています。そのために、切実な真実の追求の言葉を、賛同リツイートしているのです。
 
楽山に、引用またはリツイートされて、気をよくして、楽山と付き合うと、いずれ、ひどい人だと気づくでしょう。しかし、その時までに、とんでもない疲労を味わうことになり、思考と感性が、鈍くなったり、最悪の場合、人格を破壊されることになります。楽山は、良心の敵です。
 
 
 
楽山日記へのコメント再録(1.が誰のコメントかは不明)
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら 誤ったら 素直に詫びて 自分 正さなくちゃいけない」「それが出来て 初めて人間だと それ出来ないなら 人ではないと」「嘘ばかり 重ねる君よ 保身だけの 卑怯者の君よ そんな君は 魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと 最大限の反省と共に 開いた出店を 畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
誰かが注意しても、聞く耳を持たない楽山は、反省も謝罪もしておらず、邪悪な性根の根深さが治りません。一般の「人間の性」などではなく、ゆえに、「自分もそんな風です」などという詭弁の言い訳は成り立ちません。楽山固有の悪と罪と偽善です。
 
発言が、もはや、信頼度ゼロなのだから、たとえ謝罪しても、それが、嘘であることを考えざるを得ない、という、童話の "狼と少年" 状態であります。現に、何度も「反省。とほほ」と書いてきましたが、実は、反省ではなく、反省を、トホホで、おふざけにしてきた楽山です。
 
 
 
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  楽山の褒め殺し
 
 『〈仏典をよむ〉1 ブッダの生涯』中村元著、前田專學監修
 2021年09月20日  楽山日記(LD)
 
 
宗教についても思想についても感性と知性を台無しにしてきて、腹いせのように、キリスト教をおとしめていたら批判を食らってきた楽山は、今度は、仏教を、褒め殺しにかかっているようです。いかなる宗教と信仰にも、人間らしいセンスを持たない楽山が明らかになっています。
 
*概略
本書は、NHKラジオで放送した中村元の講義をまとめたものである。全編にわたって、原始仏典の記述を紹介しつつ、その解説をするという体裁になっているが、一般にも理解しやすいように終始、平易に語られているところは有り難い。
以下に、自分にとって特に強く印象に残った箇所をメモしておきたい。
 
「終始、平易に語られている」本についての、大袈裟な「強く印象に残った箇所」という表現が、既に、ペテンくさいのです。つまり、楽山は、感動したと言っています。べた褒めモードになります。しかも、褒め殺しです。
 
*人はいかに生きるべきか
まず著者は、毒矢のたとえにからめて、ブッダの教えの方向性を次のようにまとめている。
解決のできないような哲学的議論に巻き込まれないで、ここに生きている人がいかに生きるべきであるか、その生きる道を明らかにするということをブッダは人々に教えたのです。
(『〈仏典をよむ〉1 ブッダの生涯』〈岩波現代文庫〉中村元著、前田專學監修、岩波書店、2017年、p.40)
 」
さらにブッダは、さまざまな宗教儀式にもこだわることなく、いかに生きるかということを重視していたとのことである。
 
「いかに生きるかということを重視」・・当たり前です。しかし、この感想文で、いかに生きるかということを、楽山は、書いているでしょうか。
 
人間のほんとうの道を追求する、それがブッダの一生のつとめであり、課題であったということをいうのです。
(同上、p.157)
 」
両者をまとめると、霊魂がどうしたとか、宇宙観がどうしたとか、宗教儀式がどうしたとか、そんなことより、現実をいかに生きるかということの方が大事だということらしいが、自分はこれには賛成である。ただ自分は物好きなので、いまだにややこしい議論はすきなのではあるが…。
 
霊が分かるっぽい自覚の楽山は「霊魂がどうした」とかいうことより「現実をいかに生きるか」に賛成だそうです。当たり前です。宗教もそのためにあります。楽山が、そうでなかったのなら、それは、楽山の責任です。
 
「現実をいかに生きるか」と言っていますが、ならば、今まで書いてきた、うるさいほどの霊の話は、どうでもよかったのでしょうか。楽山を真に受けないでください。楽山は、ただ、読書家をアピールするために、言っているだけです。
 
「ややこしい議論はすき」・・楽山は、議論などしたことはないと思います。屁理屈をこねて、相手を煙に巻いて、疲れさせることが好きなのです。だんだん正体が見えてきます。何も言えない、何も感じないが、読書家を気取るためだけに、もっともらしい飾り言葉だけを並べているのです。
 
*教えの根本
著者によれば、八万四千の法門を貫いているのは慈悲であるという。
そこを一貫する精神は何かということになりますと、これは人々に対するあたたかい気持ち、人々の身になって考えるというその気持です。これが世の中を明るく保ち、なだらかに進めていくことになる。
これを仏教では「慈悲」と申します。
(同上、p.41)
 」
これはよく納得できる。別な言い方をすれば、慈悲のない教えはブッダの教えではないとも言えるのかもしれぬ。
またこの考え方からゆくと、本書とは別のとある本で読んだことだが、ブッダは生まれ変わりについては在家には説いたが、出家にはあまり説かなかったという話も了解できる。慈悲の精神によって、相手の信仰とその環境に合わせて方便を用いつつ導いたということなのだろう。
 
「あたたかい気持ち」「慈悲」という言葉で、読んで感じましたアピールをして、書いているのは、「環境に合わせて方便を用いつつ導いた」という誰でも言いそうなことだけなのです。しかも、「別のとある本で読んだこと」だそうです。当たり前の、そして、別の本の話です。
 
「慈悲のない教えはブッダの教えではない」ことは、楽山が今まで書いてきたこと、議論に見せかけてきたこと、などが、疲労だけをもたらし、何の成果もないことと符合します。このように、体よく書いたつもりでも、今までの事実から、楽山のペテンぶりと無益な文章の特徴は表れてきます。
 
今までのことから、楽山は、「慈悲」、言い換えれば、思いやりとか、やさしさとかを、心で受け取ることが出来ず、三文芝居のセリフでしか表現できない人です。つまり、言葉だけを繰り返して、そこから広がることのない文章しか書いて来なかったのです。
 
*世界は美しい
仏教の考え方は、一切皆苦というように厭世的なものだと思っていたのだが、著者によれば死期の迫ったブッダは世界の美しさをうたっていたという。
みなに別れる、この世を去るということになりますと、そうすると、いまさらながらこの世の美しさに打たれて、恩愛への情に惹かれるのです。
(同上、p.148)
 」
 
楽山は、何が言いたいのでしょう。死は世界の美しさ、世を去るとき恩愛の情、・・その心は何も書いていないのです。このように、賛同し、感動したような、褒め言葉だけ並べて、読書家を気取る楽山の、一切は、ペテンの飾りで彩られています。
 
楽山は、他者の言にも、他者の行いにも、他者の説法にも、感動したことはないと思います。感動を経た人の心が、何も書かれていないからです。今までも、ずっと、そうです。ただ、自己顕示欲で、分かる人アピールをしてきただけなのです。
 
このような、死は美と愛だ、と書いて、死と美と愛が伝わると思っているのでしょうか。だまして、何か、よさそうな人と思わせてきただけの人生が、いかに虚妄であるかということだけが伝わってきます。関わらないでください。皮を舐めて髄を知ってるふりをするペテン師、楽山です。
 
著者は、自然の美しさ楽しさを語るブッダの言葉を紹介しているが、それは読んでいるだけで切なくなってくるものであるし、
 
「読んでいるだけで切なくなってくる」・・切なさを、具体的に表現し説明する器量のない者が書いたということだけが明らかになってきます。「自然の美しさ楽しさ」では終わらない話のはずです。楽山が、いかに読めていないか、なのに、いかに感想をでっちあげているかということです。
 
小学校の作文でも、いい点数はもらえないでしょう。楽山は、そこにいるのです。学者、宗教家、インテリ、評論家、様々な、楽山の気取りが、よく見せるためのだまし文句に過ぎなかったことの傍証として、あらわになっています。感動芝居の大根役者、楽山に、どうか、だまされないでください。
 
これからするとブッダはこの世のすべてを厭い、離れようとばかりする人ではなかったようだ。
 
仏陀の教えや仏教の厭離穢土が、死にたがり精神ではないことは、それだけじゃ宗教にならないのだから、常識的に誰もが知っています。このような、先入観と言葉のうわべだけで、インテリ宗教家を気取る楽山は、自己顕示欲だけの、嘘吐きの、詭弁屋の、幼稚な未熟者に過ぎないのです。
 
楽山は、読書できない人です。かつ、自己愛性人格障害によって、反省も学習も出来ず、分かっていると思われたい自己顕示欲から、結局、人を惑わし、だますだけの、独り芝居の大根役者に堕ちているのです。空っぽが、身の程も知らずに偉そうに言っても、無駄だと分かるのです。
 
そういえば、とある評論で梶井基次郎の自然描写の美しさをたたえつつ、死に近い人には自然はこのように見えるのだろうとしていたのを思い出す。ブッダの言葉にもこれと同じことがいえるのかもしれぬ。
 
死にゆくときの自然が美しいという話で、まるで、死を勧めているような文章になってしまっています。仏陀も評論家もこれと同じ・・ではないと思います。楽山だけが、小学校以下のレベルで、短絡して、とんでもないことを言っています。
 
本書を読んで、ブッダは自然の美しさを解する人だったと分かったのはうれしい収穫である。
 
楽山は、仏陀が死にたがり屋で、自然の美しさが分からない人だと思っていたのでしょうか。呆れます。いよいよ、自己愛性パーソナリティ障害NPDである楽山に、人格崩壊の時が来ているのでしょうか。自己愛によって知性と感性を損なってきただけでは済まないようです。
 
 
結局は褒め殺し

結局は褒め殺し
 
 
(2021年09月21日)
 
 
 
キーワード:殺
 
 
  夜
 
夜である
昼よりも静かだと思ってはならない
昼の騒ぎよりも
より騒がしい思惑が
入り乱れて飛んでいる
あるいは欲望が
壁を突き破ったり隠れたりする
夜には夜の苦しみ
夜には夜の夥しい挨拶
 
夜は悲劇を
喜劇をのせて音もたてずに流れてゆく海のよう
生も死も同じなのだ
生けるものも死せる者も
動物でさえ屍のまま
声もあげずに
乱れた問いを投げかけてくる
 
いったいいつまで笑っていればいいの
泣いていればいいの
暗闇から海のように
大河のように流れる裏の広さから
答えられなかった問いが
問われなかった夢が
叫びを押し殺してゆく
沈黙の
騒然とした夜である
 
 
  虫の音
 
物音は
集まれば集まるほど
耳に障る
気にすればするほど
大きくなる
集団の声は苛つく
人の声も 雑踏も
独り聞いた蝉の声も
蛙の声も
耳鳴りも
恐らく幻聴も?
 
波のように
あたり一面
姿のない虫の声
遠くか近くか
どれほどの数か知らぬが
ただ一匹だけ
窓近く
チロチロと
鳴いているのがいる
不思議と耳に障らず
寂しく泣いて
訴えているようにさえ聞こえる
 
眠れない夜を殺し
耳鳴り騒ぐ
眠れない夜を死なせ
秋の虫 なく
 
 
(昔々の・・)
 
 
 
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