ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

タグ:気取り

 
  楽山の嘘と詭弁2
 
 
霊能者・評論家などの気取り、無反省・無責任・無理解・訂正不能、高等感情の鈍麻、理路の未熟と荒廃、などが見られる反キリストの楽山の詭弁について、今までの約3年の経過から、メモしたことを投稿しておきます。宗教と事実の話ではなく、楽山の、執着と虚実の話になります。
 
既に、反キリストの偽善者の例として、約3年間の資料となっている楽山は、宗教も信仰も、趣味的に、甘く見た楽山の、宿命のような我執に対する、おのずからの報いとして、自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)によって、他者の人格を破壊し、自らも人格破壊を来たしています。
 
楽山の、批判されても、弁明も反論も出来ず、にもかかわらず自分の言いたいことだけ書き続けることこそが、体質的な執着の奴隷と化して、宗教に対する無理解を表し続け、議論と交流の相手にしてはいけない単方向性の習性となっているものです。
 
子供のときから、仏様の心が分かるっぽい?と思い込んでいた教祖願望とか、発達心理学を心霊の話にしたり、哲学者を心霊学者と言ったり、語っている詭弁が循環論法の矛盾を来たしたり、もはや、関わる人の、神経と精神を害するだけの、愚かさを積み上げてゆく不感不応の醜態と言わざるを得ません。
 
 
楽山の、道徳的正論に見せかけた詭弁を弄した、ありえない"道徳的な詭弁"は、実体が、虚偽であり、ただ単純に、道徳に反する経過と結果だけをもたらしています。楽山は、当然、宗教と信仰にも反する企みの暴言者、反キリストであります。
 
楽山にとっての、自然のままであることは、道徳や節操を無視して、悪意をもって、嘘を吐き、詭弁に専念すること、そして、自己満悦に浸って、自己愛に溺れる病質のことです。誰に対しても、思いつきのインチキしか示せず、真摯、誠意、真面目、というものを、あざ笑っているような変質者であります。
 
例えば、思考も情緒も意志もなく因果もない悪の台詞を、気持ちがいいのでしょうか、真実であるかのように語ります。語ることに根拠が無く、お伽噺で宗教を語ったつもりになる自閉の回路から、必要とされてもいないのに、無理を、詭弁で飾って押し出してきます。
 
裏切ることも、同じ人間の心から生まれているからいいんだ、正しいとか正しくないとかないんだ、とでも言いたいようです。恐らく、楽山には、基本的な節操・分別さえもないのでしょう。楽山には、基本的な人権を考えることが無意味になるでしょう。
 
楽山は自分の意見に反することを、「堅苦しい主義や封建的道徳」などと見なしてくるところに、まともな道徳による判断の欠如が、真実に目を向けないことが、さらに自慢として、表れています。否定を言い、肯定を言い、断定していないから、責任問題は生じないなどと言う外れ方です。
 
主義や道徳は、堅苦しかったり、封建的であったりするものばかりではないでしょう。人間ならば守るべき節操というものがあります。楽山は、思いやりと共感、温もりと潤い、そういったことを学習していないので、人間なら当然の反応が出来ないのです。
 
具体的に間違いを認めて反省するのではなく、そして修正するのではなく、曖昧に「生来の情緒を取り戻し」などと言っていましたが、またしても、有能な人間だと自慢したいだけなのです。誰にも認められていないからこそ、皮だけを整えたつもりで飾って、インテリぶっているケダモノです。
 
楽山については、カルトが自身を言い表すのと同様に、全く説得力が無いために、超常や神聖や心霊の体験を持ち出して、だますしかないという習性があり、心霊、スピリチュアル、死後の世界、超常体験、などの超常が大好きな楽山の特徴となって、結果的に、理路の錯乱を、容易く表してしまう現状です。
 
一気に、安易に、超常になりたい教祖願望は、楽山やカルトの特徴であろうと思います。超常ホラーを否定しないだけでなく、むしろ、自分に当てはめている楽山は、しかし、霊が分かるっぽいという自覚だけであり、実際には、洞察力は皆無で、いかなるスピリチュアルの深さも、書けたことはありません。
 
 
都合の良い他者の口を引用し悪用し、都合の悪い他者の口を無視するのは、まさに、カルトの断線した回路であり、邪悪の一本道であり、自己中の沼であり、反宗教の身投げであります。
 
 
楽山が、批判されても批判されても、弁明も反論も出来ないでいて、全くお構いなしに、無視して、平気で、言いたいことだけを書いてくるのは、心性に欠陥がある病質としか思えず、常人のものではないと思っています。もはや、楽山の話を聞くくらいなら、犬猫の鳴き声を聞くほうがマシなのです。
 
楽山においては、きれいごとのボンヤリ言語「ありのままの自分に正直になり、自然体でいること」が、病質・変質の詭弁として、他者の良心と感性と思慮をもてあそんで、精神を食い荒らしてゆく、という愚鈍なケダモノになることを意味することになります。
 
「生きている他者との会話ができなくなってゆく恐れ」などと、わざわざ書いて、「注意の大切さを実感した経験がないでもない」と言って、つまり、自分は常識人そして霊能者だ、という印象操作と宣伝です。「ないでもない」「と言えなくもない」等の、語尾のぼかし方も、ボンヤリ言語の特徴です。
 
楽山は、ボンヤリ言語で、どこが詭弁や誘導であるか、ちょっと読んだだけでは分かりにくい書き方をするので、豪語するカルトと違って、邪悪さに気づきにくい傾向がありますから、何より、楽山を相手にしないこと、楽山に関わらないこと、近づかないことが大切です。
 
 
私は、数か月、だまされていました。受け答えがハッキリしないため、次に、責任を負うことが大切だ、といった牽制・指摘によって問いただしたら、ごまかして応じなかったため、相手にしてはいけない人だと気づきました。実際には、実のある何ものも持っていない人です。
 
批判して、信頼度ゼロと判断しましたが、その判断を覆すような記事を、楽山は、一度も書いたことがありません。楽山は、批判に対して、嫌がらせ、言いがかり、嘘、詭弁を書いてくるだけだ、という証拠も、約3年分、同時に積み重ねられて資料となっています。
 
 
「かなあ」「ていうか」「言えなくもない」「反省、トホホ」「信じやすい性分」など、芝居がかった若者言葉や、逆に、同情をひく年寄り言葉や、曖昧表現、婉曲表現、丁寧語で、言い逃れようとします。
 
ちょっと変に丁寧だけど、いい人そう、と思うような人を待っているホラーが楽山です。楽山の、嘘と詭弁に、自己中に、自他破壊、そして、絶望伝道に、どうか、巻き込まれないように、警戒し、関わらないようにしてください。ネットには、いろいろな、具体的に関わると大変な、ペテン師がいます。
 
 
はてしない脳天気

はてしない脳天気
 
 
(2021年01月20日、同日一部修正)
(2022年01月22日、再録+加筆)
 
 
 
  ウソの国
 
男は登っていく
深夜の階段を
息せき切って走っていく
走らねばならないのだ
走らねばならない
遅れてはならない
遅れてはならない
 
遅れた
男は人前に連れ出され
何人もの男から
したたか腹を殴られたが
痛みはなかった
 
夕暮れの街を歩いていく
人々は夕闇と過去に追われながら
すでに死んだ油の眼で
われにもない毒の顔をさらして
ネオンの間から間へ
苦しい巡礼を始める
あぁ この七色の 肉色の
光のおりが天国とは
拳を握りしめて
「何もない」
「何もない」と
壁に向かって叫び続ける男
誰もいない街角に向かって
手を振り続ける女
眼を振り続ける人々
通り過ぎる車が
水たまりをはねて
尻が濡れた
時が引き裂かれた
青春と人情の墓場から抜け出し
人通りの少ない路地で
恋人に声をかける
お茶でも?
あいされたいわ たれからも
 
吐物をまき散らしながら
男は逃げる
転びそうになりながら
 
幾分か小高い丘に
塀のある幼稚園があった
数人の子供が砂場で遊んでいる
ジャングルジムがある
子供たちが登れるようになると
外が見えるようになるわけだ
 
男は登ってみる
もう吐き気はしない
尻のあたりの濡れた感触もない
男はようやく安んじて眺めている
人っ子一人いない街の風景を
 
あたりはもうすっかり明るい
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
詫びることもなく、反省や修正をすることもなく、思いつきを、プラスもマイナスも、好きなように語って責任を負わない楽山は、結局、"ええかっこしい" のインテリ気取りだけであり、実質的には、何も語っておらず、何も持っておらず、何も考えていない、という、空しい疲労だけを与えてきます。
 
楽山はキリスト教とキリスト信仰について幼稚な悪口を書いてきました。批判を受け取って反省できる人なら書き続けても迷惑ではないが、無反省に無責任に偏見を垂れ流すだけなら、そのたびに批判記事を当てるしかありません。既に資料となっているので今後も加筆して投稿することになるでしょう。
 
 
 
 楽山のツイッターですが
 
★こも/楽山日記3さんがリツイート
「人は〔利を求めて〕自分を与えてはならない。自分を捨て去ってはならない。ひとは、善い〔やさしい〕ことばを放つべきである。悪い〔粗暴な〕ことばを放ってはならない。〔やさしいことばを口に出せ。荒々しいことばを口に出すな。〕」(中村元訳『ブッダ 神々との対話』岩波書店、P101)
午後2:03 · 2022年1月21日·Twitter for iPhone
 
楽山は、自分を捨て去った人です。人間を捨て去ったと言ってもいいでしょう。だから、丁寧語で言えばいいと思い、人間とは思えないような醜い嘘と詭弁を含ませることが出来るのです。粗暴な言葉を控えて、丁寧語に軽蔑を込めるのは、分かりやすい悪口より悪質です。偽善者と対話してはいけません。
 
 
 
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  人の気持ちが分からない楽山
 
 「人の気持ちがわかるには」を読んだ。
 2021年11月23日 幸福の科学とは何だろう?
 
 
書けば、書いただけ、白々しさが表れてくる楽山です。今までの嘘つきの弁が、追いかけてきて、楽山を否定してゆきます。なのに、また、否定を呼ぶかのように、書かずにはおれない楽山です。精神衛生のために、どうか、楽山と、交流しないでください。楽山に、関わらないでください。
 
楽山ほど、人の気持ちが分からない人は珍しいです。自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)のために、共感や罪悪感や羞恥心などの高等感情が楽山には、ありまません。楽山にとって、他者は、利用するか、無視するか、あざ笑う対象でしかありません。
 
*心の指針
「人の気持ちがわかるには」を読んだ。
202110 人の気持ちがわかるには― 心の指針203―
・人の気持ちがわかるには―大川隆法総裁 心の指針203―
 」
相手の気持ちを知るには、まずその話をよく聞こうというのには賛成である。人の話を聞くのは大事なことだ。
 
人の話を全く聞かないで無視してきた楽山が言っています。だから「人の話を聞くのは大事なことだ」は、大嘘です。それと、楽山は、アンチではないことが、表れています。ORを否定できないから、読んで、部分的に賛同しているのです。
 
私は、楽山に、部分的にも、賛同できるところは全くありません。これほど、人を欺いてきた人は珍しいと思います。だから、今も欺いているのです。この期に及んで、まだ、当たり前の道徳「人の話を聞くのは大事」を書いているところが、異常者であることを証明しています。
 
*神仏の気持ち
とはいえ、この部分はどうにも気にかかる。
神や仏のように、
はるかなる高次元から、
迷える衆生を見守れたら、
一体どれほど胸がスッキリすることか。
 」
著者は、高みから迷える衆生を見ることに爽快感を感じるのだろうか。
 
楽山に言う資格はないと思います。楽山こそ、霊が分かるっぽい自覚で、インテリ気取りで、高みから見下ろす満悦ぶりが、今まで、数えきれないくらい記事に表れてきたのです。こういうところを見ても、本当に、楽山が、自分を見ることの出来ない人だということが分かります。
 
自分だったら、とてもそんな風にはなれない。たぶん、ハラハラしたり、心配したりで気が休まることはなくなりそうだ。
 
だから、これは、真っ赤な嘘です。楽山が嘘を吐けば、楽山の今までが、嘘を暴いてゆくのです。自業自得とはこのことです。「ハラハラ」も「心配」もせずに、平気で嘘を吐いてきた楽山です。気が休まらないのは、だんだん、誰からも、支持も信頼もされなくなっているからでしょう。
 
また神様とは、高みから迷える衆生を見ているばかりでなく、その傍らに寄り添い、救けようとする存在であるとも思う。もし高みから迷える衆生を見てスッキリしているとしたら、それは神様失格だろう。
 
寄り添い、同伴する神を、楽山は知りません。むしろ、高みから、無神論を引用したり、いちゃもんを言って、人を迷わせ、神を否定してきたのが、楽山です。このペテン師に、どうか、だまされないでください。
 
「高みから迷える衆生を見てスッキリしているとしたら、それは神様失格」・・どういう神のことでしょう。また、楽山に、神の合否を決める資格はありません。さらに、詭弁屋で嘘吐きの楽山に、人の是非を決める資格もありません。
 
好き嫌いで物事を判断するのは、あまり褒められたことではないことは承知しているが、やっぱり自分は著者のこういうところは好きになれないなと思う。
 
信仰は、聖書を読んで、キリストを好きになり、人生の同伴者として、生きる縁(よすが)として頼みとすることです。楽山に褒められる必要は全くありません。といっても、楽山が、世辞以外で、褒めているのは、いつも、楽山自身です。
 
冒頭では著者に賛成し、ここでは、著者を好きになれないと言っています。この記事の文脈は、始めと終わりで、楽山の精神が分裂しているようです。楽山は、基底となる気分と精神が、ボンヤリしているので、そこから何か言っても、一貫性がないのです。
 
楽山は、信頼度ゼロになって久しいのに、言ってることもバラバラなのが書くたびに表れるのに、いつまで、理性も情緒もないところから、繰り言か寝言のような記事を書いて、興ざめさせてくるのでしょう。多くの人に、精神の疲労と危機を与えてきたツケが回ってきているのに。
 
 
薄もやに棲む支離の人

薄もやに棲む支離の人
 
 
(2021年11月25日)
 
 
 
 キーワード: 気持ち
 
 
  意識の怪談
 
私らには奇跡的に意識がある
しかも全く別のことをしながら
確かめたわけではないが
どうやら同じ時を過ごしているらしい
とりわけ私の意識は
私にしかないので
私は離れて暮らしている
しかしすでに私の中には
逝ってしまったはずの意識が
たくさん住み着いている
 
だから悪く思わないでくれ
私が意識を失うとき
君らの中に忍び込むかもしれない
 
失った意識は思うに任せない
逃げようとしても無駄なのだ
いやそうではない
私など人畜無害の
アレルゲンにもならない埃に過ぎないから
隅に置いてもらえばいい
君らは忘れた気持ちでいられるだろう
 
万が一の逆の場合のことだ
君らが私の中に入ってきたとき
私が迎えるに当たって
むさくるしいところへようこそ
と寝起きの顔のまま
欠けた歯をむき出しにして
ニッコリ笑っても
悲鳴を上げないで欲しい
失った意識は逃げようとしても無駄なのだ
 
 
  父に言ったこと
 
昔のことである
父に言ったことがある
大学を留年して進路に迷っていた時期
「言いたいことがある」と言う父に
私は言ったことがある
「僕はお父さんを信頼していない」
 
父は言葉を詰まらせた
「お、お前ねぇ・・・
人の気持ちというものを・・・」
そのあと父が何を言ったか
言わなかったか覚えていない
 
父は読書家である
戦争のために貧しさのために
大学へは行けなかったが
努力家で物知りである
 
父は自らを厳しく律してきた
家族のためである
だからそれなりに
人生観に自信があったのかもしれない
よく説教めいた話をした
 
しかしあの頃だけは
何も言って欲しくなかった
すでに二十代半ばの私を
ただ黙って見ていて欲しかった
 
ずるい私は承知の上だった それが
ひと言で父を黙らせる
最も有効な手段であること そして
最も父を傷つける一言だということも
 
 
  救急車
 
深夜に救急車のサイレン
近づいてくる
止む
遠くないところで
何か不幸でもあったのか
急病人でも出たのだろうな
 
急に思い出して
父と母が二人だけで住んでいる家に
同じことが起こっていないかと
しばしおののく
 
サイレンが再び鳴り響いて
音階を低く変えながら
夜に吸い込まれていく
 
親の安否をちょっとだけ気遣う息子
もう聞こえないサイレンに切り捨てられて
夜に一人だけ取り残された気持ちで
何もできるものかと首を振って
ときに手足をふらつかせながら
仰向けになって
見えない空と戯れている格好だ
 
 
 
 楽山のツイッターですが
 
★こも/楽山日記3さんがリツイート
新無神論bot
@AtheismBotJP
信仰者に対する無神論者の批判は「神は何があっても存在しない!」と主張しているのではない。単に、「自分の主張が真であると主張したいのなら客観的根拠を提出しなさい。それができないのなら、根拠の無いものを真実であると語るべきでない」と言っているにすぎない。基本的なモラルの問題なのだ
午後8:51 · 2021年11月23日
 
信仰者の主張は、神が存在することや、神が真であることや、自分の主張が真であることが、証明出来ることを根拠とはしていない。客観的証拠があるなら、信じる必要はない。なお「根拠の無いものを真実であると語る」のは、楽山に見られる所業である。
 
人が根拠を示せるのは、客観に成りえない個人の精神生活に起こることである。絶望が希望に変わることを経験した者は、その恵みを信じて、生きる縁(よすが)にするのは、至極当然の成り行きであり、客観的根拠など、科学を持ち込んで理屈を求めるのは、勘違いも甚だしい。
 
 
★こも/楽山日記3さんがリツイート
カルト被害相談窓口・心の相談室りんどう
@soudanrindou · 10時間
何度でも繰り返して言いますが、「嫌だな」とか「変だな」と感じたらその感覚を大事にしてください。その感覚はあなたが属する組織や信じている人に「どこかおかしな点がある事」を知らせる大切なサインです。
午前11:39 · 2021年11月24日
 」
午後0:38 · 2021年11月24日 
 
身近な危険に「気づけるチャンスは沢山」あります。「嫌だな」とか「変だな」と感じることから、邪悪な働きに気づいてゆきます。楽山の丁寧語は、そういう嫌な感じに溢れています。楽山は「どこかおかしな点がある事」というより、よく読めば、おかしなところだらけです。
 
楽山は、このツイートを、逃避と自己正当化のために引用しています。楽山の正義の味方芝居に、決して、だまされないでください。長年の自分の嘘と詭弁の罪と偽善から目を背け、他者の目を逸らせようとしています。そのために、切実な真実の追求の言葉を、賛同リツイートしているのです。
 
楽山に、引用またはリツイートされて、気をよくして、楽山と付き合うと、いずれ、ひどい人だと気づくでしょう。しかし、その時までに、とんでもない疲労を味わうことになり、思考と感性が、鈍くなったり、最悪の場合、人格を破壊されることになります。楽山は、良心の敵です。
 
 
 
楽山日記へのコメント再録(1.が誰のコメントかは不明)
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら 誤ったら 素直に詫びて 自分 正さなくちゃいけない」「それが出来て 初めて人間だと それ出来ないなら 人ではないと」「嘘ばかり 重ねる君よ 保身だけの 卑怯者の君よ そんな君は 魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと 最大限の反省と共に 開いた出店を 畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
誰かが注意しても、聞く耳を持たない楽山は、反省も謝罪もしておらず、邪悪な性根の根深さが治りません。一般の「人間の性」などではなく、ゆえに、「自分もそんな風です」などという詭弁の言い訳は成り立ちません。楽山固有の悪と罪と偽善です。
 
発言が、もはや、信頼度ゼロなのだから、たとえ謝罪しても、それが、嘘であることを考えざるを得ない、という、童話の "狼と少年" 状態であります。現に、何度も「反省。とほほ」と書いてきましたが、実は、反省ではなく、反省を、トホホで、おふざけにしてきた楽山です。
 
 
 
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  楽山の褒め殺し
 
 『〈仏典をよむ〉1 ブッダの生涯』中村元著、前田專學監修
 2021年09月20日  楽山日記(LD)
 
 
宗教についても思想についても感性と知性を台無しにしてきて、腹いせのように、キリスト教をおとしめていたら批判を食らってきた楽山は、今度は、仏教を、褒め殺しにかかっているようです。いかなる宗教と信仰にも、人間らしいセンスを持たない楽山が明らかになっています。
 
*概略
本書は、NHKラジオで放送した中村元の講義をまとめたものである。全編にわたって、原始仏典の記述を紹介しつつ、その解説をするという体裁になっているが、一般にも理解しやすいように終始、平易に語られているところは有り難い。
以下に、自分にとって特に強く印象に残った箇所をメモしておきたい。
 
「終始、平易に語られている」本についての、大袈裟な「強く印象に残った箇所」という表現が、既に、ペテンくさいのです。つまり、楽山は、感動したと言っています。べた褒めモードになります。しかも、褒め殺しです。
 
*人はいかに生きるべきか
まず著者は、毒矢のたとえにからめて、ブッダの教えの方向性を次のようにまとめている。
解決のできないような哲学的議論に巻き込まれないで、ここに生きている人がいかに生きるべきであるか、その生きる道を明らかにするということをブッダは人々に教えたのです。
(『〈仏典をよむ〉1 ブッダの生涯』〈岩波現代文庫〉中村元著、前田專學監修、岩波書店、2017年、p.40)
 」
さらにブッダは、さまざまな宗教儀式にもこだわることなく、いかに生きるかということを重視していたとのことである。
 
「いかに生きるかということを重視」・・当たり前です。しかし、この感想文で、いかに生きるかということを、楽山は、書いているでしょうか。
 
人間のほんとうの道を追求する、それがブッダの一生のつとめであり、課題であったということをいうのです。
(同上、p.157)
 」
両者をまとめると、霊魂がどうしたとか、宇宙観がどうしたとか、宗教儀式がどうしたとか、そんなことより、現実をいかに生きるかということの方が大事だということらしいが、自分はこれには賛成である。ただ自分は物好きなので、いまだにややこしい議論はすきなのではあるが…。
 
霊が分かるっぽい自覚の楽山は「霊魂がどうした」とかいうことより「現実をいかに生きるか」に賛成だそうです。当たり前です。宗教もそのためにあります。楽山が、そうでなかったのなら、それは、楽山の責任です。
 
「現実をいかに生きるか」と言っていますが、ならば、今まで書いてきた、うるさいほどの霊の話は、どうでもよかったのでしょうか。楽山を真に受けないでください。楽山は、ただ、読書家をアピールするために、言っているだけです。
 
「ややこしい議論はすき」・・楽山は、議論などしたことはないと思います。屁理屈をこねて、相手を煙に巻いて、疲れさせることが好きなのです。だんだん正体が見えてきます。何も言えない、何も感じないが、読書家を気取るためだけに、もっともらしい飾り言葉だけを並べているのです。
 
*教えの根本
著者によれば、八万四千の法門を貫いているのは慈悲であるという。
そこを一貫する精神は何かということになりますと、これは人々に対するあたたかい気持ち、人々の身になって考えるというその気持です。これが世の中を明るく保ち、なだらかに進めていくことになる。
これを仏教では「慈悲」と申します。
(同上、p.41)
 」
これはよく納得できる。別な言い方をすれば、慈悲のない教えはブッダの教えではないとも言えるのかもしれぬ。
またこの考え方からゆくと、本書とは別のとある本で読んだことだが、ブッダは生まれ変わりについては在家には説いたが、出家にはあまり説かなかったという話も了解できる。慈悲の精神によって、相手の信仰とその環境に合わせて方便を用いつつ導いたということなのだろう。
 
「あたたかい気持ち」「慈悲」という言葉で、読んで感じましたアピールをして、書いているのは、「環境に合わせて方便を用いつつ導いた」という誰でも言いそうなことだけなのです。しかも、「別のとある本で読んだこと」だそうです。当たり前の、そして、別の本の話です。
 
「慈悲のない教えはブッダの教えではない」ことは、楽山が今まで書いてきたこと、議論に見せかけてきたこと、などが、疲労だけをもたらし、何の成果もないことと符合します。このように、体よく書いたつもりでも、今までの事実から、楽山のペテンぶりと無益な文章の特徴は表れてきます。
 
今までのことから、楽山は、「慈悲」、言い換えれば、思いやりとか、やさしさとかを、心で受け取ることが出来ず、三文芝居のセリフでしか表現できない人です。つまり、言葉だけを繰り返して、そこから広がることのない文章しか書いて来なかったのです。
 
*世界は美しい
仏教の考え方は、一切皆苦というように厭世的なものだと思っていたのだが、著者によれば死期の迫ったブッダは世界の美しさをうたっていたという。
みなに別れる、この世を去るということになりますと、そうすると、いまさらながらこの世の美しさに打たれて、恩愛への情に惹かれるのです。
(同上、p.148)
 」
 
楽山は、何が言いたいのでしょう。死は世界の美しさ、世を去るとき恩愛の情、・・その心は何も書いていないのです。このように、賛同し、感動したような、褒め言葉だけ並べて、読書家を気取る楽山の、一切は、ペテンの飾りで彩られています。
 
楽山は、他者の言にも、他者の行いにも、他者の説法にも、感動したことはないと思います。感動を経た人の心が、何も書かれていないからです。今までも、ずっと、そうです。ただ、自己顕示欲で、分かる人アピールをしてきただけなのです。
 
このような、死は美と愛だ、と書いて、死と美と愛が伝わると思っているのでしょうか。だまして、何か、よさそうな人と思わせてきただけの人生が、いかに虚妄であるかということだけが伝わってきます。関わらないでください。皮を舐めて髄を知ってるふりをするペテン師、楽山です。
 
著者は、自然の美しさ楽しさを語るブッダの言葉を紹介しているが、それは読んでいるだけで切なくなってくるものであるし、
 
「読んでいるだけで切なくなってくる」・・切なさを、具体的に表現し説明する器量のない者が書いたということだけが明らかになってきます。「自然の美しさ楽しさ」では終わらない話のはずです。楽山が、いかに読めていないか、なのに、いかに感想をでっちあげているかということです。
 
小学校の作文でも、いい点数はもらえないでしょう。楽山は、そこにいるのです。学者、宗教家、インテリ、評論家、様々な、楽山の気取りが、よく見せるためのだまし文句に過ぎなかったことの傍証として、あらわになっています。感動芝居の大根役者、楽山に、どうか、だまされないでください。
 
これからするとブッダはこの世のすべてを厭い、離れようとばかりする人ではなかったようだ。
 
仏陀の教えや仏教の厭離穢土が、死にたがり精神ではないことは、それだけじゃ宗教にならないのだから、常識的に誰もが知っています。このような、先入観と言葉のうわべだけで、インテリ宗教家を気取る楽山は、自己顕示欲だけの、嘘吐きの、詭弁屋の、幼稚な未熟者に過ぎないのです。
 
楽山は、読書できない人です。かつ、自己愛性人格障害によって、反省も学習も出来ず、分かっていると思われたい自己顕示欲から、結局、人を惑わし、だますだけの、独り芝居の大根役者に堕ちているのです。空っぽが、身の程も知らずに偉そうに言っても、無駄だと分かるのです。
 
そういえば、とある評論で梶井基次郎の自然描写の美しさをたたえつつ、死に近い人には自然はこのように見えるのだろうとしていたのを思い出す。ブッダの言葉にもこれと同じことがいえるのかもしれぬ。
 
死にゆくときの自然が美しいという話で、まるで、死を勧めているような文章になってしまっています。仏陀も評論家もこれと同じ・・ではないと思います。楽山だけが、小学校以下のレベルで、短絡して、とんでもないことを言っています。
 
本書を読んで、ブッダは自然の美しさを解する人だったと分かったのはうれしい収穫である。
 
楽山は、仏陀が死にたがり屋で、自然の美しさが分からない人だと思っていたのでしょうか。呆れます。いよいよ、自己愛性パーソナリティ障害NPDである楽山に、人格崩壊の時が来ているのでしょうか。自己愛によって知性と感性を損なってきただけでは済まないようです。
 
 
結局は褒め殺し

結局は褒め殺し
 
 
(2021年09月21日)
 
 
 
キーワード:殺
 
 
  夜
 
夜である
昼よりも静かだと思ってはならない
昼の騒ぎよりも
より騒がしい思惑が
入り乱れて飛んでいる
あるいは欲望が
壁を突き破ったり隠れたりする
夜には夜の苦しみ
夜には夜の夥しい挨拶
 
夜は悲劇を
喜劇をのせて音もたてずに流れてゆく海のよう
生も死も同じなのだ
生けるものも死せる者も
動物でさえ屍のまま
声もあげずに
乱れた問いを投げかけてくる
 
いったいいつまで笑っていればいいの
泣いていればいいの
暗闇から海のように
大河のように流れる裏の広さから
答えられなかった問いが
問われなかった夢が
叫びを押し殺してゆく
沈黙の
騒然とした夜である
 
 
  虫の音
 
物音は
集まれば集まるほど
耳に障る
気にすればするほど
大きくなる
集団の声は苛つく
人の声も 雑踏も
独り聞いた蝉の声も
蛙の声も
耳鳴りも
恐らく幻聴も?
 
波のように
あたり一面
姿のない虫の声
遠くか近くか
どれほどの数か知らぬが
ただ一匹だけ
窓近く
チロチロと
鳴いているのがいる
不思議と耳に障らず
寂しく泣いて
訴えているようにさえ聞こえる
 
眠れない夜を殺し
耳鳴り騒ぐ
眠れない夜を死なせ
秋の虫 なく
 
 
(昔々の・・)
 
 
 
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  楽山の醜い虚栄
 
 『イエスという男 逆説的反抗者の生と死』田川建三著
 2021年09月05日 楽山日記(LD)
 
 
聖書のいちばん大事なことを、全く理解していないのに、なおも、自分は分かってるんだと、重箱の隅をつついて、満悦する楽山の、みじめな姿が、あらわとなっています。楽山には、聖書の知識はありません。いちばん大事な理解を飛ばして知識とは言えないからです。
 
既に浅薄だということがバレているのに、虚栄に走る楽山は、人間性の破壊された悲惨な姿を露呈するだけなのですが、自己愛性パーソナリティ障害NPDの楽山だけは、客観視ができないために、気づかないのです。見栄だけを張ることの醜さを学ぶことになります。
 
*通読
何年か前に本書を開いたときは難しすぎて読み通すことはできなかったのだが、先日また開いてみたら今度は最後まで興味を持って読むことができた。これはうれしい。本書の中で、特に印象に残った箇所について以下にメモしておきたい。
*熱心党
まず著者は、イエス在生の当時、その弟子に熱心党に属する者がいたという話はきっぱり否定している。
熱心党そのものはイエスの生きていた当時はまだ存在していなかった。あるいは、存在していたとしても、人々の間で問題になりうるほどの活動はしていなかった。
[省略]
マルコが福音書を書いていた五十年代(もしくは六十年代)になって、ようやく熱心党の活動が顕著になってくる。
(『イエスという男 逆説的反抗者の生と死』田川建三著、三一書房、1981年、p.93)
 」
「イエスの死からユダヤ戦争の勃発まで、約三十五年間であ」り、これはさして長い期間には思えぬかも知れぬが、日本の歴史にたとえれば「日本の一九三五年に、七十年の新左翼の存在を予測」できたかということにもなるし、この点を考えれば、この三十五年間という期間がどれほどの時間かは想像できようとのことである。そうして「熱心党の活動が顕著になってくる」のは、「マルコが福音書を書いていた五十年代(もしくは六十年代)」だという。
自分は、ユダは熱心党であり、イエスがユダヤ人の独立解放の救世主となることを期待していたものの…云々という話を信じていたのだが、どうやらこれは全くの見当違いだったようだ。
 
聖書の、いちばん大事なところを、全く理解していないことが明らかになっている楽山ですが、なおも、いつものように、他者の口を借りて、分かってるんだと、まるで学者のように気取ってきます。読むことが、災いにしかならない者もいるということです。
 
なぜ、娼婦や取税人が天国へ行くのか、キリストがどういう人を救ったのか、大事なところをすっ飛ばして何も理解しないのでは、聖書を語ることは、どこまでも、無意味であります。つまり、楽山にとって、読者は、宝飾品に過ぎないのです。
 
*書きかえ
本書では、聖書の書きかえについていくつかの指摘があるが、そのうちの一つをここにメモしておきたい。
マルコは二度「怒る」という語を用いてイエスの行為を描写している(三・五、一・四一。このうち後者は写本によっては「憐む」という動詞に書きかえられている)。ところがイエスを怒らない柔和な人にしたかった後の教会は、この二箇所とも削ってしまった(マタイ八・三、一二・一二、ルカ五・一三、六・一〇)。
(同上、p.293)
 」
新共同訳で確認してみると、たしかにマルコにある「怒って」(3:5)が、他ではなくなっている。また後者は「深く憐れんで」(1:41)としてあった。これらは写し間違いではなくて、著者の言う通り意図的な書きかえだったのだろうな。
 
理解も信仰もないのに、知識人を気取ろうとすると、細部を知っていると見せかけることになるのでしょう。無視してください。楽山は、重箱の隅をつつきますが、重箱に何が入っているか、全く知らないままなのです。悲惨な楽山は、読むことより、目を失うほうが幸いでしょう。
 
細かいところをあげてケチを付ける楽山の評論家気取りは、見るも無残な病質からの虚栄心の災いであります。こうはなりたくないし、かつ、こうなってしまわないように、気をつけるべきだという、戒めとしてください。聖書は、細かいところにこだわらなくても、命を救う力があります。
 
*楽天性
 個人的にはイエスには悲劇的でさみしそうなイメージがあるのだが、著者はそれとは反対にイエスの楽天的なところを繰り返し指摘している。
ここにもイエスの、神と神のつくった自然とに対する、実に楽天的な信頼感があふれている。
(同上、p.307)
 」
著者がその根拠としている箇所を確認してみると、たしかにこれは楽天的といえそうだ。
空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。だが、あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか。
(マタイ6:26)
だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。あなたがたのだれが、パンを欲しがる自分の子供に、石を与えるだろうか。魚を欲しがるのに、蛇を与えるだろうか。
[省略]
あなたがたの天の父は、求める者に良いものをくださるにちがいない。
(マタイ7:8-11)
「神の国は次のようなものである。人が土に種を蒔いて、夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。土はひとりでに実を結ばせるのであり、まず茎、次に穂、そしてその穂には豊かな実ができる。実が熟すと、早速、鎌を入れる。収穫の時が来たからである。」
(マルコ4:26-29)
 」
改めて読むと、神に対する信頼感はすごい。これを読むこちらの方まで心が落ち着き暖かくなってくる心持ちがする。なんというか、つい武者小路実篤を連想してしまう。
こうしてみると、キリスト教からニューソートが出てきたのは、必ずしも反発反動というわけではなく、当然の流れだったのかもしれぬという気がしてこないでもない。
 
楽山は、自己愛性人格障害のために、自分の表現を持ちません。真摯に学ぶ、ということを怠ってきたからです。そういう場合、楽山が今までもしてきたことですが、難しい言葉や文章を引用して、べた褒めすることです。楽山の虚栄の崩壊世界です。
 
(ネットより)
ニューソート(New Thought、新思考)は、19世紀アメリカ合衆国で始まったキリスト教における潮流のひとつ、一種の異端的宗教・霊性運動である。現世利益の追求を戒めるキリスト教プロテスタント系カルヴァン主義への反発を背景に生まれた[1]。
ニューソートは、聖書の内容を従来とは違う立場から解釈しようとするもので、「人間の意識は宇宙と繋がっている」と考え、その根拠を聖書に求めるのが主流である[4]。
ニューソート:ウィキペディア
 
「神に対する信頼感はすごい。これを読むこちらの方まで心が落ち着き暖かくなってくる心持ち」・・アホのべた褒めの、世辞そして嘘ということです。ひねくれついでに、正当が分かってもいないのに、超常のカルト的異端に走る楽山です。当然の流れだそうです。
 
「実に楽天的な信頼感」「たしかにこれは楽天的といえそうだ」・・キリストの教えは、決して(楽天的)ではありません。楽山が楽天的だと思うのは、神が与える「良いもの」を全く知らないからです。楽山は、キリストさえも、あざ笑いのネタにしています。
 
「心が落ち着き暖かくなってくる心持ち」・・嘘だと思います。かつ、作為の、べた褒めの幼稚さと言ってよいでしょう。楽山の心が落ち着くことは、なかったと思いますし、ありえないことです。楽山は、いつも、分かっていることにするために、わざとらしいことしか言えないのです。
 
*罪
著者によれば、イエスの楽天性は、自然に対してだけではなく、罪に対しても変わらなかったらしい。
ともかくこういうイエスだから、人間の数多くの行為を洗い上げて、どれが罪になるかを定めて断罪し、あるいはそもそも、人間存在そのものが罪なる存在であるとみなす、などといった発想からはほど遠かっただろう。この人の楽天ぶりは、そういった陰湿な思想とは無縁である。
(『イエスという男 逆説的反抗者の生と死』田川建三著、三一書房、1981年、p.271)
 」
 
キリストは「罪になるかを定めて断罪」するスタンスは持っていないと思います。しかし、それを楽天性と言ってしまうのは、著者は、キリストについて、真面目に考えていないのでしょうか。
 
(ネットより)
田川 建三(たがわ けんぞう、1935年 - )は、日本の新約聖書学者、著述家。大阪女子大学名誉教授。宗教批判を通じて現代批判を試みた著作でも知られる。「神を信じないクリスチャン」[1]を名乗る。
1935年東京生まれ。聖学院高校、東京大学宗教学宗教史学科(1958年卒業)
文献批判に立脚した新約聖書学の伝統の上で、キリスト教批判や宗教批判、そして現代社会批判を展開したことで知られる。
 
私は、信仰を語る上で、○○学というのを、あまり信頼していません。信仰は、心の問題だからです。著者は、キリストを見下ろしているような気さえします。「人間存在そのものが罪なる存在であるとみなす」のではなく、人間は、必ず、罪を犯すということです。
 
それにしても、楽山の聖句の選び方は、悪意によるものでしょう。楽天的なキリストが、十字架につくでしょうか。
 
 (マタイによる福音書、口語訳)26:39
そして少し進んで行き、うつぶしになり、祈って言われた、「わが父よ、もしできることでしたらどうか、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの思いのままにではなく、みこころのままになさって下さい」。 
 (マタイ26:39、新約聖書)
 
 (マタイによる福音書、口語訳)27:46
そして三時ごろに、イエスは大声で叫んで、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」と言われた。それは「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。
 (マタイ27:46、新約聖書)
 
キリストが、その優れた弁舌の能力によって、パリサイ人に、少しでも歩み寄る姿勢を示せば、十字架は、免れたはずです。
 
しかし、キリストは、十字架の道を歩まれました。十字架は、どこまでも、悲劇です。それは、私たちの悲劇だからです。
 
これについてもその根拠を確認してみると、たしかにそのようである。
はっきり言っておく。人の子らが犯す罪やどんな冒涜の言葉も、すべて赦される。
(マルコ3:28)
「子よ、あなたの罪は赦される」と言われた。
(マルコ2:5)
 」
 
 (マルコによる福音書、口語訳)
2:4
ところが、群衆のために近寄ることができないので、イエスのおられるあたりの屋根をはぎ、穴をあけて、中風の者を寝かせたまま、床をつりおろした。 
2:5
イエスは彼らの信仰を見て、中風の者に、「子よ、あなたの罪はゆるされた」と言われた。
 (マルコ2:4-5、新約聖書)
 
赦されたのは、病人です。人々は、何とか、キリストのもとに連れてこようと努めました。楽山の言うことは、悪意による言いがかりです。
 
 (マルコによる福音書、口語訳)
3:28
よく言い聞かせておくが、人の子らには、その犯すすべての罪も神をけがす言葉も、ゆるされる。 
3:29
しかし、聖霊をけがす者は、いつまでもゆるされず、永遠の罪に定められる」。 
3:30
そう言われたのは、彼らが「イエスはけがれた霊につかれている」と言っていたからである。
 
楽山は、恣意と悪意によって、キリストを汚しました。しかも、悔い改めることなく、今回も、その反キリストぶりを発揮しています。引用された学者は、楽山というネズミ男に、好きなように悪用されています。楽山は、自らが赦される余地を、自ら捨ててゆくようです。
 
ちなみに著者は、これらの言葉についてこう書いている。
右の中風患者の話にせよ、この明快な宣言にせよ、別に、罪が赦されるために悔い改めねばならぬとか、悔い改めにふさわしい実を結べ、とか、洗礼を受けろとか、そういったことは一切言われていない。ここに洗礼者ヨハネとイエスの決定的な相違がある。 
(『イエスという男 逆説的反抗者の生と死』田川建三著、三一書房、1981年、p.275)
 」
 
悔い改めは、神の前に正直な祈ることであります。悔い改めたからといって、完全な正義の人になることはありません。信仰は、成長するための道です。一気に悟る境地ではありません。こういうことは、何度も書いてきたのですが、楽山は、聞く耳も、読み取る目も、持っていないようです。
 
また、マルコ3:28の後の文章についてはこう書いている。
(原始教団はこのせりふの明快さにたじろいで、「しかし聖霊の冒涜は赦されない」とつけ加えてしまった)。
(同上、p.275)
 」
そう言われてみれば、「人の子らが犯す罪やどんな冒涜の言葉も、すべて赦される。しかし、聖霊を冒涜する者は永遠に許されず、永遠に罪の責めを負う」(マルコ3:28-29)というのは、但し書きの部分は、前文の断言を弱めるために後から書き加えられたという感じがしてこないでもない。
 
付け加えたのであろうとなかろうと、楽山のように、神をけがし、キリストをけがし、聖霊をけがす者が赦されないのは、当然のことであります。楽山の小便のような自己正当化の癖が表れています。
 
*洗礼者ヨハネとキリスト教
上はイエスについての記述だが、著者は洗礼者ヨハネについてこう書いている。
その宗教的厳格さを極限までおし進めたのは洗礼者ヨハネであった。
[省略]
このヨハネが人々に対して呼びかけた言葉が、「悔い改めよ。神の国は近づいたのだ」(マタイ三・二)であった。
(同上、p.264)
「悔い改め」とそれに伴う「罪の赦し」という、通常いかにもキリスト教的と思われている宗教行為と宗教理念にしたところで、洗礼者ヨハネの宗教行為の中心にすえられていたものであって、イエス自身はそのどちらの言葉もほぼまったく口にしていない。 
(同上、p.267)
 」
 
 (マルコによる福音書、口語訳)
1:14
ヨハネが捕えられた後、イエスはガリラヤに行き、神の福音を宣べ伝えて言われた、 
1:15
「時は満ちた、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信ぜよ」。
 (マルコ1:14-15、新約聖書)
 
 (マタイによる福音書、口語訳)4:17
この時からイエスは教を宣べはじめて言われた、「悔い改めよ、天国は近づいた」。
 (マタイ4:17、新約聖書)
 
悔い改めは、生きる寄る辺を、世俗から、神に求めることです。つまり、信仰と、信仰生活に、なくてはならないものです。楽山にだまされて、行為義認と勘違いすることのありませぬように。
 
著者はこれに続けて、「最古の福音書マルコにおいて、「悔い改め」という語は、後述する一・一五を別とすると、洗礼者ヨハネ(一・四)とイエスの弟子達(六・一二)の活動を表現する場合にしか用いられていない、というのは象徴的である」とし、さらに続けて、「ルカは、「復活した」イエスが弟子達に、洗礼者ヨハネとまさに同じことを宣教するように、と命じる場面を作文している」と指摘しつつ、「洗礼者ヨハネの説教の型が、キリスト教化されて原始教団によって継承されたのである」としている。
どうもこの辺りのことは、この間、『信じない人のためのイエスと福音書ガイド』(中村圭志著)で読んだことと同じことを説明しているようだ。これは専門家の間で定説になっているのかどうかは知らないが、いかにもありそうなことだという感じはする。自分には学がないので、著者の言葉の真偽を確かめ、自分の意見をはっきり固めることはできず、「…と思う」「…と感じる」と呟くことしかできぬのがつらい。
 
引用元の学者は、厚顔無恥で恥を知らない楽山によって、好きなように悪用されています。楽山は、いつも、婉曲表現で語って、責任を負わない人です。嘘吐きの楽山が「つらい」なんてことはないでしょう。そして、ますます反キリストに徹しているようです。
 
書籍紹介一覧は省略します。
 
著者の率直な書評は、キリスト教に疎い自分にも、それぞれの書物がキリスト教においてどのような位置にあるかが察せられてありがたい。
 
楽山が紹介してくるのは、大方、信仰否定に関する書籍だと思います。字面だけなぞって、都合のよいところを引用~利用~悪用するなど、率直さが皆無の楽山が、本を悪用すること、諸悪の根源を見ているようです。
 
 
虚栄の醜さ

虚栄の醜さ
 
 
(2021年09月06日)
 
 
 
  顔と肉体
 
私が狭い管の中を
身を捩(よじ)られ回されながら
押し出され引き出されて
濡れてぬるぬるになって
逆さに吊るされたり叩かれたり
揺られたりして
くしゃくしゃの顔で泣き出したとき
あなたは未だ私を知らなかった
おぎゃあ~~~~
 
あなたが物心ついて私を知り
知恵をつけ始めた頃
初めて吐(つ)いた嘘
私は覚えているけれど
あなたは覚えていないでしょうね
記憶の底に眠らせてしまって・・・
 
あなたが初めて髭や
体と心の変化に気付いたのち
満たされない欲望に悶々としていた頃
悔しさに呆然としていたとき
あなたの顔の中に一つずつ
しかめっ面が加わったのです
 
試験に合格したり
初めて給料をもらったときの
喜びは束の間に過ぎて
 
いつのまにか腹や胸に
飼い馴らされた黒い虫と
蒼い後ろ影の鬩(せめ)ぎ合いに
あなたが苛(いら)つき
失敗を重ねては独り傷つきながら
悔いても改めることができず
取り返しのつかない罪に苦しむたびに
あなたの顔の中には幾つもの
しかめっ面が増えていって
増えれば増えるほど
あなたの表情は
却(かえ)って乏しくなるのでした
 
隠すことを覚えたのか
強張(こわば)ってしまったのか
力が抜けてしまったのか
 
私が懸命に生きようとしたのに
あなたは死を願ったのです
それを止めさせたのは何か
今まだ生きているのは何故なのかは
あなたの問題だけれど
ごく稀(まれ)に
動物や植物が生きている姿や
似たような孤独に出会ったときに
あなたの表情が少しだけ
少しだけ和(やわ)らぐのを
私は知っています
何かを庇(かば)うように
 
(昔々・・)
「私」も「あなた」も、顔と肉体を持つ私です。誕生から病気まで・・
 
 
 
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  白々しい楽山
 
 『死について考える』遠藤周作著
 2021年08月18日 楽山日記(LD)
 
 
反省が必要なときに、読書家気取りで、「考える」などと言われても、既に、山積みの問題が、無反省と無責任の楽山を否定するのです。つまり、楽山にとって、読書は、自らの嘘と偽善の罪を隠蔽するのに使われ、結果として、逆に、醜さを倍増してゆきます。
 
*気になる本
大分前にタイトルにひかれて本書をパラパラめくってみたところ、キューブラー・ロス、死後の世界といった文字が見えたので読むのは止めにしたのだけれども、その後も本書のことはなぜか気になって仕方がないので、やむなく今回通読してみることにした。
本書全体は、老い、病、死についての平易で読みやすいエッセイ集といった体裁になっている。全体的にキリスト教の話は控えめで、スピリチュアリズムっぽさが散見されるが、これは「あとがき」にあるように意図的なことなのだろう。
以下に、本書中で個人的に心に残った箇所についてメモしてみたい。
 
メモなら、公開しないでほしいとは、前から言っていることです。楽山が「メモしてみたい」というとき、"責任は負わないよ" というメッセージだからです。実際、言論の責任を負うことは、一度もありませんでした。いい加減さが、いつも、鼻に突きます。楽山は、人を困らせて悦ぶ人です。
 
*死後の世界
まず著者は、死後の世界を信じているようだ。
私自身も死というものはぷつんと切れて、それでもう何もかもおしまいで、あとは無だというのではなく、次の世界に入ることだと信じています。臨死体験をした人たちは、その後、死というものを恐がらなくなったそうです。
(『死について考える』遠藤周作著、光文社〈光文社文庫〉、1997年、p.117)
 」
キューブラー・ロスを肯定的に紹介していることからすると、これも当然か。
 
楽山の、「死後の世界を信じている」、という言い方は、超常世界のお伽噺を信じ込んでいる、ということになります。楽山が、今までの、霊が分かるっぽい発言から、そのレベルで空想するだけであり、生きている今を、人生を、まるで考えていないことが明らかになっています。
 
そういう、気持ちの悪い楽山妄想をもって、小説家を巻き込み、利用し、悪用しているだけなのです。楽山は、そういう有名人の前で言える何ものも持ってはいません。つまり、死者を利用する、いわば、死の商人的な性根であり、それが、楽山の読書なのです。
 
*死ぬ瞬間
椎名麟三は洗礼を受けた後、これで死に際にジタバタしてもよいと思えるようになったと言っていたそうで、著者はその理由を以下のように想像、説明している。
心の奥の死の恐怖や人間の弱さ、そういうものを神様はよくご存じですから、今更、人間に見栄をはる必要もないという安心感がある、
(同上、p.129)
 」
立派な死に方をできず、無様な姿を晒すことになり、世間の人たちから笑われようとも、神様はすべてご存知だ、それで十分だという気持ちは無宗教の自分にも分かる。
 
遠藤周作氏の、信仰告白なのでしょう。楽山は、自分を飾るために悪用しています。嘘吐き楽山が、机上で、良さそうなことを言って通る時期は過ぎ去ったのに、真実の怖さを未だ知ろうともしない悪魔性の病質が表れています。
 
生きて醜態だけを晒している楽山が言うと、これからも、人のことなど考えず、反省もせず、無責任に好きなことをやっていくぞ・・という悪意表明になってゆきます。楽山は、無宗教ではなく、反宗教、反キリストの、霊が分かるっぽいという個人カルト妄想患者です。
 
神さまは、楽山の、すべてを見ておられ、すべてをご存知です。「自分にも分かる」・・楽山は、「死の恐怖や人間の弱さ」も、何も分かっていません。分かっていたら、震え上がるようなことをしてきたからです。
 
*祈れない人
国木田独歩は死に際に、牧師から祈ることをすすめられたものの、「祈れません」といって涙をこぼしたという。これについて著者は、祈れなくともよい、祈れないのも祈りであると書いている。
祈れません、と言っても、それが既に祈りになっているのだから一向に構わぬ、と私は思うのです。
「苦しくて祈れません」
「不安で祈れません」
「もう絶望して祈れません」
「神様がいないような気がしてきましたので祈れません」
「こんな目にあわせる神様、とても祈れません」
というような祈れませんであっても、それは神との対話ですから既に祈りです。たとえ祈れなくても神がそれを大きく包んでくれるというような感じがします。
(同上、pp.133-134)
 」
不覚ながら、こういうことは考えたことがなかった。でも言われてみればたしかにその通りだ。
こういう気付きがあるから読書は楽しい。
 
不信仰の祈りは、祈りです。神に向かっているからであり、正直だからです。しかし、楽山は、正直さを微塵も持っていません。同じ言葉が通用するわけはないのです。神は、既に、本性を見抜いておられるからです。だから、楽山の「たしかにその通りだ」・・吐き気がします。
 
*裁くなかれ
これは頭では分かっていても実践するのは難しい。
いいこと、悪いことの判定は神がするのです。だから聖書にも「裁くなかれ」という言葉があります。神だけが判定できるのです。
(同上、p.160)
 」
正しい判定は神様にしかできないと分かってはいても、自分はこう思う、こう考えるという判断をしないではいられないのだからどうしようもない。これもいわゆる業というやつだろうか。
ふと思ったけど、「裁くなかれ」と「無分別智」とは関連があるのだろうか。  
 
裁くなかれという教えは、善悪や正邪の判断をするなということではありません。最終的な裁きをするのは、神のみだということです。自分についての判断を、全くしてこなかった楽山は、裁かれる日を待っている身分でしょう。だから、裁くなかれという教えを、また、悪用するのです。
 
「いわゆる業というやつだろうか」・・楽山の場合、人間共通の不可避は、当てはまりません。とびきりのペテン師であり、今も、嘘を吐き続けているからです。信仰には、善や正義ではなく、祈りにおける正直さだけが必要です。それは、楽山には、欠片もないものです。
 
*地獄に堕ちる人
以前、自分がはまってしまった、とある新興宗教では、現代は全体の半分以上の人が地獄に堕ちているとしていたが、著者はそれとは大分ちがうことを言っている。
地獄というものはないかと言われれば、ないとは私も言えませんが、しかしまあ一万人中、一人が地獄に落ちるかどうかだろう、というぐらいに考えます。
(同上、p.162)
 」
著者が言うには、「自分のしたことに一度も恥ずかしいと思ったりしないで生きてきた人間が仮にいたとしたら、そういう人間こそ、一万人中で一人だけ地獄に落ちる人間だろう」とのことであるが、ニュアンスとしてはそんな人は実際にはいなかろうという雰囲気がなくもない。
「人を裁くな」というのはこういうことを言うのであろうか。自分もできれば、こういう考え方を自然にできるようにしたいものである。
 
「一万人中、一人が地獄に落ちる」には、全く根拠がありません。想像に過ぎないでしょう。
「自分のしたことに一度も恥ずかしいと思ったりしないで生きてきた人間」・・今、書いている楽山が当てはまります。恥を恥とも思わないで、嘘を吐き続けています。
 
恥をかくことと、恥ずかしいと感じる羞恥心は、違います。楽山には、前者はたくさんあるのでしょう。そこから、何らかの怨念が訂正不能になっていると思われます。しかし、後者は、全く認められません。いわゆる、恥知らずの楽山です。
 
*神を否定する信仰
神を憎むことは、無関心よりずっと良いという話は聞いたことはあるが、宗教はそこから始まるという考え方は、このくだりを読んではじめて知った。
子供が白血病になり、一所懸命に神様にお祈りしたけれども、子供は死んでしまった、神なぞ何だ、と神を憎む、神も仏もあるものか、というところから宗教は始まるのではないでしょうか。
神を憎むことも、神の存在をはじめから無視している無宗教や無関心ではなく、憎むということで神を強く意識していることです。神があろうがなかろうがどうでもいいという無関心より、神を憎むことのほうがはるかに宗教的でしょう。
(同上、pp.167-168)
 」
この発想は、「祈れません」というのも既に祈りであるというのと、どこか共通するものがあるように思える。読んでいて、涙がこぼれる心持ちになるのも共通している。
どうやら、この辺りには涙腺のツボがあるらしい。
 
「神も仏もあるものか」は、信仰の出発点というより、信仰者として生きるあいだに、幾度も頭をよぎってくることです。そのたびに、信仰者は、絶対孤独を感じ、そこからの解放であった信仰を思い出すのでしょう。結局、他に寄る辺のない者、それが信仰者です。
 
悪事だけに専念する楽山には、寄る辺も拠り所もありません。「涙がこぼれる心持ち」「涙腺のツボ」・・楽山の大嘘です。大根役者の三文芝居です。いずれも、この2年半によって分かったことです。楽山は、神を憎み、それ以上に、神を笑う者となりました。
 
*耳に痛い言葉
これは自分には耳に痛い言葉である。
三浦朱門君とヴァチカンで法王さまに会った時、法王さまは、
「どうか日本の仏教の人たちや、その他の宗教の人たちと、絶えず対話をつづけてください。対立ではなく、話し合いを、いつも仲良く話し合いをしてください」
と言われました。それが法王の私に対する最初の言葉だったのです。かつてのように、他の宗教を異端として拒絶することのないように、ということです。
(同上、pp.172-173)
 」
恥ずかしいことであるが、自分には対立者に向かって言わずもがなのことをズケズケ言ってしまう悪癖がある。「これだけははっきり言っておかねば…」と思って発言し、すぐあとで「あーっ、また言わずもがなのことを言っちまった」と気づくパターンである。反省。
意見の異なる相手とは、対立ではなく、仲良く穏やかな話し合いをするよう努力したい。
 
楽山の言うことは、すべて、自己正当化の詭弁でした。そして、反省をしたことがありません。反省したことが、その後の文章に、全く表れていないからです。つまり、トホホ言語の嘘の「反省」なのです。楽山の「仲良く穏やかな話し合い」は、ボンヤリ言語の婉曲でごまかすことです。
 
楽山は、正直に「ズケズケ言ってしまう」ことなど、一度もありません。言うときには、必ず、誘導の作為と、詭弁の悪意があります。この記事もです。どうか、真に受けないでください。
 
同じような詭弁が今も通用すると思っているのは、楽山の知情意の鈍麻症状です。
 
*引き寄せられる感覚
本書はいったんは読む必要なしと判断したのだったが、その後もずっと気になって仕方がないので、再び手にとってみたところ、とても勉強になり読んでよかったと思えた本である。
あまり迷信的なことは言いたくないのだが、こういう経験をしてみると、
 
息をするように嘘を吐く楽山です。楽山の読書は、自分に都合のよい文言を漁る作業に過ぎません。ですから当然「勉強になり読んでよかった」・・嘘です。
 
やはり「何となく…」という感覚は大事にした方がよいようだ。世の中には、必要とするものに引き寄せられる法則なるものがあるのかもしれん(笑)。
 
これが、子供のときからの、霊が分かるっぽい症状です。実際は、理路も、情緒も、信仰も、何も感じることも考えることもしない人です。「何となく」、ボンヤリと、人を、だましてきます。そして、分が悪くなると、トホホと、安っぽいお涙ちょうだいの泣き芝居をするのです。
 
人間離れして、人間に戻る気もないようですが、楽山の一生が終わるときには、もはや、形も、精神も、人間ではないと、はっきり分かるようになるかもしれません。人間の良心を、全く持っているとは思えない自己愛性パーソナリティ障害NPD、それが、楽山なのです。
 
私は、その前に、御許へ行くのでしょうけれど
 
楽山が挨拶してきたら、すぐ削除して、関わらないようにしてください。
 
 
嘘に酔う者

嘘に酔う者
 
 
(2021年08月20日)
 
 
 
  よるの森
 
よもすがら きょうも
ひとり じれてましたね
びょうきでしたね
くるってましたね
 
ひねもす いつも
おあいその えみ や
うすっぺらな おもてで
なみうつ わらい
ほしければ
てにいれる すべは
いくらでも あったでしょうに
 
もっと ほんとうを もとめて
この ウソの 森を
えらんだばかりに
よもすがら きょうも
たれも みむきもしない
ちいさく せまい まどから
ぬけだして もりを さまようのです
 
クモのす に かおを ひっかけ
つまずいて ころんで
すりきず きりきず あざだらけ
よる と あめかぜ に
こかげで ふるえ
 
やっと みつけた
ちいさな ひかりの かけらなど
たれも みむきもしない
 
ずぶぬれの よごれた かおで
よもすがら あかつきに ひもすがら
おえつするがいいのです
わたしは みずから えらんだと
 
(二千年代か)
 
 
 
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