不都合3
  
    (加筆修正再録です)
 
 
一応、キリスト信仰の立場から書いてゆきます。不都合は、災難、悲劇と言ってもよいでしょう。
 
生きておれば、必ず、自分にとって不都合なことに出会います。それ自体を避けることはできません。その不都合を無視したり、敵視するなら、思いこみの自己正当化をする人にしかなれないでしょう。
 
 
不都合に出くわしたとき、いつも怒りと憎しみだけを生じるのはサイコパスの特徴です。不都合をいつも誰かのせいにする心性なら、他者への恨みと憎しみに生きる人生になるのでしょう。サイコパスには、悲しむ心、罪悪感、反省し学習し自らを修正する心、などが欠けています。
 
そういう欠けた人格を持つ人は、実に、いろいろなところにいると思います。
特に、ネットでは、それなりの知能と策略をもって存在しているようです。
 
 
不都合に出くわしたとき
しんみりと悲しめる人は幸いだと思います。
とても大切な人間性を与えられている証拠です。
 
悲しみは、悲しむだけでなく、
涙や、うつ状態だけでなく、
不都合を自分の反省の機会にして
学習と成長の機会とすることが出来るからです。
 
もちろん不都合が全て自分のせいというわけではありません。
 
恨みや憎しみを持つこともあるでしょうし、
むしろそういう陰性の感情についても
自覚しているほうがいいと思います。
 
他人は、ときに、勝手な見なしを相手に当てはめている場合があります。その見なしから、物を言うことがあります。あんたが、オレの、何を知っているというのか・・と言いたくなるような場合があります。
 
その時、恨みに生きるよりも、そのような時にも、自分を失わず、他者に引きずられることもなく、自らを成長させて、対処する力を身につける機会を経て、身勝手ではなく、忍耐強くなることが出来るでしょう。それは、より深い人間性の理解でもあります。
 
 
もちろん、しょっちゅう、悲しんで、しょっちゅう、成長しましょう
などと言うのは、言うだけで、既に、かなり疲れます。
 
決して招いていない悲しみですが、悲しみを克服したときには本当の喜びがあります。それを幸福と呼んでもいいと思っています。しかも、それによって、悲しみをもたらす不都合に対して、悲しみが訪れる前よりも、耐性が出来ているのです。
 
 
人間は不完全な存在ですから、遅かれ早かれ、大なり小なり、悲しみをもたらす不都合は、必ず訪れます。人間としての正常な感受性があれば、必ず訪れます。不可避な、不都合がもたらす悲しみは、人間の成長の機会です。
 
悲しみに沈むことは、あるいは、涙を流すことかもしれません。
涙が出るということは、発散および治癒過程ですから、むしろ幸いなことです。
 
 
涙が出ないような、呆然とするだけの悲しみは、長びけば命の危険があり、下手に働きかけるよりも、専門家に相談するほうがよいと思います。その場合は、薬物や入院治療などが必要になる場合もあるでしょう。
 
 
悲しみは成長し強くなるのに便利だから利用しましょうとか、もっと悲しみましょうということではありません。悲しみが訪れることを総て避けることはできないが、訪れた悲しみを経て成長してゆくのが人間です。
 
そのためにも、カルトが宣伝するような、悲しみなど無いかのような異常気分を求めるのではなく、しんみりと悲しい気持ちによって、ときに涙とともに、内省し反省し、祈り願うことは、欲望よりも野心よりも、後悔よりも、深い広がりをもって、人生を眺めることが出来る人を育てるでしょう。
 
何故なら、そこにあるのは悲しみの克服であり、浮かれた上気ではなく、一時的な陶酔でもなく、安易な辻褄合わせでもなく、敵意や恨みでもなく、欲望や野心の成就でもなく、立ち直りへの希望と努力に裏打ちされた肯定感であり、学習と成長に導く心の強さだからです。
 
 
 (マタイによる福音書、口語訳)
5:3
「こころの貧しい人たちは、さいわいである、
天国は彼らのものである。
5:4
悲しんでいる人たちは、さいわいである、
彼らは慰められるであろう。
5:5
柔和な人たちは、さいわいである、
彼らは地を受けつぐであろう。
 (マタイ5:3-5、新約聖書)
 
 
信仰者として言えることとしては、この教えの、悲しみの「さいわい」は、慰められるだろうという慰めだけではありません。それだけなら、誰でも言えるような、世辞の激励みたいになってしまいます。
 
悲しみという感情は、喜びよりも、はるかに正直であり、何よりも、この感情には、嘘や飾りがなく、それゆえに、悲しみは、赦し、癒し、慰め、導き、という信仰の賜物を受け入れやすい器を、人の心の中に造るということです。
 
怒りに刺激される憎しみは、人の心を、自己中心に、復讐に、秩序のない欲望に、誘います。
 
祈りと共に過ごす悲しみは、人の心を、静穏に、反省に、熟慮に、修復に、節操に、導きます。
 
聖書の教えは、一貫性をもって、つながっています。聖句の、心の貧しさ、悲しみ、慰め、柔和、受け継ぐ心、そして人生の最後へと、さらにつながるでしょう。
 
私は、分かっているわけではありません。
その時々に考えればよい、ということを知っているだけです。
 
帰るところがある、今は、そう受け取っています。
 
 
いつか帰るところ

いつか帰るところ
 
 
(2019年10月09日)
(2020年10月16日、一部加筆して再録)
(2021年10月21日、再録+)
 
 
 
  退行昇天
 
狭く冷たく暗く長い
トンネルを抜けると
笑っているんだ
わけもなく笑っているんだ
もはや快も不快もなく
食う心配も寝る心配もなく
装うことも着ることもなく
それこそ素っぽんぽんで
機嫌のよい赤ん坊ほどの
痛覚さえなくなって
笑い続けるんだ
一日中いや永久(とわ)に永久に
笑い続けるんだろうけど
そういう天国なんて
恐らく永遠の鉄格子の中にあると思う
 
 
  悪魔の臨終
 
軽い手帳はめくられた
涙のように
パラパラと
安い花は乾いて散った
時計を手にした信仰が
秒針のように優しくうなずいて
病者を見つめ
死者を送るとき
哀れみという哀れみが
牢獄のように彼を囲んだとき
そこにいる誰もが知らないところで
とてつもなく激しい嘔吐が起こり
病者は墓穴を求め
はじけた煙のように消え失せた
 
かわりに年老いた天使が目覚めて言う
「あなたがたが安い施しをしたので
あなたがたが天国を約束されているなら
地獄へ落ちたいと彼は望んだ」
 
 
 
  永遠の友
   (人間のための信仰)
 
人格は
人格を超えるものを
理解できない
 
人間の心を動かせるのは
あくまで人間が受け取れるものであって
人間を超えるものではない
 
イエスをキリストと呼び
主イエスと仰ぐくらいだから
キリスト者(クリスチャン)にとって
イエスは救い主であり
飼い主なのだが
永遠の友という呼び方もあり
永遠の同伴者でもあり
信仰が結婚に譬(たと)えられるのに似て
男であれ女であれ
キリスト者が
惚れたと言ってもよいくらい
イエスに縁付いてしまうのは
イエスとキリスト者を
結び付けているものが
契約という教理以上に
あくまでも人間的な
断ちがたい絆(きずな)であり
キリスト者は文字通り
イエスに絆(ほだ)された者だからである
 
 
 
 楽山のツイッターですが
 
心機一転★こも楽山
@komo266
こんな事を言う信者は初めて見た。
これをやられたら、非常識な信者をさらして「これがHSの典型的な信者ですよ。HSはこういう非常識な団体ですよー」と吹聴できなくなるというのはその通り。
非常識な信者がいても、それを注意する信者が大勢いれば、それは典型でなく一部例外にすぎないとなるので。
午後8:00 · 2021年10月18日
 
楽山は非常識な変質~偏執者ですよ・・ということを、私は書いてきました。非常識な楽山がいても、それを注意する常識人が大勢いないようなので、私が批判しています。楽山が他者に向かって発した言葉は、楽山に返ってゆきます。楽山のように自分の悪を自覚できない者は、こうなるのです。
 
楽山は、今までの、嘘と詭弁などのペテンの実績によって、誰かに何かを言う資格などありません。それくらいの病的疲労の災いをもたらす無反省と無責任の男です。楽山が何か言ってきたら、何言ってるの?、バカなの?、資格ないでしょ・・とでも言って終わりにしたほうがよいと思います。
 
楽山の意見を少しでも受け取って、議論でもするつもりになってしまうと、恐ろしい地獄が待っています。見苦しい言い逃れには、一部の事実をもって、全体を否定するなどといった詭弁が含まれます。あとは、嘘、悪口、当てつけ、不都合の無視・・などを繰り返すだけの男です。
 
私が今まで生きてきた中で、楽山ほど、卑怯で、的を外して、嘘を吐いて、結局、何の役にも立たない雑言を発信するだけで、人を言ったことなど完全に無視していられる厚顔無恥の卑怯者はいませんでしたから、楽山に出会って対話などを試みることは、いちばん不幸せです。
 
 
心機一転★こも楽山
@komo266
コウさんの視野、情報網は、こちらが想像してたよりずっと広いようだ。その通り、いくら注意していても話は漏れますよ。
だから、サラディンさんの提案はあまり効果は見込めない。むしろHSは隠蔽体質、秘密主義だという批判を呼び込んでしまうことになるだろうと思います。
午後8:12 · 2021年10月18日
 
楽山は、いつも丁寧語で、良さそうに見せながら、真実について、曖昧であることをもって、責任逃れをしてきました。無責任と無視と無反省は、正常な成長を妨げ、変質させてゆきます。そうして、楽山は自己愛性人格障害の害悪を、何か言うたびに表すようになってきました。
 
楽山は、宗教や思想や信仰など、真実について、平板な先入観や偏見を乱雑に並べるだけで、何も糧になるようなことが言えません。上から目線だけで、茶々を入れたり、嘘と詭弁でごまかしたり、いつも、評論家気取りで物を言い、責任を負うことだけはしません。とても卑怯で醜い人です。
 
楽山という自己愛性パーソナリティ障害NPDは、体質的なものですから、恐らく一生治らないのでしょう。バレてしまえば、あっちに行け・・と言われるだけの男です。"スルーする" などと言って、山と積まれた自身の問題点を、けろっと無視して、何事もなかったかのように、まともを装います。
 
肉体を破壊したり、金銭を奪ったりする犯罪者もいますけれど、一応、警察がいます。楽山は、精神と人格を破壊するエナジーバンパイアです。楽山に出会うこと、楽山と関わること、これこそが、人間世界における最大の、不都合、災難、悲劇・・だと思っています。
 
 
 
楽山日記のこれは、誰のコメントなのでしょう。
コメント欄
 
 
間違ったら 誤ったら 素直に詫びて
自分 正さなくちゃいけない
 
それが出来て 初めて人間だと
それ出来ないなら 人ではないと
 
・・・
 
嘘ばかり 重ねる君よ
保身だけの 卑怯者の君よ
そんな君は 魅力の欠片もないのに
 
・・・
 
失敗した君は 大きな過ちを犯した君は
最大限の償いと 最大限の反省と共に
開いた出店を 畳むしかないんだよ
 
人間で在り続けるのなら
人で在り続けるのなら
 
 」
 
楽山は「人間で在り続ける」ことを、拒み続けています。
 
このコメントは、毎回載せようかと思っています。
 
 
 
 
私の「ウソの国ー詩と宗教」ブログ:
 
(古い記事は載っていません)
 
http://st5402jp.livedoor.blog/
(古い記事もインポート済み)
 
(ここは、たまにブログ記事をリンク、最近コピペ)
 
 
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