ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

タグ:永遠不変

 
  老化・・聖書抜粋2
 
   旧約聖書は、神と人の違いと関係を表しています。
   分かりやすくて情感に溢れる聖句を引用しておきます。
 
   誰かのために祈るとき、母のために祈るときでさえ、
   まるで遺言のように祈っていることがあります。
   
   人は、神の性質であるところの全知全能・絶対完全・永遠不変が
   成り立たない被造物です。
   限りある存在として、人は、悲しみのうちに救いを求めます。
 
詩篇22:1
わが神、わが神、
なにゆえわたしを捨てられるのですか。
なにゆえ遠く離れてわたしを助けず、
わたしの嘆きの言葉を聞かれないのですか。
 
詩篇31:5より
わたしは、わが魂をみ手にゆだねます。
 
詩篇39:4-6より
主よ、わが終わりと、
わが日の数のどれほどであるかをわたしに知らせ、
わが命のいかにはかないかを知らせてください。
見よ、あなたはわたしの日をつかのまとされました。
わたしの一生はあなたの前では無にひとしいのです。
まことに、すべての人はその盛んな時でも
息にすぎません。
まことに人は影のように、さまよいます。
まことに彼らはむなしい事のために
騒ぎまわるのです。
彼は積みたくわえるけれども、
だれがそれを収めるかを知りません。
 
詩篇49:7
まことに人はだれも自分をあがなうことはできない。
そのいのちの価(あたい)を神に払うことはできない。
同10-11
まことに賢い人も死に、
愚かな者も、獣(けもの)のような者も、ひとしく滅んで、
その富を他人に残すことは人の見るところである。
たとい彼らはその地を自分の名をもって呼んでも、
墓こそ彼らのとこしえのすまい、
世々彼らのすみかである。
 
箴言30:8-9より
貧しくもなく、また富みもせず、
ただなくてはならぬ食物でわたしを養ってください。
飽き足りて、あなたを知らないといい、
「主とはだれか」と言うことのないため、
また貧しくて盗みをし、
わたしの神の名を汚すことのないためです。
 
伝道の書7:14-17
順境の日には楽しめ。逆境の日には考えよ。神は人に将来どういう事があるかを、知らせないために、彼とこれとを等しく造られたのである。
わたしはこのむなしい人生において、もろもろの事を見た。そこには義人がその義によって滅びることがあり、悪人がその悪によって長生きすることがある。あなたは義に過ぎてはならない。また賢きに過ぎてはならない。
あなたはどうして自分を滅ぼしてよかろうか。悪に過ぎてはならない。また愚かであってはならない。あなたはどうして、自分の時のこないのに、死んでよかろうか。
 
イザヤ書46:4
わたしはあなたがたの年老いるまで変わらず、
白髪となるまで、あなたがたを持ち運ぶ。
わたしは造ったゆえ、必ず負い、
持ち運び、かつ救う。
 
詩篇56:8より
あなたはわたしのさすらいを数えられました。
わたしの涙をあなたの皮袋(かわぶくろ)にたくわえてください。
 
詩篇119:123
わが目はあなたの救いと、
あなたの正しい約束とを待ち望んで衰えます。
 
 
 
テレビとPCの画面はHD画質できれいなはずだけど、視力が衰えてきたので、だんだん違いが分からなくなっている。テレビだけでなく、時々視界の一部がちらついたり揺れたりするように感じることがある。まだ生きているという幸いは何なのだろう。
 
視野の歪みや欠損を脳が補って、一見まともに見えるように脳が作った映像を見ている。それが今の視界に他ならないのだから、他のもっと良質な世界を見ることはなく衰えて見えているであろう視界が総てになります。その世界で考えて、できることをして、生きて、・・わりと、のんき・・。
 
 
詩篇と老境

詩篇と老境
 
 
(2014年09月05日)
(2021年11月20日、再録+)
 
以上の旧約聖書の聖句は私のお気に入りなので、新約聖書の聖句もたくさんあるけれど、これからも再録するかもしれません。
 
 
 
 
  届かない老境
 
ひたひたと波
寄せては返す
老いの湖
浮かべるものはなく
自ら浮かぶ
注ぐものはなく
自ら湧き出づる
老いの泉
もはや何も持たぬゆえ
あげるものは
この姿だけ
写し取っておきなされと
老いの都
買うものも売るものもなく
あらゆる代価は水の泡にも値せず
家もなく道もなく
ここが家ここが道
よそよそしくも安らいで
眠りの中に起きている
その語らいは
よほど深い皺(しわ)を
河にでもしなければ
たどり着けない
老いの里
 
 
  無人の駅
 
迎えるためか
見送るためか
無人の駅のホームで
一人の老人が待っていた
 
ここは廃線が決まっていた
すでに汽車が通る予定はなかった
人にそう言われても
「だから行かなければ」と
老人は毎日
一人で立って待っていた
 
廃線が決まってからまもなくだった
砂利が敷き詰められた
もう線路はなかった
人にそう言われても
「だから見つけなければ」と
しゃがみ込んで老人は
まだ待っていた
 
かつて駅だった空き地
子供たちが遊んでいる
老人の姿はない
隣接した国道にバス停
バスが着いた
「セイリケンヲオトリクダサイ・・・」
 
駅とは呼ばれない崩れた廃屋
ホームとは呼ばれない潰されたコンクリート
埃にまみれた瓦礫や板の中に
伝言板らしきものが落ちていた
「コクウ ニテ 」
読める字はそれだけだった
 
 
 
 
楽山日記へのコメント再録(1.が誰のコメントかは不明)
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら 誤ったら 素直に詫びて 自分 正さなくちゃいけない」
「それが出来て 初めて人間だと それ出来ないなら 人ではないと」
「嘘ばかり 重ねる君よ 保身だけの 卑怯者の君よ そんな君は 魅力の欠片もないのに」
「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと 最大限の反省と共に 開いた出店を 畳むしかないんだよ」
「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
注意しても聞く耳を持たない楽山は、反省も謝罪もしておらず、邪悪な性根の根深さが治りません。一般の「人間の性」などではなく、ゆえに、「自分もそんな風です」などという言い訳は成り立ちません。楽山固有の悪と罪と偽善です。これは、正常では考えられない病質の反応です。
 
楽山が記事を書き、その大方に、私が批判記事を書き、それらに、一切、反論も弁明も出来ないならば、正常なら、記事を控えるものです。楽山が無反省に記事を書いてくること自体が、楽山の、訂正不能の自己愛性人格障害を証明しています。楽山の、もはや不可逆の病質的欠陥なのです。
 
 
 
 
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  神と信仰メモ
 
  PCの調子が悪いので、今回は、短い記事~メモです。
 
 
なぜ、神の存在を信じる人がいるのでしょう。
 
この地上には、どうあがいても、自分の思い通りにならない悲惨なことがあるからです。しかも、いつどこで、生まれても生きても同じだろう、と思うに至った者がいる、あるいは、いたからだろうと思います。
 
そうして、今は、どうしようもない地上の汚れのうちにいる人の目には、隠れて見えないが、悲劇の背後には、総てを統べる摂理の存在が、完全なる真・善・美を携えて、同伴して見ておられ、無視してはおられないが、その御方には、われわれとは別の、我々が今考えても分からないような、計画があるのだろうと思うに至ったのでしょう。
 
信じる人は、決して、いちゃもんのような、自分勝手な欲望に都合よく当てはめて決めつけたのではなく、生きるために悩み苦しんだ結果として、絶対者を必要とし、望んだのだろうと思います。その凄みが、神という存在を、今に伝えているのでしょう。
 
そこから、人を理解しながら、人を超えている存在として、全知全能・絶対完全・永遠不変の存在を、固有の「神」という名で呼ぶようになったのではないかと思われます。即ち、神は、その名で、人が呼んだとき既に、人に解明できたり、存在や不在を証明できるような、安い存在ではなかったということです。
 
その存在を知ることは、不思議が起こらなければ直ぐ離れてもいいような、物や肉体の奇跡ゆえではなく、人間の心の深みに残るだけの、人間にとって、いちばん大切な、共感の同伴というあり方をもって、人の心に消えようもなく残ったゆえに、人々は、信仰の救いと呼ぶようになったのでしょう。
 
これだけ知っておれば、神という存在を、人間が自らの限られた有限の存在世界から、自らの持ち合わせた人間の安易な理屈だけで、限られた人生で見聞きした知識の範囲だけで、それこそ超常のホラーとの闘いのようなフィクションの物語におとしめて、机上の辻褄合わせだけで、神?は良いとか悪いとか、いるとかいないとか、決めつけることが、いかに、的外れであるかが分かるでしょう。
 
信仰は、善悪を判断する道徳ではありません。美醜を判断する美学でもありません。正邪を判断する正義の軸でもありません。全能者が、全能者のあり方で、神の前に正直な人を救うために、人を愛するために、存在することを告げているのです。
 
真善美が一体となる完全なる神が、寛容と慈愛と共感をこめて求めるのは、人間には届かない真善美の完全ではなく、完全なる神の義でもなく、ただ、神の前で、精いっぱい正直な祈りの告白だけで、不完全な人が、良しとされて生きるための信仰の義であります。
 
 
恵み

めぐみ
 
 
※ 
 
宗教にも無宗教にも非宗教にも反宗教にも、実に、嘘の、詭弁の、誘導の、印象操作の、鼻の曲がりそうなインチキの安い屁理屈で、神に、いちゃもんをつけて、人間の良心から神の存在に気づく直感の道を妨害しようとしている者がいます。
 
彼らは、神という存在を、そして、信仰を、安っぽい理屈で、揶揄したり、おとしめたり、侮辱したりしますが、彼ら自身には、何を解決する力量も、誰を救う力量もないのです。文句だけが執拗な彼らこそ、この地上のホラーであります。
 
 
信仰者は、超常からのお告げかどうかを知らされることはなく、信仰者が安穏に暮らせるとは限らないこの地上で、人間として正直に反省し成長する意志をもって努めることで、いかなる妨害にも屈しない時間だけ、命があれば、何かすることはあるでしょう。
 
 
(2021年01月18日、同日一部修正)
 
 
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