楽山の暴虐
 
 『SNS暴力 なぜ人は匿名の刃をふるうのか』毎日新聞取材班著
 2021年03月07日 楽山日記(LD)
 
 
自業自得の楽山の、居直りの暴虐と謀略です。自らの悪意による嘘と詭弁そして罪と偽善を、全く気にすることなく、正義の味方を気取って書いてくる病質者楽山の、今日も、排泄物が醜いです。
 
ツイッターで本書が紹介されているのをみて読んでみたのだが、どうも本書は前半と後半とでは若干論調が異なっているようだ。
まず前半では、SNS上の誹謗中傷を問題視し、木村花さん、スマイリーキクチさんら被害者の苦悩の深さを訴えるとともに、加害者の動機を探っている。
 
婉曲的な書き方を得意とし、遠回しの屁理屈で誹謗中傷以上の徒労と疲労を与えている者もいます。誰かといえば、楽山その人であります。被害者の名前をも悪用して、自分の病質を守ろうとする暴挙であります。
 
まともに見せかけた丁寧語で、言ってくるのは、自尊過大からの、無反省、無責任、無理解、無神経、という、訂正不能の偏った理屈で、概念遊びを、超常心霊趣味から言ってくるだけなのです。誰の生きるヒントにも参考資料にもならないと思います。
 
加害者は、よく言われているように、自らの境遇に不平不満を持つ者が八つ当たりしていたり、
 
楽山が、その人だろうと思います。恐らく、長きにわたって、頼りにされたことはないと思います。言っていることが、バラバラで、しかも、責任を負う気がないのですから、楽山を頼りにすること、即ち、被害者になることと言ってよいくらいの迷惑な人物です。
 
約2年にわたって批判されても、まだ書いてくるのが、楽山の病巣である我執なのです。
 
一方的な正義感で悪者を懲らしめているつもりになっていることが多いらしいが、なんらの落ち度もなしに、ちょっとしたことがきっかけで標的にされた被害者からしたらたまったものではないだろう。
 
楽山は、霊が分かるっぽい自覚から、神と超常を、屁理屈で語って惑わせるだけです。それが、楽山の生き甲斐なのだろうと思います。
 
楽山の正義感は自己肥大の妄想であります。また、ちょっとしたことで批判しているのでもありません。真実・信仰・生き方についてという重要なテーマで、思考停止のデマばかり、好き勝手に、言ってきたのが楽山です。
  
しかし、宗教・思想についての評論家気取りだけで、よく読めば、理路も説得力もないことが分かってきます。非常に迷惑なので、放置することは出来ず、批判を続けるしかありません。
 
一方、後半になるとSNSの誹謗中傷対策の必要性は認めつつ、SNSには誹謗中傷問題というマイナス面はあるにしても、公権力批判として一定の影響力を持ち得るというプラス面もあり、規制によってこのような役割までも棄損してはならないとし、「政府や権力機関による規制は、必要最低限にとどめ、これからもネットはできるだけ自由な空間であるべきだ」(p.226)と結論付けている。
 
法的措置が及ばないような言論の世界ですが、楽山のような、一見、まともに見える暴虐者もいますから、正当な議論と誹謗中傷は区別しにくいということがあります。
 
楽山は、丁寧語を使うので、強制措置が可能になっても、自分は捕まらないという自信があるのでしょうか、強制力による言論規制を許容しているようです。
 
楽山はいちばん最初に捕まえてほしい人ですが、上の、一見して区別しにくいという観点から、私は、強制力の発動には反対です。
 
区別しにくい楽山のような暴虐の者は、実際の肉体的暴力や暴言がなくても、精神的に害毒と言っていいほどの疲労を与えます。
 
ゆえに、言論の自由に基づいて、楽山を強制的に排除できないならば、言論の自由に基づいて、厳しく批判を貼り付けてゆくしかないのであります。
 
これは著者らの立場からすれば当然の主張なのだろうけれども、前半の流れからすればどうも政治的に過ぎて違和感のある結論である。
 
政治的に過ぎて・・ではなく、楽山の偽善的筆致などは、区別しにくいということです。楽山は、自己顕示欲によって権威が好きなのでしょうか。それで、楽山は、政治的強制力を求めているのでしょうか。
 
楽山こそ、分析すれば、救いがたい疲労物質であることが分かりますから、仮に、神のような正しい権威があれば、いつまでも、どこまでも、強制排除され、言論に対する邪魔を禁止されて不思議はない人だと思います。
 
>正当な批判と誹謗中傷との境目は明確ではないので、
 
一定期間、時系列に中身を分析すれば、楽山の言は、根拠もなく、成長もなく、執拗なだけで、改善も期待できない訂正不能であることが分かります。
 
正当な批判を認めることは誹謗中傷をも認めることにつながり、誹謗中傷を禁ずることは正当な批判をも禁じることにつながるという難しさがあるので、
 
自分が批判されているものだから、禁じろ!、禁じろ!、と言いたいのを、受けをよくするために、丁寧語で言い換えている狡猾な楽山です。
 
問題は、そういう荒っぽい意見に、根拠があるかどうかであり、荒っぽい書き方自体は、言ってみれば、楽山が、それだけ、相手を怒らせているということでもあるでしょう。まさに、そこが、楽山の無反省・無責任が招いた楽山自身の、病質、病魔、疫病の結果なのです。
 
これは、いかに、楽山が、言論を舐めているかが分かる発言です。ポイントは、根拠が示され説明されているかどうか、責任をもって書いているかどうかであります。責任、根拠、いずれも、楽山がいっさい負わず、無視していることです。
 
楽山は、言論を舐めていて、今の勝手な言い分で書くことが、正しいと思っているのでしょう。この楽山の記事で、楽山によって完全に無視されているのは、今まで、楽山に対する夥しい批判と反論を、楽山が、ことごとく無視してきたということです。
 
いつまでも、この迷惑な詭弁屋である楽山に、好きなことを書かれて、だまされ、惑わされてはいけないと思います。反省・責任・訂正・共感・成長などという観点で、楽山の時系列を追うべきです。これらの一つも、楽山は、持っていないのです。
 
SNS規制には慎重であるべきだというのは了解できる。しかしそうはいっても前半に紹介されているような誹謗中傷による被害が多発、拡大しているのであれば、
 
被害者面・傍観者面して書いている楽山ですが、楽山は、他でもない加害者であります。楽山は、ボンヤリ言語・トホホ言語、という曖昧言葉と詭弁と、お情けちょうだい芝居で、ごまかしているだけです。そのことも、言い知れぬ疲労を与え、言論の展開を滞らせ、かつ、何の益もない害毒です。
 
政治的な主義主張のために個人の尊厳を犠牲にすることは看過できまいし、SNS規制が強まることに正面から反対するのには無理があるのではないだろうか。
 
「政治的な主義主張」がどうこうという話ではなく、楽山には、それ以前に常識的思慮がないということです。否定と賛同、マイナスとプラス、という相反することを書いて、断定していないから責任はないという主張をしていました。楽山には、主張の軸がありません。よさそうに見えることを、時々のほしいままに、載せてくるだけなのです。
 
こういう楽山の主張は、ただ、楽山が、いい加減で、正当な言論から甚だしく逸脱して、無責任だということを、自ら表しているに過ぎません。しかも、反省もしないから進歩もないのです。
 
さらに、楽山は、「個人の尊厳を犠牲にすることは看過できまい」とか言っていますが、自身の自己愛性パーソナリティ障害という病質によって、いちばん、いつも言いたい放題に、好きなように言って、人の意見を無視してきたのは、楽山その人であります。
 
またしても、楽山は、自分の言が、結局、自分を斬るということに気づきもせず、「 SNS規制が強まることに正面から反対するのには無理がある」と言っています。ならば、まず、無反省で無責任な楽山の言を、何よりも規制~禁止してほしいところであります。
 
自分としては本書の前半には賛同するが、後半は政治色が強くて前半ほどは賛同できなかったというのが正直な感想ではある。
 
政治色が強いわけではありません。公共を考えれば言論の規制が難しいことは同意できます。楽山は、ここで、自分の好きなように言いたい、かつ、文句言われたくない、という自分の勝手な欲望を語っているに過ぎません。・・それと、楽山の正直さは、行方不明です。
 
丁寧語でごまかしても、無反省、無責任、そして人を無視する、という、いちばんの暴虐は、楽山がやっていることなのです。楽山は、言論の世界で、一途に加害者でしかありません。
 
自己愛性人格障害者というのは、人の意見を聞いて自分を改めるということが全然できない人です。思いやりや共感や反省と自省、という機能がないために、そういう意味を全く理解できないのです。人格障害者は、その障害を、自ら表して、本人は正当のつもりになる特徴があります。
 
私は、約2年半、楽山の書くものを読んできて、その間の、様々な楽山の言論を、精神衛生上の煩わしいだけの害毒と判断しています。しかも、ずっと、楽山は、自己正当化の言い逃ればかり言ってきて、改善する意志がありません。
 
前半も後半もなく、見てきた楽山の文章を全否定するしかないほど、作為と悪意で、ごまかし方だけを覚えてきた反宗教・反言論の楽山であります。楽山の動機は、我欲でしかないと思います。
 
楽山は、言論を、個別に成り立っているかのように細工していますが、全体としては、流れを知っている目で見れば、何の共感も感動も生み出すことはなく、一貫せず、真剣味も皆無であります。
 
楽山は、自己愛と自尊を満たすためだけに書いているのです。楽山の書くものに、言論の「げ」の字も成り立ったことはないと思います。楽山という人は、ある時、言ったことを、別の時には、平気で裏切るような、自慢と快楽追求だけを求める自己中の詭弁屋だと思います。
 
言論において、真面目に真実を求めている人にとって、楽山は、要注意、要警戒、そして、決して相手にしてはいけない相手です。多くはないが、いろんなところに、楽山のような、話にならない人というのがいると思います。
 
楽山のような病質者は、図々しく介入して、好きなように言い捨てて、その責任を負う気もなく、言葉と言論を舐めて、どうにでもできるという慢心から、不祥事を、すべて、人のせいにしてきます。
 
 
暴虐の果て

暴虐の果て
 
 
(2021年03月08日、同日一部修正)
 
 
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(ここは、ブログ記事をリンク・抜粋)
 
 
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