ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

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  楽山の子供だまし3
 
 宗教とアニメは同じもの?
 2020年07月25日 楽山日記(LD)
  を改めて批判。
 
 
楽山の悪意がむき出しになっています。宗教も、ゆえに信仰も、アニメとしてしか考えられない楽山です。これでは、楽山が、救われないのは当然ですし、この無知と無恥によって、楽山は、反宗教、反キリストとなっている証拠となり、有害であります。これが楽山の正体なのです。
 
自己愛性パーソナリティ障害NPD(自己愛性人格障害)の、無反省、無責任、自己中、自己顕示欲、羞恥心と罪悪感の欠如、客観性の欠如、固定観念、自己愛妄想、などは、いずれも、極めて人間関係において有害であります。その口が、宗教を、子供の遊びだと言っています。
 
 
前記事の後半においては、つい宗教とアニメを並べて書いてしまったのではあるが、改めて考えてみれば両者はすごく似たところがある。
とりあえず両者の共通点を挙げてみると、こうなる。
世界観…宗教も、アニメ(漫画)も、それぞれ独特の世界観を持っている。その世界観では、現実にはあり得ないことが実現可能とされることも多い。
 
世界観は、実際の世界を表すとは限らない、ということが、楽山には分からないのです。理想であったり、その反対であったり、希望であったり、というような世界を、真に受けるのが宗教と信仰だと思っている、そうでないと気の済まない楽山の、驚くような幼稚さです。
 
共通点と楽山は言っていますが、同じ思考で考えてよいことではありません。アニメは娯楽であります。宗教と信仰、さらに思想は、リアルをどう生きるかなのです。アニメレベルの楽山の知能には、アニメのように与えられているのだとしても、私たちは違うはずです。
 
楽山は、宗教そして信仰を、子供の遊びのような、嘘っぱちの作り事で、遊びに過ぎないと言っているのです。こういう人が、信仰を持たないのは、個人の自由ですが、何も理解もしてないのに、信仰を否定してくるのは、信仰者に対する下劣な侮辱であります。
 
そういう楽山は、ただ文句を言い、あざ笑うだけで、何も、信仰に代わるような、ハッとするような洞察や深い理解を持って人のためになることを、何一つ言えない人なのです。ここに、楽山という、ならず者の、悪臭を伴う害毒と犯罪性が表れています。
 
 
物語…どちらも独特の世界観を持つように、独特の物語も持っている。
 
独特の物語と独特の世界観を仮想して想像するのがアニメでしょう。宗教は違うという当たり前のことが、楽山には分からず、楽山には、宗教は嘘、と言うことと同値なのです。常識も何も弁えずに、空想レベルの世界観で人生を語りだすと、自己の空想から自己中心になる必然がここにあります。
 
物語の虚構性とか、作者が伝えたいテーマとかいったものを考える正常な知性と感性がないために起こるところの、未熟~退行であり、楽山が、いい年した大人だなんて、到底、思えません。その楽山が、背伸びして、本を読んだとばかり、嘘と詭弁を、ずっと垂れ流してきたのです。
 
楽山こそ、想像~空想の世界の物語と、現実の世界とを、分離できてないところの、"自他未分化" の特徴的なパーソナリティです。人に何かを教えるよりも、小学校に入ったら?・・という次元の話です。楽山は、道徳と節操が育っていないために、先ず、常識的な判断力がないのです。
 
 
人物…主人公(教祖)、援助者(神や天使)、脇役(弟子)、悪役(悪霊、悪魔)などが設定されている。
 
登場人物の類似によって、アニメや童話を、宗教や信仰と同じように扱えると思い込むのは、楽山の、救いがたいほど浅はかな虚構の妄想的曲解の人生観であります。アニメにも、教訓はあるでしょう。それも受け取っていない楽山には、人生を支える信仰など、何も分かってはいません。
 
こういう子供だましにもならないような思考に至ってしまうのは、無反省、訂正不能、そして、自信の超過剰、という自己愛性パーソナリティ障害(人格障害)NPDの特徴なのでしょう。これからも、増悪して、最後には、混乱して日常生活も困難な支離滅裂の人格破壊に至るだろうと思われます。
 
こういう楽山と、同根のような通過点として、偽牧師シャロームのような妄想信条と自己絶対の偽善者の、滅裂な豪語の世界があり、偽宗教の幻想世界があるのです。まるで、病気の進行のステージを見ているようです。この二人は同一人物という可能性があります。
 
 
目的…世界を救うだとか、正義を実現するというような目的がある。大雑把に言えば、願望充足ということ。
 
願望充足と、理想とは違います。楽山においては、終始、自己顕示欲の充足となっていることです。その語るところ、じっくり読めば読むほど、小学生にも満たないような、短絡した幼稚な話になっていることが、明らかになってきました。宗教を語るような発想は全く見られません。
 
世界を救うフィクションのアニメと、現実の人間を救う宗教と信仰を、同一視してしまう未熟性は、楽山本人が、霊が分かるっぽい自分を信じ込んだ時点にさかのぼるのでしょう。アニメには、暗示される道徳に似たものがあります。だから、小学生も、楽山も、夢中になるのです。
 
つまり、子供の時、既に、空想の世界があり、それを空想と認識できないために、何の根拠もなく、何の力もなく、おとぎ話を、宗教と、信仰と、思想と、大人になるまで、同一視して、のぼせ上がっている未熟者、楽山の、病の根の深さが表れてきただけなのです。
 
決して、楽山を、まともだと思わないように、決して、楽山に、関わらないように、決して、楽山に、近づかないようにしてください。一見、インテリに見せかけるペテンだけを身につけてきて、人間としての成長が見られない病者です。思考も情緒も異常です。
 
 
修復…設定(教義)のほころびを修復しようとするファン(神学者や信者)が存在する。
その他
 
アニメでは修復されることが多いですが、創作物だから自由にできるわけです。現実では修復されない病的な場合があります。まさに、その実例が、これを書いている楽山その人だと、楽山自らが証明しているのです。対応の設定が滅茶苦茶です。これで、よく公表できるものだと思います。
 
楽山は、現実の人生も、修復すればよいとでも思っているのでしょうか。それが、全然できていない今の自分を見ていないからでしょう。空想のルールに嵌って何も見えなくなっていることに気づかない、それが、楽山の実態です。話も理路も通じないし、共感もなく、のぼせ上がった独り有頂天なのです。
 
 
思うに、人は無目的、無意味には耐えられない生物だ。「一切は無意味である」というような考え方を受け入れることが出来るのは、ごく一部に限られる。
 
アニメなどの娯楽のためのフィクションには、リアルで違和感があるのが正常です。楽山は、自分の捏造した、霊が分かるっぽい自意識のために、リアルを、アニメのように感じて、リアルの現実を、リアルだと感じられないのだろうと思います。とても異様な感じ方になっています。
 
無常というものを考え、認めて、真実を追求している人々は、いっぱいいるでしょう。そういう人々は、例えば聖書の、風を追うようなものだ、ということを理解します。楽山は、それを認めずに、我こそは意味があると見せかけながら、リアルに虚しいだけの風を追い、悪臭を送風しています。
 
「無意味には耐えられない生物だ」と断定しながら、「ごく一部に限られる」と認める発言を加える、という、この理路の破綻に惑わされないためには、楽山を、いっさい、信用も信頼もしないことが必要になってきます。「ごく一部」の中には、楽山がご本尊?として居るという幻想でしょう。
 
 
だから人は自分はどういう流れの中で、どういう目的を持ち、どういう世界で生き、その後どこに行くのかということに興味を持たないではいられず、それがために神話が生れ、宗教が生まれたのだろう。
 
知性と感性が、一方は、アニメとして結実し、一方で、現実を見る者は、宗教と信仰を進めるのです。アニメはエンタ、信仰はリアルです。求めるものが違えば、創造力や思考力を向ける方向が別になるという当然のことです。楽山にとってだけ、宗教とアニメは同じもの?になっているようです。
 
楽山だけが、想像力も思考力もなくて、にもかかわらず、どちらも知っていると言いたい欲望から、ジャンルや方向性の違いをわきまえず、おのれが宗教も信仰も理解できない欠格者だから、・・アニメといっしょや・・とばかり、安易に同一視して、宗教と信仰をおとしめたいだけだと思います。
 
宗教を、アニメと同じ方向性で見ている時点で、楽山は、アウトなのです。
 
視野が狭くて狭くて、楽山は、同じ世界に見てしまっているのです。空想と現実が未分化なのでしょう。子供のまま、成長がないのは、病質のために、反省せず、学習せず、成長して来なかったからなのです。
 
 
そして今なお、新しい物語(神話、宗教、主義、思想、歴史観、アニメ、漫画、映画、小説…など)が作り続けられている。この点において、宗教やアニメはもちろん、すべての物語は同根なのだろう。
 
楽山は、宗教とアニメを同根だと言っています。つまり空想だから空疎だと言いたいのです。その根拠は、共通のテーマがあるから・・というわけです。しかし、リアルと娯楽、という決定的な違いを、楽山は無視しているのです。この在り方は、精神症状です。
 
以上より、アニメなどの物語と、現実が、同根みたいな言い分は、妄想なので、到底、受け入れられません。宗教は、ましてや、個人の生き方の問題に深くかかわる信仰は、物語では済まされません。楽山が、いかに、宗教を捻じ曲げて軽率に見なしているかが表れています。
 
アニメで、現実に人は死んだりしません。宗教では、多くの人が殺され殺し死んだ歴史があります。一歩間違えると大変なことになります。宗教は、人を救うが、間違えば人が死ぬ、という、その重さを楽山は、考えてもみないようです。ゆえに、甚だしく間違えて、平気でいるのです。
 
ゆえに、楽山は、軽々しく、持ち前であるところの、のぼせ浮かれ頭で、アニメと同じ次元で考え、宗教の真実を、趣味のアニメと同等に、気楽なものに貶めようとしています。反宗教全開ですが、言っている楽山は、自分の霊を信じ込んで破滅に向かう妄想の自分教の信者~教祖なのです。
 
 
こういう考え方は、熱心な宗教信者からは反感を買うかもしれないが、そういう人であっても自分が信じている宗教以外については、アニメなどの物語とそう変わらないという見解には強いて反対はしないだろうし、そうだとすれば自分の信じている宗教も、異教徒から見たらアニメなどの物語と変わらないとみなされるだろうことは推測できるはずだ。
 
「熱心な宗教信者からは反感を買うかもしれないが」・・この台詞を、楽山は、免罪符のように、しばしば使ってきます。宗教信者だけでなく、楽山は、もはや、無遠慮で執拗な、公共の害毒となっているとしか言えません。日常と超常の無分別による著しい妄想的曲解です。
 
自分が信じている宗教についてさえ、分からないことがあります。分からないと答えてよいのです。それが出来ない人や、それを赦さない人によって、間違えば、空想化し、カルト化し、または、無神教カルトに増長しながら転落てゆくのが、腐敗した自己愛の成り行きなのです。
 
楽山は、何ごとにつけ、分からないという保留が全然できない人であります。だから、大方、嘘と妄想と捏造の詭弁の世界から、書物を悪用しながら、あざ笑いと悪口だけを、それこそ、訂正不能の体質から、宗教、特に、キリスト教に向けてきたのです。
 
この記事で、楽山は、宗教をアニメの趣味に貶めていますが、それだけではなく、そのアニメ趣味では済まされないところの、霊が分かるっぽい体験と自覚によって、自家製の霊能者妄想と教祖願望を信じ込んで訂正不能の個人カルトになってきたのです。
 
よく読めば、楽山の言は、何の説得力もない、ヤジか荒らしのレベルではありますが、楽山の丁寧語には、だましの作為が入っているので、十分、警戒してほしいと思います。人間らしい思慮と情感があれば、楽山が百害あって一利なしだと分かるでしょう。
 
 
ようは、どのような宗教であれ、ある程度の距離をおいて観察し、判断すれば、一つの物語にすぎないということである。宗教という物語の中にどっぷりつかっている場合は分かり難いかもしれないが、これが現実である。
 
どのような宗教であれ、距離を置いて見ている限りは、知らない世界という謙虚な態度を持つべきであり、それが常識なのです。ここで、また、アニメというフィクションと、現実を生きるための宗教を混同して、宗教を軽く見ているのは、楽山の、根深い反宗教と反キリスト性からなのでしょう。
 
楽山には、常識~良識~良心が欠けているので、愚かな妄想まじりの詭弁を、のぼせ上がって、いつまでも続けています。恥を知らずであり、反省をしなくなると、こうなる、という妄想的な精神病質の典型です。楽山の口には、真実も、真実への思考も、皆無であります。
 
 
ちなみに宗教とアニメは物語という点では同じだと考えれば、近年の宗教離れの原因については、人の物語に対する欲求は、アニメなどによって満たされているので、わざわざ宗教を信じる必要性はなくなったためだと考えることができるかもしれない。
 
宗教と信仰は、物語ではありません。現実の生き甲斐そして死活問題として、キリストの命の犠牲によって伝えられている問いかけであります。人間にとって、結論は出ていませんが、救いと平安と忍耐力が必要になってくることが、楽山のような反キリストによって明らかになっているのです。
 
アニメを見れば、満たされて、宗教不要と言っています。趣味の空想で生きることは出来ません。楽山は、どこまで退行するのでしょう。本当に、虚構と現実が区別できていません。アニメは、ときに教訓を与えるが、それは、昔話的なシンプルな教訓です。宗教・信仰は、今の現実の命に必要なのです。
 
楽山のような者は、いかなる宗教においても失格ですが、常識においても失格と言わざるを得ません。だんだん、本性の暴力的断定が増えています。はっきり言って、楽山の、もう一つの顔であるネトウヨよりも、分かりにくいぶん悪質です。楽山こそがホラーとして存在しています。
 
 
また新興宗教のなかには、ずいぶん漫画的なものもあるが、これにはアニメを超える良質な物語を提供できない宗教が、アニメに近付くことで生き残ろうとしているという解釈もできるだろう。
 
たとえ話以上に、アニメを真似する宗教と信仰があるなら、それは、子供だましでしょう。ここでの詭弁は、カルトと、宗教を、一緒にしている点です。こういう、隙間に仕込むのが、楽山の詭弁のやり方です。シャロームに劣らず、楽山の凶暴なところが、どんどん、明らかになってきます。
 
 
宗教とアニメを同列に考えることは素っ頓狂のようではあるが、これによって宗教がより理解しやすくなるということはあるのだ。
 
楽山の話は、何も理解しておらず、素っ頓狂というより、未熟で邪悪で卑怯な、髭の生えた狡い駄々っ子の話です。やり口が卑しく、理路がでたらめで、情緒がないために共感が成り立たず、説得力は皆無なので、嘘や刷り込みや印象操作などの詭弁を使うしかないのでしょう。あきれた愚かさです。
 
吠えてる分だけ、真実追求の邪魔をしている自分に気づかないから、自己愛性人格障害というのも、やはり進行するのだろうと思います。どこまでも、有益、誠実、正直、真実というところから、はてしなく遠ざかる楽山であります。良心というものが少しでもある人は、こういう記事は書かないでしょう。
 
 
 
 ここで、何回目か分からないけど、
 「心の理論」という発達心理学の話の記事を引用しておきます。
 楽山の著しい曲解と妄想の個人史的な起源のようです。
 
   仏様の気持ちが分からない?親戚に笑われた話
  楽山日記(LD) 2019年03月30日
  私の批判記事「心の理論」
  
(ネットより)
心の理論とは、他者の心を類推し、理解する能力である。特に発達心理学において、乳幼児を対象にさまざまな研究が行われるようになった。ヒトおよびヒト以外の動物が心の理論を持っているかどうかについては、誤信念課題によって調べられる。この課題で他者の信念についての質問に正答することができた場合に、心の理論を持っていると結論される。一般的に4歳後半から5歳の子どもはこれらの課題に通過することができる。自閉症患者では障害が認められる。
 
楽山は、自閉症だったのでしょうか。
ブログタイトルには(LD)と書いていますが、サーバーの livedoor のことのようだが、学習障害 Learning Disability と言っても、当てはまると思います。
 
引用元から、まず、マクシ課題というのが書かれています。
 
1.マクシは、母親が買い物袋をあける手伝いをしている。
2.彼らはチョコレートを<緑の棚>に入れる。
3.マクシが遊びに行った後、母親はチョコレートを取り出して、今度は<青の棚>に戻す。
4.母親が卵を買うために出て行ったあと、マクシが遊び場から戻ってくる。
上記の場面を被験者に示し、「マクシはチョコレートがどこにあると思っているか?」と質問する。正解は「緑の棚」だが、心の理論の発達が遅れている場合は「青の棚」と答える。
 」
 
マクシは遊びに出ていたので、母親がチョコレートを<青の箱>に入れたことを知りません。したがって、「マクシはチョコレートがどこにあると思っているか?」という質問の正解は、「緑の箱」です。マクシは、誤った信念を持つ例として書かれています。
 
「誤信念を理解すること」というのは、誤信念を正当化することではなく、誤信念を他者が持っているということを理解することのようです。楽山は、病質のために、誤信念に気づかないままになっているのでしょう。楽山は、この話を、心霊の話と受け取ってしまうほど、未熟な無理解なのです。
 
 
ちなみに自分としては以前は、これは霊感の一種なんだろうと思ってた。でも近頃は、「心の理論」の延長上にあるという説に説得力を感じてる。相手の心を推測する機能が拡大されて、人以外の存在…仏様、神様、ご先祖様に向けられたのではないかと…。
 
霊感とは何の関係もありません。しかし、ここが、楽山の、霊が分かるっぽい出発点なのです。楽山は、「心の理論」を、勝手に間違って解釈して、神仏を、分かる、あるいは、感じることと、受け取っているようです。しかし、これは、全くの妄想的曲解であります。
 
「心の理論」の延長線上に、霊感のような神仏理解は、全くないのです。全面的に楽山の危険な無理解+曲解です。楽山は、最初に述べた「心の理論」を、心理学として全く理解しないまま、妄想に結びつけています。やっぱり、思い出すたびに、楽山は狂っているのではないかと思います。
 
 
*参考
「心の理論」という言葉は、何となしにスピっぽい雰囲気があるけど、検索してみるとそっち系の言葉というわけでもないらしい。専門家ではないので確かなことは言えないけど。
 
スピリチュアルとは何の関係もありません。専門家でなくても分かります。心理学~発達心理学の、学問の話です。楽山は、こういう、ひどい曲解をする人です。しかも、いつまでも、妄想的に訂正不能に、わがままが通用すると思い続ける人のようです。
 
楽山は、霊能者どころではなく、ふつうの人間の心がないために、理路の理解も、共感も出来ない人なのです。こういう人が、傲慢だけ持ってしまうと、とても危険です。楽山は、その実例です。決して、肯定的に関わってはいけない病質者です。
 
 
良い言葉、プラスの言葉、やさしい言葉、丁寧な言葉を、使ったほうがよいと思っている人は多いかもしれませんが、そこに、つけいってくる偽善者がいます。楽山は、自己愛性人格障害者であり、丁寧語を使ってインテリを気取る変質者なのです。
 
 
カルトは、思い込みによって超常を決めつけ、人間離れして化け物になってゆきます。
 
信仰は、神を恐れ、超常については神に任せ、人間性に適う心を弁えてゆくことです。
 
 
こわい 怖い 誘導

こわい 怖い 誘導
 
 
(2020年)
(2021年)
(2022年10月05日、再録+加筆)
 
 
 
  腐った暇
 
暇(ひま)は腐るほどあって
大方腐らせているが
食いたいときに食う
寝たいときに寝る
好きにすればいい
 
好きにすればいい
何を好きにすればいい
何がしたい
何をすれば夢中になれる
一途(いちず)に 直向(ひたむ)きに
何をするために生まれ生きている
何をしないために生まれ生きている
 
ひとつの夢が叶い
そして破れて久しく
何故生まれてきたのか
父と母が交尾したからだ
以外の答を見つけるために
凍り付きそうな
暇も楽も食いちぎって
思い切り腐らせて
 
楽といえば
楽だ
しかし腐った暇は必ずしも
楽ではない
 
さらに身に凍(し)みるのは
楽 と
楽しい は
全く別だということ
 
 
  朝までの群れ

懸濁液のコロニーから
生えてくる社会ひとつひとつは
整然として燃焼を収めてゆく
 
炉に投げ込まれる人の形の
氷の造形も黄昏て
 
その節々に時を刻み
離れ離れの役者の帝国に
歌姫を連れてきて笑わせる
 
けばけばしい提灯の夜
イオンの息子たちは集まって
はみ出したやつが道になる
 
放り込むのか夜明けの虫
安いライターを燃やすのか
 
そこここに蝉の亡霊が鳴き
病人のベッドを濡らし
小火(ぼや)に逃げ遅れて肉片は踊り
間違って太陽がひょっこり顔を出す
 
危ないぞパイプと鎖
すでに火だるまのバクテリア
ブローバックの煙
路上に転がる金属音
 
連続した紙幣と貨幣
たちまち飛び散って
レスキューの箱に収まりきれず
遠くの信号が点滅して
踏切で眠りにつく子守歌
細く丸く輪になって焼いて・・・
 
朝の短い把手(ノブ)を擦り抜けて
割れたフラスコを絡ませた頭の
ありふれた生前の手によって
寝起きの試験管から
コロニーはシャーレに移される
 
 
 
 taka のツイッターですが
 恐らく楽山なのでしょう
 
takaさんがリツイート
(引用元は省略)
「神はその人が背負える重荷しかお与えにならない」というような、負わされている者の救けにならず、負わせている者の罪悪感を緩和し、更なる荷を押し付けさせかね無い言葉はなんとかならないものだろうか、、
午後7:52 · 2021年9月22日
 」
 
上のような「神は」を主語にした言葉は、神について保証するかのような内容になっていて、言った人は何も保証できないのだから、人が人に保証すれば無責任発言ということになります。信仰者同士なら、背負ってゆくしかないだろう、生きてゆくしかないだろう、という意味にはなるでしょう。
 
神を主語にして何かを断定することは思い上がりという印象を免れず、重荷についての何らかの助言や共感をもって言うのとは違って、救いの聖句からの教義という動機だけですから、実感のない教条主義に近いので、慎むべきことです。分からないことは、分からないと言い、分からない箱に入れましょう。
 
この引用をしている taka、恐らく、実は、楽山は、負わされている人への共感の出来ない人で、真剣に考えるということが出来ない、情感というものを持たない、自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)であり、キリスト教をおとしめるのに都合がよいから引用しているだけだと思います。
 
「神はその人が背負える重荷しかお与えにならない」・・これは、むしろ、何からの出口はあるからという意味として、信仰者が、自分で心得るべき言葉でしょう。安心や保証ではなく、生き続けるための、一種の激励の意味でしょうが、語弊があるので、私は、言わないようにしています。
 
 (コリント人への第一の手紙、口語訳)10:13
あなたがたの会った試錬で、世の常でないものはない。神は真実である。あなたがたを耐えられないような試錬に会わせることはないばかりか、試錬と同時に、それに耐えられるように、のがれる道も備えて下さるのである。
 (1コリント10:13、新約聖書)
 
最終的に、殉教して、逃れる先は天国、ということになれば、現代では、伝道としては、なかなか、使いづらい聖句ではあるのです。迫害という切羽詰まった時代の状況では、使えたのかな・・くらいに思っています。はっきりと分からないことは、分からない箱に入れて保留しておきます。
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
 
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
楽山は、丁寧で中立を装いますが、実際は、悪意と敵意の人です。そのベースは、小学生にも満たない未熟で幼稚で捻じ曲がった偏見です。しかも、それで視野が広いように見せかけます。楽山から受け取れる良いものは何もありません。混乱と疲労と人格破壊をもたらすので、決して近づかないでください。
 
 
 
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  楽山の心無い芝居2
 
 「鬼滅の刃」と「スピリチュアリズム」
 2021年02月28日 楽山日記(LD)
  を改めて批判。
 
 
楽山の精神年齢の低さが表れています。超常のフィクションと、実際に存在するスピリチュアリズムを、並べている時点で、正常な心からの乖離が暗示されています。
 
ホラーアニメは、フィクションとして製作されます。スピリチュアルは、現実に対処するために語られます。この区別が出来ないなら小学校へ行きなさいということです。
 
「鬼滅の刃」を通読してみた。その基本設定は予想以上にスピリチュアリズムと重なるところが多かった。
 
「鬼滅の刃」 → スピリチュアリズム の流れで、宗教・信仰を語って現実離れしてきた楽山を信用しないでください。人生を空想と趣味で理解したつもりになっている楽山です。
 
たとえば、この辺り。
人は生まれ変わる。
人は単身で生まれ変わるのでなく、ソウルメイトがいる。
 
生まれ変わりと言った時点で、既に、話が超常のことになっています。一方、楽山は、心・精神の再生であるところの、魂の奇跡を、何も考えることが出来ません。そういう記事を書けない楽山です。
 
利他的な生き方の推奨。
感謝の大切さ。
 
どこでも聞かれる当たり前の倫理・道徳です。これで、楽山は何を確認するのでしょうか。総て、楽山が裏切って、悪用してきたことです。楽山の白々しさに、背筋が寒くなります。
 
>非難、難詰では、人は変わらない。怒り、自己正当化を生むばかり。
 
(ネットより)
難詰(読み)ナンキツ
[名](スル)手きびしく非難すること。きびしく問いつめること。「不注意を難詰する」
https://kotobank.jp/word/%E9%9B%A3%E8%A9%B0-590405
 
批判を非難していますが、反省しない者は、何を言われても変わらず悪と偽善に走る、ということが、まさに、楽山を通して実証されてきたのです。楽山のような偽善者は、「自己正当化」のように、自分が言われたこと、言われそうなことを、わざと書いてきます。何度も書いてきます。
 
この記事も、今までの記事も、楽山の自己愛→自己中→自己正当化→誇大化が動機であります。私は、そのことを言ってきたようなものです。楽山は、人のことなどには、何の関心もない男だと判断しています。きれいごとを並べれば、人は騙されてくれると思って、舐めきっているのでしょう。
 
良心を持たない者は、やさしい言葉によっても、批判によっても、変わらないでしょう。だから、誰も近づかないようにと、私は批判を書いて、資料としてゆくしかありません。
 
人は、やさしさ(愛)によってこそ変わる。
圧倒的な善意(愛)には誰も抗うことはできない。
 
優しさ芝居で、人の優しさを利用して、悪意と偽善を企んできたのが、楽山です。圧倒的な愛について、楽山が語るのは、犯罪者がニヤニヤ笑いながら説教をするようなものです。
 
自らの罪を悔い、反省をはじめると、守護する霊の姿を見、その声を聞くようになる。
 
自らの罪を悔いず、反省もせず、霊が分かるっぽい気でいるのが、楽山であります。とうとう幻聴も始まったのでしょうか。善には善の種が、信仰には信仰の種が必要です。切っ掛けとなる体験のことですが、楽山には、自らを偉く見せるような、でっち上げの体験と、だまし言葉があるだけなのです。
 
>悪いことをすれば天国には行けず、地獄に行くことになる。
 
通念的な話です。単に悪といえば浅い話になってしまうことを楽山は弁えていないのです。何も学んでいないことが表れています。楽山には、天国に行けるような言動は皆無です。きれいごとで天国に行けると思っているなら、その自己満足は、地獄で砕かれるでしょう。
 
>地獄は強要されるのでなく、自ら納得して行く。
 
説明もなく何を言っているのでしょう。楽山には、何を学ぶ気もないことが、楽山の気安い高慢な妄想的言語に表れています。このような言葉だけで、何かを表したような気分になる楽山です。この思い上がりには、逆に言葉自体がけがされてゆくでしょう。
 
あらゆる努力を怠って、人も言葉も、鼻先で笑っている者の言だと思います。楽山には、いちばん当てはまらないことを、わざと、白々しく書いて理解を装う楽山の筆致、吐き気がします。
 
主人公は決して自分を見失わない。権威、権力、恐怖…などには屈せず、自らの内なる声に従う。
個性尊重。自分らしさを保ち、かつ他人の個性も認める。
愛に飢え、貪欲な鬼は、口が強調された姿となる。その姿はその心によって決まる。
 
楽山は、プラスを言いマイナスを言い、断定していないから責任はないなどと言って、元々、自分を持っていない人です。自分の代わりに、欲望の自我の企みで書いています。フィクションのヒーローと、自分の区別が出来ないのでしょう。人間性を失ってきた者の筆致です。
 
楽山の自分らしさは、今までのところ、無反省・無責任・無理解・無神経・偽善者・嘘吐き・詭弁屋・無視・不感不応、・・でしかなかったのです。このような自我は、人を傷つけるだけです。そういう「自分らしさを保」たれてはたまりません。悔いないなら、一刻も早く、何も言えなくなるべきです。
 
スピリチュアリズム的な世界観は極めて特殊でもなく、多方面に広まってもいるので、「鬼滅の刃」のなかにスピリチュアリズム的なところがあっても別段不思議はないのではあるが、なにはともあれ、スピリチュアリズムに共感する人であれば、血飛沫が飛ぶようなアクションは大の苦手というのでもない限りは、本作に感動できるにちがいないと思う。
 
評論家気取りで、アニメとスピリチュアリズムを同一視する楽山は、結局、そのレベルでしか宗教と信仰を語れないのです。楽山は、哲学・思想・宗教・信仰を全く理解できないからです。既に、ボロボロの理路・妄想・自己中・自己愛が表れてきたのであり、一切の弁解はボロ布のようなものであります。
 
主人公のやさしさに触れて、鬼が自らの罪を自覚し、見失っていた自己を取り戻し、改心していく場面はもちろん、このやさしさは鬼のみならず、仲間たちをも良い方に変えてゆくところは本当に素晴らしく、
 
こういうところにしか褒め言葉を当てられない楽山です。触れて、自覚し、取り戻し、改心していく、これらは、すべて、楽山にはできないために、楽山が嘘と詭弁で裏切ってきたことなのです。まさに、今、この記事も、そういう嘘であります。嘘しか扱えない楽山です。
 
真実を追求しているつもりの、楽山という大人が褒めまくって書いていますが、楽山は、ホラーアニメに依存している勘違い野郎なのです。真実を追求している本当の大人なら、ホラーについて趣味以上に書くことはないのです。大人に成れなかった楽山です。
 
「愛こそはすべて」ということがよく分かるようになっているし、スピリチュアリズム的な考え方はあちこちに散りばめられているし、スピリチュアルなことに関心のある人にはお勧めの作品である。
 
「愛こそすべて」が分かるなら今までの楽山は、なかったはずです。楽山は、大袈裟な豪語をすれば信用されるとでも思っているのでしょうか。楽山が自分で言って、逆に、その言葉が、まさに、楽山自身を斬っています。つまり、楽山に、何かを「お勧め」などする資格はないです。
 
楽山の見当違いの妄想世界から勧められるのは、実に迷惑です。本当に、書けば白々しさが酷い楽山のようにだけは、ならないでください。感受できないのに、評論家気取りで「お勧めの作品」などと言っています。楽山の言は、地上で最もお勧めできない類であります。
 
 
恥に気づかない

恥に気づかない
 
 
(2021年03月01日)
(2022年03月07日、再録+加筆)
 
 
  楽山のツイートです。
 
心機一転★こも楽山
@komo266
·35分
おススメ書籍、ちょこっと読みました。 
悪魔が嫌うことは、
・正直(嘘はつかない)
・勤勉(コツコツ努力する)
・明朗活発(明るく積極的)
 」
とのことですね。
書籍後半では、謙虚、無執着、恨まないなども挙げられてた。
これらは総裁も出来てないし、言うは易し行うは難しだと思いました。😊
午後4:40 · 2021年2月28日·Twitter Web App
 
楽山は、平気で、数えきれない嘘を吐いてきました。人間関係のベースとなる普通に正直であることを、まず、楽山は守る気がないのです。楽山には、傲慢で、霊が分かるっぽい?自我への異常な執着、その体質ゆえに誰からも信頼されないことに対する人間と社会に対する根深い怨念があると推測しています。
 
楽山は、努力が大嫌いです。霊が分かるっぽい?霊能者気取りだから、人の言うことを聞いて考えることを全くしないのです。楽山が嘘を吐いて平気なのは、陰険であり、決して明るくはないです。楽山は性悪で、陰気に悪と偽善を企み実行してきました。
 
楽山は、高等感情の鈍麻で不感不応だから、不都合を無視できるのです。楽山は、嘘を言うは易し、正直も、最小限の善も、行うは難し~しないよ・・なのです。丁寧語で物を言っても、誰とも和合できない人格です。真実の追求の場には、いてはならない人です。
 
前に、楽山は、親族に、仏様が喜んでいると言ったら笑われたことがあり、親族が仏様の気持ちが分からないっぽすぎるのには驚いた、というようなことを書いていました。そこから、楽山は、仏様の気持ちが分かるっぽいと思っているのでしょうか。これは、何の洞察力もない楽山の妄想です。
 
楽山が、仏様と言っているのは、仏像、仏壇のことでしょうか、仏陀のことでしょうか、ご先祖様のことでしょうか、いずれにしても、こういう小児期の異常感覚に、今も支配されて、霊能者気取りになっているのでしょうか。嘘吐き、怠惰、陰気、尊大、妄想、怨念が、楽山の持ち物です。
 
もし、楽山が、超常の存在の気持ちが分かる本物の霊能者なら、嘘と詭弁にまみれた今までの有り様は、むしろ、ありえないわけです。即ち、嘘で出来ている楽山は、霊能者どころか人間として成り立っていません。楽山が、持っているのは、聖霊ではなく、悪霊に近い邪念と言わざるを得ません。
 
楽山を、信用しないでください。相手にしないでください。楽山に関わらないでください。近づかないでください。お願いします。約3年間、私は、そう言い続けています。
 
 
心機一転★こも楽山
@komo266
集団リンチの様相を呈していたのも酷いけど、
政治家なら、自分の発言の一部を切り取られ、非難されることがあるのは承知しているはずなのに、この罠にはまる政治家があとを絶たないのも酷いですね。
こういう無防備さ、不用心さの原因を探る論考も掲載されてるのだろうか。
午後5:31 · 2021年2月28日·Twitter Web App
https://twitter.com/komo266/status/1365942671190106113
 
楽山は、自分の発言が批判されているのは承知のはずなのに、無視し続けています。こういう楽山の、体質からの自己保身と誇大妄想から、反省することもなく、責任を負うこともないという現状こそが、楽山の自己愛性の体質として、書くものに表れてくるのです。
 
楽山は、嘘で飾れば、白々しさが表れ、苦言を呈すれば、自分が当てはまる、という無間地獄の様相です。それでも、自覚がなく、平気を装うのが、不治と思われる体質的異常としての自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)なのです。
 
 
★こも/楽山日記3
@komo266
それにしても、大事なのは、信者かアンチかという立場じゃなくて、真理に則るかどうかだと、なぜ分からんのだろう。
午前10:52 · 2022年3月6日·Twitter Web App
 
これは怖いです。楽山が「大事なのは」「真理に則るかどうかだと、なぜ分からんのだろう」と、真理を分かってるつもりで言っています。いちばん分かっていないのが、楽山です。上から目線の誇大妄想的な、根拠のない自己確信が、自己愛性人格障害の性根なのです。決して関わらないでください。
 
 
 
  面白いドラマ、アニメ
 (『ウチの娘は、彼氏が出来ない!!』、『ゆるキャン△』など)
 2021-02-28 楽山日記(a)
 
『ウチの娘は、彼氏が出来ない!!』は、第一回では学芸会的過ぎると思ったのだが、つい第二回も見てしまい、それ以降すっかりハマってしまった(笑)。毎回、泣かされ、笑わされている。
『ゆるキャン△』はタイトルだけは知っていたが、第一回を見てすぐハマった。アニメもおもしろい。こういう雰囲気はすきだ。
『進撃の巨人』も盛り上がっているし、面白いドラマ、アニメがたくさんあってうれしいぞ。
 
「ハマってしまった(笑)」「泣かされ、笑わされている」・・「泣かされ」は、恐らく、涙が出るほど笑ったということでしょう。楽山は、恐らく、笑いと怒りしかなく、しんみり悲しむことが出来ないと思います。
 
批判されている最中に、批判されていることに無頓着でいられる。無視して、ドラマやアニメの趣味の記事を平気で書いていられる。しかも、びくともしないぞと言っているような余裕がありげの「(笑)」や「うれしいぞ」を付けてくる。これが、楽山という人です。問題を何も感じないのです。
 
 
 
  オートバイ
 
ドアも屋根もない
回ることしか知らない
不思議な乗り物にまたがって
命を吹き込む
荒々しい響きに身を任せると
すぐに人も景色も
流れ過ぎる風となる
虫や葉やわらくずが
突然に現れては消える
長い直線の向こうに
道は曲がって消える
それから先はわからない
その疑問に向かって
早くもたどり着いた風は
心細い私を乗せたまま
今大地を
傾斜する刃物に変える
 
(昔の話です)
 
 
  うた
 
いつか うたも
うたを うたうことも
おおきな こえを だす
あそびに すぎなく
さけに よえば
わらうほど
よわくなりましたね
ほんとうは べつの うたを
つよい うたを
つづれるほどに
ペンを はしらせたい
うたが すべてではなく
すべてが うたではなく
ウソが あそんでいる
ことばに のって
ちがう くにへ ・・・
そのくには どこにあるのか
また みちに まよいましたね
あさの きずが みつけられない
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
いつまでも、自己正当化に明け暮れ、反省をしないでいられるのが、自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)の特徴です。おぞましいけれど、そういう人として、批判記事を、当ててゆくしかありません。「実践するのは難しいんだよなあ」・・ではなく、正常人なら出来ることです。
 
 
楽山は、自分に都合のよいコメントを引用して、被害者芝居で、こちらの悪い印象を吹き込んできます。思想の流れ全体について弁明できない者が、コメントの付いた記事も、前後関係も平気で無視して漁(あさ)って、バラバラの切れ端だけを投げてくるようなものです。
 
つまり、いつかどこかに書いたような、短い、都合のよい、断片のような、言葉面だけ当てても、不正確であり、それでは理路が成り立たないということを分かっていないのです。楽山の体質として、長い文脈を把握することが出来ないのでしょう。
 
流れも考えず、過去のコメントを多量にコピペすれば、参って批判を控えるじゃろ・・という、正当な理路で思想を組み立てられない荒らしの薄汚い精神です。じっくり議論する態度ではなく、説得力皆無の悪口を投げて、気晴らしの狙いでしかありません。楽山を、まともに相手にしてはいけません。
 
 
 
 
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