ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

タグ:無反省

 
  楽山のダークサイト2
 
 三島由紀夫とスウェーデンボルグ
 (『川端康成・三島由紀夫の往復書簡』)
 2021年05月12日 楽山日記(LD)
  を改めて批判。
 
 
カルトを信じていた人は、脱会しても、霊の話などが、記憶に残ることがあるだろうと思います。楽山が、元々大好きな、超常・魔法・心霊・心霊・霊能者、などの話です。これらは、カルトが、信者を獲得するために、好んで、話題やテーマにするものです。
 
楽山は、子供のときから、"仏様の気持ちが分かるっぽい" そして、霊が分かるっぽいという自覚があるために、結局、こういう霊の話に飛びつくのでしょう。しかしながら、そのせいか、楽山には、他者の気持ちや意図を察するための共感力がありません。
 
書いて公開すれば批判される、という繰り返しで、楽山が選んだことは、自粛ではなく、反省でもなく、"秘密" であります。体質から逃れられない因業の魔物を持っていることが、公開から、秘密の情報にすることで、むしろ、明らかになっています。
 
楽山に好意的に関わってきた人は、不幸というしかありません。霊能者気取りだが、人の心が、まるで分からないということが、書いてくる文章に表れてきた楽山です。楽山のインテリ気取りに騙されないでください。
 
 
*三島由紀夫とスウェーデンボルグ
『川端康成・三島由紀夫の往復書簡』をつまみ読みしていたら、三島由紀夫がスウェーデンボルグに触れている箇所があったので、メモしておきたい。
十一日は籠をにげだした小鳥のやうに神田の古本屋を歩きまはり、六年来探してゐた、スウエーデンボルグの「天国と地獄」をみつけて有頂天になりました。
(『川端康成・三島由紀夫 往復書簡』新潮社、1997年、p.42)
 」
川端康成がスピリチュアリズムに関心を持っており、その影響を受けた作品も書いているという話は聞いてはいたが、三島由紀夫もその方面に興味を持っていたとは不覚ながら知らなかった。もっとも川端康成に話を合わせてそのようなことを書いたのかもしれぬが…。
今度からは三島由紀夫の著作を読むときは、この点に気をつけて読もう。
 
(ネットより)
エマヌエル・スヴェーデンボリ(Emanuel Swedenborg, 1688年1月29日 - 1772年3月29日)は、スウェーデン王国出身の科学者・神学者・思想家。スウェーデンボルグ、スエデンボルグとも表記される。生きながら霊界を見て来たと言う霊的体験に基づく大量の著述で知られ、その多くが大英博物館に保管されている。スヴェーデンボリは貴族に叙された後の名。
・・・
1745年、イエス・キリストにかかわる霊的体験が始まり、以後神秘主義的な重要な著作物を当初匿名で、続いて本名で多量に出版し、出版で得た全報酬は寄付(『スヴェーデンボリ その生涯と教え』トロブリッジ著より)した。ただし、スウェーデン・ルーテル派教会をはじめ、当時のキリスト教会からは異端視され、異端宣告を受ける直前にまで事態は発展するが、王室の庇護により、回避された。イエス・キリストからの啓示をその僕として書き記す霊覚者への転向はあったものの、その後国会議員にまでなった。
・・・
カントは限定的に「スヴェーデンボリの考え方はこの点において崇高である。霊界は特別な、実在的宇宙を構成しており、この実在的宇宙は感性界から区別されねばならない英知界である」(K・ ペーリツ編『カントの形而上学講義』から)と評価も下し、後のカントは「彼の不思議な能力の非常に多くが確実であり、彼は道理をわきまえ、礼儀正しく、隠しだてのない人物であり、学者である」と率直に語った(『スヴェーデンボリ その生涯と教え』トロブリッジ著より)
スヴェーデンボリ
 
スウェーデンボルグは、霊について、不思議な能力について、大量に書いた人のようです。霊能者気取りの楽山にとっては、霊だから検証しなくてよく、考えなくて済むような、うってつけのテーマなのでしょう。秘密に教えますよ・・というやり方が、既に、あざといのです。
 
スウェーデンボルグの語る霊とは、聖霊なのでしょうか、悪霊なのでしょうか。楽山と似たような自己愛からの霊能者気取りなのでしょうか。私は、楽山を見てきて、うんざりしているので、ほとんど興味はないです。
 
類は友を呼ぶ、というところでしょうが、著名人と楽山では、落差が大きく、楽山の語る霊の話も宗教の話も、幼稚だったことを考えると、関わらないほうがよいと思われます。子供の、霊が分かるっぽい体験から、自分を高みにおいて、そこからしか語ってこないようになったのでしょう。
 
 
川端康成がスピリチュアリズムに関心を持っており、その影響を受けた作品も書いているという話は聞いてはいたが、三島由紀夫もその方面に興味を持っていたとは不覚ながら知らなかった。もっとも川端康成に話を合わせてそのようなことを書いたのかもしれぬが…。
今度からは三島由紀夫の著作を読むときは、この点に気をつけて読もう。
 
楽山にとって、霊は、疑うこともなく、実在が前提となっているようです。スピリットには、心という意味も含まれていて、スピリチュアリズムと言えば、心霊・霊能・霊魂と言うより、身近に感じられるというところがあります。
 
要するに、無条件で受け入れるしかない超常であり、楽山にとって、考える必要もなく、努力する必要もなく、反省もしないで言って気持ちがよいテーマなのです。
 
キリスト信仰において、霊は、労力の要らない便利ツールではなく、聖霊は、聖三位の一つであり、人間には届かない存在です。悪霊は、悪魔性の活動として、邪悪の代名詞のようなものです。
 
聖書では、病気や災いは悪霊のせいだと見なされ、病人は差別されていました。そこに救いの手を差し伸べたのが、イエス・キリストであります。キリストは、人間的な共感に溢れた御方であります。
 
つまり、問答無用・議論不要の霊の話に帰するところには、人間の心や共感が無くなり、超常の魔術的な結論だけが意味を持つような、楽山のようなものが集まるのかもしれません。努力しないで安きに流れてきた楽山には、霊と超常に傾倒する短絡の必然があるような気がします。
 
それにしても、また、三島由紀夫や川端康成などの著名人を引き合いに出して、恐らく右翼寄りの思想もあるのでしょう。楽山は、有名人が大好きで、自己満悦のために、書いていいのだろうか?という疑問も遠慮も節操もなく、好きなように利用しています。ずっと、節度なき我欲と我執を表しているのです。
 
 
*憑依
本書の巻末には、佐伯彰一と川端香男里の対談が収録されているが、そこにはこんな発言があった。
佐伯 四十一年六月号の「文藝」に載った「英靈の聲」は、ふっと何かにとりつかれたように一気に書き上げた、と三島さんご自身の口からうかがったな。その後、美輪明宏に会った時、「三島さん、あなたに霊がついてるよ」って言われてギョッとしたという話を、三島さんは例の誇張したおどけた調子でおっしゃられたことを覚えています。
(同上、p.215)
 」
以前、某匿名掲示板にて、三島由紀夫は「英靈の聲」を書いたときに、226事件の首謀者の霊に憑依された云々という話を読んだことがあったが、その元ネタはこれかもしれぬ。
「英靈の聲」は最恐ホラーよりもさらに怖いと思ってはいたが、やはりいわくつきの作品だったということか。
 
「「三島さん、あなたに霊がついてるよ」って言われてギョッとした」「誇張したおどけた調子で」・・これって、賛同でしょうか。楽山は、「最恐ホラーよりもさらに怖いと」受け取ったようですが、笑い話として書いているという見方はできないのでしょうか。
 
三島由紀夫原作の映画「午後の曳航」のセリフに、「殴られるより悪いことがある」というのがありました。楽山は、まとも芝居で、丁寧語で、婉曲的に、そういう、"殴られるより悪いこと" をしては、人を疲労させ、傷つけて、何とも思わないでいる人です。
 
 
(以下は、心霊的な話題に踏み込むのでプライベートモードで失敬)
続きを読む
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宗教も信仰も理解できないのに批判だけしてくる楽山は、こういう不思議話を、まるで、吸い取り紙のように、何の疑念もなく無批判に、受け入れるようです。超常オタクで、人間として、いかにあるべきかという問題には、まるで関心を示さない楽山です。
 
"霊的"右翼の秘密結社でも作るつもりなのでしょうか。気の短かそうな、血しぶきの飛びそうな、掟のありそうな世界に、無反省・無責任の楽山が、通用すると思っているのでしょうか。
 
以前から、楽山については、人間としての、思考力、判断力、客観性、および、共感性に、問題を感じていましたが、いよいよ、とても怪しい領域に、本格的に、のめり込んで、誰かに刷り込んでゆくのでしょうか。公開すると叩かれるから、秘密のモードを使って(?)。 
 
結局、ペテンに終始するだけの楽山ブログのサイトは、ダークサイトであり、カルトや犯罪への暗黒面ダークサイドまで行く可能性をはらんでいます。間違っても刷り込まれたりしないように、また、とばっちりや巻き添えを食らうことのないように、決して楽山に関わらないでください。
 
 
暗黒面 ダークサイド

暗黒面 ダークサイド
 
 
(2021年)
(2022年05月16日、再録+加筆)
 
 
 
  世捨て人の
 
世捨て人の夢見るものは
虚無のやさしさで
無為の速度で
自棄の靴紐を絡め
退廃の旅支度を過ごし
厭世の渡し舟を待ちながら
絶望の気道を開いて
暗黒の呼気を促し
怒気の吐息を拾い
悪意の杭を抜いて
憎悪の河に流して
せめて見送れるだけ見送ることだ
 
 
  正当性

熱を持たない夕日に焼けただれた雲の下
地雷の眠る森は暗く重く沈んで
明日までよみがえることはあるまい
焼かれてもいない正当性は
例えば単に
まっすぐな樹木の
どこが微妙に曲がっているか
を問うより間違っていた
辻褄や口裏は合わせられても
夕日もなければ森もない
元々熱を持たない正当性を
作られた角度から
いくら繰り返しても
いかなる納得の念じ方も
地雷の重みを示すこともできず
ましてや夕闇の雲と地平を
鋭角に貫くものなどあるわけもない
いわれもない念仏
永遠によみがえることはあるまい
 
 
  茶柱
 
私の夢よ
憧憬(あこがれ)よ
その茶柱を取ってくれ
そして息になぞらえて
吸い込む姿勢で待ってくれ
私は去りはしない
 
絶え間なく裏切りの
喪章をつけた野良犬が
喜びに餌も忘れて
茶の間から宵闇への道
半旗の中を走っていくよ
 
私の歌よ
悲しみよ
その茶柱を取ってくれ
そして眉間にながらえて
戸惑う息に耐えてくれ
私は去りはしない
私は笑っては いない
 
 
  ハンカチ
 
自分のために
誰も傷ついて欲しくない
と君は語った
しばらくの間そのことを語った
私は一枚のハンカチを渡した
もらい物であった
私が使っていた
いくたびか汚れ
いくたびか濡れ
ときにはちり紙の代わりとなり
犬が噛んだこともあった
そのたびに洗って干した
少しは汚れや
唾液や涙液が残っているかもしれない
しかし君よ
今はそのハンカチで拭くのがふさわしい
私らの歩む先に
真っ青なだけの空があるだろうか
真っ暗なだけの夜があるだろうか
うつくしさだけで住める町もなければ
みにくさだけで去れる町もないのだ
君は語り私は聞いた
海鳴りのように遠く
耳鳴りのように近く それくらい
明らかではない私らの出会いの後
いずれ君は私を忘れ
私は君を忘れるだろう
だから君よ
この一枚のハンカチを君に渡すのは
今唯一明らかな約束の在り方として
その捨て方を君にまかせるためだ
 
 
 
 神と人
 
神の性質としての
全知・全能
絶対・完全
永遠・不変
これらを否定した存在として
人間は存在しています。
 
その自覚を知る人が
生きるために癒しと救いを求めて
神の民となるのです。
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
心に秘密を持って、それは罪と偽善の欲動であるのに、もったいぶって、非公開や、秘密の許諾性をこしらえて、神秘のように見せかける楽山にあるのは、幼稚な妄想を、嘘と詭弁で刷り込んでゆく教祖気取りであります。人の上に立つ何ものも持っていない心霊妄想屋の楽山の怨念返しなのです。
 
 
 
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  楽山の万象不明2
 
 「第十九講 ヨブの見神(三)」(『ヨブ記講演』内村鑑三著)
 2021年05月04日 楽山日記(LD)
 を批判。
 
矢継ぎ早に更新記事を書いてくる楽山です。これで、前進しているつもりでしょうか。実際は、どんどん自閉に後退して凝固して、新しい知識を受け入れない訂正不能の自己愛からの意地だけで、固陋(ころう)を極めている状態だと思います。
 
内村鑑三は、大仰な書き方をするようですし、文語調の厳めしさを持つ口語体ですから、楽山の誤解~曲解も、文章の勢いの分、甚だしくなってゆくでしょう。楽山は、それが気持ちよいのかもしれませんが、基本的な中心的な理解が、楽山には皆無なので、中身は空疎です。
 
(ネットより)
こ‐ろう【固×陋】 の解説
[名・形動]古い習慣や考えに固執して、新しいものを好まないこと。また、そのさま。「旧時代の固陋な人々」「頑迷固陋」
 
 
「第十九講 ヨブの見神(三)」を読了。感想をメモしてみる。
ヨブ記三十八章十六~三十八節について。
「自然界の諸現象を起し得ずまた究め得ざる人間の無力を指摘して神の智慧と力とを高調した」。
三十一、二節の北斗、参宿、昴宿など、「ヨブ記の読者は、天文について少くともこれ位は知っておらねばならぬ」。
参宿はオリオン星座、昴宿はプレイアデス、スバル星、六連星ともいう。
「ヨブは右の如く天の星を見た。彼は人力の及ばざるそこに神の無限の力と智慧とを見た」。「星を見るも何ら感ずる所なしという人もある。しかしそはその人の低劣を自白するだけのことである。星を見て神を見るの実感が起らざる人にはヨブの心は解らない。神の所作を見て神を知り得ぬはずがない。我らは彼の作物たる万象に上下左右を囲まれて呼吸している。さればそれに依て益々神を知らんと努むべきである」。
 
私も「低劣を自白」したことがあります。内村は、気取りと豪語が過ぎます。預言者気取りでしょうか。また「神の無限の力と智慧」と言っても、人が理解することはありません。それが「低劣を自白する」というなら、私は「低劣」を自覚し、幸いとするでしょう。「星を見て神を見る」は危険な短絡です。
 
楽山にとって、都合のよいところなのでしょう。読者に何を伝えているつもりなのでしょう。独り言をつぶやいて、それを見せないで立っている地蔵様でしょうか。山奥の細い道で石を転がして遊んでいるのでしょうか。信仰は、誰に対しても、それなりの説得力が必要です。楽山には皆無です。
 
自然を見て、神を知ると言うだけなら、飾りの荘厳気分に過ぎません。信仰は、人間関係の中に生かされなければ意味がありません。念のために、楽山は都合のよい文言だけを載せてくるので、内村鑑三を読んだことにはなりません。楽山の読書の信頼度は、言うまでもなくゼロです。
 
 
「神の造り給いし万物に囲繞されて我らは今既に神の懐にある。我らは今神に護られ、養われ、育てられつつある」。「神を見んと欲するか、さらば彼の天然を見よ、海を見よ、地を見よ、曙を見よ、天の諸星を見よ、空の鳥、野の獣を見よ、森羅万象一として神を吾人に示さぬものはない」。「万象の中に神を見る、これヨブの見神の実験にして、また我らの最も確実健全なる見神の実験である」。
本講演では気になるところが二つあった。まず一つは「星を見るも何ら感ずる所なしという人もある。しかしそはその人の低劣を自白するだけのことである」というところである。
 
内村が、低劣なる人に無慈悲なのは残念の極みです。上に書いたように、万象の中に神を見いだせない人を低劣と言うのは、誇大的な、のぼせ気分です。自然に感動するのは、信仰の副産物に過ぎません。自然の現象を見て、神が云々と言うのは、神に対する人の越権行為です。
 
しかし、「低劣を自白する」というところが意味は深いと思います。自然を作った神の偉大さに比べて、人間の低劣さ、即ち、低さや小ささを実感し、告白することは、実際あるわけですし、必要なことです。感じないで決めつけを語ることが忌むべき低劣さを表すというのは、楽山に当てはまるでしょう。
 
 
以前、とある宗教を信じていたとき、自分もこれと同じ考え方をしていたのだった。「この宗教は本物だ。これを知ってもなお、感動できず、本物だと気づけない人がいたとしたら、霊性が低いか、仏性が曇らされて真理が分からなくなっているのだろう」と…。自分とは異なる感性、価値観を持つ相手を低く見るというのは、よくある悪癖だろうが、これは特定の思想宗教を強く信じれば信じるほど強まる傾向はあるように思う。
 
楽山は、よほど単純な人であるか、単純芝居をして、引き寄せようとしています。楽山は、内村鑑三の信仰観を、個人の霊的能力の問題におとしめています。信仰についての酷い曲解です。このように、楽山は、直感的な感性と感動のない不感不応の人だから、霊能を自分に結びつけているのでしょう。
 
人間に不可欠なのは、霊性ではなく、人間性です。楽山は、また、宗教をおとしめるために、「霊性が低い」などという言い方を引用しています。強調しますが、人間に不可欠なのは、霊性ではなく、人間性です。そして、楽山には、それがありません。
 
楽山のいちゃもんが「特定の思想宗教を強く信じれば信じるほど強まる傾向」というのは、恐ろしい捻じ曲げ方です。宗教と信仰は、思想ではありません。楽山は、宗教と信仰について、何も知らないということです。楽山ほど、本当の信仰を知らないで執拗に物だけは言うってのは珍しいと思います。
 
強く信じることというのは、これだけでは語弊のあることですが、楽山は、その語弊に乗って、逆方向に、思い込みの強いことが強く信じることだという前提で、またしても、ねじ曲げて、宗教をおとしめているのです。思い込みと信仰は、全く違います。
 
宗教は、進行形で楽山が今やっているように捻じ曲げると理解不能になるということです。自覚のない楽山は悪意に満ちたホラーであります。またしても、おとしめが、そういった捻じ曲げ犯の楽山に返ってくるというブーメランとなっています。楽山は気づかないのです。
 
 
もう一つ気になったのは「万象の中に神を見る」という考え方である。これは自分にも理解できなくもないが、人は進化の過程で物事に意味を見出す習性を身につけたのであり、無意味さに耐えられない生物であるという話もある。
 
無意味さに耐えられないからと言って、勝手に神秘を見い出す習性は、理解されるようなものではありません。それを、楽山は、霊能者気取りから、人は「意味を見出す習性を身につけた」と言っています。習性として身に着けているつもりだけの高慢は、楽山その人です。
 
人が「物事に意味を見出す」と書いた時点で、何の意味も見いだせない楽山の妄想的曲解が、無意味に耐えられために神聖を捏造することの例となります。楽山にとって、神は、ペーパーなのです。自己愛によって捻じ曲げた意味付けをする楽山の語る "意味" に真実はありません。
 
内村鑑三は、万象に神を感じることを言っています。そして、そこで、楽山は、妄想的読み違いをして、意味を見出すのだそうです。自然の雄大さに、自分の信仰の意味を見出すでしょうか。自然から見い出せるのは、神への畏怖であり、信仰の尊さであります。信仰そのものではありません。
 
 
それならば、たとえ万物の中に神を見、感じたととしても、それは事実に基づくものなのか、それとも人の習性に流されて万象に自己流の意味付けをしているにすぎないのかを慎重に吟味すべきであるし、
 
楽山は、「慎重に吟味」するための、いかなる資質も持ちません。できるのは虚言だけです。したがって、この楽山の言は、突拍子もない勘違いであります。何を、万象の中に、慎重に吟味できるでしょう。直感するしかない大自然~森羅万象であります。
 
思いつきの、格好だけの、嘘八百もいい加減にしてほしいのです。今、楽山が、「万象に自己流の意味付けをしている」ということです。こうやって、全くの無理解であるのに、いかにも、勉強しているかのような見せかけの文言を吐いてくる楽山です。
 
 
この思惟を経てからでなければ、真に「万象の中に神を見)たとは言えぬだろう。けれども本講演ではそこまでは踏み込んで語られてはいない。ここは残念である。次回の講演でこの点についても語られているかどうかは分からないが、期待して読みすすめたいと思う。
 
楽山は、内村鑑三の言葉を、何も読み取っておらず、感性もなく、文字通りに受け取って、理屈をこねているだけです。万象を見れば、何でも、つぶさに理解できるのが宗教だと思っているようです。何が残念でしょう。楽山こそが、ずっと残念な人なのです。
 
しかも、気づかないのです。楽山は、庭園の石を見て、一生、そこで、意味を考えておればよいでしょう。宗教にも信仰にも縁(えん)はないと思います。内村の「低劣を自白」とは正反対の、高慢と傲慢の楽山の、自覚されず告白されない "高慢な低劣" が、鼻を突きます。
 
 
無明の照り

無明の照り
 
 
(2021年)
(2022年05月15日、再録+加筆)
 
 
 
  ブレーキングボール
 
ひねったつもりのブレーキングボールは
力なく外角へ落ちていく
そのあとに黒い軌跡が残る
一日を無駄にしたような気持ちで
メモ帳を一枚破り捨てる
部屋から出ていったあの男
別の自分に会いにいったつもりなのだ
行きつけの喫茶店などないのに
無駄な空気と
家畜になったような気持ちといっしょに
やがて帰ってくる
ぼろぼろの顔になって
そしてまた一枚ボールを走らせては
また一日意味のない軌跡を残す
あしたどんな軌跡を残すのか
もう一枚
もう一枚
ぼろぼろのメモ帳が笑っている
 
 
  叫び
 
叫びがある
叫びになりたい
 
命ある人ではなく
命になりたい
夢見る人ではなく
夢になりたい
歌う人ではなく
歌になりたい
 
何を見つめたらいい
 
無意味な人ではなく
無意味になりたい
死ぬ人ではなく
死になりたい
 
叫びがある
叫びになりたい
 
 
  池のある公園

ここに来るのも久しぶりだ
暖かい日曜の午後
池には無人のボートが数そう浮かんで
緩やかな風が
池の面にかすかな波を立てている
ほとりに向かって歩いていくと
俺に似たやつが
セメントのベンチに腰掛けている
片手には詩集のようなものを手にしているが
眺めているのはほとりに戯れる小魚の方だ
向こうからもやってくる
よれよれのブレザーを着て
手には紙屑を握っている
あれも俺だ
よく見れば
あっちにもこっちにも
数人の俺が歩いている
大学に入った頃の俺
野球場からの帰りの俺
バイクに乗り始めた頃の俺
ここにいる俺
見てみろ
俺達はなんてさびしげだ
声をかけあうこともなく
ただ声もなくたたずんでいる
俺が小石を池に投げると
ベンチに座っているやつがそれを眺めている
そいつの後ろから
そっと手を伸ばしてみた
それより早く
誰かが俺の肩に触った
はっとしてあたりを見回せば
暖かい日曜の午後
まわりを歩いているのは
みんな知らない人たちばかりだ
 
 
 
 楽山のツイッターですが
★こも/楽山日記3 @komo266
大川隆法によれば、神様は、人類の進歩のために、個々人が戦争の犠牲になってもよいと考えてるらしい。
 
楽山は、他者を批判する資格などありません。他者を自己中の犠牲にしてきた人です。そして、何も理解していない楽山が、ためらいもなく、神が「個々人が戦争の犠牲になってもよいと考えてる」などと軽々に神を持ち出すのは、それこそ、反キリストの発想です。人類の進歩に逆行することです。
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
人間なら当たり前のことを守れず、それを、「人間の性」と言って、みんなそうでしょ・・という見なしをもって、自己正当化を図る、楽山の詭弁です。当たり前のことが出来ない、反省を難しいことだと言う、これは異常です。このように、楽山が正常から外れていることだけが、ずっと表れてきたのです。
 
 
 
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  ボンヤリ言語の誘導(7)2
 
 自分を映す鏡としての幸福の科学
  2020年05月02日
 楽山日記(LD)
 
 
楽山の言は、批判を向けられても、いっさい、気にしないという他者無視と一体の執着から出来ています。宗教と信仰における異常者とは、教祖的強引さだけではなく、ペテン師の嘘と詭弁という場合もあることを示している楽山です。
 
人間らしさ、謙虚さ、断定を避ける、そういうところに破壊の根を持つカルト妄想は、罪悪感と羞恥心を全く欠いているので、何を言われても、何ごとも無かったかのように、誘導を続けます。素顔が血も涙もない仮面の芝居なのです。こうやって、誰に対しても、人間性喪失に向かって誘導してきます。
 
 
前々から薄々気が付いていたことではあるけれど、自分にとってHSを批判するということは自己を知ることであるらしい。
 
自分についての真実を追求する楽山の言を一度も見たことはありません。楽山の言は、いつも、他者に向いており、印象を植え付け、シンパ(シンパシー、共鳴、同情)を求めてくるという柔和芝居であり、そのためのボンヤリ言語なのです。
 
その分、教祖として豪語し、従え、という妄想家カルトより、むしろ、悪質と言えるのでしょう。楽山のやり方では、人間を、心という器(うつわ)から破壊してゆきます。
 
 
たとえば現在のHSは、神は人に信仰を求めており、信仰を持たない者には神罰が下されるとしている。自分はこれに対して、そのような神は祟り神ではあっても、真の神であるはずもないと異論を述べるのだが、これは表向きはHS批判ではありつつも、別の面ではHSに反発することで自己の持っている神のイメージを再確認しているという面もあるのだ。この意味で自分にとってのHSは自己を知るための鏡だといえる。
 
楽山は「真の神であるはずもない」と言いながら、信じてもいないのに「神のイメージを再確認」と言っています。統合失調の傾向とも見えますが、無節操であることは確かです。神は、イメージでも概念でも捕らえられる対象ではありません。楽山は神を文字だけで語っている心無い無神教カルトです。
 
このように、カルト批判を装って、そこから、自らを高めてゆきます。神のイメージを再確認、などという言葉は、楽山が神を信じる者ではないことの証拠です。神は、確認できるような御方ではありません。ゆえに、信仰対象となるのです。
 
 
ちなみにこの構図は自分がHSの会員だった頃も同じだ。当時HSは神は愛であり、人を裁いたりはしない、人は死後に神に裁かれてではなく、波長同通の法則によって天国的な心の人は天国へ、地獄的な心の人は地獄に赴くことになると説いていた。
自分はこれに共感することで自己の中にあった神のイメージに自覚的になることができたのだった。
 
楽山は「波長同通」という妄想的なことを、当たり前の言葉として書いて、なお、否定しないわけです。神についての話で「共感」と言うのは楽山の嘘です。ましてや「自己の中にあった神のイメージに自覚的になることができた」などは、神とは何の関係もない妄想だと思います。
 
 
自分は無宗教の家で育ち、特定の宗教教義を信じているわけではなかったので、神の存在を信じつつも、その神とはどのような存在であるかを説明できなかった。でもHSの説明を聞き、それに共感することで自分にとっての神を言葉という形で知ることができたのだ。
 
上の説明で「自分にとっての神を言葉という形で知ることができた」と言っていることが、楽山の思考の幼稚さが表れています。いかに、楽山の神?が、いかに安い出来であるかを知ってほしいです。「神を言葉という形で知ること」など出来ません。楽山の安易な曲解からの大嘘です。
 
ここは、神を、例えば、あ、分かったよ、知ってるよ、と言っているような、救いがたいほどの浅はかさが表れているのです。まともを装う表面的な筆致とその内容の浅さ幼稚さの、決して一致しない対照が、ボンヤリ言語なのです。
 
 
自分は昔と今とではHSに対する立ち位置は会員から批判者へと百八十度変わっている。
 
変わっていないと思います。うまく利用したつもりなのです。
 
 
でも上に書いた通り、HSによって自己を知るという点では少しも変わっていない。
会員だった頃はHSへの共感によって、批判者になってからは反発によって自己を知る機会としている。HSにとっては迷惑なことではあろうが、どうもHSと自分との関係は前からこのようなものであるらしい。
 
上のほうで「HSの説明を聞き、それに共感することで自分にとっての神を言葉という形で知ることができた」と言ったばかりです。どこが「反発」なのでしょう。日本語を壊して使うのがボンヤリ言語で、楽山は、HSを、適当に、不適当に、気分次第で、利用しているだけなのです。
 
 
 
 神秘体験と宗教の正邪
  2020年05月02日
 楽山日記(LD)
 
 
楽山の、悲惨な、分かるんだ、知っているんだ、体験したんだ、自分は特別なんだ、というアピールが、神聖に対する微塵の恐れも謙虚さもなく、さらさらとボンヤリ言語で、表れています。
 
 
幸福の科学(HS)の会員だった頃、会員の集いで皆と神理の話で盛り上がった後の帰り道で不思議な感覚を味わったことがあった。これは光輝く神と出会っただとか、その声を聞いたというような派手なものではなかったが、とにかくそのときの幸福感は圧倒的なものだった。
自分にとってこの体験は一体何だったのかということが長年の疑問だったのだが、先日ジェイムズの『宗教的経験の諸相』を読んでいたら、自分の体験と同種のものと思われることがいくつも紹介、考察されていて驚いた。
 
楽山は、自己愛性人格障害の自己顕示欲から、自分の、宗教が分かるっぽい、心霊が分かるっぽい、という印象を、学者の名前を通して、まるで既知であるかのように刷り込んできます。楽山は、感動、理解、共感、ということから、最も遠い人です。「幸福感」は一種の異常気分ですが、嘘だと思います。
 
 
もちろん本書で紹介されているものと比較したら、自分の体験は随分とつつましく、貧弱なのだが、それでもその本質的な部分では共通するものがあり、同系統のものと思われるのだ。
 
このように、ぼんやり、謙譲から自慢へと、当たり前に成立しているように、本と体験が共通、同系統、というボンヤリ言語の言い方です。実際には、心霊についての自分の超能力をを肯定する自慢話になっているのです。
 
 
このことからすると、どうやらあの体験は、宗教的にはそれほど悪いものではないようだし、またHSに限定されるものではなく、他宗教でもあり得るものであってそれほど特殊なものではないようだ。
 
「それほど悪いものではないようだ」・・何なのでしょう。こういう言葉で信仰と神を表すこと自体、何も理解していない証拠です。珍味のグルメレポートでしょうか。しかも、内容は皆無なのに、他宗教でもと、一般化したいようです。楽山は、いかなる宗教も知りません。
 
 
よく言われることだと思うのだが、神秘体験というものは宗教に属するものではなく、個々人に属するものであり、もっと言えば、その時、その場所、その心境に依存するものであるというのは真理の一面を表してはいるのだろう。
 
(ネットより)
神秘(しんぴ)とは、人間の知恵では計り知れない不思議、普通の認識や理論を超えたこと[1]。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E7%A7%98
 
神秘は、言ってみれば、神の秘密であり、人に属することなど無いのです。楽山の、すっとぼけた慢心が、神という真理の秘密を「人に属する」つまり、自分は分かると言わせています。
 
霊が分かるっぽいと思っている楽山や、神の啓示だから議論の対象にならないと言うシャロームなど、こういう者が、妄想をもとにカルトを捏造してゆくのです。
 
 
だからカルトでも神秘体験はあり得るし、神秘体験があったからその宗教は正しいものであるとはいえないのだ。
 
神秘体験=宗教、という安っぽい先入観を否定して、逆に、カルトでもありうる、などという誘導は、詭弁以外の何ものでもありません。ここは、神秘体験はあり得ると言って、宗教の正しさではないと言い、結局、自分にも、そういう神秘体験があると言いたいのでしょう。発言の軽さに驚きます。
 
カルトでも、宗教でも、人間が神秘体験を根拠にし始めたら、人間性を捨てる方向に向いてしまうので、宗教による人間の救いは、終わりなのです。楽山は、どこまで、デタラメを言い、自分を霊能者気取りで高めるために、嘘を吐き続けるのでしょう。
 
 
HS信者をみていると、残念なことに自身の神秘体験とHSとを別個に分けて考えることができず、両者を安易に結びつけてHSで神秘体験があったからHSは本物であり正しい宗教だと主張する人が散見される。
 
実に軽く、安易に、神秘体験を扱っている楽山です。いかなる神秘も、すっとぼけた軽口の楽山に縁(えん)はないと思います。神秘は、神の秘密、人間が驚くテーマであっても、人間が扱えるテーマではありません。
 
 
聞くところによると、オウムでもそういう信者はいたという。この二つを分けで考えることは口で言うほどやさしいことではないのでそれも致し方ないことではあるが、判断をあやまらないためにはここはぜひとも気をつけなければならないことではある。
 
他のカルトを引き合いに出して、宗教と神秘体験を分けると言っていますが、神秘は、結ぶことも、分けることも、できないから、人知を超えた神秘なのです。神秘体験にこだわっている間、神秘からの救いはないと言っても過言ではないのです。
 
「やさしいことではない」ことを、実に気楽に書いてくる楽山です。人間らしい良心を失った、あるいは、捨てた、楽山の心性は、特別の存在になって、神が分かる、体験した、神秘体験だだだ・・と、機関銃のように言わないと気が済まないようです。
 
 
なんだか偉そうなことを書いてしまったが、自分もこの点についてはまだまだ徹底することはできず未熟であるし、この点よくよく自戒したいと思う。
 
だったら、偉そうなことなど書かなければよいのです。自戒する精神を持たず、偉そうなことだけを書きたい楽山であることが、もはや、ザルのように漏れ出てきます。実に恥ずかしい男です。
 
楽山については、思い切りバカにしていいのではないかとさえ思います。求めること、学ぶこと、反省すること、成長すること、これら一切をしなかったゆえの、常識と良心のない知恵足らず、と申し上げておきます。霊が分かるっぽいと思ったときから、そうなってきたのでしょう。
 
 
 
 拝み屋さんと伝統宗教に対する偏見2020年05月02日
 
 
楽山という人は、やさしいと書いて、やさしさを知らず、思いやりと書いて、思いやりを知らない人だと思います。良心に欠ける部分を、温もりを表す感想の言葉の飾りだけで補うことなどできません。温もりは、良心の産物だから、言葉以上に、体験の実(じつ)を持っているのです。
 
楽山に、発言の実(じつ)はありません。その代わりに、温もりのない楽山は、言葉で、べた褒めという手段を使うことになります。それを、思いやりと言ったり、共感と言ったりして、自己満足する言葉の稚拙さから、嘘も詭弁も思い込みも妄想もバレてきました。
 
そういう言葉の技(わざ)で、でっちあげても、楽山のボンヤリ言語では、芝居に過ぎず、わざとらしい言い過ぎになったり、ピント外れであったりするために、今までの記事の流れを考えて読むと、不自然感満載の文章だと分かるのです。
 
そのことにも、楽山だけは気づかないのでしょう。だから、平気で、どんなもんだい、わかってるんだとばかり、図々しく書いてくるのです。記事の中の言葉だけでなく、今までの楽山の記事の、反キリストの主張の流れというものが楽山を否定する、ということにも、楽山だけは気づかないのです。
 
今回の題材は、すなわち、楽山の自慢のネタにされているのは、拝み屋さん、祈祷師と呼ばれる人たちです。自分の霊感以外を正当と認めることのない楽山に褒められることは、災いでしかありません。
 
 
HSの教義はその時々で改変されるものなので、いまはもう変えられたかもしれないが、自分が会員だった頃のHSでは、拝み屋さんや伝統宗教についてはかなり否定的な見方をしていたのだった。拝み屋さんのほとんどは偽物で悪霊に憑依されているとか、伝統宗教は形式主義に陥っているだとか…。
 
楽山の狙いは、自らが、柔和で、視野が広く、人間味に溢れていることを主張したいがために、拝み屋さんも認めていますとアピールしたいようです。楽山が、今まで、しばしば、ボンヤリ言語で、やさしさ芝居をしてきたことを忘れてはいけないと思います。
 
どんなに詭弁を弄しても、頑強にキリスト信仰を否定してきた今までの流れから、策略としか見なされないだろう、という予測すらも出来ない楽山であります。そういう鈍麻の無頓着から、何を言われても、平気で記事を書いてきたのでしょう。
 
 
自分は会員だった頃はこれをそのまま信じていたのだが、退会したあとは、実際に拝み屋さんと会ったり、宮司さんの仕事ぶりを見る機会があったりして、段々とそういう考え方からは離れて行った。
まず自分が会った拝み屋さんは物静かで、落ち着いた雰囲気の人だった。悪霊に憑依されていると感情の起伏が激しくなり、ちょっとしたことで激怒したり、常識から外れた奇行が出たりするというけれども、そういうところは全くなかった。神様のことを信じていて、神様の話をすることが大好きで、迷っている霊がいればたすけてあげたいと思っている優しい人だった。
 
楽山こそ、いつも「物静かで、落ち着いた雰囲気」を装う嘘吐きであります。実際には、自分が否定したことにも、肯定したことにも、訂正不能に凝り固まっているのに、一貫して無責任です。つまり、どちらも、言ってはみたが、忘れるか、ぼかすかして、一定の主張に達することがないのです。
 
言葉だけの神様、即ち、紙様の話をするのが無責任に無反省に大好きで、人が本当に優しいかどうかなんて簡単に分かるはずもないのに、気安い世辞を言って、神霊に結びつけ、神霊の話をでっちあげて、自分と結び付けてくる楽山です。
 
そのことは、批判記事に対して以前返してきたのが詭弁だけであり、結局、不感不応で訂正不能である、ということを楽山自ら証明してきたデタラメな記事の流れに表れているのです。何をネタにして語っても、ペテン師とバレた以上、一切は無駄なのですが、病質によって、気づかない楽山です。
 
 
肝心の儀式の際には、拝み屋さんは祭壇に向かって正座をし、二、三時間にわたって一心不乱に祝詞を唱え続けていた。その間、背筋を伸ばし、膝を崩すこともなく、気を引き締めて、本気で祈りつづけていた。それでいてお金はロウソク代という名目で二千円だった。
 
2~3時間の祈祷で二千円だからと、拝み屋さんが良い人のようだからと、その宗教と信仰自体を、本気だと、本物だと、判断してよいものでしょうか。ここに、楽山が、宗教と信仰を、いかに軽く見なしているかが表れています。楽山は、いつもそうです。
 
 
次に伝統宗教について書くと、自分が出席したとある神葬祭における宮司の祝詞は、故人の生涯を語り、労い、讃え、平安を祈るものであって、もし故人が聞いたらきっと喜んでくれるにちがいないと思えるものだった。この宮司さんは神葬祭のときはいつも、遺族から故人の話を教えてもらい、それをもとにして祝詞を用意する人だとのことである。きっとそれだからこそ、宮司さんの祝詞には、参列者のみなが熱心に聴き入ったのだろうと思う。これはどんな詭弁を用いても、形式主義に陥っているなんて言えなかろう。
 
楽山の、根拠にならないような、嫌がらせの、言いがかりの、いやみったらしい、今までの、キリスト教とキリスト信仰に対する攻撃からは、楽山が、祈祷する人が一生懸命な態度であったら形式主義ではなく、本物の宗教だと思っているなんてのは、これまた、大嘘としか思えないのです。
 
楽山には、積み重ねられてきた負の、狡猾な悪の、偽善の、凶暴な悪意の履歴があります。みんな自分に好都合なように、その時その時で、出まかせを言ってきたのが、楽山です。だまされないでください。楽山に付き合うと、精神が鈍麻して奴隷のような精神を植え付けられる恐れがあります。
 
楽山は、恐らく、宗教を、超常言葉と儀式くらいにしか見なしていないのです。その宗教は、まるで、悪くない習慣のようなものでしょう。楽山には都合が良いのでしょうが、それで、人間が救われることはないと思います。
 
 
もしかしたら自分が出会った拝み屋さんも、宮司さんも宗教界では例外的な存在であり、自分はたまたま当たりを引いただけなのかもしれない。でも自分は根がお人好しにできているせいなのか、これが普通であるように思えてならない。拝み屋さんにしろ、宮司さんにしろ、基本的には善い人が多いのではないかなと…。
 
ここで、たまたま当たりを引いた、お人好しにできている、良い人が多いと、謙譲な善人芝居をしてきます。これら一切と、今までの、キリスト教への妄想的誹謗中傷は、全面的に、矛盾します。褒める、という、気持ちのよさそうなことを、楽山は、めいっぱい、悪用する人です。
 
 
そういうわけで、先に書いたようにHSでは他の宗教者を低く見るところがあって、自分はそれを信じてしまったこともあったけれども、いまははっきりとそれは間違いだったんだと思うようになっている。
 
楽山の謙譲は、ことごとく大嘘です。楽山は、自分と自分の主張だけを100%客観的だと信じ込んでいる病的ナルシストです。明確に間違いなのは、楽山に、まともに関わることです。無駄な疲労をもらわないように、人格を破壊されないように、楽山にだけは近づかないでください。
 
記事全体が、ホンヤリ言語、世辞、嘘、という楽山の詭弁の罠であります。反省という要素が全くなく、まともな情緒が育っていないにもかかわらず、やさしさ芝居の台詞だけで、言い得たと満悦することのできる非情・冷酷の機械的な仕掛けを持つ欲望が、楽山なのです。
 
 
落日に追われる者

落日に追われる者
 
 
(2020年)
(2022年05月14日、再録+加筆)
 
 
 
  ひっこし
 
破れて失われた
日記の頁には
何が書かれてあったのか
読めない字
意味のない落書き
詩のようなもの?
 
どこを捜しても見つからない本
ふとこぼれ落ちた小銭
買った覚えのない週刊誌
紐を取ろうとして
けつまずいて倒れた
お腹の上に文庫本落ちる
ほこりが鼻をくすぐる
ボール箱には奇怪な傷
いつのまにか壁にはしみ
窓の外では風が止み
くすんだ青空
虫が横切る
 
はて
どこかで同じような?
 
破れて失われた日記の頁に
何が書かれてあったのか
 
 
  初夏
 
夏の光めがけて
手元がくるった
水があふれる
きらきらと
小さく跳ねる水の光
閉じこめられた夏
 
 
  処理
 
耳ザーザーと鳴って
目のまわりや
顔のこわばり
皮脂の具合など気にする
 
累々と並んだ屍を
無雑作に引きずっていく男達
今日のうちに彼らも
この列に並び横たわるかもしれぬ
 
耳ゴーゴーと鳴って
筋肉の痛み
胸のつかえ
骨のねじれた感覚のために
眠ることかなわず
食欲低下し
衰弱して横たわる
 
穴を掘る
大きな穴
小さな穴
屍を放り込む
そのとき
男の眉間に黒い点現われ
そのまま穴の中へ落ちてゆく
一人処理が済んだ
 
耳サーサーと鳴って
横たわったまま
口をきかなくなる
最後に痙攣して
動かなくなる
 
真っ先に
いなくなる人達
涙は
メディアの向こうで乾いてゆく
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
自己愛性人格障害のもたらす大きな災いは、成長しなくなることです。反省しないために、新しい学習をしなくなるので、身につけるのは自分に都合のよいことだけという生き方で、金太郎飴のように同じような顔のままです。金太郎飴と異なり、無駄に肥厚するのは、堕落という経年劣化なのです。
 
 
 
私の「ウソの国ー詩と宗教」ブログ:
 
(古い記事は載っていません)
 
http://st5402jp.livedoor.blog/
(古い記事もインポート済み)
 
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(ここは、たまにブログ記事をリンクする程度)
 
 
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  人間を舐めている楽山
 
 映画『ハンナ・アーレント』
 2018年06月02日 楽山日記(LD)
   を批判。
 
 
楽山は、歴史上の出来事について、「圧巻」「すごい」「急所を突いてる」と書いて、その中身を書けないのです。さらに、注釈的な情報を載せるでもなく、説明するでもなく、独りで満悦して、終わるのです。いったい誰に向けて書いているのでしょう。楽山は自分に向けて書いているだけだと思います。
 
楽山が、前の私の批判記事にあるように、思想家アーレントについてツイートしていたので、関連のブログ記事を批判対象とします。もちろん、批判対象は、アーレントではなく、楽山です。身の程知らずの楽山が、何かを発表すれば、そこに表れる嘘や詭弁が批判対象になるということです。
 
 
本作は、哲学者ハンナ・アーレントの伝記映画である。
ただし伝記映画とはいっても、その生涯を辿るのではなく、ナチ高官のアイヒマンの裁判を傍聴し、そのレポートを発表した後の騒動について集中的に描かれている。
その中でも、アーレントが自らの考えを述べる部分は圧巻である。
 
(ネットより)
ハンナ・アーレント(Hannah Arendt、1906年10月14日 - 1975年12月4日)は、ドイツ出身の哲学者、思想家である。ユダヤ人であり、ナチズムが台頭したドイツから、アメリカ合衆国に亡命した。のちに教鞭をふるい、主に政治哲学の分野で活躍し、全体主義を生みだす大衆社会の分析で知られる。
ハンナ・アーレント
 
(ネットより)
ユダヤ人の哲学者ハンナ・アーレントが雑誌『ニューヨーカー』の特派員としてこの裁判を傍聴して書いた『イェルサレムのアイヒマン――悪の陳腐さについての報告』(みすず書房)の中で、イスラエルに裁判権があるのか、アルゼンチンの国家主権を無視して連行したのは正しかったのか、そして裁判自体の正当性に疑問を投げ掛け、ユダヤ人の中から激烈な批判を受けるなど、激しい議論を巻き起こしたこともよく知られている。
アイヒマン裁判
 
自分の意見というものを持たない、というより、持てない楽山です。それで「圧巻」という褒め言葉です。つまり、体裁よく書くことだけが目的なのでしょう。楽山にとって、ブログは、自分の中身を高めるのではなく、自分の体裁を高めるためのものなのでしょう。
 
 
たとえば、以下のくだりはすごい。
西洋には伝統的先入観がありました
人間が行う一番の悪は利己心から来るものであると
ところが今世紀に現れた悪は予想以上に根源的なものでした
今なら分かります
根源的な悪とは分かりやすい動機による悪とは違います
利己心による悪ではなく もっと違う現象によるものです
人間を無用の存在にしてしまうことです
強制収容所は被収容者に対して無用の存在であると思い込ませ殺害しました 
 (50:12~)
 」
アーレント(バルバラ・スコヴァ)は、映画の序盤で、収容所にいるときに、はじめは救けが来ると希望を持っていたものの、時間が経つうちに疲れはてて気力がなくなっていったことを告白している。
「無用の存在」うんぬんとはそういうことなのだろうか。
 
楽山は、自分が、「無用の存在」以上に、邪悪な存在であることに気づいていません。だから無反省そして無責任に生きていられるのです。だから「うんぬん」としか書けないのです。「殺害」という言葉は、楽山にとって、どういう意味でしょう。恐ろしく軽く気安く見ている気がします。
 
 
根源的な悪は、利己心とは別にあるという発想は分かるような気はする。
自分は某宗教団体にいたことがあるが、そこでは利己心ではなくて、使命感、正義感などの利他的な思いによって、不道徳な行いを正当化する信者が少なくなかった。
次の台詞も急所を突いてる。
 
楽山の「根源的な悪」は訂正不能の「利己心」です。しばしばカルトにいたことを示して、犠牲者に共感がある立場を強調しますが、楽山自身が、自己愛と他者無視の自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)に漫然と生きて、他者を巻き込もうとするカルトなのです。
 
 
彼は思考不能だった
これは愚鈍とは違う
彼が20世紀最悪の犯罪者になったのは思考不能だったからだ 
 (1:07:55~)
 」
彼は検察に反論しました
何度も繰り返しね
“自発的に行ったことは何もない”
“善悪を問わず自分の意思は介在しない”
“命令に従っただけなのだ”と
 (1:37:44~)
 」
組織は、個々の判断よりも、命令に忠実であることを求めるものであろうし、独裁者がトップに立つ組織なら、その傾向はなお一層強まるだろう。
ことに神と同一視される教祖と、その信者によって構成される宗教団体なら、そうならないようにするのは、恐らくラクダを針の穴に通すより難しい。
 
楽山は、カルトにだまされないことを、聖句を引用して「ラクダを針の穴に通すより難しい」と言っています。カルトに盲信するのは、自己責任ではないとでも言うのでしょうか。いいえ、カルトの邪悪さを受け入れてしまう精神の脆弱さはあると思います。そして、楽山は、さらに邪悪になっています。
 
 (マタイによる福音書、口語訳)19:24
また、あなたがたに言うが、富んでいる者が神の国にはいるよりは、らくだが針の穴を通る方が、もっとやさしい」。 
 (マタイ19:24、新約聖書)
 
聖書を、ろくに読んでおらず、理解もしていない楽山は、富と天国についての聖句の比喩を、自分の目的のために悪用します。自分で勝手に一般化して、気安く聖句を利用するのは、おとしめ以外の理由はないでしょう。反キリストの楽山は、情性が欠如しているので、神にも人にも恐れをいだきません。
 
キリストの言葉を、気楽に使い、聖句を知ってるふうを装う、という楽山の表現は、聖書の価値も、キリスト教も、信仰も、まるで分っていないだけでなく、聖書をバカにしたい気持ちの表れです。偽善者の悪意は、このような表れ方をします。楽山は、思考不能だけでなく、一貫して思考が邪悪です。
 
 
アイヒマンの擁護などしてません
私はかれの平凡さと残虐行為を結びつけて考えましたが
理解を試みるのと許しは別です 
 (1:41:04~)
 」
こういう誤解をする人がいることは分かる。
たとえば、A氏が、問題を抱えているB氏の内心を知り、理解するために、その話をよく聞く姿勢を見せただけで
「A氏は、B氏と親しくしている。二人は仲間だ」などと誤解され、中傷されることは、さほど珍しいことではない。
 」
 
なぜ、名前を書かずに、A,Bで、一般化して表すのでしょう。「珍しいことではない」というのは、人間なんて、そんなものと言いたいのでしょうか。結局、俯瞰したつもりで、実際は、偏見だけを表しているのです。重大なテーマから乖離したところに楽山の自己満悦はあるようです。
 
楽山は、楽山の無反省と無責任という自身の罪で、責められるべきです。決して、一般化できません。楽山のように、あってはならないという意識を忘れること、持たないことは、つまり、楽山は、殺す側の人であり、思考不能なのです。
 
 
ソクラテスやプラトン以来 私たちは“思考”をこう考えます
自分自身との静かな対話だと
人間であることを拒否したアイヒマンは人間の大切な質を放棄しました
それは思考する能力です
その結果 モラルまで判断不能となりました
思考ができなくなると平凡な人間が残虐行為に走るのです
(1:41:32~)
 」
考えることを放棄するならば、モラルを失い、残虐行為に走るというのは、決して過去の話ではなく、現在も変わらないのかもしれない。
独裁者、独裁政権、カルト教祖などの言説を、無批判に受け入れ、その意のままに動く輩は、今も少なくない。
 
過去の話として考えてはいけないというのは当たり前のことです。何かを感受して思考するのが人間です。楽山には、まず、まともな感受が出来ません。いつも悪は他者のものという前提で書くのは、自己愛性人格障害の特徴です。楽山は、よく、論点整理などといいますが、楽山に論点はありません。
 
楽山は、印象操作によって無批判に受け入れられることを悦び、批判されると、批判者を侮辱し、批判を無視してきたのです。つまり、凄まじいことに、悪者が悪をあげつらい、偽善者が偽善をあげつらっているのが、楽山の言論です。というより、楽山において、言は偏向し、論はないのです。
 
 
こういう風に、組織の歯車や、指導者の操り人形になることは、誰もが間違いであると判断することだろうけれども、思考停止に陥っている者は、自分がそのような状態になっていることには、なかなか気づけないのだから悲惨である。
 
楽山の言は、そして、遣り取りは、いつも、読者の思考停止と混乱を狙っています。それで、社交の世辞でも、賞賛の言葉でも返ってきたら、楽山の自己愛は有頂天に満たされるのでしょう。今後、そういうことが決して起こらにようにという願いから、私は、批判記事を書いています。
 
 
本作は、ハンナ・アーレントについてはよく知らない人でも楽しみ、感動できると思うし、特定の政治または宗教団体に属していた者には、さまざまな気付きを与えてくれるにちがいない。
公開時には、平日でも映画館は満員になったというが、それも当然と思える名作である。
ぜひ多くの人々に見てもらいたい作品だと思う。 〈了〉
 
映画評論家を気取っていますが、正体はペテン師です。いつも、刷り込んで、印象操作して、屁理屈と詭弁の迷路に誘って、相手が疲れるのを見て、悦に入る楽山です。そういうとき、いたわりを装って、実は、あざ笑いの向こう側から蔑んで言うでしょう。疲れたんじゃないですかと。楽山は笑っています。
 
無防備で、楽山の裏を見抜けず、なんとなく肯定的に聞き入れてゆく人は、楽山の下で、主体性を失い、受動的に、楽山の言を、実は、だまし文句の詭弁を、間違って受け入れて、委縮して、人格を、鈍化され、壊されるでしょう。そして、だんだん、楽山に似てくるのです。
 
楽山は、神と聖書と信仰についての、恐ろしく単純で幼稚な決めつけを書きながら、まるで軟化剤でも混ぜるように、世辞や丁寧語で飾って、ごまかしているのです。楽山の理解は、偏向した自己のカルト思想をベースとした曲解と妄想であり、楽山は、悪性の自己満足疾患であります。
 
理路の代わりに迷路を、癒しの代わりに心の病を、丁寧語とインテリ気取りで刷り込んでくるのが楽山です。楽山には、大人の知性がなく、高等感情の自責の念や、罪悪感や、自らを見る反省する心が、欠損しています。楽山も、楽山を受け入れる人も、小学生レベルに退行してゆきます。
 
私は、数が月、楽山を柔和だと思っていた初期の感想の過ちから、楽山と遣り取りを通じて、何を言ってる?、違うだろ?、といった感じで、聞き返しては空しく、異様な疲労のうちに、ようやく、楽山のサイコパシーに気づいて、その後、3年余り、批判を続けています。
 
だまされないためには、関わらないことだけです。あの疲労はごめんなので、楽山は出入り禁止にしています。さんざん詭弁で振り回しておいて、今さら、双方向を求めるなど、冗談じゃありません。報いを受ける日が近づいてきています。神は、いつまでも黙って見ているわけではないと思います。
 
精神病の患者さんには、正直な人が多く、愛すべきところが多々あります。楽山には一片の正直も誠実もなく、だますための装いだけです。楽山のような精神病質(自己愛性パーソナリティ障害者、サイコパス)こそ、最大の非難と軽蔑を向けるべきであります。
 
精神病質は、人格障害であり、精神病になりやすい性質という意味ではありません。その辺が、紛らわしいので、人格障害(パーソナリティ障害)という呼び方になったのかもしれません。
 
 
嘘を舐める悪意

嘘を舐める悪意
 
 
(2022年05月13日)
 
 
 
  失われた一人
 
失われた夜の向こうで
一人は首をかしげ
一人は嘘をついた
まだ笑顔で泣けるだろうか
 
真昼の星の下で
一人は別れを告げて立ちすくみ
一人は出会いを祝福して去った
まだ影は立つことを望むだろうか
 
夕焼けが滲む速度の中で
一人は一人に
もう一人はもう一人に
お互いの不在について語った
 
灯もなく誓いもなく
まだ火に焼(く)べる信条があるだろうか
 
夜の向こうで灰と化した紙切れが
見ることのない朝を刻んだ
 
 
  一つの嘘
 
お前(私)は祈りの中で嘘をついたな
御心ならばわが命に代えて、などと
お前は確かに嘘をついた
もしお前が健康で有能で仕事がうまくいっていたら
わが命に代えて、などと祈れたか
仕事がうまくいかずに
やけを起こしていたからだろう
命と引き換えに奇跡が起こって
聖人にでもなるつもりだったか
お前のやけに彼女を引き合いに出すなんて
知らないうちに、一週間も前に
もう死んでしまった人を引き合いに出していたなんて
 
さっきから煙草を吸ったり握ったり
煙草の箱をくるくる回したり
パソコン周りの空き缶や書類やごみ
下の方を見回したり何をやっている
 
馬鹿野郎
 
 
  夢に出てきた
 
初恋の人が夢に出てきた
若い頃はよく出てきた
近年お久しぶり
夢に出てくる彼女
後ろ姿だけのこともある
似ても似つかぬ人だったりする
頭に二~三個、円形脱毛症だったこともある
 
思い出せば全く別の人
夢の中ではしっかり彼女になっている
今日のは割とまともだったな
勝手に批評している
 
若い彼女
年とった彼女
ご丁寧に二人も登場した
年とった彼女など知るはずもない
もう二十年以上経つ
どう形成したのか
若い彼女より硬くて冷たい顔だった
どこか寂しげ
そこまでいくと嘘になる
 
目覚めのとき忘れてしまった
思い出せない彼女
もっとたくさん見たのだろうな
夢見る間だけで消えた人
本物は何処の空の下やら
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
嘘で世渡りをしていたら、いずれ、吐いた嘘が返ってきて、にっちもさっちもいかなくなる、ということが常識人には分かるから、努めて嘘は付かないのだが、それが分からないのは、内省しないからだということも分からないようで、また、嘘吐きの記事が表れる。開き直りが悍(おぞ)ましい。
 
楽山は、かつて、数か月の間、キリスト信仰をおとしめました。その言い分は、実に情ないほど幼稚なものであり、無根拠の嫌がらせと判断したゆえに、楽山批判は、楽山という、とんでもない人がいるから近づかないでくださいということを書くのです。卑怯な人物の例として書き残すのです。
 
書くべきと判断したから書くのであり、楽山が書いても書かなくても、こちらの批判は続くでしょう。ゆえに、批判ブログは、アクセスや、いいねが、多いから、少ないから、という理由で、書いたり書かなかったりを左右されるものではありません。
 
 
 
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  時と風2
 
 
時は風のようなものだ
 
あの日の時と
今の時と
それほど変わりはない
 
同じような時が日々の必要を告げる
 
あの日の風と
今の風と
それほど変わりはない
 
同じような風を頬に受けている
 
私たちの変わりようといったらどうだろう
 
時は風のようなものだ
 
流れてゆくようで
流していて
 
流れてゆくのは私たちのほうだ
 
 
私たちは時ではない
私たちは風ではない
 
時も風も空しさを感じない
感じるのは私たちだ
 
私たちは
時に乗じて風のように進むのではない
 
時にも風にも限りはないが
私たちには限りがあって
 
時にも風にも変わりはないが
私たちは変わりがあって
 
必要に応じて
受けて考えて返してゆく
 
感じるならば返してゆく
 
 
※ 
 
あの日の時と風も知らないのに
まるで比べるかのように
未知の終わりに向かって変わり続ける自分
 
その悲哀を共感できる人は信仰に向いている。
 
一方で、そういう共感を全く持ち得ない者がいて、反信仰しか語れなくなっているが、そういう者が、なぜ、生まれて、存在しているのか、という疑問は、神がいるのに、なぜ、悪があるのか、という疑問とともに、神の大きな懐に秘められているのです。
 
 
 
 (伝道の書、口語訳)1:14
わたしは日の下で人が行うすべてのわざを見たが、みな空であって風を捕えるようである。
 (伝道1:14、旧約聖書)
 
 (伝道の書、口語訳)
2:25
だれが神を離れて、食い、かつ楽しむことのできる者があろう。 
2:26
神は、その心にかなう人に、知恵と知識と喜びとをくださる。しかし罪びとには仕事を与えて集めることと、積むことをさせられる。これは神の心にかなう者にそれを賜わるためである。これもまた空であって、風を捕えるようである。
 (伝道2:25-26、旧約聖書)
 
 
 (伝道の書、口語訳)
4:15
わたしは日の下に歩むすべての民が、かのわらべのように王に代って立つのを見た。 
4:16
すべての民は果てしがない。彼はそのすべての民を導いた。しかし後に来る者は彼を喜ばない。たしかに、これもまた空であって、風を捕えるようである。
 (伝道4:15-16、旧約聖書)
 
 
「風を捕えるようである」というのは、以前は「風を追うようなものだ」という訳でした。前者は、言葉から、出来ないと直ぐ分かる。後者は、追おうとすれば追えるけど、切りがなく、人生を費やすには、空しい、という感じになり、私は、後者の方を好みます。
 
信仰を持ち、日々、何かを努めるとしても、私たちは、時が経てば、寿命が尽きていなくなる存在。「風を捕えるようである」≒「風を追うようなものだ」、つまり、私たちは空しい存在だ。この地上の世界は、限りある私たち人間にとって、空しく思えてならない。
 
そのことを強調しながら、伝道者が伝えるのは、2:25~26にあるところの、神を離れては楽しめない、 ≒ 神がおられるからこそ楽しめる、という教訓的な讃美になっている。
 
地上の人の生き様が、いかに空しいかを説きながら、神のもとで楽しむことを説いている。いわゆる神への、逆説の讃美歌となっている伝道の書。私は、そういう伝道の書が好きです。
 
 
風 山

風・・山
 
 
(2020年05月02日)
(2022年05月12日、再録+加筆)
 
 
 
  影のうすい男
 
生きているのか
死んでいるのか
よくわからないほど
影のうすい男が歩いていた
まわりを歩いている人に関心を持たず
また彼が関心を持たれることもなかった
生きるとは何か
という前に死とは何か
という前に生きるとは何か
彼は今生きているのか
それとも死につつあるのか
人が「この人は死んだ」と言うとき
彼は生を終えるのか
それとも死ぬのがやっと終わるのか
彼は歩いていた
たとえ泣いていても顔に出ていない彼のまわりで
人々が通り過ぎていった
紙くずが舞っていた
いつのまにか自分がうすもやに思えるほど
何の抵抗もなく
風は通り過ぎ
紙くずのように
時間が通り過ぎていった
 
時間の前で
次から次へと
彼は通り過ぎ
目の前で果てていった
 
紙くずは遠く去って
どこかで拾われ捨てられるであろうか
彼は拾われることがなかったので
捨てられることさえできなかった
 
 
  抑圧
 
何も報告してはくれない
どうしろとも書いていない
 
誰かから誰かに
日常的に伝達される
レジメのような情報があふれている
覚えきれなくてイライラする
苦笑いとおとぼけでわたっていくうちに
足を踏み外していることや
腰が折れていること
頭が割れて欠けていることさえ
気づかないでいるのかもしれない
鏡にだって写らないのだから
 
ほとほと終わってしまいそうだよ
胸は風の吹くまま
観念も気安く通してしまうだけの
穴があいていて
時々かわいそうだよと悲しい笑顔を見せるときに
 
何も伝達してくれないものが
揺り動かして時々
何か伝えられていると
もっと大切にしたくなって
そっと手を伸ばす一冊
目に見えるピリオドから
違った恐さを夢に見て
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
楽山のようになると、間違え続けたら、詫びることも、正すことも、反省することも、学習することも、できなくなるのだろうか。同じ辻褄を、繰り言のように、言い続けるのだろうか。しかも、頭は、空っぽの世界に、ふくらんでゆくのだろうか。破裂するとき、邪悪な液でも引っ掛けるのだろうか。
 
 
 
★こも/楽山日記3
@komo266
大川隆法総裁は、アーレントに習って、多数の犠牲者を出すような革命はよくないとしてます。
この考え方からすると、今、HSがプーチンを支持、応援してるのは、筋が通らないように思えました。
HSではこの矛盾をどう解決してるのでしょうか。
 
楽山は、また、身の程も弁えず、他者を批判しています。無反省、無責任で、全く「筋が通らない」のに、評論家気取りで高所から見下ろして書いています。どうして、こういう気分になるのか、それは、自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)だからとしか言いようがないのです。
 
 
 
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