ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

タグ:無根拠

 
  悪い例だけ刷り込む2
 
 宗教は幸福感を得るための手段である!
 (『宗教的経験の諸相(上)』W・ジェイムズ著)
 楽山日記(LD) 2020年04月25日
   を改めて批判。
 
 
楽山の、偏向した、安っぽい、悪い材料だけ見せてくる詭弁の、宗教への執拗な侮辱が、全開です。一部の間違っているところだけを論(あげつら)って、キリスト教全体を否定してくる楽山の詭弁は、吐き気を催すだけです。
 
 
この文章からすると、著者は宗教は目的ではなく手段であると考えているようだ。
幸福! 幸福! 宗教は人々がこの賜物を手に入れるための方途の一つでしかない。容易に、半永久的に、そして有効に、宗教はしばしば、もっとも耐えがたい悲惨をも、もっとも深くもっとも永続的な幸福に変形するのである。
(『宗教的経験の諸相(上)』W・ジェイムズ著、桝田啓三郎訳、岩波書店、2014年、p.265)
 」
 
宗教は麻薬と言われたことがありますが、それを楽山は言いたいのでしょう。一面的な偏見だけで書いてくる楽山です。自己愛に陶酔することによって、他者や人間一般を無視し、自分だけの勝手な幸福感を得ようとしている楽山が、自分を棚に上げて書いていることを強調しておきます。
 
キリスト教と称して、神を恐れぬ傲慢や、聖人気分や、陶酔気分や、ルサンチマンによる被害意識などといった間違った信仰?が、キリスト教内外にあり、それは、勘違いから生じているわけです。また、キリスト者に成りすました自己中妄想のシャロームのような偽キリスト者もいます。
 
そのことは、私のブログの記事にも、信じ込み思い込み信仰の罪として、長く批判してきたところであり、人間的な潤いと温もりがあれば理解できるはずですが、楽山は、恐らく、そのような人間の深いことが全く理解できないのでしょう。
 
誰も避けようのない死とか不幸とかの運命に対しては、慰めの必要な人に、それを与える救いが必要ですが、楽山は、悲哀に不感であるため、その必要を考えないので、間違った信仰の例をもってキリスト教とキリスト信仰をおとしめないではおれない悪意の宗教知ったかぶりの異常者であります。
 
楽山は、自己陶酔のプライドを傷つけられた、というより、元々根拠のない自尊を批判され否定されると、寸足らずの言論で、露骨に、おとしめてくるところの、カルト妄想の、教祖願望の、反宗教反キリストです。信じないのは自由ですが、根拠もなく否定するのは、無知の無恥の因業であります。
 
無理解のために、勘違い、さらには、知識不足、怠慢、自己愛、霊能者気分、超人気分の陶酔、ルサンチマンの裏返しによる神を恐れぬ傲慢、などによって、凶暴な悪意をもって、キリスト教を毛嫌いして、あくどく、嫌味ったらしい貶めをしてきたのが、楽山その人であります。
 
まさしく、キリスト教の敵、反キリストとして、楽山は牙を剥いてきました。どれもこれも、こう書いてあるとばかり、学者の説をあげないと何も言えない、というより、学問を悪用しているだけの楽山の煽動です。どこまでも空疎で、災いしか与えない楽山です。楽山は、言論の敵です。
 
キリスト教は、陶酔気分によって、悲惨を幸福に変質させる麻酔ではありません。その勘違いの例をもって、キリスト信仰の救いも恵みも踏みにじろうとする悪魔性の迫害言論者が、楽山その人であります。楽山は、本性を表し、牙を剥いてきました。
 
 
これは確かにその通りだ。宗教は一見したところでは、事実、真実を教えているようだが、実際にはそうではなく、物事の解釈、意味づけをしているにすぎず、宗教はこれによって人の苦しみや悲しみを軽減しようとする。たとえば近親者の死を嘆く者には、生死には意味があるとしたり、死者の魂は天国で平和に暮らし、地上で生きている者を見守ってくれているとしたり、いずれ時がくれば死者と再会できると説くなどして、その苦しみや悲しみを癒そうとする。
 
楽山は、個人的にも、自分発想でも、独創性による宗教理解を追求することが全くできないので、このように「これは確かにその通りだ」と言うしかないのです。独創性が皆無の楽山の人真似です。解釈は、聖書の文言だけではなく、人間の心にとっての必要性があるから生まれてきます。
 
信仰の真実は、物事の解釈や意味付けではありません。宗教が不幸を勝手に意味付けして騙しているとでも言いたいのでしょうが、楽山が、今になっても、まるで、読書による知識の広がりがないことの証拠になります。だまし続けているのは、楽山です。
 
さらに、では、どうしようもない不幸に対して、楽山は、何をどう言えるというのでしょう。何も癒しを持ち得ず、教えることが出来ない楽山、愚かです。この人にだけは、人生の相談をしないでください。自分のことしか考えない人です。
 
 
この他、神、天使、仏、菩薩、守護霊、生まれ変わり、カルマ、神の試し…なども、どれもこれと同じような効果を持っている。この点、宗教は悲惨を幸福に変えるための不思議な道具ではある。
 
私は、神聖の言葉、超常の奇跡、などは、人間には手に負えないから、それを信仰の根拠にしてはいけないということを、何度も書いてきましたが、楽山は、また、同じような、けなし言葉しか使えないのです。しかも、超常神聖の霊の分かるっぽい自覚に生きているのは、他でもない、楽山であります。
 
楽山は、私の書いたものを理解する気もないということです。このことは、楽山が、受け取らずに、勝手に書きたいことを書く、受信せずに発信する、という、自己愛を振り回すだけの言論失格者であることを示しています。カルトも宗教も、区別できず、いっしょくたになっている楽山の言です。
 
楽山は、霊が分かるっぽい自慢と自己愛の妄想~決めつけによって、ブログを書いています。教祖にでもなるつもりなのでしょうか。そのための学問的味付けを求めて書物を漁(あさ)っているのでしょうか。ただの好事家ではなく、人間離れの神がかりの超人意識に生きているのでしょう。
 
楽山は、前に「心の理論」という記事で、自分の親族を仏様の気持ちが分からないっぽすぎると言い、ゆえに、霊の話に興味があって、仏様や霊の気持ちが分かるっぽいと自覚を表し、神霊や超常に興味を持っていることを明らかにしています。
https://ameblo.jp/st5402jp/entry-12450774365.html
心理学と心霊主義も区別できない楽山です。ろくに、本の真意も理解できないのに、インテリ気取りで、人をボンヤリ言語と詭弁で騙すのは、楽山の生業のようです。
 
 
ただこれがために宗教が悲劇をもたらすこともあるからやっかいだ。宗教によって幸福感を得た者が、宗教に依存するようになり、そのあげくに宗教は手段ではなく目的であると勘違いして、宗教に奉仕させるのでなく、宗教に奉仕するようになってしまうことがある。宗教が人に奉仕するのでなく、人が宗教に奉仕するようになってしまってはおしまいだ。ここが宗教の怖いところではある。
 
「やっかい」なのは、楽山です。宗教は、勘違いすれば、悲劇をもたらすことは明らかですし、事実でもあります。ですから、私は、超常意識に思い上がるような誤ったキリスト教への批判も書いてきました。楽山は、宗教を、ひとまとめにして否定し、まともな根拠を持ちません。
 
しかし、私は、信仰がもたらす、絶対孤独からの解放という恩恵も、キリストの愛と共感、キリストへの愛、という、絶望を希望に変える信仰を書いてきたつもりです。これらについて、全く感受性を持たないで、何も受け取らず、嫌らしい人間になってしまったのが、楽山であります。
 
 
こういう考え方は、宗教を目的とする熱心信者からは嫌悪されるだろうけれども、宗教の奴隷にされて骨までしゃぶられるようなことになりたくない人は、宗教は目的ではなく、あくまで手段にすぎないという考え方は知っておいて損はないはずだ。酒は飲んでも飲まれるなというけれども、宗教もこれと同じで信じても飲まれたらいけないし、適切な距離を取ることを忘れないようにしたい。
 
「骨までしゃぶられる」宗教?は、宗教でも信仰でもありません。キリスト信仰は、真実の可能性に導くものです。楽山が持っていない人間としての理性と情緒を養うものです。骨まで腐った楽山のようにならないために。
 
何も考えないで、神のことも自分の頭で扱えるつもりの、楽山の惨劇です。
 
楽山の言は、宗教については、飲むな、飲まれるな、関わるな、真に受けるな、と言いたいようですが、皮も、肉も、骨も、髄も、しゃぶりたがっているのは、自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)そしてサイコパスの、楽山その人であります。
 
ゆえに、宗教を理解できないのを、宗教のせいにして、ナルシストの低劣な本性がバレた今となっては、安っぽい引用と、成り立たない理路をもって、自らのカルト精神を省みもせず、宗教を、未熟な理屈で決めつけ、それこそ、理路もなく悪あがきの詭弁の反復によって悪口だけを書いています。
 
こんなことしか言えないのかというほどに、楽山の反キリストの主張は、定型的となり陳腐になってきました。そのことさえ学習障害によって知らないままの楽山の、執拗な言い張りを、実際は、カルトの洗脳・暗示・刷り込みを、すなわち、良心を食い尽くす牙を、どうか真に受けないでください。
 
 
虚言の澱(おり)

虚言の澱(おり)
 
 
(2020年)
(2022年04月27日、再録+加筆)
 
 
 
  池のある公園
 
ここに来るのも久しぶりだ
暖かい日曜の午後
池には無人のボートが数そう浮かんで
緩やかな風が
池の面にかすかな波を立てている
 
ほとりに向かって歩いていくと
俺に似たやつが
セメントのベンチに腰掛けている
片手には詩集のようなものを手にしているが
眺めているのはほとりに戯れる小魚の方だ
 
向こうからもやってくる
よれよれのブレザーを着て
手には紙屑を握っている
あれも俺だ
 
よく見れば
あっちにもこっちにも
数人の俺が歩いている
大学に入った頃の俺
野球場からの帰りの俺
バイクに乗り始めた頃の俺
ここにいる俺
 
見てみろ
俺達はなんてさびしげだ
声をかけあうこともなく
ただ声もなくたたずんでいる
 
俺が小石を池に投げると
ベンチに座っているやつがそれを眺めている
そいつの後ろから
そっと手を伸ばしてみた
 
それより早く
誰かが俺の肩に触った
はっとしてあたりを見回せば
暖かい日曜の午後
まわりを歩いているのは
みんな知らない人たちばかりだ
 
 
  椅子(いす)
 
他人(ひと)の作ってくれた椅子に
腰掛けていると
誰かが笑いながら声をかけてくる
立ち上がり
椅子を打ち壊す
人は驚いていなくなり
誰もいなくなった
扉をあけ
扉を閉めた
長い廊下がつづいた
長い廊下が続いた
 
長い廊下の終わりには
錆びた扉がしまっていた
外では何やら
がやがやと音が聞こえた
戻ろうか と思っていると
誰かが笑いながら声をかけてくる
あわてて扉をこじあけた
するとまたたく間に
彼をとらえた光の中に
彼はいなくなり
誰もいなくなった
 
彼のを行方を
たずねてはならない
 
 
  荒療治
 
ダニか他の虫刺されか
赤いブツブツ
かゆいけれど
かけば汁が出てひろがる
悪いものはたいていそうだ
 
毒には毒をと
タバコの火、近づけて
熱さが、痒みから痛みへ
一、二秒がまんして
軟膏を塗る
 
この荒療治は、しばしば
やり過ぎて水疱をつくる
破って中の液を
ティッシュで吸い取り
また軟膏を塗る
 
何カ所かやって
ひとつだけ治らない
絆創膏でかぶれて
ますます赤くなって痒い
 
悪いものはたいていそうだ
またタバコであぶったり
ちり紙でゴシゴシこすったり
手持ちのあらゆる軟膏を塗ったのち
愚かなことをしたと気づく
愚かなものはたいていそうだ
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
楽山は、ますます、かぶれて、ただれてゆくようです。人格が、元々未熟な上に、反省もせず、学びもせず、罪悪感の欠乏から、何も気にしないで書いてくることが、病質を表してゆきます。どこへ行くのでしょう。ホラーアニメとお伽噺と超常の霊を、独り待ち続けてゆくようです。
 
 
 
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  楽山の無理の路2(2)
 
 『シルバー・バーチの霊訓(一)』
 アン・ドゥーリ―編、近藤千雄訳
 2020年08月11日 楽山日記(LD)
  を改めて批判。
 
 
つづきです。楽山の、ハッとさせられるものが皆無の記事です。
 
*愛と利己主義
この言葉は、霊界における霊たちが、地上の人々の手助けをしたく思うのは、利己主義と言われればその通りかもしれないという流れからの発言である。
愛というものは往々にして利己主義に発することが多いものです。
(同上、p.96)
 」
自分がこの種の考え方を知ったのは、マーク・トウェインの『人間とは何か』でだった。その中では人はどんなに世のため人のためと思って行動したところで、しょせん利己性からは逃れられないとしていた。
 
酷い利己主義と自己中心の、自己愛性パーソナリティ障害NPDである楽山が言っています。決して真に受けてはいけません。
 
たとえば仮に、ある人物が人のために自分の命を捨てた場合、傍目には何の見返りも求めず、人のためにわが身を捨てた純粋な利他行為に見えたとしても、実際にはその出発点には自分の命を捨てでも人に尽くしたいという自己の願望があり、純粋な利他行為とは言えないという論法である。
 
利己主義というのは、ふつう、自分の利益だけを求めるものです。楽山は、命を捨てる、つまり、そこで、いっさいの、物質的精神的利益が終わる行為を、実に軽く、同じ利己主義と見なしたいようです。言葉と意味についての分別のない証拠と言ってよいでしょう。
 
利他の願望は、その人の願望だから利己主義と言いたのでしょうか。どういう理路なんでしょう。何でもかんでも利己主義にしたいのでしょうか。理路にも論理にも理屈にもなっていない。
 
愛が我がままで自己中になりやすいとしても、利益や報酬を求めない行為であるならば、利己主義とは区別されるべきです。楽山の言うことは、成り立ちません。楽山は、いつも、自分を高めて、よく見せようとするナルシスト・エゴイストであります。
 
恐らく、楽山は、深みのある高等感情を理解できないために、無償の愛を理解できず、ゆえに、利他ということが分からないのだと思います。分からないのに書いてくるところが、楽山の病質だと思っています。
 
多くの新興宗教では、世のため人のために生きましょうということは言っても、その根底に潜んでいる利己心まで暴きたてることはないので、シルバー・バーチの霊言はここでも並の宗教よりよほど深いものがある。
 
以前から、呆れているのは、楽山は、自らが、自己愛、自己中からの、無反省、訂正不能、という、少なくとも精神的な、自己愛の利己主義者だということに、全く気づいていない、ということです。自己愛性は、常に自己を高めようとする欲望によって酔っていますから、利己主義なのです。
 
ちなみに竹内均は、上の現実を承知した上で、利他的利己という生き方を推奨していた。人は利己的な生物だとしても、自分だけがよければ他人のことはどうでもよいというのではなくて、自も他も幸福になる道を目指そう、他を幸福にすることが結局は自分の幸福にもなるという考え方だったかと思う。
 
訂正不能の自己愛の病質で、利他から最も遠い楽山が、こういう引用をしても、説得力は皆無であります。
 
自分としては、見返りを求めない無償の愛を実践しようというのはいささか理想主義的に過ぎて現実離れしているし、他をかえりみずに利己的に過ぎれば結局は他だけでなく自分も傷つけるだけになろうし、この利他的利己という生き方が最も現実的であり無難な指針であると思う。
 
利他を理解していない楽山の言う利他的利己とは何でしょう。どこが現実的で、どこが無難なのでしょう。「過ぎれば」云々・・と言っていますが、どうやって過ぎたと分かるのでしょう。基準が書いてありません。とても大事な問題を、いい加減な結論で済ませて満悦している楽山です。
 
相反する意味を持つ言葉の字面を、よく考えもせず安易に合成しただけではないかと思われます。洞察のない者は、言葉を勝手に結びつけて引き寄せて満悦するという特徴があります。
 
*真理を押し付けないこと
これも自分には耳に痛い言葉だ。
自分を改造するのはあくまで自分であって、他人によって改造されるものではなく、他人を改造することもできないのです。
[省略]
私どもは改宗を求める宣教師ではありません。真の福音、霊的実在についての良い知らせをおもちしているだけです。
(同上、p.118)
 」
とある宗教の信者だった自分は、教祖の伝道せよ、伝道せよ…という掛け声に従って、周囲の人々に宗教をすすめてばかりいたのだった。そんなに強引にすすめているつもりはなかったが、それでも周囲の人々からしたらさぞ迷惑なことだったろう。申し訳ないことをしたものだ。
 
改宗を勧める代わりに、楽山のやり方は、いちゃもんの詭弁によってキリスト教をおとしめる、また、丁寧語の曖昧なボンヤリ言語と謙虚芝居のトホホ言語で誘導するという、実に嫌らしい手口です。決して関わらないでください。
 
でも今にして思えば、この教祖は、他人の心は変えられない、変えられるのは自分の心だけだと説きながら、伝道、伝道…と繰り返していたわけで、これはどうも矛盾しているように思える。
 
キリスト信仰の福音伝道は、良き訪れを伝えるという意味であり、変わるのは本人であります。つまり、楽山の「伝道、伝道…と繰り返」す、ということは、「変えられるのは自分の心だけ」と矛盾しないわけです。
 
人の言葉尻を捕らえて、HSか何かの批判をしている体で、宗教全体を否定したい楽山の狡猾な婉曲表現でしょう。信仰は、見えない導きという神秘性と、努力と学習という自主性とが、不可分になっています。人間に、意識して出来るのは、後者であります。
 
他人の心は変えられないといいつつ、他人に信仰を持つように改心を迫れというのは、おかしな話だ。
 
伝道ならば、伝えることであり、迫ることはないのですから、矛盾ではありません。楽山は、言葉の勘違いが多くて、言っていることが、一般的な言論としては、的外れになってゆきます。それは、だんだん、著しくなってゆくでしょう。無反省では、成長しないからです。
 
反省と学習を怠ってきた楽山は、気取りのために、いつも、言論の理路が、ふつう未満で、足りないと感じます。とても迷惑です。こういう人が、無反省と訂正不能になって、好きなように語っているわけですから、及ぼす悪影響も計り知れなくなるので、批判を続けています。
 
他人の心は変えられないと承知しつつも、啓蒙活動も怠らないというのなら分からなくもない。でも他人の心は変えられないと説きつつも、大きな危機が迫っているとして、急いで人々に改心を迫れというのは無茶だし、終末論で煽るカルト臭が強烈にすぎる。
 
むしろ、脅しながらの、救われ妄想信条に、惑わされないことが大切です。楽山のような詭弁と刷り込みによって、霊が分かるっぽい自己愛を満たそうとする悪魔性も、カルトと同じような対処が必要になります。
 
この辺りのおかしさに気づけなかったのは、自分の子供時代には、ノストラダムスの大予言ブームがあり、終末論にさほどの違和感を感じなくなっていたことも原因の一つになっているのかもしれぬ。
 
テレビなどで「ノストラダムスの大予言ブーム」は、70年代~遅くとも20世紀の間だったと思います。それが、楽山の「子供時代」なら、今、楽山は、30~50代ででしょうか。それにしては、文章が稚拙過ぎるとも思います。
 
しかも、自分の不覚と未熟を、今度は、ノストラダムスのせいにしています。本当に、自分の責任を認めない楽山です。くれぐれも、上のほうの、反省、トホホ、などと言う芝居に、だまされないでください。
 
*信仰者と無神論者
前の記事で書いたように大川周明の『安楽の門』では、何を信じるかではなく、いかに信じるかが大切だとしていたが、シルバー・バーチも同じような発言をしている。
祭壇の前にひれ伏し、神への忠誠を誓い、〝選ばれし者〟の一人になったと信じている人よりも、唯物論者とか無神論者、合理主義者、不可知論者といった、宗教とは無縁の人の方がはるかに霊格が高いといったケースがいくらもあります。問題は何を信じるかではなく、これまで何をなしてきたかです。そうでないと神の公正が根本から崩れます。
(同上、p.171)
 」
以前自分が信じていた、とある新興宗教では、無神論者や唯物論者は地獄に堕ちるとしているが、このシルバー・バーチの発言が真実であるとすると、ことはそれほど単純ではなさそうだ。
 
まず、楽山が書いているような「〝選ばれし者〟の一人になったと信じている」なら、その人は信仰者ではないということです。
 
「無神論者や唯物論者は地獄に堕ちる」・・無神論者や唯物論者は、地獄を信じているのでしょうか。腹いせのような言葉です。言うだけ無意味なことのように思われます。
 
そして、楽山は、単純ではなさそうだ、という言い方しか出来ません。それも、そのはずで、楽山は、他者の意見を字面だけ利用して、心を受け取ることが出来ないのです。楽山にとっては、自他の総ての言論が、霊が分かるっぽい次元の、遊びごとに過ぎないのだろうと思います。
 
特定の宗教を信じ込んでしまうと、この宗教を信じる者は救われるが、この宗教を信じず、否定する無神論者や唯物論者は地獄に堕ちると思いたくなることもあろうが、それは公平ではないし、スピリチュアリズム的な真理にかなったものの見方でもないのだ。
 
まだ「地獄」のことを言っています。「公平ではない」というのは、単純すぎる言葉です。一方、「スピリチャアル的な真理」という言葉は、信じる者だけの不思議言葉です。この二つを並べてしまうところに、楽山の、いい加減さが、また、表れています。説明と根拠が無さすぎるのです。
 
そういえば、とある国民作家は、高僧とされる僧侶と幾人もあったことがあるが、そういう人々よりもむしろこの道ウン十年という職人さんの方が立派な人格を持っていると感じることが多い云々と言っていたそうだ。
 
とある国民作家とは誰なのでしょう、楽山は書かないのです。そして、高僧という言葉で宗教を代表させ、職人さんのほうが立派な人格と、例示の印象操作による刷り込みの汚い手口です。説明と根拠が無さすぎるのは、楽山が、説明も、根拠の提示も、できないからです。ずっとそうなのです。
 
人の霊性というものは、信仰、思想、主義、職業、立場などの表面的なことだけでは分からないものであるし、それだけで分かったつもりになるのは差別主義者くらいのものなのだろう。
 
楽山は、表面的なことに、信仰と思想と職業を並べています。本質において違うと思います。また、職業という言葉は浮いているように感じます。これらが表面的だと言いたいのでしょうか。それとも、これらの表面的な部分を指して言いたいのでしょうか。説明がありません。
 
理路が、言葉の選択が、曖昧で、いい加減で、書いときゃいい、という表面しか持たない楽山です。冷静に書いているように見せかけていますが、こういう粗雑な理路は、乱暴者の特徴です。
 
共通の理解があるわけでもないのに、楽山は、何をもって、表面的と言えるのでしょうか。何も説明がありません。思いついた言葉を、また原始反応で、よく考えもせず、貼り付けて、言い得たと満悦するのでしょうか。
 
一方、楽山という個人について言えば、確かに、自己愛のために、表面的にしか受け取っていないと思います。ゆえに、そういう表面だけで、あるいは、表面という言葉の字面を書くだけで、分かったつもりになり、何やら気取りになるのが、ずっと、楽山の特徴です。
 
本当の信仰者は、分かったと決めつけることなく、人の話を聞きます。むしろ、聞きたいので、ネットを巡ったりもします。そして、切り捨てることなく考えてみます。その上で、分からないことと分かることを分けてゆくのが考える信仰です。
 
もちろん、百害あって一利なしの、楽山やシャロームなどの悪意ある詭弁は、見るたびに、良きものは何も伝わってこないし、無駄に疲れるだけなので、ある段階で、まともに相手にしてはいけないと判断することになります。
 
「差別主義者」とは、どういう差別の意味で、楽山は書いたのでしょう。差別されたと言いたいのでしょうか、何かの種類の人物を指しているのでしょうか、特定の人物を指しているのでしょうか。差別と区別を、言葉遣いにおいて、ちゃんと分けていないようです。
 
楽山は、説明もなく書いて、丁寧語を使っているだけで、自らを、丁寧な人のつもりでいるのです。説明はしないか、できないのに、「分かったつもりになる」のは傲慢だから、批判され、否定され、退けられるのです。先入観だけの差別主義者は楽山でしょう。
 
何を言われても、何も返せないのに、高慢な自己愛ゆえに、なおも居座って、そこから、見下ろしながら、まともなつもりで、ひどい文章を書いて公表し、ごまかしに、トホホ言語で、謙虚芝居をするのが楽山です。
 
 
相手が具体的にいるかどうかにかかわらず、自分が書いていることの説得力を意識するとき、その文章には、双方向への努力が生まれています。楽山のように、自分の言い分を書くだけの場合、説得力を意識せず、その文章は、単方向の自己満足にしかなりません。
 
 
光無き誘導

光無き誘導
 
 
(2021年10月28日)
 
 
 
  視線と刃先
 
人ごみは
人ではない
人ごみは
ごみではない
 
知恵をつけ始めた子供が
はじめて手にするナイフの刃先のように
さまよう視線
ときに動きは素早くても
しばしば明確な目標を定めていない
 
目標が定まる刃先に至るとき
切り裂かれる道理が生まれ
無理が生まれるまでは
 
人ごみは人ごみである間
切る道理も切られる無理もなく
情もなく無情もなく
計られる明確さによって切り取られ
分けられてゆく
 
 
  永遠と絶対
 
永遠や絶対を求めたりするのは
それらに近づこうとするのも
人間だけ
 
動物は限りある命を
生きられるだけ生きて果てる
だから動物には
ゆとりはあっても無駄のように見えても
無駄なことをする必要もなく
無駄なことをする時間もない
 
身近なところに
その眼差しにさえ
永遠と絶対に連なる僕(しもべ)
人間も動物であるのに
 
痩せ犬が首を振り振り通り過ぎる
信じてもいい しかし
久遠
 
それは最初から届かないものとして
水晶の遙か彼方に
捨て去ったのでもなく
捨て去られたのでもなく
光の速度で止まっている
見捨てたのでもなく
見捨てられたのでもなく
 
 
 
楽山日記のコメントです。誰かは不明です。
コメント欄から抜粋引用しておきます。
 
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら 誤ったら 素直に詫びて
 自分 正さなくちゃいけない」
「それが出来て 初めて人間だと
 それ出来ないなら 人ではないと」
「嘘ばかり 重ねる君よ
 保身だけの 卑怯者の君よ
 そんな君は 魅力の欠片もないのに」
「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は
 最大限の償いと 最大限の反省と共に
 開いた出店を 畳むしかないんだよ」
「人間で在り続けるのなら
 人で在り続けるのなら」
 
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、
これを実践するのは難しいんだよなあ。
恥ずかしながら、自分もそんな風です。
これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
楽山は、人間であり続けることを、拒み続けています。
自分ではなく「人間の性」のせいにしています。
一般化されては、たまりません。
2019年だから、それほど古いコメントではない。
このコメントは、当分、毎回、載せることにします。
 
 
 
 
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  楽山のペテン2
 
  2020年02月08日
 「信じてもいい理由と信じてはいけない理由」ドーキンス著
 楽山日記(LD)
  に対する批判記事を加筆して再録。
 
 
楽山は、またしても、無神論の学者らしいドーキンスの本から引用して、ゴタクを並べてきました。既に、私は、楽山の、見当違いの宗教・信仰理解を、批判してきましたが、楽山は、何の反論も弁明も出来ないにもかかわらず、また、書いてくるのです。
 
楽山は、まだ、HSや、アドラー教から自由になっておらず、また、およそ、実質のない自らの心霊理解にも囚われたままであることが明らかになってきたという経過です。もしかしたら、楽山は、カルトを捨てたのではなく、カルトに捨てられたか、あるいは、新たなカルト形成に向かっているのかもしれません。
 
楽山は、人の言うことを無視することに快感を覚えるのかもしれません。経過することの内容に、楽山は、関心をすべて捨てることができる異常者なのでしょう。笑っているとしか思えないほど、平気で無視するのでしょう。
 
そうやって時間が経過して、私のほうには、楽山批判が、2年分蓄積されてきました。どこまでも無視する楽山に対して、批判するほうは、はてしなく批判を積んでゆくことを、務めとするしかありません。そういう場合、結果は、読者に委ねるしかないのです。
 
つまり、誰も、楽山に関わることのありませぬようにと、願うしかないのです。決して、楽山を変えることではなく、あとは、正常な神経を持っている読者が、害虫のように楽山を嫌い、楽山を相手にしないことを期待するしかないということです。そのための根拠が、楽山批判であります。
 
楽山は、本当に、恐ろしい生きものです。いつまでも、自分を見ず、はてしなく、どこまでも、人に文句を言い続けられる男、それが、楽山です。今日も、何事もなかったかのように、ツイッターに、誰かをおとしめる文句を書き込んでいます。徹底した変質者であります。
 
そうやって、日常感覚も経験も、都合の悪いことを、総て無視して、自らの人格を破壊してきたのでしょう。異常人格、人格破壊、精神病質、といった病態のもたらす冷笑が、そして、人間が、おしまいになると、こうなる、という破壊的現象が、ここに表れているのです。
 
「信じてもいい理由と信じてはいけない理由」は、著者のエッセイ集『悪魔に仕える牧師』に収録されている文章であるが、十歳の娘への手紙という体裁で書かれているので分かり易くてよい。
内容は大雑把に言えば、観察し、証拠があるものについては信じてよいが、伝統(伝説)、権威、啓示(お告げ)には注意が必要だというものである。
 
観察し、証拠があるものについては、正当なのだから、まず、信じる必要がないのです。
 
私は、超常を根拠にする言い分については、決めつけや妄想である可能性があり、注意したほうがよいと言ってきました。
 
例えば、シャロームshalomの聖霊体験や神の啓示については、全くの大嘘で、さらに、その文章の滅裂と無法と無根拠が表す非人間性から、反信仰の産物であり教義も信仰も全くの嘘っぱちであることと併せて、自分権威の成り上がりのカルト妄想だと判断しています。
 
また、楽山が、霊が分かるっぽい高慢からの極めて幼稚な短絡の思い込みや、偽牧師シャロームの「罪は悔い改めなくても赦されるから気にしなくていい。悔い改めは(自分でしなくても)神が与える」などというあり得ない信条?に無条件の味方をしたこと、また、楽山の、とても卑怯で嫌らしい騙しの印象操作や詭弁や柔和芝居や婉曲表現のボンヤリ言語と併せて、信用度ゼロのカルトであると判断しています。
 
ここでも、楽山は、間違いを全く自覚していません。観察して証拠があるから信じるのは、事実などの実証が必要なことについての話であって、信仰はそのようなものではありません。
 
信仰は、癒しや慰めそして共感など、情緒的な体験を通して思慮を起こして信じるのであり、キリスト信仰は、決して論理的実証的証明など出来ないものとして、ダイレクトに生きている人間に問うてくるのです。決定するのは、生きるのに必要かどうかだけです。
 
信仰は、伝統、権威、偽牧師シャロームが言う啓示?など、信仰外のものに、支配されてはいけません。しかし、同時に、一方では、楽山のように、理解があるかのように見せかけて、ボンヤリやんわり否定してくる偽善者の言などに左右されてはいけないものです。
 
ここまで、的外れなことを執拗に書いてくる楽山は、とても気持ちの悪い反信仰、そして、反キリストと判断せざるを得ません。何か信仰とは全く別のものに囚われているのでしょう。
 
伝統宗教といっても、親から子へ、子から孫へと幾世代にもわたって伝えられてきたというだけで、それが真実だという証拠はなく、証拠がないなら何十年、何百年とどんなに長く伝えられてきたとしても嘘が真実になるというわけもない、
 
このように、嘘吐きの楽山の言も、この地上で信じると、社会にも個人にも悪い推測と予想しか生まれない誘導として、人間にとっては百害あって一利なきもの、人を惑わし、そそのかすものとして否定されるべき邪教であり、楽山個人の我欲への執着がもたらしたものと言わざるを得ません。
 
楽山に、何かを教える資格はありません。約2年の批判によって、楽山は、無反省、無責任、無理解、無神経の、詭弁や、煽りをしてきただけであり、そして、ひどい嘘吐きであることが、明らかになっています。
 
私を信じる必要はありません。私は、参考にしてもらえば十分です。しかし、詭弁と虚偽だけの専門家である楽山だけは、決して、信じてはいけません。相手にしてもいけません。近づいてもいけないと思います。
 
権威があるからといってその者が絶対に間違わないというわけでもない、一つのことを考えに考え、祈りに祈り、やがてそれが真実だというお告げを得たと確信したとしても、それが真実だという証拠がないなら信じるには足らないなどとしていて、なかなかに辛辣である。
 
また、楽山は、証拠のことを書いている楽山です。証拠ではなく、信仰に必要なのは、癒しと救いとして、必要だという実感だけです。
 
むしろ、楽山が、しつこく書いてくるのは、何らかの人にまさる権威か名声を欲しがっているのでしょう。そういう自己顕示欲を支えているのは、霊が分かるっぽい自身への我執に他ならないと思います。とても病的なナルシシスト(ナルシスト)なのです。
 
また宗教が信じられてきた理由についてはこのような主張をしている。動物は生き延びるためにその環境に適した体をもつものであり、動物である人もこれと同じく環境に適応しようとするものであって、特に子供は生き延びるためにも自分の生きようとする社会環境に関する情報を得る必要があり、大人から聞いた話をすぐに信じるようにできている。
 
ずいぶん、大人と子供を舐めた見方をしている楽山です。宗教は、楽山の言うような、大人の話を子供が信じるなどという次元のものではありません。クリスチャンの家庭であっても、信仰告白は自分で自発的にするものです。個人によって違いはありますが、大人になって、改めて、判断することであります。
 
楽山は、宗教なんて親から刷り込まれたものだから信じるな・・という極めて短絡した先入観を与えようとしています。これが楽山であり、詭弁によって刷り込んで、宗教をおとしめてきますが、全く理解するセンスを持たずに、いちゃもんだけを言うのです。
 
実質としての支えとならなければ、いずれ、空しい信仰?は捨てられるでしょうし、大人の分別を弁えるのですが、その成長がないと、カルトとなり、妄想的となり、自己中となり、いずれ、社会と人間に害を与える存在となるでしょう。楽山は、逆方向の典型として、空しい反キリストなのです。
 
楽山は、そういう成長過程での取捨選択ができなかったのでしょう。それを、人のせいに、キリスト教のせいにしてもらっても、困りますし、大迷惑なのです。
 
聞いたことを、いつまでも、信じたまま、言い続けるのは、引っ込みがつかなくなったカルトか、それこそ、楽山のような我執によって、むしろ、逆に、怨念のようなものが、くすぶり続けているからだろうと思います。欲求不満が、我執を凝り固まらせたのかもしれません。
 
楽山は「大人から聞いた話をすぐに信じる」のでしょうか。いつまでも子供なのでしょうか。あるいは、逆に、大人から、ろくな話を聞いていない人でしょうか。それで、怨念を募らせてきたのでしょうか。なぜか、確かに、楽山は、大人としての反省力と責任感を養い損なっています。
 
そのため、良い情報だけでなく、時には根拠に乏しい間違った情報をも信じ込んでしまいがちである。証拠の無い宗教が長くつづいてきたのは、人々が何でも信じてしまう幼い頃に、大人たちからそれを刷り込まれ続けた結果であろう云々。
 
根拠に乏しい情報というのは、他者の勝手な受け売りで悪用して、信仰も神も、何も理解できないのに、ときには褒めたり、また別の時には否定したりする楽山の言というのが、いちばん当てはまってきたのです。きたならしい詭弁で侮辱する以外、何も出来ない楽山を信用しないでください。
 
およそ説明にも癒しにもならない繰り言で、逆に刷り込みだと否定する楽山こそ、今まで、刷り込み、吹き込み、誘導してきた悪だくみの権化であります。
 
仏様の気持ちがわかるっぽい自覚の楽山の、幼稚な自覚と我執が、子供の時から今に至るまで、楽山の人格を支えているとしたら、とても、みじめで哀れな成長不全なのです。大人の節操を養い損ねている楽山です。
 
本書の副題は「なぜ科学は「神」を必要としないのか」というものであるし、収録されている文章も上のようにキツイ宗教批判が多い。いやはやドーキンスはやっぱり宗教に対して容赦ない。でもこの本気さが魅力でもある。
 
科学は、実証できるものだけを扱います。ゆえに、神、信仰、霊、などというものは、実験も出来ないわけですから、科学が神を対象にしないし必要ともしないのは、当然のことなのです。楽山は、その粗野な根性そのままに、科学も神も語れないから、喧嘩を見るように楽しんでいるだけです。
 
科学によって、宗教を否定するのは、科学教の信者であります。宗教まがいのカルトに酷い目にあった人でないならば、宗教を否定するのは、大方、先入観によるか、自己顕示欲によるものでしょう。
 
科学は宗教を追求できません。宗教は科学を追求できません。
 
楽山は、正常人に教えることは出来ません。正常人は、楽山に学んではいけません。楽山は、あまりにも劣悪であり、嘘を吐き、詭弁を弄し、反省せず、責任を負わず、今もネットに居座って、罠を掛けてきます。引っかかったら、人生を破壊されます。
 
信仰を持つか否かではなく、何よりも、楽山の罠にかかったら人生は終わり、というくらい破壊的だと思っていてたほうがよいのです。陰険で狡猾なだけで、清々しさの欠片もない楽山です。
 
他者の言うことを全く受け取らないで、楽山は書いてくるのです。楽山の、他人事のように語って、信仰を、まだ一度も真剣に自分の課題としたことのない与太話の嘘っぱちに、惑わされないように注意してください。楽山が、キリスト教批判に魅力を感じるのは、楽山が、その無反省・無責任の素質において、既に反キリストだからです。
 
楽山は、信仰を知らないで、信仰芝居をしたり、信仰を目の仇にしながら、信仰をまじめに考えているふうに見せかけているだけのインチキです。
 
信じてもいい理由と信じてはいけない理由、などということを、我欲に合うものだから、本から勝手な解釈で鵜呑みにして、楽山が納得しているつもりのことこそが、楽山の宗教観が、信仰ではなく、一種の個人カルトの教条の屁理屈であり、人を罠にかけるようなカルト的な悪趣味の我執なのです。
 
楽山の主張の中のカルトの証拠となるものとして、すなわち、楽山が何も観察せず見通していないこと、信仰に担保?となるような証拠を求める態度、ボンヤリ言語による印象の刷り込み、魅力としての説得力も共感性も全くない表面的で信仰としては空疎な理屈、これらが、今まで楽山の表してきた邪悪な手法なのです。つまり、楽山こそが、宗教批判に見せかけたカルトなのです。
 
楽山は、証拠がないじゃろ、という、宗教には全く当てはまらないことで、宗教と信仰を否定しようとしてきます。汚い男です。心が無く、余裕がなく、深みのない、自己中の人格が表れています。
 
切実な必要からの実感のある疑問によって、宗教批判をする人は、宗教にとっても、貴重な糧となる存在になりうる人です。そういう人には、宗教人は、誠意を尽くして、説明の用意をするべきでしょう。楽山のような者は、切実さもなく、ただ、凶暴で一方的な、詭弁屋に過ぎません。誰も相手にしてはいけない人格です。決して、正常人の人格ではありません。
 
観察せず、根拠も証拠もなく、楽山の表す情報は嘘と詭弁だらけで、それなのに、宗教の悪い印象を刷り込もうとする楽山こそ、批判され否定されるべきなのです。楽山は、詭弁で印象を刷り込む反キリストそして楽山の自己のカルト思想宣伝者です。自己中と自己愛と決めつけが、無反省と無理解と無反応と無責任と無神経が、いたるところに表れてきています。
 
しかも、このように条件を付けて、大方、否定しながら、一方では、聖書の言葉を引用して、感動したかのように、また、ときには、祈っているかのような嘘のクリスチャン芝居を重ねてきたペテン師が楽山なのです。次元の低さと、自覚の無さが、書いたことに表れています。
 
楽山の主張は、よく読めば、整った思想や思考や共感が全く見られないほどの次元の低いペテンだと分かります。学者の名前を出したり、本を引用したり、刷り込みや印象操作をしたりするのは、自分では、宗教についても信仰についても、整ったことが何も書けないからなのです。楽山が、いくら安い造花で飾っても無駄なのです。
 
 
造花のペテン

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(2020年02月10日、同日一部修正)
(2021年02月15日、再録+加筆)
 
 
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