ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

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  楽山の偽善性2
 
 楽山日記(LD) 2020年06月17日
 『読む力 現代の羅針盤となる150冊』松岡正剛・佐藤優 著
 
 
楽山は、有名人、知識人、学者、などインテリが大好きです。しかし、自分に好都合なところだけを引用したり、賛同したりして、結局、自分もインテリだと言いたいだけの自己顕示欲だということが、以前から、表れており、信頼度はゼロなのです。
 
 
常々、もっと本が読みたい、もっと読解力を身につけたいと思っているので、タイトルにひかれて読んでみた。その中身はどうかといえば、どうも自分には高尚過ぎてついていけないところも多いのだが、全体的には期待した通り面白くて一気に読んでしまった。
 
一気に読んだと言っている楽山が言いたいことはというと・・
 
面白かったところをいくつか挙げるとすると、まずは宗教の通俗化についての話がある。恐らくは学者が書いた宗教関連書籍のことを念頭においての発言のようだが、佐藤優は「面白くないし、本質において宗教を信じる人の内在的論理がわからない。これはセンスの問題ですからどうしようもないです」(p.219)とし、さらには著名な宗教学者の名を出して、「読んでいると、本当に眠くなってくる」(同上)とバッサリ切り捨てているのには驚いたし、おかしくもあった。信仰のある人には、この発言に賛成する人は多そうではある。
 
いかなるジャンルの本にも、文章にも、面白いものと、面白くないものは、あるでしょう。面白くないだけなら、読むのをやめることも出来るわけです。しかし、楽山は、面白くないと書いてある本が大好きなようです。
 
宗教は、宗教自体の問題もありますが、楽山のように、興味本位で読んでいるだけだと、楽山のように、自分を見ず、反省もできないような、揶揄するだけの偽インテリにしかならないと思います。あざ笑って悦に入る者は、恐らく、いかなる宗教も信仰も理解できないでしょう。
 
楽山の書く文章は、面白くないだけでなく、有害な文章でもあります。何よりも、共感が全くなく、書いた人の妄想とインテリ気取りと無理な自慢だけというのもあるから厄介なのです。宗教と信仰にとって、妨害行為になるので、批判しないといけないからです。
 
ここで、楽山は、知識人の口から、眠くなる、という感想を持ってきます。全か無で、いつも、自分と同じ意見を漁っては、書いてくるのが、楽山の特徴です。キリスト教、面白くない、というのを、印象付けたいのでしょう。いちばん面白くなくて有害なのは、楽山自身です。
 
「眠くなってくる」だけなら、読むのをやめればよいのです。つまり、楽山は、バカにすることで生き甲斐を感じる人だということです。こういう人は、弱い人に対しても、同じような態度で、おとしめて笑う、ということがあるので、決して近づいてはいけないと思います。
 
楽山の文章は、面白くないだけでなく、狡くて、嘘や詭弁が溢れており、汚い口で、読者をマイナス方向に誘導してきますから、キリスト者としては、読むのをやめるだけでなく、抗議の批判を書くことになります。誰も、一人も、楽山に、近づいてほしくないからです。
 
 
もう一つ本書のなかで面白かったところを挙げるとすると、渡部昇一が高く評価されているところだ。「世間は「右側」の色でしか見ていないけれども、非常に優れたカトリック知識人だということは、やっぱり記録に残しておかなければいけない」(p.178)と、佐藤優は最上級の評価をしてベタ褒めをしている。
 
渡部昇一のことは、よく知りません。Wikiによると、宗教の著作より、はるかに、政治思想の著作が多いようです。しかし、楽山は、カトリック知識人ということを重視しています。そういう立場の人のことを書いて、自分を高め、宗教と低く見なして、やはり、悦に入るのでしょう。
 
 
自分は渡部昇一は大好きで愛読していた時期があったのだが、そのうちに言ってることがあんまり大雑把すぎると思いはじめて遠退き、「書痴の楽園」を見てやっぱり面白いと思いなおしそのままになっていたのだった。でも根が単純なので、氏を高評価している文章を読むと、また読みたくてたまらなくなってくる。口述筆記のものは読みやすくていいが、そうではない初期のエッセイなどは特に中身が濃くて、着眼点も新鮮で面白かったと記憶している。いま読み返しても以前のように面白いと思えるか試してみたい。
 
ぐだぐだと書いているようですが、言葉の字面だけを並べてキリスト教をおとしめ、今までほとんど聖書も本も理解できていないことが明らかになっているところの、楽山にとって、新鮮で面白かったというのは、どういうことでしょう。説明できないから、面白かったと書くだけではないでしょうか。
 
 
あとは、「読む力」ではなくて、書く方の話も面白かった。文章を書く際には誰に向けて書くか、その対象となる読者を明確にしておくべきだとか、書評における引用の必要性やケチをつけないことという心得も興味深かった。これらは文章作法の基本ではあろうが、ともすれば忘れがちなことでもあろうし、文章を書く毎に再確認しておくべきことである。
 
「ケチをつけないこと」を当てつけています。私は、ケチをつけているのではなく、楽山が語る宗教と信仰の記事を、ほぼ、全否定しているのです。自己愛と自己中は、宗教と信仰には縁はないのです。楽山は、反省と学習が出来ないので、読むことも、書くことも、まともに出来ていません。
 
というのは、楽山は、反省と学習ができない自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)だからです。自分の気に入った文言だけしか、読み取らないし、書くことも出来ないのです。読めば読むほど、書けば書くほど、その自己中だけが、表れてくるでしょう。
 
 
本書はタイトル通りに、本、読書についての話題は豊富であるし、読むべき本のリストも提示されているので、本好きにとって楽しい本である。ただし一読すれば、まちがいなく読書欲を刺激されて、濫読したくてたまらなくなってしまうので、読書時間を十分に確保できている時以外は読むのは控えた方が無難ではある。そうしないと読みたいのに読めないというストレスで大変なことになるだろうから。
 
楽山のように、自己愛による自尊過大の人は、心で読む、心に深みを感じる、ということが出来ないし、そういう深みや人間味を感じさせる文章になっていないという事実経過が、書いてくる文章に表れてきました。楽山が、読んで面白いとか、分かったと思って、書くことは災いにしかなりません。
 
そういう人は、乱読も、熟読も、少なくとも、その感想文が、誰かの糧になるということはないのです。この記事も、解説につながることは、何も書いていません。自身の意見も、一般の意見も、書かず、解説もしていないことを、見逃してはなりません。楽山は、以前から、そういう人です。
 
読むのは勝手だが、書いて公表すれば責任が生じることを知らないのです。だから、好きなように、平気で他者を侮辱してきます。小学校の作文も、採点がついて、公表されるのは優秀作品だけでしょう。扱っているテーマはとても大きいのに、楽山には、小学生レベルの心得も出来ていないのです。
 
自己主張ばかりして、不都合な他者の意見つまり批判を無視している楽山は、いつまでも、自由に伴う責任というものを、自覚できずにいるのでしょうか。それは、読者家としてはもちろん、常識人として、人として、失格なのです。
 
 
 
    今までに表れてきたこと。楽山についての資料まとめ。
    このまとめ記事は、加筆修正しながら、
    前半は前の記事と重複しますが、
    これからも、たびたび再録することになるでしょう。
 
 楽山についての、資料を、繰り返しもありますが、まとめて、
 加筆しておきます。
 
自己愛が強く自己中である。自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)。
 
平気で嘘を吐く。世辞と、謙虚芝居と、様々な詭弁を弄して、柔和と中立に見せかける。
 
後悔、反省、修正ができない。学習による成長がない。しかも訂正不能である。
 
理路が常識的にも浅く、理解も出来ない。特に批判に対しては不感不応、または、無視するだけ。
 
相手の意見を受け取っていないので、反論、弁明が全く成り立たない。障害に全く不釣り合いな満悦感から、厚かましく、学者・批評家・読書家・インテリ気取りで、分かっているという我執から、いつまでも離れられない。
 
深い情感がなく、共感性がない。広く、人間として好ましい心が無い。
 
後悔することがなく、罪悪感、羞恥心がない。
 
世辞と社交以上の、議論や交流が、できないし、する気がない。
 
 
ボンヤリ言語:曖昧で婉曲的な言い方をして印象だけでも刷り込もうとする。
 
トホホ言語:謙虚で弱いと思わせて悪意を隠すための嘘の反省言葉。やさしさ芝居。柔和芝居。
 
ボンヤリ言語の、曖昧な筆致でごまかしながら、決めつけて、決めつけて、偏見を刷り込む。
 
トホホ言語と芝居で、謙虚を装いながら、暗に、自慢して、自慢して、自己満悦する。
 
 
アドラー心理学の宣伝をしていたが、それが抜けない自己中が表れてくる。
 
HSを脱会したと言っているが、真実かどうか、疑わしい。
 
 
反キリストである。聖書およびキリスト信仰を、貶めてくる。
 
聖書を字面だけで読んで、理解したと思い込んでいる。
 
成長がなく、幼稚な疑問のまま、止まっている。
 
聖書や、他の文章も、心で受け取る、ということがない。
 
文章の、心無い字面(じづら)の皮相を、いつも、さすっているだけ。
 
 
霊能者のつもりだが、それに見合う直観的洞察は皆無である。
 
 
楽山は、学習の結果としての自身の顔を持ちません。ゆえに、反キリストでありながら、キリスト教に執着したりなど、一定の見解もなく、求めることもなく、いくつもの良さそうな仮面を作っては見せびらかし、自己顕示して自己満足するだけなのです。
 
ボンヤリ言語は、狭義には、少し誇張した例で言うと、・・であるに違いないと言えなくもない、といったような、二重否定の肯定で、自信の無さよりも、謙遜味を出すこと、あるいは、あとでつけ込まれないように、安全策を施したつもりでしょうか。
 
まるで、無事に帰ってくるかどうか分からない自分の発言という船を見送る不安を減らすための、虚空相手の自慰行為のような癖が染みついているのでしょうか。こう言っとけば、柔和で中立と思ってくれるじゃろ・・という書き方が多い。
 
それと、ボンヤリ言語は、加えて、文脈の進め方として、回りくどく、粘着するような言い方をして、読者が、ああそうですか、というような、めんどくさがりながら、同意するという、角の立たない受け入れをしてくれるように誘導してくることが多い。
 
私の経験から、いい文章は、その一部にでも、大なり小なり、はっとするような感動を伴います。そういう文章を誰もが書きたいと思うし、努力するのでしょう。しかし、楽山には、その方向に努力する意志もなく、既に、感動を、自己満足で置き換えている。
 
そのために、読んで、否定はしにくいが、退屈であり、平凡であるのに、よく読んで批判されることが、いちいち不当にしか思えないのでしょう。楽山の実際は、読書においては、楽山は、本当の自己満足を打ち砕くような感動をしたことがないのでしょう。
 
だから、字面の辻褄があっただけでも、文字列検索一致だけでも、涙した、などと、また、自分の言葉で表現できないために、そのまま、あっと驚いた、などという、原始的な書き方をすることになっているのだろうと思います。
 
上のような言葉の悩みは、私にもありますし、多かれ少なかれ、誰にもあるのかもしれませんが、だからといって、あんまり、白々しい、まんま表現だけで書いて、それで、そのあとに満悦するなんてことはないと思います。それに、言ったことには責任が伴うことを、普通は知っています。
 
ましてや、謙虚な自分を、トホホ言語の謙虚芝居の、わざとらしい書き方で表したつもりになるというのも、これも、同じ、まんまだけの、字面だけのものになるわけです。「反省、とほほ」などという言い方が、典型になります。
 
即ち、楽山は、自身の、字面の平面を、いつも、滑っているだけになり、他者の言葉を借りて、文章を書き、それで足りるとか出来たとか、のつもりになっている間、どこにも届かない字面のジレンマが続くことになり、だます方向に行ってしまうのだろうと思います。
 
言語表現に向かない人は、絵を描くとか、音楽とかの、別の世界にという可能性もありますが、少なくとも、言葉と伝達の、一対一対応という幻想に満悦固定してしまって、字面=言いたい内容として、書いた書いたと満悦し、批判に当てつけだけ書いてくる間は、どうにもならないのです。
 
 
参考までに、前に何度も、結果だけは書いてきたことですが、次は、シャロームshalom と楽山の関係を示している事実です。
 
  偽善者の自滅
 
シャロームのことです。自滅というのはシャロームの言論・信条の自滅のことです。私は、シャロームには、キリスト者に不可欠の、罪の意識がないと思ったので、それと問いただしていました。すると、シャロームは言ったのです。
 
「罪は悔い改めなくても赦されるから気にしなくていい」
 
シャロームは、悔い改めて罪を認める、ということを否定したのです。これは、いかなるキリスト教、キリスト信仰にも、ありえないこと、というより、反キリストの証明になります。当然、そこを、追及することになります。
 
すると、シャロームは、その場を繕うような、白々しい詭弁で言い逃れをしてきます。
 
「悔い改めは、神が与える」
 
シャロームは、神が与えるなら、悔い改める、今は違う、とでも言いたかったのでしょう。
 
しかし、この文脈で、この発言は、シャロームがキリスト者ではないことを表しているのです。
 
なぜなら、シャロームが、今に至って悔い改めをしないのは、神が、シャロームに、悔い改めに必要な信仰の導きを与えていないということになるからです。つまり、シャロームは、自身がキリスト者でないことを、自ら証明してしまっているのです。
 
そして、このシャロームの言説に、無条件で賛同したのが、楽山なのです。楽山は、シャロームの妄想発言に賛同しました。このことは、楽山が、自主性の無い人であり、シャロームの、成りすまし、親族、仲間、そのいずれかであることを、楽山が、自ら、証明したことになります。
 
 
参考までに、神が人を悔い改めに導くという聖句です。↓
 
 (ローマ人への手紙、口語訳)
2:3
ああ、このような事を行う者どもをさばきながら、しかも自ら同じことを行う人よ。あなたは、神のさばきをのがれうると思うのか。 
2:4
それとも、神の慈愛があなたを悔改めに導くことも知らないで、その慈愛と忍耐と寛容との富を軽んじるのか。 
2:5
あなたのかたくなな、悔改めのない心のゆえに、あなたは、神の正しいさばきの現れる怒りの日のために神の怒りを、自分の身に積んでいるのである。
 (ローマ2:3-5、新約聖書)
 
神を信じて善人になりましたという信仰の因果ではなく、神の前に、キリストの前に、悔い改めて、正直に告白した、あるいは、弱みを見せざるを得なかった人が、キリストによって、救われていることを覚えてください。救われないパリサイ人は、讃美はするが、告白の正直さがなかったのです。
 
 
偽善の花と鼻

偽善の花と鼻
 
 
(2020年06月18日)
(2022年06月19日、再録+加筆)
 
 
 
楽山のツイッター
 
★こも/楽山日記3
@komo266
図をよく見ると、
「人間の自己中心主義」というよりも、
「人間の男の自己中心主義」になってるじゃないか。
宗教は、神という上位の存在を想定するものだから、それを信じれば信じるほど、何でも上か下かでしか見られなくなるのかもしれないな。
 
図(省略)には、人間が三角形の頂点にある EGO と題された絵と、人間が動物の円の中にある NATURE と題された絵が描いてあります。様々な生命という意味で意義はあるでしょう。しかし、楽山のような自己中心の欲望しか持っていない者が、これを宗教否定に使うのは、著しい妄想的筋違いであります。
 
楽山はいつも、他者を、上から見下ろして勝手な文句ばかり言います。「何でも上か下かでしか見られなく」なっているのは、まさに、楽山であります。またしても、斬るための発信によって、楽山が斬られているという証拠なのです。楽山の口は災いです。楽山は、カルト的決めつけの害虫です。
 
正常な信仰においては、神のみが上であり、その下に不完全で罪深い人間がいるということです。楽山は、そのことを、まるで理解していません。理解できないのに、文句だけは書いてくるのです。いちゃもんしか言えない楽山、・・こうなったら、おしまいかもしれません。
 
楽山は、ここしばらくの間、私の知っている楽山ブログでは記事を書いていませんが、他にブログがあるのかもしれません。さらに、このように、ツイッターで、持ち前の実に嫌らしい捨て台詞のような筆致で当てつけをしてきます。あらゆる人間の良心のセンスを持たない病質者です。
 
 
 
  偽物
 
真実を悟っていると少しでも思うときには
たとえば信仰について
いちばん信じていることに
自ら偽物の称号を与えてごらんなさい
少しはへりくだった気持ちになれるでしょう
少しは自ら信じることに嘘がないか
内省してみる気持ちになれるでしょう
それを謙虚と呼びたいのです
 
人は人が知るべき真実に
近づき触れる機会を与えられていながら
見かけの美しい言葉で飾らなければ
理屈で辻褄を合わせ思いで納得しなければ
真実として人前に出せないような気がして
どこにも響かない空気の流れや
派手な排泄物にしてしまうのです
 
 
  求めよ
 
求めよ、さらば与えられん
・・・・・
あまりにも有名な聖書の言葉
しかしいったい何が与えられるのであろうか
言うまでもないことだが、求めればいつでも
欲しいものが与えられることではないわけで
むしろ苦難の時の霊的な賜物というべきか
勇気や安らぎに似たものか
こころゆくまで苦悩を表現したときに感じる
昇華作用のようなものがあるかもしれない
精神的効用と言ってしまえばそれまでだし
表現する相手によっては損をしたような気色にもなる
しかし相手が神様となると事情は違うだろう
はかない独り言のように思えても
限りない包容といつくしみを
忘れかけている者にとって
祈り求めることは違った働きを持つ
 
無限といっても有限といっても
奇跡といっても気休めといっても
霊的といっても心理的といっても
心の底の底、奥の奥まで
人にわかるはずもなく
またそこまで理解する必要もない
祈り求めることは
生きた働きをもって返されれば充分である
 
偽りのない
正直な祈りは
告白を伴って受けとめられ
信仰がまさに絶えんとするきわに
神と人との契約
基督と個人とのきずなによって約束された
閉じた目のぬくもりを身近に目覚めさせるだろう
 
 
  森の叫び
 
霧の酸を散らし
薬の雨を浴びる
森の叫びよ
かつて空気を水を浄化した
森の面影よ
迷い込んで途方に暮れて
蹲(うずくま)る旅人に告げよ
この地は最早(もはや)
旅人を癒す泉も潤いも持たず
刹那の益に流された血と汗と油と
股間を擦(す)り抜けた風の
腐敗の住処(すみか)になるのだと
砂塵を防いだ森林は
砂塵によって妨げられる
変わり果てる色彩は声よりも叫ぶ
滅びゆく森の最後の叫びは
乾いた砂の咽喉から病んでゆき
木々は虫食いの古文書に記(しる)され
果実は偽りの花押となって落ちてゆき
古びた墓碑が
眠らない屍の埋もれる砂の中に倒れていると
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
良心と良識のある人間でありたい人は、楽山と交流や議論をしてはいけません。楽山は、だますための嘘と詭弁だけを身に着けていて、まともそうに見える屁理屈へ誘導し、異常な疲労を与える病原だからです。楽山は、ただの無神論というレベルではなく、悪意の軍団なのかもしれません。
 
 
 
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  楽山の人間離れ2
 
 「第十八講 ヨブの見神(二)」(『ヨブ記講演』内村鑑三著)
 2021年05月03日 楽山日記(LD)
 
 
楽山が、人格に興味がないことが表れています。さらに、楽山は、人間ではないのかもしれません。宗教を考えるときに、自分以外のもの、被造物であるとか自然であるとかを考えて、人間の心を考えないし、心に感じない楽山が、宗教と信仰、即ち、人間を生かす道を説くことなど出来ないでしょう。
 
 
「第十八講 ヨブの見神(二)」を読んだので、印象に残った箇所と感想をメモしておきたい。
「第三十八章の研究」。
「有名なるドイツの科学者フンボルトは科学者は自然現象を説明し得るもその意味を説く能わずというた」。
海の動揺(心の動揺)は人には制御し難い。しかし「我らより熱誠なる祈の出ずる時、神はその大なる御手を伸ばして海を制し給う」。
「神の造りし荘大なる宇宙とその深妙なる運動、神の所作と支配、そこに神は見ゆる」。
「一人の人を真に知らんためには、その人の作物を見るを最上の道とする」。神を見るには「彼の所作物たる宇宙とその中の万物を見るべきである。その中に彼の真の姿が潜んでいる」。
 
この引用は、楽山の興味を表しています。「海を制し」「荘大なる宇宙」「深妙なる運動、神の所作と支配」「所作物たる宇宙とその中の万物を見る」・・楽山の誇大妄想の世界でしょう。大きく偉大な者が好きで、そういうものとの関わりでないと神を考えることが出来ないのです。
 
宗教と信仰は、人を生かすためにあります。しかし、楽山は、人間の心が分からず、ゆえに人間の存在に興味がなく、人間を見たり考えたりが出来ないために、どんどん人間離れした誇大的なものしか見ないようになっています。
 
「一人の人」である自分「を真に知らんために」自分を見ることだけは出来ない楽山です。
 
楽山自身は、今まで楽山が書いてきたものから、スケールの大きいものだけでなく、人間一人にさえも洞察や共感が出来ないでいて、できないことの反動のように、安っぽい空想だけで、宇宙と万物とかデカいものを語ろうとするのです。
 
一つには、スケールの大きなものは想像するしかないために、批判を受けにくいと見ているのでしょうか。誇大妄想的空想は、それだけで、身の程知らずを表すことになります。身近なものが、全く、意に反して、手に負えない楽山ならではの、子供じみた自慰行為の誇大広告なのです。
 
そういう事情だから、批判しても、返しも弁明も出来ないということでしょう。もう、2年以上も続いていることです。そうして、反省しない、責任は負わない、悪いことは人のせいにする、・・そういう人格が、自他を破壊する悪魔性の体質として養われてきたのでしょう。
 
 
自然の中に神を見るというのはよく聞く話ではあるし、それは自分も感じたことはある。「このようなものが偶然にできるものだろうか。そんなことがあるとは思えない。このようなものが存在するということは、やはりその背景には何らかの意思があるはずだ」など。
 
楽山の、月並みな、荘厳気分からの陶酔を語る口は、一方では、人間一人も、好きになれない、うまく関われない、共感できない、ならば、傷つけてやれ、壊してやれ、という方向に、堕ちてきたのだろうと思います。
 
私は、人付き合いが苦手ですが、聖書が、信仰が、キリストが、人間らしい道を示していることには気づいて、残り少なくなった人生において、今も、なお、人間として少しでも成長したいと思うゆえに、努力可能で修正可能な道を歩もうと努めています。楽山の語る神?は、楽山が作った張りぼてなのです。 
 
 
でも自然の中には美しいものばかりではなく、醜いもの、酷いことも多くある。肉食獣は他の動物を生きたまま貪り喰うし、寄生バチ、カッコウなどの残酷な習性をもつ生物もいる。これまでに多くの種が無残にも絶滅したともいう。これらの事実からすると、自然は神に由来するという考え方にはどうにも疑問を感じないで入られなくなるし、自然によって神を知ろうとするのは想像以上に困難な道になりそうにも思えてくる。もしかしたら自然の見方が浅いせいでこのような考え方をしてしまうのかもしれないが、とりあえずはこれが現時点での正直な感想ではある。
 
「醜いもの、酷いことも多くある」・・その典型例が、楽山自身であることに、自己愛性人格障害の楽山は気づかないのです。そうして、平気で、人を無視し、あるいは、悪口を言い、自己正当化の詭弁を弄して、みすぼらしい自身と我執を隠そうとしては、いっそう恥ずかしい失敗と欠陥を露呈するのです。
 
楽山は、何事についても、決して、批評、評論する立場に立ってはいけない人です。すべて嘘となり、偽善となってしまうからです。自己愛性が、自分を、まともに見せかけようとするとき、最も、人を傷つけやすくなります。どうか気をつけてください。無反省、無責任の、楽山です。
 
また、今回も、楽山は、自分を良く見せようとあがいて、結果として、わざわざ、最も見苦しい自分を表してしまいます。一生、これを、繰り返す因業(いんごう)なのでしょうか。
 
自分を見ることなく、人に向かって、書いて表すことで、泥の靴を履き、虫の羽音を立て、笑いの口を引き伸ばして、なお、人の血を求めて、歪んでゆきます。
 
 
因業の空と海と道

因業の空と海と道
 
 
 
(2021年)
(2022年05月11日、再録+加筆)
 
 
 
  なくしたアルバム
 
少しは懐かしくもあるけれど
格別お名残惜しいわけではない
ともかくも君らが私と別れたのは幸いだった
お互い結局
いいことばかりじゃなかっただろうから
 
君らが今どこにいるのか知らないが
私よりは多くの陽を浴びているだろう
私は暗いところにいる
といっても気持ちはそれほどでもない
いま会ってもわからないかもしれないけれど
君らの笑顔はぼんやり残っている
それで気分のいいときもあるのだから
起きたいときに起きて
汚れたまま街を徘徊したっていいんだけれど
なかなかそこまで気が進まない
 
私が何をしているかといえば相変わらずで
傷を集めたりしている
かすり傷、細い傷、いろいろだ
傷つきながら夢中になって
君らが丈の高い萱(カヤ)の中を
あんまり急いで走り回るから
あとで血がにじんできて
びっくりして痛がっていた傷とか
けんかしたり転んだりして
君らが遊んでつくったアザとか
私の目に
はっきり写らなかったものを集めている
そして並べてみて
くすっと笑うことだってある
 
君らが川や海辺や山にいても
路地や工場の跡や
お化け屋敷にいても
泥んこや田んぼとだって友達で
君らの声がきらきら輝いて
何を言っているのかさっぱりわからなくて
みんな名付けようもなくひとつだった
 
若者になって並んでいた君らはもう
埃(ほこり)を被(かぶ)った私には
ぼんやりしていて
虹の向こうでかすかに微笑んでいるんだ
あの頃は
と君らは言うかもしれないけれど
あの頃いちばん大切だったものは
君らは捨て去るしかなかったこと
私はわかっていた
君らは私と
知らないまま別れるしかなかったことも
 
君らが遊んだ人形や玩具
もう二度と触れることはないと
気づかないまま手を離した瞬間が
スローモーションのように写っているよ
 
君らが私をなくした日のこと
私は覚えている
でも君らは忘れていい
君らは皆、私を卒業していった
私は埃を被ったままでいい
これから先、君らが何か
咎(とが)められることがあったとしても
咎めるのは私の役目ではないのだから
 
 
 
 楽山のツイッターですが
 
心機一転★こも楽山
@komo266
百田氏は、及川氏とは交流があっても、幸福の科学とは距離をおいてるんだろうと思ってたけど、それは間違いだったようだ。
百田氏は何年も前からリバティ(幸福の科学)との付き合いがあったんだね。
午後7:03 · 2021年5月3日·Twitter Web App
https://twitter.com/komo266/status/1389158571686858752
 
また、自分のことを棚に上げて、他者のことだけは語ろうとする楽山です。自己愛に凝り固まると、こういうことになります。今まで、自分を語っても、自分はこうだ・・みたいな書き方しかできず、反省と書いても、全く自分を斬ることのできない楽山です。
 
しかも、楽山は、発言の責任を負わず、反省もしないのだから、言論や批判をする者としては、完全に失格です。そのことさえも無視して書いてくるのは、病質者だから・・以外に考えられないのです。
 
遠い先のことを慮ること、すなわち、遠慮することの出来ない楽山です。楽山には、誰も、関わらず、近づかないことだけを願っています。
 
慮る(おもんばかる)
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
間違いを自覚できない楽山です。反省の実践が難しいのだそうです。「恥ずかしながら」は嘘です。楽山に羞恥心も罪悪感もないと思います。全部、人のせいにして、自らを省みない人です。「人間の性」と言って一般的なことのように見せかける詭弁は、しばしば、楽山に見られてきたことです。
 
 
 
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  楽山の悪霊
 
 
 「霊言の冒涜は人類叡智の冒涜
   ~イタコ芸など、いい加減にせよ!~」を見た!
 2022年04月23日 幸福の科学とは何だろう? by 楽山
   を批判。
 
楽山は、一見、HSを批判しているように見えますが、実際は、聖書から、残酷な言葉を選んで、書いています。楽山の目的は、自分が批判されたことへの、キリスト教に対する復讐でもあるのでしょう。実に、片落ちで、聖書は殺すことばかりで残酷ですよ・・と言いたいのでしょう。
 
聖書を理解しない者が、ましてや、言動が聖書を裏切っている者が、聖書を引用する・・これほど、危険で、醜悪な偽善はないでしょう。この楽山のような者のゆえに、終末の裁きは用意されているのでしょう。というより、既に、楽山は裁かれているのですが。
 
 
*公式見解?
・霊言の冒涜は人類叡智の冒涜~イタコ芸など、いい加減にせよ!~
(動画省略)
この動画では、「すべての正しい宗教には“霊言”がある」という主張がなされている。
まるで、他の宗教でもHSの霊言と同じことをしていると言っているようだ。
はたして、本当にそうだろうか?
 
聖書において、霊については、聖霊と悪霊とが書かれています。これは、よかれあしかれ、人間を誘導し動かす心の働きを表しており、楽山が好むようなホラーの霊とは違います。霊について、とんでもない偏見で、楽山は、おとしめたいのです。楽山を信用しないでください。
 
楽山の、霊についての文章は、一足飛びにエスパーになりたい妄想なのでしょう。その欲張りから、楽山は、結局、悪意、つまり、悪霊にばかり憑りつかれているようです。楽山が、いちばん危険な霊の思い込みだけの、実際は、霊の無能者なのです。全く俗の欲望と興味だけなのです。
 
 
*聖書と霊言
たとえば、聖書にはこんな風に書かれている。
「(聖句)
霊媒を訪れたり、口寄せを訪ねたりして、汚れを受けてはならない。
(レビ記19.31)
 」
 
まさに、超常現象としてのホラーの霊を信じて、霊が分かるっぽい自覚で、嘘と詭弁を書いてきたのは、他でもない楽山です。楽山は、努力せず、学習せず、一気に超常のヒーローになりたくて、崇められたい教祖願望で、あらぬことを書きまくります。
 
 
男であれ、女であれ、口寄せや霊媒は必ず死刑に処せられる。彼らを石で打ち殺せ。彼らの行為は死罪に当たる。
(レビ記20.27)
あなたの間に、自分の息子、娘に火の中を通らせる者、占い師、卜者、易者、呪術師、呪文を唱える者、口寄せ、霊媒、死者に伺いを立てる者などがいてはならない。
(申命記18.10)
口寄せや霊媒を訪れて、これを求めて淫行を行う者があれば、わたしはその者にわたしの顔を向け、彼を民の中から断つ。
(レビ記20.6)
 」
これを基準にすれば、死者を呼び出し、その言葉を伝えるHSの霊言が容認されることはあるまい。
 
まさに「霊」を悪用する悪霊が楽山と言いたくなるような、ただれた発疹のような、断片的な聖句の引用の仕方と言えるでしょう。誰が、言論の場に「いてはならない」かを、楽山が表しています。楽山の、ブレーキの利かない血生臭さです。
 
 
*聖書と預言
預言については、こうある。
その預言者が主の御名によって語っても、そのことが起こらず、実現しなければ、それは主が語られたものではない。預言者が勝手に語ったのであるから、恐れることはない。
(申命記18.22)
 」
さらに、神については、こうある。
神は人ではないから、偽ることはない。
人の子ではないから、悔いることはない。
言われたことを、なされないことがあろうか。
告げられたことを、成就されないことがあろうか。
(民数記23.19)
 」
この場合、大川隆法が預言者とされることはもちろん、神とされることもないだろう。
大川隆法は、90年代には、今世紀中に日本国民全員をHSの会員にしてみせると豪語したり、2009年には幸福実現党が政権を取るかのような物言いをしていたが全くそうはならなかったのだから。  
 
キリスト教を、ミソクソに言っておきながら、聖句を引用して根拠とするとは、楽山は、もはや、真実も、節操も、なくなって、亡者と化しているということです。楽山のような曲解を習いとするような者が、恣意的に引用してよいような聖書ではないのです。楽山は、悪魔性の冒涜者であります。
 
 
*心霊研究と霊言
イギリスの心霊研究協会では、霊言現象の検証方法として次のものがあるそうだ。
子供のいたずらではないかという懸念が、関係者の中にあり、ハステッド教授という心理学者が現地に行って調査した。ジャネットの口に水を含ませ、唇をテープで貼って、それでも声がでるかどうかを試したのである。 
(『イギリスの霧の中へ 心霊体験紀行』三浦清宏著、南雲堂、昭和58年、p.35)
 」
はたして総裁の霊言は、この検証に耐えうるだろうか。
ちなみに、映画『死霊館 エンフィールド事件』では、霊媒少女が口に水を含んだまま、霊言をする場面がある(1:10:25付近)。
 
このように、楽山は、超常現象とホラーに興味があるだけのオタクです。宗教や信仰を語れるような、柔和な器を、全く持っていません。自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)の楽山が、聖書を引用すれば、ことごとくインチキになる定めなのです。近づかないでください。
 
 
*まとめ
以上のことからすると、HSの霊言は、聖書の預言とは別物であることが分かる。心霊研究における霊言にも該当しないだろう。
 
聖書の意味など、全く分かっていない楽山が言っています。戒律的な文言を、預言とか霊言とか呼んでいるところもそうですし、宗教の歴史を考えずに旧約聖書を、実に無遠慮に利用~悪用しまくっているのは、もはや、できの悪い子供が、マンガ雑誌を振り回して暴れているようなものです。
 
聖書を読むためには、聖書を読むための宗教的興味と冷静な弁えが必要です。楽山のように、キリスト教を否定しておきながら、自分の企みに都合のよい文言を集めるなどという引用は、悪魔性か、怠け者か、無節操か、凶暴性としか思えません。楽山を、決して信用しないでください。
 
 
したがって、これらを同一視して、HSの霊言は、他宗教と共通しており、「すべての正しい宗教には“霊言”がある」と言うのは詭弁なのである。
 
「詭弁を弄する者」は、他でもない、楽山です。ずっと、そうです。そして、霊言という言葉を、平気で、分かっている前提で使っているのは楽山の傲慢です。霊は、心を意味したり、超常を意味したり、心霊、聖霊、悪霊など、多義でありますから、慎重でなくてはなりません。楽山は粗忽(そこつ)です。
 
 
詭弁を弄する者は、意識的であれ、無自覚であれ、言葉の多義性を利用しつつ、同じものを違うとしたり、違うものを同じとしたりすることがある。たとえば今回の場合は、「霊言」の意味を広げて、「すべての正しい宗教には“霊言”がある」とし、HSの霊言も、他の宗教の啓示なども同じだということにしたわけである。こういう詭弁には注意したいものである。
 
霊言という言葉の定義も書かないで、霊言という言葉を振り回して、霊言が分かっている前提で、物を言う楽山こそ、あくどい詭弁屋の典型です。楽山の思い上がりは、もはや、有頂天妄想の領域にあると判断するしかないでしょう。教祖願望から正気の喪失に向かっているようです。
 
 
*冒涜?
余談ながら、本動画では、大川隆法総裁は「モーゼの霊言の中で、“神の声”と“悪魔の声”を聴き間違えたことを明らかにされた」云々という箇所があった(11:50以降)。
これはつまり、聖書には悪魔の声が神の啓示として記されている箇所があるということだろうか。もしそうであれば、これは明らかに冒涜だろうし、訂正した方がいいと思う。
 
超常ではなく、悪魔性が、助言者などに化けて、誘惑することはあるでしょう。楽山こそが、そういう言動を続けてきました。悪魔的な人物は、露者にもいるようですが、嘘吐きで詭弁で人をだましてきた楽山は、他人のことを言う前に、わが身を省みるべきです。しないでしょうけど。
 
楽山の言は、楽山の指摘する罪悪は、全部、楽山に返ってゆきます。自らを見ない自己中の宿命かもしれません。ワッハワッハと勢い任せで書いて、罪と恥だけが返ってきて、楽山の持ち物になります。言論の素地を持たない楽山の宿命のような自業自得の悲劇が、今回の記事です。
 
 
悪霊も真っ青

悪霊も真っ青
 
 
(2022年04月25日)
 
 
 
  対話
 
光が街中で叫んでいたのに
二人腰掛けて
向かい合って話していた
一人は一人の後ろの人を
もう一人はまた別の人を
二人が話していたという場面
それは対話
光も記憶もそれ以外を写さなかった
光が街中で叫んでいるのに
あれから数々の対話
人とだったか
幽霊だったか
幻だったか
夢だったか
話す方も答える方も
数さえわからない
対話?
今も光が街中で叫んでいる
 
 
  テレビ
 
あぐらをかいて座っている
男の顔は
肌色を消されて
明るくなったり暗くなったり
赤くなったり青くなったり
次々に変化していく
座っているのは同じ男なのに
幽霊になったり鬼になったりする
男は光源を見ている
光源は男を照らす
光源からは目をそらすことが多いのに
じっと見つめ
泣いたり笑ったりを
光源からもらっている
 
焚火を囲む人たち
その顔は炎の色に輝いている
男の顔も赤くなる
しかし炎の色ではない
炎は熱い
テレビの火は冷たい
火を受けて凍りつく顔
 
外に出て星を見上げた
輝く星の光を受けて
男の顔は真っ暗だ
 
 
  叫ぶ男
 
山頂で叫ぶ男の
叫びを追いかける
 
耳で追えば
木霊(こだま)となって返りながら
遠ざかるばかり
 
何を叫ぶのか
男は誰なのか
男は何をしでかしたのか
 
叫んだ後は・・・
追い方はありそうなのに
足でも目でも頭でも
叫ぶ男に追い付くことはできない
しかし無謀にも
その男にではなく
その叫びになろうとした
もう一人の男を
聴きたいと待っているのだ
 
煤けた胸の中を木霊して
空っぽになるくらい揺さぶって
音ではなく
話でもなく
もはや叫び声でもなく
声にならない人の響きを
つかまえたくて仕方ないのだ
 
 
  霊
 
霊は魂のうちに語らない
ただ思いのうちに留まるのみだ
 
私の思いは私のもの
私の体は私のものと
私が幾度それらを捨てようとも
霊は魂のうちに語らない
ただ思いのうちに留まる
 
捨てれば捨てる思いのうちに
空しければ空しい思いのうちに
私が思う
時が短くても長くても
そのあいだ私のすべては
私のものではないかのように
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
キリスト教を、ミソクソにけなしてきた楽山が、別の他者を、聖句を引用して、批判しているのは、不道徳の者が、白々しく道徳を教えるようなもので、全くのホラーとしか言いようがありません。罪悪感のない楽山だから出来ることなのでしょう。悪と偽善が沸騰しています。
 
 
 
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  人を傷つける楽山2
 
 人を傷つける宗教
  (『ジョイランド』スティーヴン・キング)
 2016年10月12日 楽山日記(LD)
   改めて批判。
 
 
(ネットより)
スティーヴン・エドウィン・キング(Stephen Edwin King、1947年9月21日 - )は、アメリカのモダン・ホラー小説家。作品は世界各国で翻訳され読まれている。「ホラーの帝王」の異名を持ち現代アメリカを代表する作家の1人である。
スティーヴン・キング
 
8年ほど前の楽山の記事ですが、楽山は、引用されている伝道師についての子供の死の話まで利用して、おぞましき反宗教に読者を誘導しようとしています。何も変わっておらず、以前から、ずっと、人をだまして宗教の悪い印象を刷り込もうという意図が明らかであります。
 
楽山は、生も、死も、悲劇も、小説も、学問も、事実も、誤解も、曲解も、有利になるなら、何でも、自分の快感のために利用~悪用する人なので、気をつけてください。人を傷つけているのは、宗教ではなく、神でもなく、楽山という人の罪によるものです。
 
むしろ、ゆえに、一般的には、人生経験を重ねることが出来ていたら、このように楽山に悪用されることもなく、人間らしい正しい信仰によって、癒しや救いに恵まれるストーリーもあったでしょうに・・と思われる人がいるかもしれない、という感想になります。
 
罪の自覚さえ持たない楽山のような者こそが、満悦した正義の味方気分のために、子供さえも利用して、学習と修正が不能の状態のまま、宗教が悪い、宗教が悪いと、人を、誘導し、惑わせ、迷わせ、傷つけてゆく悪魔性の外道になり得るのであります。
 
楽山の病理には不遇からの怨念なども考えられますが、詳細は不明です。少なくとも、楽山は、反省と学習の意志がないために、自身の欠点について、全くの不感であり、無頓着であり、その分、宗教のせいにして、発言の責任も負わず、恥じるとことがないのです。
 
今までに明らかになったことから、楽山は、無神経、無反省、無責任で、訂正不能の自己満悦に生きている自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害)者です。人格の異常には、効く薬がありません。罪悪感がないので、発言は、丁寧を装っても、低次元で偏狭で野卑で残酷になります。
 
 
スティーヴン・キングの新作が出ていたので読んでみた。その中で、ハッとする言葉があったのでメモしておく。
「世の中は苦しみだらけだっていうのに、どうして人間は宗教を使って傷つけあったりするのかしら」とショップロウ夫人が言った。「宗教は安らぎのためにあるはずよ」 
(『ジョイランド』スティーヴン・キング著、土屋晃訳、文藝春秋(文春文庫)、2016年、p.211)
 」
これは、ある伝道師の発言に対する感想である。伝道師は、無神論者となった実の娘が生んだ子に、重い障害があるとわかったとき、それは神による罰だとした上で、やがて娘は「息子の受けた試練によって神の道にもどるだろう」と言ったという。
 
これは、間違った伝道師の話です。敬虔な伝道師なら、神を恐れて、「神による罰」だなどと決めつけることはしません。その責任を、楽山は、神に負わせたいようですが、罪と責任は、この伝道師が負うべきことであり、まさに、伝道師の罪は、神が裁くことであります。
 
楽山が裁いて、云々しているのは、とんでもない身の程知らずなのです。実に、この伝道師の罪の着せ方は、いつも、人を、あらぬ方向へ誘導しようとして、不祥事を何でも人にせいにする楽山の体質に、よく似ています。
 
人間集団は、宗教であれ、なんであれ、何らかの闘争状態にありますし、そうでなければ、いつでも堕落し得るものです。信仰は、折々の必要な平安を与えることはありますが、けっして、常時の安穏を約束するものではありません。
 
楽山のような自己中は、批判されることはあれ、断じて、批判する主体にはなれません。ゆえに、言ってることが、ことごとく、的を外れになります。自らを見ようともせず、その不完全を反省しないまま、人に教えたがるだけで、自己満悦しているような、楽山のようになってはいけません。
 
人に意見を言うが、人の意見を聞かない、という人格の悲惨が表れています。この伝道師には、自己中で訂正不能の思い込みがあるのでしょう。つまり、楽山に似た人かもしれません。キリスト教の内部にも外部にも、楽山的人物はいるということです。
 
「人間は宗教を使って傷つけあったりする」・・これも、宗教の間違いから起こることであり、責任は、宗教の誤解~曲解という罪を犯す人間の側にあります。つまり、こういう人間の間違いを、神は、ひょいひょい出てきて正すということは、なさらない御方なのでしょう。
 
それが不服なのが、自分可愛さだけの楽山は、分かってもいないし知りもしない宗教・信仰のせいにするのでしょう。楽山は、神に、何でも困ったときには、出てきて、うまくいくようにしろ・・とでも言っているようなものです。
 
自分の罪の性質を省みない者は、何事につけ、反省することがないので、このように、安易に他罰に走ります。そして、信仰の恵みを何も知らないまま、厚顔無恥の反キリストになっているのです。反キリストの楽山は、自らを省みず、嘘っぱちの正義をもって、神を、宗教を、悪者にするのです。
 
ゆえに、この記事の中で、いちばんの悪者は、言い方が丁寧を装っているぶんだけ、不幸を反宗教に悪用する楽山その人であります。
 
罪深い不祥事の例をもって、正しい理解を知らないものだから、宗教って、こんなに、おかしいから、信じないほうがいいよ・・という方向に、誘導したい楽山のような悪魔性の輩もいるということです。本当に、何の救いも、癒しも、慰めも、見出し得ないのは、楽山の言であります。
 
 
本当に、ショップロウ夫人の言う通りだなあと思う。世の中には、つらいこと、苦しいことがたくさんある。本来なら、宗教は、苦しんでいる人たちに、安らぎを与えるべきものだ。
 
宗教をけなす楽山は、「苦しんでいる人たちに、安らぎを与える」すべを、何も持っていません。つまり、いちゃもんだけを言って、楽しんでいるサディストの自己愛性人格障害者です。そのために、悪知恵をめぐらせ、一部をもって、全体を否定する詭弁を作っては投稿してくるのです。
 
 
でも実際には、宗教者はそういう人たちに対して、神罰だ、裁きだ、地獄に墜ちるぞ、カルマだ、自業自得だ、心掛けが悪いからそうなるんだ、祟りだ、悪いものに憑りつかれているんだ等と言ったり
する。必ずしも悪意でなく、善意で言うこともあるから余計に始末に悪い。
 
楽山によく似ています。神のせいだ、神が裁くからだ、信者になると苦しみが待っているぞ、神はカルトだ、神なんかいない!、自分は出来た人だから自分に聞け、宗教に "取りつかれると大変なことになりますよ" とでも言いたげな、遠回しの印象操作によって、さらに悪性度が高いのです。。
 
 
実を言えば、自分も宗教を信じていた頃は、そういうタイプの信者だった。信仰熱心になるほど、人の気持ちが分からなくなり、無慈悲になっていた。ひょっとしたら信仰は、人を無慈悲にするのかもしれない。こういう自分が言うのもなんだけど、この辺りのこと、どうにかならないものかなあと思う。〈了〉
 
「信仰熱心になるほど、人の気持ちが分からなくなり、無慈悲になっていた」・・これは、楽山が、自己中によって、信仰を曲解してきたからです。そして、うまくいかないのを、信仰のせいにしているわけです。信仰熱心と、思い込み固定を、いっしょにしてしまうと、こうなります。
 
つまり、都合がよくないと、人のせいにし、神のせいにする、この他罰性が、楽山の悲惨をもたらし、さらに、他者に、その偏見を宣伝して、不幸を広める因業となっています。楽山は、体質的な異常人格によって、人の気持ちが分からず、無慈悲です。
 
楽山との交流は、人を、同じように無慈悲にしてゆく洗脳~マインドコントロールなのです。楽山は、人がどうなろうと知ったことではなく、ただ、訂正不能の自分の妄想から、反キリストの思い込みを書き、他者を支配して教祖になりたいか、少なくとも、優位に立っていたいのです。
 
無反省と無責任という病的人格こそ、最も冷酷で残忍な言動に、人を走らせます。理解を示す芝居をしたり笑ったりする楽山その人です。邪悪な狙いが隠れており、洞察もなく、何かを負う気もないのに、懐(ふところ)に恐ろしく鈍く硬く冷たい反応系を隠し持っている怖さがあります。
 
そして、他人事のように、心にもない「どうにかならないものかなあ」みたいな真剣味のない同情言葉を言ったりします。この遠回しの、脳天気で、深みのない表現が、楽山の、高等感情の鈍麻からくるボンヤリ言語の特徴です。やさしく言ったつもりでも実感がないので説得力が皆無なのです。
 
信仰は、不完全でも、人という存在を、悔いと反省と正直の道へ導きますが、反キリスト・反宗教の異常者には、それら良心の産物が見られないために、楽山のように、一方的に無責任に発言し、暴走になり、楽山に対する批判は、厳しさを増すという必然です。
 
楽山は、神を恐れよ、という意味を理解していません。神を恐れぬ言動を続けていることが根拠であります。神は、地上から見れば、畏敬の対象ではなく、恐怖の対象であります。ゆえに仲保者たるキリストが必要なのです。信仰は、キリストからの共感に反応する、キリストへの共感であります。
 
神は、神は、と言って、疑問というより、いちゃもんを発してくる楽山は、神を、対象物のように軽視して、その軽視と否定を宣伝しています。そこに描かれている楽山の言う神?は、楽山の吐く息と唾と臭気に蹂躙されるような捏造の紙細工に過ぎません。楽山は神も信仰も知りません。
 
神を、紙のように見なしている楽山の罪は、人を命ある塵(ちり)として大切に思う神の怒りを買うでしょう。与えられた言葉の使い方を学ばないならば、命を与えた神の前に、楽山の顔面は紙面となり、最も無残な内実を隠そうとして、剥がされてゆく安い紙細工となってゆくのです。
 
楽山ほど、物を言うたびに曲解の罠を仕掛ける詭弁屋は珍しいと思います。いわゆる悪意の煽動屋であります。悪魔性の方向に、のめりこんでしまった人物が相手ですから、これからも、楽山の白々しさを暴くのに、遠慮など、できるはずはないのです。
 
私は、もう年ですから、楽山の、言い逃れや、言い訳や、誘導の詭弁に振り回されて、私が、自分を見失うことのないように注意したいと思っています。勝ち負けではなく、できることをしています。
 
 
傷と闇

傷と闇
 
 
(2021年04月14日)
(2022年04月20日、再録+加筆)
 
 
 
  びしょ濡れ
 
ぶらりと歩いて
コンビニでお買い物
空っぽを下さい
 
銀行に入ると
通るべき空間がすでに用意されている
レールよりも複雑だ
時間と音さえ狭い通路
べらんめえ口調ってのはどうだろう
 
映画館でみている
閉じたまぶたの裏を
病のようにギラギラと波打つ闇を
 
公園に座っている
近くの草をむしりながら
意外と落ち着かないものだな
目的がないということは
目的があるということは
どれくらい本当のことかしら
 
君も遠くなったな
太古の昔のことのよう
思い出すというより
まるで想像している
君と僕に接点があったなんて
 
ライトをつける
ポンコツのバイクの音が
夜に響く
それよりもチクチクと
無数の虫がライトに飛び込んでくる
 
夏の夜の田舎道
田んぼが見えない
バイクの光だけが浮き上がる
自分が見えない
虫が当たる痛みを感じる
虫の死を感じない
 
この角は知っている
ふいに曲がるから
まだ西の空に
少し夕方が残っていた
夕暮れに連なる道
 
いつか消えて
ライトを消して
エンジンを止めると
沈黙と暗闇の中で
焼かれているものがある
 
ぶらりと歩いて
ドアを開けてふらついた
今日は濡れずにすんだね
実はびしょ濡れなんだ
 
 
 命のほとり
 
いのちの
ほとりで
あそぼ
 
いのちの
のこり火に
手をかざそ
 
投げられた
ちいさな つぶて
ひとつひとつに
ていねい過ぎるほど
苦しんで
 
たかぶる神経
その線の果て
 
なにもかも
むだ
だったのでしょうか
失うものばかり
だったでしょうか
わからないことにさえ
苦しんで
 
あきらめの
ふちで
こころおきなく
なけるなら
言ってみたい
ことばがあります
 
もういつ死んでもいいです
もういつ生きてもいいです
 
いのちのほとりで
あそぼ
 
 
 
 楽山の記事の追記ですが
 
*切実な祈り
谷口雅春の詩を記事にしたことを思い出したので、ここにも貼っておきたい。
背教の心起これば野に出でて霧に泣きぬれひれ伏して祈る
(谷口雅春『生命の實相 頭注版 第19卷』(自傳篇上)日本教文社、昭和50年、p.140)
 」
谷口雅春についてはさまざまな評価があるだろうけれども、少なくともこの詩からすると信仰について本気で悩み抜いた人なのだろうと思う。
http://mn266z.blog.jp/archives/28722574.html
 
(ネットより)
谷口 雅春(たにぐち まさはる、1893年11月22日 - 1985年6月17日)は、新宗教「生長の家」創始者・初代総裁[注釈 1]。
 
楽山は、なぜ「貼っておきたい」のでしょう。説明がありません。説明できないのだろうと思います。楽山の我欲に沿わないキリスト教を揶揄し、興味本位に仏教を語り、HSを批判しているようで、今度は、生長の家とは、楽山の、相手を選ばない悪気の多さです。
 
楽山は、宗教と信仰についても、悩み抜いた文章ではなく、大方、ホラー、アニメ、空想、お伽噺のような遊び半分の受け取り方しかできない人です。宗教の見方がそんなものだから、人生についても、人間についても、深い話が、まるで出来ないのです。
 
どれもこれもと、空疎な興味で書いてきます。どれもこれも、本気では信じていないので、結局、どの宗教も、本当の理解や共感には達しないまま、真剣に分かろうとしないまま、欲望の幼稚な辻褄で、軽薄な駄弁と詭弁の材料にしてしまいます。
 
こういう人の言なら、逆にカルトを批判する立場にいても、真面目さを装う筆致で、実際は、他人事のように、真剣味がないだろうという推測にもなります。理解などしていないまま語って、宗教家のふりをして自己顕示欲を満たしているだけの楽山です。
 
人生において大事なテーマと、趣味的なテーマの、重みの区別が、まるで出来ない楽山です。総てが趣味と同じように経過する筆致には、真剣味の欠片もなく、それゆえに、生きている人間性が、どこにも見えてこない軽薄な文章です。
 
楽山は、具体的な言動から、かえって、真剣味のない体質と限界が見えてくる例となっています。前に書いた霊が分かるっぽい?自覚というのが、宗教について楽山が分かると言うことが、いかに、いい加減か、いかに、インチキか、ということが見えてくるのです。
 
 
約2年も批判されてきて、なお書こうとするのは、楽山は、試練に耐える正義のヒーロー気取りでしょうか。違います。ヒーローは正々堂々としています。楽山は、卑怯な詭弁と言い逃ればかり書いてきました。楽山はヒーローとは正反対です。独りで勝利を思い込んでいる病気なのです。
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
言いたい放題で、反省しない、言い逃れで保身だけをする、「魅力の欠片もない」嘘吐き、偽善者、厚顔無恥に、影響されてはいけません。ましてや、支配されてはいけません。一定期間、慎重に見て、ようやく分かることですが、まず、楽山の、中立・柔和芝居を信用しないでください。
 
 
 
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  楽山を斬る聖句2
 
 「第十四講 ビルダデ再び語る」(『ヨブ記講演』内村鑑三著)
 2021年03月27日 楽山日記(LD)
  を改めて批判。
 
 
内村鑑三の本を引用して、あたかも論理立てをしているようですが、前から書いてきたように、自己愛性パーソナリティ障害の楽山には、論理も、理路も、情緒も、自己愛と自己正当化の方向に偏ってゆきます。また、論理どころか、できない無理を通そうという楽山の悪あがきです。
 
 
「第十四講 ビルダデ再び語る」の要点を抜き出しつつメモ。
ビルダデは「頭脳明晰」であり、その意見は「論理は整然」としていて、「さすがのヨブも彼の攻撃に逢いては大いにたじろい」ている。
 
ビルダデは、ヨブの三人の友人のうちの一人です。楽山が、上のように言うことには、何の根拠もありません。ここに書かれたことは、個人的な、楽山か著者の褒め言葉、という意味しかありません。楽山にとって、ビルダデは、都合がよいのでしょう。利用できるものはなんでも利用する楽山です。
 
楽山は聖書を曲解することしかできない人です。ヨブも、ビルダデも、ヨブ記も、聖書も、楽山は、いちゃもんを言うネタとして語ります。本音は、自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)からの無神教カルト信者~教祖願望という荒らしに過ぎません。
 
 
ビルダデのように論理によってのみ判断する人は、神を弁護者としつつ神に対峙し、神を恨みつつ神に仲保者であることを期待し、「神を敵としまた味方とし」、「神を罵りまた神に憐れみを乞う」ようなヨブは、「理性と論理においては迷妄の極」ということになる。
 
ビルダデをはじめとするヨブの三人の友人は、神の偉大さを、教条的に大仰に述べているようです。それで、災難に見舞われているヨブの悲しみに答えているとは思えないという感想です。「論理によってのみ判断する」ことは、人間には出来ません。大切なのは、共感を呼び起こす言葉です。
 
ヨブは反論しますが、そこで語られているのは、自己正当化であることに変わりはないのです。楽山が、賛同して、ビルダデを、「頭脳明晰」「論理は整然」と書いているのは、ただ、楽山の反キリストという目的に都合がよいからだけなのです。
 
「さすがのヨブ」を楽山は、全く理解していないことが、今までのヨブ記の記事で明らかになっています。楽山は、机上の幼稚な辻褄合わせの理屈しかありませんから、心を受け取れず、流れを把握できず、ただ、反キリストとして、神を否定したくて、クレームを言っているだけです。
 
それを指摘しても、なお、弁明せずに、主張だけを書いてくるのは、野良犬が、腹を空かして、獲物を漁って、吠えているのと同じです。犬には犬なりに条件反射的な学習機能がありますが、楽山には、人として学習することがありません。悪意だけの、いちゃもん屋、それが、楽山であります。
 
 
「ビルダデの悪人必滅論はヨブを指した者であることはいうまでもない」。
ヨブの苦しみは「産を失い、妻子を失い、難病に悩む類のこと」ではない。
「神は故なくして彼を撃った。神は彼を苦しめている」「彼の最も信頼する者が彼の敵となった。ために彼はこの者を離れんとしている。しかしながら失せんとしている信仰を思いきって棄ててしまうに堪えない」「失せんとするものを保たんとし、離れんとする者を抑えんとす、ここにヨブの特殊の苦しみがある」。
 
前と同じように、ヨブを、正しいのに神にいじめられている悲劇の主人公として書きたいのでしょう。反キリストらしい文脈です。こういうことを書く人で、人の話を受け取らず、共通の場に立とうともしない楽山ですから、誰も近づかないように、批判記事を書いています。
 
「 」でくくっているのは、著者の引用なのでしょうか。つまり、楽山は、自分の考えを書きません。書けないのです。何も、頭にも心にも、説明できるような、しっかりした主張がないのです。楽山は、ヨブが最後には悔い改めたことも知らないようです。できない子が、できたように見せかけるのと同じです。
 
楽山は、完成してると思い込んでいる自己、即ち、自己愛と自己中から、都合のよい言葉に賛同して、学者気取りで、神を否定する方向に進めてゆこうとする誘導だけなのです。楽山の詭弁に、決して乗ってはいけません。そういう書き方で、ますます、醜い本性をさらしてゆく楽山です。
 
楽山の言については、引用でも、楽山が書いたものでも、理路を追おうなどとすると、はてしなく病的な疲労におとしめられます。それを承知の上で、楽山は書いてくるのです。それは、もはや、悪意以外ではないのです。まともでない者が、まともを装う見栄張りの偽者の姿なのです。
 
文章を読んで、一般的には、よく考えることは必要です。しかし、魂胆があり、作為と悪意があり、理路の混乱によって疲れるだけの、楽山だけは、決して相手にしてはいけません。人生の大事な時間を、楽山というドブに捨てることになります。
 
この楽山の記事において、楽山は、著者に、世辞のような褒め言葉を書いて、また、賛同していますが、楽山自身は、何も独自の解釈の理路を組み立てていないことに気づいてください。それが、楽山です。そして、楽山の記事全体を通した特徴です。
 
伝道者である内村鑑三の言葉を、エサに食らいつく野良犬のように、悪用して、貪る、それ以上ではないのです。救いがたい自己顕示欲の、ケダモノのような荒い息と、よだれの臭さだけが、楽山が公共に排泄しているものです。害毒であり、迷惑なのです。
 
 
ビルダデの放った言葉によって、ヨブの「苦悩は弥増るのみである」。これによって十九章において、ヨブは「友に憐れみを乞うに至」る。
 
 (ヨブ記、口語訳)
19:1-2
そこでヨブは答えて言った、「あなたがたはいつまでわたしを悩まし、言葉をもってわたしを打ち砕くのか。
19:3
あなたがたはすでに十度もわたしをはずかしめ、わたしを悪くあしらってもなお恥じないのか。
19:4
たといわたしが、まことにあやまったとしても、そのあやまちは、わたし自身にとどまる。
19:5-6
もしあなたがたが、まことにわたしに向かって高ぶり、わたしの恥を論じるならば、『神がわたしをしえたげ、その網でわたしを囲まれたのだ』と知るべきだ。
 (ヨブ19:1-6、旧約聖書)
 
ヨブの心を察して思いやるのではなく、神の正義の全能の教条によって、ヨブを責めているのが、ビルダデです。どう読んだら「友に憐れみを乞う」という解釈になるのでしょう。ヨブは、自らの惨状に耐えきれず、批判してくる友を責めているのです。
 
それを指摘して、苦難を神のせいにして、自己正当化に、ますます、固まってゆくのが、ヨブです。ある意味、楽山に似ていますが、私は、楽山の友ではなく、楽山は憐れみを乞うておらず、さらに、楽山は、正直に訴えているのでもなく、相変わらず、嘘と詭弁で、知ったかぶりの言い逃れをしています。
 
ビルダデの教条は、楽山に似ています。教条という机上の戒めと理屈であるところが似ています。楽山は、自分と自分の体験を考えることが出来ず、ナルシストとして、他者の言葉を利用~悪用します。ヨブの自己正当化も、楽山に似ています。自己中心の状態は、気づきのない状態です。
 
楽山は、上から眺めるように、神を否定する長い文脈の一部を書いています。しかし、楽山は、ヨブ記に書かれている背教と教条的信仰の特徴の、ヨブ記の登場人物の、ヨブと友人の両方に類似点があるということです。しかし、そこに、真摯さは微塵もないのが、全く異質な楽山です。
 
つまり、ヨブ記は、宗教に関わる人間が犯す過ちの典型を表し、図らずも、根拠のない反キリストと幼稚な教条主義の楽山に当てはまることを描いているという結果になっているのです。楽山は、自分の過ちを見ているようなものです。楽山は、不感不応の病質のために、そのことにさえ気づかないのです。
 
 
内村鑑三はヨブをよく理解し思いやっているが、それだけ三友に対して手厳しいことになっている。内村自身、ヨブと同じく深く悩み苦しんだ経験がある故なのだろう。
 
災いにおいて、自分の非を認めず、他者のせいにして、聖句を生かすことができず、自己愛に固まって、反省できない偽善者の楽山には、とりわけ、必然として、よくあることです。楽山は、聖句が自分に当てはまることに、まるで気づかないのです。ひどくなっています。
 
「深く悩み苦しんだ経験がある故なのだろう」などと、わざとらしく共感の言葉だけ書いて、上から、内村鑑三と、ヨブと、ヨブ記を読んで書いているつもりで、他人事として評価している楽山が、とても、わざとらしく、見苦しく、滑稽です。
 
 
気づかない無節操

気づかない無節操
 
 
(2021年)
(2022年04月11日、再録+加筆)
 
 
 
  一途な方法
 
例えば物事(ものごと)と事物(じぶつ)の違いを
一途(いちず)に大真面目に
一生懸命に考えて
老化も老後も気づかぬうちに
ある日 事切(ことき)れている
数ヶ月後にミイラか白骨として発見され
こんな人 いましたっけ ?・・・
 
財産も遺言もなく身寄りも墓もなく
それでも直(じき)に
きれいさっぱり片付けられ いなくなる
 
存在と不在が仲好(なかよ)しに過ぎて
ほとんど同質のように
誰にも仕事とも研究とも呼んでもらえず
一笑に付されるか無視されることに
一所も一生も費やして
見えない炎のうちに燃え尽きる
 
例えば空気を写実する方法
例えば水気を彫刻する方法
例えば悲しみを悲しむ方法
 
方法と途方に明け暮れて
追いかけて追いかけて
動くことなく動くことなく
こよなく矛盾をいとおしみ
迷いなく身を投じていられたら
もはや生も死もなく本当に
哀(かな)しみを哀しめるかもしれない
 
 
  忸怩たるもの
 
独り思い倦(あぐ)み
独り遊び学ぶことしかできない
忸怩(じくじ)たるものよ
そのままでいいとは言わない
しかし今こうあること
しか考えられないあいだは
そうありなさい
 
わざわいなるかな弱きものよ
役に立たない力なき腕よ心よ
自らを責め呵(さいな)むものよ
烈々たる強き腕は未熟な腕を取り
助けることができるが
脆弱(ぜいじゃく)な腕や心を気づくこともなく
ずたずたに切り裂き潰すこともあるのだ
 
さいわいなるかな弱きものよ
たとえ侮(あなど)られ嘲(あざけ)られ
さらには総ての嫌悪と憎しみが向けられて
死ねばよいと思われているとしても
今日一日分のパンが与えられているなら
今日一日のうちに死んではならない
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
反省、謝罪は大事なことだと分かっていないことが、この3年余り、明らかになっています。つまり、訂正不能の我執であり、自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)と判断しています。楽山が書いてくる記事に、無関係な内容を除いて、反キリストの楽山に批判を当ててゆきます。
 
 
 
 いつも誰かをディスっていないと気が済まない
 楽山のツイッターですが
 
★こも/楽山日記3
@komo266
ちなみに、自分が十代の頃、友達ん家に行ったら祭壇があってギョッとさせられたことがある。いっしょに行った奴も同様。新興宗教の祭壇は、世間的にはそういうもん。
また小学生に新興宗教の入信の儀式をさせるというのも、ギョッとさせられる。
無宗教の家で育った自分は、そんな感覚です。
 
楽山は、自分の生き様が、カルト以上に「ギョッと」させていることに気づきません。「そういうもん」「そんな感覚」と言いながら、自分が発信することの気持ち悪さには、自分の自己中を見せびらかして悦に入る醜態には、まるで気づかないのです。
 
★こも/楽山日記3
@komo266
それにしても信者を幸せにしたいと思うなら、HSには責任はないと言い張るのではなく、素直に反省すべき点があると認めて、改善が必要だと声を上げたらいいのに何で言えないのかな。
あと、塩氏はこれが一般なHS2世だというけど、世間常識ではこれは異常とされると思います。
 
「反省」を、上のコメント2で「難しいんだよなあ」「人間の性」と言って、全くしてこなかったのが、楽山です。精神が分裂しているようです。楽山は「何で言えないのかな」、楽山は「世間常識ではこれは異常とされる」ことばかりしてきました。人の振り見て、我が振り・・直さない楽山です。
 
その場その場の思いつきで調子の良いことを言っておれば、矛盾するのは当たり前。
 
★こも/楽山日記3
@komo266
さっき別垢で確認したら、どうやら塩氏は、昨夜のうちに削除修正してたようだ。
削除修正してはいけないとは言わないけど、塩氏のやり方は相変わらずスマートじゃないなあ。
 
キリスト教について、否定を言い、別の時には、肯定を言い、断定していないから、責任問題は生じない・・と言っていた無責任が楽山です。それこそ、楽山が何か言っても、訂正の説明もなく、また変わるということは、信頼度ゼロだということです。
 
「ギョ」「何で言えないのかな」「スマートじゃないなあ」・・楽山の甘口(あまくち)に騙されないでください。楽山には、責任感、罪悪感、良心、まごころ、一切、ありません。楽山は、日々、楽しく、人を欺いて生きている小蝿のような存在です。
 
 
 
私の「ウソの国ー詩と宗教」ブログ:
 
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