ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

タグ:無理解

 
  楽山の汚物噴射2
 
 「リチャード・ドーキンスbot」を見てみた。(5)その他
 2021年09月18日  楽山日記(LD)
 
 
人の口を悪用すること、餓鬼のごとく、噴水状嘔吐のごく、水溶性下痢のごとく、爆発性放屁のごとく、人の迷惑を省みない痴態、楽山の汚染拡大、もはや、人間の、節操も、マナーも、礼節も、節度も、恥も、失った臓物の悪臭です。インテリ気取りの終末は、我欲の排泄物となっています。
 
 
*つづき
前記事につづいて、ドーキンスの名言について感想を書いてみたい。ただし今回は特定のテーマは決めず思いの向くままに書くつもり。
 
楽山の、思いの向くままとなると、ますます節度は期待できません。前にも書いたと思いますが、思いつき次第、勝手な解釈のみで、狂犬が吠えるように、よだれをまき散らしてきます。その中身は、オレは偉いんだ、オレは偉いんだ、分かっているんだ、・・という虚妄以上のものではありません。
 
 
*相対主義という無責任
真実は確かにそこに存在する。それは意見の問題では無い。今日、相対主義という、真実は互いに矛盾していようと見る視点によって幾つも存在するという古風な考えが根付いてしまっている…多文化社会を尊重して促しているように聞こえるかもしれないが、実際は単なる責任逃れを誤魔化してるに過ぎない
 」
 
人の考えを古風と蔑む人は、自分の考えは新しいと思っていて、その見なしに、おびただしい偏見が含まれていることに気づきません。神学とか教会とか教義とかに執着して、宗教と信仰について欠くことの出来なかった心の真実と切実を理解しなかった人の怨念を感じます。
 
 
価値観だとか、モノの見方であれば、人それぞれということにはなろうが、真実に関してであれば、人それぞれというのは無責任と言われても仕方がないかもしれぬ。
真実を確定できない状態であれば、さまざまな意見があるのは当然ではあろうが、真実が確定された場合は、真実は人それぞれ違ってよいとするわけにもいくまい。
 
「人それぞれ」によって、自己正当化をしていた楽山が、今度は「人それぞれというのは無責任」と言っています。責任を負わない者は、今までの自分の発言も記憶していないようです。しかも、真実が確定された場合」と言っています。どういう真実を確定したいのか、末恐ろしいことです。
 
進化論は、客観的に確定されたものではなく、仮説として、ある程度の信頼を得ているということです。全てが説明されるわけもなく、論であり思想であり、近未来の予想が出来るような法則や公式があるわけでもないでしょう。楽山は、妄想を語り、そのブーメランよって、歪み続けるのでしょうか。
 
全ては遺伝子の利己主義によって定まるといっても、遺伝子が、いったい、どう具体的に、利己的になって、人間の真実と未来を照らして教えてくれるというのでしょう。全く別の分野を混同した乱暴な短絡だと思います。無知な者ほど、真実の不確定性を悪用して、妄想を刷り込んできます。
 
楽山は、「人それぞれ」「確定できない」などという言葉で、だから自分の言い分も正しいと、自己正当化を企んできましたが、ここでは、「よいとするわけにもいくまい」と言っています。楽山の言は、定まらないのが特徴で、真実に近づくような、はっとさせるものなど、一度も見たことがないのです。
 
信仰は、客観的に確定されたものではなく、個人によって、生きるに不可欠だから信じられているということです。未来は未知であり、客観的証明など出来ないことは、最初から前提なのです。ゆえに、信仰を、固定した思想や信条や対象物や集団と見なす視野に、信仰は決して見えては来ません。
 
 
とはいえ、真実を確定することで激しい争いを生むことになるとすれば、真実よりは和をもって尊しとする判断もありえなくもない。
この辺りのことは、ホントややこしい
 
楽山の「和」は、ほんとに口先だけの何の役にも立たない真っ赤な偽物です。いい加減がいちばんじゃろ・・という無節操のことであり、自己愛性パーソナリティ障害NPD(自己愛性人格障害)のために、新しいことを受け入れない楽山には、そこで終わって、知識人ぶって、自慢するしかないからです。
 
考える前に結論が妄想となっているような楽山には、真実は、いつまでも、ややこしいままで、見過ごされてゆくのが都合が良いのでしょう。自己愛性人格障害者(自己愛性パーソナリティ障害NPD)にとってテーマについての感想は、ややこしいから本気では考えないという捨て台詞でしかないのです。
 
 
*進化論を教えること
ある物事は、ただ真実なのだ。それは選択や意見の問題ではない。あなたはご存じないだろう。それがどの場所よりも問題になる場所―学校―で、進化論を教えることは科学の教師にとってとんでもなくデリケートになってしまってる。
 」
上で触れている「真実」とは進化論のことだったのだろうか。それなら自分の考えは、ドーキンス支持ということになる。
正直いって、学校で進化論を教えるのは当たり前のことだと思うし、それを禁じるという発想はよく理解できない。
 
はっきり言って、楽山は、利用した誰の説も支持してなどいません。理路も、対立命題も、理解していないからです。理解したふうに悪用し、自分を高めて、忘れてゆくだけです。楽山を支配している自己愛性パーソナリティ障害NPDは、楽山に自分自身さえも忘れさせてゆきます。
 
その証拠が、一連の執拗な投稿であり、節操を失って、何の余裕もなく、何か書けば刹那的に難を逃れたかのような気休めになるのでしょうか。楽山は、今までと同様に、あるいは、もっと重症かもしれないが、独り言しながら洞窟の中をぐるぐる回っている危険な自爆霊であります。
 
つまり、何か新しいものを見出すわけでもなく、何かの役に立つこともなく、役に立てようとする意志もなく、人の口を利用して、書くということだけに執念を暴発させ、不完全燃焼して、有毒ガスを、まき散らしているようなものなのです。
 
「禁じるという発想はよく理解できない」というより、楽山は何も考えておらず、理解もしていません。全て自己中の欲望が空回りしてきただけです。否定と肯定を両方言って、断定していないから、責任問題は生じない・・という呆れた無思考が、楽山の言っていた信条なのです。
 
 
*意見
もちろん『コラーン』を読まないでイスラムについて意見を持つことは出来る。『我が闘争』を読まずにナチズムに意見を持つこともできる。
 」
その通り。誰でも何にでも意見を持つことはできる。でもその意見が的を射たものであるためには、それなりの基本知識はないより、あった方がよいだろう。
巷には慧眼の持ち主もいるだろうし、無関係の素人の意見を聞く必要がある場合もあるだろうけれども、そういう特殊の場合でもない限りは、まともな意見を持つためには一定の学びは必要だと思う。
 
自己中のために、基本知識からの思考を持ちえず、その欠陥を弁えず、口だけ出しゃばってくる楽山です。しかも、大方、他人の口真似に過ぎず、そのあと、引用し賛同し発言した責任をいっさい負わない男です。マックス卑怯者と言ってよいでしょう。
 
「誰でも何にでも意見を持つことはできる」・・責任を弁える常識人においてであります。無責任・無反省の楽山は、意見を持ってはいけないというより、持てないのに、吠えてくるのです。意見を述べるには、「基本知識」は、「あった方がよい」ではなく、必須です。
 
「一定の学びは必要」・・その学びができないし、学んでいないのが、楽山です。自己愛性人格障害のために、他者の反対意見を無視し、本を読んでも、都合のよいところを、つまみ食いしているだけなのです。楽山の粘着する臭い唾液にさらされるのは、迷惑というより疫病の感染です。
 
 
*生存戦略
遺伝子レベルでは、すべてが利己的である。だが、遺伝子の利己的な目的は、さまざまなレベルにおける協力によって達せられるのだ。
 」
 
遺伝子に、利己というものを付けるのは、そのままでは成り立たないから、比喩であるか、あるいは、嫌いな宗教は関係ないという意味の強意表現なのでしょうか。「さまざまなレベル」は、いい加減ということであり、楽山は、誰とも真摯に「協力」したことなど一度もないと思います。
 
 
宗教では多くの場合、利己心は罪悪とされることが多いのではあるが、進化論関連の書物を読むと、利己から利他が生じたとしているのは実に面白い。
 
自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)の楽山は、遺伝子の利己を、人間の利己心と混同しています。凄まじい誤読あるいはすり替えです。楽山が「面白い」と言うことは、刷り込みか妄想であり、有害な殺風景であります。
 
楽山は、今まで、どれだけ、疲労させるだけのインテリ気取りの文章を発信してきたと思っているのでしょう。既に、気取りしかないとバレているのに、楽山だけが気づかないのです。
 
 
とある本では、とある動物を観察した結果、群れのルールを守る個体は、群れの中の評判はあがり、交尾の相手を得やすくなる一方、群れのルールを守らない個体は、群れの中の評判が落ち、交尾の相手を得にくくなっていたことがわかったという。
 
公共という群れのルールを全く守っていない無反省・無責任の楽山が言っています。楽山が書いているようになるのです。というより、既に、なっているのではないでしょうか。孤独から孤独へ、楽山は、さまよい、どこにいても、自慢することだけは止めません。
 
 
要するに、遺伝子を残すという利己的目的の達成のために、社会道徳を守り利他的に生きるという戦略は有効だということあるし、さらにはこういう戦略が有効だということは、社会道徳を守り利他的に生きているフリをするという偽善的な戦略も有効ということになりえるということ。自分にはこういう考え方は実に面白く、かつ興味深く感じられる。
 
理路のない妄想醜態貧相の楽山の暴言です。社会道徳を守っても守らなくてもいいのだそうです。現実に自分が掛けている迷惑を自覚できない者の言い分でしょう。そして、「面白く、かつ興味深く感じられる」と、偽善を肯定しています。
 
偽善は、罪の隠蔽偽装の分、罪の中でも最悪の罪です。楽山は、急性増悪(シューブ)を迎えているのでしょうか。破局点(カタストロフィー)が近いのでしょうか。ヤケクソなのでしょうか。狂っているのでしょうか。
 
(ネットより)
シューブ【(ドイツ)Schub】 の解説
《シュープとも》病状が急速に悪化・拡大をみせること。肺結核で多くみられる。急性増悪。
 
(ネットより)
カタストロフィ【catastrophe】 の解説
《「カタストロフ」とも》
1 突然の大変動。大きな破滅。
2 劇や小説などの悲劇的な結末。破局。
3 演劇で、大詰め。
カタストロフィ(グー辞書)
 
 
*目的と手段
生物体はDNAの利益のために存在していて、その逆ではない
 」
 
また、利益という自然科学としては非科学的な表現を使っています。存続・保持のため、というほうがマシのように思えます。DNA(デオキシリボ核酸)は遺伝に関与する物質です。楽山は、DNAに擬人法を使っているのでしょうか。科学を知らない証拠でしょう。
 
 
アリをみていると、働きアリが不憫に思えることがあるが、個体単位でなく、群れ全体がDNAを共有しているという風にDNAを中心にしてみるとその感想は違ってくる。
 
こういう考え方は全体主義につながりやすい、という可能性を考えない楽山です。やはり、ネトウヨだからでしょう。一つ知ったと思うと、とてつもなく大きな話にしてしまう楽山の性癖です。だから、楽山が妥当な結論に達することなど、ありえないのです。
 
 
人に関しても、近親者と他人、人と動物…という具合に比較してみると、その愛着の度合と遺伝的な距離とは無関係ではないらしく思われる。
 
そして、楽山は、上の失言を、家族愛という方向に、言い逃れようとしています。詭弁と誘導と弁解のための、わざとらしい「愛」の言葉だけを並べて、整えたつもりの見せかけだけの文章にしています。誰にも愛着を感じることの出来ない楽山のとても醜い詭弁だと思います。
 
 
こういうことを考えると、自分が抱いている愛情だとか、利他的な思いと行動などは、本当に自分のものなのか、遺伝子の生存戦略によるものなのか分からなくなってくるのだが、この分からなくてもやもやさせられるところが実に愉快である。
 
楽山は、自分の情緒や意志が、自分のものではないと言いたいのでしょうか。今度は、自らの悪行を遺伝子のせいにするのでしょうか。しかも、それが「実に愉快」などといっています。人間の節操が崩壊して、簡単な道理も分からなくなってきたのでしょうか。
 
楽山は、欲と利己を強く持っていますが、「愛情だとか、利他的な思い」を持ったことはないと思います。高等感情の鈍麻を、言葉だけでごまかしてきた履歴が、理解していないことを表してきました。楽山は、もやもや・・が愉快なのだそうです。楽山は、人をモヤモヤ煙に巻くだけの男です。
 
悪いことをしても、遺伝子のせいで、自分のものではない、という、罪悪感の欠損を自己正当化しているわけです。自己愛性人格障害を持つ病的ナルシストは、人格そのものが、有害であります。いつも、もやもやした嘘と詭弁の文章を書く楽山です。理路を組み立てることが全く出来ないのです。
 
 
*強がり
最愛のものたちと再会できる死後の世界というアイディアは、強い慰めになりうるだろう。私にはそうではないが。
 」
自分はこういうアイディアによる慰めを感ずる質なので、そうではないというのは強がりに思えてしまう…見当外れの想像かもしれないが。
 
最愛の者たちがいるとは思えない楽山ですが、死後の超常の世界を「慰めを感ずる」としているのに、唯物論に賛同し、宗教と信仰を否定している、という、矛盾だらけで一定しない情緒不安定を呈しています。見当外れの空想の断末魔になってゆくでしょう。なお、死後の世界は、誰も知りません。
 
楽山は、人生において、人を人とも思わない見なしを繰り返しておきながら、死後の幸福を想像することが慰めになるのでしょうか。また、嘘を吐いているか、あるいは、錯乱しつつあるということなのでしょうか。死後の空想に、何の善行も積まずに慰めを感じるのは、甚だしい異常です。
 
 
*希望?
われわれの脳は自らの利己的な遺伝子にそむくことができる地点まで進化したのである。われわれにそれができるという事実は、避妊具の使用によって明らかになっている。同じ原理はより大きな尺度で作用できるし、そうすべきなのである。
 」
避妊具の使用は、よりよい機会、環境において、よりよい子孫をより確実に残すための手段とすれば、利己的な遺伝子にそむくというより、あやつられていることになるのではあるまいか。
 
遺伝子に操られているということにしたい楽山です。全て遺伝子が悪いんじゃ・・ということにしたい楽山です。自分の遺伝子のせいにしても意味がないとは考えないのでしょうか。道理で、言うことが無責任になるはずです。楽山の病理が、解明された感じでしょうか。とても空しい。
 
 
*宗教からの自立
理性的な人々が、こう声をあげるときが来たのだ。もう十分だ!宗教信仰は自立した思考を妨げる、分裂的で危険なものなのだ、と。
 」
これはその通り。
宗教教義によって考え、判断している限りは、自立した思考はできまい。
 
宗教を全く理解していない楽山が、また、理性を持っているとは全く思えない楽山が、どういう自立した思考をするというのでしょう。深い理解など、今まで、一度も、楽山には見られたことがありません。精神病質によって妄想と偏見に捻じ曲がった我執だけを見せてきた楽山です。
 
信仰は、宗教教義によって判断するのではありません。信条や教義は、ヒントに過ぎません。信仰は、言葉で完全対応できるものではなく、楽山には出来ないところの宗教的感受性によって、人間性において、内省し、判断し、行動する人生です。
 
宗教教義に縛られているのは、楽山のほうなのです。そこを超えて信仰に至ることもなく、柔和になることもなく、宗教教義=信仰というところに固まって、そこから不平不満だけを吐き出しています。そういう固定した視野狭窄ほど「自立した思考を妨げる」のです。
 
楽山は、親族や友人たちなどの近い人たちにも問題を指摘されてきたのではないでしょうか。しかし、元々が自己愛性人格障害で病識がなく、正常な人間という自意識が我執となり、訂正不能となって、誰の忠告も聞かなかったのではないかと思います。ならば社会的責任など考えるはずもありません。
 
楽山は、3年半前から批判されていることを知っています。空想好きでウソッピ物語の楽山は、子供のときから、嘘を吐き続けていたのでしょうか、何か言われることにも慣れていると思うので、問いただし、改めさせることは、専門矯正施設でもない限り、無意味だと思われます。
 
楽山が、批判されていることを聞かれたら、"気持ちは分かるけれど・・やっぱ興奮しすぎじゃないかなあ" 、"精いっぱい反省しているつもりですけど分かってもらえない" というような言い方をしそうな気がします。こういうのが、楽山の、人格鈍化・ボンヤリ言語・トホホ言語、そして騙し文句なのです。
 
3年以上にわたる反対意見の無視と、その上での執拗な投稿が、異常性の傍証になるでしょう。言い返せないのに、正義の味方気取りで、問答無用に、問答無視で、投稿を続けているのです。自己愛性パーソナリティ障害NPD(自己愛性人格障害)でなければ出来ないことだと思っています。
 
説得は無意味で、害を避けるには関わらないことしかなく、最終的な解決は、結局、何らかの強制力によるしかないのでしょう。楽山批判は、楽山を説得するためではなく、楽山という害毒がいることを敷衍(ふえん)し、楽山に近づかないように、注意喚起するために書いています。
 
 
神を決めつけるのはキリスト教系カルトです。
 
神の不在を決めつけるのは無神教カルトです。
 
キリスト信仰は、個人の、唯一の希望の同伴として、神に祈り、キリストを愛することです。
 
 
楽に山のような嘘を吐いてきた

楽に山のような嘘を吐いてきた
 
 
(2021年)
(2022年10月01日、再録+加筆)
 
 
 
  流れ星みたので
 
またひとり
この世の果てのような
草も木もない崖っぷちに立って
靴を脱ぎ
手を合わせ
誰かにあやまって
ひょいと飛び降りたとき
飛んできた花火が
ぐさあと首の後ろに突き刺さって
しばらく噴射しつづけたので
うっかり軌道に乗ってしまって
落ちつづけてる奴がいる
 
 
  鏡に向かって
 
裸を
鏡に写してみる
一瞥にも堪えないが
嫌なやつだとはもう言うまい
嫌いだとも言うまい
お前をみすぼらしくしたのも
汚したのも私だから
いつか割れるときまで
自ら光を持たない鏡よ
つくられたままの面の奥行きに
また私が表れるまで昼と夜を
少し歪めてもいい
受けた光をお前のやり方で
返せるだけ返してくれればいい
さらに歪めるかどうか
あとは眼の奥の生まれ育ちが
裸の責めを負うだけだ
 
 
  履き物
 
スリッパは
履く人の足になじむほどに
柔らかくなり汚れてきて
つぶれたり破れたりした
靴はいっときの化粧のように
磨かれて光沢を放つが
なじむほどに皺が増えたあげく
裂けて笑ったりもした
 
おおかた人の寿命よりも短く
人の重さを背負いながら
なじんだ末に捨てられる
のはまだいい方で
なじむこともなく
ある日下駄箱のもう片方を開けると
埃をかぶったままの
硬い顔が並んでいた
 
 
  ガラスの檻
 
道は檻へ続くと運転手は言った
留置場か刑務所か
しかし人はいないという
動物園か?
しかし誰も寄り付かないという
周りの緑が土に変わるが
汚れているわけではない
空気は澄んでいて涼しい
人通りはやがて絶えた
車が止まったとき
運転手がいないのに気づいた
ガラスのドアが目の前にある
それだけがある
開けて入ると
中は清楚な趣で
曇りガラスの窓を持つ
土色より薄く塗られた壁に囲まれて
檻というにはあまりに細い格子の中に
黒く低い像
頭を抱えてうずくまる
かきむしるように乱れた髪
細身で胸から脇腹は
やせて肋骨が浮き出ているが
こぶのように筋肉が
硬く盛り上がって
激しく体
自らを抱きしめようとして
突き上げる脈のまま凍り付いている
窓からの淡い日差しが
膝を折り像の影を
ひざまずいた影に重ねた
 
 
 
 楽山のツイッターですが
 
心機一転★こも楽山
神仏であっても、人権侵害はゆるされないってことかな?
・経典の中の差別語問題 真宗大谷派が謝罪 書き換えられない文言、問われる解決のかたち
午前9:46 · 2021年9月19日
 
キリスト教だけでなく、仏教でも、何にでも、平気で口を出す楽山です。自己愛性パーソナリティ障害NPDのために、身の程を知らない男なので気にしないでほしいです。無反省で無責任で、無神経で無理解で、その自覚が全くない楽山の、ストレス解消の放言なのです。
 
無反省と無責任と無神経と無理解が、どれだけ、人権を侵害し、人格の尊厳を傷つけるか・・ということを、最悪の言論の事例で示してきたのが、自己愛性人格障害の楽山なのです。本人は、サイコパスらしい悪意だけで、罪悪感を、全く感じていません。だから、今も書いてくるのです。
 
 
★こも/楽山日記3
@komo266
これが信仰というものなんでしょう。
教祖が、ロシア上げ、ウクライナ下げをすれば、その通り信じ、それに反することはあらゆる屁理屈を用いてでも否定し、決して受け入れない。
>>引用ツイート
柴犬ka3mHe9xI1Cl
9月29日
幸福の科学の信者はロシアの言うプロパガンダの投票数を信じ込んでいるようです。本当に呆れる・・・ <<
2022年9月29日
 
「あらゆる屁理屈を用いてでも否定し、決して受け入れない」・・これは、以前より、嘘と詭弁と屁理屈だけの楽山の特徴です。また、楽山は恥をさらしています。人のことを言えば、楽山自身のことだというブーメランが、ずっと表れているのです。これが無神教カルトというものです。
 
楽山が、インテリ自慢や、キリスト教下げをして、それに反することは、聞く耳を持たず、理解できず、反論が詭弁になる、という成り行きが今までの3年余りでした。病質による変態なので、楽山が、何も語らなくなる日だけが、楽山問題の解決する日となります。
 
「これが信仰というものなんでしょう」・・信仰を、もろに否定し侮辱しています。だんだん直接的表現が増えてくるのは、抑えきれなくなったということでしょう。危険です。百鬼夜行ではなく、一鬼蛮行でしょうか。破裂でしょうか。隠せなくなってきたようです。
 
(ネットより)
ばん‐こう〔‐カウ〕【蛮行】 の解説
野蛮な行為。無教養で乱暴な行い。「酔余の―」
 
楽山は、相手の言うことを聞いて考えて返すということが出来ません。相手が反論すると、自分の主張を繰り返すか、話を逸らして理路の迷路のような詭弁を弄し、こちらの思考を混乱させてきます。その結果、楽山との遣り取りは、いかなる成果もなく、糧(かて)にもなりません。体験済みです。
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
 
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
反省しない楽山は、子供の頃から、嘘を吐き続けてきたのかもしれません。そういう人生では、真実の追求など、できるはずもないことです。これからも、楽山は、嘘と、理路の嘘である詭弁を、好きなだけ言って、結果、否応もなく、その報いを受けて、その恥辱に自家中毒し続けるのでしょうか。
 
 
 
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  雑感まとめ2
 
前に「雑感」として書いた記事を、再録+します。
 
 
  障害と人格
 
 
障害を否認し障害に卑屈になれば
障害を補う努力を怠り
障害を隠そうとして
人格が嘘吐きになります。
 
健常者に恨みをいだくなら
健常者をだますようになり
健常者以上の振りをして
人格がますます大嘘吐きになってゆきます。
 
 
障害を認め障害に折れなければ
障害を補う努力をするようになり
人格が障害を克服します。
 
 
私は、小1の時に発症したリウマチ熱による大動脈弁逆流という心臓弁膜症と、対人緊張と、鬱と、自業自得の喫煙による慢性気管支炎が、現症です。最近、不整脈も出るようになりました。耳は遠くなり、目は薄くなり、筋肉は衰えました。
 
今さら、どうしようもないので、予後を含めて、神様にお任せするしかありません。
68年も生かしてもらいましたから、今は、それほど、長生きしたいとは思っていません。
 
 
  詭弁
 
美辞麗句は、実行性が具体的にあるかどうかを判断してください。
美辞麗句だけ並べるのは、詭弁です。
 
聞くに麗しいことばかり言われて、いい気持にならないでください。
実行と実質が伴わなければ、ただの嘘です。
 
やさしい顔・態度・言葉は、やってきたことと一致するかどうかを判断してください。
やさしいふりだけなら、詐欺師や独裁者も見せてきました。
 
似て非なるものを並べて同一のように話を進めるのは詭弁です。
 
大きくて曖昧な道理によって、個別を語るのは詭弁です。
 
個別の事柄をもって、全体を語るのは詭弁です。
 
 
 愛
 
昔読んだ現代詩の中で
とりわけ印象深い詩句があります。
 
 愛の歌には
 なぜか愛のことだけが書かれていない
 
 
本当の愛という感情、また、深い情緒は、必ず悲しみを経ていると思います。
 
だから、愛を讃え、愛を謳歌して、盛り上げようとするだけの歌に愛はないし、それはお祭り騒ぎに過ぎないし、派手な供え物に過ぎないと思っています。人間が、愛を本当に知り、愛に感動するのは、悲しみを知っているからだろうと思っています。
 
愛だけではなく、多くのよさそうな言葉、正義、善、義、というものは、愛を知らない者が使えば、虚言、悪、偽、であるかもしれません。
 
本当の愛は、温もりと潤いを知っており、癒しと涙を知っており、すなわち、共感と悲哀を知っています。それが一番大切なことであり、信仰のいちばん重要なところでもあるのでしょう。
 
 
 神の言葉、人の言葉
 
聖書は神の言葉と言われます。しかし、この表現が、誤解され、多くの躓きとなっていることを憂慮します。
 
日本では、聖書は日本語の聖書が読まれています。日本語って、一般に言葉って、そんなに正確なものでしょうか。一つの言葉が、人によって違う意味で使われていたり、一人の人によっても、ときによって意味が変わることがあります。また、元々二つ以上の意味を持つ言葉もあります。
 
人間の使う言葉は、それほど褒められるような完全なものではないのです。言い換えれば、人の言葉は頼りない出来であると言ってもよいと思います。
 
神の言葉は絶対です。しかし、人間は絶対の言葉を持たないのです。また信仰は言葉ではありません。言い換えれば、聖書の言葉を、人が受け取って、絶対化することは、信仰に反します。言葉を繰り返し唱えておれば、聖書の言葉を繰り返しておれば、信仰になるでしょうか。否であります。
 
そこを勘違いすると、聖書を勝手に解釈してそれを信じ込むというカルトになるでしょう。
 
信仰は心にあり
心に働き
心を働かせる賜物です。
 
信仰の心を、いつも正確に表せる言葉はありません。こう言っとけば大丈夫などと思っていたら、いつのまにか、心を動かさない言葉になっていることもあるのです。
 
大切なのは心であって、言葉は心を伝える手段なのですから、手段として大切にして、聖書を読む必要があるのであって、聖書の言葉は絶対だから安心などと思うと、いつのまにか心を動かさないものが信仰?と呼ばれることになってしまいます。
 
これが、人間の不完全性
そして罪の性質であります。
 
偽善者は言葉でごまかそうとします。
聖書の言葉を悪用します。
都合の良いところだけを取り出して
聖書に書いてあると知ったかぶりをします。
 
人の言葉は絶対ではなく
人間の心においては相対的なものです。
時と場合によって、一つの言葉でも、もたらす働きは、日常的に変わります。
 
神の言葉は絶対でも、それが記された聖書を読む私たちは、人の言葉しか知りません。つまり、聖書の言葉は、人においては、決して絶対ではないのです。私たちにとって、信仰は聖書を読めば何でも分かるというような万能の辞書ではないのです。人間において万能はあり得ません。
 
信仰が私たちに担保するのは、いつでも聖書を読むことが出来て、いつでも学習し直せるということです。信仰は学びの道であります。そして、いつでも正直に祈ることが出来るという恵みがあります。
 
学びを疎かにして慢心するところには
思いこみの繰り返しが信仰を、無意味に分厚くして、無味にするだけでしょう。
 
私たちは、この地上の苦難に接して、聖書を読んで受け取ったことと、経験から受け取ることと、受け取って考えることをもって、生きてゆく存在であり、神とは違う相対的な存在です。
 
生き方についても、言葉についても、聖書についても、私たちは学ぶ務めと意識を持つことが、信仰には大切なことです。そして、正直な祈りだけが、信仰の義に結びつきます。
 
まさに信仰について、正直な祈りに支えられて、聖書と体験によって学ぶという修道は、間違いだらけの信仰者が成長するための、唯一の生き方であり、信仰生活の日常なのです。
 
 
弱くても、成長し得る心の器が、信仰には最も適した器です。それは、聖書において、"心貧しさ" と、また、"土の器" と呼ばれています。つまり、余計な先入観がなく、知恵も情も入れやすく、また、地味だが、ものを入れやすく、馴染みやすい、心の器であります。
 
 
今 ここで 永遠

今 ここで 永遠
 
 
(2020年)
(2021年)
(2022年09月23日、再録+加筆)
 
 
 
  初恋の頃
 
(あんな若い時代があったと懐かしめればいいのだが何故か
  歳をとった今の自分があることが不思議に思えてならぬ)
 
再びめぐり会うことはないと
気づかれもせぬままに
与えられた一つの笑顔さえ
もうはっきりとは思い出せないほど
遠く走り過ぎたような気がする
 
すれ違うバイクに
ピースサインを投げられた
さりげなく手を上げてみせる
ピースサインは出会いの挨拶
そしてまた別れの挨拶
 
出会うことが別れだったあの日
見知らぬ土地のピースサインのように
私もまた笑みを返した
秋の街をとぼとぼと帰った
 
あの頃 バイクを知らなかった
パソコンもなかった
詩も読まなかった
だが人を愛することだけは知りたかった
遠く過ぎ去った面影に
言葉をかけるすべはない
かわりに吹き抜ける風の中で
私は小さな詩(うた)をよみたい
君は今
どんな顔をして生きているのだろう
 
まぶたを閉じれば浮かんでくる
あの教会
あの下宿
およそ二年の歳月が
そこには遠くまどろんでいる
 
 
  逃避
 
命には限りがある
出会いにも限りがある
愛にも限りがある
なのに別れだけは永遠だ
いつまでバイクに乗っていられる
いつまで生きていられる
すべてを変えてしまった時の長さに
深く刻まれた沈黙の中を
捧げるあてもない命
運んで俺のバイクは
永遠を噛みしめながら
走り続ける
かすかな記憶の
さいはてに向かって
 
 
 
 楽山のツイッターですが
 
心機一転★こも楽山
@komo266
遠江さんは、批判したら面倒なことになりそうな相手でも、見て見ぬ振りせず、きちんと声を上げる人なんだ。
真理に忠実なのか、単に空気を読めないだけか分からんけど、どちらにしても貴重な人材だな。
午前7:03 · 2021年9月21日
 
「見てみぬふりをせず」に書いてくる批判を、平気で無視するのが楽山です。不感不応の訂正不能で、書き続ける言論失格者です。そうすることで余計に面倒なことになります。もはや、楽山を、直接には相手にせず、徹底した批判を貼りつけてゆくしかありません。
 
楽山は、文脈を、理路を、流れを、情感を、人の心を、空気を、状況を、全く読めない人です。言論において、貴重どころか、邪魔であり、有害であり、病害因子であるところの、うっとうしいカビ~寄生虫~ばい菌のような存在です。
 
楽山の、丁寧語に、曖昧なボンヤリ言語に、同情を引こうとするトホホ言語に、嘘に、詭弁に、学者気取り・インテリ気取りなどの気取りだけなので、だまされないようにしてください。真に受けると、無思考、高等感情鈍麻、自己中心、という、人間離れのペテンの世界に染まってしまいます。
 
忠実になるべき対象の真理を分かりもしないのに「真理に忠実」と言っています。実は、これ、大言壮語なのです。誰も真理を知りません。ゆえに、何が忠実であるかも知りません。こういうところに、自己愛性人格障害の慢心は表れてくるのです。ゆえに、空気も読めない軽佻浮薄の楽山です。
 
(ネットより)
軽佻浮薄(けいちょうふはく):かるはずみで言動がしっかりしていない様子。
 
 
 
楽山の害毒メモ:
今までに表れてきたこと。これは、楽山に限らず、聖書においてキリストの敵となった宗教指導者や、世に数多いる偽善者の特徴でもあります。この世で最も迷惑な人の特徴です。楽山は無責任です。決して信用しないでください。
 
楽山は、1つのことを書いて、別の時には、それに反することを平気で書いてきます。そこで、反省、修正、というステップを書かず、あたかも最初から思っていたことのように書いてきます。自分に誤りを認めない自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)だからです。
 
人格:
自己愛が強く自己中である。
笑いと怒りしかなく、悲しみの情がない。
共感がなく、罪悪感がなく、反省しない。
自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)と思われる。
平気で嘘を吐く。様々な詭弁を弄して、柔和に見せかける。
深い情感がなく、共感性がない。相手が疲れるのを見て快感を得る。
後悔、反省、修正ができない。学習による成長がない。
罪悪感、羞恥心が見られない。サイコパスと思われる。
アドラー心理学の宣伝をしていた。自己中心である。
中身や実質のない形骸的精神機能しか持たない。
 
単細胞。
 
議論:
議論や交流が、表面的で、整わないし、できないし、元々する気もない。
相手の意見を受け取っていないので、反論、弁明が成り立っていない。
理路が常識的にも浅く、基本的に訂正不能である。理解力がない。
自分なりの堅実な理路を組み立てられない。
読書自慢。感想は平板で、独創性や深みがない。
様々な気取り。読書家気取り、評論家気取り、インテリ気取りなど。
分かっているという我執から離れられない。
非を指摘されると、逆に、こちらに当てはめて被害者面をする。
人を批判~誹謗中傷するが、その言葉で自分が斬られるブーメラン現象。
真面目に応答~議論すればするほど、病的な徒労感と疲労のみをもたらす。
ボンヤリ言語:語尾を濁し曖昧で婉曲的な言い方で、印象を刷り込もうとする。
トホホ言語:謙虚で弱いと思わせて悪意を隠すための嘘の芝居。
しばしば、自身への同意を期待して、見え透いた世辞を言う。
「反省。とほほ」などと書くが、不自然であり、前後で何も変わらないので嘘です。
騙して、言い分を詭弁や嘘で通そうとする、通っていると思い込む。
 
偏執。
 
宗教:
反キリスト、反宗教。聖書およびキリスト信仰を、貶めてくる。
キリスト教とキリスト信仰を字面だけで云々し、理解していると思い込む。
HSを脱会したと言っているが、真実かどうか、疑わしい。
霊能者のつもりだが、それに見合う直観的洞察は皆無である。
 
形骸。
 
楽山の書いた文章を、3年数か月のあいだ見てきた結果ですから、大きく変わることはないでしょう。これらについては、新しい情報によって、必要なら加筆し、繰り返し載せることになるでしょう。
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
 
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
心無い楽山は、永遠という言葉を、時間の長さと、無限という言葉を、ものの長さや大きさと認識するだけなのでしょう。神を、超常の王様と、救いを、何らかの利益としか理解しないでしょう。そのような、単純な辻褄で理解しているつもりになる慢心からは、信仰は生まれません。
 
 
信仰というのは、まず、自分の理解できない大いなるものの存在に気づく心の器が受け皿です。それは、能力ではなく、力ではなく、むしろ、無力、とても乏しい自己、それゆえに、受けて、学ぶことを、年齢や才能によらず、成長することを、希望する人が、信仰には向いています。楽山は論外です。
 
 
 
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  不完全以下
 
 『残酷な進化論 なぜ私たちは「不完全」なのか』
 更科功著 2022年08月24日 楽山日記(LD)
 
 
自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)の楽山が読書をすると、どういう短絡が症状として表れてくるかを見ることになります。何かを伝えたくて書いてはいません。自慢化インテリ気取りか、自己顕示欲だけで読んで書いて、結局、自己満悦したいだけなのです。
 
なぜ人間が不完全なのかを、進化論的にはそうなるだろうということがあり、キリスト教的には完全なのは神のみであるから人は不完全ということで分かるわけです。大事なことです。楽山が自分という人間が完全だと思っているなら、それこそNPDの症状でしょう。
 
人間が完全である根拠など、どこにもないということです。さらに、楽山について言えば、不完全というより、一般的な人間理解による判断での正常な人格よりも、良心がないぶん、最低限も成り立っていない、つまり、不完全より、不全と言ってもいいくらいです。
 
 
*万物の霊長?
人は万物の霊長であり、地上でもっとも優れた存在であるとする考え方があるが、本書ではこれは間違いであることを豊富な事例によって明らかにしている。これを読むと、人は動物とは別個に、はじめから完成品として、この形で出現したのではなく、両者は連続していることがよく分かる。
 
人が万物の霊長であることを間違いとしている本を読んで「明らかにしている」と書いて、説明しなれば、理解していないということですから、読んでいないということにもなるでしょう。今までの、楽山の読書も、おおよそ、理解したとは言えないものばかりでした。
 
楽山にとって読書は都合のよい言葉集めなのです。この本も、その域を出ていません。「明らかにしている」「よく分かる」・・なのに、何一つ、説明できていない楽山です。本を、反省と学習と成長の糧に出来ないのは自己愛性人格障害の特徴で、自慢し満悦するために、整わないまま記事にするのです。
 
人類を、万物の霊長と言うのは、人類が、本能で活動する動物よりも、知能が高く、生活様式も内容も高等であり、より深い情緒を持っているということから言われることでしょう。そうでない楽山みたいな霊長とは言えない人も、例外として、人類の歴史の中に登場しているわけです。
 
聖書から、アダムとイブのように、人間が、最初から神によって霊長として作られているというのは、実存的に解釈した場合であり、そこに罪の起源もあるという重要な話です。罪も救いも分かっていない楽山のように、創世記を、科学的事実や歴史と対抗させるのは、反キリストの企みに過ぎません。
 
楽山は、ヒトという哺乳類の話と、人間の存在という宗教的な話を、どっちだ!・・という話にして、結局、以前からの楽山の反キリストの宣伝にしたいだけでしょう。しかし、これは、楽山に、科学や歴史、そして、宗教と信仰、どちらも語るに相応しい思慮がないということでしかありません。
 
聖書は、信仰による救いの教科書です。歴史的事実の教科書になるかどうかは、歴史学や考古学が考えることであり、恐らく歴史の事実そのままとは考えにくいと思います。その区別が、ごっちゃになっていると、楽山のように、とんでもないことを言い出す者が出てくるということです。
 
 
*死と生
また本書の末尾では、死があるからこそ淘汰が作用して進化が生まれるが、もし死がなければ淘汰も進化もなく多用な生物が生まれることもないとして、死による生というある意味残酷な見方が語られている。
 
恐ろしく長い永い時間にわたる進化というテーマですが、楽山は「死がなければ淘汰も進化もなく多用な生物が生まれることもない」ということを「残酷な味方」と言っています。楽山は、生と死に触れずに、趣味的に、心地よく、進化を知って物知りになりたいのでしょうか。感性の歪みを感じます。
 
進化の意味を知っているのでしょうか。死によって受け継がれるものを考えられないのでしょうか。「ある意味」は楽山の自己愛の狭い領域のことのようです。知りたいという興味で本を読むことが出来ていないのでしょう。楽山の趣向は、一気に展開する超常であり、現実ではないからでしょうか。
 
 
この辺りの理屈は分かり難くはあるが、生あるものは必ず死ぬ、死と無縁の生はないということは分からないでもない。でももしこれが真実であるとすると、「宗教で言われるような『永遠の生』なるものは、果たして本当の生と言えるのか? むしろそれこそが死ではないか?」という気がしてくる。もっともこれは答えのない問いであり、考えても詮無いことだろうけど。
 
楽山は、いつまでも、小学生レベルの疑問のままで、また、愚痴を言っています。日常的な時間でないことが分からないのでしょうか。まだ、宗教なら時間の永遠をくれとでも言うのでしょうか。キリスト教の言う「永遠の命」は、寿命の時間の長さではないし、手に取るように分かることではありません。
 
そして、楽山は、分からないという代わりに、自己愛から、いつものように短絡して「それこそが死ではないか?」などと、対象のテーマごと否定してきます。共感を求めるつもりで言ったのなら、死の共感を求めていることになります。恐らく、宗教を否定したいから書き始めて、ズルズル滑っているのです。
 
そして、また短絡して、自分に分からないことは「答えのない問い」だと決めつけて「詮無い」のだそうです。「詮無い」だけなら、何の糧(かて)にもならないことを書くべきではないです。やはり、無責任に、自己中に、言いたいだけ言って、責任を負わない楽山が表れてくるのです。
 
しかし、生きていて、一瞬の中に、永遠を感じることはあるわけです。それが、何かに感動する時などです。そして、それで生き方が変わるならば、その人は、その解放感に出会った時を、永遠と呼んで不思議はないのです。つまり、感性によって受け取る永遠は、物理的な時間ではないということです。
 
知性が詭弁と嘘でしかなく、感性が育っていない楽山には、永遠という言葉一つとっても、何も理解できず、広がるものも無く、自己中に、自棄的に、短絡するしかないのでしょう。しかし、だんだん、自棄になる感じが増えてきて、知性も、元々成り立っていないのに、退化してゆくようです。
 
歴史上の事実は、過去にあり、現代の人々は、その真偽を推測しています。信仰上の真実は、現在の個人にあり、生きるために必要なこととして、信仰者は、考え続けるのです。そういう区別が全然できない楽山は、どちらを語るにも、失格です。世迷言ばかり言う楽山は、甚だ迷惑です。
 
 
学習と成長 怠慢と不全

学習と成長 怠慢と不全
 
 
(2022年08月26日)
 
 
 
  病と自殺
   ----虚無の力
 
病は試練であり
自殺は最大の罪である
というけれど
 
死後が楽だという保証はどこにもない
という教えは間違ってはいないけれど
助ける力にならないときもある
 
生きた方がよいか死んだ方がよいか
それは生きてみなければ分からないこと
という思いに変わりはないけれど
 
もう充分長く
試しに生きてみました
と察しを付けてしまった人には
無力なのかもしれない
 
生きるのに勇気は要らない
死を上回る死があればいい
と書いたことがある
 
見かけの関係や効率の叩き出す数が
人間の価値さえも決めてしまう時代
駆り立てる圧力に押されて
希死へ走り出そうとする速度は
急制動を掛けられた生産速度
と反比例するように
止めることは至難の業だろうか
 
死を上回る死とは
死ぬ前に死を殺すこと
死のうとする精神を殺すこと
精神は殺し肉体は生かしておくこと
生きながら屍への虚無の力動である
 
残された肉体は精神の遺物に従って
飲食と排泄と睡眠という
肉体の維持だけを行うことになる
そのとき目は虚となり
口は無となり
耳は空となるだろう
かかる虚無の精神世界において
人との関わりや柵(しがらみ)や
仕事や効率が齎(もたら)す圧力は
もはや何の形も意味も成すことはない
 
肉体は細胞であり
精神は機能である
肉体が死ねば精神も終わるだけだ
しかし
復活はしばしば
午睡のあとの目覚めのように
あるいは雪解けのように
緩やかに訪れる
例えば何かをしたい
と静かに語りかけてくる
 
なぜなら精神が死んだようでも
細胞という自然に抱かれており
自然は常に自動して
変転し再生しているからである
 
死を上回る死を生きる
それがどんなに怠け者と見られても
狂気を上回る狂気と見られても
未来永劫の死を背負い込むよりは
今日一日の
精神の死を過ごす方が負いやすい
 
明日は明日が過ごし
自然の変転のうちに
いつか与えられる死を迎えるだろう
 
肉体を殺すな殺してはならない
精神を殺せ殺してもかまわない
と許したくてたまらない人間が
少なくとも一人
自らが生きもせず
自らが死にもしないために
ここにいることを告げておきたい
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
 
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
楽山は、退行しつつあるのでしょうか。真善美や宗教・思想などの大きなテーマとして考えるべき理路や命題が、つながらなくなってきたようです。「考えても詮無い」のは、楽山にとってです。私たちは、健康な精神で、学習し成長してゆくために、不完全ゆえにこそ可能性を信じて努めていたいのです。
 
 
 
楽山の害毒メモ:
今までに表れてきたこと。これは、楽山に限らず、聖書においてキリストの敵となった宗教指導者や、世に数多いる偽善者の特徴でもあります。この世で最も迷惑な人の特徴です。楽山は無責任です。決して信用しないでください。
 
楽山は、1つのことを書いて、別の時には、それに反することを平気で書いてきます。そこで、反省、修正、というステップを書かず、あたかも最初から思っていたことのように書いてきます。自分に誤りを認めない自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)だからです。
 
人格:
自己愛が強く自己中である。
笑いと怒りしかなく、悲しみの情がない。
共感がなく、罪悪感がなく、反省しない。
自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)と思われる。
平気で嘘を吐く。様々な詭弁を弄して、柔和に見せかける。
深い情感がなく、共感性がない。相手が疲れるのを見て快感を得る。
後悔、反省、修正ができない。学習による成長がない。
罪悪感、羞恥心が見られない。サイコパスと思われる。
アドラー心理学の宣伝をしていた。自己中心である。
中身や実質のない形骸的精神機能しか持たない。
 
議論:
議論や交流が、表面的で、整わないし、できないし、元々する気もない。
相手の意見を受け取っていないので、反論、弁明が成り立っていない。
理路が常識的にも浅く、基本的に訂正不能である。理解力がない。
自分なりの堅実な理路を組み立てられない。
読書自慢。感想は平板で、独創性や深みがない。
様々な気取り。読書家気取り、評論家気取り、インテリ気取りなど。
分かっているという我執から離れられない。
非を指摘されると、逆に、こちらに当てはめて被害者面をする。
人を批判~誹謗中傷するが、その言葉で自分が斬られるブーメラン現象。
真面目に応答~議論すればするほど、病的な徒労感と疲労のみをもたらす。
ボンヤリ言語:語尾を濁し曖昧で婉曲的な言い方で、印象を刷り込もうとする。
トホホ言語:謙虚で弱いと思わせて悪意を隠すための嘘の芝居。
しばしば、自身への同意を期待して、見え透いた世辞を言う。
「反省。とほほ」などと書くが、不自然であり、前後で何も変わらないので嘘です。
騙して、言い分を詭弁や嘘で通そうとする、通っていると思い込む。
 
宗教:
反キリスト、反宗教。聖書およびキリスト信仰を、貶めてくる。
キリスト教とキリスト信仰を字面だけで云々し、理解していると思い込む。
HSを脱会したと言っているが、真実かどうか、疑わしい。
霊能者のつもりだが、それに見合う直観的洞察は皆無である。
 
楽山の書いた文章を、3年数か月のあいだ見てきた結果ですから、大きく変わることはないでしょう。これらについては、新しい情報によって、必要なら加筆し、繰り返し載せることになるでしょう。
 
 
 
私の「ウソの国ー詩と宗教」ブログ:
 
(古い記事は載っていません)
 
http://st5402jp.livedoor.blog/
(古い記事もインポート済み)
 
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  楽山の嘘3
 
 『大学4年間の宗教学が10時間でざっと学べる』島薗進著
 2020年07月01日 楽山日記(LD)
  を改めて批判。
 
 
書かずにおれない自己愛と自己中と、物事や事態を感じ取れない体質だから、その体質のうちに、他者無視という絶対自己中心の体質を持っていて、既に、成長なき慢心に住んでいて、実際は、自己崩壊を待っているだけなのです。書きながら、人間を離れ、地獄を表してゆく楽山です。
 
しかし、それゆえに、楽山は、修正なき反省は成り立たないという症例として、自らをさらしてゆくことになります。反省がなく学習がなく、成長しない成り行きで、同じことを言い続ける一方通行を歩み続ける、宿命のような自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)です。
 
 
本書ではいわゆる世界宗教や日本の宗教史、近現代における宗教の置かれた状況、課題などについて解説されている。概論的なものなので個々の問題についてはあまり深く掘り下げてはいないが、特定の宗教だけではなく、宗教全体を把握するには読みやすくてよい本だ。文章だけでなく、図、イラストも多用されているので、記憶にも残りやすい。
ちなみに自分は本書を読んで、宗教に関する知識の不足を実感させられた。本書で説明されているのは、宗教の基礎の基礎であろうに、それさえ知らないことばかりだというのには凹まないではいられない。とほほ。
 
何ごとも「深く掘り下げてはいない」のが、楽山の特徴です。楽をしたい、快感を得たい、心優しい人ですねと褒められたい、そのために嘘を吐く、私が、偽の反省として名付けた、トホホ言語の「凹まないではいられない」「とほほ。」です。弱みを見せたように見せかける楽山の印象操作です。
 
何故なら、今までの、得意げな、自慢げな、キリスト教否定の言は、間違っていたこと総ての反省と修正の芝居だけでは、いかなる立派なことを言ったつもりでも、嘘臭さだけしか伝わってこないために成り立つことはなく、虚偽から虚無へ向かうだけだからです。
 
つまり、このような楽山の言い逃れの詭弁は今に始まったことではなく、自分は心構えが出来ている人、という印象を、表面的な言辞をもって、後付けで吹き込もうとする印象操作として続いています。
 
今さら、反省めいた発言だけしても、長い無反省の履歴が否定しているのです。その時その場で、都合の良い方向に持っていこうとする楽山の自己正当化の作為が、刹那的に続くだけで、恐らく、何を言ったかの記憶もなく、エサを求める小動物の所業になっています。
 
 
でもおかげで学習意欲を掻き立てられたのはよかった。自分は年を取って知識欲は減退し、向学心も枯れてしまった気はしていたのだが、そういうわけでもなかったようだ。これはうれしい発見ではある。
とりあえずは、前々から気づいていたことではあるが、本書を読んで自分は神道など日本の宗教についての知識が足りないことがよく分かったので、その方面を意識的に調べてみるつもり。
 
人の言うことを無視してきた前歴と、著名人らしい人の言葉から都合の良い言葉を自己正当化に利用してきた前歴は、消えようもなく、読まれるたびに、語られるたびに、楽山の怠慢と自己中と性根の狡さを物語ります。今までのことからは、謙虚芝居が気持ち悪いだけです。
 
今さら、「宗教に関する知識の不足を実感」「学習意欲を掻き立てられ」などと書いてくるのは、楽山が、反省もするし学習意欲もある自分、という方向に印象付けるためなのです。それは、今までの経過が、ことごとく否定しているのです。
 
人間の性根つまり体質は、そんなに軽く改めることは出来ないだろうと思います。つまり、楽山は、これから何を主張するにしても、言いたい放題というわけにはいかなくなるということです。前後関係を気にしない楽山は、それも、気にしないでしょうけれど。
 
自分を作為的に美化することは、自分の首を絞めることです。
 
修正なき反省のきれいごとは通用しないのだから、楽山は、反省・学習が嘘ならば、どんどん、荷が重くなってゆく、ということです。
 
嘘の前提の上に、真実を積むことは出来ないのです。
 
 
 知的正直さについて(『嘘をつくなかれ』大川隆法著)
 2020年07月01日 楽山日記(LD)
  を改めて批判。
 
 
楽山は、HSを批判していたようですが、大川隆法の本を出してきました。それで、あとのほうで、閉じてしまったと書いていますが、批判するのかと思ったら、そうでもないようです。その段階で、記事を書いて公開するには不十分だと考えないのでしょうか。
 
つまり、楽山にとって、宗教とは、その程度のものだということでしょう。万事において、いい加減で、自分勝手な楽山です。自分が書いたのだから、公開しても大丈夫と思うところは、自己愛性人格障害NPDならではと言うべきか。
 
それとも、以前から、白々しい嘘を吐いてきた楽山です。挑発的なことを言って、疲労させ、イライラさせるだけが目的で、結局、笑いたいのでしょうか。
 
学習障害というより、学習する気がない、勉強大嫌い、都合の良い言葉だけ漁っている、我執だけが訂正不能であるために、書くことを止めない、だまし方だけを、次から次に練ってくる、それが楽山だと、思っています。1年余り、記事を読み、批判した経験からです。
 
 
先日、大型書店に立ち寄ったついでに、アンチHS界隈で話題になっていた『嘘をつくなかれ』をチラ見してみたら、知的正直についての説明で、試験でカンニングしてはいけないとか、問題集の回答をみてはいけないとか、基礎からきちんと勉強しようとか、そういう学校の勉強法のことばかり説明されていたので驚いた。
 
正直さに、知的も情的もないと思います。難しいことはありません。楽山に対しては、ただ、嘘を吐くなかれ、ということだけです。つまり、楽山は、自ら賛同した意見を、自ら裏切ってきた、ということです。自分が嘘を吐くのはよいとでも思っているのでしょうか。
 
楽山は、平気で嘘を吐いてきたのに、当然の勉強と学習について、何を、「驚いた」のでしょう。その正直さを、楽山は、一度も、身につけたことがありません。楽山にとって都合の良い、自分に従え、自分を尊べ、他者を無視しろ、他者にかまうな、というような内容を期待していたのでしょうか。
 
 
自分は、知的正直とは、自分の心に正直になり、分かるものは分かる、分からないものは分からないとすればよいのであり、分からないにもかかわらず見栄を張って分かっているふりをする必要はないということだと思っていた。
 
正直とは、自分の言いたい放題ではないということです。書いていることとは逆に、楽山は、分からないものを分からないと言わずに、分かっている前提で語り、かつ、人の意見も批判も受け取らずに、ごまかしのボンヤリ言語と詭弁で、我欲の自己顕示だけを書き続けています。
 
「分からないにもかかわらず見栄を張って分かっているふり」をしてきたのは、まさに、楽山その人であります。短絡した理路、部分で全体を語る、全体のおおまかなことを個別に当てはめる、意味の似て非なる言葉を混同して自己正当化をする、などが、楽山の詭弁の履歴として残っています。
 
その証拠に、楽山は、批判に対して、一度も、反論も弁明も成り立ったことがありません。それで、同じことを、文章の形だけ変えて、まともに見せかけながら、繰り返すしかなくなっているのです。
 
こういう人の言うことを真に受けていると、真実は、うすぼんやりとした霧の中に隠れてしまい、否定も肯定もせずに、感動なしに、なんとなく受け取った気分のようなものになります。それが、楽山特有のボンヤリ言語による、意識されにくいところの、嘘と詭弁であり、果ては、人格破壊なのです。
 
 
たとえ世間的にはどんなに高く評価されており、名著とされているものであっても、その良さが分からなかったら分からないとし、世間的にはさして注目されていない雑書の類であっても自分は価値があると思うなら価値があるとするなど。
 
分からないと言わずに、極めて拙劣な知識と思考で、表面的に肯定するか、逆に否定してきたのが、楽山です。しかも、その前提になっているのは、楽山の頭の中の皮相な概念であり、とても、根拠になどならないことです。つまり、楽山の、自分勝手なサディスト宣言になっています。
 
つまり、楽山は、自分の自己顕示欲の価値観を反省しないばかりか、その欲に従う欲望への、信じ込み告白をしているのです。自分の邪悪な欲求だけで動いているのは、悪魔です。つまり、楽山は、悪魔への信仰告白をしています。
 
例えば、神がいるなら悪があるのはおかしいと、楽山は言いますが、真実は逆で、神への信仰は、むしろ、楽山のような者からの悪と偽善に、苦しめられたところから、自らの不完全と非力を知って、救いとして求められてゆくものです。
 
 
でも本書では知的正直について語りながらも、こういうことには触れられず、学校の勉強の話ばかり…。これには唖然としてしまい本書を読み続けることができず中途で閉じてしまったのであるが、はたして本書の後半では勉強法だけでなく、自分の気持ちを偽らないことについても説明されているのだろうか。どうだろう。いずれ再チャレして、どうなっているか確かめるつもりではあるが、大川隆法と自分とでは、渡部昇一の『知的生活の方法』という同じ本を読んでも、その理解にはこれだけ違いがあるというのは面白いことだなと思う。
 
誤解の可能性の何が面白いのでしょう。結局、HS批判にも何にもならない記事を書いたということです。何も、まとまらない、これが、楽山の、思想?なのでしょう。誰のためにもならず、生きるヒントにもならず、散逸し霧散してゆく楽山の妄想に、誰も付き合わないことを、祈り願っています。
 
楽山は、恐らく、勉強が大嫌いなのでしょう。殆ど根拠もなく「自分の気持ちを偽らないこと」を、他者の意見を無視して我を張ることの正当化に置き換えて、宗教と信仰について、何も本質を知らないまま、訂正不能に妄想的に否定し、偏見だけを書き続けてきたのです。
 
その分、平気で、人を無視してきました。人に嘘を吐いてきました。人に詭弁とボンヤリ言語で刷り込みをしてきました。楽山が言っていることは、自分の身勝手な自尊過大に従って人を、余計なもののように無視することでしかありません。
 
根っから、虚偽であり、嘘であり、罪悪感がなく、だます者であるからこそ、詭弁の誘導を2年以上してきて、2年以上批判されてきて、なお、今も、平気で、書き続けることが出来るのです。恥ずかしいという感情がないのです。
 
「自分の気持を偽らないこと」を、人をだますことに置き換えている楽山です。
 
訂正不能の妄言には、成長可能な批判を、当て続けなくてはいけません。
 
言葉を裏切る者は、結局、言葉に裏切られるのです。
 
 
ウソつき

ウソつき
 
 
(2020年)(2021年)
(2022年07月15日、再録+加筆)
 
 
 
  置き忘れ
 
君の気持ちを置き忘れ
君の面影を置き忘れ
あの言葉を置き忘れ置き忘れたことに気づいても
取りに行けないものが多すぎて
長い長い
永い永い
知らない町に住んでいた
上手な明日をこねようとして
下手な朝をこぼして
昼から夕へころんで
みずぼらしい夜に流れていった
思えばあっという間だったと
言うそばから歩きだすウソ
恐らくは余命の尽きるまで
人には失せた他人の首に過ぎなく
おろおろと探している
頭のないその頭
見なかったはずだと背を向けて
数えきれない影も声も
物忘れの箱に
無理に押し込めようとして
きしんだ老化
置き忘れられて久しく
まだ育ってもいないのに
窓をそめてゆく光のなかで
またひとつ
そこなわれてゆく夕暮れ時
 
 
  うた
 
いつか うたも
うたを うたうことも
おおきな こえを だす
あそびに すぎなく
さけに よえば
わらうほど
よわくなりましたね
ほんとうは べつの うたを
つよい うたを
つづれるほどに
ペンを はしらせたい
うたが すべてではなく
すべてが うたではなく
ウソが あそんでいる
ことばに のって
ちがう くにへ ・・・
そのくには どこにあるのか
また みちに まよいましたね
あさの きずが みつけられない
 
 
  裏切り
 
肌と肌は
合わせられた汗が乾くように
いつか離れてゆくだろう
残されて冷めた皮膚の下に
毒々しい鮮血の筋肉を
ときおり凍らせ
ときおり焼きながら滅ぼすまで
 
影と影は
互いに召されたように遠く
いつか盲信のように
沈黙の厚い衣を纏(まと)い
すでに独りであることさえ
忘れながら踞(うずくま)るだろう
影は一滴の黒い雫(しずく)を落とすが
それは何処にも到達しない
もはや土に帰るよりも先に葬られ
薄れゆく皮肉である
 
 
  冬の生殖
 
胸は吹き抜けの希望に満ちている
くまなく暖めるのは至難の業(わざ)だ
腹は吹き溜まりの欲望に満ちている
ほどよく排泄しないと痼(しこり)になる
頭は吹きさらしの妄念に満ちている
直しても整えても破裂し続ける炎症だ
飛んでけ飛んでけ
消えるも加わるも風の生殖だ
枯(から)びた指南の技(わざ)だ
 
 
 
  理由+
 
私は、宗教と信仰というものを、自分が、生きられるか生きられないか、という考え方をするしかないので、上手く生きるかどうかは、二の次です。ご利益などは、私の思いにおいては、圏外です。
 
しかし、巷の宗教、特にカルトの話を聞くと、上手に生きる、楽しく生きる、完全になる、何らかの利益を得る、満足する、というものばかりのようです。
 
上手には生きられません、楽しいばかりではありません、人間は不完全です、ご利益など、満足など、無理です、自己中です、というふうにしか見えないのが、私が見る世界です。自分の心を見れば、悔いることや、嫌なことのほうが、より多く、思い出されるからです。内にも外にも。
 
それを耐えて生きるには、生き甲斐というより、むしろ、生きる理由が必要です。なぜ、悲しかったり苦しかったりの人生を、生きることに耐えなければいけないのでしょうと、仰ぐところに、私の場合、神、そして、キリストがいる、という成り行きであります。
 
そのことを無視することは出来ません。そこに、現実と、信仰の、交差点があります。
 
楽山が言うような超常と空想の話は、全く宗教にも信仰にも根拠を持ちません。
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
反省しないことを、「人間の性」と言っています。人間の性(さが)ではなく、反省しないのは、非人間、人でなし、ということです。楽山は、反省せず責任を負わずに生きてゆけると思っているようですが、それは人間ではなくなることです。その通りに、破壊された人格の末路を踏んでゆくのでしょう。
 
 
 
楽山の害毒メモ:
今までに表れてきたこと。これは、聖書においてキリストの敵となった宗教指導者や、偽善者の特徴でもあります。この世で最も迷惑な人の特徴です。
 
人格:
自己愛が強く自己中である。
自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)と思われる。
平気で嘘を吐く。様々な詭弁を弄して、柔和に見せかける。
深い情感がなく、共感性がない。不感不応。
後悔、反省、修正ができない。学習による成長がない。
罪悪感、羞恥心が見られない。
アドラー心理学の宣伝をしていた。その影響が抜けていないと思われる。
中身や実質のない形骸的精神機能しか持たない。
 
議論:
議論や交流が、表面的で、整わない、できないし、する気がない。
相手の意見を受け取っていないので、反論、弁明が成り立っていない。
理路が常識的にも浅く、基本的に訂正不能である。理解力がない。
自分なりの堅実な理路を組み立てられない。
読書自慢。感想は平板で、独創性や深みがない。
様々な気取り。読書家気取り、評論家気取り、インテリ気取り、など。
分かっているという我執から離れられない。
非を指摘されると、逆に、こちらに当てはめて被害者面をする。
人を批判~誹謗中傷するが、その言葉で自分が斬られるブーメラン現象。
真面目に応答~議論すればするほど、病的な徒労感と疲労のみをもたらす。
ボンヤリ言語:語尾を濁し曖昧で婉曲的な言い方で、印象を刷り込もうとする。
トホホ言語:謙虚で弱いと思わせて悪意を隠すための嘘の芝居。
しばしば、自身への同意を期待して、見え透いた世辞を言う。
「反省。とほほ」などと書くが、不自然であり、前後で何も変わらないので嘘です。
 
宗教:
反キリスト、反宗教。聖書およびキリスト信仰を、貶めてくる。
キリスト教とキリスト信仰を字面だけで云々し、理解していると思い込む。
HSを脱会したと言っているが、真実かどうか、疑わしい。
霊能者のつもりだが、それに見合う直観的洞察は皆無である。
 
楽山の書いた文章を、3年数か月のあいだ見てきた結果ですから、大きく変わることはないでしょう。
これらについては、新しい情報によって、必要なら加筆し、繰り返し載せることになるでしょう。
 
 
 
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  読書3
  
   読書一般でもありますが
   ここでは聖書とその関連と楽山批判がメインです。
 
 
私は、あまり本を読みません。読書障害の傾向があります。他の人々から、読書のスピードについて1時間に50~100ページ~などと聞いたことがあり、ふるえあがりそうでした。読んでいても、また、少し前に戻ったりするので、なかなか進みません。疲れます。
 
中学の頃か、パールバックの「大地」を読んだことがあります。私が読んだ唯一の長編小説です。大偉業を成し遂げた気分で、母に告げると「続きが読めなくて残念ね」と返されました。・・これが読書好きなんだ・・と思い、自分の読書障害に気づくきっかけになりました。
 
私が読める本は、次が読みたくなるように引き込んでくれる本、または、これを読まなかったら人生成り立たない、例えば、人生の教科書のような本、などです。この「など」は、とても狭い。
 
小説より短い詩のほうに興味が行くのは必然だったようです。現代詩文庫は十何冊ほど読んだかな。理解してるかどうかは別です。近代詩では、中原中也が、いちばん好きです。
 
それで、私には、1ページ程度のブログ、というのが合っているのでしょう。その私が本の読み方を語るのは、おかしいわけですが、本というより文章の読み方なので、1ページ、1コメントにも、共通するような読み方はあるだろう、ということです。
 
 
ネットの病的ナルシストとして私のブログで既に資料となっている楽山は、心で読むよりも、唯物論の思考が好きだと書いていました。読み方を好みで選んだりしていいのか、それで分かったような書き方をしてよいのか、という問題があります。
 
しかし、それよりも、問題なのは、楽山の言う "唯物論" という言葉です。楽山の言葉を拾ってみると、「保守とリベラル、有神論と無神論、唯霊論と唯物論といった正反対の思想、価値観のどちらにも共感してしまうこともあるので」・・八方美人が正義とでも言いたいのでしょうか。
 
実際は、自身の "根無し草" ぶりを表しています。そして、「精神論者の傾向は強いのではあるが、唯物論のこういうところは有用だとつくづく思う。」・・どうやら、楽山に対して、心で読まない、心が無い、と言った私への当てつけのように思われます。
 
悪い意味で、すごいのは、楽山が、唯物論、というデカい言葉を、平然と使っていることです。こういう、学術用語、専門用語を使うのが、楽山の好みであり、気取りであり、見栄なのでしょう。今まで、学問の言葉を好みながら、一方では、学問することをサボってきた楽山ならではのことです。
 
 
(ネットより)唯物論: → Wikiですが、なぜ載せたかピンと来なくなったので、文末へ移動。
 
観念論に対する唯物論。これは、自然科学の方法論のような気がします。間違っても、科学的見方からは程遠い、霊が分かるっぽい自覚の楽山には、欠片もないことだと思いますし、この唯物論で、宗教、信仰、神、などを表せるはずはないのです。
 
楽山の言葉の、とても、雑で、いい加減な選び方が表れています。機械論と創造論のことについても、同様でしょう。一般的にも推測~仮説です。聖書を読むのに、学説や仮説を学んでいなければならないというなら、信仰者になりうるのは、学者だけということになりますが、当然、違います。
 
宗教の知識をいくら学んでも、一生、信仰を知らない人もいます。一方で、聖書の一つの言葉に救われることもあるわけです。
キリストが、誰に教えを垂れ、誰を愛したか、ということを思えば、聖書を読むときに、特殊な知能を要するような言葉は必要ないはずです。
 
それに、マルクス主義の唯物論は、革命の原動力となったわけですから、学問の外皮を持ちながら、結局は、人を動かす情動に訴えるものだったわけです。善かれ悪しかれ、心がないところに革命は生まれません。
 
上から引用しますが、唯物論は、「理念や価値観、意味や感受性など精神的、文化現象が経済や科学技術など物質的な側面によって規定(決定ではないことに注意)されるとする立場」「社会の主な特徴や社会変動の主な要因が経済の形態やその変化によって規定される」
 
世の中、金や、金や、という意味でしょうか。違うと思います。また、それが革命で良い方向に実現したとは思えない歴史だし、金は必要だけど、金だけが生き甲斐を生むとは、到底、思えません、という、一般論となっていることで、ここは十分でしょう。
 
私は、"論" というもので人間は、まともには動かないと思っているので、あまり興味はありません。物質的欲求が人を動かすというのは、悪い意味のほうで信仰・宗教にも登場してきます。
 
楽山が、これらの論を理解しているとは、これまた、到底、思えません。そういう理論立ててゆく筆致が、楽山に見られたことは一度もないからです。楽山の理屈は、これまで、結局、狭窄した視野から、短絡して出来た決めつけです。
 
以上をもって、楽山は、私に、心で読んでいないと言われたものだから、心ではなく唯物がよい、などと、短絡した視野狭窄で、前から言っている"唯物論の字面" だけを拾って、都合よく利用し、かつ、大失敗しているだけだということです。
 
さらに、楽山が、ずっと心霊について書いてきたことが、半端ながら、楽山の唯物論を、否定しているのです。楽山の、心霊つまりスピリチュアルと、超常カルト妄想と、教祖願望などから、楽山が、唯物論者などとは、到底、思えません。はっきり言って、何も知らないのではないか。
 
いくら、楽山が、聖書とキリスト教について語っても、聖書は、精神衛生の正常な理路と感性をもって、キリストと救われた人々との心の交流、その愛と共感、という見方をしないならば、一行も読んだことにはならないのです。史実かどうかとか、言葉の辻褄とかでは、信仰は語れません。
 
楽山が、有名人や学者の言を引用して語ることは、極端に自己愛に執着して、かつ、字面だけからの浅い概念を受け取って書いていることですから、引用元に対する侮辱であります。決して、真に受けないでください、そして、楽山に近づかないでください。
 
 
字面に滑り落ちる者

字面に滑り落ちる者
 
 
(2020年)(2021年)
(2022年06月29日、再録+加筆)
 
 
 
  わかる
 
わかる
という心の励起状態は
少なくともある種の到達感
あるいは多かれ少なかれ感動を伴なう。
 
私はバカみたいに
四十代後半になって
つまり全く無益なことだが
高校数学+のお勉強を時々していた。
 
論理であるはずの数学においてさえ
例えば二次関数曲線の長さとか、
X軸回転体の表面積とか、
高校の時には考えなかったことが
解けたときと似たような感じを覚える。
 
数学は独特の感覚的理解を要求するので、
高校レベルを超える数学には
もはや私の感性はついていけない。
 
詩や文学・芸術にも感性が必要だが
それもまたつくづく限界を感じる。
向き・不向きを分けるセンスというものが
いろいろな分野において要求されるが、
信仰だけは人間性以外の
特殊な感性や知的資産を要求しない。
 
理解する・わかるということは
その漢字とは裏腹に
多分に情緒的な享受であり
そこから広がっていく心の解放感
を必ず伴なう。
そうでないものは単なる辻褄合わせか
無理な思い込みに過ぎない。
 
 
  (抜粋)
 
寝食を忘れるほど
夢中になれる好きなこと
とうとう見つからなかったのは
病気の所為(せい)だ
とは言いたくないから
読書家でもない怠け者は
今さら精神的資産を
構築できるはずもなく
今さらのように
生産しない面(つら)
を晒(さら)して
限りある物質的資産を
消費しに出かけるのだが
いけない
そろそろ馬鹿面(ばかづら)丸出しだ
と早々に帰宅し
貪(むさぼ)る
自らを貪り
人を貪っている
 
昔まだ働いていた頃
病院を支える先生と言われて
支えるなんてできない
ぶら下がって生きる
と言い返した
勤続を前提にした冗談だったが
奇(く)しくも文字通り
ぶら下がるだけで生きている
 
生産しない顔が
いかに醜くなるか
何度も鏡で確かめながら
 
残る資産を貪り食い尽くし
食い尽くしたときに罪でも罰でも
生きて地獄でも死んで地獄でも
呆けた私は嘯(うそぶ)くだろう
「私は何不自由なく暮らしました」
 
 
  利口な風
 
弄(まさぐ)る肌より
解(と)け合う心
二十代大学生だった私は
君を抱きたかった
よりも先に
君とじっくり話をしたかった
あのお別れの二十分では話せないことを
読書好きの君と
学問・芸術・学びと遊びについて
贈ることのできるものは
あまりにも少ないだろうが
多くを受けることができただろう
君は理科系を目指していたようだが
文科系の方が向いている
大学に進むべきだ
今からでも遅くはない
 
笑顔で話し込む二人の姿を
何度も夢想したものだ
しかし君は利口な人
結婚という
ごく普通の道を選んだ
私が最初で最後に告白した人
君は利口な女(ひと)
私の欠点を既に見抜いていた
今も詩を書いているのだろうか
どこかで名を上げているのだろうか
フッと解(ほど)けない心で笑う
三十年も昔のことではないか
 
独りで乗ってきた車を降りて
自動販売機へ向かう白髪の
男の背中から
海風は体液を奪い
体質だけを残していった
 
 
 
数学は、数学の感性と理路を持っている人の間で、交流できる言語となるでしょう。
詩は、詩の感性と発想を持っている人の間で、交流できる言語となるでしょう。
 
少なくとも日常的な人間の感性と知性を持っている人なら、多くの文章を読むことも書くことも出来るでしょう。ふつうの感性と知性は、学習することで、磨かれます。
 
しかし、その感性と知性を、努力もなしに、妄想的な前提で固定してしまう自己愛性人格障害者には、読んで受け取ることも書くことも、歪んで矮小化されてしまうのです。そういう者が、一人前に書こうとしても、書けないために、嘘を吐いて偉そうに見せたり、詭弁で誘導するしかなくなります。
 
体質的な自己愛者は、丁寧語や、優しそうな言葉で、取り入って、婉曲表現の多い文章に、よく読めば、偏った思想の流れが見えてくるのです。遣り取りとしていると、学習の欠乏と、筋の通らない妄想的な内容や、隠された怨念や攻撃性が表れることがあります。
 
自己愛者は、他者の意見を受け取らずに、自分の意見を繰り返し、手を変え品を変えて言ってきますが。訂正不能であるばかりでなく、小学生のように幼稚な内容を、学者の名前でごまかして、知識人を気取る有り様が、その未発達な異常性を見抜くきっかけになるでしょう。
 
人間は、他者の意見を受け取って、不十分ながら理解したうえで、責任をもって、つまり、間違ったら訂正や反省をすることを通して、言論を生かしてゆくでしょう。少なくとも努力の姿勢が見えてくるはずです。自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)には、それがありません。
 
しかしながら、自己愛者が、こちらの疑問に全く答えられず、反論も弁明も出来ないだけでなく、さらに、何も理解しないまま、自己顕示欲だけから、気取りだけで、学問や学派や学者を語る様は、とても醜いものです。そういう意味では、自己愛者は、現実のホラーと言ってもよいくらいです。
 
反省を全くしないこと、人のことばかり言い、人のせいにばかりすることから、自己愛者だと知ったら、その者が、決定的な破綻をきたす前に、出会ったら、逃げること、関わらないことを、お勧めします。ひどくなれば、犯罪に結びつきやすいと思います。
 
ドラマなどに出てくるような、怒りと笑いと芝居だけで出来ているような犯罪者は、自己愛性人格障害、人格破綻者、精神病質、サイコパス、情性欠如者、などと呼ばれます。似たようなものです。病識と自覚は全く見られませんが、謙虚芝居をすることがあります。くれぐれも警戒してください。
 
 
俗にナルシストと言われる人の中には、単なる自慢好きも含まれているかもしれません。そういう人と、自己愛性人格障害者という病的ナルシストの違いですが、前者は、人が困っていたり、のっぴきならない事態であるときには、それを感受して、一気に実直になれることでしょう。
 
後者の病的ナルシストは、いかなる事態にも、どんなに人が迷惑していても、それ以前と同じように、平然と、自己愛からの発信を続けるだろうと思います。その経過は、批判を開始してから3年余り、変わりなく、謙虚を装って、ときに笑いながら、自慢を続けてきた楽山に、如実に表れてきました。
 
病的自己愛者には、ブレーキがかかることはないのですが、都合が悪くなって、様子を見たり、やり方を変えてみたりはあると思います。それは、反省とは全く異なるもので、策の練り直しであり、狡猾な精神の表れなのです。
 
 
 
2021年06月26日
三島由紀夫の霊言?
「幸福の科学とは何だろう?」ブログ by 楽山
 
楽山は、この記事で、ORによる「三島由紀夫の霊言」なるものへのリンクを貼っています。それが、どうだとかは、書かずに、リンク付けて、何が言いたいのでしょうか。楽山自身と共通点のある教祖のことを書いて、おかしいでしょ・・と言いたいのでしょうか。見るがよい・・だけでしょうか。
 
個人メールか、宣伝ビラのような考えでしょうか。書けば、見る、見れば、分かる、という気安さで書いて、ブログで発信することの公共性を、ほとんど考えない楽山です。
 
 
 
(ネットより)唯物論:参考までに。
観念や精神、心などの根底には物質があると考え、それを重視する考え方[1]。
 (省略)
歴史や社会の理解に関しては、科学的社会主義(=マルクス主義)の唯物史観(史的唯物論)が特によく知られている。理念や価値観、意味や感受性など精神的、文化現象が経済や科学技術など物質的な側面によって規定(決定ではないことに注意)されるとする立場をとる。また、社会の主な特徴や社会変動の主な要因が経済の形態やその変化によって規定される、とする。
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
http://mn266z.blog.jp/archives/19971376.html
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
学びも不十分で、センスも乏しく、苦手な分野のことには、ふつう余計な口は慎むものです。しかし、楽山は、おおよそ、自身が、信仰を持たず分かってもいないキリスト教について、殆ど、アニメ的な超常話の具材にしています。どうか、この無神教カルトの度外れた曲解に付き合わないでください。
 
 
 
私の「ウソの国ー詩と宗教」ブログ:
 
(古い記事は載っていません)
 
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