ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

タグ:無理解

 
  努力と我執3
 
 2020年04月03日
 宗教的な不可知論者?(『宗教的経験の諸相(上)』W・ジェイムズ著)
 
 
楽山には自分がどれだけ的外れか、無理解か、という自覚がないのです。かつ、一言も、反論も弁明も成り立ったこともないのに、書き続けるのは、意地を超えた精神病理があると考えるしかないでしょう。ゆえに、批判ではなく、意地を張る我執に過ぎません。
 
今回も、身の丈に合った書き方ではなく、ボンヤリ言語で断定して悦に入っているようですが、こういう楽山の執拗さと粘着性は、"仏様の心が分からない親族に驚いた" という彼の記事のように、昔から霊能についての妄想的な訂正不能の自負があるからなのでしょう。
 
楽山が、霊感を示すのに、ことごとく失敗しても、限界を感じるわけでもなく、恥を知らず、反省も学習もなく、妄想が高じてゆく末路には、自分を認めない者たちへの復讐として、やはり、社会悪に近接してゆく危惧が大いにあります。自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)だからです。
 
努力と我執は違うのです。楽山は、霊が分かるっぽい自覚から、努力せずに、一気に獲得できる真理への、実は怠慢根性の、安易なショートカットを選んで、いつか、評価されて褒められる、という悪夢を見続けているのでしょう。
 
この2年余り、楽山の記事を読んで批判してきたことから、楽山は、神を、否定することも、肯定することも、信じることも、できない人だと判断しています。この手の哀れな人に同情して関わると、同じように、かわいそうなほど悲惨な地獄に巻き込まれるでしょう。
 
 
本に紹介されている体験談を読んでいると、これは自分と同じだと感じることが時々あるが、自分にとってはこの文章がまさしくそれだ。孫引きになってしまうのではあるが、こんな風に不可知論的になりながらも絶対的実在を感じるというのは本当によく分かる。
二十歳から三十歳までの間に、わたしはだんだん不可知論的となり、無宗教的になったが、しかし、現象の背後にある絶対的実在についてのあの『ぼんやりした意識』――ハーバード・スペンサーは巧みにこう呼んでいる――まで失った、とは言えない。 
(『宗教的経験の諸相(上)』W・ジェイムズ著、桝田啓三郎訳、岩波書店、2014年、p.100)
 」
 
楽山は、哲学者ジェイムズの体験談を「自分と同じだと感じる」そうです。理性も情感も、オモチャの作り物のように、いい加減なのに、学者か批評家気取りの自らに満悦して、肩を並べている気分でいるのでしょうか。ストーカーを見るような気味の悪さを感じます。
 
キリスト信仰については、楽山は、否定することにも肯定することにも、何一つ着手さえ出来ていません。それで、学者の名前を出して「ぼんやり」という引用までして自慢したいのでしょうか。身の程を知らない楽山は、学者の"実在についての表現"に、"自分のボンヤリ"を当てはめる始末です。
 
理屈で無宗教と言い、理屈で宗教と言っても、信仰は理屈ではないという部分を、楽山は、信仰について、自分の言葉で、書くたびに詭弁と循環論法が明らかになるほど曲げて、何も言えていないのです。詭弁だらけのお粗末な屁理屈だけで宗教を考えて、無宗教になったなど、まるで意味がありません。
 
信仰は理屈ではなく、信仰がなければ宗教は、資料に過ぎず、資料だけなら、それは、楽山の詭弁の記録と同様、信仰として何の意味もないのです。楽山は、一度も神など信じていないのに、徒労から徒労に逃げながら、いい気になっているだけです。
 
 
とはいえ当然のことながら他人の経験や思惟が何から何まで自分と同じだということは有り得ないので、この文章と自分との間に相違点がないでもない。たとえば自分の場合は、不可知論に向かい始めたのは二十代ではないし、絶対的実在に対する感覚はぼんやりとしているというよりは、真夏の太陽の光がじりじりと肌に感じられるほどにリアルである。ここは上の体験者とは違っている。
 
映画「太陽がいっぱい」みたいに「真夏の太陽の光がじりじりと肌に感じられるほどにリアルである」・・ではなく、じりじりと苛立って、かつ、他者を苛立たせるだけの徒労の的外れが楽山です。病識がないので、どう批判されても、平気で無視してくるのです。自分の言葉を持たないカルトの特徴です。
 
楽山は、神を知りえないとする不可知論ではありません。反キリストであり無神虚カルトであります。キリスト教とキリスト信仰とキリスト者に対する侮辱によって快感を得ているに過ぎません。いちゃもん屋に過ぎないのに、言論を装う見栄だけで慢心して生きているのです。
 
 
ちなみにこのリアルさは、人には人知を超えた絶対的存在については確たることは何もいえないが、それでもそれは実在するだろうことを予感するいわば宗教的な不可知論者でいるときはもちろん、手持ちの材料から検討する限りにおいては、どうも創造主というようなものは存在しないようだという無神論寄りの不可知論者になっているときでさえもさほど変わらないのだから我ながら不思議であり、おかしくもある。
 
絶対的存在について、「実在するだろうことを予感する」なら無宗教ではないですし、ならば「いわば宗教的な不可知論者」などと言っていることは気取っているだけの矛盾に過ぎません。人格が崩壊に向かっていることが文章に表れてきたのでしょう。
 
楽山は、今まで、幼稚に、単純に、屁理屈で、いちゃもんで、神を、舐め続け、否定し続けているのです。信仰者なら決して出来ないことをして、不都合を聞かずに無視して、自分だけの、押し入れの中の孤独な快感を舐めているだけなのです。
 
楽山の思想の根源は、神と人について、皮相だけを舐め続けているだけの表現しかありません。とても、良心も、思慮も、成り立たない者の立場、あるいは、倒れる場でしかないのです。そこで、楽山が、一人前に立っているつもりで書いてくるのは、滑稽としか言いようがありません。
 
不可知論は、楽山が前に引用してきた無神論とは違います。神を知り得ないという考えであり、神の意志と行為を人が確認できないという意味においては、神を恐れよ、という教えとともに、私も、神は不可知という立場であります。
 
可知論の立場については、どう思い上がったら、神を可知、つまり、神を知り得るなどという、私に言わせれば、背教発言が可能なのか、こちらが聞きたいくらいなのです。
 
一方、不思議ではなく、可知でも不可知でもなく、楽山は宗教も信仰も知らないのです。心に受け取ることもないし、信仰など持ったことはない、という内容しか書いていないのです。したがって、楽山が宗教を語ること自体が無意味なのです。
 
「無神論寄りの不可知論者」というのは、ひどい言い方です。不可知論は、神が不可知であることを表しており、無神論ではありません。楽山は、矛盾なく知ることなしに信じることはない、という考え方のようですが、人が神を矛盾なく知ることなどありません。
 
自分の非を認めない自己愛性に凝り固まって、本当に、何度も何度も幼稚な言葉で、誤謬と詭弁を弄して、楽山は、信仰とは何の関係もないことを宗教として、実に無意味な、まるで、茅(かや)の草むらの中を走るときに出来る傷のような、うっとうしいだけの嫌がらせを続けています。
 
誰にとっても、感動も意味も価値もなく、自分は批評家だ、自分は学者と同等だ、という自尊過大の執着を捨てきれないナルシシストの成れの果てなのです。こうはなりたくない、という典型です。
 
 
この感覚がどこから来るのかについては、宗教的にはそれこそが神の存在証明とされそうであるし、進化心理学的には進化の過程で獲得した本能の誤作動による錯覚とされるのかもしれず、自分には一体何が正しい答えなのかは判然としないのではあるが、ただ少なくとも自分にはどうもこの感覚を消すことは無理であって、もし仮に自分が無神論にどれだけ傾倒したとしても、無神論的有神論者、無神論的不可知論者くらいまでにしか進めず、根っからの無神論者には決してなることはできないだろうということだけは確実のようではある。
 
そもそも、信仰は論ではないし、楽山が、宗教と、進化心理学などとを、並列するところから、宗教と信仰に対する無理解と真っ赤な嘘の詭弁が始まっているのです。楽山は、論者ではないし、論者だったこともありません。ただの知恵の足りないペテン師です。
 
そのベースは、心理学の「心の理論」を、楽山の曲解と妄想によって霊能の話にしている妄想思考に明確に表れています。ひとかどの人物を気取り続けるナルシストであり、何を言っても、修正されることのない妄想的確信なのでしょう。
 
「本能の誤作動」は、楽山が、宗教について語り出してから、ずっと起こっていることです。錯覚と見なされるのではなく、楽山の妄想なのです。感覚を正すことが無理だという妄想的な誤認識ですから、良識をもって高慢な思いを自ら戒めない楽山は、全く健全ではなくなっています。
 
名のある他者の理屈をなぞって、同僚か同士であるかのように賛否を云々するほど、楽山は、思い上がるだけで、楽山の書いてくる文章は、思考と感性の第一歩から、今まで、何か分かったという結実を、まるで示せていないことが明らかで、楽山の妄想的自己愛の精神病理のみを表しているのです。
 
楽山の宗教観は、ホラーアニメや、霊の話、というような、趣味の見物が、楽山というフィルターを通して、楽山によって、宗教であるかのように吹聴しているものであります。実態は、虚無と無駄を、無病識の妄想者が迷惑メールを公共に向かって走らせているに過ぎません。
 
 
自分は別に無神論にそこまで入れ込んでいるわけではないのではあるが、ただそれでも根っからの無神論者には世界がどのように見え、何を感じるのかということは自分には決して知り得ないだろうことは残念であり、物足りないような気がしないでもない。結局のところ、人は自分の視点からでしか世界を見ることはできず、他人の見ている景色は分からないものなのだから、こんなことを残念がっても仕方ないのではあるが、それでもやっぱり残念ではある。
 
無神論にも、有神論にも、キリスト教にも、キリスト信仰にも、一歩も、入り込めないのが、楽山です。楽山が「入れ込んでいわけではない」のではなく、入れ込むほどの知識も感受性も、今まで示しえたことがないということです。
 
楽山が、今まで表したのは、劣悪な詭弁と悪意だけです。楽山は、残念がっても仕方のないことに、悪意ベースの勘違いで、残念芝居をしているだけです。みすぼらしく、ホコリをかぶった自分に気づかない楽山です。
 
楽山の言は、全くの自慰行為であり、他者の意見のうち都合の良いものだけを取り上げてくる態度は、それもまた的外れになって、独りで書いて独りで笑っているだけの反復運動に過ぎません。自らの愚かさに目をつぶって書けるなんて・・と思うほどの厚い面の皮です。
 
バクテリアが、顕微鏡下で、細かく震えているのに似て、主体としての存在をなしていない楽山が、真面目に考える人々を、惑わすか苛立たせるだけで、収穫のない培地に巣食って、自覚もなく、気取りだけで、誰も答えないところで、どんなもんだいと得意顔で悦に入っている精神の無宿者です。
 
他人の見ている景色が分からないことは、他人の見ている景色を無視する根拠にはなりません。他人の見ている多くの異なった景色の表現から、思慮において学ぶこともあり、また、自分の視点だけを執拗に書くことは慎むのが大人です。
 
しかし、楽山は、自分の視点から世界を見て、それをしつこく書いて、かつ、的外れで著しい見当違いであることに気づかないだけなのです。どうしても、一人前の学者か批評家のように振る舞いたい欲望の執念の虜(とりこ)なのでしょう。
 
一部の読者に、やさしい人柄だと、宗教と信仰の記事だと、これがキリスト教だと、平気で勘違いさせようとする分だけ、迷惑で有害です。
 
学習と我執は違うのです。
 
 
学習なき有頂天

学習なき有頂天
 
 
(2020年)(2021年)
(2022年04月10日、再録+加筆)
 
 
 
  感覚と学習(抜粋)
 
目に映る色は目が感じるのではない
手足の痛みは手足が感じるのではない
感覚器は神経に伝えようとはするが
感覚器自体が感じることは何もない
感じるのは常に脳だけだ
感じ方は脳の素質と学習次第だ
 
耳鳴りや幻聴を考えてみるといい
脳の神経だけで
感覚器を通さなくても
感じて聞こえてしまう
しかしこれも慣れることがあり
気にならなくなることもある
脳と心の問題である
 
心の痛みについても心次第で
同じことを体験しても
人としての共通点はあるとしても
心が感じる痛みの強さや性質は
人によって微妙に違ってくる
だから同じ人でも
心の状態によって
心の学習によって
痛みは強くもなれば弱くもなり
重くもなり軽くもなり
増えもするし減りもする
 
 
 
 大人の教養TVで、幸福実現党について解説していた
 2021年04月06日 幸福の科学とは何だろう? by 楽山
 
 
*大川隆法の夢
ところで、宏洋氏の動画で、大川隆法は総理大臣になりたがっていたとしているが、この話の真偽については、大川隆法が自身の過去世をなんと言っているかを考えれば、容易に見当はつくと思う。
大川隆法は、自身の前世は、釈迦、ヘルメス、リエント・アール・クラウド、トス、ラ・ムーなどとしており、釈迦が王子だった以外はすべて王だったとしているのだ。生まれ変わりというものは、さまざまな家柄に生まれ変わるものだろうに、大川隆法は自分は常に王族として生まれ変わってきたというのである。
こういっては何だけども、このようなことを公言する大川隆法という人は、自らの理想、願望に正直な人であり、分かりやすい人である。
 
楽山の認識の偏奇が表れています。総理大臣になりたがっているとか、生まれ変わりがあるものとして、過去世が王だった、さまざなな家柄に生まれ変わる、などという話が必要でしょうか。
 
それより「ヘルメス、リエント・アール・クラウド、トス、ラ・ムー」について説明しないのでしょうか。さらに「自らの理想、願望に正直」「分かりやすい人」と言っています。実に奇妙な精神です。あるいは、悪意だけの、楽山からの皮肉なのでしょうか。
 
批判する気なら、それは妄想だと言うべきなのです。しかし、言えないのです。同じ穴のムジナだからです。楽山こそ、根底を流れている妄想性の教祖願望ベースからしか発言できないことを表しています。柔和な知識人を気取った言い方だと思います。
 
楽山も、自己愛からの、根拠のない、霊が分かるっぽいとかの、実に奇妙な妄想に生きているからでしょうか。批判しているような、ご機嫌取っているような、まとまりがなく軸のない者が、他者のことを言えば、こうなる、という例でしょう。
 
楽山の思考は、成長し熟成するということがありません。いつも、思いつきの段階で止まって、そこで、訂正不能になってゆきます。ゆえに、深みを思うことも、悩むことも、悔いることも、反省することも、自己の責任を考えることも、一度もないということを、気にしないでいられるのでしょう。
 
 
 
心機一転★こも楽山
@komo266
愛情不足のために、一体感を求めて不純異性交遊にはしる例もあるという話を読んだことがある。
親が子との時間を大事にし、夜は添い寝するようにしたら、子の不純異性交遊がなくなったと。
二世信者に性の乱れがあるとして、それは肉欲ばかりが原因だろうか。
午後9:47 · 2021年4月6日·Twitter Web App
 
愛のない楽山が、他者の愛情不足を批判しています。よく書けるものだと呆れます。人に寄り添うということの出来ない楽山です。もし愛すべき人々を大切にすることが出来ていたなら、今までの、無反省・無責任・無理解・無神経・破綻の経過は、なかったはずなのです。
 
 
心機一転★こも楽山
@komo266
·2時間
エネルギー自給率を上げることは大事ですが、あまりにそれを求めすぎると、水からガソリンを取り出すというようなトンデモ詐欺に騙されかねません。山本五十六でさえ、その被害にあったといいます。お気をつけください。
 
自己愛から、神の真理と理屈を出す、というようなトンデモ詐欺のペテン師が、楽山です。付き合えば付き合うだけ、精神神経の疲労という被害に遭い、気づかないうちに、人格を破壊され、奴婢にように、おとしめられます。くれぐれも、気をつけてください。
 
 
 
 2022年04月09日
 霊能力を語る(1)棒氏の場合
 幸福の科学とは何だろう?ブログ by 楽山
   抜粋して、楽山を批判。
 
 
霊力を使って、いろいろなことができると言うものの、「では実際にやってみてください」「どんな実績がありますか」などと問われると、答えをはぐらかすというのは、ありがちな事ではある。まあ、実際はこんなもんか…。
 
霊が分かるっぽいと思っている楽山は、ありがちではなく、すっ飛んで不感不応の妄想と自己中によって、完全・絶対の、不感不応の、言うが聞かない帝国を、無遠慮に押し出してくる紐状連鎖の大嘘吐きです。楽山の言うことは非人間の無資格言論ゆえをもって全否定するべきです。
 
 
でもそれはそれとして、HS信者でありながら、「生死にかかわるような場面」でタロットを使ってしまうというのはおかしい。これではまるで主エル・カンターレより、タロットを信じているみたいではないか? 信者なら、真っ先に主エル・カンターレに祈るものではないのかな。
 
楽山は、いつも、何を言われても、ケロッとして、自分は何も信じていないにもかかわらず、信じ方を説教してくるという呆れた固陋(ころう)の発疹を持っているようです。生きていられることが不思議な、不合理ヒト型培養の急性慢性理不尽です。
 
「ではないのかな」などに表されている、いかにも優しい知識人気取りの、忠告口調の柔和芝居には、いつも、うんざりします。自己愛性人格障害の楽山の、自分への評価と、客観は、恐ろしく違うのです。楽山の自己正当化の、強張った自我の外壁が、無反省と無責任を表すだけです。
 
どんなときも、どんなときも、先生気取りのティーチャラとして、上から教えたがる楽山に、うなずいたら、人生は、終わりです。真実は、いつも、楽山の敵です。真実は、楽山の満悦と成りすましに変態して、アンチ楽山に収束してゆくでしょう。
 
神の、反キリストへの裁きが、派手な超常現象とは限りません。それよりも、日常的に、嘘吐きは自らの理路と情緒をも破壊してゆきます。現に、言い逃れの果てに、言葉も、しぐさも、顔も、声も、バランスと調和を失った奇怪な芝居に堕ちてゆきつつあります。
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
無反省を「人間の性なんでしょうかね」という詭弁で「自分もそんな風です」と一般化して、ゆえに、反省しないために学習が成り立たず、にもかかわらず、学者気取りで書いて、批判を無視して書き続けて、何の魅力もない文章なのに、学者を気取る楽山は、自己満足の破れてゆく皮袋のようです。
 
 
 
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  安楽の果て2-2
 
 『はじめての宗教論 右巻 見えない世界の逆襲』佐藤優著
 2021年03月29日 楽山日記(LD)
  を改めて批判2
 
 
自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)の楽山は、自己愛によって、有名無名お構いなしに、俎上に置いたつもりで語りますが、結局、みじん切りにされるのは、自己顕示欲だけのペテン師そして偽善者の楽山のほうなのです。楽山が書くたびに起こる現象となるでしょう。
 
 
自分は遠藤周作の語るイエスに共感するところは多いのではあるが、遠藤周作は日本人に理解できるキリスト教を求めていたとのことであるし、
 
今までの記事から、楽山は、誰にも共感したことはないと思います。みな、楽山が自分を飾るための嘘です。遠藤周作は、私が、一部、読んだ著作からも、神からも、教会からも、乖離した信仰だったわけではないと思います。
 
「遠藤周作は日本人に理解できるキリスト教を求めていた」と言いながら、そのキリスト教も信仰も、全く理解していないから、読者に理解できるように説明できないのが、楽山です。こういうことから、もはや、思い上がりからの飾りに過ぎないということがバレているのです。
 
同氏は、著名な小説家ですから、人間の立場から考えるのは当然でしょう。それは、同氏の器としてあるもので、いかに楽山が共感すると言っても、嘘吐きの楽山の発達不全の器では理解できるものではないということです。このように、病質者は、嘘の報いとして、いたるところで否定されます。
 
楽山という我執による短絡魔が、宗教から、文学まで、何か、見なして決めつけたいようだが、度外れた無理解の誇大妄想から、誰よりも自分を真っ当に見せかけようとして滑り続けるという破廉恥を、さらしてゆくだけです。自己愛者は身の程を知らない、という症状に過ぎません。
 
 
それなら遠藤周作の語るイエスに共感したところで、それは氏によって日本的に再解釈されたイエスに共感することにはなっても、本来のキリスト教の語るイエスに共感したことにはなるまいと考え、若干さみしい心持ちがしたものだが、上の話からすればこれはさほど気にする必要はなさそうだ。
 
「日本的に再解釈されたイエス」と言って切り捨てているところで、いかなる器も縁の無い楽山の言は終わりです。キリスト者の共感ということが分からない楽山は、有名人も侮辱するような、傲慢で、かつ、それを "気にしない" だけの、無視の鈍感を持ち合わせていることを、自分で漏らしています。
 
今まで、有名人や学者の名前を、自分の満悦や快楽のためだけに、好きなように、見なし、悪用して、"気にしない" 楽山です。思想と言論の邪気として、追放されるべき人格でしかありません。舌足らず、ではなく、心無い楽山の、悪あがきであります。
 
反省力や責任感という最小限の節操さえ持たず、身の程を弁えない楽山は、社会人として成り立たず、言論者としてはワームかバグという回路の混乱を招くだけの虫です。したがって、いかなる真実追求の思想にも議論にも、参加する資格はないのです。人間として成り立っていないからです。
 
実際、楽山の言は、日常会話のゴシップ以上の深みを持っていませんし、そのような恣意の罪業(ざいごう)だけを、発言・発信として、もたらしているだけの、煩わしい自己循環性のモノローグに過ぎません。執拗な欲望くずれの因業だけで投稿を続けています。
 
 
人は純粋なキリスト教は知り得ず、その文化と融合させた形でしか認知できないのであれば、自らの属する文化を通してキリスト教を理解することの是非を論じても仕方なく、それはそのまま受け入れる他ない。
 
「純粋なキリスト教は知り得ず」と思うなら、書かないことです。自分だけは、高所大所にいて分かるんだと言いたいのでしょうか。その実質は、フケほどもない質量なのです。欺きの軽口、そして、罪悪感の欠如が表している楽山の正体であります。
 
人間は、神ではないのだから、完全性と純粋性の総てを知ることは出来ません。まさに、信仰がそれを教えています。人間には、人間の弁えるべきことがあります。その不完全の自覚にこそ信仰の中心があるのです。楽山は、受け入れることも考えることもしない、怠慢粘液の、伝染性ジュクジュク発疹です。
 
楽山は、無理な辻褄合わせをしているようです。「そのまま受け入れる他ない」・・・楽山が、いったい、何を受け入れたというのでしょう。楽山が受け入れてきたのは、まるで実感の無い、賛同と、世辞と、褒め言葉と、ごまかしなさいという悪魔の誘惑だけです。
 
いかなる文化を通しても、自己愛性人格には、宗教の是非など分かりません。根底から、宗教を見くびって、言葉の恩恵を、慢心だけで、超えたつもりになっている短絡志向の楽山だけが「是非を論じても仕方なく」なっているだけのことなのです。楽山の、ただ一言も、正当な意味などありません。
 
今に至るまで、宗教の是非とか理路とかを、外し続けているのが、楽山その人です。しかも自覚がないから、学習もせずに、書物や学者の名前を出しては、読解不能・説明不能の自我に、いつも、慢心を塗りたくって、見せびらかし、その結果、救いがたい有り様を呈しているわけです。
 
弁えるどころか、あざ笑うように、宗教を机上でもてあそんできた楽山が、宗教について、受け入れる気もないくせに、幼稚な見方で、宗教理解を是非の論外のように言っています。病質者というのは、ここまで外れて、自己正当化してしまう、ということが分かります。楽山に分からないだけなのです。
 
個人の事情によって異なる部分がありますが、そのことと矛盾なく、共有できるところがなければ、宗教も信仰も成り立ちません。楽山は、実際に信仰に救われた人々がいることを無視して、自らの成り立たないことを、自らの不遇の怨念の反発で、望み、言い張っているに過ぎません。
 
楽山の、嘘八百の言論力で、だまされる人はいても、活躍できる仕事場は、どこにもありません。せいぜい、インチキ占いで、悩める人から、金銭を巻き上げるくらいしかないでしょう。ネットだから、まともそうなことを言って、いい気持になっていられるなど、鼻つまみの醜さに他なりません。
 
 
*イエスの教え
とはいえ、現実のイエスはどのような教えを説いたのかということは、やっぱり気になる。
 
こちらのほうが二千年前のことだから、いっそう確定できない、ということを、楽山は、分からないために、「やっぱり気になる」などと軽口で言う始末です。小学生レベルの欲望でしょう。これで、中庸な宗教と信仰を説くつもりなのです。自分の罪の問題さえ、考える気のない楽山の空転です。
 
「どのような教えを説いたのか」ということは、聖書に書いてあります。楽山は、そのレベルでも、聖書を、まともに読んだことはないと思います。宗教、特に、キリスト教について、楽山の言うことを信用しないでください。楽山が、キリスト教を語るとき、その目的は否定と侮りだけです。
 
 
 (▼不勉強の楽山の無知がバレています。▼)
 
関連書籍を調べてみれば、現代のキリスト教はイエスというより、パウロによるもののようであるし、悔改めよ天の国は近づいた云々というのは洗礼者ヨハネの言葉ではあってもイエスのそれとはいえないだとか、安息日についての教えはイエス独自のものとは言えず、ユダヤ教ですでに説かれていたともいう。
 
誰によるもの?という意味はありません。新約聖書にパウロの名が多いから、あるいは、そう聞いたから、言っているだけです。安い見なしが、楽山の常套手段です。実質となる見解など、何も用意していないことが、今まで、嫌というほど明らかになっています。
 
楽山は、教えについて述べず、誰によるものかに興味があるようです。洗礼者ヨハネといい、使徒パウロといい、イエス独自ではない、という、教えそのものを理解してない楽山の、安っぽい、いちゃもんに過ぎません。聖書から、何かを学ぼうという気が、元々ないからです。
 
楽山は、自身の未熟人格によって、すべてがイエス独自の教えでなければならないという子供じみた条件を付けたいのでしょうか。イエスは、公生涯以前に、律法や戒律について、知識と、その実情を見て学んだであろうという解釈が、楽山には出来ないのです。尻を拭く紙さえ見つからない楽山です。
 
パリサイ人の戒律主義と対立して、イエスは、人間の心に寄り添い、心と命を生かす信仰を宣べ伝えたことが、楽山は、知識として入っておらず、学ばないままで、文句を言っているのです。人頼みの、受け売りの、安っぽさが、随所に臭ってきます。誰の糧にもならない楽山の言です。
 
律法を、廃するためではなく、成就するために来た、という、イエスの言葉(マタイ5:17)も知らないようです。ゆえに、昔から安息日というものがあったけれど、安息日が戒律となっていることを批判して、イエスは、人の子は安息日の主である(マタイ12:8)と言ったことも知らないのでしょう。
 
事前に調べるということをしないのでしょうか、思いつきで書いているのでしょう、楽山は、何も勉強しないで、文句を言って、キリスト教を否定しています。怠慢の上で、慢心する楽山です。
・・うわぁ、呆れる・・とでも言うべきで、底が知れる・・楽山、最低です。
 
自分では大事なことを何も言えないために、大昔のことですから、誰が書いたかについては、正しいとも間違いとも言えないことを利用~悪用して、漁って拾ってきたらしいことを書いて、否定したつもりで満悦している楽山であります。
 
上の聖句は、キリストの使命に深く関わることです。楽山は、聖書を、全く理解していないことが明らかです。それで、キリスト教を否定して、どうするんでしょう。楽山に学べとでも言いたいのでしょうか、永遠にありえないことです。毎度、怠慢からの愚かさだけを公共に垂れ流している楽山です。
 
また、他者の言うことを持ってきて、けなしていますが、楽山には、全く独自性がないという表れなのです。「・・によるもののようであるし」「だとか」「ともいう」・・この情ない曖昧な愚言は、おとしめ、けなし、否定する、という目的だけで書いてくる欠陥人間の筆致として資料になります。
 
 (▲楽山が無知であることの証拠になります。▲)
 
 
果たして現実のイエスの真意はどのようなもので、どのような教えを説いていたのだろうか。どうもこれは現実の釈迦は何を説いたのかという問いと同等か、それ以上に難しそうだ。
 
キリストと、釈迦を、楽山が、十把一絡げと見なしていることが表れています。こういう人なのです。何も分かっていない、にもかかわらず、何でも分かっているふうを装う芝居、何度、見せられてきたことでしょう。自己愛性人格障害、もはや、人間性の大部分を損なって、不治となっているようです。
 
 
*人それぞれ
ある人にとって絶対的なものはある。しかし、それはその人にとってのみ絶対的なものである。人は複数存在するのであるから、絶対的なものも複数あるのは当然のことです。そして人は、自らの信じる絶対的な原理に従って、この世界について語る。そこで語られた異なる言説の間で折り合いをつけるという作業を繰り返していくしかありません。
(同上、p.214)
 」
人には絶対は知り得ず、自分にとって絶対的なものしか分からないのであれば、それを他に強要はできず、自他の信じる絶対的なものの差異を受け入れ、折り合いをつけてゆくしかないというのは当然のことではある。
 
絶対でなくても、個人が生きる上で、必要とするものがあり、それに答えるのが宗教であり、それを、縁(よすが)とするのが信仰であります。キリスト信仰は、自分絶対を否定することから始まります。決して、自分絶対の楽山のようになってはいけないからです。
 
つまり、楽山が、楽山を斬っている結果です。愚かな自己中は、他者を斬っているつもりで、実は、熱心に自分を斬って、その醜さを表してゆくのです。自分を見る目を持たない楽山においては、必然であり、これからも、ずっと続いてゆくことでしょう。
 
自分にとって絶対的なものが何なのか、楽山には分かるのでしょうか。そんなこと、誰にとっても、分からないと思います。だから、思想・宗教などを学ぶ意義があるのです。学ばないで慢心している楽山ならではの発言です。楽山は、神髄はもちろん、初歩的なことも分からないまま書いています。
 
楽山が、信じないのは、楽山の勝手ですが、「折り合いをつけて」などという言い方は、宗教と信仰に対する侮辱でしかありません。人付き合いの折り合いを付けることと、信仰とは違います。楽山が、いかに宗教を軽く見なしているかという証拠です。自分に折り合いをつけすぎた報いでしょう。
 
今までもあったことですが、似て非なることを同一視して、いい加減なものだと見せかけようとする楽山の、卑しく汚らしい印象操作の企みです。こういう手段しか楽山にはないのです。まっすぐに物を見て物を言うことから、最も遠いところで満悦し、のぼせあがって、ふやけている楽山です。
 
楽山は、真面目・真剣・真摯を旨とする求道者と信仰者への、言論による迫害者と言ってよいでしょう。はっきり言わず、語尾でごまかすのが特徴の、ボンヤリ言語の慇懃無礼による悪魔性が全開です。こういう人にだけは成りたくない、という典型例であります。
 
 
一神教は他に不寛容になりがちだという意見があるけれども、こうしてみると、一神教だからといって必ずしもそのようではなく、人としての相応の謙虚さを持つならば多神教的な側面を持たざるを得ず、必ずしも寛容を拒絶するとは限らないのだ。一神教は不寛容で、多神教は寛容だという単純な決めつけはよろしくない。
 
楽山のような者に、寛容になる人は、だまされている人だけです。「人としての相応の謙虚さ」を、欠片も持っていないのが楽山です。「多神教的な側面」も「相応の謙虚さ」も、楽山の妄想的勘違いの世界です。神を見下ろす報いを、楽山が、目を背けたくなるようなほど表している醜態です。
 
加えて、不寛容という成り立たない固定観念をもって、「一神教は不寛容で、多神教は寛容」などということを持ち出すのは、信仰を持たない者の、刷り込みであり、ごまかしても、むしろ、まさに「よろしくない」楽山のような人が企むものだと分かるのです。
 
楽山の言葉を信用してはいけません。何の責任も負う気はないのです。思考と感性が、滅裂に近いほど整っていません。楽山は、信仰という大切な問題について、全く圏外に向かって、呆れるほど的を外して、空中分解してゆくのです。楽山の俎上には、自身の鼻クソを載せるのが精いっぱいでしょう。
 
非信仰者とは、限界はあっても、常識の範囲であれば、ある程度、話が通じるものです。実際、そういう話し合いの中から、新しい信仰者が生まれることもあり、私も、かつて、その一人だったわけです。しかし、謙虚さも良心も持ち合わせていない楽山のような自己愛性人格障害者は害毒でしかありません。
 
楽山には、どのような話し方をもってしても、やはり言論は無理です。今回、それを再確認しています。理路に、接点のない妄想的破綻をきたしている楽山です。整合性も、共感も、成り立ちません。未熟で成り立たない、いちゃもんだけをつけてくる楽山は、100%迷惑なだけです。
 
「多神教的な側面を持たざるを得ず」などという言い方で、一神教からの、否定の短絡を許してはいけないし、さらに、それが、寛容であるかのような詭弁を許すことは出来ません。楽山の、思いつきの嘘、皮肉、詭弁、どれをとっても、無分別で無節操な、荒らし以上ではありません。
 
いつもながら、詭弁と捏造で、無思考と鈍感を表して、丁寧に、ボンヤリした言葉を使って、理路の厳密性を全く考慮せず、捻じ曲げて、結論に持っていく婉曲というより歪曲のボンヤリ言語は、楽山の悪意と悪臭の催吐作用しか持ってはいないのです。
 
今回、楽山の病質が、惜しみなく、高慢、慢心、傲慢、気取り、不感不応、訂正不能、無遠慮、という形で、文章に表れています。いつもと同じように、汲み取れるところが、どこにもなく、恐ろしいほど無自覚の、言論者として欠格と言ってよい非常識の、感受性の鈍麻と理路の破綻を見ています。
 
今までの楽山の言から、楽山が持っているのは執念深い悪意と共感性の欠如でしかないと思います。感情鈍麻であり、理路と感性の欠如であり、もたらしてくるのは徒労と疲労であります。楽山の行く先は、真実ではなく、排泄でしかありません。汚染しないように気をつけてください。楽山は疫病です。
 
 
テカる手垢(てあか)の刷り込み

テカる手垢(てあか)の刷り込み
 
 
(2021年03月31日)
(2022年04月02日、再録+加筆)
 
 
 
  虫
 
許してくれ
幾度お前は
焼けるような
熱い光を浴びようとして
その手を伸ばしたことだろう
私はお前を
汚れた筆箱の中に
手垢のついた革の袋に
閉じ込めたのだ
 
私は今
しおれた雑草の捨ててある
湿った日陰に来てしまって
小さな手のふるえにも
くずれていきそうな
お前の屍を抱いて
 
まっすぐな国道が見える
あそこに私の車がある
扉(ドア)が開(あ)いたままだ
 
 
  叫び
 
叫びがある
叫びになりたい
 
命ある人ではなく
命になりたい
夢見る人ではなく
夢になりたい
歌う人ではなく
歌になりたい
 
何を見つめたらいい
 
無意味な人ではなく
無意味になりたい
死ぬ人ではなく
死になりたい
 
叫びがある
叫びになりたい
 
 
 
★こも/楽山日記3
結論は、塩氏は、自説に都合のいいように、あちこちのツイートを切り貼りした上で、さもそういう議論があったかのような画像を作成したということ。
しかも、「海乱鬼様、田中満様らのツイートから引用」と自分の名前を隠してもいる。
こういうのはよくないと思います。
 
また他者をせえているようですが、楽山こそ「自説に都合のいいように、あちこちのツイートを切り貼りした上で、さもそういう」恣意的な解釈に沿う事実があったかのように片寄った印象付けをする性癖があります。楽山に、だまされないでください、関わらないでください。
 
ゆえに、楽山と本気で議論をすると理路が混乱させられ疲労という病魔の餌食となります。受け入れると感情鈍麻の無神教カルトに呑み込まれるでしょう。精神衛生を保つために、くれぐれも楽山と時間を共にしないでください。楽山は、誘導の詭弁の罠だけを用意して待っているのです。
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
楽山に騙された人は、恐らく、楽山について、死ねばいい、と思うでしょう。私も、そう思っていますが、大人の節操くらいは持っていますから、冷静に、というより、冷淡に、というか、冷徹に、楽山を批判してきたし、これからも、そうするでしょう。誰も出会わないことが幸いとなる楽山です。
 
 
 
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  安楽の果て2-1
 
 『はじめての宗教論 右巻 見えない世界の逆襲』佐藤優著
 2021年03月29日 楽山日記(LD)
   を改めて批判1
 
 
楽山は、今まで一度もキリスト教について、真面目に、真っ当に語ったことはありません。机上の屁理屈に、学者の言葉を宛がって、もっともらしく語ったことにしてきただけです。結局は、宗教は、信じないのと信じ過ぎるのと、中間がいい、などという、いい加減さだけなのです。
 
楽山は、ずうっと、自分の言いたいことを書くだけで、人の言うことを、読みもしないし、読み取れないし、読んでも感じないし、受け取りもしないし、ましてや、理解する気など最初から無いのです。冷やかしだけで、議論の主体にも対象にもならない人です。
 
神にも、キリストにも、聖書にも、全く無縁な野次馬の言うことを受け取らないでください。タイトルだけ立派で、「宗教」にも「信仰」にも「論」にもなっていません。しかも、こういうことは、初めてではないのです。
 
楽山は、慢心しか持たない、とても幼稚で、人の言葉を無断借用しないと何も言えないほど遅れているのに、呆れたインテリ気取りだけに満たされている精神の詐欺師なのです。宗教は、何言っても文句は言われないだろうから組みやすしと思ってのことでしょう。
 
何度も、反省とか、共感などと、言いながら、その前後に全く変化がなく、書いて、ごまかしてきた履歴があるので、楽山の言うことを本音だと思わないでください。楽山に本音はありません。楽山に宗教も信仰もありません。茶化して遊んでいるだけの楽山に騙されてはいけません。
 
 
*概略
本書では宗教およびキリスト教について語られており、宗教についてはいささか難しい話もあるが、キリスト教については分かりやすく説明されている。
以下には、本書中で特に印象深かった箇所についてメモしておきたい。
 
楽山は、しばしば、"・・は分かりやすい" と言います。しかし、それで書いた感想文は、まるで分かっていないことが表れるだけなのです。どうしたら、楽山のように、謙虚さを捨て去る、かつ、それを気にしなくなる、などいうことが起こってくるのでしょう。
 
楽山については、宗教や思想や言論・・云々ではなく、精神病理のほうが、説明の的を射ることになりそうです。この世には、不治の病があることを、いつも感じさせてくる楽山です。楽山は自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)であり、感じて受け取ることが出来ないのです。
 
悪業の、虚言、詭弁、誇大妄想、自己中心、固定観念、訂正不能、学習障害、など、多くの症状を表す言葉が、楽山には、まとわりついてきます。言論の内容云々以前の問題なのです。口があり頭があっても、何も組み立てられない人がいるということです。
 
 
*聖書
アーネスト・ゲルナーが言うように、キリスト教という名で明確に定義できる教説は存在しません。全く反対のものが一つの器に盛り込まれているので、どこを取り出すかによってあらゆる言説が組み立て可能です。
(『はじめての宗教論 右巻 見えない世界の逆襲』佐藤優著、NHK出版、2009年、pp.153-154)
 」
「聖書からはあらゆる思想を導き出すことができる」という話を聞いたことがあるが、ここでも同じことが言われているようだ。
宗教批判者は宗教の抱えている矛盾をつくが、宗教はその矛盾故に守られ、さらには次々に生まれてくるのだとしたらおかしい。 
 
宗教は、信仰のためにあります。信仰は、思想ではありません。矛盾は、人の常としてありますが、楽山のような酷い有り様で、批判に何の返答も出来ないようになることはなく、さらには、楽山のように言い張りだけは続けるような、恥知らずにもならないためにあるのです。
 
節操のある人間ならば、ふつうは、双方向が可能です。しかし、楽山とは、まるで成り立ちません。楽山は、自我の排せつ物を、立派なもののように、排出するだけの壊れた蛇口の単方向です。ですから、楽山の崩れる屁理屈に付き合っていると、話が核心を突くどころか、混乱してゆきます。
 
 
*人間観
自由意志によって良い選択、神に至る選択はできない。これがプロテスタンティズムの人間観の根本です。人間の自由意思というのは奴隷意思であり、常に間違った選択しかできないというわけです。
他方、カトリシズムの人間観では、人間は神の恩寵によって正しい選択もできると考える傾向があります。 
(同上、p.171)
 」
著者によれば、プロテスタントには幅があって、ルター、カルバン、ツヴィングリは「自由意志による救済の可能性を全く認めないが」、ジョン・ウェスレー(メソジスト教会の創始者)は「人間の自由意志による救済を認め」ており、カトリックに近いという。
 
またしても、浅薄な知識をもって、受け売りの知識を、紙くずのように投げてくる楽山ですが、破れた紙片だけでは説明にならないことが、分からないようです。元々知ったかぶりをして、いい気になりたいだけだからでしょう。信仰は、自由意志で選択するものです。
 
信仰は、神に与えられた人間の自由意志を生かします。自由を否定しているのは、カルトとか、楽山などの無神教カルト妄想の誘導です。信仰告白は、そして、信仰生活は、自由意志でなければ意味がありません。また、信仰者になっても、疑いはあります。信仰と、思い込みの狂信とは違います。
 
自由意志を病魔に操られて破壊されているのは、楽山のほうです。だまされないようにしてください。精神病質者の楽山に、まともな思考力はありません。結局は、宗教憎しに凝り固まって、不変不満を、生産的に解決できず、神のせいにしているのが、楽山です。
 
楽山は、偏向した固定観念だけしか持っていないと思います。ゆえに、あとは、柔和芝居をするしかないのです。まともな読書も出来ないことが、今までの楽山の感想文から明らかになっています。楽山が、本を読んだと言っても、字面を見て都合が良いかどうかしか判断していないのです。
 
 
自分は人には当然に自由意思があり、これによって善を選ぶことは可能と考えていたのではあるが、最近はこのどちらにも懐疑的になっているので、上のような人間観には真実味が感じられる。とはいえ人の選択に影響を与えている存在について、それを神とするか、遺伝子とするか、はたまた環境とするかは判断しかねるのではあるが。
 
楽山が「善を選」んでいるとは、到底、考えられません。ずっとずっと、言論の邪魔ばかりしてきました。楽山は、懐疑的なのではなく、理解できないから否定しているだけです。計算の出来ない子供が、数学嫌いになるのと同じようなレベルに過ぎません。
 
選択に影響を与えている存在を、神とか、遺伝子とか、環境とか、言っていますが、自分の感性と思考の偏りという欠陥、その原因である自己愛性パーソナリティ障害、という病識だけは、考えない楽山であります。「判断しかねる」のではなく、明らかに、判断できない病気なのです。
 
 
*神とは何か?
カール・バルトは、人間が表象する神について、人間の願望が投影された神にすぎないと考えます。
(同上、p.177)
 」
神や宗教について、あれこれ考えた結果、「宗教によって明らかとなるのは神のことではなく、人の願望はいかなるものかということであり、人が神を語ろうとするとき、それは自己を語ることに他ならないものだ」と近頃は考えるようになっていたのではあるが、どうやらこんなことはとうに言われていたことらしい。
 
聖書には、願望だけでなく、戒めも書かれていますが、それを理想としても、もっと大事なこととして、神と人の関係、そして、キリストの共感と愛、という、人間にとって大切なことが書かれています。それを、全く読み取れず、弁えず、神がどうとか語るのが、呆れた自惚れ屋の楽山です。
 
楽山は、神は人間の願望の産物だといいたいようです。願望と欲望は違います。また、目指すものと、有るものも違うのです。楽山のように、自らを洞察できない者は、それを、いっしょにしてしまいます。ちなみに、楽山は、欲望と憎しみだけで動いていて、神とも信仰とも関係ありません。
 
信仰は、時に欲望を許し、時に欲望を抑制するように働くことさえ理解できない楽山です。そして、その根源において、欲望よりも、より高いものに、到達できないまでも、憧れをもって、生きる縁(よすが)とすることです。それが、罪の自覚ゆえに、信じ仰ぐ、そして祈る、という信仰です。
 
そういう高次の精神機能が、我欲しか持っていない楽山には、理解不能なので、全部、願望という言葉で、乱暴にひっくるめて、信仰をマンガに、聖書をマンガ本にしてしまうのでしょう。揶揄だけしているという文章が、いかに、見苦しいかを学ぶための資料として楽山日記があります。
 
恐らく、そのことが、いつ読んでも、どんなテーマでも、楽山が、本能のように、言葉も、書物も、聖書も、低次元で、発育の悪い幼児の譫言(うわごと)に、無理に、まとめてしまって、何の響きもない退屈さで、楽山にだけ満悦を与え、信仰者にとっては、お話にならない原因であります。
 
楽山の語る宗教は、宗教でも信仰でもありません。楽山は、自己満足しているだけです。楽山を、聞いて、読んで、受動的に、宗教ってそうなのか・・と思ってしまう犠牲者を待っている楽山のペテンに、どうか、引っかからないでください。
 
主体的に考える人は、決して、楽山には頷きません。代わりに、楽山の、どうしようもなく整わない病魔を、そこに見るだけです。そして、それが、楽山に関わった者が受け取るところの、言い知れぬ徒労であり、消耗性の疲労であり、心ある人間が、心無い非人間に遭うという悲劇なのです。
 
 
こうしてみると、この世界にはもう新しいものなど一つもないし、素人が思いつくようなことは専門家によってすでに語り尽くされているというのはその通りのようだ。
 
どう「語りつくされている」のか、私は知りませんが、楽山は、結論だけ「その通りのようだ」と書いています。しかし、その語りつくされたという一部でさえ、楽山は、勘違いの連続であることが、書くものに表れてきました。楽山日記は、無知と無恥の産物です。
 
楽山という自惚れ妄想屋は、いったい、どういう見識を持っているつもりでいるのでしょう。罪悪感を感じ得ないから、だらだらと書いてきて、うわべだけ、まともぶれば、一人前の言論者と肩を並べているつもりになるほどの病的ナルシストです。
 
恐らく、生まれてから、まだ、一度も、真実について考えたこともないのではないか思われます。おぞましい精神病理であります。先入観が肉体を身につけ、固定観念となって保身し、不都合を無視する自己中心が、成長の無い口を育てて、不潔な唾(つば)を飛ばしているだけのようです。
 
神について語りつくされることはありません。考えずに知り尽くしているかのような顔をする評論家気取りの楽山の高慢と傲慢です。謙虚というものが一切見られません。ネズミ花火を投げておきながら、言い方だけ丁寧にする無理が、楽山の言において、あらわになっています。悲惨です。
 
 
*いろいろなキリスト教
宗教は特定の文化の中でしか現れません。宗教というのは文化の一形態です。キリスト教も例外ではなく、純粋なキリスト教というものはありえず、文化と融合して成立する不純なものということになります。
そうすると、それぞれの文化によってキリスト教は発現形態が異なることになる。ここに類型という考え方が出てきます。 
(同上、p.212)
 」
著者はこの一例として「西欧文化と融合した西欧類型のキリスト教」や、「スラブ文化と融合したスラブ類型のキリスト教」などがあるとしつつ、「西欧類型のキリスト教」はさらに様々な類型に分かれるとしている。
 
キリスト教を「文化と融合して成立する不純なもの」という話を引用して言っています。宗教の文化的形態と、個人の信仰そのものを、混同した誤謬であります。宗教も信仰も、どこまでも、矮小化したい楽山の目的に適っているから引用したのでしょう。
 
宗教と信仰を、よほど、幼稚で、つまらないものであるかを、宣伝したいようですが、宗教には、個人の信仰という、いかなる類型分類も出来ず、誰も犯すことのできない領域を含んでいることには、お構いなしのようです。
 
楽山の言は、強迫的思考の限界であるところの、机上の理路で宗教と信仰を語ったつもりになるという症状です。心の無い楽山には常態です。心の問題である信仰に、類型は通用しません。生きれば必ず訪れる試練の時に、生きる心を捨てないために、信仰があるのですが、楽山はゼロの理解度です。
 
この症状については、前から指摘しているのですが、訂正不能の楽山は、無視して無学習のまま、またしても、同じ落とし穴に、身の程も知らず、机上から未整理の混線に嵌って、泥沼のような猥雑な理路に浸かって、温泉気分になっているようです。
 
世界を網羅しているかのような誇大的陶酔気分の、自分で発電できないショートサーキットが、他人の言葉頼みの依存性回路をくっつけて堂々巡りしています。いつか、焼き切れる定めのインチキ回路が、楽山という詭弁屋のようです。
 
自己愛性病質のために、自分の欠点や罪のことを、一切、語ることの出来ない楽山です。このような、学者気取りが、楽山の縋りつく生き甲斐になっている惨状です。背伸びして背伸びして痙攣し昏倒するパターンでしょう。
 
客観的に書いているように見せかけても、実は、自己中と自己愛による偏屈な思い込みの主観が全体を支配していて、どこにも客観性が見当たらない、という、視野狭小と理路の混乱が特徴的な、楽山の文章です。何の糧(かて)にもならないので、近づかないようにしてください。
 
 
虚栄の軽口

虚栄の軽口
 
 
(2022年04月01日)
 
 
 
  末路に立つ
 
人が生きている
と言えるほどに
私は生きているだろうか
人が死んだ
と言えるほどに
私は日々死につつあることに
気づいているだろうか
ああ何という末路に立って
情の絡みをほどこうとしている
舌の痺れか
目の回転か
手足の不随意か
肉体は常同の仕草で
ところかまわず真似続けるのだ
人が生きている
と言えるほどに
私に殺すべきものがあったかどうか
 
 
  日本刀
 
水に濡れ
まだ何物をも切ったことのない
一本の日本刀
刃を真上に刃先を斜め下に向け
冷ややかな
その影が闇に光る
切りたいわけではない
自殺衝動でもない
刃先の厚さという物理的興味でもない
されど時折
映る
浮かぶ
 
汗!
暑さでも怯えでもない
恐らく最も身近な
最も遠い不祥事
それは最後の
独りの夜
 
造られたばかりの
日本刀の
光る表を覆い
ゆるやかに下方へ移り
刀尖に集まる
まだ一度も触れられたことのない
初めての
たったひとつの
水滴がまだ落ちていない
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
正すという精神の機能が、まるで無い楽山です。インテリ風味のつもりの作文を公開して宣伝して、偏見を植え付ける目的で、宗教と信仰に、自らの非人間性と怠慢を用いて揶揄するという暴挙が招いている大迷惑を指摘しても、なお、間違いを深刻に受け止めることなく、おぞましい舌が滑り続けています。
 
反省と書いても、反省が記事に表れたことのない楽山です。だから、誰も近づかないように、否定し続けなければなりません。楽山は、一貫して、慢心し続けること、自分に疑問をいだく思慮がないこと、よって自分に非を認めないことが、続いています。体質とはいえ、珍しいことです。
 
楽山は、今まで見てきた感想として、理路を見ても、言葉だけ真似をしていて、成り立たないところを詭弁でごまかしているので、知能は高くないと思いますが、悪知恵は専門だと思います。感性は、知能以上に鈍いと思います。共感が成り立たない人です。だから、嘘と世辞をいっぱい使っています。
 
私も、知能は、それほど高くはないと実感していますが、楽山と違うのは、精いっぱい、正直であろうと努めていることです。だから、多く、ダイレクトな表現や、しばしば、きつい比喩を用います。楽山は、穏やかに理路だけ書いても何も受け取りません。それは、記事に表れてきます。
 
楽山の企みと同種の、学者気取り、インテリ気取り、などの、気取りだけは避けるようにしています。楽山のように、自尊で、飾りだけを増してくるような人間にはなりたくないです。それは、リアルでもトンデモ気取りの人間を見てきたからかもしれません。
 
 
 
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   楽山の自己讃美2
 
 「第十三講 ヨブ答う 終に仲保者を見る(下)」
 (『ヨブ記講演』内村鑑三著)
 楽山日記(LD) 2021年02月06日
 
 
楽山が、ヨブを引用するのは、ヨブが正しいのに神に試されたという思い込みがあって、自分もそうだ、自分は正しい、苦難に耐えているぅ、自分は偉いぃ、という自己賛美をしたいためだと思います。執拗に、内村鑑三を、餌食にしている楽山です。楽山は、こういうことを、平気でします。
 
ヨブは、神に試されました。そして、悔い改めました。神以外に寄る辺がない信仰者だからです。楽山は、神に試されたのではなく、だまして快感を得るという自業自得の沼から、おめいているのです。最も神にも人にも憎まれる因業の者です。
 
 
「第十三講 ヨブ答う 終に仲保者を見る(下)」の要点を抜き出しつつメモ。
第十七章の研究
ヨブは「今や罪の故ならずして死せんとしている。友はそれを罪の故と断定して彼を責めている。しかし神は彼の無罪を知り給う。しかり神のみが彼の無罪を知り給う」
 
神の前に無罪の者はいません。ヨブは、自己正当化から、神によって試され、最後には気づいて、塵・灰の中で悔いて、信仰を回復します。
 
 (ヨブ記、旧約聖書)42:6
それでわたしはみずから恨み、
ちり灰の中で悔います」。
 (ヨブ記42:6、旧約聖書)
 
楽山が自己正当化をすることと決定的に違うのは、楽山には微塵も悔いる心が無いということです。ずっと、自己正当化だけなのです。楽山は、神に試されたのではなく、自らの悪意と欺瞞の罪性と因業によって壊れているのです。
 
 
「ヨブは神が罪なき彼を苦めつつある事を認めてこれを怨じながら、今また同一の神に無罪の証明を求めている」
 
楽山は、どうしても、ヨブを罪がないのに苦しめられたと決めつけたいようです。ヨブは、豊かな暮らしのために高慢になっていた可能性があります。また、ヨブ記は、試練が悔い改めによって、信仰の実となるという話なのです。
 
無罪の証明を神に求めるのは、背教でありますが、一方で、ヨブが、神以外に訴える相手がいないという寄る辺のない自らを表すところの、信仰告白でもあるでしょう。信仰者は、神に無罪の証明を求めるのではなく、赦しと癒しと救いを求めるのです。
 
楽山は、無反省・無責任の自己中でありながら、無罪であるかのように高慢で、神に対しても、人に対しても、欺きを表し、反キリストであることを自ら証明しているのです。自己正当化のために、ヨブ記を、無罪なのに神が苦しめると言う楽山は、聖書をも誤読し曲解しています。
 
楽山が、悔い改めることがなく、いわゆる汲むべき情状酌量の余地が、まるでなく、悪と罪と偽善の実績を積んでおきながら、神に対して、ヨブを引き合いに出して、自己正当化するなどは、信仰以前に、まず、人間とは思えないことなのです。
 
 
神は人の罪を裁く。「この時人の側よりして、仲保者を要求する心は当然起らざるを得」ないが、人のために神に対して弁ずることができる者は「神自身」以外には存在せず、したがって「同一の神が我を責めかつわがために弁護す」ることになる。
 
楽山が、妄想的自己中の反キリストであるのは、ヨブという聖書の人物を引き合いに出して、無罪だと自己正当化するような、罪人の自覚が全く見られない自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)だからです。
 
(ネットより)
仲保者
〘名〙 神と人との間の宥和(ゆうわ)媒介をする人。イエス‐キリストをいう。
 
神が、神をなだめるような理屈に、楽山は、賛同しているのでしょうか。実に、神を対象にして、ぬけぬけと保身の正当化を図る冒涜者らしい話です。楽山は、自分が神だから、自ら仲保者となって、自らを救うと言っているのでしょうか。笑止です。
 
だとすれば、楽山の仲保者は、キリストでもなく、神でもないこと、即ち、救われる理由など全くないことを、楽山自身が語っていることになります。楽山の自尊過大が招いているところの、宗教的に重篤な病態が、ここに表れています。自己満悦のための聖書の悪用は、神も最も嫌うところでしょう。
 
 
「まことに人は神と争いて苦むとき、我を苦しむる神の所に往くほかに逃げ場所はないのである」
 
こういうことは、どうしようもなく苦しい時に、なぜ?と神に問いながら、救いと癒しを祈りながら、やはり、神のみに寄って依ってゆく信仰者の態度なのです。信仰者には、他にないからです。信仰の「し」の字も知らない楽山は、詭弁で邪魔をしたいだけです。
 
楽山は、神が苦しめ、神が救うというパラドックスに興味でもあるのでしょうか。神は、人に試練を与えることで成長を促しますが、その試練を完全に無視して、文句だけを言っているのが、楽山です。無反省・無責任で悔いる心の無い楽山が、試練の自覚もなく、救いも拒んでいるだけなのです。
 
 
「イエスを称して最大の無神論者という人がある」。最期に「わが神わが神何ぞ我を棄て給うや」という嘆きを残しているからである。しかしこれによって「多くの患難悲痛にある人々が彼によって救わるるのである」「そは「最大の無神論者」は実は最大の有神論者である」
 
無神論=有神論みたいな逆説的な書き方に、楽山のような、不思議・超常・ホラー大好き人間は、魅力を覚えるのでしょうか。罪ある人が、罪を認めて、信仰の義を与えられるということに気づかず、神に不満だけをぶつけている楽山は、足らざる者らしく、ヨブ記の字面と言葉遊びしているだけです。
 
ここでの無神論は、神はいないと、楽山などが言うのとは、全く違います。楽山が信仰を理解できないことが表れています。神を信じているからこそ、神に、なぜ?と問わずにいられないことを、理解できない災いが楽山です。ヨブではなく、書くことで、楽山が、神の敵、救いの敵となっています。
 
神亡きがごとき地上に救いを求めるヨブの信仰であり、それを悔い改めに導いて生かす神の話なのです。安い辻褄で、神がいるなら悲劇が起こるのはおかしい、などという傲慢で安易な見なしを学者気取りで言ってくる楽山には理解できないことです。
 
反キリストの楽山は、それらしく、自分が何をしているか、まるで分かっていません。ここまで、悪意で、神と信仰を汚して、何が得られるというのでしょう。楽山が手にするのは、誰も近づいてはいけない異常人格の自己満足だけであり、楽山は、自らの鼻をほじって笑っているだけなのです。
 
ヨブ記は、罪のないヨブが試される話ではなく、人間の罪と信仰の話であり、また、ヨブが富を回復するのが救いではなく、ヨブが悔い改めて信仰を新たにすることが救いなのです。楽山は、神と取引でもするような高慢な立ち位置が目立ち、恐れも共感もないことが、ここでも表れているのです。
 
 
「さりながら義しき者はその道を堅く保ち、手の潔浄きものはますます力を得るなり」(第九節)に注意。
「罪のためならずして大災禍に逢える彼が、その大災禍の中にありて正と義の勝利を確信したのである。ヨブの偉大よ! またヨブ記著者の偉大よ!」
 
 (ヨブ記、口語訳)17:9
それでもなお正しい者はその道を堅く保ち、
潔い手をもつ者はますます力を得る。
 (ヨブ17:9、旧約聖書)
 
まだ自己正当化を続けるヨブの発言です。ヨブは、正義を貫いたのではありません。正義は、神のものです。人が自らを正義と思い込むようになるから、神に文句を言おうとするのです。そういう罪は、人間一般の罪であります。ヨブは、最後に、神によって、悔い改めたのです。
 
楽山は、悪と罪と偽善を貫いています。悔い改めることもないのでしょう。楽山は、反省もせず、悔いることもなく、文句ばかり言って、自己正当化だけをしているために、ますます神にも人にも憎まれる途上であります。
 
楽山は、どんどん、人格障害からの悪意が表れ、サイコパスらしくなってきました。引用にも、引用した者の意図は表れてくるのです。楽山は、他者を書いたつもりで、寒くなるような自らの悪意を漏らし続けるのです。無神教と背教の宣伝者、楽山に、誰も関わらないことだけを願ってやみません。
 
 
「神は最後まで義の味方であって悪の敵である。われらの求むべきは義に歩むの生涯である。自身神の道に立ち正義公道の命ずる処に歩むの覚悟あらば、我らはすなわち大磐石の上に立って安らかなのである」
 
人が、"義" と言うとき、その義が、その人の判断に過ぎないことを弁えるべきです。「義に歩むの生涯」「自身神の道に立ち正義公道の命ずる処に歩むの覚悟」「大磐石の上に立って安らか」などは、楽山は好むのでしょうが、私は、豪語が過ぎて、食傷気味であります。
 
悲劇と艱難の前にある人に、正義に歩め、などと言うのは、乱暴であります。ただ、なぜ?・・と、神に祈ることで、忍耐し、待ち望む信仰者たるを得るのが精いっぱいでしょう。
 
豪語は、偽牧師のシャロームや、ペテン師の楽山のような、利得だけを考えるような、心の深みのない偽善者の好むところです。信仰者は、ただ、正直に祈るべきであります。
 
 
「さわれ失望中に一閃の希望ありて、ヨブ記が失望の書にあらず希望の書たることを知るのである。一閃また一閃、遂に暗黒悉く去って光明全視界を蔽う処まで至るがヨブ記の経過である」
 
「一閃の希望」ではなく、神の絶対と、人の不完全を対照させて、ヨブや友人という信仰者に、また私たちに、ありがちな浅はかな見なしや自己正当化によって、人の偽善と罪を浮き彫りにするところに、ヨブ記の意義があるのです。「光明全視界」は、大袈裟だと思います。それは、神のものです。
 
 
この講演を読むと、夜明け前が一番暗いだとか、闇の底に光があるということがよく分かる。
 
楽山は、何も分かっていないと思います。闇の底に光、などと讃美しても無駄なのです。わざとらしい芝居、吐き気がします。楽山は、嘘を吐き、詭弁を弄して、闇に棲み、光を無視し、楽山の言う丁寧語のごまかし言葉では、スルーして、逃げまくっているだけです。
 
闇の底というのは、闇を経験し悔い改めて神を知るという意味なら分かりますが、闇をずっと行って掘り下げれば光が見えるという意味ではありません。楽山の世界には、いかにも気安い嘘が闇を覆い尽くして、光をさえぎっているだけです。
 
 
「人を相手にせず、天を相手にせよ。天を相手にして、己を尽くし、人を咎めず、我が誠の足らざるを尋ぬべし」という西郷隆盛の名言も思い出される。人に理解を求めるよりも、神と向き合う方が大切であるし、尊い。
 
楽山は、天を相手にしたいのでしょうか、神と向き合うのでしょうか。たちまちのうちに燃え尽きて消滅するでしょう。天、そして、神とは、そのような存在です。安い豪語など通用しないのです。「尊い」などと、愚かな。楽山の嘘っぱちの本性が丸出しになってきました。
 
西郷の言であるなら、それは、大きな視野と立場を持つことを言っているのだろうと思います。それを「人に理解を求めるよりも、神と向き合う方が大切である」などと、実にバレバレな嘘の豪語に短絡して、他者無視の楽山自身の正当化を図っています。低級です。
 
楽山の人格の低格化と荒廃が、さらに進んだと見るべきでしょう。まさに、サイコパス全開か、と同時に、楽山の底も見え見えになってきます。楽山は、生まれて育って、今まで、一度も、真実を語ったことがないような気がします。
 
 
ああそうだ。論語には「人の己を知らざるを患(うれ)えず、人を知らざるを患うるなり」という言葉もあったのだった。
友に理解されないことを嘆き、苦しむヨブをみていると、ヨブ記にはこういうテーマも含まれていそうだ。
 
「ああそうだ」が、白々しい、大根役者の三文芝居、そして、様々な魂胆を抱えている楽山です。楽山は、人が自分を知らないことを、人に理解されない自分の天才ゆえ、とでも思っているのでしょうか。背筋が寒くなります。
 
他者の言葉を歪曲して「ああそうだ」と悟ったかのように、自らを高めようとするとは見苦しい限りです。楽山は、知られるべき実績ゼロの病質者です。楽山が、罵倒されることはあっても、誰にも理解されることはないと思います。それが、楽山の因業です。
 
また、楽山は、人を見下しているので、人を知らないことを憂えてなどいません。こういうことが、3年にわたって続いているのです。楽山の厚顔無恥は、悪化して、楽山を、ますます見苦しくしてゆくだけなのです。楽山には、しんみりとした悲しみの情がないと思います。
 
楽山の、中立・中庸芝居も、言い方が変わってきて、そろそろ限界のようです。右翼の、しかも、変質者の楽山が、崩壊しながら、牙を剥いてくるでしょう。児戯に等しい詭弁ですが、自己愛による訂正不能の性質を持っているので、とても危険です。
 
今回も、気持ち悪い楽山の文章でした。終わりなき欺きのようです。楽山に関わっている人は、直ちに逃げてください。どうか、人格破壊の楽山を相手にしないでください。楽山に関わらないでください、近づかないでください。祈っています。
 
 
 ※
 
真善美について、人は、努力することしか出来ません。その結晶が、作品となり、人生となるのです。真善美の完全な結実は、いつも、すべて、神に任されています。人は、できることをして、悲しくてたまらないときは悲しみを、神に、正直に捧げることが信仰であり祈りであります。
 
 
自己賛美の澱(おり)

自己賛美の澱(おり)
 
 
(2021年02月07日)
(2022年02月08日、再録+加筆)
 
 
 
  覚えてしまった
 
空腹を覚える前に
食べることを覚えてしまった
夜の澱粉質の中を
重く泳いでいる
目指す島は
秘密の酵母に託されていて
見つからない
放蕩の鍵
泥酔の臓腑どもは
消化しきれず
騒いでいる細菌どもが
恐れている荒野は
無機質の誕生の前に
渇くことを覚えてしまった
 
 
  新しく古く
 
新しいことが鮮やかだとは限らない
陰で傷むこと
人知れず壊れること
死ぬことであるかもしれない
しかし新しいことに変わりはない
古さに戻ることはないのだ
古いことが温められているとは限らない
並んで咲く花壇もなく
捨て去るための焼き場もなくて
行方知れずだったり
行方をたずねるすべもないまま
たとえどんなに変わり果てても
虚名と無名の湖の底に
しかし時折今の水面に唐突に波を立て
驚くときすでに沈みゆく
もはや手の届かない
深い深い澱(おり)の中に
せめて驚く前に目を留められたら
次々に古くなってゆく
新しさに沈められる前に
 
 
 
 楽山のツイッターですが
 
★こも/楽山日記3
「私とトラブルになった人のヤバイ個人情報集まるのよねー。」
これは情報収集能力を誇ってるのかもしれんけど、見方によっては、「私たちは、本人の許可無く、個人情報を横流ししてます!」という自爆になってるね。
 
誰と誰のトラブルかはさておき、批判には本人の許可は要りません。自爆ではありません。迷惑で有害で病識のない楽山に対しては、トラブルの情報を限りなくドンドン書き込んでほしいと思います。詭弁屋で嘘吐きの楽山は、言論の世界にいてはならない人です。
 
★こも/楽山日記3
ちなみに、かつてのブログ村騒動で、もっとも驚いたことの一つが、こういうことに罪悪感を感じてないらしい信者たちが散見されたことでした 顔文字(しかめっつら)
 
楽山は、何を驚いているのでしょう。楽山こそは、無反省、無責任、無神経で、高等感情がなく、罪悪感を少しも感じていない人です。こういう人こそ、決して許してはいけないと思います。精神病質、人格障害、精神の詐欺師、異常人格のペテン師なのです。
 
 
 
 楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
楽山の「そんな風」は、平気で嘘を吐き、詭弁を弄し、単方向に気に入らないものを罵倒し、それを丁寧語で、インテリであるかのように、まじめに言っているかのように、見せかけるペテン師の生業(なりわい)に過ぎません。楽山特有の悪と偽善です。だまして悦に入る時が過ぎ去ることを祈ります。
 
 
 
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  楽山の虚言2
 
 『余はいかにしてキリスト信徒となりしか』内村鑑三著
 2021年01月23日 楽山日記(LD)
 
 
楽山の虚言は、そっと懐に滑り込ませるような狡猾さがあります。実際は、総て、反キリストの、作為と悪意の産物です。
 
楽山は、HS批判を、こそこそと、別のブログを立ち上げてするつもりのようです。自らが、批判されていて、それにまったく答えないままで、無反省・無責任に、別のところを批判をする、などということは、正常なら出来ないことです。
 
自身の不都合を無視して、平気で、他者の不都合を批判するところに、訂正不能の異常性が表れています。楽山は、批判している側にいるつもりの自分をよく見せるために、自らが批判の対象であることから読者の目を逸らしたいのでしょう。
 
 
『余はいかにしてキリスト信徒となりしか』は、中公の「日本の名著」で一度通読したことがあったが、キリスト教徒となる前の著者は、神社の前を通る度に礼をしていたという話以外は何も覚えていないので、今回は岩波文庫で読み返してみることにした。感想は、以下の通り。
 
新しく信仰者になる前は、違うことを考え、違うことをしているのは、当たり前のことでしょう。しかも、日本という国のあり方も影響していたでしょう。それを、ことさら、「神社の前を通る度に礼をしていた」などと書いてくるのは、揶揄して否定したいからにほかなりません。
 
今日もまた、楽山は、キリスト教の伝道者を侮辱するのだということが、書いたものによって表れています。楽山には、何を言っても無駄だから、引用と批判記事を資料としてゆくことにしています。
 
 
まず一つは自分の教養不足を痛感したということ。本文と訳注を行ったり来たりして読みつつ、自分は聖書、古典、歴史などについて何も知らないことを思い知らされた。反省。
 
そもそも、楽山は、宗教と信仰を知りません。単なる知識不足ではないのです。ゆえに、このような「反省」も、柔和を装うための嘘ということになります。
 
本当に反省するのならば、恥じて書くのをやめているはずです。そのブレーキが、病質のために欠損しているのです。今までもあったことです。同じごまかし方が、今も通用すると思っていること自体が、厚顔無恥というべきことであります。
 
 
二つ目は本書の前半はやや平板だが、中盤以降、米国に渡ってからの文章は勢いがあって迫力があるということ。これは前半よりも中盤以降の方が、葛藤、対立、主張が激しいからだろうが、本書を読んで退屈に感じた人は、いっそ第六章から読む方がいいと思う。
 
このように、反省と書いた後で、乱暴に「第六章から読む方がいい」などと読み方を教えられると思っていることが、反省は嘘だということを示しているのです。惑わされないでください。
 
自己愛が、楽山を、暴走させ、堕落させ、周りを見えなくさせて、既に、久しいのです。どんなに失敗しても、立ち直るのではなく、何も反省せずに同じことを続けることに、自己愛性パーソナリティの闇を感じないではいられません。
 
 
三つ目は著者は信仰対象を日本の神々からキリスト教の神に変えてはいても、熱心な信仰者であることは少しも変わっていないということ。著者は常に全身全霊で何かを信じないではいられない根っからの宗教者なのだろう。
 
神々信仰からキリスト信仰に変わって、信仰者が変わらないということは、信仰というものを、楽山が全く理解していないことが分かります。楽山が言う熱心さは、実に、胡散臭い超常趣味の臭気に満ちたものであることは、今までの楽山の記事から、明らかであります。
 
特徴的に、「熱心な信仰者」という褒め言葉こそ楽山の皮肉に満ちた揶揄への通り道となっています。今までの経過から、誰とも交流も議論も出来ず無反省・無責任のままの楽山の褒め言葉は、全身全霊で悪意と敵意と呪いを隠している姿なのです。
 
つまり、楽山は、無反省と書かれ続けているから、反省と書けばよいじゃろ、という根性で返してくるのです。煽動者・詭弁屋以外の何者でもなく、書いた言葉の大きさに比して、実感の乏しさが目立つだけなのです。「全身全霊」で何かを感じることのない楽山の、理解したふりに、だまされないでください。
 
以前からの、楽山の、マイナスの言葉のあとに、プラスを書けば、プラマイゼロじゃろ、という気安さであり、いい加減さであり、責任回避の言い逃れであり、悪意の軟派カルトなのです。
 
 
四つ目は著者は自分の行動を改める際に、理屈を必要としているということ。他人に援助は求めぬとしていたのを援助を求めることにしたり、牧師にはならないと公言していたにもかかわらず神学校で学ぶことにしたことについて、かくかくしかじかの理由で考えを改めたと説明しているところは、なかなかの理屈屋だ。ちなみに自分もこれと同じで自分の判断にはそれなりの筋の通った説明をつけたい性質ではある。
 
理屈を必要としていたのではなく、理由と動機と根拠を説明しているという当たり前のことでしょう。それを「なかなかの理屈屋」と言ってしまうのは、著者の遍歴をあざ笑っていて、キリスト教の伝道者に対する楽山の揶揄であり悪意なのです。
 
しかも、楽山も同じなどということはありません。説明する者と無視する者との違いであり、楽山は、一度も、当たり前のことをしていません。「自分の判断にはそれなりの筋の通った説明をつけたい性質」・・楽山は、筋の通った説明など、したことはありません。寒気のするような白々しい虚言です。
 
 
以上、本書にはこれ以外にもいろいろなことを考えさせられたが、そのすべてを書くのはすぐには無理なので、とりあえず本稿ではここまでとしたい。
 
総ても、一部も、楽山は書けない人です。書けば、病質が表れ、くずれた文脈の詐欺行為が見られるのみであります。腐敗の病巣が染み込んでいる楽山が放った矢は、故意か体質かの、悪意として、いつも、独特の悪臭を放つことになります。放置すれば、そこに、新たな病巣を作るでしょう。
 
真面目なふりをしているだけです。分かったような顔と丁寧語です。得々と語っても、楽山という偽善者には説得力のある中身がありません。書いて気取りたいだけの時間と文字数の無駄です。批判する目的ではなく楽山を読むことは、その分、時間をペテン師に吸い取られるような者です。
 
 
敗北の反動

敗北の反動
 
(ここは、とても易しく優しいオセロゲームのサイト。
  ゲーム苦手の年寄りには軽い気晴らしです。)
 
 
(2021年01月27日、同日一部修正)
(2022年01月30日、再録+加筆)
 
 
 
  森の虚像
 
美しい言葉 編んで
秋の森の木漏れ日の
落ち葉の中に佇んでいたかった
 
落ち葉を拾い
投げ捨てて
空を見上げる足元の
無数の陰に阻まれ
飛ばせない光の墓地
湿った森に伏して
枯れ葉を叩きながら
こめかみの動脈の
拍動を引きちぎるような
支離を閉じている
 
形あるものの
運命の崩れ
形なきものの
逆説の汚れ
そこにある
神の賜物たちの
ひとつひとつにこめられた
虚像と実像
まっすぐ立った虚像は
かすんでつかみようもなく
はっきり見える実像は
何もかも裏返しだ
 
不確定と確率と
不信が
本質になる世界で
まだ描いている
ほんの戯れではなく
ただ偽りを解きたくて
 
 
  あの夜と病
 
幼いころ
母と汽車の旅
窓から見た
蒸気機関車の
機関室から吹き出す炎
あの夜とともに
 
母の背にいた
幼い頃ではなく
小学生の私がいた
痛くて足が動かなかった
 
癒えていた確かに
進学し就職した
それだけで孝行息子と
恵まれていると喜んでくれた父と母
 
確かに
耳の遠くなった父母に
今更の病は信じられないことだ
私も詳しく説明はできない
でも追い越し
やがて遮るだろう
 
この類(たぐい)は
自業自得のようでもあり
誰も責めようがない
親不孝に親不孝を重ねて
むしろ恥ずかしい
 
勝ったつもりか病よ
だがお前と私が同じ体にいる以上
お前も恥ずかしい代物(しろもの)だ
私が最後に意識を失うまで
勝負だ 言っておくが
私の恥は
お前の憎々しい喜びほど
軽くはない
 
消してみよ
あの夜を
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
嘘吐きは、実でも真でもなく、虚を生きることになるので、結局は、自分を失ってゆきます。自分の、善悪、真偽、美醜が、混乱して分からなくなります。代わりに、だますことだけが残り、だますという虚偽の煙幕の満悦のうちのみに存在して、何も、良いものを追い求めることが出来なくなるのです。
 
 
 
私の「ウソの国ー詩と宗教」ブログ:
 
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