ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

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  楽山の詭弁と正当化2
 
 『実践 快老生活』渡部昇一著
 2020年06月28日 楽山日記(LD)
 
 
今回は、楽山は、露骨に嘘を吐いてきます。しかも、著名人の名を借りる不遜もあらわになって、本当に、醜いさまが、バレバレになってきました。
 
 
*渡部節
佐藤優の対談本『読む力』で、渡部昇一が高評価されていたので、ひさしぶりに氏の本を読みたくなり、前々から読もうと思いつつも読めないでいた『実践 快老生活』を通読してみた。相変わらずの渡部節であり、超ど級の率直さがおもしろい。
 
楽山が「おもしろい」というのは、過激で、しかも、否定的なことのようです。そういうのは、言った人以上に、思慮のないサディストの趣味である可能性が高いということです。自分では、何も理解できず、人の言葉を、特に有名人の言葉を礼賛する卑屈で反社会的な貧乏根性が見え隠れしています。
 
 
たとえば今の時代は、孫子を持つ幸せだとか、結婚相手を選ぶ際に遺伝について考慮すべきということは、声を大にしては言い難いところがあるが、著者はそれをあけすけに語っている。こういうことができるのは著者の他には、石原慎太郎くらいしかいないのではなかろうか。
 
楽山は、自分の子孫が持てそうになくて、結婚相手にも選ばれそうになくて、いじけた根性で、逆に、優れた遺伝子を持っている自分を夢想したいのでしょうか。それで、過激な評論を面白がるのでしょうか。しかし、楽山には評論をするような視野の広さなど皆無なのです。
 
あけすけに言うのと、嘘を吐き、詭弁を弄し、有名人の名を利用して飾り、理路も情緒もお構いなく書くのは、全く違うんだな・・ということを、楽山を通して実感します。著名人さえも、上から見下ろして楽山が、自分の知識人気取りのために、利用しているのは、実に見苦しい限りです。
 
 
*穏当な意見
とはいえ本書にはそれほど波風はたたないだろう穏当な話も多く語られている。健康のためには精神面だけでなく、栄養など唯物論的な見地からも注意すべきだとか、年をとっても詩歌などを暗唱して記憶力を磨くことができるだとか、一般の健康論をそのまま実行すればよいというわけでなく、自分の体調によって調整することが大切だとか、大方の人がなるほどと思える話もある。
 
「大方の人がなるほどと思える」などと、大人になれなかった楽山に言われたくはないのです。健康と栄養の問題は誰にとっても大切なのに、短絡して「唯物論的な見地」などとという言葉を使いたがる楽山の未熟で狭小な世界を、どうか真に受けないでください。未熟児の背伸びに過ぎません。
 
理想の老後の話ですが、楽山は、精神面が壊れ、栄養を語って唯物論と言い、人間らしさを語れません。気に入らないことをことごとく無視している楽山の記憶は虚妄以外何もないのではないかと思われます。そして体調だけでなく心の調整が狂っているために、詭弁で誘導することに専念しているのです。
 
 
論語の「七十にして心の欲するところに従って矩をこえず」という言葉についての解釈もおもしろい。これは悟りの境地というよりも、加齢によって心身が衰えてくると、「矩をこえようと思っても、もうこえられない」(p.18)というものであり、孔子はそのことを、率直、正直に語ったのだろうという。たしかに怪力乱神を語らずという立場からすると、これは精神的神秘的な境地のことではなく、著者の言う通りのようでもある。
 
若くして矩に反している楽山は、恐らくもう長い間、少なくとも一年余り、いかなる批判も無視して、自身の欲するところに従って、精神の犯罪性を発揮して、非常識なことばかり言ってきたのです。矩(のり)や法や徳は、楽山の欲せざるところなのでしょう。
 
ゆえに、楽山にとって幸いなことは、自分でブレーキをかけられないのなら、もはや、一日も早く、楽山の欲せざるところが、詭弁の記事を書けなくすることだけのように思われます。有名人に賛同して、自分もなんです・・という自己顕示欲の見苦しさを、むしろ、むき出しにしています。
 
しかし、そこにおいて、自由と勝手を、正直と恣意を、ありのままと欲のままを、すっかり混同した楽山が、石を投げながら暴走し続けているのです。いい歳をして、自慢げに、もっともらしいことを言ってるつもりの自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)の災いです。
 
(ネットより)
怪力乱神を語らず(かいりょくらんしんをかたらず):
怪力乱神を語らずとは、君子は、道理にそむいたこと、理性で説明がつかないようなものについては語らないものだということ。また、怪しげなこと、不確かなことは口にしないという意。
 
楽山は、とても怪しげなことを、道に背いたことを、理性で説明がつかないようなことを、知ったかぶりで語ってきました。また、霊が分かるっぽい話や、不確かな、どっちつかずの、ボンヤリ言語を弄してきたのです。そうして、今回も、楽山の批判が、楽山を斬っているブーメランが実態なのです。
 
 
*知的正直
正直といえば、著者は知的正直について、「自分がおもしろいかどうかを一つの絶対的基準として読書を愛好してきた」(p.57)と語っている。これは漱石の「私の個人主義」における自己本位に通じる考え方であろうし、自分も大いに影響を受けた考え方だ。
 
正直ということには、無視しない正直さだけがあればよいのに、楽山は、他者無視と、我欲の自己中心の利己主義を持ち出して、大いに悪と偽善をまき散らしているのです。楽山は、個人主義を我欲の恣意と混同している知恵足らずの未熟者です。一見、まともに見えても、詭弁だらけの楽山です。
 
 
読書に限らず、ものごと全般について正直な感想を述べると、傲慢だとか、生意気だとか言われて責められることもあるが、他人の機嫌をとるために自分の感想を偽ったところで仕方がないし、自分は自分という独立心を持ち、権威に盲従することなく、正直な思いを忘れないのは本当に大切なことだと思う。
 
我執により我欲だけで言動している者は、楽山のように、傲慢になります。他人の機嫌を取るのではなく、他人の意見を無視しているのが楽山です。また、自己正当化の詭弁を弄しています。楽山が「自分は自分」とばかり我を通すなら、行きつく先は、反社会性でしかありません。
 
「自分は自分という独立心」は、正直で率直に物が言える人物に見られるもので、悍ましいことに、楽山の動機は、独立心ではなく他者を無視して妄想的唯我独尊に生きていて、自ら権威者のごとく傲慢であり、嘘ばかりついて、詭弁ばかり弄して、正直の欠片もない我欲の力動に過ぎません。
 
楽山は、独立心を、我欲・我執の自己中と、混同しています。これは、思考障害であり、病質からの症状に他なりません。
 
 
*簡単に天国に行ける宗教
著者は宗教についても随分正直なようで、「宗教として信じるのなら、私はどちらかといえば簡単に天国に行けるものを信仰したい」(p.227)と語っている。これはあまりに正直すぎて笑ってしまうけれども、実際、真理とはシンプルなものだろうとは思う。
 
楽山の言う「簡単に天国に行ける」宗教は、楽山のように、都合の悪いことを、ことごとく他人のせいにして、どんなに卑怯なことをしても、ヘラヘラ笑ってゆけるような天国であり、楽山の妄想の中にしか存在しないところなのです。
 
シンプルな信仰を、何をやらかしても天国に行ける身勝手と、混同しています。いったい、楽山は、どこまで、単細胞の、短絡魔なのでしょう。いつまで、自己中から迷惑想を振り回すつもりなのでしょう。自分を見ない体質は、こういう考え方になるという典型でしょう。
 
 
たとえば、三木野吉は真理については単純、明快、矛盾なしなものだと定義づけているし、晩年の釈迦は教団の内外の区別なしに法を説き、握り拳の中には何も隠していないと語ったという。丹波哲郎はスピリチュアルな教えを、「あかるく、すなおに、あたたかく」という、この上なくシンプルな教えにまとめているし、『近思録』には道というものは細く険しいものではなく、沢山の人が通ることができる大道だとしていたかと思う。
 
楽山の思考は、隠し事で出来ていると言っても過言ではありません。単純に悪、明快に暴露された詭弁、矛盾だらけで、いったいどうやって、スピリチュアルを語れるというのでしょう。凶悪な楽山は、今も、白々しい嘘をを吐いています。それで、言いえたと思う病質者なのです。
 
陰気臭くて、素直さ皆無の根性で、とても冷淡で、温もりも潤いもない人、それが楽山です。だから、安易な道ばかり、求めては、人を平気で裏切ってきたのでしょう。本当に底の浅い軽薄な、だますことだけで長らえている人のようです。
 
楽山は「単純、明快」「あかるく、すなおに、あたたかく」というのを、"何事もなかったかのようにヘラヘラ笑って、我欲だけに素直に、悪意だけを熱して" 生きることと、混同しています。そこには、熟練からの達観に裏打ちされた爽快な時空が必要であることを、楽山は、何も理解していないのです。
 
 
こうしてみると、まっとうな宗教は救いについて複雑な条件をつけたり、凡人には分からない神秘について語ったりはしないだろうし、著者の宗教選びの基準はそうまちがっていないように思える。
 
真っ当な宗教は、伝道者に、霊が分かるっぽいなどということを要求することはありませんし、ふつうの人間らしい感受性があればよいということです。また、救いは、楽山のような自己顕示欲だけの者には、全く縁がありません。すごい詭弁ばかりです。救いは、怠け者の短絡ではないのです。
 
また、神秘は神のものであります。人は人の節操を考えるべきです。ましてや、神を信じ仰ぐことは、即ち、救われるということは、神に対して、自身の下等な屁理屈を当てはめて、机上でもてあそぶような楽山には、これまた、全く縁のないものです。
 
 
ちなみに著者の弁によれば、カトリックの救いは次のようなものらしい。「カトリックの場合は、ごく単純化していってしまえば、終油の秘跡(サクラメント)を受けていれば地獄には絶対に行かないという教えである。だから私は、自分が死んだあとには確実に天国に行くと信じている」(p.228)。こういうシンプルな信仰を持てる著者は幸せだと思う。
 
このような儀式だけで天国に行けるという信仰は、自尊過大の楽山にとって、垂涎の的であり、また悪意ある揶揄の的でもあります。表している「シンプル」の意味が、楽山の下卑た見なしとは、全然、違うのです。楽山は恥ずかしくないのでしょうか。
 
楽山は、シンプルを、安易や安楽と、履き違えています。人間性の底が浅いと、こうなります。ゆえに、楽山が、語れば語るほど、救いなど、本気で求めていないことが、作為の捏造の嘘っぱちであることが表れるだけになるのです。
 
 
*勇気と正直
本書を読んで改めて思ったことだが、批判をおそれず、真実と信じることを語るという渡部昇一の勇気ある正直さは本当に尊敬する。
 
批判を受け取らず、嘘を吐き、詭弁を弄しているのが、楽山です。このように、楽山は、自己正当化のために、本を漁っては書いてきますが、いちいち、的を外して、だんだん、失敗して滑りまくっているピエロとなってゆくのです。涙の代わりに、冷や汗を散らして、迷惑なだけの楽山であります。
 
批判を恐れないことと、批判を無視することを、混同して賛同しています。このように、楽山の理路は、悪質で、ボロボロなのです。これらの、多くの混同は、詭弁でもあり、恐らく、楽山の病質的未熟からの作為だろうと思われます。
 
 
渡部昇一の本のおもしろさは、その知識と発想にあると思っていたけれども、それは表面的なことにすぎず、その底流にある勇気と正直さこそがその主因なのだろう。渡部昇一のおもしろさは、勇気ある正直さによって支えられている。
 
楽山の記事の低劣さは、その知識不足の貧相さにあるだけでなく、中身が表面的であります。そして、底流にある怒気と欺瞞こそがその悪意の主因なのでしょう。楽山の卑怯さは、これからも続きそうな、臆病なのに我欲に邁進する者の言い逃れによって続いている地獄であります。
 
 
この見立てが当たりか外れかは分からないが、本書を読んで自分はそのように思った次第である。自分は生まれつき根がどこまでも臆病にできているし、渡部昇一とは考えが異なるところもあるが、この勇気と正直さは見習いたいと思う。
 
当たりか外れか分からないでも書いてくる楽山です。そして、反省しないのです。楽山のこういう無責任発言には、ごまかしの曖昧後の悪用とともに、それでも人間か!・・と疑いたくなるほど、いつも呆れるばかりです。
 
楽山の、いつの見立ても的を外れていて、何を読んでも自己正当化しか見えてはこない楽山であります。楽山が正論のつもりで書けば、楽山自身が矛盾するというブーメランなのです。楽山は、厚顔無恥であり、今まで一貫して、勇気と正直さに真っ向から背いてきたのです。
 
楽山は、どういうわけか、勇気と正直さの代わりに、怒気と嘘を覚えたようです。よく読めば、実に、全体に、その悪意を湛(たた)えているのが、楽山日記なのです。また、妄想的に勘違いして、見倣いたいと言っているのは、恐怖としか言いようがありません。
 
しかしながら、今回のように、自己正当化が見え見えのようになってきたのは、人格破壊が進んで、ネズミのような、子供だましなのに何処もだましの狙いで書いてくる、嘘吐きチェーンメッセージの根性を、楽山の壊れつつある人格が、隠せなくなってきたのかもしれません。
 
楽山の自己正当化は、だんだん下等になってきて、著名人の言葉さえ、単純に真逆に悪用して自己満悦するようです。言葉を、ことごとく勘違いし、または、わざと曲げて、言い逃れたつもりで、もはや、内容がありません。殆ど自滅を暴露しています。
 
こういう者が、実際、世の中にいるのです。カルトには、特に多いと思います。しかも、シャロームもそうだったように、決して、珍しくはないのです。良い言葉を、自分の都合の良い意味にだけに解釈しますから、良い意味に受け取る社交の人々は、簡単に、だまされてゆくでしょう。
 
楽山の病質的な卑怯さや詭弁や嘘が、今回、実に、分かりやすいものになって表れています。どうか、楽山には、決して、関わらず、近づかないようにしてください。
 
 
焼き切れる本性

焼き切れる本性
 
 
(2020年)
(2022年07月07日、再録+加筆)
 
 
 
  冷たい風
 
冷たい風
動かぬ山
火の国の 火の山
ときに山肌の色を変えて
煙と雲の向こうに
命を生む太陽
命を奪う太陽
 
冷たい風
動かぬビル
人の国の 人の山
ときに人々の顔色を変えて
雑踏と騒音の向こうに
命を生むシステム
命を奪うシステム
 
冷たい風
ふらつく私
私の国の ウソの山
ときに人々の顔色におびえて
心と体の中に
明日を生む命
明日を奪う命
 
 
  太陽に抜かれて
 
見なければ抜かれることはなかったのに
じかに目を合わせて 見てしまった
あわてて瞳孔をしぼっても
もう遅い
 
見てしまった
形の 秘密を 守るために
見なければ抜かれることはなかった
剣の 一つが
瞳をつらぬいて
焼き付けた残像が
視界をさえぎり
やがて 頭痛を呼んできた
 
見たものは
抜かれた魂の幻と
めまいと
歪んだ形から
まるで不治の病のように
守りようもなく残されて
脈を打って光る
暗点
 
直接 見ては
ならないものがあるらしい
 
 
  捨てる
 
破り捨てることは
いつでもできる
書くことはいつでもできる
わけではない
 
捨てることはいつでもできる
君の中の僕の記憶のように
何てやすやすと
僕はまだ生きているのに
 
書いたもの全部
引きずって
何て重たいと
つぶやいたのは
書かれたものたち
 
もう放しても
いいよ
 
 
  創造
 
今の今
今しかない
今に長さはない
時に長さはない
時などない元々
神は今を創造された
人は過去と未来を想像している
感じる
感じるから存在する
存在するから居場所を求める
場所などない元々
神は存在を創造された
存在は場所を想像している
そのように
神は人を創造された
人は神を想像している
 
ばあちゃんが失禁した
ばあちゃんは落ち着かない
ばあちゃんはわからない
何もわからないから
わからないことをする
それが病気だから
病的なことをする
と思われてきた
ばあちゃんは感じる
感じるから想像する
想像がはっきりしないから不安になる
感じるから不安になる
不安だから落ち着かない
ばあちゃんは失禁する
存在するから失禁する
 
存在するから不安になる
不安になるから言葉を求める
人は言葉を求める
言葉は神であった
言葉は神から贈られた
ウソは人から送られてくる
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
楽山は、自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)の大方がバレているのに、まだ書こうとします。このことが、不治の病質を証明することになるのに、わざわざ、書いてくるのです。文章で、まともだと言いたいのでしょうか。結果は、真逆となっているのです。
 
 
 
 楽山のブーメランツイッター
 
★こも/楽山日記3
@komo266
これは、その通りですね。
ゴリ押しは奪う愛なので、人は逃げて行くのでしょう。
 
何を言われても、楽山が、同じ方向のことを訂正不能に執拗に繰り返すのは「ゴリ押し」に近く、それで議論を凌いでも、途方もない精神的ダメージを受けた側は、逃げるというより、相手が人間とは思えなくなり、二度と対等の議論などしないが、体質と実態を暴くための批判の動機を得るのです。
 
一方的で、しつこく粘着する楽山の主張は、その理路の単方向を見抜かれて、また、その方向の、人に対する精神の害毒性を見抜かれて、いずれ気づかれて、結局、孤立し、居場所を失ってゆくでしょう。予想されたことであり、予測通りに、楽山の無恥も無視も、じわじわと知られてゆくのです。
 
 
 
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  詩篇88-再録+
 
 「わたしの親しき友は――暗闇のみ」(詩篇87)2020年05月09日
 旧約聖書 詩篇 (岩波文庫 青 802-1)
 楽山日記(LD)を、改めて批判。
 
 
楽山のような、キリスト教が憎くて、偽善もバレてしまって、恨みと憎しみからの悪意しか持たない者は、こういう意地の悪いことをしてくるという例です。詩篇から不吉な文言を漁って、またキリスト教とキリスト信仰をおとしめたいようです。
 
ここにおいて、憂さ晴らしのために、"災いをもたらす"のは、楽山その人であります。楽山こそ不吉な男なのです。自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)者が、満悦気分で書いた醜い記事に過ぎません。
 
 
しばらく前から、聖書の詩編を少しずつ読んでいるのだが、「わたしの親しき友は――暗闇のみ」(詩篇87)という一節には、はっとさせられた。胸にズブリときた。訳者の解説を確認してから読み直すと、どうやら詩人は親しき友からも避けられる不治の病だったらしい。「全詩編中最も悲しい詩」といわれるのも頷ける。
 
ひどい形容です。楽山は「胸にズブリと来た」そうです。胸の中の悪意の沼にでも沈んでゆくのでしょうか。胸に突き刺さったのなら、こういう表現にはならないはずです。楽山は、作文の勉強が成っていないので、しばしば、見当外れの表現を使って、ボロを出しています。
 
私の使っているネットの口語訳聖書では、詩篇87は讃美であり、上のような一節はありません。たぶん詩篇88の「わたしの親しき友は――暗闇のみ」に似た一説は、18節「わたしの知り人を暗やみにおかれました。」とあります。訳による聖書の節の区分が違う可能性もあります。
 
(ネットより)
この詩篇の詩人は、「私は若い時から苦しんできました。今は死を待ちます。」(16節)と歌っています。この言葉に表されているように、この詩人は、若い時から病に苦しみ、その病が癒されることのないまま、死を待つ身となっている希望なき状況に立たされています。
この嘆きの言葉を述べる詩人には、慰めや希望の光は一条も差し込んできません。彼は、「今、わたしに親しいのは暗闇だけです。」(19節)とこの嘆きの祈りを結んでいます。ついに彼の深い嘆き、苦悩の問題は答えられないまま終わっています。この詩篇は答なき詩篇です。
 
まさに、命が終わろうとしているときの信仰の詩であり祈りなのです。何も良いことがなかったというときの、神に対しての告白に、信仰の凄まじい迫力が表れているのです。信仰を利益でしか考えず、何でもハッピーにならないと信仰ではないと思っている楽山には分からないでしょう。
 
この世の、どうしようもない苦難の中だからこそ信仰が必要なのです。まさに、そのような絶望的な境遇だからこそ、正直に告白し、神に救いを求めているのです。楽山のように利益と言葉面だけを追って神をけがすような浅ましい勘違いをしてはいけません。
 
信仰は、見た目の良い言葉だけを捧げている間は未熟です。叫びのような本音を捧げることによってのみ、苦悩と死に同伴する神を知ることになるのです。この聖句は旧約ですが、新約においては、同伴者が、他でもない、キリストになります。
 
信仰は命です。キリストは救い主です。安っぽいご利益の思い込みしかなく、深い意味を何も理解しないで信仰について書いているつもりの楽山は、実に、人間の正直な苦難に何の共感も持ち得ない、浅ましいクズだと思います。
 
 
また解説によると、「詩人の中心問題は「死」。死は詩篇において肉体の死よりも、神からの隔絶をいう」とのことである。とすると、「あなたは死者のために奇跡をなし給うや、亡霊は起き上がって、あなたをほめたたえようか」という一節は、墓の下の死者について言っているというだけではなく、信仰を失った者をも招いてくださるのかを問うているという解釈も無碍に却下されるとも限らないということだろうか。それともこれはいくらなんでも手前勝手でご都合主義に過ぎる考え方かな。
 
詩人の中心問題は、紛れもなく信仰です。だから、詩篇に載っているわけです。「あなたは死者のために奇跡をなし給うや、亡霊は起き上がって、あなたをほめたたえようか」に相当する口語訳は、私の聖書では10節になっています。未だこの世しか知らない人間の悲哀が表れています。
 
「信仰を失った者をも招いてくださるのかを問うている」・・ひどい曲解です。信仰のない者が、絶望だけになるなら、このように正直な感想を、神に向けて、救いを乞うたりはしないでしょう。楽山の白々しい嘘の信仰芝居とは違うのです。
 
 (詩篇、口語訳)
あなたは死んだ者のために
奇跡を行われるでしょうか。
なき人のたましいは起きあがって
あなたをほめたたえるでしょうか。
 (詩篇88:10、旧約聖書)
 
楽山は、根っからの反キリストなので、また、反省しないがために学習せず成長しない知恵足らずで深い理解が出来ないので、マイナスの文言が並んでいたら信仰の否定と思って悦に入る単純さです。まったくもって詩篇および聖書の逆説を理解できないわけです。
 
楽山は、詩篇88を読んで、大ごとだ、神否定の証拠だ、・・みたいに舞い上がってしまうような短絡だから、ボンヤリ言語でごまかしたつもりでも、キリスト教に対する悪意全開となって、滅裂で批判にもならないような、神否定の悪口を書いています。そういう文言を探していたのでしょう。
 
そういう、聖書も、あらゆる本も、虚心に読むということが出来ず、訂正不能の頭で、都合の良いところだけ受け取って自分を飾ることしか出来ない楽山は、まるで当然の成り行きのように反キリストになっているのです。真実の深みという深みに、楽山にだけは、縁がないのでしょう。
 
こういう、一見、現実に照らして、神に対して、嘆くような、否定のような文章は、聖書が扱っているテーマでもあり、私が読んだ範囲だけでも、ヨブ記や伝道の書などに、いっぱい書いてあります。それらを、ことごとく、我執で解釈して、神否定に結びつける楽山の安易さと怠慢が表れているだけです。
 
答えが謎解きや道徳みたいには、はっきり書いてないというだけで、これで、キリストを否定できると空想する楽山は、愚かであるだけでなく、極めて質(たち)の悪い、執拗にサディスティックに攻撃してくるだけのサイコパス人格であり、反キリストだと思います。
 
信仰者は、幸不幸、喜怒哀楽、絶望希望、全て正直に、本気で、本音で、祈るということです。聖書の詩人は、そういう祈りこそが、総てを統べられる神に届き、神によって受け取られることを、たとえ苦難から臨終に向かうときも、絶対孤独からの解放があることを、知って書いているのです。
 
楽山は、快か不快かだけの原始本能の人です。極めて迷惑です。悪意の原始反応だけで思い上がった学者気取りの、何もまともに考えていない人で、世辞と嘘と詭弁だけの楽山は、小学校の道徳でも学んだほうが、まだマシでしょう。楽山こそ、まさしく "手前勝手でご都合主義" の権化であります。
 
カルト的な思想というのは、有神無神を問わず、でっち上げの妄想から出発しているので、自分で文句を言って、それに自分が斬られる、というのは珍しくありません。そのことを、本人は、理解できないために気づかないという醜態です。聖書をけなす楽山は、実に、自らの醜さを体現しているのです。
 
温もりも潤いも感じさせることが出来ず、教えるためのインテリジェンスの欠片もない、自己愛性人格障害の楽山は、否定の文言を、詩人が、神に向かって叫んでいることを考えないのでしょう。信仰を捨てたのなら、神に向かって祈りません。楽山のように悪口を言うだけでしょう。
 
 
と、ここまで書いて思ったけれども、ここで語られている悲しみは、多分に激しさを秘めている感じがする。日本の古典にある悲しみは、激しいというよりも、静かで乾いている雰囲気があるので、この辺りはやはり異文化ということなのだろうか。自分は優劣を問題にしたいわけではないけれども、どうもこの質的な相違に無頓着ではいられないのだから我ながら面倒な性格だ。
 
「静かで乾いている雰囲気」などありません。信仰の叫びなのです。楽山は、面倒な性格なのではなく、人間らしい知性と感性の欠落です。信仰者が、いつも讃美だけを書いてくるとでも思うのでしょうか。信仰者は、本気で、神に対しているのです。
 
世辞だけを悦ぶ楽山は、日本の古典の静かで渇いている表現が、いっそう、深い悲しみを表すことも知りません。聖書を「異文化」で済ませる浅はかな楽山を相手にしないでください。
 
楽山は、義務を果たさず権利を主張し、責任を負わず自由を行使します。シャロームと同様の、全く文責というものを負う気のない、自己愛性人格障害の自己中が表れているのです。
 
既に、どこかで、身勝手な悪口を否定されたのではないかと思います。ひょっとして、キリスト教の教会にでも行って、未熟な自説を否定されまくったのではないかとさえ感じます。それで、恨みに燃えて、詭弁だけを学び、似たような偽善者シャロームと世辞のつきあいを始めたのでしょう。
 
しかし、そこは、仲間ぼめによって、怨念を培養し、自己中を貪食し、悪意と敵意を増幅して、良心を捨て去るところなのです。あるいは、シャロームと楽山は、同一人物の成りすましではないかとさえ思います。この世への怨念だけを潜熱のように深く抱えているところが一致しています。
 
 
楽山の記事は、ネットの口語訳聖書では、87章ではなく、次の88章と思われます。
11~12節は、むしろ、人間的共感のために、私のお気に入りです。
 
 (詩篇、口語訳)
第88篇 1-18
聖歌隊の指揮者によってマハラテ・レアノテのしらべにあわせてうたわせたコラの子の歌、さんび。エズラびとヘマンのマスキールの歌
88:1
わが神、主よ、わたしは昼、助けを呼び求め、
夜、み前に叫び求めます。
88:2
わたしの祈をみ前にいたらせ、
わたしの叫びに耳を傾けてください。
88:3
わたしの魂は悩みに満ち、
わたしのいのちは陰府に近づきます。
88:4
わたしは穴に下る者のうちに数えられ、
力のない人のようになりました。
88:5
すなわち死人のうちに捨てられた者のように、
墓に横たわる殺された者のように、
あなたが再び心にとめられない者のように
なりました。
彼らはあなたのみ手から断ち滅ぼされた者です。
88:6
あなたはわたしを深い穴、
暗い所、深い淵に置かれました。
88:7
あなたの怒りはわたしの上に重く、
あなたはもろもろの波をもって
わたしを苦しめられました。
88:8
あなたはわが知り人をわたしから遠ざけ、
わたしを彼らの忌みきらう者とされました。
わたしは閉じこめられて、のがれることはできません。
88:9
わたしの目は悲しみによって衰えました。
主よ、わたしは日ごとにあなたを呼び、
あなたにむかってわが両手を伸べました。
88:10
あなたは死んだ者のために
奇跡を行われるでしょうか。
なき人のたましいは起きあがって
あなたをほめたたえるでしょうか。
88:11
あなたのいつくしみは墓のなかに、
あなたのまことは滅びのなかに、
宣べ伝えられるでしょうか。
88:12
あなたの奇跡は暗やみに、
あなたの義は忘れの国に知られるでしょうか。
88:13
しかし主よ、わたしはあなたに呼ばわります。
あしたに、わが祈をあなたのみ前にささげます。
88:14
主よ、なぜ、あなたはわたしを捨てられるのですか。
なぜ、わたしにみ顔を隠されるのですか。
88:15
わたしは若い時から苦しんで死ぬばかりです。
あなたの脅しにあって衰えはてました。
88:16
あなたの激しい怒りがわたしを襲い、
あなたの恐ろしい脅しがわたしを滅ぼしました。
88:17
これらの事がひねもす大水のようにわたしをめぐり、
わたしを全く取り巻きました。
88:18
あなたは愛する者と友とをわたしから遠ざけ、
わたしの知り人を暗やみにおかれました。
 (詩篇88:1-18、旧約聖書)
 
11~12節が、特に、逆説的に、正直な気持ちの発露として、好きです。つまり、いつくしみは・・、まことは・・、神の義は・・、そんなはずはない、主よ、どうか救い出してください、という、世辞の讃美では済まない、なりふり構っていられない本気の叫びであります。
 
迫害が迫っている状況なら、讃美も、迫力と勇気に満ちたものになるでしょう。しかしながら、そこそこ平穏なときに、讃美ばかりを勧めるのは、大仰な感じがして、信仰自慢に思えて仕方ないです。
 
人生において、私たちを信仰に向かわせるのは、讃美ではなく、どうしようもない悲しみだったはずです。この詩篇は、本音をそのまま叫んで、神に委ねようとしているから、好きなのです。
 
私たちは、いつも讃美したくなるほどの立派な信仰など持ってはいないのです。悔いること、改めること、望むこと、求めること、叫ぶこと、それらより、讃美が優先するとは、思えません。讃美するのが信仰・・ではありません。
 
讃美すれば、神様は、ごきげんよろしいのでしょうか、違うと思います。正直以外、神には、通用しないのです。祈るごとに、唱えるごとに、飾りは飾りだと、偽りは偽りだと、神様によって、すべて、見抜かれているのです。
 
こういう、逆説的だが、率直で正直な言葉が削除されずに聖書に載っているところが、私のお気に入りであり、共感であり、感動なのですが、嘘吐きの楽山には分からないのでしょう。正直な本音の告白こそが、共感に満ちた聖書の宝なのです。
 
人間の悩み苦しみの本音が表されていなければ、楽山やシャロームのような世辞付き合いしか出来ない偽善カルトの宗教に過ぎないのです。本音の告白があり、考えさせるところが、聖書の持つダイレクトでダイナミックな深みなのです。
 
いつも讃美で溢れているわけではないのが、生きる人間のための聖書です。それを上回るだけの共感と癒しと慰めと救いがあるからです。楽山やシャロームのような異常人格は、それが分からないものだから、ここぞとばかり、いちゃもんだけを吐き出してくるのです。実に不潔です。
 
本音もクソも分からなくなっている楽山と、その仲間の、白々しい嘘っぱちの讃美、讃美、讃美、そして酸味ばかりの、精神詐欺師で偽牧師シャロームの記事のようなものは、その吐物の臭気に、さらに吐き気を催すだけで、救いどころか、腐って漬物にもなりません。
 
楽山やシャロームなどの偽善者は、躓(つまず)いたら、石に、道に、道路作った人に、道路のある街に、文句を言う者たちです。そのくせ、彼らは、好きなだけ、道に唾を吐いて、人に嘘を吐いて、人を躓かせるのです。
 
分からないなら、分からないことについて偉そうに書くべきではない、ということを弁えず、文字通りに受け取って、洞察もなく、根拠もなく、キリスト教を否定してくるから、楽山の、単細胞の無理解は、迫害と言ってもよいほど、総てのキリスト者の敵となるのです。
 
次の詩篇の聖句を唱えることのできる人は、そんなに多くないと思います。
 
 (詩篇23:4、口語訳)
たといわたしは死の陰の谷を歩むとも、
わざわいを恐れません。
あなたがわたしと共におられるからです。
あなたのむちと、あなたのつえはわたしを慰めます。
 (詩篇23:4、旧約聖書)
 
聖書と信仰によれば、神の戒めと懲らしめの、鞭(むち)は鞭だけではないことがあり、不幸は不幸だけではないことがある、杖の助けともなる、ということなのですが、その一番大事なところを、共感力と反省力が皆無の楽山やシャロームは理解していないのです。
 
どうしようもない悲劇があるからと神を否定するのではなく、どうしようもない悲劇があるからこそ、神を必要とするのです。人は、信仰によって、神と、正直な本音の付き合いをするのです。
 
楽山やシャロームの口車に乗ることの、決して、ないように、さらに、その前に、彼ら病原に、決して接近しないように、祈っています。拝。
 
 
 
楽山とシャロームなどの自己愛者は、いつも正しく、威勢の良いのが信仰だと思っているようです。その分、高慢になり、厚顔になり、傲慢になります。
 
例えば、精神的に健康で、謙譲の心を持っている人は、批判されると、しゅんとなって、書くことをやめて考えるでしょう。それ以前に、気の弱い人は、元々、楽山やシャロームのような厚かましい書き方はしません。
 
批判されて、どういうことかと尋ねてくるのは正常です。反論か弁明をするのも正常です。しかし、批判されても、何も答えないで、反論も弁明も出来ないまま、嫌がらせのように同じ否定の悪口を書いてくるだけなのが、楽山とシャロームです。
 
このような者たちは、決して、真面目に書こうなどとは思っていないと思います。遠回しであってもなくても、とても、いやらしい根性の持ち主です。だから、以前は説明もしましたが、受け取り方も主張も固定していて、まるで話にならないので、今は、直接の遣り取り~交流はしません。
 
そういう者たちが、知ったかぶりで、キリスト教とキリスト信仰を、説教~攻撃してくるならば、信仰者の務めとして、できる人が率先して、たとい悪と呼ばれても、こちらの言い分だけでなく、相手の外れ方も書かなければなりません。
 
 
信仰の叫び「

信仰の叫び
 
 
(2020年)(2021年)
(2022年06月16日、再録+加筆)
 
 
 
  絆
 
自らの信仰を暴き
すなわち十字架を倒し
墓を掘り起こし
死地を招き
振り返ったものすべてを否定し
背教の命題と
血の反証を繰り返し
繰り返し
我に問い
かかる実験の後にも
否むことのできない想い
拒むことのできない絆
それだけを
信仰と呼ぶ
 
 
  叫び
 
叫びがある
叫びになりたい
 
命ある人ではなく
命になりたい
夢見る人ではなく
夢になりたい
歌う人ではなく
歌になりたい
 
何を見つめたらいい
 
無意味な人ではなく
無意味になりたい
死ぬ人ではなく
死になりたい
 
叫びがある
叫びになりたい
 
 
  ウソの国
 
男は登っていく
深夜の階段を
息せき切って走っていく
走らねばならないのだ
走らねばならない
遅れてはならない
遅れてはならない
 
遅れた
男は人前に連れ出され
何人もの男から
したたか腹を殴られたが
痛みはなかった
 
夕暮れの街を歩いていく
人々は夕闇と過去に追われながら
すでに死んだ油の眼で
われにもない毒の顔をさらして
ネオンの間から間へ
苦しい巡礼を始める
あぁ この七色の 肉色の
光のおりが天国とは
拳を握りしめて
「何もない」
「何もない」と
壁に向かって叫び続ける男
誰もいない街角に向かって
手を振り続ける女
眼を振り続ける人々
通り過ぎる車が
水たまりをはねて
尻が濡れた
時が引き裂かれた
青春と人情の墓場から抜け出し
人通りの少ない路地で
恋人に声をかける
お茶でも?
あいされたいわ たれからも
 
吐物をまき散らしながら
男は逃げる
転びそうになりながら
 
幾分か小高い丘に
塀のある幼稚園があった
数人の子供が砂場で遊んでいる
ジャングルジムがある
子供たちが登れるようになると
外が見えるようになるわけだ
 
男は登ってみる
もう吐き気はしない
尻のあたりの濡れた感触もない
男はようやく安んじて眺めている
人っ子一人いない街の風景を
 
あたりはもうすっかり明るい
 
 
  椅子(いす)
 
他人(ひと)の作ってくれた椅子に
腰掛けていると
誰かが笑いながら声をかけてくる
立ち上がり
椅子を打ち壊す
人は驚いていなくなり
誰もいなくなった
扉をあけ
扉を閉めた
長い廊下がつづいた
長い廊下が続いた
 
長い廊下の終わりには
錆びた扉がしまっていた
外では何やら
がやがやと音が聞こえた
戻ろうか と思っていると
誰かが笑いながら声をかけてくる
あわてて扉をこじあけた
するとまたたく間に
彼をとらえた光の中に
彼はいなくなり
誰もいなくなった
 
彼のを行方を
たずねてはならない
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
楽山は、詩篇も、聖書も、あらゆる本も、身勝手な自己愛からしか読んでいません。そこに、自尊過大からの他者無視という、お山の大将的な訂正不能の傲慢があります。ゆえに、平気で、大いなるものに対しても不平不満の果てに否定してしまうところの、無知と無恥の堕落した蟻地獄があるのです。
 
 
 
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  後悔しない楽山2
 
 後悔しない生き方(『聖フランシスコ・ザビエル全書簡1』)
 2021年06月13日 楽山日記(LD)
 
 
楽山に見られるところの、わざとらしさ、うさんくささに気づいてほしいと思う記事です。
 
 
ザビエルの書簡集をつまみ読みしていたら、川で溺れて九死に一生を得た男の話が紹介されていた。この男は救けられたあとで、水中で死を覚悟したときをふりかえって「生きているあいだ中、自分が死ぬための準備を何もしていなかったこと」、修道院に入りたいと思いつつも「何も実行していないこと」の二つを後悔したといっていたという。ザビエルはこの話を次のようにまとめている。
私は友人や知人が、善い考えや主なる神に奉仕したいとの望みを抱きながら、実行に移す時を延ばしていると、いざ行おうとする時には、時間も機会もなくなってしまうのではないかと、気の毒に思っています。
(『聖フランシスコ・ザビエル全書簡1』河野純徳訳、平凡社〈東洋文庫579〉、1994年、pp.62-63)
 」
これは出来すぎた話のようにも思えるが、この教訓はまったくその通りではあるし、それだけに耳に痛い言葉だ。自分は昔から怠け者の面倒くさがり屋で、何でも先延ばしにして、せっぱつまってから慌ててはじめるという風なので…。
 
「耳に痛い言葉」「昔から怠け者の面倒くさがり屋」という卑下が白々しいのです。「せっぱつまってから慌ててはじめる」・・何を始めるというのでしょう。知りもしないキリスト教と信仰を、浅知恵で決めつけて否定するだけです。何も始まっていません。
 
歴史的に有名な人物の書いた書簡を、「つまみ食い」するのだそうです。恐らく、聖書も、他の書籍も、いかなる有名人の名言も、同様だったのでしょう。だから、おつまみ程度に、いい加減な記事を、趣味的に書いてきたのでしょう。書くべき必然が、どこにもありません。
 
楽山は、「いざ行おうとする時には、時間も機会もなくなってしまう」というザビエルの言葉を受けて、同情を誘いたいのでしょうか。しかし、「耳に痛い言葉」「反省。」「自分は昔から怠け者の面倒くさがり屋」「せっぱつまってから慌ててはじめる」は、大嘘です。
 
楽山は、「反省、とほほ」と書いたことがありますが、その前後で、全く変わりなく、今に至るまで、ずっと、自己中の、偏向した記事でした。自分を見ることが出来ないのです。また、楽山は、他者の言うことを、世辞以外、すべてと言ってよいほど、無視してきました。何も変わっていないのです。
 
したがって、他者の言葉が、「耳に痛い」こともないのだろうと思います。平気で、無視して、平気で、同じようなことを繰り返し書いてくるのです。人間として大切な反省をせず、責任を負わないのですから、「面倒くさがり屋」ではなく、邪悪で、怠慢で、学習意欲がないのだと思います。
 
都合の悪いことを平気で無視するので「せっぱつまってから慌ててはじめる」のではありません。あわてて訂正や反省を書いた記事があるはずですが、全く見られません。前に、アドラー教の、気に入らないことは無視しましょう、という信条?を書いて宣伝して、そのまま実行しているのでしょう。
 
このように、楽山の軽々しい芝居は、うさんくさくて、嘘だと分かる人もいるでしょう。楽山というHNを見たら、あるいは、話に出てきたら、嘘吐きだと教えてあげてほしいと思います。この2年間、いいほうには何も変わっていません。
 
今になっても、こういう白々しいことを書いてくるところを見ると、やはり、原因は、元々訂正不能の自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)だと思います。平気で、嘘を吐くのです。それに引っかかって、「やさしいお人柄ですね」というコメントが付いたこともあります。あくどい。
 
今でも、そういう嘘が通用すると思っているのです。知性・感性・洞察力・共感力は、自己中によって鈍麻しています。だから、また同じことを言えるのでしょう。ふつうなら、察しが付くところを、気づかない哀れな人です。それにしても、よくも、また、白々しいことを書いてくるものです。
 
 
こういうところは本気でなおさなければならないなと思う。
 
ですから、これも、嘘です。この2年余り、楽山の本気は、自分を改善する方向に向いたことはありません。楽山に、本気はないと思います。「なおさなければならないと思う」も嘘です。前から書いてきた自己愛性人格障害によって、楽山は、自分を直す必要を感じないからです。
 
直す気があるなら、とっくに、反省して、この記事のような言葉面だけでなく、記事の内容に、はっとさせる何らかの変化があるはずです。何もないとしか言いようがありません。はっきり言って、こういうことを言うときの楽山は、笑っていると思います。嘘が上手いつもりでいるのです。
 
ただ、だんだん、白々しさが増しているようです。人格破壊が、また、進んだのかもしれません。少しずつ、内面に比例した、下手くそを、否応なしに出してしまう、という傾向はあるでしょう。嘘の理路、自己中の辻褄合わせは、いずれ、無理を生じることが考えられるからです。
 
 
 
 楽山のツイッターですが
 
心機一転★こも楽山
@komo266
ナタリー・ポートマン守護霊の霊言では、その美しさを強調しているが、
本人は、見た目で判断することに思い切りダメ出ししとるじゃないかい。
・ナタリー・ポートマン、女性を見た目で評価する軽薄な価値観を批判
午前7:07 · 2021年6月13日·Twitter Web App
心機一転★こも楽山
@komo266
「宗教者よりも、あの世を信じない唯物論者の方が倫理的なことが多い」という話があるが、これもその例か。
午前7:11 · 2021年6月13日·Twitter Web App
 
何も信じておらず、人を惑わし傷つけるだけで、無反省・無責任の、反倫理・反キリストが、楽山です。今日も、霊言とばかり、知ったかぶりで、女優のことを言っています。こういうゴシップと、宗教・信仰とを、同じオモチャ扱いで、雑に、批評する軽々しさが、楽山の特徴です。
 
「宗教者よりも、あの世を信じない唯物論者の方が倫理的なことが多い」などという決めつけは、反キリストならではの暴言です。キリスト教の悪口だけは忘れないようです。好きなだけ、ゴミをばらまいて、自己満悦の散歩でしょう。日課のように公共を荒らしています。それしか出来ない人です。
 
今まで、理路は好きなように捻じ曲げ、知識は小学生レベルの拙劣な理解、共感の深みは皆無であり、我執だけが強く、芸能・作家・宗教家・学者など、遠慮もなく勝手に引用して、同じ悪口を、繰り返し言ってきます。真面目な態度が皆無で、様々に言っても、結局、偏向した揶揄の域を出ません。
 
楽山は、何気なく書いているつもりでも、揶揄しか出来ない体質は表れてしまいます。自己愛性人格障害の因業だと思います。それを隠そうとする欲動と、自慢しようという欲動によって、楽山は、だんだん、曇りガラスのような、正直も本音も見えない人になってきたのでしょう。
 
楽山は、今まで、我執と怨念によって、同じことを繰り返し書いたり、思いつきを書いたり、安定しない、いい加減さを、表してきました。それもこれも、一切、責任を負わないし、負えるだけの芯を持っていないことを如実に物語っているのです。
 
※ 
 
こういう楽山のような人は、書いてくる文章を観察し、筆致を、つまり、書き癖のようなものを、できるだけ読み取ってゆくしかありません。したがって、継続的に、経時的に、今まで3年間余り、そして、これからも、楽山の記事を、読み続け、批判してゆく必要があるのです。
 
楽山の体質は、人の言うことを無視して平気でいることです。それを利用して、鈍麻した警戒心と散漫な注意力のために平気で書いてくる記事が、資料となりうるのです。楽山には、バレるから書かないでおこう、という選択肢が想起されないのだろうと思います。白々しさに気づかないからです。
 
 
偽善者は笑う

偽善者は笑う
 
 
(2021年06月14日)
(2022年06月15日、再録+加筆)
 
 
 
  惑いの台詞
 
わかっているさ
 が
 繙(ひもと)こうとしているのは
解けない帙(ちつ)の夥(おびただ)しい中味
 
勝手だろ
 が
 映し出す姿は
儘(まま)ならぬこの世の物事に
圧倒されている詰めの甘い自分
 
ほっといてくれ
 が
 教えることは
ほっとかれて為し得る事の乏しさ
 
詰まるところの惑い
 
まだ団居(まどい)を求めているか
中身のある談笑を信じたいか
 
 
ちつ【×帙】 の解説
[名]書物の損傷を防ぐために包む覆い。厚紙を芯 (しん) とし、表に布をはって作る。文巻 (ふまき) 。文包 (ふみづつみ) 。
[接尾]助数詞。帙入りの本を数えるのに用いる。「和本三―」
https://dictionary.goo.ne.jp/word/%E5%B8%99/
 
 
  わからないと
 
わからないと
なぜ言えない
まずいものを無理やり飲み込んで
頭のどこかから笑みをとってつけて
力み続けるつもりか
飲み込んだのは食べ物だったと
なぜなら飲み込んだから
という理由しかないのに
 
わからないと
なぜ言えない
辻褄を合わせて硬直した顔は
喉に引っかかった異物のために
すでに歪んでいるのに
誰にも文句を言わせないと
ここからは通さないと
道を塞ぐとき
食道も塞がってしまうのだ
 
わからないと
なぜ言えない
絶対に耐えられるのか
本当にわかっているなら
わかっているという顔をして言ってくれ
 
 
  すごい団欒
 
「じゃあ」と手を上げて
別れたあとも門の前で
頭をかきながら、うろうろしている
恋人を置き去りにして
 
娘は茶の間に飛び込んできた
「すっごい面白かったよ」
「すごい」を連発している
娘の一日の話に
「すごい」を連発している
息子たちを見ながら
 
母さんは終始
微笑んでお茶を飲んでいた
父さんは
すごさがわからなくて当惑した
じいさんは、この家が
荒れ果てていくように思えて悲しんだ
 
隣の部屋に寝ていた
ひいじいさんは
ひ孫は外国語が上手になったのだと
安心して昇天していった
四世代にわたる
すごい夜の団欒である
 
 
 
 楽山のツイッター追加ですが
 
心機一転★こも楽山
@komo266
HSの場合、
「神に従順であれ」というのは、
「大川隆法に従順であれ」という意味になってしまうからね。
大川隆法の教えに、異論を述べたり、従わなかったりすると、
「従順でない」「自己中だ」と叱られてしまう…これはもう話にならん(笑)
午後7:20 · 2021年6月13日·Twitter Web App
 
楽山は、いかなる不正も批判する資格はありません。楽山はアンチではありません。楽山は、自己愛性人格障害です。他者を揶揄して遊んでいるだけです。だから今日も「((笑))」と書いて結んでいるのです。軽薄で、表面的であり、真摯さ、真剣味が、何もない人です。
 
自己中の楽山を鵜呑みにすると、人格を破壊されます。人を誘導して、だますような、楽山に従順であってはいけません。自分の害悪に気づけない病気の体質なのです。悔いることも改めることも反省することも責任を負うことも出来ない人ですから、近づかないでください。
 
楽山は、いつも正しく中立な自分に従えと言いたいのです。サイコパスでサディストで、他者を下に見て、学者気取りで教えたがるのは、カルト教祖気取りの人格です。ゆえに、双方向が成り立ちません。一見、まともなことを言っているように見せかけている分、いちばん悪性度が高いのです。
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
罪悪感がなければ、悔いることがなく、ならば、学んで成長することもないのでしょう。上から眺めては、善悪や正邪の判断を、自分で決めつけてきますが、自分については、決して非を認めることがないのです。上に、反省は難しいと書いていますが、ふざけて「反省。とほほ」と、何度も書いてきました。
 
反省と書けば、反省したことになるのでしょうか、否です。反省したならば、その前と後で、違ってきて当然です。実際は、何の変化もありません。さらに「とほほ」は、反省するときに書かないでしょう。反省と書いたから、ええじゃろ・・と嘲笑っているのです。ふざけているのです。
 
 
 
 
無神教カルトにけしかけられて、神の存在の証拠を巡って論争するのは愚の骨頂です。証拠があれば、信じる必要はないのです。さらに分かりやすい証拠をもって存在する神は、キリストが表し、信仰者が信じる神ではありません。
 
全知全能・絶対完全・永遠不変の神は、不完全な人間に、ご自身を容易く表し理解させるような安い神ではないからです。
 
 
 
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  宗教を語る軽口2
 
   「信仰は母性?」再録+
    「没後10年 遠藤周作と〈母なる神〉」加藤宗哉
 
   楽山日記(仮・倉庫)2019-10-1
    を改めて批判。
 
 
過去記事の再録+です。楽山は、性懲りもなく、前に書いた記事を、批判に答えたことは一度もないくせに、また載せてきます。改めて批判せざるを得ませんが、楽山の、こういう習癖は、自画自賛で、人の言うことを聞かないナルシシストの特徴のようです。
 
言い張って、言い張ることだけで、満悦するのでしょう。シャロームに体質が酷似しているので、成りすましを疑っています。いわば、楽山は、キリスト教とキリスト信仰をレイプしているようなものです。
 
『宗教と現代がわかる本 2007』(渡邊直樹責任編集)を眺めていたら、遠藤周作についての文章があったので読んでみた。江藤淳が『沈黙』に描かれたキリストについて、母性的な面が強調されて日本の母親のような存在に描かれていることを指摘したという話は知っていたけれど、「元来、キリスト教は〈父なる神〉と〈母なる神〉の両面をあわせもつ宗教だが、日本へは前者の面だけが強調される形で伝達された」という見方は知らなかった。
 
キリスト教を「〈父なる神〉と〈母なる神〉の両面をあわせもつ宗教だが」と説明する短絡が、楽山の高慢なナルシシズムの特徴でしょう。父性だ、母性だ、あわせもつ、いずれとも、人は、神と違って不完全なのだから、決めつけてはいけないことです。
 
外からやって来て、信仰者でもないのにクリスチャン芝居をして、一方では、キリスト教とキリスト信仰を、自尊の分かってるつもりの思い上がりの軸から、猥雑な文章で、軽しめて、おとしめることを止めない。逆にそれが、信仰者ではない証拠となっているのが現状です。
 
いわば、楽山は、キリスト教とキリスト信仰をレイプしているようなものです。神を、父性とも、母性とも、決められる人間はいません。ましてや、キリスト信仰を、まるで、オモチャにしているような楽山に、言えることなど何もないのです。
 
在って在るもの、すなわち、神を、楽山は、まるで、何か物ででもあるかのように軽く決めつけて済ませたいようです。楽山は、キリスト教についてもキリスト信仰についても、今までの経過から、何も知らない者です。無知で、それでも語ろうとする無恥なのです。
 
でも考えてみれば、キリスト教にはその両面があるというのはその通りのように思える。ただ日本ではマリア観音というものもあったというし、父なる神という「面だけが強調され」たというわけでもないようにも思うがどうなんだろう。
 
「考えてみれば」・・楽山は、キリスト教について、何も考えていないと思います。まるで、思いつきのような軽口だけで語ってきた楽山です。そして、ここでその根拠と言ったら、マリア観音なのです。楽山という思想家気取りは、軽く軽く、仏教まで軽口の巻き添えにするつもりでしょうか。
 
それはさておき、上の考え方からすると遠藤周作の語るキリストは必ずしも否定されないということになりそうではある。自分は遠藤周作のキリストに共感するところがあるのだが、それは遠藤周作によって日本人に合うように仕立て直しされたキリスト教であるからある意味当然であり、そういうキリストに共感したとしても実際のキリスト教のキリストを知ったことにはならないだろうし、遠藤周作のキリスト像を批判するクリスチャンからしたら遠藤周作のキリストに共感することはむしろキリストから遠ざかることにさえなりそうだと思ったりもしていたのではあるが、これはそれほど気にしなくてもよいということになるのかもしれぬ。
 
さておくのだそうです。なのに、図々しく、「遠藤周作の語るキリストは必ずしも否定されない」という部分肯定ですが、何も信じていない楽山は、その否定肯定を、どのように、考えたのでしょう。楽山の学者気取りの書き方には、理路も根拠もありません。
 
そして、遠藤周作が、キリスト教を日本人に合うように仕立て直した、みたいなことを言っています。これは、同氏に対する侮辱になるでしょう。楽山は、いかなる納得にも至らない、妄想的先入観しか持っていないのに、批判を無視して、くどくどと信仰を語り続けています。
 
「遠藤周作のキリスト像を批判するクリスチャンからしたら遠藤周作のキリストに共感することはむしろキリストから遠ざかることにさえなりそうだと・・・それほど気にしなくてもよい・・かもしれぬ」・・この気持ち悪い婉曲の筆致は。当たり障りが嫌なら、書くなということです。
 
こういう筆致では、反論しても、暖簾に腕押し、という感じで、答えることも今までなかったわけだし、楽山の文章は、何も得るものがなく、気取りだけの、しみったれた文章になり、実に、思考と読書の意欲を減退させるものだと思います。感動とは正反対の、まがい物の災いです。
 
また著者によれば、『日本人と母 文化としての母の観念についての研究』(山村賢明著)では、母親は「つねに、堪え忍び、あるいは家族に尽くす存在であり、子供の側から見れば〈受難者〉といった感じが強い」とされているとしており、それは「母親はあれほど苦労したのに自分は何もしてやれなかったという罪悪感」にもつながり、その辺りのことはキリストへの気持ちと、母親への気持ちは重なり得るのではないかとのことである。
 
人間の母性について、本を読んだからと、そこから、神の性別を語ろうとするのは、浅薄で愚かであり、ましてや、信じてもいないのだから、まるで深みがなく、読んでみても、時間を奪い、疲労させるだけであり、迷惑以外の何物でもないのです。楽山は、自己顕示欲の亡者のように思われます。
 
これは少し分かるようにも思う。母親へのすまないという気持ちは何らの前提なしに分かるし、キリストの場合もその教義から想像すれば自分のせいで罪無くして裁かれたとも言えるようであるし、いたたまれない心地はするので。
 
まるで聖書が分かっていない人の書き方と考え方です。聖書の目的は、母親へのすまない、でしょうか。何を考えているのでしょう。親子の情は、むしろ、キリストの使命からすれば、はっきり分離するべきことだと思います。著しく的を外して、ゴシップを語る楽山です。
 
 (マタイによる福音書、口語訳)
12:46
イエスがまだ群衆に話しておられるとき、その母と兄弟たちとが、イエスに話そうと思って外に立っていた。
12:47
それで、ある人がイエスに言った、「ごらんなさい。あなたの母上と兄弟がたが、あなたに話そうと思って、外に立っておられます」。
12:48-50
イエスは知らせてくれた者に答えて言われた、「わたしの母とは、だれのことか。わたしの兄弟とは、だれのことか」。そして、弟子たちの方に手をさし伸べて言われた、「ごらんなさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。天にいますわたしの父のみこころを行う者はだれでも、わたしの兄弟、また姉妹、また母なのである」。
 (マタイ12:46-50、新約聖書)
 
キリストは、個人的な親兄弟と、信仰の親兄弟は、はっきり分けていたのですし、そのことが必要な立場だったのです。全く、楽山の貧弱な話には、あきれることばかりです。楽山は、何か、母親への須磨に気持ちでもあるのでしょうか。およそ、誰にも、すまないとは思わない楽山ですが。
 
さらに著者は、遠藤周作のキリストは無力な同伴者であって「奇跡は何も起こせず、無力だが、ただ黙って傍らに寄り添う」存在としており、これには「無力だがすべてを赦し、じっと子供を抱きしめる母親の姿がかさなる」としている。
 
楽山の本音として、キリストを、奇跡も起こせない無力へと、おとしめたいのでしょう。そして、キリストを何か、犠牲になった人として、母親的な、やさしい慈愛の人を持ち出して、か弱い無力なキリストとキリスト教にしたいのでしょう。
 
全く、楽山は、人間の不完全や罪の性質を真剣に考えようともせず、史実を解明したかのような思い上がりから、信仰を好きなだけ捻じ曲げてゆく意図があるのでしょう。自己愛性人格障害は、分かっているという前提しか持っていない、という表れでしょう。
 
楽山の書いたものを、私が読むのは、参考としてではなく、どれほど、楽山が、いい加減な文章を書く人であるかという情報を、広く知らせ拡散したい、ということ以上の目的はありません。
 
ここも分かるように思う。自分はここから連想するのはミケランジェロのピエタだけども、こうしてみるとたしかにキリストと母親の姿は重なるようではある。でもそうすると自分としては、ピエタをじっと見ているとだんだんにキリストと母親(マリア様)が重なり、母性の権化のようなマリア様こそがキリストそのものという感じがしてきて、無意識のうちに祈るときにはキリストにではなく、マリア様に向けて祈りたい心持ちになってしまうのだから我ながらおかしなものではある。
 
(ネットより)
ピエタ(イタリア語:Pietà、哀れみ・慈悲などの意)とは、聖母子像のうち、死んで十字架から降ろされたキリストを抱く母マリア(聖母マリア)の彫刻や絵の事を指す[1]。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%94%E3%82%A8%E3%82%BF
 
キリストは救い主、マリアは聖母ですが、楽山は、キリスト信仰を捻じ曲げるために、共感を装って、マリアがキリストで、祈りたいなどと言っています。こういう楽山には、表面的な意味を読むのではなく、今までの嘘と詭弁という偽善を前提としなければいけません。
 
今までの経過も合わせると、楽山は、浅はかな感傷で鑑賞する態度しか持ち合わせていないと思います。それで、このような祈りという言葉をか書いてくるのは、信仰を、真剣に考えるということをバカにしている者の態度であり、神を知らず、キリストを知らない者だということです。
 
まるで、かっこつけるみたいに、キリスト教文化を知っているかのように語る態度と、さらに、恐れを知らずにズカズカと信仰の話を突き付けてくる無思慮と無分別は、信仰者でないのはもちろんのこと、求道者でもないことを示しています。
 
楽山は、結論だけで、求める道などはないのです。キリスト教文化をネタに自己顕示したいだけだとバレてしまうのです。実に、傍迷惑な部外者、そして、宗教を上から見て味見したかのような見かけ倒しのインテリ気取りと言ってよいでしょう。
 
三浦綾子は、「祈る対象は、この世を造り給うた全能の神でなければならない」(「天の梯子」第一章祈りの姿)ときっぱり言い切っているし、理屈から言えば、キリスト教ではそれが正しいのだろうとは思うのだけども、自分の場合は根が多神教体質にできているせいかどうか祈ろうとするときには、全能の神とキリストはもちろん、マリア様を心に描き、そこに向けて祈ってしまいもするし、むしろそれこそが一番自然な流れだったりもするわけであり、もしそれを変えようとするならば自分の意志の力で自分の中の自然な流れに逆らおうと始終力んでいなければならなくなり、そういう状態は到底長続きさせることは無理なのだからしょうがない。こうしてみるとやはり外国の宗教を理解し、実感として分かるようになり、元から自分の中にあったもののように馴染み切るというのは本当に難しいものだと思う。
 
楽山は「キリスト教ではそれが正しいのだろうとは思うのだけども」と言いながら、「自分の場合は根が多神教体質にできているせいか」などとネチネチ書くのです。キリスト教と多神教は、両立することはありません。楽山の読書は、物見遊山と、ひやかしの社寺参拝のようなものです。
 
つまり、楽山は、茶化しているかのように、不真面目に宗教を捉えて、どうでもいいキリスト教へと誘導してゆく企みの偽善者なのです。さらに楽山は「全能の神とキリストはもちろん、マリア様を心に描き、そこに向けて祈ってしまいもする」と言っています。
 
キリスト教を婉曲的に否定しておきながら、かつ、多神教体質と言いながら、神聖に対して祈る、などと言うことが成り立つこともないのです。嘘っぱちであること明らかです。こういうところから、楽山の悪意が明らかになってきました。
 
悪意をもって、キリスト教を揶揄する者は、キリスト信仰の節操も何もお構いなく、まともを装って、刷り込んでくるようです。楽山は悪意の宗教家気取りそして批評家気取りとしか言えません。さらに、人の言うことには、何一つ答えることの出来ない劣悪の卑怯者なのです。
 
さらに、酷い詭弁として、楽山は「変えようとするならば自分の意志の力で自分の中の自然な流れに逆らおうと始終力んでいなければならなくなり」と言って、人間が変わることが、始終力んでいることだと言っています。
 
これこそ、宗教も信仰も、まるで分かっていない者の言であり、いい加減な思考で、宗教をもてあそんでいる自己中の力みであります。信仰には、力みは、在りません。なんて、いい加減で、悪意に満ちた低劣な心得で、冒涜の悪意の反キリストの限りを尽くそうとしていることでしょう。
 
今まで、批判されてきたにもかかわらず、それを無視して、受け取ることなく、反論も弁明も出来ないまま、また、同じ記事を出してくることからは、自己顕示欲と意地で、自説を通そうと言う執拗なキリスト信仰への破壊活動としか受け取れないものであります。
 
 
神の性別は、誰も確定できるものではありません。いくら論じても結論は出ませんから、個人によって、イメージにも若干の差は出てくるでしょう。そして、信仰者は、そのことも神はご存知だと、考えるべきでしょう。
 
楽山は、聖書から何も読み取っていません。だから、本を読んだ、批判するなら本を読んでからせよ、などという煩わしいクレームをつけてきたりしますが、読書自慢の自己顕示に過ぎません。聖書を学んでいない者が、学ぼうとさえしないのが楽山です。
 
楽山が、学者や小説家の書いたキリスト教の本を、いくら読んでも、川に落としたティッシュの行方を、ああでもないこうでもないと考えるようなものです。体験も思考も感性も浅すぎる中学生が、自慢したいがために、高慢で軽率な能天気で、ゲームをしているようなものにしかなりません。
 
キリストとマリアの関係においては、マリアの神への従順と、キリストの人間への共感と愛が、父なる神による救いにつながる神の計画の主軸となっています。マリアも、そして誰よりも、キリストも、溢れるばかりの温かい人間性を持っていました。
 
救い主キリストについてはもちろん、マリアについても、大事なことは、私たちに何を与えたかであります。そのことに全く感受できない者が、父性だ母性だとか、無力だとか、自分の生い立ちを悩むことなく、拙劣な文章に書いてくるのは、退屈を超えて、迷惑を超えて、有害なのです。
 
以上のように、信じる気もない者が、なんだか評論家気取りで、読書自慢のために、言葉と理屈と浅い情緒で、知ったかぶりをして賢者を装うのは、見苦しいかぎりです。バレてもバレても、続ける楽山の精神病理が明らかになるだけだと思います。
 
神について、父性か母性かという印象は、信仰者によっては、あって不思議はありませんが、全知全能・絶対完全・永遠不変という神の性質は、性別を、はるかに超えていると言わざるを得ないのです。楽山は、人物を考えるのと同じように神を考える傲慢不遜を表しているに過ぎません。
 
 
神の性別を語る愚

神の性別を語る愚
 
 
(2019年12月15日)
(2021年12月17日、再録+)
 
 
 
  キリストの神格と人格
 
父・子・御霊(みたま)の三位一体でも
神が遣わされた神の子でも
いいのです所詮は聖書の解釈に過ぎず
全知全能の神は
全知でも全能でもない人によって
規定されるようなお方ではないのです
 
キリストは人か神か
キリストの神格を否定はしません
しかし
キリストが救いを人に述べ伝えるとき
神のレベルで話して人に伝わるでしょうか
神性は人間性から見ると
しばしば理不尽でさえあるのです
 
人間に理解できるキリストは
あくまで人間のレベルで
語りかけてくださるキリストです
神格が人格の低みに
身を下ろしてくださったとき
キリストはメシア以上の
イエス・キリストとなられました
 
 
  母を見るとき
 
車のハンドルを握りながら
実家から遠く離れた町で
知っている人など誰もいない街角の
歩道を行く高齢の女性に
母の後ろ姿を見てしまうとき
ひととき失われる場所と時間は
母の曲がった背中のように
あまりにも脆(もろ)く
儚(はかな)く過ぎて
あとには彼方(かなた)に残したまま
見捨ててきたかのような
小さな水たまりが揺らいでいる
 
 
  肉体
 
目覚めると顔に
ゴムのような棒が触れる
左手で掴(つか)み上げると
紛れもなく右腕だ
運動も感覚も麻痺している
しばらく伸ばしておけば回復するのだが
腕枕・寝返り・捻れ・圧迫?
よほど脆弱らしい神経
よほど相性が悪いらしい
骨格と神経
脆弱なのに
相性が悪いのに
長いこと世話になっている
肉体は今も
髪も髭(ひげ)も爪も
伸びては切り
伸びては切り
伸び切った
と切れかかるものを受け止める
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら 誤ったら 素直に詫びて 自分 正さなくちゃいけない」「それが出来て 初めて人間だと それ出来ないなら 人ではないと」「嘘ばかり 重ねる君よ 保身だけの 卑怯者の君よ そんな君は 魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと 最大限の反省と共に 開いた出店を 畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
「人間の性」という人間共通のものではなく、楽山は、自己愛性人格障害による欠陥からの罪と偽善です。楽山の存在は、「自分もそんな風」ではなく、反省せず、学習せず、成長しないゆえに、楽山に起こっている特殊な、自他を傷つけるところの、残酷な災いであります。
 
楽山は、こういうときの常套手段として、芸能などのお気楽リツイートを重ねて、ごまかしています。楽山には、まともな信仰も思想もありません。快楽原則と、教祖願望だけで、地上を渡ってきた、これからも続けるつもりでしょう。
 
 
箴言5章、旧約聖書
人の歩む道は主の御目の前にある。
その道を主はすべて計っておられる。
主に逆らう者は自分の悪の罠にかかり
自分の罪の綱が彼を捕える。
諭しを受け入れることもなく
重なる愚行に狂ったまま、死ぬであろう。
 
 (箴言、口語訳)
5:21
人の道は主の目の前にあり、
主はすべて、その行いを見守られる。
5:22
悪しき者は自分のとがに捕えられ、
自分の罪のなわにつながれる。
5:23
彼は、教訓がないために死に、
その愚かさの大きいことによって滅びる。
 (箴言5:21-23、旧約聖書)
 
 
 
 楽山と思われる "taka" のツイッターですが
 
taka
@taka84156681
ありがとう警察、さようなら平塚正幸、そして国民主権党
#平塚正幸
引用ツイート
前橋ゆり 国民主権党
@yukun102030
 · 14時間
逮捕されそう...
 」
平塚正幸(@c:hiratsukamasayuki)さんのキャス https://twitcasting.tv/c:hiratsukamasayuki/movie/713553453
 」
午前8:57 · 2021年12月16日·Twitter for Android
 
楽山は、既に問題やトラブル山積の人と集団よりも、今は潜伏して正義の評論家気取りで、丁寧語で語る分だけ、本性において、偽善であり、ペテン師であり、自己愛性人格障害であり、凶悪であります。「さようなら」楽山と言える日が、一日も早く来ること望みます。
 
 
 
私の「ウソの国ー詩と宗教」ブログ:
 
(古い記事は載っていません)
 
http://st5402jp.livedoor.blog/
(古い記事もインポート済み)
 
https://blogs.yahoo.co.jp/st5402jp
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