ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

タグ:無神教

 
  楽山の正当化の詭弁
 
 尊い信仰とは? (榎本保郎『旧約聖書一日一章』)
 2013年02月16日 楽山日記(LD)
 
 
楽山が、愛について、信仰について、一生懸命について、さらに、自己責任について、述べていますが、大方、自分を正当化するための詭弁に過ぎません。今まで3年余りの経過から、楽山に人を教える資格はありません。楽山は、反省しない自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)です。
 
尊いのは愛によって働く信仰だけである。
(榎本保郎『旧約聖書一日一章』主婦の友社、昭和62年、p.190)
 」
著者はただ信仰が尊いとしているのではなくて、愛によって働く信仰だけが尊いと強調しているのが印象的だ。そして著者はその愛のあり方を次のように書いている。 
 
楽山は、病質のために、愛や共感といった高等感情を持ちません。文章に表れたことがないからです。代わりに、言葉だけを振り回してきます。2013年頃から続いていることが分かります。
 
私たちは、強い者が弱い者の弱さをになうことにおいて、すなわち愛において連帯に生きることがすすめられている。
(同上、p.190))
 」
これは自分にとって耳に痛い言葉だ。自分はかつて、ある宗教教団(幸福の科学)に所属しているとき、弱い者の弱さをになうことをしていなかった。弱い者いじめがあっても、それをいじめとわからなかったり、傍観者になってしまっていた。ここは今思い出しても心苦しい。反省しないと……。
 
楽山は「弱い者の弱さを」あざ笑い、だまし、操るペテン師です。つまり、根拠のない病質的優越の自覚から、弱い者いじめをして悦ぶ人格障害者です。丁寧語にだまされないでください。「心苦しい。反省しないと」・・嘘です。9年後の2022年、楽山は、何も変わっていないことが証拠です。
 
 
 
 一生懸命に頑張ることの大切さ
 2013年02月21日 楽山日記(LD)
 
アンチが必死すぎるとして
嘲笑う記事を見ました。
二つのブログに、同種の記事が一つずつありますね。
一人ではなくて、二人がそういう発言をした
ということでしょうか……。
わたしは、
アンチはアンチとして一生懸命に頑張ればいいし、
信者は信者として一生懸命に頑張ればいいと思ってます。
それぞれが、それぞれの立場で頑張ればそれでいいと思ってます。
 
どうして、楽山が、それでいいかどうか判断するのでしょう。楽山は、判断される立場です。また、人の言うことを全然聞いていない人です。偽善者であり、高みに立って、おとしめること、だますことに、専念してきた楽山です。楽山は、いつも、"それではよくない" モデルなのです。
 
また、
日本がこういう風になったのは、
一生懸命に頑張る人を嘲笑う風潮や、
一生懸命に頑張ることをはずかしいと思う風潮が
広まったことも一因にあると思ってます。
 
今度は、政治倫理評論家気取りですが、楽山に、上のような風潮を語る資格はありません。楽山は、思いつきで書いているだけです。真に受けないでください。糧(かて)になるような深い洞察を、楽山が書いたことなど一度もないのです。むしろ、あざ笑いながら、詭弁の無神教を広めているのです。
 
ついこの間、
サッカー元日本代表のキング・カズは、
日本人へのメッセージとして、
一生懸命に頑張ることを説いていました。
トルシエ元日本代表監督も、
日本に来て驚いたことの一つとして、
選手たちが一生懸命に頑張ることを恥ずかしがってる
ことを挙げていたそうです。
 
「一生懸命に頑張ること」・・シンプルな教訓ですが、楽山が、いちばん嫌いで、一度もしたことのないことです。楽山は、正常に頑張るのではなく、一生懸命、自己正当化と自己満悦~陶酔~悦楽を求めて、他者を欺いてきました。
 
ロマン・ロラン著『ジャン・クリストフ』では、
ゴッドフリートという人物が、
何をもって英雄とするかという問いに対して、
自分の為し得る限りを尽くした人が英雄だと答えてます。
誰にもできないことを成し遂げた者ではなくて、
自分の全力を尽くした者こそが英雄だというのです。
 
楽山は、妄想的勘違いで、あるいは、意図的に、有名人の言葉を、悪用して説教します。読めば、当たり前のことです。そして、いちばん怠っているのが楽山です。楽山は、正常な意欲ではなく、悪意の執拗さをもって、人に、とても異常な疲労を与え、人格を、従属させ、破壊しようとします。
 
幸福の科学では
たしか、
幕末維新のころの志士たちは、
討幕派でも、
佐幕派でも、
立場はどうあれ、
その心の状態によって、
死後の行先が分かれたのではなかったでしょうか。
とするならば、
何を為したかよりも、
どういう立場に立っていたかよりも、
純に、一途に、全力で頑張るということは
幸福の科学の価値観によっても、
とても大切なことではないでしょうか。
アンチが必死すぎるを嘲笑う信者さんには、
真面目に一生懸命に生きることについて、
よく考えてみてほしいと思います。
 
楽山には、しんみり共感する心がありません。だから、だらだらと下手な理屈をこねてきました。それで、思路を混乱させ、ごまかし、疲労させ、衰弱させ、相手がものを言えなくなった時点で、疲れたんじゃないですか?などと白々しいことを言いながら快感を得る、とても狡猾な異常人格です。
 
ちなみに、ジナ・サーミナラ著『転生の秘密』には
他人を嘲笑する罪と、そのカルマについて記されていたかと思います。
興味がある方は調べてみたらいかがでしょうか。
 
「他人を嘲笑する罪」・・まさに、楽山の罪です。楽山は、カルマというより精神病質です。だから、あざ笑いと怨念しか持っていないと思います。決して、楽山と接触しないでください。交流しようなどと思わないでください。楽山は、誰にとっても、まさに、精神衛生上、有害です。
 
 
 
 「幸福の科学」の自己責任論について
 2013年02月22日 楽山日記(LD)
 
 
「幸福の科学」の自己責任論について、思うところを書いてみた 
・ 自己責任論は、私的な問題のみならず、
公的な問題にまで適用しようとするとおかしなことになりがち。
なぜなら、公的な問題を、私的な責任問題としてしまうなら、
公的な問題は解決されないままに放置されることになるから。
 
自己責任は、私的とか公的とはではなく、罪を犯したら、負うべき自分の責任です。そこを、公的とか、私的とかに分けるのは、楽山の詭弁の操作なのです。放置されるのではなく、楽山が、楽山の責任を放棄しているということです。論点を逸らそうとしています。
 
その自己責任を負わないのが、楽山です。反対を言って、賛成も言って、断定していないから、責任問題は生じない、などと言っていました。言論の精神が、全く出来ておらず、反省もせず、責任を負わず、いい加減な前提で物を言い、悦に入るのです。責任を負えない出来だということです。
 
たとえば、
危険な道路で事故が多発しているとき、
事故に遭うかどうかは、
各人の運転技術の問題であり、自己責任だとすれば、
危険な道路はいつまで経っても危険なまま放置されてしまう。 
 
楽山個人の罪、即ち、私的な問題を、公的な問題にしているのは、楽山のほうでしょう。楽山の、この詭弁の意図は、自己責任を、まわりくどく、ごまかして、回避したいだけなのです。責任があるか、責任がある、誰にあるか、楽山にある、そのことを、全く受け取らず、自尊心と鼻だけが高い楽山です。
 
・ 自己責任論は、
反省のための心構えではあっても、必ずしも事実とは限らない。
何らかの問題が発生した場合、
すべての責任は一方にあり、他方にはまったく責任がないという事例は少ない。
その割合は、3:7、2:8などいろいろだろうが、大概は、当事者双方に責任がある。
自己責任論は、こういう現実を承知した上で、
反省の動機づけとして、
あえて、いったんはすべての責任を引き受けようとしているだけである。
必ずしもすべての責任がその人にあるというわけではない。
 
自己責任論に、事実かどうかが問題でしょうか。ひどい的外れを言っています。楽山は、責められたとき、相手も悪い、というより、相手が悪いというほうなのでしょう。それこそが、罪悪感がなく、不祥事を人のせいにするサイコパスの特徴です。婉曲表現に、だまされないでください。
 
楽山は、責任者であり、それ以上に、道徳と節操において、犯罪者、犯人なのです。楽山の責任逃れは、ますます、執拗に、まわりくどく、人をおとしめる悪意だけになって、傲慢不遜、そして、訂正不能になるでしょう。楽山が、長い間、平静を装って書いていたことが、そもそも、異常であります。
 
・ 自己責任論はマインドコントロールに悪用され得る。
たとえば、
宗教教団において、自己責任論を徹底すれば、
信者は自分を責めることはできても、
教祖や教団の責任を追及することはできなくなる。
 
自分をまともに見せるマインドコントロールこそ、楽山が、丁寧語と曖昧表現の、ボンヤリ言語によってやってきたことです。コントロールが、相手を楽山の下に置くことであり、そうでなければ、混乱して去らせるのが目的です。性根が、よほど、腐っていなければ出来ないことです。
 
・ 既にいろいろなところで指摘されているように、
自己責任論は本来、自分に対して適用するものである。
より詳しく言えば、
自と他の関係において、
自分に対して、「すべての責任は自分にある」というものであって、
相手方に対して、「すべての責任はあなた自身にある」というものではない。
また、
他と他の関係について、
第三者の立場から、どちらか一方に向かって、
「すべての責任はあなた自身にある」というものではない。
 
何でしょう、「いろいろなところで指摘されている」と言って、ごまかしています。つまり、楽山は、相手に分かるような理路を組み立てられないのです。代わりに、相手の精神を混乱させ疲労させるために、はっきりせず、説明できないような、曖昧な表現が特徴です。中身は無いのが特徴です。
 
まわりくどくて、すぐに否定できそうにないような、絡まった網のような無意味な言葉の辻褄を、楽山は仕掛けてきます。そこで、こちらが、考え込んでしまうと、楽山の思うつぼです。楽山の言は、ことごとく、切り捨ててください。楽山は、分かって書いてなどいないのです。
 
以上
自己責任論というものは
いつでも、どこでも、誰にでも適用できるわけでもなく、
さらには使い方を間違えば、人を深く傷つけることにもなりかねず
毒性も強く、その扱いには細心の注意が必要なのではないかと思う
 
自己責任は、はっきり言って、論ではありません。言動に責任を負うという大人の道徳です。それを、「適用できるわけでもなく」という曖昧な部分否定で、言い訳したつもりなのです。背伸びした人格が節操を失うと、こういう狡い惑わし言葉を使うということです。実に醜い所業です。
 
幸福の科学の界隈では
自己責任論によって
他者を責め、裁こうとする事例が少なくないようなので
自分なりの考えを書いてみた次第である。
 
いちばん自己責任を問われべきは、楽山です。嘘、詭弁、偏向した思想~妄想、ブレーキの利かない自己顕示欲、鈍麻した直観と直感、良心の欠如、洞察力と説得力の欠如、無反省、無責任、無神経、無情・冷酷、固定した自己中心、という知性と感性の欠陥は、長く肯定的に接していると移る危険があります。
 
楽山を理解しようなどと思ってはいけません。楽山は、自分を理解させるための、いかなる言論も持ち合わせていません。込み入った詭弁の辻褄に嵌らないように、決して、楽山に接触しないでください。決して、楽山に近づかないでください。それが、誰にとっても、精神衛生上、必要なことです。
 
 
詭弁の末路

詭弁の末路
 
 
(2022年02月16日)
 
 
 
  鞄を持つ
 
鞄(かばん)を持っている手は
鞄に引かれて
行くべき場所に
たどり着かないことを知らなかった
なのに鞄は毎日の持ち物であり
手から離れてくれる日はなかった
なのに手は毎日の持ち物であり
鞄と別れてくれる日はなかった
革の匂いから
中身を残すだけになったころ
鞄の手の持ち主は
火傷しないように
炎の道を理路に置き換え
ときに涙さえ含ませながら
死なないように殺さないように
鞄の熱を冷ましている
 
 
  笑うか泣くか
 
想い出は飢えているのに
想いはもっと飢えているのに
形にしてくれと
体の中を揺さぶるのに
吐き出したものといったら
喧騒に目を回したあげく
狭い箱に寂しく転がる
福引きの白い玉
 
でも笑うものか泣くものか
ポケットティッシュだって
笑ってもいい泣いてもいいが
なくては困ることがあった
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
反省することなく、詫びることなく、記事やツイートやリツイートで憂さ晴らしている楽山ですが、欲求も衝動を抑えられない異常者ですから、また書いてくるでしょう。迷惑と疲労と人格破壊以外、何も良いものをもたらすことのない楽山なので、批判は、続けられるだけ続けるつもりです。
 
 
 
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  無神論について
 
 
世の中には、無駄なことをする人たちがいます。神がいないことを、史実や科学的論理で証明することは出来ません。なのに、史実がどうの、現実の悲劇がどうの、証拠を見せろ、などと、結局、いちゃもんをつけているだけになっているのです。
 
神は、史実に依存しません。人間の理路に従う必要がありません。癒しと救いを恵まれた信仰者にとってのみ、神は、生ける神であります。信じないのなら、信仰はなく、ゆえに、癒しや救いなどの信仰体験もないということです。
 
しかし、また、同様に、神がいることを、史実や科学的論理で証明することも出来ません。神は、証明できません。信仰は、証明できません。ゆえに、魂の奇跡と言ってよいのです。神の存在を感じないならば、信じなければよいのであって、神の存在も不在も語ることは出来ません。
 
信仰は、論理ではありません。信仰は、聖書に表された神と、生きる人との、聖書と祈りを通じての共感の関係です。信仰する理由は、辻褄ではなく、癒してほしい、同伴してほしい、など、個人的に必要として否定できなくなることです。何より、神を証明できるのなら、信じる必要はないのです。
 
 
無神論者は、論理を語ってはいません。よく読むと、大方は、いちゃもんの悪口を言っています。否定しても無駄だから、論理に見せかけて、単方向に愚痴とクレームを言っています。ゆえに、無神論者は、宗教家でも理論家でもなく、思い込みの無神教カルトの信者なのです。
 
同様に、有神論も、考察の糧(かて)にする以外では無意味です。有神論を言っている人は、無神教カルトに、たきつけられたか、あるいは、信仰を、理屈で考えようとする理論家気取りに過ぎません。そういう人は、思い込みの有神教カルトの信者なのです。心ある信仰者は、そこにとどまってはいけません。
 
無神教の信者には、笑いと怒りしかなく、しんみり悲しむ情感と、共感性と、罪悪感や羞恥心などが欠けているサイコパスの比率が高いように感じます。書いてくる文章は、悪意と嘲笑いに満ちています。サイコパスは、犯罪に結びつきやすい冷酷な異常人格なので、注意・警戒が必要です。
 
 
信仰者は、神様のほうを向いて、と言うことがあります。しかし、どっちが神様の方向かは分かりません。神様のほうを向くというのは、祈るということに他なりません。具体的には、上も向いても下を向いても、祈りは、祈りなのです。キリスト信仰は、祈りの信仰です。
 
神の御心に適う善のほうを向くとか、信仰によって正しいことをするとかは、金持ちの青年の話にあるように、人が完全達成できることではありません。神の御心と一致する真善美を、不完全な人間は知りようもありません。真善美の絶対は、神の持ち物です。人は絶対の価値を持つことは出来ません。
 
神のようになれるという信仰の考え方は、カルト的であり、そこを目指す人は、他者に対して闘争的になるでしょう。それは、無意味な争いです。神と違って不完全であること知るために、信仰があるのです。祈りと信仰は、人間に、不完全という自覚と、その共感と、努力と成長を促しています。
 
 
 
私は、父が県内の転勤が多い公務員で、小学校低学年までを、長崎県の五島で過ごしたことがあります。今は福江島の五島市と言うようですが、昔は五島の福江市と言っていました。すごい大火があって、ドラゴンのような大きな炎を丘の上の家から眺めていたことがあります。市街がすっかり瓦礫になりました。
 
五島の、堂崎というところに海水浴に行った思い出があります。それでか、キリスト教とか教会とかいう言葉も覚えたような気がします。とはいえ、私の家は、キリスト教とは無縁の家庭でしたから、高校のときに佐世保の教会に通うようになるまでは、信仰には、さほど興味はありませんでした。
 
高校生になって、ただで聖書をくれるという話を聞いて、カトリックの教会に行きましたところ、プロテスタントの教会を紹介されて、ギデオン協会というところから、日英の新約聖書をもらいました。そして、高校3年生の時に洗礼を受けたわけです。
 
進学して、佐世保から福岡の教会に移り、どうも、集団が苦手だという気持ちになり、熊本への転居とともに、教会にはいかなくなりました。聖書も買いましたが、読書も苦手です。新約は通読して、旧約はソロモン以降は読んでいません。新約の福音書、旧約は、預言書、詩篇、ヨブ記などが好きです。
 
キリスト教と言えば、あのホワ~ンとした物静かな雰囲気ね・・で終わったり、アーメンソーメンと呼んで揶揄する人もいましたが、私も、高2までは、似たようなものでした。私が洗礼を受けたことを知った父が、お前は奇跡を信じるのだなとか、マリアは姦通したのだとか言ったのには、閉口しました。
 
教会は騒がしいわけではありませんが、教会の物静かな神秘的な雰囲気は、大方、ドラマなどに出てくるカトリックの教会のイメージでしょう。といっても、私も集団に馴染めなかったわけです。「誤解」という記事に書いたようなこともあって、20代半ばで転居をきっかけに、教会へは行かなくなりました。
 
教会の牧師に不満があったわけではありません。佐世保の牧師は、社会問題を織り交ぜて、福岡の牧師は、聖書に忠実に解釈中心で、どちらも好感を持っていました。それと、たまに行っていた日本基督教会の牧師は、来ないと、私の下宿まで訪ねてきました。生涯を捧げている姿勢には頭が下がります。
 
私は、本を通読するというのが苦手なので、今は、ネットに載っている口語訳をメインに、そこから必要に応じて引用したりの拾い読みです。信仰がなくなったわけではないと思いますが、雰囲気からのクリスチャンらしさには馴染めません。深い聖句を道徳におとしめる新共同訳は、破棄するべきだと思います。
 
人間が共感できる信仰が大切だと思います。キリスト教の信条は、目安であって、繰り返し唱えれば信仰は大丈夫ということではありません。信条や教条や教理や讃美言葉ばかり唱えていると、本来の信仰心は、人間離れしてゆくと思います。共感性のない人間離れは、反信仰です。
 
イエスキリストは、人の悲しみへの共感性に溢れる御方です。そして、十字架によって、共感性を永遠のものとしたのです。前から言っていますが、物や肉体の奇跡にこだわっていると、魂(心)の奇跡への感受性が鈍ってきますから、注意してほしいと思います。
 
 
信仰 共感 縁(よすが)

信仰 共感 縁(よすが)
 
 
(2022年02月04日)
 
 
 
  離人
 
自分の生活の味を忘れ
どこにもいない
他人の生活の味と感じるときから
疑いは始まる
他人の夢を見
他人の汗をかき
他人の冷汗をかき
足踏みと徘徊を繰り返す
ペンを持って自分を探す
果てしないウソの国を旅する
知らない人になって遊ぶ
そして挨拶する
誰もいない砂漠のはてに向かって
自分という友人に向かって
 
 
  びしょ濡れ
 
ぶらりと歩いて
コンビニでお買い物
空っぽを下さい
 
銀行に入ると
通るべき空間がすでに用意されている
レールよりも複雑だ
時間と音さえ狭い通路
べらんめえ口調ってのはどうだろう
 
映画館でみている
閉じたまぶたの裏を
病のようにギラギラと波打つ闇を
 
公園に座っている
近くの草をむしりながら
意外と落ち着かないものだな
目的がないということは
目的があるということは
どれくらい本当のことかしら
 
君も遠くなったな
太古の昔のことのよう
思い出すというより
まるで想像している
君と僕に接点があったなんて
 
ライトをつける
ポンコツのバイクの音が夜に響く
それよりもチクチクと
無数の虫がライトに飛び込んでくる
夏の夜の田舎道
田んぼが見えない
バイクの光だけが浮き上がる
 
自分が見えない
虫が当たる痛みを感じる
虫の死を感じない
 
この角は知っている
ふいに曲がるから
 
まだ西の空に
少し夕方が残っていた
 
夕暮れに連なる道
いつか消えて
ライトを消して
エンジンを止めると
沈黙と暗闇の中で
焼かれているものがある
ぶらりと歩いて
ドアを開けてふらついた
 
今日は濡れずにすんだね
実はびしょ濡れなんだ
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
人であり続けることは難しいことではありませんが、当たり前として意識されず、超常や優越の方向に酔い痴れて、人間離れしてしまう場合があります。気づくはずのことに気づかず、不思議や奇跡に自己満悦して、ふつうは通らないことが通るかのように意識が変容し妄想して、それを平安と思いこむのです。
 
 
 
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  楽山は無神教徒
 
 
楽山が引用してきた無神論は、「神の不在は証明できない」に対して「神の存在は証明できない」ことをもって「神が存在する根拠を示せ」と言い、「根拠が無いから神は存在しない」という結論のようです。しかし、神が存在する根拠があるなら証明されたのだから、信じる必要はないのです。
 
人間に存在の根拠を示すことが出来るような、人間の論理で証明できるような、安っぽい捏造の神?は、巷にも、そして、キリスト教内部にも、溢れているような気がしますが、それは、キリスト教とキリスト信仰の神とは、全く違う様態のカルトの神?であります。
 
さらに、神を、人の論理で扱えると思うこと自体、人の傲慢であり、その時点で、無神論は、論理の破綻をきたしています。不完全な人が、完全な神を、理屈で扱い、その在か不在かを語るなら、それは、捏造した神?であって、どちらを証明しても、聖書に表された神とは全く違うものです。
 
無神論は、成り立ちませんが、同様に、有神論も、成り立たず、神の存在を証明することなど出来ません。人の論理で、神は存在したり、しなかったりする御方ではありません。つまり、信じる人にとってだけ、神に対する信仰と、その弁えが推測されるのです。信仰の邪魔をしないでいただきたい。
 
タイトルに、無神教徒と書いたのは、神はいないという乱暴な信仰を持つ集団ということです。言い返れば、無神教?の信者ということです。その間違った思い込みは、カルトに負けないくらい、憎しみを伴って強く確信されているようです。無神論は、楽山の怨念を表していると思います。
 
そして、無神教徒は、理屈のようなことを言ってきますが、人の理屈で語ることが、そもそも、神については成り立たないということです。聖書を、ベースにおいて取り違えて、誤解し曲解した結果なのです。加えて、楽山の記事から察するに、その曲解の程度は、カルトに勝るとも劣らない頑迷なものです。
 
無神教徒が、神を批判するなら、神に代わる救いを提示する責任がありますが、いくら理屈を整えたとしても、信仰に代わるような福音にはなりません。辻褄合わせをしても、癒しにも、慰めにも、救いにも、愛にも、共感に、至ることはないでしょう。彼らによって誰も救われることはないのです。
 
 
信仰の根拠は、論理や史実の整合性にあるのではなく、共感と癒しとにあります。つまり、理屈ではありません。人間に、人間らしい温もりと潤いを与えるのが信仰です。キリスト信仰者は、神という存在が整っているから信じるのではありません。神の整合性を人は知りません。
 
信じるに足るものなど、この地上に在るとは思えなくなった人にとって、聖書の、キリストからの共感に、人として、キリストへの共感に至ったから信じる、という言い方のほうがマシでしょう。聖書を読めば、キリストは、洞察力と共感性に溢れた御方であります。
 
旧約聖書の神の業(わざ)や、新約聖書のキリストの奇跡のうち、物や肉体への奇跡は、超常現象であり、超常を、人の日常が理解するのは、理解の実感が伴わないので不可能です、物や肉体の奇跡は、信仰に直接つながる実感を表してはいません。現代、次々に起こっているとも思えません。
 
ゆえに、聖書に書いてある超常の奇跡については、"分からない" と答えるほかはないのです。分かるのは、人間性によって受け取ることの出来るもの、つまり、人間として共感できることだけです。超常は人間には分からない、これが正直な信仰告白のベースであります。
 
物や肉体の奇跡によって信じ込むのは、非現実を信じ込むことになり、陶酔気分から、ありがたや宗教になって、現実を疎かにする危険があります。分からないことは、神に向かっても、人に向かっても、分からないというのが正直なのです。それで信仰を捨てるなら、元々信仰があったのかが疑問です。
 
キリストによって与えられる癒しと慰めは、現実にあって、避け所として、祈りの時と場を与えます。それは、自動的に続くものではなく、折々の祈りによって、絶対孤独からの解放として与えられるものです。祈りを受け取る神は、聖書の言う永遠不変と信じるゆえの祈りです。
 
神の属性である、全知全能・絶対完全・永遠不変は、どれも、人には手に負えないものばかりです。しかし、手に負えないことがあると知ることで、人間としての不完全、即ち、罪の性質を知ることになるので、神の怒りや裁きの話と同様に、信仰の弁えとして大事なことです。
 
 
背く 明暗

背く 明暗
 
 
(2022年01月27日)
 
 
 
  臨終
 
見ている
多くの顔が
眠ろうとする信徒の
最後の告白を聞くために そして
 
賛美の言葉の一つも出ようものなら
久しく流さなかった涙を
その時には浮かべてもよいと
 
 期待するものと
 期待されるものの間で
 つり上げられた信仰が
 病気の小魚のように
 しずかに はねた
 
彼の不幸はついに
思い出に変わることはなかった
もはやどのような約束をもってしても
過去も未来も変えることはできない そう
人生は一度だ
 
「わが生まれた日は滅び失せよ
 幼子が胎に宿った
 と言われた夜もそのようになれ
 わが愛する人々は遠く去れ
 二度と私を見ないように」
 
去る者と
残る者との間の
凍った段差の裂け目から
音もなく
転げ落ちていったものがある
 
こうして
全く別の涙は流され
人々は蒼ざめて去り
 
彼を見つめる基督と
顔を背ける彼が残った
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
無神教徒になる人には、キリスト教の先入観に対する反発があるのかもしれません。あるいは、クリスチャンの家庭環境からの誤った押し付けに対する反発もあるのかもしれませんが、自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)には、反省力や罪悪感が育たないこともあるでしょう。
 
あざ笑いと怒りに生きる病質には、悔い改める、ということが、理解できないのかもしれません。ゆえに、嘘を吐き、詭弁を弄し、それが通用すると、万能感が生まれ、芝居をするようになり、不祥事にも「反省。とほほ」などと言って、気安い嘘の手当てが通用すると勘違いするのでしょう。
 
 
 
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  荒らしの楽山
 
 
  聖書について思うこと(中村圭志氏のツイッター)
  2022年01月16日 楽山日記(LD)
 
 
節操も、理路も、共感も、何もない、無分別に、荒らしのような無神教徒の引用をしてくる楽山です。自分で書くと、下種の根性がバレるからでしょう。しかし、他者の悪い根性をバラしているのですから、楽山は、最終的に、誰からも軽蔑される路程を、丁寧に踏んでゆくようです。
 
 
*聖書とは何か?
 ツイッター上にて、次のツイートがされていた。
 
聖書の話を、そのまま、あるいは自分で捻じ曲げて、受け取っています。聖書を学ぶのに、学習方法というより、学習する精神を失って、史実として扱って、揶揄し否定するだけです。よほど、キリスト教に怨念を持っているのでしょう。最初の話は、コピペしにくいので省略します。画像も省略します。
 
 
中村圭志 神話・宗教学
@seattlelubbock
オークワード聖書をちょっと見てみましょう。
表紙はノアの箱舟。海上に死屍累々。助かった動物さんたちはなんだか楽しそう。ノアはお気楽に唐笠つきジュースを飲んでいる。
勧善懲悪の御伽噺のはずなんですが、残虐さを何とも思わない義人ノアの姿は現代の子供たちには見せられないわけです。
 
大人であれば、説明があれば、聖書に象徴されている神の意志を、不十分でも、常識的な範囲で感受してゆくでしょう。一方、楽山のように、大人になれなかった未熟は、悪意をもって悪い心象だけを吹き込んでゆきます。道理で、聖書からも神からもキリストからも、人からも、良きものを見い出せないわけです。
 
 
中村圭志 神話・宗教学
@seattlelubbock
先に紹介したロトの処女の娘の強姦許容の話と同様、現代と人権意識が異なるので子供に説明できない箇所も何か所か取り上げられています。
出エジプト21。奴隷は財産なので鞭で打っても1日2日生きている限りは神のお咎めなし。即死の場合はお咎めあり。
絵は昔のアメリカの奴隷農場となっています。
 
聖書の大昔の話を、キリスト教はこういうことをするんだぞ・・という煽りの見せ方です。悪意が明らかな絵とともに、おとしめて悪く言うのは、荒らしに似ています。印象操作のの悪意が見えた時点で、議論どころではなく、ドアをドンドンドン!と叩いて威す凶暴な悪党が来た!・・ということになります。
 
 
中村圭志 神話・宗教学
@seattlelubbock
もう一つ紹介しましょう。
申命記22。男が処女の娘を強姦したところがバレたなら、父親に銀50払うべし。娘は強姦男の妻となるべし。男の意のままになったのでもはや離縁は禁止。
この絵本では男が父親にドルを渡して、ワゴンの中で強姦せんとするところ。原理主義者はこれを実践するんでしょうか?
 
大昔の、民族の掟(おきて)みたいな話と、大間違いの原理主義者?の犯罪をあげて、そのことが正しいかどうかが、キリスト信仰の是非に関わるでしょうか、否です。無神教徒の、こういう発言は、いちゃもんに過ぎません。既に、シャロームで10年、楽山で3年、うんざりするほど、経験済みのことです。
 
 
中村圭志 神話・宗教学
@seattlelubbock
聖書は人類史の史料として、ホメロスなどとともに図書館で読めばいいのです。しかし良き家庭の導きの書だとされている。が、実際には子供には読ませられない。もっとも信者は実際には聖書は読まない。読まないのに都合にあわせて聖書の権威で世の中に文句をつける。だから無神論者に文句を言われる。
 
聖書は、歴史の史料以上に、宗教と信仰の聖典ですが、100%理解した人はいません。聖書をもって、史実がどうこうと騒ぐのは、聖書の意味も意義も理解していない楽山と同類の人です。背教者の例をもって、信仰を全否定するのは、妄想の為せるわざであります。引用する楽山は悪魔性のサディストです。
 
 
*被害
一連のツイートで指摘されていることはどれも興味深いが、その中でも特に、聖書を読まずに「聖書の権威で世の中に文句をつける」人々の話は予想外だ。
こういう人々のために、無神論者らはやむなく聖書の権威を打ち砕くために聖書を批判することになっているのだとすると、聖書はとんだとばっちりを受けているということであるし、一番の被害者といえそうだ。
 
聖書に、信仰者に、害を与えているのは、楽山です。今回は、自分では、何も書けないから、無神教徒の言を引用して、文責を逃れようとしています。引用して批判しなければ賛同ですから、その責任は、どこまでも、いつまでも、楽山に着いてくるのです。楽山は、信仰と宗教の言論を邪魔しているのです。
 
背教者の話を事実として予想外だと言い、そして、こともあろうに、無神教徒の不可効力を説いていますが、無神教徒の楽山は、悪意の企みの文章しか書いていません。聖書に「とばっちり」を与えようとしているのが、楽山と無神教徒であります。恐ろしい詭弁です。
 
「聖書の権威で世の中に文句をつける」人々というのは、考えてみると、妄想的思い込みを信仰と呼んで、訂正不能の、実際は、偽善者かつ背教徒だと思います。ですから、思い込みの自己中病質の楽山や無神教徒と、よく似た構造の体質ではないかと思われます。信仰者に権威はありません。
 
 
*立場
とはいえ、こういう指摘を読むと、とても自分には聖書に書いてあることはすべて正しいとすることはできないなと思う。もちろんだからといって、すべて間違っているとすることもできないのではあるが。
聖書に対する立場は人それぞれではあろうが、自分は先入観によって全肯定することも全否定することもせず、また禁忌事項をつくることもなく、人類の古典として謙虚に学びたいものだと思う。
 
否定肯定をぼかした楽山のボンヤリ言語です。楽山の責任回避の筆致です。書いてあることは、何の糧(かて)にもならない読み方が正しいと言っているようなものです。「正しいとする」権限は、無反省で無責任の自己愛性人格障害の楽山にはありません。謙虚ではなく、引用も含めて、恐ろしく傲慢です。
 
楽山は、先入観しか持っていません。肯定も否定もしないなら、意見に成っていないので、書かないことです。肯定しても、否定しても、それぞれ責任があります。責任を負わずに両方言うことは、ただの、いい加減な人でしかありません。そして、それを繰り返してきた楽山は、正常人ではないということです。
 
聖書の心を読み取れない楽山が、正しいと言っても、間違っていると言っても、何の価値もないことです。無神教徒の力を借りているだけですから、楽山は、ますます、言論不能の、自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)だという証拠を、自分で積み上げているのです。
 
人間は、自らの信仰も守れないほど不完全です。ゆえに、信仰者は、知性と感性を精いっぱい使って、できることして、結果を正直に祈って、神に委ねます。ということは、自らの言動が間違っていて、神に裁かれることを恐れながら、なお、絶対孤独からの解放を恵まれ、救いと希望を祈り願うのです。
 
楽山は、他者を利用し、別の他者を傷つけて、無視スルーで、のんきに生きているようですが、最後には、報いとして傷つけられる日が来るでしょう。神を持ち出さなくても、楽山の生き方は、人の世の非道として、いずれ、無知と無恥とを告発され、逆に、廃物として破壊される必然なのです。
 
 
無神教徒の精神病理

無神教徒の精神病理
 
 
(2022年01月18日)
 
 
 
  信仰告白
 
人間がなしうる
最も良質な
精一杯の信仰告白は
不信仰告白である
 
 
  宗教は
 
いるともいないとも証明されない
神様を信ずるのだから
宗教は
無神論と同じくらい
あやしげなものである
 
しかもそれを
人の筆でつづり
人の口で語ろうというのだから
宗教は
無関心と同じくらい
あやうげなものである
 
 
※ 信仰についての議論
 
普通の理路で考えても信仰の必然を説明することは出来ず、信仰は、何より個人の、体験、特に精神生活上の体験に基づくので、現象や史実の皮相の事実や論理によって、ない、不当、などと言えば、そのまま発言者の、未熟と歪曲が、指摘されることになるでしょう。
 
ゆえに、宗教と信仰は、科学をもってしても、また、超常についての空想を前提に考えても、語れるものではなく、人間の心について共感のない者が語ることは、無理な否定になり、侮辱になり、嫌がらせになって、頑迷な屁理屈による妨害として、偽善と見なされるでしょう。
 
 
 
  二人のはぐれ者(創作です)
 
伝道を志しながら心を病んでしまったキリスト者がいた。少しばかりお金があったので当座の生活には困らなかったが、毎日気がふさぎ寝込むことが多く「自分など死んでしまえばいい」と思うこともあった。そのキリスト者の家に盗人が入った。
彼は何をやってもうまくいかず失敗の繰り返しで自暴自棄に陥っていた。刃物をキリスト者に向け
「金を出せ」と迫った。キリスト者は、
「盗人にやる金など一銭もない。欲しければ私を殺して家の中を捜せ。」
「命が惜しくないのか。」
「逃げられるものならば逃げる。だがまわりには誰もいないし、あなたは力が強そうだ。どうやら、かないそうもないゆえ観念した。それに・・・もうよい。」
キリスト者は目を静かに閉じた。キリスト者は目を閉じたまま、盗人はキリスト者をにらみつけ刃物を握ったまま黙っていた。
長い沈黙が続いたのち、盗人が言った。
「い、命を粗末にするな。」
「あなたがそれを言える立場かね。」
「本当に命が惜しくないのか。」
「もう・・・・どうでもいいんだ。」キリスト者は少し悲しげに言った。
「ちっ」と盗人は舌打ちをして刃物を床に捨てた。
「やめた。何て野郎だ。全部でなくても、少しばかり、まとまった金さえ出せば済むものを。お前、少し変なんじゃないか。」
「他人の金を盗んでどうするつもりだ。それに生活のための金を得る道なら他にもあるだろう。」
「どうするって、まとまった金があれば天国さ。何だってできるじゃないか。」
「金をいくらか持っていても私のような者もいる。いちばん大事なものは金ではない。」
「じゃ何だって言うんだ。」
「大切なものは多くはない、むしろただ一つだと書いてある。私もよく理解しているわけではないが、今あなたに刃物を捨てさせた何ものかだ。」
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
間違っても間違っても、正す精神を持たない楽山は、他者の言を利用して、自らの整わない頭と心を、よこしまな方向へ、自ら導いてゆきます。この世はウソに溢れているという私のブログタイトルですが、楽山は、真っ赤な嘘を使って、人より上にいられる気分を、生き甲斐のように求めてゆくのです。
 
楽山は偽善者ですが、偽善は善よりちょっと悪い感じ?・・ではありません。悪を、善に見せかけることであり、悪よりも、偽装という悪が加わるところの、より悪であり、最悪なのです。これより悪質な悪を知りません。大きな犯罪は、大方、偽善であります。楽山は、その、偽善者なのです。
 
 
 
私の「ウソの国ー詩と宗教」ブログ:
 
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