ウソの国-詩と宗教:st5402jp

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タグ:無神教カルト

 
 
近況:腰椎骨折と認知症で、介護付き老人ホームに入所して、車椅子生活の母ですが、来年、百歳を迎えます。役所より、表彰状と銀杯が贈られてきました。
 
 
  楽山のよいしょ遺伝子2
 
 「リチャード・ドーキンスbot」を見てみた。(2)
 2021年09月13日 楽山日記(LD)
 
 
自分で理路を組み立てて自分なりの主張というものを書くということが出来ない楽山は、常套手段として、学者などの有名人の話を読んだことにして、持ち前の見え透いた世辞で褒めまくって、理解不十分でも賛同し、自分も同じ立場にいるインテリだというふうに見せかけようとしてきます。
 
(ネットより)
クリントン・リチャード・ドーキンス(Clinton Richard Dawkins, 1941年3月26日 - )は、イギリスの進化生物学者・動物行動学者である[1]。The Selfish Gene(『利己的な遺伝子』)をはじめとする一般向けの著作を多く発表している。存命の一般向け科学書の著者としてはかなり知名度の高い一人である。
 
 
*つづき
前記事に続けて、ドーキンスの名言について感想を書いてみたい。
利己的遺伝子説はダーウィンの説である。それを、ダーウィン自身は実際に選ばなかったやり方で表現したものであるが、その妥当性をダーウィンはただちに認め、大喜びしただろうと私は思いたい。
 」
これはドーキンスに対する最大の賛辞にちがいない。
 
誰が誰を褒めたと言っているのでしょうか。ドーキンスは現代の人、ダーウィンは19世紀の人なのですが。
 
(ネットより)
チャールズ・ロバート・ダーウィン(Charles Robert Darwin ([tʃɑːlz 'dɑː.wɪn]), 1809年2月12日 - 1882年4月19日)は、イギリスの自然科学者。卓越した地質学者・生物学者で、種の形成理論を構築し進化生物学を発表した。
 
 
*人という生存機械
我々は、遺伝子として知られる利己的な分子を保存するように盲目的にプログラムされた、機械的な乗り物としての生存機械なのだ。これは、私の心を驚きで満たしてしまう真実である。
 」
こういう考え方は、以前の自分であれば絶対に受け入れることはなかったのであるが、最近はさして抵抗を感じなくなっているのだから、我ながら不思議だ。人は変わるものだということなのだろうな。
 
この人たちの話に大きく欠けているのは、人間が機械だとしても、それだけでは何も変わらないということです。どう生きてゆくというのでしょう。オートマチックに生きるのでしょうか。それとも、楽山が言っていたような、自らのあらゆる問題を無視する自己中の生き方でしょうか。
 
受け入れようが、受け入れまいが、明らかになっているのは、楽山が、人間を機械だと思いたいこと、そして、機械だということだけで大喜びしている、という奇怪さであります。楽山は、心を持たない自己の正当化につながれば何でもいいのでしょうか。どれだけ、心を育て損なってきたのでしょう。
 
 
*利己的な遺伝子
この本の主張は、我々、そしてすべての動物は、遺伝子によって作られた機械であるという事だ。
 」
マーク・トウェインの『人間とは何か』を読んで、人間機械論には合点がいったのではあるが、ドーキンスの『利己的な遺伝子』を読むことで、人の利他的行為の背景についてさらに深く考える切っ掛けを得られたのはよかった。
進化論は肉体の進化に関することだけだと思い込んでいたのだけれども、人の行動および心理に関してもさまざまな謎解きをしているところには感動を覚える。
 
楽山は、短絡有頂天を喜んでいるだけで、「深く考え」てなどいません。さらに、楽山には、自己愛性人格障害からの利己はあっても、利他的なところは、全く見られません。それを、機械だからと言って正当化するつもりでしょうか。いったい何を悦んでいるのでしょう。
 
「利他的行為の背景に」「機械」?・・何も明らかではありません。考えるきっかけには、全くならない話です。人間を機械だと見なして、人間らしさを捨ててきた楽山の自己愛性人格障害の人生を思わせるだけなのです。自己正当化も、幼稚な短絡で、ここまで来ると、妄想と言ってよいでしょう。
 
 
*ダーウィン批判とマヌケども
ダーウィンの進化論に反証など存在しない。しかし、仮に反証されることがあるとしても、それは科学者によってであって、マヌケどもによってではないだろう。
 」
これは辛辣なもの言いだ。でも創造論者による進化論批判のトンデモぶりからすれば、こう言いたくなるのも理解できなくもない。
 
ドーキンスという人は、自己愛が激しそうです。そこでしょう。楽山は、自分に似た有名人がいることを悦んでいるのでしょう。しかし、批判者を「マヌケども」と呼ぶことは、辛辣ではなく、暴言になり、その結果、それを悦ぶ楽山のような変質者に、へばりつかれているのです。
 
(ネットより)
創造論(そうぞうろん)とは、宇宙や生命などの起源を創世記に書かれた「創造主なる神」に求める考え方であり、「創造主なる神」によって天地万物の全てが創造されたとする様々な議論のことである。
 
聖書に書いてある通りというのは、神話を実話と解釈することなら、信仰において、何の洞察にも理解にもつながらないことです。どちらかに決めつけたがるのは、楽山のように、分かってると思い込みたい者たちの欲望であります。神秘については、人は、正直に、分からないと言うべきです。
 
 
*地球外生命体と自然淘汰
自然淘汰の説明力は、この惑星の生命に関することだけではない…原理的にはあらゆる惑星での生命に適用できる。もし宇宙の他の場所で生命が存在するとすれば―私の暫定的な予測では存在する方に賭けるが―自然淘汰による進化の何らかのバージョンが、その存在の背後にあることはほぼ間違いないだろう。
 」
どのブログかは忘れてしまったが、もし宇宙人が存在するとしたなら、それは地球人と似た姿をしているだろう予測を読んだことを思い出す。その理屈は、知性を発達させるには大きな脳が必要であり、大きな脳を支えるには直立する必要がある、道具を用いるには道具をしっかり掴めなければならず、そのためには親指と他の指のように向き合った指が要る…という具合に考えてゆけば、宇宙人もきっと地球人の姿とよく似たものになるだろうというものだった。
 
楽山は、人間世界から、楽山の大好きな人間を超越した地球外生命体に、話が誇大化します。自分のメチャクチャな本性が明らかになってきたからでしょうか、いつまでも、人間外のことや他者のことばかり考えていたいのでしょう。しかもそこで、宇宙人に人体をそのまま当てはめるという陳腐さです。
 
自己正当化が成り立たなくなると、何らかの陶酔傾向へ逃避するのでしょう。しかも、万歳三唱しているような浮かれようです。この楽山の記事では、何も明らかになっていません。説得力もありません。相変わらず、構成力と説得力が、楽山には皆無だからです。
 
 
無神論者のドーキンスが、地球外生物が存在する可能性を否定しないというのは意外な気がしないでもないが、こういうところからするとドーキンスが厳しい宗教批判を続けているのは、頭が固くて超自然的なことを理解できないからではなく、論理的かつ柔軟な思考ができるからこそなのだろうと思えてくる。
 
地球外生物の存在可能性を認めるだけで「論理的かつ柔軟な思考ができる」ことになるでしょうか。そう言って褒めまくっている楽山には、論理的思考も、柔軟な思考も、情緒的感受性も、一度も見られたことはありません。自分のことを省みない者は、このようになってしまうのです。
 
念のために言っておきますが、キリスト教の信仰は、分かりもしない世界や宇宙を説明するためにあるのではなく、人間の人生の救済のためにあり、キリストは、そのために遣わされたのです。このことに無神教カルトは関心がないようです。それを楽山が「論理的かつ柔軟な思考」とは笑止であります。
 
進化論で宗教と対決できると思っているような人々は、自分の持ち物を自慢しているに過ぎません。なんだか学者の間でも、ナルシスト同士の争いになっているのではないかと危惧されます。そして、その争いを、楽山は、全く関係ないのに、たいそう、のぼせて、嬉しがっているのです。
 
今回も、楽山の酷い文章でした。謙虚さを欠いた自己愛性パーソナリティ障害NPD(自己愛性人格障害)は、自己愛に耐えられるような能力も知性も感性も持たない楽山を、カチンカチンの妄想から、着々と自己破壊に向かわせているようです。
 
 
持たざるに 口数は多し

持たざるに 口数は多し
 
 
(2021年)
(2022年09月25日、再録+加筆)
 
 
 
  頂点を極める者
 
山頂は常に其処(そこ)から
上には登れないことを示しているのだが
登りつめた者は
まるで空までも征服したかのように
誇らしげに四方を見渡している
高い高い大気と吹き上げてくる風は
なかなか下りようとしない者たちの
有頂天の背後から少しずつ
密(ひそ)やかに帰り道を隠してゆく
 
 
  堂々巡り
 
退くときを弁(わきま)えず
進み具合を測ることも出来ずに
堂々巡りを
二十年以上続けている奴が
ここにいる
まだ続ける気でいる
 
恐れるな堂々巡りを
よく言えば回帰だ
うまくいけば螺旋(らせん)だ
 
下る方が好きなのか
誇りを払いながら
上る方が好きなのか
埃(ほこり)を見習いながら
 
どのみち切りがない
転んでも構わない
転がる間は上も下もない
上も下も気が進まないなら
そのままじっと拝んでいるか
 
変わらなくても変わってる
堂の中には何がある
せめて寝返りでも打って来い
くるくるくるくる目が回る
やっぱり続ける気色の気
何が回帰だ何が螺旋だ
堂の外はどうなってる
 
 
  よいしょ
 
よいしょ
で担ぐものは
もちろん物だけではない
立つとき座るとき
動き出すとき休むとき
よいしょ
よっこらしょ
で担ぐものは
片付けた何か?
整理してしまいたい何か?
済んだことにしたい何か?
景気付け・元気付け
で軽くしたいもの? それとも
生きてきた年月であろうか
背負ってゆく年月であろうか
自分自身であろうか
 
よいしょで出世する奴もいれば
よいしょも言えず難渋する人もいる
 
まだ生きているということだから
自らの測れない軽さ・重さを背負って
私も立ち上がる
うんこ
 らしょっ・・・と
 
 
 
 楽山のツイッターですが
 
心機一転★こも楽山
@komo266
「科学」の定義を変えてしまったら、「HSの科学は、一般の科学ではなく、HS独自の科学です」という疑似科学宣言…またはトンデモ宣言になってしまうだろうに、Pさんは何考えとるんだろ?
午後7:02 · 2021年9月14日
 
また、楽山は、人のことを言っています。今回のブログ記事のように、分かりもしないのに、利己的な遺伝子という比喩表現や、人間は機械なのだ・・という説に、大喜びする楽山は、いかなる科学も理解していないと思います。楽山は、無反省・無責任の、トンデモ記事を書く奇怪な機械です。
 
(ネットより)
利己的遺伝子論(りこてきいでんしろん)とは、進化学における比喩表現および理論の一つで、自然選択や生物進化を遺伝子中心の視点で理解すること 。遺伝子選択説もほぼ同じものを指す。1970年代の血縁選択説、社会生物学の発展を受けてジョージ・ウィリアムズ、E・O・ウィルソンらによって提唱された。イギリスの動物行動学者リチャード・ドーキンスが1976年に、『The Selfish Gene』(邦題『利己的な遺伝子』)で一般向けに解説したことが広く受け入れられるきっかけとなったため、ドーキンスは代表的な論者と見なされるようになった。
 
 
 
楽山の害毒メモ:
今までに表れてきたこと。これは、楽山に限らず、聖書においてキリストの敵となった宗教指導者や、世に数多いる偽善者の特徴でもあります。この世で最も迷惑な人の特徴です。楽山は無責任です。決して信用しないでください。
 
楽山は、1つのことを書いて、別の時には、それに反することを平気で書いてきます。そこで、反省、修正、というステップを書かず、あたかも最初から思っていたことのように書いてきます。自分に誤りを認めない自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)だからです。
 
人格:
自己愛が強く自己中である。
笑いと怒りしかなく、悲しみの情がない。
共感がなく、罪悪感がなく、反省しない。
自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)と思われる。
平気で嘘を吐く。様々な詭弁を弄して、柔和に見せかける。
深い情感がなく、共感性がない。相手が疲れるのを見て快感を得る。
後悔、反省、修正ができない。学習による成長がない。
罪悪感、羞恥心が見られない。サイコパスと思われる。
アドラー心理学の宣伝をしていた。自己中心である。
中身や実質のない形骸的精神機能しか持たない。
 
奇怪な単細胞。
 
議論:
議論や交流が、表面的で、整わないし、できないし、元々する気もない。
相手の意見を受け取っていないので、反論、弁明が成り立っていない。
理路が常識的にも浅く、基本的に訂正不能である。理解力がない。
自分なりの堅実な理路を組み立てられない。
読書自慢。感想は平板で、独創性や深みがない。
様々な気取り。読書家気取り、評論家気取り、インテリ気取りなど。
分かっているという我執から離れられない。
非を指摘されると、逆に、こちらに当てはめて被害者面をする。
人を批判~誹謗中傷するが、その言葉で自分が斬られるブーメラン現象。
真面目に応答~議論すればするほど、病的な徒労感と疲労のみをもたらす。
ボンヤリ言語:語尾を濁し曖昧で婉曲的な言い方で、印象を刷り込もうとする。
トホホ言語:謙虚で弱いと思わせて悪意を隠すための嘘の芝居。
しばしば、自身への同意を期待して、見え透いた世辞を言う。
「反省。とほほ」などと書くが、不自然であり、前後で何も変わらないので嘘です。
騙して、言い分を詭弁や嘘で通そうとする、通っていると思い込む。
 
訂正不能の偏執
 
宗教:
反キリスト、反宗教。聖書およびキリスト信仰を、貶めてくる。
キリスト教とキリスト信仰を字面だけで云々し、理解していると思い込む。
HSを脱会したと言っているが、真実かどうか、疑わしい。
霊能者のつもりだが、それに見合う直観的洞察は皆無である。
 
慢心して中身の無い形骸
 
楽山の書いた文章を、3年数か月のあいだ見てきた結果ですから、大きく変わることはないでしょう。これらについては、新しい情報によって、必要なら加筆し、繰り返し載せることになるでしょう。
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
 
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
楽山が、読書と称して、他者の引用が多いのは、楽山自身は欲望しか持っておらず、まとめることも、分けることも、組み立てることも、できないからでしょう。そして読んだことにして、今回もまた「感動を覚える」「私の心を驚きで満たしてしまう真実」などと、単純に、べた褒めするだけなのです。
 
つまり、楽山は、引用でもしないと、単独では、まとまらず、組み立てられず、掘り下げることも出来ないのです。しかし、バレてしまえば、結局、ごまかしを続けてきた期間の分も、楽山は、恥を重ねてゆくことになります。そうならないための弁えを育てていないことが、楽山の不幸であります。
 
前に、楽山は、「人それぞれ」「自分を貫く」といった単純な言葉で、自分もそうしていると自己正当化を図りましたが、人それぞれでよいという中に、楽山の、自己中、無反省、無責任は、入りませんし、ゆえに、楽山は、改めなくてはならず、ましてや、貫いてはいけないのです。
 
楽山を批判する場合の注意点:
楽山が無視してくることは、返せないからで、批判を続ければよいわけです。また、楽山は、発作か衝動のように、一度に多数の記事を書いてくることがあります。その場合、恣意的な選択による悪口の寄せ集めなので、つきあってはならず、こちらが無視するべきです。
 
 
楽山は、自己愛性パーソナリティ障害NPD(自己愛性人格障害)の遊び人であり、アンチではありません。HS問題を利用しているだけの策士です。楽山が誰を批判しても、信頼度はゼロです。楽山こそ、真実追求の分野から、始めに排除されるべきサイコパスなのです。
 
だから、楽山は、記事でなくても、ツイッターなどに、いつまでも書いてくるのです。罪悪感がないので、反省しないのです。そして、何をしても責任を負う気は全くないのです。
 
精神衛生を守るために、私もそうしていますが、楽山と直接の遣り取りをしてはいけません。徹底して無視してください。批判するなら、記事として批判するにとどめてください。
 
 
 
私の「ウソの国ー詩と宗教」ブログ:
 
(古い記事は載っていません)
 
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  楽山のよいしょ倒れ2
 
 「リチャード・ドーキンスbot」を見てみた。(3)信仰について
 2021年09月15日 楽山日記(LD)
   を改めて批判。
 
 
病識がなく、自分を見ることの出来ない楽山が、いつものように、得意気に書いてきます。楽山の言は、論になっていません。言論に必要な、語る節操も、聞く耳も、持っていないからです。どれだけの有名人を巻き添えにして、詭弁を弄するのでしょう。病の根深さを思わずにはいられません。
 
単純に言って、無反省と無責任で、訂正不能であれば、言論する資格はないのです。他にも、楽山の病質については書いてきましたが、病質のために、どこまでも舐めてかかって、まともな話は通じないし、交流ができない以上、だましてくるだけですから、楽山に未来はないと思います。
 
 
*つづき
前記事に続いて、ドーキンスの名言についての感想を書いてみたい。
 
一日も早く、楽山が何も書かなくなる日を待っています。あらゆる言論の害悪です。自己愛性パーソナリティ障害NPD(自己愛性人格障害)の弊害の典型例となっています。
 
 
*信仰と無責任
信仰とは、根拠について考え評価することからのご立派な責任回避の口実である。信仰とは、証拠の欠如にもかかわらず、あるいはそれゆえの、信念のことである。
 」
これらは随分と辛辣な批判だが、前者については、自分かかつて所属していた宗教団体では、長く信者を続けている人は、信仰の根拠について深く考えることを放棄した人ばかりだったことを思えば合点がゆく。
 
無神教カルトとは、共感が分からないために、信仰の根拠を、事実や理屈だけで追って、何も見出せないことを、根拠が無いと切り捨ててしまう短絡であります。前から言っていますが、証拠があれば、信じる必要はないのです。信仰は、信じ込む信念ではなく、共感の絆です。
 
カルトと、宗教を、混同した楽山の幼稚な決めつけです。そこを分かっていない人たちもいるのでしょう。理屈をこねていますが、言い方も高慢で、理路も間違っており、かつ、共感が皆無であります。繰り返しますが、証拠があれば、信じる必要はないのです。信仰の根拠は、事実ではなく、心にあります。
 
信仰は、心に響いて、共感することだから、心のない楽山のような人には、分からないのでしょう。心がないと思考も短絡しやすく、そのせいで、理路は短絡し、共感がなく、表面的な事実との辻褄だけを追って決めつけることになる、という特徴が表れていることにも、楽山は、気づいていないようです。
 
信仰の根拠は、心にあります。ゆえに、表面的で幼稚な理屈屋に届くことはないでしょう。一部のカルト批判から、信仰そのものへの批判と否定を企んでいる楽山は、自己愛性人格障害の宿命のように、偽物の標識を持って廃棄される詭弁の果ての異土の吊り橋へ向かっているようです。
 
 
後者については、司馬遼太郎も似たようなことを言っていたと記憶している。思想や宗教というものは、その出発点は空であり、嘘である云々と…。
率直に言って、信仰というものは本来あるのかないのか分からない神をあると断言するものであろうし、その根本は空言、もしくは嘘といわれても致し方ないものではある。
 
楽山は、また、有名人の口を悪用しています。楽山には、自らを空しくする"空" という思想は分からないと思います。私も、完全に分かったわけではないですが、分からないという自覚はあります。自覚がないのが、楽山です。だから、どこまでも、嘘吐きという評価しか生まれないのです。
 
本来が、あるのかないのか分からない神であるなら、どうして信じ仰ぐに至るのでしょう。考察と共感の出来ない楽山の幼稚な短絡です。信ずるに至る切っ掛けと動機が当然あるわけです。信じないだけでなく、あっさり否定してしまう楽山の軽口こそ、本質的に、嘘そして空疎なのです。
 
思想と宗教の出発点には、現実の苦難に際しての必要があり、必然があります。苦難の時の、心の回復と平安は、人生を支える力があり、信仰に必要不可欠のことでしょう。そこを全く考察する意志も能力も持っていないのが、楽山であり、まことに、実のない、余計な雑言ばかり吐いています。
 
心のない楽山には、心の必要と必然がなく、ゆえに、共感することが出来ず、考えて整える理路も育っていないのでしょう。それで、評論家気取りだけが過剰にあれば、目も当てられない見掛け倒しの悲惨な経過と結果となって表れ、末路への転落が予感されるばかりであります。
 
 
*信仰批判
今こそ、信仰に対し批判をしていくべきときだ。
午後7:39 · 2021年9月2日
 」
 
シュプレヒコールでしょうか。信仰が人類の敵だという悪意の前提が見え見えです。
 
ドーキンスの言葉には共感することは多いが、さすがにこういうところは扇情的にすぎるようだ。
自分は、信仰は人の性であり、撲滅することはできぬものであろうし、それならば信仰にはさまざまな難点があるにしても、違法行為や人権侵害がない限りはさして批判する必要はなく、人それぞれ自由でよいとする他なかろうと思う。
 
楽山の、撲滅できないから、批判する必要がない、というのは、理路として、完全に間違っています。相変わらず理路の整わない楽山です。嘘も詭弁も、無反省も無責任も、思いやりがなく、反省せず、不祥事をみんな人のせいにする病質者の業(ごう)であり、糾弾されるべきは楽山その人です。
 
このように、有名人の言を利用しながら、宥めるかのように、自分はそれよりも上だという満悦からの印象操作を忘れないのが、評論家気取りの楽山です。それによって、全ての言論者の敵であることが明らかになってきました。書けば書くほど、楽山の我欲と傲慢と卑怯さが、あらわになるでしょう。
 
道徳や人間の尊厳を無視した訂正不能の妄想的な、宙ぶらりんの思い付きを、得々と語ってきたのが、楽山です。違法行為の取り締まりは警察の仕事です。犯罪歴の不明か未遂かの、楽山のような、節操と道徳に反する非人間には、徹底した批判を続けるしかありません。
 
楽山には独自の思想はありません。その時その場の、よさそうなことを、自分がひけらかすことによって、自分だけを高めているつもりなのです。楽山の、ボクはこんなに善い人アピール・・を受け入れてしまうと、楽山の従属物となって、自分を見失ったまま、良心を失ってゆく病魔が待っています。
 
楽山は、誰にも共感することはないでしょう。ただ、病質のエゴのために悪用しているのです。だから、人を人とも思っておらず、無視と裏切りは当たり前なのです。無自覚で無反省で無責任の楽山には、最終的に何らかの圧力か強制力をもって排除されるしかない必然が付きまといます。
 
 
*信仰と癒やし、議論
それが「慰めになる」という理由で何かを信じようとする人を、どうして真剣に取り合えるというのだ。
 」
これには、その信仰は真実であるかどうかという議論と、その信仰による効果はどのようなものかという議論をごちゃまぜにしているがゆえの混乱がある。
 
楽山に、そういう分別があったなら、今までの単方向で訂正不能で、随時忘却によって責任逃れしながら惑わしてくるような災いはなかったはずです。混乱をもたらしているのは、他者を好きなように悪用する楽山その人であります。有名無名に関わらず、悪用の犠牲となってはいけません。
 
表面的な辻褄だけを追いかけているような、心のない者たちには、信仰は永遠に理解不能のままでしょう。人間は、修正可能であることを信じたいけれど、楽山を見ていると落胆せざるを得ません。無神教カルトは、多く、信仰の慰めも、癒しも、感受できない自尊過大の者たちのようです。
 
 
信仰に関する議論は、大雑把に言えば、①その信仰は真実であるかどうか? ②その信仰は真実であると感じられるかどうか? ③その信仰による効果はどのようなものか? というものがあり、それぞれまったく別の問題である。
 
何という幼稚な詭弁の理路でしょう。信仰に、効果を問うとは、まるで実験マニュアルのような書き方です。科学のような普遍的な法則や真理ではなく、信仰に必要なのは、個人の心を支えるための、人間的温熱を持った真実なのです。生きている人間について、楽山は、どこまで暴言を吐くのでしょう。
 
信仰が真実であるかどうか、救いとは何か、これは主観的に受け取られる感慨であり、最終的には、神が裁くことです。信仰の真実とは、真実であると感じることです。楽山は分けることの出来ないものを、言葉だけで分けて混乱させる詭弁です。できないことを要求して否定する詭弁です。
 
楽山は、箇条書きにして論理的に見せかけてきますが、信仰の、真実性も、感受性も、効果も、何も分かっていない楽山の言は、屁理屈の詭弁です。決して相手にしてはいけません。楽山は、受け入れられるような文章の体を装うだけで、何度も言いますが、何の実質もなく、責任も負う気はないのです。
 
「それぞれ」「別の問題」ではありません。信仰者は、その人生において無責任ではありません。いかなる罪も認めず、いかなる責任も負わずに済まそうとするのは、楽山という自己愛性パーソナリティ障害NPDの業であり、いずれ、想像を絶する重さをもって、楽山にのしかかり追いつめるでしょう。
 
信仰は、その真実も、感受も、効果も、信じた者に暗示されるだけです。どうして、神の意志が、人に、手を取るように分かるでしょう。本質的な不可知、未知、不明を、分かるものであるかのような安い言質によって、悪用してきたのが楽山です。頭がカチカチ山の楽山です。
 
 
それにも関わらず、信仰者の中にはこれらの問題をごちゃまぜにして、「この信仰によって大きな慰めを得たから、これは真実に間違いありません」とか、「この信仰は真実です。もし真実でないなら、これほど人々の心に訴えかけ、感動を起こさせるわけがないのです」とか主張する者が多い。信仰者は②③を持ち出すことで①について語っているつもりになりがちなのだ。
①についての議論が困難なのは、こういう混乱に原因があると思う。
 
上に述べたように、②③は成り立たない詭弁ですから、信仰については無意味です。効果が証明され保証されて信じるような信仰は存在しません。楽山が、なぜ、信仰に縁がないかが、楽山によって、説明され、証明されたのです。詭弁で文句ばかり言う人には、言論の資格はありません。
 
だから、信仰には、信じるか信じないかの自由があるのですが、それを認識できない楽山は、全部を、いちゃもんの材料にしてしまうのです。一部の体験について、全部であるという言いかがりで責めています。つまり、信仰の自由の、最も凶悪な迫害者は、楽山であります。
 
信仰者は、相手を安心させるために、自身の体験を語ることがあります。それを揚げ足取りに悪用する楽山は、無知と無教養という揚げ足を取られて、さらに詭弁と嘘を重ねて保身を図ることで、人の世界で赦されず、神の世界ではさらに赦されない害毒の泥沼をさまよう者となりました。
 
 
*信仰は悪である!
本当の意味で有害なのは、子供に信仰そのものが美徳であると教えることである。 信仰は、それがいかなる正当化の根拠も必要とせず、いかなる議論も許さないという、まさにその理由によって悪なのである。
 」
 
著者は、議論を許されなかった恨みがあるのでしょうか。前の記事のように人をマヌケ呼ばわりして許されると思うほうが無理でしょう。さらに、それを、楽山というペテン師に、まんまと悪用されています。クレームが来ないことをいいことに、楽山は、悪用の罪業だけを積み重ねてきました。
 
信仰についても、共感に基づく議論は可能ですが、楽山のような反キリストで訂正不能の変質者とは永遠に議論不可です。楽山は、糞尿を引っ掛ける者、そして、善悪と正邪だけでなく、精神衛生において、楽山は極めて不潔です。
 
 
子供の宗教教育は程度問題ではなかろうか? その土地や民族の宗教的な文化伝統が自然な形で子供に伝わるのは必ずしも悪ではなかろうが、あまりに厳格な宗教教義を子供の頭に刷り込もうとするのは児童虐待であろうし、明らかに悪である。
 
程度問題ということで、いい加減がいちばん、という詭弁に誘導するのが、楽山です。信仰の真実も感受性も効果も、楽山は何も分かっていないからです。そして、強引に、児童虐待に結びつけています。悪魔性が明らかです。善を装う悪の醜形が、ここで暗躍しています。
 
むしろ、楽山のような詭弁屋が、カルトでも始めたら、いかなる悲惨を招くかが、楽山によって、表されているのです。そして、今までの記事に、楽山は、霊能者気取りで、教祖願望があると思われることを私は書いてきました。楽山は、人間に対して自己中からの虐待を切望する異常者です。
 
 
信仰と議論については、まったくその通りだ。特定の信仰を絶対視し、その妥当性について議論することさえもゆるさないというのではあまりに高慢で独善的にすぎてまったくお話にならない。
 
神そして信仰の妥当性が、人間に分かるわけはないのです。人間は不完全だからです。楽山が、上のように言うのは、妄想的な全能意識と最終的な審判者に成り上がった人間の、最も醜い姿なのです。丁寧語で人をだまされると、人格破壊の地獄が待っていることを知っていてください。
 
楽山の、曖昧さと、いい加減さでは、病原となるだけで、誰も救うことは出来ません。楽山の言論のベースには、何でも分かるつもりの傲慢があります。専門用語も、日常語さえも、理解せずに使いまくって、単方向に暴発を繰り返す悪魔性が、一日も早く消滅することを祈っています。
 
楽山の自己愛性パーソナリティ障害では、誰に教える資格もないと思います。本人が、それを自覚できないのも、この障害の症状ですが、巻き込まれる側にとっては、死活問題です。危険な圏内に入らないことだけが予防策となります。楽山こそ、全くお話にならない人です。
 
楽山の言は、質の悪い睡眠薬のようなもので幻覚剤併用みたいなペテンです。毒物ですから、副作用として、知情意が鈍麻し、人格の鈍麻~破壊が起きてきます。付き合えば、楽山と同じように、嘘と詭弁で人をだまして平気でいるような、うっすら、ぼんやり、どんよりした不感不応の自己中になるでしょう。
 
楽山は、アンチとしてカルト批判をしているつもりのようですが、宗教と信仰についての見識が、あまりに杜撰(ずさん)で視野狭小で偏屈で、未熟なのに、反面、自尊だけが過大であるために、妄想性になっていて、自己愛性人格障害のインテリ気取りの危険な症例となっています。
 
楽山は、何もうまくいかない人生だから、芝居を覚えたのでしょう。しかし楽山は大根です。さらに、嘘と詭弁と一体となるゆえに、ますます害悪となってきました。しかし、自我の弱い人は、だまされるかもしれません。それに味を占めた楽山が、好都合な言葉を漁り続けているという現状です。
 
肯定と否定を両方言ったら責任問題は生じないというのが楽山の言論の姿勢です。言論にプラマイゼロはありません。責任を負わず、反省もせず、訂正もしない病質者が楽山です。何度も言いますが、言論の責任を負わない者に、言論の自由はありません。楽山は、全否定され続ける無法者です。
 
 
虚空に干上がる心

虚空に干上がる心
 
 
(2021年)
(2022年09月24日、再録+加筆)
 
 
 
  責める
 
書いた文字が
起き上がって
僕を責める
何と言って責めているのかわからないが
書けば書くほど責める
立ち上がった文字が
二人寄り三人寄って
言葉になって責める
しまいには
まわりいっぱいになって
うるさく責め続けるので
紙を破って
丸めて捨てる
書きかけの文章を捨てる
静かになった
と思ったら
捨てた紙の間から
はい上がった一人が
弱々しい声で言った
うそつき・・・
 
 
  さぐる
 
時を探っていた
恐らく一生わからないであろう
時間というものを加えた四次元を
三次元の頭で探っていた
 
寝床の中である
夢か現(うつつ)か
限りなく沈んでゆくようだ
限りなく、というもの
無限を枠に嵌(は)めるようなものだ
できるはずもない
頭も心も三次元であるかさえわからない
最近とみに平べったいから
潰れてぺちゃんこにならないうちに
自分を知りたかった
関りと拘(こだわ)りと無関係と無関心
で過ぎてきたことになって
今ここにいる自分を
 
自分の記憶の中にしかいない自分
それさえも忘れやすい自分
実体が欲しかった
眠りに落ちてから
底知れぬ旅に落ちてから
捕まえたかもしれない
でも目覚めたときの仕種(しぐさ)は
その記憶さえ消し飛んでいて
回る走馬燈の中の
残り少ない蝋燭(ろうそく)の
小さい炎に変わる前の
油の蒸気を探るようなものだ
 
 
  夜の向こう岸
 
死者たちに見られているような
影の卑怯な歪(いびつ)さは
深まり広がる陰の暗さに
昇り沈む星々を隠されて
夜の彼岸に近くなる
 
紫の顔や肢体のようでもあり
血まみれの上半身のようでもあり
それなのに一方で
やさしい顔で見守り
守ってくれてさえいるような
彼岸の人たちは総て知っているのに
招いているのか呼んでいるのか
拒んでいるのか憎んでいるのか
視(み)てさえいないのか
此岸(しがん)は何も教えてはくれない
 
ただそんなとき
管に詰まった結石が
管を切り裂きながら
内部から飛び出して
転がって小さく
もっと低く小さいところから
完璧な出血を
乞いたがっているような
寄る岸のない疼(うず)きのうちに
 
やがて沈まない北の星が
空に沈んでゆく頃
死者たちが見ていてもいなくても
誰がいてもいなくなっても
影は別の日の
汗と涙に濡れている
 
 
 
 楽山のツイッターですが
 
心機一転★こも楽山
自分には自分の臭いは分からないというけど、Pさんもそれだね。Pさんからは自分教の臭いがぷんぷんしてるから、自分教といわれる。一字一句を吟味した上でそう結論づけてるわけではない。
一字一句にこだわってるのは、鉤括弧を多用するPさんの方ですよ。Pさんは自分教の教条主義者みたいです。
午前6:53 · 2021年9月16日
 
「自分の臭いが分からない」のも、「自分教」も、楽山にぴったり当てはまることです。アンチであるかどうかの問題よりも、楽山は異常者です。しかも、体質的な自己愛性パーソナリティ障害NPDです。無反省、無責任のままで、一生過ごせるとでも思っているのでしょうか。
 
ちなみに、楽山は、とても臭い男です。見せかけだけの楽山は、とてつもない量の汚い香水?を自らに、振り、塗りたくりながら、いつからおれが・・と、臭い野望を燃やしている変質者であり妄想狂であり、反社会性の人格です。決して関わらないでください。
 
楽山が、誰かのことを言うたびに、ブーメランになって、楽山に返ってきていることに、楽山だけが気づかないのです。ここまで、自己愛性人格障害は、分からない人になってしまうから、それこそ "撲滅同盟" でも作らないと、解決しないことなのです。言論では、批判しか出来ません。
 
また、楽山には、「一字一句を吟味」どころか、他者の意見など、都合が悪ければ、一言も受け取らないし、覚えてもいないでしょう。それで、人に対して何か意見や批判をすることなど、決して、できません。それさえ分からない人ですから、けっして楽山を相手にしないでください。
 
 
人格障害というのは、昔、精神病質と呼ばれた体質の病気で、精神病と違って、有効な薬がありません。関わらないこと、相手にしないこと、批判するなら人格の異常を批判することが必須になるのです。つまり、不感不応の楽山を批判するなら、不感不応の病質を指摘するしかないわけです。
 
人格を批判してはいけないというのは正常人の病気の場合です。正常な関係性が成り立つ場合だけです。言論を慎んで、おとなしくしていることが必要な病質なのに、なおも、しゃしゃり出てくる楽山に対しては、病的な人格について、直接、批判してゆく以外ないのです。
 
楽山には、自慢できることも、客観的に評価できることも、全くありません。それをごまかすために、婉曲的な屁理屈のボンヤリ言語という丁寧語を使い、同情を誘うためにトホホ言語という謙虚芝居や嘘の弱音や世辞を言ったりします。楽山は、まとものつもりでも、寒気を感じるほど異常です。
 
しばしば、作為的に、自分が言われそうなことを相手に向けてきます。上のツイートもそうです。病質のために、人に言っても、自分が言われても、実感と実質がないのです。だから、何を言っても言われても、平気で無視して、罪悪感を感じないでいられるのです。
 
楽山の言は、嘘と詭弁に満たされ、良心の欠損を表すだけです。楽山の言には、三文芝居のセリフはあっても、人間らしい温もりと潤い、つまり、思いやりと悲しみへの共感が見られません。乾燥しボンヤリして焦点を外して良さそうに見せるだけの言葉面はあっても、真実の欠片もありません。
 
ですから、楽山の言は、何の参考にも糧にもなりません。こちらとしては、体質的異常者の劣悪さを例示して敷衍したいし、また、資料とするために、批判を続けています。楽山が書けば書いただけ、それは、悪い言論の例として、嘘と詭弁の具体例として、病質を表す資料となってゆくのです。
 
例えば、医者は、精神病でも、精神病質でも、ことを荒立てないことを優先します。説得して、表面的でも治まれば、それ以上は言わないでしょう。そういうことを、半端な知能で知っているところが、病質者の狡さなのです。だから、丁寧語、世辞、甘い言葉・・などを多用するわけです。
 
 
 
★こも/楽山日記3
@komo266
もう何度も説明してることですが、aとbの議論は違います。
bの議論では、総裁の著書を引用は必須です。これなくして議論は成立しません。
a. 信仰とは何か?
b. 信仰について総裁は何と言ったか? 著書にはなんと書いているか?
 
a.について、HSは知りませんが、キリスト教と信仰について、楽山は何も知りません。にもかかわらず、キリスト教の神を否定したのが楽山です。つまり、何も気にせず、責任も負わず、言い捨てるのが、楽山です。後悔や罪悪感などの高等感情がないのだろうと思います。
 
 
★こも/楽山日記3
@komo266
ちなみに、aの議論は正解は確認しようがないので、人それぞれということで終了かと思います。
ただ個人的には、信仰とは偶像崇拝であり神に対する冒涜である、神を信じる者より、信じない者の方が真の信仰者である場合も有り得ると考えます。
その理由はブログに書いてます。
 
信仰は、人それぞれ(でいい)と言いたいようです。楽山は、いかなる信仰も持っておらず、全く信仰というものを知らないと思います。「信仰とは偶像崇拝であり神に対する冒涜である」・・また暴言を吐いています。偶像崇拝になったら、信仰は、おしまいで、不信仰より悪いのです。
 
「神を信じる者より、信じない者の方が真の信仰者である場合も有り得ると考えます」・・信じていると言って実は信じていない者もいます。なお、楽山は反信仰です。「その理由はブログに書いてます」・・楽山は、何も書き得ていません。信仰など何も分かっていないことだけが表れてきました。
 
 
 
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  煽動者楽山2
 
 「リチャード・ドーキンスbot」を見てみた。
 2021年09月12日 楽山日記(LD)
   を改めて批判。
 
 
「見てみた」と軽く読書をして、無神教カルトの学者らしい人を、べた褒めする楽山の記事です。大袈裟に賛同するだけで、何の洞察力も直観力も理路もない楽山の稚拙な筆致と貧相な中身を見てほしいと思います。自己愛性パーソナリティ障害NPD(自己愛性人格障害)の暗夜を徘徊する楽山です。
 
 
*ドーキンスの名言
「リチャード・ドーキンスbot」を見ていたら、名言がたくさんあったので、自分なりの感想をメモしておきたいと思う。
*超越者としての神
もし神が存在したとしても、それはどんな宗教のどんな神学者が提唱してきたどんなものよりも、はるかに巨大で、はるかに理解しがたい存在だろう。
 」
これはまったくその通り。神は人を超えた存在であるなら、人の思念の外にはみ出しており、その全体像はおろか、一部でさえも認識するのは困難だろう。
 
神の不可知と不思議は、当たり前のことです。何人も、神をこの世の事物のように対象には出来ません。人間に、さらに、楽山ごときに、分かる存在ではないのです。だから信じないのなら、黙っておればよいのに、欲求不満と自尊過大から、文句ばかり言っているのが楽山であります。
 
楽山は、神に会うこともなく、神を感じることもないでしょう。いくら、楽山が、自然の驚異や超常話で、神を語ったことにしようとしても、この2年半、全く、罪を認めず、敬虔も皆無なのは、神を知るための感受性がないということだから、何を言っても無駄なのです。
 
楽山には、宗教など語らず、それよりも、小学校の道徳を身に着けてほしいです。そこが、無反省・無責任のために出来ていないから、今も、厚かましく口出しをするわけでしょう。楽山は、書くたびに外れ、書くたびに醜く、書くたびに知能が低下してゆくようです。
 
神は不可知ということをもって、単純に短絡して、神を否定したい楽山ですが、この主張こそが、信じて、仰ぐ、という希望のスタンスを、全く、理解できない証拠として、これからも、無神教カルトの醜態は続くのでしょう。
 
 
*旧約の神
『旧約聖書』の神は、おそらく間違いなく、あらゆるフィクションのなかでもっとも不愉快な登場人物である…血に飢え、民族浄化をおこなった人間。女嫌い、ホモ嫌い、人種差別主義者、幼児殺し、大虐殺者、実子殺し、悪疫を引き起こし、誇大妄想で、サドマゾ趣味で、気まぐれな悪さをする弱い者いじめだ
 」
自分の第一印象も大体このようなものだった。旧約の神は、当時の絶対権力をもった王様がモデルになっているという指摘も、さもありなんと思える。
 
自らの不遇を、あらゆる災難を、神のせいにばかりする人もいるんですね。実際は、歴史の悲劇も、昔の物語も、皆、人のわざを見たからこそ書かれているのです。これを、不愉快だというのは、自分の不完全さも罪も欠点も、何も見ないで、他者を責めるような人物だと思います。
 
 
ただ自分は繰り返し聖書を読むうちに、神は人に何度裏切られても、その度にゆるし続けていることに気付かされ、その慈悲深さに涙がこぼれる思いをしたことがあるので、旧約の神を峻厳だが人を慈しむ存在だと信じる人がいたとしても、その気持ちは理解できなくもない。
 
「ゆるし続けて」「慈悲深さに涙がこぼれる」・・これは、楽山の自己正当化の嘘だと思います。楽山の涙を信用してはいけません。もはや、楽山が書いても、あざ笑いの履歴から、全く信用できなくなってしまっているところの、感動とか涙とかいう大根役者の大袈裟なセリフなのです。
 
昔も今も、信仰者にとって、神は、この世の成り行きを支配する御方として、その全能の権威を恐れ、罪深く病んでもいる人間に共感するキリストとして、その救い主の慈しみに癒され、ゆえに、祈り、人間らしい共感という愛の、同伴にに支えられて生きる恵みであります。
 
 
*神様いろいろ
ありえそうにない話ではあるが、もし仮に死後に神に会ったとしら、最初に私が尋ねるのは、そうだね、「あなたはどの神さんですか?」ということだろうね
 」
これは笑える。巷には各宗教の神々はもちろん、神を自称する人々も無数にいて、神様のおしくらまんじゅう状態であることを思えば、こういう挨拶もやむなしだ。
とある人は「石を投げれば神様に当たる」と言っていたけれども、これは至言だ。
 
神を自称する人と、神は違います。楽山のように神を笑う人と、信仰者も違います。楽山が、いくら石を投げても、当たるのは、楽山が妄想している偽物の紙細工だけであります。神を、十把一絡げにして遊んでいる楽山は、やがて、紙屑になるだけだからです。
 
楽山は、その思念の中で、自分独りで、おしくらまんじゅうをしているのです。それで、神がどうのと言うのだから、全く話になりません。神の大安売りをしている楽山には、決して、関わらないでください。楽山というペテン師の安物の伝道者気取りの被害に遭わないように。
 
 
*個人的な体験による神の存在証明
個人的な体験をもとにした論証は、神の存在を証明できると主張する人々にとって、最も説得力のある証明である。しかし、そうでない人にとって、そして心理学をよく知っている人間にとっては、最も説得力のないものである
 」
かつて自分が所属していた宗教団体でも、大体このような論法がされていた。信者が語る奇跡体験によって、「神の存在が証明された」「この宗教が本物であることが証明された」と結論づけるわけである。
 
心理学は、基本的に、神については語らない、そして、語れないと思います。全く分野の違うところから、神について語る者を信用してはいけないです。心理学の心理は、あくまで、人間の心理であります。まさか、心理と真理をごっちゃにしようというような安い詭弁ではないでしょうね。
 
個人の人生の必要と、個人の妄想的な思い込みを、ごっちゃにしている楽山の詭弁です。信仰を必要とする人は、神がいかに不可知でも、神を信じ仰ぐしかありません。そういう信仰者を、根こそぎ否定するのが、楽山であり、この者からは、何の助言も考察も真実も生まれることはありません。
 
 
人の記憶は書き換えられることがあるだとか、人は関係ない二つ以上のものを結びつけて因果関係があると思い込んだり、偶然にすぎない事柄にも自己流の意味を見出そうとする癖があるということにはまったく注意を払うことなく、自分の実感を最優先にして結論を出し宗教的喜悦に浸っていたのだ。
自分は心理学のことはよく知らないのではあるが、上のような信者の主張を聞く度に、その自我の強固さと、そのことに対する無自覚さに圧倒される思いがする。
 
人の記憶が書き換えられることがあっても、楽山の妄想は病理なので消えることがありません。これからも糞尿のように気色の悪い妄想的断定をしてくるでしょう。事実の意味付け、宗教的喜悦、自我の強固さ、無自覚さ、などは、皆、楽山において、訂正不能に強烈です。
 
「心理学のことはよく知らない」・・楽山は、何を知っているつもりで、図々しく書いてきたのでしょう。「自我の強固さと、そのことに対する無自覚さ」・・また人のことを言って、自己愛妄想の自分を見ない楽山です。またブーメランなのです。強固というより訂正不能なのが楽山です。
 
 
*おまけ
「新無神論bot」では、ドーキンスのこんな言葉が紹介している。
【無神論】我々は、かつて人類が信じてきたほとんどの神々について無神論者である。一部の人間はその信仰しない神が一つ多いだけだ―リチャード・ドーキンス
 」
これはたしかにその通りだ。無神論は悪とする人であっても、自分が信ずる宗教以外に対しては無神論者になっているものだ。
 
まず本質的に、どの神も信仰する宗教はありません。ここでは、神という名で、みんないっしょや・・とばかり、同質であるかのように扱っていることが、悪意ある詭弁であり、全く理路の欠片もなく、人間としての分別もない楽山の高い病害性と犯罪性の証拠となっています。
 
 
唯一の神は信じるが、その他の神々は信じないという者と、すべての神々を信じないという者とは、信じない神が一つ多いか少ないかということだけ…。この違いは大きいとするか小さいとするかは人それぞれであろうが、自分にはどうも後者のように感じられる。
 
楽山は、神を知らないので、恐ろしいことに、神を、物を数えるように、数えています。どの宗教についても勉強しない者が、黙する分別を持たず、偉そうに書いて、人それぞれの詭弁で、視野の狭小を、ごまかしています。見識皆無の証拠です。だから、神々という言葉が便利なのでしょう。
 
唯一神という言葉を書いておきながら、楽山は、「その他の神々」と言って、無理解を明らかにしています。万事こういう感じです。これで、キリスト教についてクレームを書いてくる身の程知らずなのです。楽山は、個人の信仰という視点が全くなくて、普通名詞で神を扱っているのです。
 
普通名詞で語るなら、楽山が、神と言うとき、それは、神ではないということです。神について、楽山は、何も語っていないということです。それを混乱させるのが楽山の悪だくみです。楽山は、ずっと、書くたびに嘘吐きなのだから、永久に物を言わなくなってほしいと思います。
 
信じないなら、信じなくて結構ですが、ならば、神も、信仰も、知らないということだから、実感も共感もないのです。そこから、知ってるつもりで神を云々することは、絵空事に悪意を含ませて、高く売りつけるような筋違いも甚だしいペテンです。
 
神を必要としないなら、信じる必要もありません。ゆえに、その人は、信仰の世界を知りません。だから、楽山が、必要としない存在について、知りもしないのに、即ち感受も理解もしていないのに、とやかく語ろうとするのは、児戯にも値せず、醜い自己顕示欲以外の何ものでもないのです。
 
 
(著者ドーキンスの笑った顔の写真、省略)
それはそうと、この画像はちょっと怖い。ハンサムな人だし、もっといい写真を使えばいいのに…。
 
酒でも飲んでいるのか、あざ笑っている悪魔のような顔にも見えてきます。楽山は、同じように笑っても、ぼんやりしているだけのような気がします。自分の顔を持たず、何も書けないものだから、また、他者の口を利用しているのが、卑怯で腰抜けの楽山です。
 
楽山は、自己愛性パーソナリティ障害NPD(自己愛性人格障害)という病質によって、心の共感性がないのでしょう。だから、ホラーや超常などの話をたくさん書いて代償しているつもりですが、信仰は、心に受け取る賜物ですから、いくら書いても的が外れてしまうのは当然なのです。
 
楽山には、そういう不全の自覚がなく、自己顕示欲だけがあるために、ハナタカに書けば書くほど、顎が外れ、デタラメとなり、インチキとなり、害毒となり、迷惑となり、真実をけがすことになります。即ち、様になっていないのに、分かったふりをする、まさに、貧相な裸の王様なのです。
 
 
神を決めつけるのはキリスト教系カルトです。
 
神の不在を決めつけるのは無神教カルトです。
 
キリスト信仰は、個人の唯一の希望の同伴と信じて、神に祈り、キリストを愛することです。
 
 
笑っても怒っても締まりのない心

笑っても怒っても締まりのない心
 
 
(2021年)
(2022年09月21日、再録+加筆)
 
 
 
キーワード:卑怯
 
 
  夜の向こう岸
 
死者たちに見られているような
影の卑怯な歪(いびつ)さは
深まり広がる陰の暗さに
昇り沈む星々を隠されて
夜の彼岸に近くなる紫の顔や肢体のようでもあり
血まみれの上半身のようでもあり
それなのに一方で
やさしい顔で見守り
守ってくれてさえいるような
彼岸の人たちは総て知っているのに
招いているのか呼んでいるのか
拒んでいるのか憎んでいるのか
視(み)てさえいないのか
此岸(しがん)は何も教えてはくれない
ただそんなとき
管に詰まった結石が
管を切り裂きながら
内部から飛び出して
転がって小さく
もっと低く小さいところから
完璧な出血を
乞いたがっているような
寄る岸のない疼(うず)きのうちに
やがて沈まない北の星が
空に沈んでゆく頃
死者たちが見ていてもいなくても
誰がいてもいなくなっても
影は別の日の
汗に濡れている
 
 
  遠ざかるもの
 
遠ざかるものに呼びかけてはいないか
危うきものよ
あるいは君子でござるよ
君子が近寄らないのを
引き寄せようと焦ってはいないか
自業自得の危うさを
誰かの所為(せい)にしてはいないか
あるいは流れ
避けられぬ移ろいでござるよ
寒い朝と夜に震える間も
危うきものよ
森も山もこれから
枯れて華やかに色づくというに
一枚の落ち葉のゆえに
卑怯にも
遠ざかるものに呼びかけてはいないか
近づくものから逃げようとしてはいないか
 
 
 
楽山の害毒メモ:
今までに表れてきたこと。これは、楽山に限らず、聖書においてキリストの敵となった宗教指導者や、世に数多いる偽善者の特徴でもあります。この世で最も迷惑な人の特徴です。楽山は無責任です。決して信用しないでください。
 
楽山は、1つのことを書いて、別の時には、それに反することを平気で書いてきます。そこで、反省、修正、というステップを書かず、あたかも最初から思っていたことのように書いてきます。自分に誤りを認めない自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)だからです。
 
人格:
自己愛が強く自己中である。
笑いと怒りしかなく、悲しみの情がない。
共感がなく、罪悪感がなく、反省しない。
自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)と思われる。
平気で嘘を吐く。様々な詭弁を弄して、柔和に見せかける。
深い情感がなく、共感性がない。相手が疲れるのを見て快感を得る。
後悔、反省、修正ができない。学習による成長がない。
罪悪感、羞恥心が見られない。サイコパスと思われる。
アドラー心理学の宣伝をしていた。自己中心である。
中身や実質のない形骸的精神機能しか持たない。
 
単細胞。
 
議論:
議論や交流が、表面的で、整わないし、できないし、元々する気もない。
相手の意見を受け取っていないので、反論、弁明が成り立っていない。
理路が常識的にも浅く、基本的に訂正不能である。理解力がない。
自分なりの堅実な理路を組み立てられない。
読書自慢。感想は平板で、独創性や深みがない。
様々な気取り。読書家気取り、評論家気取り、インテリ気取りなど。
分かっているという我執から離れられない。
非を指摘されると、逆に、こちらに当てはめて被害者面をする。
人を批判~誹謗中傷するが、その言葉で自分が斬られるブーメラン現象。
真面目に応答~議論すればするほど、病的な徒労感と疲労のみをもたらす。
ボンヤリ言語:語尾を濁し曖昧で婉曲的な言い方で、印象を刷り込もうとする。
トホホ言語:謙虚で弱いと思わせて悪意を隠すための嘘の芝居。
しばしば、自身への同意を期待して、見え透いた世辞を言う。
「反省。とほほ」などと書くが、不自然であり、前後で何も変わらないので嘘です。
騙して、言い分を詭弁や嘘で通そうとする、通っていると思い込む。
 
宗教:
反キリスト、反宗教。聖書およびキリスト信仰を、貶めてくる。
キリスト教とキリスト信仰を字面だけで云々し、理解していると思い込む。
HSを脱会したと言っているが、真実かどうか、疑わしい。
霊能者のつもりだが、それに見合う直観的洞察は皆無である。
 
楽山の書いた文章を、3年数か月のあいだ見てきた結果ですから、大きく変わることはないでしょう。これらについては、新しい情報によって、必要なら加筆し、繰り返し載せることになるでしょう。
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
 
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
楽山には、真の仲間はいませんが、言葉だけ勝手に引用する対象は多いのです。有名人でも、お構いなしに利用してきます。こういう節操のない態度で、宗教を語れば、荒らしレベルにしかならず、卑怯と非人間性を自ら証明しているようなものだと、楽山だけは気づかないようです。
 
 
 
★こも/楽山日記3
@komo266
毒親のマイコンとは違うけど、
宗教の信者をやってた頃は、何に対しても「教祖はどう思うだろう」「これは悪霊の惑わしではないか」などと考えてました。
今は、退会して何年も経ってるから、もうそんなことはないけど…。
やっぱ、あれがマイコンだったんだな。こわっ😱
>>
穂野香
@TzGGYiSkTO0OkFO
9月18日
毒親のマインドコントロールが解けているかどうかが一番わかりやすいのは自分の【思考癖】だと思います。私の場合、何かあると『母がどう思うだろう…』と真っ先に考えます。自分の気持ちより無意識に母が優先になっているのです(>_<")↓
<<
午後9:38 · 2022年9月19日
 
毒親のような刷り込みでマインドコントロールの記事を書いている楽山が「毒親のマイコン」について書いています。「教祖はどう思うだろう」・・楽山こそ教祖願望の人です。「これは悪霊の惑わしではないか」・・楽山は悪霊の惑わしのようなことをする詭弁屋です。「こわっ」・・嘘です。
 
いかなる罪の責任も、まるで被害者であるかのような立場で語って、自己の正当をアピールする楽山です。自己愛病質というのは、ここまで、悪意に満ちてくるのです。意識も無意識もなく、病魔が顔を出してきます。また嘘を吐いた、という、いつものことで、赦されることはないのです。
 
 
 
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  楽山の危険2
 
 信者ブログを見た(アンチ批判)
 2020年08月30日 楽山日記(LD)
 抜粋です。改めて批判します。
 
 
楽山ブログには、HS批判が多いようですが、カルト対策とも言っていますが、嘘だと思います。長いですが、抜粋して批判します。記事内の画像やリンクも省略しているところがあります。2回に分けようとも思いましたが、後半が緊急で重要なので、1回にまとめます。
 
カルト対策は、まず、詭弁家の楽山対策のほうが大事だと思っています。今回、後半で、恐ろしい楽山の本性と危険が語られています。ちょっと常識では考えられません。
 
楽山は、キリスト教をけなし、一方で、クリスチャン芝居をするような、とても、いい加減で、気まぐれな人です。宗教をバカにしている、あるいは、自分には、みんな分かっている、という思い上がった精神で書いているからでしょう。
 
楽山は、私からの批判に、まともに返してきたことはありません。そして、既に否定されて成り立たないことなのに、同じことを書いてきたりしましたが、その後は、こちらを無視しているようです。
 
 
*まえおき
前記事でとりあえげた信者ブログで、アンチ批判がたくさんあったので、ざっと見てみた。以下に感想を書いてみる。
*ノンクリ
まず楽山はHSからキリスト教に改宗したかのように書いてあったのには驚いた。デマを広めるのは止めてほしい。
信者には、天国か地獄か、信者かアンチか、敵か味方かという具合に、ものごとを単純に黒白に分ける人が多いようだから、楽山はキリスト教の本を読んで感想を書いてるからキリスト信者だ、と思い込んでしまったのだろうか。
 
約一年半の楽山批判によって分かったことですが、楽山は、キリスト者ではなく、むしろ、反キリストだと判断しています。キリスト信仰に必要な弱さの自覚がなく、一方で、キリスト信仰にはないはずの自己愛絶対の立場と、それを隠して詭弁と嘘で騙す性質を持っています。
 
楽山は、字面の辻褄合わせで、キリスト教や他の宗教についても語りますが、信仰の心が無いので、子供の小理屈~屁理屈レベルのことしか書けない人です。拙いクレーマーです。
 
 
*ひと目で分かる1
大川隆法が仏陀でないことは、大方の人は、この写真を一枚みただけで、すぐ分かる。
(写真省略)
でも教団内では、大川隆法(エル・カンターレ)の天上界での御姿を再現なさったのです云々と理屈をつけて、これを尊いものとする。
*ひと目で分かる2
霊言についても同様だ。信者以外であれば、大方はひと目で、ただのイタコ芸だとわかる。
・大川隆法がトランプ米大統領の守護霊を呼び出した時のやつちょっとだけ
 」
でも教団内では、霊言の仕組みはああだこうだと理屈を重ね、本物だと結論付ける。
 
HSは、教祖の誇大妄想がベースのようですが、キリスト信仰は、聖書に表されたところの、人間に対するキリストの洞察力と共感が、聖書を読む人を惹きつけています。
 
超常の奇跡によって、一気に、悟ったり、完全になったりするような宗教と信仰は、我欲と我執であり、自己顕示欲であり、人間離れを起こす害毒だと思います。
 
そういう、超常が分かるっぽい、霊が分かるっぽい、という要素を、体質として持っているのが、楽山です。しかも、そのことを、楽山は、芝居によって隠し、嘘と詭弁で騙してくるのです。
 
 
*二種のアンチ
これによって、HS批判の手法は、大きく二つに分かれる。
一つは、ひと目で分かることを、そのまんま口に出すものだ。「大川隆法は神で、霊言は本物だってえ? そんなわけないじゃん(笑)」と。
もう一つは、ひとまず教団の設定した理屈にのっかって、その矛盾点などを指摘するというものだ。「教団はこれこれこうだというが、それはかくかくであってつじつまが合わない」などと。
信者のなかには、後者を屁理屈アンチと揶揄する者もあるが、実際のところは教団の屁理屈にのっかって、ああだこうだ言ってるだけの話なのだ。
 
楽山は、小理屈を捏(こ)ねますが、字面の辻褄合わせに過ぎないので、そこに、洞察も共感も生まれず、何の糧にもならないという特徴があります。楽山と、直接の遣り取りをすると、真剣になればなるほど、病的に疲労します。
 
人の気持ちを汲み取ることも、理解を共有することも、楽山は、出来ないのです。代わりに、世辞や、丁寧語のボンヤリ言語や、謙虚芝居のトホホ言語を使うので、相手を疲労させる毒を持っていると言ってよいでしょう。相手にしないことが一番です。
 
 
*平行線になる理由
これについて、藤倉善郎氏は、教団側の理屈を論破して、霊言はインチキだと証明することは難しいとしている。
・「大川隆法の霊言はインチキだ」と言い切ることにした理由
 」
宗教の理屈は、信じるものであって、実証されなくてもよいのだから、言ったもん勝ちのようなものだ。「こういう可能性もある」「こっちの可能性もある」「あっちの可能性もある」といった具合に、どんどん新説をつくれるのだから、らくちんだ。
 
宗教は信じるもの、という楽山の言葉を真に受けてはいけません。楽山が、"信じる" という言葉で考えているのは、字面で辻褄を合わせた屁理屈の思い込みに過ぎないからです。
 
一方、キリスト者は、キリストの洞察力と共感力によって惹かれてゆきます。
 
また、楽山は、宗教の理屈は実証されなくてもよいと楽山は言っていますが、実証されたら信じる必要はないわけで、実証できない本質ということです。
 
しかしながら、人間として実感されなければ、信仰には至りません。楽山には、そういう共感による実感がないのです。楽山は、宗教と信仰を云々できる人ではありません。
 
キリスト信仰について言えば、信仰は、人間として共感するものであり、忘れられなくなるものであります。ゆえに、理屈ではなく、愛と祈りの宗教と呼ばれるわけです。教理は、信仰そのものではありません。
 
 
だから、教義論争は、教団側に信仰を正当化する理屈を思いつける人がいれば、決して負けることはない。延々、平行線がつづく。でももし教団の設定した土俵上で議論しない人…たとえば、「これはウソだ」とひと目で分かることを、率直に言う人が出てくれば、どんなに苦心して積み上げた理屈も、あっさり崩されることになる。
 
教義論争というものがあるとしたら、信仰においては、心の共感と実感に基づくものでなければ、議論の説得力も成り立ちません。楽山のような、表面的な小理屈を振り回し、嘘と詭弁を弄する者の言には、説得力は生まれません。騙して、それらしく見せているだけです。
 
 
*信者と退会者の教義理解
信者と退会者の教義理解の差異は、上と関連している。
教祖を信じている者は、その発言がどんなにトンデモであっても、コロコロ変わっても、矛盾していても、整合性ある解釈を見つけ出そうと努力する。
でも教祖の真の姿に気づき、見限るようになると、そのような努力は放擲し、余計な解釈はまじえず、ありのままにその教えを見るようになり、おかしいものはおかしい、矛盾しているものは矛盾していると結論づけるようになる。
 
人間的共感が成り立つかどうかが、宗教の真偽の決め手になるでしょう。決めつけてよいわけではありませんが、人間に実感できることとしての共感の成り立たない教義や言葉は、結局、超常趣味や、超人趣味に陥ります。そこには、人間の良心を育てる要素がないのです。楽山が典型です。
 
 
教祖を信じている者にとっては、こういう教義理解は即物的で浅はかであるようにしか見えないだろうう。ことばの表面ばかりにとらわれ、その真意を理解していないと言いたくなるだろう。
 
このことを、楽山が言う資格はないと思います。楽山の言は、表層的な理屈の辻褄合わせであり、共感性の深みが見られません。自分を高めるために、言葉の字面だけを整える、これが、楽山の生業(なりわい)なのです。
 
 
でも現実には、トンデモはトンデモだし、コロコロはコロコロだし、矛盾は矛盾でしかない。信者の理屈、意味づけは、信者以外には通用しないものだ。
 
このように、楽山は、理屈の矛盾があるかないかということだけに、こだわるので、表層だけの意味となり、共感も実感も持ち得ない人だということが、今までの楽山批判において明らかとなってきたのです。
 
中身のない乾いた概念把握は、乾燥した積み木遊びであり、瑞々しい真実には至りません。それで、信仰を分かったふうに語る楽山こそが、トンデモなのです。
 
 
*自己中
自己中かどうかは、人を責めるかどうかを見れば、おおよその見当はつく。
 
人を責めるかどうかを見れば見当がつくと、楽山は言っていますが、ならば、人を批判し、責め、いちゃもんをつけ、おとしめて、笑う楽山は、自己中だと自分で言っているようなものです。
 
つまり、言い換えれば、批判を含める場合、人を責めるかどうかは、自己中の決め手にも見当にもならないということです。見当違いの楽山の、自分が責められないための詭弁です。
 
 
自己中でない人は、他人が迷惑行為をしたときでさえも、その気持ちをおもんばかって「これこれの理由でこうなのだろうな。それだったら仕方がない。もし自分がその立場なら、きっと同じことをする」などと考え、相手のことを自己中だと責めることができない。
 
まるで、大人がが子供に説教するような慢心した言い方です。楽山は好むようですが、例示に過ぎませんから、決め手にならない甘さがあり、一般的な説明にならないのです。自己中でない人は、悲しみを共有し、共感を促します。楽山には出来ないことです。
 
楽山は、自分は分かっているということを、時々、問答形式で語りますが、この分かったふうの言い回しこそが、大方、幼稚な的外れであり、かつ、自分が厳しく言われないためか、自分は説得上手の優しい人というアピールに過ぎません。
 
 
でも自己中な人は、他人の気持ちをおもんばからないから、「自己中やめろ(俺が望まない言動は止めろ)」と平気で言える。
ようは、やたらと他人のことを自己中呼ばわりする人がいるとしたら、その人自身が自己中である可能性が高いということ。
 
楽山のような自己中な人は、他人の気持ちをおもんばからないから、都合が悪くなると、平気で無視することが出来ますし、それによって、身勝手なだけの人であることが分かるのです。
 
ですから「他人のことを自己中呼ばわりする人がいるとしたら、その人自身が自己中である可能性が高い」と言う人は、自己中である可能性が高いということです。このように、話を混乱させ、自分が言われそうなことを人に言い、めちゃくちゃにして、混乱させてきます。
 
つまり、自己中は、自己中と言われたくないので、中身のない無理な返しとして、この循環論法のような屁理屈をこねてきます。その都度、揚げ足を取ったつもりが、ブーメランになって、自分で自分を引っ掛けて、貶めてしまう定めです。
 
 
*不可知論
自分は、不可知論的な考え方をしていることを何度も書いてきた。神、真理などは、人には分からんだろうと。
 
不可知論ではなく、自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)らしい幼稚なクレームを、キリスト教に向けてきたのが、楽山です。さらに、無神論を出して見当外れのことを言って、神を対象物のように扱ったのも、楽山です。神は、完全には不可知というのが人間の節操です。
 
自分の都合に合わないから神はいない、という欲求不満によって、"論" の好きな楽山が、神も、信仰も、無神論も、不可知論も、小学生レベルの理解でしかないことが明らかになってきました。それでも、楽山の慢心と悦楽は続いているのですから、とても、異常~病的だと思います。
 
 
そのせいか、ぽん吉氏にはこんな風に怒られたりする。「楽山くん、きみには結論がないのか! はっきりせよ!」などと。
ぽん吉氏は案外に楽山の立ち位置を理解しているらしい。
でも信者氏による楽山批判を読むと、楽山は神のこと、真理のことなどを分かったと主張しているかのようになっている箇所が散見される。
ぽん吉氏に分かることがどうして分からないのだろう。
 
楽山には、慢心と自己愛と気取りしかなく、結論がないと思います。さらに言えば、結論がないのではなく、判断さえしないのです。それで、生きて活動しているつもりでいるのは、人間として、障害としか言いようがないのです。真実の追求について、何も進まないし何も進めようとしないのが楽山です。
 
つまり、楽山は人間の真実を何も語れず、いちゃもんをつけるだけの人になのです。それで、一人前の言論者を気取り、何も出せるものがないのに、正しいつもりで、楽山の慢心と悦楽は続いているのですから、とても異常~恐怖だと思います。楽山の中身は空っぽなのです。
 
 
*プラトン
プラトンの対話篇を読んでいるときに、「これが結論だ」と思って赤線をひくと、すぐあとでそれは論破され、新しい説が提示されたりする。それで「こっちが本当の結論だったか」と思って赤線をひくと、またそれも論破されて…という具合になり、結局、最後まで結論は出なかったりする。
自分は若い頃はこれを物足りなく思ったものだったが、今はこれが必然と思うし、さして抵抗も感じない。
 
騙されないでください。楽山には、暫定的な結論さえも出せないし、出す気もないということです。人間に可能なのは、その時点での判断であり、最終結論ではありません。人間の行いは、判断に基づいており、最終的な正しさに基づいてなどいません。そこを、楽山は悪用しています。
 
楽山は、そこを悪意で曲解しているので、判断しない曖昧さのボンヤリ言語を、平気で出してきて、それが正しい必然と思って慢心しているようですから、相手をいたずらに疲労させてゆくしかなく、いつか、ぶん殴られるんじゃないかと思います。
 
 
*神の定義
自分は、神のことは分からないと考えているので、「神はこうだ」という風なことは言わない。言葉のあやとして、それっぽい表現はあるかもしれないが、それはあくまで言葉のあやにすぎない。
ただ「××本の定義によれば、神はこれこれこうだという」とはいう。これは自分が、神はこうだといっているのではなく、××本で神はこうだと書いてあるということだ。
楽山批判を読むと、「楽山は神のことを勝手にこうだと決めつけている」という風なものがあるが、大方、この辺りのことをきちんと読み取れていないのだろう。
 
楽山は、神はおかしいと、いちゃもんを言って、神はいないと言ってきたのです。無神教カルトを引用しました。それを、言葉のあや、というドラマなどに、よくある言い訳で済ませています。楽山は、何事も本気では言わず、言葉のあやだけを言っているようなものです。
 
この楽山の文章は、楽山が煙に巻くときの論理遊びです。それを、言葉のあやだと言っています。そうして、こうだと書いてある、などと語りますから、これは賛同している、自分の意見と同じだと言っていることになるのに、責任を他者に押し付けて、楽山自らは責任をいっさい負う気がないのです。
 
そういう者は、侮辱に匹敵するような軽いあしらいをいつも他者に向けて、実は、おとしめて、あざ笑っていることになります。だから、イライラの神経疲労だけを他者に与えます。やっぱり、いつか、ぶん殴られるだろうと思います。
 
 
*共感するかしないか
自分は神のことは分からないと考えているので、〇〇教の神や、△△教の神について、最終的な真偽判定は出来ないと考える。でもそうはいっても感情は動くのであるから、「この神には感動するが、こちらの神には感動しない」ということはあるし、自分の気持ちを偽っても仕方がないのだから、それを率直に語ることにしている。
 
愚かですね、最終的な真偽は、神のみのものです。楽山は、またしても、ボンヤリ捏造の論理遊びで、感動するしないはあるから、などと、鑑賞か見物でもしている立場で正当に物を言った気でいるのです。楽山は、恐らく、一度も本気で感動したことはないだろうと思います。だから芝居がかってきます。
 
つまり、言いたいことは、好き勝手に言うが、結論は言わない、責任は負わないわけです。このような無責任が通る、さらに正しいと思っているのです。何という身勝手なのでしょう。世の中は、そういうふうには出来ていないと言うしかありません。
 
 
ただこの場合でも、「この神の教えには共感する」とはしても、「この神の教えには共感する。だからこの神は本物だ」というところまでは踏み込まない。共感するかしないかは自分の感情のことだから分かるが、神は本物かどうかは客観的判定であろうし、人である自分には分からないことであるから当然だ。
 
感動したら、忘れられなくなるのです。それが本気ということです。それは、全く客観的判定ではないのです。自分の人生に必要かどうかです。楽山は、感動が分からないから、そのことを踏み込まないと言っていますが、実際は、どこにも、踏み込めない人です。
 
言わなくていいと思っているようです。だったら、最初から、惑わせるような詭弁なども、何も、言わないでほしいです。身勝手な言論など邪魔になるだけです。実際には、恐ろしいほど、主観にも客観にも土足で踏み込んで、人の心を玩(もてあそ)び、傷つけている楽山です。
 
人間は、分かっていなくても、その時その時の判断で行動しているのです。その責任さえ負わないのであれば、何もしないで自室か病室かで黙っていることです。もろに人格の発達障害が表れています。理解というか、弁えというか、・・わがままな子供レベルです。
 
 
でもどういうわけか、楽山批判では「楽山は自分の好悪で、神を信じるかどうかを決めている。自分の好き勝手で、神かどうかを決めている」というようなものがある。
たぶん、「この神に共感する」というのを、「この神に共感する。だからこの神は本物だ」という風に、脳内変換してしまっているのだろうけど、もしこういう読解ミスをしてるなら、もうちょっと気をつけてほしいと思う。
 
読解ミスさせるほどに、楽山は自己愛の強さによって傲慢に振る舞っているということです。つまり、楽山は、病識がないということです。それに、共感こそが、信仰の始まりであり、本質であり、必須のことなのです。楽山は共感したことがないから、共感を嫌悪しているだけです。
 
その結果、言葉面だけを整えて、ネットの精神詐欺師をやっているわけです。「もうちょっと気をつけてほしい」などと言って済む話ではありません。楽山は、中学と高校で、そして人生で、ろくに勉強しなかったのだろうと思います。真善美についても、真面目に考えることが出来ないのでしょう。
 
 
*発言責任
信者側からしたら、大川隆法のことを悪く言うのは、阿鼻叫喚地獄に堕ちるほどの大罪となるのだろう。だから大川批判の是非が議論になるときは、その発言責任の話が出る。
でも非信者からしたら、大川批判はタブーではないし、それを罪とする発想もない。だからその是非について議論する際に、責任についてうんぬんする必要性も感じられない。
信者とアンチの間で、言論の自由がテーマになるとき、アンチ側から責任うんぬんの話が出ないのはこのためだろう。
 
言いたい放題でありながら、責任を云々する必要も感じないと自白しています。楽山は、自己中と無反省と、身勝手と無責任が、正しいから通ると思っているようです。云々の話の代わりに、言った分の責任として、別のパワーが楽山に向かうかもしれません。置かれている立場を自覚しない怖さです。
 
 
*おわりに
他にも論点はあったかもしれないが、今は思い出せないので、とりあえずここで筆をおくことにする。
 
永久に筆をおいた方がいい。無反省で無責任の楽山に、言論の力も資格もありません。人の心を、かき乱して、ただで済むと思っているようですが、こびりついて、死ぬまで取れないレッテルを貼られるかもしれません。
 
 
それにしても、信者とのやりとりでは、同じこと、分かりきったことを、何度も繰り返し説明しないとならないのはつらい。
 
説明した気でいるようです。何も説明になっていません。楽山は、ずっとそうです。
 
 
他の人とのやりとりであれば、ネット上でも、リアルでも、そんなことはないのだから、自分の話し方が悪いせいだとばかりは言えぬだろうし、どうしたって信者側にも問題があるとしか思えぬのだが。
まあ信者側でも、アンチは分からず屋だというようなことはよく言っているわけだし、ある意味、お互い様というやつか…。
 
お互い様ではありません。「どうしたって信者側にも問題があるとしか思えぬ」・・これ、かなり激しい結論であり、判断です。こういうことを平気で言っているわけですし、言ってきたわけです。これで、責任負わない・・が通ると思っているのでしょうか。
 
楽山を疲労物質と言ってきたわけが、ボンヤリ言語の正体が、ようやく分かったような気がします。楽山は、自己愛性人格障害で、人の気持ちを思いやることが出来ないのです。どうか、楽山が何を言っても相手にしないでください。楽山は、人間について、何も分かっていない人です。
 
お互い様ではありません。常識人なら絶対しないようなことを、トンデモの楽山だから、自己愛の慢心の上に安穏として、やっているということです。
 
責任を負う気がないのなら、何も言わないことです。
 
他者に向かって言ったり書いたりする一言ごとに、責任は生じます。人間は、他者の人生に関わって生きているということです。だから、特に、信条など、生き方に関わることについては、相当に深く考えようとするのです。間違えたら反省すればよいのです。それが正常人です。楽山は違う。
 
思いこみの強いカルトの人たちを相手に、へらへら軽口をたたいて、けなしたり認めたりで、救われるか否か、捨てるか否か、という境界に立たせておきながら、それで無責任なら、それで平気なら、どうなるでしょう。・・それこそホラーを見る感じです。汗。
 
 
詭弁ですり込んでくる言い逃れ

詭弁で すり込んでくる 言い逃れ
 
 
(2020年)
(2022年09月02日、再録+加筆)
 
 
 
  ウソの国
 
男は登っていく
深夜の階段を
息せき切って走っていく
走らねばならないのだ
走らねばならない
遅れてはならない
遅れてはならない
 
遅れた
男は人前に連れ出され
何人もの男から
したたか腹を殴られたが
痛みはなかった
 
夕暮れの街を歩いていく
人々は夕闇と過去に追われながら
すでに死んだ油の眼で
われにもない毒の顔をさらして
ネオンの間から間へ
苦しい巡礼を始める
 
あぁ この七色の 肉色の
光のおりが天国とは
拳を握りしめて
「何もない」
「何もない」と
壁に向かって叫び続ける男
誰もいない街角に向かって
手を振り続ける女
眼を振り続ける人々
 
通り過ぎる車が
水たまりをはねて
尻が濡れた
時が引き裂かれた
 
青春と人情の墓場から抜け出し
人通りの少ない路地で
恋人に声をかける
お茶でも?
あいされたいわ たれからも
 
吐物をまき散らしながら
男は逃げる
転びそうになりながら
 
幾分か小高い丘に
塀のある幼稚園があった
数人の子供が砂場で遊んでいる
ジャングルジムがある
子供たちが登れるようになると
外が見えるようになるわけだ
 
男は登ってみる
もう吐き気はしない
尻のあたりの濡れた感触もない
男はようやく安んじて眺めている
人っ子一人いない街の風景を
 
あたりはもうすっかり明るい
 
 
 
★こも/楽山日記3さんがリツイートしました
柳本伸良@物書き牧師
@yagiyomogi
【定期】聖書の預言をもとに世界情勢を読み解く行為は、陰謀論との親和性が高く、おすすめできません。そもそも、聖書の預言は世界情勢や未来を読み解くために書かれたものではありません。キリスト教から生まれてしまった多くの破壊的カルトと同じ過ちを犯さないようにしたいです。
午後6:58 · 2022年8月31日·Botbird tweets
 
楽山のような、聖書から何を読み取るべきかを分かっていない者が、聖書に書いてあることを、超常の奇跡がどうとか、事実性がどうとか言って、キリスト教と信仰を否定したつもりで、学者のように気取って書くことで得意になってきたのです。元々陰謀やホラーが大好きだからでしょう。
 
「キリスト教から生まれてしまった多くの破壊的カルト」というのは、元々が、陰謀や、超常を自慢したいとか、人を操りたいとかの、自己顕示欲から聖書を漁っていると思います。例えば、楽山は、学者気取りのために、読書によって、自説の妄想的無神教カルトを自慢したいだけのようです。
 
高慢という高みから眺めて、学問や宗教をオカズにして、貶めてきたのが、楽山のような病的ナルシストであります。その実態は、小学生かと思うような、幼稚で、書いても何の救いにもならないようなことで、宗教を知っているかのように振る舞います。反省せず、共感できない病質者なのです。
 
つまりこのリツイートも、楽山の、自分は分かるんですアピールのために、キリスト教をネタにしているということです。この3年間余り、批判しても、自己顕示欲が治まらない自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)であり、またしても、汚い触手を伸ばしています。
 
このように、楽山は、キリスト教を引用リツイートしたり、あるいは、カルトを批判したりしますが、キリスト教については、肯定したり否定したり、いろいろ、いじくって、かつ、責任をいっさい負わないという無責任な、いちゃもん屋であります。決して、関わらないでください。
 
 
 
私の「ウソの国ー詩と宗教」ブログ:
 
(古い記事は載っていません)
 
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(古い記事もインポート済み)
 
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  楽山の絶望宣伝2
 
 知ることと信じること
 (『信じない人のためのイエスと福音書ガイド』中村圭志著)
 2021年07月26日 楽山日記(LD)
   を改めて批判。
 
 
楽山は、また、学者の言を利用して、当てつけてきます。やりたい放題、利己のために、他者を悪用して平気な楽山です。自分の意見を組み立てられないからでしょう。なんて汚いんだろうという感想しか残らない文章です。
 
信じない人のための・・という前提で、いかなる福音も存在しません。まるで、希望を否定するような乾燥して実感のない筆致で、楽山は宗教を語ります。学問の名のもとに、キリストを磔にするのは、こういう者たちだと思います。絶望の伝道者、いや、中間宿主と言ってよいでしょう。
 
(ネットより)
中間宿主(ちゅうかんしゅくしゅ、intermediate host)とは、ある種の寄生虫において幼生期の発育を行い、成虫が有性生殖を行う宿主が別の動物である場合の宿主。
 
 
*新鮮な考え方
宗教では信じるか信じないかということは重要な論点ではあろうし、自分もそのように考えていた。
でも中村圭志氏の著書を読んでいたら、それとは正反対の考え方が提示されていたのでメモしておきたい。
一般的に言って、宗教に関してむしろわたしたちが気にすべきことは、「信じる/信じない」の境界線ではなく、宗教を構成する要素(教義、儀礼、歴史、開祖に関する事柄)を「知っている/知っていない」の境界線の方です。信じるか信じないかは、こう言ってよければ、主観的な問題です。しかし、基本的な情報を知っているか知っていないかは客観的な問題です。非信者の側として、注意すべきはこちらのほうでしょう。
(『信じない人のためのイエスと福音書ガイド』中村圭志著、みすず書房、2010年、p.9)
 」
 
「基本的な情報を知っているか知っていないかは客観的な問題です。非信者の側として、注意すべきはこちらのほうでしょう」・・・基本的な情報などと、宗教をまとめてしまうところが、既に、無知と無恥だと思います。こういうのが大好きな楽山の、インテリ気取りの餌になっています。
 
つまり、信じるか信じないかが信仰の問題でありますが、情報を知っているかどうかだけなら、それは知識の問題であっても、信仰の問題ではないのです。知識だけを、どんなに詳しく語っても、信仰について、宗教について、触れたことにもならないのです。
 
キリスト教と信仰は、信じる者のためにあるのであって、信じない者にとって基本的な情報などはありません。一般教養としての宗教など、誰も救えはしないのです。まさに、著者は、キリスト教のことではなく、社会通念アーメンソーメンのことを言っています。何の意味があるでしょう。
 
 
著者が言うには、たとえばキリスト教を信じるといっても、福音書にある奇跡を文字通りに信じる人もいれば、それを信じない人もいるし、そもそもそんなことはどうでもいいという人もいる、イエスを超能力者か何かのような存在だと信じる人もいれば、イエスの徳の高さこそが神の証と信じる人もいるなど、その信じ方は様々で原理主義的なものもあれば、信じないに近いものもある、信じるか信じないかの間には明確な区分はなく連続している、それならばそこにこだわる必要はないのではないかということらしい。
 
信じるということは、生きる縁(よすが)にするということです。楽山は、種々の鼻くそのようなことを書いていますが、このような興味本位の、本気がどこにもなく、オモチャで遊んでいるような、ああでもないこうでもない先生気取りの楽山の、どこにも信はないのです。ずっと、そうです。
 
信仰は、趣味的に扱える問題ではありません。有か無かという人生そのものであり、命そのものであります。"信じない人のための福音" など存在しません。あざ笑うサイコパス楽山は、否定と軽視のための、絶好の餌を蒔いてくれるボンヤリ評論家を見つけたようです。
 
 
そう言われてみれば確かにその通りではある。信じるか信じないかという主観にこだわりのある信者からすればこれに同意はできぬかもしれないが、そこにはこだわらず客観的な情報を得たいと考える非信者にとっては信じるか信じないかはそこまで突き詰めて考えねばならぬ必然性はなく、それよりは知っているか知っていないかの方がよほど重要ではあるだろう。
 
何事もなかったかのように、へらっと軽く書いてくる、いつもの、罪悪感を持たない楽山の筆致です。「こだわりのある信者からすればこれに同意はできぬかもしれないが」・・最近、しばしば、楽山が書いてくる免罪符のセリフです。凄まじい "すっとぼけ" が隠されています。
 
客観的な情報だけを得たつもりで、キリスト教を否定してみても、元々、そこには、役に立たない、生きていない、雑言のような知識があるだけで、人間を生かす命の話ではなく、世間話やゴシップで人を決めつけるような粗雑な意図しか表れていないのだから、救いなど何もないのです。
 
非信者にとっては、信じないのなら、何も突き詰めることなどないのです。非信・不信を前提に、信仰を考えることも論じることも、ありえません。楽山は、庭を見ながら、一生懸命、月の裏側のことを、まくしたてているようなものです。楽山は信仰について、何も語ってなどいません。
 
信じない者にとって、宗教は、極めて半端な知識であり、救いも癒しも含まない、歴史と文化の話に過ぎません。楽山も、引用元も、信仰を何も知らず、教養をひけらかす傲慢のぶん、偽善者であります。全くの部外者の余計なお世話なのです。
 
 
*愉快
知ることと信じることについては、自分なりにあれこれ考えてきたつもりではあったが、恥ずかしながら自分は上のようなことは思いつきもしなかった。
それだけに本書を読んでこういう考え方を知ることができたのは愉快である。近頃は読書欲が衰えてきていたのだが、やっぱり読書というものはいいものだと改めて感じた次第である。
 
楽山は、この2年余り、何も、考えてきた跡がありません。楽山は、人を、信仰者を、良心を、神を、あざ笑う術(すべ)だけを身に着けています。だから、読むたびに、吐き気がしていたのでしょう。楽山は、サイコパスだから、そうなることが、愉快なのでしょう。
 
読めない者が、理解できない者が、読書をすると、どうなるか・・、読んで何も受け取っていなくても、知ったかぶりをして、人を、あざ笑うようになるのだ、ということが分かります。楽山は、今まで、見てきただけでも、良いことを思いつくことなどない人だということです。
 
真(まこと)のものを、善きものを、美しいものを、何も提示できない楽山です。だから、自分で、「いいものだ」、また、今までも、これからも、「反省。とほほ」などという言葉だけを繰り返すしかないのです。楽山は、人が褒めてくれないものだから、自分で褒めるしかないのでしょう。
 
自分が優位だと見せかける言葉とともに、滅びを体現している楽山です。これこそ、ホラーなのです。今まで、批判記事を書いてきたのも、また、今、この、楽山の、異常な体質を書くのも、サイコパスのこの男に潜むホラー性を暴くためであります。
 
 
悲しいほど的外れ

悲しいほど的外れ
 
 
(2021年)
(2022年08月02日、再録+加筆)
 
 
 
  油断
 
ユーモアがペーソスを孕んで
並木道の希望を薄茶色に舞っている
そんな空気にのんびり吸われていると
いきなりビュッと
残酷なギャグが切っていく
切られたものが見当たらない
見えないところで切られて
見られないまま消えたのか
まぶしいのに曇っている
目の上にピッ
何かが撥ねた水滴
一滴だけの雨?
ひやっとする
あるいは血かと
ふと笑いすぎて昔
微笑むことを忘れたひととき
を思い出す
額に残る一筋の感覚
目を狙って
放たれた鋭いもの
少しく外れて
皮肉にも生き残る
 
 
  ろうそく
 
ふっ と
乱暴に吹き消されて
実はすすと煙でしたと見られる前に
黙って消えていくつもりかい
一二月には銀紙に包まれて
クリスマスケーキをきれいに飾っていた
小さい 赤い 細い ろうそく
季節外れの春の夜に見つけて
ほんの戯れに
今しがた火を灯した
クリスマスであろうとなかろうと
色が何であろうと
ろうそくは ろうそく
時がいつであれ
しずかに灯って
尽きれば静かに消えていく
その仕事をするためだけに
火をつけられるのを待っている
ろうそく
小さな 赤い
しずけさに耐える
 
 
  砂漠の雨
 
砂漠に雨が降る
土砂降りの雨が降る
骨の駱駝(らくだ)が立ち上がって跳ねる
渇いた旅人は喜ぶ
砂漠に海辺の雨が降る
砂漠に潮の雨が降る
風紋は崩れて流れだす
流砂は嵐の濁流になる
旅人は水を飲む
溺れる
塩を飲む
砂を飲む
砂漠に都会の雨が降る
砂漠に窓の雨が降る
河と川とがぶつかり合う
ガラス片の刃物があふれ出す
砂漠に粘性の雨が降る
砂漠に生臭い雨が降る
キャラバンは肉片になる
井戸は壊れて噴水になる
砂漠の噴水は落ちてこない
砂漠の炎が噴き上げる
手を広げた白骨の顎が外れる
こうして砂漠は出来上がる
こうして戦争は出来上がる
 
 
  黒の転調
 
うれしいときに笑う
かなしいときに泣く
うれしいときに泣く
かなしいときに笑う
仲間外れはどれでしょう
仲間外れはありません
かなしいときに泣けなくなると
脳ミソを脇に置いて
笑い始めるのです
腹の底から黒い息を
吐き出し吐き出し笑うのです
脳ミソは戻れるときを待っていますが
血迷うたか
と一喝でもしようものなら
笑いも脳ミソも吹き飛んで
四つが四つとも仲間外れです
 
 
  祈り・実感を
 
もうしばらく傍(そば)に
いて下さいませんか
さびしい
と声に出してしまいそうですから
しかも調子外れの怒号のように
すでに出しているのです
でも声帯は震えているものの
咽喉(のど)の吸い殻の
泡沫を振動させて
歯間を開閉しているだけなのです
いつも傍にいて下さる
と教えられるだけでなく
すべての体液が覚えるほどに
染(し)み込ませることが出来たなら
ずぶ濡れになった厚紙の五感のために
五臓六腑に満々と
湛(たた)えられた廃液のために
動きの取れなくなった五体も
眠りすぎた疲労も
声なき吠(ほ)え面も
澄んだ自虐のうちに
然(しか)りは然り
否(いな)は否
と捌(さば)き捨てて
液体へ気体へ
霧散・昇天お許しを
流れるままに乞いゆきましたものを
 
 
 
 楽山の成りすましではないかと疑っているツイッターですが
 
taka
@taka84156681
·5時間
これ物申す系YouTuberにありがちなだな
自分では何にも作れない
スルメ・デ・ラ・ロチャ
@surumelock「
(マンガですが省略、その中のセリフ))
人生を変えようとする人を叩くのは
人生を変えられない人だからな
午後11:24 · 2021年7月24日·Twitter for Android
 」
 
引用元を批判するつもりはありません。
 
また、楽山は、人のことを言っているつもりで、自分を表しています。
 
他者の人生に破壊をもたらす楽山は、無反省、無責任で、訂正不能です。変わることなく、人に、自己中を吹き込み続けて、ますます、自分を変えられなくなっているのです。楽山にありがちな、何も持たないのに、物申す病質の宿命でしょう。
 
 
 楽山のツイッターですが
 
心機一転★こも楽山
@komo266
·13時間
HS信者さんは、他人から意見されると、すぐに逆ギレする人が多い印象があったが、
Takayukiさんはそうはならず、落ち着いて自分の考えを話してますね。
今でもそういうことができるHS信者がいたのかと、思わず感動してしまったよ!
引用ツイート
Takayukl太陽の光エルカンターレを信じよう
@E8tKm
返信先: 
@ryouran1011さん
ご指摘ありがとうございます。
正しい信仰を持つことは素晴らしいことです。
大川隆法総裁が地球神であるなら、すべての人類にはにはその教えが必要です。
幸福の科学を広めてはいますが、押し付けはしていません。
信仰は自らの手でつかみとるものです。
午後8:23 · 2021年7月24日·Twitter for iPhone
 」
午後10:12 · 2021年7月24日·Twitter Web App
 
引用元を批判するつもりはありません。楽山批判です。
 
教理を批判していたのではなく、HSがおかしいと言っていたのではなく、落ち着いたHS信者なら、感動?するのが、楽山の軸?なのでしょう。宗教についてカルトについて一定の見解も批判軸なども持っていないことが表れています。
 
この軸のなさは、楽山が味方だと思うことの大きなリスクを表しており、楽山が批判あるいは無視されるべき人だということを、再認識することになります。こういう、いい加減さが、人々を、かき乱してゆき、本人だけが、正義の味方気取りで満悦することにつながっています。
 
私としては、楽山は、もちろん、神ではないし、良いものを広めてはいないし、嘘と詭弁で誘導していると思います。正論ぶっても、自分の手で何もつかみ取っていない自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)です。楽山は、どこまでも教える立場にしがみつくピエロなのです。悲惨です。
 
楽山は、キリスト信仰についても、神はいない、信じ過ぎてはいけない、などと言いながら、ある教会を褒めたり、賛同するような幼稚な詩のようなものを書いたりしています。しかも、他者の言や、有名人を引用して、箔をつけようとします。楽山は、軸のない病質発言者なのです。
 
楽山を、少しでも柔和だとか、ときには良いことを言うとか、部分でも、肯定してはいけません。そういうのを利用する男です。受け入れれば、振り回され、疲れ果てることになるでしょう。楽山は、まともな言論者ではありません。批判は、楽山を変えるためではなく、全否定するためです。
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
 
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
反省しないのが「人間の性」なら、人類は、とうに滅び去っていると思います。人類が、人間が、まだ生存し得ているのは、楽山のような著しい偽善者が稀であり、多くの人々は、不十分であっても、感じて考えて反省し成長しようとしているからでしょう。
 
 
 
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