ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

タグ:無神教カルト

 
  楽山=無神教カルト
   (過去記事を再録+加筆)
 
 
楽山が引用してきた無神論は、「神の不在は証明できない」に対して「神の存在は証明できない」ことをもって「神が存在する根拠を示せ」と言い、「根拠が無いから神は存在しない」という結論のようです。しかし、神が存在する根拠があるなら証明されたのだから、信じる必要はないのです。
 
人間に存在の根拠を示すことが出来たり、人間の論理で証明できるような、安っぽい捏造の神?は、巷にも、そして、キリスト教内部にも、溢れているような気がしますが、それは、キリスト教とキリスト信仰の神ではなく、カルトの神?であります。つまり、心のない楽山の曲解上の神?なのです。
 
さらに、神を、人の論理で扱えると思うこと自体、人の傲慢であり、その時点で、無神論は、論理の破綻をきたしています。不完全な人が、完全な神を、理屈で扱い、その在か不在かを語るなら、それは、捏造した神?であって、どちらを証明しても、聖書に表された神とは全く違うものです。
 
無神論は、成り立ちませんが、同様に、有神論も、成り立ちません。神の存在を証明することなど出来ません。人の論理で、神は存在したり、しなかったりする御方ではありません。つまり、信じる人にとってだけ、神に対する信仰は、希望が個人に与えられることです。信仰の邪魔をしないでください。
 
タイトルに、無神教カルトと書いたのは、神はいないという乱暴な信念を持つ集団ということです。その間違った思い込みは、カルトに負けないくらい、憎しみを伴って強く確信されているようです。無神教カルトは、論とは言えず、楽山の怨念を表していると思います。
 
そして、無神教カルトは、理屈のようなことを言ってきますが、人の理屈で語ることが、そもそも、神については成り立たないので、苦し紛れに、聖書を、ベースから取り違えて、曲解した結果なのです。加えて、楽山の記事から察するに、その曲解の程度は、カルトに劣らないほど頑迷~悪質です。
 
無神教徒が、神を否定するなら、神に代わる救いを提示する責任がありますが、いくら理屈を整えたとしても、信仰に代わるような福音にはなりません。辻褄合わせをしても、癒しにも、慰めにも、救いにも、愛にも、共感に、至ることはないでしょう。彼らによって誰も救われることはないのです。
 
 
信仰の根拠は、論理や史実の整合性にあるのではなく、共感と癒しとにあります。つまり、理屈ではありません。人間に、人間らしい温もりと潤いを与えるのが信仰です。キリスト信仰者は、神という存在が整っているから信じるのではありません。神の整合性を人は知りません。
 
信じるに足るものなど、この地上に在るとは思えなくなった人にとって、聖書の、キリストからの共感に、人としてキリストへの共感に至ったから信じる、という言い方になります。聖書から、キリストが、洞察力と共感性に溢れた御方であることを知って、信仰に至るのです。
 
旧約聖書の神の業(わざ)や、新約聖書のキリストの奇跡のうち、物や肉体への奇跡は、超常現象であり、超常を、人の日常が理解するのは、理解の実感が伴わないので不可能です、物や肉体の奇跡は、信仰に直接つながる実感を表してはいません。現代、次々に起こっているとも思えません。
 
ゆえに、聖書に書いてある超常の奇跡については、"分からない" と答えるほかはないのです。分かるのは、人間性によって受け取ることの出来るもの、つまり、人間として共感できることだけです。超常は人間には分からないことであり、神を恐れよ・・という信仰のベースであります。
 
物や肉体の奇跡によって信じ込むのは、非現実を信じ込むことになり、陶酔気分から、ありがたや宗教になって、現実を疎かにする危険があります。分からないことは、神に向かっても、人に向かっても、分からないというのが正直なのです。それで信仰を捨てるなら、元々信仰だったのかが疑問です。
 
キリストによって与えられる癒しと慰めは、現実にあって、避け所として、祈りの時と場を与えます。それは、自動的に続くものではなく、折々の祈りによって、絶対孤独からの解放として与えられるものです。祈りを受け取る神は、聖書の神であり、全知全能・絶対完全・永遠不変と信じるゆえの祈りです。
 
神の属性である全知全能・絶対完全・永遠不変は、どれも、人には手に負えないものばかりです。しかし、手に負えないことがあると知ることで、人間としての不完全、即ち、罪の性質を知ることになるので、神の怒りや裁きの話と同様に、信仰の弁えとして大事なことです。
 
 
砕かれて信仰 固まってカルト

砕かれて信仰 固まってカルト
 
 
(2022年01月27日)
(2023年01月30日、再録+加筆)
 
 
 
  臨終
 
見ている
多くの顔が
眠ろうとする信徒の
最後の告白を聞くために そして
 
賛美の言葉の一つも出ようものなら
久しく流さなかった涙を
その時には浮かべてもよいと
 
 期待するものと
 期待されるものの間で
 つり上げられた信仰が
 病気の小魚のように
 しずかに はねた
 
彼の不幸はついに
思い出に変わることはなかった
もはやどのような約束をもってしても
過去も未来も変えることはできない そう
人生は一度だ
 
「わが生まれた日は滅び失せよ
 幼子が胎に宿った
 と言われた夜もそのようになれ
 わが愛する人々は遠く去れ
 二度と私を見ないように」
 
去る者と
残る者との間の
凍った段差の裂け目から
音もなく
転げ落ちていったものがある
 
こうして
全く別の涙は流され
人々は蒼ざめて去り
 
彼を見つめる基督と
顔を背ける彼が残った
 
 
  悔い改め
 
キリストの民と称して
罪を形而上の供え物とし
飼犬を神と名付けて
乞食にくれた残飯を愛と錯覚して
受難に耐えんとする信仰の下で
見逃されたものが
黴(かび)のように陰を好み
知らぬ間に はびこっていく
それゆえ暴かれると
あるいはひそかに垣間見られたときでさえ
ぞっとするほど陰惨な風景を見せ付ける
 
それに気づいた者が
今一度(ひとたび)悔い改めんとして
祈りを捧げたとしても
血の海に沈んでいくキリストをよそに
またしても
虐げられたと十字架をかかげ
憎しみにさえ旗を
そして旗は なびく 旗を呼んでくるのだ
 
 
  不信仰告白
   (キリスト以外の
    神を知らない)
 
私は一本の髪の毛を
恐る恐る
火にかざしてみるのだ
 
 誰が神を
 神と名付けたか
 誰がやさしい父を呼ぶように
 神を呼んだか
 流された夥しい血を
 皿の上の相づちで受けながら
 誰が気安く許される
 罪を認めたのか
 
私は生きるのに向かない
私は宗教に向かない
私は神の国に向かない
私は神を知らない
私は主に仕える水の泡である
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
http://mn266z.blog.jp/archives/19971376.html
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
無神教徒になる人には、キリスト教の先入観に対する反発があるのかもしれません。あるいは、クリスチャンの家庭環境からの誤った押し付けに対する反発もあるのかもしれませんが、自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)には、反省力や罪悪感が育たないこともあるでしょう。
 
あざ笑いと怒りに生きる病質には、悔い改める、ということが、理解できないのかもしれません。ゆえに、嘘を吐き、詭弁を弄し、それが通用すると、万能感が生まれ、芝居をするようになり、不祥事にも「反省。とほほ」などと言って、気安い嘘の手当てが通用すると勘違いするのでしょう。
 
 
 
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  荒らしの楽山2
 
 
  聖書について思うこと(中村圭志氏のツイッター)
  2022年01月16日 楽山日記(LD)
 
 
節操も、理路も、共感もなく、無分別に、荒らしのような無神教徒の引用をしてくる楽山です。自分で書くと、下種の根性がバレるからでしょう。しかし、他者の悪い根性をバラしているのですから、楽山は、最終的に、誰からも軽蔑される路程を丁寧に踏んでゆくようです。
 
 
*聖書とは何か?
 ツイッター上にて、次のツイートがされていた。
 
聖書の話を、そのまま、あるいは自分で捻じ曲げて、受け取っています。聖書を学ぶのに、学習方法というより、学習する精神を失って、史実として扱って、揶揄し否定するだけです。よほど、キリスト教に怨念を持っているのでしょう。最初の話は、コピペしにくいので省略します。画像も省略します。
 
 
中村圭志 神話・宗教学
@seattlelubbock
オークワード聖書をちょっと見てみましょう。
表紙はノアの箱舟。海上に死屍累々。助かった動物さんたちはなんだか楽しそう。ノアはお気楽に唐笠つきジュースを飲んでいる。
勧善懲悪の御伽噺のはずなんですが、残虐さを何とも思わない義人ノアの姿は現代の子供たちには見せられないわけです。
 
教訓として学ばず、事実ならば残酷だということだけ吹聴する態度です。ノアの箱舟から、残虐だという見方だけを主張するのが、無神教カルトの刷り込みです。受け取れるものを受け取る柔和さではなく、疑問を提示するのでもなく、否定だけをしたがる者たちで、楽山も同じです。
 
大人であれば、説明があれば、聖書に象徴されている神の意志を、不十分でも、常識的な範囲で感受するでしょう。一方、楽山のように、大人になれなかった未熟は、悪意をもって悪い心象だけを吹き込んでゆくのだから、聖書からも神からもキリストからも、人からも、良きものを見い出せないわけです。
 
 
中村圭志 神話・宗教学
@seattlelubbock
先に紹介したロトの処女の娘の強姦許容の話と同様、現代と人権意識が異なるので子供に説明できない箇所も何か所か取り上げられています。
出エジプト21。奴隷は財産なので鞭で打っても1日2日生きている限りは神のお咎めなし。即死の場合はお咎めあり。
絵は昔のアメリカの奴隷農場となっています。
 
聖書の大昔の話を、キリスト教はこういうことをするんだぞ・・という煽りの見せ方です。悪意が明らかな絵とともに貶めて悪く言うのは荒らしに似ています。印象操作の悪意が見えた時点で、議論どころではなく、ドアをドンドンドン!と叩いて威す凶暴な悪党が来た!・・という備えになります。
 
 
中村圭志 神話・宗教学
@seattlelubbock
もう一つ紹介しましょう。
申命記22。男が処女の娘を強姦したところがバレたなら、父親に銀50払うべし。娘は強姦男の妻となるべし。男の意のままになったのでもはや離縁は禁止。
この絵本では男が父親にドルを渡して、ワゴンの中で強姦せんとするところ。原理主義者はこれを実践するんでしょうか?
 
大昔の、民族の掟みたいな話と、大間違いの原理主義者?の犯罪をあげて、そのことがキリスト信仰の是非に関わるでしょうか、否です。無神教カルトの、こういう発言は、いちゃもんだけの臭い腐れ話に過ぎません。既に、シャロームで10年、楽山で3年、うんざりするほど、経験済みのことです。
 
 
中村圭志 神話・宗教学
@seattlelubbock
聖書は人類史の史料として、ホメロスなどとともに図書館で読めばいいのです。しかし良き家庭の導きの書だとされている。が、実際には子供には読ませられない。もっとも信者は実際には聖書は読まない。読まないのに都合にあわせて聖書の権威で世の中に文句をつける。だから無神論者に文句を言われる。
 
聖書は、歴史の史料以上に、宗教と信仰の聖典ですが、100%理解した人はいません。聖書について史実がどうこうと騒ぐのは、聖書の意味も意義も理解していない楽山と同類の人です。背教者の例をもって、信仰を全否定するのは、妄想の為せる詭弁であります。悪魔性のサディストです。
 
 
*被害
一連のツイートで指摘されていることはどれも興味深いが、その中でも特に、聖書を読まずに「聖書の権威で世の中に文句をつける」人々の話は予想外だ。
こういう人々のために、無神論者らはやむなく聖書の権威を打ち砕くために聖書を批判することになっているのだとすると、聖書はとんだとばっちりを受けているということであるし、一番の被害者といえそうだ。
 
無神教カルトは、聖書を批判するのではなく、悪い話だけをして、否定する者たちです。楽山の同類です。柔和さも洞察力もなく、深い意味を汲み取れず、分からないことを保留することもせず、聖書に、信仰者に、害を与えているのは、楽山のような人たちでしょう。
 
「やむなく聖書の権威を打ち砕く」・・私には血も涙もないサディストに思えます。「聖書はとんだとばっちりを受けている」・・ここで聖書を弁護するのでしょうか。聖書と信仰者に、とばっちりを与えているのは、まさに、著者と楽山などの偏狭な無神教カルトです。
 
楽山は、今回、自分では、何も書けないから、無神教徒の言を引用して、文責を逃れようとしています。引用して批判しなければ賛同ですから、その責任は、どこまでも、いつまでも、楽山に着いてくるのです。楽山は、信仰と宗教を否定する印象操作をして煽っているだけです。
 
背教者の話を事実として予想外だと言い、そして、こともあろうに、無神教徒の不可効力を説いていますが、無神教カルトの楽山は、聖書を読解する気もなく、悪意の企みの文章しか書けません。聖書に「とばっちり」を与えようとしているのが、楽山と無神教徒であります。恐ろしい詭弁です。
 
「聖書の権威で世の中に文句をつける」人々というのは、考えてみると、妄想的思い込みを信仰と呼んで、訂正不能の、実際は偽善者かつ無神教カルトのほうだと思います。ですから思い込みの自己中病質の楽山と似た構造の体質ではないかと思われます。信仰者に権威はありません。
 
 
*立場
とはいえ、こういう指摘を読むと、とても自分には聖書に書いてあることはすべて正しいとすることはできないなと思う。もちろんだからといって、すべて間違っているとすることもできないのではあるが。
聖書に対する立場は人それぞれではあろうが、自分は先入観によって全肯定することも全否定することもせず、また禁忌事項をつくることもなく、人類の古典として謙虚に学びたいものだと思う。
 
楽山は、自己中からの妄想のために、また、ボンヤリ言語体質のために、体のよさそうな、否定も肯定もしないようなことを言っていますが、実際は、徹底した反キリストであります。騙されてはいけません。このように、言葉の皮だけ優しさを気取りものを、決して信用してはいけないのです。
 
否定肯定をぼかした楽山の印象操作のボンヤリ言語です。楽山の責任回避の筆致です。書いてあることは、何の糧(かて)にもならない読み方が正しいと言っているようなものです。決めつける権限は人にはなく、ましてや無反省で無責任の自己愛性人格障害の楽山にはありません。恐ろしく傲慢です。
 
楽山は、先入観しか持っていません。肯定も否定もしないなら、意見に成っていないので、書かないことです。肯定しても、否定しても、それぞれ責任があります。責任を負わずに両方言うことは、ただの、いい加減でしかなく、空っぽなのです。それを繰り返してきた楽山は異常者です。
 
つまり、聖書の心を読み取れない楽山が、正しいと言っても、間違っていると言っても、何の価値も説得力もないのです。無神教徒の力を借りて、楽山は、ますます、言論不能の、自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)だという証拠を、自分で積み上げているのです。
 
人間は、自らの信仰も守れないほど不完全です。ゆえに、信仰者は、知性と感性を精いっぱい使って、できることして、結果を正直に祈って、神に委ねます。つまり、自らの言動を間違えることも通して、神に絶対孤独からの解放を恵まれ、救いと希望を祈り願うのです。
 
楽山は、他者を利用し、別の他者を傷つけて、無視スルーで、のんきに生きているようですが、最後には、報いとして自我の崩壊が結果する日を迎えるでしょう。神を持ち出さなくても、楽山の生き方は、人の世の非道として、無知と無恥とを告発され、逆に、廃物として遺棄される必然なのです。
 
 
無神教カルトの闇

無神教カルトの闇
 
 
(2022年)
(2023年01月26日、再録+加筆) 
 
 
 
  信仰告白
 
人間がなしうる
最も良質な
精一杯の信仰告白は
不信仰告白である
 
 
  宗教は
 
いるともいないとも証明されない
神様を信ずるのだから
宗教は
無神論と同じくらい
あやしげなものである
 
しかもそれを
人の筆でつづり
人の口で語ろうというのだから
宗教は
無関心と同じくらい
あやうげなものである
 
 
 
  基督像
 
誰も助けてはくれない
誰にもおろしてもらえない
痩せた項(うなじ)は地にうなだれ
蒼白の瞳はかすかに見開かれながら
ずり下がる手足の痛みに耐えていなければならない
 
どれほど多くの乾いた唇が
彼の名前を掠めていったことだろう
どれほど多くの黄色い視線が
彼を横目に見たことだろう
そして頁をめくるような夥しい粗い舌が
彼を指して唱えたのだ
「ユダヤの王」あるいは
「わが救い主」と
 
彼はなぜ耐えているのか
彼は何を待っているのか
それでも扉は開かれている
どこに向かって あるいは誰に
 
 *
 
息を切らして
開かれた扉から
駆け込んできたのは一人の少年である
熱く紅潮した顔が彼を見上げる
少年の汗まみれの手に
握られているのは一冊の聖書だ
 
「主よ 私です
 私は来ました」
 
信仰告白は
上気した額の上で
まるで天国を見たかのように
見知らぬ夢に向かって語られていた
少年はまだ信じている
本当は基督よりも自分の元気を
少年はまだ知らない
彼の聖書(テキスト)が答えない
多くの悲劇について
 
 *
 
礼拝堂から街へ
宿命のように降りている階段を
少年も今しがた降りていった
 
人のいない礼拝堂の中で
去っていった少年の面影を
まだ見おろしている
基督像
 
たとえその動かぬ指先に
ふるえる朝の歌がよみがえったとしても
目に見える何が
それを少年に伝えるだろう
 
何も変わってはいない
誰も見送りはしない
くずれ去っていくもの
新たに生まれる何か そして
彼をとどめる絆(きずな)のために
基督の歌が歌われるのは
このときであるから
 
 
 
※ 信仰についての議論
 
普通の理路で考えても信仰の必然を説明することは出来ず、信仰は、何より個人の、体験、特に精神生活上の体験に基づくので、現象や史実の皮相の事実や論理によって、ない、不当、などと言えば、そのまま発言者の、未熟と歪曲が、指摘されることになるでしょう。
 
ゆえに、宗教と信仰は、科学をもってしても、また、超常についての空想を前提に考えても、語れるものではなく、人間の心について共感のない者が語ることは、無理な否定になり、侮辱になり、嫌がらせになって、頑迷な屁理屈による妨害として、偽善と見なされるでしょう。
 
 
 
  二人のはぐれ者(創作です)
 
伝道を志しながら心を病んでしまったキリスト者がいた。少しばかりお金があったので当座の生活には困らなかったが、毎日気がふさぎ寝込むことが多く「自分など死んでしまえばいい」と思うこともあった。そのキリスト者の家に盗人が入った。
彼は何をやってもうまくいかず失敗の繰り返しで自暴自棄に陥っていた。刃物をキリスト者に向け
「金を出せ」と迫った。キリスト者は、
「盗人にやる金など一銭もない。欲しければ私を殺して家の中を捜せ。」
「命が惜しくないのか。」
「逃げられるものならば逃げる。だがまわりには誰もいないし、あなたは力が強そうだ。どうやら、かないそうもないゆえ観念した。それに・・・もうよい。」
キリスト者は目を静かに閉じた。キリスト者は目を閉じたまま、盗人はキリスト者をにらみつけ刃物を握ったまま黙っていた。
長い沈黙が続いたのち、盗人が言った。
「い、命を粗末にするな。」
「あなたがそれを言える立場かね。」
「本当に命が惜しくないのか。」
「もう・・・・どうでもいいんだ。」キリスト者は少し悲しげに言った。
「ちっ」と盗人は舌打ちをして刃物を床に捨てた。
「やめた。何て野郎だ。全部でなくても、少しばかり、まとまった金さえ出せば済むものを。お前、少し変なんじゃないか。」
「他人の金を盗んでどうするつもりだ。それに生活のための金を得る道なら他にもあるだろう。」
「どうするって、まとまった金があれば天国さ。何だってできるじゃないか。」
「金をいくらか持っていても私のような者もいる。いちばん大事なものは金ではない。」
「じゃ何だって言うんだ。」
「大切なものは多くはない、むしろただ一つだと書いてある。私もよく理解しているわけではないが、今あなたに刃物を捨てさせた何ものかだ。」
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
間違っても間違っても、正す精神を持たない楽山は、他者の言を利用して、自らの整わない頭と心を、よこしまな方向へ、自ら導いてゆきます。この世はウソに溢れているという私のブログタイトルですが、楽山は、真っ赤な嘘を使って、人より上にいられる気分を、生き甲斐のように求めてゆくのです。
 
楽山は偽善者ですが、偽善は善よりちょっと悪い感じ?・・ではありません。悪を、善に見せかけることであり、悪よりも、偽装という悪が加わるところの、より悪であり、最悪なのです。これより悪質な悪を知りません。大きな犯罪は、大方、偽善であります。楽山は、その、偽善者なのです。
 
 
 
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  良心4
  
 過去記事「良心」+加筆
  に一部、加筆修正して再録します。
 
 
キリスト者は、人間の良心を捨てて神に従うのではありません。良心とは、神から人が恵みとして与えられた良い心のことです。信仰へ向かう心も含まれています。人間としての知性と感性を捨てて信仰は成り立ちません。人知を捨てて有頂天に従うのはカルトのやり方です。
 
キリスト信仰は、人の心の良きところ、すなわち、良心を育てます。信仰者にとって、信仰と良心は区別できないものとして存在することになります。良心によって信仰を受け容れ、信仰によって良心は成長します。
 
信仰によって良心が成長するのは、人が、自らを神より低いと自覚している場合です。また、人間の良心に、神の導きはあるけれど、人は、それを確定できません。ゆえに、聖書の言葉を唱えればよいということではなく、御言葉を自らの人生において考えることが大事なのです。
 
神は、私たちが物事を、良心によって判断し行動することを喜ばれます。これが信仰の理想で、ときに悪意で行動することもあるのは罪の性質によります。
 
良心を捨てた者は、心を無視して、超常を信条とするカルトに走ります。人に理解できない魔法のような奇跡を期待することは、信仰ではありません。
 
 
キリストを信じる信仰者においては、神様のほうを向いて、信仰によって、聖霊によって、ということが、よく言われますが、神様のほうを向くことを自覚するのは祈りにおいてであります。すなわち、独りで祈ること自体が神のほうを向くことです。
 
信仰の本来の、欠くべからざる在り方として、そして、信仰者は、正直な祈りを捧げます。飾りや偽りや豪語は、神への冒涜というより、祈るとき既に、神によって見抜かれています。
 
信仰によって、また、聖霊によって、与えられたものを、これは信仰だから良いことで、それは欲望によっているから良くない、という判断が、人間によって、しっかり出来ているでしょうか。否です。神聖に捧げるものが、神聖に対する決めつけであれば、神への冒涜です。
 
神は完全ですが、人は罪の性質によって不完全です。人間は、神の望んでおられることを、そんなに、逐一、分かるわけではないのです。さらに、人は、自分の言動の影響を最後まで末端まで追うことは出来ません。ゆえにその善悪を、人は判断しますが、確定はできません。
 
人は、判断し、行動し、結果を反省し祈るのみです。キリスト信仰者は、判断し、行動し、反省し、その結果と裁きを、神に委ねます。ゆえに、究極的には、総ての結果をご存知の、神の裁きにお任せするしかないことを知っています。
 
良心のない一部の悪魔的なサイコパスを除きますが、どうしているか、どうするべきかというと、他でもない、私たちは、良心に従って、物を言い、行ない、生きようとしているのです。人間の良心は、信仰者であっても、完全ではないということを、私は書いてきました。
 
その良心の信仰に、信仰の良心に、神様が、どのように導きや恵みを与え、どのように言い、どのように行えばよいか、いちいち厳密に正しく見定めることは、できないのが人間です。人間が不完全だからです。私たち人間は、確定した真理に生きることは不可能です。
 
また、神様、そして聖霊、またキリストの同伴によって、私たちの良心が、何か、導かれることはあるのでしょう。しかし、それを、確定することは出来ません。人間の思慮は、神には及ばないからです。私たち人間は、確定した正義に生きることは不可能なのです。
 
聖書由来の、聖句由来の、聖なる言葉で表されたものによって、活動しなければならない、という観念があるようですが、実際は、自分の自由意志の選択と判断で行動しています。自分の言動を神の御心で正当化するのは、背教ということです。
 
神意が分かるかのように神聖の言葉を多用することは信仰ではありません。私たちの言動は、祈りによって、神に前に捧げるものであります。でないと、自分が、神の意志を代行するかのように思い上がります。できる努力をして、個人が、折々に反省し、祈ることが信仰だからです。
 
神様は、その全能によって、私たちが足らざることを既にご存知です。であるのに、私たちは、強迫神経症のように、神様の御心に沿っているかどうかを検証しながら生きているかのように、振る舞っているつもりになるのは、ある意味、危険でさえあるのです。
 
神様は全能だから、私たちが足らざることを既にご存知です。
 
私たちは、日ごろから聖書に親しみ、祈りを専らとしているなら、正直に祈るように真剣に努めているなら、むしろ、何でもかんでも、神の御心であろうかどうか、ということを、自分で確認できないことも知っているはずなのです。
 
つまり、私たちは、信仰生活の不可欠なこととして聖書に親しみ聖書について考えているなら、私たちが判断し実行していることについて、むしろ、完全とはなりえない自覚をもって、精いっぱいの自分の良心に従って判断していること、それ以上ではないことを弁えるべきなのです。
 
信仰者には、信仰者の良心があります。詳しいことは知りえない私たちに、気づかない導きもあるでしょう。私たちは、聖書を読み、正直に祈り、あとは、そこで導かれ培われたであろう良心に従って、行動するべきであろうと思いますし、信仰は、そういうありかたしかないのです。
 
信仰と良心は、別ではありません。神秘の神聖の言葉ばかりを使いたがるのは、カルトの特徴です。
例えば、カルトは、心を汚れたものとして見て、霊と言うと安心するようです。
 
心、霊、魂、精神、気持ち、これらの言葉は、目的によって使い分けられています。それらの違いを、人が分かっているわけではないのです。
 
信仰を受ける "土の器" も同様で、比喩表現でありますが、心以外のところにあるとは思えません。祈る時の飾りのない心の比喩だと思います。
 
聖書由来の神聖の言葉を並べれば神聖を語ったと満悦するのもカルトの特徴です。信条によって合理化して、良心を、ゴミくずのように捨ててゆくのも、カルトの特徴なのです。
 
私たちは、神によって、キリストの同伴によって、人間として良心が成長することを知っているはずです。そこに、人間離れした何かの魔法を結び付けたがるのも、カルトの特徴です。そういう者は、人間性を大事にすることを、人間信仰といって嘲ります。人間離れが信仰だと思っているからです。
 
しかし、人間が、全能の神の意志と行為を代行する自覚の、霊を振り回す信仰?こそ、人間を、自らを、全能者に結び付けて、真の全能者である神を冒涜する "人間信仰" つまり、自分信仰に他なりません。
 
私たちは、カルトと同じような、うわべの言葉だけ神聖なる言い方をして、神聖によって自らを正当化するような冒涜の愚を避けなければいけません。
 
私たちは、神の御心によって行なう、というのではなく、祈り願う信仰の、精いっぱいの良心によって、考え、判断し、行うのだという自覚を持つことのほうが、より敬虔に近づくと思います。カルトが装うところの、丁寧語だけの偽の敬虔?と同じであってはいけません。
 
私たちは、総てをご存知の神に養われているのだから、私たちの良心にも御心が働きかけていることを弁えています。ならば、自分の良心という成長可能なものを、信仰によって使い、育ててゆく自覚のほうが、人間であるキリスト者らしいと言えるのです。良心のないところに信仰はありません。
 
その生き方を支えるのは、キリスト信仰者においては、飾らない正直な祈りです。
 
神が与える信仰の義は、神に対して故意に偽ることをしない人に、即ち、精いっぱい正直な祈りを捧げる人に、惜しみなく与えられます。
 
与えられるのは、信仰の義であって、神の義ではありません。超常の義でもありません。信仰は、魔法ではなく、人間に共感できて、人間が大切に出来る恵みであります。それ以上のことは、神に任せられることです。
 
 
信仰の義は、不変の境地の完成ではなく、キリスト信仰者が成長しつつあることの証しであります。
 
 
 
成長というものが、全く見られないのが楽山とシャロームであります。
 
深い情緒が理解できない鈍麻したパーソナリティ。代わりに、わざとらしく感動したようなオーバーな褒め言葉を書いてくるが、その前後関係に表れていない、どう感動したか全く書かない、説得力の内実がなく説明しない、何も変わっておらず、言ったこと自体に、批評家気取りで満悦しているだけです。
 
理路もバラバラで、マイナスを書いて、あとでプラスを書いたら、プラマイゼロだから、責任は負わなくていいと思っているようです。そういうのは、いい加減な奴と思われて信頼してはいけない人だと見なされることが分からないのです。反省・責任感・学習意欲が、一切、見られない人です。
 
人間の知性と感性の及ぶのは、せいぜい、身の周り、情報として知っている範囲、言葉・画像・映像で、感じたり考えたりする範囲に過ぎません。そういう人間が、総てご存知の全能と言われる神を、評価して、その存在と不在、その善悪、などを云々するなど、決してできません。
 
自らの不完全に気づくことが信仰の入り口なのに、神への評価を無理にしようとして、神を、人間の乏しい脳みそで安易に決めつけて気づかないのが病的自己中の入り口にいる楽山とシャロームという傲慢の悪意であります。無神論者ではなく、無神教徒と呼んでいます。彼らに論などありません。
 
そういう人が、真面目なふりをして、真実の追求をしてますって感じで書いてきて人を惑わしているのは、どう見ても、不正だと思うので、こちらも批判を続けています。いかなる妨害にも屈しない時間だけ、命があれば、何かすることはあるでしょう。
 
 
神は完全なる御方として信じています。人は完全を知らないので、完全なる神を恐れます。神を信じる理由は、神に比べて人間は不完全だという自覚を持つためです。そこに、過剰な熱は取り去られ、祈りが生まれ、命が生まれ、成長が生まれます。
 
万能や超常を語る宗教と信仰は、神を知りません。シャロームや楽山などの、偽牧師や反キリストの無神教カルトは、自分を神?として、その醜さだけを表す因業の路程をうろつきます。彼らが語り否定する神?は、キリスト信仰の世界の、どこにもいない神?=言葉=概念=紙なのです。
 
牧師気取りのシャロームも、学者気取りの楽山も、玩具の遊び方のような幼稚な概念しか持っていません。似たような無神教カルトが他にもいるようです。騙されないでください。人間に完全な境地などありません。その自覚が、地獄のような巷(ちまた)から、人間を救うのです。
 
 
 
人間としての正しさを

人間としての正しさを
 
 
(2020年)
(2021年)
(2022年01月)
(2023年01月25日、再録+加筆)
 
 
 
  宿業と運命
 
性(さが)は人にあり
業(ごう)は我にあり
命(めい)は天にあり
 
運命は天にあり
宿業は我にあり
 
我が道を語らんとするに
「運命」よりは「宿業」と言ふべきならんか
我と我が身のたどりたる道を
我のほかとは思はれ難し
 
あはれ罪人なり
かの日もこの日も
罪は我にあり
 
運命という言葉は、立ち向かうべき障害という意味で使われることと、予め決まっているどうしようもない定め即ち運命論の運命という意味で使われる場合とがあるように思われる。キリスト教で運命というときには前者の方が多いと思う。
 
後者の場合、自分の人生の責任をいわれもない第三者に帰するようだし、キリスト教では人知で計りがたい神の計画や神の導きということは言われるが、運命論を説いてはいない。信仰は、祈りを通して、神と人との双方向である。
 
しかし「目一杯生きてきたけど、こうなるしかなかったよな」というような気持ちをもって自分の人生を振り返ってみるとき、運命という言葉は使いたくない。まことに勝手ではあるが、今のところ宿業という言葉が少し好きだ。他に適当な言葉が見つかるといいのだが。
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
書けば書くほど、底が知れてしまう楽山ですが、自己愛性人格障害だからでしょうか、偏向だけの、視野狭窄の、いちゃもんだけの文章を、平気で、しつこく書いて、恥をさらし続けています。不完全を自覚せず、不都合を忘却し、自己顕示だけの執着から、実験動物のように、繰り返しています。
 
 
 
 楽山のツイッターですが
 
★こも/楽山日記3さんがリツイート
片柳弘史
@hiroshisj
「すべてが自分の思った通りになれば、結局、自分が思っている程度の人間にしかなれません。思った通りにならないからこそ、時々思いがけない試練がやって来るからこそ、自分の想像をはるかに越えて成長することができるのです。」
『こころの深呼吸~気づきと癒しの言葉366』(教文館刊)
 
楽山は、自分が思った通りになったことはないと思います。自分が、うまく騙(だま)したときに快感を感じるかもしれませんが、それを、楽山は、自分が正しい証拠として、勘違いして悦んでいただけなのです。そのような、自分に都合のよい妄想的な勘違いが、楽山の生き甲斐なのでしょう。
 
結局、勘違いや妄想は、生きる上で、必ず、現実や真実との不整合によって、不快な現象を結果してゆきます。楽山の自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)が、どう慰めるのでしょう。独りで、ニヤニヤ笑い続けて、口を開けたまま、人生を終わりを迎えるのでしょうか。
 
楽山は、今は試練の時とでも思っているのでしょうか。自業自得は、乗り越えるべき試練でしょうか。否、反省して改めるべき罪なのです。しかし、楽山の病質は、無視しておれば解決して楽になる、と教えるのでしょう。自業自得を自覚しないならば、結局、自分の想像を超える崩壊が待っているのです。
 
 
 
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  詭弁に乗る楽山2
 
 これからの宗教と無神論(中村圭志氏のツイッター)
 2022年01月02日 楽山日記(LD)を批判。
  を再録+加筆して批判。
 
 
楽山という人は、キレイごとを書きながら、それを裏切ってゆく生き方をしている偽善者です。ウイルスでしょうか、私のPCのキーボードをブロックしました。現在、スクリーンキーボードを使っています。楽山は、怖い人です。言論者ではありません。サイコパスだと思います。
 
楽山は、他者の詭弁を利用するしかなくなっています。元々頭のまとまらない人です。理路は散乱し、多くの人格に成りすましているので、脳も精神も、マルチなHNと同様、乖離~分裂しているのかもしれません。楽山は、悪だくみを実行するので、精神病ではなく人格障害だろうと思います。
 
楽山は、体質的な精神病質(サイコパス、自己愛性人格障害、自己愛性パーソナリティ障害、NPD)だと思います。自己顕示欲が原動力であるため、その半端な言論の、虚言と自己愛と、罪悪感の欠如は、関わる人を病ませる可能性があるので、決して関わらないでください。
 
 
*偶然
 今年は、無神論についてもっと積極的に書いてみようと思っていたら、タイムラインに次のツイートが流れてきた。こういう偶然はちょっとうれしい。
中村圭志 神話・宗教学
@seattlelubbock
ドーキンスの無神論関連の本に関しては、アマゾンなどでは宗教信者からの否定的なコメントが書かれることがありますが、書き手に読解力がないことは明らかです。信者が相手にしないのに無神論を説くことに何の意義があるのか?との意見もありますが、やはり未来の世代を見据えての展開だと思います。
午後1:43 · 2022年1月1日·Twitter Web App
 」
 
無神論が通ったら、未来はよくなるのでしょうか。はっきり分かるもの、例えば、物体や、その運動のようなものでないと信じない者たちは、恐れもなく物体のように神を考えるのでしょう。何故なら、宗教的感性がないからです。宗教的感性とは、謙虚な良心であります。分からないと言える心であります。
 
 
*無神論と向き合う信仰
これには同感だ。本当の信仰というものは、無神論から目を背けることではなくて、それを学び、理解し、乗り越えてこそ成立するものではないかと思う。
 
すごい詭弁です。否定しているのに、「理解し乗り越え」るなどと言っています。「本当の信仰」と言いながら、信仰を否定するのです。神の論も、神がいない論も、成立することはありません。神は、人の論で成り立ってなどいないからです。ましてや、楽山は、人の論も成り立ってもいないのです。
 
 
中村圭志 神話・宗教学
@seattlelubbock
現代における無神論の台頭には論理的な必然性があるので、信者がどのような心情をもとうとも、これに向き合わなければどうにもならないと思います。無神論に顔をそむけてどうにかなると思うのは、30年間何もしないでひたすら没落してきた平成の日本のようなもの、あるいは日本の保守のようなもの。
午後1:46 · 2022年1月1日·Twitter Web App
 」
 
無神論は台頭しているのでしょうか。半端な理屈が半端な理屈を自画自賛しています。誰も褒めてくれないものだから、説得力のない「論理的な必然性」という言葉が浮いてきます。そして、神に「顔を背けてどうにか」しようと、没落するカルトの干物のように、強張って硬くなるのでしょう。
 
 
*宗教と論理
これは自分には理解が難しい言葉だ。とはいえ、宗教においても論理は無視できないということはわかる。
中村圭志 神話・宗教学
@seattlelubbock
宗教は第一に情念の問題ですが、情念だけじゃどうにもならないというのは論理の問題です。そして情念がころころ変わってきたというのは歴史の問題。これからの宗教学は、教団の調査などより、知性の歴史の勉強と、論理的思考にかかっていると思います。宗教信者にとっても、これからは論理の時代です。
午後1:48 · 2022年1月1日·Twitter Web App
 」
 
「理解が難しい」のに「とはいえ」でつないで、逆の「宗教においても論理は無視できないということはわかる」のだそうです。こういうことで「理解が難しい」が嘘だと分かるわけです。楽山は、いたるところで理路が破たんしてきますが、元々、国語の勉強が成っていないのだと思います。
 
 
論理は、前提がなく積み重ねのない欲望からの結論を防ぐために、宗教でも必要です。宗教と信仰は、情熱ではあっても「情念」という言葉で済ませられるものではありません。こういう言葉で、無神論者は、心の問題を理解できないことを表し、やたら、論理、論理と、振り回すことになります。
 
 
この世のすべてを、論理で理解することは困難ではあろう。宗教は特にそうだろう。
ただそれでも明らかに論理に反する宗教の未来は明るくはないだろう。
 
良心の正論と直観がない犯罪者詭弁屋楽山の「未来は明るくはない」のです。「論理で理解することは困難」なのに「論理に反する宗教の未来は明るくはない」という詭弁で、理路を恣意的に捻じ曲げています。混乱させるために、大事なところでも曖昧な筆致を使うしかないのが楽山です。
 
 
論理によって結論が出せないものであれば信じることは可能かもしれないが、論理によって明確に否定されるものを信じることは無理だからだ。少なくとも私の場合はそうである。論理で判定できない論理を超えるものは信じられもしようが、論理的矛盾まみれの宗教を信じるのは無理だ。
 
信仰は、論理によって肯定も否定も結論は出せません。これは、基本的な信仰理解です。楽山には、その理解がないということです。ひどいですね。また、楽山の言う論理的矛盾は、空想の超常話の否定でしかありません。本質は、そこにはないのです。
 
つまり、楽山には、まさに、信仰を受け取るための飾らない「土の器」がないのです。そういう、ならず者たちが、超常より、さらに思い上がった超常気取りの屁理屈をもって、"無神論" という成り立たない傲慢の産物を掲げているわけです。信仰は、人を救うことがありますが、無神論は、誰も救えません。
 
無神論は無神論者が快感を得る遊び道具です。彼らには、独特の、勝ち誇ったような、平安からは程遠い笑い顔があります。醜いです。悪魔のように見えることもあります。正直言って、信じないだけでなく、否定して悦ぶ無神論者は、サディストだと思います。
 
論理によって明確に肯定できないものを、論理によって明確に否定だけできるという楽山の惨めな非論理的詭弁です。論理的にも心情的にも、嘘まみれ詭弁まみれの楽山を「信じるのは無理」です。論理、論理、などと振り回す者ほど、本当の論理も神も知らず、知らないという共感さえないのです。
 
心貧しい、即ち、虚心の信仰者は、理屈では知らない神に、人生の縁(よすが)になるほどに大切に想うほどの、温もりと潤いを与えられています。不完全で頼りない、この情緒は、理屈屋が干からびるほど唾を飛ばしても得られないような、信仰という命の賜物なのです。
 
 
*ドーキンス
中村圭志 神話・宗教学
@seattlelubbock
というわけで、私は必ずしもドーキンスらの宗教観に全面賛成ではないのですが、ドーキンス抜きで宗教は語れないと思うので、しばらくは、(図像学だの死生学だの映画や小説の話だのと並んで)無神論の話を投稿していきますので、おつきあいくださいましな。
午後1:50 · 2022年1月1日·Twitter Web App
 」
さて、この後どんな話が続くのか楽しみだ。
ちなみに自分の場合は、ドーキンスの宗教批判は若干遠く感じることがちょくちょくある。たぶん自分は日本的な宗教観を持っているのに対して、ドーキンスはキリスト教を念頭に置いて話すことが多いせいだろう。これは宗教的文化的背景が異なるのだから、致し方のないことであり、自然なことでもあるのだろうと思う。
 
「おつきあいくださいましな」という軟派言葉にだまされないでください。そして、楽山は、日本的な宗教観も、外国的な宗教観も、霊的な宗教観も、持っていません。また、楽山は、キリスト教を念頭に置くことなど出来ません。楽山は、大事なことを何もかも腐らせてゆく変質した粘性人格なのです。
 
この楽山という犯罪者の、みじめな荒らし人格は、宗教もなく、文化もなく、背景もなく、どこにも至ることもなく、自然な何ものでもなく、嫌いなものをロンリー的に否定したつもりの孤独な固陋(ころう)のナルシストで、自分の世界でだけ一人前を気取って慰めとしている独り芝居の大根役者に過ぎません。
 
楽山みたいな、心の芯にカビが生えた人格にならないように、どうか、楽山に関わらないでください。近づかないでください。楽山を正常な人間だと思わないでください。いちゃもん屋、雑言屋、夜店のインチキ、見世物小屋のペテン、そして犯罪者の、永遠に埒(らち)の開かない"lonely"ピエロなのです。
 
楽山は、"ウソッピ" 物語の、オオカミ少年です。
 
 
★こも/楽山日記3
@komo266
返信先: 
@komo266
要は私は、人生論的な心の教えには共感、支持はするが、普遍的ではない党派的で偏った考え方には反発するってことです。
そうしてSNSでは、前者を話題にするより、後者を話題にする信者が多いので、勢い批判が多くなるということですよ😊
2023年1月11日
 
楽山は、普遍的な考えなど、何も持っておらず、その偏狭な妄想的偏見を振りまわして混乱を招くだけの荒らしです。気に入らないと、ウイルスなど卑怯な手段も使ってくるので、決して関わらないでください。自己愛性パーソナリティ障害NPD、そして、サイコパス、異常者です。
 
 
lonely-論理ー

lonely-論理-
 
 
(2022年)
(2023年01月19日、再録+加筆)
 
 
 
  陰・陽
 
木陰から
雲雀が飛ぶ
雲雀と気付かれぬまま何も告げずに
脇侍(きょうじ)を務めるのは
寂寞を捏(こ)ねる四十年(よそとせ)の落魄
 
白紙の涅槃(ねはん)を装丁する
風の産土(うぶすな)をたずねるように
 
ゆえに折れる木は燃える前から
当然として折れるであろう
 
表裏一体の巡る日の下で
遠く雷は感電して
細い折れ線を自らに向けるに過ぎず
砂塵よりも大量に散乱する光に打たれ
爬虫は狼狽(ろうばい)となって類を呼び
蠢(うごめ)くものは既に顕れており
 
たとえ雲が山陰に隠れても
木陰が木陰である間
惜しみなく
陰にも陽は射している
 
 
  失楽園
 
緑児(みどりご)は自ら進んで
血糊(ちのり)を見せることはない
 
大人はときに血糊を
見せざるを得なかったり
見て欲しくなったりする
失楽園
善かれ悪しかれ
知恵をつけた結果である
 
生きて楽園へ戻る道は
もはや何処にもないが
心有る人々には
姿なき幼児(おさなご)が
ときおり問いかけてくる
 
あなたはだれ?
なにしているの?
 
楽園の住人に問われても
楽園を追われ
忘れてしまった大人たちは
それゆえそのとき
むしろ悩んだり悔いたりする
 
血糊が減ることはないのである
一方で人々はしばしば
血糊に因縁話を付け加えながら
地上の楽園を探し求めて
赤児(あかご)を自慢の腕に抱き
善かれ悪しかれ
やがて知恵を吹き込んでゆく
 
いずれにせよ
血糊が減ることはないのである
 
 
 
★こも/楽山日記3
@komo266
とある新興宗教の信者だったので、これはよく分かる。
こうしないと悪霊に憑依され、地獄に堕ちる
ああしないと天変地異が起きて大勢亡くなる
などと何度も何度も聞かされました😅
引用ツイート
naru@脱・自己愛被害
@kokorodrugstore
1月14日
あなたをコントロールしようとする人は、あなたに「言うことをきかないと悪い」かのように思わせます。道徳や良心の話を持ち出して罪悪感を煽ったり、宗教ならば信仰心がどうとか呪いがだのバチが当たるなどと言うでしょう。
惑わされないでください。
相手はあなたをコントロールしたいだけです。
 」
午後9:31 · 2023年1月15日
 
「悪霊」に「天変地異」❓❓❓超常言葉が並びます。いずれにしても、超常の呪いで脅迫するのはカルトで、霊が分かるっぽいと言って自分のほうが正しいとばかり、宗教と信仰を先入観で節操もなく全否定するのは楽山です。楽山に道徳はありません。あれば、ウイルス攻撃など出来なかったはずだからです。
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
 
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら 誤ったら 素直に詫びて 自分 正さなくちゃいけない」「それが出来て 初めて人間だと それ出来ないなら 人ではないと」
 
「嘘ばかり 重ねる君よ 保身だけの 卑怯者の君よ そんな君は 魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと 最大限の反省と共に 開いた出店を 畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
楽山の病質の大方はバレています。批判を書いても、感情的に、この野郎などとは思わず、批判するにあたっては、それこそ人間性の深みを持たない存在困難者くらいに、文章に表れた筆致や文脈を観察することが必要です。病質者・犯罪者と、まともに付き合ってはいけません。
 
 
 
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  不安をごまかす楽山
 
 
ウイルスらしいものが、ブログ下書きを書くのに、日本語入力変換を邪魔しています。楽山以外は心当たりがありません。思うようにならないと、嘘、詭弁、自己満妄想、無反省、無責任などの病質は、邪魔をしてくるようです。いったい、どういう世界に生存しているつもりなのでしょう。
 
 
 2023年01月08日
 幸福の科学は、大川隆法ファンクラブなのか? 宗教の本質とは?
  を批判。
 
 
*幸福の科学は、大川隆法ファンクラブなのか?
このツイートをしてから思いついたのだが、信者は教祖のファンであるならば、幸福の科学は大川隆法のファンクラブみたいなものだとも言えるかもしれない。
 
今さら、こういうことを言って何になるのでしょう。楽山に騙されるファンが一人もいなくなるように批判記事を書いています。楽山ファンクラブは、何の実りもなく、騙し文句で、人格が壊されてゆくだけです。教祖願望をいくら抱いても、楽山は、結局、恨みの対象にしかならないのです。
 
 
★こも/楽山日記3
@komo266
信者自ら、教祖と信者の関係を、歌手とファンの関係にたとえてる!
信者は、こういうたとえは嫌がるもんだと思ってたけど、そういうわけでもないんだね。
 
慕う相手のファンというのが、楽山には不可解なようです。楽山は、慕われたことがないからでしょう。楽山をしたう=楽山に騙されることになるからです。キリストを崇拝することは、多かれ少なかれ、キリストのファンになることかもしれません。慕うということが楽山にはないのでしょう。
 
楽山は、佐倉哲と同様に、信仰を、辻褄でしか表せないようです。心のない人には、慕う・・という心情も分からないのだろうと思います。いつも人を下に見て、上からしか物の言えない楽山です。正当な愛など分からないのでしょう。情緒が感受できず、言葉遊びにしかならない楽山です。
 
 
*本来の宗教
私見ながら、本来、宗教というものは、神と人との関係であって、人と人との関係ではないように思える。 たとえば、こんな風に。
 ○ 神(人を超えた、人ではない存在)を人が信仰する
 × 教祖(人)を人が信仰する
 
当たり前のことを、新発見のように書いてくる楽山です。嘘と詭弁だけの楽山が慕われることはないということです。また、人間は、人間に理解・共感できる範囲でしか本当の信仰は成り立ちません。楽山が超常を、いくら、いじくっても、それは、信仰とは何の関係もないのです。
 
 
上の信者の発言には違和感をおぼえるのだが、その一因はこの辺りにありそうな気がする。スターを神のごとく崇拝する熱烈ファンと、教祖を神のごとく崇拝する熱烈信者とには、たしかに共通項はあるだろうけれども、どちらも本来の宗教や信仰とは異なるものだし、それを宗教の本質であるかのように語るのはおかしいのだ。率直に言って、ここでたとえとして挙げられているのは、まっとうな宗教というより、いわゆるカルト宗教的な形態なのだと思う。
 
似たようなところはありますが、キリスト信仰の場合、キリストは目の前にはいないのです。憧れもあり、愛もあるでしょうが、人間としての限界があります。そこで成り立つ信仰とは何かを、クリスチャンは、一生のテーマとするのです。
 
さらに、楽山には、一般のファンの心理も理解できないほど、体験が未熟なのでしょう。何ごとにも真剣味のないのが楽山です。だから、ことさら、大きなテーマで豪語したいのでしょう。騙されないでください。インテリぶって言ったところで、楽山に実質は欠片もないのです。
 
 
 
 2023年01月08日
 今の時代に、宗教なんて必要なのだろうか?
  を批判。
 
 
*宗教なんて必要?
 ツイッター上で、次の議論が話題になっていた。
・あらゆる困難が科学で解決するこの令和の時代に、『宗教』は必要なのか?
 
あらゆる困難が科学で解決することはないでしょう。人間には心があるからです。こういう簡単なことを、いちいち、大仰に言ってくる楽山です。ゆえに、人間には宗教が必要であり、楽山には宗教理解が不可能になっています。自己愛性パーソナリティ障害NPDには、委ねる姿勢がないからです。
 
 
*私見
自分なりの考えを述べると、結局のところ、この問いには、人それぞれとしか答えようがないように思う。大雑把に言うと、心の慰めだとか、ものごとの意味だとかを欲する人には、宗教は必要だろうけれども、そういった欲求が希薄な人にはさほど必要ではないだろうと。
 
心のない楽山には必要ではない、というより、理解できないのでしょう。潤いと温もりが、楽山の心にはないと思います。乾燥して干からびた灰のような、心ではなく、辻褄合わせだけで生きているのです。そういう欠陥を自覚せずに、まともに言っているつもりの、この4年間が悲惨な資料です。
 
 
ちなみに自分はどうかと言えば、過去に近親者を看取ったときには、その近親者の人生に意味があったこと、天国で幸せにしていることを願わずにいられなかったので、宗教を必要とするタイプなのだと思う。
 
また白々しい嘘を吐いています。自己愛性パーソナリティ障害NPD(自己愛性人格障害)の感情に、人のために願うことなどありません。自分に都合よいように、あらゆる文脈を捏造してゆきます。楽山は、まとも芝居をして、成り立たない自分を露呈してゆきます
 
 
ただ、だからといって、宗教にどっぷり浸かるということはできない。人は死んだら無になる、天国も地獄もなく、神もいない、人生に限らず、一切の物事には意味も目的もないという世界観が成立しうることは分かる。
 
楽山らしく、分からないとは言えず、自分が無になる世界を、分かると言ってしまいます。誰も、自分の「無」など理解できません。また、見栄を張って、墓穴を深くする楽山です。安易に今の自分の虚無感が表れてしまいます。ずうっと、楽山は、言葉の苦し紛れの、お漏らしをしてきました。
 
 
この点、自分は宗教を必要としない人の感覚を理解できなくもないので、宗教を必要とするタイプではあっても、前近代的で単純素朴なそれとはいえない。我ながらこういうところは面倒くさい奴だとは思う。
 
楽山は「宗教を必要としない人の感覚」ではなく、自己満と教祖願望から、宗教をけなすタイプです。自己愛性パーソナリティ障害NPD(自己愛性人格障害)だと判断しています。4年間批判しても、反省することがありません。
 
昨日からウイルスらしいものによって、一時的に入力変換をフリーズさせることが繰り返されていて、日本語入力を邪魔しています。変なサイトにアクセスした覚えもないので、楽山を疑っています。楽山は、言論で返せないと、そういうことを平気でしてくる人なのでしょうか。
 
おかしなことが起これば、楽山が、真っ先に疑われることになります。そして、サーバーに報告されます。個人特定されるなら、楽山は、アウトです。ネット犯罪者、嫌がらせをする者として、履歴~前科が残るでしょう。注意・警戒して、楽山に関わらないようにください。
 
 
背筋の凍るようなウイルス

背筋の凍るようなウイルス
 
 
(2023年01月10日)
 
 
 
  愛して
 
二十代から数えて
四十年以上のの凹凸を噛んで
出来上がった顔が弱っている
さしのべた手をかすめて
わずかの小銭が通り抜けた
歪んだ顔を隠す
愛してもいないのに
 
二十年の空白を吸いきれずに
出来上がった変質者がふらついている
その辺り昔話でいっぱい
作り話でいっぱい
もう一杯と
暗い路地に足の裏を残しながら歩いていく
歩く後ろから世界は崩れていく
前は暗闇
 
どちらを選ぶか
どちらを選んでいるか十年後
路地に人影はなく
多くの足跡乱れて
入り組んだ空白から
もれた明かりが凹凸を噛む
愛してもいないのに
 
 
  括れない
 
童謡・メルヘン
風刺・断定・メタファ
皮肉・洒落・語呂合わせ
もっと決定的な括(くく)りが
未だ思い浮かばずにいるような・・・
すでに括っておいてだらだら
と宝探し
 
腸を下し
腸も括れず
首も括れず
考え過ぎて
考え過ぎで
いっそ考えない歌
そのまま歌えたら
正気も狂気も喜んで
そんなとき
変質者出没
と町内会のビラ
危ないな
独りだし付き合いないし
こもってばかりだし不潔だし
何かあったら真っ先に
疑われそう・・・
 
食って出して寝ろ!
はい!日夜そうしております
でもいつの間にか
道理で白髪頭
また探し始める玉手箱
昔々もらった気がする
 
 
  死んでいます

私は日々死んでいます
聖者の叫びは程遠く
詩人の鐘さらに遠く
私は日々滅びています
体は衰え心は萎え
気力は失せて
私の耳は砕け散ったかけら
響きも笛も聞こえない
私の目は汚れた鱗
涙ながらに涙は流れず
渇いて乾いて
重なるものを見抜けない
私の昼は空しい排泄に終わり
私の夜は繰り言の始め
ありふれた風景
世界の末席から転げ落ちて
私は日々死んでいます
私は日々滅びています
しかもそれらすべてが
必ずしも悲しみだけではない日々を過ごしています
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
 
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
言論の責任を負わない者に、言論の自由はありません。言論の義務を守らない者に、言論の権利はありません。それを理解しない者が、「反省」しないことを「人間の性」と言って居直っています。笑いと怒りだけがあり、悲しむ心を持ちません。反省せず罪悪感もないサイコパスなのでしょうか。
 
 
 
★こも/楽山日記3 
@komo266 
RT @vincent20200110: リツイートしただけで地獄に堕ちると言われるかもですが、リツイートします。(ま、いいわ、今さら。さんざん信者から脅されてるけんね)。 
 」
 
なぜ、楽山は、これをリツイートしたのでしょう。脅されているのではなく、ネットで、嘘を吐き、詭弁を弄し、人をだまし、批判を無視して、リーダー気取りを続けている楽山は、罪と偽善の必然の結果そのものを無視して書き続ける悪魔の意志表示でしょうか。やはり犯罪者なのでしょうか。
 
 
 
楽山の害毒メモ:
 
今までに表れてきたこと。これは、楽山に限らず、聖書においてキリストの敵となった宗教指導者や、世に数多いる偽善者の特徴でもあります。この世で最も迷惑な人の特徴です。楽山は無責任です。決して信用しないでください。しかも犯罪行為に及ばなければ強制的に抑制は出来ません。
 
楽山は、1つのことを書いて、別の時には、それに反することを平気で書いてきます。そこで、反省、修正、というステップを置かず、あたかも最初から思っていたことのように書いてきます。自分に誤りを認めない自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)だからです。
 
偽善者の特徴でもあります。
 
人格:
自己愛が強く自己中である。
笑いと怒りしかなく、悲しみの情がない。
共感がなく、罪悪感がなく、反省しない。
自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)と思われる。
平気で嘘を吐く。様々な詭弁を弄して誘導し、柔和に見せかける。
深い情感がなく、共感性がない。相手が疲れるのを見て快感を得る。
後悔、反省、修正ができない。学習による成長がない。
罪悪感、羞恥心が見られない。サイコパスと思われる。
アドラー心理学の宣伝をしていた。自己中心である。
中身や実質のない形骸的精神機能しか持たない。
 
奇怪な単細胞。
 
議論:
議論や交流が、表面的で、整わないし、できないし、元々する気もない。
相手の意見を受け取っていないので、反論、弁明が成り立っていない。
理路が常識的にも浅く、基本的に訂正不能である。理解力がない。
自分なりの堅実な理路を組み立てられない。
読書自慢。感想は平板で、独創性や深みがない。
様々な気取り。読書家気取り、評論家気取り、インテリ気取りなど。
分かっているという我執から離れられない。
非を指摘されると、逆に、こちらに当てはめて被害者面をする。
人を批判~誹謗中傷するが、その言葉で自分が斬られるブーメラン現象。
真面目に応答~議論すればするほど、病的な徒労感と疲労のみをもたらす。
ボンヤリ言語:語尾を濁し曖昧で婉曲的な言い方で、印象を刷り込もうとする。
トホホ言語:謙虚で弱いと思わせて悪意を隠すための嘘の芝居。
しばしば、自身への同意を期待して、見え透いた世辞を言う。
「反省。とほほ」などと書くが、不自然であり、前後で何も変わらないので嘘です。
騙して、言い分を詭弁や嘘で通そうとする、通っていると思い込む。
 
訂正不能の偏執。
 
宗教:
反キリスト、反宗教。聖書およびキリスト信仰を、貶めてくる。
精神構造はカルトに似ているので、無神教カルトと呼んでいる。
キリスト教とキリスト信仰を字面だけで云々し、理解していると思い込む。
HSを脱会したと言っているが、真実かどうか、疑わしい。
霊能者のつもりだが、それに見合う直観的洞察は皆無である。
 
慢心して中身の無い形骸。
 
楽山の書いた文章を、3年数か月のあいだ見てきた結果ですから、大きく変わることはないでしょう。これらについては、新しい情報によって、必要なら加筆し、繰り返し載せることになるでしょう。
 
 
 
私の「ウソの国ー詩と宗教」ブログ:
 
(古い記事は載っていません)
 
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(古い記事もインポート済み)
 
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