ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

タグ:無神教カルト

 
  退行の繰り言2
 
 神は、悪を容認しているのだろうか?
 (『宗教的経験の諸相(上)』W・ジェイムズ著)
 2020年04月29日
   改めて批判。
 
 
楽山は、今度は、HSだけでなく、キリスト教否定の、キレ気味の記事を2つ書いてきました。意地でしょうか、単純なのでしょうか、それとも、相手にしてほしいのでしょうか。読めば、語調が強くなっただけで、今までと、ほぼ同じ繰り返しです。一つ覚えのようです。
 
楽山は、正義の味方気取りで書いていますが、前に言ったことを強調しているだけです。いつまでも、その疑問の中にずっと棲んでいたいようです。実際は、思い通りにいかない人生を、神のせいにしているだけだと思います。
 
楽山は、信仰を受け取る器が、自己愛過剰の自尊過大によって損なわれているので、信仰のいちばん大切なことが分からないのです。自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)によって、人間性が破壊されています。しんみりとした高等感情がありません。
 
だから、結局、前後関係お構いなしに何でも利用する飢えたケダモノの根性があらわになっています。そして、ますます、自尊過大に固まってゆくのでしょう。キリスト教と人間、その一番悪い例として、楽山は、反キリストのサイコパスになっています。
 
聖書で言えば、楽山は、キリストを裏切ったユダは後悔したので当てはまらず、強いて言えば、神が供え物を受け取らなかったとき、どうしてですかと嘆くことが出来ず、砕けた魂で訴えるような悲しみをいだけず、怒るだけだったカインに似ています。
 
現代の言葉で言えば、カインは、しんみりした悲しみも罪悪感もいだけないサイコパスの始まりでしょう。その点は、楽山に似ています。しかし、カインは、やけ気味に叫びました。楽山は、ニヤニヤしながら、嘘を吐くのです。
 
 
これは本書に引用されている文章の一部である。「神が存在するなら、なぜこの世に悪があるのか?」というのは、よくある議論ではあるが、悪をゆるす神など必要ないというところまで踏み込んでいるのは随分大胆だと思う。
私は、ある残酷な男が自分の妻を二階から蹴落とし、彼女が気絶してしまうまで蹴りつづけた、という話を聞いた。私は事の怖ろしさを強く感じた。その瞬間、『そんなことを許す神など私には必要がない』という考えが私の心に閃いた。
(『宗教的経験の諸相(上)』W・ジェイムズ著、桝田啓三郎訳、岩波書店、2014年、p.268)
 」
個人的な好悪で言うならば、自分は相手に対して要不要で判断するのは嫌いである。ただそれでもこの人物の気持ちは理解できなくもない。
 
どうやら、引用元も、楽山も、自分は怠けたまま、どんなときでも、めでたし、めでたし、ということにしてくれる神?でないと承知しないようです。つまり、神がいるなら、100%好都合を与えよ、と言っているのです。「理解できなくもない」・・ボンヤリ言語の曖昧語尾です。
 
神を否定する無神教カルトは、このように、不幸を神のせいにしますが、代わりの幸いを、何も用意していないのです。その無責任は、楽山に酷似しています。責任を負わず、反省もせず、人を憎んで、破壊人格になってしまった自分を、筋違いに、神のせいだと言っているのです。
 
身から出た錆を、金粉に変えてくれる恣意の命が欲しがるのは、いつも赤ちゃんのように乳を吸っていたい我がまま者の夢・幻の揺り籠のお伽噺でしかありません。このような自分勝手な怠け者たちの欲望に、神が反応して恵みを与えるでしょうか、否です。
 
前にも書きましたが、罪は、自由意志を与えられた人が犯すものです。その自由意志を成長させるのが信仰の成長ですが、この楽山と引用元は、育て損なったのを、神のせいにしています。不祥事を神のせいにしておいて、神に文句を言って、通るはずはないのです。
 
既に書いたような幼稚なことをまた繰り返して、いちゃもんによってキリスト教をおとしめてくる楽山です。このような人の言うことを受け取って、自画自賛の繰り返しを受け入れて付き合っていると、人格を破壊されて奴隷になってしまいます。決して近づかないでください。
 
「「神が存在するなら、なぜこの世に悪があるのか?」というのは、よくある議論ではあるが、「悪をゆるす神など必要ない」という引用をして賛同しています。自分信仰の楽山には必要ないのでしょうから、反省せず、悔い改めもせずに、滅びてゆく経過が、まずは、作文に表れています。
 
その悪こそが、楽山が振り撒いているものだということに、まるで、気づかない愚鈍を露わにしている楽山です。いずれ、赦されないときが来るのです。その時に、神は悪を許す神ではなかったと気づくことは期待できないでしょう。その時に、パニクって狂うであろう楽山です。
 
罪は人間が犯すものです。そして、人間は、警察や司法を考え出しました。人類は、少しずつだが、進歩し続けているのです。歴史は、まだ途中なのです。つまり、人間は恐ろしい性質を持っているが、正しさを求めてもいるのです。楽山たちは、文句ばかり言って、利己以外、何も求めていません。
 
そして、悔いることさえしない楽山のような者が、記事を書いて、自分で何かをよくするすべも考えないで、神を否定しながら、自らは卑怯な言論を続けているという現状では、正義の味方気取りの偽善者、つまり、偽善の隠れ悪はなくならないでしょう。
 
「相手に対して要不要で判断するのは嫌い」と言いながら「それでもこの人物の気持ちは理解できなくもない」と肯定している楽山独特の詭弁の卑怯さを覚えてください。これがボンヤリ言語という楽山の無責任言語なのです。このような人物は、宗教にも信仰にも、不要であり、さらに、害であります。
 
神は、楽山のような身勝手に合わせる御方ではありません。楽山が、神の正義を否定するならば、それ以上に、人の正義の欠片もない悪と偽善の楽山自らが裁かれることを否定したいからでしょう。楽山のような者の、正義に見せかけた安穏は、神によって守られることはありません。
 
この世に悪があることで、神に文句言っても、言ってる本人が、悪人であるだけでなく、詐欺師かつ偽善者では、話になりません。楽山は、悪魔性の無神教カルトであります。そこに、のぼせ上がっている楽山は、自らの罪と偽善も、赦されることはありません。
 
 
神は全能であり、何でもできるならば、この世の悪逆非道な行いを止めることもできるのだろう。
 
人間は、神に似せて、自由意志を持って造られた以上、楽山のような怠け者の偽善者を除いて、自分で何とかしようと考えます。そして成長し進歩するのです。
 
何でも、悪があるのは神がいない証拠じゃろ・・と短絡するような、楽山のような者は、では、神を信じないで、あなたはどう解決するのですか?・・という問いには、何も答えを用意していないのです。どこまでも、卑怯卑屈な偽善者は、楽山その人です。
 
そして、自尊を満足させるためだけに、まるで正義の代表であるかのようなふりをして、この記事のようなものを書いて、結果として、誰よりも醜い自分をさらしてしまうのです。人に嘘を吐き、人をだまして、神を呪っている楽山は、自らの存在を自分で否定しているようなものです。
 
まさに、総ての不都合を、人のせいにし、神のせいにしてきた、楽山の、自己愛性人格障害が全開です。楽山は、自らの口から出るクソを、神に投げて、どうするつもりなのでしょう、どうできると言うのでしょう。楽山の愚かさが、体質的なもので、理性も感性も無いことを、自分で証明しているのです。
 
 
でもいつまで待ってもこの世の悪逆非道な行いは無くならない。その兆しもない。
 
悲劇を神のせいにするばかりの楽山のような者が、大口たたきながら、悪行を働いて、そこにいるからでしょう。楽山には、悔い改めの兆しも見えず、ますます、のぼせ上がって、減らず口を叩き続けています。この世の悪逆非道には、大方、楽山のようなサイコパスが、関わっています。
 
 
つまり神はすぐにこれを止めようとは思っていないのだ。そんな神ならいてもいなくても何も変わらないだろうし、「神なんていらない。どーでもいい」という人が出てくるのも仕方がないことではある。
 
楽山にとっては、どうでもいい神?ですが、人間には、求道者には、信仰者には、生きてゆく上で、神が、キリストが、必要なのです。楽山が「どーでもいい」なら、何も言わないことです。楽山こそが、どうでもいい人です。真実の追求は、良心のある人が続けるのです。楽山は、全く不要な害毒です。
 
楽山は、神?をけなしながら、相変わらず、人と神のせい?にしながら、生きてゆけばいいでしょう。しかし、楽山が、必要な知性も感性も自覚も反省力もないのに、同じことを繰り返して、神否定を公の場で煽動することは、結局、楽山自身が責任を負う必然になります。
 
 
ましてや昨今は、いじめっ子だけでなく、それを見て見ぬふりをしている者も、いじめの加害者だという考え方が広まっている。これからしたら、この世の悪を放置している神もまた、加害者であり、批判されてしかるべきだということにもなるだろう。
 
神のことを言う前に、楽山は、誰よりも「いじめの加害者」であり、嘘と詭弁で混乱を招くだけの楽山自身が、批判されてしかるべきなのは、言うまでもありません。自分を正義の位置に置いている楽山の言は、いつも腐敗臭を伴ってきます。こういう男を批判するには、冷静さが必要です。
 
さんざん批判されて何も返せない楽山が、キレて、神なんていらない、ここでは、神を加害者だと、罵詈雑言相当の悪口を連打したところで、何様のつもり?・・と言われ、楽山こそ、おとなしい書き方の裏に、恐ろしい敵意と悪意を込めていることが、バレていると気づかないのです。
 
子供たちの味方をしている正義芝居をして、楽山は、何をしてきたかといえば、偽キリスト者で偽牧師のシャロームの味方をして、アドラー教の自己中の片棒を担いで、気に入らないことは無視しましょう・・なんて、自己中の無神教カルトの手先に過ぎません。
 
楽山自身は何なのか。子供を守る正義を実行したのか、否です。何も出来ないし、そんなこと考えてもいないくせに、自分を棚に上げて、正義ぶって、文句ばかり言って、苦難の世であるからこそ生きるための救いと癒しの伝道に対して、全く邪魔ばかりしている、典型的な偽善者のパターンです。
 
 
こういうことを考えるのは、宗教的には神に対する冒涜であり、悪の中の悪ということにもなるのだろうけれども、悲惨残酷に満ちている現実世界を直視する限りにおいては、この世に神も仏もあるものかという義憤を堪えるには、相当に信心深く、穏やかな性格に恵まれてでもいなければ無理な話だ。
 
神に対する冒涜、悪の中の悪が、偏向した目で「悲惨残酷に満ちている現実世界を直視する」などと言っています。それが楽しみなのでしょうね。しかし、悲惨残酷なのは、他者と神の悪口ばかり言って進むことだけは怠けている自己満悦の楽山その人であります。
 
「神も仏もあるものか」が義憤だと言っています。義憤は不正に対する正義の怒り。神に対して義憤は成り立ちません。楽山の反キリストらしい決めつけです。義憤だと言った時点で、神の恵みには気づく知性も感性も無いのです。
 
神がいないかのようなこの地上世界、それは、誰もが抱く疑問であって、人間は、そのことを考えながら、真実を求めて、成長しながら懸命に生きてゆくのです。神以外に、自らの不遇の憂さ晴らしの相手がいない男、それが、楽山です。
 
正常な人は、疑問があるからといって、とどまってなどいないのです。不平不満で文句ばかり言うのは、楽山が、そこにあぐらをかいて進まない人だからです。生きることに真剣な人は、まず、立ち直りのヒントを探すでしょう。文句ばかり言ってる楽山には出来ないことです。
 
自分を省みず、無根拠に神を否定し、そのくせ「信心深く、穏やかな性格」などと言って、口調を穏やかにしたつもりのようです。下種というのは、このようにも、卑しい書き方をする、という結論しか出てはきません。浅はかな楽山、これだけバレても、まだ懲りないようです。
 
 
これはいささかいわゆる厨二病的な思考でもあろうが、この神議論、弁神論的な問題が解決されない限りは、今後も神に愛想をつかし、見限る人は増えることはあっても減ることはないだろう。
 
楽山に「愛想を尽かし、見限る人は増えることはあっても減ることはない」でしょう。楽山は、恐らく、中2から、変わっていないのでしょう。典型的な学習・成長不全です。それで、自己陶酔するから、慢性ピエロの人格破壊が起こっているということです。学習がなくても破壊だけは進行します。
 
「今後も神に愛想をつかし、見限る人は増えることはあっても減ることはないだろう」・・まさに、楽山の"呪いの予言"です。自分の機嫌と快楽原則だけで、存在の是非まで決めつけてくる自己愛性人格障害の、人より上に立っているつもりの、インチキ説教者なのです。シャロームと気が合うはずです。
 
 
ちなみに、映画『ひ・き・こ降臨』では主人公がネットで下の画面を見る場面があった。
 
「 神様なんて本当にいるのでしょうか?
 いるとしたら、
 どうしてこれだけの理不尽が
 世の中で許されているのでしょうか 」
これは神について考えるとき、どうしても避けて通れぬ論点なのだろうと思う。
 
楽山は、神義論を避けては通れぬと言って、神を信じないのは楽山の勝手だとしても、読者にまで、楽山のような、破壊につながる停滞を勧めているから、批判することになります。成長する人は、あまりに遠くに行って、取り残された格好の楽山の、実に、自己正当化らしい愚痴であります。
 
楽山は、自分の遅れた分を取り返せないので、神を否定して、八つ当たりしているだけです。できるだけ多くの人を巻き添えにして、いい気になりたいのでしょう。不遇と不幸を神のせいにするために、無神教カルトに縋りつくのでしょう。もう、そこには、まともな人間は、誰もいないということです。
 
悲劇の映画の心情の告白を書いて、論点と言っています。楽山は、いちばん大事な共感ができていません。不平不満にキレているだけで、悲しみが、どこにも表れていないのです。これは、サイコパスの特徴です。いちゃもんしか言えないことこそ、悲劇なのです。
 
この映画は見たことはありませんが、この台詞を言った役の中の登場人物は、楽山みたいに、文句ばかり言って神を否定する人になったのでしょうか。それでは、映画のストーリーが成り立たないと思いますが。楽山は、また、都合のよいところだけ書いて独りで満悦しているのではないでしょうか。
 
だましてでも味方を増やしたいだけの下種というのは、こういう台詞までも、自分に近いと判断して、前後関係もお構いなく利用して、自分を高めてきます。引っかからないでください。ずっと、楽山の安いペテンなのです。
 
楽山は、中二病だけではなく、言葉だけ学者を気取って、実際は発達が止まったままの自己愛性人格障害からの退行だと思います。神義論が、人によって解決されることは、地上ではないのです。神を断定することは、信仰上、控えます。神を信仰する根拠は、楽山が言っていることとは、全く別のことです。
 
 
 
 宗教を信じれば信じるほど、信仰告白は難しくなる?
 (『宗教的経験の諸相(上)』W・ジェイムズ著)2020年04月29日
 
 
抜粋です。HSについての部分は省略します。
 
 
これは本書に引用されている手記の一節だけれども、自分もこれと同じとは言わないまでも、似た経験はある。
十六歳のとき、私は教会の会員になり、私が神を愛するかどうかを質ねられた。私は型のごとく、期待どおりに、『はい』と答えた。しかし、たちまち閃くように、私の心のなかでなにものかが『いや、お前は神を愛していない』と言った。私は自分の虚偽と、神を愛さない自分の邪悪さとに対して、恥じらいと悔いの念に長いあいだ悩まされた。この恥じらいと悔いには、復讐の神がいて怖ろしい方法で私を罰するかもしれない、という恐怖が混じっていた。
(『宗教的経験の諸相(上)』W・ジェイムズ著、桝田啓三郎訳、岩波書店、2014年、p.268)
 」
 
ここを引用するのは、楽山が「復讐の神がいて怖ろしい方法で私を罰するかもしれない」という恐怖を煽りたいためとしか考えられません。それにしても、楽山の神?は、救いはしないが、復讐はする、という神?のようです。そういう神?、私は知りません。何とでも尾ひれを付けてくる楽山です。
 
 
思うに、信仰というものは、大して信じてなければなんとでも言えるけれども、本気で信じていれば信じているほど「信じます!」という信仰告白は難しくなるものなのだろう。そういえば以前、匿名掲示板において、とあるクリスチャンと議論したときに、「洗礼を受けたということは、いざという時には殉教も覚悟しているということですか」と問いかけたら、「そうあるべきだろうけれども…」とはっきりしない答えが返ってきて、それを聞いた自分は、この人は本当に信じているのだなあと思ったものだったが、HS信者が命懸けだとか不惜身命だと息巻いているのを見ても、この人は全然本気じゃないんだなとしか感じないのもそういうことなのだろう。
 
「「信じます!」という信仰告白」は、ふつう、しないです。信仰は、気合いではありません。心の静けさから信仰告白は始まります。楽山は、何も知らないのです。神への恐れを知れば、不正直に豪語することを恐れるようになります。これは、信仰の、一つの成長なのです。
 
この記事のタイトルは誤解を招きます。信じるということが楽山には理解できないのです。あるいは意図的でしょうか。「宗教を信じれば信じるほど、信仰告白は難しくなる?」のではなく、神への恐れを知る者となって豪語を避けるのは、信仰の成長なのです。つまり、それこそが、信仰告白になります。
 
 
結局、人は本気であればあるほど責任について考えるものであるし、そうであれば当然のように口は重くなり、軽はずみなことは言えなくなるものなのだ。もっとも世の中にはいろいろな人がいるわけだから、すべてがこの通りというわけでもあるまいが、少なくとも自分についてはそんな風にできているのは確かではある。
 
発言の責任能力は、キリスト者の場合、神を恐れるがゆえに、神の前において、正直であるべき、嘘は吐けない、飾ってはいけない、大口は叩けない、という自覚から、成長してゆくでしょう。信仰者は、世辞と嘘と詭弁の楽山とは、全く違う世界に生きてゆくのです。
 
楽山は、地上で解決しない疑問によって、神を否定して、そこから全く成長が見られないので、発言についても、言い放って終わり、という、シャロームと同じで、責任感は皆無です。耳ある者ではないから、聞かないで平気なのです。楽山は、世辞と嘘と詭弁だけを覚えて身に着けてきたのです。
 
楽山は、霊が分かるっぽい子供の頃(?)のまま、「心の理論」での酷い曲解、奇跡についての循環論法に気づかない、など、めちゃくちゃなことを好き放題に言って、訂正しません。そして、この3年余り、全く成長が見られません。ふつう、少しずつでも、学習してゆくものですが、楽山は違います。
 
あわせて「軽はずみなことは言えなくなる」「自分についてはそんな風にできているのは確か」・・これこそが、軽はずみな発言であり、言葉を真剣に考えていない証拠で、さらに、これは自慢になりますから、のぼせ頭で、実際、口に締まりがないということです。楽山の言は、軽はずみで出来ています。
 
今までも、楽山は、思いつきで発言し、詭弁で正当化して、それを訂正せず、今また、自慢しているわけです。反キリストは、自分しか頼るものがないので、自分の悪を、いちいち、正当化して、自慢に変えてゆく宿命になります。ゆえに、次第に、くずれが明らかになってゆくのです。
 
 
神によって、人は何を知るのでしょう。神を知って賢くなるのではありません。神の関係において、人は人を知るのです。よって、人としての身の程を弁えるのです。人間に共感するキリストに、人間が共感することこそ信仰です。その感性が皆無で、嘘と詭弁で嫌がらせをしてくるのが、楽山です。
 
 
独り繰り言

独り繰り言
 
 
(2020年04月30日)
(2022年05月10日、再録+加筆)
 
 
 
  不眠と退行
 
もう遅いから
眠ろうとするけれど
眠りに入ろうとしているのか
黄泉に入ろうとしているのか
 
後頭部に住みついている
モヤモヤとしたしこり
ときに硬くなり激しく緊張して
沸き上がってくる怒りのようなものが
その理不尽を問うては責め続ける
顔と盲目と死を含んで
叫び声を誰にも聞かせない
 
お母さん
僕のお母さん
心配しないで
あなたは何もわかっていないこと
よくわかっているから
僕が相続したと思っている
泣き虫と笑い虫をありがとう
乳が欲しい
吐き気がする
乳が欲しい
もう遅いから
 
お父さん
僕のお父さん
なぜ戦争で死ななかったんだ
なぜあなたの息子は病気なんだ
見えないルールを作って
自分を厳しく律してきたお父さん
くわっと怒って自分で苦しんでいた
お中元もお歳暮も受け取らなかった
それが立派だったお父さん
なぜ今になって
長生きして欲しいのに耳が遠いんだ
 
危ない情動を青白い顔の端末に隠して
先祖のぶら下がりの血の重み
妄想の救い難い正直さ
あらゆる血の徘徊を
飲み込もうとして咽頭が裂ける
薬で癒されぬ重い風の迷いの中
 
無理な睡眠に逃げていこうとする
無理な答えに問いに
また悪夢から悪夢へ
のめり込む遊びの前に
明日はすでに数え始めている
眠れなかったとは言えない速さで
 
 
  退行
 
行き詰まったときには
壊してしまうこともあるが
退行することも多い
子供になる
無精髭を生やした子供
おぞましや
そのとき何処にいる
母の胎内か
揺りかごの中か
宇宙へ連なる
浮遊か
意外と墓場にいたりもする
杖をついて
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
繰り言のように、反キリスト、右翼思想礼賛、ホラーと霊の話、自己正当化、などを書き続ける楽山です。結果は、無反省、無責任、無神経、訂正不能、読書障害、自己愛妄想、ネトウヨ、本の悪用、根拠なき決めつけ・・などが表れてきただけです。楽山は、あらゆる良心による人格成長の阻害因子です。
 
 
 
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  無神論=無神教カルト
 
 
楽山が信奉する無神論=無神教カルトの言い分は、神の辻褄を追う・・という、人間には不可能な論理モドキによっています。ゆえに、成立するわけがないのです。
 
キリスト信仰の救いは、ひとえに、キリストと人々のかかわりの中に、洞察と共感によって、心に生まれるものです。そこでは、いかなる論理も詭弁も無意味になるところです。
 
楽山は、最近、無神論者=無神教カルト信者のリツイートが多くなりました。そして、過去記事のコメントをコピペして、だらだら、大量に並べています。独自の言論が不可能であることを表しています。
 
 
★こも/楽山日記3さんがリツイート
新無神論bot
@AtheismBotJP
人種で人を批判することは明らかに不合理でばかげているが宗教を批判することは正当で自由なことだ。あらゆる思想―誰かが心から信仰しているものでも―を批判する自由は社会の基本的自由の一つだ。―ローワン・アトキンソン
 
宗教が理不尽であれば、「宗教を批判すること」人の宗教に基づく言動を批判することは、信者も、異教徒も、非信仰者も、可能です。しかし、宗教の本質を批判したければ、宗教と信仰を深く知っていなければなりません。楽山のような幼稚な妄想的曲解は通用しません。
 
★こも/楽山日記3さんがリツイート
新無神論bot
@AtheismBotJP
もし子供が理性的な思考力を身につける年齢になるまで宗教的教育が許されていなかったとしたら、我々はまったく違った世界に住んでいただろう―クリストファー・ヒッチンズ
 
私は、父も母も無宗教で、仏壇が置いてある程度でしたから、宗教的教育は受けていません。17歳の頃に、聖書って何だろうと思っていて、たまたま、聖書を無料でもらえるという話を聞いて、教会に行き、通うようになり、洗礼を受けました。無神論=無神教は、理性の産物とは思えません。
 
★こも/楽山日記3さんがリツイート
新無神論bot
@AtheismBotJP
人種で人を批判することは明らかに不合理でばかげているが宗教を批判することは正当で自由なことだ。あらゆる思想―誰かが心から信仰しているものでも―を批判する自由は社会の基本的自由の一つだ。―ローワン・アトキンソン
 
「宗教を批判することは正当で自由」「批判する自由は社会の基本的自由」・・宗教の信条や教理そして行動は、批判してもいいと思います。ただし、その責任を負わなければなりません。また、信仰する人の思想について批判できても、キリスト信仰や神聖そのものを批判することは不可能です。
 
 
★こも/楽山日記3さんがリツイート
中村圭志 神話・宗教学
@seattlelubbock
一神教の絶対神(の信仰)が弛緩するとき、多神教の神霊が声を上げ始めると同時に、人間の死後の運命の想像力も蠢き出し、ちょうど神が「一」から「多」になるように、死後のケジメも「一」から「多」に増殖し、一回限りの審判ではなく、幾度も転生して人生やり直すイメージがヒットするようになります
 
(ネットより)
中村圭志(なかむら けいし、1958年 - )は、日本の宗教学者、編集者、翻訳家。 北海道小樽市生まれ。北海道大学文学部卒業。東京大学大学院人文科学研究科博士課程満期退学。
 
「絶対神(の信仰)が弛緩」「多神教の神霊」「死後の運命」「幾度も転生」・・超常カルトの筆致です。無神論=無神教は、人間の論とは思えません。
 
★こも/楽山日記3さんがリツイート
中村圭志 神話・宗教学
@seattlelubbock
19世紀以来の心霊主義および神智学系の動向は、いずれも輪廻のようなものを認めています。これはまさしく絶対神信仰の弛緩によって逆に増殖した人間の霊魂の旅の物語だと言えるでしょう。神が全部決めるんじゃなければ、人間が霊界ないし転生において学んでいく形でしか真理は開示されないんですね。
 
心霊主義を是とするのでしょうか。輪廻を信じているのでしょうか。「絶対神信仰の弛緩によって逆に増殖した人間の霊魂の旅の物語」・・飾っていますが、「絶対神信仰の弛緩」について説明していません。「霊界」「転生」という超常を学べるのだそうです。人間に可能な論理ではないようです。
 
★こも/楽山日記3さんがリツイート
中村圭志 神話・宗教学
@seattlelubbock
『クラウド・アトラス』のようなSF的設定には、絶対神は存在しません(『スター・ウォーズ』もそうです)。一切は人間の織りなす物語です。神を持ち出さずに、ただし神秘的な記憶や予感を持ち出して、複数世代にわたる大河ドラマを構築すると、それは輪廻っぽい物語となってしまう。
 
2つの映画の話です。それで「絶対神は存在しません」が成り立つでしょうか。「神秘的な記憶や予感」「輪廻っぽい物語」・・殆ど、超常のフィクション~想像~空想ではないでしょうか。
 
★こも/楽山日記3さんがリツイート
中村圭志 神話・宗教学
@seattlelubbock
輪廻の文学的効果の第一は《私が他者の立場だったら、どう思うか》という反省的効果です。差別していた者が差別される者になる、といった教訓です。『クラウド・アトラス』ではそれよりむしろ《時代は変わっても人類は同じ愚行を繰り返す》という集合的な既視感が「輪廻」の意味する所かもしれません。
 
無神論ではなく「輪廻の文学的効果」と言いながら、差別が非差別になる輪廻を繰り返す、「集合的既視感」などと言って、フィクションを語るのか、現実の宗教や神を語るのか、境界と区別が判然としないようです。無神論は、空想やフィクションなのでしょうか、カルトなのでしょうか。
 
★こも/楽山日記3さんがリツイート
中村圭志 神話・宗教学
@seattlelubbock
そういったあたり、未だにウェーバーあたりの精神論的文化論で考えている日本のクリスチャン系評論家の意識はガラパゴス化しているかもしれません。なんかガラパゴス化しやすいのは、むしろ非常に日本的な特質であって、ちっとも西洋的じゃないところが、アイロニカルなところです。
 
(ネットより)
ガラパゴス化(ガラパゴスか)とは、日本のビジネス用語のひとつで、孤立した環境(日本市場)で製品やサービスの最適化が著しく進行すると、外部(外国)の製品との互換性を失い孤立して取り残されるだけでなく、適応性(汎用性)と生存能力(低価格)の高い製品や技術が外部から導入されると、最終的に淘汰される危険に陥るという、進化論におけるガラパゴス諸島の生態系になぞらえた警句である[要出典]。ガラパゴス現象、ガラパゴス症候群ともいう。
Wiki:ガラパゴス化
 
日本がガラパゴス化しやすいというよりも、日本特有というよりも、キリスト教は、風習・習慣・儀式に取り入れられて、その本質から堕していきやすいのです。また、有神論も無神論もカルト化しやすいと思います。アイロニカルというより、それこそ、罪なのです。
 
★こも/楽山日記3さんがリツイート
中村圭志 神話・宗教学
@seattlelubbock
二十世紀半ばまでは、マックス・ウェーバーに代表されるように、西欧的特質を宗教(キリスト教、プロテスタンティズム)に帰す思考が優勢でした。これはマルクス主義に対抗する意味もありました。21世紀以降は、そんな単純な因果は考えない方向に向っています。因果ははるかに複雑だろうと。
 
単純も複雑も、キリスト信仰は、○○イズムや因果で説明できるようなものではありません。むしろ、飾らない情感や共感性が大事だと思っています。そこに、信仰の絆(きずな)があるからです。
 
★こも/楽山日記3さんがリツイート
中村圭志 神話・宗教学
@seattlelubbock
ニューエイジの東洋宗教ブームを日本に逆輸入したのがいわゆる「精神世界」です。先日会った芸術系の人が、一神教と違って自然主義の神道などには侵略性がないみたいなイメージで語っていましたが、なに、戦前の国家神道のことを知らないだけです。仏教や神道がエコだというのも、だいぶ怪しい話。
 
「侵略性」は、キリスト教を、超常的、儀式的、教条的、論理的、学問的に見てしまう結果であります。キリスト教と信仰は、祈りを中心とする心の信仰です。学問は、資料となりますが、信仰となることはないです。○○主義やイデオロギーの理屈で、キリスト信仰を語ることは出来ません。
 
 
★こも/楽山日記3さんがリツイート
リチャード・ドーキンスbot
@Dawkins_bot_jp
宗教の感情を傷つけることはできない。宗教自体はそんなものは持たない。あなたが傷つけ虐げうるのは人々であり、その彼らの宗教自体が最も人の感情を害するものである場合が多い。
 
正しい信仰は、溢れる情緒と情感が支えています。信仰は、本質的に、良心から自発的に起こるのであり、信仰に、最も傷を癒す恵みがあると個人が判断することによります。良心を持つ人間を傷つけ害することは、宗教と信仰の有無にかかわらず、悪魔の所業であります。
 
 
 
キリストの共感に支えられる心の在り方を、信仰と言います。つまり、信仰は、論理的にはなりません。愛とか心の絆(きずな)に近いものです。信条や教理は、そのヒントとしてまとめられていますが、人間の言葉では暗示的に表されるもので、論理で云々できるものではありません。
 
 
人間 信仰

人間 信仰
 
 
(2022年02月28日)
 
 
 
  基督像
 
誰も助けてはくれない
誰にもおろしてもらえない
痩せた項(うなじ)は地にうなだれ
蒼白の瞳はかすかに見開かれながら
ずり下がる手足の痛みに耐えていなければならない
 
どれほど多くの乾いた唇が
彼の名前を掠めていったことだろう
どれほど多くの黄色い視線が
彼を横目に見たことだろう
そして頁をめくるような夥しい粗い舌が
彼を指して唱えたのだ
「ユダヤの王」あるいは
「わが救い主」と
 
彼はなぜ耐えているのか
彼は何を待っているのか
それでも扉は開かれている
どこに向かって あるいは誰に
 
 *
 
息を切らして
開かれた扉から
駆け込んできたのは一人の少年である
熱く紅潮した顔が彼を見上げる
少年の汗まみれの手に
握られているのは一冊の聖書だ
 
「主よ 私です
 私は来ました」
 
信仰告白は
上気した額の上で
まるで天国を見たかのように
見知らぬ夢に向かって語られていた
少年はまだ信じている
本当は基督よりも自分の元気を
少年はまだ知らない
彼の聖書(テキスト)が答えない
多くの悲劇について
 
 *
 
礼拝堂から街へ
宿命のように降りている階段を
少年も今しがた降りていった
 
人のいない礼拝堂の中で
去っていった少年の面影を
まだ見おろしている
基督像
 
たとえその動かぬ指先に
ふるえる朝の歌がよみがえったとしても
目に見える何が
それを少年に伝えるだろう
 
何も変わってはいない
誰も見送りはしない
くずれ去っていくもの
新たに生まれる何か そして
彼をとどめる絆(きずな)のために
基督の歌が歌われるのは
このときであるから
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
st問題資料集というシリーズの長いコピペ記事を書いている楽山ですが、無神論者=無神教カルトをリツイートするようになりました。自分では、コピペしか出来ないからです。楽山のような、キリスト信仰を知らない者が、神がどうのこうのと語っても、全く意味はありません。こうはなりたくない。
 
楽山は、狂ったように書き続けています。何の主張にも思想にも弁明にもなりません。無反省に書いてきたことをコピペして何の意味があるのでしょう。それしか出来ないのでしょうか。一つ覚えの発作のように、憑りつかれたように書き続けていて、楽山の異常性だけが際立っています。
 
楽山の思想が、結局は、嫌味に過ぎないことを表しています。書けばいいじゃろ的な、安易な発想が、新しい何ものをも書けない楽山から、放水か、尿失禁のように、あふれ出して止まりません。こういう人だったんだな・・ということを、これでもか・・というほどに、あらわにして、ただ、愚かなだけです。
 
一生やってろ・・みたいな感じでもありますが、自分について、みじめさを感じ得ない楽山の暴走です。パニックからの強迫行為かもしれません。このようにしか、ストレスの処理が出来ないのでしょう。こちらは、とうに、観覧モードになるしかありません。常軌を逸しています。
 
観覧したい人は、下記アドレスですが、発作的な異常行動なので意味はないと思います。最新記事一覧のページです。ここまで暴走する人は、いないでしょう。今回の楽山の、おびただしく長い記事群は、読者にとっては拷問のようなものです。
 
できれば、一生、こういう感じでコピペし続ければいいと思います。いちいち読む人もいないでしょうし、その間、それ以外の活動は出来ないでしょうから、楽山の悪影響は少なくなるでしょう。どんな顔をしてるんだろうとか思います。読んでみようという人がいるとは思えません。
 
必然もなく、常識も病識もないから、楽山は異常者です。異常者のすることは了解不能なので、誰も関わってはいけません。自分のブログだけで狂う分には、害も少ないので、楽山の言論は、無意味な執着という症状ということになり、努力は微塵も買いません。
 
楽山は、共感性のない自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)です。執着が行為を決めるのかもしれません。底知れない恐怖の衝動が楽山を動かしているのでしょう。そして、自己満足だけで、反省せず、責任を負わず、あとさきを考えません。それで常識人の芝居をしてくるのです。
 
気になるのは、楽山の底意地の悪さですから、コメントの捏造をしている可能性です。今回の記事が、どの過去記事のコメントなのか、さらに、HNにリンクが付いているのかどうか、はっきりしません。ゆえに真偽を判定できないことを狙った可能性もあります。
 
楽山が、楽山の責任においてやっていることです。何かの当てつけでしょうか、しかし、執着の異常性が明らかになったということです。今までもそれで墓穴を掘ってきたのでしょう。これだけの強迫性に走る性癖を隠し持っていたと分かったのだから、楽山を相手にしないでください。とても危険です。
 
楽山は、"st問題" という言い方を前からしているのですが、これは、ずっと私が指摘して、何も弁明できない楽山が、自分自身の問題を全く認めていない証拠です。つまり、"楽山問題" なのです。また、過去を出して見せるのは、現在を乗り切れる自信のない、後ろめたい人のやることです。
 
楽山の書く文章は、程よいと思わせる丁寧語の書き方ですが、正直言って、何か、はっとさせて、感動するということが一度もないのです。言葉だけ、程よく並べて、退屈で、独り言だったり、うんざりするほど長く、新しい発想がなく、無反省、無責任で、どうして信頼できるでしょう。
 
 
 
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  楽山の捏造(2)
 
 【st自由同一人物説!?】
 「stと自由は同一人物?」「いいえ、stさんと私は別人ですよ」
 2018年08月18日 楽山日記(LD)
 
 
3年ほど前の楽山の記事の後半です。批判するのは初めてですが、読者を全く考えない長い駄弁です。私は、楽山を批判しているので扱いますが、決して、楽山に関わって読んだりしないほうがいいと思います。楽山は、平気で嘘を吐き、詭弁で理路を混乱させて、相手を疲弊させ、人格を破壊する人です。
 
 
私とマリアさんをstさんがカルトだと言い始めたら、タイミングよく自由さんはカルト記事を書いた、そしてそれをstさんは即座に 自由さんの記事から転載した。 それはタイミングが良すぎる。
 」
当ブログをご覧いただければ理解していただけると思いますが、私は前々からカルト問題に興味があり、その方面の記事を書いてます。
だから、カルトか否かの議論に注目し、触発され、自らの過去の反省の意味もあって、その種の記事を書いたということです。
 
楽山は、個人としての無神教カルトです。恐らく、宗教について何も分からないまま、宗教を憎んでいると思います。しかし、楽山には、本気がないので、趣味で、からかっている可能性もあります。宗教など、どうでもいいのが、楽山で、理屈を振り回したいだけで書いて、反宗教をあらわにしてきました。
 
 
この記事中には、キリスト教では「正統派を自認する側から見た「聖書を流用する異端集団」というカルト観を表明する人たちがいます。感情的に仕方ないことなのかもしれませんが。」という部分があります。
 
異端集団はいると思いますが、「感情的に仕方ない」ではなく、視野が狭くなり、良心と常識から乖離してゆくために、人間を駄目する教条は、批判対象となります。近々では、今は所在不明のシャロームshalom が、その典型例となっています。
 
 
この文章が記憶に残っていたせいか、私は、stさんがカルト云々と発言したときには、「カルト教団の信者」という意味よりは、「異端者」という意味合いなんだろうなあと思ったのでした。
 
異端は、間違っているということですから、広まってはいけないものです。シャロームは、トンデモ教理として、「罪は悔い改めなくても許されるから気にしなくていい」「悔い改めは神が与える」などと言い出しました。これは、異端どころか、デタラメなカルトなのです。
 
 
あとは、Yさんらの発言を見ていて、「自分もカルト信者だった頃は、こういう考え方をしていたなあ」と思ったりもしたものです。この辺りが、自分の過去の反省に通ずる部分ですね。
上にも書きましたが、stさんと私で何十ものコメントのやり取りの最中に割り込んでこようとした事、通常の神経を持っている人間なら 入ってこないです、。 自由のハンドルネームはstさんと同一人物なので、気を使うこともなく、勝手気ままに横レスを入れられるのです。 
 」
また、Mさんと同じく、「、。」を使ってますね。こういう句読点の使い方は他では見たことないですけど、流行りなんでしょうか。
まあそれはともかく、上にも書きましたが、私は他所で、カルト信者らとの喧々諤々の議論を見たり、参加してたりしてたせいか、横レスするのも、されるのも、あんまり気にならないタイプです。すみません。
 
楽山は、喧々囂々の議論には参加しないと思います。丁寧語で品の良さを装っているからです。心の中では、笑いながら、そういう議論を軽蔑していると思います。サイコパスには、悲しみの情がなく、笑いと怒り、別の言い方をすると、あざ笑いと怨念だけがあるのです。
 
 
あ、今、気が付きましたが、「上にも書きましたが」というのは、Yさんも使ってますね。でも、こういう慣用的な表現が被ったからといって、別にどうってことはありません。たまたまそうなっただけであって、Yさんと私とが同一人物ではないのは当たり前です。
言葉遣い、語彙、決まり文句…などは、同一人物でなくとも、やり取りする間柄であれば、たとえそれが協調関係であろうと、敵対関係であろうとも、相互に影響し合うものですから、似てくるものなんですよね。
 
楽山は、気安く「似てくる」と言っていますが、いがみ合っている、論争している、という関係では、影響を避けるものです。楽山のようにはなりたくない、楽山のようになったらおしまいだ、という気持ちがあるからです。ゆえに、楽山には関わらないようにと呼びかけています。
 
 
あとは、自分で言うのも何ですけど、私が人間観の話題を持ち出したのは、それなりの理由はありました。
お互いに人格批判して傷つけあうよりも、アブラハムは義人だったか、人は義人となれるのかという議論をした方が生産的だろうし、そちらの方に話題を転じられればと期待してたわけです。
まあ結果は、「バカは黙ってろ。バカが口を開けば余計に事態は悪くなる」という教訓通りになったわけですが…。とほほ。
 
楽山の悪意と罪と偽善と嘘吐きと詭弁は、楽山の人格障害から来ていると判断しています。ゆえに、人格そのものを批判して、広く知らせる必要があると判断して、批判記事を書いています。こういう批判は、成否は度外視して、書かなければなりません。
 
 
私はリアルでも、空気が悪いと思えば、意図的にその空気を変えようとすることはあります。その時には、「お前、空気読めよ」と言う人もいれば、「お前、あんまり気を使いすぎるなよ」と言う人もいます。
私のやり方が下手だからこういう結果になるわけですが、後者は、人の内面を察するのに長けた方だなあと感心します。
 
楽山は、積極的にも、言い逃れとしても、空気を屁のように排気ガスのように毒ガスのように汚染してきます。始めのうちの優しそうな丁寧語は、全くの偽りであります。話が進むと、追いつかず、デタラメを言って、相手の理路を混乱させてきます。楽山とは、出会わないのが幸福というものです。
 
だから、楽山は「お前、あんまり気を使いすぎるなよ」と、気遣いをする人と言われると、楽山は、マタタビを与えられたネコのように悦ぶのでしょう。つまり、楽山は、本能として、褒められるというエサが欲しくてたまらないヒト型動物であります。それ以外は何も受け取らない人です。
 
 
*ものすごい怨念?
これは、stさんに向けて書いてるのか、私に向けて書いてるのか、その境目が判然としないですね。
この人は、どうしても私を否定したいようです。
抹殺したいようです。
最初は優しい言葉で近づいてきました。
しかし、彼の書いた文字には
ものすごい怨念が感じられました、
だから 自由さんには 即座に退出をさせました。
ふたりは 同一人物なのです。
 」
上の方では、私に配慮して、コメントを未承認にしてあげたという感じでしたけど、
ここをみると、はじめっから私のことを疑い、拒絶してたみたいですね。
疑い、拒絶していた相手にも配慮を忘れないのであれば、Yさんは立派な方だと思います。
 
楽山は、配慮の出来ない人です。思いやりや謙虚さなどの高等感情がないからです。ゆえに、配慮や思いやりの話を、曲解や妄想で、捏造してきます。「立派な方」は嘘です。楽山の世界には、楽山以上に立派な?人は存在しません。だから、訂正不能の高慢で上から教えて?くるのです。
 
楽山は、「ものすごい怨念」を、他者の心に、わざわざ育てています。だから、前に、ぶん殴られるだろうと言いました。もっと酷いことになるかもしれません。自己中が、いつまでも通る世界ではないのです。楽山の人を軽んじる態度は、いずれバレるでしょう。あと何十年生きるつもりなのでしょうか。
 
 
*主語は?
あとは、この二つの文章に共通する点を考えてみると、どちらもYさんについての文章だということがあります。言葉を補うと、こうなるでしょう。
(Yさんは) まあ今は忙しくて、そっちに手が回らないのでしょう、たぶん  
(Yさんは) 人間についても人間の言葉についても、神がかりと人間離れのために、失っている人のようです 。
一般に、こんな風に主語が同じであれば、つなげて読めたとしても不思議ではないです。
たとえば、こんな風に。
K 「(Aさんは)すごく優しい方ですね」
J 「(Aさんは)人の心が分かる人なんでしょうね」
これをつなげれば、こうなります。
「(Aさんは)すごく優しい方ですね。人の心が分かる人なんでしょうね」
どうでしょうか? 二つの文章はきれいにつながっているのではないでしょうか。
stさんと私の場合は、立ち位置に若干のちがいがあるので、主語が同じでもつなげると不自然さがありました。
でも、KとJの場合は、主語だけでなく、立ち位置も同じなので、つなげると一人の言葉としか思えなくなってます。
 
こういう、一見まともそうな小理屈が、楽山が、焦点をぼかし、保身するために投げてくる混乱の泥水です。ここに付き合うことから、相手が分からなくなってゆくことを狙っているわけです。だから、この狡猾さの犠牲にならないためにも、楽山を相手にしてはいけないのです。
 
 
このことから、Yさんが、stさんと私の文章はつながると錯覚してしまった原因がどこにあるか、およその見当はつけられそうです。
うっかりミスは誰にでもあることだし、これをもってYさんを責めはしませんが、元々、頭のいい人だろうし、先入観にとらわれず、じっくり考えればこんなミスはしなかったろうと思うと残念であるし、気の毒だなあとは思います。
 
楽山は、先入観を与えて「責めはしませんが」責めて疲れさせてきます。「頭のいい人」という世辞を言い、「ミスはしなかったろう」と言うことで、ミスだと断定してゆく、楽山の、だまし言葉なのです。「じっくり考え」ない相手という結論から、「残念であるし、気の毒」の蔑みにつなげています。
 
 
*まとめ(別人です!)
つい先日、私はstさんのところにおじゃまして、的外れな批判に対しては、いちいち反論しないでもいいのではないかというようなコメントをしました。
でも、st自由同一人物説を真に受けてる人がいるらしいこと、いまだに的外れな批判が続けられていること、当該記事を読み返してみたことなどから、やっぱりこちらの意見も出した方がいいかなあと考え直して、この記事を書いた次第です。
stさんには、わざわざ反論の必要ないでしょうと偉そうなことを言っておきながら、あっという間に考えを変えるなんて、我ながら節操なく、情けないと思いますが、まあ仕方ありません。
 
ペテン師だと、分からないあいだ、だまされていましたが、分かってから、反省しないし弁明もしないのは、言論者ではないということです。楽山は、丁寧は皮だけで、中身は真っ黒です。丁寧語でだます偽善者、楽山は、暴言を吐く自称ヨシュアより、はるかに偽善性の高い悪なのです。
 
 
というわけで、私の主張をもう一度繰り返しますが、stさんと私は別人です。このことは、強く強調しておきます。
すでに二人は同一人物だと信じ込んでいる人からしたら、それを修正することは難しいかもしれませんが、事実は事実、真実は真実です。二人は別人です。
 
私は、楽山を批判しています。楽山は、批判に何も答えず、いつも、だますためだけに、この記事のような冷静を気取る文章を書いてきます。優しさも柔和も芝居の、楽山のような人がいる社会ですから、人の言うことを鵜呑みにするのだけは、やめたほうがいいと思います。
 
 
この事実に反発する人に対しては、「すぐに、この事実を受け入れなさい」とまでは言いませんが、できればこれを機会に、もう少し考えてみてもらえたらなあとは思います。
以上、長い記事になってしまいましたが、最後まで読んでいただいて、ありがとうございました。
〈了〉
 
この礼儀正しさも芝居です。楽山には、実感というものがないのだろうと思います。数か月だまされたのち、3年あまり、批判しています。楽山は、狡猾さが加わって、私が生きてきた中で、最も悪質はワルの部類として、批判を続けてゆくつもりです。近くにいる人は一刻も早く逃げてください。
 
 
*追記
けっこうな長文なので、もしかしたら、キモイと言われてしまいそうな気もしますが、
一つ一つの論点を、なるだけ丁寧に説明したら、こんなになってしまいました。まあしょうがないですね。
 
キモイで済むような人ではありません。論点などありません。丁寧は、みな、詭弁か、偽りです。しょうがないのではなく、楽山撲滅同盟でも作りたいくらいに、楽山は、一刻も早く、ネットの言論から追放するべきサイコパスです。決して許してはなりません。
 
 
 
 精神の生産力
 
精神の生産力とは
頭脳・能力の生産性・効率という意味ではなく
創造力や想像力という才能でもなく
 
精神の破壊力に対する力です。
 
生産力または再生産力
人間が育み与えうる力の中で
精神の破壊力に対応するために
物質的・精神的な最小限の安らぎの糧(かて)
または生きるための平等な未来
日々の平安かつチャンスに満ちた力
 
精神的投資を惜しまないだけの
物質文明に劣らない精神性
それらの投資を充分にして破壊に走る力と戦うべきです
 
うわべにだまされないように
敏感力と鈍感力と
何よりも共感力が必要です
 
 
 
節操の破壊

節操の破壊
 
 
(2022年02月21日)
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
楽山は、自身の知性におごっているのかもしれません。それこそが、自己愛性人格障害の誇大妄想です。話が進むと理路が成り立たなくなるために、安い詭弁で混乱させてきます。相手が混乱し、慌てて、感情的になるのを、楽山は楽しんでいるのです。もうこれ以上、誰も、だまされないでください。
 
楽山の記事やツイートの、論理学の初歩みたいなAとかBとか、命題めいた言い訳とか、自分の頭の中をくるくる回ってる小理屈に過ぎないし、ダイレクトな説得力も、その努力をする姿勢も、まったく感じられない、ごまかしの擦り切れた残骸には、いつ見ても、うんざりさせられます。
 
 
 
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  楽山は無神教カルト
 
『信じない人のためのイエスと福音書ガイド』
中村圭志著
2021年07月25日 楽山日記(LD)
 
 
著者は、知識頼みで、宗教を教養として知っていても、信仰を持たない無神論者のようです。宗教を、歴史や文化の側面から見ますが、キリスト信仰の本質を知らないまま、空しく無神論を説いているところの、無神教カルトの信者だと思います。その点は、楽山と同軸だろうと思います。
 
 
*読み応えがある本
本書はタイトル通り、キリスト教の基礎知識を紹介するものであるが、「宗教について懐疑的な人の合理精神を極力尊重して」著されているところ、四つの福音書を横断的に説明し、それぞれの特徴と差異を明らかにしているところ、福音書の各場面についてキリスト教内における解釈とともに著者の考えも提示されているところは読み応えがあり、大変勉強になった。
以下に、本書のなかで特に印象的だった箇所と感想を書いておきたい。
 
キリスト教の基礎知識と、キリスト信仰とは、違います。聖書の一言からも信仰は生まれ得ますが、辞書ほどの知識を蓄えても信仰に至らない人もいます。それが不満なのか、その中に、無神教の信者となるような、偏向した人がいるわけです。
 
 
*悪魔の誘惑
まず著者は、イエスが受けた悪魔の誘惑(マルコ1、マタイ4、ルカ4)について次のように書いている。  
イエスの個人的体験をヴィヴィッドに見ていた人がいるはずもありませんから、これはあくまでも伝承的に創作された哲学的神話です。
(『信じない人のためのイエスと福音書ガイド』中村圭志著、みすず書房、2010年、p.156)
 」
これは極めて現実的な読み方ではあろうが、「それを言っちゃあ、おしまいよ」という感じになっているのはおかしい。
 
「それを言っちゃあ、おしまいよ」が、お気楽なお山の大将、楽山なのです。ゆえに、楽山は、実際、おしまいになっています。伝承であっても事実であっても、信仰が生まれるかどうかは、個人によって異なります。自分が信仰者ではないからといって、伝承的創作で済ませるのは、信じない人の傲慢です。
 
 
*奇跡
著者は、奇跡物語についても容赦ない。
治療師があちこちでヒーリングをやっているとすると、治らなかった事例は忘れられ、治った事例は印象深く語り継がれるものでしょう。奇跡譚ばかりがたまってしまうのは自然の成り行きです。
(同上、p.165)
 」
奇跡は無かったと決めつけることからすれば、その元になる出来事は実際あったろうとしているところは柔軟ではあろうが、これだと奇跡の有難味が大分薄れてしまう感じがするのはさみしい。
 
奇跡を「有難味」でしか考えられない楽山の勉強嫌いと学習障害が表れています。惨めな男です。伝承的創作ならアウトという短絡した超常=宗教、超常奇跡でないなら創作と言って否定して、満足できる精神の貧困は、信仰の心貧しさとは真逆です。信仰者になるための本当の奇跡は心に起こっています。
 
 
*神義論
本書では、ユダの裏切り(マルコ14、マタイ26、ルカ22、ヨハネ13)に関連して、自由、責任、神義論にも触れている。
ユダの裏切りもまた、自らの意思、神の計画の両面から規定されています。ユダが神の傀儡だとすると、自分の行為の責任はないはずです。しかし、そういう解釈は許されないことになっています。
(同上、pp.204-205)
 」
 
神が規定して計画しているものを、分からないと言えず、神の傀儡だのと言って、責任問題で否定してくるのは、身に過ぎた高慢と欲望を持つところの、無神教の信者の考え方です。こういう集団には、自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)が多いと思います。楽山はその一人です。
 
ユダの期待した通りではなかったキリストを、ユダは裏切り、そのあと、後悔して自殺します。ユダは、少なくともカインよりは良心を持っているようです。そういう、人間にとって見逃せないことを考えず、神の傀儡などと仕組みを考えるのは、実に虚しいことです。
 
カインは、サイコパスの起源ではないかという気もします。カインは、供え物を受け入れられなかったとき、悲しむのではなく、怒ったからです。聖書は、神を理解するためにあるのではありません。聖書は、神という存在から、人間のあるべき姿を感受し考えるためにあるのです。
 
 
そもそも人間の対局として設定された絶対神なるものが、謎めいた存在です。絶対神が万事お見通しであるのならば、人間は自分の悪に責任をとる必要はありません。しかし、原理上、そういう解釈は許されません。ユダの場合もこれと同様です。
(同上、pp.205-206)
 」
 
どういう「原理」なのでしょう。この人は、結局、自分の理路を絶対化しているわけです。聞くに堪えないものです。分からないところがあり、分からないと言える人が、分からない自分の弱さに気づき、分からない不完全を、正直に告白して、神の民となるのです。外野から、うるさく言わないでほしいです。
 
 
「そういう解釈は許されないことになっています」ということからすると、やはりここは微妙な問題であり、深く突っ込んではいけないところなのだろうか。
宗教にタブーはつきものだし、これも仕方のないことなのだろうが、「そんなことは考えてはいけません」と言われると、余計に興味がわいてくるから困る。
 
「突っ込んで」も分からないということです。楽山も同類で、自身の既に人格障害で壊れている頭と心では分からないわけですが、自分が分からないということを否定する立場のようです。しかし、否定されるのは、傲慢な無神教信者と同類の楽山のほうなのです。
 
こういう無神教カルト信者がいますから、信仰者は、神ではないから分からないことを、分からないと正直に言ってください。それは、信仰者という人間の正しい祈りであり、正しい言動です。言い換えれば、人間が得る正義が信仰ではないのです。人間世界の持ち物には、絶対的な真も義も善もありません。
 
分からないという保留の姿勢を持ち得ず、神も自分の知恵で理解できないなら、いない、と言ってしまうのが、無神教カルトの執念のようです。短絡カルトでもあります。無神教カルトには、尊大な人が多いようです。楽山のように謙虚芝居もしてくるのは、さらに凶悪でしょう。
 
 
*犠牲
十字架の意味については次のように説明されている。
イエス・キリストの死という犠牲の供物によって、債務を帳消しにしたのです(ユダヤ人はもともと犠牲獣を神殿に捧げることで罪を祓っていたので、これはその延長上にある発想です)。
(同上、pp.208-209)
 」
 」
 
このように、犠牲や債務という言葉で、あたかも、神との取引関係のように、信仰を語る人は、たいてい、情性が不足~欠如していて、信仰には縁のない人だろうと思います。だから語ることが的外れになってゆきます。無神教カルトと楽山が全く知らない共感の世界で、新しい信仰は生まれています。
 
 
自分はこの発想については、当時のユダヤでは律法を守れなかったときは犠牲(汚れていない清らかなもの)を捧げることで罪を赦されたことから発展して、人類の罪が赦されるには、汚れのない清らかな神ご自身が犠牲になる以外になかったという論理に至ったと理解しているけれども、正直言ってこれにはどうしても違和感を覚えてしまう。
 
楽山は、こういう信仰の重要なポイントでは、いつも的外れの幼稚な理屈を言ってきます。神ご自身が犠牲になるのではなく、罪の赦しのために、愛という共感の極限的行為として、キリストの地上の命を犠牲とされたのです。その痛みに共感することが信仰につながります。楽山の理屈は無意味なのです。
 
「神ご自身が犠牲になる以外になかった」・・神を殺すかのような、まさに、取引でしか信仰を考えられない楽山の、信仰など触れたこともない冷たく乾燥した粗雑な言葉です。丁寧語を使っても、言葉遣いに、共感性の欠如が、獣性として、如実に表れてきます。
 
 
「神様は血を厭い、殺生はよろこばない」という感覚が心に染み付いているせいか、神殿で殺生をしたり、血を流したりしたら、赦されるどころか神罰がありそうに思えてならないのだ。たぶんこれは自分が神道的な文化のなかで育ったためなのだろうが、キリスト教には共感するところも多々ありつつも、こういうところには異文化を強く感じないではいられない。
 
「キリスト教には共感するところも多々あり」・・楽山の心にも無い嘘です。楽山から、共感が表れたことはありません。理解ある人を装うための世辞なのです。「共感」の前後に、共感が表れていないことからバレてきました。ゆえに、楽山の詭弁の丁寧語は、豪語の無神教信者よりも悪質です。
 
 
余談ながら、神の体を食べ、血を飲むことで清められるという発想も自分にはよくわからない。肉食を避け水によって清められるというならわかるけれども、神の体を食べ血を飲むというのはすごく怖いし、清さ美しさを感じるのは難しいのだ。ここもキリスト教のうちでどうしても合点が行かない部分ではある。
 
聖餐式は、象徴的儀式です。それを、信者でもないのに「神の体を食べ、血を飲む」という野蛮な言い方を平気でするのは、神か宗教に対する呪うほどの強い憎しみの表れだと思います。その憎しみは継続しています。いつか、この反キリストの悪意の弊害を被らないように、楽山には関わらないでください。
 
 
*反省とゆるし
著者によると、反省とゆるしについては、マルコ福音書とルカ福音書ではちがいがあるという(マルコ2、マタイ9、ルカ5)。
マルコのイエスは無条件的に(つまり相手に反省を求めずに)人々を赦して歩いているように見えますが、ルカになると倫理的反省を条件にしています。
(同上、p.167)
 」
聖書を確認してみるとこうある。
イエスはこれを聞いて言われた。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」
(マルコ2:17)
 」
イエスはお答えになった。「医者を必要とするのは、健康な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである。」
(ルカ5:31-32)
 」
マタイ福音書はマルコ福音書寄りのか書き方であること、マルコ福音書がもっとも早く成立していたろうことなどからすると、悔い改め云々はルカが後から付け足したものにも思えるが、後から付け足されたからといってイエスはそんなことは言っていなかったと断言はできぬことではある。はたして現実のイエスはどちらの考え方をしていたのだろうか。
 
キリストの教えの事実性にこだわりながら、自身の不正直を、まるで気にしない楽山であります。このように、自分を省みずに書くということが、楽山の全ての言に表れているのです。一言も真実ではないということが、むしろ、楽山の事実性となっています。人を斬るなら自分を斬ってからです。
 
「断言はできぬこと」と言いながら、悪い印象を吹き込もうとしています。本当に、楽山は悪意の人だと、楽山の記事を読むたびに感じます。楽山は、涼しく嘘を吐き、やさしく詭弁で誘導し、スルーして逃げて難を避ける卑怯なペテン師です。
 
 
世の中には、はっきりしたこたえを見いだせない問題が山ほどあるものだけども、これもそのうちの一つのようだ。
 
だったら、聖句を分析して見せた?ような書き方はしないはずです。つまり、最初から印象操作の意図があったということです。前に、楽山は、断定していないから、責任問題は生じないと言っていましたが、それで、印象が吹き込まれるのだから、むしろ犯人として糾弾されてしかるべきです。
 
 
*まとめ
本書は、著者が「はじめに」で触れているように、「信じる信じないをとりあえず棚上げして、懐疑的な視点を保ったまま宗教の言語に(ここでは福音書の言語に)接触できる場を提供すること」を目的としている著述なので一部の熱心な信者には歓迎されないかもしれないが、信者ではない一般人が客観的現実的な視点からキリスト教を知るという点では有用であろうし、タイトルにある通り信じない人(非信者)には是非ともお勧めしたい一冊である。
 
まず、大いに信仰から的を外している無神教の本は、楽山の記事と同様、批判以外の目的では、読まないほうがいいと思います。私は、読書が苦手なので、読まないつもりです。楽山の企みは、非信者を無神教に引き込むことです。
 
楽山の言うことに頷いていると、その果ては、楽山の詭弁によって、理路は混乱して疲弊し、楽山のように、一方的に主張しながら、感性が鈍くて情緒の鈍麻した人になるでしょう。楽山に関わらないでください。近づかないでください。
 
楽山は、どうやら、無神教の犬として働いているようです。楽山は、人格を破壊する病質者であり、ゆえに、豪語を、詭弁に変えて、理路も情感もなく、言葉を、流涎・放尿してきました。人間として付き合うだけの、何の価値もありません。
 
 
無神教の犬

無神教の犬
 
(2022年02月14日)
 
 
 
  不眠症と祈り
 
何もかも呑み込んで夜が来る
のみ込まれて黙り込む
静けさに目を閉じる
さまざまな夜の形を打ち消して
最後に犬が吠える
眠れない人が闇に驚く
 
 祈りは夜とともにあった
 言葉は夜であった
 光は夜のかたすみに
 あやうい形で揺れていた
 祈りは涙と親しく
 いつしかお互いに拒んでいた
 涙は形にならなかった
 祈りはさまざまに否みながら
 光となって揺れていた
 光は言葉であった
 それらすべてを包み込む
 形は夜であった
 
何もかも解き放って朝が来る
沈んだ眼の水平線が離れる
あらゆる隙間から光が射し込む
数々の挨拶を抱えて出かける人々
さまざまな光の形に打ち抜かれて
眠れない人は黙り込む
 
昼となり夕となった
それがいつも一日目の終わりであり
終わりの日の始めである
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
誰からも真に認められない者は、二つに分かれます。一つは悲しんで去って出直すもの、もう一つは、怒り、憎み、次には、人をだまして害を与え続けます。楽山は、後者ゆえに、いつまでもどこまでも改善せず、結果として、ますます、誰からも相手にされないという報いを受けてゆくのです。
 
 
 
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