ウソの国-詩と宗教:st5402jp

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タグ:無神経

 
  楽山の独裁2
 
 
 「自由の意味」田中美知太郎著
 2021年03月18日 楽山日記(LD)批判
  を改めて批判。
 
 
楽山が、本を読んだと言っても「メモしておきたい」と書いているように、都合のよい文言を拾ってくるだけですから、読書になっていないと思います。楽山の、こういう傾向は、聖書において顕著であります。
 
 
*自由の定義
『人間であること』に収録されている「自由の意味」を読んだので、その内容をメモしておきたい。
まず著者は、自由について次にように定義している。
「自由」とは何か。これをいろいろなふうに定義しますけれども、最もそのものずばりで言うと、自由というのは「言いたいことを言い、したいことをすることができる」ということでしょう。
(『人間であること』「自由の意味」、田中美知太郎著、文藝春秋、昭和59年、p.120)
 」
著者によれば、これはプラトンの「国家」第八巻による定義とのことである。
 
(ネットより)
田中 美知太郎(たなか みちたろう、1902年(明治35年)1月1日[2] - 1985年(昭和60年)12月18日[2])は、日本の哲学者、西洋古典学者。京都大学名誉教授。文学博士(1950年)。
ウィキペディア
 
「言いたいことを言い、したいことをすることができる」というのは、このままでは、自己中心と区別しにくくなります。公共の福祉に反しない限り・・という言い方があります。嘘と詭弁で、人をだます楽山は公共の福祉に反するので、自由にさせてはいけないのです。
 
つまり、自由が成り立つのは、責任ある大人としての弁えが出来ている人の場合です。それが前提なので、無責任な楽山には当てはまりません。楽山の引用自体が、自分をまともに見せたいがための詭弁でしょう。自由とか、人それぞれとか、言ってきては、当てはまらない自分を表してしまう楽山です。
 
 
*現実
 次に著者は、自由とは「言いたいことを言い、したいことをすることができる」ことであるが、現実には「自由社会」といえども、皆がそのような自由を行使できるわけではないとしている。
つまり現実としてわれわれは、決して自由ではないし、自由ではありえない。これをはっきりと認め、そして今日の社会というものを考えなければならないわけです。
(同上、p.123)
 」
自由は何でも好きにできることではあるが、現実としてそれは不可能であるから、自由はある程度は規制、制限されることになるというのは当たり前のことではある。
 
「言いたいことを言い、したいことをすることができる」という自由が、現実として不可能と言いながら、責任とか義務とかに言及しないのが、狡猾な楽山の詭弁です。ひどいものです。それは不当だとでも言いたいのでしょうか。自己中楽山の、言いたいこと、したいことは、公共の敵です。
 
まるで、現実が自由を奪っていると言っているようです。現実を敵に回してどうするのでしょう。つまり、自分の責任を書かないのも、自己中の楽山の特徴なのです。読書したふりで、分かっているふうに書いているぶん作為が際立ってきます。公共と闘いたいのでしょうか。
 
 
*自由の基本的な意味
著者によれば、古代ギリシアにおいて、自由の基本的な意味は二つあり、一つは国家の独立であるという。当時、外国から侵略、支配されるということは、殺されるか、奴隷にされることであったので、自由のためにはまず国家主権の確保が条件であったというのである。
もう一つは独裁の排除であるという。独裁政治の下では自由はあり得ないというのは容易に理解できることではある。
本講演がなされた当時は、国家は自由を圧迫する悪役とされていただろうことからすると、自由の守護者としての国家を語るには相当な困難があったろうと想像する。
 
哲学者の名を出して、偉そうに書いてくる楽山の、中身が、すり替えなど、詭弁という虚偽性に満ちていることには、3年余り、いつも、うんざりします。
 
ここで、国家の独立を持ち出して、話を複雑にしてきました。人の自由がテーマではないのでしょうか。「言いたいことを言い、したいことをすることができる」ではないのでしょうか。楽山は、個人として人格が成り立たず、独立どころではないのに、どうして、国家の独立を語れるというのでしょう。
 
 
*「公的な自由」と「個人的な自由」
著者は、上の二つの条件…他国及び独裁からの解放を公的な自由とし、「言いたいことを言い、したいことをすること」を個人的な自由と分類しつつ、両者については前者があってこそ後者は可能となるとしている。
これは分かりきったことのようにも思えるが、上と同じく当時の政治状況を意識した発言なのだろう。
 
楽山は、個人としての責任を負う気がないのだから、公的な責任など負えません。つまり、書いたものを公開するということもしてはならない、というのが楽山です。楽山は、書いたものを、いかがでしょう、という姿勢で問い、意見や批判・批評を受け取って、成長の糧とすることが、全くできない人です。
 
 
*自由社会と人の本性(独裁政治を生む危険性)
著者は本講演の最後に、自由社会から独裁が生まれる過程について書いている。その理屈はこういうことらしい。
まず社会全体に自由が行き渡ると、あれもよい、これもよいとされ、「どんな人の生活もそれぞれを平等に同じ価値のものとして認め」ることとなり、これは「どっちにしたところで大した代わりはない、どっちでもいい」という考え方に行き着くことになる。
 
楽山の理屈話は、端的に言って、いつも、感動の無い辻褄だけになっています。その分、説得力がなくて、惹かれることもなく、実感の無い理屈遊びとなり、読んでも億劫なだけだったりして、めんどくささだけの文章なのです。つまり、楽山は、褒められることを欲するが、そのための努力をしない人です。
 
何を、他人事のように言っているのでしょう。自由には責任が伴う、ということを、まるで無視した楽山の、都合のよいところだけ拾って書いてくる自己中の病質的な解釈が表れています。楽山の言は、何の参考にもなりえないのです。書いてくる我執だけが臭気となって鼻を突くだけです。
 
またしても、楽山は、人それぞれ・・みたいなことにしてゆきます。今までも、ここでも、ずっと、楽山の、人それぞれだから、勝手にしていいじゃろ・・という無反省・無責任な欲望だけが表れてくるのです。このような繰り言は、もはや、ボケ老人にも似てきます。楽山の言に価値はありません。
 
 
このように、こうでなければならないという社会的な規範による圧力が弱まり、それぞれがそれぞれの自由にしてよいということになれば、外圧による善ではなく、自発的な善をなすことが可能となり、「本当の善人」が生まれることになる。
 
そうして、楽山は、「本当の善人」どころか、自発的な悪と偽善を、ほしいままに為してきたのです。勝手放題では人間関係も社会も成り立たなくなるので、自発的に責任を負う姿勢のない者には、永遠に自由を許してはいけません。
 
自由には責任が伴う、という、小学校レベルの道徳を、楽山は、理解できないのです。楽山は、常識と良心のない、とんだ外れ者です。詭弁臭の屁理屈こねて排泄しているだけです。楽山が「自発的」にやっているのは、人をだますことだけですから、その精神は、凶悪犯に等しいのです。
 
 
しかしその一方で、これとは「正反対の非常に悪い人間」も出現することになる。「最悪の人間のほうが、あらゆる制約が捨てられると、むしろたくさん生まれてくる」ともいえる。「人間的に下等な欲望に訴えるという形で権力をねらう最悪な人間が出て、政治的指導者になる」恐れもある、というのである。
 
実際、歴史においては、そのような最悪が実現されてきたわけです。そして今、ネットでは、楽山という自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)の偽善者が、当てはまります。教えを垂れるふうに書いてきて公害となっています。最悪になる前に明るみに出して、否定されるべきです。
 
 
これは一つの理屈にすぎないのではあるが、歴史を振り返れば、民主政治の中から独裁が生まれるというのはあり得ない話ではないのだから、注意は必要だろうとは思う。
 
理屈ではなく、自由なネットで、現に、楽山が、恣意的に実行してきた自己中のことなのです。今、注意が必要なのは、楽山に対してです。今、排除するべきは、言論の責任を負わない楽山であります。楽山は、未だに、自由と責任というものを理解しようともしないのです。
 
自由についての詭弁で、人格障害から生まれたサイコパスの自己満悦を成り立たせてはいけません。楽山に、これ以上、悪さをさせないことが必要で、まず、取っ掛かりが批判ということになっています。
「注意は必要だろうとは思う」は、今読むと、寒気のするような、白々しい芝居であります。
 
 
*いろいろな考え方
自由については、政治、宗教、哲学、語源など、さまざまな方面からの考察があるが、本講演の場合は古代ギリシアの考え方を基礎にして語られており、非常に興味深いものがある。ひきつづき自由とな何であるのか、過去にどんなことが語られていたのか、調べてゆきたいと思う。
 
楽山には、「非常に興味深い」のでしょうか。わざわざ、偽善を斬り損なっている文章の部分を引用してきたのです。楽山は、ただ、曖昧な言葉に、食らいつき、縋りついているだけなのです。楽山の自由は、他害に等しく、楽山以外にとって、害であり、病因であり、地獄になるものです。
 
自由とはなんであるのか、恣意的に書いて好きなように曲げて本当の自由を邪魔している楽山に分かることはないと思います。楽山の大好きな自由とは、楽山がほしいままにしたいがために、楽山が、自身以外を認めず尊重もしていないことです。楽山は、真実を裏切り続ける下郎です。
 
このように、本を読んだことにして、また読んでいこうという姿勢を書いて終わりです。何も、糧となることを書けないのが、楽山という病質者です。「非常に興味深いものがある」・・このような、ボンヤリ言語の曖昧な褒め言葉で、楽山は、嫌がらせのように、執拗に、また書くぞ、と言っています。
 
自室のPCの前だけの独裁国家を謳歌しているのでしょうか。そこは、とても暗く臭いのではないかと思われます。中身のない楽山の繰り言であります。楽山の自由は、誰にとっての自由とも相容れない独裁的な自己中であり、身勝手な自己愛性パーソナリティ障害の症状だと判断しています。
 
自己中は、自由とは違います。自己中は、他者の自由を阻害し、かき乱します。こういう、徒労と疲労だけを与えるような輩の、人格破壊的な害を知らせるために批判記事を書いています。楽山が、執拗に発信だけを続けること自体が、今までのことから、自由への恣意的反逆であり、病質の症状なのです。
 
詭弁ばかり書いてくる楽山の理解力は、結局、成長がなく、小学生以下だと思います。楽山は、自由を乱す自己虫に過ぎなくなっています。楽山が、今まで、嫌らしい詭弁と誘導を書いてくるだけだったから、この判断は強化されてきました。楽山は、言論の害虫、体質的妨害者です。
 
楽山のようなワームは、ネットを這い回り、他者の良心を侵して破壊します。楽山のような人物は、ネットのモンスターとして、陰湿に生き延びて、だまし傷つけることに、快楽を感じ、満悦するのです。善人ぶっている分、ウイルスより怖い害虫です。どうか、楽山に、決して近づかないでください。
 
 
自己満足 エヘヘの独裁者

自己満足 エヘヘの独裁者
 
 
(2021年03月19日)
(2022年03月23日、再録+)
 
 
 
  涙
 
暗幕の下に賑わう目と目
代価を払って買った涙
計算機は壊れない
ガラスは割れない
安心して夢見る少女
愛情を運ぶトラック
何の保証もなく
世の中は便利になった
 
唇に青い瞳を
真昼の星に輝きを
汗をまき散らして変転する太陽
耐えた腕が鳴らす独裁
 
別れたのは父と母であったか
妻と夫であったか
親と子であったか
結ばれたのは残された国境
未来への合唱と
泣きながら遠ざかる沈黙
 
ビルの窓に反射する
まぶしい笑いと
人波の上に
今日も
代価を払っても買えない涙が
 
 
  懲りない奴
    批判者の弁え
 
例えば人里離れた急峻な山の斜面に
散りながら咲く一本の桜木のように
咲くことを愛でる季節には
散り続けるものを探し
営み順風に吹かれて生き続ける姿には
下血から骨までの道のりをたずね
旅立ちと別れのときには
今まで本当に出会っていたのかと
恥ずかしいときには
今まで恥じないで済むことがあったかと
問わずにはおれない
風流も風情もわきまえぬ性分に
神の独裁をうっかり与えてみよ
やはり同じ世界をそっくり造るだろう
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 」
 
 
「人間の性」ということにして、楽山は、言い逃れてきたのでしょう。「それが出来て初めて人間」という「それ」を、少なくとも、私が関わってきた3年数か月、できなかったのではなく、する気がなかった楽山です。他者の人格を破壊する者は、結局、自分の人格を破壊してゆくという経過です。
 
 
 
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  楽山こそこそと悪口
 
 st氏から粘着されてます。
 楽山日記(a)2022-03-17
 
 
今回、楽山は、アメブロのほうに書いていますが、どういう基準で決めているのでしょう。こそこそと逃げ隠れしながら、自業自得が招いた居心地の悪さを、私に「粘着されて」いると言って、自分は被害者、こちらが加害者という決めつけで、憂さ晴らししたいようです。反省だけはしない楽山です。
 
コメント引用は、画像になっているので、省略します。ヤフーブログ時代のコメントですし、楽山に都合のよいものしか載せていないようだから、今も、楽山自身が、通らない一方的な自己正当化をして、訂正不能の自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)だと証明しているわけです。
 
*3年
 st氏が、私に粘着してくるようになってから3年が過ぎた。
 この状態は、まだまだ続きそうなので、ここらで、ことの発端について書いておこう。
 
批判を粘着としか受け取れない精神の貧困が固定している楽山です。3年批判しても、何年批判しても、変わらないだろうということは、最初の数か月で分かっていたことです。誰も、精神を傷つける病質者の楽山に関わらないように、邪悪な楽山の情報を敷衍(ふえん)するために、批判しています。
 
*挨拶するな
まずst氏が、私に粘着しはじめた切っ掛けは、私がシャローム氏と話をしたからだった。
st氏はシャローム氏を敵視し、糾弾していたので、そんなシャローム氏と話をする私のことが許せなかったらしい。(自由=楽山です)
 
楽山は、シャロームshalomと話をしたのではなく、シャロームに賛同したのです。シャロームは、偽牧師です。「罪は悔い改めなくても許されるから気にしなくていい」という発言で、バレたので、約10年批判して、今は所在不明です。楽山、シャローム、易坊の3人の、楽山による成りすましも疑っています。
 
*アドラー心理学
次に私は、アドラー心理学に関連して、「人は人、自分は自分」という記事を書いたのだが、これがst氏の逆鱗に触れたのだった。
 この記事内容は、シャローム氏の持論と重なるところがあり、そこが気に入らなかったようだ。
 
「人は人、自分は自分」は、節操のある大人について成り立ちますが、楽山のように、反省せず、責任を負わず、詭弁を弄し、平気で嘘を吐くような病質者には、決して成り立つことはありません。加えて、今回も同じクレームしか言えない楽山は、理解力が病質のために鈍麻して学習と成長がありません。
 
*正月
 決定的だったのは、2019年の正月だった。シャローム氏の挨拶に返事をしたら、シャロームの仲間だと糾弾された。
 
実際、シャロームに賛同したのだから、シャロームの仲間だという判断になるのは当然です。あるいは、楽山の成りすましかもしれません。今までも、多数のHNを使って、人をだまし、おとしめ、荒らしてくることで満悦するのが、楽山の趣味のようです。とても卑怯で汚い男です。
 
*モラハラ?
この後は、何を言っても否定される状態になった。
 
楽山は、反省して改めることもないので、楽山の悪意に満ちた嘘と詭弁を批判して、楽山に近づかないように、読者にアピールすることが必要です。何度も書いてきたことですが、楽山は、被害者意識に凝り固まっていることが分かります。今に始まったことではないのです。
 
「女性ですか」という質問に答えたら、それは「明確な質問ではなく、疑問です」と怒られる始末。
以上。これが、st氏から、つきまといを受けるようになった理由である。
 
「女性ですか」・・これは、覚えていませんし、意味が分かりません。楽山は、分かるように書くことが大の苦手で、いつも、曖昧にしか書けません。それを、ボンヤリ言語と呼んでいます。何度も何度も、同じことを言ってきます。大事なことは、反省して改めるか、退くことです。
 
*付記
ちなみに、この記事はツイッターなどに書いたことを補筆修正したものである。
また、ここで紹介した会話はヤフーブログのサービス終了とともに消されてしまったのだが、その内容は以下に保存したので、興味のある方は御覧ください。
 
どう「補筆修正」したのでしょう。詳しくもなっていないし、説明にもなっていないし、分かりやすくもなっていないし、根拠もなくて、いつもの悪口に過ぎません。最近は、ほぼ同じ不平不満を繰り返すだけになっています。
 
いくら保存して、ねちねちと繰り返し書いてきても、楽山が、自身の問題を認識せず、いちゃもんや文句ばかり書いてきた履歴だけが表れてきます。まだ気づかないようです。これで、反論のつもりなら笑止です。楽山の粘着性による繰り言に過ぎません。
 
自分に当てはまる「粘着」などの悪口を、こちらに向けてくるのも、以前からです。同じことばかり書いてきて、進歩がないのも、病質によるものでしょう。誰も、関わってはいけません。近づいてはいけません。楽山は、危険物、害毒、疲労と徒労と人格破壊の病原の作用しか持っていません。
 
 
陰湿に愚痴だけを繰り返す鬱陶しさ

陰湿に愚痴だけを繰り返す鬱陶しさ
 
 
(2022年03月18日)
 
 
 
  影と陰
 
雨に濡れ風に飛ばされ日に焼かれてもなお
個は個でしかあり得ないのに
ふくらみすぎた陰(かげ)の中に
ちっぽけな影が没してゆく
 
個は集まり固まり
個々は要素の数になってゆく
にもかかわらず影は
ふくらみすぎた陰の中へ向かう
埋(う)もれてゆく虚像として
 
しかし当然そこには影の存在する場はない
したがって凍結も燃焼もできないまま
伝えようとする目論見(もくろみ)は
陰という巨大な虚像の中で
鏡の枠(わく)に括(くく)られた自分が
常に自分とは違うように
すでに語るに落ちて足りない
 
だから個よ
たったひとつの
あまりにも限られた真実でさえ
もはや死ぬことでしか伝えられない
しかし個よ
しかも死をもってしても伝えられない
さらに自(みずか)ら死を選ぶことは
自らに纏(まつ)わる真偽
と虚実の伝達をも
ともに殺してしまうことに他ならない
 
 
  ずっと・冬から春へ
 
景色はまだ冬枯れ
空は霞(かす)んで
でも今日は暖かいからと
あまり気が乗らないのに
バイクに乗って
春の陽気の散漫な光の中を
冬の陰気な無表情の顔が走っていた
鼻水が少し出てきた
冬なのか春なのかと
風はずっと揺さぶり続けていたから
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 」
 
 
反省が「難しい」と言う楽山は、ときに「反省。とほほ」と書きますが、その前後で何も変わっていないことで、また「とほほ」のマンガのような軽さから、嘘だとバレてきました。自己正当化の保身のために苦情を並べても無駄なのです。被害者芝居も無駄なのです。罪にも恥にも気づかない楽山です。
 
 
 
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  楽山の詭弁物語2
 
 「私の聖書物語」椎名麟三著
 2021年03月13日 楽山日記(LD)
  を改めて批判。
 
 
何も知らないし分からないのに、知ったかぶりをする楽山は、学習が成り立たないために、魔法のような宗教の思い込みに走っているのでしょう。共感がないために、理路も情緒も、意味も直観も、そして、真実も、言葉でごまかしてきたのです。
 
 
*私の聖書物語
先日、椎名麟三の本を読んでみようと思い立ち、「私の聖書物語」を読んでみた。自分には難しい本だったが、共感できるところも多かったので以下にメモしておきたい。
 
楽山は、「メモ」と書くことが多いです。謙虚だからでしょうか、否です。メモだから、責任負わなくていいと思っているのでしょう。そのくせ、言ってることは、偏向が甚だしいのです。
 
 
*愛すること
愛というものは、最後には愛しているというより仕方のないものであるからだ。愛は、愛それ自身をもってしか説明できないものなのだ。というのは、愛は、どんな理由も必要としないだけでなく、むしろすすんでそのような理由を拒むものであるからだ。 
(『椎名麟三全集15』「私の聖書物語」、椎名麟三著、冬樹社、昭和49年、p.344)
 」
愛がどうしたこうしたと言うのは気恥しいものであるが、このくだりを読んで、随分前に大恋愛中の友人がこんなことを言っていたのを思い出した。
「相手に、自分のどこを愛しているかと聞いたとき、ここが好きとか何とかいったら、それは本当には愛してないってことなんだぞ。本当に愛してたら、ここが好きとか、こういうところを愛してるとか、そんなことはいえないもんなんだ」
こんな彼が上の文章を読んだら、「その通り!」と喜びそうである。
 
エロス・性愛、フィリア・人間愛、アガペー・神の愛、のいずれのことを言っているのか、書いていません。「愛している」という台詞からは、エロス、性愛、恋愛のことを言っているのでしょうか。また、楽山の不備の言が始まっています。
 
楽山が、どう思うかを書いていません。分からないからでしょう。恋愛にもエロスだけでなく、フィリアも働いているわけですが、愛と性欲の区別がつかないのでしょうか。ならば、神の愛など分かるはずがありません。
 
「どこを愛しているか」ということではないと、わざわざ言っているのは、どこはチャームポイント・好み・魅力であって、愛という関係とは質が違うことを、楽山は知らなかったのでしょうか。楽山は、気恥ずかしいのではなく、真実を追求する言論において、ただ、恥ずかしい人です。
 
*自由と愛
また著者は、自由についても次のように書いている。
愛というものは、究極には理由のないものであるならば、自由というものも究極には、理由のないものなのである。
(同上、p.344)
 」
自由も、愛と同じく、ああだこうだ言っても仕方のないことなのだろう。ただ、ああだこうだ言っても仕方ないと分かってはいても、ああだこうだ言わないではいられないのだから仕方がない(笑)。
 
引用の理路も、愛=自由ではないのだから乱暴で不十分ですが、楽山は、引用しておきながら、またしても、説明を書きません。なのに、ああだこうだという文句だけは言ってくるのです。「仕方がない」は、何の説明にもなりません。これで勝手な書き方の弁解にはなりません。
 
散々、詭弁と嘘で、人を侮辱し、だまし、おとしめておきながら、何が「(笑)」なのでしょう。楽山には、何も言わないでほしいのです。偽善で腐った楽山の言論は、ノートにでも書いて、一人で笑っておればよいのです。
 
無反省、無責任、無神経、無理解の病的ナルシスト、自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)の言など、迷惑なだけで、誰のためにもならないからです。言ってみれば、楽山こそが、身勝手の典型になります。愛とは対極にあります。
 
訂正不能で、学習する気がなく、都合のよさそうな言葉だけを使い捨てで悪用してきて、結果、嘘と詭弁しか出してこないような、言論の責任を負わない者に、言論の自由はありません。そういう者は、批判の対象にしかなりません。
 
 
*人間はすべて許されている?
キリーロフは、小さいとき見た木の葉について話す。それは日光に葉脈がすいてキラキラと美しかったというのである。スタヴローギンは、それは何の意味だい、とたずねる。勿論意味なんかない。キリーロフは、そう答えて、人間はすべて許されているのだというのである。
(同上、p.361)
 」
これは、ドストエフスキーの「悪霊」についての文章である。
「悪霊」は、ウン十年前の夏に汗をかきながら読んだ覚えはあるものの、その内容はきれいさっぱり忘れてしまっているので、上の文章については自分は何も言えない。
でも、「人間はすべて許されているのだ」という言葉には、はっとさせられた。これは前々から考えているテーマなので。
 
今までの経過から、楽山語の「人間はすべて許されているのだ」は、何をしてもええじゃろ・・ということです。なお、キリスト教においては、許される、ではなく、赦される、であります。許可ではなく、赦免であります。それを、楽山は、何でも許可、何をしてもいい、ということに、すり替えています。
 
引用の文章は、それだけでは分かりにくいと思います。何もまともに考えることの出来ない自己愛性病質者の楽山の解説は、すべて恣意的です。自己正当化と自慢だけをしたいだけの詭弁なのです。ならば、楽山は、何も言わず、日光に血管が透いてキラキラしておればよいでしょう。
 
 
*信仰と許し
許しについて、本書では次のような文章もある。
キリストを信じない人にははなはだ申し訳なくて申し上げかねるのだが、その人さえも実はキリストにおいて救われてあるのである。また私に叱責の手紙を下さった熱心派の方々にはまことにお気の毒であるが、イエスをキリストとして信じられなかった私も、驚いたことにキリストにおいて救われていたのである。その事実が私をいつも震撼させるのだ。
(同上、p.401)
 」
宗教では、信じれば救われる、悔い改めれば許されるという具合に、許され、救われるには一定の条件があると説くことが多いのだが、著者はそれとはちがう考えらしい。
 
楽山は、「信じれば救われる、悔い改めれば許される」という言葉の意味を全く理解していないことが、今までに明らかになっています。自己顕示欲の知ったかぶりだけで書いています。どうか、真に受けないでください。悔い改めない限り、救いと感じることはないのです。条件ではなく真実です。
 
疑いがあっても、信仰が全くないわけではない、という意味かもしれませんが、楽山は、それを、反キリストでも、何をやっても許される、という恣意によって、ねじ曲げています。このような話の進め方をすること自体が、既に、反キリストの宣伝者以外ではないということです。
 
 
ちなみに自分も、信仰や悔い改めなど、何らかの条件を満たしてはじめて許され、救われるというのではないように感じられる。それらによって許され、救われるというよりも、それらによってこそ許され、救われていることに気づくことができるというのが本当ではないかと思うのである。
 
今度は、条件という言葉だけで、楽山は、信仰を、教条主義にすり替えています。ベースが理解が皆無の楽山からは、「本当」は生まれず、嘘と詭弁しか生まれてこないのです。自分の罪に気づかず罪を認めない者は、救いに気づくこともないのです。信仰は、罪が赦されて生きる、という救いだからです。
 
楽山は、悔い改めもせず、反省もしないで、救われているつもりなのでしょうか。それこそ、宗教と信仰を悪用する自己顕示欲の誇大妄想の悪夢であります。ますます、ふてぶてしくなり、ひどくなっています。信仰にも理路があります。楽山は、議論可能な理路を持っていません。
 
 
*神義論
神が、キリスト教のいうように全能だとするならば、アダムとイブが禁断の木の実を食べたのも神のせいである。何故なら人間の一切やこの世の一切を決定しているのが神であるなら、禁断の木の実を食べることも神において決定されていたことにちがいないからだ。だがもし禁断の木の実を食べるということだけは、神の決定から逃れ出ていて、神の知らないことであったとするならば、そんなぼんくらは、神でも全能でもあるわけはないではないか。
(同上、pp.370-371)
 」
これは上と同じく、自分には興味深いテーマだ。
神は全能であるとすれば、どうしても考えないではいられないことなので。
 
興味深くはありません。神の全能を、自分の都合と辻褄に引き寄せる妄想です。自分勝手を許す神ではありません。このように、幼稚な言いがかりだけが、楽山からは出てきます。神の意志と行為を、現実に合わせて云々する能力を人間は持ちません。神は上の絶対、人はその下の相対的存在です。
 
このように、楽山と同じような、いちゃもんを言っているように見える小説家の言を、楽山は、フルに利用し悪用してきます。楽山の言い分は、神が、楽山にも分かるような都合のよい辻褄の合う言動をしないなら信じないということです。
 
信じなくて結構、邪魔をしないでください。既に否定されたのに、また、平気で書いてくるのが、楽山の病質であります。ゆえに、いつ見ても、理路も感性も深みもないのです。進歩と成長がなかったのかもしれません。
 
(ネットより)
椎名 麟三(しいな りんぞう、1911年10月1日 - 1973年3月28日)は、日本の小説家である。
・・・
1950年(昭和25年)、キリスト教へ入信。日本基督教団上原教会にて赤岩栄牧師から洗礼を受ける。以後キリスト教作家として活動。
 
楽山の引用と解釈は、神の辻褄が分かるなら信じる、という、楽山の自我の完全欲の言であります。自己中は、罪を認めず、不祥事を全部他者のせいにしますから、分かることもないでしょう。信仰は、自らの完全を否定することから出発します。
 
人間は決して完全にはなれず、神に希望を託さなければ愛も癒しも希望もなく、楽山のような謀略者に食い殺されてゆくだけです。ゆえに、価値観を、この世に置くのではなく、最終的結果を、神に任せる道が、信仰です。辻褄が合わない世界だからこそ、不完全を自覚する人は、神を必要とするのです。
 
神が分かるなら、信じる必要はないのです。楽山のような完全欲の病質的ナルシストは、自己満足が得られないと気が済まず、いくら批判しても、同じようなことを書いて、疲れさせてきます。信じないのは楽山の勝手ですが、誰かに影響を与えようとする意図は、これもまた、悪夢のようなものです。
 
早く過ぎ去ってほしいと思います。楽山は、人間性を破壊する悪夢です。どうか、楽山にだけは、関わらないでください。関われば、楽山の他害性によって、徒労となり、疲労し、地獄を見て、人間としての思考も情緒も失ってゆくでしょう。それが、楽山の病質です。
 
 
*信じないけれども信じている
「それが実に全くほんとうに困ってしまうんですよ。お前は信じているんだとおっしゃるなら信じているんですし、信じていないんだとおっしゃるなら信じていないんだからです」
「どちらがほんとうなんだ!」
「ところが全く困ったことにどちらもほんとうなんです。つまりその二つは、実に平和に共存しているわけなんですよ」
(同上、p.374)
 」
これは奇跡を信じるか、信じないかという話であるが、著者のなかではこの二つが「平和に共存している」そうである。
 
「これは奇跡を信じるか、信じないかという話」ではありません。キリストに共感するか、キリストを好きになるか、という話なのです。楽山の勘違いは、人間にとって、どこまでも世迷言です。楽山は、話にならないことばかり言っています。
 
楽山は、おびただしい嘘と詭弁で、他害と破壊を及ぼしても、その自覚、即ち、病識がないのです。楽山には、平和もありませんし、共存もありません。信仰もありません。自我の欲望を追いかけ、その結果、訂正不能の悪夢を見ているだけです。
 
 
これは自分も同じだ。奇跡なんかないだろうと思いつつ、奇跡が起きたら起きたで、そういうこともあるだろうとさほど抵抗なく受け入れることはできる。
 
楽山は、奇跡が起きても起きなくても、平気でいられるそうです。その奇跡は、恐らく超常現象としての奇跡でしょう。楽山は魂の奇跡を知りません。楽山には、霊が分かるっぽい?という妄想的発想は起こっているだけで、本当の救いの奇跡は起こらないでしょう。
 
楽山の言から明らかなのは、楽山のように偏向し腐敗した心には、心の奇跡など起きようがないということです。起きないのは仕方ないが、他者の心の奇跡と目覚めを、邪魔するのはやめるべきです。誰も、楽山のようになってしまっては、ささやかな幸福さえも失ってしまいます。
 
 
あれこれ見て、あれこれ考えた上で、どうやら神は存在しないようだと結論づけたとしても、神を信じて祈ることにさして抵抗はない。
 
白々しい嘘です。逆説の哲学者シモーヌ・ヴェイユじゃあるまいし、存在しない神に祈る楽山の正体は、信仰を欠片も持たないで、だますために、祈り芝居の記事を書く詐欺師です。神は存在しなくても、神を信じて祈る・・明らかな矛盾律です。実際、祈ってなどいないと思います。
 
祈ることに抵抗がないそうです。それは、楽山が嘘を平気で吐く異常者だからです。祈りを何と思っているのでしょう。祈りは、神への唯一の音信です。神は、人の総てを見抜きます。楽山は、神を何とも思っていないから平気なのです。楽山は、嘘を平気で吐くように、祈るのでしょうか。笑止です。
 
楽山は、おのれの自我が神を、物か人のように、机上の対象にする怨念のような異常な確信から、この軽さで、神も、上から眺めて、信じてやろう、祈ってやろう、自分は何でもできるから・・とでも言うのでしょうか。黙っておればよいものを・・、何も知らないのに語ることの、おぞましさです。
 
 
我ながらおかしなことだけれども、こういう矛盾は平気である。何かの本で野蛮人かどうかは矛盾に無頓着であるかどうかによるという話を読んだ記憶があるが、この基準からすればどうやら自分は野蛮人であるらしい(笑)。
 
楽山が、こういう矛盾に平気なのは、自己愛性パーソナリティ障害だからです。逆説的真実も何もなく、自慢したい、ひとかどの人物と見られたい、特殊の霊的境地がある、分かっている、という妄想に、酔い痴れて生きているのが、楽山であります。楽山の平気は、正常人には成り立ちません。
 
 
*人であり、神であるということ
荒本さんの反逆は、イエスを神として、人間であることを捨象したキリスト教に対する反逆だったのだと思う。私は、イエスをキリストとして信ずる者であるが、キリスト教界のことはあまりよく知らない。だがおそらく荒本さんの反逆したくなるようなものが、少なくとも荒本さんの所属していた教会にあったのではないかと推測されるだけだ。ただ荒本さんは、そのイエスの人間を強調しすぎたのである。
(同上、p.439)
 」
著者によれば、荒本さんは「熱心なクリスチャン」でありつつ、「イエスが、人間であってなぜわるい、とか、マグダラのマリアに恋愛していてなぜわるいとかいって、キリスト教の偽善は、イエスを神の子とするためにイエスの人間性を無視していることだ」と主張して教会から離れ、マルクシストになり、「アンチ・クリスト」という論文を発表するようになった人であるが、やがて病に倒れ、最期のときには「おれは、神を信じていたのに…」と言い残していったという。
 
「キリスト教の偽善は、イエスを神の子とするためにイエスの人間性を無視していることだ」・・楽山とは全然違って、椎名麟三という人が思考するキリスト者であることが表れています。私も教会からは離れていますが、おかげでか皮肉にか、楽山という偽善者を、人間として批判することが出来ます。
 
キリストを、人間かどうか、決めつける必要が、断定する根拠が、能力が、人間の、いったい、どこにあるというのでしょう。そこが間違いなのです。また、キリストの、人間への共感性を否定したら、信仰は、おしまいです。楽山のような、超常狂いだけのカルトになってしまうからです。
 
キリストの人間性を無視することは、超常奇跡信仰であり、人間が受け取れるものを見失ってゆく袋小路への堕落であります。なお、経験上、私が通っていた教会をはじめ、まともな教会は、キリストの人間性を無視したりはしません。教会もいろいろであります。
 
恐らく、キリストの人間性を無視する教会には、楽山に似た訂正不能の外道者がいるのでしょう。そういう者は、どこにいても、真実を、人々から遠ざけてゆきます。教派にもよるでしょう。聖書は、カルトの喜びそうなネタが満載です。人間は不完全な人間であることを忘れてはいけません。
 
キリスト者でもなく、必要な知識も理路もなく、信仰など持ったことがなく、教会外にいて、減らず口だけをたたいているのが、楽山その人であります。どれだけ、信仰を語る圏外にいても、自己愛性の病質者は、身の程を知ることがなく、弁えることがないのです。
 
 
著者は、イエスは人であり、神であるので、どちらか一方の見方に偏することに注意喚起しているようであるが、近頃の自分の関心は、信仰上のイエスより、歴史上のイエスに大きく傾いているので耳に痛い話ではある。
 
先ず、楽山は、信仰上のイエスを知りません。むしろ、憎んでいると思います。だから、知りもしないのに、無神論関連の本から、信仰をけなし、信仰関連の本から、信仰を揶揄してくるのです。聖書から、人間としての真実を受け取らず、史実性だけに傾いて、信仰を理解することはありません。
 
歴史上のイエスに傾くなどと平気で言っているのが、思慮が浅いのに思い上がっている証拠です。歴史上のイエスは、二千年前ですから、いつになっても、詳細は不明であります。過去は、いかなる資料によっても、その資料の信憑性が問われ続けます。人間としての真実は、今、必要なのです。
 
大切なのは、聖書が、超常奇跡ではなく、人間に何を伝えようとしているか、ということです。それに、信仰もないのに、キリストの史実だけを追い求めることは、世界で一番の徒労であり、無駄であります。楽山が、いかに幼稚で問題外であるかを、楽山が表しています。
 
 
*これから
椎名麟三の本は、以前、とあるクリスチャンから勧められて一冊読んだきりだったのだが、今回改めて読んでみると難しくて分からないところもあるが、著者独特の思考と語り口によって様々なことを教えてくれ、読みごたえがある。つづけて他の著作も読んでみるつもり。
 
楽山は「難しくて分からないところもあるが」「読みごたえがある」のだそうです。この軽さと浅さが、楽山の特徴であり、厚かましさであり、本気の無さであり、自己顕示欲の権化であることを表しているのです。
 
楽山が、どれだけ、本を読んだといっても、信用しないでください。自分に都合のよい言葉を漁(あさ)っているだけの楽山が、真の読書をすることはないのです。本に学ばないで、自分の言い分を、肯定してくれそうな言葉面を探して検索しているだけです。
 
そうして、楽山は、勘違いの妄想を、詭弁によって、ごまかして書いてくるのです。楽山の言は、丁寧語で書いてくる分、少しばかり、人を誘いますが、注意してください。楽山は、理路を学び、信仰を知っている者からは、石にも砂にも値しない、嘘との偽善の有害物です。
 
キリストが、なぜ、手加減せずに、パリサイ人という偽善者を、あそこまで厳しく否定したかが、楽山という偽善者を通して、表されています。現代にも通じる警告であり、教えであります。
 
私は死んで何も言わなくなっても、神は、いつまでも偽善を黙って見ておられる御方ではないのです。このことが、一見、空しいように見えても、臨死において、キリストが、父なる神が、与えるところの、最終的な平安であり、救いであります。
 
 
視野の無い嘘吐き

視野の無い嘘吐き
 
 
(2021年)
(2022年03月15日、再録+)
 
 
 
  人が生まれて
 
人が生まれて
罪が生まれた
人が増えて
罪に罪を重ねた
言葉が生まれて
嘘が生まれた
心にもないことを言い
心にあることを隠した
 
虐げられた救い主のように
人は長い間
ウソの中から真実を見つけなければならなかった
人は長い間
ウソを並べて真実を表わさなければならなかった
産みの苦しみは
楽園を追われたときから
長く
長く続いた
 
「罪は決して許されることはない」
「あなたの罪は許された」
二つの言葉は
言う人と言われる人によって
正しかったり間違っていたりする
反対だったり同じだったりする
 
 
 
  楽山のツイッターですが
 
なんだか、こんな話を聞くと、もーれつに読みたくなってくる。
トンデモ本は好きなので(笑)。
https://twitter.com/komo266/status/1370643221932503044
引用ツイート
これってどうなの@宗教2世
@asasfjgg
 · 2時間
実は、ずっとやりたいと思ってたけど、まだできてないことがある。それは、この本を論評すること。
以前ざっと読んだのだが、あまりに言っていることが無茶苦茶で、かえって霊言の胡散臭さが際立つ名作だったww 
https://amazon.co.jp/dp/4823301730/ref=cm_sw_r_tw_dp_MH9SE7PTQKTN06P94X83
https://twitter.com/asasfjgg/status/1370612569895960581
 」
 
引用元を批判するつもりはありませんが、引用することで、どんどん、他の批判者を、自らの偽善の正当化に巻き込んでゆく、トンデモ的外れの楽山です。いつも、楽山は「(笑)」なのでしょう。楽山は詭弁を弄して、発言の責任を負わず、人を、疲労させるだけの人です。
 
自分の落ち度についての問題も、その指摘も、これだけ無視して、ふつうの人を気取ることの無理を感じることなく、笑って、明るい言葉を発していられるというのは、ふつう考えられないことです。楽山の、嘘と詭弁と、反キリストの言と、無反省・無責任を批判しています。
 
霊が分かるっぽいと言っていた楽山が、ブログ記事とツイッターで、馬脚をあらわしてゆく成り行きです。楽山に、他者の言を引用する資格はないと思います。理由は、真実を追求する資格のない病質的偽善者であり、楽山自身が、真実を裏切り続けているからです。
 
いちばんおかしいのは楽山であり、おかしいことを言ってきたのであり、その楽山が、他者に向かって、おかしいなどと意見を言う資格はないということです。今までの3年間の楽山批判が根拠です。
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
自分を見る目を持たず、外界を見る目を持たず、固定した幻想の視野を持ち、バランスのとれた人格の固定して夢想だけで、関わってもいない世界に口を出し、受け入れられないと逆上して荒らしてくる楽山には、どう考えても、生育歴によらず、否定だけしか返せないということです。
 
 
 ※
 
またしても、楽山系が、私のツイッターの「通知」欄を荒らして、楽山の悪行を強調しています。楽山系が、どれだけ低劣であるかを表しています。楽山は、知っているのでしょう。ゆえに、楽山は、本性が荒らしであることを自ら証明しているということです。
 
複数のHNで、私のツイッターの「通知」欄を荒らしている者たちがいます。楽山の、成りすましか、仲間でしょう。楽山の学者気取りも、これでトンデモになり、楽山が単方向の荒らしであることを証明しています。断末魔とでも言うべきでしょう。いつかは、バレることだったのです。
 
「通知」欄の荒らしの書き込みが困るのは、好意的な書き込みの中に混じっていて、紛らわしいからです。荒らしは、楽山と同じようにコピペで書いてきて、自身の意見はわずかで、あとは悪口や当てつけだけのようです。削除できないのかな・・、まあ、相手にはしないほうがいいと思います。
 
 
 
私の「ウソの国ー詩と宗教」ブログ:
 
(古い記事は載っていません)
 
http://st5402jp.livedoor.blog/
(古い記事もインポート済み)
 
ツイッター:
(ここは、ブログ記事をリンク・抜粋)
 
 
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  楽山の暴虐2
 
 『SNS暴力 なぜ人は匿名の刃をふるうのか』毎日新聞取材班著
 2021年03月07日 楽山日記(LD)
 
 
自業自得の楽山の、居直りの暴虐と謀略です。自らの悪意による嘘と詭弁そして罪と偽善を、全く気にすることなく、正義の味方を気取って書いてくる病質者楽山の、今日も、排泄物が醜いです。まさに、保身のために、理屈っぽく書いているようです。あるのは、自我の欲望だけだと思います。
 
 
ツイッターで本書が紹介されているのをみて読んでみたのだが、どうも本書は前半と後半とでは若干論調が異なっているようだ。
まず前半では、SNS上の誹謗中傷を問題視し、木村花さん、スマイリーキクチさんら被害者の苦悩の深さを訴えるとともに、加害者の動機を探っている。
 
婉曲的な書き方を得意とし、遠回しの屁理屈で誹謗中傷以上の徒労と疲労を与えている者もいます。誰かといえば、楽山その人であります。被害者の名前をも悪用して、自分の病質を守ろうとする暴挙であります。実態は加害者の楽山が、被害者ぶって自己を正当化するという赦しがたい冒涜です。
 
まともに見せかけた丁寧語で、言ってくるのは、自尊過大からの、無反省、無責任、無理解、無神経、という、訂正不能の偏った理屈で、概念遊びを、超常心霊趣味から言ってくるだけなのです。誰の生きるヒントにもならないトンデモであり、病質の資料でしかありません。
 
 
加害者は、よく言われているように、自らの境遇に不平不満を持つ者が八つ当たりしていたり、
 
楽山が、そういう類の人だろうと思います。恐らく、長きにわたって、誰からも頼りにされたことはないと思います。言っていることが、バラバラで、しかも、責任を負う気がないのですから、楽山を頼りにすること、即ち、被害者になることと言ってよいくらいの迷惑な人物です。
 
約3年にわたって批判されても、まだ書いてくるのが、楽山の病巣である我執なのです。何を言われても、弁明が出来ないのに、正しい人が当たり前に書いているような評論家気取りの筆致で、ネットにおける真実の追求に、詭弁の屁理屈で邪魔をして、疲労と徒労を与えてきます。
 
 
一方的な正義感で悪者を懲らしめているつもりになっていることが多いらしいが、なんらの落ち度もなしに、ちょっとしたことがきっかけで標的にされた被害者からしたらたまったものではないだろう。
 
楽山は、霊が分かるっぽい自覚から、神と超常を、とても低劣な論理モドキの屁理屈で語って惑わせるだけです。それが、楽山の生き甲斐なのでしょうが、迷惑でしかありません。語ることが「落ち度」であり、改める気もないので、批判対象にしかなりません。
 
楽山の正義感は自己肥大の妄想であります。ちょっとしたことでたまたま批判しているのでもありません。真実・信仰・生き方についてという重要なテーマで、思考停止のデマばかり、好き勝手に、言ってきたのが楽山です。婉曲表現を多用し、ごまかしますが、もはや、救いようもない成り行きです。
 
宗教・思想についての評論家気取りだけで、よく読めば、理路も説得力もないことが分かってきます。非常に迷惑なので、放置することは出来ず、批判を続けるしかありません。批判の目的は、楽山を変えることではなく、楽山のような異常者がいることを広く知らせて警戒を促すことにあります。
 
 
一方、後半になるとSNSの誹謗中傷対策の必要性は認めつつ、SNSには誹謗中傷問題というマイナス面はあるにしても、公権力批判として一定の影響力を持ち得るというプラス面もあり、規制によってこのような役割までも棄損してはならないとし、「政府や権力機関による規制は、必要最低限にとどめ、これからもネットはできるだけ自由な空間であるべきだ」(p.226)と結論付けている。
 
法的措置が及ばないような言論の世界ですが、楽山のような、一見まともに見える暴虐者もいますから、正当な議論と誹謗中傷は区別しにくいわけです。楽山は、丁寧語を使うので、強制規制が可能になっても捕まらない自信があるのでしょうか、強制力による言論規制を許容しているようです。
 
楽山はいちばん最初に捕まえてほしい人ですが、上の、一見して区別しにくいという観点から、私は、強制力の発動には反対です。区別しにくい楽山のような暴虐の者は、実際の肉体的暴力や暴言がなくても、精神的に害毒と言っていいほどの疲労を与えます。
 
しかし、反省せず、いつまでも、自己中に議論に介入して責任を負う気のない楽山のような病質者は、言論の自由に基づいて強制的に排除できないならば、言論の自由に基づいて厳しく批判を貼り付けてゆくしかないのであります。
 
既に、おかしい言い分を、たくさん書いてきて、言論をかき乱すだけの、楽山のような病的人格は、放置せず規制するべきだとも思いますが、何を基準とするかが、まだ、明確ではありません。楽山は、自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)です。
 
 
これは著者らの立場からすれば当然の主張なのだろうけれども、前半の流れからすればどうも政治的に過ぎて違和感のある結論である。
 
政治的に過ぎて・・ではなく、楽山の偽善的筆致は、区別しにくいということです。楽山は、自己顕示欲によって権威が好きなのでしょうか。それで、楽山は、政治的強制力を求めているのでしょうか。はっきり言って、楽山に政治を任せたりしたら、それこそ、とても無責任な右翼政権になるでしょう。
 
楽山こそ、数か月~数年の記事を分析すれば、救いがたい疲労原性であることが分かりますから、仮に、神のような正しい権威があれば、いつまでも、どこまでも、強制排除され、言論に対する邪魔を禁止されて不思議のない人だと思います。
 
 
>正当な批判と誹謗中傷との境目は明確ではないので、
 
一定期間、時系列に中身を分析すれば、楽山の言は、根拠もなく、成長もなく、執拗なだけで、改善も期待できない訂正不能であることが分かります。しかも、嘘吐きですし、根拠のない霊能の自覚もありますから、追放の要件を満たすと思っています。楽山は、実に、面白みのない男なのです。
 
 
正当な批判を認めることは誹謗中傷をも認めることにつながり、誹謗中傷を禁ずることは正当な批判をも禁じることにつながるという難しさがあるので、
 
自分が批判されているものだから、批判を禁じろ!・・と言いたいのを、受けをよくするために、丁寧語で言い換えている狡猾な楽山です。「正当な批判を認めることは誹謗中傷をも認めること」・・楽山は、区別できないという詭弁を言っています。楽山は、前者ではなく、後者だからです。
 
問題は、そういう荒っぽい意見に、根拠があるかどうかであり、荒っぽい書き方自体は、言ってみれば、楽山が、それだけ、相手を怒らせているということでもあるでしょう。まさに、そこが、楽山の無反省・無責任が招いた楽山自身の、障害、病質、病魔の結果なのです。
 
これは、いかに、楽山が、言論を舐めているかが分かる発言です。ポイントは、根拠が示され説明されているかどうか、責任をもって書いているかどうかであります。責任、根拠、いずれも、楽山がいっさい負わず、無視していることです。
 
楽山は、言論を舐めていて、今の勝手な言い方が通ると思っているのでしょう。この楽山の記事で、楽山によって無視されているのは、今まで、私からの、楽山に対する批判を、楽山が、ことごとく無視してきたということです。楽山が返してくる雑言こそ根拠がまるで無かったのです。
 
いつまでも、この迷惑な詭弁屋である楽山に、好きなことを書かれて、だまされ、惑わされてはいけないと思います。反省・責任・訂正・共感・成長という観点から、楽山の時系列を追うべきです。楽山は、これらの一つも持っていないのです。そういう体質になってしまっているのです。
 
 
SNS規制には慎重であるべきだというのは了解できる。しかしそうはいっても前半に紹介されているような誹謗中傷による被害が多発、拡大しているのであれば、
 
被害者面・傍観者面して書いている楽山ですが、楽山は、他でもない加害者であります。楽山は、ボンヤリ言語・トホホ言語、という曖昧言葉と詭弁と、お情けちょうだい芝居で、ごまかしているだけです。そのことも、言い知れぬ疲労を与え、言論の展開を滞らせ、かつ、何の益もない害毒です。
 
 
政治的な主義主張のために個人の尊厳を犠牲にすることは看過できまいし、SNS規制が強まることに正面から反対するのには無理があるのではないだろうか。
 
「政治的な主義主張」がどうこうという話ではなく、楽山には、それ以前に常識的思慮がないということです。否定と賛同、マイナスとプラス、という相反することを書いて、断定していないから責任はないという主張をしていました。
 
楽山には、主張の軸がありません。よさそうに見えることを、時々の、ほしいままに、載せてくるだけなのです。つまり、個人の尊厳を自ら手放して、思いつきだけで、実は我欲のままに、大人を気取った文章を書いているのです。精神衛生上、相手にしてはいけない人、それが楽山なのです。
 
楽山の、こういうブログ記事の主張は、ただ、楽山が、いい加減で、正当な言論から甚だしく逸脱して、無責任だということを、自ら表しているに過ぎません。しかも、反省もしないから学習も進歩も成長もないのです。幼稚な結論から始まる子供レベルの屁理屈でしょう。
 
さらに、楽山は、「個人の尊厳を犠牲にすることは看過できまい」とか言っていますが、自身の自己愛性パーソナリティ障害という病質によって、いちばん、いつも言いたい放題に、好きなように言って、人の意見を無視して他者個人の「尊厳を犠牲に」してきたのは、楽山その人であります。
 
またしても、楽山は、自分の言が、結局、自分を斬るということに気づきもせず、「 SNS規制が強まることに正面から反対するのには無理がある」と言っています。ならば、まず、無反省で無責任な楽山の言を、何よりも規制~禁止してほしいところであります。
 
 
自分としては本書の前半には賛同するが、後半は政治色が強くて前半ほどは賛同できなかったというのが正直な感想ではある。
 
政治色が強いわけではありません。公共を考えれば言論の規制が難しいことは同意できます。楽山は、ここで、自分の好きなように言いたい、かつ、文句言われたくない、という自分の勝手な欲望を語っているに過ぎません。・・それと、楽山の正直さは、一度も見られたことがなく、行方不明です。
 
"オオカミと少年"の、嘘ばかり言って信用されなくなった少年と同じ経過をたどりながら、丁寧語でごまかしても、無反省、無責任、そして人を無視する、という、いちばんの暴虐は、楽山がやっていることなのです。楽山は、言論の世界で、混乱を与えるだけの加害者でしかありません。
 
自己愛性人格障害者というのは、人の意見を聞いて自分を改めるということが全然できない人です。思いやりや共感や反省と自省、という、高等感情を要する機能がないのです。人格障害者は、その障害を、自ら表して、本人は正当のつもりでいるという特徴があります。
 
私は、約2年半、楽山の書くものを読んできて、その間の、様々な楽山の言論を、精神衛生上の煩わしいだけの害毒と判断しています。しかも、ずっと、楽山は、自己正当化の言い逃ればかり言ってきて、改善する意志がありません。「反省」「とほほ」とか書いても、その前後に変化はないのです。
 
前半も後半もなく、見てきた楽山の文章を全否定するしかないほど、作為と悪意で、ごまかし方だけを覚えてきた反宗教・反言論の楽山であります。楽山の動機は、既存の宗教への反感とカルト教祖願望の我欲でしかないと思います。
 
楽山は、言論を、個別に成り立っているかのように細工していますが、全体としては、今までの流れを知っている目で見れば、楽山は、何の共感も感動も生み出すことはなく、一貫せず、真剣味も真実味も皆無であります。
 
楽山は、自己愛と自尊を満たすためだけに書いているのです。楽山の書くものに、言論の「げ」の字も成り立ったことはないと思います。楽山という人は、ある時、言ったことを、別の時には、平気で裏切るような、自慢と快楽追求だけを求める自己中の詭弁屋だと思います。
 
言論において、真面目に真実を求めている人にとって、楽山は、要注意、要警戒、そして、決して相手にしてはいけない相手です。多くはないが、いろんなところに、楽山のような、話にならない人というのがいると思います。
 
楽山のような病質者は、図々しく介入して、好きなように言い捨てて、その責任を負う気もなく、言葉と言論を舐めて、どうにでもできるという慢心から、不祥事を、すべて、人のせいにしてきます。
 
 
詭弁 自己中 嘘吐き

詭弁 自己中 嘘吐き
 
 
(2021年03月08日)
(2022年03月13日、再録+加筆)
 
 
 
  小枝
 
木の幹に知らぬ没落
嘆いている御婦人の笑顔
懐かしく見苦しい
さり気なくいとおしい
 
報いはやがて来るでしょう
握りしめた手を折らないように
そっと太陽を隠しましょう
忘れるためではなく
許すためでもなく
やがては枯れる木の皮の
はがれて落ちる日のために
 
捧げるものは嘘の光
痙攣の祝福を浴びて
孕みましたか そろそろ
霊に水気をはらいましたか
 
木の幹のまわり
子供達が駆けていきます
見て見ぬふりのあなた
 
木の幹に腕を曲げ
涙拭く姿勢の小枝
太陽のいたずら
嘘の町
子供らは駆けていく
 
 
  知らない町
 
昔、駆けていった子供らが
大人の顔で帰ってくる
 
知らない町へ行ったらしい
 
蝶々追いかけていた子供らが
花を咲かせておいた
その一輪を
その匂いを
また蝶々が追いかける
 
知らない蝶々は
区別がつかない
知らない子供らは
知らない大人になる
 
花を知らない大人たち
匂いをかいでごらんなさい
 
においに覚えがないのなら
今ここは知らない町です
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
間違っても、笑って、正さずに嘘でごまかして、保身して、詭弁で偏見を植え付けて、かなあ・・、と言えなくもない・・、などの婉曲柔和芝居の刷り込み、通念から一歩も広がらない道徳と論理、裏では悪口を吹き込む、一方的な被害者意識、無反省、固定した楽山は、やたら多弁の石仏になりたいらしい。
 
 
 
 st問題資料集(17_8)st氏のシャローム・楽山批判、
 楽山の終了宣言、シャローム氏の回想、st氏に同調した人はいなかった、st氏の反論
 2022年03月08日 楽山日記(LD)
  より抜粋。
 
(楽山)
>stさんとやり取りしてる自分が、ますます愚かに見えてきた。
(私)
楽山から「愚か」も飛び出してきました。丁寧な楽山の、面影はありません。
こういうことなんです。
2019/8/30(金) 午前 11:19st5402jp
 
私は自虐的なことは、わりとよく書いてます。
自分のことを、愚か者、迂闊者、ばか…いろいろ。
だから上の文章は、いつものことです。
でも、stさんは、どうも
私がstさんのことを「愚か」と言ったと誤読してるっぽいです。
stさんはこの手の勘違いから
ああだこうだ騒いでることが、ちょいちょい見受けられます。
2019/8/30(金) 午後 1:27[ 楽山 (自由) ]
 
「stさんとやり取りしてる自分が、ますます愚かに見えてきた」・・これは、「自虐」でしょうか、違います。(愚かなstと遣り取りしている)自分が愚か・・ということなので、相手に対する侮辱が前提になっているのです。楽山は、日本語の使い方を間違える人です。故意の詭弁・誘導かもしれません。
 
「誤読してるっぽい」・・楽山特有の子供っぽい?表現ですが、もっぱら、受けねらいの言い方のようです。いかにも、わざとらしいので、時々、逆に、楽山は、中高年かと思うこともあります。私に「ああだこうだ騒いでる」という粗野な言葉を当てて印象付けています。ボンヤリ言語の決めつけです。
 
このように詭弁屋の楽山は、気づきにくいところで印象操作をしてきます。あるいは、そういう体質です。他者の言うことを理解しようという姿勢がなく、言葉遣いが、ぞんざいで、粗野で子供じみた返ししか出来ないのです。楽山を、まともに相手にすることは、精神毒を食らうようなものです。
 
故意でないならば、楽山のように、嘘と詭弁の人生によって精神が腐ってくると、欲望が先走り、ものの見方に冷静さが欠けてくるということでしょう。客観に、知らず知らず主観が入り乱れて収拾がつかなくなるのです。嘘と詭弁だけでなく、妄想や短絡や勘違いが頻発してくるでしょう。
 
 
★こも/楽山日記3
@komo266
批判はするが、反論リプは認めないということでしょうか。
 
3年余りの批判に転じる前の数か月、楽山との交流は、文脈を外す楽山に振り回されて病的な疲労という結果でした。ゆえに、直接の遣り取りを避け、ブログ記事をメインとして、楽山を批判~否定し続けます。楽山は、当ツイッターおよびブログコメント欄において、永久に出入り禁止です。
 
世辞の類なら、楽山の世辞の世界に染まって、実感の無い鈍麻に陥る恐れがあります。真剣に議論しようとすれば、楽山の嘘と詭弁によって、当惑し混乱し消耗し、人格を破壊される恐れがあります。楽山は、まともな言論者ではありません。病質者ですから、直接の遣り取りで関わってはいけません。
 
楽山の反論は、反論ではありません。嫌がらせ、中傷の類であり、理路がありません。同じことを繰り返したり、論点を逸らしたり、そういう手練手管だけを身に着けています。元々、怠慢な自己中の楽山は、議論の場で通用するような理路を持っていません。詭弁で言論者の真似をしているだけです。
 
 
★こも/楽山日記3
@komo266
これは当然ですね。
まっとうな注意には耳を傾けるべきでしょうが、くだらん悪口はスルーでいい。人生は短い。どうでもいいことに時間を浪費する暇はないので😄👍
引用ツイート
アドラー心理学サロン(アドサロ) ポジティブ心理学サロン
@PositiveSalon
 · 5時間
身に覚えがない悪口や嫌がらせは、スルーしていい。いちいち真面目に取り合っていたら身が持ちません。悪口とか嫌がらせをしてるような人達は自分に自信が無くて他人をけなして優越感に浸る人です。そんな人間を相手にしていたら、あなたの人間性まで汚れてしまいます。
午後7:36 · 2022年3月12日·Twitter Web App
 」
 
楽山は、批判と「悪口や嫌がらせ」との区別ができません。「まっとうな注意」かどうかも分かりません。批判を「くだらん悪口」として葬り、無視します。楽山の人生は、学習も成長もなく、自己中で他者を低く見る妄想によって、人生の時間を自己中に浪費してゆく、結実の無い虚空の遊びなのです。
 
 
 
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  ルサンチマン
 
弱者につのる恨み
とも
負け犬の遠吠え
とも
負け犬根性
とも
 
それでニーチェという人が
弱者の道徳として
キリスト教を否定したらしい
また
革命の原動力でもあったと聞く
 
「神は死んだ」は
「神はいない」と違って
「かつて神はいた」ことになるのか
哲学書なんて読めやしないけど
ニーチェの真意は
単純ではないな
くらいには思っている
 
では私はというと
「神は死んだ」にも「神はいない」にも
共感とまではいかないが
無視できないものがあって
 
 
それでいて
空しい独りに同伴する共感の
主イエスが好きになり
神様に祈ることをやめられないでいます。
 
(2011年03月31日+)
 
 
  関わり
 
動物との区別だけで
人が存在するわけではない
 
関わりが生まれるとき
人称が生まれる
君・彼または彼女
・・・瓦礫の中にいる遠い人々
 
関わりがなければ
相手だけでなく
一人称「私」も存在しない
 
近くても遠くても
豊かでも乏しくても
不確かでも繋がりを求める
一人から二人へ
 
もし共感というものがあるなら
関わることで人は存在している
 
思いの中には多くの人々
知っている人と知らない人
 
弱く乏しく遠く細く
少しでも知ってみようかと
思いを馳せるとき
ここに在る意識は人間である
 
(2011年03月27日+)
 
 
  満開の山路
 
山路を行けば
琴の音(ね)が響き渡る
琴柱(ことじ)の両側で
血まみれの絃(いと)が
乙張(めりはり)をつける
ときに襟を立てて
満開の散り急ぐ
おなじときに
 
山路を下れば
いっときも留(とど)まってはいない
絃の響きよ
 
葛折りの急坂に
散り敷いて重なる音色に
いずれにせよ向きは変わるのだ
 
舞い曲がり滑り転び落ちる
おなじときに
 
(2000年04月12日+)
 
 
  後ろの正面
 
点はあまりに小さすぎて
線はあまりに細すぎて
面はあまりに薄すぎて
立体は時間に負け続け
後ろの正面
誰も見たことがない
 
点を打てば長さを引いてしまい
線を引けば幅を描いてしまい
面を描けば凹凸が生まれ
立体を造れば時間に流されていて
 
幾たび振り返っても
いないはずの昔と今が繰り返し
お互いに行きずりの手を伸ばし
行き違いに遡り
行き倒れの未来の
後ろの正面
嫌というほど味わっている
 
(2000年04月12日+)
 
 
  季節に
 
すぐにでも
と誰もが思っている
でも
すぐには出来ない
と誰もが知っている
 
さて桜が咲く頃だから
心に浮かべてみようかな
 
話題になりにくいときもある
季節の便り
 
きれいな花を
皮肉に感じるかもしれない
 
でも私は
私の皮肉な人生が散ってゆくとき
きれいなものを見ていたい
 
なりたい
という夢でも幻でも
 
(2011年03月31日)
 
 
  浮かべる
 
心に花を浮かべられる日は
例えば
いやな顔や物がずらっと並んだり
いまわしい出来事がくりかえし浮かんだり
まるで心が
瓦礫や鉄屑に囲まれているような日よりは
マシな日なんだろう
 
(2011年03月31日)
 
 
 
  信仰告白
 
人間がなしうる
最も良質な
精一杯の信仰告白は
不信仰告白である
 
 
  宗教は
 
いるともいないとも証明されない
神様を信ずるのだから
宗教は
無神論と同じくらい
あやしげなものである
 
しかもそれを
人の筆でつづり
人の口で語ろうというのだから
宗教は
無関心と同じくらい
あやうげなものである
 
 
  信仰・宗教・学問
 
信仰は宗教ではありません
宗教は学問ではありません
 
学問は宗教の助けとなり
ときに宗教を汚(けが)します
宗教は信仰の助けとなり
ときに信仰を汚します
 
神から与えられたものは人を救います
人から出たものは人の助けとなり
しばしば人を汚します
 
 
  祈りと叫び
 
いつくしみ深き
神様に感謝します
という賛美の祈りより
神も仏もあるものか!
という叫びの方を
神様は熱心に聞いておられる
ような気がすることがあります
 
裏切られた果てに
その血塗(ちまみ)れの
蒼白い手に叫びを込めて
父に祈る御子を
遣わされた神様だから
 
 
飛沫を受けて 信仰

飛沫を受けて 信仰
 
 
(2022年03月12日、再録+)
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
とぼけて、ごまかして、うまくやったと思っても、失ったものや、得られなかったものが、増えてゆくだけです。さらに嘘を続けていると、もはや、嘘なしでは、何も成り立たなくなり、成り立ったように見せかけることも出来なくなり、嘘吐きが常習の生業(なりわい)になってしまいます。嘘の国です。
 
 
 
 st問題資料集(編集方針、目次、後記)
 2022年03月08日 楽山日記(LD)
  より抜粋して批判。
 
常識人ぶっても無駄だということです。既に、バレているのです。ネトウヨ、無神教カルト、自己中の荒らし、自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)で、まともな応答ができず、代わりに詭弁を返してくる楽山の、インテリ芝居にだまされないでください。
 
*後記
資料集をまとめていて、気がついたことが三つありました。
まず一つは、この議論はすでに終わっているということです。すでに結論は出ているのに、同じことを繰り返し議論して、時間を無駄にしていると…。
 
楽山は、答えられないために、終わったことにしています。実際は、こちらの言うことを無視しているに過ぎません。楽山は、幼稚な文言で、根拠もなく、キリスト信仰とキリスト教と神を否定しました。楽山は結論から始まって、つまり、最初から、気に入らなければ否定と無視で固定してしまう人格です。
 
楽山は、議論など、したことはないと思います。恐らく、多くの言論者や宗教人を、混乱させ、疲労させ、ひょっとしたら病気にしてきたのではないかとも思います。しかも、そういう自分の加害について、自覚も病識もなく、反省も修正も出来ない人なのです。
 
もう一つは、自分の考えに変化はないということです。細かい部分はともかく、大枠は昔も今も変わらないということです。
 
楽山は、自己正当化に加えて、今回は、受け取らず無視してきたことについて、「変わらない」という言葉が通用すると思っているようですが、それは成長不可という症状です。楽山は、まともな言論者ではなく、いちゃもん屋ですから、思想・宗教などの真実追求の場で、応答など出来ない人です。
 
三つ目は分かりきったことですが、世の中にはいろいろな人がいるということです。ネットではリアルでは会わないような人との出会いがあるので、余計に強くそのことを感じます。つくづく、人それぞれというのは本当だと実感した次第です。
 
楽山のような人は、まともな人間にはいません。まともな人間から、外れて、嘘と詭弁で、だまして、人を操ることに快感を覚えた精神病質サイコパスです。前に書いたのですが、「人それぞれ」は、良識を弁える言論者に成り立つことです。楽山のような異常者には成り立ちません。
 
楽山は、丁寧語で誘ってきますが、実際には、他者の言う論理も情緒も全く理解していません。それで、楽山は、理論家を気取って、末節的な言葉から命題いじりみたいな論理ゲームに誘導して、相手が疲労するのを見て、悦に入るサディストなのです。言論の場から、まず最初に追放されるべき人です。
 
私の楽山批判は、楽山を変えるためではありません。楽山を、近づいたり交流したりしてはいけない変質者として、けっして相手にしてはいけない者として、否定して、その情報を広めるために、書いています。したがって、楽山が応答するかどうかは全く関係ありません。
 
前に書いたことがありますが、楽山は、読んでいないか、体質的鈍感か、読んでも理解できない知能の障害か、記憶障害であろうと思われます。恐らく、それらの障害は、自己中心という生き方から来ているのでしょう。いわば、経験から学習できない楽山の自己愛によって、楽山が鈍麻しているのです。
 
 
 
私の「ウソの国ー詩と宗教」ブログ:
 
(古い記事は載っていません)
 
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(ブログ記事をコピペすることあり)
 
 
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