ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

タグ:無神経

 
  昔々のポエムなど
 
 
  ルサンチマン
 
弱者につのる恨み
とも
負け犬の遠吠え
とも
負け犬根性
とも
 
それでニーチェという人が
弱者の道徳として
キリスト教を否定したらしい
また
革命の原動力でもあったと聞く
 
「神は死んだ」は
「神はいない」と違って
「かつて神はいた」ことになるのか
哲学書なんて読めやしないけど
ニーチェの真意は
単純ではないな
くらいには思っている
 
では私はというと
「神は死んだ」にも「神はいない」にも
共感とまではいかないが
無視できないものがあって
 
 
それでいて
空しい独りに同伴する共感の
主イエスが好きになり
神様に祈ることをやめられないでいます。
 
(2011年03月31日+)
 
 
  関わり
 
動物との区別だけで
人が存在するわけではない
 
関わりが生まれるとき
人称が生まれる
君・彼または彼女
・・・瓦礫の中にいる遠い人々
 
関わりがなければ
相手だけでなく
一人称「私」も存在しない
 
近くても遠くても
豊かでも乏しくても
不確かでも繋がりを求める
一人から二人へ
 
もし共感というものがあるなら
関わることで人は存在している
 
思いの中には多くの人々
知っている人と知らない人
 
弱く乏しく遠く細く
少しでも知ってみようかと
思いを馳せるとき
ここに在る意識は人間である
 
(2011年03月27日+)
 
 
  満開の山路
 
山路を行けば
琴の音(ね)が響き渡る
琴柱(ことじ)の両側で
血まみれの絃(いと)が
乙張(めりはり)をつける
ときに襟を立てて
満開の散り急ぐ
おなじときに
 
山路を下れば
いっときも留(とど)まってはいない
絃の響きよ
 
葛折りの急坂に
散り敷いて重なる音色に
いずれにせよ向きは変わるのだ
 
舞い曲がり滑り転び落ちる
おなじときに
 
(2000年04月12日+)
 
 
  後ろの正面
 
点はあまりに小さすぎて
線はあまりに細すぎて
面はあまりに薄すぎて
立体は時間に負け続け
後ろの正面
誰も見たことがない
 
点を打てば長さを引いてしまい
線を引けば幅を描いてしまい
面を描けば凹凸が生まれ
立体を造れば時間に流されていて
 
幾たび振り返っても
いないはずの昔と今が繰り返し
お互いに行きずりの手を伸ばし
行き違いに遡り
行き倒れの未来の
後ろの正面
嫌というほど味わっている
 
(2000年04月12日+)
 
 
  季節に
 
すぐにでも
と誰もが思っている
でも
すぐには出来ない
と誰もが知っている
 
さて桜が咲く頃だから
心に浮かべてみようかな
 
話題になりにくいときもある
季節の便り
 
きれいな花を
皮肉に感じるかもしれない
 
でも私は
私の皮肉な人生が散ってゆくとき
きれいなものを見ていたい
 
なりたい
という夢でも幻でも
 
(2011年03月31日)
 
 
  浮かべる
 
心に花を浮かべられる日は
例えば
いやな顔や物がずらっと並んだり
いまわしい出来事がくりかえし浮かんだり
まるで心が
瓦礫や鉄屑に囲まれているような日よりは
マシな日なんだろう
 
(2011年03月31日)
 
 
 
  信仰告白
 
人間がなしうる
最も良質な
精一杯の信仰告白は
不信仰告白である
 
 
  宗教は
 
いるともいないとも証明されない
神様を信ずるのだから
宗教は
無神論と同じくらい
あやしげなものである
 
しかもそれを
人の筆でつづり
人の口で語ろうというのだから
宗教は
無関心と同じくらい
あやうげなものである
 
 
  信仰・宗教・学問
 
信仰は宗教ではありません
宗教は学問ではありません
 
学問は宗教の助けとなり
ときに宗教を汚(けが)します
宗教は信仰の助けとなり
ときに信仰を汚します
 
神から与えられたものは人を救います
人から出たものは人の助けとなり
しばしば人を汚します
 
 
  祈りと叫び
 
いつくしみ深き
神様に感謝します
という賛美の祈りより
神も仏もあるものか!
という叫びの方を
神様は熱心に聞いておられる
ような気がすることがあります
 
裏切られた果てに
その血塗(ちまみ)れの
蒼白い手に叫びを込めて
父に祈る御子を
遣わされた神様だから
 
 
飛沫を受けて 信仰

飛沫を受けて 信仰
 
 
(2022年03月12日、再録+)
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
とぼけて、ごまかして、うまくやったと思っても、失ったものや、得られなかったものが、増えてゆくだけです。さらに嘘を続けていると、もはや、嘘なしでは、何も成り立たなくなり、成り立ったように見せかけることも出来なくなり、嘘吐きが常習の生業(なりわい)になってしまいます。嘘の国です。
 
 
 
 st問題資料集(編集方針、目次、後記)
 2022年03月08日 楽山日記(LD)
  より抜粋して批判。
 
常識人ぶっても無駄だということです。既に、バレているのです。ネトウヨ、無神教カルト、自己中の荒らし、自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)で、まともな応答ができず、代わりに詭弁を返してくる楽山の、インテリ芝居にだまされないでください。
 
*後記
資料集をまとめていて、気がついたことが三つありました。
まず一つは、この議論はすでに終わっているということです。すでに結論は出ているのに、同じことを繰り返し議論して、時間を無駄にしていると…。
 
楽山は、答えられないために、終わったことにしています。実際は、こちらの言うことを無視しているに過ぎません。楽山は、幼稚な文言で、根拠もなく、キリスト信仰とキリスト教と神を否定しました。楽山は結論から始まって、つまり、最初から、気に入らなければ否定と無視で固定してしまう人格です。
 
楽山は、議論など、したことはないと思います。恐らく、多くの言論者や宗教人を、混乱させ、疲労させ、ひょっとしたら病気にしてきたのではないかとも思います。しかも、そういう自分の加害について、自覚も病識もなく、反省も修正も出来ない人なのです。
 
もう一つは、自分の考えに変化はないということです。細かい部分はともかく、大枠は昔も今も変わらないということです。
 
楽山は、自己正当化に加えて、今回は、受け取らず無視してきたことについて、「変わらない」という言葉が通用すると思っているようですが、それは成長不可という症状です。楽山は、まともな言論者ではなく、いちゃもん屋ですから、思想・宗教などの真実追求の場で、応答など出来ない人です。
 
三つ目は分かりきったことですが、世の中にはいろいろな人がいるということです。ネットではリアルでは会わないような人との出会いがあるので、余計に強くそのことを感じます。つくづく、人それぞれというのは本当だと実感した次第です。
 
楽山のような人は、まともな人間にはいません。まともな人間から、外れて、嘘と詭弁で、だまして、人を操ることに快感を覚えた精神病質サイコパスです。前に書いたのですが、「人それぞれ」は、良識を弁える言論者に成り立つことです。楽山のような異常者には成り立ちません。
 
楽山は、丁寧語で誘ってきますが、実際には、他者の言う論理も情緒も全く理解していません。それで、楽山は、理論家を気取って、末節的な言葉から命題いじりみたいな論理ゲームに誘導して、相手が疲労するのを見て、悦に入るサディストなのです。言論の場から、まず最初に追放されるべき人です。
 
私の楽山批判は、楽山を変えるためではありません。楽山を、近づいたり交流したりしてはいけない変質者として、けっして相手にしてはいけない者として、否定して、その情報を広めるために、書いています。したがって、楽山が応答するかどうかは全く関係ありません。
 
前に書いたことがありますが、楽山は、読んでいないか、体質的鈍感か、読んでも理解できない知能の障害か、記憶障害であろうと思われます。恐らく、それらの障害は、自己中心という生き方から来ているのでしょう。いわば、経験から学習できない楽山の自己愛によって、楽山が鈍麻しているのです。
 
 
 
私の「ウソの国ー詩と宗教」ブログ:
 
(古い記事は載っていません)
 
http://st5402jp.livedoor.blog/
(古い記事もインポート済み)
 
ツイッター:
(ブログ記事をコピペすることあり)
 
 
ブログ村ランキングリング:INポイントが付かない。
にほんブログ村 ポエムブログ 暗い詩へ(文字をクリック)]
にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ(文字をクリック)]
 
ブログランキング
 
 
 

 
  駄々と児戯3
 
 事実と価値判断について
 (『宗教的経験の諸相(上)』W・ジェイムズ著)
 楽山日記(LD)
 楽山批判を加筆して再録
 
 
他者の批判を平気で無視する楽山の、知ったかぶりの批評家気取りの、独り芝居です。学習しない楽山は、自分と同じと思い込んだ意見を、関心、愉快、と言い、誤読と曲解によって、内実の全く違う事柄について、賛同し、学者と同じレベルであるかのように、自分を高めようとするのです。
 
 
最近、『宗教的経験の諸相』を少しずつ読んでいるけれども、なかなかに難しい本だ。でも自分が関心を持っている問題に触れている箇所もあるので、そんなときは、実に愉快な心持ちがする。例えばこの部分など。
提出された事実についての結論は同じであっても、価値の根拠についてはめいめいの精神的判断が異なっているのであるから、それに応じて、啓示としての聖書の価値についても、人それぞれが見解を異にすることになるわけである。 
(『宗教的経験の諸相(上)』W・ジェイムズ著、桝田啓三郎訳、岩波書店、2014年、p.18)
 」
 
聖書は、人間のあるべき姿をテーマとしています。そのテーマについて、「人それぞれ」を当てはめるのが、楽山という偽善者です。ある人は善人、ある人は悪人、ある人は偽善者、ある人は人殺し、人それぞれでいいのでしょうか。
 
楽山の妄想的な訂正不能の宗教と信仰についての決めつけは、到底、見解の相違で済まされるものではなく、明らかに、無理解+悪意の産物であり、極めて、程度の低い詭弁なのです。そして、今までの記事の大きな文脈において、人を言葉で操ろうとする楽山の生き方を表しています。
 
人それぞれは、本質ではなく、現象であります。やむを得ない必然としてあることだから、大きく、軸ごと、外れる、ということがあってはなりません。楽山は、宗教の本質から全く無縁のことに執着して邪魔をしているだけです。
 
偽善を、ちょうどよい善悪とか、善ほどではないが似ている、など言うことはないのです。偽善は、悪を隠す分、悪より、はるかに悪であり、最悪と言ってよいのです。そのことを、最も厳しく批判したのが、他でもないイエス・キリストであります。
 
楽山は、個人の「精神的判断」という言葉に、都合がよいと悦ぶのでしょう。不可避的にそうならざるを得ない人間一般の知性の限界を示しているのですが、それを、それでいいのだから、自分も正しいという方向で書いてゆくのでしょう。・・何とでも自分の都合で解釈を曲げるのが楽山です。
 
楽山は、学者の意見に、幼稚な短絡で出来た自説のお伽噺を結び付けて、高名な学者に賛同した体を装い、自分もそのレベルの識者だと、婉曲的な印象操作や刷り込みや暗示的表現によって、自慢、自己満してゆく習性のようです。
 
既に、心の理論においては関係ない霊感の話をぶち込み、奇跡についての考え方においては詭弁が循環論法に陥る、などという、小中学生でも恥ずかしくて書かないような幼稚な初歩的な誤謬~詭弁を露呈してきました。にもかかわらず、なおも、同じことを続けて、高い自分を執拗にアピールしてきます。
 
 
思い起こしてみれば、自分がこういうことをはじめて意識したのは渡部昇一の本を読んだときだった。タイトルは失念したが、聖書について学問的に研究している神父がおり、どのような歴史的事実が明らかになろうと、それによって信仰は揺らぐことはない云々というような話で、キリスト教とはすごいものだと感動したのだった。
 
楽山には、「感動した」と書いているだけで、真の感動はないと思います。今まで、楽山が書いてきた文章に、文脈として、真面目な感動がなかったからです。自分のお伽噺に一致した文言や言葉があれば、実に気安く賛同の言葉を書き、感動芝居をしてきます。分かるんだと言いたいだけなのです。
 
それに、楽山は、キリスト教を侮辱し、神を否定する反キリストです。その企みの延長しか表していません。ここで、「キリスト教とはすごい」などと書いても、"狼と少年" の嘘でしかありません。実感の無さから、楽山の自己中の偽善の嘘の履歴が、楽山を否定するように出来てしまっているのです。
 
楽山の、言葉の一致だけの"分かる"は、聖書とキリスト教およびキリスト信仰の理解にはありません。前から言っているのですが、同じようなことを書いてくるのは、訂正不能カルトの特徴です。学習機能のなさが、ここでも表れています。
 
恐らく、この部分は、キリスト教を揶揄するために書いているのでしょう。だから、私は、こういうのを白々しい芝居と言っています。"キリスト教とはすごい"とは心にもないことで、キリスト教を論じている自分を、根拠もなく、自慢したいだけなのです。だから「すごい」としか書けない。
 
 
またこの手のことは中村元の本にもあったと思う。歴史上の人物としての仏陀と、信仰対象としての仏陀を分けて考えるというように。
 
例えば、歴史上のキリストは、人の解釈では、完全に明らかになることはないでしょう。人が分けて考えるのではありません。解釈しても、厳密には、人には分からないことであり、決めつけてはいけないということです。
 
ゆえに、人は、体験から、自分が感動したことを是とすることになります。そこに、他者の意見が関わり、普遍性があるかどうかが問われ、共感、同意、対立、批判、否定、そして、その根拠、さらなる体験、・・というのが人間の宿命です。
 
歴史上の人物については、確からしさを、ある程度、明らかにするのが学問ですが、決定的にはなりません。根拠が覆り、新しい説が出てくる可能性は、残り続けるのです。そして、いくら明らかにしたつもりでも、信仰対象となると、話は、さらに別のものになりうるのです。
 
楽山は、キリスト教についても、史実上のキリストと神の表れのほうについてだけ、いちゃもんをつけて、それで、キリスト信仰をも批判した気でいる自己満なのです。読むたびに、楽山の中立を装う態度には吐き気がします。
 
史実としてのキリストには諸説あります。楽山のような反キリストのデタラメで何の役にも立たない解釈もあります。しかし、そのことは、信仰対象であることを少しも揺るがすことはないのです。共感によって結ばれることは、楽山が言うような悪意ある事実の有無や理屈の話とは全く違うのです。
 
キリストについての史実は二千年前、キリストから受ける恩恵は今のことだからです。
 
 
似た考えとしては夏目漱石の『文学論』にもある。観念とそれによって起きる情緒とを分ける考え方だ。自分はこれによって、小説の文章は、事と心とを分けて書いてあり、その二つがよく整理されている文章ほど読みやすいと知ったのだった。
 
今までの楽山の文章には、深い情緒を持たない楽山が表れてきました。また、理路は臭い詭弁のペンキまみれであることが表れてきました。体質だから、これからも、恐らく、同じでしょう。こういうのを、因業と言うのだろうと思います。言葉だけ見栄を張っても、楽山は、分かってなどいないのです。
 
誤謬と詭弁しか知らない楽山ですから、事と心を分けて整理することなど、とても出来ないと思います。自己愛によって、反省をしない楽山には、ベースにある精神、すなわち、スピリット(エスプリ)が育っていないのです。
 
読書においても、楽山は、内実に関わらず、自分の言葉と同じ言葉面を見つけると、満悦するものだから「読みやすい」などと言っています。「読みやすい」は、理解を表してはいません。
 
すべて、今までの記事とコメントに表れてきたことです。アドラー教の影響が残り続けていて、都合の悪いことを無視してきたから、知性も感性も、宗教と信仰の理解も、子供レベルの先入観を超えるものではありません。それを、ごまかすために、学者の名前を利用しているだけなのです。
 
 
たとえば、「彼は走った。どうか、まにあってくれと祈らないではいられなかった」とか、「彼女は振り返った。そこに彼が立っていた。なぜ? 心にそんな疑問が浮かんだ瞬間、自分が泣いていることに気が付いた」というように。
 
楽山の稚拙な勘違いが表れています。行為と心を分けていると指摘したいようですが、行為を表し、当然のごとく、心を表しているだけです。同じ人間、または、その共感を表しています。主題は分かれてなどいません。
 
表現を分けて書くことがあるのは、普通に見られるということです。言葉の並びと組み合わせによって、心を表します。心無い楽山は、観念、事実、行為、情緒、心、などの理解が出来ていないので、分けて書かれたら、別に起こったと短絡し、言葉を並べて得意になっているだけです。
 
また、曲解、また、詭弁、楽山が書けば書くほど、楽山の外れ方は、甚だしく、呆れるばかりです。言葉は、物品でも、オモチャでもありません。楽山の心は、散らばっているオモチャを、一つ二つ拾っては、これがいいと、笑っている子供のようです。
 
 
純文学は型を崩すことを目指している面があるし、作家または作品によってさまざまな文体があるので全部が全部このようではあるまいが、少なくともこの傾向はあるだろうとは思う。
 
純文学と来ました。常に新しい表現世界を目指すことは、文学、芸術、などにおいて、当然のことです。型崩れの楽山が、批評の体をなしていない楽山が、型を崩す、などと、ありふれて擦り切れた型に嵌った言い方をしても、何も指摘したことにはなりません。
 
「あるまいが」「あるだろう」と言っています。形容や語尾を濁す曖昧ボンヤリ言語です。主張に責任を負わないための刷り込みの手法です。それで、褒められることを期待し、責任を回避したいのです。主張→間違ったら修正、ではなく、間違ったら断定してないと言い逃れたいのです。
 
楽山は、独自の発想ができないために、手持ちの、広がらない通念的な言葉の世界から、ありふれた書き方を拾っては卓見に見せかけて書くしかないのでしょう。しかし、はっとするような感動もなく、心にしみる共感もない、という楽山の帰結として、否定されるだけです。
 
そこに、謙虚さが、欠片ほども見られないので、いくら執拗に繰り返し書いてきても、丁寧な言い方をしても、底の浅さと、因業の深さと、訂正不能の硬さと、高慢の高さだけが、表れてきます。そこが、有能無能を問わず、心の正常な健康人と、楽山が、決定的に異なる点です。
 
楽山は、霊が分かるっぽいと思ったときから、思い込み信じ込みに至って、カルトの安い夢物語に嵌り、中立と中庸を気取るために、はっきりしないボンヤリ言語という安易さで、作文において、語尾を中心に、曖昧表現と、子供のような駄々を繰り返して、自己修正が出来ず、よくこんなことを公共にアップして人に見せることができるもんだと言いたくなるような、無責任の荒野をうろついているわけです。こういうのを、恥知らずと言います。
 
 
ちなみに自分は恥ずかしながら、宗教に凝っていたことがあるせいか、こういう区別がいまだ曖昧なところが無くもないことを告白せざるを得ない。宗教には、事実と信仰を同一視するところがあって、「私はこのことを信じているのではありません。これが事実なんです」という風に〈信仰=事実〉とする信仰告白が大歓迎されることさえある。どうも自分は宗教を止めた今でも、この癖が多少残っているらしい。この点よくよく気をつけたいと思う。
 
「宗教には、事実と信仰を同一視」・・これは、間違った教え方を去れたか、自己顕示欲のために間違っているかの、間違った信仰なのです。カルトに多いと思います。楽山に、それが「残っている」のではありません。それは、楽山の体質であり、楽山は、信仰に至ったことはないのです。
 
ボンヤリ言語とは、楽山の、例えば、「無くもない」「せざるを得ない」のような言い方です。これを、丁寧、柔和、などと受け取らないでください。言いたいことがハッキリしない者の筆致です。楽山の無責任体質の表れなのです。
 
楽山は、本当の宗教も信仰も知りません。自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)ゆえに、人間らしい心が育っていないからです。信仰は、心の問題であり、生き方なのです。事実が信仰ではなく、信仰が事実でもないのです。
 
「〈信仰=事実〉とする信仰告白が大歓迎されることさえある」・・間違っている例です。一部の間違っている例をもって、宗教と信仰を全否定したつもりになるのが、無神教カルトの信者であり、教祖願望の楽山の、破綻した理路となっています。
 
自分のことを言っているふうを装いながら、丁寧に教えを垂れるかのように見せかけて、楽山が言っていることは、宗教に凝っていたから区別が曖昧になるとか、自分を省みず宗教のせいにして、わけのわからないことを思い込み信じ込むのが宗教、という宗教への偏見を広めようとしています。
 
下等な責任逃れの台詞、無理解、という自分の不全と失敗を他者のせいにする、ということでしかありません。「宗教には、事実と信仰を同一視するところがあって」・・楽山においてだけです。このような、いちゃもんの類を、並べてゆくのが、反キリスト楽山のやり方です。
 
分からないだけでなく、分からないのに分かっている態度、しかも、それで、教えようとする姿勢、これは、信仰とも真実とも全く無縁の自慢であり、信仰と宗教について、甚だ迷惑な、刷り込みであり、印象操作であり、詭弁なのです。
 
楽山のような種類の人間が、歴史においても、固着した妄想的な高慢~傲慢によって、宗教についての様々な偏見と先入観のイメージをまき散らして、宗教をおとしめてきたのだろうと思います。
 
何の意味もなく存在して、意味を求めようともせず、何の意味もない言葉を吐き出して、善を装いながら、嘘の決めつけだけを伝染する偽善者は、どこまでも救いに対する害毒です。人の迷惑を全く考えないのに、善人を装って物を言ってくるので、決して相手にしないでください。
 
 
闇を彷徨う者

闇を彷徨(さまよ)う者
 
 
(2020年)(2021年)
(2022年03月12日、再録+加筆)
 
 
 
  呼べない名前
 
残された光の中を
危うく滑り込んできた
いくら見つめても 夕焼け
見つめ返してくれるはずもないのに
またここへ来て今更のように
呼べないものを呼んでいる
他に誰がいよう
めぐる日は明日を教えず
生きている今の一瞬 と
思う時すでに過去なのだ
 
過ぎ去ったお伽話が呼ぶ
砂のめぐりも絶えて
何処の静脈を流れる
知られぬまま古びた血よ
 
また帰る日もないものを
人はまた呼ぶであろう
暗闇の前の熱い血の光に
ひととき心を染めて
呼べない名前を
たそかれ と
 
 
  愛して
   (40代の頃)
 
二十代から数えて
ニ十年の凹凸を噛んで
出来上がった顔が弱っている
 
さしのべた手をかすめて
わずかの小銭が通り抜けた
歪んだ顔を隠す
愛されてもいないのに
 
二十年の空白を吸いきれずに
出来上がった変質者がふらついている
 
その辺り昔話でいっぱい
作り話でいっぱい
もう一杯と
暗い路地に足の裏を残しながら歩いていく
歩く後ろから世界は崩れていく
 
どちらを選ぶか
どちらを選んでいるか十年後
 
路地に人影はなく
多くの足跡乱れて
入り組んだ空白から
もれた明かりが凹凸を噛む
愛してもいないのに
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
自分の嘘と卑怯と妄想と悪と偽善と失敗を「人間の性」と一般化して、言い逃れようとする楽山です。その自業自得の報いとして、非人間であり続けている楽山です。「店」とは何なのでしょう。インチキ占い師みたいなものでしょうか。シャロームshalom・易坊・楽山の同一成りすましを疑っています。
 
 
 
私の「ウソの国ー詩と宗教」ブログ:
 
(古い記事は載っていません)
 
http://st5402jp.livedoor.blog/
(古い記事もインポート済み)
 
ツイッター:
(ここは、ブログ記事をリンク・抜粋)
 
 
ブログ村ランキングリング:INポイントが付かない。
にほんブログ村 ポエムブログ 暗い詩へ(文字をクリック)]
にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ(文字をクリック)]
 
ブログランキング
 
 
 

 
  心の理論3
 
   楽山日記(LD)
   に対する私の批判「心の理論」
   を加筆して再録。
 
 
楽山の原点のような見当違いの曲解です。心理学を、著しく歪曲して、心霊の話にしています。殆ど妄想だと思います。楽山は、まだ、何かを人に教えられると思っているのでしょうか。
 
今回、「心の理論」という心理学の話を、楽山自らの霊感みたいな経験を正当化する曲解によって、書いてきています。理路の読解力のなさが明らかとなり、インチキも甚だしい、というところを見てほしいと思います。
 
先ず、心の理論について引用しておきます。
 
(ネットより)
心の理論(ウィキペディアより)
他者の心の状態、目的、意図、知識、信念、志向、疑念、推測などを推測する心の機能のことである。
マクシ課題
1.マクシは、母親が買い物袋をあける手伝いをしている。
2.彼らはチョコレートを<緑の棚>に入れる。
3.マクシが遊びに行った後、母親はチョコレートを取り出して、今度は<青の棚>に戻す。
4.母親が卵を買うために出て行ったあと、マクシが遊び場から戻ってくる。
上記の場面を被験者に示し、「マクシはチョコレートがどこにあると思っているか?」と質問する。正解は「緑の棚」だが、心の理論の発達が遅れている場合は「青の棚」と答える。
 
 」
 
最初、何のことか、よく分かりませんでしたが、「誤信念を理解すること」というのは、誤信念の存在を正当化することではなく、誤信念を他者が持っているということを理解することのようです。ゆえに、直観的であっても理路があるから、理論というのでしょう。
 
批判というのは、多くの場合、そのような誤った信念があることを発見し、その根拠と理解によって為されるものです。楽山の引用した「心の理論」は、まさに、例えば、ここでは、楽山の誤信念を批判する根拠と理路になるでしょう。楽山は、思った以上に理解力がないようです。
 
マクシ課題について:
 
注意してほしいのは、問われていることが「チョコレートがどこにあるか」ではなく、「チョコレートがどこにあるとマクシが思っているか」というところです。
 
マクシは遊びに出ていたので、母親がチョコレートを<青の箱>に入れたことを知りません。したがって、「マクシはチョコレートがどこにあると思っているか?」という質問の正解は、「緑の箱」です。マクシは、誤った信念を持つ例として書かれています。
 
「心の理論」は、そういう、子供の発達過程での、誰でも分かるような、極めてシンプルな理路が書いてあるのです。これは、私たちが「心の理論」を持っているかどうかということです。大方の人は正解を出せるでしょう。楽山は、心霊の話に持ってゆくという恐ろしい誤謬に至っています。
 
 
最初、児童心理学の話かと思っていましたが、子供だけではなく、心理学の話であり、さらに、"誤信念" は、思い込みや、先入観、固定観念、カルト妄想にも関係してくる話であり、広く思想形成に関わってくる話だと思います。
 
正解することは、他者(マクシ)が誤った信念(誤信念)を持つことを理解しているということであり、つまり、これを心の理論が発達しているということです。
 
発達していない人は、「緑の箱」に入っていることしか知らないマクシの思考を考えることが出来ず、今「青の箱」にあるからと、そのまま「青の箱」と答えてしまう、ということです。
 
心の理論は、心理学的な理路の話であって、霊感とも、宗教とも、何の関係もないのです。
 
心の理論とは、他者という存在の心の正誤を知るということであり、それが出来ないのは、前にシャロームが、やたら言っていた、一種の自他未分化だろう、という話なのです。
 
ところが、楽山は、そのことを理解せず、自分の極めて怪しい霊感みたいなもの?を、正当化する話に持っていきます。やめておけばいいのに、ここが、都合の悪いことを無視して反省しない人の、何の意味もないのに、実に執拗な、煩わしい執着となっているのでしょう。
 
自他の誤信念を考えること、広く、誤解することは、誰にでもあることです。しかし、楽山の場合、事実を知らされても、誤信念を、訂正することが出来ない、というところに、重大な問題があるのです。それゆえに、楽山は、心理学の話を、心霊の話にしてしまうのです。
 
こういう、楽山には発達障害のようなものが前提となって、病質によって訂正不能の嘘吐きとなっています。事実を事実として受け取れず、自己中の妄想話に置き換えてしまうのです。
 
楽山は、アドラー教に従って、気に入らなければ無視して、全く改めずに、また同じような手練手管で書いてくる見苦しさであり、人間性をなくしてゆく方向へと、どんどん進んでいるのでしょう。次に引用するところの楽山の言い分は、目を覆わんばかりです。
 
 
先日は、お彼岸だったので親戚の家に行ったら、ちょっとしたやりとりが切っ掛けで爆笑されてしまった。その内容は、大体こんな感じ…。
自分 (仏間から、居間に戻る)
おば「仏様、拝んだかい?」
自分「うん、よろこんでたよ」
おば「えっ?」
 自分「拝んだら、仏様が『ありがとう』ってよろこんでた」
おば「仏様、よろこんでたんだ!? ふははははっ…」 (親戚一同爆笑)
 
親戚の人は、奇想天外のことを言う楽山を笑っています。
 
 
自分は多少冗談っぽい言い方をしたので、笑ってもらうのはいいけど、おばさんたちは仏様の気持ちは全然感じないっぽいのには驚いてしまった。
 
常識的に、おばさんたちが笑ったのは、楽山が冗談っぽい言い方をしたからではありません。魔法のように現実離れしたことを言う楽山に呆れたから笑ったのです。つまり、なに、バカなことを言ってるの、という笑いでしょう。
 
こういうときの病質者の解釈は、自己正当化のために異様です。楽山は、笑われたことから感じることや考えることが出来ない人だと分かる部分です。
 
カルトの萌芽を感じます。楽山は、言い換えると、自分のことを、仏様の気持ちが分かるっぽい?、と言っているのです。この時点で、自分の誤信念を、訂正できなかったのが、今日の楽山を形成しているような気さえします。
 
楽山は、「笑ってもらうのはいいけど、おばさんたちは仏様の気持ちは全然感じないっぽいのには驚いてしまった」と、わざとらしい丁寧語で書いていますが、恐らく、こういう場面で、本音は、お前たちには分からないんだ・・と心のうちに笑って、慢心してゆく楽山の病質形成が表れているように思えます。
 
既に、自分は霊能者という妄想が表れているのです。楽山は、楽山の書いた2年に及ぶ文章から、目覚めや、感動を、人に与えたことはないと思います。おばさんたちが「感じないっぽい」ことを異常のように楽山は言っていますが、感じたと言っている楽山のほうが病気であります。
 
 
もっとも仏様が何を考えているかなんて本当のところは分からないことだけど、仏様が喜んでるか、悲しんでるか、怒ってるか…そういうことは何となしに感じるものだと思うんだ。こういう感覚は、やはり個人差が大きいのだろうか。
 
楽山は、仏様が何を考えているかなんて本当のところは「分からない」と言っておきながら、仏様が喜んでいるか、悲しんでるか、怒ってるかは「感じるもの」だ、と言っています。つまり、仏様の心を自分は感じるから分かるんだ、と言っているのです。ボンヤリ言語の詭弁となっています。
 
こういう、いい加減なところから、カルトの詭弁は始まります。楽山は、知りえないはずの超常の存在である仏様を、自分の視野で分かったことにしてしまっています。それこそ、超常が分かるという自分を表しています。それは、そのまま、楽山の誇大妄想であります。
 
楽山が、キリスト教の神を、自分の幼稚な先入観の固定観念で云々して否定してしまう原初的病因が、ここにあるのです。
 
いい加減と言うより、楽山が、仏間の仏像について、「仏様が喜んでるか、悲しんでるか、怒ってるか…そういうことは何となしに感じるものだと思うんだ。」というのは、とても、異常で、気味悪く、怖い話だと思います。
 
楽山は、そのまま心が成長せず、体だけ成長して、大人になっても、同じような考え方で、宗教と信仰を、上から見ているということです。
 
楽山は、自分には、心霊が分かるっぽい、という、特別な感受性があるんだ、と言いたいのかもしれないが、その誤信念からの超常意識が、訂正されず、人格形成に影響して、病質形成に至っていることを暗示している体験話になっています。
 
楽山は、笑われて恥をかいて、よほど悔しかったのでしょうか、神仏を恐れもしないで、神仏と自分の自他未分化のまま、神秘の世界に入り込める自分を自慢するかのように、また、婉曲表現で自己正当化して、我を張っているのです。楽山という人の、カルト体質の原点を思わせる話です。
 
 
ちなみに自分としては以前は、これは霊感の一種なんだろうと思ってた。でも近頃は、「心の理論」の延長上にあるという説に説得力を感じてる。相手の心を推測する機能が拡大されて、人以外の存在…仏様、神様、ご先祖様に向けられたのではないかと…。
 
楽山は、「霊感の一種」「相手の心を推測する機能が拡大されて、人以外の存在…仏様、神様、ご先祖様に向けられたのではないか」などと言っています。ここで、既に、日常を超常に結びつける妄想が、訂正不能に形成されているのです。
 
「心の理論」を、勝手に延長して、神仏を、分かる、あるいは、感じることと、受け取っているようです。しかし、これは、全くの誤謬であり、妄想的曲解であります。「心の理論」の延長線上に、霊感によるような神仏理解は、全くないのです。全面的に楽山の危険な妄想です。
 
つまり、楽山は、最初に述べた「心の理論」を全く理解しないまま妄想に結びつけて、楽山自身は、誤信念を持っていることに、今も、まるで気づいていないということです。
 
心の理論は、少しも誤信念を正当化してはいません。誤りは誤りと書いてあるのを、楽山は曲解して、誤信念の神がかりを、心霊によって正当化しようとしているのです。意図的ならば、悪質な詐欺の企みと言えるでしょう。
 
 
ただこの感覚は、すごくリアリティーがあるので、人類が進化の過程で獲得した「心の理論」による錯覚にすぎないと割り切ってしまえないのが難しいところである。どうもこの辺りの問題は、一生解決できなそうだ。〈了〉
 
楽山は、自らの神がかった感覚にリアリティーがあると言っています。さらに、それを、人類が進化の過程で獲得した、ゆえに、錯覚だと割り切れない、と言っています。恐怖です。
 
そう言ったにもかかわらず、一生解決できない、などと言い訳して、見せかけの謙譲を装っているのです。こういう騙し文句を出してくることを忘れないでください。これが、楽山の、だましの理路と自己正当化なのです。どうか警戒して、決して好意的に近づかないでください。
 
知恵と良心の足らない霊能者気取りの自他未分化の楽山が、自己顕示欲から、自分の霊能は学問に基づいていると言いたくて、詭弁を弄すると、こういうことを平気で言ってくるのです。この記事の虚偽性は、恐ろしいものがあります。
 
念のために申し上げますが、楽山の言に、洞察も、有益性も、深い理解も、一度も見られたことはありません。楽山の言うことは何の役にも立たないと思います。通念的な固定観念から、嘘と詭弁で、超常に飛んでゆく妄想家、それが楽山です。
 
 
*参考
「心の理論」という言葉は、何となしにスピっぽい雰囲気があるけど、検索してみるとそっち系の言葉というわけでもないらしい。専門家ではないので確かなことは言えないけど。
 
心理学である「心の理論」は心理学という学問であり、スピリチュアルっぽい雰囲気など、皆無であります。確かなことは言えないと言いながら、上では、自分の霊感みたいなもの?を進化とまで正当化しているのです。騙されないでください。
 
 
最初に引用し説明したように、私が上記のウィキペディアの記事で見る限り、「心の理論」は、全くスピリチュアルとは関係のない心理学の話です。
 
(ネットより)
心の理論(こころのりろん、英: Theory of Mind, ToM)は、ヒトや類人猿などが、他者の心の状態、目的、意図、知識、信念、志向、疑念、推測などを推測する心の機能のことである[1]。
 
正常ならば、そういう、他者の誤信念の推測と判断が出来るようになる、という話です。それを理解できない楽山は、全く学問的ではないところの、霊感話に変えてしまっているのです。宗教と信仰を語る者として、完全に失格であり、恥ずかしい妄想的自己愛性の病質者です。
 
(ネットより)
心の理論とは、他者の心を類推し、理解する能力である。特に発達心理学において、乳幼児を対象にさまざまな研究が行われるようになった。ヒトおよびヒト以外の動物が心の理論を持っているかどうかについては、誤信念課題によって調べられる。この課題で他者の信念についての質問に正答することができた場合に、心の理論を持っていると結論される。一般的に4歳後半から5歳の子どもはこれらの課題に通過することができる。自閉症患者では障害が認められる。
 
楽山は、その意を全く理解していないばかりか、注意を向けてもいません。自閉症患者と同等の障害なのでしょうか。自閉症にしては、厚かましい男です。
 
4歳後半から5歳の子どもはこれらの課題に通過することができる、という、誤信念についての課題を、楽山は、自己正当化に使うほどに、正答が出来ていないのです。楽山は「専門家ではないので確かなことは言えない」と言いながら、著しい誤謬を、堂々と披露しています。
 
「自閉症患者では障害が認められる。」・・私は、故意のペテンか、カルトに陥りやすい自他未分化だと思います。こういう心性のままであることは、怖いと言ってよいでしょう。以上より、楽山は、心の理論を持っていないと判断できるでしょう。危険人物です。
 
 
・進化心理学と「心の理論」が神と同様にプラシーボ効果を見出すのだろうか?
 
このサイトに書いていること:
意図や目的を持った知的行為者(=神)を明確に心に描く人なら、こう推論する(物語る)かもしれません。「治癒が得られたのは、神が本来持つ機能(奇跡)のおかげである」
 
キリスト教は、全知全能の神を説いていますが、それは、治癒が神の機能だと言うためではありません。神を信じれば、病気が魔法のように治るでしょうか、そんな理路も教理も、否です。今の時代の少なくとも滅多に物や肉体の奇跡が起こっていないという現実が、その根拠になるでしょう。
 
キリスト者が信じている神は、信じれば病気を治してくれるご利益の神ではありません。したがって、信仰は、プラシーボ効果でもありません。楽山という心を持たない者の妄想です。
 
楽山は、とても幼稚な神を想定して、それよりも、という、学問の味付けをしたつもりの一種のカルト思想を宣伝しています。警鐘として、はっきり繰り返します。楽山に騙されないでください。行き着くところは、極めて危険です。
 
楽山は、シャロームと同様に、無反省に妄想正当化のために詭弁を弄するペテン師であり、宗教についても、学問についても、語る資格などないと思います。
 
キリスト信仰の立場からは、明確な敵対者として、反キリストとして意識して、私のブログ等々を介して、警戒情報を敷衍してゆくしかありません。どうか、楽山を相手にしないでください。楽山に関わらないでください。楽山に近寄らないでください。危険です。
 
 
キリスト教とキリスト信仰は、むしろ、この地上に溢れている嘘八百の超常カルト妄想に囚われることからも、楽山のような軟派カルト宣伝者の教祖願望からも、人間を解放し、人間の学習と成長を促し、より人間として相応しい温もりと潤いを求めるためにあります。
 
キリスト信仰は、けっして神がかりの感覚や奇跡や境地などではなく、人間として学びながら歩んでゆく地道で一途な道です。その歩みを支えるのは、聖書を読むことからの、キリストからの愛であり、キリストへの愛であります。
 
 
誤謬 妄想

誤謬 妄想
 
 
(2019年03月31日)
(2021年03月02日)
(2022年03月08日、再録+加筆)
 
 
 
  妄想(疑心暗鬼)
 
見えなかったものが
ぼんやりと見えてくる
閉ざされた沈黙の奥に
歪んでいく闇がある
ぼんやりとしか見えなかったものが
血を引くように
薄暗い
顔に近づき
不明の表情を持ち
青白い
体になり
地を離れ
次から次へと
倒れ込むように重なり
命のない眼が訴えるように揺れ
色が揺れ
熱を帯びて
息がさまよい
口が開いて
黒ずんだ肉を求め
吐き出されたものが
輪郭をあらわにするとき
爛れた粘膜を貫いて
暗闇から
鬼の目が光る
 
 
  不眠と対抗(一部)
 
危ない情動を青白い顔の端末に隠して
先祖のぶら下がりの血の重み
妄想の救い難い正直さ
あらゆる血の徘徊を
飲み込もうとして咽頭が裂ける
薬で癒されぬ重い風の迷いの中

無理な睡眠に逃げていこうとする
無理な答えに問いに
また悪夢から悪夢へ
のめり込む遊びの前に
明日はすでに数え始めている
眠れなかったとは言えない速さで
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
元々妄想癖のある楽山が、宗教や、カルトや、超常アニメ、などを好むのは、他に何も出来ないことからの必然かもしれません。著しく現実感を欠いているから、今も、いつものように好きなことをやっているつもりなのでしょう。人は人、自分は自分、・・その自分の狂気に、今も気づかないのです。
 
 
 
私の「ウソの国ー詩と宗教」ブログ:
 
(古い記事は載っていません)
 
http://st5402jp.livedoor.blog/
(古い記事もインポート済み)
 
ツイッター:
(ここは、ブログ記事をリンク・抜粋)
 
 
ブログ村ランキングリング:INポイントが付かない。
にほんブログ村 ポエムブログ 暗い詩へ(文字をクリック)]
にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ(文字をクリック)]
 
 
 
 

 
  楽山のカルト性2
 
 
カルト批判に見せかけて、無反省・無責任・無理解・無神経に、放言して、評論家気取りで、自己愛を満たそうとしてくるカルト思想宣伝者、楽山のツイートとリツイートですが、なりを潜めたかと思えば、またしても、人の書いたものを、今度は他者のツイートを利用して、自己正当化を図ろうとします。
 
心機一転★こも楽山
@komo266
フォローありがとうございます。
「朱に交われば赤くなる」など、ことわざには、経験的には一理あるものが多いですね。
午前10:07 · 2021年2月20日·Twitter Web App
 
楽山は、犠牲者となってゆく人を募集しているのでしょうか。
 
(ネットより)
朱に交われば赤くなる:
朱色が入り混じれば赤味を帯びるように、人は付き合う人の良し悪しによって善悪どちらにも感化されるものだ、という意味の言い回し。語源については、中国のことわざ「近墨必緇、近朱必赤」に由来するものとされる。
ウェブリオ辞書
 
ことわざについて、上のような感想しか書けないのでしょうか。「善悪どちらにも感化される」ということを、楽山は書かず、「一理あるものが多いですね」という単純な感想を書いて済ましています。一理もないことわざがあるのでしょうか。それは、ことわざになるでしょうか。
 
楽山のような偽善者に関わると、疲労し、頷き、受け入れて、悪と偽善に感化され、楽山と似たような、無反省・無責任な社交だけで、実質は、鈍麻した無神経の、傍らに人亡きがごとき無法者になってゆくという可能性もあるということです。
 
心機一転★こも楽山さんがリツイート
Algorab archives
@Algorab_MAIKA
返信先: 
@Algorab_MAIKA
さん
フランスがカルト対策にあたり信教の自由との狭間でカルトの定義という壁にぶつかった時、「“宗教”を問うのでなく、その宗教運動による“外形的な行為の弊害(世俗的な帰結)”を問う」という考え方を突破口としました。これはカルト問題に関わるうえで基本的な論理だと思います。(続)
午後8:34 · 2021年2月16日·Twitter Web App
 
有害極まりない自己愛性パーソナリティ障害の楽山の、性根を表すものとして注目するべきことであります。今までの、他者が書いた本を自己正当化に悪用するだけでなく、他者の、しかも、アンチカルトのツイートさえも悪用してくるという根性腐れの卑怯な楽山であります。
 
信教の自由が保証されているために、カルトに対しては、その宗教的内容の是非よりも、“外形的な行為の弊害(世俗的な帰結)”を問うことを突破口にするという考え方のようです。しかし、ここには、大きな欠陥があります。これは、強制捜査や逮捕の基準に過ぎません。
 
言い換えると、犯罪行為に及んだら捕まえる、という、当たり前のことを言っているに過ぎないようです。前に、私の記事に書いたことですが、犯罪行為に及ぶ一日前はカルトではなかったのですか・・否・・という大きな疑問があります。
 
楽山は、何も受け取らない病質者だから、また、同じことを、他者のツイート引用リツイートで言ってきます。カルトは、自分を特別視したい人の集まりのようなものです。人間の努力は、人間性を高めるためのものですが、カルトには、人間性を超えたい人が集まる傾向があります。
 
つまり、こういう考え方の欠陥は、カルトに対するに、法的強制力に頼ることしか考えていない、ということなのです。カルトに対して、強制的にやめさせようとする構えだけでいるから、こういう考え方になってしまいます。
 
カルトに酷い目に遭わされるということは、どういうことでしょう。犯罪を犯すようになるから、というのは、かなりカルトに、のめりこんでいる場合であります。マインドコントロール・洗脳、そして、迷惑行為は、既に、犯罪以前に起こり始めています。人格と生活の破壊が恐ろしいのです。
 
大事なことは、犯罪以前において、私たちには言論があるということです。即ち、カルトの勧誘が取り締まれなくても、信じたら酷いことになる信条で、信じてはいけないカルトだと思ったら、批判することができるということです。しかも、その批判を敷衍(ふえん)することも出来るということです。
 
上のツイッターを載せている楽山(こも楽山)こそは、HS批判を装いながら、自身の心霊妄想を、HSへの批判という反発力を利用して広めようとする軟派カルトなのです。楽山は、人の言うことを聞かず、受け取らず、無視して、分かりもしないキリスト教の悪口をブログに書いています。
 
かつ、クリスチャン芝居をして、反対と賛同の両方を書いたことをもって、断定していないから責任問題は発生しないなどと言って、幼稚で勝手な、成り立たない屁理屈で、好きなように宗教をいじくって遊んでいる異常人格、自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)なのです。
 
楽山の武器は、ボンヤリ言語、即ち、肯定も否定もせずに曖昧な言い方で、責任逃れをして、丁寧語で、宗教を、特にキリスト教を、侮辱して悦に入るような、婉曲否定と、トホホ言語、即ち、同情をひくための、反省、トホホ、共感、などという言葉だけを書いて、柔和を装う手練手管を振り回すことです。
 
今回も、楽山の、オレが言ったのではないから責任はないじゃろ・・という企みが見え見えであります。何かに賛同したら、賛同した責任が生じます。楽山は、既存の宗教を揶揄し否定しておきながら、その責任を負わず、遊びのように自分を高めるだけですから、決して受け入れてはいけません。
 
楽山は、訂正不能の自己愛という病魔によって、非を認めない無反省、曖昧に書きながら丁寧語の遠回しな刷り込みをしてきて、かつ、責任を負いません。生まれ育った時点で、そういう人格になっていて、罪悪感がない、という人格障害なのです。
 
また、楽山の履歴として、児童心理学を心霊の話にすり替える無理解を表し、奇跡の理路を書いたつもりで何の説得力もない自己矛盾と理解力の欠乏を表し、恐らく深い情緒や思いやりなどを感じ得ない高等感情の鈍麻情性から他者が傷つくのを楽しむという心性を表してきました。
 
何よりも、自身の欠点を、全く認めようとしないで、あらゆる不都合を、人のせいにする他罰性を表すことによって特徴づけられることが、ここ3年ほどの批判で明らかになっています。コメントの遣り取りをすると、無駄に疲れるというエナジーバンパイアであります。
 
今後も、他者の意見を引用して、自分の都合に合わせて悪用することがあるでしょう。楽山、こも楽山、というHNを覚えてください。誘われて応じたら、応じた分だけ、言いようのない疲労をもたらされることになる楽山はサイコパス的人格です。批判に見せかけた教祖願望のカルト思想宣伝者なのです。
 
誘われて非常に疲れる、ということが起こったら、HNは違っても、楽山が関わっている可能性を、考えるべきだと思います。楽山は、いかなる言論の中心にも端っこにも辺縁にもいてはならない特定疲労性病原(これは造語ですが)です。
 
楽山は、右翼思想を礼賛する者であり、他者の精神を破壊するようなカルト的思想~妄想を刷り込んできますが、本質は、幼稚な自己満足と自己愛による霊能者気取りであります。やり口が、集団のカルトよりも、卑怯で、企みに満ちていて、汚いということです。
 
非常に傍迷惑で嫌気がさすときは、上記のツイートを書いた人が、楽山本人である可能性を考えるべきでしょう。楽山が、犯罪に及ばない限りカルトとは言えない、という、上と同じようなことを書いていたからです。楽山は、策士であり、ペテン師であり、嘘吐きであり、詭弁屋であります。
 
楽山には良心がないと思います。そして、同時に、楽山は、他者の良心を破壊する病原です。良心と宗教と信仰と思想に対して、何らかの根深い怨念があるだろうと思われます。書けば書くほど正体がばれるのに、今になっても、悔いることなく、正しい大人を装う芝居をしてきます。
 
 
 2021年02月20日 幸福の科学とは何だろう?ブログ
 霊的真相とは?(ツイート保存)
  抜粋して批判。
 
最も凶悪な者というのは、悪ばかり語るのではなく、悪と善を、真と偽を、混ぜて言ってくるから厄介、というのを聞いたことがあります。楽山という詭弁屋は、まさに、そのようです。楽山の悪と偽善の害は、人格を含めて、全否定して、相手にしないことでしか、防ぎようがないのです。
 
HSに限らず、概して宗教というものは、苦難困難に対して何らかの宗教的な意味づけをすることで乗り越えようとするものではあろうが、HSのいう霊的真相はその中でも極めて特殊、極端に過ぎるし、ここはもう少し穏当、理性的なものに改めた方がいいのではないかと思う。
 
楽山は、他者の苦難困難に乗じて、何らかの詭弁的な意味づけをして、相手を追いつめ、疲労させてきます。そして、何か言われて揶揄の返しも出来ないときは、無視してゆきます。当然、相手は、実に甚だしく消耗し、疲労します。それをいつも狙っているのが、楽山であります。
 
楽山の霊的真相は、自己愛による自己満悦・我執絶対の妄想です。それは、よく読まないと明らかにならないというのが、楽山の、ボンヤリ言語、そして、トホホ言語です。体質的に身につけたそれらの偽善の悪意は、人格レベルで固定されて、何を言っても訂正不能です。
 
 
 
偽善 詭弁 ペテン

偽善 詭弁 ペテン
 
 
(2021年02月21日)
(2022年02月25日、再録+)
 
 
 
  言質
 
何を言いに来られた
何を怒っておられる
怒りは怒りを呼ぶことはあっても
怒りからは何も善いものは生まれぬ
 
いつくしみぶかき主イエスでさえ
エルサレムの神殿で怒りをあらわにされ
商人たちを追い出したことを知らないのか
 
神は絶対にして神の怒りもまた絶対である
主は正義にして主の怒りもまた正義である
しかるに
自らの怒りを主の怒りになぞらえる
汝はいったい何者か
 
(聖なる立場で物を言うべからず)
 
 
 
キリストは、神の教えを守れないと正直に言った、または、そう表した人を、信仰の義として、救いました。一方、守っている言った青年を退けて、その心に悲しみを残しました。さらに、キリストは、守っているという確信に凝り固まっているパリサイ人を、真っ向から、敵としました。
 
神の立場で考える愚は避けたいものです。たとえば神は全能であるから罪を消し罪を忘れることもできる、というのは詭弁です。忘れることと覚えていることと、どちらが能力であるか常識で考えれば明らかです。神聖と超常について、豪語すると、カルトに近くなってゆきます。
 
人が知りもしない神の知恵と立場で考えようとすることは実に虚しいことだと思います。人は考える動物ですから人が神について考えるのは自由だけれども、あくまで人の知恵で推測したり想像しているに過ぎないということをわきまえるべきだと思います。
 
 
 
頭の中で辻褄を合わせただけの理屈を読むと、無感動で退屈な、心の閉塞感を感じます。楽山の理屈は、乾いた砂で、こすられるような不快感を伴います。心を満たすことのない人間離れした理屈の組み立ては、人間を語れない不細工だからです。
 
いつも達成できているわけではありませんが、人間の心に寄り添い、心に響くような、潤いと温もりに寄り添うような書き方をしている文章には、心の解放感が伴います。恐らく、それが、説得力というものだろうと思います。
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
楽山は、作戦を練り直すことはあっても、反省、内省、訂正、修正が、できません。楽山にとって、他者に対しては、自分優位が前提となっているからです。謝罪や反省の言葉は書きますが、その前後で、ベースとなる思想や命題は変わらないことから自己愛への固着だと分かるからです。
 
楽山と議論や遣り取りをしてはいけません。信じられないほどの徒労と疲労を味わうでしょう。こちらの言うことは、楽山にとって、揶揄の材料にしかなりません。楽山は、断定していないから責任問題は生じないと言いましたが、楽山の丁寧語は、悪質な刷り込みと印象操作なのです。
 
楽山が書いた殆どコピペの無駄に長い7記事ですが、23日に全部一日で書いたようです。長い記事書けばよいというものではないということ、逆効果だということ、気づかないのでしょうか。原始的に衝動的に書いて、気が済んだのでしょうか。いよいよ冷静を装えなくなっているようです。
 
 
 
 
大国であるロシアと中国が独裁国家という現代の危機であります。中国はどう出るのだろう。独裁国家では言論と思想の自由がありません。第2次大戦では、ドイツ、イタリア、日本が、独裁であった。これだけ、強大な軍事力を持つ2大国が独裁になっている時代があっただろうか。
 
コロナ禍だけでも大きな試練であるのに、ウクライナの局地戦で済むだろうか。プーチンはヒトラー並みのサイコパスなのか。ヨーロッパとアメリカとロシアという大国が関わっている。第3次世界大戦になりませぬように。
 
 
 
私の「ウソの国ー詩と宗教」ブログ:
 
(古い記事は載っていません)
 
http://st5402jp.livedoor.blog/
(古い記事もインポート済み)
 
(ここは、ブログ記事をリンク)
 
 
にほんブログ村 ポエムブログ 暗い詩へ(文字をクリック)]
にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ(文字をクリック)]
 
ブログランキング
 
 
 

 
  楽山の独り言2
 
 KENTO氏による楽山批判(5)(ネット上の議論についての反省)
 幸福の科学とは何だろう?ブログ 2021年02月07日
  を改めて批判。
 
 
去年の楽山の記事です。何の説明にも弁明にもなっていないことを、的を逸らして、お互いさまみたいに言って、今まで同様、自己正当化してくるわけです。これが、病質者のやり方だと思ってください。悔いることなく書き続けるのは、後悔の念が湧かない、という病質の症状なのです。
 
深く感じるということがないために、いつも、いつまでも、書いてきます。書けば批判されて不快になるという条件反射付け以外なく、それ以上に、被害者を減らすために、楽山は有害だという情報を広めるために批判しています。楽山を自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)と判断します。
 
 
*反省メモ
今回の議論についての、反省点をメモしておきたい。
メモしないと、すぐに忘れて、また同じ失敗をしてしまいがちなので(笑)。
 
議論は双方向のはずですが、楽山は、人の言うことを受け取って考えることが出来ません。つまり、議論はしていないわけです。さらに、楽山は、無反省なので、反省点のメモも、自己正当化だろうと予想がついてしまいます。まだ、まともなつもりで書いて、だませると思っているようです。「(笑)」が醜い。
 
 
*過去の教訓
まずは、ネット上の議論について、過去の教訓を思い出してみる。
リアルでの議論なら、長くても二、三時間で済む。でもネット上の議論は延々続く。他のことをする時間を奪われる。
 
何を基準に、二、三時間で済むと言っているのでしょう。真実の追求は、一生涯にわたることもあると思います。いつものことですが、根拠のない楽山の気安く甘い見方です。いかに、本気で考えていないかが表れています。楽山への批判は、世辞で終わらせないゆえに、永久に終わりません。
 
こっちの言うことを、まるで聞いていないのですから、しかも、自らを省みず、責任も負わないわけですから、「時間を奪われる」というのが、まず、被害妄想でしかありません。ふつう、無反省・無責任は議論で通用しない、ということが、楽山には分からないのです。
 
 
事実関係の議論なら結論が出ることもあるが、宗教・思想など価値観に関する議論は、水掛け論になり延々続く。時間を奪われる。
 
楽山が相手だと、水を掛け合うのではなく、楽山が勝手に掛けてくるだけなので、「時間を奪われる」というのは、気力を奪われるということです。これが、無反省・無責任を相手にするときに、まず、うんざりすることです。自分が被害者みたいに言っている時点でアウトであります。
 
楽山の掛けてくる水は、廃液であり、そこには、説得力や真実や、その糧になるようなものや、正直さが、まるで含まれていません。小便を引っ掛けられているようなものです。まともに受け取らないでください。すべて罠ですから、楽山に対しては全否定するしかないのです。それが、病質者というものです。
 
楽山は、ここでも、問題を、双方同じという方向に持っていこうとします。話し合う気がないものだから、このようなことを書いて、そっちも悪いということにするのです。みんな嘘さ♪・・という歌がありましたが、まさに、楽山は、疲労の上塗りをするサディストです。
 
 
意見の相違、対立だけならまだしも、それはじきに感情的な対立にすすみ、やがては恨まれて、延々粘着されることになる。そうならないうちに議論は止めるべし。
 
楽山は、最初から、単方向で言いたいだけで、議論する気がありません。体裁だけ、議論について話しているように見せかけています。したがって、止めるかどうかではなく、楽山と議論しよう、議論できる、などと思うことが、元々間違いです。
 
檻の中の猛獣が唸っている、あるいは、自動販売機が勝手に作動しているのに、それに向かって、しかし僕は・・なんて言っても、通じるはずはないのです。いつの日も、独り言に過ぎないのが、楽山です。議論を止める云々ではなく、楽山の言は、最初から、議論になっていないのです。
 
このように、「感情的な対立にすすみ」と言って、楽山は、自分の原因、即ち、無反省・無責任、高等感情の鈍麻、高慢、間違いを認めない、つまり、間違いを認める性質が全く欠如している人格です。このような、人間とは思えない精神病質ですから、どこまでも、非を認めず、平気でいられます。
 
全く違う人種なのです。まともな人間とは違うのです。普通に生きることの出来ない異常者なのです。楽山のような人、やり取りするだけで失うものが大きい相手、即ち、エナジーバンパイアを、相手にしてはいけません。楽山が近づいたら逃げるしかありません。このことを広めるためだけの批判であります。
 
 
人格批判は無視すべし。人格批判に反論すれば、議論は本題からどんどんズレてゆく。
人の意見は変えられない。好悪の感情も変えられない。議論によって相手が変わることを期待してはいけない。
 
楽山については、人格を中心に問題としてください。人格の病気なのです。楽山相手に、議論は、どこまでも、成立しません。総てがズレているのは、楽山です。広い意味での精神異常ですが、訂正不能なのは、基本的に、治療不能であり、それが、楽山という体質です。
 
自分で「相手が変わることを期待してはいけない」と言っています。つまり、お互いが、柔軟に話し合って、双方が、改善されてゆく、成長する、という議論や交流の方向性が、楽山には無いのです。それを、まさに、楽山が白状しています。
 
議論めいた言葉を使うのは、自己満悦のための手段であり、詭弁であり、成りすましであり、それが、楽山の体質なのです。そういう迷惑な企みが生き甲斐なのでしょう。ですから、楽山に、真剣味はゼロです。意義もゼロです。楽山と関わる時間は、人生の無駄~害毒になります。
 
 
悪口を書かれれば反論したくなる。でも反論を始めてしまえば、これで終わりということはなく、延々やりあうことになりキリがない。
 
自分勝手な気持ちで自己中に「キリ」を設定してはいけないのですが、楽山は、勝手に、終わりにして、食い下がれば、ストーカーと決めつけ、スルーと言って無視もするのです。こういう者を批判するときには、人格を問題とするしかないのです。まさに、人格に全ての問題があり、それだけが表れてきます。
 
楽山は、自分勝手が病気になると、こうなるという例なのです。誰も、楽山を相手にしないでください。批判するならば、人格を中心に批判するしかありません。総てが、そこから始まっています。あとは、何も成り立っていないということなのです。受け取っているように見えるのは、嘘であり、芝居です。
 
 
分かるヤツはすぐ分かる。分からないヤツはどんなに説明されても分からない。話が通じないヤツとの議論は、さっさと切り上げるべし。
 
先ず、楽山の書いた文章を分かる人はいません。分かったと思うのは、むしろ、だまされ、ごまかされている証拠だと思います。無反省で無責任で無神経に書かれた文章は、誰にも理解されることはないのです。「分からないヤツ」という乱暴な言い方に、楽山の傲慢が表れているのが分かると思います。
 
分からない、話が通じない、ということを、楽山が決めています。我執と我欲だけで生きているサイコパスの特徴です。だから、平気で、「さっさと切り上げる」と言うことができるのです。こういう人こそ、「分からないヤツ」であり、「話が通じないヤツ」なのです。
 
楽山が、アドバイスめいたことを言っても、決して受け取ってはいけません。精神衛生の問題として、さっさと切り上げて、というより、あらゆる個別のテーマについて、楽山の人格が問題であり、議論できない人であり、議論禁忌の相手であります。平気で、人を傷つけて、屁とも思わない病的人格です。
 
ただ間違っているだけではなく、それ以前に、議論できない病気の人格だということです。何を言って来ても、人格の欠損だけを指摘し続けるしかない相手です。あらゆる個別のテーマの議論において、楽山が言ってきたことは、有毒ガスと思っていたほうがよいと思います。ボンベが悪質なのです。
 
そういう人なので、楽山は、自分が悪趣味を楽しむために、人格批判禁忌を何度も言ってきました。治らないからです。インテリ気取りの、いい気持になりたいだけの、楽山の誘導の罠にはまらないために、相手にしないでください。いろんな言い回しを、しばしば使って、ごまかしてくるのが、楽山です。
 
 
その他いろいろ。
今回はこれらの教訓を破ってしまったところがあるので反省。
 
楽山は、反省しない人です。ボクって、ヨワくて、ごめんなさい、という、受けねらいです。気色悪いトホホ言語の反省芝居です。その虚偽については何度も何度も指摘してきたのですが、楽山には、欲望はあっても、教訓はないのです。教訓という言葉を言って、その都度、でっち上げてきた詭弁です。
 
 
*今回の教訓
今回の教訓は、事実に関する議論と、評価に関する議論はきちんと分けようということ。
自分は、この議論は、盗用の有る無しという事実に関する議論だと思ったのではあるが、よく考えてみたらこれは事実に関する議論ではなく、評価に関する議論であり、ある意味、価値観に関する議論に踏み込んでいたのだった。
自分は迂闊にもこの辺りのことを見誤り、盗用問題の議論は、事実に関する議論だと思い違いをしていた。これは失敗。ひたすら反省。
 
評価や価値観に踏み込まない議論はないと思います。どうあるか、だけでなく、必ず、どうあるべきか、ということは問われているのです。ゆえに、論者の人格のあり方は、いつも問われることです。そこに議論についての真摯さが表れてくるからです。その点で、楽山は、既に、まったくの欠格です。
 
このように、楽山は、言葉と理屈をもてあそんで、混乱させて、大事なことから逸らせて行きます。理屈の迷路に誘って、自分は分かっているふうを装います。事実を挙げるのは評価のためです。楽山の論理は、悪意の偽りによって、ダメージと疲労を与える強毒性なので、相手にしてはいけません。
 
 
*評価に関する議論
ちなみに、この手の議論はHS界隈ではよくある。
たとえば、代表的な事例としては、「大川隆法は仏陀か否か」というものがある。大川隆法は存在するというのは事実に関する話だろうけれども、「大川隆法は仏陀か否か」というのは、評価に関する議論なので、大方の人々が仏陀ではないと判断し、それが事実であったとしても、仏陀であると言い張る信者に意見を変えさせることは困難だということになる。
「霊言は本物かどうか」という議論も同じ構図だ。大方は霊言は嘘だと判断し、それが事実であったとしても、「霊言は本物だ」という信者の評価を覆すことはできない。
 
信条を覆すことは出来ない、ということを、まわりくどく、あたかも、論理であるかのように、言っている楽山です。このような、論者気取りに、どれだけの人が、だまされてきたのでしょう。楽山は、分からないくせに、でっち上げの屁理屈を何行も書いて、疲労だけを与えてきます。
 
信条の問題には、心情が深くかかわってきます。楽山は、人の気持ちが分からないし、高等感情の、悔いる心や、罪悪感や、思いやりや、共感が欠如しているから、こういう書き方しかできないのでしょう。柔らかい布が必要な時に、トタン板をガタガタ言わせて、働いているふりをする手合いです。
 
 
HSから離れて、極端な例を挙げるとすると、殺人事件にもこれと似た構図がある。ある人がある人を死に至らしめたのは事実としても、それが殺人であるか、過失致死であるかの判断については、一方が正しく、もう一方は間違いであるとはっきり決めることは困難だ。大多数が殺人と判断する場合でも、過失致死だと言い張る人にその判断を変えさせるのは難儀だろう。
 
殺人か過失致死かは、はっきり決められないで済ませていい問題でしょうか。何のために捜査と裁判があるのでしょう。それで、警察や裁判所は成り立つでしょうか。楽山は、誰か、殺すか、殺す予定でもあるのでしょうか。楽山は、先回りして、弁解しているのでしょうか。とても危険です。
 
殺人か過失致死かは、犯人が判断することではなく、社会の要請に応じて、警察と裁判が判断することです。楽山は、よりによって、とんでもない方向へ話を持ってゆくようです。事の重大さというものが全く分かっていないと、こうなるのです。真剣には何の判断もせず、責任も負わない楽山が表れています。
 
 
したがって、ある論文には他の論文と同じ文章がいくつも発見されたという事実に対して、大方が盗用だと判断したとしても、盗用ではないという判断を完全に排除するのは無理だ。ことに大川隆法は仏陀であり、霊言は本物だと判断する人がそのように主張する場合にはそうなる。
 
「盗用ではないという判断を完全に排除するのは無理だ」・・まわりくどい言い方です。一般的に、悪いことを排除しないでおくことはないのです。人間は、努力の経過で出来ています。努力しない楽山は、自分の嘘がバレるものだから「完全」は無理だと、部分否定と全否定を混乱させているのです。
 
意見を交わすのに、反対意見を「排除」する目的で、書くでしょうか。排除されるべきは、双方向の成り立たない無反省と無責任の楽山だけであります。楽山の、こういう理屈を見ることで、楽山が、言論者ではなく、相手に、混乱を与え、あらゆる解決から遠ざける人だと分かるのです。
 
ちょっと考えれば、分かると思いますが、当たり前のことを、楽山が、いかに、もったいぶって言っているかということです。元々低劣な理路が無理をすると、このような、蟻地獄のような、堂々巡りのような、原始的な、実に、まわりくどい話になります。
 
恐らく、楽山には、自覚がないのでしょう。高尚なことを書いているつもりなのです。・・君らには分からないかなあ・・とでも言いたげに。腐った人間性が、偽りによって、詭弁によって、生き延びようとしています。決して許してはならないと思います。
 
 
こうしてみると、やっぱり評価に関する議論はやっかいだし、深入りしてもしょうがないということになる。
 
厄介なのは、楽山という人格だけです。自分で、こじらせて、自分で、言い訳して、自分で、納得してゆくような、孤独な作業に明け暮れるしかない楽山です。
 
評価に関する議論は、厄介ではありません。正常な人は、いつも、やっていることです。誰も深入りしてなどいません。楽山が、独りで、迷惑な、空回りをしているだけです。
 
 
まあ今回は、盗用問題を話題にし、ネット上に記録を残せたという点ではよかったとは思うが、自分の中では上の区別…事実に関する議論か、評価・判断に関する議論か…があいまいになってたところは、やっぱり反省しなくちゃならん。今度は間違わないように注意しよ。
 
「まあ」という、いい加減さで始めて、当たり前になされている「事実に関する議論か、評価・判断に関する議論か」を、「あいまいになってた」などと言い、またしても、オチャメを装った反省芝居で、「注意しよ」という、いい加減さで、まとめたつもりになっています。もうバレているのです。
 
訂正・謝罪は、一切ないことを、見逃さないでください。自分のための辻褄合わせです。そして、それが、楽山という人格の産物です。楽山という成り立たない理路です。楽山という詭弁です。楽山という悪意だけの口臭なのです。
 
楽山の言うことを、本気にしたり、まともに受け取ったりしてはいけません。楽山は、何か、テーマや議論の方向を限定して書いていたのでしょうか、否、思いつくままに、好きなように書いていただけです。それが、自己愛性パーソナリティ障害の症状なのです。
 
事実を言い、根拠と評価を言い、判断を言う、それが言論であり議論であります。それが、全く整理されておらず、できておらず、殺人と過失致死の話にすり替えてピントをぼかして、お茶を濁している楽山の作為です。まともなことは、ひと言も言っていないと思います。
 
楽山のような病的に自己愛だけが強い異常人格を相手にするのは、とても疲れる作業です。できることは、こういう、話にならない人がいるという情報を公開し広めて、決して近寄らないように警戒を呼びかけることだけでしょう。
 
楽山の納得は、誰の納得にもなりません。楽山の言論は、誰の言論にもなりません。そして、何の意義もなく、何の糧にもならないのです。ただ、やたら、病的な疲労をもたらしてくるだけです。腹が立っても、不治であるために、無視して、深入りしないようにしてください。楽山は不治の悪疫なのです。
 
 
絡みつく悪意

絡みつく悪意
 
 
(2021年02月08日)
(2022年02月12日、再録+加筆)
 
 
 
  誰の死
 
一つの死を前にすべての言葉は無力だ
茶色のうねりだったような道の中に突っ立っている
夕暮れの青ざめた人々
夕焼けさえ悪意の色で迫るかのように
焼かれる炎は
さらに焼かれる
誰のものなのか
いきなり破裂する
色も光も音も
皆ばらばらの吐物のようだ
誰のものなのか
鈍く包んでいく闇では終わらない
幽霊でもなく
幻でもなく
朝よりも静かな熱をもって
墓標よりも先に
冷ややかに立ち上がる
誰のものなのか
一つの無力の前にすべての言葉は命だ
 
 
  朝を行く
 
ゆるやかに焼土と化してゆく町の
紙切れ一枚に託された
朝の光と入れ替わるように
みずみずしく滴り落ちてゆく
悪意
覚えはないという
廃虚に燻り炭化して肉質を離れる
かつての
そしてこれからの
痕跡
ほら今日もこんなに光っている
開いた肉芽を屈折して通る宝石の
切通しに立ち竦(すく)む
覚えられることを拒むかのような
幾つもの折れた眼差し
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
だまし言葉を、山のように使って、そして忘れて、反省は言葉だけ書いて、実際一度もしたことのない楽山です。楽山は、今まで、本当の好意も小さな親切もなかっただろうと思います。楽山の、化膿創のような根腐れを開いて見るのは、誰も楽山を相手にしないで済むようにという目的があるからです。
 
 
 
 楽山のツイッターですが
 
★こも/楽山日記3
@komo266
このたとえ話は、すごく分かりやすい。
以前、当てこすりを繰り返す相手に、度々、反論をしていたら、「しつこい」「粘着質」とレッテルを貼られ、悪者にされてしまったことがあったが、こんな風に切り返しとけばよかった…。
 
楽山の無理解は悪意の病質ゆえなのでしょう。「しつこい」「粘着質」は、まさに楽山の言論の筆致であります。しかも、ことごとく無根拠なのです。言われて当然であります。しかし、楽山は反省もせず、改めることも出来なかったのです。楽山が、他者に何か言うと、それは楽山に当てはまります。
 
したがって、楽山の言は、「当てこすり」、そして、相手を悪者にして決めつけることです。それ以上の「反論」など、一度も出来たことはありません。理路の整わない楽山は論理など全く持っていません。ゆえに「反論」も出来たことはないのです。もはやブーメランに振り回されているだけです。
 
(引用リツイートに書いてあったこと:)
自分がルール違反を繰り返すのを棚に上げ
 」
 
無反省、無責任、無視、詭弁、嘘など、言論のルール無視、および、マナー違反を繰り返してきたのは、楽山です。またしても、自分が言われそうなことを、他者の言を悪用して、批判者に向けています。今までの経過が、楽山を既に否定しているのです。どこまで汚い詭弁屋なのでしょう。
 
 
★こも/楽山日記3
@komo266
「本人が変わるかどうかは本人の問題。」
宗教信者には、他人に対して改心を強く迫るなど過干渉気味な人が多い印象があるせいか、
信者さんがこういう課題の分離というか、個人主義的な発想をしているのを見ると、すごく意外だし、新鮮な感じがするなあ。
 
悪と偽善に対しては、批判と告発があり、「過干渉」とは言いません。個人主義と、自己中心とは、違います。反省と学習と成長のない楽山は、苦し紛れの断末魔的な詭弁を弄しています。
 
(楽山が引用したリツイートです)
本人が変わるかどうかは本人の問題。
あの世には閻魔も赤鬼もいますから、この世でどうなるかに拘泥しません。
われわれが為すべきは、惑わされる人を減らすため、周りに啓蒙したり警鐘を鳴らすこと。
これは同時代に生きるわれわれの責任でしょう。
 」
 
引用元は書いています。「為すべきは、惑わされる人を減らすため、周りに啓蒙したり警鐘を鳴らすこと」・・楽山は、視野狭小のために、墓穴を掘っているのです。「同時代に生きるわれわれの責任」・・まさに、そういうことです。楽山が自分に都合の良いことしか受け取っていない証拠です。
 
 
 
(古い記事は載っていません)
 
http://st5402jp.livedoor.blog/
(古い記事もインポート済み)
 
(ここは、ブログ記事をコピー・リンク)
 
 
にほんブログ村 ポエムブログ 暗い詩へ(文字をクリック)]
にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ(文字をクリック)]
 
ブログランキング
 
 
 

このページのトップヘ