ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

タグ:無神経

 
  楽山とは何だろう?2
 
 成人式のスピーチ問題について、信者の反応は…?
 幸福の科学とは何だろう?ブログ 2021年01月19日
 さまざまな情報を集めつつ、幸福の科学とは何であるのか考えてます。
  抜粋して改めて批判します。
 
 
楽山は、批判され続けていながら、それには全く答えず、反論も弁明も成り立たないまま、別の他者を批判しています。まるで、批判など無視していいよ・・ということを前提に書いているようなものです。まとも芝居をして、自己顕示欲を満たしているだけですから、説得力は皆無なのです。
 
ネズミのように逃げ隠れしている者を許していいはずがありません。楽山批判は、約3年間に及びますが、悪口・嘘・詭弁・嫌がらせ・当てつけ、などが返ってきただけで、まともな返しなど出来たことのない楽山です。悪意の臆病者、卑怯者、病質者と判断しています。
 
 
*論点
前の記事において、この問題の論点はおよそ三つあるのではないかと書いたが、もう一度書くと、それはこのようなものだ。
信仰告白は是か非かという信教の自由の問題
 
一見、自由だと答えそうですが、反社会的思想であったり、嘘と詭弁だらけであったり、言いっぱなしで無反省・無責任であったりすれば、批判されて当然であります。楽山がその典型です。まさに、妄想的なデマを振りまいて、責任を負わないことで、信教の自由を侵しているのが、楽山です。
 
論点云々と言論者を気取っていっていますが、楽山に理路や説得力など成り立ったことはありません。宗教人でも信仰者でもない病的自己中体質の楽山に「信仰告白は是か非かという信教の自由の問題」を語る資格はありません。楽山は、偏見と先入観で、信仰をおとしめてくるだけの荒らしです。
 
 
成人式において特定宗教の宣伝は容認されるかという政教分離の問題
 
反社会的な迷惑や反人道的なものでなく、強制的でないならば、儀式と宣伝は、可なのでしょうが、楽山は、人の迷惑を省みず、嘘と詭弁を使いまくるので、決して容認してはいけない存在です。ですから、楽山が誰かを批評したり批判する資格はないのです。誰が主催しているかにもよると思います。
 
 
信仰告白のために人を騙していいのかという道義上の問題
 
丁寧であいまいなボンヤリ言語と、同情を引くための芝居であるトホホ言語によって、人をだましているのが、楽山その人であります。そのベースは、妄想的確信となっているところの、宗教は、いい加減に信じて、信じ過ぎないようにする・・というもので、宗教を分かっていない証拠となっています。
 
宗教と信仰は、外見で派手と地味があっても、絆(きずな)の有無であり、あるかないかであり、信じ足りないということも、信じ過ぎるということも、ないのです。楽山は、何も分かっていないので、加減できるという妄想的視野狭窄を来たしているのです。信仰を測れると思うことが既に症状であります。
 
邪悪な宗教は、超常の力を身につけるために、人間性を捨てろと命令します。そして、超人になれると吹聴してきます。楽山は、宗教を批判しているように見せかけながら近づき、霊が分かるっぽい?自覚をもって、誘導するところの教祖願望~妄想の人です。
 
反対を書いて、その後、賛成と受け取れる祈り芝居などをしてきて、そして、断定していないから責任問題は発生しないなどと、成り立たない言い訳をする、というような楽山こそ、成人として、常識人として、成り立たず、道義上も、宗教上も、害悪と偽善に塗れている偽善者であります。
 
そして、一切、反省も訂正もしないのだから、いかなる寛容の精神をもってしても、その因業を続けることなど容認してはいけません。楽山に善意を向けることは、楽山の悪意を促進し、よって、人格鈍麻~破壊を、近づく人にもたらすでしょう。「人を騙して」いるのは、楽山のほうです。
 
つまり、楽山は、一人前の正常な成人ではないということです。かといって、薬などの治療が効くわけでもない病質者なので、何らかの和解も期待できず、治療によって改善可能な精神病についての考え方も成り立ちません。自己愛と自己顕示欲に支配された精神病質だという判断です。
 
楽山は、いかなる悪と偽善を行っても、罪悪感を感じないだろうと思います。優しさに見せかけた丁寧語にだまされないでください。楽山は、打てど響かぬ男です。決して信用しないでください、相手にしないでください、関わらないでください、近づかないでください、という批判記事を書いてきました。
 
いかなる場合も、人を騙していいわけはありません。また、成人式については、誰が催しているかが問題となるでしょう。国が催すならば、政教分離が必要だと思います。政教分離をすることも、しないことも、当然、責任が付いて回ります。無責任な楽山に云々する資格はありません。
 
 
私見ながら、HSとその信者は、信教の自由の問題についてうんぬんするが、あとの二つについてはまったくといっていいほど語らず、そもそも関心がないようだ。
 
「私見ながら」と評論家口調ですが、楽山は、信教の自由の問題についても、また、上に述べたように、政教分離の問題や詐欺的言論について、批判の対象になることはあっても、批判者になってはいけない人です。最低限の道理も道徳も弁えていないで、どうして、他者を批判できるでしょう。
 
 
一方、アンチ側は、あとの二つについて議論することが多く、信教の自由の問題についてはそれほど語ることはないようだ。信教の自由を認めないというのではなく、それは当然と認めた上で、あとの二つについて問題ありとしているのだ。
 
楽山は、言うだけで、返せない人なので、議論も、コメントの遣り取りも、成り立ったことはありません。ただ、だまされた人が、だまされている間、楽山を、まともだと思っているだけです。柔和で中立を装うペテン師に、もう、だまされないでください。私も数か月だまされてから、批判に転じています。
 
 
「信仰告白は自由ではあるが、成人式においてそのような行為を容認するのは政教分離に反するのではないか?」「信仰告白は自由ではあるが、そのために人を騙してもいいものであろうか?」など。
あとはアンチ側には、いわゆるゲリラスピーチをした青年の将来を案ずる声が散見されるのが印象的である。
 
(ネットより)
政教分離原則(せいきょうぶぶんりげんそく)は、国家(政府)と教会(宗教団体)の分離の原則をいう[1][2]。また、教会と国家の分離原則(Separation of Church and State)ともいう[3]。ここでいう「政」とは、狭義には統治権を行動する主体である「政府」を指し、広義には「君主」や「国家」を指す[4]。世界大百科事典では「国家の非宗教性、宗教的中立性の要請、ないしその制度的現実化」と定義されている[5]。
 
要は、政治は、宗教に対して、中立・不介入ということでしょう。また、そういう不当な介入を戒めてもいると考えるならば、自分の罪や偽善を省みず、平気で、柔和・中立芝居をして、宗教やカルト批判をしている楽山は、言論を歪曲する煽動者であり、むしろ、言論の自由を乱す者と考えるべきです。
 
ですから、楽山は、批判の対象となるのであって、批判や評論の主体となる資格はありません。楽山は、中立に見せかけて、心霊による教祖願望に執着があり、丁寧語のボンヤリ言語と、芝居のトホホ言語によって取り入り、単方向だけの理屈で、誘導し、だましてきます。しかも無反省かつ無責任です。
 
 
*提案
信者氏らは、信仰告白こそが最優先であって、そのために嘘をついたとしても、政教分離に違反したとしても大した問題ではないと考えていそうだが、世の中は大半が信者ではないのだし、信仰告白のためなら嘘があっても政教分離に反しても構わないという考え方が通るわけもない。信者氏にはこの辺りのことについてよく考えてみてほしいと思う。
 
世の中の大半は、楽山の支持者でも賛同者でもないのだし、信仰告白というより妄想による反信仰の実体と実態についても、楽山の嘘と詭弁は、当然、批判されてゆくわけです。楽山という最も悪質な個人カルトは、自らに対する批判には答えず、他者を批判し、他者に教えようとする変質者です。
 
楽山は、批判されて、長々と自慢げに返してきたときも、嘘と詭弁のいちゃもんしか書けない人でした。楽山は、分からないことでも、平気で嘘を吐き、平気で詭弁を弄します。総ては、作為なのです。人の助けになろうとする気はなく、能力もなく、人を操って満悦したいだけなのです。
 
楽山の、自らの偽善と悪を無視した宗教批判など「通るわけもない」のです。楽山は、他者を批判することで、結果として、自らの害悪を証明してゆくことになるでしょう。楽山は、何も考えていない自己中なのだから「よく考えてみてほしい」などと、人に言う資格もないのです。
 
以前から "反省" とか "トホホ" とか書いて、反省している柔和な人柄が伝わると思っていることも、笑止であり、記事の流れの時系列や前後の文脈に反省が表れたことがないから芝居だと分かるのです。わざとらしい卑下をしても中身がなく、変わることのない高慢が、楽山を否定しているのです。
 
言葉の内実の代わりに連想されるのは、反省とは裏腹なニヤニヤした自己満悦の笑いだけなのです。「共感」なども言葉だけです。実際には、共感できない体質と性格が指摘された流れの中では、狙いだけが際立って、白々しくて見苦しく、滑稽でさえあります。
 
楽山が、自らを改めることがないのに、人に改めるように言っているのは、精神機能の良心という大事なところが欠損した体質が固定してしまって改まらない著しい継続的非道なのであります。楽山は、言論者ではありません。だまされないでください。楽山の言うことを受け取らないでください。
 
 
ブーメラン 偽善は偽善者に返ってくる

ブーメラン: 偽善は偽善者に返ってくる
 
 
(2021年01月26日)
(2022年02月03日)
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
最近は、楽山の "ブーメラン現象" が激しいです。楽山が何か書くと、それは楽山のことで、楽山にぴったり当てはまる、ということになっています。楽山の笑いは、楽山を笑っており、楽山の悪口は、楽山を罵倒するでしょう。そういう目で見ると、だんだん、楽山が、実に滑稽に見えてくるのです。
 
楽山の言は、尻を拭いた後のトイレ紙のようなものです。その表面を丁寧語というクリームで被っても、いったい誰が、何の役にも立たず、キレイにもならないウンコまみれの紙を近づけられて喜ぶでしょう。リアルはもちろん、ネットでも、鼻をつまみながら強力に流す以外にないのです。
 
 
 
  白い目のピエロ
 
薬をのむ
白い目のピエロが現れる
鉛のような倦怠が襲ってくる
長いトンネルの無為にふらつく
暗闇で見る幻に
縫合の糸をかける踊り
血を抜いた
平気な顔をして笑う好褥の皮膚
その傷から生えてくる
歯を抜いた
血の味 細菌の熱をのどで飲み込む
昔のんだ鼻血の味が残っている
拳銃と注射器の危うさに
火の粉とガラスをまき散らす
白い目のピエロ
何度も身を引いて
しばらくすると戻ってくる
静まりかえった舞台で踊る
曲もなく詞もなく拍手もなく
そのたびに眼が白くなっていったという
不眠に遊び
白髪を覆い隠して
笑うために ピエロ
また薬をのむ
脳に回った毒が笑う
泣く
 
 
 
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  楽山の虚言2
 
 『余はいかにしてキリスト信徒となりしか』内村鑑三著
 2021年01月23日 楽山日記(LD)
 
 
楽山の虚言は、そっと懐に滑り込ませるような狡猾さがあります。実際は、総て、反キリストの、作為と悪意の産物です。
 
楽山は、HS批判を、こそこそと、別のブログを立ち上げてするつもりのようです。自らが、批判されていて、それにまったく答えないままで、無反省・無責任に、別のところを批判をする、などということは、正常なら出来ないことです。
 
自身の不都合を無視して、平気で、他者の不都合を批判するところに、訂正不能の異常性が表れています。楽山は、批判している側にいるつもりの自分をよく見せるために、自らが批判の対象であることから読者の目を逸らしたいのでしょう。
 
 
『余はいかにしてキリスト信徒となりしか』は、中公の「日本の名著」で一度通読したことがあったが、キリスト教徒となる前の著者は、神社の前を通る度に礼をしていたという話以外は何も覚えていないので、今回は岩波文庫で読み返してみることにした。感想は、以下の通り。
 
新しく信仰者になる前は、違うことを考え、違うことをしているのは、当たり前のことでしょう。しかも、日本という国のあり方も影響していたでしょう。それを、ことさら、「神社の前を通る度に礼をしていた」などと書いてくるのは、揶揄して否定したいからにほかなりません。
 
今日もまた、楽山は、キリスト教の伝道者を侮辱するのだということが、書いたものによって表れています。楽山には、何を言っても無駄だから、引用と批判記事を資料としてゆくことにしています。
 
 
まず一つは自分の教養不足を痛感したということ。本文と訳注を行ったり来たりして読みつつ、自分は聖書、古典、歴史などについて何も知らないことを思い知らされた。反省。
 
そもそも、楽山は、宗教と信仰を知りません。単なる知識不足ではないのです。ゆえに、このような「反省」も、柔和を装うための嘘ということになります。
 
本当に反省するのならば、恥じて書くのをやめているはずです。そのブレーキが、病質のために欠損しているのです。今までもあったことです。同じごまかし方が、今も通用すると思っていること自体が、厚顔無恥というべきことであります。
 
 
二つ目は本書の前半はやや平板だが、中盤以降、米国に渡ってからの文章は勢いがあって迫力があるということ。これは前半よりも中盤以降の方が、葛藤、対立、主張が激しいからだろうが、本書を読んで退屈に感じた人は、いっそ第六章から読む方がいいと思う。
 
このように、反省と書いた後で、乱暴に「第六章から読む方がいい」などと読み方を教えられると思っていることが、反省は嘘だということを示しているのです。惑わされないでください。
 
自己愛が、楽山を、暴走させ、堕落させ、周りを見えなくさせて、既に、久しいのです。どんなに失敗しても、立ち直るのではなく、何も反省せずに同じことを続けることに、自己愛性パーソナリティの闇を感じないではいられません。
 
 
三つ目は著者は信仰対象を日本の神々からキリスト教の神に変えてはいても、熱心な信仰者であることは少しも変わっていないということ。著者は常に全身全霊で何かを信じないではいられない根っからの宗教者なのだろう。
 
神々信仰からキリスト信仰に変わって、信仰者が変わらないということは、信仰というものを、楽山が全く理解していないことが分かります。楽山が言う熱心さは、実に、胡散臭い超常趣味の臭気に満ちたものであることは、今までの楽山の記事から、明らかであります。
 
特徴的に、「熱心な信仰者」という褒め言葉こそ楽山の皮肉に満ちた揶揄への通り道となっています。今までの経過から、誰とも交流も議論も出来ず無反省・無責任のままの楽山の褒め言葉は、全身全霊で悪意と敵意と呪いを隠している姿なのです。
 
つまり、楽山は、無反省と書かれ続けているから、反省と書けばよいじゃろ、という根性で返してくるのです。煽動者・詭弁屋以外の何者でもなく、書いた言葉の大きさに比して、実感の乏しさが目立つだけなのです。「全身全霊」で何かを感じることのない楽山の、理解したふりに、だまされないでください。
 
以前からの、楽山の、マイナスの言葉のあとに、プラスを書けば、プラマイゼロじゃろ、という気安さであり、いい加減さであり、責任回避の言い逃れであり、悪意の軟派カルトなのです。
 
 
四つ目は著者は自分の行動を改める際に、理屈を必要としているということ。他人に援助は求めぬとしていたのを援助を求めることにしたり、牧師にはならないと公言していたにもかかわらず神学校で学ぶことにしたことについて、かくかくしかじかの理由で考えを改めたと説明しているところは、なかなかの理屈屋だ。ちなみに自分もこれと同じで自分の判断にはそれなりの筋の通った説明をつけたい性質ではある。
 
理屈を必要としていたのではなく、理由と動機と根拠を説明しているという当たり前のことでしょう。それを「なかなかの理屈屋」と言ってしまうのは、著者の遍歴をあざ笑っていて、キリスト教の伝道者に対する楽山の揶揄であり悪意なのです。
 
しかも、楽山も同じなどということはありません。説明する者と無視する者との違いであり、楽山は、一度も、当たり前のことをしていません。「自分の判断にはそれなりの筋の通った説明をつけたい性質」・・楽山は、筋の通った説明など、したことはありません。寒気のするような白々しい虚言です。
 
 
以上、本書にはこれ以外にもいろいろなことを考えさせられたが、そのすべてを書くのはすぐには無理なので、とりあえず本稿ではここまでとしたい。
 
総ても、一部も、楽山は書けない人です。書けば、病質が表れ、くずれた文脈の詐欺行為が見られるのみであります。腐敗の病巣が染み込んでいる楽山が放った矢は、故意か体質かの、悪意として、いつも、独特の悪臭を放つことになります。放置すれば、そこに、新たな病巣を作るでしょう。
 
真面目なふりをしているだけです。分かったような顔と丁寧語です。得々と語っても、楽山という偽善者には説得力のある中身がありません。書いて気取りたいだけの時間と文字数の無駄です。批判する目的ではなく楽山を読むことは、その分、時間をペテン師に吸い取られるような者です。
 
 
敗北の反動

敗北の反動
 
(ここは、とても易しく優しいオセロゲームのサイト。
  ゲーム苦手の年寄りには軽い気晴らしです。)
 
 
(2021年01月27日、同日一部修正)
(2022年01月30日、再録+加筆)
 
 
 
  森の虚像
 
美しい言葉 編んで
秋の森の木漏れ日の
落ち葉の中に佇んでいたかった
 
落ち葉を拾い
投げ捨てて
空を見上げる足元の
無数の陰に阻まれ
飛ばせない光の墓地
湿った森に伏して
枯れ葉を叩きながら
こめかみの動脈の
拍動を引きちぎるような
支離を閉じている
 
形あるものの
運命の崩れ
形なきものの
逆説の汚れ
そこにある
神の賜物たちの
ひとつひとつにこめられた
虚像と実像
まっすぐ立った虚像は
かすんでつかみようもなく
はっきり見える実像は
何もかも裏返しだ
 
不確定と確率と
不信が
本質になる世界で
まだ描いている
ほんの戯れではなく
ただ偽りを解きたくて
 
 
  あの夜と病
 
幼いころ
母と汽車の旅
窓から見た
蒸気機関車の
機関室から吹き出す炎
あの夜とともに
 
母の背にいた
幼い頃ではなく
小学生の私がいた
痛くて足が動かなかった
 
癒えていた確かに
進学し就職した
それだけで孝行息子と
恵まれていると喜んでくれた父と母
 
確かに
耳の遠くなった父母に
今更の病は信じられないことだ
私も詳しく説明はできない
でも追い越し
やがて遮るだろう
 
この類(たぐい)は
自業自得のようでもあり
誰も責めようがない
親不孝に親不孝を重ねて
むしろ恥ずかしい
 
勝ったつもりか病よ
だがお前と私が同じ体にいる以上
お前も恥ずかしい代物(しろもの)だ
私が最後に意識を失うまで
勝負だ 言っておくが
私の恥は
お前の憎々しい喜びほど
軽くはない
 
消してみよ
あの夜を
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
嘘吐きは、実でも真でもなく、虚を生きることになるので、結局は、自分を失ってゆきます。自分の、善悪、真偽、美醜が、混乱して分からなくなります。代わりに、だますことだけが残り、だますという虚偽の煙幕の満悦のうちのみに存在して、何も、良いものを追い求めることが出来なくなるのです。
 
 
 
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  ミイラの徘徊(3)2
 
  ★カルト体験 
 (人間観の問題:人は神性を有する神の子だと思い込み過ぎると、
 反省できなくなってしまう?)
 https://blogs.yahoo.co.jp/jiyuu2013/41338653.html
 
コメント欄。いんよう( >、< の部分)は、 シャロームshalom のコメントが大部分で、jiyuu のコメントもあります。二人については、一人の成りすましを疑っています。自由( jiyuu) は、楽山の以前のHNです。
 
 
楽山の古い記事に対する批判を修正して再登校します。シャロームshalom の偽善者としての強心臓が、ずっと表れて続けています。どうしたら、不都合なことが起こっても、起こった出来事の事実そのものを記憶から排除できるのでしょうか。jiyuu は、楽山の、前のHNです。
 
そのような無視の能力を、いったい、どういう経緯で覚えたのか、また、できるんだという確信のもとに、記事を書き続け、コメントを書き続け、偽善の罪状を、天にも地にも積み重ねてゆくのでしょうか。楽山に似ているので、一人の成りすましも疑っています。
 
教会でも目的‐機能論的推理による暴走はよくあります。
教会で聖霊の働きである導き、助けを強調されるとよく分裂、混乱が起こることがあります。霊はなにしろ見えないのですから、たしかにそういう危うさには気を付ける必要がありますね。そのために聖書のみ言葉との整合性をつねに求めることが不可欠だとおもいます。
 
聖書に聖霊や霊感のことが書いてあれば整合性があるというものではないのです。聖なる存在には、常に、恐れをいだいていなければいけません。聖書に書いてあるからと、聖霊の名をみだりに使ってはいけません。
 
使徒パウロは弟子であるテモテに次のように書いています。
新約・第二テモテ
3:14あなたは、自分が学んで確信しているところに、いつもとどまっていなさい。あなたは、それをだれから学んだか知っており、
3:15 また幼い時から、聖書に親しみ、それが、キリスト・イエスに対する信仰によって救に至る知恵を、あなたに与えうる書物であることを知っている。
3:16 聖書は、すべて神の霊感を受けて書かれたものであって、人を教え、戒め、正しくし、義に導くのに有益である。
3:17 それによって、神の人が、あらゆる良いわざに対して十分な準備ができて、完全にととのえられた者になるのである。
 
「とどまっていなさい」とは、シャロームのように固定して訂正不能でよいということでは決してありません。「だれから学んだか知っており」「あらゆる良いわざに対して十分な準備ができて」とあるように、学んで準備をする務めがあるのは言うまでもないことです。
 
「完全にととのえられた者になる」・・目標と考えるべきです。すぐになる、今なってる、という証拠はどこにもなく、今の自分を深く考えられる人は、決して完全に整っていないと実感として分かるのです。不完全な罪びととしては、学習可能、修正可能であることが必須なのです。
 
聖書は信仰によって救われることで、整えられたものになる、と聖句は言っています。ここは、聖書に書いてあると言って悪用する者がいます。シャロームが載せていない直前の聖句を見てみると、
 
 (テモテへの手紙、口語訳)
3:12
いったい、キリスト・イエスにあって信心深く生きようとする者は、みな、迫害を受ける。
3:13
悪人と詐欺師とは人を惑わし人に惑わされて、悪から悪へと落ちていく。
 (テモテ3:12-13、新約聖書)
 
つまり、自説を正当化するために、聖書に書いてある、書いてあると、だらだら無駄に長い文章を書いて、「惑わし」悪用をする者がいるということです。まさに、「悪から悪へと落ちて」いるのが、楽山とシャロームであります。
 
ほかにもたくさん聖霊について書かれています。イエスさまも死を前にして弟子たちに聖霊の来臨とその働きについて話しておられます。イエスさまを信じる信仰は人から生まれた思想ではありませんから、神の言葉である聖書という土台抜きにはあり得ないのです。
 
「神の言葉である聖書という土台抜きにはあり得ない」と、その通りに自分には聖霊が降りていると言いたげに、神聖の保証のみを根拠とする人は、人間としての説得の根拠を持たない人ですから、信用してはいけないと思います。人間は人間としての学習と成長への努力が必要です。
 
「人から生まれた思想では」なく、神の言葉なら、楽山とシャロームは、まさに、神の言葉を、曲解して、無条件の自己正当化に悪用しているということです。神の言葉に対して、恐れをいだかないで決めつける者は、このように偽善の迷路に堕ちてゆくのです。
 
(自由さん)
「絶対神がいるなら全ては予定されてるだろうし、絶対神がいなくても何らかの法則があるなら全てはニニが四なんだろうなあと。」
神はとことんまで私たちの主体性と自由を尊重されます。カルトのように決して法則で私たちを縛り、支配される方ではありません。私たちは自由に選択し、行動することができますが、決して結果を選ぶことは出来ません。その結果が私たちにとって苦々しい受け入れられない結果であっても、その結果をとおして神は最善の導きをしてくださる方なのです。私たちの弱さや過ちですら、ご自分の祝福の通り管とすることのできる方です。
 
このように、一見、まともそうな意見を書いても、シャロームは、実際は、自己の無謬性を正当化しているに過ぎません。人間の主体性と自由について、シャロームは、相当に軽視してきたと思いますが、ここでは、手のひらを返したように、神が主体性と自由を尊重すると言っています。
 
しかも、その結果を通して神が最善の導きをしてくれると言っています。さて、シャロームは、悔い改めない罪と偽善に塗れていますが、その偽善が神の祝福の「通り管」だとでも言いたいのでしょうか。シャロームは、神を恐れぬ冒涜者です。
 
確かに私たちが罪を犯せば、その罪が私たちの苦い結果をもたらしますが、神はその苦みをとおして、私たちをご自分のみもとに引き寄せ、み言葉の真実を証しし、私たちの信仰をみことばしっかり結び付けてくださいます。信仰は聞くことから、聞くことはキリストの言葉からという聖書の言葉だと書かれています。
 
神を賛美しているつもりのようだが、実際は、自分を正当化するために、神を利用しているシャロームです。シャロームの罪と偽善は、苦い結果によって、シャロームを、神のもとに「引き寄せ」たでしょうか。いいえ、今も、神の名を、自分のために、悪用し、けがしています。
 
根拠として、神に引き寄せられたのなら、今までの罪と偽善を悔い改める発言があるはずですが、シャロームは、相変わらず、悔い改めた発言も様子も示さないまま、ここに、まともなつもりで、説教を書き続けていることが、そのことを明確に否定しているのです。
 
神はすべてのことを相働かせて益としてくださる方だとも聖書にかかれています。全ての道で主を認めよ、そうすれば主はあなたがたの道をまっすぐにされるとも書かれています。
どんな弱さも失敗も神には神の恵みをあらわし、祝福としてくださいます。
 
シャロームが、神が尊重すると言った人間の主体性と自由において、神はすべてのことを相働かせて益としてくださっているでしょうか。道は真っ直ぐになったでしょうか。いいえ、何も益とはならず、真っ直ぐにもなっていないのに、シャロームは何事も無かったかのように説教しているのです。
 
シャロームの言行も因果も矛盾しています。「どんな弱さも失敗も神には神の恵みをあらわし、祝福としてくださいます」・・弱さと失敗を自覚して祈るのではなく、シャロームは、故意に悪と偽善を働いて慢心しているのだから、全く違います。嘘と詭弁です。
 
弱さも失敗も、正直に告白して赦しを祈る精いっぱい誠実な信仰者にとってだけ、神の恵みは顕れ、祝福となるのです。つまり弱さや失敗が、成長の糧になってゆくのです。シャロームは、罪を認めておらず、ゆえに、赦されておらず、ゆえに、神の恵みを知りません。
 
シャロームは、罪と偽善を悔い改めず、罪悪感も抱かず、まるで気にせずに、白々しい説教言葉と聖書語を言い続けているあいだ、悔い改めない者として、偽善者のままであり、ますます、ペテン師らしく、平気で嘘を吐いて回るようになってゆくのでしょう。
 
 
 シャロームの詭弁を、もう一つ、ここに書いておきます。
 自由さん「アドラー心理学」コメント欄より。
 https://blogs.yahoo.co.jp/jiyuu2013/41368232.html
 一部編集。
 
(シャローム)
口語訳ロマ2:1~
2:1 だから、ああ、すべて人をさばく者よ。あなたには弁解の余地がない。あなたは、他人をさばくことによって、自分自身を罪に定めている。さばくあなたも、同じことを行っているからである。
2:2 わたしたちは、神のさばきが、このような事を行う者どもの上に正しく下ることを、知っている。
2:3 ああ、このような事を行う者どもをさばきながら、しかも自ら同じことを行う人よ。あなたは、神のさばきをのがれうると思うのか。
2:4 それとも、神の慈愛があなたを悔改めに導くことも知らないで、その慈愛と忍耐と寛容との富を軽んじるのか。
2:5 あなたのかたくなな、悔改めのない心のゆえに、あなたは、神の正しいさばきの現れる怒りの日のために神の怒りを、自分の身に積んでいるのである。
 【口語訳】二コリ
7:10 神のみこころに添うた悲しみは、悔いのない救神のみこころに添を得させる悔改めに導き、この世の悲しみは死をきたらせる。
―――――――
(シャローム)
悔い改めは人が人に要求できるものではなく、神が与えられる恵みです。
2018/10/4(木) 午前 8:03 [ shalom ] 返信する
 
「悔い改めは人が人に要求できるものではなく、神が与えられる恵みです」・・悔い改めは誰がするのでしょう。あるいは、人は、魔法のように、ロボットか操り人形のようになって、悔い改めるとでも思っているのでしょうか。恐ろしい詭弁です。
 
正しい裁きというのは、神という絶対者が、多くは強制的に、背く人に対して下すものです。人が、自分を絶対の正義に置き、誰かを悪と決めつけて、何らかの制裁を下すなら、神に背いたゆえに裁かれるということを聖句は教えています。まさに、シャロームに「弁解の余地がない」のです。
 
それに、私は、シャロームに、悔い改めを要求することは、ほとんど諦めていて、それよりも、他の人々が巻き添えを食わないように、シャロームと楽山の、悔い改めない罪と偽善を指摘する方向に変えています。神は、いつまでも黙っておられるわけではないのです。
 
シャロームが、聖句を故意に曲げて、何をやっても救われるという極めて安易な解釈に凝り固まっているのです。シャロームの前提には、自分の絶対正義があり、ゆえに、聖句を引用すれば、逆に、その目的も解釈も、神の御心に背くものとなって、訂正不能になっているのです。
 
私は絶対の正しさなど持っていないので、言論によって、シャロームの誤りや矛盾や詭弁や卑怯さなどを指摘してきました。ゆえに、裁くということとは明らかに違います。私は、その時々に、遠慮なく書いているだけです。私は、年老いても、なお、学習したいからです。
 
シャロームも楽山も、注意して読んでおれば、詭弁だと分かるようなことを言っています。全て正確に見抜けるわけではありませんが、どうみてもおかしい、ということについて、指摘し批判してゆかないと、だまされる人が出てくるでしょう。それが、彼らの世渡りですから。
 
シャロームは、聖句を悪用して、批判者が裁いていると決めつけて、悪い印象を植え付けようとしているだけです。その決めつけこそが、聖書の悪用であり、裁いている思考と志向なのです。絶対ではない自分を知っているなら、悔い改めるはずです。シャロームは、全く、その逆です。
 
「神の慈愛があなたを悔改めに導く」「神のみこころに添うた悲しみは、悔いのない救神のみこころに添を得させる悔改めに導き」という聖句は、神の慈愛を受け取った人は、その愛ゆえに悲しみを癒やされ、世俗から、神のほうを向き、正直に、祈り、悔い改めて、罪を赦されるということです。
 
シャロームは、教条的に、言葉の辻褄だけで、神が導く、という言葉を吊り上げて、悔い改めは神が与える恵みだと言っています。上の聖句によると、恐らくずっと前から、悔い改めたことのないシャロームは、神の慈愛を受け取ったことがないということで説明がついてしまいます。
 
シャロームは、聖句を、何でも自己正当化の思い込みの辻褄と教条だけで受け取って、上のような聖句を悔い改めないことの根拠にしたいようですが、実は、せっせと墓穴を掘っているということです。私は、ただ、シャロームの詭弁の影響を誰も受けとらないように、批判記事を書いています。
 
シャロームや楽山の詭弁は、受け取る心、即ち、地上にあって恵み宝を受け取って入れることも可能な土の器に比喩される人間の良心を、欠片も持っていないシャロームの、悲しみを知らず、神の慈愛もキリストの共感もキリストへの共感も知らないことからの必然であります。
 
私は、もはや信仰ももないのに信仰?を語っているつもりの、立場のない泥濘(ぬかるみ)を徘徊するミイラのようなシャロームにも楽山にも、悔い改めを要求するのではなく、批判して、その嘘と詭弁を指摘して、敷衍(ふえん)し、かつ、全否定してゆくだけです。
 
シャロームは、「罪は悔い改めなくても許されるから気にしなくていい」「悔い改めは神が与える」というキリスト信仰とは真逆のことを言って、馬脚をあらわしました。シャロームは、偽牧師です。神を恐れぬ所業を、神は、御目の前に見ておられるのです。
 
楽山とシャロームは、キリスト教はお伽話を信じることだと、アーメンソーメンだと、軽く考えているような、全くの無理解の輩です。ゆえに、シャロームは牧師に成りすまし、楽山は、キリスト教批判をする思想家気取りなのでしょう。まさに、亡者、あるいは、恐怖のミイラなのです。
 
楽山とシャロームは同一の成りすましの可能性もありますが、いずれにしても、そういうペテンが、結局、いつどこにおいても成り立たないことを、結果として知らされる定めなのでしょう。前触れもなく、今の地上なのか、終末なのかも、人には予知できない、恐ろしいことなのです。
 
 
 
※ TVドラマ「クリミナルマインド」の格言から
 
 
庭には、植えたつもりのない物の方が多く育っている。(スペインのことわざ)
 
 
物事は見かけ通りとは限らない。見かけにだまされる人間は多い。ごく少数の知恵のある者が、巧妙に隠された真実を見抜くのだ。 ファイドロス (S4#4)
 
経験は残酷な教師だが、人を大きく成長させてくれる。 C・S・ルイス(S5#13)
 
人は嘆き悲しむからこそ人間なのである。 アントニオ・ボルキア(S6#20)
 
 
ぬかるみ

泥濘(ぬかるみ)
 
 
(2019年01月31日、同日一部修正)
(2021年12月20日、再録+)
 
 
 
キーワード:偽
 
 
  森の叫び
 
霧の酸を散らし
薬の雨を浴びる
森の叫びよ
かつて空気を水を浄化した
森の面影よ
迷い込んで途方に暮れて
蹲(うずくま)る旅人に告げよ
この地は最早(もはや)
旅人を癒す泉も潤いも持たず
刹那の益に流された血と汗と油と
股間を擦(す)り抜けた風の
腐敗の住処(すみか)になるのだと
砂塵を防いだ森林は
砂塵によって妨げられる
変わり果てる色彩は声よりも叫ぶ
 
滅びゆく森の最後の叫びは
乾いた砂の咽喉から病んでゆき
木々は虫食いの古文書に記(しる)され
果実は偽りの花押となって落ちてゆき
古びた墓碑が
眠らない屍の埋もれる砂の中に倒れていると
 
 
  偽りの時間
 
巷に時間を売る商売の流行るころ
深緑の儒学の森を歩いて
樹木のまばらな所を見つけて
根っこに腰掛けた
 
地面が枯れ葉に覆われているのを
おかしいとも思わないで
拾った汚い画集を
逆さと気づかないまま
ゆっくり開く動作をしながら
吸えるだけ空気を吸った
 
そして死なずにいてくれた人たちのために
用意することのできなかったものを
死んでしまった人たちのために
背負うことのできなかったものを
偽りの指で数え始めて
呟く ごめんよ
まだ何気ない一言で
壊れてゆく人がいる
戻れない洞窟もたくさん残っている
ボンベが閉められたらしい
この森についていえば作り物かどうかを
誰も知らずに来ている
巷の時間を買えなかったんだ
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら 誤ったら 素直に詫びて 自分 正さなくちゃいけない」「それが出来て 初めて人間だと それ出来ないなら 人ではないと」「嘘ばかり 重ねる君よ 保身だけの 卑怯者の君よ そんな君は 魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと 最大限の反省と共に 開いた出店を 畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
誰かが注意しても、聞く耳を持たない楽山は、反省も謝罪もしておらず、邪悪な性根の根深さが治りません。「人間の性」「自分もそんな風です」などと言って、人間一般のように、醜い詭弁の言い訳をしていますが、そういう話ではなく、楽山固有の悪と罪と偽善なのです。
 
 
 
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  楽山の猿真似芸
 
 『私と宗教』渡邊直樹編
 2021年10月09日 楽山日記(LD)
 
 
楽山の、身の程を知らず、言葉の重さをはかることも出来ない人格障害が表れています。このようなやり方で、宗教、信仰、スリピリチュアル、政治、思想などを、好きなように、自分は分かるんだとばかり、吹聴してきました。何一つ、楽山自身のオリジナルはないのです。
 
*概要
本書は、宗教をテーマにしたインタビュー集である。インタビューを受けているのは、高村薫、小林よしのり、小川洋子、立花隆、荒木経惟、高橋惠子、龍村仁、細江英公、想田和弘、水木しげる。
*金光教
個人的には、本書に収録されたインタビューの中で、もっとも情緒を刺激されたのは小川洋子のものだった。まず第一には、小川洋子の信じている金光教の「お取次」のやさしさである。「お取次」では信者の話を神様に伝えてくれるらしいのだが、その際はああだこうだとお説教をしないで黙って話を聞いてくれるらしい。これは信者からしたら有り難いだろうと思う。
 
「黙って話を聞いてくれる」人が大好きなのは、楽山に他なりません。何故なら、疑問にも、批判されても、楽山は、何も弁明できないからです。楽山自身に対して、やさしくて、楽山を無条件に盲信する人を、楽山は求めているのです。そのために、楽山は、こういう記事を書いてきます。
 
金光教は布教活動に積極的ではないという話も興味深かった。その理由は、「世界にはキリスト教が必要な人も、ユダヤ教が必要な人も、イスラームが必要な人もいる」「金光教が必要な人は向こうから来るという考え方」をしているからだというが、これは神を信じ、人を信じているからこそなのだろうと思う。
 
「必要な人は向こうからくる」でしょうか。何も知らされないで来るでしょうか。人間は伝える努力をするべきでしょう。楽山は、伝える言葉を持たないので、インチキや、三文芝居や、詭弁や、ウソまで言って、人を釣ろうとしてきます。だから、楽山は、こういう記事を書くのです。
 
*宗教を信じてるなんて…
他に刺激を受けたことはといえば、知的方面では、高村薫と立花隆の話が愉快だった。
まず高村薫がいうには「宇宙のすべての存在というのは、目に見えないごく小さな素粒子が永遠に運動を続けている」「死んで灰になっても消えたわけではなくて、素粒子はどこか別のところに移動して、また消滅を繰り返す。これが私の中では仏教の「空・縁起」の世界にものすごく近いんです」とのことである。ものの材料となるものが何らかの法則によって離合、集散、構成、分解ということを繰り返しているというのはよく分かる。
 
小説家の高村薫と評論家の立花隆の、自ら証明したわけではないところの、物理学談義を広げているかのような話は、想像力を掻き立てる話として書いているわけです。したがって、そのまま、真理として分かる話ではありません。
 
こういう談義を、楽山のような、一気に偉くなりたいだけの自己顕示欲は、まるで、真理を得たかのような「よく分かる」という賛辞を送ります。これで、真理が分かったことにされては、たまったものではありません。
 
楽山は、自身の、蚤のような器に納まれば、神のような真理を得たと思う人だということです。楽山の浅薄さにすっぽり納まるので、楽山は分かると言っているだけなのです。つまり、幼稚な話以外には分からないということを、楽山自身が白状しているということになります。
 
立花隆の話では、宇宙全体のうち、光で認識できるのは4パーセント(望遠鏡で分かるのはその半分)、あとは光で認識できない暗黒物質23パーセント、暗黒エネルギー73パーセントだという。さらにこういうことに関心がある立場からすると、「宗教を信じてるなんていうのはばかみたい(笑)」なのだそうだ。これはさすがに言い過ぎではないかとは思うが、心の癒やしを求めるならともかく、世界を理解するためには宗教より科学の方がよく、これを反対に考えるのはどうかしているというのなら理解できなくもない。
 
持ち前のボンヤリ言語「理解できなくもない」という言い方で、楽山が刷り込もうとしているのは、結局、「宗教を信じてるなんていうのはばかみたい(笑)」ということでしょう。評論家の軽率な発言を、楽山は、自己の正当化と美化のために、悪用するのです。
 
楽山は、自己愛性パーソナリティ障害NPDなので、罪悪感がなく、恐れを知りません。楽山が、有名人の発言を、ケースバイケースで重みを分けることもなく、専門分野の区別もしないで、大仰に褒めるとき、必ずと言ってよいほど、下種な刷り込みの狙いがあることを知ってください。
 
 
真似をする猿の赤いケツ

真似をする猿の赤いケツ
 
 
(2021年10月10日)
 
 
 
キーワード: 真似
 
 
  末路に立つ
 
人が生きている
と言えるほどに
私は生きているだろうか
人が死んだ
と言えるほどに
私は日々死につつあることに
気づいているだろうか
ああ何という末路に立って
情の絡みをほどこうとしている
舌の痺れか
目の回転か
手足の不随意か
肉体は常同の仕草で
ところかまわず真似続けるのだ
人が生きている
と言えるほどに
私に殺すべきものがあったかどうか
 
 
  悪い奴め
 
好きなことをすればよい
今なら暇(ひま)はいくらでもある
いくらか貯(たくわ)えもある
 
好きなことをすればよい
テレビもある
バイクも車もある
足まである
 
好きなだけ影を踏みなさい
好きなことをすればよい
印鑑もある
パスワードもアドレスもある
家まである
 
好きなだけ光を取り込みなさい
何でも好きなことをすればよい
 
物があって範囲が決まる
場所があって動かない
免許があって限られる
 
それら皆かつては
手の届かなかった自由たち
 
暇はある時間はズレる
写真はいつも手配される
鏡はいつもこの眼を見ている
好きなこと好きなこと好きなこと
免許はいずれ無効になる
貯えはいずれ底をつく
手はいずれ後ろに回る
 
見苦しい真似(まね)はせず
文句は言わない人には温和に
ひっそり乱れて暮らす
衣食は倹約無精大好き
 
でも光に写せる影がない
影に成り立つ人がいない
光に倒れる影ばかり
影に潜む陰(かげ)ばかり
 
 
  祈り・最後の誘惑
 
最後の最後が訪れたとき
耳元で囁(ささや)く者がいるだろう
イエスはキリストと呼ばれるほどに
偉大であったかもしれないが
そのイエスが
誰にも真似のできないことを行い
真似のできないことを言ったがために
お前はキリストの幻想に騙(だま)されたのだ
 
未来があったとしても
過ごす間は耐えがたく
過ぎてしまえば束の間に過ぎない
もうこの歳で
良い未来が待っているとは思えないけれど
そんなこの世の未来以上に大切な
現在の希望を失うことなく
自分の過去と人生を
思い込みの不幸で塗り潰さないために
死を視ること帰するが如し
 
その囁きに対して
永遠の友なるキリスト
我が慕いまつる主
イエス様になら騙されても構わない
 
父なる神の御手のうちに
壊されるのが望みである
と言えるほどの信仰だけを下さい
 
私を絆(ほだ)して下さい
そして離さないで下さい
 
悲しみだけではない時を
知るでありましょう
 
 
 
 
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  楽山の本性(3)2
 
 信者ブログを見たけれど 3(st関連)
 2020年09月02日 楽山日記(LD)
  改めて批判。
 
 
(3)から先にアップします。私のことが書いてあるからです。
 
露骨に攻撃に転じている楽山です。楽山が付けたリンク先の記事は、かなり前のものです。恐ろしく長いのがあり、今は、今が問題です。批判したかどうかも忘れていますので、リンクURLは省略します。
 
楽山は、昔はあんなに愛されたのに、とでも言いたいのでしょうか。
 
*どっちが本当?
元記事は読んでないのだけれども、これはst氏が言っているということだろうか。
幸福の科学とは無関係のキリスト信者からも、お前はキリスト教を信じてないではないかと批判されています
 」
それなら、過去のst発言を貼っておく。
1. st5402jp2018年08月31日 04:37
一応キリスト者のつもりの私より、自由様は、立派な教理と解釈の説明をなさっておられるのに感心します。
 」
 
楽山を批判するようになって、はっきり調べてはいないけど、約2年半くらい?経つと思いますが、それより前は、楽山を信頼しようと思って好意的なコメントも書いていたのです。それが、上のコメントなのでしょう。それを、見事に裏切ったのが、楽山であります。
 
そういう気持ちが最初あったから「キリスト者のつもりの私」は、謙譲のつもりに他なりません。つまり、私は、完全に間違えたのです。私は、間違いを認めます。私は、楽山の丁寧語に、すっかりだまされていました。この過ちについては、神様にも、人にも、申し訳ないと思っています。
 
ちなみに、もう一人の批判対象である偽キリスト者&偽牧師のシャロームについては、10年ほど批判してきましたが、その前、数年間は、聖書の先生だと思っていて、だまされていたことを告白いたします。この二人がいるために、私の批判は、やめてはいけないものとなりました。
 
私は、容易に、だまされますが、いつまでも、だまされていてはいけないので、批判しています。この私の動機は、言うまでもなく私の信仰によるのです。シャローム shalom と楽山という、ひどい偽善者に、誰も、私のように、だまされてはいけません。
 
シャロームは、ヤフー終了後、所在不明であり、時々、"名無しの猫" などというHNで、ライブドアの私のブログを荒らしに来ました。そのシャロームの荒らしコメントについては、その都度、批判記事を書いてきたつもりです。
 
加えて、ということになりますが、アブラハムが息子イサクを神への生贄とするために殺すという行為が、たとえ神の正しい命令であったとしても、人間がそれで、はい、理解しました、と言ってしまうのはおかしいという考え方を私はしています。聖書を読んでいると、正直言って、神の正しさを、いつも人間が理解できるとは思えないのです。だから、ここは保留するべきという主張になりました。
 」
 
ここについては、ヤフーブログ時代の、キリスト教を名乗るカルトである自称ヨシュアと自称マグダラマリアのブログについてのことです。この二人は、聖書の戒めを守って完全になれる、という冷血の行為義認を信条とする間違いだったので、批判対象となりました。
 
行為の善悪ではなく、また完全になるからでもなく、罪深い人間として、信仰のみによって救われるというのがキリスト教です。信仰義認と言われます。そのことを、楽山は、全く理解できませんし、理解しようともしません。自己愛性パーソナリティ障害NPDだからでしょう。
 
つまり、アブラハムが息子イサクを殺そうとしたのは、神の命令だから正しいと、無条件にアブラハムを完全な義人として書いていたことを批判したことがあります。信仰は、人間性を失うことを正義とするようなことはありません。
 
聖書では、息子イサクを殺そうとしたアブラハムを、神が止めるという話ですから、アブラハムが完全ではないことは明らかです。神の義と、人の義は、違うということです。ふつうに言われる正義と、信仰の義は違うということです。
 
信仰の義は、神の前に正直に祈ることです。人の前ではありません。単なる善でもありません。ゆえに、娼婦も、不倫を犯した女性も、十字架上の犯罪人も、救われました。彼らは、キリストの前に、隠し事をしなかった、できなかったからです。楽山とは真逆なのです。
 
楽山は、まだ、2年前に自称ヨシュアの言ったことを信じているようです。学習しないというのは、こういうことに表れてくるのでしょう。楽山みたいに、過去の罪を忘れて同じことを繰り返し言うだけの廃人にはならないようにという動機で批判を書いています。
 
*自分教
これはおかしなことになっている。
キリスト教を中心にやっている人からも、ニセモノと言われるような態度では、やはり、幸福の科学から逃げても、自己都合のエセ信仰に頼っている、自分教信者でしかないのだな、ということでしょう。
 」
どうやら、LEO氏は、st氏は教会には通わず、聖書も通読していないということを知らないようだ。だから自分教信者を信頼しながら、自分教を批判するという、おかしなことをしている。
何はともあれ、これによって、LEO氏は、自分教を批判するけれども、自分教者かどうかの見分けがつかないことがわかった。
 
教会に入っていません。集団が苦手だと判断したからです。聖書は、折に触れて、ネットで読んでいます。聖書も全部読んではいません。祈りは、折に触れてしています。しかし、このようなこと、信仰者でもない楽山に、とやかく言われる筋合いはありません。
 
それに、教会に通わず、聖書も通読していないと、キリスト者ではない、という楽山の偏見と先入観は、ひどいものです。それで、自分教信者だと決めつけています。もはや、楽山は、最低限の判断力の冷静さも捨て去って、いちゃもん攻撃に専念しているようです。相当な悪意が表れています。
 
結局、この短慮からの攻撃性、これが、楽山の正体です。楽山は、思いやりや配慮など全くできない自己愛性人格障害であり、冷血、かつ、とても情けない人なのです。
 
*ダブスタ
ここもおかしい。
こちらのブログ主はキリスト信者だそうですが、この方も、ここでわたしが指摘している退転アンチに大迷惑をこうむった方のようで、延々と該当アンチのことを批判し続けているようです。
おかげで、ああ他にも批判している人が、幸福の科学信者以外でもいるんだな、と知ったわけですが、
 」
st氏は、ヤフーブログの一部では、ネットストーカーで有名だった人だ。たしか6年だったか、8年だったか、shalom氏をストーカーしていたという。現在、自分は、氏のブログは全然見なくなったが、それでもその状態はおよそ見当はつく。
 
「ヤフーブログの一部では、ネットストーカーで有名だった」・・どういう一部だったのでしょう。そういえば、ヤフーでは、楽山やシャロームshalom以外にも、いろいろなHNの荒らしが攻撃してきました。しつこいのもいました。特徴的に、訂正不能の罵詈雑言でした。
 
その荒らしのHNをあげてみると、shalom、楽山(=自由)、易坊・・以外には、駅坊、tensoba、こうさん、変心忍者荒らし、pci*****、A、α、ルシフェル、アルファ、まほろば、htakabo、rut*****、関西人、・・などです。楽山のハケ口なのでしょうか。
 
罵詈雑言は、自称ヨシュアと自称マグダラマリアも、同様です。
 
小芝居が得意なつもりらしい楽山は、他人に成りすますのが好きそうですから、ひょっとして、これら、荒らしとカルトのHNも、全部、楽山の自作自演ではないかとさえ思えてきます。
 
ヤフー時代の、スクリーンショットからです。今になると、ひょっとして、全部、楽山の成りすましではないかと、今は思っています。楽山が、この記事もそうですが、思っていたよりも、凶暴だと分かったからです。でっち上げの悪口ばかりです。
 
楽山が、私を、ネットストーカーだと言っているのは、私がシャロームを10年批判し続けているからという理由以外にはありません。批判した理由は、シャロームが、批判を受け取らず、嫌がらせだけを返してくるような、楽山に似た人種、すなわち、自己中で無反省の反キリストだからです。
 
批判者をストーカー呼ばわりする楽山です。批判とストーキングを一緒にするとは、楽山は、実に、次元の低いところで、文句を言っているわけです。シャローム、楽山、易坊、という3人も、同一の成りすましではないかと疑っています。
 
楽山のこの記事も、批判をまともに受け取ることが出来ないために、批判に対して正当に弁明を返せないから、手段を択ばず、悪そうに見える材料を探してきて、文句を言っているだけなのです。
 
楽山は、シャロームの、罪は悔い改めなくても赦されるから気にしなくていい、という反キリストとしか思えない信条に賛同したということも、楽山批判の、そして、楽山の知性と感性を疑う動機の一つでした。
 
LEO氏は普段は粘着ストーカーは悪としながらも、論敵が延々ストーカーされるのはよしとしているのだからおかしい。
こういうところをみると、LEO氏は真理に忠実であろうとするよりも、論敵を叩けるなら何でも有りの人だとわかる。
 
批判者を、粘着ストーカーと決めつけることしか出来ない楽山です。このような幼稚な決めつけをするのが楽山の特徴ですが、それは、楽山が、完全に宗教を舐めているからです。ああでもないこうでもない、という感じで、中身がなく、粘着した筆致は、むしろ楽山の特徴です。
 
*仲間
ここで、LEO氏は、st氏に賛同している。
この方の該当アンチ批判、いくらかを読んでみましたが、当たっている批判が多いと思えました。
退転した悪質アンチよりも、(別に幸福の科学信者ではないけれども)キリスト教信者であるこのブログ主の方が、遥かに正直で素直、純粋に信仰を述べて、該当アンチを切り捨てています。よほど不愉快なことを過去にされたようです。さもありなん、あのアンチならやりそうなことです。
 」
意見が合うなら、二人は仲良くなれるにちがいない。LEO氏はブログでたくさんキリスト教の記事を書いているし、案外、st氏はこれを読んで感化されて、HSを信じるようになるかもしれない。
 
これも侮辱と言っていいでしょう。まともに返せなくなると侮辱してくるのは、楽山もシャロームも同じです。楽山は、そういう野蛮な性質を隠してきましたが、もう隠せなくなったようです。これによって、今までの楽山の、丁寧語も、やさしさ芝居も、嘘だとバレることになります。
 
既にキリスト者である私について、楽山批判という共通点だけをもって、「二人は仲良くなれるにちがいない」「HSを信じるようになるかもしれない」などと言って、楽山は、自分が有利になるとでも思っているのでしょうか。退行し破綻して嫌がらせしか言えなくなった低劣な楽山です。
 
*経緯
一応、st氏との経緯を書いておこう。
自分はヤフーブログ時代に、st氏のshalom批判を読んで、shalomという人からよほど酷いことをされたのだろうなあと気の毒に思ったのだった。またその宗教観にも一理あると思った。それで交流するようになったのであるが、その後の顛末は、こちらにまとめてある。
 
私は、楽山の「一理ある」等々の肯定を、今は全く信用していません。シャロームは、楽山と同じように、批判に反論も弁明も出来ないので、嫌がらせだけをしてきました。こういう人に、信仰者も求道者も近づいてはいけないというのが批判の動機です。
 
そして、この1年半、楽山についても、ほぼ同様の動機と理由によって批判しています。この楽山とシャロームのような無反省の者に対しては、彼らを変えようなどと思わないほうがいいです。病的な精神疲労が残るだけです。
 
ですから、批判対象を変えようとするのではなく、批判対象に誰も近づかないように、一般読者に伝えたいという強い動機を持つことが大事です。そして、出来ることをする、出来ないところは無理をしない、という心構えが大切です。
 
以下は、いちいち批判している暇も気力もないので、リンクは省略します。
 
・st、楽山 問題を振り返る - 楽山日記
・st、shalom 問題を振り返る(追記、加筆修正アリ) - 楽山日記
楽山の言うことは信用できないというなら、マグダラのマリア氏の記事を読めばいい。
・追記あり、批判ストーカーされてます。
・ヤフーブログでは、批判して、、、他人を攻撃したりするための、ブログ利用は禁止事項。
・追記 裏でクリスチャン潰しをしてた人、。
ひさしぶりに、マリア氏のブログを見たら、こんなことを書いておられた。
 
(自称マグダラマリアの記事より)
【禁止】いやがらせ、悪口、脅し、あるいは有害な内容の掲載など、他人を攻撃したり、傷つけたりする目的で利用すること
Yahoo!ブログでは、特定の他人への攻撃や、参加者同士の誹謗中傷を禁止しています。
 」
 
私も、ときに辛辣な比喩を書きますが、批判は、「嫌がらせ、悪口、脅し、あるいは有害な内容の掲載など、他人を攻撃したり、傷つけたりする」ことを目的としてはいません。また、誹謗中傷が目的でもありません。
 
批判は、不正だという指摘が主体であり、それにもかかわらず不正が続く場合には、きびしくなり、長く継続するということです。楽山が答えないし改めないゆえに長く続いている批判を、自己愛性人格障害の楽山は、ストーカーと、とても、幼稚な、原始的な決めつけをしてくる人です。
 
楽山は、批判と中傷の区別が、以前から、付いていません。これも、楽山の無反省からくる訂正不能の未熟さなのでしょう。だから、楽山本人を説得するのではなく、楽山ブログに近づかないように、むしろ訪問者に、楽山の不正を継続して説明する記事になっています。
 
上のような中傷だという決めつけは、楽山とシャロームに共通してみられる特徴です。つまり、文章の読解力がないか、反論や弁明を返せないかのどちらかです。
 
・人の意識が変われば
これはなかなか意味深だな。
 
自称マグダラマリアは、上では、やさしい言葉で書いているようです。しかし、批判者に対しては、驚くほど豹変して、荒っぽく「プププ」「けろっ」などという異様でグロテスクな書き方で、あざ笑い、決めつけてくる人でした。やさしさは、見せかけでした。
 
それにしても、楽山は、よほど、まとめて悪口が言いたいのか、今回の問題とは直接関係ない人を、平気で巻き込んできますね。よほど援軍が欲しいのでしょうか。
 
*おしまい
ふう、やっと、ここまでたどり着いた。
ほんといえば、まだ書き残したこともあるのだが、それはまたいつか機会があればということで…。
とりあえず、今回はここまで。
 
楽山は、悪口漁(あさ)りの果てに、いったい、どこに、「たどり着いた」つもりでいるのでしょう。荒らしとしての本領を発揮するつもりでしょうか。どうか、楽山には、決して関わらないでください。そのためにも、決して近づかないでください。
 
なお、楽山とシャロームの関係は、シャロームと一緒に私を攻撃してきた荒らしの易坊を加えて、一人の成りすましか、親族か、などを疑っています。ネットの性質上、証明できませんが、否定の証明も出来ないのです。少なくとも仲間として振る舞っていることは確かです。
 
 
 楽山が追記しています。細長い画像2つ、おかしいです。
 
*st自由同一人物説
今回のことで、ヨシュア氏のst自由同一人物説を思い出した。自由(楽山)の文章は、キリストを信じたことがないと書けない文章だ、その他にも二人の意見には共通項がある、自由の正体はst氏だ!というような主張だ。
 
自由、というのは、楽山の以前のHNです。自称ヨシュアは、キリストを信じているつもりの人です。実際は、ガチガチの教条主義で、聖書の教えを守って完全になれると言っていました。要するに、完全になりたがる信条だから、キリスト信仰ではありません。
 
読む人のことなど考えない楽山が貼り付けた見苦しく黒く長い画像は、以前の、ヤフーブログのときでしょうか、自称ヨシュアが、あと何日だ、とか、私を呪っていた頃の話でしょうか。2018年の夏から秋にかけてだったか。
 
私と楽山が同一のようなことが書いてあります。私は、もちろん、気色の悪い自由(楽山)ではない。謝罪しろとも言っているが、身に覚えのないことだから謝罪はしない。私は、むしろ、自称ヨシュアも、自称マグダラマリアも、楽山ではないかと思い始めています。
 
あと、なんだか説教してきているようだが、覚えがないか、忘れているのか、自称ヨシュアに、とやかく言われる筋合いはないのですが、今さらのように、それがどうだと楽山は言っているのでしょう。楽山は、こちらを攪乱したいのでしょうか。無駄だと思います。
 
これは、いま読み返しても、おかしな主張だと思うが、ヨシュア氏側が繰り返していたst氏の粘着批判は迷惑だというのは正当な言い分ではある。でもアブラハム関連の議論については、自分はやつぱりst氏の方に理があるとは思うし、ヨシュア氏が議論と関係ない、st氏のプライベートなことを持ち出して、ああだこうだいってたのはよろしくないと考える。あれはst氏が気の毒だった。
 
私は、粘着ではない。楽山をはっきり否定している。くどくど、長いだけの記事を書いている粘着気質は、他でもない、楽山であって、それを、ネチネチ書いてくる・・と、私は今までの批判記事に書いてきました。ここだけ、こちらの肩を持って冷静を装う・・狡猾な楽山です。
 
もっとも、ヨシュア氏側の身になって考えてみれば、st氏の粘着ストーカーに切り返すには、そのくらいの強硬手段に訴えるしかなかったのだろうし、実際それはst氏を退散させるのに効果はあったようだし、止むを得ないことだったのかもしれないな。また当時のヨシュア氏は、自分のためというよりも、マリア氏を守ろうとして奮戦していたのだろうし、あの口調の荒々しさも止むを得なかったのかもしれない。こう考えてみると、あの頃の自分は、ヨシュア氏に対してあまりに厳しい見方をし過ぎていたようだ。反省。
 
すりおろしたヤマノイモを、首に塗りつけるように、気持ち悪く粘着してくるのは、楽山その人であります。思いついたら、整理もせずに、一つの記事に、なりふり構わず、追加で、だらだら書き込むのも、しつこいし、しまりがないと言うべきでしょう。
 
楽山は、深い情緒が欠けていて、思いやる、ということが出来ないので、他者の身になって考えてみることも出来ず、自己の利益を図るための字面の小細工を弄しているだけです。ゆえに、味方したようで、そのあと、逆方向のことを書けるわけです。
 
楽山は、またしても、他者を巻き込んで、混乱させてきます。私について見た目の悪そうな材料を探して、載せては的を外して、結果、どこまでも卑怯者ぶりを見せているだけです。粘着ストーカーではなく、どこまでも無視して逃げる犯人を追いかけています。
 
楽山の反省は嘘です。文脈を見抜いてほしいのですが、楽山は、恐らく今は関わりの薄い自称ヨシュアの、恐らく、ずっと前の記事を利用して、同情を装い、私を、おとしめているだけです。ねちねち粘着して、女々しい当てつけを書いてくるのは、無反省・無責任の楽山であります。
 
楽山は、元々反省する気のない人です。私が、何度も楽山のことを無反省と書いてきたものだから、当てつけて、「反省。」という言葉の字面だけ書いてくる。それにしても、なんて姑息な。楽山の、言葉の字面だけの「反省」で実質がないのは、あざ笑いを向けているのと同じです。
 
楽山は、自身の狭い狭い思考の部屋の中で、広がらない視野と理路を字面だけで無理に広げようとしています。思いつきだけが散乱してゆく定めのようです。誰も巻き込まれることのないように、どうか、楽山に近づかないでください。
 
 
光ではなく暗黒のテカり

光ではなく暗黒のテカり
 
 
(2020年09月04日)
(2021年09月05日、再録+加筆修正)
 
 
 
  世捨て人の
 
世捨て人の夢見るものは
虚無のやさしさで
無為の速度で
自棄の靴紐を絡め
退廃の旅支度を過ごし
厭世の渡し舟を待ちながら
絶望の気道を開いて
暗黒の呼気を促し
怒気の吐息を拾い
悪意の杭を抜いて
憎悪の河に流して
せめて見送れるだけ見送ることだ
 
 
  夜の行き方
 
夜を見ている目に
写らない夜が行きます
夜を見ない昼の目に
写らない夜が映っています
街の片隅
野辺の果て
唇を噛み締めて
拳を握り締めて
蹲(うずくま)る傷んだ黒い筋力が
痛みに盛り上がっていないと言えますか
夜と呼ばれる前に
夜は行くのです
闘いに
だからいつも抵抗する相手がいて
それぞれが独りで
抗(あらが)っては軋(きし)みながら
沈黙のうちに広がる暗黒の肉体を
引き裂こうと引き裂かれようと
潰そうと潰されようと
そうして夜は夜であり続けるのです
 
 
(昔々の・・)
 
 
 
 楽山のツイッターですが
 
心機一転★こも楽山
@komo266
·11時間
ぽん吉さんは、またアンチ諸氏に向けて、無闇に大砲をぶっぱなしまくってる。
一匹狼は悪くなかろうが、カルト批判という立ち位置は同じなんだから、もうちょい協調姿勢をとってもいいのではないかと思います。
午後10:15 · 2021年9月3日
 
大砲をぶっぱなすのは分かりやすいわけですが、楽山は、例えば、水道に毒を混ぜるような陰湿さで侮辱を忍ばせてくるから、より悪質であります。また、楽山は、協調姿勢に見せかけて、責任は一切負わないわけですから、結局、何かの役に立とうという気もないのです。
 
だから、自らの虚無を、教えるような忠告するような書き方をして、共同者のふりをしてきます。実際は、自己愛性人格障害なので、仲間でも、協力者でもないということです。結局、それは、いつのまにか、関わる他者を裏切ってゆくことになり、実質、逃げ回っているのが楽山です。
 
 
心機一転★こも楽山
@komo266
·11時間
それは申し訳ない!
世の中には、さみしいから他人を猛批判する人もいるという話を聞いたことがあるので、
もしかしたら、ぽん吉さんもそうかも知れないと勘違いしてました。
午後10:37 · 2021年9月3日
 
このように、楽山は、他者同士の争いに、客観的で冷静なふりをして、興味本位に、口を出してきます。そうすることで、楽山は、自分自身の問題から逃げているわけです。楽山は、ずっと、そのような態度ですから、信頼など、決してできないことを知ってほしいと思います。
 
 
心機一転★こも楽山
@komo266
·11時間
 >金太郎飴に非ず!
マジレスすると、ぽん吉さんみたいな強烈な個性をもってる人は、金太郎飴になろう、みなと同じくしようとするくらいが丁度いいんじゃないかな。
これだけ強烈な個性をもちながら、さらに「金太郎飴に非ず」として個性発揮に力を入れたら、周囲は全然ついていけなくなるよ。
午後10:51 · 2021年9月3日
 
同じようになってくれたほうが、楽山には都合がよいのでしょうが、余計なお世話のように思えます。余計なことは言うが、必要なことはしないという楽山の特徴が出ています。個性的な人の心配をするより、差し迫って、恐らく誰も全然ついていくべきでないのは、楽山その人です。
 
 
心機一転★こも楽山
@komo266
·12時間
ぽん吉つながりで、へのへのさんのことが話題になっとる…。
老婆心ながら言っとくけど、彼について迂闊なことを書いて逆鱗に触れてしまうと、ずうっと粘着されることになりかねないから、そこは注意した方がいいよ 顔文字(赤くなった顔)
午後10:05 · 2021年9月3日
 
少なくとも、ネットにおいて、理解もしていないのに言いたい放題に言って、あとは無責任に、平気で無視している楽山は、何の注意も払っておらず、その分、立場も何もあったものではないのです。老婆心か爺心で意見して反省もしない楽山は、赤裸になるまで逆鱗に削られてゆくでしょう。
 
 
 
(古い記事は載っていません)
 
http://st5402jp.livedoor.blog/
(古い記事もインポート済み)
 
(ここは、たまにブログ記事をリンク)
 
 
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