ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

タグ:無神論

 
  分かったふう?2
 
 2020年01月30日  楽山日記(LD)
 『ブラインド・ウォッチメイカー : 自然淘汰は偶然か?』
 ドーキンス著、中嶋康裕ほか訳
 
http://mn266z.blog.jp/archives/23315368.html
  の批判記事を加筆して再録。
 
 
ドーキンスという人は、科学者で、無神論者のようです。無神論者には、自分の知性で、必要なものは賄(まかな)える、という、自己愛性の強い人が多いように思います。卑近な例では、自己愛性人格の者は、宗教嫌いの無神論者の楽山と、自分信仰のカルトであるシャロームがいます。
 
(ネットより)
クリントン・リチャード・ドーキンス(Clinton Richard Dawkins, 1941年3月26日 - )は、イギリスの進化生物学者・動物行動学者である。
ドーキンスは率直な無神論者で、宗教批判者である。「無神論は進化を理解することの必然的な延長である」と考えている[35]。また「宗教は科学と両立し得ない」とも考えている[36]。
『盲目の時計職人』では次のように述べている。
ダーウィンの以前に無神論者というものがいたとすれば、その人はヒュームに従ってこう言うこともできただろう。「生物の複雑なデザインについての説明を私は持ち合わせていない。私に分かっているのは、神を持ち出してもそれをうまく説明できないということだけだ。そういうわけで我々は、誰かがよりうまい説明を携えて現れるのを待ち望むほかない」と。そういう立場は、論理的に聞こえはしても、聞く者にとても納得のいかない気分を残すものだし、無神論はダーウィン以前でも論理的には成立し得たかもしれないが、ダーウィンによってはじめて、知的な意味で首尾一貫した無神論者になることが可能になった。[37]
 
神は、学問によって説明する対象ではありません。説明できる対象でもありません。神は、学問のように何かを説明するためにあるのでもありません。神を学問と同列に考えることは出来ません。
 
宗教は信仰のためにあり、信仰は、神を詳しく知るためではなく、人を、むしろ、神との関係において、自他という人間を通して、その存在と当為を、深く知るためにあります。
 
神を信じる信仰は、人間が、神と違って不完全ゆえの罪の性質という限界があることを弁えて、人間らしく生きるためにあるのです。そのために、キリスト教では聖書から、神と違う人間の罪性を学ぶことが必要だという考え方であります。
 
聖書を読んで神のような完全になる・・などというのは、カルトの妄想に過ぎません。
 
本書はドーキンスの代表作だけども、まだ読んでいなかったので、ざっと斜め読みしてみたのだが、自分にとっては程度が高すぎて難しい本である。でもドーキンスの著作はあれこれつまみ読みしているので、見覚えのある論点、お馴染みの話が散見されるのは楽しい。
 
楽山は、自分では、ろくな記事を書けないのか、ドーキンスの記事を借りて、気色の悪い独特な婉曲表現であるボンヤリ言語をもって、神と信仰を否定してきました。狡くて卑怯な人だと思います。
 
楽山にとって「お馴染みの話」というのは、楽山と同じ反キリストの方向を示していると、楽山が勝手に思い込んでいるだけの、神についての極めて安易で幼稚な捏造の筋書きに過ぎません。そこから、一歩も、成長しないのが、楽山の特徴なのです。
 
自分は迷信深い性質なので、こういう本を読んでどうやら神は存在しないらしいと一時的に思いはしても、また少しすれば神の臨在を感じてしまい、無神論にどっぷりハマり続けるということはできないのではあるが、それでもドーキンスの本を読めば、今自分が生きていること、地球上に奇跡としか思えないほどのすばらしい生物があふれていることなどについて、神を持ち出すことなく説明ができるということは認めざるを得ないように思う。
 
楽山が、迷信深いから神の臨在を感じると言っていることを見逃さないでください。信じるどころか、楽山にとって、恐らく最初から、神と迷信は同列なのです。迷信深いのなら、神についても、信仰についても、学問についても、書くことが迷信になるでしょう。
 
楽山は、またしても、神を引き寄せて、自分は特別と思わせたいようですが、実際には「神は存在しないらしいと一時的に思いはしても、また少しすれば神の臨在を感じて」しまうことは、ないと思います。神の臨在を感じたなら信じるはずだからです。つまり嘘です。楽山は、ただ、自分が神聖を感じることができると自慢したいのでしょう。これも、嘘だと思います。症状かもしれません。
 
楽山は、神の臨在を感じながら、無神論を理解しているようなことを言う、つまり、どっちも分かっている、という、嘘っぱちの立場にいる妄想的学者気取りです。
 
いつも、はっきり言わず、どっちつかずであるように装っていますが、楽山が神に親和するときの、神の臨在、というのは、実に、いかなる宗教とも思えないような、気色の悪いオカルト興味の飾りで出来ています。こうやって、楽山は、心の中の正気を失い、妄想様観念を、ぶくぶくと膨らませてきたのでしょう。
 
楽山が信じているのは、自らの、霊が分かるっぽい自覚だけです。そういう思い込みがあるために、楽山は、神、宗教、信仰、心霊、など超常について自分は語れる、という訂正不能の妄念の奴隷として、読めば、浅はかさが表れているだけのような自慢の記事を書いてくるのです。
 
楽山は、まるで宗教について評論家にでもなったかのような態度で、ああでもないこうでもない、でも神はいないと、深みも意義もない繰り言を書いてきているに過ぎません。
 
そういう自覚によって、宗教についての単なる感想にとどまらない是非を語ろうとして、失敗しては、なお反省はせずに、病識のない自意識だけの記事を、また、批判に答えることもなく、性懲りもなく、書いてくるのです。自己愛性人格障害のサイコパスを思わせる危険な人だと思っています。
 
「ドーキンスの本を読めば、今自分が生きていること、地球上に奇跡としか思えないほどのすばらしい生物があふれていることなどについて、神を持ち出すことなく説明ができるということは認めざるを得ない」・・楽山は、地上の生命の素晴らしさを説明できるというのでしょうか。だったら、説明してください、ということなのですが、楽山は、一度も、そういう深みのある文章を書いたことはありません。
 
>神を持ち出すことなく説明ができるということは認めざるを得ないように思う<
 
神は、持ち出される存在ではなく、また、何かの説明に使われる存在でもありません。神は、この浅はかな楽山などに付き合ったり、突き放されたりするような存在ではありません。
 
この幼稚な安っぽい楽山の妄想に付き合わされる人は、犠牲者でしかないのです。よく平気で、これだけ整わない作り話が出来るものだと思います。
 
楽山は、人間らしい理路から外れる度合いの分だけ、人格が破壊されている表れとなるでしょう。何でもわかっているという誤った自尊~妄想を表しながら、かつ、自分は柔和だと思わせたがるのは、まさに、カルト的な精神詐欺師の特徴と言ってもいいと思います。
 
とある書物…うろ覚えだけども『パパラギ』だったかな…では、自然は神のものであったが、この木は俺のものだなどという人々のために、神は貧しくなってしまった云々という話があったと思うが、この話に乗っかって言うならば、人々の所有権によって神は貧しくなったように、進化論によって神は創造者としての地位をも失ってしまったと言えるのかもしれぬ。
 
神は、人の所有権によって貧しくはなりません。神は、楽山などによって否定されることもありません。そういう神?は、楽山の机上のオモチャに過ぎません。つまり、楽山は、神の悪口を言っているに過ぎません。楽山のオモチャの神?は、実に容易に、否定されるのでしょう。
 
これが、楽山の本音だと思います。神を、机上の概念か、自分の批評の下にある類人格としてしか扱えないのです。そのような人の言論は、永遠に神について語れることはないと断言できるでしょう。
 
信仰は、人が神に対する身の程を知ることを前提としていますから、楽山のような身の程知らずには、信仰が芽生えることはないと思います。
 
楽山が、書けば書くほど、表れてくるのは、救いようのない慢心に満たされて、自己正当化し保身しようとする醜い人格に他なりません。神は貧しくなったと書いていますが、神に貧富はありません。楽山は、心の貧困によって、人間でさえなくなりつつあります。
 
自分はもともと創造論者ではなく、生物の進化についてはごく自然に受け入れてはいたのではあるが、
 
自然に受け入れて・・というこの時点で、自然に、ということさえ、当たり前の先入観の固定観念になっている、ということからも、楽山の無反省な不自然さが表れています。いかなる論者にもなれない者の、知的な本を読んでるからというだけの自己満悦です。
 
恐らく、読書をしても、表層だけしか受け取っていないと思います。それで、本と、人と、神の、是非を語ろうとする楽山なのです。身の程を弁えない言論の浅さは、読む人の思考を乱して疲労させるだけで、考察の糧にも資料にも対象にもならず、自尊だけが異常に目立っていて、百害あって一利ないことを特徴としています。
 
そこには神の意思があったのだろうとは考えていたので、神の存在も、その意思も関係なしに、進化は成立しうるというのはやはり驚かないではいられないし、こういう驚きを与えてくれたドーキンスと、ドーキンスの著作を教えてくれた知人には感謝したいと思う。もちろんダーウィンにも…。
 
神の行為も意志も関係も、誰も確定的に知ることはないのです。しかし、楽山は、神の存在と意志が関係していないと分かるような進め方をするのです。不確定要素を確定的に語る楽山の虚言です。
 
そして、進化論の成立を、既成のことのように語ります。進化論を知っているのでしょうか。否、楽山は、身近にかかわってくる人の気持ちも分からない人だと思います。そこで成り立っていない人が、いったい何を得て感謝しているのでしょう。
 
そして、同じように、知っている、分かっている、というスタンスで、学者に感謝を述べるのは、自分も、同等の並びにいるつもりなのでしょう。よく読めば、楽山の病的ナルシシズムぶりは、いたるところに表れてくるのです。
 
楽山の、分かったふう?の気取り、というのは、いかなる信仰にも反する態度ですし、宗教と信仰の名を上げながら、まるで理解していない楽山の、机上や手のひらで堂々巡りをする繰り言であり、一歩も進んでいない足踏みであり地団駄であります。それを、思慮だと勘違いしているのです。
 
愚かでありながら、それに気づかない者が、三途の川の石積みのように空しく、見ようとしない目と、聞こうとしない耳と、感じようとしない心と、考えようとしない頭で、その時その時の欲望でたどる結末への不毛の砂地で、そこは目に見えない多くの虫の巣食う下肥(しもごえ)となるでしょう。
 
それを、ブログに書いて、人に見せようとする自己顕示欲が、かえって、楽山の不遜の怖さを見せつけています。楽山は、自己のためには、いかなる嘘も、印象操作も、詭弁も、手段を選ばず使うカルト的偽善者です。楽山やシャロームなどの易坊類に共通してみられる特徴です。
 
楽山は、心~精神が破壊されていると思います。そして、さらに、他の人の心を破壊するだろうと思います。恐らく体質的なもので、約2年の批判に対しても、無反応で無反省そして無責任で無神経ですから、治る見込みもないのでしょう。自覚~病識もなく、ゆえに、自己中の絶対から、人をだますことしか出来なくなっています。
 
楽山は、こちらが無反省と書けば、「反省。トホホ」などと書いてくる。反省の内実に相当する文章がないので、嘘なのですが、反省という言葉だけ書いてくる。「トホホ」については、むしろ、書いてやったぞ、これでいいだろ、と言われているようで、逆効果なのだが、それも気づかないわけです。
 
共感もなく、反省もせず、鼻先の人参を追い求めるように、批評家気取りで発信だけを続ける病的なナルシシストは、誰もいない砂漠で叫びながら骨になってゆく宿命から逃れられないのでしょうか。
 
誰とも人間らしい共感が成り立たず、深い理解もなく、見せかけの読書自慢と心霊の話をして、世辞の褒め言葉を待っているような、楽山の軽薄な文章を決して真に受けないでください。
 
 
自己顕示欲だけ

自己顕示欲だけ
 
 
(2021円02月19日、一部加筆)
 
 
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  楽山のペテン2
 
  2020年02月08日
 「信じてもいい理由と信じてはいけない理由」ドーキンス著
 楽山日記(LD)
  に対する批判記事を加筆して再録。
 
 
楽山は、またしても、無神論の学者らしいドーキンスの本から引用して、ゴタクを並べてきました。既に、私は、楽山の、見当違いの宗教・信仰理解を、批判してきましたが、楽山は、何の反論も弁明も出来ないにもかかわらず、また、書いてくるのです。
 
楽山は、まだ、HSや、アドラー教から自由になっておらず、また、およそ、実質のない自らの心霊理解にも囚われたままであることが明らかになってきたという経過です。もしかしたら、楽山は、カルトを捨てたのではなく、カルトに捨てられたか、あるいは、新たなカルト形成に向かっているのかもしれません。
 
楽山は、人の言うことを無視することに快感を覚えるのかもしれません。経過することの内容に、楽山は、関心をすべて捨てることができる異常者なのでしょう。笑っているとしか思えないほど、平気で無視するのでしょう。
 
そうやって時間が経過して、私のほうには、楽山批判が、2年分蓄積されてきました。どこまでも無視する楽山に対して、批判するほうは、はてしなく批判を積んでゆくことを、務めとするしかありません。そういう場合、結果は、読者に委ねるしかないのです。
 
つまり、誰も、楽山に関わることのありませぬようにと、願うしかないのです。決して、楽山を変えることではなく、あとは、正常な神経を持っている読者が、害虫のように楽山を嫌い、楽山を相手にしないことを期待するしかないということです。そのための根拠が、楽山批判であります。
 
楽山は、本当に、恐ろしい生きものです。いつまでも、自分を見ず、はてしなく、どこまでも、人に文句を言い続けられる男、それが、楽山です。今日も、何事もなかったかのように、ツイッターに、誰かをおとしめる文句を書き込んでいます。徹底した変質者であります。
 
そうやって、日常感覚も経験も、都合の悪いことを、総て無視して、自らの人格を破壊してきたのでしょう。異常人格、人格破壊、精神病質、といった病態のもたらす冷笑が、そして、人間が、おしまいになると、こうなる、という破壊的現象が、ここに表れているのです。
 
「信じてもいい理由と信じてはいけない理由」は、著者のエッセイ集『悪魔に仕える牧師』に収録されている文章であるが、十歳の娘への手紙という体裁で書かれているので分かり易くてよい。
内容は大雑把に言えば、観察し、証拠があるものについては信じてよいが、伝統(伝説)、権威、啓示(お告げ)には注意が必要だというものである。
 
観察し、証拠があるものについては、正当なのだから、まず、信じる必要がないのです。
 
私は、超常を根拠にする言い分については、決めつけや妄想である可能性があり、注意したほうがよいと言ってきました。
 
例えば、シャロームshalomの聖霊体験や神の啓示については、全くの大嘘で、さらに、その文章の滅裂と無法と無根拠が表す非人間性から、反信仰の産物であり教義も信仰も全くの嘘っぱちであることと併せて、自分権威の成り上がりのカルト妄想だと判断しています。
 
また、楽山が、霊が分かるっぽい高慢からの極めて幼稚な短絡の思い込みや、偽牧師シャロームの「罪は悔い改めなくても赦されるから気にしなくていい。悔い改めは(自分でしなくても)神が与える」などというあり得ない信条?に無条件の味方をしたこと、また、楽山の、とても卑怯で嫌らしい騙しの印象操作や詭弁や柔和芝居や婉曲表現のボンヤリ言語と併せて、信用度ゼロのカルトであると判断しています。
 
ここでも、楽山は、間違いを全く自覚していません。観察して証拠があるから信じるのは、事実などの実証が必要なことについての話であって、信仰はそのようなものではありません。
 
信仰は、癒しや慰めそして共感など、情緒的な体験を通して思慮を起こして信じるのであり、キリスト信仰は、決して論理的実証的証明など出来ないものとして、ダイレクトに生きている人間に問うてくるのです。決定するのは、生きるのに必要かどうかだけです。
 
信仰は、伝統、権威、偽牧師シャロームが言う啓示?など、信仰外のものに、支配されてはいけません。しかし、同時に、一方では、楽山のように、理解があるかのように見せかけて、ボンヤリやんわり否定してくる偽善者の言などに左右されてはいけないものです。
 
ここまで、的外れなことを執拗に書いてくる楽山は、とても気持ちの悪い反信仰、そして、反キリストと判断せざるを得ません。何か信仰とは全く別のものに囚われているのでしょう。
 
伝統宗教といっても、親から子へ、子から孫へと幾世代にもわたって伝えられてきたというだけで、それが真実だという証拠はなく、証拠がないなら何十年、何百年とどんなに長く伝えられてきたとしても嘘が真実になるというわけもない、
 
このように、嘘吐きの楽山の言も、この地上で信じると、社会にも個人にも悪い推測と予想しか生まれない誘導として、人間にとっては百害あって一利なきもの、人を惑わし、そそのかすものとして否定されるべき邪教であり、楽山個人の我欲への執着がもたらしたものと言わざるを得ません。
 
楽山に、何かを教える資格はありません。約2年の批判によって、楽山は、無反省、無責任、無理解、無神経の、詭弁や、煽りをしてきただけであり、そして、ひどい嘘吐きであることが、明らかになっています。
 
私を信じる必要はありません。私は、参考にしてもらえば十分です。しかし、詭弁と虚偽だけの専門家である楽山だけは、決して、信じてはいけません。相手にしてもいけません。近づいてもいけないと思います。
 
権威があるからといってその者が絶対に間違わないというわけでもない、一つのことを考えに考え、祈りに祈り、やがてそれが真実だというお告げを得たと確信したとしても、それが真実だという証拠がないなら信じるには足らないなどとしていて、なかなかに辛辣である。
 
また、楽山は、証拠のことを書いている楽山です。証拠ではなく、信仰に必要なのは、癒しと救いとして、必要だという実感だけです。
 
むしろ、楽山が、しつこく書いてくるのは、何らかの人にまさる権威か名声を欲しがっているのでしょう。そういう自己顕示欲を支えているのは、霊が分かるっぽい自身への我執に他ならないと思います。とても病的なナルシシスト(ナルシスト)なのです。
 
また宗教が信じられてきた理由についてはこのような主張をしている。動物は生き延びるためにその環境に適した体をもつものであり、動物である人もこれと同じく環境に適応しようとするものであって、特に子供は生き延びるためにも自分の生きようとする社会環境に関する情報を得る必要があり、大人から聞いた話をすぐに信じるようにできている。
 
ずいぶん、大人と子供を舐めた見方をしている楽山です。宗教は、楽山の言うような、大人の話を子供が信じるなどという次元のものではありません。クリスチャンの家庭であっても、信仰告白は自分で自発的にするものです。個人によって違いはありますが、大人になって、改めて、判断することであります。
 
楽山は、宗教なんて親から刷り込まれたものだから信じるな・・という極めて短絡した先入観を与えようとしています。これが楽山であり、詭弁によって刷り込んで、宗教をおとしめてきますが、全く理解するセンスを持たずに、いちゃもんだけを言うのです。
 
実質としての支えとならなければ、いずれ、空しい信仰?は捨てられるでしょうし、大人の分別を弁えるのですが、その成長がないと、カルトとなり、妄想的となり、自己中となり、いずれ、社会と人間に害を与える存在となるでしょう。楽山は、逆方向の典型として、空しい反キリストなのです。
 
楽山は、そういう成長過程での取捨選択ができなかったのでしょう。それを、人のせいに、キリスト教のせいにしてもらっても、困りますし、大迷惑なのです。
 
聞いたことを、いつまでも、信じたまま、言い続けるのは、引っ込みがつかなくなったカルトか、それこそ、楽山のような我執によって、むしろ、逆に、怨念のようなものが、くすぶり続けているからだろうと思います。欲求不満が、我執を凝り固まらせたのかもしれません。
 
楽山は「大人から聞いた話をすぐに信じる」のでしょうか。いつまでも子供なのでしょうか。あるいは、逆に、大人から、ろくな話を聞いていない人でしょうか。それで、怨念を募らせてきたのでしょうか。なぜか、確かに、楽山は、大人としての反省力と責任感を養い損なっています。
 
そのため、良い情報だけでなく、時には根拠に乏しい間違った情報をも信じ込んでしまいがちである。証拠の無い宗教が長くつづいてきたのは、人々が何でも信じてしまう幼い頃に、大人たちからそれを刷り込まれ続けた結果であろう云々。
 
根拠に乏しい情報というのは、他者の勝手な受け売りで悪用して、信仰も神も、何も理解できないのに、ときには褒めたり、また別の時には否定したりする楽山の言というのが、いちばん当てはまってきたのです。きたならしい詭弁で侮辱する以外、何も出来ない楽山を信用しないでください。
 
およそ説明にも癒しにもならない繰り言で、逆に刷り込みだと否定する楽山こそ、今まで、刷り込み、吹き込み、誘導してきた悪だくみの権化であります。
 
仏様の気持ちがわかるっぽい自覚の楽山の、幼稚な自覚と我執が、子供の時から今に至るまで、楽山の人格を支えているとしたら、とても、みじめで哀れな成長不全なのです。大人の節操を養い損ねている楽山です。
 
本書の副題は「なぜ科学は「神」を必要としないのか」というものであるし、収録されている文章も上のようにキツイ宗教批判が多い。いやはやドーキンスはやっぱり宗教に対して容赦ない。でもこの本気さが魅力でもある。
 
科学は、実証できるものだけを扱います。ゆえに、神、信仰、霊、などというものは、実験も出来ないわけですから、科学が神を対象にしないし必要ともしないのは、当然のことなのです。楽山は、その粗野な根性そのままに、科学も神も語れないから、喧嘩を見るように楽しんでいるだけです。
 
科学によって、宗教を否定するのは、科学教の信者であります。宗教まがいのカルトに酷い目にあった人でないならば、宗教を否定するのは、大方、先入観によるか、自己顕示欲によるものでしょう。
 
科学は宗教を追求できません。宗教は科学を追求できません。
 
楽山は、正常人に教えることは出来ません。正常人は、楽山に学んではいけません。楽山は、あまりにも劣悪であり、嘘を吐き、詭弁を弄し、反省せず、責任を負わず、今もネットに居座って、罠を掛けてきます。引っかかったら、人生を破壊されます。
 
信仰を持つか否かではなく、何よりも、楽山の罠にかかったら人生は終わり、というくらい破壊的だと思っていてたほうがよいのです。陰険で狡猾なだけで、清々しさの欠片もない楽山です。
 
他者の言うことを全く受け取らないで、楽山は書いてくるのです。楽山の、他人事のように語って、信仰を、まだ一度も真剣に自分の課題としたことのない与太話の嘘っぱちに、惑わされないように注意してください。楽山が、キリスト教批判に魅力を感じるのは、楽山が、その無反省・無責任の素質において、既に反キリストだからです。
 
楽山は、信仰を知らないで、信仰芝居をしたり、信仰を目の仇にしながら、信仰をまじめに考えているふうに見せかけているだけのインチキです。
 
信じてもいい理由と信じてはいけない理由、などということを、我欲に合うものだから、本から勝手な解釈で鵜呑みにして、楽山が納得しているつもりのことこそが、楽山の宗教観が、信仰ではなく、一種の個人カルトの教条の屁理屈であり、人を罠にかけるようなカルト的な悪趣味の我執なのです。
 
楽山の主張の中のカルトの証拠となるものとして、すなわち、楽山が何も観察せず見通していないこと、信仰に担保?となるような証拠を求める態度、ボンヤリ言語による印象の刷り込み、魅力としての説得力も共感性も全くない表面的で信仰としては空疎な理屈、これらが、今まで楽山の表してきた邪悪な手法なのです。つまり、楽山こそが、宗教批判に見せかけたカルトなのです。
 
楽山は、証拠がないじゃろ、という、宗教には全く当てはまらないことで、宗教と信仰を否定しようとしてきます。汚い男です。心が無く、余裕がなく、深みのない、自己中の人格が表れています。
 
切実な必要からの実感のある疑問によって、宗教批判をする人は、宗教にとっても、貴重な糧となる存在になりうる人です。そういう人には、宗教人は、誠意を尽くして、説明の用意をするべきでしょう。楽山のような者は、切実さもなく、ただ、凶暴で一方的な、詭弁屋に過ぎません。誰も相手にしてはいけない人格です。決して、正常人の人格ではありません。
 
観察せず、根拠も証拠もなく、楽山の表す情報は嘘と詭弁だらけで、それなのに、宗教の悪い印象を刷り込もうとする楽山こそ、批判され否定されるべきなのです。楽山は、詭弁で印象を刷り込む反キリストそして楽山の自己のカルト思想宣伝者です。自己中と自己愛と決めつけが、無反省と無理解と無反応と無責任と無神経が、いたるところに表れてきています。
 
しかも、このように条件を付けて、大方、否定しながら、一方では、聖書の言葉を引用して、感動したかのように、また、ときには、祈っているかのような嘘のクリスチャン芝居を重ねてきたペテン師が楽山なのです。次元の低さと、自覚の無さが、書いたことに表れています。
 
楽山の主張は、よく読めば、整った思想や思考や共感が全く見られないほどの次元の低いペテンだと分かります。学者の名前を出したり、本を引用したり、刷り込みや印象操作をしたりするのは、自分では、宗教についても信仰についても、整ったことが何も書けないからなのです。楽山が、いくら安い造花で飾っても無駄なのです。
 
 
造花のペテン

造花のペテン
 
 
(2020年02月10日、同日一部修正)
(2021年02月15日、再録+加筆)
 
 
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  無神論と有神論2
   過去記事の再録+加筆修正
 
 
神は、道理を通すが、概念ではない。
ゆえに、人の理屈によって語れる御方ではない。
神は、希望であるが、人は、神によるものを区別できず確定できない。
 
語れるのは
人の側における現象からの推測の域を出ない。
 
私たちは、憧れの救い主を想うことによって救われている。
そこは、概念よりも理屈よりも、共感が捉えて放さない関係性である。
 
(ネットより)
有神論(ゆうしんろん、theism)は、「神は存在する」という主張のこと。 名付け親は『橋本和哉』である。 対義語は無神論。 多くの宗教は、その教義の中に有神論を含んでおり、その宗教が信仰する神が唯一なのか複数なのかによって一神教、多神教などに分けられる。
 
 
神は、人による存在証明も不在証明も明確に拒否する立場におられ、人の、いかなる知恵も視野も、神の領域に届くことはなく、神を対象にすることは出来ない。
 
神の、全知全能・絶対完全・永遠不変は、人の理解を超えており、人の視野に決して納まることはない。旧約は、神と人の決定的な違いを伝えており、新約は、ならばどうすれば救われるかを、キリストを通して、改めて告げている。
 
無神論は成り立たない理屈であり、また、有神論が理屈なら有神論は成り立たない。
在って在る者である神を、人の論理や学問で語ることは出来ない。
経験上、人が、神を否定できなくなるのが、信仰である。
 
 
無神論が成り立たないのは人間の理屈だからである。
無神論の状況証拠は、人のわざを根拠としているだけである。
 
有神論が成り立たないのは有神を前提として
神を概念の理屈にしているからである。
有神の状況証拠は、信仰を暗示するのみである。
 
以上より、人間にとって、神の存在は、理屈にはなりえない。
神を、演繹の論理によって論じることは出来ない。
 
人は、神よりも人が不完全であることを知っているだけである。
 
人にとって、神は、いかなる概念にもなりえない。
 
人があてがう神の概念は、神ではなく、藁人形のようなものである。
 
 
無神論は、嫌悪感によって、理路の領分を逸脱する。
有神論は、贔屓の引き倒しによって、理路を領分を逸脱する。
どちらも頑固であるところが共通している。
 
だから、科学と論理に見せかけたカルトになると
そこが、ただの頑固に留まらず
結局、感情的になり先鋭化して危険になるのだろう。
 
神の存在を強く絶対否定して問い詰めてあざ笑う者と
神の存在を強く絶対肯定して笑って侮辱してくる者は
なぜか、似てくる。
 
 
客観的事実と言われるものから
無神論は証明できない。
 
客観的事実と言われるものから
有神論は証明できない。
 
神を、論理によって論じることは出来ない。
 
地上の事実は
神を暗示することはあっても
神の存在も風情も証明することは不可能である。
 
証明できなくても信仰は可能だからである。
 
ゆえに、神に対しては、信仰が可能であり
人の、いかなる知恵によっても、証明は不可能である。
人は人の身の程を知るべきである。
 
信仰は信仰対象を証明する必要はない。
 
信仰は信仰対象すなわち神の
地上における影響を人を通して表すのが務めと努めである。
 
 
人は、神の意志を表すことがあるだろう。
ここに既に信仰が機能しているが
それは神のわざを含むので確定することはない。
 
信仰対象である完全の神によってもたらされる救いの
人における不完全の必然ゆえの人の弁えを考えない信仰はあり得ない。
 
したがって
人の自尊を肯定し続けるだけの信仰はあり得ない。
うち続く自尊は、いずれ、神と人に対する高慢~傲慢に通じてゆく。
 
ゆえに、不完全な信仰者にとって
不変の自尊が信仰によって肯定されるものではない。
 
信仰による人の自尊の担保は
神と人の区別を弁えない無節操である。
 
したがって自尊を肯定し続けるだけの信仰は
無理な思い込みを前提としてしまう。
思いこみ信じ込むことは意志が無理をすることであり
心は無理をすると次第に壊れてゆく。
 
信仰は一途であってよいが
信仰は盲目であってはいけない。
 
信仰は人の目を開くものだからである。
 
一途は心を支える感動が動機であるが
盲目は目と心を閉ざすことである。
 
 
感動は永続しない。
人間は感動の影響を残せるが
同じ感動を保つことはできない。
 
あるとき感動しても
次のときには感動したという記憶になっている。
 
人間は、ほぼ恒常的だが
神と同じ不変になることはない。
 
人間は、振り向くたびに時空の
違う風景が見えているから思慮と情感と意志が成長するのであって
目と心を閉ざすところに新しい世界はない。
 
閉ざされた目と心は
いつも同じ良いものがあると思い込み慢心して石になるだけだ。
 
人は、良きものを手に入れると、
それを永続するものと思い込みがちだが
神の与える平安は、変化しない世界のものではない。
 
不変は目覚めも期待できないから
不完全な存在である人には不向きである。
 
不完全だから人は変わり得るものとして成長するしかない。
 
 
神は
危機に際して慰めと励ましを与えるが、
常時快適な揺り籠を与えない。
 
神は
人の超人願望や完全欲に答えることはない。
そこには、どこまでも、沈黙の神がおられるだろう。
 
信仰は、
人間が成長するための必然的遭遇に際して
思い込みを豪語する狂気に陥らないために与えられており
 
神は、信仰を通して
思いわずらいに支配されることのないために
無神の絶対孤独につぶされることのないために
癒しと赦しと導きを与えるのである。
 
 
楽山やシャロームのような、神を偽り、神に偽る者は、
人に対しても偽りをもって、あざむき、だまし、
日々滅びを積み、滅びを礼賛している者たちである。
 
 
私たち信仰者は、
ただ、神という、正直に告白し乞い願う相手を、知っている人である。
人の不完全な善悪や正邪と、その判断は、信仰の救いを左右しない。
 
神に対しては、正直さ以外、何も通用しない。
 
 
神

 
 
(2020年02月04日)
(2021年02月10日)
 
 
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