ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

タグ:無神論

 
  罪人に注ぐ光+
 
 2018年11月14日「神か人か」を加筆修正して再録。
 
 
キリストは神か人かということがキリスト教を考えるうえで話題となり、論争にさえなるでしょう。私は、基本、決めつけない立場で、事実かどうかは保留していますが、キリストを、主と、飼い主と、仰いでいます。
 
言葉で立場を決めつける者は、神か人かに、こだわりますが、自分がどれほどのものかを知っておれば、人間なら云々、神なら云々、などということには、ならないからです。神か人か、これを判断できるのは、神だけです。
 
キリストが、イエスという名の人だとしても、福音書を見れば分かるように、物や肉体の奇跡を抜きにしても、イエスは、人を見抜く優れた洞察力と、人の悲しみに寄り添う共感力と、命を賭するほどの愛を持っておられたのです。
 
この御方を、人でしたということで済ませられるでしょうか。私には、とても出来ません。
 
二千年前に、悪が善の振りをするという偽善が悪よりも悪質な最悪であることを洞察し厳しく批判し、一方で、罪を認める人には、深く共感して、罪人を救おうとして、承知の上で犠牲となって殺された御方を、どうして、人でしたと言って済ませて忘れられるでしょう。
 
 人でしたと済ませて忘れられるのは
 超常奇跡や机上の空論だけで考えて
 心に潤いと温もりのない人だと思います。
 
つまり、神か人かに関わらず、私の心を揺さぶり、大きく変えたイエスという御方は、私の、救い主、即ち、キリストなのです。すなわち、ただの人では決して済まない御方なのです。私にとって、人間として可能で必要な神認識は、それだけで十分なのです。
 
その信仰を告白し祈る時
イエスは、私にとって、
主イエスでありキリストなのです。
どうして、それ以上を
神聖について分かっているふりをする必要があるでしょう。
 
キリスト信仰者の自覚は
神の前に、人が無知であること、
つまり
神の完全とは比べ物にならないところの
人の不完全という罪性の自覚から祈るのが信仰です。
 
なのに、どうして人知をもって
神を確認したり否定したりできるというのでしょう。
 
それゆえにキリストは
今も聖書を通じて総ての人に
正直な罪人が救われることを
宣べ伝えているのです。
 
 
キリストが物や肉体の奇跡を行ったかどうかについては
好事家の議論に過ぎません。
何故なら、現代、あるいは、
あるとき、自分の都合の良いように、
物や肉体に、奇跡は、
少なくとも滅多に起こらないと言えるからです。
 
キリストが二千年前
物や肉体の奇跡を行ったかどうかについては
終末まで保留してよいと思います。
 
奇跡が起こった起こらなかった、
超常の神の存在か不在か
そういう理屈をいくつ並べても
人の知恵で神を云々するのは冒涜であり
信仰からは遠ざかるばかりなのです。
 
無神論者が
神について理屈を言えば言うほど
宗教と信仰から遠ざかってゆきます。
 
 
楽山のような者は、ただ、何らかの負の体験から、聖書の神が嫌いで、実際は、自分に都合よくならないことばかりだという主観から、神を否定し、いないものと思い込み、反キリスト妄想を並べているだけです。恐らく、いずれ、神はもちろん、人の共感も失ってゆくでしょう。
 
無神論という言葉がありますが、人の論理は、どこまでも、人のことしか語れません。神は、超常なる御方ですから、いるとかいないとかは問題外であって、生きてゆくための希望として信じるかどうかだけなのです。だから、神を語るに、有神論も無神論も無意味です。
 
だから、楽山のような者は、人生の大半を、無意味な空論に、捧げているに過ぎません。人間であることをやめながら、神を否定する言葉を、垂れ流しているだけです。ゆえに、楽山に、関わることも、近づくことも、楽山を相手にすることも、全て、無意味です。
 
 
人生の成り行きにおいて
奇跡体験を持っている人は
神の導きがあったかもしれない。
しかし
その時の奇跡が
都合よく繰り返されるとは限りません。
 
神に祈り願うことと違って、
神が自分の期待通りに奇跡を起こすと信じることは
信仰とは、逆方向であります。
 
後者は神の行為を決めつけて思い込む傲慢です。
期待通りという条件は人の作りもの
すなわち偶像に他なりません。
 
信仰は神への無条件の信頼です。何も持たずに神の懐に飛び込むことです。キリスト者をそうさせるのは、キリストからの愛と共感、キリストへの愛と共感、という双方向であり、それ以外にはありません。神は理屈屋でも便利屋でもありません。個人を守る氏神でもありません。
 
神は神の基準によって人を導きます。その基準は神の秘密です。私たちが折々の判断によって動くとき、どこに神の導きがあるかも神秘であります。神が、人の都合に合わせて、人を守るから信じるのではありません。
 
生きているとき、さらに死に臨むとき、人の考え行なえることが尽きたときに、神の導きのみが希望ゆえに、神にお任せするのであります。
 
 
罪びとに注ぐ光

罪びとに注ぐ光
 
 
 ※
 
自分のことを奇跡~超常に守られているから無罪だと主張する信仰?が、いかに身勝手で自己中心的で破壊的な人格を作ってしまうかを、私は、嫌というほど、ずいぶん長い期間にわたって、見続ける羽目になっています。(嘆)
 
 
(2018年11月14日アップ)
(2020年11月19日、加筆して再録、さらに修正)
 
(2021年12月01日、再録+)
 
好事家(こうずか)≒ 物好き
 ・・ずっと「こうじか」と読んでいました(汗)
羽目(はめ、破目)
 
 
 
  裸の信仰
 
感謝します
 ↓
すべては御心のままに
 ↓
導いてください
 ↓
お救い下さい!
 ↓
助けてください!!
 ↓
なぜ黙っておられるのですか!
 ↓
(イスラエル人のように)
なぜあのとき死ななかったのか
 ↓
 ↓
我が…魂を…御手に…
 ↓
 ↓
(まだ生きておれば再び)
感謝します
 ↓
………
 
幾多の苦難の後
ひとつの気づきに至る
それは人を変え
これこそは…と思えるほど
救う力を持っている
 
人はそれを忘れたくない
ゆえにいつでも思い出せるように
信条として蓄(たくわ)えられ
信仰観が築かれてゆく
 
キリスト者なら誰でも
信仰観や理想
こうありたいという願いを持つ
しかし多くの信仰観は
それが実行できるなら
聖人か預言者以上ではないか
というほど理想化されやすい
そして人が作れば作るほど
力は乾燥してゆく
実際
凄(すさ)まじい危機に際して
救いは
金科玉(ぎょく)条のような
(動かない偶像のような?)
条文の類(たぐい)ではなく
叫びにも似た
裸の信仰によって
与えられるものである
 
クソ食らえの信仰観
食らわずに生きては行けない
人の常(つね)
 
主を慕(した)いながら
罪を犯し転げまわり
こぶだらけ傷だらけになって
この罪人をお許し下さい
 
何度祈りを繰り返したら
この世の人生の終末
最後の逃げ道の
恵みに与(あずか)れるだろうか
我が魂を御手に…
この祈りは重い
 
「このようにしてあなたがたは
 わたしが主であることを
 知るようになる」(エゼキエル書)
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら 誤ったら 素直に詫びて 自分 正さなくちゃいけない」「それが出来て 初めて人間だと それ出来ないなら 人ではないと」「嘘ばかり 重ねる君よ 保身だけの 卑怯者の君よ そんな君は 魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと 最大限の反省と共に 開いた出店を 畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
誰かが注意しても、聞く耳を持たない楽山は、反省も謝罪もしておらず、邪悪な性根の根深さが治りません。「人間の性」「自分もそんな風です」などと言って、人間一般のように、醜い詭弁の言い訳をしていますが、成り立ちません。人間離れの楽山固有の悪と罪と偽善です。
 
 
 
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  楽山の悪意2
 
 最近、よく見ているブログ
 2020年11月22日 楽山日記(LD)
 (一部省略)改めて批判。
 
 
殺伐とした記事が続いて申し訳ないです。我執だけが臭気と持ち味の楽山です。今回、楽山は、キリスト教を、新しい批判ではなく、またしても、同じ勘違いで書いてくるのです。人の言うことを、まるで受け取っていないことを、自ら表しています。
 
ずっと前に楽山が書いて、そういう言い分はキリスト教批判にはならないと言ったのに、また同じことを、昔の、針のとんだレコードプレーヤーみたいに、繰り返しています。こういうことをやって満悦する楽山は、訂正不能の一方的な病質者だから、誰も関わってはいけないと思います。
 
この記事に潜ませた悪意が、楽山の本性です。そして、またしても、他者のブログを悪用して、反キリストを表し、神否定を表しているつもりです。既に、読んで、問題外だったのに、まともなことを言えない者が、嫌がらせだけをしてきます。
 
数か月だまされて、そのあと、批判を始めて約3年、何も良きものの欠片さえ返すことのない、そこだけ、徹底している、いちゃもん屋の、議論不能の、自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害)で、無反省・無責任で、書くことをやめられないままの、成長のない楽山です。
 
今回も、ずっと前に書いてきて、批判したことを蒸し返すというより、前のまま、何の進歩もなく同じことを、キリスト教批判の他者の言い分に、迎合する形で書いているだけなのです。自己愛性人格障害は、学習も成長もしないということです。
 
*神義論(弁神論)
最近、よく見ているブログで、神義論に関連した記事が公開されていた。。
・神と災害 - キリスト教の問題点について考える
 」
自分がこの矛盾に気がついたのは、スティーヴン・キングの『デスぺレーション』を読んだことが切っ掛けだった。この物語の主人公は、友達が交通事故に遭い、意識不明の重体になったことから、神は友達を守ることができたのに、そうしなかった、神は友達が事故に遭うことをゆるした、なぜ?と悩んでいたのだった。
 
楽山は、神が、ご利益的に人の都合に合わないことに、いちゃもんをつけて、キリスト教を否定していますが、神は、神秘であり、いつも、人が神の行為に納得できるわけではない、ということが、理解できない、というより、理解など、する気がないのだと思います。
 
人には成り立たないところの神の全能を考えるならば、むしろ、神の考える幸いと、人の考える幸いは、違っていて当然なのです。神の考える信仰と、人の考える信仰も、違っていて不思議はないのです。ゆえに、人間には、神を恐れ、キリストの愛に縋(すが)る信仰があるのです。
 
楽山が、神を否定するのは、楽山が、神をも、上から辻褄を追うように眺めているからであり、その楽山の辻褄は、ずっと、楽山の恣意に表れてきたところの、自己中による学習不能を経て、楽山の合理性?という低次元で、神も、超常も、霊も、宗教も眺める、という、身勝手で幼稚な話なのです。
 
神の合理が、人の合理によって、説明されることはありません。ゆえに、人は、この地上に不可避的に起こる不運と悲劇に耐え忍ばねばなりません。信仰は、むしろ、そのためにあります。神の合理を、物知り顔に讃美して満悦する信仰は偽物です。
 
神の非合理が、人の合理または非合理によって成り立つことはありません。ゆえに、人は、神を恐れる態度が必要です。楽山は、条件を出して、神の合否を決めており、信仰に一歩も近づいてはいないのです。神の非合理を豪語して、神を否定したつもりの思想は、稚児の譫言であります。
 
楽山は、稚児の譫言をもって、しかも、他者の勢いを借りる卑怯さで、実際には、実に惨めったらしく、神を否定するような、知ったかぶりだけの、楽なお山の大将を気取っている偽善者であります。読めば、楽山の高慢な姿勢は、神にも信仰にも縁はないだろうと分かるのです。
 
キリスト教の総ての救いは、人が、キリストの共感に支えられて、それゆえに、神の前に正直な祈りを捧げることによって、人ではなく、人の合理でもなく、神の御心の成就によってもたらされます。信仰は理屈ではなく、現実を生きるための希望であります。楽山は、外部の野次馬です。
 
神は善であるが、全能ではないとすると、悲劇があったとしても、神はそれを止めたくても止められなかったのだろうということで神の善性を疑うことにはならないが、神は善であり、かつ全能であるとすると、悲劇が起きたときには、「神は全能で悲劇を止めることができなのに止めなかった。なぜ? どうして?」という疑問を持たないではいられなくなる。
これは本当にやっかいな問題だと思う。
 
恐ろしいことに、楽山は、神を、人の論理で扱えると思っているようです。この時点で、楽山は、信仰には一歩も近づくことのない人となっています。だから、楽山は、信仰が「やっかい」なものに思えてならないのでしょう。「やっかい」と思うなら、何も書かないことです。
 
楽山が、神の行動方針を決めて、悲劇を止めるかどうかで、是非を決めつけているさまは、恐れを知らず、自らを高みにおいて、こともあろうに、神を、裁いていることになります。まるで、神にも、人にさえ、何の縁もないところの、虚妄の空間を徘徊する楽山です。
 
難しく飾って言っても、きわめて単純で、短絡した幼稚な理屈を、神に当てはめていることが自明であります。神は、楽山のような、やっかい者が、すっきりするように辻褄を合わせることはありません。疑問は、信仰者でもいだきますが、楽山には、ベースとなる人間性がありません。
 
楽山は、いちゃもん宣伝者であります。楽山の言は、神の意志と行為を、人が説明を受けて納得いかないと信じないということですが、そのような説明好きな?神?のあり方など屁のようなもので、そういう神ならば、私は、信じることはなかったでしょう。
 
楽山は、何でも言うことを聞いてくれる奴隷のような童話の神を所望のようです。全ての、恐らく、楽山の悲劇を止めてくれる都合のよい神でないと信じないのです。こういう御利益信仰の在り方は、現実によって全否定されるものです。楽山の都合で守ってくれる神は、どこにもいません。
 
安っぽい楽山は、宗教を考えても、安っぽく、幼稚で、なんでもかんでも、うまくいかないと信じないぞ、という、自己中の言い分に過ぎないのです。呆れたへっぴりの卑しさです。「やっかいな問題」と思うなら、書かなければいいのに、自己顕示だけのために書いてくるのです。
 
まさに、楽山のような反キリストが、いかなる愛にも、いかなる救いにも、感じるところがなく、逆に、自身の堕落を、神のせいに、宗教のせいにして、悦に入るような、この世の真善美にも、神の与える信仰の義にも、永久に恵まれないであろうルサンチマンの不細工を表しているのです。
 
楽山は、この地上に、良きものを何一つ見いだせずに、世の中を、人を、神を、キリストを、恨み続けているのでしょう。楽山は、書くたびに、潤いも温もりもない、殺伐とした、下手くそな、お絵かきの幼稚さだけを見せてきます。その惨状が楽山の精神世界なのです。
 
そして、その実質のない、みすぼらしい知性と感性を、反省することもなく、学ぶこともないまま、自慢げに、丁寧語の芝居で、人をだます行為を、もはや、やめることが出来ないでいるのです。こちらの言ったことを、何一つ受け取らないで、自分の言い分だけを繰り返しています。
 
しかも、ずっと、自分の言葉を持たず、まとまらず、学習せず、他者の、字面だけ都合のよい言葉を悪用することしか出来ません。何かを追求する意志もなく、楽山は、最初考え始めたときから一歩も進んでいないのではないかと思います。
 
楽山の言は、例外なく、下劣です。正直言って、何というクズだろうと思います。やっていることは、小蝿の所業です。いくら真面目そうに装っても、本気、真剣、真摯、誠意、という言葉から、最も遠い人です。自分を省みないで思い上がる者は、こうなるという見本です。
 
楽山が満足するような、宗教も、思想も、この地上にはありません。楽山は、現実を認識しないために、現実の地上に、現実離れした空想だけを当てているのです。だから、最初のQ&Aから、いつまでも卒業できないのでしょう。信じないなら、信仰について語らないでほしいです。
 
楽山には、人間的な潤いと温もりがありません。その欠損を自覚することも出来ません。「反省。とほほ」など、自覚に類する言葉を使ったとしても、何も変わらない前後関係と文脈から否定されています。物わかりが悪いのに、字面だけ、まともを装う楽山に、だまされないでください。
 
楽山にあるのは、悲しみでもなく、思いやりでもなく、冷笑と憎悪だけです。楽山が何か言ってきたときには、私のように批判する人以外は、返さないでください。決して楽山に近づかないでください。結局、楽山は、人をだまして、地獄への道連れにしたいだけだろうと思います。
 
 
道連れを求める闇

道連れを求める闇
 
 
(2020年11月23日、同日一部修正)
(2021年11月30日、さらに修正して再録)
 
稚児(ちご、ややこ)
譫言(うわごと、せんげん)
ルサンチマン ≒ 弱者に募る怨念。負け犬の遠吠え。自省しない妬み根性。
 
 
 
  時の筈
 
こんな筈(はず)ではないと嘆いても
朝起きたら朝起きた分だけ
いわれもなく理不尽に
訪れてくる昼を待つことになり
同じように夕を夜を待つことになる
だからといって
朝も昼も眠って夕を迎えれば
ますます理不尽ということになって
こんな筈ではないと嘆くのだが
もともと時間は来るのにも去るのにも
いわれなどある筈(はず)も
示す筈も必要も必然もないもので
ただ留まることを知らないという道理に
適(かな)うだけの
筈を誰にでも取りつかせている
 
 
  夢より勝手に
 
まだ生きてたの
と言うのだ
かつての好ましからざる同僚が
まるで家畜を見るような目で
悪し様に言うのだ
もちろん夢の話だ おぞましい悪夢だ
いったいどんな思惑(しわく)が見させたのか
室温十四度の部屋で
汗をかいて目が覚めた
朝だ 夜は眠れたということだ
しかも晴れだ
何と裏腹な・・・こんな目覚め方
窓もドアも開けていないのに
蠅が一匹部屋の中を飛んでいる
 
まともなパターンの睡眠
悪夢のうちに取れましたと
日記に書いて落ち込んで
またベッドに入って
ふて寝して一日を過ごすか
 
嫌だな 夢にまで負けるなんて
気晴らしに出かけたからといって
どうなるものでもないが
二十日間ずっと眠っていたオートバイ
タンクの汚れをざっと拭(ぬぐ)って
起こして 逃げるとしよ
 
まとわりつく夢を振り切って
かつて衝突して骨折した防波堤のある
海沿いの道へ 晴れた春の海が
待っているということはないのだが
それで我が身の汚れが
拭えるわけでもないのだが
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら 誤ったら 素直に詫びて 自分 正さなくちゃいけない」「それが出来て 初めて人間だと それ出来ないなら 人ではないと」「嘘ばかり 重ねる君よ 保身だけの 卑怯者の君よ そんな君は 魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと 最大限の反省と共に 開いた出店を 畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
誰かが注意しても、聞く耳を持たない楽山は、反省も謝罪もしておらず、邪悪な性根の根深さが治りません。「人間の性」「自分もそんな風です」などと言って、人間一般のように、醜い詭弁の言い訳をしていますが、そういう主旨のコメントではないでしょう。楽山固有の悪と罪と偽善です。
 
殆ど動物の反射のように、覚えた弁明の言葉を並べても、一切、弁明になっていない楽山です。悪意が、いずれ自分を破壊してゆくのを待つしかないのでしょうか。とはいえ、こちらは、疲労と徒労という被害を既に被っているので、さらに広がるのを防ぐために、批判を続けるしかありません。
 
 
 
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  楽山の悪あがき
 
 「リチャード・ドーキンスbot」を見てみた。
  (4)宗教および創造論批判
 2021年09月16日 楽山日記(LD)
 
 
楽山の著しい勘違い~妄想投稿が続いています。恥という感覚がないので、平気でいられるのです。人のことなど何も考えない自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)なので、楽山という人は、投稿を続けていられるのです。
 
*つづき
前記事につづいて、ドーキンスの名言について感想を書いてみる。
*宗教と願望
不死という観念そのものは、人間の「願望本位の思考法」に迎合するがゆえに生き残り、広まっていく。そしてこの願望本位の思考法というものは無視できない。なぜなら、人間の心理は、信念を願望で潤色するという、ほとんど普遍的な傾向を持つからである
 」
宗教とは何かといえば、結局のところ、願望充足のための手段ではなかろうか。たとえば、永遠の命が欲しい人は永遠の命を果実とする宗教を信じ、上昇志向が強い人は霊格向上を説く宗教を信じ、人類救済のために働きたい人は人類救済を説く宗教を信じ、霊能力に憧れる人は霊能力を獲得する方法を説く宗教を信じるといった具合である。
 
願望充足、あるいは、欲望、と言えば、否定しやすいじゃろ・・という楽山の願望(顔貌?)~欲望が表れています。深いところが全く見えない楽山です。救いとは、悔い改め、罪のゆるし、祈り、絶対孤独からの解放、などがメインであります。
 
それを、低次元の思い込みで、願望や欲望の充足と受け取ってしまうと、空想による気休めか、空想そのものによる陶酔感になってしまいます。それを、日々、書くことでやっているのが、楽山です。病質によって、実のあることを何も受け取らなかったために起こることです。
 
だから宗教によって知ることができるのは、神のことではなく、真理でもなく、人々はどのような願望を持っているかということになる。宗教とはこの世を超えた大切なことを教えるものというより、人の心の奥に潜んでいる欲望を集積したものだということ。
 
だから宗教によって知ることが出来るのは、救いであって、願望や欲望の充足や仮想の充足が目的ではないのです。そういうことを、楽山は、全く考慮しないか、できないために、決めつけて文句を言ってきます。その結果、言うことの次元が、どんどん、原始的に、かつ、乱暴になっています。
 
宗教が平和でなく、争いをもたらすことが多い遠因は、この辺りのことと関連がありそうに思う。
 
ここで、詭弁屋の楽山らしく、宗教を争いの元だという印象操作をしてきます。楽山は、こういうすり替えしか出来ないことで、既に低次元がバレていることに気づかないのです。
 
*トンデモ批判
私は何か特定の神あるいは神々を批判しているのではない。私はすべての神、そして、いつどこで考案されたもの、あるいは今後されるものであろうとも、あらゆる超自然的なものを批判しているのだ。
 」
この徹底ぶりは、いかにもドーキンスらしい。自分にはとても真似できない姿勢である。
超自然的なものを求めるのは人の性であろうし、この性向は人が人である限り、決して無くならないだろうけれども、それだけにドーキンスの言葉によって迷信や妄想の惑わしから目が覚める人も生まれ続けるだろうな。
 
あらゆる超自然的なものに反感を覚えるなら、著者は、楽山を凶悪な敵として、ボロクソに言ってもおかしくないでしょう。霊が分かるっぽい自覚の楽山は、ネットでの引用は、バレにくいということを好きなだけ悪用して、自我を満足させて、実は、国際的な人類の敵になりつつあるのです。
 
超自然的な、即ち、超常を、何よりも大好きなのが、楽山です。だから、宗教と信仰についても、超常の空想からのストーリーや屁理屈しか言えず、心のテーマと問題を全く扱えずに書いて排泄してくるのです。どこまでも不潔な下水道にしかならない楽山です。
 
*正義と宗教
彼ら(テロリストたち)は悪によって突き動かされているわけではない…彼らは…自分たちが正義であり彼らの宗教が語りかけることを忠実に追究しているのだと感じることによって、突き動かされているのである。彼らは精神異常者ではない。彼らは宗教的な理想主義者であり、自分なりに理性的なのである
 」
正義と宗教が結びついた場合、どのような悲劇が起きうるかは、多くの人々が承知していることではある。
にも関わらず、この悲劇はなかなかなくならないのだからたまらない。
 
楽山のように、最初から、悪意をもって、宗教と信仰を悲劇の原因とみている者は、救われないばかりか、他者のための救いに至る道を閉ざして、悲劇を助長していると言えるでしょう。
 
捏造した妄想と嘘と詭弁を弄して、宗教と信仰をディスっている楽山こそ、救いがたい悲劇の種となっています。つまり、楽山は、決して、放置しておいてよい存在ではないのです。
 
*無知と教育
あなたが若い地球説の信仰者なら、あなたはバカなのじゃなくてただ無知なだけかもしれない。幸い、無知は治癒可能だ。科学本を読んでみると良い。
 」
ただ知らないだけなら学べば済むことであるが、学ぶことを拒否するのであればどうしようもない。
宗教には禁書を指定して信者の学びを妨害するところがあるし、信者は信者で自分は既に真理を知ったと思い込んでさらなる学びの意欲を持たない者がいるから残念だ。
 
楽山は、学習することが出来ない人です。自己愛性パーソナリティ障害NPDによる訂正不能のためだろうと思います。学者気取りで、学んだのじゃ、偉いのじゃ・・という三文芝居で、読者をだましてまで、自分を偉く偉く見せてきます。実際は、ゴミをまとって人間をやめているのです。
 
*創造論と天動説
創造論者は現代における、太陽が地球を回ると信じていた天動説支持者と同等だ。しかし、天動説ですら、ある程度の証拠に基づいていた。少なくとも、地球と太陽が存在してることは分かってるからね。
 」
そう言われてみれば、たしかにその通りだ。
天動説は、地球や太陽が存在するという事実から出発しているが、創造論は存在するかどうか分からぬ神は存在すると仮定した上での話になっている。
 
「たしかにその通りだ」などという楽山の誘導に乗らないでください。天動説にも劣るという言い回しで、宗教と信仰の愚かさを吹き込んでいます。なお、創造論が、神についてなら、そのような論は成立しません。神は、人の論理などには乗らない御方として仰ぐべき絶対者であります。
 
*万物の霊長?
大多数の人間の思想家たちは、チンパンジーを出来損ないで見当違いの化け物とみなす一方で、自分たち人間は全能への踏み台だと思っている。進化論者からみればそのようなことはありえない。一つの種を他の種より上に見る客観的根拠など存在しないのだ―ロバート・トリヴァース『利己的な遺伝子』の序文
 」
 
ここもそうですが、今までの著者の言い分は、昔からあるところの進化論と天地創造との論争のように思えます。しかし、科学でも、神学でも、神を語りつくすことは、決して出来ません。このことについて、どちらが真理であるかなどには興味も必要もないからです。
 
自分は以前は、人と動物は全然別ものであると考え、両者を同列に論じるのはナンセンスだと思っていた。ただ進化論について自分になりに調べるうちに、人と動物は断絶しているのではなく、連続していると考えるようになってきている。
 
惑わされないでください。そう言えばそうだなどと思わないでください。進化論は仮説です。創造論は宗教からの解釈に過ぎません。分からないと、なぜ、言えないのでしょう。
 
楽山は、進化のプロセスを知っているわけでもなく、勉強したわけでもなく、ヒトと動物の違いを学んでもいないのです。自己満足の材料を漁っているだけです。
 
そしてその結果、他人の不道徳な言動に腹が立つことが減ってきた。その人がそのような生き方をしているのは必ずしも向上心に欠け、精神性が低いせいというわけではなく、幾世代もの長い年月を経てそういう風に進化してきたのであり、本人の意志だけでは変えようもないことであるから、横から苦情を言っても仕方がないと思うようになったのだ。
 
楽山は、自己愛性パーソナリティ障害NPDのために、精神性が低く、「向上心に欠け」ていることを、個人の意志では変えようもないと自分を慰めています。しかし、この記事もそうですが、横から苦情ばかりを執拗に言ってくるのです。
 
「腹が立つことが減ってきた」・・嘘です。あらゆる感受性が鈍感になってきて、ますます酷いことになりつつあるとは言えるでしょう。しかし、楽山には根深い怨念があると思います。それは、しばしば、楽山が理解できなかった宗教と信仰に向かっているのです。
 
他の人の場合はどうかはわからないが、自分に関しては「人を裁くな」という宗教的な戒めを守るためには、人は動物とは根本から異なり、霊的に特別な存在だと信じるよりも、進化論的に考えた方がよいらしい。
 
 (マタイによる福音書、口語訳)
7:1
人をさばくな。自分がさばかれないためである。 
7:2
あなたがたがさばくそのさばきで、自分もさばかれ、あなたがたの量るそのはかりで、自分にも量り与えられるであろう。 
7:3
なぜ、兄弟の目にあるちりを見ながら、自分の目にある梁を認めないのか。
 (マタイ7:1-3、新約聖書)
 
楽山の嫌がらせでしょうか。よくもまあ、この聖句を引用したものです。どういう誤読なんでしょう。この聖句は、動物は関係ありません。霊的も関係ありません。進化論も関係ありません。良心だけが必要です。人を裁けば、自分がさばかれるという意味が書いてあります。
 
つまり、人を裁けば、自分も同じように裁かれるということです。一般的には、人のことを言えたガラか・・という言い方もあります。まさに、楽山は、人格がメチャクチャなのに、人のことばかり言っています。楽山には、反省して、学習し、自分を修正する機能がないのです。
 
 
寒いくらい的外れ

寒いくらい的外れ
 
 
(2021年09月18日)
 
 
 
  二人の背教者
 
神を信じる者が多いある国に、裕福で知恵と知識に富み人々からも尊敬されている一人の学者がいた。長く神と信仰について学んだすえに、彼は公然と「神はいない」と言い始めた。くりかえし言い、手紙や書物にも書いたので人々はとまどった。彼は指導者であり、その影響力が大きかったからである。他の学者がなだめても改めようとしなかった。多くの人々が、狼狽し、つまずいた。
 
裕福でもなく知識も乏しく人々からも軽んじられていた一人の身なりの貧しい者が彼に会って言った。
 
 あなたが神はいないと思うのはあなたの勝手だし、そのために祈りも礼拝もしないとしてもそれもあなたの勝手だ。信仰は誰にも強制されない。あなたは自由である。それだけなら裁きはあなたにだけ及ぶだろうし、私には何の権限もなく、また裁くのは神であって人ではないからだ。しかしあなたは誰もが知るところで公然とそれを言って、神と信仰を否定した。
 
 全く神はいないかのような人の世である。まやかしはあっても預言もなければ奇跡もないような災いに満ち、私も教会に礼拝にも行かず私の命は絶え入りそうである。
 
 しかし神様だけを頼みとして生きている貧しい人々がいる。あなたが彼らに会い説得し彼らのひとりひとりの人生をすべて背負い信仰以外の別の方法で彼らを救えるというのなら公然と「神はいない」と言うがよい。
 
 
  偽物
 
真実を悟っていると少しでも思うときには
たとえば信仰について
いちばん信じていることに
自ら偽物の称号を与えてごらんなさい
少しはへりくだった気持ちになれるでしょう
少しは自ら信じることに嘘がないか
内省してみる気持ちになれるでしょう
それを謙虚と呼びたいのです
 
人は人が知るべき真実に
近づき触れる機会を与えられていながら
見かけの美しい言葉で飾らなければ
理屈で辻褄を合わせ思いで納得しなければ
真実として人前に出せないような気がして
どこにも響かない空気の流れや
派手な排泄物にしてしまうのです
 
 
 
 楽山のツイッターですが
 
心機一転★こも楽山
@komo266
HS的には、悟りの高い人は、相応の実績を示し、世間からも評価されることになってたと思う。
ある意味、悟りの高低は客観的には語れぬが実証は可能ってことかな。
この点、Pさんはツイッター上では自画自賛はあれども、実績および評価に乏しく、悟りの高さは実証できてないですね 顔文字(ぐるぐる目の顔)
 
楽山は、悟りを、高低で表して、実証可能と言って、他者を批判しています。楽山が、悟りというものを、どう考えているかが、恐怖であります。何でも分かる超能力くらいの理解なのでしょうか。
 
悟りは、救いの表れです。偉くなることではありません。
 
楽山は、何か自力の境地のようなものを考えているようです。楽山は、今も、自力の達観のような悟りしか考えることができないようです。自分はどうなのかを、全く考えないで、他者の実績を測って評価し判定するとは、呆れます。
 
楽山は、本当に脱会したアンチなのでしょうか。大いに疑問です。しかも、自己正当化として、自画自賛が、いつも表れてきたのは、楽山こそ典型であり、世間からの評価も、学者気取りで見かけだけ装ってきた楽山において顕著なことであります。
 
信仰において、悟りというなら、それは、人間の心に響くこととして与えられ、高い低いということはありません。救いは、正直な告白の祈りにおける癒しと安らぎであり、孤独からの解放であり、生きるときも、死するときも、救い主の同伴という信仰の恵みを受けることなのです。
 
自分を見ないで、人をあざ笑う楽山です。自己愛性パーソナリティ障害NPDは、自分は既に完成しているという妄想なので、それで、反省もせずに、せっせと愚にもつかぬ詭弁の文章を投稿してくるのです。いつも、言い方を変えても、自己中の慢心が表れる物言い・・実に気色悪いです。
 
 
 
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  楽山のよいしょ倒れ
 
 「リチャード・ドーキンスbot」を見てみた。(3)信仰について
 2021年09月15日 楽山日記(LD)
 
 
病識がなく、自分を見ることの出来ない楽山が、いつものように、得意気に書いてきます。楽山の言は、論になっていません。言論に必要な、語る節操も、聞く耳も、持っていないからです。どれだけの有名人を巻き添えにして、詭弁を弄するのでしょう。病の根深さを思わずにはいられません。
 
単純に言って、無反省と無責任で、訂正不能であれば、言論する資格はないのです。他にも、楽山の病質については書いてきましたが、病質のために、どこまでも舐めてかかって、まともな話は通じないし、交流ができない以上、だましてくるだけですから、楽山に未来はないと思います。
 
*つづき
前記事に続いて、ドーキンスの名言についての感想を書いてみたい。
 
一日も早く、楽山が何も書かなくなる日を待っています。あらゆる言論の害悪です。
 
*信仰と無責任
信仰とは、根拠について考え評価することからのご立派な責任回避の口実である。信仰とは、証拠の欠如にもかかわらず、あるいはそれゆえの、信念のことである。
 」
これらは随分と辛辣な批判だが、前者については、自分かかつて所属していた宗教団体では、長く信者を続けている人は、信仰の根拠について深く考えることを放棄した人ばかりだったことを思えば合点がゆく。
 
信仰の根拠は、心にあります。ゆえに、理屈屋に届くことは、永遠にないでしょう。一部のカルト批判から、信仰そのものへの批判と否定を企んでいる楽山は、自己愛性人格障害の宿命のように、人間として、どこまでも、偽物の標識を持って、廃棄される吊り橋へ向かっているようです。
 
後者については、司馬遼太郎も似たようなことを言っていたと記憶している。思想や宗教というものは、その出発点は空であり、嘘である云々と…。
率直に言って、信仰というものは本来あるのかないのか分からない神をあると断言するものであろうし、その根本は空言、もしくは嘘といわれても致し方ないものではある。
 
楽山は、また、有名人の口を悪用しています。楽山には、自らを空しくする"空" という思想は分からないと思います。私も、完全に分かったわけではないですが、分からないという自覚はあります。自覚がないのが、楽山です。だから、どこまでも、嘘吐きという評価しか生まれないのです。
 
*信仰批判
今こそ、信仰に対し批判をしていくべきときだ。
午後7:39 · 2021年9月2日
 」
 
シュプレヒコールでしょうか。信仰が人類の敵だという悪意の前提が見え見えです。
 
ドーキンスの言葉には共感することは多いが、さすがにこういうところは扇情的にすぎるようだ。
自分は、信仰は人の性であり、撲滅することはできぬものであろうし、それならば信仰にはさまざまな難点があるにしても、違法行為や人権侵害がない限りはさして批判する必要はなく、人それぞれ自由でよいとする他なかろうと思う。
 
このように、有名人の言を利用しながら、自分はそれよりも上だという満悦からの印象操作を忘れないのが、楽山です。それによって、全ての言論者の敵であることが明らかになってきたのです。書けば書くほど、楽山の我欲と傲慢と卑怯さが、あらわになるでしょう。
 
道徳や人間の尊厳を無視した訂正不能の妄想的な、宙ぶらりんの思い付きを、得々と語ってきたのが、楽山です。違法行為の取り締まりは警察の仕事です。楽山のような、節操と道徳に反する非人間には、徹底した批判を続けるしかありません。
 
楽山には独自の思想はありません。その時その場の、ちょうどいいものを、自分がひけらかすことによって、自分だけを高めているつもりなのです。楽山の、ボクはこんなに善い人アピールを受け入れてしまうと、楽山の従属物となって、自分を見失ったまま、良心を失ってゆく病魔が待っています。
 
楽山は、誰にも共感することはないでしょう。ただ、病気のエゴのために悪用しているのです。だから、人を人とも思っておらず、無視と裏切りは当たり前なのです。楽山は、無自覚に、無反省で無責任ですから、最終的には、何らかの圧力か強制力をもって排除されるしかないのです。
 
*信仰と癒やし、議論
それが「慰めになる」という理由で何かを信じようとする人を、どうして真剣に取り合えるというのだ。
 」
これには、その信仰は真実であるかどうかという議論と、その信仰による効果はどのようなものかという議論をごちゃまぜにしているがゆえの混乱がある。
 
楽山に、そういう分別があったなら、今までの単方向で訂正不能で、随時忘却によって責任逃れしながら惑わしてくるような災いはなかったはずです。混乱をもたらしているのは、他者を好きなように悪用する楽山その人であります。有名無名に関わらず、悪用の犠牲となってはいけません。
 
信仰に関する議論は、大雑把に言えば、①その信仰は真実であるかどうか? ②その信仰は真実であると感じられるかどうか? ③その信仰による効果はどのようなものか? というものがあり、それぞれまったく別の問題である。
 
信仰が真実であるかどうか、効果が何か、これは主観的な感慨であり、最終的には、神が裁くことです。しかし、真実と、真実であると感じることを、楽山は分けろと言っています。はっきり言えば、人間が言う真実は、皆、真実と感じることです。できないことを要求して、否定する詭弁です。
 
楽山は、箇条書きにして論理的に見せかけてきますが、信仰の、真実性も、感受性も、効果も、何も分かっていない楽山は、屁理屈でだましてくるので、決して相手にしてはいけません。楽山は、受け入れられるような文章の体を装うだけで、何度も言いますが、何の責任も負う気はないのです。
 
「別の問題」ではありません。信仰者は、その人生において無責任ではありません。いかなる罪も認めず、いかなる責任も負わずに済まそうとするのは、楽山という自己愛性パーソナリティ障害NPDだけです。こういう詭弁は、いずれ、想像を絶する重さをもって、楽山にのしかかるでしょう。
 
信仰は、その真実も、感受も、効果も、信じた者に暗示されるだけです。どうして、神の意志が、人に、手を取るようにわかるでしょう。本質的な不可知、未知、不明を、分かるものであるかのような言質によって、悪用してきたのが楽山です。頭がカチカチ山の楽山です。
 
それにも関わらず、信仰者の中にはこれらの問題をごちゃまぜにして、「この信仰によって大きな慰めを得たから、これは真実に間違いありません」とか、「この信仰は真実です。もし真実でないなら、これほど人々の心に訴えかけ、感動を起こさせるわけがないのです」とか主張する者が多い。信仰者は②③を持ち出すことで①について語っているつもりになりがちなのだ。
①についての議論が困難なのは、こういう混乱に原因があると思う。
 
だから、信仰には、信じるか信じないかの自由があるのですが、それを認識できない楽山は、全部を、いちゃもんの材料にしてしまうのです。一部の体験について、全部であるという言いかがりで責めています。つまり、信仰の自由の、最も凶悪な迫害者は、楽山であります。
 
信仰者は、相手を安心させるために、自身の体験を語ることがあります。それを揚げ足取りに悪用する楽山は、無知と無教養という揚げ足を取られて、さらに詭弁と嘘を重ねて保身を図ることで、人の世界で赦されず、神の世界ではさらに赦されない害毒の泥沼をさまよう者となりました。
 
*信仰は悪である!
本当の意味で有害なのは、子供に信仰そのものが美徳であると教えることである。 信仰は、それがいかなる正当化の根拠も必要とせず、いかなる議論も許さないという、まさにその理由によって悪なのである。
 」
 
著者は、議論を許されなかった恨みがあるのでしょうか。前の記事のように人をマヌケ呼ばわりして許されると思うほうが無理でしょう。さらに、それを、楽山というペテン師に、まんまと悪用されています。クレームが来ないことをいいことに、楽山は、悪用の罪業だけを積み重ねてきました。
 
信仰についても、共感に基づく議論は可能ですが、楽山のような反キリストで訂正不能の変質者とは永遠に不可です。楽山は、糞尿を引っ掛ける者、今もそうです。善悪と正邪だけでなく、精神衛生において、楽山は極めて不潔です。
 
子供の宗教教育は程度問題ではなかろうか? その土地や民族の宗教的な文化伝統が自然な形で子供に伝わるのは必ずしも悪ではなかろうが、あまりに厳格な宗教教義を子供の頭に刷り込もうとするのは児童虐待であろうし、明らかに悪である。
 
程度問題ということを、いい加減かいちばん、という詭弁に誘導するのが、楽山です。信仰の真実も感受性も効果も、楽山は何も分かっていないからです。そして、強引に、児童虐待に結びつけています。悪魔性が明らかです。善を装う悪の姿が、これです。
 
信仰と議論については、まったくその通りだ。特定の信仰を絶対視し、その妥当性について議論することさえもゆるさないというのではあまりに高慢で独善的にすぎてまったくお話にならない。
 
楽山の、曖昧さと、いい加減さでは、病原となるだけで、誰も救うことは出来ません。楽山の言のベースには、何でも分かるつもりの傲慢があります。専門用語も、日常語さえも、理解せずに使いまくって、単方向に暴発を繰り返す悪魔性が、一日も早く消滅することを祈っています。
 
楽山の自己愛性パーソナリティ障害では、誰に教える資格もないと思います。本人が、それを自覚できないのも、この障害の症状ですが、巻き込まれる側にとっては、死活問題です。危険な圏内に入らないことだけが予防策となります。楽山こそ、全くお話にならない人です。
 
楽山の言は、質の悪い睡眠薬のようなものです。幻覚剤併用みたいなペテンです。むしろ毒物ですから、副作用として、知情意が鈍麻し、人格破壊が起きます。楽山と同じように、嘘と詭弁で人をだまして平気でいるような、うっすら、ぼんやり、どんよりした不感不応の自己中になるでしょう。
 
楽山は、アンチとしてカルト批判をしているつもりのようですが、宗教と信仰についての見識が、あまりに、杜撰(ずさん)で、視野狭小で偏屈で、未熟なのに、反面、自尊だけが過大であるために、妄想性にさえなっていて、自己愛性人格障害のインテリ気取りの迷惑症例となっています。
 
楽山は、何もうまくいかない人生だから、芝居を覚えたのでしょう。しかし楽山は大根です。さらに、嘘と詭弁と一体となるゆえに、ますます害悪となってきました。しかし、自我の弱い人は、だまされるかもしれません。それに味を占めた楽山が、好都合な言葉を漁り続けているという現状です。
 
肯定と否定を両方言ったら責任問題は生じないというのが楽山の言論の姿勢です。言論にプラマイゼロはありません。責任を負わず、反省もせず、訂正もしない体質的病質者が楽山です。何度も言いますが、言論の責任を負わない者に、言論の自由はありません。楽山は、全否定され続けるのです。
 
 
だますために生まれたのか

だますために生まれたのか
 
 
(2021年09月17日)
 
 
 
  責める
 
書いた文字が
起き上がって
僕を責める
何と言って責めているのかわからないが
書けば書くほど責める
立ち上がった文字が
二人寄り三人寄って
言葉になって責める
しまいには
まわりいっぱいになって
うるさく責め続けるので
紙を破って
丸めて捨てる
書きかけの文章を捨てる
静かになった
と思ったら
捨てた紙の間から
はい上がった一人が
弱々しい声で言った
うそつき・・・
 
 
  さぐる
 
時を探っていた
恐らく一生わからないであろう
時間というものを加えた四次元を
三次元の頭で探っていた
 
寝床の中である
夢か現(うつつ)か
限りなく沈んでゆくようだ
限りなく、というもの
無限を枠に嵌(は)めるようなものだ
できるはずもない
頭も心も三次元であるかさえわからない
最近とみに平べったいから
潰れてぺちゃんこにならないうちに
自分を知りたかった
関りと拘(こだわ)りと無関係と無関心
で過ぎてきたことになって
今ここにいる自分を
 
自分の記憶の中にしかいない自分
それさえも忘れやすい自分
実体が欲しかった
眠りに落ちてから
底知れぬ旅に落ちてから
捕まえたかもしれない
でも目覚めたときの仕種(しぐさ)は
その記憶さえ消し飛んでいて
回る走馬燈の中の
残り少ない蝋燭(ろうそく)の
小さい炎に変わる前の
油の蒸気を探るようなものだ
 
 
(昔々・・)
 
 
 
 楽山のツイッターですが
 
心機一転★こも楽山
自分には自分の臭いは分からないというけど、Pさんもそれだね。Pさんからは自分教の臭いがぷんぷんしてるから、自分教といわれる。一字一句を吟味した上でそう結論づけてるわけではない。
一字一句にこだわってるのは、鉤括弧を多用するPさんの方ですよ。Pさんは自分教の教条主義者みたいです。
午前6:53 · 2021年9月16日
 
「自分の臭いが分からない」のも、「自分教」も、楽山にぴったり当てはまることです。アンチであるかどうかの問題ではなく、楽山は、異常者です。しかも、体質的な自己愛性パーソナリティ障害NPDです。無反省、無責任のままで、一生過ごせるとでも思っているのでしょうか。
 
楽山が、誰かのことを言うたびに、ブーメランになって、楽山に返ってきていることに、楽山だけが気づかないのです。ここまで、自己愛性人格障害は、分からない人になってしまうということです。それこそ、"撲滅同盟" でも作らないと、解決しないことなのです。
 
また、楽山には、「一字一句を吟味」どころか、他者の意見など、都合が悪ければ、ひと言も受け取らないし、覚えてもいないでしょう。それで、人に対して何か意見や批判をすることなど、決して、できません。それさえ分からない人ですから、楽山を相手にしないでください。
 
人格障害というのは、昔、精神病質と呼ばれた体質の病気で、精神病と違って、有効な薬がありません。関わらないこと、相手にしないこと、批判するなら人格の異常を批判することが必須になるのです。批判するなら、不感不応の楽山には、不感不応の病質を指摘するしかないわけです。
 
人格を批判してはいけないというのは正常人の場合です。正常な関係性が成り立つ場合だけです。とうに、言論を慎んで、おとなしくしていることが必要な病質なのに、なおも、しゃしゃり出てくる楽山に対しては、病的な人格について、直接、批判してゆく以外ないのです。
 
楽山には、自慢できることも、他者が評価できることも、全くありません。それをごまかすために、婉曲的な屁理屈のボンヤリ言語という丁寧語を使い、同情を誘うためにトホホ言語という謙虚芝居や嘘の弱音や世辞を言ったりします。楽山は、まとものつもりだが、しばしば、寒気を感じます。
 
しばしば、作為的に、自分が言われそうなことを相手に向けてきます。上のツイートもそうです。病質のために、人に言っても、自分が言われても、実感と実質がないのです。だから、何を言っても言われても、平気で無視して、罪悪感を感じないでいられるのです。
 
楽山の言は、嘘と詭弁に満たされ、良心の欠損を表すだけです。楽山の言には、三文芝居のセリフはあっても、人間らしい温もりと潤い、つまり、思いやりと悲しみへの共感が見られません。乾燥しボンヤリして焦点を外した良さそうに見せるだけの言葉面はあっても、真実の欠片もありません。
 
ですから、楽山の言は、何の参考にも糧にもなりません。こちらとしては、体質的異常者の劣悪さを、資料とするために、批判を続けています。楽山が書けば書いただけ、それは、悪い言葉の例として、嘘と詭弁の具体例として、病質を表す資料となってゆくのです。
 
例えば、医者は、精神病でも、精神病質でも、ことを荒立てないことを優先します。説得して、表面的でも治まれば、それ以上は言わないでしょう。そういうことを、半端な知能で知っているところが病質者の狡さなのです。だから、丁寧語、世辞、甘い言葉・・などを多用するわけです。
 
 
 
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  楽山のよいしょ遺伝子
 
 「リチャード・ドーキンスbot」を見てみた。(2)
 2021年09月13日 楽山日記(LD)
 
 
自分で理路を組み立てて自分なりの主張というものを書くということが出来ない楽山は、常套手段として、学者などの有名人の話を読んだとばかり、持ち前の見え透いた世辞で褒めまくって、自分も同じ立場にいるインテリだというふうに見せかけようとしてきます。
 
(ネットより)
クリントン・リチャード・ドーキンス(Clinton Richard Dawkins, 1941年3月26日 - )は、イギリスの進化生物学者・動物行動学者である[1]。The Selfish Gene(『利己的な遺伝子』)をはじめとする一般向けの著作を多く発表している。存命の一般向け科学書の著者としてはかなり知名度の高い一人である。
 
*つづき
前記事に続けて、ドーキンスの名言について感想を書いてみたい。
 
以下、言いたい放題の、どこが迷言なのでしょう。
 
*ダーウィン
利己的遺伝子説はダーウィンの説である。それを、ダーウィン自身は実際に選ばなかったやり方で表現したものであるが、その妥当性をダーウィンはただちに認め、大喜びしただろうと私は思いたい。
 」
これはドーキンスに対する最大の賛辞にちがいない。
 
誰が誰を褒めたと言っているのでしょうか。ドーキンスは現代の人、ダーウィンは19世紀の人なのですが。
 
(ネットより)
チャールズ・ロバート・ダーウィン(Charles Robert Darwin ([tʃɑːlz 'dɑː.wɪn]), 1809年2月12日 - 1882年4月19日)は、イギリスの自然科学者。卓越した地質学者・生物学者で、種の形成理論を構築し進化生物学を発表した。
 
*人という生存機械
我々は、遺伝子として知られる利己的な分子を保存するように盲目的にプログラムされた、機械的な乗り物としての生存機械なのだ。これは、私の心を驚きで満たしてしまう真実である。
 」
こういう考え方は、以前の自分であれば絶対に受け入れることはなかったのであるが、最近はさして抵抗を感じなくなっているのだから、我ながら不思議だ。人は変わるものだということなのだろうな。
 
この人たちの話に大きく欠けているのは、人間が機械だとしても、それだけでは何も変わらないということです。どう生きてゆくというのでしょう。オートマチックに生きるのでしょうか。それとも、楽山が言っていたような、自らのあらゆる問題を無視する自己中の生き方でしょうか。
 
受け入れようが、受け入れまいが、明らかになっているのは、楽山が、人間を機械だと思いたいこと、そして、機械だということだけで大喜びしている、という奇怪さであります。
 
*利己的な遺伝子
この本の主張は、我々、そしてすべての動物は、遺伝子によって作られた機械であるという事だ。
 」
マーク・トウェインの『人間とは何か』を読んで、人間機械論には合点がいったのではあるが、ドーキンスの『利己的な遺伝子』を読むことで、人の利他的行為の背景についてさらに深く考える切っ掛けを得られたのはよかった。
進化論は肉体の進化に関することだけだと思い込んでいたのだけれども、人の行動および心理に関してもさまざまな謎解きをしているところには感動を覚える。
 
楽山は、短絡有頂天を喜んでいるだけで、深く考えてなどいません。さらに、楽山には、自己愛性人格障害からの利己はあっても、利他的なところは、全く見られません。それを、機械だからと言って正当化するつもりでしょうか。いったい何を悦んでいるのでしょう。
 
利他的行為の背景に機械?・・何も明らかではありません。考えるきっかけには、全くならない話です。人間を機械だと見なして、人間らしさを捨ててきた楽山の自己愛性人格障害の人生を思わせるだけなのです。自己正当化も、幼稚な短絡で、ここまで来ると、妄想と言ってよいでしょう。
 
*ダーウィン批判とマヌケども
ダーウィンの進化論に反証など存在しない。しかし、仮に反証されることがあるとしても、それは科学者によってであって、マヌケどもによってではないだろう。
 」
これは辛辣なもの言いだ。でも創造論者による進化論批判のトンデモぶりからすれば、こう言いたくなるのも理解できなくもない。
 
ドーキンスという人は、自己愛が激しそうです。そこでしょう。楽山は、自分に似た有名人がいることを悦んでいるのでしょう。しかし、批判者をマヌケどもと呼ぶことは、辛辣ではなく、暴言になり、その結果、それを悦ぶ楽山のような変質者に、へばりつかれているのです。
 
*地球外生命体と自然淘汰
自然淘汰の説明力は、この惑星の生命に関することだけではない…原理的にはあらゆる惑星での生命に適用できる。もし宇宙の他の場所で生命が存在するとすれば―私の暫定的な予測では存在する方に賭けるが―自然淘汰による進化の何らかのバージョンが、その存在の背後にあることはほぼ間違いないだろう。
 」
どのブログかは忘れてしまったが、もし宇宙人が存在するとしたなら、それは地球人と似た姿をしているだろう予測を読んだことを思い出す。その理屈は、知性を発達させるには大きな脳が必要であり、大きな脳を支えるには直立する必要がある、道具を用いるには道具をしっかり掴めなければならず、そのためには親指と他の指のように向き合った指が要る…という具合に考えてゆけば、宇宙人もきっと地球人の姿とよく似たものになるだろうというものだった。
 
ここで、楽山は、人間世界から、楽山の大好きな人間を超越した地球外生命体に、話が誇大化します。自分のメチャクチャな本性が明らかになってきたからでしょうか、いつまでも、人間外のことや他者のことばかり考えていたいのでしょう。
 
自己正当化が成り立たなくなると、何らかの陶酔傾向へ逃避するのでしょう。しかも、万歳三唱しているような浮かれようです。この楽山の記事では、何も明らかになっていません。相変わらず、構成力と説得力が、楽山には皆無だからです。
 
無神論者のドーキンスが、地球外生物が存在する可能性を否定しないというのは意外な気がしないでもないが、こういうところからするとドーキンスが厳しい宗教批判を続けているのは、頭が固くて超自然的なことを理解できないからではなく、論理的かつ柔軟な思考ができるからこそなのだろうと思えてくる。
 
地球外生物の存在可能性を認めるだけで、「論理的かつ柔軟な思考ができる」ことになるでしょうか。そう言って褒めまくっている楽山には、論理的思考も、柔軟な思考も、情緒的感受性も、一度も見られたことはありません。自分のことを省みない者は、このようになってしまうのでしょう。
 
念のために言っておきますが、キリスト教の信仰は、分かりもしない世界や宇宙を説明するためにあるのではなく、個人の人生の救済のためにあり、キリストは、そのために遣わされたのです。
 
だから、進化論と対決できると思っているような人々は、自分の持ち物を自慢しているに過ぎません。なんだか、学者の間でも、ナルシスト同士の争いになっているのではないかと危惧されます。そして、その争いを、楽山は、全く関係ないのに、たいそう、のぼせて、嬉しがっているのです。
 
今回も、楽山の酷い文章でした。謙虚さを欠いた自己愛性パーソナリティ障害NPDは、自己愛に耐えられるような能力も知性も感性も持たない楽山を、着々と自己破壊に向かわせているようです。
 
 
何も持たずに よいしょ!

何も持たずに よいしょ!
 
 
(2021年09月16日)
 
 
 
  頂点を極める者
 
山頂は常に其処(そこ)から
上には登れないことを示しているのだが
登りつめた者は
まるで空までも征服したかのように
誇らしげに四方を見渡している
高い高い大気と吹き上げてくる風は
なかなか下りようとしない者たちの
有頂天の背後から少しずつ
密(ひそ)やかに帰り道を隠してゆく
 
 
  堂々巡り
 
退くときを弁(わきま)えず
進み具合を測ることも出来ずに
堂々巡りを
二十年以上続けている奴が
ここにいる
まだ続ける気でいる
 
恐れるな堂々巡りを
よく言えば回帰だ
うまくいけば螺旋(らせん)だ
 
下る方が好きなのか
誇りを払いながら
上る方が好きなのか
埃(ほこり)を見習いながら
 
どのみち切りがない
転んでも構わない
転がる間は上も下もない
上も下も気が進まないなら
そのままじっと拝んでいるか
 
変わらなくても変わってる
堂の中には何がある
せめて寝返りでも打って来い
くるくるくるくる目が回る
やっぱり続ける気色の気
何が回帰だ何が螺旋だ
堂の外はどうなってる
 
 
 
 楽山のツイッターですが
 
心機一転★こも楽山
@komo266
「科学」の定義を変えてしまったら、「HSの科学は、一般の科学ではなく、HS独自の科学です」という疑似科学宣言…またはトンデモ宣言になってしまうだろうに、Pさんは何考えとるんだろ?
午後7:02 · 2021年9月14日
 
また、楽山は、人のことを言っています。今回のブログ記事のように、分かりもしないのに、利己的な遺伝子という比喩表現や、人間は機械なのだ・・という説に、大喜びする楽山は、いかなる科学も理解していないと思います。楽山は、無反省・無責任の、トンデモ記事を書く奇怪な機械です。
 
(ネットより)
利己的遺伝子論(りこてきいでんしろん)とは、進化学における比喩表現および理論の一つで、自然選択や生物進化を遺伝子中心の視点で理解すること 。遺伝子選択説もほぼ同じものを指す。1970年代の血縁選択説、社会生物学の発展を受けてジョージ・ウィリアムズ、E・O・ウィルソンらによって提唱された。イギリスの動物行動学者リチャード・ドーキンスが1976年に、『The Selfish Gene』(邦題『利己的な遺伝子』)で一般向けに解説したことが広く受け入れられるきっかけとなったため、ドーキンスは代表的な論者と見なされるようになった。
 
 
 
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