ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

タグ:無節操

 
  信仰の節操
 
 https://ameblo.jp/st5402jp/entry-12555648217.html
 加筆して再録
 おもに偽牧師シャロームshalom 自称ヨシュア、などが言った驚くべき背教コメント。
 
 
● 罪は悔い改めなくても赦されるから気にしなくていい。
  悔い改めは、神が与える。
   (絶対自己正当化、シャローム型)
 
● 見かけだけの丁寧語に皮肉や悪意を込める。
   (丁寧は敬虔とは限らない。偽善者の侮りの特徴でもある。)
 
● 完全になれる。
   (神と人の違いの無理解、自称ヨシュア型、パリサイ型)
 
● 何かをすれば救われ、しなければ救われない。
   (行為義認の主張、善行でないと非難、パリサイ型)
 
● 信仰と関係のない個人情報をバラして罵る。
   (信仰以外で批判、卑怯な罵倒型)
 
● 神の啓示と聖霊の導きなど神聖を根拠とする。
   (全能全知を自分に当てはめる冒涜、神がかり型)
 
● 自己正当化に固執。(同上、正体は自己中)
 
● 他者を無視してよい。
   (思いわずらうほどこだわる必要はないということを曲解)
 
● 神の愛がストーカーのようについてくる。
  (自己愛を信仰に結び付ける、
   キリストを忘れられないことを誇大妄想化、犯罪に喩える?)
 
● 罪に死んだから、罪はない。死んだから、叩いても蹴ってもびくともしない。
   (罪に死ぬ、ということの誤解~曲解、揺るがない信仰の不適切な比喩
    信仰を死体に喩える?)
 
● 命を懸けるようなことを、ことあるごとに言う。
   (信仰自慢、芝居的な讃美。信仰者は豪語しません)
 
● 霊の祟り、悪霊憑き、呪いなどを言い、あと何日などと脅す。
  (自称ヨシュア・マグダラマリヤ型)
  嫌な予感や悪い予想を言うことはあるが、根拠を示せなければただの脅し。
  キリスト信仰に、戒めはあるが、脅しはない。
  キリスト信仰に、報いはあるが、呪いはない。
  キリスト信仰は呪術ではない。
 
● 頻りに讃美と感謝を繰り返し、さらに、自らの悲劇を語り、命をかけるなど大仰なことを言う。
  (自称マグダラマリア型、あるいは、魔女型)
 
 
● 情欲の聖句の「女」を「他人の妻」と書き換えて、キリストの言葉を、不倫はいけませんね・・という、安い道徳におとしめて、人間の根源と、救いの根源を、骨抜きにしてしまうのは、神に対する大罪であります。
● 神を「恐れる」を「畏れる」と書き換えて、神に対しては、恐れるのではなく畏(かしこ)まればいいのですよ・・ということにして、救いの根源を、骨抜きにしてしまう。
  (新共同訳の訳者たちによる聖書の曲解とキリスト教形骸化の過ちあるいは悪魔的な企み)
 
 
 
  《キリスト者も注意・警戒するべき言動》
 
 
「神は、いつも守ってくれる。いつも愛してくれる。永遠に変わらない愛」について、どのように守るのかを、自分の都合ではなく、神に任せるのなら是であります。戒める神、懲らしめる神、試練を与える神を忘れてはいけません。神は、地上での死も与える御方であることを忘れないように。
 
信仰が偽物だったり堕落したりすれば、ずっと神が愛してくれるというのは、妄想です。それは、陶酔感から罪の自覚を失って、神を侮り、むしろ、神の赦しと救いを拒む態度だからです。
 
 
「ほめたたえよ」という聖句があることで、讃美しておれば信仰だからと偽善者やその傾向のある人は盛んに讃美をします。一方で、自分の罪や反省や悔い改めを語ることが全くないのが偽善者の特徴です。
信仰についての発言を、大きく勘違いした的外れは、背教の暴言に等しいのです。
 
神への讃美であるはずが、讃美したから信仰が成ったとばかり納得してしまうのは、心からの讃美ではなく、むしろ、信仰自慢になってしまうことを自覚してほしいです。また、讃美しなければならないという義務を自らに強いるのは強迫神経症の症状です。
 
問題となるのは、発言そのものよりも、その心にあります。神の、愛、恵み、賜物、など、めでたいことばかり強調するのは、特に、継続して繰り返される場合は、カルト傾向です。そこに信仰の祈りや発言が集中してしまうのは、偽善者の特徴であることを覚えてほしいのです。
 
 
私たち信仰者が、いつも考えるべきは、不完全であることの罪の自覚であり、それが敬虔であり、それゆえの罪の赦しであり、それゆえのキリストの共感と愛なのであり、それゆえの神の愛と寛容があり、それが、人を生かす赦しと救いなのです。聖書の教条ではなく、聖書の心を学ぶことが大切です。
 
不完全で罪深い自分を、神が憐れんで、生きてゆける者として、折々の悔い改めを受け入れてくださる御方への、人間が出来る唯一の捧げものが祈りであることを忘れないでください。人の行いなど、信仰の義において何の根拠にもならず、ただ、正直な祈りだけが必要十分なのです。
 
多くの信仰の恵みは、めでたいことばかりではなく、自分が生きるために不可欠の動機~試練として、与えられているのです。悲しみは反省と忍耐のために与えられるでしょう。揺るがない信仰とは、思い込みの確信ではなく、共感であり、それが忍耐強い信仰を生み出してゆくのです。
 
正直に祈ることが悔い改めであります。悔い改めないのは、悔い改めの祈りをしないことであり、神の救いを自ら拒むことです。悔い改めは、信仰者の人生において、しばしば、必要です。洗礼を受けたから安心とか大丈夫とかではなく、洗礼を受けたから、祈りと悔い改めの信仰生活が始まるのです。
 
なお、いつでも、信仰に、キリストのもとに、神のもとに戻ることは可能です。いつでも、正直に祈ることが出来ますし、神は、それを待っておられると思います。それが、神の寛容であり、永遠に変わることのない愛であります。飾らずに、ただ、神の前に、正直な祈りだけを捧げてください。
 
神の寛容さゆえに、神のほうから救いを拒むことはありません。ゆえに、悔い改めの祈りの機会は、それぞれの人の全人生にわたって与えられています。それゆえに、キリストの荷は軽く、神の寛容は絶えることがありません。飾らずに、ただ、神の前に、正直な祈りだけを捧げてください。
 
神の永遠不変の愛とは、祈りにおいて、いつでも、いつまでも、人には言えないことでも、正直な告白と願いを祈り、それを聞いてくださる御方がいるということです。願いの成就は、神に任されており、そこに、信仰者の使命と忍耐があります。その上で出来ることをするのが信仰者の人生です。
 
 
信仰の節操と偽善

信仰の節操と偽善
 
 
(2019年)
(2020年)
(2021年)
(2023年01月06日、再録+加筆)
 
 
 
★こも/楽山日記3
@komo266
こういう意見が出るほどに、自分が手を合わせてる神様に無頓着な宗教観は実に面白い。
なにごとの おはしますかは 知らねども かたじけなさに 涙こぼるる」とはよく言ったものだ。
引用ツイート
島田裕巳@2版出来『宗教対立がわかると「世界史」がかわる』晶文社
伊勢神宮のアマテラスは弟スサノオの前に軍装で現れたし、八幡神は武士が崇めた戦の神。神道と戦というのは深く結びついているので、どの神社に行っても、境内に神明社や八幡社があれば、軍神に参拝したことになる。
 」
午後8:10 · 2023年1月5日
 
「面白い」は嘲笑いでしょう。「神様に無頓着な宗教観」とはよく言ったものです。楽山は、神について知っているつもりなのでしょうか。楽山のように、幼稚な辻褄で神を否定し、人を傷つけてゆく慢心は、知識不足だけでなく、訂正不能の自己愛性からの病的な悪意の偏執です。
 
楽山は、笑うことと怒り憎むことはあっても、「涙こぼるる」ように悲しむ情感を持ちません。だから共感性もなく、神について物を扱うような安易な辻褄で知ったかぶりをします。楽山は、思い上がりの醜態から崩れてゆく人格を表し、慢心して良心のないインテリ気取りの末路にいるのです。
 
 
 
  悪い顔
 
また顔が悪くなった
と鏡の前で気づくか気にするか
また顔が悪くなった
という
顔が悪くなる瞬間というのは
何か嫌なことや
好(よ)過ぎることがあって
あるいは何もなくて
皮膚が乾くのだろうか
変色するのだろうか
顔の肉が強張(こわば)るのだろうか
弛(たる)むのだろうか
特に目や口の辺りの
しかし若(も)しも逆に
年齢相応ですが
少し顔が好くなりました
なんてことが
ないだろうけれど
仮にあるとしたら
身の毛も弥立(よだ)つ
を通り越して
人間は疾(と)うに死んだのに
人体だけ死に損なって
残ってしまったような
顔のどこかに責任が持てるだろうか
 
 
  未熟な象形
 
読解が受け取る側の
誤読と誤解で出来ていて
伝えるべき想いが
思い込みに変わっていて
責任が伝える側の
ただただ未熟さにあったとしても
伝えたい想いがある限り
走るペンが細く描く象形の紙で
不器用に折られた紙飛行機は
やはり飛ばされ続けるだろう
どちらからともなく裏切りとなって
紙飛行機は思いも寄らない方向へ飛び
あるいは落ちて踏み拉(ひし)がれて
たとえ幻滅から失望への傷ついた夜に
沈黙の痛みだけが帰ってきたとしても
未熟は
未だ熟(こな)れないという
未来を持っているし
未熟は何よりも
走ってゆくペンや
飛んでゆく紙飛行機を
止められないほど未熟なのである
 
 
 
心機一転★こも楽山
@komo266
傍から見ての感想だけど、
KENTO氏は継続的にアンチに関連したツイートしてるので、アンチから継続的に反論があるのは当然だし
すぐツイート削除するのでスクショ撮られるのも当然
直接対話を拒否するので、他所でいろいろ言われるのも当然
これはストーキングというより、因果応報だと思います。
 
いつも傍から見て、薄っぺらな感想しか書けない楽山です。楽山は、無反省、無責任に、記事を書いて、そのあとも、責任を負わず、無視して反省も学習もしないのだから、他所でいろいろ言われるのも当然で、批判されるのも、「ストーキングというより、因果応報」となってゆく自己中の必然です。
 
楽山は、他者を批判しますが、その批判が、不思議なくらい、楽山に当てはまってしまいます。それに、書いてくることも、大方、雑言の類で、何か生きるヒントになるようなことなど、一度も書いたことはないのです。書けば書くほど、楽山の言が、楽山を責めることになるブーメランです。
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
 
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
楽山関連の罪と偽善: 無反省で謝罪しない。世辞か、嘘と詭弁。自己中。非を認めない。無責任で、弁明できない。理路も情感も未発達。笑いと怒りと憎しみだけで、しんみり悲しむ情がない。不祥事を人のせいにする。自己愛性パーソナリティ障害NPD(自己愛性人格障害)。
 
楽山の因業は、改まることがありません。いつも、楽山の通念的な言葉が表すのは、そういうことしか書けない楽山の体質的異常の証拠になってゆきます。反省せず、責任を負わないでいると、結局、同じようなことしか書けない無学習のもたらす貧相な悲喜劇だけを表すことになってゆきます。
 
 
 
楽山の害毒メモ:
 
今までに表れてきたこと。これは、楽山に限らず、聖書においてキリストの敵となった宗教指導者や、世に数多いる偽善者の特徴でもあります。この世で最も迷惑な人の特徴です。楽山は無責任です。決して信用しないでください。しかも犯罪行為に及ばなければ強制的に抑制は出来ません。
 
楽山は、1つのことを書いて、別の時には、それに反することを平気で書いてきます。そこで、反省、修正、というステップを置かず、あたかも最初から思っていたことのように書いてきます。自分に誤りを認めない自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)だからです。
 
偽善者の特徴でもあります。
 
人格:
自己愛が強く自己中である。
笑いと怒りしかなく、悲しみの情がない。
共感がなく、罪悪感がなく、反省しない。
自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)と思われる。
平気で嘘を吐く。様々な詭弁を弄して誘導し、柔和に見せかける。
深い情感がなく、共感性がない。相手が疲れるのを見て快感を得る。
後悔、反省、修正ができない。学習による成長がない。
罪悪感、羞恥心が見られない。サイコパスと思われる。
アドラー心理学の宣伝をしていた。自己中心である。
中身や実質のない形骸的精神機能しか持たない。
 
奇怪な単細胞。
 
議論:
議論や交流が、表面的で、整わないし、できないし、元々する気もない。
相手の意見を受け取っていないので、反論、弁明が成り立っていない。
理路が常識的にも浅く、基本的に訂正不能である。理解力がない。
自分なりの堅実な理路を組み立てられない。
読書自慢。感想は平板で、独創性や深みがない。
様々な気取り。読書家気取り、評論家気取り、インテリ気取りなど。
分かっているという我執から離れられない。
非を指摘されると、逆に、こちらに当てはめて被害者面をする。
人を批判~誹謗中傷するが、その言葉で自分が斬られるブーメラン現象。
真面目に応答~議論すればするほど、病的な徒労感と疲労のみをもたらす。
ボンヤリ言語:語尾を濁し曖昧で婉曲的な言い方で、印象を刷り込もうとする。
トホホ言語:謙虚で弱いと思わせて悪意を隠すための嘘の芝居。
しばしば、自身への同意を期待して、見え透いた世辞を言う。
「反省。とほほ」などと書くが、不自然であり、前後で何も変わらないので嘘です。
騙して、言い分を詭弁や嘘で通そうとする、通っていると思い込む。
 
訂正不能の偏執。
 
宗教:
反キリスト、反宗教。聖書およびキリスト信仰を、貶めてくる。
精神構造はカルトに似ているので、無神教カルトと呼んでいる。
キリスト教とキリスト信仰を字面だけで云々し、理解していると思い込む。
HSを脱会したと言っているが、真実かどうか、疑わしい。
霊能者のつもりだが、それに見合う直観的洞察は皆無である。
 
慢心して中身の無い形骸。
 
楽山の書いた文章を、3年数か月のあいだ見てきた結果ですから、大きく変わることはないでしょう。これらについては、新しい情報によって、必要なら加筆し、繰り返し載せることになるでしょう。
 
 
 
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  楽山の大余言
 
 2022年10月06日
 戦争は与える愛なのか? それとも奪う愛なのか?
  を批判。
 
 
まだ、楽山は、懲りないようです。思考の散乱と、感性の欠如、良識への侮辱を続けています。問題にしないでください。楽山は、自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)によって、自慢をしないではいられない体質的な病気なのです。楽山は、マンガと同じ興味で戦争を語ります。
 
 
★こも/楽山日記3
@komo266
>>(引用)
それこそ、お釈迦さまやイエス、モーゼ、そして人類の歴史を否定する考えでしょう。神仏がいることが妄想で、それを人間が何千年も続けて来られるわけがありません。奇跡だって起きます。神仏の存在を証明してきた人たちは過去に多くいますが、その逆はいません。
神仏の存在を信じてるんですか。
<<
神は信じるのではなく、感じるものです。
例えば神社などで、神の存在を感じているときには、神を信じるかどうかという思念が浮かぶことはないものです。
だから私は、ORのように神を信じるかどうかを問うのは、神を感じない人の議論にすぎないと思ってます。
午前10:40 · 2022年10月9日
·Twitter Web App
 
楽山は、神を感じるのだそうです。教祖願望でしょうか。その経過は、小学生にも劣る感じ方が記事に表れてきました。雰囲気と信仰は違います。つまり、楽山の大嘘です。楽山は、神はもちろん、必要なことを何も感じていません。鈍化した情緒と、嘘と詭弁で、弱い人をだましてくるペテン師です。
 
相手が楽山を受け入れると悦に入り、反対すると、詭弁の迷路に誘導して疲労を与えて退けるわけです。だから、楽山に、賛同、共感、などを示すと、被害者~犠牲者になる恐れがあります。楽山の粘着する筆致は、まるで実感がなく、ホラーに相当するほど、詭弁と危険に満ちています。
 
楽山は、神の偶像をでっちあげて、自前の屁理屈の辻褄で、神を、紙のように扱って、否定してきました。しかし、出来の悪い小学生レベルの屁理屈で、混乱させてくる策略に過ぎず、読み取れる中身は皆無です。楽山の言には、紙ほどの価値もありません。
 
楽山は、今までと同じように、ひょっとしたら加速して、どんどん醜くなってゆきますから、相手にしないでください。自己愛性人格障害のために訂正不能の高慢によって思い上がった先には、その無反省からの学習不能の報いが、人格崩壊となって表れてきます。楽山は、その途上にあるのです。
 
楽山は、人の話は聞かないし理解もしないが、自分の意見は言わずにおれない、そして、嘘を吐き、詭弁を弄していながら、まともに受け取られていると思っている楽山です。これほど嫌な人はいないでしょう。インテリ気取りで、分かっている自分を装っているさまは、醜悪さ、極まりないのです。
 
 
*戦争は奪う愛では?
  ツイッター上にて、ロシアの戦争を支持しているHS信者に、戦争は奪う愛ではないかと問うたが、スルーされてしまった。
 
楽山は、平気で、他者の自我の領分を犯し、他者の精神を混乱に陥れる病質者です。永遠にスルーするべき対象でしかありません。自己顕示欲を満たすために、余計なことを書いてきますが、楽山には、対等に議論する資質がありません。無反省、無責任、無理解の、頑迷な類人格です。
 
 
★こも/楽山日記3
@komo266
返信先: 
@vincent20200110さん, 
@JustBeBeliverさん
総裁は、ウクライナはロシアの衛星国家になるべきだと考えてるみたいですね。
独立国家をそんな風にしようとするのは、奪う愛ではなかろうか。
2022年10月4日
 
楽山は、このように、国際情勢を「奪う愛」などという格好付けで、書くのが楽しみなのでしょう。異国の情勢を語りますが、楽山は、自身が、嘘と詭弁で、他者の高等感情を疲労させ摩耗させていることを、まるで気にしていません。楽山は、不感不応の一方通行の病的ナルシストでしかありません。
 
 
★こも/楽山日記3
@komo266
返信先:@vincent20200110@JustBeBeliver
親ロが助けを求めてるのがなんで侵攻するの?
 」
親ロ派住民を助けるために、難民として受け入れるのは与える愛だろうけど、それを口実に軍事侵攻するのは奪う愛ではなかろうか。
HSは今回の戦争を支持してるようだけど、腕力で意思を実現しようとする戦争は、与える愛ではなく奪う愛としか思えん。
2022年10月4日
 
ロシアは、ウクライナを、侵略しているのです。親ロ派住民を助けるというのは、口実でしょう。自分の問題さえ手に負えないまま、メロドラマみたいな「奪う愛」などと言うのは、まともな考察のできない楽山の体質によります。正義の味方気取りで、のぼせ上がっているのです。
 
 
★こも/楽山日記3
@komo266
返信先:@JustBeBeliver
武力による威嚇と、実際の武力行使は別物ですね。
他国が軍備を整えたり、軍事同盟を結ぼうとしたからといって、それを武力行使とみなして攻撃をするのは無茶です。
HSの教えでも、隣人が他人と親しくし、自分から離れていこうとしたからといって腕力で妨害したらそれは奪う愛になるのでは?
午後9:00 · 2022年10月3日
 
楽山の言は、陰湿な口の加害であります。侵食し傷つけてておきながら、責任を問われると、でまかせの合理化や、嘘と詭弁の正当化をして、ますます醜さを露呈します。楽山は、その点だけ、風珍に似ています。哀悼の意の代わりに、妄想を語るタイプです。人間としての共感性がないのです。
 
言葉は、ときに、正面から攻めてくるより、丁寧なほうが有害になります。楽山は、奪う愛も、与える愛も、言葉をぶっぱなして知らん顔の、嘘吐きであり、無責任かつ凶悪な、精神の侵略者です。肯定されることで、さらなるダメージを及ぼし、否定されることで、自身の病質を増悪させます。
 
 
★こも/楽山日記3
@komo266
返信先: @JustBeBeliver
素朴な疑問だけど、HSには非暴力、無抵抗の教えはないのかな。
「暴力は相手に苦痛を与えることで自らの望みを達成しようとするが、非暴力、無抵抗は自らが苦痛を受けることで相手の良心に語りかけ、理想を実現しようとするのだ」という教えはないのかな。
午後9:09 · 2022年10月3日
 
「良心に語りかけ」ることの全く出来ない楽山が言っています。楽山は、嘘と詭弁で、たぶらかし、だます以外に、何も出来ない人です。他者を気遣うことなど出来ません。無責任を貫いて、なお、バレてないと思うのか、他者に余計なお世話発言を繰り返す、ナメクジのような体質を持っています。
 
楽山は、笑いと怒りだけしか持っておらず、しんみり悲しんで内省する心を持たないのです。面白半分に書いて、論者を気取りますが、こちらの批判に何も返すことが出来ない経過が3年以上続いています。楽山と直接やり取りするのは、極めて危険です。人間の共感と良心が欠けているからです。
 
 
素朴な疑問だが、奪う愛はいけないと言いつつ、戦争を容認するのみならず、さかんに支持するのは矛盾しているのではないかと思う。
 
楽山は、まともそうなことを言いながら、人の良心を食い物にして、誰よりも自我を満悦させるためだけに書いてきました。楽山の思想は腐乱しており、主張が変わり、かつ、その責任を負わず、不祥事を、みな、人のせいにして、思いつきで言って、かつ、責任を負いません。
 
楽山は、煙に巻くことで、勝ったと思い込む人です。言ったことを覚えてもいないでしょうから、後日、言うときには、新たに捏造した理路を語り、かつ、責任を負わず、話を別のところに持ってゆき、混乱させて反省せず、後悔もしません。楽山に関わることは、良心をドブに捨てるようなものです。
 
 
破滅の遊戯

破滅の遊戯
 
 
(2022年10月10日)
 
 
 
  測れない
 
測れない遠くで
破裂しているようなのは
こだまさえしているようなのは
ほんの少しの行き違いで
想い出に成り得なかったシーンが
しずかに自壊してゆくのでしょうか
ちょっとした選択の違いで
あり得なくなった未来の一コマが
消え去ってゆくのでしょうか
今破れるもの
今滅びるもの
今壊れるもの
今消えるものにさえ
気づきもしないでいて
気づくはずのないものが
最後の別れを告げるように
遠くで
でも測れない
ひょっとしたらすぐ近くで
名残を惜しんでいるのかな
もし少しでも手を振ってくれたら
ちぎれるほど手を振って返して
唇をかみしめたまま
そのまま果てても構わないのに
そのまま屍のように生きても構わないのに
 
 
  「ああ」の形容
 
硬軟合わせて・・・
酸いも甘いも・・・
清濁併せ呑む戦法か
清と濁を合わせたら
清であるか濁であるか
 
幼子と呼ばれた頃を過ぎたときから
私たちはすでに濁なのです
その一方で
星なのです
光なのです
 
夢であり
とりとめもなく
昇る星であり
沈む月であり
走る太陽の周りを
回っている地球の上で
回っている地球を知りながら
回っている大地を感じない
ああ 土であり
息であり風であり
だからアダムとイブに始まる物語は
実存であり今であり私たち
ひとりひとりの成長の歴史であり
ああ存在であり歴史であり
隠れており現れており
希望であり幻滅であり
矛盾であり絶望であり
ああ何が言いたいのか
争いに明け暮れ
遊びに過ぎて
流れる
流される
下手くそな戦法に
負け続ける戦いに
壊れ続ける肉体であり
弱々しい誠(まこと)であり
白々しいウソであり
ああ
物心ついたときから
私は聡(さとし)です
 
 
  最後の逃げ道
 
神様は必ず逃げ道を
用意してくださる
最初に聞いたのは映画でした
 
この世の富を得て幸福な者は
不老長寿を追い求める
一方で富から見放されて
幸福からも見放されたと
死ぬことを考える人がいる
 
今の世にあって
逃げ道があることを知り
祈り求める人は幸いです
 
しかし人には
富める者にも貧しき者にも
悪しき者にも正しき者にも
逃(のが)れることのできない
定められた時が来るのです
しかもそれは必ずしも
納得のいく訪れ方をする
とは限りません
生きるのが辛い人はいても
死ぬのが大好き
という人はいないでしょう
 
だからこそ知る人は幸いです
逃れようのない時にも
最後の逃げ道は
用意されているのです
 
御子を信じる者が
ひとりも滅びることのないように
 
それは御国へ至る道
穢(けが)れた肉体が壊され
塵に帰るときも
御使いに「ごくろうさま」と
言ってもらえるかどうか知らないが
肩や首筋に溜まった
凝りが解(ほぐ)されるように
重荷は解(と)かれ
軽やかに安らかに
引き上げてもらえる
最後の逃げ道
 
死が美しいと
思ったことはありません
けれど賜る死が必ずしも
悲しみだけではないことを知り
言うは易(やす)く
行うは難(かた)けれど…
祈り願います
 
御心は必ず成就するから
神様との約束は
必ず最後まで果たされるから
 
 
  死んでいます
 
私は日々死んでいます
聖者の叫びは程遠く
詩人の鐘さらに遠く
私は日々滅びています
体は衰え心は萎え
気力は失せて
私の耳は砕け散ったかけら
響きも笛も聞こえない
私の目は汚れた鱗
涙ながらに涙は流れず
渇いて乾いて
重なるものを見抜けない
私の昼は空しい排泄に終わり
私の夜は繰り言の始め
ありふれた風景
世界の末席から転げ落ちて
私は日々死んでいます
私は日々滅びています
しかもそれらすべてが
必ずしも悲しみだけではない日々を過ごしています
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
 
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
楽山は、真剣味もなく、出来事を、評論家かアドバイザーのふりをして、やたら書きたがります。その実、迫真性とか現実性とかには、まるで触れることが出来ません。つまり、全ては、絵空事の遊びなのです。だから、楽山の言は、何も解決しません。決して真に受けてはいけません。
 
楽山の文章は、経験や思索からの人生の深みが不思議なくらい無いのです。体裁だけの丁寧語とインテリ気取りの文章を受け入れると、恐ろしいほどの、徒労と疲労を与えられるだけです。実がない、意義も動機もない、どこにもつながらない、悪口の雑言であって、評論にも批判にもなっていないのです。
 
 
 
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  楽山を斬る聖句2
 
 「第十四講 ビルダデ再び語る」(『ヨブ記講演』内村鑑三著)
 2021年03月27日 楽山日記(LD)
  を改めて批判。
 
 
内村鑑三の本を引用して、あたかも論理立てをしているようですが、前から書いてきたように、自己愛性パーソナリティ障害の楽山には、論理も、理路も、情緒も、自己愛と自己正当化の方向に偏ってゆきます。また、論理どころか、できない無理を通そうという楽山の悪あがきです。
 
 
「第十四講 ビルダデ再び語る」の要点を抜き出しつつメモ。
ビルダデは「頭脳明晰」であり、その意見は「論理は整然」としていて、「さすがのヨブも彼の攻撃に逢いては大いにたじろい」ている。
 
ビルダデは、ヨブの三人の友人のうちの一人です。楽山が、上のように言うことには、何の根拠もありません。ここに書かれたことは、個人的な、楽山か著者の褒め言葉、という意味しかありません。楽山にとって、ビルダデは、都合がよいのでしょう。利用できるものはなんでも利用する楽山です。
 
楽山は聖書を曲解することしかできない人です。ヨブも、ビルダデも、ヨブ記も、聖書も、楽山は、いちゃもんを言うネタとして語ります。本音は、自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)からの無神教カルト信者~教祖願望という荒らしに過ぎません。
 
 
ビルダデのように論理によってのみ判断する人は、神を弁護者としつつ神に対峙し、神を恨みつつ神に仲保者であることを期待し、「神を敵としまた味方とし」、「神を罵りまた神に憐れみを乞う」ようなヨブは、「理性と論理においては迷妄の極」ということになる。
 
ビルダデをはじめとするヨブの三人の友人は、神の偉大さを、教条的に大仰に述べているようです。それで、災難に見舞われているヨブの悲しみに答えているとは思えないという感想です。「論理によってのみ判断する」ことは、人間には出来ません。大切なのは、共感を呼び起こす言葉です。
 
ヨブは反論しますが、そこで語られているのは、自己正当化であることに変わりはないのです。楽山が、賛同して、ビルダデを、「頭脳明晰」「論理は整然」と書いているのは、ただ、楽山の反キリストという目的に都合がよいからだけなのです。
 
「さすがのヨブ」を楽山は、全く理解していないことが、今までのヨブ記の記事で明らかになっています。楽山は、机上の幼稚な辻褄合わせの理屈しかありませんから、心を受け取れず、流れを把握できず、ただ、反キリストとして、神を否定したくて、クレームを言っているだけです。
 
それを指摘しても、なお、弁明せずに、主張だけを書いてくるのは、野良犬が、腹を空かして、獲物を漁って、吠えているのと同じです。犬には犬なりに条件反射的な学習機能がありますが、楽山には、人として学習することがありません。悪意だけの、いちゃもん屋、それが、楽山であります。
 
 
「ビルダデの悪人必滅論はヨブを指した者であることはいうまでもない」。
ヨブの苦しみは「産を失い、妻子を失い、難病に悩む類のこと」ではない。
「神は故なくして彼を撃った。神は彼を苦しめている」「彼の最も信頼する者が彼の敵となった。ために彼はこの者を離れんとしている。しかしながら失せんとしている信仰を思いきって棄ててしまうに堪えない」「失せんとするものを保たんとし、離れんとする者を抑えんとす、ここにヨブの特殊の苦しみがある」。
 
前と同じように、ヨブを、正しいのに神にいじめられている悲劇の主人公として書きたいのでしょう。反キリストらしい文脈です。こういうことを書く人で、人の話を受け取らず、共通の場に立とうともしない楽山ですから、誰も近づかないように、批判記事を書いています。
 
「 」でくくっているのは、著者の引用なのでしょうか。つまり、楽山は、自分の考えを書きません。書けないのです。何も、頭にも心にも、説明できるような、しっかりした主張がないのです。楽山は、ヨブが最後には悔い改めたことも知らないようです。できない子が、できたように見せかけるのと同じです。
 
楽山は、完成してると思い込んでいる自己、即ち、自己愛と自己中から、都合のよい言葉に賛同して、学者気取りで、神を否定する方向に進めてゆこうとする誘導だけなのです。楽山の詭弁に、決して乗ってはいけません。そういう書き方で、ますます、醜い本性をさらしてゆく楽山です。
 
楽山の言については、引用でも、楽山が書いたものでも、理路を追おうなどとすると、はてしなく病的な疲労におとしめられます。それを承知の上で、楽山は書いてくるのです。それは、もはや、悪意以外ではないのです。まともでない者が、まともを装う見栄張りの偽者の姿なのです。
 
文章を読んで、一般的には、よく考えることは必要です。しかし、魂胆があり、作為と悪意があり、理路の混乱によって疲れるだけの、楽山だけは、決して相手にしてはいけません。人生の大事な時間を、楽山というドブに捨てることになります。
 
この楽山の記事において、楽山は、著者に、世辞のような褒め言葉を書いて、また、賛同していますが、楽山自身は、何も独自の解釈の理路を組み立てていないことに気づいてください。それが、楽山です。そして、楽山の記事全体を通した特徴です。
 
伝道者である内村鑑三の言葉を、エサに食らいつく野良犬のように、悪用して、貪る、それ以上ではないのです。救いがたい自己顕示欲の、ケダモノのような荒い息と、よだれの臭さだけが、楽山が公共に排泄しているものです。害毒であり、迷惑なのです。
 
 
ビルダデの放った言葉によって、ヨブの「苦悩は弥増るのみである」。これによって十九章において、ヨブは「友に憐れみを乞うに至」る。
 
 (ヨブ記、口語訳)
19:1-2
そこでヨブは答えて言った、「あなたがたはいつまでわたしを悩まし、言葉をもってわたしを打ち砕くのか。
19:3
あなたがたはすでに十度もわたしをはずかしめ、わたしを悪くあしらってもなお恥じないのか。
19:4
たといわたしが、まことにあやまったとしても、そのあやまちは、わたし自身にとどまる。
19:5-6
もしあなたがたが、まことにわたしに向かって高ぶり、わたしの恥を論じるならば、『神がわたしをしえたげ、その網でわたしを囲まれたのだ』と知るべきだ。
 (ヨブ19:1-6、旧約聖書)
 
ヨブの心を察して思いやるのではなく、神の正義の全能の教条によって、ヨブを責めているのが、ビルダデです。どう読んだら「友に憐れみを乞う」という解釈になるのでしょう。ヨブは、自らの惨状に耐えきれず、批判してくる友を責めているのです。
 
それを指摘して、苦難を神のせいにして、自己正当化に、ますます、固まってゆくのが、ヨブです。ある意味、楽山に似ていますが、私は、楽山の友ではなく、楽山は憐れみを乞うておらず、さらに、楽山は、正直に訴えているのでもなく、相変わらず、嘘と詭弁で、知ったかぶりの言い逃れをしています。
 
ビルダデの教条は、楽山に似ています。教条という机上の戒めと理屈であるところが似ています。楽山は、自分と自分の体験を考えることが出来ず、ナルシストとして、他者の言葉を利用~悪用します。ヨブの自己正当化も、楽山に似ています。自己中心の状態は、気づきのない状態です。
 
楽山は、上から眺めるように、神を否定する長い文脈の一部を書いています。しかし、楽山は、ヨブ記に書かれている背教と教条的信仰の特徴の、ヨブ記の登場人物の、ヨブと友人の両方に類似点があるということです。しかし、そこに、真摯さは微塵もないのが、全く異質な楽山です。
 
つまり、ヨブ記は、宗教に関わる人間が犯す過ちの典型を表し、図らずも、根拠のない反キリストと幼稚な教条主義の楽山に当てはまることを描いているという結果になっているのです。楽山は、自分の過ちを見ているようなものです。楽山は、不感不応の病質のために、そのことにさえ気づかないのです。
 
 
内村鑑三はヨブをよく理解し思いやっているが、それだけ三友に対して手厳しいことになっている。内村自身、ヨブと同じく深く悩み苦しんだ経験がある故なのだろう。
 
災いにおいて、自分の非を認めず、他者のせいにして、聖句を生かすことができず、自己愛に固まって、反省できない偽善者の楽山には、とりわけ、必然として、よくあることです。楽山は、聖句が自分に当てはまることに、まるで気づかないのです。ひどくなっています。
 
「深く悩み苦しんだ経験がある故なのだろう」などと、わざとらしく共感の言葉だけ書いて、上から、内村鑑三と、ヨブと、ヨブ記を読んで書いているつもりで、他人事として評価している楽山が、とても、わざとらしく、見苦しく、滑稽です。
 
 
気づかない無節操

気づかない無節操
 
 
(2021年)
(2022年04月11日、再録+加筆)
 
 
 
  一途な方法
 
例えば物事(ものごと)と事物(じぶつ)の違いを
一途(いちず)に大真面目に
一生懸命に考えて
老化も老後も気づかぬうちに
ある日 事切(ことき)れている
数ヶ月後にミイラか白骨として発見され
こんな人 いましたっけ ?・・・
 
財産も遺言もなく身寄りも墓もなく
それでも直(じき)に
きれいさっぱり片付けられ いなくなる
 
存在と不在が仲好(なかよ)しに過ぎて
ほとんど同質のように
誰にも仕事とも研究とも呼んでもらえず
一笑に付されるか無視されることに
一所も一生も費やして
見えない炎のうちに燃え尽きる
 
例えば空気を写実する方法
例えば水気を彫刻する方法
例えば悲しみを悲しむ方法
 
方法と途方に明け暮れて
追いかけて追いかけて
動くことなく動くことなく
こよなく矛盾をいとおしみ
迷いなく身を投じていられたら
もはや生も死もなく本当に
哀(かな)しみを哀しめるかもしれない
 
 
  忸怩たるもの
 
独り思い倦(あぐ)み
独り遊び学ぶことしかできない
忸怩(じくじ)たるものよ
そのままでいいとは言わない
しかし今こうあること
しか考えられないあいだは
そうありなさい
 
わざわいなるかな弱きものよ
役に立たない力なき腕よ心よ
自らを責め呵(さいな)むものよ
烈々たる強き腕は未熟な腕を取り
助けることができるが
脆弱(ぜいじゃく)な腕や心を気づくこともなく
ずたずたに切り裂き潰すこともあるのだ
 
さいわいなるかな弱きものよ
たとえ侮(あなど)られ嘲(あざけ)られ
さらには総ての嫌悪と憎しみが向けられて
死ねばよいと思われているとしても
今日一日分のパンが与えられているなら
今日一日のうちに死んではならない
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
反省、謝罪は大事なことだと分かっていないことが、この3年余り、明らかになっています。つまり、訂正不能の我執であり、自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)と判断しています。楽山が書いてくる記事に、無関係な内容を除いて、反キリストの楽山に批判を当ててゆきます。
 
 
 
 いつも誰かをディスっていないと気が済まない
 楽山のツイッターですが
 
★こも/楽山日記3
@komo266
ちなみに、自分が十代の頃、友達ん家に行ったら祭壇があってギョッとさせられたことがある。いっしょに行った奴も同様。新興宗教の祭壇は、世間的にはそういうもん。
また小学生に新興宗教の入信の儀式をさせるというのも、ギョッとさせられる。
無宗教の家で育った自分は、そんな感覚です。
 
楽山は、自分の生き様が、カルト以上に「ギョッと」させていることに気づきません。「そういうもん」「そんな感覚」と言いながら、自分が発信することの気持ち悪さには、自分の自己中を見せびらかして悦に入る醜態には、まるで気づかないのです。
 
★こも/楽山日記3
@komo266
それにしても信者を幸せにしたいと思うなら、HSには責任はないと言い張るのではなく、素直に反省すべき点があると認めて、改善が必要だと声を上げたらいいのに何で言えないのかな。
あと、塩氏はこれが一般なHS2世だというけど、世間常識ではこれは異常とされると思います。
 
「反省」を、上のコメント2で「難しいんだよなあ」「人間の性」と言って、全くしてこなかったのが、楽山です。精神が分裂しているようです。楽山は「何で言えないのかな」、楽山は「世間常識ではこれは異常とされる」ことばかりしてきました。人の振り見て、我が振り・・直さない楽山です。
 
その場その場の思いつきで調子の良いことを言っておれば、矛盾するのは当たり前。
 
★こも/楽山日記3
@komo266
さっき別垢で確認したら、どうやら塩氏は、昨夜のうちに削除修正してたようだ。
削除修正してはいけないとは言わないけど、塩氏のやり方は相変わらずスマートじゃないなあ。
 
キリスト教について、否定を言い、別の時には、肯定を言い、断定していないから、責任問題は生じない・・と言っていた無責任が楽山です。それこそ、楽山が何か言っても、訂正の説明もなく、また変わるということは、信頼度ゼロだということです。
 
「ギョ」「何で言えないのかな」「スマートじゃないなあ」・・楽山の甘口(あまくち)に騙されないでください。楽山には、責任感、罪悪感、良心、まごころ、一切、ありません。楽山は、日々、楽しく、人を欺いて生きている小蝿のような存在です。
 
 
 
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  無神論=無神教カルト
 
 
楽山が信奉する無神論=無神教カルトの言い分は、神の辻褄を追う・・という、人間には不可能な論理モドキによっています。ゆえに、成立するわけがないのです。
 
キリスト信仰の救いは、ひとえに、キリストと人々のかかわりの中に、洞察と共感によって、心に生まれるものです。そこでは、いかなる論理も詭弁も無意味になるところです。
 
楽山は、最近、無神論者=無神教カルト信者のリツイートが多くなりました。そして、過去記事のコメントをコピペして、だらだら、大量に並べています。独自の言論が不可能であることを表しています。
 
 
★こも/楽山日記3さんがリツイート
新無神論bot
@AtheismBotJP
人種で人を批判することは明らかに不合理でばかげているが宗教を批判することは正当で自由なことだ。あらゆる思想―誰かが心から信仰しているものでも―を批判する自由は社会の基本的自由の一つだ。―ローワン・アトキンソン
 
宗教が理不尽であれば、「宗教を批判すること」人の宗教に基づく言動を批判することは、信者も、異教徒も、非信仰者も、可能です。しかし、宗教の本質を批判したければ、宗教と信仰を深く知っていなければなりません。楽山のような幼稚な妄想的曲解は通用しません。
 
★こも/楽山日記3さんがリツイート
新無神論bot
@AtheismBotJP
もし子供が理性的な思考力を身につける年齢になるまで宗教的教育が許されていなかったとしたら、我々はまったく違った世界に住んでいただろう―クリストファー・ヒッチンズ
 
私は、父も母も無宗教で、仏壇が置いてある程度でしたから、宗教的教育は受けていません。17歳の頃に、聖書って何だろうと思っていて、たまたま、聖書を無料でもらえるという話を聞いて、教会に行き、通うようになり、洗礼を受けました。無神論=無神教は、理性の産物とは思えません。
 
★こも/楽山日記3さんがリツイート
新無神論bot
@AtheismBotJP
人種で人を批判することは明らかに不合理でばかげているが宗教を批判することは正当で自由なことだ。あらゆる思想―誰かが心から信仰しているものでも―を批判する自由は社会の基本的自由の一つだ。―ローワン・アトキンソン
 
「宗教を批判することは正当で自由」「批判する自由は社会の基本的自由」・・宗教の信条や教理そして行動は、批判してもいいと思います。ただし、その責任を負わなければなりません。また、信仰する人の思想について批判できても、キリスト信仰や神聖そのものを批判することは不可能です。
 
 
★こも/楽山日記3さんがリツイート
中村圭志 神話・宗教学
@seattlelubbock
一神教の絶対神(の信仰)が弛緩するとき、多神教の神霊が声を上げ始めると同時に、人間の死後の運命の想像力も蠢き出し、ちょうど神が「一」から「多」になるように、死後のケジメも「一」から「多」に増殖し、一回限りの審判ではなく、幾度も転生して人生やり直すイメージがヒットするようになります
 
(ネットより)
中村圭志(なかむら けいし、1958年 - )は、日本の宗教学者、編集者、翻訳家。 北海道小樽市生まれ。北海道大学文学部卒業。東京大学大学院人文科学研究科博士課程満期退学。
 
「絶対神(の信仰)が弛緩」「多神教の神霊」「死後の運命」「幾度も転生」・・超常カルトの筆致です。無神論=無神教は、人間の論とは思えません。
 
★こも/楽山日記3さんがリツイート
中村圭志 神話・宗教学
@seattlelubbock
19世紀以来の心霊主義および神智学系の動向は、いずれも輪廻のようなものを認めています。これはまさしく絶対神信仰の弛緩によって逆に増殖した人間の霊魂の旅の物語だと言えるでしょう。神が全部決めるんじゃなければ、人間が霊界ないし転生において学んでいく形でしか真理は開示されないんですね。
 
心霊主義を是とするのでしょうか。輪廻を信じているのでしょうか。「絶対神信仰の弛緩によって逆に増殖した人間の霊魂の旅の物語」・・飾っていますが、「絶対神信仰の弛緩」について説明していません。「霊界」「転生」という超常を学べるのだそうです。人間に可能な論理ではないようです。
 
★こも/楽山日記3さんがリツイート
中村圭志 神話・宗教学
@seattlelubbock
『クラウド・アトラス』のようなSF的設定には、絶対神は存在しません(『スター・ウォーズ』もそうです)。一切は人間の織りなす物語です。神を持ち出さずに、ただし神秘的な記憶や予感を持ち出して、複数世代にわたる大河ドラマを構築すると、それは輪廻っぽい物語となってしまう。
 
2つの映画の話です。それで「絶対神は存在しません」が成り立つでしょうか。「神秘的な記憶や予感」「輪廻っぽい物語」・・殆ど、超常のフィクション~想像~空想ではないでしょうか。
 
★こも/楽山日記3さんがリツイート
中村圭志 神話・宗教学
@seattlelubbock
輪廻の文学的効果の第一は《私が他者の立場だったら、どう思うか》という反省的効果です。差別していた者が差別される者になる、といった教訓です。『クラウド・アトラス』ではそれよりむしろ《時代は変わっても人類は同じ愚行を繰り返す》という集合的な既視感が「輪廻」の意味する所かもしれません。
 
無神論ではなく「輪廻の文学的効果」と言いながら、差別が非差別になる輪廻を繰り返す、「集合的既視感」などと言って、フィクションを語るのか、現実の宗教や神を語るのか、境界と区別が判然としないようです。無神論は、空想やフィクションなのでしょうか、カルトなのでしょうか。
 
★こも/楽山日記3さんがリツイート
中村圭志 神話・宗教学
@seattlelubbock
そういったあたり、未だにウェーバーあたりの精神論的文化論で考えている日本のクリスチャン系評論家の意識はガラパゴス化しているかもしれません。なんかガラパゴス化しやすいのは、むしろ非常に日本的な特質であって、ちっとも西洋的じゃないところが、アイロニカルなところです。
 
(ネットより)
ガラパゴス化(ガラパゴスか)とは、日本のビジネス用語のひとつで、孤立した環境(日本市場)で製品やサービスの最適化が著しく進行すると、外部(外国)の製品との互換性を失い孤立して取り残されるだけでなく、適応性(汎用性)と生存能力(低価格)の高い製品や技術が外部から導入されると、最終的に淘汰される危険に陥るという、進化論におけるガラパゴス諸島の生態系になぞらえた警句である[要出典]。ガラパゴス現象、ガラパゴス症候群ともいう。
Wiki:ガラパゴス化
 
日本がガラパゴス化しやすいというよりも、日本特有というよりも、キリスト教は、風習・習慣・儀式に取り入れられて、その本質から堕していきやすいのです。また、有神論も無神論もカルト化しやすいと思います。アイロニカルというより、それこそ、罪なのです。
 
★こも/楽山日記3さんがリツイート
中村圭志 神話・宗教学
@seattlelubbock
二十世紀半ばまでは、マックス・ウェーバーに代表されるように、西欧的特質を宗教(キリスト教、プロテスタンティズム)に帰す思考が優勢でした。これはマルクス主義に対抗する意味もありました。21世紀以降は、そんな単純な因果は考えない方向に向っています。因果ははるかに複雑だろうと。
 
単純も複雑も、キリスト信仰は、○○イズムや因果で説明できるようなものではありません。むしろ、飾らない情感や共感性が大事だと思っています。そこに、信仰の絆(きずな)があるからです。
 
★こも/楽山日記3さんがリツイート
中村圭志 神話・宗教学
@seattlelubbock
ニューエイジの東洋宗教ブームを日本に逆輸入したのがいわゆる「精神世界」です。先日会った芸術系の人が、一神教と違って自然主義の神道などには侵略性がないみたいなイメージで語っていましたが、なに、戦前の国家神道のことを知らないだけです。仏教や神道がエコだというのも、だいぶ怪しい話。
 
「侵略性」は、キリスト教を、超常的、儀式的、教条的、論理的、学問的に見てしまう結果であります。キリスト教と信仰は、祈りを中心とする心の信仰です。学問は、資料となりますが、信仰となることはないです。○○主義やイデオロギーの理屈で、キリスト信仰を語ることは出来ません。
 
 
★こも/楽山日記3さんがリツイート
リチャード・ドーキンスbot
@Dawkins_bot_jp
宗教の感情を傷つけることはできない。宗教自体はそんなものは持たない。あなたが傷つけ虐げうるのは人々であり、その彼らの宗教自体が最も人の感情を害するものである場合が多い。
 
正しい信仰は、溢れる情緒と情感が支えています。信仰は、本質的に、良心から自発的に起こるのであり、信仰に、最も傷を癒す恵みがあると個人が判断することによります。良心を持つ人間を傷つけ害することは、宗教と信仰の有無にかかわらず、悪魔の所業であります。
 
 
 
キリストの共感に支えられる心の在り方を、信仰と言います。つまり、信仰は、論理的にはなりません。愛とか心の絆(きずな)に近いものです。信条や教理は、そのヒントとしてまとめられていますが、人間の言葉では暗示的に表されるもので、論理で云々できるものではありません。
 
 
人間 信仰

人間 信仰
 
 
(2022年02月28日)
 
 
 
  基督像
 
誰も助けてはくれない
誰にもおろしてもらえない
痩せた項(うなじ)は地にうなだれ
蒼白の瞳はかすかに見開かれながら
ずり下がる手足の痛みに耐えていなければならない
 
どれほど多くの乾いた唇が
彼の名前を掠めていったことだろう
どれほど多くの黄色い視線が
彼を横目に見たことだろう
そして頁をめくるような夥しい粗い舌が
彼を指して唱えたのだ
「ユダヤの王」あるいは
「わが救い主」と
 
彼はなぜ耐えているのか
彼は何を待っているのか
それでも扉は開かれている
どこに向かって あるいは誰に
 
 *
 
息を切らして
開かれた扉から
駆け込んできたのは一人の少年である
熱く紅潮した顔が彼を見上げる
少年の汗まみれの手に
握られているのは一冊の聖書だ
 
「主よ 私です
 私は来ました」
 
信仰告白は
上気した額の上で
まるで天国を見たかのように
見知らぬ夢に向かって語られていた
少年はまだ信じている
本当は基督よりも自分の元気を
少年はまだ知らない
彼の聖書(テキスト)が答えない
多くの悲劇について
 
 *
 
礼拝堂から街へ
宿命のように降りている階段を
少年も今しがた降りていった
 
人のいない礼拝堂の中で
去っていった少年の面影を
まだ見おろしている
基督像
 
たとえその動かぬ指先に
ふるえる朝の歌がよみがえったとしても
目に見える何が
それを少年に伝えるだろう
 
何も変わってはいない
誰も見送りはしない
くずれ去っていくもの
新たに生まれる何か そして
彼をとどめる絆(きずな)のために
基督の歌が歌われるのは
このときであるから
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
st問題資料集というシリーズの長いコピペ記事を書いている楽山ですが、無神論者=無神教カルトをリツイートするようになりました。自分では、コピペしか出来ないからです。楽山のような、キリスト信仰を知らない者が、神がどうのこうのと語っても、全く意味はありません。こうはなりたくない。
 
楽山は、狂ったように書き続けています。何の主張にも思想にも弁明にもなりません。無反省に書いてきたことをコピペして何の意味があるのでしょう。それしか出来ないのでしょうか。一つ覚えの発作のように、憑りつかれたように書き続けていて、楽山の異常性だけが際立っています。
 
楽山の思想が、結局は、嫌味に過ぎないことを表しています。書けばいいじゃろ的な、安易な発想が、新しい何ものをも書けない楽山から、放水か、尿失禁のように、あふれ出して止まりません。こういう人だったんだな・・ということを、これでもか・・というほどに、あらわにして、ただ、愚かなだけです。
 
一生やってろ・・みたいな感じでもありますが、自分について、みじめさを感じ得ない楽山の暴走です。パニックからの強迫行為かもしれません。このようにしか、ストレスの処理が出来ないのでしょう。こちらは、とうに、観覧モードになるしかありません。常軌を逸しています。
 
観覧したい人は、下記アドレスですが、発作的な異常行動なので意味はないと思います。最新記事一覧のページです。ここまで暴走する人は、いないでしょう。今回の楽山の、おびただしく長い記事群は、読者にとっては拷問のようなものです。
 
できれば、一生、こういう感じでコピペし続ければいいと思います。いちいち読む人もいないでしょうし、その間、それ以外の活動は出来ないでしょうから、楽山の悪影響は少なくなるでしょう。どんな顔をしてるんだろうとか思います。読んでみようという人がいるとは思えません。
 
必然もなく、常識も病識もないから、楽山は異常者です。異常者のすることは了解不能なので、誰も関わってはいけません。自分のブログだけで狂う分には、害も少ないので、楽山の言論は、無意味な執着という症状ということになり、努力は微塵も買いません。
 
楽山は、共感性のない自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)です。執着が行為を決めるのかもしれません。底知れない恐怖の衝動が楽山を動かしているのでしょう。そして、自己満足だけで、反省せず、責任を負わず、あとさきを考えません。それで常識人の芝居をしてくるのです。
 
気になるのは、楽山の底意地の悪さですから、コメントの捏造をしている可能性です。今回の記事が、どの過去記事のコメントなのか、さらに、HNにリンクが付いているのかどうか、はっきりしません。ゆえに真偽を判定できないことを狙った可能性もあります。
 
楽山が、楽山の責任においてやっていることです。何かの当てつけでしょうか、しかし、執着の異常性が明らかになったということです。今までもそれで墓穴を掘ってきたのでしょう。これだけの強迫性に走る性癖を隠し持っていたと分かったのだから、楽山を相手にしないでください。とても危険です。
 
楽山は、"st問題" という言い方を前からしているのですが、これは、ずっと私が指摘して、何も弁明できない楽山が、自分自身の問題を全く認めていない証拠です。つまり、"楽山問題" なのです。また、過去を出して見せるのは、現在を乗り切れる自信のない、後ろめたい人のやることです。
 
楽山の書く文章は、程よいと思わせる丁寧語の書き方ですが、正直言って、何か、はっとさせて、感動するということが一度もないのです。言葉だけ、程よく並べて、退屈で、独り言だったり、うんざりするほど長く、新しい発想がなく、無反省、無責任で、どうして信頼できるでしょう。
 
 
 
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  楽山の超常気取り2
 
 三魂説について(「妙貞問答」)
 2020年07月24日 楽山日記(LD)
 
 
今度は、また、他者の書いたことから、いっそう難解な超常言葉を弄してきました。批判に対する弁明の代わりに、意地を張ってくる、しかし、説明になっていない、それが楽山です。
 
*三魂説とアニミズム
前記事で、三魂説について一寸触れたので、「妙貞問答」を確認してみた。
DSCN0509 人と動物の魂の違い。三魂説。
DSCN0510
(『南蛮寺荒廃記・妙貞問答 東洋文庫14』海老沢有道訳、平凡社、昭和39年より)
 」
 
本の画像のようですが、画像は省略。
 
知らない熟語について調べる気にもならないほど、超常言葉の分類みたいなことが書いてあるようです。いつもの、他の人には分からないだろうけど自分には分かる、と言いたい楽山の自己愛と自己顕示欲だと見なして、いちいち調べたりしないことです。
 
意地やプライドで、調べようとすれば、前から言っているように、楽山の企みによる人格破壊が待っているのです。それが、楽山の目指す勝ちであり満悦なのです。説明責任は、どこまでも、楽山にあります。しかし、楽山は、説明できません。説明すれば、妄想を前提にするしかないからです。
 
これはこれで一理あるとは思うけれども、自分はやはり人間以外の動物はもちろん、山川草木や岩石にも魂は宿り、人と同じ感情を持っているという感覚は捨てきれないものがある。「一寸の虫にも五分の魂」というけれども、魂の尊さは五分どころか、一寸の虫でもなんでも人と同じだと感じないではいられない。
 
私にとっては、魂の実体があってもなくても、こうだと断定など出来ず、動物と、人間同士のように話せるわけでもなく、かといって、遊びのように動物を虐待するわけでもないでしょうから、分からないとして保留するのです。
 
おとぎ話のようなことまで、自分の霊能力の一つとして、分かっているかのように書いてくるのが、妄想家の楽山です。そういう楽山の話は、難しい言葉で、謎を深めたように気取りますが、具体的に何かが進展することなど、まるでないのです。
 
*「ブラック・ジャック」と「夏目友人帳」
そういえば、ブラックジャックはたしか、人間の政治家、一般人の赤ん坊、イリオモテヤマネコが怪我した時には、重症のイリオモテヤマネコ、赤ん坊、政治家の順番で手当てをしていたが、これは情緒的にも論理的にも間違っているとは思えなかったのだった。
 
神社と妖怪が出てきます。信仰について語らず、妖怪で何かを言おうとするところが、霊能者気取り?の楽山らしいのです。アニメに出てくる、霊が分かる孤独な少年に、自分を重ねているのでしょうが、そのことは、人間が知るべき宗教と信仰には何の関係もありません。
 
先日から見てる「夏目友人帳」もそういう世界観になっている。
・夏目友人帳 | アニメ | 無料動画GYAO!
第一話では物語の大まかな設定が明示されて、第二話以降から少しずつ物語の幅を広げて、第四話以降になると傑作が続いている。あやかし、つばめ、ほたる、子ぎつねの健気な心が愛おしく感じられる話だ。
 
妖怪物語です。これを、宗教と信仰に関わる問題に、正面から使ってくるところが、霊が分かるっぽい?自覚の楽山らしい、ということです。人間について、心について、何も分かりませんと言っているようなものです。
 
これはファンタジーであり、フィクションだということは分かってはいるのだが、ついついアニメ以外の現実世界においても、人以外の妖怪、動物、虫たちも、人と同じ心を持っていると思わないではいられないのだから我ながらおかしい。
 
楽山の話自体が、ファンタジーでありフィクションなのです。楽山だけが、宗教や思想の話と同列のように扱って溺れているので気づかないだけなのです。だから、楽山は、現実世界での、反省も学習も怠ってきたのでしょう。確かに、楽山は、おかしいのです。
 
こういうことからも、楽山によって表されたことによって、その背景や心理や体質など、楽山の自己愛性パーソナリティ障害NPDという異常性を、精神病理学とまではいきませんが、ある程度は、ヒントまたは題材として、考えることは可能でしょう。
 
こうしてみると自分の宗教感覚は、原始的なアニミズムから脱しきっていないし、これは子供時代からまったく進歩していないようだ。この調子だと今後もずっとこのまんまなんだろうな、たぶん。
 
だったら、わけのわからないことを書いて、納得のいく説明をしないまま、人を惑わせたり、自慢したりをやめるべきです。本当にがっかりしたのなら、読者の迷惑を考えて、書かないはずです。常識・良識・良心という、高等感情がないから平気で書いて、謙虚芝居で済むと思っているのです。
 
つまり本音ではなく、これが、楽山の、トホホ言語、という、同情をひくための芝居なのです。自分が、どれだけ、人を疲れさせ、傷つけているか、まったく気にしていない、自己愛性人格障害、または、サイコパスの白々しさであります。
 
もう一度、書いておきますが、説明責任は、どこまでも、それを書いた人すなわち楽山にあります。しかし、楽山は、説明できません。説明すれば、妄想を前提にするしかないからです。
 
楽山には、説明責任放棄の不正の履歴が、記事を書くごとに積み重なってゆきます。
 
 
責任放棄の超常気取り

責任放棄の超常気取り
 
 
(2020年07月25日)
(2021年09月30日、再録+)
 
 
 
キーワード:責任
 
 
  ボールペンⅠ
 
引き抜かれた芯は
細い裸のまま
ふるえる指先のふるえを受けてふるえる
 
書けない責任を負わされて
インクの残りを見るための
視線にすーっと舐められてゆく
 
いきなり激しいめまい
天井と床の間で振られ
さらに口からの荒々しい熱い風
悪臭にさらされる
 
このような移動と臭いは好まないと
断るすべもないままに
次は強い圧力で
押しつけられる紙の上で
嘔吐して刻まれた溝に流す
「まだ使えるな」と
その身が尽きるまで続くのだが
 
外筒におさめられ
改めて押される速さに
右に左に上に下に
圧力は無理矢理に片寄り
やはりふるえる指先の
ふるえを受けて
刻んだ直線を歪ませる
 
 
  いやなやつ
 
今だから言うけど
(今になったら責任はないのかね)
昔のことは言いたくないんだが
(まさに言おうとしているじゃないか)
あの時のことなんだ
(あの時が一体いくつあるんだい)
つまらない些細なことなんだが
(そのわりに忘れもせずによく覚えているんだね)
確かに悔いは残るかもしれない
(確かに、で何故、かもしれない、だ)
愚痴を言うわけじゃないけど
(言うわけじゃないけど言うわけだな)
いい意味で殺したかったですね
・・・・・・
 
 
(昔々の作)
 
 
 
楽山のツイッターですが、画像です。どこにあるか分かりませんので、テキストのようには、コピペできませんでした。こういうのが、楽山のやり方なのでしょうか。しかたないので、画像から、一部を書写しておきます。
 
こういうところにも、楽山の、自分を見ないで言うだけ、反省しないで言うだけ、という妄想的高慢の確信がベースとなっていることを忘れてはいけません。
 
楽山 
心機一転★こも楽山
@komo266・9月25日
「言うべきことは言うべし」とはその通りと思います。自分もそのようでありたいです。
 
楽山に、「言うべきこと」があるのでしょうか。今まで、何も正当なことは伝わっていません。書いてくるのは、楽山の訂正不能の先入観からの偏見だけでした。そのような発言は、自己愛性人格障害の自己顕示欲からの発言なので、決して、まともに受け取ってはいけないことなのです。
 
楽山は、ずっと、我欲によって、いっさい反省せず、責任を負わず、人の意見を聞かないで、言いたいことだけを勝手に言い続けています。つまり、楽山は、言うべきことを責任を持って言う、という「そのようでありたい」言論者の姿からは、真逆の方向しか持っていない人です。
 
「言うべきこと」がある人は、責任をもって発言し、人の言うことも聞いて、間違えたら反省し修正する心構えで言うのであり、何でも好きなように言いたいように言うだけではいけないこと、常識があれば分かることなのです。自己愛性パーソナリティ障害NPDは、そこを理解しません。
 
つまり、楽山は、そういう当たり前の常識が分からないまま、それを、していない自分を自覚することもなく、誰かの都合のよい言葉の表面だけをなぞって、「言うべきこと」を自分も言ってるつもりになり、「自分もそのようでありたい」などと気楽に言っているのです。
 
楽山が、今まで言ってきたことのテーマは、宗教、信仰、政治など、真実の追求するための、日常よりも掘り下げた深いテーマであります。そういうテーマですから、個人の軽口や、その場の見なしや思い付きで、安易に言ってはいけないことです。
 
楽山は、否定も言い肯定も言ったから、責任問題は発生しないなどと言ってきました。言論に、プラマイゼロという公式はありません。マイナスを言っても、プラスを言っても、言うたびに、それぞれの責任は着いてくるのです。
 
こういう常識についての無理解~欠損が、楽山の病質者たるゆえんであります。楽山は、平気で嘘を吐くので、今、問いただせば、そんなこと言った覚えはない、などと言い逃れを言うかもしれませんが、楽山の発言は、こちらの批判記事に、引用として既に載せられているのです。
 
つまり、楽山には、自分の言うことに全く責任を持つ気がないことが既に明らかになっており、ゆえに、楽山の発言は、邪魔なだけの、いい加減な、無駄話か、いちゃもんに過ぎないということです。どうか、相手にしないでください。どうか、楽山の丁寧語や賛辞に、だまされないでください。
 
 
 
(楽山の無責任発言について)
 
 
>(楽山)
自分の記事のテーマは、「ある言論が、正当な批判か、誹謗中傷かを区別するのは難しい」ということなので、発言責任に触れても触れなくてもその論旨にはさほど影響はない。
 
批判か中傷かを区別しないわけですから、楽山には、言論の資格がないということです。それで、何でもOKだから、そこを前提にして、責任を負う必要はないと言っているのであれば、もはや、楽山は、大人の言論者ではありません。まさに、異常な自己愛と学習障害が生んだ荒らしです。
 
 」
 
 
>(楽山)
自由と責任のどちらに重心をおくかは、次のようにテーマと立場によって、コロコロ変わる。
 
 」
 
今読んでも、腹が立ちます。言論の自由と、言論の責任は、コロコロ変わったりしません。権利と義務、自由と責任、これは、言論の鉄則であり、どちらにも重心があり、変わることはありません。
 
楽山は、自由に発言しておきながら、責任を負わないし、何もなかったかのように忘れてしまうのでしょう。以前から、楽山について指摘してきた無反省・無責任は、楽山の自己愛性人格障害からの異常性を示す体質的な精神病質の症状です。
 
 
 
 
(古い記事は載っていません)
 
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