ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

タグ:無節操

 
  楽山を斬る聖句2
 
 「第十四講 ビルダデ再び語る」(『ヨブ記講演』内村鑑三著)
 2021年03月27日 楽山日記(LD)
  を改めて批判。
 
 
内村鑑三の本を引用して、あたかも論理立てをしているようですが、前から書いてきたように、自己愛性パーソナリティ障害の楽山には、論理も、理路も、情緒も、自己愛と自己正当化の方向に偏ってゆきます。また、論理どころか、できない無理を通そうという楽山の悪あがきです。
 
 
「第十四講 ビルダデ再び語る」の要点を抜き出しつつメモ。
ビルダデは「頭脳明晰」であり、その意見は「論理は整然」としていて、「さすがのヨブも彼の攻撃に逢いては大いにたじろい」ている。
 
ビルダデは、ヨブの三人の友人のうちの一人です。楽山が、上のように言うことには、何の根拠もありません。ここに書かれたことは、個人的な、楽山か著者の褒め言葉、という意味しかありません。楽山にとって、ビルダデは、都合がよいのでしょう。利用できるものはなんでも利用する楽山です。
 
楽山は聖書を曲解することしかできない人です。ヨブも、ビルダデも、ヨブ記も、聖書も、楽山は、いちゃもんを言うネタとして語ります。本音は、自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)からの無神教カルト信者~教祖願望という荒らしに過ぎません。
 
 
ビルダデのように論理によってのみ判断する人は、神を弁護者としつつ神に対峙し、神を恨みつつ神に仲保者であることを期待し、「神を敵としまた味方とし」、「神を罵りまた神に憐れみを乞う」ようなヨブは、「理性と論理においては迷妄の極」ということになる。
 
ビルダデをはじめとするヨブの三人の友人は、神の偉大さを、教条的に大仰に述べているようです。それで、災難に見舞われているヨブの悲しみに答えているとは思えないという感想です。「論理によってのみ判断する」ことは、人間には出来ません。大切なのは、共感を呼び起こす言葉です。
 
ヨブは反論しますが、そこで語られているのは、自己正当化であることに変わりはないのです。楽山が、賛同して、ビルダデを、「頭脳明晰」「論理は整然」と書いているのは、ただ、楽山の反キリストという目的に都合がよいからだけなのです。
 
「さすがのヨブ」を楽山は、全く理解していないことが、今までのヨブ記の記事で明らかになっています。楽山は、机上の幼稚な辻褄合わせの理屈しかありませんから、心を受け取れず、流れを把握できず、ただ、反キリストとして、神を否定したくて、クレームを言っているだけです。
 
それを指摘しても、なお、弁明せずに、主張だけを書いてくるのは、野良犬が、腹を空かして、獲物を漁って、吠えているのと同じです。犬には犬なりに条件反射的な学習機能がありますが、楽山には、人として学習することがありません。悪意だけの、いちゃもん屋、それが、楽山であります。
 
 
「ビルダデの悪人必滅論はヨブを指した者であることはいうまでもない」。
ヨブの苦しみは「産を失い、妻子を失い、難病に悩む類のこと」ではない。
「神は故なくして彼を撃った。神は彼を苦しめている」「彼の最も信頼する者が彼の敵となった。ために彼はこの者を離れんとしている。しかしながら失せんとしている信仰を思いきって棄ててしまうに堪えない」「失せんとするものを保たんとし、離れんとする者を抑えんとす、ここにヨブの特殊の苦しみがある」。
 
前と同じように、ヨブを、正しいのに神にいじめられている悲劇の主人公として書きたいのでしょう。反キリストらしい文脈です。こういうことを書く人で、人の話を受け取らず、共通の場に立とうともしない楽山ですから、誰も近づかないように、批判記事を書いています。
 
「 」でくくっているのは、著者の引用なのでしょうか。つまり、楽山は、自分の考えを書きません。書けないのです。何も、頭にも心にも、説明できるような、しっかりした主張がないのです。楽山は、ヨブが最後には悔い改めたことも知らないようです。できない子が、できたように見せかけるのと同じです。
 
楽山は、完成してると思い込んでいる自己、即ち、自己愛と自己中から、都合のよい言葉に賛同して、学者気取りで、神を否定する方向に進めてゆこうとする誘導だけなのです。楽山の詭弁に、決して乗ってはいけません。そういう書き方で、ますます、醜い本性をさらしてゆく楽山です。
 
楽山の言については、引用でも、楽山が書いたものでも、理路を追おうなどとすると、はてしなく病的な疲労におとしめられます。それを承知の上で、楽山は書いてくるのです。それは、もはや、悪意以外ではないのです。まともでない者が、まともを装う見栄張りの偽者の姿なのです。
 
文章を読んで、一般的には、よく考えることは必要です。しかし、魂胆があり、作為と悪意があり、理路の混乱によって疲れるだけの、楽山だけは、決して相手にしてはいけません。人生の大事な時間を、楽山というドブに捨てることになります。
 
この楽山の記事において、楽山は、著者に、世辞のような褒め言葉を書いて、また、賛同していますが、楽山自身は、何も独自の解釈の理路を組み立てていないことに気づいてください。それが、楽山です。そして、楽山の記事全体を通した特徴です。
 
伝道者である内村鑑三の言葉を、エサに食らいつく野良犬のように、悪用して、貪る、それ以上ではないのです。救いがたい自己顕示欲の、ケダモノのような荒い息と、よだれの臭さだけが、楽山が公共に排泄しているものです。害毒であり、迷惑なのです。
 
 
ビルダデの放った言葉によって、ヨブの「苦悩は弥増るのみである」。これによって十九章において、ヨブは「友に憐れみを乞うに至」る。
 
 (ヨブ記、口語訳)
19:1-2
そこでヨブは答えて言った、「あなたがたはいつまでわたしを悩まし、言葉をもってわたしを打ち砕くのか。
19:3
あなたがたはすでに十度もわたしをはずかしめ、わたしを悪くあしらってもなお恥じないのか。
19:4
たといわたしが、まことにあやまったとしても、そのあやまちは、わたし自身にとどまる。
19:5-6
もしあなたがたが、まことにわたしに向かって高ぶり、わたしの恥を論じるならば、『神がわたしをしえたげ、その網でわたしを囲まれたのだ』と知るべきだ。
 (ヨブ19:1-6、旧約聖書)
 
ヨブの心を察して思いやるのではなく、神の正義の全能の教条によって、ヨブを責めているのが、ビルダデです。どう読んだら「友に憐れみを乞う」という解釈になるのでしょう。ヨブは、自らの惨状に耐えきれず、批判してくる友を責めているのです。
 
それを指摘して、苦難を神のせいにして、自己正当化に、ますます、固まってゆくのが、ヨブです。ある意味、楽山に似ていますが、私は、楽山の友ではなく、楽山は憐れみを乞うておらず、さらに、楽山は、正直に訴えているのでもなく、相変わらず、嘘と詭弁で、知ったかぶりの言い逃れをしています。
 
ビルダデの教条は、楽山に似ています。教条という机上の戒めと理屈であるところが似ています。楽山は、自分と自分の体験を考えることが出来ず、ナルシストとして、他者の言葉を利用~悪用します。ヨブの自己正当化も、楽山に似ています。自己中心の状態は、気づきのない状態です。
 
楽山は、上から眺めるように、神を否定する長い文脈の一部を書いています。しかし、楽山は、ヨブ記に書かれている背教と教条的信仰の特徴の、ヨブ記の登場人物の、ヨブと友人の両方に類似点があるということです。しかし、そこに、真摯さは微塵もないのが、全く異質な楽山です。
 
つまり、ヨブ記は、宗教に関わる人間が犯す過ちの典型を表し、図らずも、根拠のない反キリストと幼稚な教条主義の楽山に当てはまることを描いているという結果になっているのです。楽山は、自分の過ちを見ているようなものです。楽山は、不感不応の病質のために、そのことにさえ気づかないのです。
 
 
内村鑑三はヨブをよく理解し思いやっているが、それだけ三友に対して手厳しいことになっている。内村自身、ヨブと同じく深く悩み苦しんだ経験がある故なのだろう。
 
災いにおいて、自分の非を認めず、他者のせいにして、聖句を生かすことができず、自己愛に固まって、反省できない偽善者の楽山には、とりわけ、必然として、よくあることです。楽山は、聖句が自分に当てはまることに、まるで気づかないのです。ひどくなっています。
 
「深く悩み苦しんだ経験がある故なのだろう」などと、わざとらしく共感の言葉だけ書いて、上から、内村鑑三と、ヨブと、ヨブ記を読んで書いているつもりで、他人事として評価している楽山が、とても、わざとらしく、見苦しく、滑稽です。
 
 
気づかない無節操

気づかない無節操
 
 
(2021年)
(2022年04月11日、再録+加筆)
 
 
 
  一途な方法
 
例えば物事(ものごと)と事物(じぶつ)の違いを
一途(いちず)に大真面目に
一生懸命に考えて
老化も老後も気づかぬうちに
ある日 事切(ことき)れている
数ヶ月後にミイラか白骨として発見され
こんな人 いましたっけ ?・・・
 
財産も遺言もなく身寄りも墓もなく
それでも直(じき)に
きれいさっぱり片付けられ いなくなる
 
存在と不在が仲好(なかよ)しに過ぎて
ほとんど同質のように
誰にも仕事とも研究とも呼んでもらえず
一笑に付されるか無視されることに
一所も一生も費やして
見えない炎のうちに燃え尽きる
 
例えば空気を写実する方法
例えば水気を彫刻する方法
例えば悲しみを悲しむ方法
 
方法と途方に明け暮れて
追いかけて追いかけて
動くことなく動くことなく
こよなく矛盾をいとおしみ
迷いなく身を投じていられたら
もはや生も死もなく本当に
哀(かな)しみを哀しめるかもしれない
 
 
  忸怩たるもの
 
独り思い倦(あぐ)み
独り遊び学ぶことしかできない
忸怩(じくじ)たるものよ
そのままでいいとは言わない
しかし今こうあること
しか考えられないあいだは
そうありなさい
 
わざわいなるかな弱きものよ
役に立たない力なき腕よ心よ
自らを責め呵(さいな)むものよ
烈々たる強き腕は未熟な腕を取り
助けることができるが
脆弱(ぜいじゃく)な腕や心を気づくこともなく
ずたずたに切り裂き潰すこともあるのだ
 
さいわいなるかな弱きものよ
たとえ侮(あなど)られ嘲(あざけ)られ
さらには総ての嫌悪と憎しみが向けられて
死ねばよいと思われているとしても
今日一日分のパンが与えられているなら
今日一日のうちに死んではならない
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
反省、謝罪は大事なことだと分かっていないことが、この3年余り、明らかになっています。つまり、訂正不能の我執であり、自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)と判断しています。楽山が書いてくる記事に、無関係な内容を除いて、反キリストの楽山に批判を当ててゆきます。
 
 
 
 いつも誰かをディスっていないと気が済まない
 楽山のツイッターですが
 
★こも/楽山日記3
@komo266
ちなみに、自分が十代の頃、友達ん家に行ったら祭壇があってギョッとさせられたことがある。いっしょに行った奴も同様。新興宗教の祭壇は、世間的にはそういうもん。
また小学生に新興宗教の入信の儀式をさせるというのも、ギョッとさせられる。
無宗教の家で育った自分は、そんな感覚です。
 
楽山は、自分の生き様が、カルト以上に「ギョッと」させていることに気づきません。「そういうもん」「そんな感覚」と言いながら、自分が発信することの気持ち悪さには、自分の自己中を見せびらかして悦に入る醜態には、まるで気づかないのです。
 
★こも/楽山日記3
@komo266
それにしても信者を幸せにしたいと思うなら、HSには責任はないと言い張るのではなく、素直に反省すべき点があると認めて、改善が必要だと声を上げたらいいのに何で言えないのかな。
あと、塩氏はこれが一般なHS2世だというけど、世間常識ではこれは異常とされると思います。
 
「反省」を、上のコメント2で「難しいんだよなあ」「人間の性」と言って、全くしてこなかったのが、楽山です。精神が分裂しているようです。楽山は「何で言えないのかな」、楽山は「世間常識ではこれは異常とされる」ことばかりしてきました。人の振り見て、我が振り・・直さない楽山です。
 
その場その場の思いつきで調子の良いことを言っておれば、矛盾するのは当たり前。
 
★こも/楽山日記3
@komo266
さっき別垢で確認したら、どうやら塩氏は、昨夜のうちに削除修正してたようだ。
削除修正してはいけないとは言わないけど、塩氏のやり方は相変わらずスマートじゃないなあ。
 
キリスト教について、否定を言い、別の時には、肯定を言い、断定していないから、責任問題は生じない・・と言っていた無責任が楽山です。それこそ、楽山が何か言っても、訂正の説明もなく、また変わるということは、信頼度ゼロだということです。
 
「ギョ」「何で言えないのかな」「スマートじゃないなあ」・・楽山の甘口(あまくち)に騙されないでください。楽山には、責任感、罪悪感、良心、まごころ、一切、ありません。楽山は、日々、楽しく、人を欺いて生きている小蝿のような存在です。
 
 
 
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  無神論=無神教カルト
 
 
楽山が信奉する無神論=無神教カルトの言い分は、神の辻褄を追う・・という、人間には不可能な論理モドキによっています。ゆえに、成立するわけがないのです。
 
キリスト信仰の救いは、ひとえに、キリストと人々のかかわりの中に、洞察と共感によって、心に生まれるものです。そこでは、いかなる論理も詭弁も無意味になるところです。
 
楽山は、最近、無神論者=無神教カルト信者のリツイートが多くなりました。そして、過去記事のコメントをコピペして、だらだら、大量に並べています。独自の言論が不可能であることを表しています。
 
 
★こも/楽山日記3さんがリツイート
新無神論bot
@AtheismBotJP
人種で人を批判することは明らかに不合理でばかげているが宗教を批判することは正当で自由なことだ。あらゆる思想―誰かが心から信仰しているものでも―を批判する自由は社会の基本的自由の一つだ。―ローワン・アトキンソン
 
宗教が理不尽であれば、「宗教を批判すること」人の宗教に基づく言動を批判することは、信者も、異教徒も、非信仰者も、可能です。しかし、宗教の本質を批判したければ、宗教と信仰を深く知っていなければなりません。楽山のような幼稚な妄想的曲解は通用しません。
 
★こも/楽山日記3さんがリツイート
新無神論bot
@AtheismBotJP
もし子供が理性的な思考力を身につける年齢になるまで宗教的教育が許されていなかったとしたら、我々はまったく違った世界に住んでいただろう―クリストファー・ヒッチンズ
 
私は、父も母も無宗教で、仏壇が置いてある程度でしたから、宗教的教育は受けていません。17歳の頃に、聖書って何だろうと思っていて、たまたま、聖書を無料でもらえるという話を聞いて、教会に行き、通うようになり、洗礼を受けました。無神論=無神教は、理性の産物とは思えません。
 
★こも/楽山日記3さんがリツイート
新無神論bot
@AtheismBotJP
人種で人を批判することは明らかに不合理でばかげているが宗教を批判することは正当で自由なことだ。あらゆる思想―誰かが心から信仰しているものでも―を批判する自由は社会の基本的自由の一つだ。―ローワン・アトキンソン
 
「宗教を批判することは正当で自由」「批判する自由は社会の基本的自由」・・宗教の信条や教理そして行動は、批判してもいいと思います。ただし、その責任を負わなければなりません。また、信仰する人の思想について批判できても、キリスト信仰や神聖そのものを批判することは不可能です。
 
 
★こも/楽山日記3さんがリツイート
中村圭志 神話・宗教学
@seattlelubbock
一神教の絶対神(の信仰)が弛緩するとき、多神教の神霊が声を上げ始めると同時に、人間の死後の運命の想像力も蠢き出し、ちょうど神が「一」から「多」になるように、死後のケジメも「一」から「多」に増殖し、一回限りの審判ではなく、幾度も転生して人生やり直すイメージがヒットするようになります
 
(ネットより)
中村圭志(なかむら けいし、1958年 - )は、日本の宗教学者、編集者、翻訳家。 北海道小樽市生まれ。北海道大学文学部卒業。東京大学大学院人文科学研究科博士課程満期退学。
 
「絶対神(の信仰)が弛緩」「多神教の神霊」「死後の運命」「幾度も転生」・・超常カルトの筆致です。無神論=無神教は、人間の論とは思えません。
 
★こも/楽山日記3さんがリツイート
中村圭志 神話・宗教学
@seattlelubbock
19世紀以来の心霊主義および神智学系の動向は、いずれも輪廻のようなものを認めています。これはまさしく絶対神信仰の弛緩によって逆に増殖した人間の霊魂の旅の物語だと言えるでしょう。神が全部決めるんじゃなければ、人間が霊界ないし転生において学んでいく形でしか真理は開示されないんですね。
 
心霊主義を是とするのでしょうか。輪廻を信じているのでしょうか。「絶対神信仰の弛緩によって逆に増殖した人間の霊魂の旅の物語」・・飾っていますが、「絶対神信仰の弛緩」について説明していません。「霊界」「転生」という超常を学べるのだそうです。人間に可能な論理ではないようです。
 
★こも/楽山日記3さんがリツイート
中村圭志 神話・宗教学
@seattlelubbock
『クラウド・アトラス』のようなSF的設定には、絶対神は存在しません(『スター・ウォーズ』もそうです)。一切は人間の織りなす物語です。神を持ち出さずに、ただし神秘的な記憶や予感を持ち出して、複数世代にわたる大河ドラマを構築すると、それは輪廻っぽい物語となってしまう。
 
2つの映画の話です。それで「絶対神は存在しません」が成り立つでしょうか。「神秘的な記憶や予感」「輪廻っぽい物語」・・殆ど、超常のフィクション~想像~空想ではないでしょうか。
 
★こも/楽山日記3さんがリツイート
中村圭志 神話・宗教学
@seattlelubbock
輪廻の文学的効果の第一は《私が他者の立場だったら、どう思うか》という反省的効果です。差別していた者が差別される者になる、といった教訓です。『クラウド・アトラス』ではそれよりむしろ《時代は変わっても人類は同じ愚行を繰り返す》という集合的な既視感が「輪廻」の意味する所かもしれません。
 
無神論ではなく「輪廻の文学的効果」と言いながら、差別が非差別になる輪廻を繰り返す、「集合的既視感」などと言って、フィクションを語るのか、現実の宗教や神を語るのか、境界と区別が判然としないようです。無神論は、空想やフィクションなのでしょうか、カルトなのでしょうか。
 
★こも/楽山日記3さんがリツイート
中村圭志 神話・宗教学
@seattlelubbock
そういったあたり、未だにウェーバーあたりの精神論的文化論で考えている日本のクリスチャン系評論家の意識はガラパゴス化しているかもしれません。なんかガラパゴス化しやすいのは、むしろ非常に日本的な特質であって、ちっとも西洋的じゃないところが、アイロニカルなところです。
 
(ネットより)
ガラパゴス化(ガラパゴスか)とは、日本のビジネス用語のひとつで、孤立した環境(日本市場)で製品やサービスの最適化が著しく進行すると、外部(外国)の製品との互換性を失い孤立して取り残されるだけでなく、適応性(汎用性)と生存能力(低価格)の高い製品や技術が外部から導入されると、最終的に淘汰される危険に陥るという、進化論におけるガラパゴス諸島の生態系になぞらえた警句である[要出典]。ガラパゴス現象、ガラパゴス症候群ともいう。
Wiki:ガラパゴス化
 
日本がガラパゴス化しやすいというよりも、日本特有というよりも、キリスト教は、風習・習慣・儀式に取り入れられて、その本質から堕していきやすいのです。また、有神論も無神論もカルト化しやすいと思います。アイロニカルというより、それこそ、罪なのです。
 
★こも/楽山日記3さんがリツイート
中村圭志 神話・宗教学
@seattlelubbock
二十世紀半ばまでは、マックス・ウェーバーに代表されるように、西欧的特質を宗教(キリスト教、プロテスタンティズム)に帰す思考が優勢でした。これはマルクス主義に対抗する意味もありました。21世紀以降は、そんな単純な因果は考えない方向に向っています。因果ははるかに複雑だろうと。
 
単純も複雑も、キリスト信仰は、○○イズムや因果で説明できるようなものではありません。むしろ、飾らない情感や共感性が大事だと思っています。そこに、信仰の絆(きずな)があるからです。
 
★こも/楽山日記3さんがリツイート
中村圭志 神話・宗教学
@seattlelubbock
ニューエイジの東洋宗教ブームを日本に逆輸入したのがいわゆる「精神世界」です。先日会った芸術系の人が、一神教と違って自然主義の神道などには侵略性がないみたいなイメージで語っていましたが、なに、戦前の国家神道のことを知らないだけです。仏教や神道がエコだというのも、だいぶ怪しい話。
 
「侵略性」は、キリスト教を、超常的、儀式的、教条的、論理的、学問的に見てしまう結果であります。キリスト教と信仰は、祈りを中心とする心の信仰です。学問は、資料となりますが、信仰となることはないです。○○主義やイデオロギーの理屈で、キリスト信仰を語ることは出来ません。
 
 
★こも/楽山日記3さんがリツイート
リチャード・ドーキンスbot
@Dawkins_bot_jp
宗教の感情を傷つけることはできない。宗教自体はそんなものは持たない。あなたが傷つけ虐げうるのは人々であり、その彼らの宗教自体が最も人の感情を害するものである場合が多い。
 
正しい信仰は、溢れる情緒と情感が支えています。信仰は、本質的に、良心から自発的に起こるのであり、信仰に、最も傷を癒す恵みがあると個人が判断することによります。良心を持つ人間を傷つけ害することは、宗教と信仰の有無にかかわらず、悪魔の所業であります。
 
 
 
キリストの共感に支えられる心の在り方を、信仰と言います。つまり、信仰は、論理的にはなりません。愛とか心の絆(きずな)に近いものです。信条や教理は、そのヒントとしてまとめられていますが、人間の言葉では暗示的に表されるもので、論理で云々できるものではありません。
 
 
人間 信仰

人間 信仰
 
 
(2022年02月28日)
 
 
 
  基督像
 
誰も助けてはくれない
誰にもおろしてもらえない
痩せた項(うなじ)は地にうなだれ
蒼白の瞳はかすかに見開かれながら
ずり下がる手足の痛みに耐えていなければならない
 
どれほど多くの乾いた唇が
彼の名前を掠めていったことだろう
どれほど多くの黄色い視線が
彼を横目に見たことだろう
そして頁をめくるような夥しい粗い舌が
彼を指して唱えたのだ
「ユダヤの王」あるいは
「わが救い主」と
 
彼はなぜ耐えているのか
彼は何を待っているのか
それでも扉は開かれている
どこに向かって あるいは誰に
 
 *
 
息を切らして
開かれた扉から
駆け込んできたのは一人の少年である
熱く紅潮した顔が彼を見上げる
少年の汗まみれの手に
握られているのは一冊の聖書だ
 
「主よ 私です
 私は来ました」
 
信仰告白は
上気した額の上で
まるで天国を見たかのように
見知らぬ夢に向かって語られていた
少年はまだ信じている
本当は基督よりも自分の元気を
少年はまだ知らない
彼の聖書(テキスト)が答えない
多くの悲劇について
 
 *
 
礼拝堂から街へ
宿命のように降りている階段を
少年も今しがた降りていった
 
人のいない礼拝堂の中で
去っていった少年の面影を
まだ見おろしている
基督像
 
たとえその動かぬ指先に
ふるえる朝の歌がよみがえったとしても
目に見える何が
それを少年に伝えるだろう
 
何も変わってはいない
誰も見送りはしない
くずれ去っていくもの
新たに生まれる何か そして
彼をとどめる絆(きずな)のために
基督の歌が歌われるのは
このときであるから
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
st問題資料集というシリーズの長いコピペ記事を書いている楽山ですが、無神論者=無神教カルトをリツイートするようになりました。自分では、コピペしか出来ないからです。楽山のような、キリスト信仰を知らない者が、神がどうのこうのと語っても、全く意味はありません。こうはなりたくない。
 
楽山は、狂ったように書き続けています。何の主張にも思想にも弁明にもなりません。無反省に書いてきたことをコピペして何の意味があるのでしょう。それしか出来ないのでしょうか。一つ覚えの発作のように、憑りつかれたように書き続けていて、楽山の異常性だけが際立っています。
 
楽山の思想が、結局は、嫌味に過ぎないことを表しています。書けばいいじゃろ的な、安易な発想が、新しい何ものをも書けない楽山から、放水か、尿失禁のように、あふれ出して止まりません。こういう人だったんだな・・ということを、これでもか・・というほどに、あらわにして、ただ、愚かなだけです。
 
一生やってろ・・みたいな感じでもありますが、自分について、みじめさを感じ得ない楽山の暴走です。パニックからの強迫行為かもしれません。このようにしか、ストレスの処理が出来ないのでしょう。こちらは、とうに、観覧モードになるしかありません。常軌を逸しています。
 
観覧したい人は、下記アドレスですが、発作的な異常行動なので意味はないと思います。最新記事一覧のページです。ここまで暴走する人は、いないでしょう。今回の楽山の、おびただしく長い記事群は、読者にとっては拷問のようなものです。
 
できれば、一生、こういう感じでコピペし続ければいいと思います。いちいち読む人もいないでしょうし、その間、それ以外の活動は出来ないでしょうから、楽山の悪影響は少なくなるでしょう。どんな顔をしてるんだろうとか思います。読んでみようという人がいるとは思えません。
 
必然もなく、常識も病識もないから、楽山は異常者です。異常者のすることは了解不能なので、誰も関わってはいけません。自分のブログだけで狂う分には、害も少ないので、楽山の言論は、無意味な執着という症状ということになり、努力は微塵も買いません。
 
楽山は、共感性のない自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)です。執着が行為を決めるのかもしれません。底知れない恐怖の衝動が楽山を動かしているのでしょう。そして、自己満足だけで、反省せず、責任を負わず、あとさきを考えません。それで常識人の芝居をしてくるのです。
 
気になるのは、楽山の底意地の悪さですから、コメントの捏造をしている可能性です。今回の記事が、どの過去記事のコメントなのか、さらに、HNにリンクが付いているのかどうか、はっきりしません。ゆえに真偽を判定できないことを狙った可能性もあります。
 
楽山が、楽山の責任においてやっていることです。何かの当てつけでしょうか、しかし、執着の異常性が明らかになったということです。今までもそれで墓穴を掘ってきたのでしょう。これだけの強迫性に走る性癖を隠し持っていたと分かったのだから、楽山を相手にしないでください。とても危険です。
 
楽山は、"st問題" という言い方を前からしているのですが、これは、ずっと私が指摘して、何も弁明できない楽山が、自分自身の問題を全く認めていない証拠です。つまり、"楽山問題" なのです。また、過去を出して見せるのは、現在を乗り切れる自信のない、後ろめたい人のやることです。
 
楽山の書く文章は、程よいと思わせる丁寧語の書き方ですが、正直言って、何か、はっとさせて、感動するということが一度もないのです。言葉だけ、程よく並べて、退屈で、独り言だったり、うんざりするほど長く、新しい発想がなく、無反省、無責任で、どうして信頼できるでしょう。
 
 
 
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  楽山の超常気取り2
 
 三魂説について(「妙貞問答」)
 2020年07月24日 楽山日記(LD)
 
 
今度は、また、他者の書いたことから、いっそう難解な超常言葉を弄してきました。批判に対する弁明の代わりに、意地を張ってくる、しかし、説明になっていない、それが楽山です。
 
*三魂説とアニミズム
前記事で、三魂説について一寸触れたので、「妙貞問答」を確認してみた。
DSCN0509 人と動物の魂の違い。三魂説。
DSCN0510
(『南蛮寺荒廃記・妙貞問答 東洋文庫14』海老沢有道訳、平凡社、昭和39年より)
 」
 
本の画像のようですが、画像は省略。
 
知らない熟語について調べる気にもならないほど、超常言葉の分類みたいなことが書いてあるようです。いつもの、他の人には分からないだろうけど自分には分かる、と言いたい楽山の自己愛と自己顕示欲だと見なして、いちいち調べたりしないことです。
 
意地やプライドで、調べようとすれば、前から言っているように、楽山の企みによる人格破壊が待っているのです。それが、楽山の目指す勝ちであり満悦なのです。説明責任は、どこまでも、楽山にあります。しかし、楽山は、説明できません。説明すれば、妄想を前提にするしかないからです。
 
これはこれで一理あるとは思うけれども、自分はやはり人間以外の動物はもちろん、山川草木や岩石にも魂は宿り、人と同じ感情を持っているという感覚は捨てきれないものがある。「一寸の虫にも五分の魂」というけれども、魂の尊さは五分どころか、一寸の虫でもなんでも人と同じだと感じないではいられない。
 
私にとっては、魂の実体があってもなくても、こうだと断定など出来ず、動物と、人間同士のように話せるわけでもなく、かといって、遊びのように動物を虐待するわけでもないでしょうから、分からないとして保留するのです。
 
おとぎ話のようなことまで、自分の霊能力の一つとして、分かっているかのように書いてくるのが、妄想家の楽山です。そういう楽山の話は、難しい言葉で、謎を深めたように気取りますが、具体的に何かが進展することなど、まるでないのです。
 
*「ブラック・ジャック」と「夏目友人帳」
そういえば、ブラックジャックはたしか、人間の政治家、一般人の赤ん坊、イリオモテヤマネコが怪我した時には、重症のイリオモテヤマネコ、赤ん坊、政治家の順番で手当てをしていたが、これは情緒的にも論理的にも間違っているとは思えなかったのだった。
 
神社と妖怪が出てきます。信仰について語らず、妖怪で何かを言おうとするところが、霊能者気取り?の楽山らしいのです。アニメに出てくる、霊が分かる孤独な少年に、自分を重ねているのでしょうが、そのことは、人間が知るべき宗教と信仰には何の関係もありません。
 
先日から見てる「夏目友人帳」もそういう世界観になっている。
・夏目友人帳 | アニメ | 無料動画GYAO!
第一話では物語の大まかな設定が明示されて、第二話以降から少しずつ物語の幅を広げて、第四話以降になると傑作が続いている。あやかし、つばめ、ほたる、子ぎつねの健気な心が愛おしく感じられる話だ。
 
妖怪物語です。これを、宗教と信仰に関わる問題に、正面から使ってくるところが、霊が分かるっぽい?自覚の楽山らしい、ということです。人間について、心について、何も分かりませんと言っているようなものです。
 
これはファンタジーであり、フィクションだということは分かってはいるのだが、ついついアニメ以外の現実世界においても、人以外の妖怪、動物、虫たちも、人と同じ心を持っていると思わないではいられないのだから我ながらおかしい。
 
楽山の話自体が、ファンタジーでありフィクションなのです。楽山だけが、宗教や思想の話と同列のように扱って溺れているので気づかないだけなのです。だから、楽山は、現実世界での、反省も学習も怠ってきたのでしょう。確かに、楽山は、おかしいのです。
 
こういうことからも、楽山によって表されたことによって、その背景や心理や体質など、楽山の自己愛性パーソナリティ障害NPDという異常性を、精神病理学とまではいきませんが、ある程度は、ヒントまたは題材として、考えることは可能でしょう。
 
こうしてみると自分の宗教感覚は、原始的なアニミズムから脱しきっていないし、これは子供時代からまったく進歩していないようだ。この調子だと今後もずっとこのまんまなんだろうな、たぶん。
 
だったら、わけのわからないことを書いて、納得のいく説明をしないまま、人を惑わせたり、自慢したりをやめるべきです。本当にがっかりしたのなら、読者の迷惑を考えて、書かないはずです。常識・良識・良心という、高等感情がないから平気で書いて、謙虚芝居で済むと思っているのです。
 
つまり本音ではなく、これが、楽山の、トホホ言語、という、同情をひくための芝居なのです。自分が、どれだけ、人を疲れさせ、傷つけているか、まったく気にしていない、自己愛性人格障害、または、サイコパスの白々しさであります。
 
もう一度、書いておきますが、説明責任は、どこまでも、それを書いた人すなわち楽山にあります。しかし、楽山は、説明できません。説明すれば、妄想を前提にするしかないからです。
 
楽山には、説明責任放棄の不正の履歴が、記事を書くごとに積み重なってゆきます。
 
 
責任放棄の超常気取り

責任放棄の超常気取り
 
 
(2020年07月25日)
(2021年09月30日、再録+)
 
 
 
キーワード:責任
 
 
  ボールペンⅠ
 
引き抜かれた芯は
細い裸のまま
ふるえる指先のふるえを受けてふるえる
 
書けない責任を負わされて
インクの残りを見るための
視線にすーっと舐められてゆく
 
いきなり激しいめまい
天井と床の間で振られ
さらに口からの荒々しい熱い風
悪臭にさらされる
 
このような移動と臭いは好まないと
断るすべもないままに
次は強い圧力で
押しつけられる紙の上で
嘔吐して刻まれた溝に流す
「まだ使えるな」と
その身が尽きるまで続くのだが
 
外筒におさめられ
改めて押される速さに
右に左に上に下に
圧力は無理矢理に片寄り
やはりふるえる指先の
ふるえを受けて
刻んだ直線を歪ませる
 
 
  いやなやつ
 
今だから言うけど
(今になったら責任はないのかね)
昔のことは言いたくないんだが
(まさに言おうとしているじゃないか)
あの時のことなんだ
(あの時が一体いくつあるんだい)
つまらない些細なことなんだが
(そのわりに忘れもせずによく覚えているんだね)
確かに悔いは残るかもしれない
(確かに、で何故、かもしれない、だ)
愚痴を言うわけじゃないけど
(言うわけじゃないけど言うわけだな)
いい意味で殺したかったですね
・・・・・・
 
 
(昔々の作)
 
 
 
楽山のツイッターですが、画像です。どこにあるか分かりませんので、テキストのようには、コピペできませんでした。こういうのが、楽山のやり方なのでしょうか。しかたないので、画像から、一部を書写しておきます。
 
こういうところにも、楽山の、自分を見ないで言うだけ、反省しないで言うだけ、という妄想的高慢の確信がベースとなっていることを忘れてはいけません。
 
楽山 
心機一転★こも楽山
@komo266・9月25日
「言うべきことは言うべし」とはその通りと思います。自分もそのようでありたいです。
 
楽山に、「言うべきこと」があるのでしょうか。今まで、何も正当なことは伝わっていません。書いてくるのは、楽山の訂正不能の先入観からの偏見だけでした。そのような発言は、自己愛性人格障害の自己顕示欲からの発言なので、決して、まともに受け取ってはいけないことなのです。
 
楽山は、ずっと、我欲によって、いっさい反省せず、責任を負わず、人の意見を聞かないで、言いたいことだけを勝手に言い続けています。つまり、楽山は、言うべきことを責任を持って言う、という「そのようでありたい」言論者の姿からは、真逆の方向しか持っていない人です。
 
「言うべきこと」がある人は、責任をもって発言し、人の言うことも聞いて、間違えたら反省し修正する心構えで言うのであり、何でも好きなように言いたいように言うだけではいけないこと、常識があれば分かることなのです。自己愛性パーソナリティ障害NPDは、そこを理解しません。
 
つまり、楽山は、そういう当たり前の常識が分からないまま、それを、していない自分を自覚することもなく、誰かの都合のよい言葉の表面だけをなぞって、「言うべきこと」を自分も言ってるつもりになり、「自分もそのようでありたい」などと気楽に言っているのです。
 
楽山が、今まで言ってきたことのテーマは、宗教、信仰、政治など、真実の追求するための、日常よりも掘り下げた深いテーマであります。そういうテーマですから、個人の軽口や、その場の見なしや思い付きで、安易に言ってはいけないことです。
 
楽山は、否定も言い肯定も言ったから、責任問題は発生しないなどと言ってきました。言論に、プラマイゼロという公式はありません。マイナスを言っても、プラスを言っても、言うたびに、それぞれの責任は着いてくるのです。
 
こういう常識についての無理解~欠損が、楽山の病質者たるゆえんであります。楽山は、平気で嘘を吐くので、今、問いただせば、そんなこと言った覚えはない、などと言い逃れを言うかもしれませんが、楽山の発言は、こちらの批判記事に、引用として既に載せられているのです。
 
つまり、楽山には、自分の言うことに全く責任を持つ気がないことが既に明らかになっており、ゆえに、楽山の発言は、邪魔なだけの、いい加減な、無駄話か、いちゃもんに過ぎないということです。どうか、相手にしないでください。どうか、楽山の丁寧語や賛辞に、だまされないでください。
 
 
 
(楽山の無責任発言について)
 
 
>(楽山)
自分の記事のテーマは、「ある言論が、正当な批判か、誹謗中傷かを区別するのは難しい」ということなので、発言責任に触れても触れなくてもその論旨にはさほど影響はない。
 
批判か中傷かを区別しないわけですから、楽山には、言論の資格がないということです。それで、何でもOKだから、そこを前提にして、責任を負う必要はないと言っているのであれば、もはや、楽山は、大人の言論者ではありません。まさに、異常な自己愛と学習障害が生んだ荒らしです。
 
 」
 
 
>(楽山)
自由と責任のどちらに重心をおくかは、次のようにテーマと立場によって、コロコロ変わる。
 
 」
 
今読んでも、腹が立ちます。言論の自由と、言論の責任は、コロコロ変わったりしません。権利と義務、自由と責任、これは、言論の鉄則であり、どちらにも重心があり、変わることはありません。
 
楽山は、自由に発言しておきながら、責任を負わないし、何もなかったかのように忘れてしまうのでしょう。以前から、楽山について指摘してきた無反省・無責任は、楽山の自己愛性人格障害からの異常性を示す体質的な精神病質の症状です。
 
 
 
 
(古い記事は載っていません)
 
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(古い記事もインポート済み)
 
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(ここは、ブログ記事をリンク・抜粋)
 
 
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