ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

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  楽山の無視スルー
 
 批判をスルーすることについて【追記3あり】
 2020年07月26日 楽山日記(LD)
  を改めて批判。
 
楽山の記事を抜粋して、その言い分の卑怯さを考えてみます。楽山の病的体質・異常性が表れていると思います。
 
「時は金なり、命なり」を書いて、あちこちのブログを見てまわることを止めることを書いた途端に、信者ブログから批判記事らしきものをいくつも発表されるとは奇妙な偶然であるし、なんだかおかしくてたまらない。
 
「時は金なり、命なり」で、無視スルーを正当化するとは、楽山らしい、ことわざの乱用です。上の「信者」はHS信者のことのようですが、責任負わされると逃げ回り、正当化して言い逃れしまくる楽山らしい詭弁です。「おかしくてたまらない」・・楽山の体質として、あざ笑いの習性です。
 
 
批判内容については、ざっと眺めただけではあるが、正直言って興味をひかれるものはなかった。
 
批判には弁明か反論が必要であります。「興味をひかれる」かどうかで、無視スルーするかどうかを決めるのは、いかにも暴力的な筆致で、弁明にも反論にもなっていません。乱暴でで悪意ある言葉で済ませようと楽山の自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)が表れています。
 
 
・時間…リアルの議論であれば、せいぜい二、三時間もすれば一段落できるだろうが、ネット上の議論であれば、何日も、何週間も続くことがある。人によってはこちらが何も書かなくなっても何カ月も何年もねちねち悪口を書き続ける者もいる。これには付き合いきれない。
 
リアルの議論であろうと2~3時間で終わることはなく、継続になることが多いでしょう。楽山の手には負えないと思います。いかに、いい加減に終わらせてきたか、都合が悪くなると雑言か無視スルーが武器の楽山の、いい加減さが表れています。
 
ネットの議論となると、さらに、楽山のような丁寧語の高慢な暴言者がはびこってくるのです。楽山が書けなくなって、書いたものも意味がなければ、批判は長く続きます。何故なら、合意に至ることがなくなり、議論者として欠陥だらけの楽山には、追放以外、待ってはいないからです。
 
その場合の批判は、合意を目指すためではなく、卑怯者を追放するために、批判が継続するわけですが、楽山は「何カ月も何年もねちねち悪口を書き続ける」と言っていますが、自己絶対で、悪いことを、みな、相手のせいにしてゆく体質の表れであり、ゆえに、否定するための批判が続くのです。
 
自己愛性パーソナリティ障害者は、自己中にしか話を進めないので、議論そのものが不可能なのに、自分の言い分だけは控えることをしないのだから、無視スルーの卑怯者は、議論において有害でしかなく、よって追放相当の否定をし続けることになるわけです。楽山は、紛れ込んだニセ論者であります。
 
「付き合い切れない」・・その通り、付き合わなくていいから、出て行きなさいということです。それくらい、自己中の妄想ベースのことばかり言って、人の話を受け取らない者は、議論を混乱させるだけ、論者を疲弊させるだけの無礼者~無法者ということです。
 
 
・ケチ…真理を求めての議論なら意味もあるだろうが、無暗な人格批判だとか、否定のための否定だとか、ただ相手にケチをつけたいがための難癖などにはいちいち付き合う気にはなれない。
 
楽山は、真実追求の議論などしたことはないと思います。人格に異常があり、そのために有害であるならば、人格批判は当然です。自己愛性パーソナリティ障害NPDは、それだけで批判対象、否定対象になります。いてはならない公共の敵なのです。付き合うのではなく、出て行きなさいということです。
 
 
・テーマ…事実関係についての議論であれば、思想、主義、信仰、感性などが異なっていても可能だろう。でも、「神とは何か?」「信仰とは何か?」「いかに生きるべきか?」という答えのない問題については、思想、主義、信仰、感性が異なる相手と議論しても平行線に終わるだけであまり意味はない。
 
まさに、答えを出すことの難しい宗教と信仰の問題について、信仰に必要な心を持たないのに、奇跡や事実関係だけを問題として、偏見と先入観だけから否定してきたのが、楽山です。そのような嘘と詭弁ばかりで話にならないからこそ、どこまでも不成立の無資格者として根底から否定するしかないのです。
 
 
プライドが高く、何かというとすぐに怒り、逆恨みし、粘着してくる人がいる
 
楽山は、怒りを笑いや無視スルーに形だけ変えて、この記事のように、決めつけてきます。楽山は、ただ、不快になると放り出しているだけです。それが自己愛の自己中の自分勝手なのです。言い換えれば、楽山は、自分の快感を求めているだけで、冷静な真実の追求などしたことはないのです。
 
 
・関心…人は自分に対する批判には敏感なものだ。だから批判があればどんなものかと興味を持ち、つい見てしまうし、反論してしまうこともある。でもあんまり下らぬ批判ばかりが続くなら、じきにバカバカしくなっていちいち確認することもなくなるだろう。
 
「下らぬ批判ばかりが続く」「バカバカしくなって」「確認することもなくなる」・・まさに、楽山の自己中からの短絡と、その場合、ただ不快になっているから無視スルーする、ということが明らかなのです。ここは、殆ど、罵詈雑言であります。
 
 
自分に対する批判はスルーを基本にした。そういうわけで、ずっと前は自分の意見が誤解、誤読されていると思えば、「それはちがう」とすぐに喰いついたりもしたけれども、今は誤解、誤読による批判があったとしても放置することが多くなった。
 
楽山は、誤解・誤読について説明したことなどありません。ただ、好きなように訂正不能に言ってきただけです。そして無視スルーを始めると、放置して、こちらからの楽山批判が積み重なるということです。楽山は、言いたいだけ言って、批判をむけられると弁明や説明ができないから、無視スルーになるのです。
 
 
漱石の田山花袋に対する対応を見習って、いちいち批判者のブログに出張したり、反論したりするつもりはない。
 
漱石を見習っているつもりなのでしょうか。思い上がりも、身の程知らずも、いい加減にしてほしい。楽山の書く文章に、文学の冴えた光など、一度も見えたことはありません。
 
 
コメ欄にでも書いてくれればよい。その場合は一応全部読むくらいのことはするつもりではある。
 
すっかり文豪気取りのようです。以前から、楽山には、評論家気取り、論客気取り、学者気取り、インテリ気取りなどの、高慢な気取りが、ついて回ります。説明もせず、学術用語や専門用語を使ったりするのも、そのせいでしょう。
 
 
自分の書いていることは、基本的には個人的な感想である。
感想に正しいも、正しくないもない
 
楽山は、何か文章を書くときに、正しさを考えずに書いているのでしょうか。楽山にとって、作文は、情動と衝動のお漏らしなのでしょうか。一般的には、何を書くにしても、書く人は、正しいと思って書いているのです。楽山の無責任の本質が表れています。
 
 
人間の認識には限界があるというものだ。だから自分は自分の判断に疑問を持っている。「神はこういうものだ!」「これが神だ!」ではなく、「自分には神はこのようなものに思われるのだが…」「自分にはこれが神であるように思われるのだが…」という具合になる。
 
それが、正しいと思っているわけです。楽山の主張というのは精神分裂しているのでしょうか、分裂したまま書いているのでしょうか。要は、確信度によりますが、楽山は、無神教カルトの意見を引用しましたし、キリスト教を否定したのです。醜い言い逃れです。
 
 
自分は正しく神を認識し、正しい信仰を持っていると称する信者が、自分には正しく神を認識し、正しい信仰に至る能力はないのじゃないかと疑いつつも、自分なりの努力を続けようとする楽山のことを傲慢であると糾弾するのだからおかしなものだ。
 
呆れます。キリスト教の神を否定し、キリスト信仰を侮辱しておいて、よく言います。楽山は、努力を続けているのではなく、思いつきの雑言をだらだら続けています。それを、努力と言って、ごまかしているのです。
 
 
自分の立ち位置は当ブログを見ればすぐに分かることだ。にもかかわらず、ああだこうだ的外れなことを言ってくるのであれば、こちらとしては申し訳ないけれども、まじめに相手をする気にはなれず、スルーすることにならざるを得ない。あしからず。
 
今までのことから、楽山に、人間としての適切な立ち位置はないと思います。「的外れ」は悪口です。今後も責任を負わないのなら、言論の場から退場するべきです。いつまでも、粘着した嫌らしい詭弁の言い訳、聞き飽きました。無責任に人の意見を無視スルーするのなら、楽山は卑怯者です。
 
 
・テーマ…真理というものは、いわば無限である。しかし紙幅は有限である。だから真理を語ろうとするときは、その一面について語ることになる。
 たとえば、真理には、A、B、C、D…というものがあったとして、その全部を書くわけにはゆかず、そのうちの一つであるAをテーマにして書くということになる。
「Aが真理だ」としたときに、「Bも真理だ」「Cも真理でしょう」「A2というのもあるよ」という意見があったとしても別に構わない。
 
楽山が、困ったときに出してくる、本質とはかけ離れたABC命題論理もどきです。実際問題から話をそらすために、時々使う手法です。殆ど意味はありません。テーマと題材から遊離した題材で理論家ぶっているだけで、実践的な説明・説得力の欠乏を表すだけです。
 
楽山は、真正面から考えて語ることが出来ないのでしょう。ここでABCなんぞに持っていく必要は全くないのです。論理学のように見せかけていますが、テーマをわざと難しく見せて、煩わしくして、こじらせて、楽山にとって苦手な人を、遠ざけようとしているだけです。
 
真理が、そんなにいっぱいあるでしょうか。いい加減でよいのでしょうか。真実の追求をする人は、集中して、考えて、精いっぱいの答えを求めますが、自己満悦だけを求める者は、面倒になると、わざと分散させて焦点をぼかして混乱を招くのです。元々、よく分かる話など、する気が無いからです。
 
 
自分は正しいと確信した上で、正義の怒りを爆発させていたり、相手のすべてを否定しなければ気が済まないというくらいに憎悪をたぎらせている人に対しては、可能な限り距離をおくという対応をとるしかない。
 
距離を置くことと無視スルーは違います。楽山は、実に平気で人を無視するのです。そして、迷路のようなABC話とか、捨て台詞や愚痴を言って混乱させてきます。このことが、既に、楽山が議論に不適であることを表しています。妄想と詭弁と嘘などで相手を混乱させて去らせるのが目的です。
 
楽山の理屈めいた話とは、誰も噛み合うことはないと思います。混乱を来たらせ、真に受ける人を疲れさせて、難を逃れるためでしょう。言ってることは、みな、自己正当化をベースにしているので、共有・共感できることが何もないのが、楽山の特徴です。楽山には、どうか関わらないでください。
 
 
詭弁と言い訳の長話

詭弁と言い訳の長話
 
 
(2022年08月15日)
 
 
 
  空しさ
 
空しくするのは人だけだ
道具は捨てたとき道具ではない
約束は捨てたとき約束と呼ばない
希望は捨てたときその名を失う
それ故さらに空しくする
鉄屑が黒い泡を吐いて沈んだ後
裏切りと報復のタールの沼に
溺れる言い訳
すくえる者が何処にいる
陸に干上がった解釈の尾ひれ
愛撫する者が何処にいる
尻の繰り言の磨ぎ汁
拭えるものが何処にある
それ故それでも横たわる
眠るばかり待つばかりか
過ぎると人が言うものを
訪れると人が言うものを
何も期待せずに
道具などない もはや
約束もない
それ故まだ知り尽くしてはいない
希望の汚名を被ったまま
底なしの沈殿が捨てきれずにいるものを
自分を空しくするのは自分だけだ
 
 
  祈り・神の法廷
 
人の法廷を恐れるよりも
いかなる嘘も言い訳も通用しない
神の法廷を恐れなさい
そこを仕切るのは全知全能
人は騙(だま)せても
神は騙されない
手練手管・戦略・弁舌・ディベート
あらゆる人の知恵の空しい所
なぜなら総ては余すところなく
すでに知られ見抜かれている
最も恐るべき神の法廷であるのに
ついに一円の宝も
天に積むことのなかった罪人は
しかし祈り願うのであった
救いを求めるかのように
喜びを求めるかのように
ただ一度かけられる
たった一言を
もうそろそろいいだろう寿命だ
迎えに従って昇ってきなさい
神の法廷が待っている
 
 
  地球の持ち物
 
人が地球の持ち物だったころ
責めは平等だった
人は弱かったから
恐れることを知っていた
 
人を持ち物にする人も
地球を持ち物にする人も
責めを負わねばならないはずだった
地球を所有する自由に
見合うだけの責任を
負いきれる者などいないこと
誰でもわかっているはずだった
いろいろ困ったことや
便利なことがあって止むを得ず
不可抗力の弁明は
そのまま人に返され
責めは引き渡される
今度は人の間で
私じゃない誰だ彼だと
人は人を特定して
持ち物のように捨てる
 
地球が人の持ち物というなら
決して特定できない相手から
人はどんなに強くても
恐ろしいことを知らされる
 
荒れた海に接吻(くちづけ)は届かない
荒れた海は唇を震わせ顔を歪ませる
海岸線には累々と屍が並び
訪れた人は冷たい波のしぶきに
思い切り横っ面を叩かれる
手はしびれ
血管は縮み
心臓は止まる
 
焼いても焼いてもゴミの溜まる陸と
塞(ふさ)いでも塞いでも穴のあく空と
屍の打ち寄せる海から
生も死も知らない敵が
生も死も与えにやって来る
 
まだ訪れてはいない
不可抗力と言ってしまう結末を
和解と言い逃れの違いを
誰もが垣間見て知っている
それが我が身の未来なのか誰も知らない
 
吐いても吐いても毒の溜まる体から
海鳥の翼は生えてきて
アー、アー、と
なきながら群がって
ゴミの山に餌を求め
奇形の翼で墜落しては
上と下の合わない嘴(くちばし)でつついている
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
 
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
長々と言い訳めいた記事を、楽山は、書いたものですが、結局、自分は好きなようにやる、と言っているだけなのです。嘘と詭弁と、論理に見せかけた喩えと、結局は、他者が悪いと決めつける体質だけが表れてきました。混乱を招くだけなので、それこそ、無視スルーすべき楽山の雑言なのです。
 
 
 
★こも/楽山日記3
@komo266
供養とは、思いやりなのだろうと思う。死者の気持ちを想像し、共感し、手を合わせること。
ただあまり共感しすぎると、ついてこられることもあるそうです、恐怖体験談によれば。
>>
ryuho-okawa.org
供養とは「与える愛」
供養というものは、本来は「与える愛」であるにもかかわらず、子孫の側が、わが身かわいさ、浮世の生きやすさのために、「先祖が悪さをしないように」という思いで供養していると、そこに「奪う愛」が生じやすいのです。
<<
午後8:17 · 2022年8月14日·Twitter Web App
 
空しく飾ろうとしている楽山ですが、直接的な言葉「思いやり」「共感」としか書けない楽山です。そして、引用部分の「与える愛」にもかかわらず、楽山は恐怖体験談に結びつけていますから、誰にも供養してもらえないんじゃないかとさえ思えるわけです。恐らく愛が奪われたままなのでしょう。
 
 
 
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  楽山の捨ててゆく時3
 
 時は金なり、命なり
 2020年07月19日 楽山日記(LD)
   を改めて批判。
 
 
引用して、結局、当たり前のことを、お陰様で勉強になる、時間の大切さ、時は金なり、その通り、という、宿題に困った小学生の幼稚な感想文のようなことだけしか書けない楽山です。書く必要のないことを書いて、一人前の言論者のつもりでいる自己満足の楽山です。
 
その一方で、批判されたことを、ことごとく無視して、無反省で訂正不能の、唯我独尊の悦楽に入るような、見かけの飾りだけの楽山であり、いちばん、時を無駄にしている楽山であります。自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)の楽山に、どうか巻き込まれないでください。
 
 
ツイッターを眺めていたら、次のツイートが流れて来た。
「あぁ、この人話通じないな」って感じの人に出会ってしまったら2秒で諦めて感情オフモードに入るといい。真面目な人ほどわかり合おうとするから体力も感情もゴッソリ持ってかれる。わかり合うには双方の歩み寄りが必要で、相手がそれする気ないならわかり合うとか無理だから。諦めちゃっていいんだよ
 」
2秒で決断できるのはスゴイ。リプも深い言葉が沢山ついている。お陰様で勉強になる。
 
楽山こそが、その人、話の通じない人です。世辞か無視かしか返ってきません。楽山にとっては、相手の言うことは、いちゃもんを付けるか、体よくあしらうか、無視するかになります。自分が言いたいだけなのです。当てつけ、世辞、そして、何も気にせず、何も進展しない。・・相手にしないことです。
 
切り捨てる他者についての乱暴な文章です。2秒で決断できるとは思えません。楽山は、自己正当化に都合がよければ、そこだけに無条件に賛同して引用してきます。「スゴイ」「深い言葉が沢山」「お陰様で勉強になる」・・人を切り捨てることに、これだけ喜ぶ人も珍しいでしょう。
 
楽山は、通じないからではなく、自己中から、無視してゆきます。私は、この楽山に、批判する前、数か月、振り回されました。残ったのは、言いようのない異常な疲労感です。楽山は、相手の意見を受け取って、考えて、返すということが、全くできない人です。またブーメランで楽山に返ります。
 
楽山は、ああでもない、こうでもない、ていうか、かなあ、というような婉曲的な筆致と、浅ましいほどの詭弁によって、私がボンヤリ言語と呼んでいるのですが、ごまかすために、振り回してきます。楽山とのコメントなどの遣り取りは、百害あって一利なしです。
 
楽山こそ、「わかり合おうとする」と「体力も感情もゴッソリ持って」ゆく人です。楽山が「双方の歩み寄り」というのは、自分に賛同することが前提ですから、まるで、話になりません。話にならない人については、誰も近づかないように、批判することしか出来ません。
 
上のような引用をして、またしても、自己正当化と、遠回しに他者への貶めをしてくることから明らかですが、楽山の記事というのは、大方、このような恣意的な意図をもって書かれており、一見、まともに見せてきますが、実際は、良識に、いちばん背いているのが、楽山なのです。
 
だまされないでほしいと思います。私にとっては、いつもの楽山の卑怯な筆致です。楽山は、私の批判に対して、一度も、まともな反論や弁明をしたことがありません。同じような苦情を並べるだけだったので、出禁にして、直接の対話を避けています。
 
だます人なので、誰も引っかかることのないように、批判記事を書いています。楽山は、アドラー教ゆずりの自己中によって、自分に都合の悪いことを総て無視しています。このような単方向しか持たない人との会話は避けてください。無駄に疲れるだけです。
 
楽山は、自己愛性人格障害NPDなので、孤独になっても、この記事のようなことを書いて、独りで悦に入る、ということが出来るのです。反省せず、学習せず、使命感もなく、責任感もなく、思いついたら書いて、人に見せることで、独り満悦するのでしょう。
 
しかしながら、楽山が、不都合を無視することは、自らの非を認めず、反省せず、学習せず、成長しないということです。したがって、知性も感性も鈍麻して、中身の殆どない記事を書いてきます。他者の文章の中から、都合の良い文言だけを書いてきます。まさに、無視からの正当化の詭弁です。
 
 
ただ自分は根が優柔不断であり、いらぬ口をはさみたい一言居士でもあるので、これを実践するのはなかなか難しい。
 
このような卑下は、楽山が同情をひくための嘘であり、今までも、しばしば見られてきたことです。優柔不断で一言居士が治らないなら、直す努力の後も見られないわけですから、人に向けて公開する文章など書くべきではないのです。
 
 
つい先日も、ツイッター上の議論をみて、つい横から口をはさんでしまい、そのあとすぐに「しまった! これは話が分からん人だ」と気づいたものの、話を打ち切ることができず時間を無駄にしてしまったのだった。最近はネット上の巡回先を狭めて、自分の趣味と家族のための時間を増やそうとしていたのに、また振出しに戻った形であった。とほほ。
 
このように、「しまった! これは話が分からん人だ」というように、不都合を、いつも他者のせいにしてきます。自分の非を認めません。さらに「とほほ」というワンパターンの常習の、ふざけた芝居を入れてきます。楽山の言語には、成長がありません。話が分からないのは楽山のほうです。
 
楽山は、自分と関わる人の時間を、ことごとく無駄にしてゆく魔性です。そして、反省と書いたり、この記事のように、とほほ、とか書いていますが、その実がなく、その前と全く変わりなく、勝手な思い込みを前提に書いてくるのです。反省ではなく、楽山の、ふざけた言い回しです。
 
この楽山の、詭弁としての、わざとらしい書き方を、トホホ言語と呼んでいます。曖昧な書き方をするボンヤリ言語と並んで、人を煙に巻く善人気取りの、三文芝居を当ててくる大根役者が楽山です。楽山は、だますことを目的とする典型的な偽善者です。
 
楽山は、優柔不断なのではなく、自分の都合だけで、自分のためにだけ、記事を書きます。そして、だまされた人が、やさしい人柄ですね、など世辞を書いてくるのを待っているのです。実質的な議論や話し合いなど、全くする気がないのです。
 
楽山の記事もコメントも、どこからか、自己中心に拾ってきた、自分に賛同し、自分を褒める言葉でしかありません。楽山は、人と交わすための言葉を、全く持っていない人です。それで、自分に都合がよい言葉を引用して、べた褒めすることは、結局、自画自賛しているのと同じです。
 
 
あまりにけちん坊すぎるのも嫌だけども、それでもやっぱり時間は大切にしたいものだ。「時は金なり」というけれど、これは控えめな言い方であって、本当は「時は命なり」といっても、ちっとも大げさではないのだ。
 
時間を大切にすることを「けちん坊」と言うのでしょうか。時間を大切にしないことは物惜しみする「けちん坊」なのでしょうか。日本人として、言葉がおかしいと思います。楽山と直接やり取りすることこそ、時間をドブに捨てるようなものです。こういう魔性とは、何より関わらないことが大事です。
 
前に書いたことですが、シャロームは、ブログで参照する教会が韓国の教会で、韓国に友人がいると言っていたので、在日のようです。そのシャロームに無条件賛同する楽山も在日だろうかと思っています。シャロームと楽山のしていることを、日本人アホ化計画か・・と言ったことがあります。
 
どの国にも、どの民族にも、民族宗教が偏向して狭量となる悪者はいるわけですが、そういう例となる楽山とシャロームなのでしょうか。だとすれば、カインの末裔であるかのように、道理として、どの国でも、どの民族でも、無反省、無責任の自己中は、許されるわけははないのです。
 
楽山は、時間をことごとく無駄に消費して、人生の可能性を捨ててゆく生き方です。そのために、思考も情緒も、恐ろしく鈍感になり、ますます、気づきというものがなくなっています。人格から、良心や罪悪感や共感などが、見られません。
 
この方向は、ずっと続くだろうと思います。楽山の言うことを真に受けて、付き合い続ければ、言いようもない疲労に陥れられて、かつ、同じように鈍感になるでしょう。人格破壊にもつながります。それが狙いで、楽山は、壊れた言葉をつないで、自己満足する人なのでしょうか。
 
 
と、ここまで書いてから検索してみると、やっぱり既に「時は命なり」と言っている人がおられた。 内容紹介を読むと、時間の大切さを説いているようだ。まさしくその通りと思う。
 
ここで、「時は命なり」を「言っている人がおられた」などと、初めて聞いたかのような書き方をしています。誰でも知ってる「時は金なり」を、意味を強めて自己中正当化に使っているだけでしょう。楽山の詭弁の作為を見逃してはいけません。他者を無視することを正当化したい楽山の詭弁=汚言です。
 
そして、「時間の大切さ」と、これまた、当たり前のことを書いて、締めに「その通り」と言って、記事を書いたつもりなのです。自分の言葉を持たない楽山の世界に、どうか巻き込まれることのないように祈っています。文章の見かけより、はるかに、悪質な性根だと思います。
 
 
詭弁→汚言クラブ

詭弁→汚言クラブ
 
 
(2020年)
(2021年)
(2022年07月31日、再録+加筆)
 
 
 
  朝を行く
 
ゆるやかに焼土と化してゆく町の
紙切れ一枚に託された
朝の光と入れ替わるように
みずみずしく滴り落ちてゆく
悪意
覚えはないという
廃虚に燻り炭化して肉質を離れる
かつての
そしてこれからの
痕跡
ほら今日もこんなに光っている
開いた肉芽を屈折して通る宝石の
切通しに立ち竦(すく)む
覚えられることを拒むかのような
幾つもの折れた眼差し
 
(※ 昔、ネットの詩の投稿サイトに参加していて、そこに雑言を書き込んできた荒らしのことを書いたものです。90年代でした。・・同様の楽山について、しばしばアップすることになりそうです。)
 
 
  衰える繰り言
 
衰えは隠せない
年を取れば
耳は遠くなるだろう聾(ろう)に向かって
目は薄くなるだろう盲(もう)に向かって
ついには沈黙と暗闇の中で
頭は更に呆けて想念も飛ばなくなるだろう
繰り言ばかりが増えるだろう
 
そんな歳まで生きていたくない
もう言葉も・・・眠らせて・・・
 
そんなとき不意にエンジン音を響かせて
弱き身を支えんと目を覚ます一つの不安と
不穏、不穏不穏!
黙(しじま)はあまりにも遠く
果てしなく響く叫び
聞かれるのを待っている
 
闇はあまりにも薄く
広がりすぎた光の世界
見られるのを待っている
 
それが身をもって分かれば
またも繰り言なれど
死んでもいい生きてもいいと何故言えぬ
 
言葉は要らないなんて
決して言えない決して言わない
どんなに遠くどんなに薄くても
叫びも光も言葉を求めるだろう
黙に聞き入る耳と
闇を睨み続ける目がある間は
 
 
  スイッチ
 
今死に果てれば未来が見えぬ
生き果(おお)せる間は過去が消えぬ
 
身を捨てて苦楽の時を消すか
身に沁みて苦悩の時を見るか
 
独りの 時は本当に消せるのだろうか
独りの 時は見られることがあっただろうか
 
いずれいかなる時も消え失せるとしても
自分で触らない限り
スイッチは「生」のまま
今はまだ召される時を待っている時
 
時に踊り
時に沈む
時の果(はか)に任せて
 
 
※ 「果(はか)」は辞書によって違いますが、「はかどり」「進み具合」といった意味で使ってみたつもりです。
 
 
  農道
 
空の色とは似ても似つかぬ
ソラ色のビニールの
雨に汚れたカバーの下に
石灰に包まれた魂が
瞳のない目をあけている
材木が二本
細く黒ずんで
不揃いにソラ色から足を出し
降ってくる空の恵みの下で
垂れてくるソラの恵みを受けながら
暖かい腐敗を待っている
 
点々と水たまりが追いかけてゆく
走り去る轍の上を
その向こう遠くの山が
流れない雲になって
消えるあたりを目指して
近づかない風景を歩む
雨は上がった
音・・・?
 
生き物がいる
瞬(まばた)きしている
 
 
 
★こも/楽山日記3
@komo266
⑤ 信仰者でも地獄へ行く事はある。生き方次第では私が地獄に落ちる事も当然ありえる。
 」
昔はそう説かれてましたが、『救世の法』によれば、HS信者は、悪霊に憑依され、言動に問題ありの状態が続いた人でも、天国に還れるようですよ。
>>>(サーバーか)
このアカウントの所有者はツイートを表示できるアカウントを制限しているため、このツイートを表示できません。
<<<
午後10:33 · 2022年7月29日
 
「悪霊に憑依され、言動に問題ありの状態が続いた人でも、天国に還れるようですよ」・・楽山は、HSを支えたいのでしょうか。自分が教祖にでもなりたいのでしょうか。天国に行くための何の準備も言動もしていない楽山です。どの口で、安心できることを言うのでしょう。
 
 
★こも/楽山日記3
@komo266
ところで、棒氏が自分教になってる原因に、恐らく総裁の言葉の軽視があります。
普通の信者は①であり総裁の言葉から離れませんが、棒氏は②だから総裁の言葉から離れてしまうのでしょう。
①総裁の言葉→気づき→総裁の言葉→気づき→総裁の言葉…
②総裁の言葉→気づき→気づき→気づき→気づき…
午後2:16 · 2022年7月30日·Twitter Web App
 
楽山は、総裁の言葉を重視しているのでしょうか。つまり、HSに賛同しているのでしょうか。楽山は、総裁の言葉を重視して、気づきを重ねて、アンチHSという立場は嘘だったということでしょうか。自分教の楽山は、実は、アンチではなく、信者なのでしょうか。
 
 
★こも/楽山日記3
@komo266
他の信者と交流していれば、自然と①になり、総裁の言葉を中心にした信仰に立ち返れると思うので、棒氏はアンチに噛みつき、自説を書き綴るより、もっと積極的に信者と交流したらいいです。
午後2:23 · 2022年7月30日·Twitter Web App
 
「総裁の言葉を中心にした信仰に立ち返れる」と言っている楽山は「信者と交流」し「総裁の言葉を中心にした信仰に立ち返れる」ことを勧めているようですが、楽山がアンチではないことを、自ら証明しているのでしょうか。
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
良心を育て損なっている楽山には罪悪感がありません。サイコパスという言葉は、元々、精神病質と呼ばれる病気でした。精神病と紛らわしいからか、最近は、反社会性人格障害と言われているようです。反社会性が表れてからでは遅いような気がして、自己愛性でいいのではないかと思います。
 
楽山は、書けば書くほど、自己主張と嘘と詭弁だけだと、自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)そしてサイコパスである証拠となってゆくのだと、分からないのでしょう。宿命か因業のように、悪臭をネットに垂れ流してゆくようです。丁寧語が汚言となる例であります。
 
 
 
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  スルーの詭弁3
 
   スルーする人、しない人。2019年06月11日
   https://blogs.yahoo.co.jp/jiyuu2013/41551426.html
   楽山のブログ、楽山日記(LD)の記事を改めて批判。
 
 
楽山は、気に入らないことは無視する、という自己中心カルトの、アドラー教を宣伝してきましたが、音楽家らしい人の記事で、センスが物を言う音楽と、節操が大事な宗教とを、同じように扱って、いったい何を言っているのでしょう。
 
楽山は自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)です。スルーと言って、まともに見せかけても、人の意見を無視する楽山の独善は、最悪、最低です。
 
 
>ツイッター見てたら、次のツイートが流れてきた。
>「批判はスルーすべし!」という考え方のようだ。
 
楽山は、自己肯定をもって、スルーする力が大事であるように言っています。しかし、お手本として挙げているのは、自分の才能に自信を持つことが必要なミュージシャン、ギタリストなのです。こんな常識はずれな言い分が、自分にも通用すると思っている楽山は、異常~病気です。
 
楽山は、柔和芝居の軟派カルトであり、他者を無視する不感不応の自己正当化に、また詭弁を弄しています。楽山は、自分の宗教の才能に、芸術みたいに自信を持ってしまったのでしょうか。はっきり言って、これは、傲慢な自惚れ教カルトにしかならないのです。楽山は異常です。
 
宗教と信仰は、つまり、神を信じることは、才能ではありません。楽山が持たない心の問題です。楽山は、成り立たない自己正当化のために、詭弁と嘘しか言えないのです。楽山は、都合の悪いことを言われると、スルーつまり無視するか、嫌がらせのような当てつけを返してきます。
 
 
ここで、ハタと思い出したのは、
ケリーサイモンさんは批判には、
きっちり反論する人だったということ。
 
はっきり言えることは、楽山は、いかなる批判にも、「きっちり反論」したことが一度もないということです。楽山が、ボンヤリ言語の婉曲と、トホホ言語の謙虚芝居でごまかすのを、もはや、通用させてはいけません。
 
音楽や芸術の場合、感性の才能というのは、人によって質的にも違うのでしょう。自分の才能を疑っていては前に進めない分野だと思います。しかし、楽山のやっていることは、宗教そして信仰という公の義と議論のあるべきことです。少なくとも、節操や分別の必要なことなのです。
 
楽山の見当違いと的外れは甚だしいものです。宗教と信仰にも感性は必要ですが、それは、人並み外れていなくてもよいことです。むしろ、共感をもって、公共に向かって、自分の考えを発表するべきであり、人の意見を無視してよい分野ではないのです。
 
恐らく意図的なのでしょう。今までも、ボンヤリ言語で、他者を無視することを刷り込んできました。そして、批判者に対しては、嫌味を言って、保身を図ります。楽山は、正面を向くことがありません。狡猾に企み、迷路に誘導して、異常な疲労をもたらしてきます。
 
宗教と信仰において、気に入らないことは無視してよい、などというアドラー教の信条は、語るべき何ものも持たない者の、言い逃れに過ぎません。それを宣伝していたのが、楽山です。その通りに、自らの罪業によることでも、気に入らないことを無視してきました。
 
その正当化に、またしても、ボンヤリ言語で、ごまかしながら、アーティスト・ミュージシャンをあげて、それと同じような自身の感性の世界を主張するとは、ナルシシズムも、ここまでくると、手段を選ぶとか題材を選ぶとかいう常識さえも失ってしまったようで、その醜さに呆れます。
 
つまり、楽山には、文脈を考えて、文章に仕上げる知性と感性が、まるでない、あるいは、意図的に操作して、読者に刷り込もうとしているとしか思えません。体質のために知性も感性もどんどん鈍化してゆく楽山に引き合いに出されたほうが、いい迷惑でしょう。
 
 
>でも記事を読み直してみると、
>あんまりくだらん悪口は、スルーするとしてるかな。
>通報して終わりと。
>こうしてみると、やっぱり、スルー力って大事なんだな。
 
この辺が、芸術と音楽を悪用して、自分を同じ根拠に立っているかのように見せかける詭弁でしょう。楽山は、こういう企みに満ちた根っからの病質的虚言者です。楽山の場合、無視することの正当化であり、その理屈を書いたつもりなら、救いようのない詭弁であることは明らかです。
 
 
>ではどうしたらスルー力をみにつけられるかと考えてみると、
 
「スルー力をみにつける」と言って、既にスルーすることが正しい、という前提になっています。音楽家の個人の必要で語られ、誰でも認められるわけではないことを、楽山は悪用します。楽山の言論は、まさに、腐った果実であることが表れています。
 
このように、理由があってスルーすることと、不都合を総て無視することを、表面的な言葉の類似によって同一視して、自己正当化の詭弁を捏造し、罪悪感もなく言ってのける悪意が楽山の言論なのです。やはり、人格の異常を考えないと説明できません。楽山は、精神病質サイコパスだと思います。
 
 
>どうも圧倒的な自己肯定力が要になってそうではある。
>あとは、世の中はそういうものだから、しょうがないという諦観かな。
 
楽山の圧倒的な自己肯定力は、人間とは思えない無節操で不感不応によるところの、他者を圧倒する傲慢な無視の力であります。そういう楽山には、読む限り、圧倒的な、いかなる才能も見い出すことは出来ません。霊が分かるっぽいという霊能者気取りなどの、どれもこれも、気取りばかりです。
 
芸術家や音楽家と同様の独自性を全く持たない楽山が、言葉だけ借りてくるのは、滑稽だけでは済まず、人間関係においては最悪です。これで、気に入らないことは無視する、というアドラー教の信条をすり込んでくる人です。やむを得ない、しょうがない、という言い訳まで挟んでいます。悪魔性です。
 
無視をスルーと言い、自己中病質を自己肯定と言い「世の中はそういうものだから、しょうがないという諦観かな」などと、みんなそう・・みたいな言い方で、だまそうとするのです。この悪質は、訂正不能なのでしょう。決して、関わってはいけない楽山です。詐欺師の発言と言っていいでしょう。
 
 
>自己肯定と諦観って、
>正反対のもののような気がしないでもないけど、
>どっちも大切のようだ。
 
ここで、変な理屈からの感慨を述べて、楽山が言う自己肯定は、この場合、我執の自己正当化を大切と言っているのです。ぜひ覚えておいてほしいです。楽山は、こういう人なのです。自分の都合しか考えない人です。楽山ブログは、手段を選ばない自己中宣伝ブログなのです。
 
自己肯定と諦観は、世の中の壁に当たると生まれやすいものですが、楽山は、誰の何の壁にも当たることなく、都合の悪いこと総てから逃げているだけです。したがって、自己肯定でも諦観でもなく、卑怯な遁走であり、明らかな作為の悪意の自己正当化に他なりません。
 
罪と非を認めず悔いることも改めることもしないシャロームや、荒らしでナルシシストの理屈倒れの易坊に、かなり共通しています。楽山を加えて、この3者には、同一人物による、危険な罠だらけの成りすましという疑惑があります。
 
正々堂々ということから正反対のところで、人を欺こうとする者は、自らが設けた罠に嵌って、ますます、その卑怯な詭弁と、暗示による悪魔的な優しさ気取りの欺きを増悪させてゆくようです。だんだん、本性を表し、恐ろしさを増してくる楽山です。
 
楽山、シャローム、易坊に、どうか近づかないでください。感性においても思慮においても、身の程も弁えず、引用の自己肯定を捻じ曲げてスルーという言葉で無視にすり替えて美化し、都合の悪いこと総てを無視し、性懲りもなく企んで書き続ける、という、とても怖い者たちです。
 
付き合うと、恐らく、なんとなく、楽山を肯定し続ける人がいるかもしれません。それは、人格を自分で破壊する結果になります。つまり、仲間になってからでは遅いのです。それに、いかなることにも、楽山は、責任を負う気はありません。
 
楽山の壊れ具合に、お手本として出されたアーティストが、いい迷惑でしょう。楽山は、他者に対して、言い方だけ白々しい丁寧さですが、侮辱しているのと同じです。こういう記事を、ボンヤリ言語で、さらっと書いて、まともなつもりでいるのは、きわめて異常です。
 
人の迷惑を考えない楽山には、誰も近づかないでください。塵、ホコリ、汚れの類だと思って、それこそスルーしてください。関わって、得られるものも、与えられるものも、良きものは、何もありません。楽山ブログは嘘吐きブログと結論してよいと思います。
 
 
嘘吐きの言い逃れ

嘘吐きの言い逃れ
 
 
(2019年)(2021年)
(2022年07月19日、再録+加筆)
 
 
 
  暗鬼
 
見えなかったものが
ぼんやりと見えてくる
閉ざされた沈黙の奥に
歪んでいく闇がある
 
ぼんやりとしか見えなかったものが
血を引くように
薄暗い
顔に近づき
不明の表情を持ち
青白い
体になり
地を離れ
次から次へと
倒れ込むように重なり
命のない眼が訴えるように揺れ
色が揺れ
熱を帯びて
息がさまよい
口が開いて
黒ずんだ肉を求め
吐き出されたものが
輪郭をあらわにするとき
 
爛れた粘膜を貫いて
暗闇から
鬼の目が光る
 
 
  神と私
 
真理は神にある
人にあるのではない
それを知るところから宗教が始まる
それを「知っている」と言うところから邪教が始まる
 
真実は神による
人によるのではない
それを知るところから信仰が始まる
それを「知っている」と思うところから狂信が始まる
 
言葉は神による
人によるのではない
それを知るところから謙虚が始まる
それを「我がもの」と決めるところから嘘が始まる
 
人には人に
限られた真理
人には人の
知るべき真実
人には人を
生かす言葉
与えられ、蓄えられ
泉のように湧き出づる
 
 
  祈り・神の法廷

人の法廷を恐れるよりも
いかなる嘘も言い訳も通用しない
神の法廷を恐れなさい
そこを仕切るのは全知全能
人は騙(だま)せても
神は騙されない
手練手管・戦略・弁舌・ディベート
あらゆる人の知恵の空しい所
なぜなら総ては余すところなく
すでに知られ見抜かれている
最も恐るべき神の法廷であるのに
ついに一円の宝も
天に積むことのなかった罪人は
しかし祈り願うのであった
救いを求めるかのように
喜びを求めるかのように
ただ一度かけられる
たった一言を
もうそろそろいいだろう寿命だ
迎えに従って昇ってきなさい
神の法廷が待っている
 
 
  嘘とウソ
 
いつか公の場に
引き出されることがあったら
できれば嘘は吐くまいと思っている
今までずっとウソつきだったから
真面目に真剣に
ウソをついてきたから
 
このウソつきの顔から滲み出て
雫にならないまま蒸発してしまう
汗の冷たさ
 
それは生ける屍と廃人の違い
生ける屍は肉体が死ぬまでの間
ときには懸命に
伝えたいことを表そうとする
廃人は肉体的であれ精神的であれ
もはや伝える術を持たない
 
だから廃人などいないのだ
罪があれば裁きがあり
罰がある 身を震わせ
狡さと悪と罪悪感を総身で受けて
限りある打算と情けに助けられて
生ける屍を受け入れてしまって
待つ身でしかない男は
そのとき引き回されながらも
認める他はないのだ
 
もし本当と呼べるものが
あるとしたら このウソと
ウソに住むことだけが
私の温もりと優しさであったと
 
 
 
 楽山のツイッターですが
 
心機一転★こも楽山
@komo266
動画を見たけど、またもや他宗教の神々を低くして、エル・カンターレが一番偉いといってるようだ(笑)
午前9:07 · 2021年7月11日·Twitter Web App
 
「(笑)」うことしかできないようです。恐らく、真面目な批判など、したことがないのでしょう。こういう根性で、楽山は、キリスト教の神を否定したのですが、不真面目で、怠慢で、いい加減で、ゴシップ好きな者が、成長につながらない揶揄だけをしてきたに過ぎません。
 
自己中で、いちばん偉そうにしている、批判者気取り、宗教家気取り、評論家気取り、インテリ気取りなのは、楽山です。ころころ変わるような揶揄には、どこにも真実に向き合う態度がありません。今も、まだ、人も神も下に見て、何か言えると思っている、醜態のピエロです。
 
心機一転★こも楽山
@komo266
日本の悪いところばかりでなく、よいところも知ろう、日本らしさを大切にしよう、日本も主張すべきことは主張しようとかならまだしも、
HSは、日本が一番偉い、日本は他の国々よりずっと上だと公言して憚らないからヤバい。しかもその根拠は霊言だという…(笑)
午前9:16 · 2021年7月11日·Twitter Web App
 
楽山は、他者のことばかり言います。楽山は、自分を見ることが出来ません。楽山は、日本らしさも、人間らしさも、全く知らないで、人に教えようとします。人の言うことを聞く気のない楽山に、人に何かを教える資格も伝える資格もありません。だから「(笑)」うしかないのでしょう。
 
楽山は、自分が他の人々よりずっと上だと根拠もなく自慢しているようなものです。ゆえに、いつも、他者のことを笑っています。その結果として、人の言うことを聞いていません。霊が分かるっぽいつもりの子供時代からです。霊が分かるというのは嘘で、楽山は、人間が分からないままなのです。
 
楽山は、人の言うことを受け取る器を持っていないのです。もはや、オートマチックに、楽山の言うことの大方が、ブーメランとして楽山に返ってゆくのですが、それにも全然気づかないのです。人のことを言い、自分を見ないということの、持続的な報いが向かってゆく地獄の方向を表し続けています。
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
人間は、反省しなければ成長しません。それで、一人前に見せかけるために、楽山は、嘘と詭弁だけを身に着けてきたのでしょう。インテリ気取り、評論家気取り、学者気取り、読書家気取り、どれをとっても、楽山だけが、その卑しく醜い気取りに気づかないままなのです。
 
 
 
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  楽山の放屁・追記2
 
 批判をスルーすることについて
 2020年07月26日 楽山日記(LD)
 追記分を改めて批判。
 
 
楽山は、言い訳がましい追記をしてきました。
 
◇◆ 追記 2020.7.26 ◆◇
*スルーの理由
記事を読み返してみて、ちと不親切と感じたので、スルーの理由について以下に補足説明してみた。
・時間…リアルの議論であれば、せいぜい二、三時間もすれば一段落できるだろうが、ネット上の議論であれば、何日も、何週間も続くことがある。人によってはこちらが何も書かなくなっても何カ月も何年もねちねち悪口を書き続ける者もいる。これには付き合いきれない。
 
楽山は、議論など出来ません。賛同者と世辞の遣り取りをするだけです。そして、あたかも、議論したかのように、議論できるかのように、論者であるかのように、見せかけているだけなのです。私の批判記事に、反論も弁明も、一度も成り立ったことはないのです。楽山はペテン師です。
 
「リアルの議論であれば、せいぜい二、三時間もすれば一段落できる」・・そんなことはありません。生涯にわたることもあるでしょう。その都度、保留して、整理して、考えてゆく姿勢が必要です。
 
楽山は、真実追求の、あらゆる理路において、破綻し、欠落し、妄想的にショートカットして、フリーズしているに過ぎません。
 
・真理…世の中には、真理を多角的に理解できる人もいれば、理解できない人もいる。たとえば、ueyonabaruさんはこのようなコメントをしていた。
1. ueyonabaru2013年05月01日 23:08
さやかさんのお考えは好きです。楽山さんはクリスチャンのような感じを受けます。どちらも、正解。
  0
2. 楽山 (自由)2013年05月22日 19:59
ueyonabaruさん、お返事が遅くなってしまいましたが、コメントありがとうございます。
当方、クリスチャンではありませんが、キリスト教には興味を持っています。とはいっても教会には行かず、自分なりにキリスト教関連の本を読むくらいですけど。
http://mn266z.blog.jp/archives/17512161.html
 」
 
だまされた人がいるようです、いや、いたようです。2013年ですか。ずいぶん前ですが、楽山は、そういうところまで持ち出さないといけなくなったようです。気持ち悪さは変わりません。昔は、こんなにも、軽く、だましていた、という思い出話でしょうか。
 
楽山は、反キリストです。楽山が、多角的視野と言っているのは、何も結論が出せず、いい加減に、信じると信じないを、さまようことを意味しています。楽山も、さまよっているように見えますが、実際は、否定して悪用しているだけです。何の助けにもなりません。
 
多角的視野など、楽山は、全く持っていません。批判に何も返せない楽山は、自己満足の自己愛だけで、書いて、だまして、やさいいお人柄ですね・・などと、褒められることが大好きです。くれぐれも、だまされないように、決して、関わらないようにしてください。
 
これはつまり、HS教義とは違う考え方であっても、アンチが言ったことであっても、真理は真理だと認識できていることを示している。またその考えが何の影響を受けているのかも分かっている。こういう人とであれば信者とアンチという立場を超えた議論は不可能ではないだろう。
 
意味不明です。「真理は真理だと認識できている」「何の影響を受けているのかも分かっている」・・すごいことを、平気で言っていますが、そういう人はいないので、楽山と議論できる人はいません。何を思い上がっているのでしょう。
 
楽山とは、いかなる議論も、交流さえも、不可能です。しっかりした立場など、楽山にはありません。だから、気持ちよさを維持するために、曖昧なボンヤリ言語で語り、不都合を無視し、反省せず、責任を負わないで済むと思っていることが、文章に表れてきたのです。
 
でもHS教義に合致していないものは真理ではない、アンチがいうのは真理ではない、アンチで退転者の楽山が言うことに真理はないという風に、党派的、護教的な決めつけばかりで、真理の何たるかを全然分かっていない人とは、まともな議論ができるはずもなかろう。
 
すでに、上で、真理は真理だと認識できていると、軽く書いた時点で、真理についてはアウトなのです。楽山の言葉は、腐っているようです。楽山は、あらゆる人間の真実に背いている卑怯者です。この人に、他者を云々する資格は、全くありません。
 
楽山の、真理は、思いつきのように、あまりにも、軽いのです。かつ、お伽噺かホラー話のように幼稚です。楽山の視野は、おもちゃ箱以上ではありません。
 
「真理の何たるかを全然分かっていない人とは、まともな議論はできるはずもなかろう」などと書いていますが、楽山は、真理の何たるかを語る資格はありません。自己愛の自尊過大に凝り固まって、あらゆる真実に背いているのが、楽山です。
 
有頂天の煽動者、誇大妄想患者、無反省・無責任の自己愛性パーソナリティ障害NPDの楽山に、決して近づかないでください。
 
・ケチ…真理を求めての議論なら意味もあるだろうが、無暗な人格批判だとか、否定のための否定だとか、ただ相手にケチをつけたいがための難癖などにはいちいち付き合う気にはなれない。
 
無暗ではありません。根拠を示して、楽山の人格の偏向、自己愛性人格障害と、無益な教え方をしている自己満悦を、指摘し、批判しています。責任を負わず、反論も弁明も出来ないなら出てくるな・・という批判です。
 
楽山は、自己愛性パーソナリティ障害NPDのために、自らの欠点など非を認めることが全く出来ないのです。そして、いつも、見下ろす視線で、学者気取りで教えたがります。高みから見下ろしている人とは、議論も交流も、出来はしないのです。
 
根拠のない嘘や悪意の詭弁を武器として、無反省で無責任な人格的欠損によって、何事にも、共感できず、感動できないので、共感や感動や反省という言葉だけを多用しています。全部、言葉だけの飾りのオモチャに過ぎません。
 
その嘘を、ごまかすために、反省とか、トホホとか、書いてきますが、文脈においても、記事の流れにおいても、何も、良い方向に変わっていないことが分かるから、芝居に過ぎないわけです。楽山は、自分さえ満足できればよいだけの利己主義の自己中の、嘘吐き、詭弁家、精神の詐欺師です。
 
・テーマ…事実関係についての議論であれば、思想、主義、信仰、感性などが異なっていても可能だろう。でも、「神とは何か?」「信仰とは何か?」「いかに生きるべきか?」という答えのない問題については、思想、主義、信仰、感性が異なる相手と議論しても平行線に終わるだけであまり意味はない。とくに当事者間に悪感情がある場合は、ただの喧嘩になるだけだ。
 
思想と宗教は、事実関係とは限りません。むしろ、知性と感性の両方を必要とする精神の作業です。しかし、楽山は、理路の調和も情緒の共感も成り立たないために、言葉の字面を細工する詭弁に終始してきたのです。
 
楽山は、自分が出来ないものだから、平行線に終わると言っています。・・平行線は、決して終わることはないのです。放り出して無視するから終わるのです。楽山という基準のない平行線が、ガラス片のように、人を傷つけ、人を滅ぼしかねないから批判を続けています。
 
こういう言い分こそが、自らの非を認めず、人のせいにする自己愛性パーソナリティ障害NPDの症状です。思想も主義も信仰も感性も持っていない楽山と、話し合おうなどと思ってはいけません。否定し続けることだけが批判であり、逃げることだけが安全保障であります。
 
楽山は、批判や議論を、喧嘩になるだけと短絡をしています。こういう短絡も、楽山の特徴です。深く感じることと考えることが、楽山は、できないのです。だから、すっ飛んで、他者を無視することに専念し、逃げているのです。一気に楽になりたいカルトの特徴的な習性でもあります。
 
「喧嘩になる」種を、いつも、バラまいているのは、楽山です。そして、無視、無反省、無責任、訂正不能、自己中の誇大妄想なら、議論など、成立するはずもないのです。
 
少なくとも「神とは何か?」「信仰とは何か?」「いかに生きるべきか?」という問題について、「答えのない」「あまり意味はない」と決めつけている楽山こそ、答えもなく、意味もないのです。人間は、人生の様々な問題に直面して、その都度、考えることで成長してゆくのです。
 
・公平…人は身内に甘く、敵対者には厳しくなりがちなものだ。だから少々のタブスタはやむを得ないことではある。
 
ダブルスタンダードが止むを得ないのではありません。違う定めに生きている人もいる、という共感によって、許容できることがあるということです。それに、楽山は、相手を疲労させることで、既に、とてもいやらしい報復だけをしてきたのです。
 
恐らく、楽山には、本当に身内と呼べる人はいないと思います。共感できない楽山は、規範のほうをいい加減なものにして、自分かわいさだけで、正当化して、二重規範(ダブルスタンダード)を許容してしまうのです。これは、妄想信念による自慰行為です。
 
ただそれには程度があるのであって、他人のコピペブログを強くしつこく批判していながら、お友達のコピペブログは殆ど不問に付すとか、自分が批判されたらすぐに相手をネットストーカー呼ばわりしておきながら、多数からネットストーカー扱いされている問題児が、自分の論敵に喰いついてるのをみて、正当な批判が行われているかのようにいうのは、ダブスタにもほどがある。こういうダブスタ人間とは、意義ある議論は期待できなかろうと思う。
 
「自分が批判されたらすぐに相手をネットストーカー呼ばわり」・・楽山がやってきたことです。実に、きたない。また、程度などという曖昧な言葉で表されるような問題ではありません。楽山の、自己に慢心している様子が、楽山の発言に表れています。
 
人間の規範は相対的ですが、楽山のように、同時に2つの、特に相反する規範を持っているのは、詭弁であり、人格乖離か真実追求とは違う目的があるとしか思えないのです。楽山は、人を傷つけることに快感を感じているとしか思えません。
 
そういうとき、楽山は「疲れたんじゃないですか」などと言うことがあります。気遣いや思いやりなどと思わないでください。サディストが、うまくいったと、独りで満悦しながら、勝利宣言みたいに、同情芝居をしているのです。今までの、楽山の、鈍く冷たく粗野な性格が根拠です。
 
また、批判に答えないまま、反省しないまま、修正しないまま、学習も成長もなく、ネットストーカーのように、自己満足の詭弁の記事を書き続けて、公に垂れ流し続けているのは、楽山のほうであります。つまり、楽山は、自分の精神病理の構造を、自分で語っているようなものです。
 
・地雷…巷には、プライドが高く、何かというとすぐに怒り、逆恨みし、粘着してくる人がいる。こういう人と議論すれば、易怒性を誘発し、面倒なことになるのは目に見えている。触らぬ神に祟りなし。以前はこういう人の存在は知らなかったが、いまはこの手の人物が存在することはわかったし、批判があったからといって、相手がどういう人物か確かめぬうちに、すぐに議論に応じるような迂闊な真似をする気にはなれない。
 
楽山は、高等感情が鈍麻しているのに、自尊が過大で、粘着した雑言を妄想して語ります。ゆえに、怒らない人のように見えることがありますが、感じていないからであり、人の意見を受け取る器がないからなのです。やさしい柔和と、うすぼんやりの鈍麻を、混同しないようにしてほしいです。
 
「プライドが高く、何かというとすぐに怒り、逆恨みし、粘着してくる人」・・怨念が根底にあることを知れば、これが当てはまるのは、楽山だと分かるでしょう。表に出すと、現実的に、見放されるので、ボンヤリ丁寧語の一点だけ保って、客観的に見せかけて、分かりにくくしています。
 
楽山の、スルーは、無視であり、アドラー教(アドラー心理学)の、気に入らないことは無視しましょう、という説教を書いていたのは、他でもない、楽山その人であります。
 
私は、途方もない病的な疲労を与えるだけの楽山と議論をする気はありません。デタラメな記事を書くのをやめなさいと言っています。言論の責任を負わない人に言論の自由はないのです。
 
楽山は、迂闊なのではない。楽山は、能力的にも、議論や話し合いのできる人ではなく、無責任であり、都合の悪い他者を平気で無視して、作為的に、賛同者だけを選んで、世辞を言います。
 
・関心…人は自分に対する批判には敏感なものだ。だから批判があればどんなものかと興味を持ち、つい見てしまうし、反論してしまうこともある。でもあんまり下らぬ批判ばかりが続くなら、じきにバカバカしくなっていちいち確認することもなくなるだろう。楽山日記には愛読者ならぬ、嫌読者もいるようだけども、自分は嫌読者が何を書いているかいちいち見に行くほどの興味関心はない。
 
「批判があればどんなものかと興味を持ち、つい見てしまうし、反論してしまうこともある」・・楽山には出来ていません。嘘と詭弁だけを返してきました。批判に興味もなく、反論も出来ないでいて、言説の皮だけを、まともに見せかけようとしても、無駄なのです。
 
「あんまり下らぬ批判ばかりが続くなら、じきにバカバカしくなっていちいち確認することもなくなるだろう」・・これが、楽山の、怒気であります。「下らぬ批判」は、楽山の判断基準に過ぎません。少しだけ、感情的な表現ですが、楽山は、内心、怒り狂って吠えているのです。
 
これが、楽山の心を満たしています。日頃、隠していることが、批判されることによって、表れてきます。丁寧語が通用しなくなって、楽山がキレるとき、どうなるかを思うと、恐怖です。
 
結論だけで、根拠が全く示されていない、という特徴を見逃さないでください。これが、楽山の、無視の、実体であります。悪口や罵詈雑言を、論者風味の学術用語や、インテリ風味の引用で飾って、見た目、柔和を装う楽山の記事が出来ています。
 
つまり、楽山は、自分以外に「興味関心はない」のです。また、興味や関心で議論が成り立っているという楽山の曲解でもあります。ということは、自己中の楽山と、議論をしている、交流している、などと思うのは、勘違いです。何も進行しておらず、ただ、疲労だけが積み重なります。
 
他者は、誰でも、楽山にとって、利用して自分を飾るための対象でしかないのです。それが、自己愛性パーソナリティ障害NPDなのです。体質的で、ほぼ、不治の病です。関わらないようにすることだけが、自己防衛になります。どうか自衛してください。
 
・わけあり…通常の感性を持っていれば、大川隆法は神だとか、霊言は真実だとか信じることはできないだろう。いまだに信者を続けているということは、それ相応の理由があるのだろう。たとえば、「持病があって苦しんでいたが、信者になってから体調がよくなった。信仰に疑問はあるけれども、退会したら体調が悪くなるかもしれないし、止めることはできない」「夫婦で信者になったが、つれ合いは熱心信者のまま亡くなった。自分は疑問を持っているが、さきに亡くなったつれ合いのことを考えると棄教できない」「二世信者で生まれた時からずっと信じて来たので、おかしいとは思いつつも、すべては嘘だったとはどうしても受け入れ難い」など。自分はこういう人たちと議論し、退会を説得したいとは思わない。
 
思いやりのある自分をアピールするための芝居です。ここでは、意見の違う人を、やすやすと無視してきた履歴が、楽山を否定します。楽山に、思いやりの欠片(かけら)もありません。もっともらしいことを書いてきますが、楽山には、思いやりや共感という高等感情はないと判断しています。
 
高等感情の鈍麻によって、共感や感動も得ることはないでしょう。楽山の筆致に、概念的、通念的、そして、無味乾燥の粉みたいな感覚を覚え、生き生きとした活性を感じないのは、そのためだと思います。この粉は、盲目と混乱と疲労と鈍麻をばらまくだけの、浴びてはいけない有害言質です。
 
・弱味…ブログ村騒動のときの信者らを見ていたら、アンチによる大川隆法批判はほぼスルーしていたのに、自分が批判対象にされたときには、わあわあ騒いでいた。自分はこれはみっともないことだと思ったので、不当に貶められている他者を庇うことはしても、自分に対する批判はスルーを基本にした。
 
他者の意見を「わあわあ騒いでいた」くらいにしか見ていないことを、楽山自身が証言しています。何を根拠に「わあわあ騒いでいた」のかを書けない楽山こそ、このような記事で、いたずらに、わあわあ騒いで、スルーを決めこんできたのです。楽山は、人の意見も気持ちも分からない人です。
 
そういうわけで、ずっと前は自分の意見が誤解、誤読されていると思えば、「それはちがう」とすぐに喰いついたりもしたけれども、今は誤解、誤読による批判があったとしても放置することが多くなった。
 
無責任な男です。しかし、むしろ、誤読し、曲解しているのは、楽山のほうに、頻繁に見られます。聖書がそうです。キリスト教思想がそうです。楽山は、基本的な理解力がないのです。無視・放置・スルーをするなら、それだけ、自己中を自分で証明することになります。
 
楽山には、人間らしい理路と共感性がないのです。だから、人間としての節操や弁えが育たず、平気で書いて、平気で人を無視して、かつ、この記事のように、ネチネチと詭弁を垂れ流すことが出来るし、今のような事態を迎えても、書き続けることが出来るのです。
 
楽山は、自己愛が勝ってしまうので、無反省、無遠慮、訂正不能が、ベースとなり、関わる人は、疲労するだけです。楽山は、無益で粘着性の、この記事のように、執拗な自己正当化の詭弁によって、だまされる賛同者・犠牲者だけでなく、誰にとっても、有害な他罰的人格となっているのです。
 
大体、スルーの理由についてはこんな感じだ。
これに対しても、文句を言う人もいるだろうけれども、こちらは上にある漱石の田山花袋に対する対応を見習って、いちいち批判者のブログに出張したり、反論したりするつもりはない。侮辱するつもりはないけれども、一部例外を除いて大概の信者さんの話は総裁の受け売りばかりなので、さほどの興味は持てないのだ。
でもどうしても批判を読め、議論に応じろというのであれば、当ブログのコメ欄にでも書いてくれればよい。その場合は一応全部読むくらいのことはするつもりではある。以上。
 
こんな感じでスルーしていたのだから、真実の追求など出来るわけもなく、我執の追求だけをしている楽山だと、楽山以外には、分かるでしょう。ならば、この記事のように、成り立たないことをぐずぐずクレームにして書くのではなく、黙っておればよいのです。
 
訂正不能の結論と感情を、わめいているだけで、スルー・無視の、理由・根拠になっていません。楽山は、読書も同様で、全部読むと言っても、字面に目を通すだけで、理解してはいないと思います。「心の理論」「奇跡」について、救いがたい曲解をしています。
 
「一応全部読むくらいのことはするつもり」・・「くらいの」?・・楽山の言の端々に出てくる高慢ですが、真摯に読むこととは、真逆の見なしが表れています。このような楽山に、軽く扱われたり、あしらわれる人になってはいけません。
 
楽山は、正常人と、見えてる世界が全然違うのかもしれません。完全な自己中心世界なのでしょう。霊が分かるっぽい、と言ってたから、妖怪か幽霊かファンタジーでも見ているのでしょうか。ですから、決して、楽山ブログに、コメントなど書いてはいけません。
 
「一応全部読む」ことなど、楽山には出来ません。楽山には、ふつうの読解力もありません。自分にとって好都合か不都合かを見ているだけです。楽山は、好都合なら世辞を言って利用するだけで、不都合ならクレームのような当てつけを繰り返して疲労させ、無視して去るのを待つでしょう。
 
楽山は、目の悪いナルキッソスなのでしょう。とても醜い自分を、水面ではなく、歪んだ鏡を見ながら、うつくしい!と、うっとりして、水仙の咲いている泉に、ではなく、昔のポットン便所から落ちて、糞まみれになっているようなものだと思います。
 
それで、なおも、自分を、美しくなければならないという強迫観念でもって、様々な嘘と詭弁の気取りだけで飾ってきたのでしょう。その害は、測りしれません。自分の失敗に、他者を巻き込むことに、他者のせいにすることに、何の遠慮もない人です。
 
今まで2年余り見てきて書いた批判記事の数だけ、楽山は、全部、間違っていると、私は主張しているわけです。こういうことが起こるのは、楽山とシャロームだけなのです。ふつうは、何かしら、良いところが人間にはあるのですが、二人には皆無なのです。
 
興味を持つとか持てないとかの話ではないのです。不都合を、何でもかんでも、無視できるというのは、尋常ではない、常人ではない、常軌を逸している、体質的病人だということです。
 
正体を知れば、いままでの、楽山の、霊が分かるっぽい、霊能者気取りと、学者・評論家気取りは、目を覆わんばかりの著しい妄想的曲解でした。楽山が、そういう自説を、そして、そこで生まれた自身の自信を、根底から否定し修正しない限り、楽山に対する批判は、止むことがないのです。
 
楽山は、過剰な自己愛による自分信仰カルトです。本名は分からないし、名前を変えてHN使えば、何でも言えると高を括っているのです。そういえば、楽山は、私が本名を出していることを、自己顕示欲だと言ってきたことがあります。私は、修正可能なので、文責を明確にしているだけです。
 
念のために言っておきますが、楽山にだまされる人はいても、楽山によって修正するべきところは、未だ、一つも見つかっていません。楽山が何も受け取らないで、考えないで、思い込みだけを言ってくる人だからです。
 
本名を出して責任を明確にしないうえに、嘘と詭弁ですから、楽山に、思想を、宗教を、カルトさえをも、批判する資格はありません。楽山に近づくのは、怪しい薬局で、わざわざ副作用だけを買うようなものです。楽山には、薬効のような作用も成分もありません。
 
楽山の言は、楽山だけが、楽になるためです。既に、自己愛性パーソナリティ障害NPDの資料になっています。粉末性の放屁を放つインテリ気取りの楽山が、何を書いても、理路の破綻も、詭弁も、詭弁臭さも、表れてきます。どうか、一言も、吸い込まないようにしてください。
 
もう一度、書いておきます。私は、途方もない病的な疲労を与えるだけの楽山と議論をする気は全くありません。デタラメな記事を書くのをやめなさいと言っています。真実を追求してゆくような大きなテーマについては、言論の責任を負わない者に、言論の自由はないのです。
 
 
驕る乾燥塵埃性詭弁

驕る乾燥塵埃性詭弁(おごるかんそうじんあいせいきべん)
 
 
(2020年07月27日、同日一部修正)
(2021年08月10日、再録+)
 
 
 
   夏の終わり
 
陽射しにからんで
山に吸い込まれる風
風に乗る草
気配のように
乱れて舞う
 
家並みは遠く
乾いた玩具のよう
太陽と山の間で
熱が行き交う午後
 
だるい恐れに疲れて
慈愛の錯覚に落ちても
夢の善し悪しを問わず
旅人の来歴を問わず
 
草原に連なる山の間に
止まったオートバイの横で
小さな墓穴のように
くぼんでゆく命と眠り
やがて黒い点となって
遠景の中に消える
 
小さい光 一瞬きらめいた
オートバイを残して
熱は輝く
あらゆる夏の終わりに
 
 
hondaの400ccです

お金のプアマンズ、力と技術のプアマンズ、かっこだけハーレー
ホンダの400ccです。
 
 
(90年代か)
 
 
 
また、楽山は、無責任に、引用だけの記事を書いて、空しい印象操作をしています。
 
 「ブログ村騒動」発言集(悪魔呼ばわり論争)
 2021年08月09日 幸福の科学とは何だろう?
 
 
「悪魔呼ばわり論争」だそうです。映画などに表される超常の悪魔について、私は知りません。しかしながら、悪意だけ、嘘と詭弁だけ、だまそうとする意思、無反省、無責任、という、人間の悪を集めたような精神をもって言動している者は知っています。楽山であります。
 
楽山は、私の批判記事においても、さんざんに批判されていますが、それを、完全に無視して、総ての罪を、他者特に批判者のせいにして、平気で書き続けています。そのようなことは、人間ならばできないはずだと判断し、楽山を、悪魔性と呼んでいます。間違ってはいないと思います。
 
したがって、この記事は、自己愛性パーソナリティ障害NPD楽山の、嫌がらせと言ってもいいでしょう。その証拠に、楽山は、自分の意見を、全く説明できないのです。ただ、憑りつかれたように、悪魔呼ばわりされていることを、不当だと、無根拠に、婉曲的に、言い続けているのです。
 
私は、楽山の非道について書いてきました。楽山は、嫌がらせ以外、何も返したことはありません。この記事もそうです。この人にだけは、誰も関わらないようにしてほしいです。楽山が執拗に、引用という、ぼかした手口で書いてくるのに対して、私は批判記事を書き続けています。
 
もはや、だいたいにおいて、同じような返しをすることしかできない質の低い楽山ブログです。思想を考察して磨くことをしないものは、結局、同じような無責任発言を繰り返すことになります。引用だけで、"悪魔呼ばわり" を書くのも、今までと同じ、悪魔性の、糞尿性なのです。
 
(2021年08月10日)
 
 
 
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  楽山の放屁2
 
 批判をスルーすることについて
 2020年07月26日 楽山日記(LD)
  を改めて批判。
 
 
批判に対して、高慢な姿勢から、放屁のように不快で臭い楽山の言い訳がましい詭弁です。どういう精神の邪悪さを持つと、このような失礼な醜い言い分を、推敲もせずに、公表できるのでしょう。独りで悦に入っている楽山の、気取りの気持ち悪さだけが臭ってきます。
 
ツイッターを見ていたら、HS信者のツイートが話題になっていて、それを掘ってみたら、楽山批判を書いている信者ブログに行き着いた。楽山を名指ししているわけではないので、「ちがう」といわれれば、「ああそうですか」と引っ込まざるを得ないのではあるが、文脈からすると、たぶん自分に対する批判なんだろうな。
 
まず、「信者ブログ」というのは私ではありません。ここでいう信者は、HS信者のことで、私は違います。私は、キリスト信仰者(クリスチャン、キリスト者)のつもりで書いています。
 
楽山は、HS信者からの批判のことを書いているつもりのようですが、この記事全体を読めばわかるように、批判者を分不相応の高みから見下ろしながら、中身のない、極めて失礼な、知識人気取りだけの傍迷惑で稚拙な自己正当化を、身の程も弁えず、恥も知らずに、書いています。
 
それにしても、先日、「時は金なり、命なり」を書いて、あちこちのブログを見てまわることを止めることを書いた途端に、信者ブログから批判記事らしきものをいくつも発表されるとは奇妙な偶然であるし、なんだかおかしくてたまらない。
 
HSからも批判されてゆく楽山のようですが、こちらは、そのこととは関係なく、キリスト教とキリスト信仰の敵、楽山に対する批判をやめることはないのです。
 
楽山は、批判者を「おかしくてたまらない」と書いています。このように、反省もなく自分の非を認めることのない楽山だから、出来の悪い記事に、一つ一つ批判記事をあててゆくしかないのです。
 
批判が積み重なって、早く、楽山が、誰からも相手にされなくなる日が来てほしいと思いますが、どうなるか分かりません。しかし、個別の難を避けるために、楽山を相手にしないこと、それは、今からでも出来ることです。
 
遣り取りをしない、口を利かない、楽山に対しては、それしかないのです。楽山が、自己中のために他者を無視して自己顕示してくるものを、こちらも、徹底して無視することが大事です。
 
私は、キリスト者の立場から、批判を続けますが、よほど精神衛生の心構えがないと続かないでしょう。少なくとも、持続的に、楽山を相手にした人、楽山に反応した人は、みな、病的な疲労という耐えがたい災いを、楽山からもたらされることを忘れないでほしいと思います。
 
批判内容については、ざっと眺めただけではあるが、正直言って興味をひかれるものはなかった。ただ自分に都合の悪い批判は無視、スルーしているのはけしからんとかいう意見には、夏目漱石の文章を思い出させられた。
小生は日本の文芸雑誌をことごとく通読する余裕と勇気に乏しいものである。現に花袋君の主宰しておらるる「文章世界」のごときも拝見しておらん。向後花袋君及びその他の諸君の高説に対して、一々御答弁を致す機会を逸するかも知れない。その時漱石は花袋君及びその他の諸君の高説に御答弁ができかねるほど感服したなと誤解する疎忽そこつものがあると困る。ついでをもって、必ずしもしからざる旨むねをあらかじめ天下に広告しておく。
2020-07-26 (1)田山花袋君に答う
・夏目漱石 田山花袋君に答う
 」
自分は漱石ほど多忙ではないし、才能もないのではあるが、批判に対する姿勢については見習いたいと思う。失敬。
 
批判というのは、「興味をひかれる」から読むものでしょうか。まず、自己中の大きな勘違いが、楽山にあることが分かります。
 
結局、楽山が言いたいのは、批判なんか "知らないよ"・・ってことです。勝手な発言や虚偽や妄想を書いて公開しておいて、知らないよ・・で、ことが済むなら、道徳も法律も警察も不要です。そんな世界に住んではいないと気づかない楽山のことを、記事に書いてゆくしかありません。
 
漱石の言を出してきて、「多忙ではない」「才能もない」「失敬」などと書いておきながら、批判に対する姿勢だけ、「見習いたい」と書いて、批判に対して返したつもりになるのが、文士気取りだけの、漱石気取りだけの、意地悪で傲慢な病的体質だということに気づかない楽山です。
 
個別の批判に対して、漱石の姿勢を言葉の表面だけから真似れば正しい、と満悦してしまう楽山の、今までの勘違い読書と同様の、どうしようもない思慮と分別の欠落が、あらわになっています。「失敬」・・どういう意味でしょう。本当に、総ての読者に対して失敬極まりないです。
 
遠い遠い有名人の、ある批判に対しての弁明を、楽山自身という個別に当てはめて、自分だけ納得してしまう楽山の思い上がりと利己のための腐った詭弁が、鼻に突くだけなのです。
 
身の程知らずの勘違いと慢心の程度が、楽山において、病的な色彩と臭気を濃くしています。そして、漱石のような高名な文士に対しても、軽々しく悪用し、放屁の材料にしてしまう楽山です。学者気取りの筆致にゴマされてはいけないし、許してはいけないと判断しています。
 
有名でも多忙でもない楽山が、「一々御答弁を致す機会を逸するかも知れない」のではなく、返せないものだから無視しているのは明らかであり、こちらは「御答弁ができかねるほど感服したなと誤解する」のではなく、嘘と詭弁だらけの楽山に対して、批判精神を新たにするだけになります。
 
このように、楽山は、どんな有名人の言も自分のために悪用する無礼について、恥を知らないだけの下種と思うしかないでしょう。とても人間とは思えないですし、これからも、楽山の恥部が、次から次に明らかになってゆくでしょう。
 
ぶっちゃけていえば、「霊言は真実であり、大川隆法総裁は地球神であり、主エルカンターレである。この大川隆法総裁こそが、イエスが父と呼んだ存在である」というHS信者が、「信仰とはこういうものだ。人はこのように生きるべきだ。キリスト教徒に失礼があってはならん」などと説教したとしても、HS信者以外には真面目に耳を傾ける人はいないだろうし、しつこいネットストーカーとの議論に応じる人もいないだろう。自分もこの例外ではないということである。
 
散々批判されて、全く返せない楽山が、執拗に、自己満足の記事を書いてくることこそ、ネットストーカーなのです。こういう存在は、言論の世界に合ってはならないものです。ネット以外に、自己顕示する場所を持たないのだろうと思います。
 
楽山は、耳を傾けることをしないのではなく、誰の意見にも傾ける耳を持っていないのです。これが、悪性人格の特徴です。悪性人格は、直接でなくても、婉曲的に、当てつけめいた悪態しか返せないのです。それが生き方になっている楽山です。
 
楽山は、有名無名を問わず、誰かを褒めれば、褒め殺しになり、批判には、無視以外、すべを持たない人です。弁明する理路も感性も無いからでしょう。楽山の常套手段として、丁寧語で書けば、嫌らしい当てつけだけの文章になるでしょう。
 
HSに対してだけでないのです。キリスト教も机上のオモチャのような屁理屈で否定してきました。そして、ときに、逆のお祈り芝居をして、両方言ったからプラマイゼロ・・などと考えるのが楽山であり、言論による真実追求の場に、決して、いてはならない人物だと思います。
 
楽山に対しては、対等に議論しようなどとは、決して思わないほうがいいですし、結局は、誰にとっても、相手にしてはいけない危険人物です。失礼を理解していない人に、失礼を指摘することは無意味なのです。こういう人は、全否定で臨むしかないと思います。
 
失礼が分からなければ、正しく生きることも分からないわけですから、楽山には、誰からも相手にされないようになる必然だけが、永遠の闇への入り口として待っているのです。そういう楽山の道連れにだけはならないように、楽山が関わって来ても、決して相手にしないでください。
 
偽牧師シャロームもやっていたことですが、批判者を、ネットストーカーと決めつけています。楽山は、このように、根拠もなく決めつけて、批判に対しては、反論も弁明も出来ず、当てつけと悪口以外何も言えない人なのです。楽山とシャロームについては、同一人物の可能性も考えています。
 
楽山の仲良しである悪性人格シャロームは、病識がないために、ヤフー終了後、揶揄コメントを入れてきたことがあります。楽山は、シャロームに、実に、姿勢と態度が、よく似ています。楽山も、負けず劣らず、嘘と詭弁の煽動者であり、悪性人格の例外ではないということであります。
 
 
無視が無視スルー

無視が無視スルー
 
 
(2020年07月27日、同日一部修正)
(2021年08月07日、再録+)
 
 
 
  知らない夏
 
浮きながら一歩一歩
歩いている道に陽射しは鈍く
数え切れない苦悩の胞子をはらんで
夏はやってくるのです
 
汗ばむ肩に首筋に
測りきれない表情を見せて
おどけた無為がにじんできます
 
折れるようにふらついて
やっと座った椅子の上に
とぼけた砂の顔
計り知れない徒労を乗せて
季節はめぐってくるのです
 
涙する代わりにあくびをして
鈍麻した肉体さえ
居続けること
座りつづけることを嫌っている
 
倦怠を支えてきたもの
その来歴も忘れたかのように
古びた自画像の
ひびのまわりにゆっくり
ゆっくり乾いた記憶を
もろい煉瓦のように積み重ねながら
何を塗って固めたらよいのか
 
夏に冬の寒さはわからないよと
残った隙間が笑っています
得体の知れない寂しさに
 
 
(90年代か)
 
 
 
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