ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

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  くさい2コメント欄
 
   気持ち
   https://blogs.yahoo.co.jp/jiyuu2013/41563997.html
   ヤフー終了後は
   http://mn266z.blog.jp/archives/19971376.html
   2019年07月24日
    楽山のブログ記事
    さらにコメントがあったので考えてみます。
 
 
昨日の記事を書いて、ライブドアのほうの楽山の記事を見ていたら、コメントが2つ付いていました。当時、楽山を心配する人が、どう思っているかが、表れています。そして、楽山は、また、レス2つとも、言い逃れだけを書いて、応じる気はない様子です。
 
 
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53
誰だって失敗し 誰だって間違って
謝って恥晒し 生きてくのだから
間違ったら 誤ったら 素直に詫びて
自分 正さなくちゃいけない
 
それが出来て 初めて人間だと
それ出来ないなら 人ではないと
 
いくら一番偉い神様 エルカンターレと信じ込ませても
いくら根本仏だ 開闢神だと 思い込ませても
 
間違ったら 謝るのが 人間だと
過ったなら 詫びるのが 人だと
 
僕は思うんだ 凄く思うんだ
ホント思うんだ 心から思うんだ
 
嘘ばかり 重ねる君よ
保身だけの 卑怯者の君よ
そんな君は 魅力の欠片もないのに
侍るズベ公は みんな
金だけが狙いの 貉だけ 
 
誰だってミスを犯し 誰だって勘違いして
誰だって泣かし 泣かされ生きてくのだから
失敗した君は 大きな過ちを犯した君は
最大限の償いと 最大限の反省と共に
開いた出店を 畳むしかないんだよ
 
人間で在り続けるのなら
人で在り続けるのなら
 
 」
 
楽山は「隆」という名前なのでしょうか。「人ではない」「嘘ばかり」「保身だけ」「卑怯者」「魅力の欠片もない」「最大限の反省」「償い」「反省」「出店を 畳むしかない」「人間で在り続けるのなら」など、かなり、厳しく忠告しています。
 
私が書いてきたのと、似たような言葉が並んでいますが、他人の私からの批判よりも、熱心さが目立ちます。親族か、友人など、親しい人ではないかと思われます。楽山とともに、資料となります。こういうアドバイスにもかかわらず、楽山は、自己中を続けているということです。
 
 
 
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、
これを実践するのは難しいんだよなあ。
恥ずかしながら、自分もそんな風です。
これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
  」
  
「自分も」、ではなく、自分は、・・でしょう。「反省、謝罪」を勧められて、「難しい」と言っています。しかも、自分の非を認めるのではなく、「一種の、人間の性なんでしょうかね」と、人間一般のことのように、すり替えています。
 
自分に非があることを自覚できず、自分の問題として考えることが出来ないのです。これは、詭弁です。そして、この詭弁は、自己愛性パーソナリティ障害NPDの無反省と無責任として、楽山の今につながっているのです。
  
  
 
3. うさぎ 2019年07月30日 21:04
 
自由さん
私もです☆
 
人間だもの
完璧じゃない
失敗だって
間違ったりもする
だから人も赦すことができる
誰かが間違っても誠実にやり直そうとする人を
何度だって許しますお互い様だもの。。。
足りない分は補い合って助け合って行けたらいいな
失敗も次に繋げ続ければ失敗じゃない
いつでもいつからでも七転び八起きです☆
 
自由さんの柔らかい心が好きです。。。
  
 」
 
やさしい忠告です。楽山は、こういう忠告を無視して、七転びし、一度も起きていないのです。つまり、この2年余りの言から、楽山には、装う詭弁と芝居だけで、柔らかい心は、ありません。楽山に、だまされて続けている人でなければよいのですが・・。
 
良心と良識と常識で考えれば、楽山のしていることは、とんでもないことです。表面的な、優しい言葉や芝居や気取りに、つられていると、楽山に、同情し、ファンになることも、あり得ることでしょう。それが、ますます、楽山の傷を、そして、被害者の傷を、深めてゆきます。
 
 
 
4. 楽山(自由) 2019年08月01日 04:46
うさぎさん、ありがとうございます!
間違ったら反省すること、
人をゆるすこと、
うさぎさんは、わたしより、ずっとできてると思います。
足りないところは補い合って…というのは、本当にいいなあと思います。
これは、うさぎさんの記事を読んだ時も思ったけど、すごく心にしみる言葉ですね。
  
  」
  
楽山は、自分がどうするということは書かずに、反省と、ゆるすことについて、相手の人を褒める言葉ばかりです。「わたしより、ずっとできてる」「すごく心にしみる」と書いて、自分から問題を逸らして、うそぶいています。
 
この楽山の記事とコメントは、HS信者だった頃なのでしょうか。そうだとしても、楽山は、次には、アンチ気取りとして、やはり、嘘と詭弁で、自他を、欺き続けているのです。問題は、何一つ、解決していないし、解決の方向にも向いていないことが、よく分かります。
 
楽山、こも楽山、だけでなく、shalom、易坊、raku、taka、なども、楽山の成りすましではないかと疑っています。もっとあるかもしれません。底知れぬ闇を思わせる楽山です。
 
 
すでに見抜かれていること

すでに見抜かれていること
 
 
(2021年08月01日)
 
 
 
  冷たい風
 
冷たい風
動かぬ山
火の国の 火の山
ときに山肌の色を変えて
煙と雲の向こうに
命を生む太陽
命を奪う太陽
 
冷たい風
動かぬビル
人の国の 人の山
ときに人々の顔色を変えて
雑踏と騒音の向こうに
命を生むシステム
命を奪うシステム
 
冷たい風
ふらつく私
私の国の ウソの山
ときに人々の顔色におびえて
心と体の中に
明日を生む命
明日を奪う命
 
 
  阿蘇
 
遠く巨大な連山を前に
近くの野原で
小さく うずくまる影は
空の まぶしく
しみるような青さに
ますます小さい命を
誰に見せることもなく
緑の中に いだかれながら
秘密のように お伽話も
音も届かないところで
舞う草と風に吹かれている
 
 
( 2010年09月30日
作成は、90年代かもしれません。)
 
 
 
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  スルーの詭弁2
 
   スルーする人、しない人。2019年06月11日
   https://blogs.yahoo.co.jp/jiyuu2013/41551426.html
   楽山のブログ、楽山日記(LD)の記事を改めて批判。
 
 
楽山は、気に入らないことは無視する、という自己中心カルトの、アドラー教を宣伝してきましたが、音楽家らしい人の記事で、センスが物を言う音楽と、節操が大事な宗教とを、同じように扱って、いったい何を言っているのでしょう。
 
スルーと言って、まともに見せかけても、人の意見を無視する楽山の独善は、最悪、最低です。
 
>ツイッター見てたら、次のツイートが流れてきた。
>「批判はスルーすべし!」という考え方のようだ。
 
楽山は、自己肯定をもって、スルーする力が大事であるように言っています。しかし、お手本として挙げているのは、自分の才能に自信を持つことが必要なミュージシャン、ギタリストなのです。こんな常識はずれな言い分が通用すると思っている楽山は、異常です。
 
楽山は、軟派カルトであり、他者を無視する不感不応の自己正当化に、また詭弁を弄しています。楽山は、自分の宗教の才能に、芸術みたいに自信を持ってしまったのでしょうか。はっきり言って、これは、傲慢な自惚れ教カルトにしかならないのです。楽山は異常です。
 
宗教と信仰は、つまり、神を信じることは、才能ではありません。楽山が持たない心の問題です。楽山は、成り立たない自己正当化のために、詭弁と嘘しか言えないのです。
 
ここで、ハタと思い出したのは、
ケリーサイモンさんは批判には、
きっちり反論する人だったということ。
 
はっきり言えることは、楽山は、いかなる批判にも、「きっちり反論」したことがないということです。楽山が、ボンヤリ言語の婉曲と、トホホ言語の謙虚芝居でごまかすのを、もはや、通用させてはいけません。
 
音楽や芸術の場合、感性の才能というのは、人によって質的にも違うのでしょう。自分の才能を疑っていては前に進めない分野だと思います。しかし、楽山のやっていることは、宗教そして信仰という公の義と議論のあるべきことです。少なくとも、節操や分別の必要なことなのです。
 
楽山の見当違いと的外れは甚だしいものです。宗教と信仰にも感性は必要ですが、それは、人並み外れていなくてもよいことです。むしろ、共感をもって、公共に向かって、自分の考えを発表するべきであり、人の意見を無視してよい分野ではないのです。
 
恐らく意図的なのでしょう。今までも、ボンヤリ言語で、他者を無視することを刷り込んできました。そして、批判者に対しては、嫌味を言って、保身しようとしてきたのです。楽山は、正面を向くことがありません。狡猾に企み、疲労物質をもたらしてきます。
 
宗教と信仰において、気に入らないことは無視してよい、などというアドラー教の信条は、語るべき何ものも持たない者の、言い逃れに過ぎません。それを宣伝していたのが、楽山です。その通りに、自らの罪業によることでも、気に入らないことを無視してきました。
 
その正当化に、またしても、ボンヤリ言語で、ごまかしながら、アーティスト・ミュージシャンをあげて、それと同じような自身の感性の世界を主張するとは、ナルシシズムも、ここまでくると、手段を選ぶとか題材を選ぶとかいう常識さえも失ってしまったようで、呆れます。
 
つまり、楽山には、文脈を考えて、文章に仕上げる知性と感性が、まるでない、あるいは、意図的に操作して、読者に刷り込もうとしているとしか思えません。体質のために知性も感性もどんどん鈍化してゆく楽山に引き合いに出されたほうが、いい迷惑でしょう。
 
>でも記事を読み直してみると、
>あんまりくだらん悪口は、スルーするとしてるかな。
>通報して終わりと。
>こうしてみると、やっぱり、スルー力って大事なんだな。
 
この辺が、芸術と音楽を悪用して、自分を同じ根拠に立っているかのように見せかける詭弁でしょう。楽山は、こういう企みに満ちた根っからの病質的虚言者です。
 
>ではどうしたらスルー力をみにつけられるかと考えてみると、
 
ここでは既にスルーすることが正しい?という前提になっています。音楽家の個人の必要で語られ、誰も認めてはいないのです。楽山は、このように、理由があってスルーすることと、総て無視することという違う意味を、表面的な類似によって同一視して、成り立たない詭弁を捏造します。
 
>どうも圧倒的な自己肯定力が要になってそうではある。
>あとは、世の中はそういうものだから、しょうがないという諦観かな。
 
楽山の圧倒的な自己肯定力は、人間とは思えない無節操で不感不応によるところの、他者を圧倒する傲慢な無視の力であります。楽山には、読む限り、圧倒的な、いかなる才能も見い出すことは出来ません。霊が分かるっぽいという霊能者気取りなどの、気取りばかりです。
 
芸術家や音楽家と同様の独自性を全く持たない楽山が、言葉だけ借りてくるのは、滑稽だが、人間関係においては最悪です。これで、気に入らないことは無視する、というアドラー教の信条をすり込んでくる人です。やむを得ない、しょうがない、という言い訳まで挟んでいます。悪質です。
 
>自己肯定と諦観って、
>正反対のもののような気がしないでもないけど、
>どっちも大切のようだ。
 
ここで、変な理屈からの感慨を述べて、楽山が言う自己肯定は、この場合、我執の自己正当化を大切と言っているのです。覚えておいてほしいです。楽山は、こういう人なのです。自分の都合しか考えない人です。楽山ブログは、手段を選ばない自己中宣伝ブログなのです。
 
自己肯定と諦観は、世の中の壁に当たると生まれやすいものですが、楽山は、誰の何の壁にも当たることなく、都合の悪いこと総てから逃げているだけです。したがって、自己肯定でも諦観でもなく、卑怯な遁走であります。
 
罪と非を認めず悔いることも改めることもしないシャロームや、荒らしでナルシシストの理屈倒れの易坊に、かなり共通しています。楽山を加えて、この3者には、同一人物による、危険な罠だらけの成りすましという疑惑があります。
 
正々堂々ということから正反対のところで、人を欺こうとする者は、自らが設けた罠に嵌って、ますます、その卑怯な詭弁と、暗示による悪魔的な優しさ気取りの欺きを増悪させてゆくようです。だんだん、本性を表し、恐ろしさを増してくる楽山です。
 
楽山、シャローム、易坊に、どうか近づかないでください。感性においても思慮においても、身の程も弁えず、引用の自己肯定を勘違いして、スルーという言葉で無視にすり替えて美化し、都合の悪いこと総てを無視し、性懲りもなく企んで書き続ける、という、とても怖い者たちです。
 
付き合うと、恐らく、なんとなく、楽山を肯定し続ける人がいるかもしれません。それは、人格を自分で破壊する結果になります。つまり、仲間になってからでは、遅いのです。それに、いかなることにも、楽山は、責任を負う気はありません。
 
楽山の壊れ具合に、お手本として出されたアーティストが、いい迷惑でしょう。楽山は、他者に対して、言い方だけ白々しい丁寧さですが、侮辱しているのと同じです。こういう記事を、ボンヤリ言語で、さらっと書いて、まともなつもりでいるのは、きわめて異常です。
 
人の迷惑を考えない楽山には、誰も近づかないでください。塵、ホコリ、汚れの類だと思って、それこそスルーしてください。関わって、得られるものも、与えられるものも、良きものは、何もありません。楽山ブログは嘘吐きブログと結論してよいと思います。
 
 
嘘つき自己中

嘘つき自己中
 
 
(2019年06月22日)
(2021年07月13日、再録+)
 
 
 
  暗鬼
 
見えなかったものが
ぼんやりと見えてくる
閉ざされた沈黙の奥に
歪んでいく闇がある
 
ぼんやりとしか見えなかったものが
血を引くように
薄暗い
顔に近づき
不明の表情を持ち
青白い
体になり
地を離れ
次から次へと
倒れ込むように重なり
命のない眼が訴えるように揺れ
色が揺れ
熱を帯びて
息がさまよい
口が開いて
黒ずんだ肉を求め
吐き出されたものが
輪郭をあらわにするとき
 
爛れた粘膜を貫いて
暗闇から
鬼の目が光る
 
(90年代か)
 
※ 記事と、詩のようなものは、年代からも分かるように、直接の関連はありません。ただ、少しばかりテーマの類似を考えて、詩のようなもののほうを過去作から選んではいますが、参考になるかどうかは、私には分かりません。
 
 
 
 楽山のツイッターですが
 
心機一転★こも楽山
@komo266
動画を見たけど、またもや他宗教の神々を低くして、エル・カンターレが一番偉いといってるようだ(笑)
午前9:07 · 2021年7月11日·Twitter Web App
 
「(笑)」うことしかできないようです。恐らく、真面目な批判など、したことがないのでしょう。こういう根性で、楽山は、キリスト教の神を否定したのですが、不真面目で、怠慢で、いい加減で、ゴシップ好きな者が、成長につながらない揶揄だけをしてきたに過ぎません。
 
自己中で、いちばん偉そうにしている、批判者気取り、宗教家気取り、評論家気取り、インテリ気取りなのは、楽山です。ころころ変わるような揶揄には、どこにも真実に向き合う態度がありません。今も、まだ、人も神も下に見て、何か言えると思っている、醜態のピエロです。
 
心機一転★こも楽山
@komo266
日本の悪いところばかりでなく、よいところも知ろう、日本らしさを大切にしよう、日本も主張すべきことは主張しようとかならまだしも、
HSは、日本が一番偉い、日本は他の国々よりずっと上だと公言して憚らないからヤバい。しかもその根拠は霊言だという…(笑)
午前9:16 · 2021年7月11日·Twitter Web App
 
楽山は、他者のことばかり言います。楽山は、自分を見ることが出来ません。楽山は、日本らしさも、人間らしさも、全く知らないで、人に教えようとします。人の言うことを聞く気のない楽山に、人に何かを教える資格も伝える資格もありません。だから「(笑)」うしかないのでしょう。
 
楽山は、自分が他の人々よりずっと上だと言い続けているようなものです。ゆえに、いつも、他者のことを笑っています。その結果として、人の言うことを聞いていません。霊が分かるっぽいつもりの子供時代からです。霊が分かる言っても、楽山は、人間が分からないままなのです。
 
楽山は、人の言うことを受け取る器を持っていないのです。もはや、オートマチックに、楽山の言うことの大方が、楽山に返ってゆくのですが、それに全然気づかない楽山です。人のことを言い、自分を見ないということの、持続的な報いが向かってゆく地獄の方向を表し続けています。
 
 
 
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  楽山の醜態加速
 
 信仰と経験
 (『わるい夢たちのバザールⅡ 夏の雷鳴』スティーヴン・キング著)
 2021年02月12日 楽山日記(LD)
 
 
楽山は、いつものことですが、本をネタに、自己中・自己愛の見苦しさを全開にして、無反省・無責任・無理解・無神経の醜態をあらわにしています。分かってるふうの書き方が笑止であります。
 
*信仰と経験
キングの短編を読んでいたら、信仰と経験について書いている箇所があったのでメモしておく。
神のおぼしめしとはとってもすてきな考えだ。自分が無傷でいるかぎり、それは信じられる。
(「ハーマン・ウォークはいまだ健在」『わるい夢たちのバザールⅡ 夏の雷鳴』〈文春文庫〉ス
ティーヴン・キング著、風間賢二訳、文藝春秋、2020年、p.40)
 」
これはつまり、人の思考や感情は経験の影響を受けるものだけども、信仰もその例外ではないということだろう。一般的にも、仏教徒を両親に持つ子供は仏教徒になり、キリスト教徒を両親に持つ子供はキリスト教徒になることが多いというし、信仰は環境や経験に先立つものではなく、その影響下にあるのだろう。
 
人生の総ての経験は、神のおぼしめしという考え方もありますが、どこがどのように?・・ということは分かりません。ただ、あらゆる戒めの経験を無視しまくって、自我満悦の悪夢の生ぬるい汚泥に浸って、よだれを垂らすように、人を、からかうだけの楽山のような者もいます。
 
またこの文章は、「神のおぼしめし」を、「因果応報」と言い換えるならば、ヨブと三人の友の対立の原因がどの辺りにあったのかを教えてくれるものだ。ヨブは不条理を経験し、深く傷付いたが、三人の友らはそのような経験はなく、ヨブの心情を理解できなかったのだ。
 
「神のおぼしめし」を「因果応報」と言い換えるのだそうです。そのような権威を誰が楽山に与えたのでしょう。思い上がりもいい加減にしてください。
 
ヨブは神に試され、それに反応しました。友人たちへの「神のおぼしめし」は、はっきり分かるほどには書かれていないようですし、ヨブ記は、ヨブの信仰と神のことが書かれているのです。
 
楽山は、楽山への「神のおぼしめし」を、全部、無視してきたのでしょう。それで、今の楽山の人格破壊の悲惨と恥を、惜しみなく露呈してボロ雑巾みたいになっているわけです。
 
人は想像力と理性によって、他者の経験とその感情を思いやることは不可能ではないだろうけれども、それにもおのずと限界はあり、真に理解、共感することはどだい無理な話なのだ。人は人を分かったつもりになって裁いてはいけないのである。
 
楽山の詭弁です。人の理解は限界があるという部分否定から、理解・共感は無理という全否定にして、ゆえに、裁くのはよくない、ということを言いたいようです。
 
人の理解には限界がありますが、楽山の続ける発言が、いつも、偽善と嘘と詭弁だけを、人間としての最低の恥ずかしさだけを、白々しくボロクソに表しているのに、この人は、やさしい、正しい人です・・なんて言えるわけないのです。おかしいことは、おかしいと言うしかありません。まさに、この記事もそうです。
 
結局のところ、ヨブと三人の友との対立は、三人の友はヨブを知らないにもかかわらず、分かったつもりになって裁いたところに原因があったのだと思う。
 
三人の友は、神への恐れが足りず、カチンカチンの教条主義的なことしか、ヨブに言えなかったので、ヨブを変えることができませんでした。
 
楽山は、神への恐れが全くなくて、ズルンズルンの自己愛的妄想しか言えませんでした。その実態が招くものは、もはや、人間的配慮など、してはいられないほどに悲惨であります。
 
分かったつもりになっているのではなく、他に考えようのないほど、ひどい人格を、楽山は、表し続けています。今もです。とても幼稚な嘘っぱちの理路で、泡を吹くように詭弁を書いて責任回避と自己正当化に走る様は、見苦しさを通り越して、吐き気がしてきます。
 
 
醜態

しゅうたい
 
 
(2021年02月13日)
 
 
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