ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

タグ:物や肉体の奇跡

 
  信仰の心3
 
 
キリストの奇跡の話を2つ上げておきます。物や肉体の奇跡が実際にあったかどうかは知りません。しかし、それよりも、ここで重要なことが、救われた人々の、それぞれの心にあります。信仰において大事なことは、神そして救い主イエス・キリストに対する、救われた人々の心にあります。
 
信仰を学ぶということは、つきつめると、この心、そして、そこからの、神への姿勢を学ぶことに他ならないと思います。反キリストの楽山のように、神の辻褄が合ったら信じてやる・・みたいな態度と姿勢では、信仰は、永遠に、理解されることはないのです。
 
 (マタイによる福音書、口語訳)
9:19
そこで、イエスが立って彼について行かれると、弟子たちも一緒に行った。 
9:20
するとそのとき、十二年間も長血をわずらっている女が近寄ってきて、イエスのうしろからみ衣のふさにさわった。 
9:21
み衣にさわりさえすれば、なおしていただけるだろう、と心の中で思っていたからである。 
9:22
イエスは振り向いて、この女を見て言われた、「娘よ、しっかりしなさい。あなたの信仰があなたを救ったのです」。するとこの女はその時に、いやされた。 
 (マタイ9:19-21、新約聖書)
 
「み衣にさわりさえすれば、なおしていただけるだろう」という女性の言葉は、厚い信仰と受け取られることが多いと思います。しかし、実際に、女性をして言わしめたのは、
 
他に救いがない・・ということだったろうと思います。
 
どこへ行っても治らなかった病気があり、むしろ、信仰云々よりも、救い主と言われる御方が来たと聞いて、せめて、衣に触れるだけでも・・と思って、群衆にまぎれて、近寄り、触ったということでしょう。
 
女性に、どういう導きがあったのか、知りませんが、キリストとの縁があり、ここに来ることになったのです。運がよかった、というだけではなく、ここに至るまでに、女性の心が砕かれて、キリストに頼るしかない、他にない心になっていたことが大事なのです。この心が信仰です。
 
多くのキリスト者において、信仰に至るということは、また、信仰が深まるということも、他に選択肢がない、という体験を経ているだろうと思います。キリストは、「あなたの信仰があなたを救った」と、褒めています。言い換えれば、それこそが、信仰なのだ、ということではないでしょうか。
 
 
衣にさわるだけが目的となっていますから、女性は、あ、へへっ、治りましたよ、それでこそ、メシアですねー、と、笑って、追従を言ったり、うまくいったと踊ったり、また、治らなければ、損したと、舌打ちしながら帰るような人ではなかった、ということが分かります。
 
楽山のような反キリストの辻褄合わせなど、何の意味もないのです。楽山は、自己の訂正不能を真理として悦び、他者の戸惑いや過ちを見て笑う人です。そういうときの丁寧語は、実に、おぞましいものがあります。楽山の文章に慣れると浅い底が見えてくるでしょう。
 
 
 (マタイによる福音書、口語訳)
15:25
しかし、女は近寄りイエスを拝して言った、「主よ、わたしをお助けください」。 
15:26
イエスは答えて言われた、「子供たちのパンを取って小犬に投げてやるのは、よろしくない」。 
15:27
すると女は言った、「主よ、お言葉どおりです。でも、小犬もその主人の食卓から落ちるパンくずは、いただきます」。 
15:28
そこでイエスは答えて言われた、「女よ、あなたの信仰は見あげたものである。あなたの願いどおりになるように」。その時に、娘はいやされた。
 (マタイ15:25-28、新約聖書)
 
「子供たちのパン」というのは、イスラエルの救いのことでしょう。キリストは、旧約におけるメシア預言によって、イスラエルに救いをもたらすことが、元々の目的だったようです。女性は、カナン人で、異邦人と言われている人でした。
 
実際には、もちろん、救いは、イスラエルにとどまるものではなかったのです。ここで、女性は、キリストに、食い下がっています。その台詞が、「小犬もその主人の食卓から落ちるパンくずは、いただきます」という、自らを小犬に喩えるほど、自分を低くしているのです。
 
ここにも、他に頼るものがないほどに砕かれた魂が、生きている、という希望があります。人が求めるところの、好ましい善なる心は、たぶん、これに、まさるものはないと思います。
 
これが芝居ではないと、キリストは見抜いたゆえに、「あなたの信仰は見あげたもの」と、褒めています。この心が信仰です。物や肉体の奇跡よりも、心の奇跡が、命につながります。
 
 
治らなかったとしても、女性は、メシアなら治して当然だろがー、などと怒る人ではなかった、ということが分かります。
 
教義がどうの、神がいるなら悪人がのさばるのはおかしいだのと、反キリストが言うのは、小理屈の辻褄合わせの奴隷となった者の、好ましさとも、善とも、かけ離れた理屈倒れに過ぎません。
 
 
つまり、信仰は、物や肉体の奇跡が、起こるなら信じる、起こらないなら信じない、という取引のような選択ではありません。信仰の奇跡は、物や肉体に起こるという結果よりも前に、キリストを知り、キリストに会うことで、心に起こっているのです。
 
 
信じ仰ぐ心

信じ仰ぐ心
 
 
(2020年10月07日)
(2021年10月08日、再録+)
 
 
 
キーワード: 心
 
 
  君
 
忘れるのに
何の抵抗もない
思い残すだけの
値打ちもない
安心して忘れるがいい
その後の人生のことなど
 
心の
時は止まっても
肉体の時は止まらない
そっけない
反復運動のうちに
あっさりと
歳をとらせてゆく
山を見ても
海を見ても
花を見ても
ああきれいという
お世辞を残して
帰ってくる
 
この部屋に
一日、一日と引き抜かれていく
感性のように
沈んでゆくだけの
星がある
 
忘れられることを
信じられない気持ちと
納得せざるをえない
長い時間の空白を
埋めるには軽すぎる
味わいのない思い出たち
いつか懐かしく
思い出すことがあるだろうか
いつか懐かしく
君を思い出すことがあるだろうか
 
 
  記憶
 
ずいぶん昔の話なんだ
といって実は昨日のことなんだが
何かとっても大事なことを忘れている気がして
とんでもない失敗をしたと思って
一日中穏やかじゃなかったよ
 
つい最近のことなんだ
といって実は二十年ほど前の話なんだが
別れ際の微笑が
目の前に現れて
胸がしめつけられるほど苦しく
胸が熱くなるほど懐かしかった
 
記憶って変だね
急にスキップしたり
尾を引いたり
心の中をかき乱しては
飛び跳ねて遊んでいるんだ
 
 
  ある朝
 
浅い眠りののち
終わろうとしている秋の
まだ暗い朝に目覚める
昨日のことを
「だったようだ」という
思い出し方をする
頭の中にもやのように
場所も定まらず
迷う悔い
何か言い損ねた
言葉でもあったのか
 
メモ帳に小さく書き留める
今日の予定
すでに果たされなかった夢の色
うつして小さなバラ色だ
空が白む頃には
今日の命たちの
また喜びと悲しみが始まる
捨てかねている命に幸いを
 
昔の歌を口ずさみながら
泣けてくる心に別れを告げて
朝の祈りをこめて
昨日にさようなら
もう少し眠れていたら
見たかもしれない夢に
さようなら
 
 
  友
  
 (詩篇、口語訳)111:10
 主を恐れることは知恵のはじめである。
 (詩篇111、旧約聖書)
  に因(ちな)んで
 
あなたが多くの人に出会ったとして
どれほどの人に愛されたであろうか
どれほどの人に傷つけられたであろうか
と考えるよりも先に
どれほどの人を愛したであろうか
どれほどの人を傷つけたであろうか
どれほどの人に悪意をいだいたであろうか
人は到底それらすべてを知り得ない
傷つけられたことは覚えているのに
傷つけたことは容易に忘れてしまうか気づいてさえいないものである
忘れることをすべて幸いといえるだろうか
すべてを忘れることの不幸を少しでも思うならば
父なる神、主を恐れることは知恵の始めである
 
あなたに多くの友がいるとして
どれだけが欲の友であろうか
どれだけが虚礼の友であろうか
どれだけが理屈の友であろうか
どれだけが誠の友であろうか
たとえ誠の友・真の友・愛する友がいたとしても
人の心はうつろいやすく命には限りがあるのだから
友が先に死んだならば取り残され
あなたが先に死んだならば友が取り残されるのである
別れと孤独を少しでも思うならば
永遠の友、主を覚えることは愛の始めである
 
 
 
 
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  超常と日常2
 
 
聖書に書いてある超常現象
つまり
処女懐妊
物や肉体の奇跡
肉体の復活について
信じていると言うことは空しいと言わざるを得ません。
 
何故なら
超常現象の奇跡を信じても
そういう奇跡は、
少なくとも、現代、めったに起きていないからです。
 
つまりそれらの超常現象を信じることで
もたらされるものが殆どないからです。
 
信仰は魔法やご利益信仰ではないのだから
超常の奇跡を信仰の中心にしてはいけません。
 
神の超常は
神に任されることです。
 
人が超常にこだわることは
日常を疎かにすることです。
 
 
物や肉体の奇跡は
神のみのわざです。
神のみに任されることです。
人が自分の都合で
神のわざを信じ込むのは
神のわざを決めつけることであり
不遜というものです。
 
心の奇跡は悔い改めであり
神と人との関係において起こることです。
心の奇跡には人が関わっているところが違うのです。
 
人に分かる奇跡は心の奇跡です。
 
 
物や肉体の超常現象としての奇跡を
信じますと言っても、
信じると何が起きるというのでしょう。
 
処女のまま妊娠しますか、
何か超常現象を起こせるようになりますか、
死んでも肉体が蘇りますか、
誰も知りません。
 
それら奇跡が起こったら、そんなに素晴らしいですか。
むしろ日常が混乱してしまうのではないでしょうか。
地道に努力することがバカバカしくならないでしょうか。
その夢を描いてばかりでは問題からの逃避にならないでしょうか。
 
何が起こるか、私たちは知りません。
信じたら超常の奇跡が起こると言われても
実際に起こったら不気味なだけではないでしょうか。
 
病気になってもすぐ治るのでは
病気を甘く見て健康を疎かにすることにつながりそうです。
超常に執着することで生じる鈍感さは
日常に及んで人間は怠慢になるだけでしょう。
 
奇跡に頼ってしまえば
人間にとって良いことは起こらないでしょう。
 
元々、奇跡は滅多に起こらないから
奇跡と呼ばれるのです。
 
奇跡が起こるかどうかは
神の御心に任されていることです。
 
信仰は
信じれば奇跡が起こる
という交換条件のような取引ではないのです。
心の無い信仰に陥ってはいけません。
 
奇跡の夢ばかり見る超常信仰は
怠慢や失敗が魔法で解決されることばかり思い込んでいるような
怠け者の欲望をベースに置いていることがあります。
 
超常にこだわり始めると
もっと考えるべき日常のこと
人間としての節操や
愛と共感そして真実の追求など
人間として考えるべきことを疎かにする恐れがあります。
 
超常に住んでいない私たちが
超常現象を信じることは
思考と感情をゆがめてゆくのです。
大事なことから目を逸らしてゆく恐れがあるのです。
 
もし奇跡が起こったら
驚きを持って見るでしょう。
それで命が助かったら感謝もするでしょう。
しかし、驚きと感謝以上にはなりません。
そういう奇跡で人は成長しません。
私たちは私たちにとって実になることに集中するべきです。
 
 奇跡に頼って
 過去に奇跡が起こったかのように思い込んだ者がいますが、
 その者は、結局、思考停止と感情鈍麻に陥り、
 理解も洞察も気配りも共感も出来なくなっています。
 ただ一途に、奇跡を待つ姿勢に安穏とし、
 その上にあぐらをかいて、
 もはや人間とすら思えない状態になっています。
 この人のどこが救われた人なのでしょう。
 滅びゆく人にしか見えないのです。
 
このように超常信仰は
超常だけを信じて待つ怠慢と鈍麻のカルトになりやすいのです。
 
 
私たちは、私たちに与えられている良きもの、
つまり、愛と共感性と思慮深さを養うべきです。
 
聖書において
それら人間の情緒を豊かに持っている人たちが救われています。
多くは、傷ついて、悲しみ、救いを求める境遇が、
キリストに対して
正直な思いをまっすぐに述べさせたからです。
彼らには、心の、魂の奇跡が起こりました。
 
 聖書において
 教条と戒律主義に陥った者たちは
 儀式の形式を守ることで
 良心の実質を疎かにして
 守っている、知っている、分かっているという傲慢を表し
 彼らは、物や肉体の奇跡と儀式への信仰?によって
 選ばれた者という自覚に思い上がり
 そしてキリストを殺す者となり
 神の怒りを買いました。
 
信仰は
共感の可能な心によってのみ受け取られ
悲しみを知るゆえに温もりを知る心に生まれます。
 
信仰は決して超常を知る魔法でも霊能力でもありません。
 
信仰は、人間らしい心を育てます。
どんな人でも、神の前の正直さに努める人は、
神のごとくであることを求めない敬虔によって、
代わりに人間らしい心を与えられ、
育てられ、成長して、豊かな人間性によって、人間世界を生きてゆくでしょう。
 
このように、不完全な人が救われるには、
徹底して、神の完全との違いを弁えていくしかないのです。
 
 
"神様が助けてくださいます" というような、やさしい神を語るときには、自らを神聖としないために、気をつけるべきことであります。
 
また、教理や教義を語るときには、必ず、超常なる神聖のことは、人には分からない神秘であることを伝えなければ、超常趣味で信仰を語ったつもりになるような人間離れが生まれる、ということを考えなければいけないと思います。
 
 
信仰者であっても、私たち人間の善悪の判断など、神に対しては全く通用しません。何故なら、人が、善悪の判断を振りかざして祈るとき、絶対の神の善悪の判断は既に下されているからです。そして、それは、時空の限られた人間には決して分からないことです。
 
誰が、自分の言動の影響を果てまで追えるでしょう。それは、神のみがなさることです。ゆえに、全知全能と言われています。それを知らない者が、愚かしくも、神の辻褄?をいじくって、なぜ悲劇を救わないのか、神はいない、などと言っているだけなのです。
 
神の辻褄を、神でない人間は、決して負えません。ゆえに、私たち、キリスト信仰者は、いくら善悪にこだわっても理解することはなく、神の前に、ただ、正直な告白以外、まるで祈りになっていないことを肝に銘じるべきなのです。
 
神についての、不可知論は、大方、無神論です。可知論は、大方、理屈倒れの半端な哲学です。信仰を理屈で語るのは、大方、邪道です。神学や哲学の知識を誇る者を警戒してください。私たち信仰者は、キリストの愛と共感が忘れられなくて、キリストへの愛と共感に生きる者であります。
 
人の辻褄さえ、ろくに語れない者が、どうして神の辻褄を語れるでしょう。インテリ気取りの坊ちゃん哲学など、俎上にも、机上にも、乗る価値はないのです。神もキリストも、幼稚な概念でしか語れない半端者~病人を相手にしないでください。
 
 
超常と日常と闇

超常と日常と闇
 
 
(2020年07月06日)
(2021年07月15日、再録+)
 
 
 
  狭く細い道
 
近づくことはあっても
交わることはないかもしれない
ときに休み
ときに耐える
狭く細く長い道
 
素朴な不信仰
本気の弱音
本音の泣き言
ときに痛いほど
薄い胸に落ちて
抉(えぐ)るように沁みてくる
 
辿(たど)る経緯は違っても
それぞれの細い道
苦難の果てに見出した
薄明かりの細道を
証明がないからといって
どうして否むことができようか
 
日々の糧(かて)のように
あたかも等しく
水のように注がれる
弱々しさを抱えて
 
どうして希望を捨てられようか
いつかそれらが総て
広い広い一つ所に通じていて
温もりに包まれるという希望を
 
(2000年代か)
 
※ 記事と、詩のようなものは、年代からも分かるように、直接の関連はありません。ただ、少しばかりテーマの類似を考えて、詩のようなもののほうを過去作から選んではいますが、参考になるかどうかは、私には分かりません。
 
 
 
 大川隆法の直筆原稿
 2021年07月13日
 幸福の科学とは何だろう?ブログ by 楽山
 ブログ記事でも
 ツイッターでも
 宣伝しています。
 
 
楽山の因業として、何を言われても、何事もなかったかのように書いてくる無視力ということです。書くことの恥ずかしさを検証するだけの良心がないことを表しています。こういう人が捏造する偏見によって、宗教と信仰は、健康で文化的で賢明な伝道を妨げられることになります。
 
そのように、嘘と詭弁で、真実を妨げることで、楽山のような者は、かえって、悦に入る輩なのです。その卑しさと、幼稚さと、あざとさと、白々しさと、狡猾さと、卑怯さと、無反省、無神経、無責任、無理解のために、また批判しなければならなくなります。
 
*直筆原稿のコピー発見
蔵書の整理をしていたら、大川隆法の直筆原稿のコピーを見つけた。90~91年頃、支部で頂いたものである。
『ユートピアの原理』まえがき(省略)
*三原則
内容を確認してみると、論点はおよそ三つだ。
大きな危機が迫っていると脅す
大川隆法を信じれば救われると希望を示す
「救世のために伝道をせよ!」と使命感を煽る
 
まるで、偉人の直筆資料が見つかった!・・かのように書いていますが、何が言いたいのでしょう。かっこいい・・とでも言いたいのでしょうか。愛しているのでしょうか。楽山の記事本文が貧弱です。存命の教祖の原稿が、どう重要性を持つと言うのでしょうか。
 
*相変わらず
こうしてみると、「大きな危機」の中身についてはその時々によって、世紀末の天変地異、北のミサイル、中国の覇権主義などと変化はしていても、上の三原則は今も昔も変わっていないのがよく分かる。
 
褒めているのでしょうか。言いたいことが見えてきません。宣伝するほど価値のある情報とも思えません。教祖の言うことは、あちこちに出ているでしょうし、直筆原稿の写真(省略)は、多く、偉人ならば価値があるのでしょうが、楽山は、何を、はしゃいでいるのでしょう。
 
*反省
聞くところによれば、最近の信者は笛吹けど踊らずとばかりに、大川隆法総裁が危機をうったえても、使命感を煽っても動かない人が増えているそうだけども、会員時代の自分はまだ若くて世間知らずだったので、上のような文章には簡単に感動してしまうクチであった。この点は本当に失敗だったし、いくら反省してもしたりないくらいである。…とほほ。
 
楽山は、ORの文章に感動してしまうそうです。それを失敗だったと書いています。「反省」は嘘だと思います。恥ずかしいだけでしょう。「とほほ」は大嘘だと思います。楽山の言葉の中で、いちばん信用性のない言葉です。さらに、「反省」「とほほ」なら何も書かないことです。
 
反省、とほほ、については、嘘であると、今まで何度も書いてきましたが、それでも、平気で書いてくるところが、楽山の病質であり、嫌がられることを重ねるサディストぶりを証明しています。根腐れとはこのことで、その分、文章が、ますます無明の世界に行きつつあるようです。
 
楽山は、「感動し」たことはないと思います。ふるえるだけの心を持っていないと思います。「感動してしまうクチ」・・楽山は、「感動」と言ってしまう口だけの人です。楽山にとって、感動とは、自分の意見に空想の辻褄が合うということでしょう。
 
「失敗だったし」「反省してもしたりない」・・反省は振り返ることですが、楽山は、ますます、嘘に凝り固まる人です。失敗の認識もないでしょうし、反省もしていないと思います。だから、「とほほ」という、ふつう、文章には書かない台詞でごまかすのです。
 
楽山は、何度批判されても、なお、自分は整っていると言い張りたくて、図々しく不躾な文章を書いてきます。浅ましい言葉だと全く気づかずに、言えばいいと思うだけで、また書くわけですから、そのたびに、不自然な言葉遣いを含めて違和感だらけだと知れてゆくことになるのです。
 
 
 
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