ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

タグ:独り芝居

 
  楽山の弁神論(3)2
 
 神義論、弁神論についての対話 3
 2020年06月23日 楽山日記(LD)
  を改めて批判。
 
 
独り芝居です。
登場しているのは、信者ではありません、楽山です。老人は、元信者ではありません、楽山です。
 
*悪の発生
信者 「神は、人に自由を与えました。人の自主性を重んじたのです。でも人の中には、この自由をはき違えて、悪を犯す者が出ました。これが悪の発生原因です」
老人 「神は、人を善きものとして創造したのだろう。それならば人は、当初、悪を持たなかったのだろう。それならば自由を与えられても、悪を為すことはないのではなかろうか」
 
神という人を超えた存在に対しても、何でも自分の小理屈で辻褄が合わないと信じない、というのが楽山ですが、それは、既に信仰ではありません。楽山は、人の愛情にも、そういうスタンスを取るのでしょうか。だとしたら、何も良い結果は生まれないでしょう。不幸な人です。
 
「人を善きものとして創造した」「悪を持たなかった」→「悪を為すことはない」はずだ・・人間について、人間の現実を見ずに、いちゃもんだけを付ける態度でいると、こういう哀れな、短絡に至るわけです。疑問ではなく、いちゃもんです。
 
どうしても言いたいなら、楽山は、永遠に、神に向かって、そう言っておればよいのです。公共に向けるには、こちらに向けるには、解釈が、根拠が、現実離れしていて、現実をベースに置いていない未熟さで、話になりません。楽山は、悪意のボケ老人になっています。
 
信者 「ですから、不心得な者が自由をはき違えたのです」
老人 「あなたは因果応報という法則があると主張していたろう。それならば悪の種がない限りは、悪の芽はでないということになるのではなかろうか。人は善きものとしてつくられ、悪の種を持たなかったのであれば、自由を与えられたとて、それをはき違えて悪を為すことはあるはずもないのでは?」
信者 「そもそも悪は存在しないという考え方もあります。人の目には悪と見えしことでも、大きな視点から見れば……たとえば、根本神のような高度な視点から見れば、一切のことには深い意味があり、悪は存在しないのです」
 
楽山の主張である因果応報を絶対化して、信者モドキの楽山は、ボケ老人の楽山に文句を言い、遂には、悪は存在しないとか言っています。存在しています。このブログ書いている楽山その人です。神がどうこう、自由がどうこう、ではなく、ただ、楽山が、ボケて、とぼけているだけです。
 
神は、人の理解を超えている、としか言えないことを、楽山は、自身の頭の中で、辻褄合わせをしようとするのです。それは、信仰理解への努力ではなく、人としての身の程も謙遜も知らない我欲に過ぎません。「根本神のような高度な視点から」見ているつもりの「不心得」者は楽山です。
 
老人 「これについてはさっきも話したが、世の中には児童虐待事件というものがあるだろう。罪もない子供が残忍な殺され方をした例もある。どんな理屈を持ち出しても、どんな視点から見ても、これを悪としないことは無理だろう。人としての情緒を失わない限りは…。こういう現実から目をそらして、悪は存在しないということこそ、屁理屈ではないかと思う」
 
悪は存在しない、などと言うことは、直観的に、否定できるはずです。しかし、楽山は、小理屈の辻褄合わせを持ち出して難癖をつけます。"根本神" などと、上のほうで言っていますが、神に、根本も枝葉もないわけです。呆れます。
 
このような、最低の詭弁を、人に、ネットに、ぶつけてくる楽山からは、全否定したうえで、逃げて、関わらないようにするしかありません。恐らく、楽山は、理屈倒れになって、直観も直感もなくなっているのでしょう。
 
*訣別
老人 「この世に宗教はいろいろあるし、信者にもいろいろな人がいる。だから一概にこうだとは言えないのだけれども、あなたを見ている限りは、どうやら自分の信仰を守ることが一番の重要事項になっているようだ。信仰を持ち続けさえすれば、すべての問題は解決できるのだと」
信者 「……」
老人 「実をいえば、私もかつてはそんな風だった。ある宗教を熱烈に信じていて、その教義によって何でも判断していたんだ。複雑な人生問題でも、社会問題でも、その他なんでも、教義によって判断し、ニニが四とばかりに簡単に答えを出して満足していたものだった。この神義論、弁神論のような問題も、宗教教義を信じていたときは、チャンチャンで解決できた。今のあなたみたいにね」
信者 「……」
 
解決、ということが、我欲に沿うことになっている楽山のような者は、自分の心の問題を無視して、信仰によって何も解決しないと、神を憎むようになるのでしょう。それにしても、楽山が、信者であってもアンチであっても、どれだけ人を傷つけるのか、空恐ろしいものがあります。
 
「神義論、弁神論のような問題も、宗教教義を信じていたときは、チャンチャンで解決できた」・・だとすれば、信仰を知らず、信者だった時から、楽山は、思慮が浅い人で、今は、思慮が崩壊しているのではないかと思われます。教義を信じることが信仰ではありません。
 
老人 「でもそのうちに、自分は教義ロボットになってしまっていることに気がついたのだ。何でも教義で考え、結論を出し、行動をするといった具合だ。まさに教条主義者だ。だからこの反省から、教義やら、ドグマやらに染まるのではなく、人間らしい情緒、正直な気持ちを大事にしようと思うようになったのだ。以前は、自分の心を、教義の枠にはめようと無理をしたこともあったが、今はそんな枠は気にせず、自分の心の手足をのびのび伸ばして暮らそうと思っているんだ」
信者 「……」
 
「気がついたのだ」と、老人の物言いから、楽山の物言いになっています。「人間らしい情緒、正直な気持ちを大事に」・・言われたことに、言葉だけ合わせても、文章に楽山の人間離れは表れてきます。時々書いてくる「反省。とほほ」と同様、言葉だけの楽山節と言うべきでしょう。
 
教条主義を信仰?と信じると、信仰?はのびのびしないものになる、ということは、聖書のパリサイ人の話で分かるはずですが、楽山は分からなかったようです。信仰の本質を受け取っていない者の言い分です。教義の枠にはまらず、のびのび暮らして、楽山は、反キリストになっています。
 
教条主義否定から、あらゆる教義否定にいたり、ガチガチになっています。それを、キリスト教と信仰に向けてくるから、悪質であり、自分の思いが、あらゆる宗教に及ぶという天才気取りなのでしょう。どんどん妄想として増悪しているように思われます。
 
老人 「お節介な話かもしれないが、あなたもこの辺りのことについて考えてみたらどうだろう。別に信仰は止めるべきだなどということは言わないが、もう少しだけ心に余裕をもってもいいと思う」
 
ここは、警戒してください。心に余裕を持ってもいいと楽山が言うとき、それは、信仰を信じ足りなくても信じ過ぎてもいけない、という話になります。既に、そのことを、楽山は言っていたのです。楽山の曖昧ボンヤリ言語のようになったら、言論も、信仰も、空虚になってしまいます。
 
教条主義が悪いのであって、信仰は有無でしかありません。信仰を、人の道徳の字面でしか考えていないと、こういう偽善になってしまいます。曖昧ボンヤリになるしかなく、そのせいで、何も言わないのと同じ繰り言になり、時間も手間も、他者さえも、無駄遣いするようになるのです。
 
信仰に過ぎるとか足りないとかはないのです。楽山は、心で信仰を理解できず受け取っていないために、詭弁を使って、信仰を、いい加減なものにして、その量とか加減とかを考えているようですが、結論を洞察できない不能の果てに、結局は、背教を促しています。
 
警戒してください。心で理解できない者というのは、楽山のように、憎しみ恨みに転じて、器に合わせるかのように、詭弁と嘘を語るようになり、信仰の敵となってゆきます。
 
信者 「突然、自分語りを始めたので、何を言うかと思ったらまあ…。何度も繰り返し言ってることですけど、ようするに、あなたは信仰を続けられず、退転したということでしょう。でもそういう自分の未熟さを率直に認めることができずに言い訳を並べ、自分は何も悪くないという自己正当化を試み、あろうことが私のことまでも同じ過ちを犯すように誘惑しているわけですね。人というものは信仰を失えばここまで落ちるもんなんですね」
老人 「……」
 
「未熟さを率直に認めることができずに言い訳を並べ、自分は何も悪くないという自己正当化」・・まさに、楽山が、楽山を表して、気づかずに、人に向けている体(てい)であります。哀れです。
「信仰を失えばここまで落ちる」・・楽山は信仰を持ったことはありません。
 
こういう、なじり合いも、楽山の企みなのでしょう。他者は、皆、愚かだという前提に立っている楽山は、「言い訳を並べ、自分は何も悪くないという自己正当化」して、他者を「同じ過ちを犯すように誘惑しているわけ」です。
 
自分の言葉に酔って、裁かれる、ということが、ここで起こっています。「ここまで落ちる」というのも、まさに、楽山において、まさに今、現出していることです。
 
信者 「でも、おあいにくさま。私は絶対に信仰は棄てません。あなたみたいにはなりません。なりたくもありません」
老人 「……」
信者 「ブログを読んだ時は、もう少しまともな人かと思いましたが、それは間違いだったようです。今ようやく、あなたがどういう人かということが、はっきりわかりました。あなたとは話をするだけ無駄です」
老人 「……」
信者 「だから、あなたと会うのは、これが最後です。もう二度と会いませんし、話もしません。同じ部屋で同じ空気を吸うなんてまっぴらです」
老人 「……」
信者 「私はあなたに真理はお伝えしました。でもあなたはそれを拒否したのです。死後に地獄に堕ちてから、『誰も真理を教えてくれなかった』などと泣き言はいわないでくださいね。地獄に堕ちたのはあなたの自己責任なんですから」
老人 「……」
信者 「では、これで本当にさよならです」
老人 「そうですか。さようなら」
 
「私はあなたに真理はお伝えしました」・・こういうつもりの有頂天妄想者が、まさに、楽山です。
 
私たち信仰者は、真実を求めて生きています。真理をつかんでいるわけではありません。
 
「でもあなたはそれを拒否したのです」「地獄に堕ちたのはあなたの自己責任」・・これは、脅迫です。そして、楽山の信仰理解?であり、体質なのです。地獄からのメッセージとも言えるでしょう。
 
楽山は、何も書いてほしくない、見たくもない、ただ、ただちに、さよなら、したい人です。
 
 
 「無駄なこと」についての対話
 2020年06月23日 楽山日記(LD)
 
この記事において、楽山は、似たような人物を登場させることによって、今までの記事がHS批判であったかのように見せかけていますが、無駄です。イワンの話、神義論の話なども書いていたからです。こういう、ごまかしもしてきます。どこまでも汚い言い逃れの楽山です。
 
 
楽山の自己正当化は、だんだん下等になってきて、著名人の言葉さえ、字面だけを悪用して快老生活などと言っています。言葉を、ことごとく勘違いして、または、わざと曲げて、言い逃れ、もはや、内容がなく、的外ればかり。殆ど自滅行為です。
 
楽山は、不十分ながら出来ることを精いっぱい努力して生きてゆこうというのではなく、自分の言い分が通らないのを、通さない奴が悪いと決めつけて慢心するような、いちばん厄介な存在として、詭弁などの細工だけで、繰り言の言い張りを続けてゆく類の人間なのでしょう。
 
いわゆるルサンチマン(弱者に募る怨念、負け犬根性)の人であり、仲間がいるのかもしれません。ということで、当分、私は、ブログの題材に不自由する心配はしなくていいようです。
 
 
唾を飛ばして嘘を吐く

唾を飛ばして嘘を吐く
 
 
(2020年06月29日)
(2021年07月03日、再録+加筆修正)
 
 
 
  ウソの国
 
男は登っていく
深夜の階段を
息せき切って走っていく
走らねばならないのだ
走らねばならない
遅れてはならない
遅れてはならない
 
遅れた
男は人前に連れ出され
何人もの男から
したたか腹を殴られたが
痛みはなかった
 
夕暮れの街を歩いていく
人々は夕闇と過去に追われながら
すでに死んだ油の眼で
われにもない毒の顔をさらして
ネオンの間から間へ
苦しい巡礼を始める
 
あぁ この七色の 肉色の
光のおりが天国とは
 
拳を握りしめて
「何もない」
「何もない」と
壁に向かって叫び続ける男
 
誰もいない街角に向かって
手を振り続ける女
眼を振り続ける人々
 
通り過ぎる車が
水たまりをはねて
尻が濡れた
時が引き裂かれた
 
青春と人情の墓場から抜け出し
人通りの少ない路地で
恋人に声をかける
お茶でも?
あいされたいわ たれからも
 
吐物をまき散らしながら
男は逃げる
転びそうになりながら
 
幾分か小高い丘に
塀のある幼稚園があった
数人の子供が砂場で遊んでいる
ジャングルジムがある
子供たちが登れるようになると
外が見えるようになるわけだ
 
男は登ってみる
もう吐き気はしない
尻のあたりの濡れた感触もない
男はようやく安んじて眺めている
人っ子一人いない街の風景を
 
あたりはもうすっかり明るい
 
(90年代か)
 
 
 
(古い記事は載っていません)
 
http://st5402jp.livedoor.blog/
(古い記事もインポート済み)
 
ツイッター:
(ここは、ブログ記事をリンク・抜粋)
 
 
ブログ村ランキングリング:INポイントが付かない。
にほんブログ村 ポエムブログ 暗い詩へ(文字をクリック)]
にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ(文字をクリック)]
 
ブログランキング
 
 
 

 
  楽山の弁神論(2)2
 
 神義論、弁神論についての対話 2
 2020年06月23日 楽山日記(LD)
  を改めて批判。
 
 
楽山の、偏向した負の情熱、つまり、怒気のベクトルが、無反省に、執拗に、詐欺的言説によって、にじり寄ってきます。また、自作自演でしょうか。
 
*なぜ神は悪を止めないのか
信者 「神は悪を止められるはずなのに、なぜ止めないのかと仰いますけどね、そこには神の深いお考えがあるんですよ」
老人 「たとえば、どんな?」
信者 「神の愛は、砂糖菓子のような愛ではないんです。砂糖菓子は美味しいです。でもそればかり食べてたら虫歯になってしまいます。だから神は、人々の魂を鍛え、進歩させるために、幸いを与えるだけでなく、試練を与えることもあるんです」
老人 「つまり、神は、人々の霊性の向上のために、あえて悪の存在を許容しているということかな」
信者 「大雑把に言えばそうとも言えますが、だからといって神は悪を奨励しているわけではありませんからね。悪と見えし、この世の苦難困難は、魂を磨き、霊性を向上させるための砥石としての役割があり、そこに意味があるということです」
 
このように、神を、人間の考える正義の立場から、矛盾だ、矛盾だと、正論を繰り出したつもりになるのが、楽山のような偽善的無神論者の生業(なりわい)なのです。なのに、代わりとなるものを何も提示できない無責任さなのです。それと、虫歯の喩えは、ひどいものです。
 
楽山は、霊性の向上、などという、一見、高尚に見える言葉が大好きでが、それに見合う中身が全くありません。信仰に必要なのは、人間に相応しい心なのです。上の記事のような、試練だと言えば、死んだら試練にならないでしょう、という責め方は、大方、陳腐であります。
 
信仰者は、先ず、苦悩があり、そこからの、慰めでも、励ましでも、癒しでも、救いでも、いただきたいと思うゆえに、聖書を読むのです。危機を逃れられるからでも、死なないからでもなく、危機のほうから訪れてくるから、耐え忍ぶ力が欲しいのです。
 
信仰者は、机上で小理屈を捏ねている気取り屋とは、種類が違うと言ってもよいでしょう。ですから、決定的なこととして、楽山のような偽善者は、人を救う道を、何も提示しえないわけです。総て、机上の空論だからです。絵に描いた餅さえ、楽山は持っていません。
 
楽山は、愛と共感を知りません。ゆえに、キリストの愛と共感も知りません。それが、妬ましいから、文句を言っているという極めて低次元の自己満足であり、それを、何々論だとか飾っているだけなのです。自己愛に生きる者は、他者の意見と、自らの矛盾を、両方、無視する人生になります。
 
誰も認めてくれないから、その小理屈を言うことにだけ快感を覚えるのでしょう。言ってみれば、いちばん、この地上で、何処にも正当に届かせるものを持たないで、独り言を書いて、他者をあざ笑い侮辱し続けている人種なのです。
 
老人 「それは、逆境にある人が、自分自身の心を奮い立たせようとするときには有効な考え方だろうが、他人に対しては適用できないものだね」
信者 「どういうことですか?」
老人 「たとえば、逆境にある人が、『この苦難、困難には意味があるんだ。自分はこれを乗り越えることで、魂を鍛え、さらに高く飛翔できるんだ』と前向きに考えて頑張るのは結構なことだ。でも、児童虐待事件などについて、『この苦難困難は、この子の魂を向上させるためにあるんです。神の愛は砂糖菓子のようなものではないんです』と第三者の立場から言うとしたら、こんなバカなことはない。あなたはそうは思わないかな」
 
まことに、人の意見を聞かず、繰り返し、陳腐な意味付けを欲するのは、楽山のような自己愛者の性(さが)であります。もう一度、書くと、代わるものなど、何も持っていない楽山だということを強調しておきます。つまり、どこまでも気取りだけであり、からっぽなのです。
 
誰も、良い意味付けをしてくれないものだから、正義の味方気取りで、自分で意味付けをして、それと違うものを否定する、という、みじめな人生を送っているのです。しかし、信仰の意味も意義も知りませんから、やたら神を否定する不良でしかないのに、気づかないのです。
 
信者 「それとこれとはちがいます。その二つは同列には語れない問題です。大人の話と、子供の話を同じにするなんて、頭悪すぎです」
 
「頭悪すぎです」これが、楽山の本音です。自分以外の人が、全部、頭悪いと思ってしまう自己愛者なのです。だから、高慢から、説教をしたつもりで、誰も聞いていない、誰にも良い影響を与えられない、という人生を、独りよがりに歩むことになります。
 
老人 「でもこのたとえによって、この世の悪は、人の霊性を向上させるためにあるという考え方は、逆境にある当人に奮起を促すための精神論としては有効な場合はあっても、この世に悪がある理由を説明する理論としては不完全であることが分かるだろう」
信者 「そんなことは勝手に決めないでください。たったこれだけの例で不完全と決めつけるのは卑怯です。あなたは自説に都合のいい例を持ち出してるだけじゃないですか」
老人「ある仮説が不完全であることを証明するには、その仮説で説明できない事例を一つだけでも挙げればそれで十分だと思うけどね。でもまあいいか。それで、この件について他に意見はあるのかな」
 
「この世に悪がある理由を説明する理論としては不完全」・・完全に知らないと、楽山は気が済まないのでしょうか。今の現実はどうかということから出発できないのは、楽山が、非現実に生きているからでしょう。前提を確認します。老人も、信者も、楽山です。
 
仮説をあげても、神を説明することなど出来ていないし、否定することも出来ていないのだから、楽山は、信仰者から、キリストの与える愛と共感の感動体験を奪うことは出来ません。楽なお山の大将として、苔というより、カビのように生えて、獣道を、へらへら、ふらふら、徘徊しています。
 
しかし、不思議です。虐待された子供が死んでしまっては救いも何もあったものではない、という疑問を、まだ、楽山は言っていません。気づいいていないのでしょうか。だとしたら、とても、程度の低い疑問ということになります。何から何まで、陳腐な楽山です。
 
このように、虐げられたまま死んでしまう人々にとって、神はどうして救わなかったのか、という疑問があります。その答えは、キリストの愛と共感に包まれている、また、それを知る、ということが、希望と救いになるわけです。楽山のように屁理屈をこねる乱暴者には、分からないことです。
 
死後のことは、神に任されるので、人が決めつけてはいけませんが、想像して、願うのは、神を拠り所とする信仰者の自由な思いということです。それで不服な人たちは、耐えるのではなく、信じないほうを選ぶのでしょう。楽山はどちらでもなく、神はいない、いないと、虚しく吠えています。
 
ゆえに、天国ということが聖書には登場するのです。その希望を支えるのは、愛と共感のために、命を惜しまなかったキリスト、その御方に対する私たちの愛と共感なのです。ゆえに、天国は、人々の間にある、というキリストの言葉が意味を持ってきます。
 
 (ルカによる福音書、口語訳)
17:20
神の国はいつ来るのかと、パリサイ人が尋ねたので、イエスは答えて言われた、「神の国は、見られるかたちで来るものではない。 
17:21
また『見よ、ここにある』『あそこにある』などとも言えない。神の国は、実にあなたがたのただ中にあるのだ」。
 (ルカ17:20-21、新約聖書)
 
信者 「当然あります。はっきり言って、あなたは我が強すぎます。我が強すぎるから、自分の小さな頭で考えたことが全てだと思って、それで結論づけて得意になってるんです。物事はもっと大きな視点でとらえるべきです。悪についてもそうです。そういうことは、自分の小さな頭で考えるんじゃなくて、もっと大きな視点…いわば神の視点でみてこそ、その意味が分かるんです。それでこそ、悪、苦難、困難、悲惨…などが存在する本当の意味が分かるんです」
 
若い楽山も、年寄りの楽山も、どちらも楽山ですが、どちらも何も分かっていません。特に若い信者のほうは、キリスト教をかばっているように見えますが、年寄りに負けることで、神を否定するのが、楽山の狙いなのです。意見が分かれているのは、楽山の虚構と虚妄の芝居に過ぎません。
 
「神の視点で」見ることなど、人には出来ません。ここに、でっち上げの、にわかクリスチャンの若者の正体が、バレてくるのです。楽山が、失敗して醜態をさらす若者役を演じることで、話し全体としては、神を否定するという話です。
 
楽山は、こういうことを好んで、わざとらしさも平気で、してくる人です。楽山は、よっぽど、かまってほしいのでしょう、ほめてほしいのでしょう、インテリ、優しい、賢者、・・と言ってほしいのでしょう。やさしいお人柄ですね、というコメントが来て、うれしそうにレスしていました。
 
老人 「つまり巨視的視点からみれば児童虐待に宗教的な意義を見出せるってことかな。いやいや、どういう視点から見ようとも、児童虐待に存在意義を見出すなんて、人としての情緒を保っている限りは、それは無理だよ」
信者 「だから言ってるでしょう。人の視点では分からないんです。神の視点でなくては…。あなたはこの問題について、あれこれ言うなら、まず神の視点を得てから言ってください。神の視点も、神の心も何も分かっていないくせに、あれこれ言うのは傲慢というものです」
 
実際に起こってくる事件や不幸や災害について、宗教的な意義を語るというのは、我は神なりと、思い上がった人の言であります。人間は、災いに際しては、泰然自若として意義など語れるはずもないのです。それは、超常がらみの机上の楽山教?の妄想であります。
 
どうしても、楽山は、その小部屋のような狭い視野で、神と信仰を考えるようです。知らないこと、分からないこと、見えないことがあるという信仰の世界に、楽山が、どこまでも反発してくる病理のわけが、ここにあるのでしょう。神の視点・・持ってるつもりでしょうか。愚かすぎます。
 
*イワン
老人 「この辺りの議論については、『カラマーゾフの兄弟』のアリョーシャとイワンとの対話で表現されているね。有名な「大審問官」の少し前のあたりだ。イワンは、神の存在と児童虐待の関連について熱く語っているよ」
信者 「話をそらさないでください。あなたに神の視点が分かりますか。分からないなら黙りなさい。あなたの努めは、知識自慢をして知ったかぶりをしないで、まず黙ることです」
 
ここは、私への当てつけです。楽山の言い分が、あまりにも幼稚で、かつ、批判に対して何も答え得ない男なので、書くな、ということは、前から言っています。無責任なことしか言えないなら、言論の自由はないのです。楽山は、責任も負わず、他者を無視して、わずらわしく鳴く虫のようです。
 
老人 「なかなか手厳しいね。すぐ終わるから、ちょっと話を聞いみてほしいね。記憶に頼って話すので、不正確な部分があったら申し訳ないのだが、この物語の中で、イワンは、神の計画のために幼児の犠牲が必要だとするなら、自分は天国への招待状は受け取る気にはなれないという風なことを主張しているんだ。神の計画が成就したあかつきには、犠牲になった幼児も、他の人たちもみんなが天国で幸せになるとしても、そのために罪のない幼児を犠牲にしなければならないというのには納得できないと…」
信者 「それで一体何が言いたいんですか」
老人 「あなたは児童虐待について神の視点から見ればその意味が分かり納得できるというけれども、私はそれが神の計画の一部であったとしても納得できないということだよ。人としてそれに納得してはいけないとも思っている」
 
神の視点は、人間にはありません。神の視点から見れば意味が分かるというのは傲慢です。老人は、人ですから、神の視点は持ちません。若者は、気安く超常に話を飛ばして、老人を批判している時点で、分からないことを分からないと言えない自己愛者です。どちらも楽山です。
 
信仰の原動力が愛と共感であることを知らないし感じることも出来ない楽山です。神が、その被造物である人を、いちいち納得させる必要はないのです。それでも、人は、キリストに引き寄せられてゆくのです。楽山は、このことが、全く理解できないのです。
 
楽山は、興味本位の屁理屈をこねるだけです。とても身勝手な自己愛性人格障害から、神の計画にも、信仰の世界にも、いちゃもんをつけるだけです。何の関係もないし、何も知りもしないのに、執拗に文句だけは言ってくる、という、ストーカー的な迷惑部外者です。
 
信者 「それは確信犯として神に逆らうということですよ」
老人 「イワンはそういうところはあるかもしれないね。多分彼が言う幼児というのはキリストのことなんだろう。神の計画のためには幼児の犠牲が必要であり、その犠牲の後は、その幼児も他の人も天国で幸せになるだとか、罪のない幼児を犠牲にして天国に入りたいとは思わないだとか主張しているからね。ただイワン本人は、教義、ドグマを批判しているだけで、神そのものに異議を申し立てているつもりはないかもしれないが」
信者 「なにやらグチグチ言ってますが、ようするに神がすることは気にいらないと文句を言ってるのでしょう」
老人 「上のことは、イワンの心理を自分なりに想像してみただけだ。私自身の考えをいえば、もし神が存在するとしたならば、こういう問題については、宗教教義やドグマによって簡単に割り切って済ませてしまうのでなく、大いに迷い悩むことを人に求めていると感じるね。だから神は、苦悩するイワンはもちろん、イワンに反論できないアリョーシャのことも温かく見守っているだろうと思う」
 
人間を、好きなように実験材料として語っているところに、楽山の、非人間性を垣間見ることが出来ます。そこに、実感はなく、「悩む」こともなく、「温かく見守」ることもないのです。いつも、言葉だけ、人間らしいふりをしていますが、言い損ねた台詞のように、浮いているのです。
 
「大いに迷い悩む」ことの跡が、楽山には、全く見られません。独り芝居で、結論の出ようのないことを、偉そうに語って、気取りたいだけでしょう。老人の、神が「温かく見守っているだろう」というのは、上のほうの「納得」できない、という台詞と矛盾しています。
 
楽山の我欲が原動力だから、芝居も対話形式も、恣意によるために、いい加減な作りになっています。どちらの考え方としても、もし神が存在するとしたならば、という、あとの理屈を、楽山の狭い世界観によってこねていることです。
 
まず、信仰は理屈ではないですし、その時点でアウト、さらに、楽山の貧相な理屈で分からなければ否定、という傲慢の時点でアウトなのです。アウトの部外者なのに、執拗に書いてくる、ここでアウト、チェンジ、なので、もう出てこないようにしてほしいわけです。
 
信者 「呆れた。自己都合信仰も、ここに極まれりですね。あなたの言い方だと、神は、人が信仰に迷い、悩み、棄教して、無神論者になることを期待しているかのようではありませんか。自分が退転し、無神論者になったからって、神がそれを望んだからだというのは、自己都合信仰にもほどがあります」
老人 「私が言っているのはそういうことではなくて、ちと口はばったいのだが、端的に言えば愛が大事だということだよ。この世の悲劇、悲惨について、宗教教義やドグマによって「因果応報ですね」「前世のカルマですね」「霊性向上のための試練です」などと簡単に判定して済ませてしまうのは冷淡すぎるのであって、それよりは宗教教義やドグマによって割り切ることはできず迷い悩む方が人としてまっとうな生き方だろうということ」
 
楽山は、愛を、字面の概念だけで語れると思って、信仰を、愛だから冷淡ではいけない、とか言うことで語っている時点で、信仰を、薄い同情に貶めています。これは、つまり、楽山は、神の理路を、人の理路、実際には、楽山の、みすぼらしい壊れた心無い理路で考える時点で、またアウトです。
 
こういう野蛮な理路は、結局、信仰に難癖をつけるだけに終わるからです。それと、信仰者が、思い悩むことには、祈りと信仰があり、癒しや安らぎという恵みを受け取っているから耐え忍ぶわけです。老人の楽山の「迷い悩む方が人としてまっとうな生き方」は暴論です。
 
心に半端な持ち物が多い人は、信仰に至りません。その最悪な場合は、他者の信仰を尊重することさえしなくなり、自我の執着で一生を、不平不満でいっぱいにしながら終えることになるのです。楽山に書くなと言った理由の一つが、ここにあります。我執の不幸をまき散らすなということです。
 
信者 「なにやら、もっともらしいことを言ってますが、結局は自己正当化のための屁理屈ですね。信仰を全うできずに退転したくせに、それを認めたくないために、屁理屈を並べてる」
老人 「これは屁理屈かな? それではついでにもう少し屁理屈を並べさせてもらうと、イワンは大雑把に言えば無神論者だね。でも深い愛を持っていることは確かだ。だから神は愛であるとすれば、深い愛のある無神論者であるイワンは、神とともにある無神論者と言える。一方、何でもかんでも教義やドグマで割り切ってしまう教条主義的な信者は、愛に欠けている。こういう人は、神を失った信仰者であり、神とともにはいない。あなたは神を信じるかどうかを最重要事項としているけれども、私は信仰の有る無しなんて、愛があるかないかと比較したら些末な問題でしかないと思う」
 
「神とともにある無神論者」・・明らかな矛盾律の詭弁を出してきました。自己弁護だと思いますが、楽山は、無反省・無責任・自己中だから、信仰を論じる資格がないと言っているのです。楽山は、深い愛を持てず、無神論者としても成り立たない幼稚さで、慢心しているナルシストです。
 
二人とも楽山ですから、「信仰の有る無しなんて、愛があるかないかと比較したら些末な問題でしかない」などと言っています。宗教を考えるうえで、信仰と、愛を、分ける時点で、アウトなのです。何度、アウトになっても、不勉強で怠慢な楽山は、病質のために反省しません。
 
信者 「ははは。『酸っぱいブドウ』ですね。イソップ寓話では、キツネは美味しそうなブドウを見つけて食べようとしたものの、いくら飛び跳ねてもブドウには届かなかったため、『このブドウはどうせ酸っぱくてまずいんだ』と負け惜しみを言って立ち去ったそうです。あなたは退転をして信仰を失ったから、信仰なんて価値はないと負け惜しみを言ってるんです。かわいそうな人ですね。あなたを見ていると、教祖様が『何があっても、絶対に、信仰を失ってはいけない』と繰り返し警告しておられる理由がよくわかります」
 
信者は、合理化機制の話をしていますが、老人は信仰を失ったという設定なのでしょうか。教祖様というのは、楽山が執着しているHSの教祖のことでしょうか。楽山は、分かると言っています。まだ、執着しているわけです。主旨がバラバラです。
 
*なぜ神は悪を止めないのか
信者 「あなたの無駄話のせいで、大分話がそれたようなので戻しますけど、あなたはこの件については、そもそも問題の立て方が間違ってますよ。『なぜ神は悪を止めないのか』と言いますけど、この世界には因果応報という法則があるんです。すべては善因善果、悪因悪果です。因果は決してくらますことはできません」
老人 「それについては先に述べてるね。この問いの前提は、神は全能であるということだよ。それだから、『神は絶対、全能、完全で、悪を止めることができる。それなのに、なぜ悪を止めないのか』という問いが生まれる。あなたのように、因果律が絶対で、神はそれを曲げることができないとするなら、この問題が生じないのは当たり前だね」
 
老人が、神の全能によって信仰を捨てたという設定なのか、楽山の、まやかしは、理解できませんし、理解する必要もないのです。楽山の因果律は、楽山の頭の中にしか存在しないものですから、楽山のゴミ箱を漁ることはしません。
 
神を、人の言論で、明らかにすることは出来ません。また、神の全能は、人の都合で動くわけではありません。つまり、信仰者は、神を分かるのではなく、神を必要とするのです。
 
 
楽山は、こちらが批判記事をアップすると、ぽつぽつと、新しい記事を追加アップするようですが、その中身は、他者の本の都合の良いところだけを引用するような、自主性の無さで、それに加えて、小姑のような愚痴を並べる、という成り行きになっています。
 
楽山は、批判対象記事を、新しい記事で、後ろに、後ろに、隠したいようですが、既に総てコピペしてあるわけですから、こちらは、じっくり、ゆっくり、批判記事を練ってゆくことになります。これからも、必要と思えば、何度でも、批判の俎上にあげてゆくでしょう。
 
 
速報ですが、現時点で、楽山は、太平洋戦争のA級戦犯、大川周明の記事を書いて、賛同しているようです。相変わらず理路になっていないようだが、楽山は、右翼青年だったのかもしれません。下書きは出来ているので、7月上旬には批判記事をアップする予定です。(去年の話です)
 
 
独り芝居

独り芝居
 
 
(2020年06月28日)
(2021年07月02日、再録+)
 
 
 
  白い目のピエロ
 
薬をのむ
白い目のピエロが現れる
鉛のような倦怠が襲ってくる
長いトンネルの無為にふらつく
 
暗闇で見る幻に
縫合の糸をかける踊り
 
血を抜いた
平気な顔をして笑う好褥の皮膚
その傷から生えてくる
歯を抜いた
血の味 細菌の熱をのどで飲み込む
昔のんだ鼻血の味が残っている
 
拳銃と注射器の危うさに
火の粉とガラスをまき散らす
白い目のピエロ
何度も身を引いて
しばらくすると戻ってくる
静まりかえった舞台で踊る
 
曲もなく詞もなく拍手もなく
そのたびに眼が白くなっていったという
不眠に遊び
白髪を覆い隠して
笑うために ピエロ
また薬をのむ
脳に回った毒が笑う
泣く
 
(90年代か)
 
 
 
(古い記事は載っていません)
 
http://st5402jp.livedoor.blog/
(古い記事もインポート済み)
 
ツイッター:
(ここは、ブログ記事をリンク・抜粋)
 
 
ブログ村ランキングリング:INポイントが付かない。
にほんブログ村 ポエムブログ 暗い詩へ(文字をクリック)]
にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ(文字をクリック)]
 
ブログランキング
 
 
 

 
  楽山の独り芝居(3)2
 
 神についての対話 3
 2020年06月21日 楽山日記(LD)
 
 
疲れたのか、楽山の理路の破綻が目立ちます。
 
対話形式にするときに、独り芝居と言われることを予想しなかったのでしょうか、不思議ですが、理屈を言いながら破たんし、的を外してますから、あちこち、予測も抜けてくるのでしょう。
 
*神について知る方法
若者 「人には神のことは分からないという意見は分かりました。ただ正直言って、僕には、それはとてもさみしい考え方のように感じられます。人はどんなに努力しても、神のことを知ることはできないとしたら、堪らなくさみしいですし、残念です」
老人 「そうか。それだったら、きみは人は神のことを知ることができると考えたらいいよ」
若者 「えっ!? そんなことができるんですか」
老人 「できるというか、そういう考え方もあるにはあるね」
若者 「たとえば?」
老人 「たとえば、人には神性が備わっていて、本質的には神と同質であり、それによって神を知ることができるとか…」
 
楽山は、人に神性が備わっている、と言っています。神と人の違いが、まるで分かっていない人の、決定的な妄言です。楽山が、いつか教祖にでもなって、神の位置に立ちたいからでしょうか。
 
若者 「あとは…」
老人 「人は自力では神を知ることはできないが、神からの働きかけによって神とは何であるかを知らされることがあるとか…」
 
神からの働きかけが、神からだと、どうして分かるのでしょう。楽山は、自らの神性を主張したいのでしょうか。呆れた無理解による、恐れを知らない発言です。
 
神の導きかもしれないと思うときはあります。その場合には、それが否定されないあいだ、その正邪や善悪の最終的な判断を神に任せて、人は、そのことを考えて判断し行動し、経過と結果と気持ちを正直に祈って神に捧げるのです。
 
それが、信仰者の生き方であり、神と違う不完全な人間の生き方であります。実際には、そのときの陶酔気分であることもあり、我流の因縁付けだということもあります。やはり神の導きであったかという気持ちになることもあるでしょう。どれかを知ることは、地上の人間には出来ないことです。
 
大事なことは、そこで、個人の信仰が、固定ではなく、反省と学習という真っ当な道であるかどうかが試されるのです。楽山に、今まで、見られたことのないものです。
 
楽山は、霊だけでなく、神も分かるっぽいと思っているのでしょうか。実際には、紙に書かれたものの表面的な意味としてしか聖書も理解していないし、ましてや、一般の書籍についても、実に気安く、他者の意見の断片を紙切れのようにしか利用して来なかった楽山であります。
 
神は、全知全能・絶対完全・永遠不変の御方です。これらの中に、人間の手に負えるものは一つもありません。人に神性を備わっているなどは、反キリストの世迷言に過ぎません。
 
若者 「つまり人であっても、神を知ることができる可能性はあるんですね」
老人 「これらによって真に神を知ることができるかどうか、できたかどうかは証明のしようがないことだから、できるとも、できないとも断定はできないけれども、そういう可能性を含んだ考え方があるのは確かだ」
若者 「僕には、人には神のことは分からないとするより、こちらの考え方が合っているみたいです。なんだか、心にピッタリする感じです」
老人 「それなら、そちらの方を選択したらいい。というか、他人がとやかく言ったところで、きみの宗教的な選択を止めることはできないだろう」
 
神を知る、ということについて、断定はできない、と言いながら、知る可能性を含んだ考え方があるのは確かだ、と言っています。「可能性」なのに「確かだ」とは、滅裂に近いボンヤリ言語だと思います。だから、楽山にとってだけ「ピッタリする感じ」なのでしょう。
 
一貫性の無い理路、遠回しで何も示せない思慮、これは楽山の癖なのでしょう。私が、楽山に、何も書くな、と言いたくなる時です。
 
若者 「そうですね。僕はこちらを選ぶことにします。…あれ、でも困ったな。やっぱり人には神のことは分からないというのも一理あるように思えます。どうも、どちらか一方だけを信じ、もう一方は完全に捨て去るということはできないみたいです。どうしたもんでしょう」
老人 「その点は、私もきみと変わらないさ。神は不可知と思いながらも、分かると思うこともある。人の心は揺れているのが自然な状態であろうし、その揺れを止めるのは仏陀でもなければ無理だろう」
若者 「それを聞いて安心できました。今日はいろいろな話を聞けてよかったです。ぜひまたお話を聞かせてください」
老人 「よろこんで」
若者 「わあ、よかった。それでは今日はありがとうございました」
老人 「こちらこそ、ありがとう。さようなら」
 
「僕はこちらを選ぶことにします」という楽山は恐怖です。後で否定的なことを書いていますが、これもボンヤリ言語の印象付けでしょう。神を理解する立場は人間にはありません。楽山が今のまま自己中・無反省・無責任であるあいだ、神の恵みを感受する信仰にも、届くことはありません。
 
楽山は、人の心の揺れのを止めるのは仏陀でもなければ・・と言っています。どこから仏陀が飛び出してくるのでしょう。楽山の、まるで本気でない、気安さが表れています。結局、反キリストの楽山にとって、神も仏も、笑って済ませるような、オモチャに過ぎないということでしょう。
 
最後は、楽山が、楽山に、礼を言っている場面ですが、恥ずかしくないのでしょうか、詭弁だらけの自己主張~妄想。自己顕示欲はあっても、罪悪感も羞恥心もないことが表れています。
 
 
 楽山の偽善性・・再録+αです。
 
平気で嘘を吐く。様々な詭弁を弄して、柔和に見せかける。
後悔、反省、修正ができない。学習による成長がない。
理路が常識的にも浅く、破綻しがちであることに気づかない。
相手の意見を受け取っていないので、反論、弁明が全く出来ない。
基本的に訂正不能である。自己愛性人格障害と思う。
特に批判に対して不感不応なのは、理路が理解できないからだろう。
 
楽山本人は、ブログのタイトルに、LDと書いている。学習障害 learning disability のことであろうかと思ったが、ブログサーバー livedoor のことのようです。障害の自覚はないということでしょう。実際は、様々の症状を呈する自己愛性人格障害からの学習障害だと思います。
 
障害の自覚に、全く不釣り合いな満悦感から、厚かましく、学者・批評家・読書家・インテリを気取って、分かっているという我執から離れられないようです。
 
深い情感がなく、共感性がない。
後悔することがなく、罪悪感、羞恥心がない。
世辞と社交以上の、議論や交流が、できないし、する気がない。
 
ボンヤリ言語:曖昧で婉曲的な言い方をして印象だけでも刷り込もうとする。
ボンヤリ言語の、曖昧な筆致でごまかしながら、書き続けて、書き続けて、偏見を刷り込む。
 
トホホ言語:謙虚で弱いと思わせて悪意を隠すための嘘の反省言葉。やさしさ芝居。柔和芝居。
トホホ言語と芝居で、謙虚を装いながら、好感を誘い、好感を得るだろうと、自己満悦する。
 
アドラー心理学の宣伝をしていたが、それが抜けずに、自己中が表れてくる。
HSを脱会したと言っているが、真実かどうか、あるいは、元信者かどうかも、疑わしい。
 
反キリストである。聖書およびキリスト信仰を、貶めてくる。
聖書を字面だけで読んで、または、本の中の引用で、理解したと思い込んでいる。
成長がなく、幼稚な疑問のまま、止まっている。
聖書や、他の文章も、心で受け取る、ということがない。
文章の、心無い字面(じづら)の皮相を、いつも、こすっているだけ。
 
霊能者のつもりだが、それに見合う直観的洞察は皆無である。
 
 
対話形式とか、記事の体裁を変えても無駄だと思います。責任を持って堂々と自分の意見を言うことが出来ない者ほど、凝ったつもりの、実際は、とても臭い芝居を用意するのでしょう。
 
楽山の書いたものを読むのは止めたほうがいいと思います。嘘と詭弁だけは年季が入っているからです。理路を、ある程度、批判的に読めるのでないと、なんとなく、そうか・・などと受け取りやすい書き方をしてきます。そこに、楽山は、あぐらをかいてきたのでしょう。
 
※ 
既に、ある程度、そろってきて、資料となっている "楽山の偽善性" については、今後も楽山の記事によっては加筆修正して、再録することになるでしょう。
 
 
訂正不能の自己顕示

訂正不能の自己顕示
 
 
(2020年06月24日)
(2021年06月25日、再録+)
 
 
 
  悔い改め
 
キリストの民と称して
罪を形而上の供え物とし
飼犬を神と名付けて
乞食にくれた残飯を愛と錯覚して
受難に耐えんとする信仰の下で
見逃されたものが
黴(かび)のように陰を好み
知らぬ間に はびこっていく
それゆえ暴かれると
あるいはひそかに垣間見られたときでさえ
ぞっとするほど陰惨な風景を見せ付ける
 
それに気づいた者が
今一度(ひとたび)悔い改めんとして
祈りを捧げたとしても
血の海に沈んでいくキリストをよそに
またしても
虐げられたと十字架をかかげ
憎しみにさえ旗を
そして旗は なびく 旗を呼んでくるのだ
 
 
  不信仰告白
     (キリスト以外の
      神を知らない)
 
私は一本の髪の毛を
恐る恐る
火にかざしてみるのだ
 
 誰が神を
 神と名付けたか
 誰がやさしい父を呼ぶように
 神を呼んだか
 流された夥しい血を
 皿の上の相づちで受けながら
 誰が気安く許される
 罪を認めたのか
 
私は生きるのに向かない
私は宗教に向かない
私は神の国に向かない
私は神を知らない
私は主に仕える水の泡である
 
 
(90年代か)
 
 
 
 楽山のツイッターですが
 
心機一転★こも楽山
@komo266
そんなことができるってことは、自己陶酔、ナルシスっぷりは、ジャイアンを軽く超えとる(笑
午後8:15 · 2021年6月23日·Twitter Web App
 
OR批判のようですが、楽山は、相変わらず、他者を笑うことが生き甲斐のようです。笑止と言うべき自分を見ることだけは出来ない楽山です。つまり、病識も自覚もない楽山です。楽山こそが「自己陶酔、ナルシスっぷり」を表しているのです。
 
 
 
(古い記事は載っていません)
 
http://st5402jp.livedoor.blog/
(古い記事もインポート済み)
 
ツイッター:
(ここは、ブログ記事をリンク・抜粋)
 
 
ブログ村ランキングリング:INポイントが付かない。
にほんブログ村 ポエムブログ 暗い詩へ(文字をクリック)]
にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ(文字をクリック)]
 
ブログランキング
 
 
 

 
  楽山の独り芝居(2)2
 
 神についての対話 2 
 楽山日記(LD) 2020年06月21日
  を改めて批判。
 
 
楽山が悪意の人であることが表れています。信仰が分からないから、信仰について、文句が言いたいのでしょう。そして、終わりに、小説から、ふざけたことを言って、神を笑う気持ち悪さなのです。
 
努力している信仰者も非信仰者も、たくさんいるでしょうに、楽山は、反キリストとして、霊が分かるっぽい特別の地位を欲して主張しているのだろうと思います。
 
神を崩れた理屈に納めたつもりの楽山が、決めつけはよくないと書いても、何の説得力もないのです。楽山の、自己愛こそ、自己中こそ、無反省こそ、楽山が決めつけた自分信仰です。
 
楽山は、対話形式にして、工夫をしたつもりで、ますます、演技的になってる、芝居がかってる、わざとらしい、などと思われることを予想しなかったのでしょうか。
 
自分に酔う者は、芝居の度合いを増すことで、ますます、いい気になり、観客つまり読者がどう思うかが分からなくなるようです。まさに、自己顕示欲が、自らを滅ぼしてゆく楽山の独り芝居です。
 
*神のイメージの幅
若者 「えぇっと、ちょっと待ってください。いま、お話を聞きながら、妙なことを考えてしまったのですが…」
老人 「妙なこと? どんなことだい?」
若者 「い、いえ、やっぱりいいです。すごくバカバカしいことなんです」
 
とても気持ちの悪い謙虚芝居です。このような対話形式でなくても、「とほほ」など、楽山は、同情を誘いたいのか、この手の作為の白々しい芝居をしてきます。舌打ちをして耐えるしかありません。
 
老人 「ひらめきや思い付きには、あまり自己検閲をかけすぎない方がいいと思うよ」
若者 「そうですか。では言いますけど、あなたの意見は、人には神のことは分からないのだから、『神は~である』とは断言できないし、『神が××であるなら~だろう』と仮定として話すか、『私には神は~と思える』と感想を話すくらいしかできず、誰かが抱く神のイメージについて確信をもって正しいとも、間違っているとも言えないということですよね」
老人 「そうだ。他人が抱いている神のイメージについては、共感したりしなかったりはできるが、どういうイメージが正解であるかは分からないのだから、正しいとか、間違っているとかは言えない」
若者 「そこで僕は思ったのです。それでは、もし『神は残酷であり、邪悪である』というイメージを語る人がいても、それを否定できないのではありませんか? これはおかしくありませんか?」
老人 「神は残酷だということについては、私の記憶では、たしか、スティーヴン・キングの『デスぺレーション』にそういう表現があったね。主人公の少年は、親友が交通事故で意識不明の重体になったことを切っ掛けにして、牧師の下に通い、信仰に目覚め、その後は多大な犠牲を払いながらも、邪悪な存在と闘い、その活動を阻止するという物語なんだ。少年は自分には邪悪な存在の活動を防ぐ使命があり、その使命を果たすために自分が霊的なことに目覚める必要があり、そのきっかけとして友人が事故に遭うことが計画されていたことに気づき、神は残酷だと呟いていた。運命論的な考え方、すべては神の摂理によって支配されているという考え方からゆけば、悲劇は神によって予定されていたことになるわけだし、そういう感想を持つのは致し方ない面はあるだろうし、そこに真理は少しも含まれていないということはないだろうな」
 
「『神は残酷であり、邪悪である』というイメージを語る人」・・これこそ、楽山なのです。自分で若者に疑問を言わせ、自分で老人に説明をさせています。条件法で、神を語る楽山は、同じやり方の詭弁でしか答えることが出来ません。神は、条件の対象にはなりません。神は、信じ仰ぐ対象です。
 
本当に、楽山は、神が嫌いで信じないのなら、何も書かなければよいのに、・・ならば・・、という言い方の対象に、神をおとしめて、摂理の使命・・的な話のネタにしています。何処にも、糧になるものがないのが、楽山の、捏造フィクションの、それこそ、運命なのです。
 
楽山のように、神を、登場人物として、自身の貧弱な辻褄合わせで語れると思う者は、神について、キリストについて、人についても、何か良きものを、感じることも、ひとかけらも、受け取ることはないでしょう。
 
「真理は少しも含まれていないということはないだろうな」・・楽山の、二重否定です。大事なところで、確証がないのか、ごまかしたいのか、曖昧な表現が表れます。とても気色の悪い婉曲表現、ボンヤリ言語です。
 
こういう人と遣り取りすると、絶望的な疲労を受け取ることになると知ったので、私は、批判記事だけにして、コメントの遣り取りをやめました。長々と、愚にもつかぬ表面的な理屈、即ち、屁理屈を並べて、疲労させてゆくのが、実感というものを持ち得ない楽山の手口なのです。
 
楽山の書く思い付きの文章の邪悪さは、神を否定しながら、他に、救いも、救いにつながるヒントも書けないことにあります。自己愛が強いからでしょう。文句だけ言って、責任を負わない楽山は、他者も、自分の言ったことさえも、気にしない体質なのです。
 
信仰者は、いかなる悲劇があっても、キリストの愛を忘れることの出来ない人間です。臆病や疑いのために、キリストのもとを離れる人もいるでしょう。また戻ってくる人もいるでしょう。信仰は、一度で決定することではなく、正直でありうるなら、神の愛の寛容によって、いつでも、やり直せるのです。
 
信仰は洗礼を受ければ後は心配ないという信仰ではなく、様々な疑惑という経緯があって離れても、主のもとに帰る道があります。ゆえに、少なくとも、楽山のような者の意見を真に受けるよりは、はるかにマシだと言えます。楽山は、無益な言葉によって他者の人格を破壊する方向だけなのです。
 
キリスト信仰は、境地の固定ではなく、成長するための道です。楽山は、同じような非生産的なことを繰り返して、言い得たと思うわけですから、成長できない、そして、成長しないでいいと思っているようです。これは、人間の思想ではありません。
 
そういう腐敗に腐敗を重ねるような人生は、楽山やシャロームなどの限られた厚顔無恥の異常者にとどめるために、私は書いています。彼らに、誰も、近づかないでください。
 
若者 「神は邪悪であるというイメージについてはどうですか」
老人 「『神は善であろう』と仮定すれば、神のイメージは善から外れるものは認められないことになるけれども、『神はすべてであろう』としたらそのイメージは必ずしも善に限定さなければならないというわけではなくなるだろうね。『神は善悪を超越しているだろう』としても、そのイメージは善に限定されるものではなくなる」
 
楽山の言い分は、自分が正しい、自分は視野が広い、という方向で説明が付きます。限定されない神のイメージを、楽山の、字面の善と悪と善悪、という言葉で書いては何も言いえたことにはなりません。"善悪を超越" という言葉を安易に使う楽山は、何も分からないまま、反キリストの策略を弄しています。
 
人は、神の正しさが分かるから信仰者になるのではありません。それも、私のブログに書いてきました。信仰は、神の義と善に従うためにあるのではありません。それは、人間には出来ないのです。
 
不完全で罪深い人間が、神に対して出来るのは、祈りにおいて、精いっぱい正直であることだけです。それが、信仰なのです。神は、人間に完全な義のないことを承知の上で、正直だけで、信仰の義を与える御方です。人間の側からは、そうとしか、神について考えようがないのです。
 
楽山は、都合の悪いことは無視して、自己顕示欲を小細工で論理的に見せかけて、自身をインテリっぽく見せかけるために、中庸みたいなことを、前から書いていますが、実際は、通念的字面に終始して、何も言えなくなる虚無へ誘っているだけの悪魔性です。
 
楽山は、信仰の救いについて、体験がないために、何も理解していません。さらに、分からないのだからという謙虚さもないために、書くことを控えることもせず、反キリストらしく、無秩序に、いちゃもんをつけてきます。
 
楽山は、自らの混乱を伝染しようとしているだけです。恐らく、よほど、お仲間以外の、誰からも相手にされなかったのだろうと思います。
 
若者 「神は善であると言い切れないのだとすると、なんだか辛いですね。僕はやっぱり神は善だと信じたいです」
老人 「宗教のなかには、神のことを善神と悪神に分けているものもある。住民に虐殺命令を下したり、さほどの落ち度もない人物を不幸のどん底に突き落としてその反応を見てみようという悪魔の提案を受け入れる神もいる。また世界の神話には、現代的視点から見たら、とても善なる存在とは思えぬ神々が描かれている。神は善であるとは限らないという考え方は、そう珍しいものではないよ」
若者 「うーん、確かにそうですね」
 
「神は善であると言い切れない」・・ひどい虚言~妄想です。人は神の絶対の善を知りえないし行なえないということです。
「神のことを善神と悪神に分けている」・・それは、キリスト信仰とは何の関係もありません。悪魔のことなら、それを、神とは呼びません。
 
神の与える救いは、地上と御国を含んでいるので、楽山のように、現世が不服で、神に文句を言って、神を否定するのは、自己中の極みでしょう。キリスト信仰は、分からないことをも、神にお任せする信仰です。とても冗長で、疲労しか与えない楽山の独り芝居とは違うのです。
 
楽山は、まるで、聖書の話を、これをやったから神はおかしい、という、けなし方ですが、神を机上の対象にしている時点で、分からない楽山の不感が明らかになりますから、そこで既にアウトなのです。神を仰ぐのではなく、神を頭の中に作って云々しているのが楽山です。
 
楽山が言ったことに、「うーん、確かにそうですね」と、楽山が答える。笑止のインチキ芝居の自己顕示であります。時と場合を弁えない楽山、自分が何をしているか分からずにいるのです、という、聖句を思い出します。
 
私は、楽山のボンヤリ言語で、楽山のようなボンヤリ人間が増えるのを、できる範囲で防ぎたいと、切に願っています。それこそ、悪魔のように、訂正不能に何度も屁理屈をこねてくる楽山に、決して、近づかないでください。
 
楽山は、人間らしい活性と生産性がないために、同じことを言ってくるのです。問答形式にしたところで無駄なのです。中身は、知らない世界にまで、知ったことにしないと気の済まない病的ナルシストの常習的な醜い生業です。
 
老人 「善悪の基準は、時代、地域などによって変化するものだ。だから古代人が善なる神をイメージしたとしても、それは現代人からみればとても善とは思えず、理解不能なものになることもありえる。今きみが精一杯に善なる神をイメージしたとしても、それは未来の人々と共有できる善なる神とは限らないし、どちらかといえば理解されない可能性の方が高いのではないだろうか」
若者 「そうかもしれません」
 
人は、精いっぱい善なる神をイメージして信じるのではありません。上のほうにも書いたように、神の正しさは、不可知の神の、不可知の善として、人は、祈りにおいて、反省し、黙想し、告白するのが信仰です。それ以上は、人には出来ません。それが絶対孤独にはなかった信仰の道を歩むことです。
 
楽山の、信仰についての勘違いは、殆ど妄想化しているので、交流や議論は無意味であり、批判をせざるを得ないのです。この妄想的確信ゆえに、楽山は、感受と気づきをもって信仰を理解することができないのです。
 
また、それゆえに、楽山は、自身が信仰を理解できないものだから、手段を選ばず自分を高めたくて、手段を選ばず敵意を表してきます。対話形式だから、分かりやすくなるような要素は、楽山の主張にはありません。姑息な楽山の苦し紛れです。
 
老人 「そうであれば、きみが神は善であると考え、イメージしたとしても、それはあくまで個人的なイメージにすぎず、それに賛同しない人が現れて、『この若者は、到底、善とは思えぬ邪悪な存在を神だとしている。これは神に対する冒涜だ!』と噛みついてくることもあるかもしれない」
若者 「世の中には、いろいろな人がいますからね。まさかとは思いますが、ひょっとすると、そんなことも起こり得るかもしれません。少なくとも絶対ないとは言い切れないですね」
老人 「人には、絶対なんてことは言えないからね」
 
楽山は、結局、楽山の言うような、幼稚で、無反省で、無責任で、乱暴で、訂正不能の、反キリスト思想を、自己正当化し、自画自賛して、馬脚をあらわしているだけなのです。人間の原罪による不完全性から赦されて救われることではなく、どこまでも、自己正当化妄想を語っているだけです。
 
神の善は、地上では、人のものとはならないことを、人は判断しているに過ぎないことを弁えるべきことも、私は書いてきました。しかし、楽山の言は、おとしめるためだけに、キリスト教を信じるとこうなりますよ的なことを捏造しながら書いてくる裏の闇の印象操作です。
 
「絶対ないとは言い切れない」、これは、だから注意するべきだ、という意味ですが、楽山は、自身の文章と思想に溢れている偽りに、全く、意を注がず、こちらに向けてきます。そういう人が、言っている、ということを忘れないでください。
 
楽山は、キリスト信仰への、いちゃもんを否定されることを、迫害であるかのように言って、真実の殉教者であるかのような書き方をしています。ならば、楽山は、生まれて今まで、全部、嘘の、悪魔性、・・絶対ないとは言い切れない、ということになるでしょう。
 
*宗教批判について 
若者 「これまでお話をうかがって、前よりずっと、あなたの考えを理解できてきたように思います」
老人 「それはよかった」
若者 「でも、あの……」
老人 「どうしたんだい?」
若者 「すいません。また疑問がわいてきてしまったんです」
老人 「どんな疑問かな?」
若者 「ええっと、ですね…あなたの考え方は、神は不可知であって、人には分からないものだということでしたね」
老人 「そうだ」
若者 「だから、人には『神は~である』と断定的には言えないと」
老人 「そうだ」
若者 「神について語るときは、『神は××とすると、~であろう』と限定的に言うか、『私には神は~と感じられる』というように感想を言うくらいしかできないと」
老人 「そうだ」
若者 「神については確かなことは知り得ないのだから、他の人が語る神について、それがどういうものであっても、それについて正しいとも、間違っているとも断言できないとも」
老人 「そうだ」
 
楽山の卑怯さが全開です。神について、楽山が好きなように言うのを、正しいとも間違っているとも言うな!・・と言いたいようです。ですから、言います。楽山は、邪悪で、間違っています。否定される宗教思想は、このまま、多くの人が信じたら、社会悪に結ぶ付くもの、まさに楽山です。
 
楽山の、自己中、無反省、無視、訂正不能、虚言、無理解、などの体質は、明らかに当てはまります。宗教を、自己愛や自己中で語れないことは明らかであり、反省しなければ、いつか、犯罪に結びつく恐れが大であるからです。野放しにして、宣伝させてはいけません。
 
楽山は、明らかに間違っているのです。しかも、故意なのです。ゆえに、反キリストなのです。違法行為がないと逮捕は出来ませんが、批判は、言論の自由だから、いつでも出来るのです。その批判に対して、見苦しい愚痴と嘘と詭弁を返してくるだけなのが楽山なのです。
 
若者 「そこで一つ疑問があるのです。あなたの考え方からゆくと、間違った宗教を批判することはできなくなるのではありませんか。世界には、反社会的なカルト宗教というものがあります。神を自称する教祖もいます。人には神のことは分からなず、他の人が語る神について断固否定することはできないのだとすると、そのようなカルト宗教や教祖を批判することはできなくなってしまうのではありませんか。これはおかしいです」
老人 「たしかに、きみの言う通りだ。でもそれは宗教的な見地からは有効な批判はできないというだけのことで、他の面からはいくらでも批判はできるんだよ」
若者 「はあ…、それはどういうことですか」
老人 「人には神について確かなことは分からないのだから、カルト教団が語る神について、それは正しいとも、間違っているとも断言できないし、その教祖が神であるかどうかも確実なことは言えないけれども、その教団および教祖が、違法行為や人権侵害行為をしているならばそれを指摘することは可能だ。教祖の言行不一致や奇行についても指摘できる。教義に論理的矛盾があればそれも指摘できる」
 
楽山は、カルトの定義を、違法行為の有無だと言いました。今も言っています。既に、私は、それに対して、カルトは、犯罪に及ぶ前日はカルトではないのか、と書きました。
 
上のことは、カルトの定義ではなく、逮捕できるかどうかの基準に過ぎません。特にネットの時代においては、カルトを早期に発見して、何よりも批判をすることが必要だとも書きました。
 
まさに、訂正不能と無反省と無視を貫いて自己中と不整な自説を広めようとしている楽山は、カルトと同質の批判対象なのです。矛盾がどうこう以前に、何も整っていないのです。
 
しかも、結果としてではなく、故意なのです。都合の悪いことを総て無視して、同じことを、手を変え品を変えて、今回は、独り言で恐ろしく長い対話を捏造して、また、言ってくるのです。
 
若者 「つまり宗教的な見地からは確実なことは言えないとしても、人権、法律、道徳、倫理、論理などの見地からは意見が言えるということですか」
老人 「そうだ。しかしその宗教において、神は、人権、法律、道徳、倫理、論理などは超越し、何らの束縛もうけないとしており、信者たちがそれを信じているならば、それらに基づく批判はさほど有効なものではなくなるだろう」
若者 「うーん。そういう宗教や教祖が間違っていることを証明するのは無理なんでしょうか。それができないなんて納得できないし、すごく悔しいです」
老人 「それをするためには、神とは何かという問題を解決しなければならないし、それができない以上は、どうにも仕方ないことだね」
若者 「そうですか…」
 
神とは何かという問題を解決しなければと言っています。神とは何か、分かるなら、その神?は、人知を超えた神ではなく、信仰にもなりえないと思います。宗教の基本的な見方が、楽山には出来ていないようで、とても、幼稚です。
 
楽山の扱い方で、神とは何か、分かると言うなら、それは、楽山の、真っ赤な嘘です。いちばん信仰に大切なことが、自己愛・自己中ゆえに、楽山は分からないまま、いちゃもんだけを言っています。あたかも、議論しているかのような小細工を弄して。
 
独り芝居の楽山は、問うたつもりで、主張しており、不可知と言いながら、ならば、解決しなければと言い、かつ、「どうにも仕方ない」 と言う始末です。
 
*到底、神とは思えない神
老人 「タイトルは失念したが、ずいぶん前に、酒場に入りびたる天使が出てくる小説を読んだことがあるよ」
若者 「天使が酒場に入りびたってるんですか?」
老人 「そうだよ。小説の主人公のところに、ある人物が訪ねてきて、自分は天使だというんだ。でもその人物は酒場に出入りしていて、とても天使には見えない。だから主人公は、『酒場に入りびたる天使なんかいるわけがない。あいつが天使であるはずがない。でももし本当に天使であったとしたら、それを信じなかった自分はいったいどうなるんだ? 不信仰の罪を犯すことになるのか?』と悩むんだ」
若者 「結末はどうなるんですか」
老人 「主人公は、信じることを選択するんだよ。そして実際、その者は本当に天使だったんだ」
若者 「酒場の天使ですか…どうにもイメージできません」
老人 「私もきみと同じだよ。でも神は全能であり、なんにでもなることができるとしたら、酒場で泥酔している姿で現れないとも限らないだろう。それだったら神が何らかの目的をもって、カルト教祖として現れないとも限らないだろう。場合によっては、空飛ぶスパゲッティモンスターとして現れることもあるかもしれない」
若者 「ははは。それは冗談でしょう。もし冗談でなければ、いくら何でも極論過ぎてついていけません(苦笑)」
老人 「まあ、なんにしろ、神とは何であるかは分からないのだから、神はこうである、こうであるはずだという風に、決めつけるのは止めた方がいいだろうね。せいぜい自分には神はこうであると思われるという程度にしておいた方がいい」
 
フィクションである小説に出てきた神?を、真顔で、神の前提として話を進めている楽山の詭弁に気づいてほしいと思います。「(苦笑)」は、その軽さを表しているのです。
 
酒場で泥酔、カルト教祖、空飛ぶスパゲッティモンスター、という神、・・これは、明らかに、楽山の悪意による侮辱です。酒びたりの天使の、宗教的発言・行為を書かず、酒びたりというイメージだけで、あざ笑いの対象としています。これも詭弁でしょう。
 
そして、「なんにしろ、神とは何であるかは分からないのだから、神はこうである、こうであるはずだという風に、決めつけるのは止めた方がいい」と言っています。
 
聖書に表された神は、全知全能・絶対完全・永遠不変という人間の手に負えない御方です。キリストは、人に共感する救い主です。ゆえに、キリスト・イエスを、神と人の間の仲保者という言い方もあります。
 
聖書についても信仰についても短絡した意見しか持ちえない楽山は、その一方的な思想から、神を、雲か霞のような、薄ぼんやりとした存在感のないものという印象を吹き込みたいようです。楽山は、固定観念で云々しますが、神とキリストは、人が固定できる存在ではないのです。
 
楽山にとって、神という存在は、ボンヤリした存在に過ぎないのでしょう。そこが、字面だけで考える楽山の宗教観の限界であり、即ち、神について語る心の資質を、楽山は持っていないということことが、楽山によって、示されているのです。
 
にもかかわらず、神を、机上で決めつけて、神がいるならなぜ悪があるのか、などと、けなしてきたのは、楽山であります。つまり、楽山は、神を、楽山の字面だけの理屈の中に決めつけてきたのです。
 
私は、何度も、神とその意志と行為を決めつけてはいけない、と書いてきました。決めつけないことが、私の書く信仰観の中心の一つだからです。
 
そういうこちらの言い分を、無視するのが、楽山という先入観の形骸のような人です。それは、読書にも表れてきました。学者や評論家と肩を並べるかのように、都合の良いところだけ引用して、自身の軽率で拙劣な理路の中に置いて利用し満悦するのが楽山です。
 
今回も、ふざけて、満悦し、神を、高みから見下ろして、神を冗談のネタにして笑う楽山です。まさに、楽山が、今、野放しになっていることが、神様どうしてですか、という祈りにつながると言えるでしょう。
 
楽山の独り芝居の詭弁と悪意に対しては、私が書けるあいだ、改めて批判を書いて、何度でも投稿してゆくしかありません。楽山は、反キリストと偽善者の典型です。
 
 
ぬめるあぶら

ぬめるあぶら(滑る油)
 
 
(2020年06月23日)
(2021年06月24日、再録+加筆)
 
 
 
  今日の穴
 
今日の野原には
幾つもの穴が空いていて
何かのバイパスのようでもあるが
広くて滑りやすい入口からは
思いのほか真っ直ぐで
 
公園で砂を崩す子供が
 
ほつれを千切った縫い目の糸を追いかけて
青年の初めて着た背広姿が
 
いつも歩く散歩道の一歩一歩
死を弄(もてあそ)べる老人が
 
落ちたら戻れそうにないのに
なぜか幾度も幾度も滑り込んでゆく
 
さらに滑り込んだ先が
儀式の形骸であるのか
冒険であるのかさえ垣間見る前に
もう明日の人になってしまって
 
深遠に立つことも沈むことも出来ないまま
仕方なく虚無が生まれては打ち消される
 
(90年代か)
 
 
 
※ 今日の大谷は空振りがすごかった。(23日)
(・・上とは無関係です。)
 
 
 
(古い記事は載っていません)
 
http://st5402jp.livedoor.blog/
(古い記事もインポート済み)
 
ツイッター:
(ここは、ブログ記事をリンク・抜粋)
 
 
ブログ村ランキングリング:INポイントが付かない。
にほんブログ村 ポエムブログ 暗い詩へ(文字をクリック)]
にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ(文字をクリック)]
 
ブログランキング
 
 
 

 
  楽山の独り芝居(1)2
 
 神についての対話 1
 2020年06月21日 楽山日記
 を改めて批判。
 
 
楽山が、もろに攻撃を仕掛けています。それも、仮想のコメントの遣り取りを捏造しての話です。ここで、楽山は、コメント者として、自分に好意的で、尊敬してくれるような人物を想定していますが、楽山自身でしょう。つまり楽山の独り芝居が、また、今回は対話形式で始まったということです。
 
異常者は、懲りるということがなく、どこまでも、真実から目を背けて、だましてくるのです。罪悪感も羞恥心もなく、ただ、攻撃意欲だけが働いています。人間にも悪魔性に囚われる者がいるという宿命でしょうか。批判に答えられない者が、嫌がらせだけをしてきます。
 
もし、これが、どこかで交わされたコメントの遣り取りであれば、組織がある、同調して無条件に褒めてくれる仲間がいる、ということの証拠になるでしょう。既に、だまされた人たちが、そばにいるのでしょうか。
 
芝居仕立ての、楽山の詭弁を見てゆきます。
 
*まえおき
 最近は、本の感想を書くことが多かったが、たまには趣向を変えて対話篇というかたちで書いてみたい。
*はじまり(若者と老人の対話)
若者 「こんにちは」
老人 「こんにちは。ひさしぶりだね」
若者 「はい。先日はブログを読ませていただきました。おもしろかったです」
老人 「ありがとう」
若者 「でも申し訳ありませんが、正直な感想をいうと、どうしても同意しかねるというか、疑問に思えるところがありました。もっともこれは、僕の誤読のせいかもしれませんが…」 
老人 「なるほど(微笑)」
若者 「あれ? お怒りにならないんですか?」
老人 「そうだね。人はそれぞれ違った意見を持っているのが当たり前なのだから、私の意見に同意しないからといって別に腹を立てることはないさ」
若者 「そういうものですか」
老人 「そうだよ。それに巷には、相手の意見を誤解したまま、正確に理解しようともせず、ああだこうだ言う人は少なくないし、ひどいのになると相手の意見を聞くより先に、『あいつの言うことはなんでも否定してやれ!』と前もって決め込んでいる輩もいる。それからしたら、きみのように、あれこれ言う前に、自分の誤読の可能性を考えたりして慎重な態度をみせてくれるのは、とてもありがたいことだ」
 
ここの最後の老人の言葉に、楽山の言い分が書いてあります。楽山は「ひどいのになると相手の意見を聞くより先に、『あいつの言うことはなんでも否定してやれ!』と前もって決め込んでいる輩もいる。」というのは、私に当てつけています。
 
極めて初歩的な、人間なら分かるはずの誤解も、自己愛絶対のために曲解して、中身云々よりも的外れの自説を言い続けてきたのは、楽山その人であります。
 
それと、当たり前のことですが、私は、前もって決め込んだりはしません。この記事もそうですが、私は、楽山の記事に反応して、そのたびに病的な作為だと感じて、批判記事を書いています。
 
自分の誤読の可能性を、全く考えず、にもかかわらず、批判に、反論も弁明も出来ないのは、楽山です。このような、意地の悪い当てつけだけを向けてきます。
 
お仲間以外、誰も褒めてくれないから、自分で自分を褒める訪問者の芝居をしているのでしょう。殆ど児戯に等しい楽山の学芸会なのです。
 
ここまで崩れるほどに、高慢を守ろうとするカルト的思想の思い込みは、人間を、そして自身をも、破壊してゆきます。
 
*神のことは分からない
若者 「そう言って頂けると、とても話がしやすくなります。ありがとうございます」
老人 「どういたしまして。それで疑問に思ったところというのは、どの部分についてなんだい」
若者 「神についてです。あなたは神についていろいろ書かれていますが、僕にはどうもあなたの真意がどの辺りにあるのかが分からないのです。あなたは一体、神とは何だと考えているのですか」
老人 「……」
若者 「どうしました?」
老人 「どうって質問にこたえたんだよ」
若者 「こたえた? 口を閉じたまま、何も話さなかったじゃないですか」
老人 「私は、神とは不可知であると思っているんだ。人には神のことは分からないとね。だから私には、神とは何かと問われれば、沈黙でこたえる以外にはこたえようがないんだ」
 
楽山の意図は、反キリストであり、神とは何かについて答えがないから、信ずるに値しないという言い分のようです。楽山のような自己愛だけの偽善者に、神の御心など部分的にも触れることはないでしょう。信仰を求める心ではなく、我欲が中心だからです。
 
神の沈黙は、神が、いちいち、ここはこうしなさいと教えてくれるわけではないという意味です。当たり前です。しかしながら、聖書から、人に比べて、創造主である神の大いなること、救い主キリストの共感性と愛に触れている人が信仰者になっています。
 
神は、不可知であり、基本的に、沈黙の神であることは、人間が、神に対して思い上がらないために必要であり、そういう神でなければ、人を救うことは出来ないだろうくらいは、推測するわけです。全知全能・絶対完全・永遠不変を、人は、知っているとは言えない、ということです。
 
しかしながら、楽山は、私が言ったことさえ利用して、分からないなら信じられないと、ここで、自己中心を正当化を書いています。今まで、キリスト信仰を、好きなようにおとしめてきて、こういうことを書くのは、楽山の底意地の悪い狡猾さを表すだけで、真に受けることなど出来ません。
 
実際、反省も、修正も、したことはなく、正しいだろ、と見せびらかしている自己顕示欲の臭さだけが漂ってくるのです。楽山に、謙虚な姿勢などありません。
 
謙虚な人であれば、もうとっくに、それまで書いてきたことを否定して反省の言を表しているはずだからです。楽山は、物事の必然というものが全く分かっていないために、そらとぼけて書いて、これで良し、と思ってしまうのでしょう。
 
独り芝居の独り納得、という、真実とは真逆のもの、楽山が何か書くたびに、それだけが明らかになってきたのです。これからも同じだろうと思います。決して近づいてはいけない人です。
 
*神について語ろうとするとき
若者 「なるほど。神とは人知では知り得ないと考えているんですね。でもそのわりには、神についてたくさん書いているようですが…」
老人 「よく読んでもらえれば分かってもらえるだろうけれど、私が神について意見を言おうとするときは、大概は、一つの仮定として書いているつもりだ。『もし神が超越的な存在であるなら××だろう』とか、『もし神が全知全能であれば〇〇であろう』という風にね。または『◇◇教では神は△△としているが、これから考えるなら~だろう』とかね」
 
楽山の自己正当化は成り立ちません。条件をあげ、それに合わないからと神を否定してきたのが、楽山ですが、そのような理屈で、神を規定することは出来ません。さらに、その条件は、実に、楽山の欲望を満たす幼稚なものでしかなかったのです。
 
キリスト者は、いかなる字面の矛盾も疑問も、キリストに与えられた癒やしを否定できないことを知っています。楽山は、恐らく、愛も共感も経験していないと思います。だから楽山が執着するのは、超常的な "霊" そして幼稚な小理屈の字面に過ぎないのです。信仰とは何の関係もありません。
 
つまり、とても、低次元で、神を対象として、神と取引をしている態度なのです。このことは、前にも書きましたが、楽山は、不都合を、ことごとく無視して、徒労と疲労だけを与えてきます。
 
ゆえに、悪だくみの知恵だけで、話を進めてくる楽山には、誰も近づいてはいけないと言ってきました。今回も、そのような、詭弁だらけの、反キリストが、醜さを全開にして、あがいているに過ぎません。
 
若者 「そう言われてみればそうですね。他にはありますか」
老人 「『自分には神とは××と感じられる』という言い方をすることはあるね。いわば先の語り方は神について理性的に語ろうという試みだが、こちらは感覚的に語ろうという試みと言える。後者については人はそれぞれ感性は異なるものだから、私とは異なる感性の持ち主であれば、当然に私とは異なる感想を持つだろうな」
 
「そうですね」と、芝居で言わせて、刷り込もうとしてくる楽山の悪意は、底知れないものがあります。楽山が言い、楽山が肯定している文章に、いったい何の価値があると言うのでしょう。
 
楽山は、一見、論理的なことを書いているように見せかけます。しかし、実際は、論理というものにも心が関わっていることを知りません。恐らく、こういう人は、人殺しが悪いという証明は誰にもできない・・みたいなことを言う人と同様なのでしょう。人間としての直感がないのです。
 
字面の理屈だけで物を言う、物が言える、と思っている勘違いの、恐ろしい表れを、楽山に見ることが出来ます。楽山の理屈は、いたるところで、壊れています。一方、楽山の書くことには、感動を与える要素が何もありません。共感がないからです。
 
それゆえ、今、共感し賛同する相手を仮想し捏造している、という悲惨な自慰の末路を辿っているのです。繰り返し、繰り返し、自らの理屈を、こすっては、自分だけで納得し満悦する楽山です。
 
若者 「ということは、あなたが神について語っている時は、『神は~である』というのではなくて、『神は××であるとすれば~である』『自分には神は~と感じられる」というように、仮定の話だったり、実感についての話だったりするということですね」
老人 「その通り。神は多義的であり、多面的でもあろうし、そう簡単には定義できないものだ。強いてそれをしようとするなら、神とは人には分からないものだとするくらいしかできないのではないかな」
 
条件や仮定など、楽山の理屈で、神を語ろうとすれば、すべて、的外れになるでしょう。このような堂々巡りのような、洞察力と直感力を欠いた、寸足らずの言い分に、惑わされないようにしてほしいと思います。・・ならば、・・、などという言い方で、神を表すことは出来ません。
 
神が分からないなら多義的かどうかも分からないはずです。楽山の視野は、楽山が語れば語るほど、狭くなってゆくようです。言い逃れできないところを、字面の理屈で埋めようとするからです。
 
信仰者でない楽山が、神について、信仰について、実感のある話など出来ないはずです。つまり、そのような当然の謙虚さすらも弁え得ないところに、楽山の病巣があるのです。
 
若者 「はい」
老人 「だから神については、『神とは~である』と断定的には語れず、『神が××なら、~であろう』『自分には神は~と思われる』という程度のことをしか言えない。そしてこの場合、誰かが『いや、自分には神は~ではなく、××と思える』と主張するなら、『それは違う』とは言えず、『ああそうですか。あなたはそのように感じ、考えるのですね』と応じる他ないんだ。神とは何であるか確かなことは分からないのだから、そうならざるを得ない」
 
この楽山の話には、暫定的であっても、正当性を、つまり真実を、追及する意志が欠けています。この楽山に従っていると、どこまでも、真実について結論が出ないということを、楽山自身が証明しているのです。
 
楽山は「あなたはそのように感じ、考えるのですね』と応じる他ない」と書いていますが、楽山は、実に、そういう考え方で、短絡して、あれも言えない、これも言えない、と考えて、ついには、賛成も反対も、はっきり言えなくなって、そこで、固定しているのです。
 
だから、楽山は、聞いても、どうにもならないような、無責任なことしか言えなくなっています。人の言うことも、聖書の言葉も、真っ当に受け取れず、真実もまた、受け取れなくなって、無視するようになって、結局、楽山は、曖昧で、何の役にも立たないようなことしか言えなくなっています。
 
語尾にこだわることが正確だと思っているようです。はっきり言って、総ての発言には、語尾に「と思う」が付いていますが、いちいち書くと文章が見づらくなるだけなので、省略されているのです。それで終わる話なのですが、字面にこだわる楽山の、神経症的な強迫観念が表れています。
 
厳密さを語っているつもりの楽山が、これまで無遠慮に語ってきたことには、偏見と妄想だけが表れており、整った理路が見られたことは一度もないのです。なんでもいい、なんでもよくない、という無為の虚構、それが、楽山の言であります。
 
さらに、楽山の文章の語尾には、曖昧な言い回しでごまかすところの、ボンヤリ言語の災いがしばしば見られるという事実を、楽山は、また、棚に上げて、無視しています。曖昧にして何も言ったことにならないで、責任を負わないのが、真実への糧になるでしょうか、全く、否であります。
 
もはや、それは、人間の言論ではないのです。受け取って、考えて、判断して、言動する、という、プロセスが、全く抜けているから、楽山は、責任を負わないのです。楽山には、言論の活性が見られません。それで、責任逃れだけを書いてきます。
 
語尾は、表現であって、人間の言うことには、「と思う」は、いつも付いています。楽山は、そこに異常に執着することが大事だとして、カチンカチンのガラクタを作り上げ、何も言えなくなっている楽山という無為を実践してきたのです。まさに、生産性がゼロなのです。
 
いわば、楽山は、反論も弁明も出来ずに、駄々を捏ねるように独り芝居を演じているのです。楽山を、理論家などと、決して思わないでください。楽山は、大事な理路から、最も遠いところをふらふら歩いている偏向した詭弁思想の持ち主です。どこまでも空回りだけし続けるでしょう。
 
若者 「ああ、今回、お話を聞けてよかったです。お陰様で、ようやく納得できました。実はあなたの語る神について、少々、違和感を覚える部分があったのですが、それはどれが正しく、どれが間違っているということではないんですね」
 
楽山は、また、「お話を聞けてよかったです」と、独り芝居のセリフを言わせて、自分で、自分に、お礼を言っています。内容が貧弱な分だけ、滑稽でしかありません。高慢な、教える姿勢が、体質なのでしょう。
 
「どれが正しく、どれが間違っているということではない」・・その判断なしに、生きてゆけるつもりでしょうか。何でもあり、に帰着する楽山は、有害なカルト思想伝道者です。そして、これこそが、ボンヤリ言語の特徴なのです。楽山は、ますます混乱してゆくでしょう。
 
善悪・正邪の判断は、誰でも、生きる上で避けられないことです。そこで、信条を固定しないことが必要なのであって、楽山のようなボンヤリ言語を受け入れてしまうと、楽山のように、何も判断できなくなり、人間性を失ってしまいます。楽山の言は、ひどい屁理屈と言っていいでしょう。
 
善悪の判断を絶対化しないことのほうが大事であり、キリスト信仰者には、正直な祈りという告白の時と所があり、反省を促されることになり、ゆえに、成長が可能になります。つまり、曖昧が正しいとする楽山には、成長がないというであり、まさに、それは、文章に表れてきたのです。
 
老人 「その通りだ。きみが神についてどのようなイメージを持っているのかは分からないが、人には『神とは~である』と断言することはできないのだから、誰かが描く神のイメージは正しく、他の誰かが描く神のイメージは間違いだということは言えないだろうね」
 
また「その通りだ」と言う台詞で、変質した自己を肯定しています。なんて、わざとらしい芝居なのでしょう。神について、聖書以上には知らなくても、神は我が主である、という告白することで、生きている多くの信仰者を、楽山は、軽口で否定しているのです。
 
私は、宗教と信仰を考えるときの一つの視点として、多くの人が信じたらどうなるか、ということを考えます。楽山は、神をイメージでとらえたつもりになり、間違いだとは言えないと言っています。このような人は、訂正不能で、無反省、無責任である分、とても危険です。
 
楽山の記事に表れてきたところの、自己愛、自己中、無反省、訂正不能、これらから生まれてくるような、いかなる思想も信条も意見も、結局、社会悪につながる要素だけを持っていると判断しています。あってはならないあり方を、楽山は、毎回、示してきたのです。
 
自己愛と自己中によって、反省せず、自分のために平気で嘘を吐くような孤独に硬直した楽山のような人が、神の名を使って、一人前のように社会参加してくるのは、恐ろしいことです。しかも、それを、キリスト信仰に絡めて来られたのでは、たまったものではないのです。
 
楽山のような人を肯定したら、ゆくゆく、広まれば、この世は、偽善者だらけとなり、何も定まらず、混乱し、地獄と化してゆくでしょう。そういう楽山だから、私は批判をしています。楽山は、まともな理路も、まともな感性も、まともな良識も、持ち合わせていない病質者です。
 
楽山は、まともに文章を組み立てることが出来ないのです。だから、近づけば近づくだけ、だまされるか、疲労するか、になってしまいます。真実の追求において、楽山は邪魔になるだけの疲労物質でしかありません。このようなことも前から書いてきました。
 
にもかかわらず、楽山は、あの手この手で、まだ、自己正当化を主張しています。病識の無い異常者だからでしょう。私は、楽山の書いてくることに、批判を当ててゆくだけです。
 
批判は、誰も楽山に関わることのないように警鐘を鳴らすためであります。楽山は、どこにでもいるような、ふつうの知ったかぶりではないのです。災いの発信元になる病原なのです。約2年間の批判を経て、楽山の底は、既に、見え透いたものになってきました。
 
楽山の放ってくる、いちゃもんについては、前から似たようなことが続いており、私は、批判してきました。今回も、楽山は、似たようなことを書いているだけです。恐らく、それこそ、こちらを疲労させるのが目的でしょう。楽山は言論者ではありません。楽山は体質的な病気です。
 
楽山が書くたびに、楽山の人間離れが明らかになりますが、憑りつかれたように、楽山は書いてくるのです。常識的判断が出来ず、流れも文脈も読めないのは、亡者と言ってよいと思います。霊能者気取りの霊が分かるっぽい楽山は、空想ホラーの世界で、独りヒーローを気取り続けるのでしょうか。
 
 
黄色い海に棲む者

黄色い海に棲む者
 
 
(2020年06月22日)
(2021年06月23日、再録+)
 
 
 
  すごい団欒
 
「じゃあ」と手を上げて
別れたあとも門の前で
頭をかきながら、うろうろしている
恋人を置き去りにして
娘は茶の間に飛び込んできた
「すっごいよかったよ」
 
「すごい」を連発している
娘の一日の話に
「すごい」を連発している
息子たちを見ながら
母さんは終始
微笑んでお茶を飲んでいた
父さんは
すごさがわからなくて当惑した
じいさんは、この家が
荒れ果てていくように思えて悲しんだ
隣の部屋に寝ていた
ひいじいさんは
ひ孫は外国語が上手になったのだと
安心して昇天していった
四世代にわたる
すごい夜の団欒である
 
 
  礼状
   「暗いのが多いんです」
   「じゃ、あたしも暗いのかな」
    と笑ってくれたある人に
 
一刹那、むき出しの
答えようのない問いに似た
恥ずかしいものを見せられて
よりかかるように、慰めの
ありもしない保証を求められたようだと
尊厳の海の中で
揺らめいていた陽光から
緩やかな海流を貫いた閃光が
冷たく結晶化した鋭い尖端で
よりかかりを切ろうとするのだが
それよりも早く
海の摂理は速やかに
剣先を包み込んで鎮め
切るまでもないと差し伸べられた光が
恥ずかしくない程度に
身を低みに下ろして
少しばかりピエロを演じて下さいました
 
 
(90年代か)
 
 
 
(古い記事は載っていません)
 
http://st5402jp.livedoor.blog/
(古い記事もインポート済み)
 
ツイッター:
(ここは、ブログ記事をリンク・抜粋)
 
 
ブログ村ランキングリング:INポイントが付かない。
にほんブログ村 ポエムブログ 暗い詩へ(文字をクリック)]
にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ(文字をクリック)]
 
ブログランキング
 
 
 

このページのトップヘ