ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

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  とほほ?・・2
 
 「第二講 ヨブの平生と彼に臨みし患難」(『ヨブ記講演』内村鑑三)
 2020年05月23日
 
 
楽山の言葉は、決して、素直に読んではいけない、というのが、今までの私の学習の経過と結果であり、今回も、その楽山の言の災いが表れています。
 
素直に受け入れでもしたら、人格は無視と怠慢と破壊の方向にしか向かず、いつのまにか、知らず知らず、楽山に盲従してゆくことになり、本来の、知性と感性の学習も、その結果としての成長も、できなくなるでしょう。
 
楽山こそは、反キリストの典型として、こうなってはいけない、こうなったらおしまい、という例として、語り継ぐべき対象であります。
 
『ヨブ記講演』の第二講を読了。その内容を自分なりの言葉で要約、メモしておきたい。
 
メモではなく、楽山の観念的で訂正不能の先入観と偏見という思想の悪い要素、および、楽山発の、キリスト教への飽くなき嫌悪が、ボンヤリ言語の裏に固定された曲解に表れています。
 
このように、重大なテーマについて、劣悪な発言をしておきながら、気軽な、メモ、などという言い方をして、責任逃れをしてきます。楽山の、"自分なりの言葉"は、総じて悪意の詭弁であります。
 
・その名がヨブであったかどうかは別として、ヨブのような人物は実在していたのであろうし、著者もまたヨブのような経験をしたのであろう。ヨブはもちろん著者にも敬意を払うべきである。
 
内村鑑三を、聖書の登場人物であるヨブと並べて、同じような経験をした、と書いているところに、楽山が、いかに、聖書を軽く見ているかが表れています。
 
・一章一節においてヨブを全き人としているのは、「人より見ての完全であって、神より見ての完全ではな」く、この場合の完全の基準は、人それぞれであり、古のユダヤでは日本より相当に高い基準で判断されていた。
(ちなみに、ヨブ1-8では、神はヨブを表して、「全くかつ直く」(『ヨブ記』関根正雄訳、岩波文庫)としている。新共同訳では「無垢な正しい人」となっている)
 
 (ヨブ記、口語訳)1:1
ウヅの地にヨブという名の人があった。そのひととなりは全く、かつ正しく、神を恐れ、悪に遠ざかった。 
 (ヨブ記1:1、旧約聖書)
 
神の完全と同等の完全を身につけた人間は一人もいません。「完全の基準は、人それぞれ」ではありません。自らを完全と見なすとき、パリサイ人と同じように、信仰の義は、なくなります。
 
人の肉体を持っておられたイエス・キリストの完全は、神聖なる三位の御一方ということを表しています。神聖でない人間には、正直な祈りへの賜物として、信仰の義が与えられます。
 
楽山は、正義というと、ヒーロー物語の完全な正義しか想起できないのでしょう。その小学校レベルの理解では "信仰の義" などということが理解できるわけがないのです。不完全・未熟の自覚がない、ということの災いという典型例が、楽山なのです。
 
楽山は、人より見ての完全どころか、訂正不能の完全と慢心の立場から、批評家気取りで、今回も、ヨブと神を語ってゆくのでしょう。その文章が、拙劣を極めても、不感不応の楽山は、気にしないほどの、哀れな無反省の病質的な心性しか持っていないのです。
 
・サタンは神の許可を得て災厄をおこしている。この世の出来事はすべて神の意思によらないものはなく、またすべては何らかの意味を持ち、益となる。(ロマ8-28)
 
 (ローマ人への手紙、口語訳)8:28
神は、神を愛する者たち、すなわち、ご計画に従って召された者たちと共に働いて、万事を益となるようにして下さることを、わたしたちは知っている。
 (ローマ8:28、新約聖書)
 
まるで、いつも、サタンは、神の許可を得て災厄を起こしているかのような書き方です。楽山は、恣意的に、サタンも、神も、字面だけの観念で語って、おとしめられると思うゆえに、単純な文脈を捏造しています。つまり、災厄は、全部、神のせいじゃ!・・と言いたいわけです。
 
こういう楽山のような人は、自らの悪と偽善の罪を認めない、ということが表れています。
 
聖書の記事から、神とサタンの関係を安易に決めつけてはなりません。楽山が軽々しく決めつけるのは、楽山が反キリストだからです。サタン、というのと、楽山、というのが、近くなってゆきます。楽山は、それを願っているのでしょうか。
 
 (ヨブ記、口語訳)2:6
主はサタンに言われた、「見よ、彼はあなたの手にある。ただ彼の命を助けよ」。
 (ヨブ記2:6、旧約聖書)
 
ここでは、サタンが、ヨブに加える災いには、命を奪うことを禁止する条件が付いています。人の命を造り、それを奪うのは、神のみの特権であります。
 
勝手に意味付けをしたうえで、楽山は、神の許可を得ているならば、なぜ、不幸が起こるのか・・みたいな、いちゃもんに結び付けたいのでしょう。
 
こういう幼稚な発想を、前にも書いて、また、今も、書いている楽山は、神を恐れず、神?を、自らの観念の中において、何とか貶めようとしてきたのです。・・堕ちてゆくのは、楽山です。
 
私たちは言うべきなのです。神とサタンの関係については、人知を超えた領域ゆえ、人には理解できないことだと。
 
神とサタンのストーリーを勝手に決めつけてはならないし、特に、楽山のように安っぽい理路をもって文脈を作ってはならないということを学ぶべきです。
 
楽山は、聖書と信仰について、こういうことだけはしてはいけないよ、という、反面教師としての役割を果たしているのです。つまり、ここで、サタンの役割を続けているのは、楽山その人であります。一日も早く、退いてほしいわけです。
 
・ヨブの妻は自ら棄教し、夫にもそれをすすめたが、夫人の中には財産の一部を失っただけでそのようなことをする者もいる。ヨブの妻は財産も子も失い、夫が不治の病にかかるまで耐えたのだから彼女を責めることはできぬ。
 
 (ヨブ記、口語訳)
2:7-8
サタンは主の前から出て行って、ヨブを撃ち、その足の裏から頭の頂まで、いやな腫物をもって彼を悩ました。 ヨブは陶器の破片を取り、それで自分の身をかき、灰の中にすわった。 
2:9
時にその妻は彼に言った、「あなたはなおも堅く保って、自分を全うするのですか。神をのろって死になさい」。 
2:10
しかしヨブは彼女に言った、「あなたの語ることは愚かな女の語るのと同じだ。われわれは神から幸をうけるのだから、災をも、うけるべきではないか」。すべてこの事においてヨブはそのくちびるをもって罪を犯さなかった。
 (ヨブ記2:7-10、旧約聖書)
 
「神をのろって死になさい」と言った妻を、正当化することは出来ません。しかし、神を呪っている楽山は、味方したいようです。
 
大仰に「責めることは出来ぬ」という楽山には、理解がなく、人間として必要な人間らしい共感もないゆえに、ヨブの妻を、「責めることはできぬ」と言って庇(かば)う資格もないのです。楽山のように、身の程を知らないでいると、こういう醜態になるということだけが表れています。
 
楽山は、裁き主であるかのように、赦したいようですが、人の罪の裁きは、神に任せられます。こういうところに、上から物を言う楽山の醜悪な恣意は顔を出してきます。楽山という、極めて程度の低い病質的人格は、いったい、どこまで、節操もなく、思い上がるのでしょう。
 
・多くの人々がヨブを見捨てたが、三人の友はそうではなかった。真の友はありがたい存在である。ヨブはこの三人の友を前にして、涙をこらえることはできなかったであろう。
 
 (ヨブ記、口語訳)
2:12
彼らは目をあげて遠方から見たが、彼のヨブであることを認めがたいほどであったので、声をあげて泣き、めいめい自分の上着を裂き、天に向かって、ちりをうちあげ、自分たちの頭の上にまき散らした。 
2:13
こうして七日七夜、彼と共に地に座していて、ひと言も彼に話しかける者がなかった。彼の苦しみの非常に大きいのを見たからである。
 (ヨブ記2:12-13、旧約聖書)
 
楽山は、ヨブ記の主題を外したいのでしょうか。人の説得が、結局は、ヨブに通じなかったというのが、ヨブ記の大きな主題であります。
 
ストーリーも文脈も読み取れない楽山は、また、読み違いで、「三人の友を前にして、涙をこらえることはできなかった」ヨブを、勝手に描いて、ヨブ記をメロドラマにしたいようです。浅はかな同情言葉で信仰は語れない、ということを、浅はかな楽山が、明らかにしています。
 
ヨブ記を初めて読んだときは、サタンが神の許可を得て災厄をおこすというのは、いくらなんでも荒唐無稽に過ぎると感じたものだったが、この世に起きることは、よき事はもちろん、そうでない事もすべて神の意思によるということを表現しているのであるならば合点が行く。「われわれは神から幸いをも受けるのだから、災いをも受けるべきではないか」(ヨブ2-10 関根正雄訳)という言葉もこの流れにあるのだろう。
 
楽山が、神を憎む勘違いのプロセスを、楽山が表しています。いわゆる、勘繰りとか、曲解とかいうものです。被害妄想的とも言えるでしょう。理解と共感のない者は、我欲に走って、我欲という物差しから、不都合を、悪と決めつけますが、自らの悪にだけは気づかない習性を持っています。
 
本当に読んで理解したのなら、「神をのろって死になさい」と言った妻の味方をする、というような、今までの高慢な発言も、神否定も、無かったはずです。恐らく、本当にそう思っているのではなく、反キリストの筋書きに利用しているだけなのです。
 
したがって、今までの記事の流れと、今回の記事の文脈から、ここでの、神の意志について、「合点が行く」という、楽山の言は、大嘘だということです。このように、嘘を吐き、詭弁を弄して、人を、だまして誘導するのが、楽山のやり方です。良心の敵です。
 
すべてに意味があるという考え方については、近頃は目的論的な思考には共感できなくなってきているので抵抗があるのだが、でも自分の身の回りに起きた事、起きるであろう事は受け入れないわけにはいかないだろうし、そのためには結局さいごにはこの思考に頼るしかなかろうとは思う。
 
「すべてに意味がある」ということが、頼れる思考になるでしょうか、そもそも、思考の内容を示していない言葉です。厚かましい楽山だから、気取りだけで言っているのでしょう。意味が、目的が、いちいち、納得できるように、人に、いつも、分かるでしょうか、否です。
 
信仰者においても、起こってくることに対しては、悩み、悲しみ、迷い、ときに疑い、祈りのうちに、できることをしてゆく歩みなのです。楽山は、楽以外に選択しません。無反省と無責任も、楽山が選んだ、楽な生き方なのです。そして、その選択が、大きな迷惑と害をもたらします。
 
楽山が、ボンヤリ言語で言いたいのは、神と聖書への肯定ではなく、自分の思考への依存と自慢なのです。楽山の読書には、そして、楽山の言葉には、このように、必ず、魂胆があるのです。嫌らしい詭弁の印象操作でもあります。だまされないでください。
 
ヨブやその妻の心情について、内村鑑三の理解、同情は心にしみるものがある。氏は人の心が分かる優しい人のようだ。こういう人を見ると、自分はいまだに他人に厳しく、裁き癖が治ってないと反省させられる。とほほ。
 
反省しているなら、修正による主張の変化と成長があるはずです。修正しないでいいと言うのなら、反論か弁明があるはずです。それら、正常な言論は、楽山から、一度も見られたことがありません。褒めるも、けなすも、楽山の作為の恣意の芝居だと思っておいたほうがよいでしょう。
 
今までの記事で、好きなように、キリスト教と神への呪いのような悪口を、執拗に書いておきながら、今回の記事で、そのまま、裁き癖が治ってないと反省している言葉、これこそ、嘘っぱちのボンヤリ言語の詭弁以外ではありません。こういう同情を誘う言葉を、トホホ言語と呼んでいます。
 
この記事だけを見ても、神をのろって死になさいと言ったヨブの妻の味方をしたり、一方で、神の意志に合点が行くと言ったり、理路は、散乱、分解して、支離滅裂になっています。自分を高める以外に、一貫した思路など、楽山は、持っていないと思います。そして、最後は、"とほほ"・・?
 
「とほほ」なら、そもそも記事を書くなと言いたいのです。楽山は、人を痛めつけることに快感を感じるサディストなのでしょう。このような滅裂な文章を書いてもニヤニヤ笑っていると思います。寒気がします。ホラーです。とても危険です。決して近づかないようにしてください。
 
 
「狼と少年」のことを時々書いてきましたが、要は、狼が来た!と嘘ばかりついていると、本当に狼が来ても、誰も信じなくなるということです。
 
ホラーなどの超常は、趣味にしかなりません。信仰は、現実を考える人に与えられます。キリスト者は後者を選び、楽山は前者を選びました。
 
したがって、本気で悔い改めの言葉を言っても、それが嘘だと見なされてゆきます。それを責める資格は、楽山にはなくなるということです。「とほほ」は、その典型ですが、ゆくゆく、楽山にとって、大変なことになるでしょう。書くたびにバレてゆくとはいえ、こうはなりたくないものです。
 
楽山は、自己愛性人格障害の自己中ですから訂正不能だと思います。楽山とは、誰も、対話は成立しません。ふつうに対話している、あるいは、対話が成立していると思っている人は、既に、楽山による破壊が始まっていることを考えるべきです。
 
楽山に対しては、関係を断ち、逃げてください。嘘吐きだけでなく、楽山こそが、狼です。
 
 
おおがみがぎだ!2

おおがみがぎだ(狼が来た)!・・嘘吐きの宿命
 
 
(2020年05月24日、同日一部修正)
(2021年06月02日、加筆して再録)
 
 
 
  神と私(わたくし)
 
真理は神にある
人にあるのではない
ということを知るところから宗教が始まる
それを「知っている」と言うところから邪教が始まる
 
真実は神による
人によるのではない
ということを知るところから信仰が始まる
それを「知っている」と思うところから狂信が始まる
 
言葉は神による
人によるのではない
ということを知るところから謙虚が始まる
それを「我がもの」と決めるところから嘘が始まる
 
いつも進歩しうるということであり
決めつけないことである。
 
信仰は人を
決めつけや思い込みから自由にする道である。
神の前で
決めつけを語ることの罪を知るからである。
 
 
聖書を読んで
人間として受け取れること受け取るのが信仰です。
 
人間として理解も共感もできないゆえに
人間として受け取れないことは
すなわち超常のことは
人間としては保留して
神にお任せするのが信仰です。
 
あった・なかった・・を決めつけて、
そこに、こだわるのは、信仰ではありません。
 
信仰は、人間の温かい感性に響くものです。
 
日常しか知らない人間にとって
超常への方向性は、人間の感受性を鈍らせてゆきます。
 
 
(※ 旧作の一部。90年代か。一部修正)
 
 
 
 楽山のツイッターですが
 
心機一転★こも楽山さんがリツイート
幸福探検隊
@KOU529529
·11時間
【二世問題】親は自分の価値観を子どもに押しつけます。そのうえ正しい信仰で教育しているという意識が、いま苦しんでいる人の姿を見えなくしてしまいます。教団の外での人間関係を築くことも困難にしています。二世問題を真剣に考えましょう。救いの手を差し出している人が待っています。
午後8:28 · 2021年5月31日·Twitter Web App
 
引用元ではなく、引用~利用~悪用している楽山を批判しています。正義の味方気取りで、アンチを装う楽山に、決して近づかないでください。楽山は、「正しい信仰」を何も知りません。なのに、正しいことを教えているつもりの悪意~霊能者妄想によって、HSもアンチも、だましています。
 
楽山は、例えば自己中など、人それぞれでないことを、人それぞれと思わせる詭弁によって、楽山自作の反信仰の固定観念を宣伝してきました。楽山の生き方は、その固定した偽善のハナタカによって、人を人とも思わず、人を苦しめ、疲労させてゆくのが快感、という、サディストの汚い欲望です。
 
楽山の汚い欲望は、引用にも表れてきます。引用を止めることは出来ないのでしょうけれど、その都度、楽山の引用の動機が、楽山の欲望の悪意であることを指摘し、批判して、警鐘としています。
 
 
 
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  楽山の世辞と無責任
 
 「第十七講 ヨブの見神(一)」(『ヨブ記講演』内村鑑三著)
 2021年05月01日 楽山日記(LD)
 
 
批判されて、答えることも返すことも出来ない反キリストの楽山は、今回、見苦しくも、伝道者である内村鑑三を、褒めているようです。ここで、褒めて舞い上がるのは、卑怯者だけでしょう。
 
このように、批判したが、褒めたから、責任はない、という文脈は、以前にもありました。責任逃れに過ぎません。本当に汚い男です。
 
楽山は、楽ではなく、山ではなく、落石です。危ないから、よけてください。
 
「第十七講 ヨブの見神(一)」を読んだので、要点をメモしつつ感想を書いてみたい。
「第三十八章の研究」。
「人の声は人を救うことは出来ぬ。神の声のみ人を救い得るのである」。
第三十八~四十一章について、「これ真の見神実験記である。人もし信仰と祈禱の心とを以てこれに対せば、これが真の見神記なることを認め得るであろう。いたずらにこれを貶するが如きは敬虔の念乏しく真摯において欠くる所の態度である」。
 
神を見る、と解すれば、大いに誤解がありそうなことを、楽山は、気遣いや思いやりが皆無なので、説明をしません。恐らく、故意に、キリスト教の信仰は、神を目で見ることだ、という誤解を広めて、その上で、否定したいのでしょう。こういう男だから、信頼度は、とっくにゼロ~マイナスなのです。
 
(ネットより)
けん‐しん【見神】 の解説
霊感によって神の本体を感知すること。神霊の働きを感知すること。
 
神の御心であろうか、導きであろうかと、いつもではないが、感じることはあります。しかし、それで、人に、いちいち説明のつくような生き方を、神は、人に、与えないだろうと思います。
 
何故なら、人は、神よりも低い存在として造られており、一気に、神を目で見たり、神のように完全になることはないからです。だから、前から言っているように、神を目で見るとか、耳で声を聞くとか、神秘が与えられることに執着するのは、キリスト信仰ではないのです。
 
楽山は、"見神" ということが気に入ったのでしょうか。今までも、楽山の興味は、超常や神聖、そして、霊など不思議な力や現象に向かっていました。それは、恐らく、楽山が、勉強する気のない怠け者で、霊能や超能力で、一気にスーパーマン的なものになりたいからでしょう。
 
楽山が、そういう霊の話、スピリチュアル、霊言、ホラーや冒険アニメを、好んでいることに表れています。そのような怠惰なのに欲望だけが強い者を、神が是とするでしょうか、どう考えても否であります。
 
つまり、楽山は、神にも、真実にも、もちろん真理にも、正しさにも、感動にも、共感にも、縁のない人だということを、楽山の書いたものによって、書くたびに自ら証明しているのです。
 
「エホバの声はとかく人の道が窮まった時に聞ゆるものである」。
 
神の声が聞こえるといっていますが、実際はどうなのか、ボイスなのか直感なのか感動なのか、誰も知らないと思います。幼稚な超常趣味の楽山ごときに利用~悪用されるような伝道者ではないから、内村鑑三は信頼を得ているのです。
 
私は、神については、人が、姿を目で見たら目がつぶれる、耳で声を聴いたら鼓膜が張り裂ける、さらに燃え尽きる、・・くらいに、思っておいたほうがよいと思っています。神を、甘く見て、舌で舐めている楽山の、罪業の深さは、楽山を、反信仰、反キリストに、どんどん向かわせています。
 
「神は地とその上に住む人を空しく造ったのではない。されば我らは地を見てそこに神の愛を悟るべきである。そして安ずべきである」。
 
書いてあるように、内村鑑三の言う見神は、「地を見てそこに神の愛を悟る」ことではないかと思います。神を目で見る、奇跡を起こす、というのでなくても、「地を見て」だけでなく、人に起こる様々な信仰の表れを見ることは、恵みであり、救いであり、平安をもたらし、人を生かします。
 
これら福音の一切を、自己愛性人格障害によって捏造の観念から偏執固定している楽山は、全く知りません。楽山は、何も知らないことが表れているのに、書くことをやめません。書くと恥ずかしいのでは?という羞恥心がないのです。
 
楽山は、誰の助けにもならない口であり、何も語ってほしくない反キリストであり、嘘吐き宗教ペテン師なのです。
 
本講は内村鑑三の体調不良のためか短いものになっている。ただ体調はよくないにしても情熱はいささかも衰えてはおらず、一言一言に力があり、心に迫ってくるものがある。これが信仰というものなのだろう。
 
伝道者の、志や、情熱や、言葉の力や、真に迫ることなど、受け取る気がない楽山には、信仰というものについて、語る資格などありません。語れば、信仰の邪魔になるだけであり、無理解からの反信仰が表れるだけです。病質者の楽山の言葉は、広まれば広まるほど、不幸を、関わる人に及ぼすでしょう。
 
信仰というと静寂に向かうイメージがあるけれども、それとは反対に非常に活動的、積極的な方向に進む場合もあり、ここでの内村鑑三は後者のようだ。
 
信仰の静寂のイメージも、楽山においては、理解されていないと思います。何故なら、信仰による静寂とは心の安らぎであり、活動性や積極性の反対ではありません。何も分かっていない者が、何も分からずに、分からないことを書いています。迷惑も甚だしい。
 
楽山の口は、いつも災いです。嘘吐き楽山からの、溝も水路もないままに流されるインスタント腐食廃液を浴びないよう注意してください。
 
楽山は、嘘を吐いて空振りばかりして、ずっと前から、この記事のように中身も理解もない口だけ宗教を発信してきました。楽山の情報の信頼性は皆無であり、災難の時には、楽山のような良心カラッポ人格は必滅であり、人々はその巻き添えを食わないように警戒が必要です。
 
前に書いたことのある「狼と少年」は、いずれ、狼が、羊を食べつくし、嘘吐き少年をも食べてしまう話です。それに喩えれば「災いと楽山」であり、つまり、楽山は、いつも嘘を吐いて、自身の災いを感じず、知らせず、本当の災いの時には滅びをもたらす厄病神の機能しか持っていないのです。
 
 
うっ血性ピエロ

うっ血性ピエロ
 
 
{2021年05月03日}
 
 
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