楽山の醜態加速
 
 信仰と経験
 (『わるい夢たちのバザールⅡ 夏の雷鳴』スティーヴン・キング著)
 2021年02月12日 楽山日記(LD)
 
 
楽山は、いつものことですが、本をネタに、自己中・自己愛の見苦しさを全開にして、無反省・無責任・無理解・無神経の醜態をあらわにしています。分かってるふうの書き方が笑止であります。
 
*信仰と経験
キングの短編を読んでいたら、信仰と経験について書いている箇所があったのでメモしておく。
神のおぼしめしとはとってもすてきな考えだ。自分が無傷でいるかぎり、それは信じられる。
(「ハーマン・ウォークはいまだ健在」『わるい夢たちのバザールⅡ 夏の雷鳴』〈文春文庫〉ス
ティーヴン・キング著、風間賢二訳、文藝春秋、2020年、p.40)
 」
これはつまり、人の思考や感情は経験の影響を受けるものだけども、信仰もその例外ではないということだろう。一般的にも、仏教徒を両親に持つ子供は仏教徒になり、キリスト教徒を両親に持つ子供はキリスト教徒になることが多いというし、信仰は環境や経験に先立つものではなく、その影響下にあるのだろう。
 
人生の総ての経験は、神のおぼしめしという考え方もありますが、どこがどのように?・・ということは分かりません。ただ、あらゆる戒めの経験を無視しまくって、自我満悦の悪夢の生ぬるい汚泥に浸って、よだれを垂らすように、人を、からかうだけの楽山のような者もいます。
 
またこの文章は、「神のおぼしめし」を、「因果応報」と言い換えるならば、ヨブと三人の友の対立の原因がどの辺りにあったのかを教えてくれるものだ。ヨブは不条理を経験し、深く傷付いたが、三人の友らはそのような経験はなく、ヨブの心情を理解できなかったのだ。
 
「神のおぼしめし」を「因果応報」と言い換えるのだそうです。そのような権威を誰が楽山に与えたのでしょう。思い上がりもいい加減にしてください。
 
ヨブは神に試され、それに反応しました。友人たちへの「神のおぼしめし」は、はっきり分かるほどには書かれていないようですし、ヨブ記は、ヨブの信仰と神のことが書かれているのです。
 
楽山は、楽山への「神のおぼしめし」を、全部、無視してきたのでしょう。それで、今の楽山の人格破壊の悲惨と恥を、惜しみなく露呈してボロ雑巾みたいになっているわけです。
 
人は想像力と理性によって、他者の経験とその感情を思いやることは不可能ではないだろうけれども、それにもおのずと限界はあり、真に理解、共感することはどだい無理な話なのだ。人は人を分かったつもりになって裁いてはいけないのである。
 
楽山の詭弁です。人の理解は限界があるという部分否定から、理解・共感は無理という全否定にして、ゆえに、裁くのはよくない、ということを言いたいようです。
 
人の理解には限界がありますが、楽山の続ける発言が、いつも、偽善と嘘と詭弁だけを、人間としての最低の恥ずかしさだけを、白々しくボロクソに表しているのに、この人は、やさしい、正しい人です・・なんて言えるわけないのです。おかしいことは、おかしいと言うしかありません。まさに、この記事もそうです。
 
結局のところ、ヨブと三人の友との対立は、三人の友はヨブを知らないにもかかわらず、分かったつもりになって裁いたところに原因があったのだと思う。
 
三人の友は、神への恐れが足りず、カチンカチンの教条主義的なことしか、ヨブに言えなかったので、ヨブを変えることができませんでした。
 
楽山は、神への恐れが全くなくて、ズルンズルンの自己愛的妄想しか言えませんでした。その実態が招くものは、もはや、人間的配慮など、してはいられないほどに悲惨であります。
 
分かったつもりになっているのではなく、他に考えようのないほど、ひどい人格を、楽山は、表し続けています。今もです。とても幼稚な嘘っぱちの理路で、泡を吹くように詭弁を書いて責任回避と自己正当化に走る様は、見苦しさを通り越して、吐き気がしてきます。
 
 
醜態

しゅうたい
 
 
(2021年02月13日)
 
 
(古い記事は載っていません)
 
http://st5402jp.livedoor.blog/
(古い記事もインポート済み)
 
(ここは、ブログ記事をコピー・リンク)
 
 
にほんブログ村 ポエムブログ 暗い詩へ(文字をクリック)]
にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ(文字をクリック)]
 
ブログランキング