良心2
 過去記事「良心」+加筆
 
 
キリスト者は、良心を捨てて神に従うのではありません。良心とは、神から人が恵みとして与えられた良い心のことです。信仰へ向かう心も含まれています。
 
キリスト信仰は、人の心の良きところ、すなわち、良心を育てるからです。
キリスト信仰者にとって、信仰と良心は区別できないものとして存在することになります。
良心によって信仰を受け容れ、信仰によって良心は成長します。
どちらにも神の導きはあるけれど、人は、それを確定できる能力を持ちません。
 
 良心を捨てた者は、人の心を無視して、超常を正義とするカルトに走ります。
 
私たちは、物事を良心によって判断しています。その判断が行動を選択します。
 
 これが理想で、ときに悪意で行動することもあるのは罪の性質によります。
 
 ここでは、本来のあり方として語ってゆきます。
 
キリストを信じる信仰者においては
神様のほうを向いて、信仰によって、聖霊によって、ということが、よく言われますが、
神様のほうを向くことを自覚するのは祈りにおいてであります。
すなわち、独りで祈ること自体が神のほうを向くことです。
そして、信仰者は、正直な祈りを捧げます。
飾りや偽りや豪語は神への冒涜です。
 
信仰によって、また、聖霊によって、与えられたものを、これは信仰によって、これは聖霊によっているから良いことで、それは欲望によっているから、良くない、という判断が、人間によって、しっかりできているでしょうか。否であると思います。神聖についての決めつけは、神への冒涜であり、人に対して弊害を招く可能性があります。
 
神は完全ですが、人は罪の性質によって不完全です。人間は、神の望んでおられることを、そんなに、逐一、分かるわけではないのです。
 
さらに、人は、自分の言動の影響を最後まで末端まで追うことは出来ません。
ゆえにその善悪を、人は確定できません。人は、判断し、行動し、結果を反省し祈るのみです。
 
キリスト信仰者は、判断し、行動し、反省し、その結果と裁きを、神に委ねます。
ゆえに、究極的には、総てをご存知の神の裁きにお任せするしかないことを知っています。
 
では、どうしているか、どうするべきかというと、
他でもない、私たちは、良心に従って、物を言い、行ない、生きようとしているのです。
 
その良心の信仰に、信仰の良心に、神様が、どのように導きや恵みを与え、どのように言い、どのように行えばよいか、いちいち見定めることは、できないのが人間です。
 
神様、そして聖霊、またキリストの同伴によって、私たちの良心が、何か、導かれることはあるのでしょう。しかし、それを、つぶさに、確定することは出来ません。
 
 聖書由来の、聖句由来の、聖なる言葉で表されたものによって、活動しなければならない、という 観念がありますが、そのように言っても、実際は、自分の自由意志です。
 
 神意が分かるかのように神聖の言葉を多用することは正しいでしょうか。
 
 下手をすると、自分が、神の意志を代行するかのように、振る舞ってはいないだろうか、という疑 問が生じてきます。
 
神様は、その全能によって、私たちが足らざることを既にご存知です。であるのに、私たちは、強迫神経症のように、神様の御心に沿っているかどうかを検証しながら生きているかのように、振る舞っているつもりになるのは、ある意味、危険でさえあるのです。
 
神様は全能だから、私たちが足らざることを既にご存知です。
 
私たちは、日ごろから聖書に親しみ、祈りを専らとしているなら、正直に祈るように真剣に努めているなら、むしろ、何でもかんでも、神の御心であろうかどうか、ということを、自分で確認できないことも知っているはずなのです。
 
つまり、私たちは、信仰生活の不可欠なこと、聖書に親しみ、聖書について考えているなら、私たちが判断し実行していることについて、むしろ、精いっぱいの良心に従って判断していること、それ以上ではないことを弁えるべきなのです。
 
信仰者には、信仰者の良心があります。詳しいことは知りえなくても、気づかない導きもあるでしょう。私たちは、聖書を読み、正直に祈り、あとは、そこで導かれ培われたであろう良心に従って、行動するべきであろうと思いますし、そうするしかない、そういうありかたしかないのです。
 
信仰と良心は、別ではありません。
 
 神秘の神聖の言葉ばかりを使いたがるのは、カルトの特徴です。
 例えば、カルトは、心を汚れたものとして見て、霊と言うと安心するようです。
 
 心、霊、魂、精神、これらの言葉は、目的によって使い分けられています。
 その違いを、人が分かっているわけではないのです。
 
 信仰を受ける"土の器"も同様で、比喩表現でありますが、
 心以外のところにあるとは思えません。
 
 聖書由来の神聖の言葉を並べれば神聖を語ったと満悦するのもカルトの特徴です。
 そして、良心を、ゴミくずのように捨ててゆくのも、カルトの特徴なのです。
 
私たちは、神によって、キリストの同伴によって、良心が成長することを知っているはずです。
 
 そこに、人間離れした何かの魔法を結び付けたがるのも、カルトの特徴です。
 そういう者は、人間性を大事にすることを、人間信仰といって嘲ります。
 人間離れが信仰だと思っているからです。
 
 しかし、人間が、全能の神の意志と行為を代行する自覚の、霊を振り回す信仰?こそ、
 人間を、自らを、全能者に結び付けて、真の全能者である神を冒涜する"人間信仰"
 つまり、自分信仰に他なりません。
 
私たちは、カルトと同じような、うわべの言葉だけ神聖なる言い方をして、神聖によって自らを正当化するような冒涜の愚を避けなければいけません。
 
私たちは、神の御心によって行なう、というのではなく、祈り願う信仰の、精いっぱいの良心によって、考え、判断し、行うのだ、という自覚を持つことのほうが、より敬虔に近づくと思います。
 
 カルトが装うところの、丁寧語だけの偽の敬虔?と同じであってはいけません。
 
私たちは、総てをご存知の神に養われているのだから、私たちの良心にも御心が働きかけていることを知っています。ならば、自分の良心という成長可能なものを、信仰によって使い、育ててゆく自覚のほうが、人間であるキリスト者らしいと言えるのであります。
 
その生き方を支えるのは、キリスト信仰者においては、飾らない正直な祈りです。
 
神が与える信仰の義は、神に対して故意に偽ることをしない人に、即ち、精いっぱい正直な祈りを捧げる人に、惜しみなく与えられます。
 
与えられるのは、信仰の義であって、超常の義ではありません。信仰は魔法ではなく、人間に共感できて、人間が大切に出来る恵みであります。それ以上のことは、神に任せられることです。
  
信仰の義は、不変の境地ではなく、キリスト信仰者が成長しつつあることの証しであります。
 
 
成長

成長
 
 
 
成長というものが、全く見られないのが楽山とシャロームであります。
 
深い情緒が理解できない鈍麻したパーソナリティ。代わりに、わざとらしく感動したようなオーバーな褒め言葉を書いてくるが、その前後関係に表れていない、どう感動したか全く書かない、説得力の内実がなく説明しない、何も変わっていない、そして、批評家気取りで言ったこと自体に満悦しているだけです。
 
理路もバラバラで、マイナスを書いて、あとでプラスを書いたら、プラマイゼロだから、責任は負わなくていいと思っているし書いている。そういうのは、いい加減な奴と思われて信頼してはいけない人だと見なされることが分からない。常識・良識・反省・責任感・学ぼうとする姿勢、一切、見られない人です。
 
人間の知性と感性の及ぶのは、せいぜい、身の周り、情報として知っている範囲、言葉・画像・映像で、感じたり考えたりする範囲に過ぎません。そういう人間が、総てご存知の全能と言われる神を、評価して、その存在と不在、その善悪、などを云々するなど、決してできません。
 
無理にしようとすれば、自らの不完全に気づくことが信仰の入り口であり、それを人間の乏しい脳みそで安易に決めつけて、気づかないのが病的自己中の入り口にいる楽山とシャロームという傲慢の悪意であります。
 
そういう人が、真面目なふりをして、真実の追求をしてますって感じで書いてきて人を惑わしているのは、どう見ても、不正だと思うので、こちらも批判を続けています。
 
いかなる妨害にも、屈しない時間だけ、命があれば、何かすることはあるでしょう。
 
 
(2020年01月12日、同日一部修正)
(2021年01月16日、再録+、さらに同日一部修正)
 
 
私の「ウソの国ー詩と宗教」ブログ:
 
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