ウソの国-詩と宗教:st5402jp

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  楽山メモのあとさき2
 
 『青春詩集 愛のあとさき』大川隆法著
 2021年07月18日 
 幸福の科学とは何だろう?ブログ by 楽山
   を改めて批判。
 
 
こういうのに、感想を書いて見せてくる理由が、よく分かりません。HS批判にはなっていないようです。楽山がアンチHSというのも疑わしいということでしょう。楽山は、自分は詩が苦手ですと言っているようなものです。なのに書いてくるのです。
 
 
*感想
『愛のあとさき』をざっと見たので感想をメモしてみたい。
 
メモと言いながら、いつも、何かを狙って記事もツイッターも書く楽山です。メモだから責任負わないと言っているのでしょうか。ここでは、詩が分かるんですアピールなのでしょうか。でも、詩は、一つも引用されていないのは、批評できないからでしょう。
 
 
本書の中でもっともよいと感じたのは、水晶のようにという作品だった。
前半は孤独な若者の詩、後半はスピリチュアルにハマった若者の詩といった雰囲気である。
 
いや、やはり、霊を絡ませてきました。ORの詩です。それにしても、中身の詩が一つも引用されていないし、楽山の、いい加減な言葉で、感想みたいな、まとまらない内容で、書いて、訴えてくるものが何もない、という変な記事です。楽山はアンチHSではないということでしょう。
 
 
全体的に自己愛、自意識過剰、ナルシズム臭が強い。たとえていえば、役になりきっている舞台役者というより、役を演じる自分に酔っている舞台役者という感じ。
 
そのまま、楽山のことです。人のことを言えば、気が済むのでしょうか。「自己愛」「自意識過剰」「ナルシズム臭」・・楽山に、いつも感じることです。「演じる自分に酔っている舞台役者」・・楽山の三文芝居と符合します。
 
自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)の楽山は、このようにして、他者を下に見て、批評することで、誰とも本当の人間関係を築けない欲求不満を解消しているのでしょうか。自分が上だと言いたいのでしょうか。そのとばっちりのように、他者の良心を傷つけてきたのです。
 
 
オノマトペがやたらと目につく。
性愛に関する表現が多い。女性の描き方は、青年らしく女性を理想化してその聖性を賛美するというよりは、処女がどうとか、胸のふくらみがどうとか性愛がらみが多い。
 
なぜ、批判にもならないことを書くのでしょう。対象をおとしたいのでしょうか。楽山が、この2年余りの間に書いたものには、性愛の話は、殆ど、なかったような気がします。対象が、つまらないことを書いていると言いたいのでしょうか。楽山は、不能か、あるいは、欲求不満なのでしょうか。
 
 
預言者と神のちがいについて触れた最後の詩は、説明調になっており、詩というより説法のようだ。
巻末に掲載されている著者の商社マン時代の文章は、「幸福になれない症候群」など初期の文章と同じ文体に思えた。文章としては、最近の講演録よりは、こちらの方が上等だろう。
 
「幸福になれない症候群」というのは、ORの本にあるようですが、楽山に当てはまると思います。無反省で無責任で嘘吐きならば、まともな人間関係は気づけないからです。楽山は、自身をアンチと言いながら、ORを上等と褒めているようです。
 
 
HS本の表紙はすきになれないものが多いが、本書はよいと思う。ただこの表紙は男性著者よりは女性著者の方が合っているのではなかろうか。
以上、本書を読みながら思ったことは大体こんなところである。
*「デザート」と「イチゴの日」
余談ながら、ツイッター上にて、本書の「デザート」は、筒井康隆の「イチゴの日」(『薬菜飯店』収録)と似ているという指摘があったので確認してみたら、本当にその通りだった。
ただし、「イチゴの日」の初出は、『小説すばる(昭和62年冬号)』だったらしい。
「デザート」は、1956年生まれの大川隆法28歳のときに発表(昭和59年)したのであれば、「イチゴの日」よりこちらが先だろう。
筒井康隆が一商社マンの自費出版本を読んだとも思えぬし、とすれば両作品に似たところがあるのは偶然ということのようである。
 
表紙について「本書はよいと思う」と褒めて、批判ではなく賛辞を贈る楽山は、まるでORを擁護しているようです。そうでなければ書く必要のないことでしょう。そもそも、この記事自体を書く必要がどこにあったのでしょうか。また、自己顕示欲で、見栄を張っているだけなのでしょうか。
 
以前、楽山は詩のようなものを書いて載せていたことがあります。お世辞にも上手とは言えませんでした。楽山には、詩作も、詩の感想も無理だと思います。自己顕示欲で書くだけで、詩の心が無いからです。あとさき考えないで、書けば、よく思われるとでも思っているのでしょうか。
 
冒頭の「メモしてみたい」というメモを、なぜ、公開して、人に見せようとするのでしょう。独り言でも自分のは価値があると言いたいのでしょうか。わざわざ書いて公開する楽山は、自分は詩は書けません、読めたものではありません、と言っているようなものです。
 
自己顕示欲が表れている以外、内容の薄い記事でした。他者のことを批評すること自体に、何やら、興味があるようですが、大方、何らかの欲求不満があるのではないかと思います。感想を書く目的と必然と動機が、とても曖昧です。ボンヤリ感想文とでも言うべきでしょうか。
 
批評でも批判でもなく、メモというのは、今まで、書いて自己顕示してきたから、書けないことを認めたくないのかもしれません。その割に、ずっと、理路も共感もないメモ的な文章を、学者や有名人の名前を出して、書いてくるのは、論評している気分に浸りたいのでしょうか。
 
 
本物が書けないと寒い

本物が書けないと寒い
 
 
(2021年)
(2022年07月26日、再録+加筆)
 
 
 
  バザー
 
一人目は
粘液の滴(したた)る
目の粗い袋を持ってきた
ホームレスの
今は亡き人の形見だという
二人目は
汚れたハンカチを
行方知れずの
鬱(うつ)病者の残した物だと
三人目は
机に向かったまま頓死した詩人の
曲がって途切れた線
しか書かれていない原稿用紙を
四人目は
描きかけて破いた絵の切れ端を
五人目は
レンズの割れた眼鏡を
六人目は
底の抜けた柄杓(ひしゃく)を
七人目は・・・
 
バザーは日曜日に催された
セーターや上着
家具に調度品
その他いろいろ
晴れたこともあって
花が咲いたように
家族連れで賑(にぎ)わったという
 
 
 私の学生時代
 
ツタの絡まる校舎で
おんなじように絡まっていた
夢多かりしあの頃の
思い出をたどれば
懐かしい友の顔や
あんまり懐かしくない顔が浮かぶ
重いカバンを抱えて通ったあの道
夏の日の図書館の
ノートとインクとヨダレ
過ぎし日よ私の学生時代
 
 
  蕩けるモチーフ
 
ひらめくことなしには
書けないような気がして・・・
 
新聞に載っている詩を読んで
ほろほろと感動している
 
もともと乏しい詩想が
ますます連想を飛ばせなくなってゆく
探ってみるほどに
神経がROM
リード・オンリー・メモリーの
一方通行になっているような
神経線維が外套を失って ぺったん
チーズのように蕩(とろ)けて
不可算のものになったかのような
ふくらまないイメージ
時々お勉強らしきことは
やってみるのですが・・・
 
でも不可算でいいのかもしれない
不可算なものを作るのだから
それにお勉強と違って
記憶を呼び出すときというのは常に
リード・オンリーではなかろうか・・・
 
私は馬鹿者なので
感性は与えられるものだと思っています
 
 
 
  解脱
 
解脱という言葉がある。
仏教用語である。詳しいことは知らない。
辞書を引くと煩悩を超越して安らかな境地に至ること。
単純にそういう意味として考えてみる。
 
ペテロやパウロを始め使徒・聖徒と呼ばれる人たちも
ひょっとしたら似たような境地にあったかもしれない。
彼らは伝道に生き、欲に生きなかった。
しかし欲が無かったわけではないだろう。
まして死ぬのはやっぱり怖かっただろう。
それでも殉教の覚悟で主の道を彼らが歩んだのは
主イエス・キリストの愛と縁が彼らの恐れに勝ったからであって
それは極めて人間的な反応であったと思われる。
 
彼らは自らの力で自分を越えたのではない。
彼らは自分の裏切りと罪をしばしば思い出した。
そして自分の無力を誰よりも知っていたはずである。
 
全てを悟っているという者に何を告げる唇があろうか
全てを知っているという者に何を聞く耳があろうか
また全てを悟り知っていると言う者が何を教え得るというのか
全てを知っている者がどうして自分以上のものを作り出せ得ようか
自分以下のものを作るのなら全てを知っている必要はあるまい
人の知恵に優れていればできることであろう
 
不全なる人に完全を教えても無駄であろう
教えて全てを知るようになるのなら
どうしてこの世に人が住めようか
もはや何も迷うこともない代わりに
もはや何も考えることもないではないか
 
何故に人は人であるのか
しばしば間違えたり
誘惑に負けて
赤子のように神様に試されてひっくり返り
こぶだらけ、傷だらけの者たちを
神に愛された人と呼ぶ
 
全てを悟り知っている者がいたとしたら
ただそのことだけで満足して
誰にも会わず誰にも語らずにいるであろう
これは煩悩よりも苦悩と罪に満ちた無為であり無である。
何故にこのようなことを私は言うのか
私の中にしばしば
いかがわしい解脱者・超越者への欲を見るからである
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
「人間の性」と言ってるくらいだから、楽山は、一生涯、反省しないのでしょうね。そうして当たり障りのないことを書いたつもりで、見破られて、当たられ障られ、すり減ってゆくのでしょう。ついには、世の中は、ちょろい人だけじゃないことを知って、泡を吹きながら砂に埋もれてゆくのでしょう。
 
 
 
  楽山の偽善性まとめメモ
 
楽山の害毒メモ:
今までに表れてきたこと。これは、聖書においてキリストの敵となった宗教指導者や、偽善者の特徴でもあります。この世で最も迷惑な人の特徴です。
 
人格:
自己愛が強く自己中である。
自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)と思われる。
平気で嘘を吐く。様々な詭弁を弄して、柔和に見せかける。
深い情感がなく、共感性がない。不感不応。
後悔、反省、修正ができない。学習による成長がない。
罪悪感、羞恥心が見られない。
アドラー心理学の宣伝をしていた。その影響が抜けていないと思われる。
中身や実質のない形骸的精神機能しか持たない。
 
議論:
議論や交流が、表面的で、整わない、できないし、する気がない。
相手の意見を受け取っていないので、反論、弁明が成り立っていない。
理路が常識的にも浅く、基本的に訂正不能である。理解力がない。
自分なりの堅実な理路を組み立てられない。
読書自慢。感想は平板で、独創性や深みがない。
様々な気取り。読書家気取り、評論家気取り、インテリ気取り、など。
分かっているという我執から離れられない。
非を指摘されると、逆に、こちらに当てはめて被害者面をする。
人を批判~誹謗中傷するが、その言葉で自分が斬られるブーメラン現象。
真面目に応答~議論すればするほど、病的な徒労感と疲労のみをもたらす。
ボンヤリ言語:語尾を濁し曖昧で婉曲的な言い方で、印象を刷り込もうとする。
トホホ言語:謙虚で弱いと思わせて悪意を隠すための嘘の芝居。
しばしば、自身への同意を期待して、見え透いた世辞を言う。
「反省。とほほ」などと書くが、不自然であり、前後で何も変わらないので嘘です。
 
宗教:
反キリスト、反宗教。聖書およびキリスト信仰を、貶めてくる。
キリスト教とキリスト信仰を字面だけで云々し、理解していると思い込む。
HSを脱会したと言っているが、真実かどうか、疑わしい。
霊能者のつもりだが、それに見合う直観的洞察は皆無である。
 
楽山の書いた文章を、3年数か月のあいだ見てきた結果ですから、大きく変わることはないでしょう。これらについては、新しい情報によって、必要なら加筆し、繰り返し載せることになるでしょう。
 
 
 
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  人のことばかり語る楽山
 
 神秘体験の影響力
 (『宗教的経験の諸相(下)』W・ジェイムズ著)
 2021年07月13日 楽山日記(LD)
 
 
本を読んだつもりで書いて、自分を高めたつもりになって、自分の非だけは認めず、宗教と信仰を空想の理屈で語ってきて、誰の役にも立っていないことも、迷惑になっていることも無視してゆく根拠を、神秘や心霊に求めても無駄だということが、楽山が何か書けば表れてくるのです。
 
*神秘体験の影響力(本人)
神秘体験の本人に与える影響について、『宗教的経験の諸相』には次のように書いてあった。
神秘的状態は、それが十分に発達した場合には、普通、その状態になった個人に対しては絶対的に権威をもち、そして権威をもつ権利がある。
(『宗教的経験の諸相(下)』W・ジェイムズ著、桝田啓三郎訳、岩波書店、2015年、p.249)
 」
さらに著者は、体験者本人に対して合理主義によって「どんな不平を唱えても無駄である」し、
 
霊が分かるっぽい楽山の霊能者気取りに対して、何を言っても無駄であることは、約2年間批判してきても不感不応である楽山に表れています。実際には、楽山は、気取りだけで、何の洞察もなく思考の糧にもならない人です。
 
それが、楽山が、体質的な病的ナルシスト、即ち、自己愛性パーソナリティ障害者であることを示しているのです。楽山は、不平を言っても無駄だから、何を言ってもいい、何を言っても正しいと言いたいのでしょうか。楽山は、不平を言われているのではなく、否定されているのです。
 
仮に「その人を監獄や精神病院へ投げ込」んだとしても、その者の「心を変えることはできない」どころか、むしろ「彼の信念をますます頑固にするばかり」であり、結局のところその者を「私たちが好もうと好むまいと、そっとその信条を享受させておくほかない」のだという。
 
だから、楽山は、精神病院に入れても治らないし、楽山が信じこむこと自体は、変えることは出来ないでしょう。その成れの果てとして、慢心し、傲慢になり、訂正不能になって、人間離れしてゆく楽山の有り様を、楽山自身が説明していることになります。
 
これはよく分かる話だ。恥ずかしながら自分は、とある新興宗教を「これは本物だ!」という神秘的直感によって信じてしまい、他からどんなに意見されても判断を変えなかった過去がある。この時の自分の心を思い出せば上の話に首肯せずにはいられない。神秘体験なり、神秘的確信によって特定の宗教または信条を信じ込んでしまっている人の心は、どれほど合理的な反対意見であっても、それを否定する客観的な事実を提示したとしてもそう簡単には変えさせることはできないものだ。
 
何が「よく分かる話」なのでしょう。楽山は、仏様の気持ちが分からない家族に驚いたという記事を書いています。冗談だろうと思っていたら、何を考えるにも、霊とかの超常のことを書いたり、霊言なるものを引用したり、神を否定したりなど、傲慢だけが表れてきたのです。
 
霊能にこだわらなくても、はっとさせられたり、洞察や共感があれば、優れていると分かりますが、そういう目を覚まさせる発言内容は、楽山には、皆無であります。楽山は、新しい何かを語れる人ではなく、ただ、自己顕示欲だけの超常フェチの退屈な人です。
 
超常にこだわり、その方向に思考が流れて、宗教も信仰も、人間の問題として考えることのできない人です。だから、いかなる問題も、解決の方向には向かず、ああでもないこうでもない曖昧な話になり、ボンヤリ言語と、トホホ言語の謙虚芝居でごまかしてきたのです。
 
楽山は、宗教を語れる人ではなく、宗教を批判できる人でもなく、オタク的趣味に生きるしかない人だから、非合理で、理路を組み立てることが出来ず、結局、神秘気取りの妄想で、無反省に、無責任に、雑言の一方通行で、人心を煩わせる経過にしかなっていません。
 
*神秘体験の影響力(第三者)
同書には、神秘体験の第三者に対する影響力についてはこうある。
神秘的状態の啓示を、その局外者に対して無批判的に受け容れることを義務付けるような権威は、そこからはけっして出てこない。
(同上、p.249)
 」
著者はこれとは別な言い方で、神秘体験をした者がそうでない者に対して、その者が「召命を感じて」自ら受け容れる場合を除いては「その独特な経験について伝えるところを受け容れよ」と要求する権利はないともいう。
 
楽山の無反省で無責任な発言は、いかに神秘と絡めても、受け入れてはいけないし、受け入れる価値はないし、批判され、否定され、雑巾のように干されて捨てられてゆく経過しか待ってはおらず、楽山の自己満足に付き合うことは、人生の大切な時間を無駄にすることに他なりません。
 
これも確かにその通りだ。たとえばある者が神の声を聞くという神秘体験をしたとして、万人にこれを信じなければならぬという義務が発生するはずもないし、そもそもそれは不可能なことでもある。
 
ならば、霊が分かるっぽい楽山の言も、何の価値もないわけで、楽山は、自分の無価値を主張したいのでしょうか。ならば、宗教と信仰について、信じてもいないのだから、何も言わないでほしいと思います。
 
宗教的に偉大な存在というのは、人間にとって、知らなかったことを知らせ、感じなかったことを感じさせ、新しい目覚めを促す存在でありますが、楽山には、そのような賜物はありません。楽山は、宗教にも信仰にも、全く縁のない、煩わしいだけの人なのです。
 
大袈裟なたとえ話をするならば、もしある宗教がこの道理をわきまえず、教団の内側に向かってだけでなく外部に向かっても教祖の語る神秘体験を信じなければならない、これえを疑ってはならない、そのまますべてを信じなければならないと主張したとしても、それは外部には説得力はもたないし、場合によっては偏狭なカルト集団とみなされ強く反発されることにもなりかねず、そういう当然の結果に教団が不満を述べても仕方がないということでもある。
 
当たり前のことです。人間に神秘が分かるはずはないのです。人間は、何からの恩恵を感謝して、神秘の存在を仰ぐだけなのです。また、宗教も信仰も、決して強制されないものであり、また、楽山のように嘘と詭弁で刷り込んでくる者は、最初に、除外されるべきなのです。
 
霊がらみの楽山の発言は、もっと、質(たち)が悪くて、はっとさせる何ものも含まれておらず、信じるに値しない惑わしに過ぎなくて、いかに執拗に楽山が語っても、もたらされるのは疲労と妄想的な害毒だけなのです。これほど、徒労と疲労を与えてくるだけの人物も珍しいです。
 
*神秘体験とその後
著者は本書において、すべては一つであると感得する神秘体験について触れつつ、その一方で上のように神秘体験を経験した者とそうでない者との意思の疎通は極めて困難であることをも説明しているが、もし神秘体験によってすべては一つであると悟ったがために、その経験のない者と分断され、争いが生じる結果になるとしたらなんとも皮肉な話である。
 
楽山には関係のないことです。楽山が物を言えば、混乱要素にしかなりません。楽山こそ「意思の疎通は極めて困難」な人です。なにせ、人の言うことを聞いていないのですから、どうしようもありません。「争いが生じる結果」にならないために、楽山は黙るべきです。
 
しかし考えようによっては、これを乗り越えられるかどうか、乗り越えるとしたらどのように乗り越えるかということが、その神秘体験の正統性を推し量る材料となるのかもしれぬし、
 
「乗り越える」という言い方にだまされないでください。こういう企みが、楽山の特徴です。人間らしい知恵の欠乏しているところを、詭弁の悪知恵でごまかして、それこそ、「乗り越え」ようとするのです。
 
結局、霊が分かるっぽい自覚の楽山は、結局、神秘体験を受け入れて、自分がそうだと言いたいのでしょう。孤独なヒーローを、三文芝居で、演じているのでしょう。神秘体験を「乗り越える」前に、楽山の妄想刷り込みを、受け入れることなく、廃物として、乗り越えるべきです。
 
どう「乗り越える」というのでしょう。中身のない楽山が、中身のないキレイごとを言っても、何の足しにもならないのに、言葉だけ、もっともらしく付けて、分かっている自分、許容力のある自分を、捏造アピールしてきます。
 
そして「神秘体験の正統性を推し量る材料となるのかもしれぬ」・・何も言わないよりマシと思うのでしょうか、否、楽山は、何も言わないのと同じです。何か言い得たことにしたいだけなのです。この、楽山の、ごまかしこそが、楽山が異常な疲労を与える大きな要素なのです。
 
もしそうであれば、神秘体験とは神秘体験そのもの以上に、その後その人物がどのように変わるか、またはどのような道を選択するかということこそが重要だということにもなりそうだ。結局、神秘体験の本当の意義はここにあるのかもしれない。
 
霊が分かるっぽい楽山は、どう変わったのでしょう。知性が無知性になり、感性が不感性になって、嘘を吐き、妄想を振り回して、詭弁を弄するようになって、こともあろうに、人間の、最も醜い有り様を、恥も知らずに、ずっと、見せびらかし続けているのです。
 
「神秘体験の本当の意義」だそうです。やっぱり信じているのですね・・ということです。だまされないでください。楽山は、恐らく自らの神秘性を認めて「人物がどのように変わるか」「どのような道を選択するか」が本当の意義だと言っています。つまり、受け入れ前提の発言です。
 
結局こういうことになるから、楽山の毒性は、その詭弁と刷り込みによって、病気を伝染することになるのです。これは、偽善者の、そして、体質的病質者の、必然であります。実に、楽山は、まわりくどくて否定しにくく、かつ、執拗に、刷り込んでくるのです。
 
人の言うことが理解できないで、自分の言っていることが人に理解されるべきだと訂正不能に思い込んでいる人、自分の非を認めないで、人の非を当然のように云々する人、あらゆる悪と不義を人に向けて、自分に向けず、お山の上から駄弁と詭弁を弄する人、それが楽山です。
 
楽山の言を否定する根拠は、楽山の今までのブログなどの発言です。だから、また、否応なしに、これから言うであろうことが、新たな根拠となってゆくでしょう。楽山は、恐らく、いつまでも、どこまでも、敬虔と謙虚から、真実の言論から、はてしなく遠ざかってゆくでしょう。
 
楽山のような人は、恐らく、無反省だから何も学習せず、無責任だから何もはっきり言わず、一生を煙の中で過ごして、主観においてだけ、断定していないから自分はバランスが取れているつもりでいるのでしょう。・・はっきり言って、人間ではないです。
 
そう言えばそうかな・・なんて思ったら楽山の思うつぼです。誠意の代わりに作為、善意の代わりに悪意、説明の代わりに詭弁、謙虚の代わりに丁寧語、魅力の代わりに誘導、それが、楽山です。決して、関わらないようにしてほしいと思います。
 
 
聖的独り言

聖的独り言
 
 
(2021年07月14日)
 
 
 
  ヨブ記とお叱り
 
ヨブ記などを読んでみますと、
神様に叱られているような気がします。
一人称を用いるので恐縮ですが
「お前(人間)は私(神)の造ったものだ。
私のものだ。
私のものを壊し塵に帰すのに
いちいちお前の考えに沿って説明し納得させ
了承を得る必要がどこにあるか!」
という具合に。
 
被造物である私は泥の中に
ひれ伏すしかありません。
ヨブ記では神様が言葉をかけてくださる。
今の世においては神様の声を聞くこともできない。
異言も止(や)み、預言も廃(すた)れた。
しかし、いや、だからこそ
代わりにヨブ記も福音書も含む聖書がある。
 
 
  祈り・恐れてはならないもの
 
生も死も恐れている
それ以上に神を恐れている
同じくらい主を頼みとしている
 
♪迷わば訪ねて曳(ひ)き返りませ
 
この先たとい人を世界をこの国を
いかなる艱難(かんなん)が襲って来ようとも
 
♪世の友われらを捨て去るときも
 
たとい死の陰の谷を歩むとも
わざわいを恐れません
と言えますように
 
(2000年代か)
 
 
 
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  読書2
  
   読書一般でもありますが
   ここでは聖書とその関連と楽山批判がメインです。
 
 
私は、あまり本を読みません。読書障害の傾向があります。他の人々から、読書のスピードについて1時間に50~100ページ~などと聞いたことがあり、ふるえあがりそうでした。読んでいても、また、少し前に戻ったりするので、なかなか進みません。疲れます。
 
中学の頃か、パールバックの「大地」を読んだことがあります。私が読んだ唯一の長編小説です。大偉業を成し遂げた気分でした。母に告げると「続きが読めなくて残念ね」と返されました。・・これが読書好きなんだ・・と思い、自分の読書障害に気づくきっかけになりました。
 
私が読める本は、次が読みたくなるように引き込んでくれる本、または、これを読まなかったら人生成り立たない、例えば、教科書のような本、などです。この「など」は、とても狭い。
 
小説より短い詩のほうに興味が行くのは必然だったようです。現代詩文庫は十何冊ほど読んだかな。理解してるかどうかは別です。近代詩では、中原中也が、いちばん好きです。
 
それで、私には、1ページ程度のブログ、というのが合っているのでしょう。その私が本の読み方を語るのは、おかしいわけですが、本というより文章の読み方なので、1ページ、1コメントにも、共通するような読み方はあるだろう、ということです。
 
 
ネットの病的ナルシストとして私のブログで既に資料となっている楽山は、心で読むよりも、唯物論の思考が好きだと書いていました。読み方を好みで選んだりしていいのか、それで分かったような書き方をしてよいのか、という問題があります。
 
しかし、それよりも、問題なのは、楽山の言う "唯物論" という言葉です。楽山の言葉を拾ってみると、「保守とリベラル、有神論と無神論、唯霊論と唯物論といった正反対の思想、価値観のどちらにも共感してしまうこともあるので」・・八方美人が正義とでも言いたいのでしょうか。
 
実際は、自身の "根無し草" ぶりを表しています。そして、「精神論者の傾向は強いのではあるが、唯物論のこういうところは有用だとつくづく思う。」・・どうやら、楽山に対して、心で読まない、心が無い、と言った私への当てつけのように思われます。
 
悪い意味で、すごいのは、楽山が、唯物論、というデカい言葉を、平然と使っていることです。こういう、学術用語、専門用語を使うのが、楽山の好みであり、気取りであり、見栄なのでしょう。今まで、学問の言葉を愛し、学問することをサボってきた楽山ならではのことです。
 
(ネットより)唯物論: → Wikiですが、なぜ載せたかピンと来なくなったので、文末へ移動。
 
観念論に対する唯物論。これは、自然科学の方法論のような気がします。間違っても、科学的見方からは程遠い、霊が分かるっぽい自覚の楽山には、欠片もないことだと思いますし、この唯物論で、宗教、信仰、神、などを表せるはずはないのです。
 
楽山の言葉の、とても、雑で、いい加減な選び方が表れています。機械論と創造論のことについても、同様でしょう。一般的にも推測~仮説です。聖書を読むのに、学説や仮説を学んでいなければならないというなら、信仰者になりうるのは、学者だけということになりますが、違います。
 
キリストが、誰に教えを垂れ、誰を愛したか、ということを思えば、聖書を読むときに、特殊な知能を要するような言葉は必要ないはずです。
 
それに、マルクス主義の唯物論は、革命の原動力となったわけですから、学問の外皮を持ちながら、結局は、人を動かす情動に訴えるものだったわけです。善かれ悪しかれ、心がないところに革命は生まれません。
 
上から引用しますが「理念や価値観、意味や感受性など精神的、文化現象が経済や科学技術など物質的な側面によって規定(決定ではないことに注意)されるとする立場」「社会の主な特徴や社会変動の主な要因が経済の形態やその変化によって規定される」
 
世の中、金や、金や、という意味でしょうか。違うと思います。また、それが革命で良い方向に実現したとは思えない歴史だし、金は必要だけど、金だけが生き甲斐を生むとは、到底、思えません、という、一般論となっていることで、ここは十分でしょう。
 
私は、"論" というもので人間は、まともには動かないと思っているので、あまり興味はありません。物質的欲求が人を動かすというのは、悪い意味のほうで、信仰・宗教にも登場してきます。
 
楽山が、これらの論を理解しているとは、これまた、到底、思えません。そういう理論立ててゆく筆致が、楽山に見られたことは一度もありません。楽山の理屈は、これまで、結局、視野狭窄と短絡で出来ていました。
 
以上をもって、楽山は、私に、心で読んでいない、と言われたものだから、心ではなく唯物がよい、などと、短絡した視野狭窄で、前から言っている、"唯物論の字面" だけを拾って、都合よく利用し、かつ、大失敗しているだけなのです。
 
楽山が、ずっと、心霊について書いてきたことが、半端ながら、楽山の唯物論を、否定しているのです。聖書は、常識的な理路と感性をもって、キリストと救われた人々との心の交流、その愛と共感、という見方をしないならば、一行も読んだことにはならないのです。
 
楽山が、有名人や学者の言を引用して語ることは、極端に自己愛に執着して、かつ、字面だけを受け取って書いていることですから、引用元に対する侮辱であります。決して、真に受けないでください、そして、近づかないでください。
 
 
読書したふり?2

読書したふり?
 
 
(2020年06月21日)
(2021年06月27日、再録+)
 
 
 
  わかる
 
わかる
という心の励起状態は
少なくともある種の到達感
あるいは多かれ少なかれ感動を伴なう。
 
私はバカみたいに
四十代後半になって
つまり全く無益なことだが
高校数学のお勉強を時々していた。
論理であるはずの数学においてさえ
例えば二次関数曲線の長さとか、
X軸回転体の表面積とか、
1‐(1/2)+(1/3)‐(1/4)+…など、
高校の時には考えなかったことが
解けたときと似たような感じを覚える。
 
数学は独特の感覚的理解を要求するので、
高校レベルを超える数学には
もはや私の感性はついていけない。
 
詩や文学・芸術にも感性が必要だが
それもまたつくづく限界を感じる。
向き・不向きを分けるセンスというものが
いろいろな分野において要求されるが、
信仰だけは人間性以外の
特殊な感性や知的資産を要求しない。
 
理解する・わかるということは
その漢字とは裏腹に
多分に情緒的な享受であり
そこから広がっていく心の解放感
を必ず伴なう。
そうでないものは単なる辻褄合わせか
無理な思い込みに過ぎない。
 
(90年代か)
 
 
 
数学は、数学の感性と理路を持っている人の間で、交流できる言語となるでしょう。
詩は、詩の感性と発想を持っている人の間で、交流できる言語となるでしょう。
 
少なくとも日常的な人間の感性と知性を持っている人なら、多くの文章を読むことも書くことも出来るでしょう。ふつうの感性と知性は、学習することで、磨かれます。
 
しかし、その感性と知性を、努力もなしに、妄想的な前提で固定してしまう自己愛性人格障害者には、読んで受け取ることも書くことも、歪んでしまうのです。そういう者が、一人前に書こうとしても、書けないために、嘘を吐いて偉そうに見せたり、詭弁で誘導するしかなくなります。
 
体質的な自己愛者は、丁寧語や、優しそうな言葉で、取り入って、婉曲表現の多い文章に、よく読めば、偏った思想の流れが見えてくることがあります。遣り取りとしていると、学習の欠乏と、筋の通らない妄想的な内容や、隠された怨念や攻撃性が表れることがあります。
 
自己愛者は、他者の意見を受け取らずに、自分の意見を繰り返し、手を変え品を変えて、言ってきますが。訂正不能であるばかりでなく、小学生のように幼稚な内容を、学者の名前でごまかして、知識人を気取る有り様が、その異常性を見抜くきっかけになるでしょう。
 
人間は、他者の意見を受け取って、不十分ながら理解したうえで、責任をもって、つまり、間違ったら訂正や反省をすることを通して、言論を生かしてゆくでしょう。少なくとも、そういう努力の姿勢が見えてくるはずです。
 
しかしながら、自己愛者が、こちらの疑問に全く答えられず、反論も弁明も出来ないだけでなく、さらに、何も理解しないまま、自己顕示欲だけから、気取りだけで、学問や学派や学者を語る様は、とても醜いものです。そういう意味では、自己愛者は、現実のホラーと言ってもよいのです。
 
反省を全くしないこと、人のことばかり言い、人のせいにばかりすることから、自己愛者だと知ったら、その者が、決定的な破綻をきたす前に、出会ったら、逃げること、関わらないことを、お勧めします。ひどくなれば、犯罪に結びつきやすいと思います。
 
ドラマなどに出てくるような、怒りと笑いと芝居だけで出来ているような犯罪者は、自己愛性人格障害、人格破綻者、精神病質、サイコパス、情性欠如者、などと呼ばれます。似たようなものです。病識と自覚は、全く見られません。どうか、くれぐれも警戒してください。
 
 
俗にナルシストと言われる人の中には、単なる自慢好きも含まれているかもしれません。そういう人と、自己愛性人格障害者という病的ナルシストの違いですが、前者は、人が困っていたり、のっぴきならない事態であるときには、それを感受して、一気に実直になれることでしょう。
 
後者の病的ナルシストは、いかなる事態にも、どんなに人が迷惑していても、それ以前と同じように、平然と、自己愛からの発信を続けるだろうと思います。その経過は、批判を開始してから2年、変わりなく、謙虚を装って、ときに笑いながら、自慢を続けてきた楽山に、如実に表れてきました。
 
病的自己愛者には、ブレーキがかかることはないのですが、都合が悪くなって、様子を見たり、やり方を変えてみたりはあると思います。それは、反省とは全く異なるもので、策の練り直しであり、狡猾さが表れているのです。
 
(2021年06月27日)
 
 
 
2021年06月26日
三島由紀夫の霊言?
「幸福の科学とは何だろう?」ブログ by 楽山
 
楽山は、この記事で、ORによる「三島由紀夫の霊言」なるものへのリンクを貼っています。それが、どうだとかは、書かずに、リンク付けて、何が言いたいのでしょうか。楽山自身と共通点のある教祖のことを書いて、おかしいでしょ・・と言いたいのでしょうか。見るがよい・・だけでしょうか。
 
個人メールか、宣伝ビラのような考えでしょうか。書けば、見る、見れば、分かる、という気安さで書いて、ブログで発信することの公共性を、ほとんど考えない楽山です。
 
 
 
→ (ネットより)唯物論:参考までに。
観念や精神、心などの根底には物質があると考え、それを重視する考え方[1]。
唯物論は、文脈に応じて様々な形をとるが、主なものに以下のようなものがある。
世界の理解については、原子論と呼ばれる立場がよく知られている。これは原子などの物質的な構成要素とその要素間の相互作用によって森羅万象が説明できるとする考え方で、場合によっては、森羅万象がそのような構成要素のみから成っているとする考え方である。非物質的な存在を想定し、時にそのような存在が物質や物理現象に影響を与えるとする二元論や、物質の実在について否定したり、物質的な現象を観念の領域に付随するものとする観念論の立場と対立する。→経験論、現象学も参照のこと
生物や生命の理解に関しては、生命が物質と物理的現象のみによって説明できるとする機械論があり、生気論と対立する。また、生物が神の意志や創造行為によって産み出されたとする創造論を否定し、物質から生命が誕生し、進化を経て多様な生物種へと展開したとする、いわゆる進化論の立場も、唯物論の一種と考えられることがある。例えば、ソ連の生化学者アレクサンドル・オパーリンが唱えた化学進化説はその典型である。
歴史や社会の理解に関しては、科学的社会主義(=マルクス主義)の唯物史観(史的唯物論)が特によく知られている。理念や価値観、意味や感受性など精神的、文化現象が経済や科学技術など物質的な側面によって規定(決定ではないことに注意)されるとする立場をとる。また、社会の主な特徴や社会変動の主な要因が経済の形態やその変化によって規定される、とする。
 
 
 
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  楽山の汚物
 
 『現代語訳 論語と算盤』渋沢栄一著、守屋淳訳
 2021年04月01日 楽山日記(LD)
 
 
極端な例をもって、全体を否定する、という楽山の詭弁です。
 
性根の腐っている楽山は、書くことをやめません。人間になり損なっている者の、幼稚な詭弁と、それで出来たつもりでいる醜さを、また、味わうことになります。
 
本書では全編に渡って、人生においてはバランスが寛容であることを説いている。たとえば、道徳を重視するあまりに経済を無視してはならぬし、儲けのみを目的として道徳を軽んじてもならない、無駄遣いは止めるべきだがケチであってはならない、事を起こすには細心の注意を払うべきだが時に大胆さも必要であるというように、道徳と経済、個人と社会、形式と内容、保守と進歩、慎重と大胆などの相反すると覚しきもののうち一方に偏することなく、道理にもどついて判断すべきというのである。
 
前に、楽山は、バランスを取ることについて、宗教を信じないのはよくないが、信じ過ぎるのもよくない、というようなことを言っていました。一次元の子供レベルの知識しか持っていない楽山らしい理路なのです。そういうバランスが通用しているように見える例が、上記のようなことでしょう。
 
しかし、宗教、特に信仰においては、信じているか、信じていないか、ということが、文章で表せることではないのです。文章はヒントとしてあるだけです。
 
信条と呼ばれるものも、人の言葉で表されているので、ヒントあるいは備忘録のようなものであって、それを思い込む信じ込むのが、信仰ということはないのです。信仰は、心にあります。
 
そこが分かっていないのに、楽山は、驚くべき厚かましさをもって、条文のような、命題のようなもので成り立っている、という、概念的な皮相な考えにしがみついて、精神が発達しなかった者であることを晒してゆく人生となっているのです。
 
心で共感することのない楽山は、キリストの愛にも、人の愛にも、触れることが出来ません。よって、それでも、自分は、バランスが取れていて、偉いんだ!・・と言いたいがために、宗教を、一方と、他方で、バランスを取るものだと言ってきます。
 
どちらのほうにも、また、バランスにも、楽山はいません。楽山には、今までの、おびただしい嘘と詭弁の積み重ねによって、立場はありません。
 
楽山にあるのは、自己愛性人格障害からの言い張りを正当化するために、言葉だけを利用する盗人根性の見苦しさだけです。何を言われても不感不応で、人を傷つけることを楽しみながら続けるのは、サディストと呼ばれます。
 
著者の言葉によるならば「決して極端に走らず、中庸を失わず、常に穏やかな志をもって進んでいくことを、心より希望する」(p.138)とのことである。これは至極まっとうな考え方であろうし、このような人生観を提示する本書が、長く読みつがれているというのも納得である。
 
渋沢栄一氏が語るような中庸に、楽山こそは、最も遠い人です。自己中の満悦者にあるのは、自分軸の妄想による自己正当化だけです。よりによって、同氏を引用して、「至極真っ当」などと、身の程を知らないにもほどがあります。
 
人間の言葉は、伝達のための暗号ですから、時と場合と個人によって、違った意味を持ち得ます。楽山という思い込みしかない半端者は、それを、自己中心に確定したように見なして、概念という概念を、楽山のダンボール製のような机上の概念として、どこにも通用しないバランスを取っている気でいるのです。
 
思想は、極端な解釈によって尖鋭化することがあるので、それを戒める意味で、同氏は、バランス・中庸ということを、言っているように思えます。キリスト教内外においても、そのような傾向を持っているカルト的な人はいるだろうと思います。
 
しかし、それは、間違っていて、キリスト教ではないのです。物や肉体の奇跡は、事実かどうか、ずっと不明です。そういう奇跡頼みは、いちばん大切な、共感という心の奇跡をスポイルしてしまいます。
 
この共感こそが、楽山の敵なのでしょう。どう批判しても、いつも、宗教といえば、霊とかの超常奇跡の話にしてしまいます。楽山は、誰にも、何物にも、共感することが出来ないからです。
 
正しくないカルトと、信仰とを、同一視する、という、いつもながらの詭弁で、楽山は、今回も、宗教否定を刷り込んでくるのです。申し上げたいのは、楽山の自分信仰と、楽山の宗教観こそは、まさに、大きく偏って尖鋭化した妄想なのです。中庸もバランスもないのが、楽山です。
 
いちばん極端で邪悪な場合をもって、キリスト教全体をおとしめる詭弁であります。楽山は、いつもいつも、実に、汚いです。
 
ところで本書には宗教について興味深い記述が二箇所ほどあった。一つは修験者による神のお告げのまちがいを指摘してやり込めた話である(第5章 理想と迷信)。この逸話は大河ドラマでも描かれていたそうで、痛快とするツイートが沢山あったのだった。
もう一つは奇蹟がないことをもって、キリストより、孔子を信じるとしている箇所である(第7章 算盤と権利)。その理屈はどういうものかといえば、キリスト教では奇蹟を説いており、これを「事実だと認めてしまうと、知恵はまったくくらまされ」「一滴の水が薬品以上の効果をあらわす」などと信じることにもなってしまう。
 
物や肉体の奇跡があったかどうかは、キリスト信仰の中心ではありません。現代において、滅多に起こっていないことは、人間の救いにはならないからです。
 
そういう超常の魔法を思い込んでいるのは、他でもない、楽山のほうです。楽山は、心理学の話を心霊と結び付けたり、霊言を信じていたり、嘘と詭弁で、何の役にも立たない迷惑話を広めようとする煩わしい精神の詐欺師に過ぎません。
 
このように、最悪の例が自分だと気づかないまま、楽山は、執拗に、深い墓穴を掘るのが生業です。病質者は、いかなる批判も気にせず、また、似たような詭弁を書いてきます。決して相手にしないでください、関わらないでください、近づかないでください。
 
孔子にはこのような奇蹟、迷信はない。「宗教やその教義としてはキリスト教の方がよいかもしれぬが、人間の守る道としては孔子の教えの方がよい」。孔子について「この点こそ、わたしがもっとも深く信じる理由であり、またここから真の信仰も生まれてくるのであろう」とのことである。
 
奇跡と迷信に満ちている楽山が書いています。自分の宗教についての誤解~曲解~妄想を、宗教を否定する材料にする楽山は、もっとも、いかがわしい、インチキ宣伝屋といってよいでしょう。
 
偉人と呼ばれる人と自分を同一視して、背伸びばかりして、有頂天になって、大事な人間性と良心を、ドブに捨ててゆく楽山です。
 
自分は、宗教全般に懐疑的であり、怪力乱神は語らずという態度は当然であり、賢明なことであると考えつつも、ルルドの奇蹟のようなことは絶対にないとは言い切れぬのではないかと思ってしまう性質なので、著者のように合理主義的で割り切った考え方ができる人物には驚きとともに一種の羨望を感じる次第である。
 
楽山は、宗教に対して悪意を持っています。そして、自らも、霊能者気取りです。どういう意味かというと、今ある宗教は偽物、自分だけが中庸で、正しい、という宣伝をするカルトなのです。百害あって一利なしと判断しています。
 
人は、尾ひれを付けたがります。楽山は、ゴシップを好むように、尾ひれを好みます。楽山は、尾ひれに過ぎません。理解の実質は皆無です。間違っているのに、それを、ずっと続けています。
 
楽山は、噂と超常が趣味の、自己愛性人格障害者です。だから、何を言われても、答えられないのに、平気なのです。そういう次第なので、楽山の、インテリ気取りの、大仰な言い方は、ことごとく芝居です。楽山は、いつも、寄せ集めの口を持ってきて、詭弁に悪用し、汚物にしてしまう人です。
 
 
汚物

汚物
 
 
(2021年04月02日、同日一部修正)
 
 
 大人の教養TVで、幸福の科学について解説していた
 2021年04月01日 幸福の科学とは何だろう?ブログ(楽山)
 
 
*評価
大人の教養TVの動画について、アンチHS界隈では高評価する人もいれば、事実認識に関して不正確なところもあるとしてダメ出ししている人もいた。
ちなみに自分はどうかといえば、両者の間をとって、外部の人の解説としては上々の出来ではないかと思いつつも、不正確な部分についてはもう少しなんとかできたのではないかと惜しむ気持ちもある。
 
自分は中庸だ、自分は他とは違うんです、という、楽山の気色の悪い丁寧語です。だまされないようにしてください。「上々の出来」「不正確な部分」・・いずれも、根拠を示していません。「惜しむ気持ち」・・嘘だと思います。根拠は、約2年にわたる楽山批判です。
 
*広報チャンネル
「幸福の科学」広報チャンネルは、今のところ、この件については沈黙しており、何らの動画も発表していない。宏洋氏の動画には必ずといっていいほど反論するのだけども、今回はそれはしないのだろうか。もし他者を巻き込まぬためにそのような判断をしたのだとするならば、それは賢明な判断だと思う。
 
楽山は、正当な批判も反論も成り立ったことはありません。根拠は、約2年にわたる楽山批判です。楽山は、無反省、無責任、無責任の正当化、自己愛性人格障害、無神経、無理解、高等感情の鈍麻、嘘と詭弁、などの、卑怯な言い逃れと、いちゃもんしか書けない病質者です。危険です。
 
 
(2021年04月02日、追加)
 
 
(古い記事は載っていません)
 
http://st5402jp.livedoor.blog/
(古い記事もインポート済み)
 
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