ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

タグ:病質者

 
  無責任の楽山が批評?
 
 信者と批判者の対話(1)暴言と正義
 2022年05月06日
 幸福の科学とは何だろう?ブログ by 楽山
   を批判。
 
 
自分の弁明が出来ない楽山は、他者同士を争いを、批評する体(てい)で、もてあそんでいます。責任を負う気のない楽山は、議論と交流の相手として失格です。まだ悪夢が覚めないようで、評論家気取りでいるのは、自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)という病気からです。
 
この記事は、当事者二人よりも、楽山はどうかという視点で書いています。他者の引用が多いですが、その批判対象の災いに、楽山がいちばん当てはまることを、楽山は気づかないようです。そのまま、楽山批判と受け取っても、大きく外れてはいません。
 
私の楽山批判というテーマに関係ない画像など、省略します。
 
 
*まえおき
ツイッター上で、初夏氏と月影氏のやりとりがあったので、その概要を記録しておきたいと思う。
双方のコメントは、「名前 コメント(日付)」という風にコピペしておく。ツイートの埋め込み、スクショなどの方法もあるが、初夏氏はツイートをすぐ削除するし、スクショは嫌がるので…。日付は煩雑さを避けるため、ツリーが変わる場合だけつけることにする。
さて、いよいよ事項から本題に入る。
 
楽山は、こちらの意見を受け取りません。なのに、議論したふうを装います。こういう人は、相手にしてはいけません。都合の悪いことは、スルーすると言って無視するのです。だから、議論の理路と文脈と流れが成立せず、読むんじゃなかったということになります。楽山を相手にしてはいけません。
 
 
*呼びかけ
まず初夏氏は、対話の呼びかけを繰り返していた。
(省略)
初夏氏は、ここでは「初夏→扉は開いてます」に変えている(初夏氏はこのように頻繁に名前を変える)。また初夏氏は、少し前から以下の主張を繰り返し提示している。
 
楽山は、恐らく、自由→楽山だけでなく、数えきれないHNを使っていると思います。シャロームshalom、易坊なども、仲間ですが、成りすましかもしれません。ヤフーブログ時代には、他にも、様々なHNが荒らしてきたことがありますが、楽山かもしれません。
 
 
*応答
上の呼びかけに、月影氏はこのように応じた。なかなかに手厳しいが、初夏氏のこれまでの言動を知る者にとっては当然の指摘ではある。
月影2nd
よく分からん御仁だね(呆)。私は名前を変えて来たキミとずっと直接対話して来ているぞ。自らブロックして隠に籠って持論垂れ流していたのは誰だ?
『私から距離を取り』
こう言う嘘を直ぐに吐くから皆から信用されないのだ。
私は自分の論が正義だなど言った事ないし思っても居ない。私の暴言とは?
午後8:19 ・ 2022年5月5日・Twitter for iPhone
 」
 
「ブロックして隠に籠って持論垂れ流」すのは、楽山が、ずっとやってきたことです。楽山とは、双方向が成り立ちません。楽山とは、対話になりません。楽山を相手にするのだけは、やめたほうがよいと思います。単方向の垂れ流し、批判に返しても、無根拠の、いちゃもん発作の機関銃です。
 
 
月影2nd
自らのツイートを消して自分の言葉に責任を持たない卑怯な行為はやめなさい。
質問にまともに答えなさい。
ちゃんと前に答えているだの、読み取れ無いだのと誤魔化す事もやめなさい。
対話相手に意思を伝える努力をしなさい。
批判と暴言の違いくらい理解しなさい。
加納氏の態度を見習いなさい。
 」
 
楽山は、こちらの批判に答えることが出来ません。また、ツイッターを非公開にしました。楽山は、嘘と詭弁と怨念しか持っておらず、理路が組み立てられないのです。つまり、楽山は、批判と、悪口の区別がつかないのです。こういう楽山に、他者を評価したり、他者に意見するという資格はないです。
 
 
月影2nd
これらは何も特別な事ではない。議論する上で普通の常識。
私は幸福の科学と幸福実現党、大川隆法氏が、外に向けて発している言動を扱って批判している。その言葉通りに受け止める。信者独特の解釈は一切しない。教義にも興味は無い。現実的問いに、宗教解釈で返答されても納得しない。理解したかね?
 」
 
楽山には「議論する上で普通の常識」がありません。否定を言い、肯定を言ったから、責任問題は発生しないなどという、信じられない詭弁を、平気で言ってきます。真理と心霊の区別もつかない人です。遣り取りのための言葉と心と、どちらもないので、嘘を吐き、詭弁を弄し、混乱させてくるのです。
 
 
*混迷
これ以降、わちゃわちゃがはじまる。
扉は開いてます
>私の暴言とは?
相変わらず文章が弱いですね。
①『卑怯者 ・・・中略・・・ いつもの様に反論出来ずに逃げを決め込む(呆)』といった類いの暴言と記しています。
②また、添付の画像にも書いています。
>私は自分の論が正義だなど言った事ないし思っても居ない。
 」
 
楽山は、衝動的に多数の記事を書いて来たことも、長いだけの記事を書くこともあります。それは、楽山が、自分はこんなに書けるんだ・・と自慢し、威嚇するようなものです。楽山には、節操がなく、何かを追求する気もありません。楽山は慢心して、出力だけですが、それは放尿のようなものです。
 
 
扉は開いてます
相変わらず文章が弱いですね。
アナタの中に何らかの「正義」があるので、延々と粘着するわけですよね。
③その「正義」を語って下さいとリクエストしています。
質問が難しくて、理解できない状態でしょうか?
 」
 
楽山は、自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)の自己中なので、自我と我欲に、固定して執着しています。それを、ごまかすために、冷静を気取りますが、理路の破綻が、3年にわたって、バレてきたのです。それで、また、書いて公開するというのは、病質ゆえなのです。
 
 
扉は開いてます
月影さんへ
文章をしっかり読みましょう。
そして、しっかりと記しましょう。
 」
 
楽山は、文章をしっかり読めず、独りよがりで、勝手な偏見と解釈で、キリスト教を否定したり、部分肯定したりしてきました。このことから、楽山は、無反省、無責任、無理解、わがまま自己中であり、殆ど、子供のような意地しか持っていないと判断しています。
 
 
月影2nd
ダメだねキミ(哀)。
ね、自分が日本語を読み取れないって事を自覚出来ないね。私がキミに提示した条件を、全く理解出来ないとは。
自分の正義に酔ってるのはキミ。そもそも私は『正義』って言葉を信じてたのは小学生まで。この世に絶対の正義などない。と、私は思っているしね。大人になりなさい。
 」
 
つまり、楽山は、普通の「日本語を読み取れない」人です。それを「自覚できない」ために、書いただけで、自己満悦できるのでしょう。これは、人間として異常であり、論者として欠格であり、人間関係として不成立であります。
 
「絶対の正義」は、神のものであり、人には手に負えない者です。楽山は、今まで、相対=非絶対を、まわりくどく書いたつもりで、実際は、自己の絶対に固着してきました。まことに、楽山は、髭の生えた子供なのです。誰の助けにも参考にもならないと思います。
 
 
扉は開いてます
私は①②③を返答しています。
これに対するアナタの見解は?
 」
月影2nd
①この手のノラリクラリのやり口が卑怯と示している。暴言と解釈するのは勝手だが、私に暴言の認識は無い。キミを憐れんでは居るがね。
②それらもキミがお得意の他人の発言を切り貼りしているシロモノ。その中のどれが私のモノで何を言っている具体的に示してから質問しなさい。
 」
 
楽山はねちねち執拗で、それで、大量の記事を一度に書いてきたりしたのでしょう。「ノラリクラリのやり口が卑怯」で、多く、他者の発言を切り貼りすることで、ごまかしてきます。自分では、何も成立せず、何も書けず、何も出来ない人なのです。上っ面を舐めてご機嫌の楽山に関わらないでください。
 
 
月影2nd
③本当に読解力ないね(哀)。
私は絶対の正義などないと思っているので、私の中の正しさを、他者が正しいと受け止める事を求めない。大川隆法が正しいと思って、他人にそれを強要する君達とは倫理観が違うのだよ。
 」
 
楽山は、自我が絶対の正義になっています。ゆえに、いつも、上から教える、評論する、という態度で書いてきます。全体のベースが自己愛前提なので、楽山の書くことは、成り立ったことがありません。それで、インテリ気取りで無責任に書いて自己満足するネットに巣食っているのでしょう。
 
 
月影2nd
キミは話をすり替えていくので、以降は私の示すテーマにのみ質疑応答します。それ以外は無視するからね。幼稚な話に付き合いきれん(滅)。
大川隆法氏の霊言が社会的に認められる方法。
大川隆法氏が神である証明。
キミの具体的で現実的な回答を期待します。
 」
扉は開いてます
>キミは話をすり替えていくので、以降は私の示すテーマにのみ質疑応答します。
オイオイ、それは話しのすり替え過ぎでしょ。いくら何でも、それはムチャ過ぎますよ。
私は①②③を返答しています。 これに対するアナタの見解は?
扉は開いてます
特に、③アナタの「正義」は何ですか?
私は始めから、これをお聞きし続けていますが、まだ、お答え頂いておりません。
扉は開いてます
絶対の正義ではなく、アナタの「正義」を問うているのですよ。
 」
 
楽山は、何事につけ、暫定的な結論さえ持ちません。責任を負いたくないのです。楽山にとって、言論は、真実の追求ではなく、ニヒルのオモチャに過ぎません。誰とも、対話が成り立たないのが、楽山です。丁寧で常識を装って書いてくる楽山の言説を、どうか、真に受けないでください。
 
 
*論点整理
以上が、今回のやりとりの概要だが、次に個人的な感想を述べてみたい。
まずここでの論点は、このようなものであるらしい。
①「卑怯者」と暴言を吐かれた!
②神仏を冒涜、風刺、嘲笑するのはけしからん!(添付画像)
③月影氏の正義とは?
 
楽山は「卑怯者」です。「冒涜、風刺、嘲笑」によって、神を、紙くずのように扱うのも楽山です。悪い言葉が、たいてい、楽山に当てはまるのは、なぜでしょう。楽山には正義がなく、正義につながる素材もなく、正義を求める心もないからだと思います。
 
 
*暴言と批判
①については、双方の言葉を比べるとこうなる。
初夏氏
「アナタはいつも、私から距離を取り『卑怯者 ・・・中略・・・ いつもの様に反論出来ずに逃げを決め込む(呆)』といった類いの暴言を吐いて来ました。」
月影氏
「自らのツイートを消して自分の言葉に責任を持たない卑怯な行為はやめなさい。~省略~ 批判と暴言の違いくらい理解しなさい。」
 
楽山は、ツイートを非公開にして「自分の言葉に責任を持たない」で、好きなように言いたいのでしょうが、それは「卑怯」者の所業です。そういう「卑怯」さは、前からでしたから、特に、驚くこともないですが、破綻百出で、なお、平気でいることが、恐ろしい病質なのです。
 
 
月影氏は、初夏氏が自らの言葉に責任をもたず、すぐツイートを消してしまうことを卑怯としている。つまり、きちんと根拠を示した上で、卑怯な振る舞いを批判している。
根拠のない乱暴な決めつけであれば「暴言」だろうが、相応の根拠があり、大方から同意を得られるだろう評価による発言を「暴言」とするのはむちゃである。というか、ツイートを消して逃げることを「卑怯」と言わずして、なんと表現したらいいのだろうか?
一方、初夏氏はどうかといえば、都合が悪くなれば自ツイートを消して逃げることを繰り返してきたことは伏せて、自らには何らの落ち度もないのに、「卑怯者」呼ばわりされたかのように書いている。これはズルい。
 
楽山について言えば、「乱暴なな決めつけ」で「暴言」と同等であり、それが、常態となり、日常となり、人生となっている人です。楽山はどうかと言えば、スルーすると言って無視しながら、私のサイトに書き込んで文句を言いたいようでした。とんでもないことです。
 
楽山との遣り取りは3年前に、多大な疲労を残して終わっています。何を言っても無駄・・ということを、遣り取りのリアルタイムで味わい続けていたら、こちらの人格が破壊されてしまいます。楽山が、理路を混乱させる悪性の変質者だからです。
 
 
*冒涜、風刺、嘲笑?
添付画像(省略)をみると、アンチ諸氏は神を冒涜している云々と書いてある。信者である初夏氏にとっては、〈大川隆法=神〉であろうから、大川隆法を批判することは、神を冒涜する行為になるのだろう。
でもこれはあくまで信者の論理にすぎない。もし大川隆法を批判することは、神を冒涜することであるというなら、まずは〈大川隆法=神〉であることを証明しなくてはならない。これをせずして、信者の論理を他者に当てはめようとしても無理である。
また月影氏は、HS批判はしても、風刺、嘲笑はしていないのではあるまいか。とりあえず自分にはそういう印象はないので、月影氏に風刺画がどうこう言っても見当違いと思う。
 
画像のセリフを書いておきます。
「人が最も残虐になる時は『悪に染まった』ときではない!!」
「真偽どうあれ、『正義の側に立った』と思ったとき」
なかなか、深い逆説だと思います。楽山の丁寧語の偽善に当てはまると思います。
信仰者である私は、自分を、正義の側にいるとは思いません、思えません。
 
既に取りざたされているORよりも、いまだ、目立たず、無名で、こそこそと、餌をあさるネズミのように、あちこちに向かって、自己愛・自己中から発信して、教えようとして、意見を言って、責任だけは負わない楽山のほうが、悪性度は高いと思っています。
 
 
*正義
 正義については、よく使われる画像にこういうものがある。(画像省略)
正義という快楽
月影氏はその発言からすると、正義についてこのような考えをもってそうである。
とすれば、月影氏に「正義を語れ!」というのは、トンチンカンにもホドがあるということになる。正義は主張すべきでないと考える人に、正義を主張せよと言っても仕方がないではないか。
初夏氏は、お手軽に正義を語るけれども、本来、正義とはそう簡単なものではない。この問題についてはもっとよく考えてみることをおすすめしたいと思う。
 
正義は「主張すべきでない」のではなく、人間は不完全だから、絶対の正義になることはないし、絶対の正義かどうかの判断そのものが出来ないと思います。誰も、自分の発言の影響を、果てまで追うことも、捉えることも出来ないのです。超常に舞い上がる楽山のようになってはいけません。
 
楽山の正義は、今までのことから、賛成でも反対でもなく、結論を出さないことになるようです。しかし、絶対でなくても、一定の正義を持っていない楽山は、それで、嘘を吐き、詭弁を弄し、人をだましてきたのです。暫定的な結論さえ、まとまらない楽山は、信頼性を失ってゆくでしょう。
 
楽山には、見解の芯がありません。楽山と付き合うと、そういう無為という人間失格~喪失の世界に住むことになります。それで平気なのです。いい加減が正しいと思っているのです。そのような人は、どこに行っても来ても、何の役にも立たないし、何の参考にもならないのです。
 
 
何処を向いても偽善の汁が出る

何処を向いても偽善の汁が出る
 
 
(2022年05月08日)
 
 
 
  ペンペン草
 
思い出すことは多いけれど
思い出と呼べるものがあっただろうか
思い出と、思い出し
しずくと、したたり
したたる果汁と
しぼり出す果汁
果汁を思う
思いは重い
物思い
果汁の味
果実の香り
草花の匂い
色、形
いつだったか
ペンペン草
生えていた
どこまで実際
どこまで想像だろう
危うい危うい
人の顔、その輪郭も
形も色も
印象ほどには
はっきりしないのに
覚えていると思っている
ぼんやりとでもいい
命ある間に綴ろうと
思い出のペンペン草、残りの
ペンが乏しく生える
 
 
  まずい味噌汁のんで
 
足元をすくわれたと思って
ポンと辞表を置いて
「くそくらえ」とでも言ってから
帰ってきた腐った脳みその
脳だけ置き忘れてきたので
俺の椅子に誰かがすわり
俺の机に知らない本が積まれ
ガヤガヤと会話が音になり始める
今朝を日常だと思ってしまう
 
 
  荒療治
 
ダニか他の虫刺されか
赤いブツブツ
かゆいけれど
かけば汁が出てひろがる
悪いものはたいていそうだ
毒には毒をと
タバコの火、近づけて
熱さが、痒みから痛みへ
一、二秒がまんして
軟膏を塗る
この荒療治は、しばしば
やり過ぎて水疱をつくる
破って中の液を
ティッシュで吸い取り
また軟膏を塗る
何カ所かやって
ひとつだけ治らない
絆創膏でかぶれて
ますます赤くなって痒い
悪いものはたいていそうだ
またタバコであぶったり
ちり紙でゴシゴシこすったり
手持ちのあらゆる軟膏を塗ったのち
愚かなことをしたと気づく
愚かなものはたいていそうだ
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
既に、悪行の破綻する末期が来ているのに、気づかないというのは、災いです。無意味な大量の投稿も、非公開も、他者の引用も、新しいことではなく、卑怯な病質の表れなのですが、楽山の因業でしょうか、全く気づかずに、まともに書いているつもりなのです。
 
 
 
 楽山のブログにコメントが付き、楽山がレスしています。
1. 月影2nd2022年05月06日 21:13
纏めて頂き恐縮です。
私のコメントには誤字脱字やらおかしな文章もあろうかと思いますが、気にしないで下さいませ(笑)。
リプを早くしろと煽られてたし、楽しい休日の夜、映画を観ながらだったので集中力も多少欠けてましたので。
但し、私の主張と発言の内容は、訂正も修正もするつもりは有りません。
楽山さんのブログを読まれる方にどう受け止められるか分かりませんが、幸福の科学を信奉する信者の全てが彼(対話相手)の様な人ではないのは承知しております。
あくまで私が批判し解答を求めているのは、幸福の科学と大川隆法氏であり、その言動です。教義の中身にはそもそも興味が有りませんので、批判は致しません。
長々と失礼致しました。
 」
 
2. 楽山2022年05月06日 21:49
丁寧なコメント、ありがとうございます!
私の方からも、幸福の科学の信者だからといって、みながこんな風ではないことを重ねて書いておきたいと思います。私が直接知っている信者さんは、大概が善意の人たちであるし、ツイッター上でも、きちんとした信者さんはおられます。心の教を学び、人格を磨いていたり、勉強家だったり、思い込みではなく、きちんとした事実認識に基づく発言を心がけていたりなど。
私は幸福の科学を批判することが多いのですが、ここはハッキリ書いておきます。
 
楽山のほうは、世辞と思いやり芝居が並んでいます。「大概が善意の人たち」と言っていますがアンチではなかったのでしょうか。「心の教を学」んでいない楽山です。「人格を磨いて」いない楽山です。「勉強家」ではなく都合のよい字面を漁っている楽山です。「事実認識」のない恣意の楽山です。
 
このように、かなりのインテリでも、楽山にだまされて、信頼してしまうと、ゆくゆく、人格破壊につながりそうなほどの混乱と疲労をもたらされる危険があります。楽山は、世辞と嘘の丁寧語で、すり寄って、どっちつかずの、いい加減さで世渡りをしている評論家気取りです。
 
楽山は、いわゆる偽善者なのです。3年余り批判しています。自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)だと思います。無反省、無責任、訂正不能で、好意的な言葉は全て嘘です。不祥事を全て他者のせいにします。最近になってツイッターを非公開にするのは、何か秘密がある証拠です。
 
楽山は、ネトウヨでもありますが、相手を振り回して快感を得たいのだろうと思います。霊能妄想があり、教祖願望があると思います。アンチであれば、信者については、「善意」云々だけでなく、基本的な曲解の信じ込みを言うはずだと思います。楽山には主張の軸はないのです。
 
 
 
私の「ウソの国ー詩と宗教」ブログ:
 
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  キリストの心2
 
 
キリストは、救われる人々に対して
物や肉体の奇跡をおこなっただけでしょうか。否であります。
 
こんなことが出来るから従え
という救い主でしょうか。否であります。
 
確かにキリストは
神の権威をもって語ったかもしれない。
物や肉体の奇跡も、私は、否定はしません。
しかし、それが、私が信仰者になった理由ではありません。
 
キリストは、大きな働きをする正しい善人を選んで義とし、救ったでしょうか。否であります。
 
神の前の、正直と本気、信仰には必要なのは、それだけです。
 
 
 (マタイによる福音書、口語訳)
8:2-5
朝早くまた宮にはいられると、人々が皆みもとに集まってきたので、イエスはすわって彼らを教えておられた。 すると、律法学者たちやパリサイ人たちが、姦淫をしている時につかまえられた女をひっぱってきて、中に立たせた上、イエスに言った、 「先生、この女は姦淫の場でつかまえられました。 モーセは律法の中で、こういう女を石で打ち殺せと命じましたが、あなたはどう思いますか」。 
8:6
彼らがそう言ったのは、イエスをためして、訴える口実を得るためであった。しかし、イエスは身をかがめて、指で地面に何か書いておられた。 
8:7-8
彼らが問い続けるので、イエスは身を起して彼らに言われた、「あなたがたの中で罪のない者が、まずこの女に石を投げつけるがよい」。 そしてまた身をかがめて、地面に物を書きつづけられた。
8:9-11
これを聞くと、彼らは年寄から始めて、ひとりびとり出て行き、ついに、イエスだけになり、女は中にいたまま残された。 そこでイエスは身を起して女に言われた、「女よ、みんなはどこにいるか。あなたを罰する者はなかったのか」。 女は言った、「主よ、だれもございません」。イエスは言われた、「わたしもあなたを罰しない。お帰りなさい。今後はもう罪を犯さないように」。〕
 (マタイ8:5-11、新約聖書)
  
善人だから救った、ということではないことは明らかです。女性は、キリストの前にも、もはや、打ち殺されるだけの力なき小ささを、そのまま任せるしかない状況だったから、キリストは救ったのでしょう。キリストは、女性の心を洞察し思いやっています。
 
 (マタイによる福音書、口語訳)
9:20-21
するとそのとき、十二年間も長血をわずらっている女が近寄ってきて、イエスのうしろからみ衣のふさにさわった。 み衣にさわりさえすれば、なおしていただけるだろう、と心の中で思っていたからである。 
9:22
イエスは振り向いて、この女を見て言われた、「娘よ、しっかりしなさい。あなたの信仰があなたを救ったのです」。するとこの女はその時に、いやされた。 
 (マタイ9:19、新約聖書)
 
キリストに対して、衣の一部でもいいから触ろうとすることは、縋りつくような強引さではなく、端っこでもいいから、という、救われたい気持ちの必死さと、身の程を弁えた敬虔の表れです。
 
信仰が、辻褄合わせではなく、保険のように保証があるからでもなく、一途であり、その結果を問わないほど、他にないという本気から始まっていることを表しています。
 
 
 (マタイによる福音書、口語訳)
15:22
すると、そこへ、その地方出のカナンの女が出てきて、「主よ、ダビデの子よ、わたしをあわれんでください。娘が悪霊にとりつかれて苦しんでいます」と言って叫びつづけた。 
15:23-24
しかし、イエスはひと言もお答えにならなかった。そこで弟子たちがみもとにきて願って言った、「この女を追い払ってください。叫びながらついてきていますから」。 するとイエスは答えて言われた、「わたしは、イスラエルの家の失われた羊以外の者には、つかわされていない」。
15:25-27
しかし、女は近寄りイエスを拝して言った、「主よ、わたしをお助けください」。 イエスは答えて言われた、「子供たちのパンを取って小犬に投げてやるのは、よろしくない」。 すると女は言った、「主よ、お言葉どおりです。でも、小犬もその主人の食卓から落ちるパンくずは、いただきます」。
15:28
そこでイエスは答えて言われた、「女よ、あなたの信仰は見あげたものである。あなたの願いどおりになるように」。その時に、娘はいやされた。
 (マタイ15:21-28、新約聖書)
 
女性は、他の誰も癒せなかった娘の病を癒されたい一心から、どこまでも低く遜る敬虔を弁えていたのでしょう。他に希望がなかったからです。このような一途な正直さだけが、キリストの心を動かしています。
 
キリストは、女性が「主よ、お言葉どおりです。でも、小犬もその主人の食卓から落ちるパンくずは、いただきます」とまで言ったことで、食い下がるような救いへの渇望と、自分を小犬に喩えた女性の、低く低く遜(へりくだ)った心を見逃しませんでした。
 
この女性は、遜るのが、とても上手です。何だか、断られないための言質を知っていたかのようですが、恐らく、言葉だけでなく、態度や表情にも、娘への愛情の一途さと必死さとともに、自分はどこまで低くてもいい、という敬虔が表れていたのだと思います。
 
本気の告白を、キリストが、そして、神が、無視しないことが顕れています。
 
私の経験から、言葉だけの敬虔芝居は、実に醜いものです。
 
 
 (マタイによる福音書、口語訳)
26:6-7
さて、イエスがベタニヤで、らい病人シモンの家におられたとき、 ひとりの女が、高価な香油が入れてある石膏のつぼを持ってきて、イエスに近寄り、食事の席についておられたイエスの頭に香油を注ぎかけた。 
26:8-9
すると、弟子たちはこれを見て憤って言った、「なんのためにこんなむだ使をするのか。 それを高く売って、貧しい人たちに施すことができたのに」。 
26:10
イエスはそれを聞いて彼らに言われた、「なぜ、女を困らせるのか。わたしによい事をしてくれたのだ。
 (マタイ26:6-10、新約聖書)
 
女性は、効率の悪いことをして、優れた働きとは、とても言えないのですが、キリストは、ご自身を愛するがゆえに精いっぱいだった女性の心を見逃しませんでした。
 
 
3つのエピソードに共通しているのは、救われたいという一途さと、そのために、"神の前に、どこまでも自分を低くできる敬虔"にあります。何よりも、救いが他にない、という深い悲しみからの自覚です。
 
敬虔は、静かではなく、穏やかでもなく、行いや主張が控えめなのでもなく、神の前に、いくらでも自分は低くてかまわないと、ありのままの自らを主の前に投げ出す情熱であります。
 
そして、無力な自分を自覚し、神の前に正直に捧げることが、信仰において、いかに大切かを聖書は教えています。
 
すなわち、何よりも大事なことは、神の前に、正直だけを捧げることです。正直であれば、本気であれば、食い下がるような祈りでも、神は、無視しないということでしょう。
 
神様の前だから滅多なことは言えない、などと、立派そうに言葉を仕上げて飾るのは、信仰の義をけがすことであります。それは、カルトや偽善者が、いつもやっていることだからです。
 
信仰においては、言っていることが、行いが、正しいから救われる・・ではないことを学ぶべきです。
 
私たちは、キリストのために正しいことをして信仰の義を得るのではありません。信仰の義は、神のような正しさではなく、神に対する人間の身の程を弁えた態度や姿勢の正しさであります。そこにおいて、人の信仰の義は、絶対の神の義とは、明確に区別されているのです。
 
むしろ、折に触れて、罪を犯した可能性、つまり、間違えたかもしれない、嘘を吐いたかもしれない、自分を飾ったかもしれないことなども、気づいたときに、正直に告白して、赦されることで救われ、癒され、生きることが出来るのです。
 
 
救われるためには不完全の自覚が不可欠であり、信仰について、偉そうに、完全でないと信じないとか、信じたから完全だとか言う得意顔が、毛ほどの価値もないことは明らかです。
 
 
心2

こころ
 
 
(2020年05月12日)
(2021年05月18日、再録+)
 
 
 
  罪と神の御業(みわざ)
 
病むことの苦しみは
病んだ者にしかわからない
 
病気は罪の結果であり
病人は罪人であり
近づく者さえ汚(けが)れた者とされた時代
一人の盲人について
「誰の罪ですか」と問う弟子にイエスは
「誰の罪でもない
ただ神の御業が現れるためである」と答えた
そのように公然と言うことが、ゆくゆく
どれほど危険な結果を招いていくか
百も承知で
 
負わされることの苦しみは
負わされた者にしかわからない
 
長い間いわれもなく
負わされてきた「罪」が
「神の御業」に言い換えられたとき
そう公言して憚(はばか)らない人が
目の前にいることが
癒し・奇跡と言えるほどの
驚くべきことであったのだと思う
 
聖書はそのあと
盲人の目が見えるようになったと記している
あげれば忘れてしまいそうなくらい
同じような奇跡物語が多く記されている
 
奇跡が実際起こったのかどうか
私は知らない
どちらとも信じていない
疑いの中をさまよいながら私は思う
それでも使徒たちが伝えないではおれないほどに
驚くべき何かがその時々にあったのだ
それはきっと
肉体や物を揺さぶるよりはるかに強く
彼らの魂を揺さぶったのであろうと
 
 
(90年代か)
 
 
 楽山のツイッターですが
 
心機一転★こも楽山
@komo266
「この人、いいこと言ってる」と思って、ファンになり、その人のことを追っかけているうちに、いつのまにか引き返せないところまで深入りしてしまってることもありますからね。要注意。
午後7:59 · 2021年5月17日·Twitter Web App
 
楽山の、自分が言われそうなことを他者に当てはめて、自分については安心だという印象を刷り込む詭弁です。以前から指摘していることです。「いいこと言ってる」のではなく、誘導です。楽山には、本当のファンはいないと思いますが、だまされた人がいると思います。
 
私は、数か月、だまされて、楽山を、まともな人だと思っていました。その後、約2年余り、批判しています。引き返すのではなく、私のように批判する人以外は、いっさい関わらないことが大事です。楽山は、人の話を、受け取っていないし、全く理解していません。
 
楽山の、無反省、無責任、無神経、高等感情の鈍麻、他者無視、良心の欠如、自己中、訂正不能、などの、人間にとって致命的な欠陥が、楽山のもっともらしい言い回しにならされると伝染する恐れがあります。楽山は、恨みを買うことを、気にせずにいられる自己愛性人格障害なのです。
 
楽山は、人をあざ笑うのが生き甲斐のようで、「要注意」どころではなく、悪意があると思いますから決して近づかないでください。楽山は、人真似しか出来ません。それで、インテリを気取ります。楽山の言は、糧(かて)になるようなことを、何ひとつ、もたらしません。この2年間がそうでした。
 
 
 
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  矢印の人々2
 
 
神話と奇跡信仰に生きる人たちは
都合のよい出来事を奇跡に結びつける
 
「何度、奇跡に救われたことでしょう」
「私たちは、いつのときも安らかです」
 
自分に都合の悪い出来事
悲惨な死や自殺については
語ることが背教であるかのように
無かったこととして口を閉ざし
記憶から消してしまうかもしれない
 
彼らは強烈なベクトルを持っていて
いつも自分の味方をする神への信仰は
違うベクトルに対しては
びくともせずに、逆に
へし折って悔いることがない
 
そして彼らが優しさと呼ぶ口によって
冷やかに述懐して
気に入らない人に対して
「彼は少し、冷静さを欠いたようです」
と言った口は不感不応の
慇懃無礼な冷酷さだけが勝っている
 
言い古された言葉を並べただけで
納得し陶酔するような
彼らがこしらえた感謝のレセプターは
人間的感性のレセプターを押し潰すほど
強力な条件反射になっている
 
いつどこで起こる災いも不幸も
自分と同じ信仰を持たないからだ
という因果律を当てはめて
ひたすら硬直した薄笑いの伝道を続ける
 
いつどこで起こす災いも不幸も
不都合な因果を無視する彼らの黄金律によって
すべて「愛とまこと」の名の下に隠して
彼らは結束し増殖する
 
彼らの強さによって
何度人間性は潰されてゆくことだろう
 
彼らは実に
いつも単方向のベクトルを突出させ
固定したレセプターによって机上の奇跡を引っ張ってくる
 
 
 
注意してください。
世の中には
やさしい言葉しか使わない信仰者がいます。
やさしい言葉しか使わないカルトもいます。
やさしい言葉しか使わない病質者もいます。
 
穏やかさ以外を隠して表に出さない信仰には、
昔から抵抗を感じているので
 
穏やかでない正気も狂気も
私は書いてゆくしかないようです。
 
 
(2011年09月28日)
(2019年04月25日、修正)
(2021年05月16日、再録+)
 
 
何を目指すのか。

何を目指すのか
 
 
※ 
 
  人の季節
 
うっとうしい梅雨である
眠れない夜である
と思っているうちに朝は早く
日差しはなく
薄暗く
薄明るい
 
ゆるさない、と幾度も
心の中で
わめいたと思うのだが
どういうわけがあったのか
特定の人に対してだったか
背教のつもりだったのか
 
それらよりもずっと多く
自分に対してだったような気がする
言った後で何の救いも
希望もなくなることに
おののいて
聖書の幾頁かをめくる
 
特別新たな感動が
生まれるわけでもなかったりしたとき
 
もはや信仰は凝り固まった
しこりのようだと考えるけれど
 
しこりはまだ
ほんのわずかに
熱を帯びている
ぬくもり
と懐かしい友を呼ぶようにつぶやく
 
ひょっとしたら
ゆるさない、ではなくて
ゆるされない
ゆるされるものか
であったかもしれない
 
熱は癒え
冷たい氷は溶け始め
また新しい罪が生まれる
ゆるしていただくほか
救いも希望もありません
と産声(うぶごえ)を上げる
 
あらゆる季節の
人間の
冬の終わりに
幾度も幾度も冬
の終わりに
 
 
(ずっと前、一部修正)
 
 
 
 (詩篇、口語訳)26:2
主よ、わたしをためし、わたしを試み、
わたしの心と思いとを練りきよめてください。
 (詩篇26:2、旧約聖書)
 
 (詩篇、他ブログより)
主よ、わたしを調べ、試み
はらわたと心を火をもって試してください。
 (別の訳らしいが、興味あり)
 
※「はらわた」は、人が心に秘めたものでしょうか、加えて、「火」は、神の強い力に拠り頼む情熱的な信仰の意志のように感じられて、強いインパクトの訳になっています。
 
 
 
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  救われる条件(2)2
 
 
キリスト者になると柔和な人間になると
あるいは社会的基準においても善人になると
思われているかもしれません。
 
信仰の結果として善を目指すでしょう。
 
しかし、実際は、
必ず善人になるかどうかは分かりません。
普通の人間と同じように
ときに頑なになることもあります。
 
さらに信仰があるという自覚ゆえに
特に教理や善と悪と罪の意識において
かえって人一倍、頑なになることがあります。
 
それはキリスト者ならでは
という信仰の働きではありません。
人間だから起こることです。
 
信仰を勘違いすることがあり、そのために
本当に付き合いにくい人になることもあるのです。
そうして、相手にされなくなることもあるのです。
 
それは人間として
決して望ましいことではありません。
そういうあり方としての過ちと罪があります。
 
では、信仰を持たなければよいのか
という疑問に対しては、
信仰は
人間が持ちましょうという意志だけで持つものではない
と言うしかありません。
 
キリストに絆(ほだ)されて
忘れられなくなった者は
その共感を忘れられないために
キリスト者・クリスチャンと呼ばれます。
 
そのように
キリスト者は常人と比べて
決して優秀を表すものではありません。
むしろ経緯において
多くの欠点を持っているからこそ
キリスト者になるのです。
 
では、そのようなキリスト者が
どうして救われるのでしょう。
 
それは、誰よりも神が、自らの民として、
決して優秀さや能力によって人間をを召命してはいないからです。
 
なのに、なぜ救われるのでしょう。
そこには、キリスト者になった人たちの
ただ一点を
神が見ておられるからなのです。
 
それは、その人が、
どんな意地っ張りでも
自己中心でも
思い込みが強くても、
そう思われていて、実際そうでも、
あるいは秘密が多くても、
ただ神という絶対者の前においてだけは
頽(くずおれ)れる心を知っているからなのです。
 
ゆえに、神が救われるのは
神の基準によります。
決して善行によるものではありません。
 
つまり、神の前において、すなわち祈りにおいては、
頽れ、憐れみを乞うしかない、砕けた魂を持つ人間であること、
その弁えだけが、救われるためには必要十分な条件なのです。
 
そのことが聖書には書かれています。
 
砕けた魂を持つ人間は
もはや神の前に
正直にそれを告白することしかできません。
他に捧げるものなどないからです。
 
正しさや善行の主張など何も言えないと知っている者が
神に救いを求めます。
 
まさに総ての人間がそうなのだと
主イエス・キリストは
聖書を通して宣べ伝え続けているのです。
 
神の前に正直以外は通用しない
と言ったのはそのことです。
 
 
神の前でだけは

神の前でだけは
 
 
※※
 
祈りにおいて
いつも偽りの讃美言葉を並べるような偽善者については
自ら救いを拒んでいるわけで、
神は、それを余さず見抜かれるのです。
そして、神の国から永久追放されるのでしょう。
そして、そのことは、
この地上において人格破壊の醜さとして表れるでしょう。
 
 
(2019年03月30日アップ、同日一部修正)
(2020年04月05日、加筆修正して再録)
(2021年04月25日、再録+)
 
 
  病質者対策
 
凶悪カルト・サイコパス・病質者とは、具体的には、言うまでもなく、2年批判している楽山と、10年批判してきたシャローム shalom のような自己愛性人格障害者のことです。
 
罪悪感がないために罪の意識がなく、悔いるという高等感情もなく、反省もせず、つまり、他者に勝ろうとする悪意だけを持っていて、いつも自分が正しくて、まともだという捏造の立ち位置から、実際には、ねじ曲がった理屈と、平気で嘘を吐く習性をもって、壊れた理路の迷惑物質を投げてくるのが、楽山です。
 
恐らく、一生治らないのでしょう。そして、一生治らないということは、話し合う余地がないということです。つまり、楽山と話し合おうなどと思ってはいけない。楽山から何も受け取ってはいけない。楽山の言うことを何かの参考にしてもいけない。
 
最初から、楽山は、惑わすために、あるいは、優越感と自己顕示欲のために、言い逃れのために、書いているだけだということを意識して、関わってきたら、追い返すか、逃げるしかないのです。
 
他には、批判する気のある人の場合、楽山の書いていることの、卑怯な言い換えや、作為的な言葉と理路の選択や、常識に見せかけた一面的な視野狭窄の言を、決して真に受けることなく、一つ一つ指摘して、資料として警鐘とすることだけが、楽山という自己愛性人格障害者に対して為すべきことだと思います。
 
楽山は不治の病と言ってもいいような欠損した人格ですから、はっきり言って、人間だと思ってはいけません。和解の余地を残してはいけません。今まで楽山が書いてきたことから、楽山には良心がありません。思いやり、共感、羞恥心がありません。平気で嘘を吐きます。自分に都合のよいように皮相な細工を文章に施して、まともに見せかけます。
 
楽山は、人のために役に立つヒントになることを書こうなどとは、毛ほども思っていません。ただただ、インテリ気取りで、客観を装い、煙に巻くような言い方で言い逃れを向けてくるだけです。楽山の文章に主旨はありません。まともで真面目に見せかけているだけです。ただ、楽山の気分がよくなるように、どこまでも、言い逃れの類だけを書いてきます。
 
ゆえに、楽山の文章を読むときには、症例を見ている、場合によっては、症状を記録するという姿勢が必要で、先ず、楽山の主旨を読み取ろうとすることだけはやめないと、疲労の罠に嵌ります。
 
楽山の文章から、言い逃れの詭弁の細工や意味の違う方向への言い換えでごまかしてくるところを、指摘し警戒し資料とするためだけに拾ってゆくことに専念するべきであります。
 
共感性のない楽山との、分かち合いや交流は、決してありえないことなのです。楽山について書く場合は、そのことを最初に弁えることが、自己愛性人格障害の害毒から身を守る唯一の方法であります。
 
そして、それが、自己愛性人格障害者、病的ナルシスト、精神病質サイコパスに出会ったときの、心構えでもあります。楽山は、人間ではありません。ふつうに付き合ってはいけない、資料にするしかないヒトなのです。
 
楽山は、宗教、特に、キリスト教に、いちゃもんをつけて、神を否定してきましたが、その責任を負わないという卑怯者であることに加えて、宗教を否定しても、それに代わる救いや助けになるものを、何一つ提示する洞察も能力もない人であります。
 
この自己顕示欲と自己愛だけで出来ている楽山のような病質者だけは、信頼しないでほしいと思っています。中身の無さを、丁寧語で体裁を整えて、中庸で中立の人物を装う、これが、楽山の書き方・筆致です。ちょっと注意して読めば、誰でも言いそうなことを書いたから誰でも共感するだろう、という、真実の追求とは、かけ離れた狙いで、ありきたりのことを並べて、好意を装うペテン師だと分かってくる楽山です。
 
 
楽山のキーワードは、
 
楽山・無反省・無理解・無責任・無神経
自己愛性人格障害
嘘吐き・詭弁・偽善者
病的ナルシスト・良心の欠如・自己中心
反キリスト・反宗教、などを使っています。
 
 
(2021年04月25日)
 
 
私の「ウソの国ー詩と宗教」ブログ:
 
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  楽山の邪魔
 
 幸福の科学とは何だろう? 楽山ブログ
 建造物侵入騒動の行方(「幸福の科学」広報チャンネルの動画と個人的な感想)
 2021年03月21日 ツイッター引用を含む。
 
 
勝手に言いたい放題言うのが、楽山の趣味であり、そのために、役に立たない曖昧な意見が、正当な雰囲気を出して、言論を乱すことになります。真実の追求という重大な問題に、思いつきだけの楽山の口が、侵入して、迷惑を省みないという邪魔になっています。
 
*個人的な感想
前記事に貼った関連記事を読み、当該動画を見て、疑問に思ったところをつぶやいてみたので、それもここに保存しておきたい。
 
無反省・無責任の楽山の言は、本当に、余計な、つぶやき以上ではありません。真に受けると、真っ当な理路を乱すことにしかならないでしょう。
 
心機一転★こも楽山
@komo266
これは正論とは思うのだが、
各種報道では、藤倉氏はHSに批判的な記事を書いたゆえに、HSから出入り禁止されたことを裁判所は認めたとしてる。
そのため、これは「言論は自由です。でもHSに不利な発言をしたら、相応の責任をとってもらいます」と聞こえてしまう。。😰
 
言論の自由には、責任が伴うという当たり前のことです。それを、楽山は、不当だと言っているのでしょうか。ただし、言論の責任を果たすことは、言論においてなされるべきであります。言論したら強制排除、というのは、言論の自由を脅かす行為であり、明らかに不当なのです。楽山は分からないのでしょうか。また的を外しているようです。
 
心機一転★こも楽山
@komo266
独裁国家では、移動、取材、写真撮影には許可がいるが、
日本は独裁国家ではないから、移動、取材、写真撮影は原則自由だと思ってたけど、これは間違いなのだろうか。
そりゃあ、権利者の了解を得るのがマナーだろうが、どんなところでもそうしなければならないというのは極論すぎるのでは?
 
楽山は、原則とは何かを書いていません。旅行で風景写真を撮るのは、大方、自由でしょう。「権利者の了解を得るのがマナー」ではありません。いちいち、そんなことできないからです。
 
許可の必要な施設や場所や秘密の場所はあるでしょう。そういうところでは、前もって、そういう表示をすることになるでしょう。そういう表示が為されていなければ自由なはずです。事情の詳細が分からないし、私のテーマではないので、この件は、ここまでとします。
 
心機一転★こも楽山
@komo266
教団側は施設内の平穏を乱されたかのように主張するが、監視カメラ画像を見る限りは、特に平穏が乱されているようには見えないというのが正直な感想です。
内部撮影については、信者数1100万以上と称する教団の実態を知る上で、人影なく閑散とした施設内の様子をとらえることに価値はあるでしょう。
 
上と同じで、画像だけで「特に平穏が乱されているようには見えない」と言うような、楽山のボンヤリ曖昧言語や、また「様子をとらえることに価値はあるでしょう」という楽山の主観の価値判断で決められることでもありません。
 
語る資格のない者が、自己中の主観で物を言えば、こういう勝手なメッセージになるということです。
 
*偏向してる?
もしかしたら、上のツイートを見て、「あなたは教団に批判的にすぎる」という感想を持つ人もいるかもしれない。
これについては、自分は次の二つのことを念頭に置いて考えをまとめているとこたえておきたい。
まず一つは、今回の件は次の流れの中で生じたものだということである。
 
楽山の、言いたい放題の言論も、流れの中で明らかになってきました。楽山は、自分の流れだけは、分からないようです。今回も、他者の悪の追及だけをして気分がよさそうです。
 
当初は、幸福の科学と藤倉善郎氏とは、極端に険悪な間柄ではなかった。職員の里村氏と藤倉氏とのおもしろい掛け合いもあったように思う。
 
具体的に書かずに、「おもしろい掛け合いもあった」ことが、険悪ではなかったことの根拠になるでしょうか。裁判に関わる問題を、まことに、自分の欠点にはまるで気づかず、楽しみたいだけの評論家気取りの楽山は、興味本位の、面白半分の、雑談か冗談のような言い方で書いています。
 
しかしながら、幸福の科学は、藤倉氏の書く記事に不満をいだくようになり、氏に圧力をかけはじめた。
その結果の一つが、今回の建造物侵入うんぬんということである。
これはかなり簡略化した経緯説明ではあるけれども、裁判所も大筋はこのような理解らしい。
カルト新聞によれば、判決要旨は次のようなものであるとのことだ。
→確かに、被害法人への取材の必要性が存することは否定できず、被害法人が被告人の施設への立入禁止の決定をした最大の理由が、被害法人に関する批判的な内容の記事を書いたこと(しかも後に民事裁判で真実性が認められている。)であったことがうかがえること、被害法人内では被告人を貶めるような書籍を刊行するなどなどに照らすと、被告人を一律に排除しようとする被害法人の意思決定のあり方の当否については議論の余地もあろう。
・やや日刊カルト新聞: 「曖昧な判決」「報道の自由は死んだ」建造物侵入事件で執行猶予付き罰金判決を受けたジャーナリストが弁護団と会見
 」
もう一つは、世にいう幸福の科学事件である。幸福の科学は過去に、次のような判決を下されたことがある。
・幸福の科学事件 - Wikipedia
幸福の科学事件(こうふくのかがくじけん)とは、宗教法人幸福の科学およびその幹部らが、元信者および代理人弁護士らが行った民事訴訟およびその提訴記者会見が名誉毀損であるとして損害賠償請求訴訟を提起したところ、この訴訟提起が、「批判的言論を威嚇する目的」でなされた不当訴訟であるとして、代理人弁護士に対する損害賠償が命じられた民事裁判の事例である[1]。
請求金額が不相当に高額な場合に、当該請求自体が不法行為となる可能性があることについては複数の判例が存在するが、この事案はその中で、批判的言論を威嚇する目的で名誉毀損を理由とした請求をしたものであり、いわゆる不当訴訟のうちに「批判的言論威嚇目的訴訟」(スラップ)という独自の類型を成立させるものとなった[1]。
・・・
1997年1月7日
合計8億円(幸福の科学に7億円、その職員ら2名に各5,000万円)の損害賠償)
 」
この二つを念頭に置いて考えると、自分にはどうも、この件は批判的言論を封じることこそが目的であって、建造物侵入うんぬんはただの口実としか思えぬのである。そのため、どうしても幸福の科学に対しては厳しい見方になってしまうのだ。はてさて、これは偏った見方であろうか。どうだろう?
 
問題は、司法の判決であるのに、楽山は、「批判的言論を封じることこそが目的」という、誰でも分かることを書いています。
 
その主張の根拠に、判決例をあげていますが、これは、楽山が、前のは良いが、今のはいけない、という判断を、しているだけです。つまり、楽山の判断のままであって、それを語っても、主張の根拠になるものではありません。楽山には、いつも、結論しかないことが表れています。だから、物知りふうに書いて、刷り込むしかないのでしょう。
 
*裁判所の判断
ちなみに今回の件について裁判所は、上のように教団が藤倉氏に対して施設への立ち入りを禁じたのは、批判的言論への圧力であることを認め、問題視しながらも、どういうわけか藤倉氏が施設に立ち入ったのはけしからんし、この裁判も公訴権濫用ではないとしている。
 
ということは、楽山は、施設に立ち入ることを是とし、今回、原告側が控訴権を乱用しているという主張のようですが、楽山は、自分が必要だと思ったら、建物にも侵入するが、そのことで裁判を起こしてはならない、というのでしょうか。楽山の自己中が表れています。
 
何よりも、根拠が示されておらず、結論からの主張を言い張っているだけなのです。現状に居合わせたのなら、あるいは、詳しく情報収集したのなら、そう書くべきですが、そうではないのでしょう。
 
他人事を、趣味で扱って、好きなように言って満悦する楽山の自己愛性病質が表れています。流れに乗って漂流するしかない者の、ちょっと見ただけの無根拠の思い込みだということでしょう。
 
司法の流れがおかしいというなら、司法についての根拠を示せないなら、自分の持っている思想からの根拠を書くべできですが、そういう一貫性のある思想を、楽山は、まるで持っていないのです。
 
①本件公訴提起は公訴権濫用にあたるか
→弁護人は本件の公訴提起は(中略)公訴権濫用にあたり公訴が棄却されるべきである旨主張する。しかし、(中略)弁護人の主張は採用できない 
・やや日刊カルト新聞: 「曖昧な判決」「報道の自由は死んだ」建造物侵入事件で執行猶予付き罰金判決を受けたジャーナリストが弁護団と会見
 」
自分は専門家ではないので的外れの感想になってしまっているかもしれないが、藤倉氏への施設立ち入り禁止は批判的言論の封殺、報復であろうことを認めながら、今回の件は公訴権濫用ではなく、施設内に立ち入ってもならぬと結論づけるのは、どうにもつじつまが合わず、捻じれがあるように思えてならない。
 
専門家でないなら、一ブロガー発信として、的外れにならないような書き方をするべきです。自己愛者の楽山には、それが出来ないのです。
 
一つの意見ではなく、いつも、全部分かっているような書き方をして、「自分は専門家ではないので的外れの感想になってしまっているかもしれない」と書いても、とても臭い言い逃れに過ぎません。
 
裁判所が、必ずしも正しいとは言いませんが、事件ごとにバランスを取っているということはあるでしょう。それが正しいかどうかは、楽山のような自己中の単純命題で出来ている思考には判断できないことです。
 
極めて幼稚な考え方として、司法は、いつも、同じ側の味方をしなければならない、という決めつけの先入観的な定理があるようにも思われます。
 
この件はこれで終わりではなく、まだ続きがあるようだが、この判決は改められる可能性はどのくらいあるのだろうか。どうなるかはわからないが、この件は引き続き注視していきたいと思う。
 
楽山は、いつも、かっこつけて、出てきては、もっともらしいことを書いたつもりで、そのたびにピント外れだけが明らかになってきました。
 
楽山は、注視すると言っていますが、今まで、不注意な記事とツイートを書いてきたのです。真実追求において、楽山の破綻した理路は邪魔になるだけです。誰も関わらないことだけを願っています。
 
カルト的で未熟な精神と、訂正不能の超越意識で、客観的に書けると思っている病質者ほど、厄介なものはないということが、今回も、うんざりするほど明確に表れているのです。
 
人の言うことを聞かずに、言い張る、ということが続いている楽山には、正義感ぶれば、その分だけ、隠している罪と悪と偽善が、明らかになってゆくでしょう。
 
カルトの元信者というのは、カルトから抜けて、カルト批判者として、回復した人間性を発揮してゆくのでしょう。しかし、楽山は、元HS信者と言いながら、霊が分かるっぽい自覚から、自身のカルト妄想へと悪化し変性しているのです。
 
しかも、楽山の思想は、主張すれば、人を疲労させ、傷つけるだけですから、真面目な人間関係を持つことが出来ないのでしょう。好きなように別の複数のHNで成りすましているような気がします。
 
年齢・職業不詳で、隠していますが、恐らく、リアルならば、ひどいことになっている人です。
 
つまり、楽山の人生は、自分は特別と思いたいための、反宗教と、右翼思想と、自分カルト妄想とを、浮浪者のように、さまよい歩いているのです。楽山は、自らの不遇から、敵意・悪意だけを育ててきたからです。
 
 
じゃま

じゃま
 
 
(2021年03月22日、同日一部修正)
 
 
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