ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

タグ:病質者

 
  現代の偽善者2
 
 
二千年前の
キリストの時代には
偽善者は分かりやすかったかもしれない。
 
聖書のパリサイ人と取税人の祈りにおいて
多くの人は、かなり、はっきりと分かるだろう。
尊大で傲慢なパリサイ人と
赦しを乞う以外になかった取税人は
明らかに違っていました。
 
現代のパリサイ人つまり偽善者そしてサイコパスは
そのような分かりやすさを持たない。
 
現代の偽善者は
柔和な言葉遣いの丁重な挨拶から始まる。
 
現代の偽善者は
誰でも賛同するような話題を用意している。
そして褒め言葉や讃美言葉で熱心で敬虔な信仰者だと思わせる。
 
現代の偽善者が
尊大で傲慢になるのは
何らかの知的な話においてか
追いつめられたときでしょう。
 
宗教、政治、思想、などについて
彼らは、自分が知的に上だということを示します。
実はないのに、評論家のような立場で物を言うでしょう。
 
こちらの話は受け取らず、弁明せず、
自分の言い分だけを繰り返します。
 
その上で、じわじわと相手を貶めながら
従うことがベストだということを刷り込んでゆきます。
うっかり関わり続けていると
気づかないうちに刷り込まれてゆくのです。
 
彼らの言うことが、
すべての人に広まったら
いつのまにか、
気づいたら、とんでもないことになっている。
 
彼らの言うことが
何よりも自己中心を土台としていること。
けっして自らの罪や過ちを認めず
悔いることがないということ。
 
真実として、良かった、悪かった、ではなく
策略として、うまくいくか、まずいか、という判断です。
 
 
大事なことは、彼らの言うことが
聞き手に対して常に
上から教える態度に終始していることに気づくこと。
 
彼らの言うこととが
世辞の感謝やお詫び以上には
けっして微塵の反省も含まないこと。
 
これらに気づいたら一目散に逃げてください。
コメントにレスしないで無視して下さい。
けっして彼らの話に乗らないでください。
質問も確認もしないでください。
 
話し合おうと思ったりしないでください。
説明を求めないでください。
詭弁と無理解だけが返ってきます。
 
 
現代の偽善者は
覚悟の批判者だけが疑い
消耗を覚悟しながら批判する対象です。
 
彼らは
病的ナルシスト
サイコパス
病質者
異常者
偽善者
聖書のパリサイ人の
現代文明による進化型なのです。
 
 
現代の典型的なクリスチャンは
相手の本性を確かめることなく
穏やかな話には乗りやすい傾向があります。
 
教会で穏やかで美しい話ばかり聞かされてきたからです。
批判禁忌を教会が刷り込んできたからです。
 
現代の偽善者は
そこを狙ってくることを忘れないでください。
 
現代の典型的なクリスチャンは
そのままでは
だまし言葉と詭弁だけを仕込んできたような
現代の偽善者には敵いません。
 
昔のパリサイ人は尊大で無知でした。
超常信仰から自らが行う儀式的な行為の神秘性を
本気で信じ込んでいた者もいたかもしれません。
 
今の偽善者は、良心がなく
代わりに、丁寧と柔和を装い、意図して騙すことを企みます。
 
批判禁忌を教えられた信仰者は格好の餌食なのです。
 
 
潜在

潜在
 
 
(2019年05月24日、同日一部修正)
 
微塵(みじん)
騙す(だます)
敵う(かなう)
餌食(えじき)
 
(2021年03月21日、再録+)
 
 
※ 
 
 楽山のツイートですが
 
心機一転★こも楽山
@komo266
·13分
この場面は、
カルト呼ばわりされたことに対して、
いかにもカルトっぽい言葉使いで反論してて、
思わず吹き出してしまったところです(笑)
これはようするに、
「わたしたち幸福の科学は、愛と悟りとユートピア建設を説く正しい宗教です」ということだし、
ぬけぬけとよく言えるなあ。
午前9:38 · 2021年3月20日·Twitter Web App
 
楽山は、自らの招いてきた事態を全く気にしないで無視する、という、楽山個人の「いかにもカルトっぽい言葉使いで」、反論も出来ないのに、「思わず吹き出してしまったところです(笑)」と書いています。自身の無反省と無責任が招いた不都合を何も気にしていないことが表れています。
 
楽山が、高等感情を持たない病質者らしく鈍麻を表して、揶揄して「(笑)」などと書くのは、自分は正しいから余裕があるとでも思っているのでしょうか。「ぬけぬけとよく言える」ものです。
 
楽山は、「愛と悟り」も知らず、他者の意見に不応で、自らの惨状に不感の、人格破壊的な偽「ユートピア建設」の妄想をいだいている自己愛執着の、気取りだけで他者を揶揄して遊ぶ原始的な自己虫病質者です。自覚が何もないということを、一生、繰り返し表して続けてゆくのでしょうか。
 
楽山は、決して、誰の味方にもなれない人です。
 
今日も、楽山の言葉が、楽山に返って、楽山を斬ってゆくだけの、楽山の人生になっています。
 
 
心機一転★こも楽山
@komo266
·4時間
申し訳ないが、「HSの悪口を書いていながら、HSで取材できると思うな。取材したいなら、HSに対して相応の礼を尽くしてからにせよ」と聞こえてしまう(笑)
それから人権は、人であれば天然自然にあるもので、義務や責任を条件に与えられたり、取り上げられたりするもんではないと思います。
午前11:28 · 2021年3月20日·Twitter Web App
 
楽山は、「申し訳ないが」という政治家の慇懃無礼の口調で言っています。
 
「人権は、人であれば天然自然にあるもので、義務や責任を条件に与えられたり、取り上げられたりするもんではないと思います」・・違います。犯罪者は、明らかに人権を制限されています。現状、最高刑は、死刑であります。つまり、公共の福祉に反しない限りでの人権です。
 
したがって、嘘吐きと偽善の悪行を働き続けている楽山には、人権を云々する資格はないのです。礼を尽くさず、礼の芝居でごまかす丁寧語で、宗教を子供じみた霊と超常の話と未熟な机上の理路の破綻で語って揶揄し、人を欺き続けている楽山は、首を洗って待つしかない立場でしかありません。
 
言い換えれば、楽山は、天然自然のあり方に、真っ向から反しているということです。
 
 
心機一転★こも楽山
@komo266
·4時間
「歴史的資料となるだろう。」とは誰の言葉なんだろう。
ふつうは、本の帯にある推薦文は、他者によるものだと思うのだが、
まさか、まえがきにある著者本人の言葉ではあるまいな? 絵文字(口を開けて笑っている顔)
午後4:18 · 2021年3月20日·Twitter Web App
 
このように、楽山という人は、他者のみっともないことや、自分より劣っていると思う人を見つけて笑いたいだけだろうと思います。そういうことが見つかると、このツイートのようなことを書かないではいられないのでしょう。
 
結局、日常でないところ、つまり、一つは超常の現実離れ、もう一つは、恥ずかしいゴシップが、楽山の唯一の楽しみなのでしょう。自分で、別の笑い、例えば、おかしいのではなく、心が温まって笑顔になるようなことを何も見出すことが出来ないようです。
 
楽山については、次のようなことを感じてきました。高笑いはあるが、微笑みはない。共感という言葉は知っているが、共感することがない。辻褄が合ったり、面白おかしかったりすると、感動したと言う。反省という言葉は知っているが、反省していないし、悔いてもいない。反省という言葉の前と後で、何も変わっていない。
 
恐らく、しんみりした深い情緒を感じとるセンスがないからだろうと思います。
 
楽山は、真摯、真剣、真面目、丁寧、ということを装いながら、その実質が全く見られません。腹の底では、他者を見下げていて、あらゆる不幸を、笑いの種と、芝居の種にするだけで、本気では何も気にしていないのでしょう。
 
 
(2021年03月21日)
 
 
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古い作2つ、宗教詩2つ、批判1。
 
 
  きぼう
 
そらをみれば
そらにすわれ
こなごなになって
きえてしまいそうで
 
ひとをみれば
ひとみのおくにすわれ
すきとおる こどくのなかで
いきが たえて しまいそうで
 
いつのまにか
うすい いのちに さく
はなのあいだに
ただようかおりまつみの
ほのかな
ぬくもりのかげに にている
 
 
  高い窓
 
壁の 絵の
幼い少女は 手を伸べて
あそこよ と 指さしている
 
それが最初に見た
希望の形だった
 
伸びてゆく 手 が
かすかな影を ふるわせながら
うすい 光の 向こうで
声 を 待っている
 
孤独な 光だけが
医者のように 顔色を変えないで
夜じゅう 診ていたらしい
しらんでゆく窓に 衰弱して
くぼんだ 血管の 足音を聴いている
 
その小さなふるえから身を引いて
あきらめた 手 が
狭い視野から
落ちてゆくころ
 
また朝焼けの始まる
高い 窓の
物陰に隠れて
 
目覚めてはいるが・・
 
 
 
  感謝と呪い
 
人が神様に感謝するとき
多くの場合
その賛美は的を外れており
現状の幸福か
多幸的な気分の先に向かっている
 
人が神様を呪うとき
たとえ恐れのためにあわてて
神を悪魔と呼び変えたとしても
多くの場合
その怒りは不幸なことに
ほぼ正確に神様に向かっている
 
しかし魂の奇跡のように
ごくまれに
人は神様に本気で
本当に感謝することがある
 
 
  信仰・宗教・学問
 
信仰は宗教ではありません
宗教は学問ではありません
 
学問は宗教の助けとなり
ときに宗教を汚(けが)します
宗教は信仰の助けとなり
ときに信仰を汚します
 
神から与えられたものは人を救います
人から出たものは人の助けとなり
しばしば人を汚します
 
 
(90年代)
(2020年03月06日、若干修正して再録)
(2021年03月20日、再録)
 
 
希望

希望
 
 
 
楽山について:
 
約2年以上、楽山を批判しています。楽山は、複数のブログで、好きなように書いていますが、その主張に一貫性がなく、真摯さが感じられません。キリスト教について、否定して、神はいないという主張に賛同して引用して、一方では、教会にご機嫌取りのような賛同を表したり、お祈り芝居をしたりと、まるで、何を言いたいのか定まりません。
 
霊が分かるっぽいという霊能者を気取ったり、学者に賛同してインテリを気取ったり、ひと言でいえば、宗教を心霊と超常の話に短絡させて、肯定したり否定したり、結局、楽山は、何かを気取っていなければ気が済まない人のようです。そのような気取りだけで語れるような宗教も信仰も存在しないと思うのですが。
 
さらに、複数のHNを使って成りすましている可能性があります。シャロームと楽山が同一ではないかという疑いを前から持っていますが、疑いを濃くすることはあれ、楽山が、潔白を表すような文章を書いたことがありません。今も疑惑ではありますが、むしろ、それ以外にも、成りすましているのではないかという疑惑が増えてきました。
 
最近も、確定できないので書かないけれど、疑わしいHNが複数あります。一括すれば、楽山は、インテリで、まともで、評論家で、言論が得意な整った人を気取っているだけと言えるでしょう。本音は、宗教を憎んでいるようにさえ思われます。整えることよりも、かき乱すことに快感を感じているのではないかと思います。
 
自殺を肯定するような you tube もあって、辟易とする時代ですが、楽山を批判しながら、いろいろなHNとサイトが、楽山繋がりかどうか、じっくり注意深く見てゆくしかありません。楽山に近づくのは、とても危険ですから、相手にしないでください。
 
誰がアップし、その関連記事を誰が書いたのか、確定はしていませんが、穏やかならぬ youtube の動画と筆致でした。コメント、ブログ、ツイート・リツイート、youtube ・・疑えば切りがないことです。でも、自己愛性病質者と、間違って付き合うことの弊害は、もっと悲惨であります。
 
 
(2021年03月20日)
 
 
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  召命2
 
  を再録+加筆
 
 
(ネットより)
召命:
1.「呼ぶ」「名をもって呼ぶ」こと。
2.聖書の中に多用されている、神の恵みによって神に呼び出されること。
召命と使命は常に対(つい)になっています。神に召された命は、人々のために使われる命なのです。そして、一人ひとりの顔だちが違うように、一人ひとりの召命と使命は違うのでしょう。
 
キリスト教には信条というものがあります。
教理のうち柱となるものを記したものです。
 
しかし、その教理を、思い込み信じ込むことが信仰ではありません。
キリスト者に誰でもなれるというわけではないということです。
 
かといって、キリスト者にならないと地獄に落ちるのかといえば、そういう軽々しい見なしをする人は、自省と自制が成っていない証拠になります。
 
また、歴史上、非信仰者や異教徒に偉人と呼べる人が輩出しているのだから、神が、信仰以外で召命し使命を与える可能性を否定できないということです。神の意志と行為を決めつけてはいけません。
 
キリスト信仰には、秘跡とも、魂の奇跡とも呼びたいことがあり、
それは、キリスト信仰者になる上で、必須であります。
 
しかし、奇跡や秘蹟は、楽山やシャロームの大好きな超常とは限りません。最も大切な奇跡は、人間としての生き方を目覚めさせるものです。
 
超常の奇跡は、神にお任せするしかありません。しかし、魂の奇跡、すなわち、心に起こる奇跡は、実感として体験し、人間らしい良心を育ててくれるものです。
 
したがって、私たちに必要なことは、口をアパ~ンと開けて奇跡を待つのではなく、人間としての知性と感性の成長を期して、学び、考える姿勢であります。特別の知能ではなく、一人一人に、人間らしい生き方を、神は、用意しておられると思います。
 
特別な才能など必要なく、特別な超常の神秘体験がなくても、努める人は、恵みを受ける人であります。努めない人は恵みを受けることを拒む人であります。決して戒律ではなく、不完全を自覚するゆえに、折に触れて、聖書と体験から、学習し、成長するのが、信仰の道であります。
 
そこから、聖書を通じて、信仰の神髄であるところの、キリストの同伴を信じるに至ります。
 
キリスト者は神に選ばれる、ということは、優劣を意味してはいません。
これが、キリスト者が、異教や無宗教を下に見てはいけない理由であります。
 
さらに言えば、神は、キリスト信仰者だけを救い、他は滅ぼす、あるいは、滅びるに任せるのか、という問題があります。そうではないと思います。
 
既に述べたように、神が、キリスト信仰以外の人を召命して、何らかの使命を与える可能性を否定できません。何故なら、キリスト者でなくても、優れた洞察をもって、人間と世界に貢献した人の存在を、少なからず、学んできたからです。
 
したがって、信仰者が、異教徒や非信仰者を、低く見て憐れむのは、異教や無宗教への、そして何より、個々の他者という人間への、いわれなき侮辱といってよいでしょう。
 
信仰者は、ひとのことばかりいうとるが、んなら、おのれは、なんぼのもんじゃ、というくらいの自虐を持っていていいでしょう。
 
批判されると、批判者を軽視してあざ笑い、皮肉を言い、当てつけや嫌がらせだけを当ててくる習性を持つ者がいます。
 
また、異教に対抗心をもって、キリスト教の優位性を書く者もいました。熱心な信仰を表したつもりのようだが、身の程を弁えていないために、知りもしない異教を侮ったのでは、依怙贔屓の優越自慢に過ぎないし、キリスト信仰者の恥です。自分が信仰に至ったことを振り返ってみるべきです。
 
信仰は、一種の縁であって、神の力で他の人々よりも偉くなることではありません。
 
弱い人が、弱さを認めて、弱さゆえに、神に寄る辺を求めるのが、信仰です。ある意味、以前より、強くなるという言い方も出来ますが、自慢したのでは台無しです。
 
信仰者には、多くの、思いこみや勘違いや誤解があります。私個人として実感があることです。したがって必要なのは、学習し成長することです。そのために、祈るのであります。
 
カルトには、多くの、思いこみや曲解や妄想があります。その誤りは、訂正する学習意識がなくて、ゆえに、放置すると、自己中に凝り固まり、反社会的になる可能性をはらんでいます。
 
 
さて、主を誇れという聖句があり、やたら、神を讃美する者がいます。讃美することは、無条件によいことでしょうか。
 
 (コリント人への第一の手紙、口語訳)
1:26
兄弟たちよ。あなたがたが召された時のことを考えてみるがよい。人間的には、知恵のある者が多くはなく、権力のある者も多くはなく、身分の高い者も多くはいない。
1:27
それだのに神は、知者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選び、
1:28
有力な者を無力な者にするために、この世で身分の低い者や軽んじられている者、すなわち、無きに等しい者を、あえて選ばれたのである。
1:29
それは、どんな人間でも、神のみまえに誇ることがないためである。
1:30
あなたがたがキリスト・イエスにあるのは、神によるのである。キリストは神に立てられて、わたしたちの知恵となり、義と聖とあがないとになられたのである。
1:31
それは、「誇る者は主を誇れ」と書いてあるとおりである。
 (1コリント1:26-31、新約聖書)
 
その出典は旧約の次の聖句のようです。
 
 (エレミヤ書、口語訳)
9:23
主はこう言われる、「知恵ある人はその知恵を誇ってはならない。力ある人はその力を誇ってはならない。富める者はその富を誇ってはならない。
9:24
誇る者はこれを誇とせよ。すなわち、さとくあって、わたしを知っていること、わたしが主であって、地に、いつくしみと公平と正義を行っている者であることを知ることがそれである。わたしはこれらの事を喜ぶと、主は言われる」。
 (エレミヤ9:23-24、旧約聖書)
 
2つの聖句より、いつくしみと公平と正義を行っている主を知ることを讃えるのが讃美です。では、私たちは、主なる神を意志と行為を確定的に知っているでしょうか、否です。よくは知らないのですが、知りたいと思って信仰の道を歩んでいるのが、私たち信仰者なのです。
 
その存在を知ることは、それだけでも人間にとっては救いとなりますが、それは、主なる神そのものを知っていることにはなりません。知っていると言うには、恐れ多い御方であります。
 
そして、人の知恵や、人の世界の強さを、神の前に誇ることのないように、聖句は語っているのです。全く聖書の言葉を理解せずに、自分を高めるために、神を讃美する者は、神と信仰を嘲笑って、自らを高めているに過ぎないのです。
 
神が、愚かな私たちを選んだのは、私たちが賢くなったからではなく、偉くなったわけでもなく、どんな人間でも、神の前に誇ることがないためなのです。それは、自分は神を知っているとばかり、やたら讃美して、自らの信仰を誇ることのないためであります。
 
自ら、神の前に誇ることのない者は、人の前に誇るでしょうか、否です。神の前に誇らない者は、自らの弱さ、愚かさ、罪深さを知っているので、人の前でも誇ることはありません。そして、神を誇って信仰自慢をすることもありません。それが敬虔です。
 
つまり、聖句は、やたら神を讃美することを是としてはいません。讃美すれば、厚い信仰などと思ってはいけません。それは、暑苦しい信仰自慢に過ぎません。
 
もし、讃美だから、いくらしてもいいだろうと思って、讃美しまくっている者がいたら、戒められるべきであります。
 
聖句の中の「誇る者は主を誇れ」とは、自分を誇ってはいけないという意味であり、地上での自らの高さ、強さ、賢さを誇るのではなく、信仰を自慢するという意味でもなく、ただ、総てのことについて、誇りを主に帰せよ、という意味に他ならないということです。
 
 
召命

召命
 
祈り「主よ、いつのまにか、崖っぷちにおるのですが、・・どうすればよろしいでしょう・・」とか
 
ときには「命の沙汰など、もう、いいです。早く終わらせてください」と祈ったこともあります。それが、その時は、本音でした。祈りを飾ることだけは、しません。
 
 
 
批判記事を追加します。
 
 アンチのHS批判は、ただの悪口に過ぎないのだろうか?
 幸福の科学とは何だろう?ブログ2021年01月28日
 抜粋して批判。
 
 
2年分の偽善者の資料となっている楽山が、既にバレているのに、また記事を書いてきました。まさに、不治の病質による盲目の執着というべきでしょう。もう、だまさない限り褒められることもないでしょうに、弁明できないのに書き続ける、正常人では考えられないことです。こちらは、資料に、引用と批判を追加するだけです。
 
*正当な批判
この動画ではどうも、アンチは悪口しか言わないような扱いになっている。これはいただけない。
実際には、アンチのHS批判には、次のように正当な批判もある。
 
「正当な批判もある」という言い方になっています。うっかり、楽山のように不当な批判者もいるという自白でしょうか。無反省・無責任の、ボンヤリ言語で、人をおとしめる楽山には、いかなる他者も集団も批判する資格はないと思います。
 
言論と批判の節操を守らない楽山の不当な批判に対しては、正当な扱いを受ける権利はなく、私のように批判を貼りつけるか、無視するしかないでしょう。批判という名目で、自己顕示欲を満たそうとするだけの楽山です。
 
道徳的な見地からの批判。きょう子夫人に対する悪口は酷すぎるなど。
知性、理性による批判。教義の矛盾、整合性の問題。
現実に基づく批判。卒論盗用、HSU不認可、国政選挙全敗など。
 
嘘と詭弁で、自己保身を図ってきた楽山には、同様な問題点が、自分に跳ね返ってくるだけです。作為的な刷り込みによる婉曲的な貶(おとし)めと悪口、節操という理性がない、教義の深みを全く知らないし理解していない、共感もなく自分の都合だけであり、整合性がない、現実に基づいていない、有名人の言葉を悪用、など、我執によって好きなように勝手に言ってきたのが楽山です。
 
これらはアンチばかりではなく、信者であっても心に浮かぶ疑問であろうし、正しき心の探究を本気で実践しようとする信者には、これらの疑問からは決して逃げることなく、正面から立ち向かい、乗り越え、信仰を磨いてほしいものだと思う。
 
アンチや信者と言う前に、誰よりも楽山に当てはまります。「正しき心の探求を本気で実践」することも考えることも、楽山はしていません。この疑問から逃げまくって、嘘と詭弁で見下して、「正面から立ち向か」うことだけはせず、あらゆる克服を妨げる偽善的発言を繰り返しています。
 
「信仰を磨いてほしい」・・楽山に言う資格はありません。楽山は何も信じてなどいません。かつ、あらゆる学習を怠けている人です。何より、自らを省みることがありません。磨くどころではなく、疲労させ、変質させ、破壊してゆくだけの楽山の本性です。誰を激励する資格もありません。
 
無反省・無責任・そして無理解、という、体質的欠損人格の言うことが、まだ通用すると思っている。愚かすぎるのです。人間として必要なこと、何も感じることができないのでしょう。
 
楽山の文章に、一度触れただけでは、人格破壊は起こらないでしょう。ただし、それを考え込んだり、何度も読まされているうちに、楽山と同じような知性と感性の鈍麻が起こってくると思われます。つまり、自己中・無反省が起こってくるでしょう。・・それは、一時的には、楽だからです。長期的には、病識さえもなくしてしまうような魔物の蛇口が、楽山であります。
 
楽山のように、低劣な理屈に、のめりこんでしまうと、もはや、後戻りすることが出来なくなるでしょう。楽山を見れば、よく分かります。楽山は、自らの災いを考えることができなくなり、たらたら、ゆるゆると、知らないうちに、廃油を漏らすように、人をけがしてゆく公害です。
 
楽山が、偽の人間味を武器にしているだけに、粘性の廃液のように、じわじわ染み込んで、時が経てば経つほど離脱が難しくなる、という、カルトと同じような人格の変質が起こってくるでしょう。
 
言ってることは正しそうだから・・ということなら、考えてください。殺すなかれと言っているのが、人殺しだったら、その発言、信じますか。盗むなと言っているのが、盗人だったら、その発言を信じますか。だますなと言っているのが詐欺師だったら、その発言を信じますか。楽山の場合、総てが、嘘なのです。まともな人格ではないのです。
 
私も最初は好意的に書いていて、どうもおかしいと思って問うと、はぐらかす繰り返しで、結局、このまま続けると壊れそう・・というところまで経験したから、批判に転じています。
 
手遅れにならないために、どうか、無反省・無責任の楽山を、相手にしないでください。けっして関わらないでください。近づかないでください。お願いします。
 
 
(2020年01月28日)
(2021年01月29日、加筆して再録)
 
 
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  楽山の病質
 
 「内村鑑三先生の憶ひ出」志賀直哉著
 2020年12月18日 楽山日記(LD)
 
 
楽山が、書きたかったのは思い出ではなく、悪口だと分かります。引用しておきながら、悪口を言う、このような分裂した筆致が、楽山の腐った持ち味です。
 
これは内村鑑三と師弟関係にあった志賀直哉の随筆であるが、内村鑑三にまつわる逸話が多く紹介されていて、頁数は少ないものの、なかなかに読み応えがあるものになっている。
ちなみにここで披露されている逸話のうち、いくつかを抜き書きしてみると、まず内村鑑三は何かの折に「僕は男よりも女の人にはよく好かれる」と笑っていたことがあったそうだ。こんな冗談を言う人だったとは少々意外である。
 
楽山が、どういう読みごたえを感じているかが分かります。志賀直哉の口を借りて、内村鑑三をネタに、冗談でおとしめる楽山です。こういうことを材料に、キリスト教を、おとしめ、冗談まじりに、侮辱してきた反キリストが、楽山その人です。
 
また、外国人が郷土の言い伝えを披露したときに、「余程馬鹿な先祖だな」といって相手に嫌な顔をさせたとか、日蓮とキリストを同列にして語る人について、「そんな事をいふ奴は博士ぢゃなくてバカセだ」と決めつけたとか、閔妃暗殺に関わった社会主義者が聖書研究会に現れたときは「〇〇さん、貴女はこれから来ないように……」と断っていたともいう。さらには、著者がクリスマス会で罪の意識について疑問を持つような話をした時には、「そんな話より、バラのさし木を作る話でもすればよかつた。その方が聴きたかつた」といったそうだ。これらの逸話は人によっては酷いと感じるかもしれないが、自分には内村鑑三の正直さ、率直さをよく表しているように思えて愉快である。
 
馬鹿、バカセ、来ないように、このような悪口は、学者・評論家気取りの楽山に向けられるのが相応しいでしょう。自分の立場を弁えないで、自分が言われることを考える想像力を持たないで、人の悪口を、別の人の口を借りて、わざわざ、記事に書いてくる性根に、何か、有意義なものがあるでしょうか、否であります。
 
そして、内村鑑三の著作から引用してきた手前、後付けで、「正直さ、率直さ」などと、褒め言葉を書いて、それで、帳尻があったつもりでいる愚か者が、この楽山なのです。逆の言葉を書けば、化学実験のように中和されるとでも思っているのか、本当に腐ってる。
 
否定と肯定を、反省と訂正なしで書けば、それは、矛盾というのです。それが分からないならば、小学生以下です。楽山は、どこで、どうやって、成長し損なったのでしょうか。
 
聖書に関連した話としては、内村鑑三は、キリストはピラトから「お前はユダヤの王か」と問われて、「然り」と答えただけで、それ以上何もいわなかったところが大事だといっていたという。キリストは「然り、しかしその王の意味は」と細かく説明すれば命はたすかったかもしれないが、あえてそうはしなかったのだと…。著者の想像によれば、不敬事件の際の先生の態度は、この考えによるものだったのではないかとのことである。
 
けなした後で、先生と呼んでいることは、滑稽でさえあります。今までも、褒めた後で、けなすことは、しばしばありました。
 
悪口を集めておいて、敬意の言葉だけ付け加えればバランスが取れて、中立だとでも思っているのでしょうか。それを書いて、評論や感想文になると思っているのでしょうか。
 
人の気持ち、読者の気持ち、常識的なこと、配慮する気配り、など、全く持っていない病質者の特徴です。楽山は、書けないのです、まともな文章が。
 
自覚がなく、自尊だけ高い病的ナルシストが、どんな生き方をしているかが分かると思います。嫌がらせのように、書くことだけは止めない楽山に、まともな評価を受ける資格も与える資格もありません。
 
(ネットより)
1891年(明治24年)1月9日、第一高等中学校の講堂で挙行された教育勅語奉読式[1]において、内村が天皇晨筆の御名(おそらくは明治天皇の直筆ではなくその複写)に対して最敬礼をおこなわなかったことが、同僚教師や生徒によって非難され、それが社会問題化したものである。敬礼を行なわなかったのではなく、最敬礼をしなかっただけであったが、それが不敬事件とされた。この事件によって内村は体調を崩し、2月に依願解嘱した。
 
楽山は、神にも、人にも、不敬であることが分かります。人のことを言えない立場でありながら、人のことばかり言う楽山は、真実の追求を目指す思慮深い人に、不敬・不快・迷惑・侮辱だけを与える病的人格の持ち主であります。
 
止めないのです、何度言っても、止めないのです。無反省・無責任・訂正不能の厚顔無恥であり、他者のことを何も考えず、いつ犯罪に走っても、おかしくないような、病質者です。決して関わらないでください、近寄らないでください。
 
以上、この随筆で紹介されている逸話の一部を抜き書きし、簡単な感想を添えてみた次第であるが、本編ではこの他にも興味深い話がたくさん披露されているので、関心のある方にはぜひ一読を勧めたいと思う。
 
このように、キリスト教をおとしめようとする者は、あれだけ引用してきた内村鑑三を、別の日には、ボロクソに言える性根を持っているということです。
 
言うまでもないことですが、楽山は読書したとしても安定した感想を持てない人なので、楽山の感想文は全く当てになりません。くれぐれも、決して参考にしないでください。
 
つまり、楽山は、今日、褒めても、明日には、ボロクソにけなす、というような、気分易変に伴って、評価を180°変える人ですから、しかも、「愉快」と言っていますから、元々が、人をけなし、おとしめることに快感を覚えているだけの人なのです。
 
 
病質者の収穫

病質者の収穫
 
 
(2020年12月19日、同日一部修正)
 
 
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※ 付録
何とかなることを祈っているが、新型コロナは、1年経っても、治まるどころか、ひどくなっている。来年で終わるかどうかも分からないなら、医療が崩壊する可能性がある。そのことも併せて作用して、経済が崩壊する可能性がある。そうなると、貨幣価値も当てにならなくなる。最悪の場合には、自殺、暴動、略奪、他殺、パニックなど、個人または集団による犯罪が多発するだろう。
医療・医学がどうの、とか、経済政策がどうの、という議論では済まなくなる可能性がある。国民の生存権を直接守る政策が必要な気がする。どの町でも村でも、そこに行けば、食糧と飲料があり、適温の中で眠ることが出来る、という場所を設定し、具体的に設置しておく必要があるだろう。凌ぎの時代が来るのだろうか。
 
「生存権」
生存権を具体的に守るために法制度が必要ですが、末端におけるコミュニティの人間関係の役割が重要だと思います。支配や秩序だけではなく、人間力による節度ある助け合いが必要だからです。
 
 

 
  楽山の怖さ
 
 信仰と固定観念(HS信者を見ていて思うこと)
 2020年11月26日 楽山日記(LD)
 (画像省略)
 
 
楽山のような病質者というのは、罪悪感がないために、弁明しないまま、攻撃的記事を際限なく書いてくるのです。その執拗さと激しい怨念には、火山の火砕流のような勢いがあります。
 
しかも、批判されにくいように文章を画像で示したりもします。しかし、引用されている画像は、大方、HS関連のものなので、楽山批判というテーマにおいては省略してよいと思います。
 
*ノルマ強制?
ツイッター上で、HSにおけるノルマの有無が議論になっている。
その中身については、パスタファリアン氏のまとめによると次のような流れだ(ツイッターの方に行けば、この続きも見ることができる)。
(画像省略)
傍から見ての感想だけども、信者の田中氏は、そのツイートからすると、次のように信じていて、それに反する情報は一切受け入れるつもりはないようだ。
HSにノルマ強制はない
信者は不妄語戒があるから嘘はつかない
アンチはHSを逆恨みして、嘘をついたり、捏造したりする
普通の人であれば、ノルマ強制なんかないと思っていたとしても、これだけ沢山の人たちがノルマ強制と思しき体験談を語るならば、「ノルマ強制は、自分の周囲ではなくとも、他の支部ではあったかもしれない」ということくらいは考えるものだと思うのだが、田中氏は上の信仰があるせいか、そのようなことはなく、HSにノルマ強制はない、アンチは嘘をついていると断言し続けるばかりだ。
どうやら田中氏の信仰の壁は、厚く、高く、堅固であるらしい。
 
楽山は、平気で詭弁を弄したり「嘘をついたり、捏造したり」します。提言者としても批判者としても失格です。この一点において問題外なのに、楽山は、言い続けているのです。
 
しかも、人の言うことに対しては、楽山のほうの「壁は、厚く、高く、堅固であるらしい」ので、これもまた、平気で無視が出来るのです。楽山は、カルトより怖いのかもしれません。
 
*やれやれ
ちなみに上の構造は、LEO氏でも同じだ。エル・カンターレ信仰に基づいて考え、語るばかりで、それに反するものは受け付けない。
もうちょい具体的に書くと、HSで、不信仰者やアンチは、これこれこういう考え方の人たちだ、イエス、トルストイ、ジョン・レノンの関係はこのようなものだ、エル・カンターレ、イエス、HS、キリスト教の関係はこのようなものだという風に説けば、その枠内で考え、語るだけで、その枠外のことは拒絶するということだ。
 
完全な自己中心に凝り固まっている楽山は、自我に固まり、不感不応の壁によって、世辞以外、何も受け付けません。自分に都合の良いこと以外は、拒絶し、なかったかのように、同じことを繰り返し書いてきます。人間には出来ないことのように思われます。
 
「私はアンチですけど、そんな風な考え方はしないよ」「HSとキリスト教の関係はそうじゃないよ」といったところで、「屁理屈だ」「言い訳だ」「自分勝手な解釈だ」と決めつけておしまい。自分の信仰に反する情報は受け付けない。
今日もたくさん記事を書いているようだが、ざっと軽く眺めたところでは、こういう構造には変化なし。やれやれ。
 
楽山は、アンチ?、つまり、批判者ではありません。我執に凝り固まった病質者であり、罪悪感も羞恥心もないサイコパス的人格であり、楽山は、批判しているくせに、自身に向けられた批判に対しては、全く無視して、嫌がらせを書いてはきても、弁明できず反論できないことが証拠です。
 
・神が自由意志を与えられたことが、どんなに深い意味を持つか、はかり知れない気がする
・(どこかちがう!)と思われる人間にならねばならない
・神が「せよ」と命ぜられたことには、わたしたちは、謙虚に従ってみようではないか
・「何を以って愛とするか ―ジョン・レノンの霊言」を読もう
・高級霊の思いと言葉は美しい、地獄霊は屁理屈を言う ~「文豪たちの明暗」~
・大川隆法先生への感謝と、自分の未熟と
 」(リンク省略)
でもいつかこのことが分かる日が来るかもしれないし、このことが分かる現役HS信者がここを見ているかもしれないので、一応書くべきことは書いておくことにする。
 
楽山の、いつか分かる日をイメージできません。また、嘘だと思うでしょう。楽山には、カルト信者のような素直ささえも見られないのです。
 
*信仰と自由意思
HSでは、基本的には、信仰を持つかどうかは、その人の意思次第ということになっていたかと思う。
でも聖書には、こう書いてある。
神はあらかじめ定められた者たちを召し出し、召し出した者たちを義とし、義とされた者たちに栄光をお与えになったのです。 
(ロマ8.30)
 」
以前、この件について、キリスト教質問箱で問うたことがあったけど、信仰を持てるかどうかは神の召命のあるなしによる、ただし人の側から神を求めることも大切ということだった。
この辺りの考え方について、HSとキリスト教とを両立させるのは難しいと思う。
 
神は、人を召命するのでしょう。しかし、神が、ある特定の人を召命したかどうかは、人間には分かりません。つまり、地上では、人にとっては、あくまで、自由意志で信仰を志してゆくのです。
 
そこが分からない楽山は、実に、悪意によって、キリスト教の神を利用して、神を、人の立場から、扱っている時点でアウトなのです。人には分からない超常を、分かっているふうに、騙(かた)ってゆく楽山の怖さが、ここで、明らかになっています。
 
*従順、服従について
このテーマについて、聖書の考え方を知ろうとするなら、ヨシュア記を読めばいいと思う。そこでは、神から住民皆殺しを命じられ、その通りにする話が繰り返し語られている。また創世記には、アブラハムは、神の命令によって息子をいけにえにささげようとする話もある。
 
楽山の聖書の話は、全く無意味です。相手にしないでください。生贄に捧げるように命じた後で、神は、アブラハムが息子を殺すのを、天使を通して、止めています。何らかの試練を与えた可能性がありますが、はっきりした解釈について、私は保留しています。
 
楽山は、凝り固まっているので、保留と言うことが分かりません。人間には分からないことがあると言うことが分かりません。だから、神の辻褄を空しく追っているのです。まさに、風を追うようなものであります。
 
HSではこういう話をそのまま受け入れることはできず、殺害命令は悪魔の声を、神の声と間違ったのだろうという解釈をすることになるのではあるまいか。
キリスト教系の掲示板で、「神が殺せと命じるとき!?」というようなスレッドを見掛けた記憶があるけど、HSではこういうことを考えることはできなかろうと思う。
 
いちばん凝り固まって、言論が出来ず、何も成り立たないくせに、悪口だけ言ってくるのが、楽山という病質者なのです。
 
*カトリック
孫引きで申し訳ないのだけれども、服従について、カトリックの方ではこんな考え方があるそうだ。
諸君が命令どおりに服従して行った瞬間に、神は諸君の責任を解除して、その責任を修院長に負わせ給うのである。 
(『宗教的経験の諸相(下)』W・ジェイムズ著、桝田啓三郎訳、岩波書店、2015年、p.89)
 」
これは神の代理人とされる修院長に服従している限りは、責任は生じないという理屈らしいが、自己責任を基本とするHSでは、これを受け入れるのは難しいだろう。
 
修道院のことでしょうか、カトリックの教えを引用しているようだが、ちょっと読んだだけで、神髄を知ったかのように、気楽に記事に載せて味方とするような振る舞いが、楽山という病質者には、前から見られます。神聖に対する恐れを知らないことが、もっとも、恐ろしいことです。
 
*夫に仕える
三浦綾子が夫に従順だったという話は、自分が行った講演会でも話されていた。口答えすることなく、なんでもハイと返事をしていたと。
おそらくは、聖書に従っていたのだろう。
妻たちよ、主に仕えるように、自分の夫に仕えなさい。
(エフェソ5.22)
 」
三浦綾子が夫に従順だったというのは、HS的には、謙虚、謙遜、無私などを理由にするかもしれないが、三浦綾子は聖書の言葉は自分勝手に緩く解釈してはならないという考え方の人のようであるし、
 
聖書の教えは、人間関係にも、及ぶことはあるでしょう。完全に守ることは出来ないのが人間です。楽山が、「自分勝手に」小説家のことを「解釈」云々するのは、人間として、傲慢であります。何を知ってるつもりなのでしょう。
 
楽山は、聖書を利用したつもりで、聖書と信仰と信仰者と人間をけがしています。
 
HS的に心の教えを実践していたというよりも、そういう原理主義的な信仰による行動だったのだろう。
 
信仰は、○○主義や、○○イズムには、なりません。三浦綾子氏の信仰生活を、原理主義的な信仰と、婉曲的に揶揄していることを、忘れないでください。これが、楽山です。
 
また噂によると、最近のHSでは、夫より、エル・カンターレを選びなさいと説いているという話があるが、これが本当なら上の聖書の言葉とは大分違うように思う。
 
楽山が、聖書の言葉と違うことをもって、批判していることは、実に滑稽です。聖書に、いちばん、反しているのは、どこから見ても、婉曲的な悪意がバレている楽山であります。
 
*最後に
HSには、生長の家の影響もあってか、万教帰一的な考え方があって、HS、仏教、キリスト教などはその根本を同じくするものだというけれども、実際には上のように、同じ言葉を使っていても、その意味、背景、論理などは異なっており、安易にいっしょくたにしてはいけないものだ。
こういうことは、HS信者にとっては受け入れ難いものだろうけれども、そういう考え方があるということくらいは、頭の隅にでも置いといて欲しいものである。
 
同じ言葉も、違う言葉も、どんな言葉も、誰の言葉も、言えば、悪意が働くのが、楽山だと思っていたほうがよいと思います。
 
私は、ずっと、真実追求のテーマである宗教と信仰と思想について、楽山には何も書く資格がないと書き続けています。
 
◇◆ 追記 2020.11.26 ◆◇
*美しさ
LEO氏の記事タイトルに「高級霊の思いと言葉は美しい」とあるので思い出したが、HSでは「高級霊はみな詩人である」とされていたのだった。
でも、ツイッターで拾ったものだけど、大川隆法はこんな詩を書いているらしい。
デザート1
デザート2
 」(省略)
この詩集には、この他に「神の乳房にむしゃぶりついて…」とか、処女がどうしたこうしたという詩もあって仰天させられるのだが、率直な感想としては、「高級霊はみな詩人である」という教義と、現実の大川隆法の詩とでは隔たりがありすぎて、この二つを矛盾なく結合させるのは大変だろう。
余計なお世話だろうけれど、一退会者として、教義と現実との差異に気づいて悩んでいる信者には、あまり無理しない方がいいよと言ってあげたいと思う。
 
楽山の、美意識のみならず、人格そのものを全く信頼できないので、何か揶揄しているようだが、その揶揄を信頼できません。
 
楽山が、詩の形式で書いていたクリスチャン芝居は、わざとらしくて、白々しくて、とても、読むに耐えるものではありませんでした。
 
 
三文芝居

三文芝居の怖さ
 
 
(2020年11月27日、同日一部修正)
 
 
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