ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

タグ:的外れ

 
  努力と我執3
 
 2020年04月03日
 宗教的な不可知論者?(『宗教的経験の諸相(上)』W・ジェイムズ著)
 
 
楽山には自分がどれだけ的外れか、無理解か、という自覚がないのです。かつ、一言も、反論も弁明も成り立ったこともないのに、書き続けるのは、意地を超えた精神病理があると考えるしかないでしょう。ゆえに、批判ではなく、意地を張る我執に過ぎません。
 
今回も、身の丈に合った書き方ではなく、ボンヤリ言語で断定して悦に入っているようですが、こういう楽山の執拗さと粘着性は、"仏様の心が分からない親族に驚いた" という彼の記事のように、昔から霊能についての妄想的な訂正不能の自負があるからなのでしょう。
 
楽山が、霊感を示すのに、ことごとく失敗しても、限界を感じるわけでもなく、恥を知らず、反省も学習もなく、妄想が高じてゆく末路には、自分を認めない者たちへの復讐として、やはり、社会悪に近接してゆく危惧が大いにあります。自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)だからです。
 
努力と我執は違うのです。楽山は、霊が分かるっぽい自覚から、努力せずに、一気に獲得できる真理への、実は怠慢根性の、安易なショートカットを選んで、いつか、評価されて褒められる、という悪夢を見続けているのでしょう。
 
この2年余り、楽山の記事を読んで批判してきたことから、楽山は、神を、否定することも、肯定することも、信じることも、できない人だと判断しています。この手の哀れな人に同情して関わると、同じように、かわいそうなほど悲惨な地獄に巻き込まれるでしょう。
 
 
本に紹介されている体験談を読んでいると、これは自分と同じだと感じることが時々あるが、自分にとってはこの文章がまさしくそれだ。孫引きになってしまうのではあるが、こんな風に不可知論的になりながらも絶対的実在を感じるというのは本当によく分かる。
二十歳から三十歳までの間に、わたしはだんだん不可知論的となり、無宗教的になったが、しかし、現象の背後にある絶対的実在についてのあの『ぼんやりした意識』――ハーバード・スペンサーは巧みにこう呼んでいる――まで失った、とは言えない。 
(『宗教的経験の諸相(上)』W・ジェイムズ著、桝田啓三郎訳、岩波書店、2014年、p.100)
 」
 
楽山は、哲学者ジェイムズの体験談を「自分と同じだと感じる」そうです。理性も情感も、オモチャの作り物のように、いい加減なのに、学者か批評家気取りの自らに満悦して、肩を並べている気分でいるのでしょうか。ストーカーを見るような気味の悪さを感じます。
 
キリスト信仰については、楽山は、否定することにも肯定することにも、何一つ着手さえ出来ていません。それで、学者の名前を出して「ぼんやり」という引用までして自慢したいのでしょうか。身の程を知らない楽山は、学者の"実在についての表現"に、"自分のボンヤリ"を当てはめる始末です。
 
理屈で無宗教と言い、理屈で宗教と言っても、信仰は理屈ではないという部分を、楽山は、信仰について、自分の言葉で、書くたびに詭弁と循環論法が明らかになるほど曲げて、何も言えていないのです。詭弁だらけのお粗末な屁理屈だけで宗教を考えて、無宗教になったなど、まるで意味がありません。
 
信仰は理屈ではなく、信仰がなければ宗教は、資料に過ぎず、資料だけなら、それは、楽山の詭弁の記録と同様、信仰として何の意味もないのです。楽山は、一度も神など信じていないのに、徒労から徒労に逃げながら、いい気になっているだけです。
 
 
とはいえ当然のことながら他人の経験や思惟が何から何まで自分と同じだということは有り得ないので、この文章と自分との間に相違点がないでもない。たとえば自分の場合は、不可知論に向かい始めたのは二十代ではないし、絶対的実在に対する感覚はぼんやりとしているというよりは、真夏の太陽の光がじりじりと肌に感じられるほどにリアルである。ここは上の体験者とは違っている。
 
映画「太陽がいっぱい」みたいに「真夏の太陽の光がじりじりと肌に感じられるほどにリアルである」・・ではなく、じりじりと苛立って、かつ、他者を苛立たせるだけの徒労の的外れが楽山です。病識がないので、どう批判されても、平気で無視してくるのです。自分の言葉を持たないカルトの特徴です。
 
楽山は、神を知りえないとする不可知論ではありません。反キリストであり無神虚カルトであります。キリスト教とキリスト信仰とキリスト者に対する侮辱によって快感を得ているに過ぎません。いちゃもん屋に過ぎないのに、言論を装う見栄だけで慢心して生きているのです。
 
 
ちなみにこのリアルさは、人には人知を超えた絶対的存在については確たることは何もいえないが、それでもそれは実在するだろうことを予感するいわば宗教的な不可知論者でいるときはもちろん、手持ちの材料から検討する限りにおいては、どうも創造主というようなものは存在しないようだという無神論寄りの不可知論者になっているときでさえもさほど変わらないのだから我ながら不思議であり、おかしくもある。
 
絶対的存在について、「実在するだろうことを予感する」なら無宗教ではないですし、ならば「いわば宗教的な不可知論者」などと言っていることは気取っているだけの矛盾に過ぎません。人格が崩壊に向かっていることが文章に表れてきたのでしょう。
 
楽山は、今まで、幼稚に、単純に、屁理屈で、いちゃもんで、神を、舐め続け、否定し続けているのです。信仰者なら決して出来ないことをして、不都合を聞かずに無視して、自分だけの、押し入れの中の孤独な快感を舐めているだけなのです。
 
楽山の思想の根源は、神と人について、皮相だけを舐め続けているだけの表現しかありません。とても、良心も、思慮も、成り立たない者の立場、あるいは、倒れる場でしかないのです。そこで、楽山が、一人前に立っているつもりで書いてくるのは、滑稽としか言いようがありません。
 
不可知論は、楽山が前に引用してきた無神論とは違います。神を知り得ないという考えであり、神の意志と行為を人が確認できないという意味においては、神を恐れよ、という教えとともに、私も、神は不可知という立場であります。
 
可知論の立場については、どう思い上がったら、神を可知、つまり、神を知り得るなどという、私に言わせれば、背教発言が可能なのか、こちらが聞きたいくらいなのです。
 
一方、不思議ではなく、可知でも不可知でもなく、楽山は宗教も信仰も知らないのです。心に受け取ることもないし、信仰など持ったことはない、という内容しか書いていないのです。したがって、楽山が宗教を語ること自体が無意味なのです。
 
「無神論寄りの不可知論者」というのは、ひどい言い方です。不可知論は、神が不可知であることを表しており、無神論ではありません。楽山は、矛盾なく知ることなしに信じることはない、という考え方のようですが、人が神を矛盾なく知ることなどありません。
 
自分の非を認めない自己愛性に凝り固まって、本当に、何度も何度も幼稚な言葉で、誤謬と詭弁を弄して、楽山は、信仰とは何の関係もないことを宗教として、実に無意味な、まるで、茅(かや)の草むらの中を走るときに出来る傷のような、うっとうしいだけの嫌がらせを続けています。
 
誰にとっても、感動も意味も価値もなく、自分は批評家だ、自分は学者と同等だ、という自尊過大の執着を捨てきれないナルシシストの成れの果てなのです。こうはなりたくない、という典型です。
 
 
この感覚がどこから来るのかについては、宗教的にはそれこそが神の存在証明とされそうであるし、進化心理学的には進化の過程で獲得した本能の誤作動による錯覚とされるのかもしれず、自分には一体何が正しい答えなのかは判然としないのではあるが、ただ少なくとも自分にはどうもこの感覚を消すことは無理であって、もし仮に自分が無神論にどれだけ傾倒したとしても、無神論的有神論者、無神論的不可知論者くらいまでにしか進めず、根っからの無神論者には決してなることはできないだろうということだけは確実のようではある。
 
そもそも、信仰は論ではないし、楽山が、宗教と、進化心理学などとを、並列するところから、宗教と信仰に対する無理解と真っ赤な嘘の詭弁が始まっているのです。楽山は、論者ではないし、論者だったこともありません。ただの知恵の足りないペテン師です。
 
そのベースは、心理学の「心の理論」を、楽山の曲解と妄想によって霊能の話にしている妄想思考に明確に表れています。ひとかどの人物を気取り続けるナルシストであり、何を言っても、修正されることのない妄想的確信なのでしょう。
 
「本能の誤作動」は、楽山が、宗教について語り出してから、ずっと起こっていることです。錯覚と見なされるのではなく、楽山の妄想なのです。感覚を正すことが無理だという妄想的な誤認識ですから、良識をもって高慢な思いを自ら戒めない楽山は、全く健全ではなくなっています。
 
名のある他者の理屈をなぞって、同僚か同士であるかのように賛否を云々するほど、楽山は、思い上がるだけで、楽山の書いてくる文章は、思考と感性の第一歩から、今まで、何か分かったという結実を、まるで示せていないことが明らかで、楽山の妄想的自己愛の精神病理のみを表しているのです。
 
楽山の宗教観は、ホラーアニメや、霊の話、というような、趣味の見物が、楽山というフィルターを通して、楽山によって、宗教であるかのように吹聴しているものであります。実態は、虚無と無駄を、無病識の妄想者が迷惑メールを公共に向かって走らせているに過ぎません。
 
 
自分は別に無神論にそこまで入れ込んでいるわけではないのではあるが、ただそれでも根っからの無神論者には世界がどのように見え、何を感じるのかということは自分には決して知り得ないだろうことは残念であり、物足りないような気がしないでもない。結局のところ、人は自分の視点からでしか世界を見ることはできず、他人の見ている景色は分からないものなのだから、こんなことを残念がっても仕方ないのではあるが、それでもやっぱり残念ではある。
 
無神論にも、有神論にも、キリスト教にも、キリスト信仰にも、一歩も、入り込めないのが、楽山です。楽山が「入れ込んでいわけではない」のではなく、入れ込むほどの知識も感受性も、今まで示しえたことがないということです。
 
楽山が、今まで表したのは、劣悪な詭弁と悪意だけです。楽山は、残念がっても仕方のないことに、悪意ベースの勘違いで、残念芝居をしているだけです。みすぼらしく、ホコリをかぶった自分に気づかない楽山です。
 
楽山の言は、全くの自慰行為であり、他者の意見のうち都合の良いものだけを取り上げてくる態度は、それもまた的外れになって、独りで書いて独りで笑っているだけの反復運動に過ぎません。自らの愚かさに目をつぶって書けるなんて・・と思うほどの厚い面の皮です。
 
バクテリアが、顕微鏡下で、細かく震えているのに似て、主体としての存在をなしていない楽山が、真面目に考える人々を、惑わすか苛立たせるだけで、収穫のない培地に巣食って、自覚もなく、気取りだけで、誰も答えないところで、どんなもんだいと得意顔で悦に入っている精神の無宿者です。
 
他人の見ている景色が分からないことは、他人の見ている景色を無視する根拠にはなりません。他人の見ている多くの異なった景色の表現から、思慮において学ぶこともあり、また、自分の視点だけを執拗に書くことは慎むのが大人です。
 
しかし、楽山は、自分の視点から世界を見て、それをしつこく書いて、かつ、的外れで著しい見当違いであることに気づかないだけなのです。どうしても、一人前の学者か批評家のように振る舞いたい欲望の執念の虜(とりこ)なのでしょう。
 
一部の読者に、やさしい人柄だと、宗教と信仰の記事だと、これがキリスト教だと、平気で勘違いさせようとする分だけ、迷惑で有害です。
 
学習と我執は違うのです。
 
 
学習なき有頂天

学習なき有頂天
 
 
(2020年)(2021年)
(2022年04月10日、再録+加筆)
 
 
 
  感覚と学習(抜粋)
 
目に映る色は目が感じるのではない
手足の痛みは手足が感じるのではない
感覚器は神経に伝えようとはするが
感覚器自体が感じることは何もない
感じるのは常に脳だけだ
感じ方は脳の素質と学習次第だ
 
耳鳴りや幻聴を考えてみるといい
脳の神経だけで
感覚器を通さなくても
感じて聞こえてしまう
しかしこれも慣れることがあり
気にならなくなることもある
脳と心の問題である
 
心の痛みについても心次第で
同じことを体験しても
人としての共通点はあるとしても
心が感じる痛みの強さや性質は
人によって微妙に違ってくる
だから同じ人でも
心の状態によって
心の学習によって
痛みは強くもなれば弱くもなり
重くもなり軽くもなり
増えもするし減りもする
 
 
 
 大人の教養TVで、幸福実現党について解説していた
 2021年04月06日 幸福の科学とは何だろう? by 楽山
 
 
*大川隆法の夢
ところで、宏洋氏の動画で、大川隆法は総理大臣になりたがっていたとしているが、この話の真偽については、大川隆法が自身の過去世をなんと言っているかを考えれば、容易に見当はつくと思う。
大川隆法は、自身の前世は、釈迦、ヘルメス、リエント・アール・クラウド、トス、ラ・ムーなどとしており、釈迦が王子だった以外はすべて王だったとしているのだ。生まれ変わりというものは、さまざまな家柄に生まれ変わるものだろうに、大川隆法は自分は常に王族として生まれ変わってきたというのである。
こういっては何だけども、このようなことを公言する大川隆法という人は、自らの理想、願望に正直な人であり、分かりやすい人である。
 
楽山の認識の偏奇が表れています。総理大臣になりたがっているとか、生まれ変わりがあるものとして、過去世が王だった、さまざなな家柄に生まれ変わる、などという話が必要でしょうか。
 
それより「ヘルメス、リエント・アール・クラウド、トス、ラ・ムー」について説明しないのでしょうか。さらに「自らの理想、願望に正直」「分かりやすい人」と言っています。実に奇妙な精神です。あるいは、悪意だけの、楽山からの皮肉なのでしょうか。
 
批判する気なら、それは妄想だと言うべきなのです。しかし、言えないのです。同じ穴のムジナだからです。楽山こそ、根底を流れている妄想性の教祖願望ベースからしか発言できないことを表しています。柔和な知識人を気取った言い方だと思います。
 
楽山も、自己愛からの、根拠のない、霊が分かるっぽいとかの、実に奇妙な妄想に生きているからでしょうか。批判しているような、ご機嫌取っているような、まとまりがなく軸のない者が、他者のことを言えば、こうなる、という例でしょう。
 
楽山の思考は、成長し熟成するということがありません。いつも、思いつきの段階で止まって、そこで、訂正不能になってゆきます。ゆえに、深みを思うことも、悩むことも、悔いることも、反省することも、自己の責任を考えることも、一度もないということを、気にしないでいられるのでしょう。
 
 
 
心機一転★こも楽山
@komo266
愛情不足のために、一体感を求めて不純異性交遊にはしる例もあるという話を読んだことがある。
親が子との時間を大事にし、夜は添い寝するようにしたら、子の不純異性交遊がなくなったと。
二世信者に性の乱れがあるとして、それは肉欲ばかりが原因だろうか。
午後9:47 · 2021年4月6日·Twitter Web App
 
愛のない楽山が、他者の愛情不足を批判しています。よく書けるものだと呆れます。人に寄り添うということの出来ない楽山です。もし愛すべき人々を大切にすることが出来ていたなら、今までの、無反省・無責任・無理解・無神経・破綻の経過は、なかったはずなのです。
 
 
心機一転★こも楽山
@komo266
·2時間
エネルギー自給率を上げることは大事ですが、あまりにそれを求めすぎると、水からガソリンを取り出すというようなトンデモ詐欺に騙されかねません。山本五十六でさえ、その被害にあったといいます。お気をつけください。
 
自己愛から、神の真理と理屈を出す、というようなトンデモ詐欺のペテン師が、楽山です。付き合えば付き合うだけ、精神神経の疲労という被害に遭い、気づかないうちに、人格を破壊され、奴婢にように、おとしめられます。くれぐれも、気をつけてください。
 
 
 
 2022年04月09日
 霊能力を語る(1)棒氏の場合
 幸福の科学とは何だろう?ブログ by 楽山
   抜粋して、楽山を批判。
 
 
霊力を使って、いろいろなことができると言うものの、「では実際にやってみてください」「どんな実績がありますか」などと問われると、答えをはぐらかすというのは、ありがちな事ではある。まあ、実際はこんなもんか…。
 
霊が分かるっぽいと思っている楽山は、ありがちではなく、すっ飛んで不感不応の妄想と自己中によって、完全・絶対の、不感不応の、言うが聞かない帝国を、無遠慮に押し出してくる紐状連鎖の大嘘吐きです。楽山の言うことは非人間の無資格言論ゆえをもって全否定するべきです。
 
 
でもそれはそれとして、HS信者でありながら、「生死にかかわるような場面」でタロットを使ってしまうというのはおかしい。これではまるで主エル・カンターレより、タロットを信じているみたいではないか? 信者なら、真っ先に主エル・カンターレに祈るものではないのかな。
 
楽山は、いつも、何を言われても、ケロッとして、自分は何も信じていないにもかかわらず、信じ方を説教してくるという呆れた固陋(ころう)の発疹を持っているようです。生きていられることが不思議な、不合理ヒト型培養の急性慢性理不尽です。
 
「ではないのかな」などに表されている、いかにも優しい知識人気取りの、忠告口調の柔和芝居には、いつも、うんざりします。自己愛性人格障害の楽山の、自分への評価と、客観は、恐ろしく違うのです。楽山の自己正当化の、強張った自我の外壁が、無反省と無責任を表すだけです。
 
どんなときも、どんなときも、先生気取りのティーチャラとして、上から教えたがる楽山に、うなずいたら、人生は、終わりです。真実は、いつも、楽山の敵です。真実は、楽山の満悦と成りすましに変態して、アンチ楽山に収束してゆくでしょう。
 
神の、反キリストへの裁きが、派手な超常現象とは限りません。それよりも、日常的に、嘘吐きは自らの理路と情緒をも破壊してゆきます。現に、言い逃れの果てに、言葉も、しぐさも、顔も、声も、バランスと調和を失った奇怪な芝居に堕ちてゆきつつあります。
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
無反省を「人間の性なんでしょうかね」という詭弁で「自分もそんな風です」と一般化して、ゆえに、反省しないために学習が成り立たず、にもかかわらず、学者気取りで書いて、批判を無視して書き続けて、何の魅力もない文章なのに、学者を気取る楽山は、自己満足の破れてゆく皮袋のようです。
 
 
 
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  楽山の的外れ
 
 『素顔の安岡正篤 わが祖父の思い出』安岡定子著
 2020年12月20日 楽山日記(LD)
 
 
楽山は、有名人を引用して、利用して、悪用して、自分もそうだと、自分を高めようとする、安いアピール、言い換えれば、詭弁の印象操作をしてきます。
 
前にもらった「おやさしいお人柄ですね」という社交の世辞のコメントを欲しがるからでしょう。そうして、いつも、わざわざ、楽山の低劣さとの落差を目立たせて、ひどい落差を、自ら表してしまう宿命なのでしょう。
 
本書はタイトル通り、孫の立場から家庭における安岡正篤について語ったものであり、興味深い話がたくさん紹介されている。
 
(ネットより)
安岡 正篤(やすおか まさひろ、1898年[1](明治31年)2月13日 - 1983年(昭和58年)12月13日)は、陽明学者[注釈 1]・哲学者・思想家。
(略)
戦前にあっては血盟団事件に「金鶏学院」の関係者が多く連座したため安岡も一時関与を疑われた。
(略)
戦時中からすでに政治家や右翼活動家に影響力があったため、GHQより戦犯容疑がかかったが、中華民国の蔣介石が「ヤスオカほどの人物を戦犯にするのは間違いだ」とGHQを説得し逮捕されなかった[13]。
 
有名人のようですが、右翼思想家のようです。楽山が好むタイプの人物でしょう。しかし、楽山とは、まったく違って、スケールの大きな人だったようです。
 
たとえば、安岡正篤はドライフラワーを見て「この花はもう捨てなさい。枯れておるよ」(p.112)といったり、時代劇のビデオを見せられたときは「これはどの番組だい。新聞には載っておらんよ」(p.103)と首を傾げたり、娘の縁談があったときには「節子は一体どの大学に通っておったんだ」(p.151)と訊いたのだという。
正月に家族で集まった時には、「こりゃあすごい御馳走だね。食事はやっぱりみんなで食べるのが美味しいよ」(p.211)という感慨を述べ、学問については、子や孫に過干渉はしないが、「本はとにかくたくさん読みなさい。本を買うお小遣いだったら、おぢいちゃんがあげるから」(p.36)といっていたこともあったという。どれも微笑ましいエピソードばかりである。
 
思想家をテーマにして、思想を述べず、家庭的なことしか書かないというのも珍しいのではないでしょうか。「微笑ましいエピソード」と書いてあります。楽山には皆無の話題です。つまり、楽山は、このような家庭的な人になりたいという気持ちだけで、思想家の記事を書くのでしょうか。
 
安岡正篤については厳格なイメージがあるし、どのような政治的立場から見るかによって評価は大きく分かれるだろうが、本書を読む限りにおいては、実際の安岡正篤はちょっと天然なところがありつつも家族を大事にする人であり、孫にとってよいおぢいちゃんだったようだ。
 
楽山とは対照的な人物のようです。楽山は、厳格ではなく曖昧なことしか言えず、評価は下がるばかりで、卑怯、無反省、無責任、訂正不能、他者無視、詐欺師的詭弁や、嘘吐き、自己愛性パーソナリティ障害、自己中、厚顔無恥、など、良いところが全くない楽山とは、本当に対照的です。
 
楽山は、その時その場の思いつきと出まかせで、出来の悪い文章を一方的に書いてくるだけです。スケールが小さいというより、スケールなど何も持っていないのが楽山です。
 
親族が書いた心温まる話を読んで、そのような温かい心が皆無の楽山が感想を書く?・・楽山の、どこに、そんな余裕があるのでしょう、楽山は、その必然性を、どういう効果を、期待するのでしょう。言えるのは、総て無視する無反省の楽山だから書ける、その証拠なのです。
 
それから著者の文章は、やさしい人柄を感じさせるものであって、読んでいると自然と気持ちが和んでくるものになっている。とてもよい文章だと思う。
 
やさしくない人柄の楽山は、誰かによって、和むということはないと思います。どれだけ批判されても、平気で、このような文章を書いてくるのですから、いつも、和むというより、自己の山積した問題を何も気にせずに、独り緩んでいるのです。
 
ボロクソな状況を弁えず、善後策を講じることも出来ず、へらへら笑っていられる人格なのでしょう。つまり、一見柔和に見えて、だまされていると、関われば関わるほど、不快と疲労を与える男です。だから、書くのでしょうか。カムフラージュでしょうか。無意味です。
 
つまり、引用した人物とは雲泥の差があるわけで、根底において、そのような人物に決してなれないのが楽山です。それでも、弁えもなく、今回も、有名人を引き合いに出して、自分もそのようであるという、身の程知らずの、気持ちの悪い自己アピールをしている因業なのでしょう。
 
いい気になって書いても、楽山との比較になって、スケールの違いがひどすぎて、その結果は、やさしさのおこぼれちょうだいどころではなく、やさしい人柄がいいから、などという、自己アピールの滑り方が半端でなく、楽山の愚昧さだけが際立ち、的外れもいいとこだと感じるだけです。
 
やさしい人柄と、
何を言われても、ヘラヘラだけの、無反省・無感情の白々しい、やさしさ芝居とは、
全然、違うのです。
 
楽山は、反省をしないので学習機能が成り立たず、ゆえに心の成長がなくなっています。楽山が、感想文でも何でも文章を書けば、そこには、心が無いために、物や、仕組みや、言葉面だけで、不成立の理屈を言うような世界しか表れないのです。
 
感動は心からの感動でなくなり、共感は心からの共感でなくなり、感想は心からの感想ではなくなり、理解は心からの理解でなくなります。楽山の、なごみ話を、真に受けてはいけません。

同じ、感動、感想、理解、また、反省、という言葉でも、楽山が言えば、表しているものが、全然違って、オモチャの言葉になり、うわべだけの、深みのない、おちゃらけに過ぎなくなります。
 
やさしい人柄というのも、また、あらゆる真実も、オモチャの、おちゃらけに過ぎないですから、オモチャを組み立てて、人々に見せびらかすだけの文章になるので、語ることが、良い心の実感からは遠く離れて、言えば印象がよくなるから言ってみただけの、また、みんな時々言うわけだから言ってみただけの、中身のない、つまり、嘘にまみれてゆくということです。
 
 
的外れ

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