ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

タグ:真理

 
  暗く狭い楽山
 
 
 真理は誰のものか
 2014年03月04日 楽山日記(LD)
 
 
真理と言えば、楽山の中では、平板な概念が対応して決まってしまうのでしょうか。真理、という、とてつもなく大きなテーマは、とても、人間一人の器に納まるものではないのです。今回の記事によって、むしろ、真理を概念的対象にしてしまう楽山の欠陥が明らかになっています。
 
真理は、特定の人物や団体だけが所有しているものではないと思います。
 
いかなる人間も、完全な真理を持つことはありません。人間は自分の言動の影響を、その影響がなくなる時と所まで追うことは出来ません。つまり、完全な正しさを確認できないのです。そういう人間の罪深さ、即ち、不完全を、全く知らないのが、楽山であります。
 
いわば真理は、手塚治虫の描く火の鳥のようなものかもしれません。火の鳥は誰の所有物でもありませんし、もし捕まえようとする者があればその身を焼き滅ぼしてしまうこともあります。真理はこのように誰にも独占できるものではないし、そうしてはならないものかもしれません。
 
マンガで表して、いい気になっている楽山です。このことから、楽山のいう真理は、楽山の大好きなマンガ・アニメ上の真理でしかないと言う他はないでしょう。いちばん、人間の真実や真心に背いて、嘘と詭弁を弄してきた楽山は、自ら「その身を焼き滅ぼしてしまう」結末に向かっています。
 
真理について、自己中ゆえに楽山は何も知りません。なのに、広く真理と真実を追求する営みを、いちばん、邪魔しているのが、楽山その人であります。楽山は、神を恐れず、人を恐れず、言いたい放題に、嘘と詭弁と妄想と自尊過大を、思想家気取りで言いふらしてきました。
 
 
 
 永遠の命があったとしても……
 2014年03月04日 楽山日記(LD)
 
 
永遠を時間的にしか受け取れない楽山の、広がりようのない視野狭窄が表れています。こういう楽山の見方は、永遠、だけでなく、神、信仰にも及んでおり、大人とは思えないほど幼稚な理屈で否定しえたと思い込む楽山の自己愛性パーソナリティ障害の症状として表れてきました。
 
以前、他のところでも書いたことですが、自分を振り返ってみると、今の自分と子供の頃の自分とはほとんど別人になっています。たった数十年前のことであるのに子供の頃の自分はほとんど消えてしまっています。赤ん坊の頃の自分はといえばもう完全に消えています。おそらくこのまま行けば、今の自分もやがて消えてしまうことでしょう。
 
変わってきたのであって、別人ではありません。過去と現在は、記憶がつないでいます。別人と言い切ってしまえば、何らかの障害です。楽山は、不都合なことを完全に忘れているか、無視してきたので、障害に属するのでしょう。一人一人は、地上からは、いずれ消えてゆく存在です。
 
今の楽山は罪しか残していませんから、ネットから消えたほうがよいのですが、だからといって、過ちと罪は消えてしまうことはなく、別人がやったことだから責任はないなどとは決して言えません。それに、楽の訂正不能は、妄想ですから、なかなか消えそうもありません。
 
このことを思うと、たとえ人の本質は霊であって永遠に生き続けるのだとしても、それは今の自分が永続することは意味しないようです。結局、人の命が有限であっても永遠であっても、今の自分はいずれは消え去るということは変わらないように思います。
 
楽山にとっては、命の永遠は、罪の永遠でしかないからでしょうか。永遠の命を、時間的永続としか受け取っていない楽山の未熟が表れています。この地上からは、人間の命は、いずれ消え去りますが、だからといって、命は永遠ではないという短絡に、何の意味もないのです。
 
ふつうの人間性を持っておれば、永遠というテーマから、連想される命の営みがあるのですが、楽山には、引き継がれることも、影響し合うことも、楽山の知情意では手に負えず、永遠という言葉の平板な意味だけになって、永遠を想う感受性も、考える視野もないようです。
 
 
 
 無意味さに耐えられるか
 2014年03月14日 楽山日記(LD)
 
 
楽山の詭弁です。一般論めいたものによって、自己正当化を図り、悲劇のヒーローにでもなりたいのでしょうか。そういう成り行きではなかったのです。
 
すべては偶然に過ぎず
意味も目的もないとすると
やりきれない気分になります
 
偶然で、意味も目的もない、と言う楽山は、関わる全ての物事を、他者の意見も、無視して、無きがごとくに扱って、自己中発信だけを続けてきたのです。自分の欠陥と失敗を、偶然のせいにして、意味も、目的も、捨ててきたのが、楽山です。ゆえに「やりきれない気分」は自業自得なのです。
 
けれども
だからといって
いまさら
この世に偶然なことは一つもなく
すべてに意味と目的がある
と信じるほど自己中心的になることはできません
 
意味と目的を考えることは、思考であり、自己中心にはなりません。楽山のような自己中心的な者にとって、空しい結果しかないからと言って、他者を巻き込むことは許されません。このように、自分の非だけは認めずに、他者に虚無を広めようとする楽山を、決して相手にしてはいけません。
 
やはり
何もないところに
自分なりの意味や目的を見出して生きていくしかないのかもしれません
 
「自分なりの意味や目的」というのが、今までの、嘘と詭弁と、理路のごまかしで、疲労を与え、人格を鈍化させることであるなら、何もないのではなく、楽山にとって、犯した罪には報いが、いずれ訪れるということです。それは、既に始まっているのかもしれません。
 
 
暗くて狭い

暗くて狭い
 
 
(2021年10月04日)
 
 
 
キーワード:狭
 
 
  古い端末
 
誰かを判別し
誰かを裁いたかのような日々の終末
誰も愛さなかったことの結末は
ひとつの端末のように
ここにまだ残っていて
狭い箱の中で
飛び散る暗号をころがしては
間違った解読を遊んでいる
 
 遠い遠い昔
 「一応働いてもらってるから」
 君は笑いながら言ったのち
 求める位置へ去っていった
 
一応働かなくなってしまって
たまっていくほこりを払うように
たまに体を動かしてみる
腰と首と頭と
どこからどこまでだろう
解読できない痛みが
壊れかけた端末に年齢を刻み
安否だけは知りたいけれど
不意に現れるデータひとつひとつの
とびとびに欠けた部分の
傷つけたり壊したりの
入力を拒み
修正をできなくしている
もうこの顔しかない
 
 
  虚数まで
 
僕が負の平面を旅して
膨張した平行線や
無限と戯れている間
君は負を好まなかったから
似合わない帽子をかぶり続けていた
 
長い長い0(ゼロ)までの距離を束ねて
狭い正面を向き合ったときには
君の存在は確立した可能性の外でも
不意に現れた僕の偶然を既に作表しており
君は自らのルートを知っていたし
僕がどんなに膨らんだ式の
組み合わせを並べ替え
積み分けようとしても
用意された美文は
隣の子供をあやすように
戻しようのない速度で反応し
君は正の位置を求めて去った
 
計算を誤った限界値は
極限に達して改めようもなく
僕は自浄して
再び負の平面へ去るか
君が残していった
無理な帽子から
i(アイ)を追い出すしかなかったのだ
 
 
  高い窓
 
壁の 絵の
幼い少女は 手を伸べて
あそこよ と 指さしている
 
それが最初に見た
希望の形だった
 
伸びてゆく 手 が
かすかな影を ふるわせながら
うすい 光の 向こうで
声 を 待っている
 
孤独な 光だけが
医者のように 顔色を変えないで
夜じゅう 診ていたらしい
しらんでゆく窓に 衰弱して
くぼんだ 血管の 足音を聴いている
 
その小さなふるえから身を引いて
あきらめた 手 が
狭い視野から
落ちてゆくころ
 
また朝焼けの始まる
高い 窓の
物陰に隠れて
 
目覚めてはいるが・・・
 
 
 
 
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  弱さを誇る2
 
 
信仰によって与えられる力は生きる力であり
信仰による強さは忍耐強さである。
 
信仰による超能力のような霊力を信じるのはカルトであり
弱かったが今は強くなったと豪語するのもカルトである。
 
 (コリント人への第二の手紙、口語訳)
12:9
ところが、主が言われた、「わたしの恵みはあなたに対して十分である。わたしの力は弱いところに完全にあらわれる」。それだから、キリストの力がわたしに宿るように、むしろ、喜んで自分の弱さを誇ろう。
12:10
だから、わたしはキリストのためならば、弱さと、侮辱と、危機と、迫害と、行き詰まりとに甘んじよう。なぜなら、わたしが弱い時にこそ、わたしは強いからである。
 (2コリ12:9-10、新約聖書)
 
「弱い時にこそ、わたしは強い」というこの教えについて、弱いから強い、弱さゆえに強い、という逆説をもって理解したことにしてはいけない。ましてや、豪語してはいけない。
 
何故なら、単なる逆説と受け取ってしまうと、言葉上の辻褄合わせにしかなっていないので、信仰生活において、思い上がることにはなっても、生きた働きを人に与えることはないからです。
 
弱い時に、何か奇跡が起こって超常的なパワーで強くなるという話ではありません。弱くあるということ自体が、祈りに通じると言うことであり、そこで、癒されて、学ぶことが出来るということです。 
 
パウロは、艱難に耐えることを語っています。つまり、強さとは、忍耐強さに他なりません。
 
弱いからこそ、主を知り、主を知ったからこそ、忍耐強くなるということです。
 
 
人間にとって、心霊に関係のあるような言葉は、例えば、聖霊、霊感、神来の興、インスピレーション、ひらめき、気づき、などがあります。人間にありそうなこと、起こりそうなことから、なさそうなことまで、内容はバラバラでありながら、言葉は溢れています。
 
神が人に何を与えるかということは、キリスト信仰においては、神の秘密であり、人が確定することは出来ないのです。
 
神に感謝することはありますが、それは、自分の判断に過ぎないことを弁えるべきです。
 
起こったすべてのことが、神の恵みだと受け取れば、自分の気持ちに背くことになり、情緒面が、おかしくなるかもしれません。また、いいほうに、いいほうに、と解釈することは、いつか無理が来るはずです。そういうことに気づいていながら、それが信仰だと思い込んでいるなら、不幸としか言いようがありません。
 
それは、信仰の恵みではありません。考察や反省をしないなら、ただの思いこみからの多幸症です。
 
何故なら、成長が見込めないからです。前にも言ったように、心を固定してはいけないのです。心を動かないように自分ですることは、感動できなくなることです。そういう人は、しばしば、言葉の上だけで感動を捏造し、感謝や讃美の芝居をするようになるでしょう。
 
信仰は、洞察力や、深い考察、などというものとも混同されてもいるようです。これらは、学習経過によって、人間にも起こりうることですが、つまり、人間の、ひらめきや、気づきなどは、心霊という言葉を使わなくても、持つことがあり、表れることがあります。しかし、それが、必ず起こるという保証がないことは、最初に気づいて、弁えておくべきことなのです。
 
 
上の聖句の、弱さとは、キリスト信仰においては、かなりはっきりしたものです。
 
つまり、人間の罪深さであり、不完全、不安定、変わりやすさ、くじけやすい脆さ、などを表していると思います。私は、神の完全に対する人の不完全という言い方をすることが多いです。
 
整ったつもりで、整っていない、しかも、それに気づかない、という性質が、人間にはあります。
いつもではないが、逆に言えば、整うのも、いつもではない、という真実なのです。
 
信仰について、整えるつもりで、自分が、整ったと思うなら、その時の自分には、整わないところを指摘する判断はないわけです。人間は絶対の基準を持ち得ず、外部に委ねるほかはない。そして、その外部の基準を見ることはない。それは、究極的に、神だからです。
 
第三者ということも人知においてはあっていいと思います。しかし、自分以外の判断を受け取るためには、同じように、それって正しい?・・が付きまといます。
 
で、どうするかは、前から言っているように、絶対ではなく、相対というのが分かりにくいなら、非絶対である自覚をもって、心の可動性・可変性を失わないようにしましょうということです。
 
そういう不完全性の自覚のために、誘惑に負けたりすることで、失敗する体験から、罪とか、足らざる自分に気づくことによって、信仰は始まります。自分の相対性・非絶対性・不完全性は、人間に与えられた気づきの恵みであり、個人的に、私は、それを、神という絶対を恐れることと同値であると考えています。
 
神の偉大さ、キリストの愛、罪の贖い、それら信条に関することを唱えるだけでは、人間が信じるに相応しいキリスト信仰になることはありません。罪の自覚を、形式的にではなく、実感するのでなければ、信仰者といっても、まだ、未熟であり、発育途上であります。つまり、総ての信仰者は、発育途上です。それが、神を恐れることなのです。
 
信仰者が、良いことばかりに目を向けていると、未熟に戻ってしまう、という、いわゆる退行がおこり得るわけです。
 
いかに、日々、精いっぱいの正直をもって祈ることが大切かということです。
 
 
カルトは、しばしば、一気に、悟り、一気に、平安の境地に至ることを主張し、しばしば、語気を強めて、豪語したり、脅しをかけたりする特徴を持ちます。地道な努力をしたくなくて、短絡しているわけです。豪語も、短絡であり、強く言いたいがために使うのでしょう。
 
カルトの短絡は、一つの言葉で、総てを言い表すことは出来ない、という共通の真実に共感できない特徴です。信仰においては、自らの言葉にも、成長の必要がある、という人の真実を理解しないゆえの所業です。
 
カルトは、反省、内省力に欠けていて、人のことばかり言う自己中心があります。かつ、不都合を、人のせいにする傾向もあります。
 
カルトの言動は、偽善的であることが特徴であり、嘘を平気で吐く者もいます。
 
罪悪感を感じて、信仰に目覚めるのではなく、罪悪感を感じるのが嫌で、信仰によって清められたかのような気になっているカルトもいます。
 
 
カルトは、大方、分かっているつもりになっている。
 
私たち信仰者は、分かっていないことを知っている。
 
 
用語についてですが、私にとって、真実という言葉は、長い経過を経ても、変わらなかったという根拠によって、使う言葉です。絶対的ではないが、恐らく、否定されることはないだろうと言う推測の強さから判断しています。
 
真理という言葉は、万能・不変のニュアンスが強いため、神の真理として、神聖なものとして、人が得たり、人に与えられたりするものとしては、私個人は使わないようにしています。
 
神の真理から、私たちは人の真実を受け取ります。真実は、人とともに、成長します。
 
( ※ この「真理」と「真実」という言葉の使い分けは、私個人の解釈です。)
 
 
真理と真実

真理と真実
 
 
(2020年02月20日)
(2021年02月24日、再録+加筆)
 
 
※ 
 
一応の信仰についての理路のようなものもあります。そこから、楽山の嘘がバレてきました。
 
無責任・無神経の楽山は、ある時、反キリストの言を吐き、別の時には、クリスチャンの祈りみたいなことを書いてきました。
 
キリスト者(クリスチャン)は、祈りを書くことはありますが、反キリストの言を吐くことはありません。この時点で、楽山がキリスト者あるいはキリスト者側ではないことが明らかとなりますから、クリスチャンみたいな祈りのほうは、芝居であり、真っ赤な嘘だと分かるのです。
 
そういう書き方しかしてこなかったから、振り回される方は、悪口をダイレクトに言われる以上に疲労して、うんざりして、何だこいつは?ということになって、全否定し、人格の問題を考えるしかなくなるわけです。
 
宗教についての楽山の記事においても、他者の言葉を借りてきたり、幼稚な無神論もどきを気取って言ってきたり、ときには、逆に信仰を認めるようなことを書いたりして、ふらふらして、しかも、断定しないから責任はない、などと言う始末です。まさに、楽山の言は、なかなか拡散しない放屁のようなものです。
 
余談ですが、楽山の言よりも、例えば、ゴルゴ13の台詞のほうが、ごまかしが通用しないというストーリー上の意味では、よほど、インパクトと説得力があります。
 
 
 楽山のリツイートですが
 
心機一転★こも楽山さんがリツイート
ゲイの精神科医Tomy
@PdoctorTomy
人生にレールなんかないわよ。
どこに進んでもいい原っぱよ。
でも勝手に自分のレール作って、「脱線した!」って思い込む人もいる。
脱線なんかしてないから!
午後7:03 · 2021年2月23日·Twitter for Android
 
楽山は、なぜ、このツイートを載せるのでしょう。ゲイに興味があるのでしょうか。リツイートだけで何も書かなければ、伝わりません。伝えようという気があるのでしょうか。
 
またしても、楽山は、ボンヤリ言語の手段として、人の言葉で、ほのめかし、暗示して、人に伝えるのではなく、自分が、書くだけで、引用するだけで、いい感じになって納得したいだけなのでしょう。実に、伝える努力など全然しない人のようです。
 
しかし、自己正当化ばかりしてきた楽山ですから、そこから考えると、「レールなんかない」「「脱線した!」って思いこむ」「脱線なんかしてないから」、という文言によって、楽山は、それこそ、脱線なんかしてない、自分は正しい!・・とでも叫びたいのでしょうか。
 
楽山は、無反省・無責任の体質から、改善しようとも思わず、訂正不能であることを、人の言葉を借りて、脱線じゃないと思い込みたいのでしょうか。つまり、今回も、自己正当化を、他者の言葉に責任を負わせて、やっているだけなのでしょう。酷い脱線であり、自他の破壊であります。
 
楽山が、無反省・無責任・無理解・無神経で、自分が何も整っていないのに他者を批判すること、自己愛からの自己正当化で訂正不能であること、宗教への悪口と賛同の両方書いて責任問題は生じないと言って何も改めない姿勢であること、・・これらから考えるに、楽山は、どこで脱線したかも分からなくなっている状況だと思います。
 
ゲイがどうこうという問題ではなく、楽山の問題なのです。今までの読書と同じように、なんだか味方のように、都合のよいところだけを引用して、他者を巻き込むのはやめるべきです。自己満足するだけのために、他者の言葉を引用するのは、見苦しいだけです。
 
楽山が、自身の問題を受け止めず、非を認める姿勢を持たないのであれば、いつまでも、どこまでも、分からないまま、脱線は、さらに、ひどくなり、自分が壊れるだけでなく、人に迷惑をかけ続け、疲労を与え続けるのでしょう。
 
 
(2021年02月24日)
 
 
私の「ウソの国ー詩と宗教」ブログ:
 
(古い記事は載っていません)
 
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