ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

タグ:祈り

 
  善悪と判断2
 
 私の前の記事「できることを」
 の続きのようなものですが
 
 
アメリカのドラマで、よく聞く台詞です。
 " Do the right thing. "
正しいことをしなさい、やるべきことをしなさい、という意味でしょう。とてもシンプルな言葉だなと思いますが、この台詞に文句を言うつもりはありません。日本でも、日本語で似たようなことは言われるでしょう。
 
 
私たちは、自分でも、社会についても、個人の利益や幸福を妨げることを、悪いことだとを判断しているようです。そこには、加害者がいて、悪人と呼んでいます。そして、自分なりに陰性の感情をいだきます。
 
しかし、私たちは、自分のこと以外では、被害者と加害者について、詳しい経過や、その心の有り様を、知っているわけではありません。
 
つまり、その時その場で、善悪の判断をしているのであって、その判断は相対的だが、それで、行動が必要ならば、行動の基準としています。そうしちゃいけないという理由はありません。というより、そうするしかないわけです。
 
ただ、本当に、どこも間違いのない善悪の判断になっているか、その判断には誤りが全くないか、ということについては、私たちは、完璧な根拠を持ち得ません。総ての状況と、総ての影響を、知っているわけではないからです。
 
人間が、判断して、行動するときの、判断は自分でするしかなく、その判断について、誤りの可能性を自覚しているでしょうか。
 
だから、正しい信仰を、ということではありません。信仰者においても、人間としての善悪の判断は、同じです。
 
むしろ、信仰者であるなら、神の絶対に対しての、人間の非絶対性つまり相対性を自覚しているはずですから、非信仰者よりも、よりいっそう、自分の判断に、神に対する恐れをいだいて、決めつけようとする傾向を抑制するのでなければ、信仰に生きているとは言えないはずです。
 
人間は、絶対正しいから実行するのではなく、それしか考えられないから行動するのです。
 
 
ですから、信仰について、信仰者のキリスト教的通念的道徳を押し付けてはいけない、ということは言えるでしょう。信仰は、神と人の関係、キリストと人の関係であり、道徳的行動はそれに伴うものであって、それに勝るものでも匹敵するものでもありません。人の義は不完全です。
 
ゆえに、神が人に与える義は、信仰義認であって、行為義認ではないのです。
 
さらには、丁寧で控えめで、人を責めたりしない、という、これもキリスト教的な通念的道徳となると、殆ど、意味を持たなくなるでしょう。これらのうわべの態度は、むしろ、信仰とは無関係に、人が、単純なイメージで、生み出した先入観に過ぎません。
 
前から言っているように、聖句から、悪口を言ってはいけない、という道徳を語るには注意が必要です。批判のことを悪口というのは、カルトには必発と言っていいほど見られる言いがかりからです。そして、信仰者自身が批判されたときに、信仰者も、思いやすく、言いやすいことだからです。
 
批判には根拠があることを何度も言ってきました。しかし、批判は絶対ではありません。批判だけでなく、人間の言うこともすることも、絶対の正しさではありません。
 
人は、自らの言動の影響を、最後まで追うことは出来ません。ゆえに、良かれと思って言って、逆に傷つけるということが起こり得るわけです。
 
つまり、批判を含め、あらゆる意見は、それを否定し改めさせるほどの優れた意見によって、修正される余地を残している弁え、それが、敬虔であります。最終的には、神に任されるべきことであり、人は、そのことを自覚していなくてはいけません。
 
そういう、動きうる心が大事だということです。
 
 
動かなくなった心は、停滞してゆきます。そして、人間の不完全性すなわち罪の性質によって、そういう心は、停滞にとどまらず歪曲したり固着したりする恐れがあります。いつのまにか、無条件に、それこそ、実際は快楽原則の不快という原始反応のみによって、他者を否定したり、退けたりするようになる恐れがあります。
 
揺るがない信仰、というものを、勘違いしないでください。救いのありがたさに満たされ、そこに満たされた信仰は、信仰の確信のつもりで、ときに、動く心を失ってしまって、観念のように固定されて、逆に、感謝や讃美のお芝居をさせるようになるからです。
 
揺るがない信仰というのは、忍耐強い信仰のことです。動くゆえに、喜怒哀楽が起きて、悲哀や苦難に忍耐が必要だからです。
 
 
判断し行動することには、人間として、疑問の余地がありません。そうするしかないことです。
 
ゆえにこそ、神を恐れるならば、自分で、善悪の"絶対"基準を作らないことが大事です。
 
絶対でなくても、判断することは出来ますし、行動することも出来ます。その思いや行為や、経過と結果は、祈りにおいて、神に捧げられるべきものなのです。そこで、信仰についても、行為についても、内省力が保たれるでしょう。
 
前から言っていますが、信仰は、神と人との双方向です。祈りは、人から神への唯一の音信であり、神に対する発言であります。
 
その信仰の姿勢こそが、立派に完全になりたい、という、人間の思いこみの欲望から、また、悪意や憎しみから、人間を救うのであって、それゆえに、私たちは敬虔でありうるのです。
 
双方向と言っても、神様やキリストや聖霊が、人と同じように、ひょいひょい顕れて、言葉で教えてくれるわけではありません。神聖の臨在の体験を声高に豪語する向きには注意が必要です。自分が神聖な特別の者になりたがる欲望が働いている恐れがあります。
 
天国に行き、神聖になって、永遠になって、神のようにに聖なる者になる、などということは、人間には分からないことであります。神に任されることです。ましてや、生きている地上では、神聖に近づくよりも、神聖との違いを弁えるべきです。
 
しかしながら、人間として、信仰者として、正直な祈りによって、心が洗われるような、神妙な気持ちになるような、気が済むような、重荷が取れるような、安らかになるような、そういう体験を持ったことのある人は、少なくないと思います。
 
それが、少なくとも、人生の終わる時まで、同伴者がおられることによる癒しであり、人間の側から分かる祈りの効用です。神秘は神の秘密として知りえなくても、癒しの体験は、信仰を通して、人にも分かることです。
 
それが、ただの気休めでないことは、祈りの信仰によって生きてゆく人が、数えきれないほどいる、そして、いたことが、証しとなっているからであります。
 
いかなる人間も、人間の判断も、絶対ではありません。神の前に、自分が絶対ではないことを表すために、精いっぱい正直に告白する祈りこそが、信仰において最も大切な、悔い改めなのです。悔い改めとは、世俗ではなく、神のほうを向く、すなわち、祈ることです。
 
 
神のほうを

神のほうを
 
 
(2020年02月27日)
 
 
楽山の、意地悪な自己中リツイートについては、前にも批判しましたが、いくつか、さかのぼって見てみると、もっとありました。ちょこちょこと、人の口を借りて、・・姑息です。
 
心機一転★こも楽山さんがリツイート
片柳弘史
@hiroshisj
·2月22日
自分を見失いそうになるほど忙しいとき、苦しいときは、ちょっと無理をしてでも、自分が好きなことをするための時間をつくりましょう。自分が本当にしたいこと、心の底から望んでいることさえ忘れなければ、自分を見失うことはありません。今晩も、皆さんの上に神様の祝福がありますように。
午後11:56 · 2021年2月22日·Twitter Web App
https://twitter.com/hiroshisj/status/1363865167658770434
 
忙しくなくても、自分を見失っている楽山です。だから、深く考えもせずに、他者の口を利用します。
 
「本当にしたいこと」という一般的な言い方で正当化してしまうとき、楽山のような自己愛の病質者が、同じように、「心の底から望んでいること」というのは、空恐ろしい敵意と悪意であります。楽山は、神の祝福から、最も遠い人です。
 
心機一転★こも楽山さんがリツイート
新無神論bot
@AtheismBotJP
·2月23日
コメディアンに宗教をジョークにするのをやめさせたいって?だったら宗教がこんなに素晴らしいネタの宝庫でいるのをやめたらいいんじゃないかな。トム・バラード(オーストラリアのコメディアン)
午後5:53 · 2021年2月23日·twittbot.net
 
このツイートを選んで引用して、楽山が言いたいことは明らかです。宗教なんてお笑いのネタだと揶揄したいわけです。底意地の悪さが、引用にも出てくる例でしょう。
 
宗教の勘違いがもたらす、おかしな話というのは、恐らく、いっぱいあるでしょう。しかし、それは、勘違いによって起こるものであり、楽山のように、本来の宗教の根本を好きなように揶揄していい、悪口を言って否定していい、ということの根拠には決してなりません。
 
楽山は、悲劇が起こるから神はない、霊が分かるっぽい自分が偉くなれないから神はいない、と言っているに等しいことを、今まで、ずっと書いてきたのです。言い換えれば、神はいない、自分は偉い、と言っているようなものです。そう思わせるような丁寧な詭弁を、楽山は、数え切れないほど書いてきたのです。
 
楽山は、実に、自分の家には柱も床も塀も焼け焦げているのに、隣りの家が、汚いと言い、貧乏だと言って、笑っているような人です。放っておくと町が焼けてしまいます。
 
心機一転★こも楽山さんがリツイート
陣内 侘助
@muAscLTeYb2WlXo
·2月23日
画像:
君らの神の正気は
一体どこの誰が
保証してくれるのだね?
 
神の正気は、楽山とは何の関係もないわけです。
つまり、楽山などに全能者の心配は無用です。
 
楽山は自らの正気を疑うべきです。
神も、人も、誰も、保証しないからです。
 
 
(2021年02月27日)
 
 
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  心の波動2
   (過去記事再録+)
 
 
心を表し伝えるために言葉を使います。
しかし、私たち人間は罪深いゆえに
人間の心を表すために使う人間の言葉も罪深く
心を、いつも、間違いなく正確に言葉にすることは不可能です。
ゆえに
伝えたつもりで伝わらない
分かったつもりで分かっていない
ということが起こります。
 
心を表すために対応させている言葉は
それこそ人それぞれの学習経過により
微妙に、時に、著しく
人によって違うものを伝えてしまい
誤解を生じ曲解に至ることがあります。
 
 
心と言葉が正確な対応でないゆえに
言葉を確定することによって
言葉に対応させているつもりの心は
確定されるものではないのです。
 
言葉は心を託し伝えるための暗号であり
 
言葉で対応するための心は
喩えるなら波動のようなものなのでしょう。
 
固定した形を持つ言葉と
揺れ動く現象である波動を持つ心
一対一の対応などありようがないのです。
 
心の波は振幅を持っていて
言葉および感覚可能な媒体によって
あるとき感動という大きな波を生じても
別の時には振幅は減衰しています。
 
感動は、いつも新しいものであり
一方、過去の感動は、感動したという記憶に過ぎず
感動そのものではないことがあります。
 
ゆえに、感動を伴うべきこと
例えば信仰において
言葉としての信条を唱えるのは
記憶を強化するが
感動を強化しません。
ゆえに、信仰を強化しません。
 
感動、癒し、慰め、恵み、赦しなどの
信仰にとって、なくてはならないものは
言葉の反復によっては強化されないのです。
 
しかし、私たちは、
信仰を表すのに言葉しか持ちません。
 
言葉に関わることで
信仰を新たにすることについて
聖書は、端的に述べています。
"悔い改めなさい"と。
 
悔い改めるためには
特に祈る時には
訂正不能ではない反省する心と
学習意欲が必要です。
 
悔い改めることは
求道者が信仰者になる時だけではなく
信仰者の信仰生活の主軸であります。
何故なら
それは祈りに他ならないからです。
 
私たちは地上で完全になることはありません。
ということは
気づかぬうちに罪を犯しているということ。
だから
私たちは精いっぱい正直に祈る必要があり
それこそが悔い改めです。
 
悔い改めによって
反省して改めて学習することが
信仰の成長なのです。
 
私たち信仰者は悟ってなどいません。
完全なる神の前には
いつも恥ずかしい存在なのであり
その恥じらいを敬虔と呼びます。
 
恥を知らない者になってはいけない。
 
言葉に頼るしかない祈りも不完全であり
神の前には恥ずかしい言葉なのです。
人の祈りは
完全な祈りではありません。
 
しかし、いかに不完全で恥ずかしくても
繰り返し、折に触れて、正直に、祈る必要があるのは
私たちが、不完全の自覚を持つゆえにこそ
神は、寛容をもって、神の民である私たちが祈るのを
いつも待っておられるからです。
 
正直な祈りは人から神への唯一の音信であります。
生ける神への、生ける人からの、唯一の音信であります。
 
正直な祈りを覚えることが信仰生活の初めであり始めなのです。
 
 
生きる波動

生きる波動
 
 
(2020年02月17日、同日一部修正)
(2021年02月23日、再録+)
 
 
※ 
 
 楽山のリツイートです
 
楽山は、また、人のツイートを悪用して、自分の破綻した人格を、不相応に、高く尊く見せようとしてきます。届きようもない人の話に飛びついて、まるで、自分であるかのように、同列であるかのように、努力と才能の人を装います。楽山に努力と才能の跡が見られたことはありません。
 
楽山は、いつも、我が身を反省せずに、楽な山の上から見当違いの物を言っているだけなのです。この楽山の高慢に付き合うことだけはしないでほしいと切に思います。
 
心機一転★こも楽山さんがリツイート
新無神論bot
@AtheismBotJP
学べば学ぶほど、自分がどれだけ無知であるかを思い知らされる。自分の無知に気づけば気づくほど、よりいっそう学びたくなる。―アルベルト・アインシュタイン
午後9:22 · 2021年2月21日·twittbot.net
 
楽山は、他者の意見をリツイートして、自分は無知を知っていると言いたいようですが、ならば、上から目線で物を言ったり、人の意見を無視したりは出来ないはずなのです。しかも、アインシュタインです。楽山のような減らず口の怠け者が引用するのに最も相応しくない人物です。
 
学ぶ気もなく人のことばかり文句言っているのが、楽山です。さらに、自分の無知と無恥にいちばん気が付いていないのが、楽山です。
 
このように、楽山は、他者を利用して "謙虚アピール" をしてきますが、実際は、自己愛の先入観と偏見で、訂正不能に、同じことを繰り返し言ってくるだけなのです。そして、バランスが取れているつもりのようですが、それどころか、自分を改善しようとする動機さえ、まるで持たない人です。
 
バランスというより、動く必要を感じない人です。無知に気づくというより、無知と無恥を、徳や柔和や謙虚や視野の広さと勘違いして訂正しない人です。そういう人ほど、自分とはスケールが甚だしく異なる有名人の言葉の引用に飛びつくのでしょう。全然、見習えていないのに。
 
楽山のように無反省・無責任・無神経の自己愛からは、人がみな自分を褒めているように見えるのでしょうか。読んでも何の糧にも参考にもならない文章を書き続けています。自分を変えることのできない者は、ゆえに成長できない者は、他者に何かの良い影響を与えることなど出来ません。
 
固定した病質の精神から、都合のよいことだけを表し、都合の悪いことは無視して人のせいにするような、楽山の訂正不能性は、関わる人に、結局、言い知れぬ徒労と疲労を与えるだけなのです。
 
 
(2021年02月23日)
 
 
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  信仰の情熱2
 
 を再録+
 
 
既に前に、
信仰は、言葉で表された教理や信条を思い込み信じ込むことではない、
と書きました。
 
では何なのだろうと考えます。
 
人間が、変わるのは、心が動くからです。
便利だなあ、とか、なるほどなあ、では、人間は変わりません。
心がふるえていないからです。
なんとなく辻褄があったような気がしているだけで
感動がないからです。 
 
感動をもたらす信仰の体験とは何でしょう。
 
 一部の人々は
 聖霊体験とか神の臨在とかを明言しています。
 超常の聖霊を明言できるというのはどういう人でしょう。
 超常が分かる人ではありません。
 超常が分かったことにしたい人々です。
 
 人の欲望の中には恐ろしいほどの超人願望があります。
 他者より神聖になった、
 あるいは、神聖に近い自分でありたいのです。
 
 そういう人は
 自分が超人になったことを担保したいのです。
 その方向で宗教を考える人には
 日常体験を疎かにする傾向があります。
 
 宗教を超常として教える向きには注意してください。
 そこにあるのは超常ではなく
 他者より上に立ちたがる欲望なのです。
 だから、どこか、非信仰者をかわいそうな人と思っています。
 自分は、出来ている、という自覚からです。
 
本当の信仰の体験は
人間の良心に響く実(じつ)をもって与えられます。
そうでないと人間は動かないからです。
それは欲望の成就ではなく
真実の人間の正直な姿に立ち返ることです。
 
非人間性に囚われている心が
人間性に目覚めることを魂の奇跡と呼んでいます。
 
意外かもしれませんが
それは稀にしか起こらないことです。
 
人間には
良い心である良心と
悪い心である悪意とがあります。
それらは常にありますが
場合によって、どちらかが優位に立つことになります。
それが善行と悪行に結び付きます。
悪意は、さらに、偽善に結び付きます。
 
この世が偶然に支配され
自分についてもどうなるか分からないと思えば
もはや、何を楽しめばよいのだろうということになります。
 
この世は偶然に支配されているように見えるけれど
その背後に大きな愛と善と平安の摂理が働いているならば
この世を生きることの意味が変わってきます。
 
日常を、駆け引きや、勝ち負けや、好き嫌いで過ごす自覚だけになることは
生き甲斐や生きる理由さえ奪うほどの虚無の恐怖に成りえます。
そんなことのために人間は生まれてきているでしょうか。
 
そうじゃない、そうじゃない、という叫びが、
いつも、心の中で、響いているのではないでしょうか。
 
勝ちを求めて、人間に頼ることは、誤りというより儚いのです。
自らを見てください。
そんなに立派な頼られ方をされる人間ではありません。
 
その自覚と共感こそが、
人間の側に起こるところの
宗教、そして、信仰の始まりなのです。
 
 
人間は関係の中で生きています。
他者を無視しては生きられません。
 
他者を無視すれば
やがて自分が無視されます。
ひどくなれば人間扱いされなくなるでしょう。
 
どのような関係が
人生を預けてもよいほどに人間を支えるのでしょう。
それは人間ではありません、いやです。
しかし人間離れでもありません。
 
人間を不完全なまま支えてくださる御方を
私個人は慕っております。
その御方は自らの完全の道ではなく
不完全な者に下される致命的な罪の報いの道を
犠牲となって歩まれました。
 
その御方の教えは
そのたぐいまれなる洞察と共感と慈愛とともに今に伝わっています。
 
その御方は、
その生涯の目的の主旨として
こうしたら救われるという条件を言いませんでした。
取り引きを、人とも、悪魔とも、しませんでした。
 
代わりに寛容な愛をもって
多くの人が忘れられないご自身の姿を表したのです。
 
 
多くの信仰者と
多くの偽善者が
この神という御方の名を呼びます。
 
信仰者は
自らの低さを自覚します。
 
偽善者は
自らを高めるために豪語します。
 
世の中は偽ものだらけです。
 
 
どうか独り言のように静かに正直に
でもどうか本心で祈ってください。
 
そのような祈りを
誰よりも聞かれる御方がいます。
 
 
祈りと情熱

祈りと情熱
 
 
(2020年01月31日)
(2021年02月03日、加筆して再録)
 
 
 
※追加記事、同日一部修正 :
 
  楽山の別ブログ
 
 大川家長女は、卒論で盗用していたのか!?(3)〈KENTO氏の主張〉
 2021年02月02日 幸福の科学とは何だろう?ブログ
 抜粋して批判。
 
 
楽山の、無反省・無責任・無理解からの、無能力と、それをごまかす詭弁が表れています。楽山は、どうしても、見栄だけは張りたい、自分は一人前なんだ、という子供だましの子供なのです。
 
次のブログ記事では、咲也加氏の書籍と、盗用されたとされる側の論文との比較検証が保存されているので一読をおすすめしたい。
・【2ch】咲也加の卒論を検証してみた(8/4 修正、追加) - 幸福の科学元二世信者ルジェのブログ
 
このリンク付けた記事は一読できるようなものではなく、実に、詳細な批判になっています。楽山は、なぜ、書かないのでしょうか。楽山は書けないからです。理路も説得力もなく、通念的な言葉を並べて、しかも、自己愛・自己中のために、破たんするような楽山には、批判の文章など、書けないのです。
 
だから、人の文章をあげても、詳しく書くことができず、もっともらしい短文で済ませるしかないのです。ゆえに、この記事も、引用ばかりが多くて長い記事になっています。
 
楽山が自分で書けば、私に対する返しのように、一方的で、嘘と詭弁と被害妄想だけになります。書く能力がないのに、一人前を気取ろうとするから、こういう記事になってゆきます。
 
いっぱい貼り付けて、人の文章をリンクして、「一読をおすすめしたい」と書くしかない楽山です。ご機嫌取りの褒め言葉で、自らの不全を隠しています。
 
この件については、私も、関係書籍、論文を直に調べたわけではないので断定的なことは言うつもりはないのだが、それでも意見を言う際には、ネット上に散らばってる資料くらいは、ざっと確認するくらいはする。
 
楽山は、断定できません。そのような理路を持っていないからです。賛同を書き、批判を書き、どちらも成立せず、それで、責任を取れない、でも、見栄は張りたい、それが、楽山です。
 
楽山は、いつも「ざっと」見て、放言して、終わりです。「ざっと」で「確認」とかできるでしょうか。楽山は、しっかりしたものを何も持っておらず、無反省・無責任なのに、評論家気取りなのです。
 
KENTO氏もせめてそのくらいはしてから意見を言ってほしいものだと思う。そうしたら単純な事実誤認はもっと減らせるし、その意見にももっと深みが生じ、説得力が出てくるはずである。この点、お願いしたい。
 
言ってることに何の深みもなく、説得力が皆無の楽山が言っています。楽山には、誰かに何かを要求する資格はないと思います。実に曖昧な言い方で、これが、楽山の、いい子ぶりっ子なのです。楽山に関わり、楽山をまともだと思うことは、詐欺師にだまされるのと同じです。
 
 
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  想うところに2
 
 
人について
想い描く人物像は
人格も含めて
想い描いた像であるから
その人ではない
常にその人の偶像を相手にしている
想うところに人はいない
 
ここで人は
神と違って
想い描かれた人の偶像の間違いを
完全ではないが
ある程度
態度や言動で知り
また示すことが出来る
 
人間関係は誤解で成り立っているが
お互いの偶像を修正しながら
不安定ながら
未知に立ち向かって
良かれ悪しかれ活性化してゆく
正面衝突が可能だからである
 
人の像と違って
想い描く神の像の間違いを
導きによって啓示するのが
神だという証拠を人は持ち得ない
 
聖典と祈りを通して学んで
深く知ったと思えば思うほど
神と人との関係は
人にとって
人の誤解の中にしか存在しない
 
想うところに神はいない
想うところに人はいない
さて想うところに
自分はいるであろうか
 
この問いを尋ねる相手だけを
見上げたつもりでいるが
この地上に
確定的な答えはないと知っている
 
 
想うところに

想うところに
 
祈り「神様は、いつまでも黙ってはいない、と思うのですが、私は、時々、失敗しています。学ぶことを新たにする日々にも、折に触れて、癒しをいただきたく存じます」
 
 
(2011年04月29日)
(2021年01月30日、一部加筆)
 
 
 
  存在しない神に祈る
 
キリスト者が祈るとき、必ず祈る対象がある。それは神である。
神を信じているから、神に祈る。神はいると信じている。
 
しかし、その祈る対象は、祈るとき常に、祈る人が想い描く神であり、
イメージであり、極端な言い方をすれば偶像である。
 
偶像は存在しない、人が想い描くイメージの神も存在しない。
神は偶像でもイメージでもない。
 
シモーヌ・ヴェイユという人の言葉がある。
「神に祈る、人々から離れてひそかに祈る、というだけでなく、
 神は存在しない、と思いつつ祈る。」
どう受け取ったらよいのか。
 
つまり、このヴェイユのように祈るときにも、
祈る相手として想い描いた神のイメージがある。
 
つまり、どう祈っても、祈っている相手がいて、避けられないこととして、
それは即ち思い描いたイメージであり、そこに「神は存在しない」
・・・を繰り返すしかない、繰り返すしかない・・・!
現実に祈っている相手の神がいない。
存在しない神に祈りが聞かれるはずはない。
 
しかし、キリスト者は祈る。
キリスト者にとって、そこにしか希望はないからである。
 
人は神を想い描けない。
神は人が想い描けるような御方ではない。
想い描くところに神はいない。
 
しかし、想い描いている神ではなくても、想いの始末を任せる神は希望である。
 
その神が存在しないとか、
人と全く無関係で、人を聴いていないこともまた、証明できない。
 
祈りは確信に支えられてはいない。
 
祈りは、唯一の希望のみに支えられている。
 
 
(2010年12月8日)
(2019年03月18日、一部修正)
(2021年01月30日、さらに一部修正)
 
 
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  非絶対性(相対性)2
 
 
神は絶対だから、神の言葉も絶対で、信仰は絶対だ、という主張は成り立ちません。
人が聖書の言葉を絶対とするのは、人に過ぎない自分の解釈を絶対とすることです。
人と人の産物は、絶対になることはありません。
 
神は絶対だが、人の信仰が絶対になることはありません。同じ理由で、人の信仰が、完全になることもありません。
 
神は、人を、ご自身とは違って、不完全に造られたからです。ゆえに、地上にいるあいだ、人には罪の性質があります。
 
罪をなくすのが信仰ではなく、罪を知ることで、神を信じて祈るのが信仰です。
 
神が人を完全なものとして造ることは、とりもなおさず、ご自身をコピーすることになり、四位一体以上の神になり、神が、それを好まず、望まなかったということなのでしょう。
 
私たちは、自由意志を持つところの、神の似姿であり、完全コピーではありません。
 
 
したがって、神が、造られたものを、すべてよかった、と言ったからという理由で、"所在不明の名無しの猫かぶり"というHNで、悪意だけのカルト教祖シャロームが、おのれを正当化することは、笑止であり、背教であり、決して成り立たないことです。
 
気をつけてください。シャロームは、羞恥心がなく、罪悪感もないので、どんなに否定されても、否定そのものを無視してきます。そして、いつも、まともな説教が出来るつもりで、横柄な態度と、それをごまかす世辞と丁寧語で、コメントを入れてきます。丁寧語で、荒らしてくるのです。
 
偽善者のシャロームと、好意的に、また、肯定的に付き合うと、気づかぬうちに、彼らと同じように、言葉についても、自分の思い込みにしがみつくようになり、ごまかしの世辞や嘘ばかり言うようになり、自らの知性と感性による理路や直感・直観が働かなくなり、人格が破壊されてゆくと思います。
 
実際、シャロームの仲間は、例えば楽山などは、似たような自己愛、自己中心、訂正不能という特徴を持っています。・・独りによる成りすましも疑ってはいますが。
 
信仰の相対性は、人間の罪性、つまり不完全性から、理解できることなのです。しかし、今の幸福から離れてしまいそうな気がするのか、信仰者同士のつきあいを優先してしまうのか、考えることを避けて、理解の殻を閉ざしてしまう人が多いような気がします。
 
その極限が、悪意を加えて、楽山やシャロームなどの易坊類なのです。
 
現状維持というのは、新しいものを考えることさえ拒否してしまうならば、成長不能になることです。そこには、役に立たず傍迷惑な捏造境地の自己満足があるだけで、成長するための道はなくなります。
 
そうして、自分納得・自己満足だけの不変のエゴの境地を信仰?と呼ぶようになってしまいます。超常自認のシャロームが、その典型です。
 
絶対でないということは、あるところはダメであり、あるところは優れている、ということでもあります。そして、不変というものに固着していないからこそ、良き訪れと導きがあれば、成長するということでもあります。
 
 
悪しか考えないような者も現にいますが、多くの人間には良心があります。罪の性質だけでなく、良心という賜物も与えられて人は生まれてくるのです。
 
良心は、言葉で内容を条文のように説明するものではなく、潤いと温もりに満ちた心で、柔和、共感、思いやり、など、人間の、悲しみの共感と、愛と慈しみを育てるものです。
 
よいこころは、
とんがることより、まるくなること、
やわらかくつつむことを、このみます。
ゆえに、うたれても、また、たちなおるつよさをもちます。
 
このことは、一般に、悪しきことを考えるときには、良心からの良い感情がなくなることから分かります。まるくないから、とがっており、乾燥して、傷つきやすく、傷つけやすく、癒しにくくなっており、冷たくなっていることを、自省できる人は、自分でも分かるでしょう。
 
絶対性というものを、人間が身につけようとすると、多く、カルトに見られるように、冷たく前進する軍隊のような同じ顔を持つようになり、いかなる忠告も批判も聞かなくなり、結局、精神の活性が著しく損なわれて、単方向に突出し、良心があればブレーキがかかるようなことを、行動に移してしまう衝動に走らされてしまいます。
 
絶対性を身につけることが、人間には、いかに無理であるかを表しています。
 
人は、神という絶対の存在を覚え、神と人の決定的な違いを弁え、恐れることによって、絶対性への欲望を捨てて、むしろ、人間味に溢れた相対的存在となることができます。それが、信仰者の敬虔であり、上の良心の性質を、より豊かに身につける準備となり出発点となるのです。
 
 
そういう相対的な人間のあり方をバカにしているのが、今は"名無しの猫かぶり"と名乗っているシャロームであり、その結果、絶対性に成り上がったシャロームは、この世で、いちばん醜い破壊人格のモデルとなってきました。
 
ごまかしに、バカ丁寧語を並べて、聖書語を並べて、いい気になっているようですが、シャローム自身だけが進行性の破壊に気づかないでいるのです。
 
こうなってしまうと、いつも、相手を下に見て、笑っており、何か言っても、殆ど理解できないがゆえに、屁とも思わないでいられるのです。ゆえに、自分は疲労せず、他者を疲労させるだけの存在となります。彼を、疲労物質と呼んだ所以であります。この点、楽山も同様の特徴を持っています。
 
さらに、関節の付き方が逆であるような、前後がおかしくなっているような、ガラクタの人形のような、屁理屈や詭弁をこしらえて、整えたと感じるようになり、豪語して、さらに、現実との乖離が進んで、病識や自覚が、ますます、なくなるという悪循環の暗黒の地獄谷を、この地上で、ヘラヘラ笑いながら、フラフラ歩むことになるのです。
 
これが、絶対性を身につけようとする者が、また、身につけたと思い込む者が、知らないあいだに、自らを破壊して、非人間となってゆくプロセスです。
 
自らの不完全性、つまり非絶対性=相対性を自覚しない者は、総てのことに適切に対処しているつもりの訂正不能な固着・執着だけになり、あらゆる選択において失敗が重なり、転げ落ちてゆき、しかも、それを、ことごとく、人のせいにしてゆきます。
 
そして、言うのです、神の平安のうちにあると。それは、無為と無視の停滞と沈殿に過ぎません。
 
宗教には反宗教が、信仰には反信仰が、キリストには反キリストが、悪魔性に、現れます。
 
総ての人が、不都合を、望ましい形で乗り越えるわけではなく、罪の性質が勝ってしまう場合があることを、聖書は語っています。そこを分けるのは、反省・修正機能の有無であります。
 
 
人間は、不完全で、不安定です。
 
しかし、その自覚があるからこそ、伸びしろがあり、成長可能なのです。
 
そして、神は、何よりも、不完全の自覚がある人からの正直な祈りの告白をお聞きになり、神は、その人に、あわれみと赦しと癒しと救いをお与えになると思います。
 
そうして生まれた信仰のみが、人間らしい温もりと潤いの良心からの信仰に成長するでしょう。
 
 
いのり

いのり
 
 
(2020年01月25日)
(2021年01月28日、加筆して再録)推敲済み
 
 
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