ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

タグ:神

 
  神を恐れる心4-3
 
   記事「神を恐れる」を修正加筆して再録
   http://st5402jp.livedoor.blog/archives/111022.html
 
 
 信仰の弁えは、神を恐れる心から生まれます。
 神は漠然としているのではありません。
 漠然などという言葉を神に当てることは出来ません。
 キリストにおいて神は明らかであり、ただし、
 人の知恵では "決めつけられない" 御方ということです。
 
 聖書の記述から作ったイメージも人のわざに過ぎません。
 漠然とした神のイメージもまた正しくありません。
 神は、人において規定されうるようなお方ではありません。
 私たちは、神の正しさを理解してはいないからです。
 神は、決して人間の見識の対象とはなりません。
 私たちは、祈り願い、受ける立場でしかありません。
 
私たちの言葉は、一語は一つの意味だけでしょうか、違います。多義を持つ言葉があり、かつ、人によって受け取り方が違い、かつ、時によって受け取り方が違うのです。神の言葉は絶対ですが、それを読み取る私たちの言葉は、決して絶対ではないのです。感動は、やがて感動した記憶になります。
 
キリストが父と呼び、私たちが信じる神は、私たちが知らないだけであって、漠然とした神などではありません。漠然としているのは私たち人間のほうです。だから、様々なことに、神の存在でさえも、言葉で、条件を付けたがります。そうして、人は慢心に向かいやすいことを知るべきです。
 
不変の神に比べて、移り気で変わりやすく、不安定で偏りやすいのは、私たち人間のほうなのです。ゆえに、私たち人間から見た神が、多様になってしまうのです。それを救うのは、教理の正しさではなく、神に対して不完全な罪人であること認めて、正直に祈ることだけです。
 
私たちは神について想い考えますが、それは、不正確な想像という罪を承知で、想い考えるに当たってそうするしかないからであって、信仰の内実において神を対象化してはいけません。神は、人の想いと思考などという有限が向かう所に対象として在るような御方ではないからです。
 
神を信じるということは
神のイメージや概念を信じ込むことではなく
神についての
人の見識の絶対性を否定することです。
神についての
人の思いを相対的とすることです。
神についての
人の情熱を相対的とすることです。
 
神の御心は変わることはありませんが、神について人が思うことは、そのときの想いに過ぎません。
だから祈りのうちに、さらなる導きを待つしかないのです。キリストの同伴が、その生き方を支えることが信仰生活を成してゆきます。
 
神と人の契約とは、赦しと救いの約束であり、人が人らしく、神の前に低い存在であることを自覚しているあいだ無効になることはありません。ときに思い上がっても、のちに悔いて、正直に祈るなら、寛容な神は、赦しをもって関係を回復してくださるでしょう。救いに手遅れはないからです。
 
人が神や神の意志と行為を決めつけることは、自分が神と同等だと言うに等しく、人が神の前に故意に隠したり飾ったり偽ったりすることは、自分が神を騙せると思うに等しく、いずれも人が、神の前に低い存在という自覚を失っている姿です。
 
それは、神に対する反逆であり、ゆえに、その時、人が赦しも救いも拒んでいるのです。つまり、神と人の契約を破棄するのは、まさに、人の側でのみ起こることなのです。寛容なる神が、救いの約束を破棄されることはありません。
 
繰り返しますが、あるとき傲慢であっても、そのあと悔い改めて、神を恐れるに相応しい信仰になれば、神の側は破棄していないのだから、この上ない神の寛容によって、救いの約束は恵みとして有効であり続けます。
 
人を愛し救い、人に命の恵みを与える神が、あらゆる生殺与奪の全能を持つ神であり、人間などが、うっかり友だちのように、近づけるなどと思ってはいけないことに気づき、神を恐れること、それが信仰の節操の始まりです。馴れ合いは、神に対しては決して成り立たないということです。
 
神は、人間の俎上や机上に乗る御方ではありません。恐るべき神を知り、聖書から、キリストに愛され癒やされることに気づき、キリストを愛するようになること、それが信仰の情熱の始まりです。信仰は、人にとって、超越的に現実離れして神がかるような、超常のものではありません。
 
神という永遠不変は、人が、超常を知らないこと、いたらないことを、隅から隅までご存知ですから、超常を知らなくても理解と共感が可能なように、人間として正直な信仰を、超常と地上の間の仲保者として、キリストを遣わすことで与えられたのです。
 
神は理解する対象ではありません。
希望として信じ仰ぐ対象です。
 
神に対して、人の真・善・美・義は完全にはなりません。
人は、真も善も美も義も努めることが必要ですが、完全に到達することはありません。
 
したがって、
真も善も美も義も、
人の努力目標にはなっても、
人の信仰の芯にはなりえません。
これらは道徳か目標に過ぎません。
完全に守れる人はいません。
 
神に対して
通用する唯一の言動は
正直な祈りだけです。
人が救われるための必要十分条件です。
だから、信仰はシンプルなのです。
 
 
偏る(かたよる、片寄る)
騙す(だます)
 
 
恐るべき御方

恐るべき御方
 
 
(2020年)
(2021年)
(2022年12月28日、再録+加筆)
 
 
 
 愛の実態
 
愛は寛容ではない
情け深くない
妬(ねた)む
高ぶる誇る
不作法をする
自分の利益を求める
苛立(いらだ)つ
恨みを抱(いだ)く
不義を喜び真理を喜ばない
すべてを忍ばない
すべてを信じない
すべてを望まない
すべてを耐えない
 
とうに「愛」の理想は
人の実態において死んだが
ここにおいて
いまだ「愛」は死んでいない。
 
守れる者が一人もいないので
神の寛容が用意されるからである。
 
※ 以上は、以下の聖句を否定肯定を逆にしたものです。
 
 (コリント人への第一の手紙、口語訳)13:4-7
愛は寛容であり、愛は情深い。また、ねたむことをしない。愛は高ぶらない、誇らない、不作法をしない、自分の利益を求めない、いらだたない、恨みをいだかない。不義を喜ばないで真理を喜ぶ。そして、すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを耐える。
 (1コリント13:4-7、新約聖書)
 
興味深いのはこの章の最後にパウロは、信仰と希望と愛の三つのうちで最も大いなるものは(信仰ではなく!)愛であると言い切っていることである。信仰が、人間離れして、愛から離れたら、もはや、信仰ではないということだろうか。
 
本質的なところでは、信仰に、信条はない。
 
信仰は思想や戒律ではない。むしろ恋愛や結婚に似ています。しかもそれは人と人との間のように変わったり、片方の合意がなくなれば消えてしまう、というものではありません。人が躓(つまず)いて離れて行こうとしても、キリストがその絆(きずな)で捉えて離しません。
 
何故キリストの「負いやすいくびき」は人を捉えて離さないのでしょう。人間の最も大切な部分、それがなくなれば人間ではなくなるという部分に結び付けられているからです。その部分とは人間の最も暖かい感性あるいは愛、しんみりと悲しむ心、しかし言葉に尽くせるものではありません。 
 
 (マタイによる福音書、口語訳)
11:28
すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう。
11:29
わたしは柔和で心のへりくだった者であるから、わたしのくびきを負うて、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたの魂に休みが与えられるであろう。 
11:30
わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからである」。
 (マタイ11:28-30、新約聖書)
 
いつからか私は信仰について、糧(かて)と干物を区別したくて、心に響くものと響かない美辞麗句を区別したくて、理屈で考えることを控えるようになった。
 
思いで納得しなければ何も語ることのできない人の性(さが)、この矛盾を孕(はら)みながら、総てが既に知られている所から、日々の糧(かて)は与えられている
 
 
 
  祈り・フリー
 
過ごし
見過ごし
死に損なってゆく一日一日に
意味も喜びも見出せずにいますが
長年の柵(しがらみ)からは
フリーになりました
フリーです
自由です
自由契約です
要するに無職です
ワァーォ
過去の罪は消えないとしても
少し肩の荷が下りた気分があります
と同時にカウントダウンが始まりました
(数年後の経済状態
 を考えるのだけは…やめよう)
主よ、あなたが成就し
実践された愛するという使命も果たせないまま
じっと黙って心臓が止まるのを
待つだけの人生になりそうです
自殺は、どう考えても
御心に適(かな)っているとは思えないから
できるだけしないように努めますが
自力では運べません
運んでください できれば
許されるものなら
気の遠くなるところへ
肉の遠くなるところへ
何もかも無意味だったから
元々意味も名前も持たない遠くへ
遠くへ…
 
 
  時を探すとき
 
水は流れるとき
樋(とい)を探すだろうか
火は燃えるとき
炉を探すだろうか
風は吹くとき
崖を避けるだろうか
山は爆発するとき
焼かれることを恐れるだろうか
 
いつのことだったろう
山が燃えていた
街が燃えていた
海が燃えていた
 
人は喋(しゃべ)るとき
相手を探す
相手を見つけて喋る
相手が自分のときは独り言
時々か屡々(しばしば)
いかなる相手も見つけずに
独り言を喋っていた
 
誰に向かってでもなく
吐息を漏らすとき
 
相手はいない
探しもしない
ただほんの一瞬
吐息のない過去を見ている
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
 
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら 誤ったら 素直に詫びて 自分 正さなくちゃいけない」「それが出来て 初めて人間だと それ出来ないなら 人ではないと」
「嘘ばかり 重ねる君よ 保身だけの 卑怯者の君よ そんな君は 魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと 最大限の反省と共に 開いた出店を 畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
誰かが注意しても、聞く耳を持たない楽山は、反省も謝罪もしておらず、邪悪な性根の根深さが治りません。「人間の性」「自分もそんな風です」などと言って、人間一般のように、醜い詭弁の言い訳をしていますが、成り立ちません。人間離れの楽山固有の悪と罪と偽善です。
 
自己中の病質というのは、近づけば近づくほど、付き合いが長ければ長いほど、質問や批判をすればするほど、驚きや痛みとともに人格を損傷してきます。決して生き方として成り立たないのです。人は人、自分を貫く、などと言っていた楽山ですが、結局、自己中正当化の詭弁に過ぎないのです。
 
 
 
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  神様がしないこと3
    2013年02月25日の記事を再録+
 
 
相当に昔の記事の再録、+必要なら修正・・ということです。
 
全知全能の神がしないことは何でしょう。最初は、「出来ないこと」という題でした。罪を認めず、悔い改めないで、かつ、傲慢な人は、救いを求めていないので、救われないでしょう。しかし、これは、必然か、裁きであっても、出来ないこととは言えないので、「しないこと」に改めました。
 
神は、その全知全能による神の行為を、いちいち人に説明はしません。ゆえに、恵みと、試練、そして、死も、受けるしかないのが人間です。一方的な災難は、むしろ、自己中や傲慢な者から、もたらされます。その悪魔のような性質はサイコパスに似ています。
 
そして、罪悪感がなく反省しない者には、試練ではなく報いとして人格破壊がもたらされるでしょう。ゆえに、悪と偽善を改めない者は、さらに、悪質になって、人を害し、最悪の場合、殺すかもしれません。良心と共感のない性質は、サイコパスそして悪魔に似てくるのです。
 
全知全能の神を創造すること。創造できたとしても、どちらも全知全能ですから、意思も判断も行動も同じになる。それは唯一神と同じことです。神は唯一であると同時に総てであるという言い方も出来るかもしれません。三位一体も、そういう受け取り方をしています。
 
 
全知全能の絶対者である創造主、神は、御自身が造った人間を含めた被造物を壊すのに、これこれこういう訳だからね、云々と、いちいち説明する義務はないのです。だから、私たち人間の未来は、文字通り、何が起こるか分からないです。信仰があっても無くても、これは同じです。
 
聖句「神は生ける者の神であって死者の神ではない」は、生ける者に対して発せられた言葉であって、死者を呪う言葉ではない。死者を見捨てるという意味ではなく、神が生かすということの強調でしょう。神は全知全能の絶対者であるから死者も統べられるが、どう統べられるのかは、人間には分からない。
 
ゆえに神は、人知を超えて、死者を含めて、すべての者を救う・・と言えそうに思われます。つまり、死は、壊されることではないのかもしれないとも思います。しかし、このことに、地上での完璧な理解と説明は存在しないと思います。分からないことは、分かりませんと祈って、神に任せるということです。
 
死者の救いについての推測や想像としては自由ですが、それを結論や確信とすることは、これこそ生きている間が全てという人間性から乖離して、人に分かりもしない超常の神の意志と行為を、人が人知を超えて結論付ける、という、神の領域への、冒涜と言うべきでしょう。
 
神の救いは、完全には、地上の人には理解できないのです。人には、神がすべての人を救ってはいないように見えるでしょう。神の幸いならば、キリスト者は、既に、潤い、温もり、共感、愛として受け取っていると思います。それは、絶対孤独からの解放という救いとして、人に起こります。
 
キリストゆえに神への想いから離れられない人を、キリスト者(クリスチャン)と呼びます。
 
 
聖書を読むことも、聖書を文献的考察や歴史的背景から、また文脈から考えることも、一言一句を文字通り受け取ることも、神や聖霊について「感じた」「聞いた」「癒された」も、人の直感や霊感も、人の側の信仰の受け取り方、即ち、解釈に過ぎません。
 
私たちは、私たちの心で、言葉も、御言葉も、解釈して受け取っています。そして、生き方を判断し、努力し、生きています。神の業(わざ)を、人が確認する根拠は、人の側にはありません。人の確信は、神については不可と考えます。即ち、信仰は、確信ではないということです。
 
原初の信仰から原罪を覚え始めながら、信仰の言葉がどう生きてくるかを考え悩みながら、人である信仰者(キリスト者、クリスチャン)は、決して神の確信ではなく、罪深い心からでも、神の御子キリストへの深い想いによって生きるのです。何が救いか分からないところで導きは進行しています。
 
キリストを好きになった原初の信仰から、すでに、どこか誤解しているかもしれないという罪深い思いでした。しかもそれは絆されるように、否応なしに、私の自由意思を左右したように思えることがあります。人間のために命を捧げたキリストを無視できず忘れられないことから信仰が生まれます。
 
キリストは、赦される罪と、赦されない偽善を、区別しました。聖書は、神によって全ての人が救われるのではなく、キリストの敵となりキリストを殺した偽善者が赦されないことを伝えています。罪が赦され救われるためには、正直に祈ることだけが、必要十分条件であります。
 
今の時代にも、反キリストが、あざ笑いと、偽善と、幼稚な詭弁と、虚言をもって、言葉だけ丁寧に丁寧に、神を否定し、信仰者を侮辱し、反信仰へと誘導してくるのです。彼らは不正直で、神を侮ることをもって、自己満足する分、救いからは外されるでしょう。
 
しかし、キリスト信仰者ではなくても、神が、良心のある人を選んで、信仰を通さずに、何からの使命を与えて守っている可能性は否定できません。歴史を見ても、救いの可否は、信仰の有無だけではないような気もします。
 
私は、自分の信仰観をブログに書いています。私という人間の意見に過ぎないので、訂正不能ではありません。もっと良い考えがあれば、感動とともに、修正するでしょう。30年以上、何度考えても、他に考えようのないことがあり、そこが変わらないまま、成長を期して、書き続けているのです。
 
つまり、信仰は、訂正不能ではなく成長を期するものです。けれど、変わることのないところ、変えてはいけないことが、やはり、あるだろうとは思います。そこを外してしまうと、もはや信仰ではないようなことがあるのです。信仰は、共感や愛や絆(きずな)に似ていますが、言葉で確定することは出来ません。
 
 
絆(きずな)

絆(きずな)
 
 
(2013年)
(2021年)
(2022年12月24日、再録+加筆)
 
 
 
★こも/楽山日記3
@komo266
神に抗う信仰というと奇異な感じはするでしょうけど、宗教の歴史をふりかえれば、宗教が人の道に反することを命じることはさほど珍しいことではなかったでしょう。
私はそういう場合は、宗教より、人の道を優先すべきだったと思うのですよ。
2022年12月23日
 
神と宗教を混同する詭弁です。宗教および宗教人は、しばしば過ちを犯します。それは、歴史上も明らかですが、その原因は、人の傲慢という罪深さにあるのです。したがって、人の道は、反省して悔い改め成長してゆくことにあります。傲慢な楽山は、反省しないまま、神を否定しようとしています。
 
神より人、そして、人の道を説いているつもりの楽山は、嘘と詭弁を弄して、読者を誘導し混乱させてゆくだけのペテン師です。実際には、神と宗教と人について何も分かっていない人です。それが過去3年以上の楽山の瓦礫であります。悪魔の誘惑に、極めて似ているのです。決して関わらないでください。
 
楽山に習うと、人は、あざ笑いを覚え、あざ笑い以外の、しんみり悲しんで反省する心を失います。つまり、楽山に似て、反省しなくなり、成長しなくなり、人を嘲り、自己満するだけの人生になってしまいます。楽山は、壊れてゆくというより、既に壊れているので、騙し文句以外何も持っていないのです。
 
楽山は、神に抗ってなどいません。まず、楽山は、嘘を吐き、詭弁を弄し、偏見を植えつける人で、つまり、あらゆる人の道に背いています。だから、楽山の言う人の道は、騙されることに他なりません。楽山は、何も弁明できないのに、神否定・宗教否定の妄想を植えつけたいだけの反省しないケダモノです。
 
宗教も、人の道も、「思うのですよ」などという口調で、破壊しようとしているのが、自己愛性パーソナリティ障害NPD(自己愛性人格障害)の楽山です。楽山自身は、嘘吐き、詭弁屋、病質者であり、罪悪感も良心もなく、神も人も汚してゆくサイコパスです。決して近づかないでください。3年以上批判しています。
 
 
★こも/楽山日記3
@komo266
一口にアンチといっても感覚は人それぞれですけど、私のそれはスピリチュアリズムの影響が強いので、HSの教えのうち、スピリチュアリズム寄りのものは共感できることが多いです。でも党派的、護教的な傾向が強いものはものはそうではないです…。
2022年12月23日
 
楽山は、アンチではありません。HSの教えを解説して、分かっているふうに自慢すること、しばしばであります。その安っぽさは、理屈も弁えず、口から出まかせで、勝手に満悦しているような、下種というに相応しいペテン師であります。恐らく、いかなる学問も思想も宗教も、本気で学んだことはないと思います。
 
楽山には、まず、正常なスピリットがありません。自己顕示欲などの我欲だけで出来ているような人です。他者のことなど考えていません。だから平気で嘘を吐きます。安い褒め言葉に騙されないでください。楽山は、恐らく固陋です。本気で誰かと協力することはないと思います。自覚・病識も皆無です。
 
(ネットより)
こ‐ろう【固×陋】:[名・形動]古い習慣や考えに固執して、新しいものを好まないこと。また、そのさま。「旧時代の―な人々」「頑迷―」
 
 
 
 バカとモンスター
 
いかなる道を選んでも
 
集団や組織の中で
しきたりや規則に染まりながら
(マニュアルは指針であって心ではない)
いずれ競争を強いられ
慣れる人もいるだろうけど
 
たとい孤高を目指しても
孤高は孤独な孤立なのだが
 
いかなる道を選んでも
 
論理に身を投じる人は
論理つまり理屈だけだと
人間離れしたモンスターになるから
論理バカを自覚することが救いになる
 
情緒に身を投じる人は
情緒つまり感情だけだと
感情的なモンスターになるから
情緒バカを自覚することが救いになる
 
「バカ」が
とても人間的ならば
 
専門は
専門バカを自覚することによって
改めて我に返り
人間に戻れるだろう
 
「バカ」を忘れて
専門の権威を自負するようになれば
「権威」というモンスターになる
 
「バカ」を自覚する人
自覚せざるを得ない人は幸いであり
 
自覚しない人と
自覚してるつもりだけの人は
災いであります
 
論理でも情緒でもなく
人間であること(ヒューマニティ)から離れず
人道からの道理を求めて止まない経過と結果が
たとい路上でも小屋でも豪邸でも
呆けた口笛の自由な散歩だ
 
 
  ぶっつけ問答
 
企みや謀(はかりごと)に対しては
 
人となりを見る そして
 
倶(とも)に天を戴(いただ)かず
血の果てまで続く復讐は
百代祟(たた)りて余り有る可し
 
これほどの憎しみを
そっくり神に委ねようというのだ
 
でも言ってしまった
 
鼬(いたち)の最後っ屁として
負け犬の遠吠えとして
 
今一番つらいことは?
眠りから覚めることだ
 
今一番後悔していることは?
生まれてきたことだ
 
生まれる前に戻りたいと?
戻れはしない既に生まれたのだから
 
ではどうしたいと?
今どうするわけではない しかし
いずれ最大の罪と知りながら
最大の罪を犯すことになるか
あるいは耐えるだけ耐えて
遊べるだけ遊んで学べるだけ学んで
糧食尽き果てて息絶えるか
 
委ねたお方に任せるのでは?
任せたいが肉体が弱すぎる
 
まだ信じてはいると?
信じていると思ってはもらえまい
しかしまだ拘(こだわ)ってはいる
 
では聞くが自らの憎しみに対しては?
ゆえに知る
罪があれば裁きがあり
いずれ罰が下ると
 
自らの悲しみに対しては?
ゆえに知る
一縷(いちる)の憐れみの絆あらば
いずれ覚めることのない眠りを賜(たまわ)るであろうと
 
 
 Mに捧げる歌
 
月と星との逢瀬(おうせ)には
光る街の灯(ひ) 港町
痛みを耐えて
望みを捨てないで
ただひとときの賑(にぎ)わいに
せめて見上げる夏の夜
体に心に
残る傷 忘れない
どうかその目をそらさずに
どうかその手を離さずに
 
風と波との逢瀬には
揺れてきらめく港町
涙をこらえて
人を見捨てないで
夜を渡って年月(としつき)の
変わらぬ何かを追い続け
どうかその日々忘れずに
どうかその輪を崩さずに
 
人と人との逢瀬には
互いに見守る港町
瞳に写る悲しみ
わけを聞かせて
語り継ぐ日の苦しみを
とどめる絆(きずな)に抱きしめて
どうぞその目をそらさずに
どうぞ願いをつなぐため
どうぞ明日(あした)につなぐため
 
 
 サンタクロースはもういない
   (歌詞・曲済み)
 
サンタクロースはもういない
小雨に濡れる街角に
たたずむ影はただ冷たい
まだ来ぬ誰を待ちわびる
 
雪も降らないクリスマス
寒さにかじかむ手の中に
あたためているプレゼント
小さな箱にいだかれて
 
ネオンの街の片隅に
帰りを急ぐ人波に
ひとり思いに動けない
雨はやまない帯模様(おびもよう)
 
光るきらめく夜の中
回り舞台は輝いて
数え切れない影と影
作って誰か耐えている
 
もう遅すぎるプレゼント
それでも今夜はクリスマス
濡れる小箱を受けとめて
今をください私にも
 
さよなら、さよなら、もう二度と
・・・・・・・・・・・・
さよなら、さよなら、もう何も
・・・・・・・・・・・・
 
サンタクロースはもういない
小雨に濡れる街角に
たたずむ影はただ冷たい
それでも誰を待ちわびる
 
 
(※ これは、恋愛、あるいは、ある意味、信仰の歌です)
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
 
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら 誤ったら 素直に詫びて 自分 正さなくちゃいけない」「それが出来て 初めて人間だと それ出来ないなら 人ではないと」「嘘ばかり 重ねる君よ 保身だけの 卑怯者の君よ そんな君は 魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと 最大限の反省と共に 開いた出店を 畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
誰かが注意しても、聞く耳を持たない楽山は、反省も謝罪もしておらず、邪悪な性根の根深さが治りません。「人間の性」「自分もそんな風です」などと言って、人間一般のように、醜い詭弁の言い訳をしていますが、人間一般ではありません。楽山固有の悪と罪と偽善です。
 
自己愛性人格障害の楽山には、病識がありません。効く薬もありません。信仰もなく、信仰をあざ笑っているので、救いも拒んでいることになります。自己正当化に酔うことしかないのでしょうが、これほど、自らに危機意識のない人は、むしろ、珍しいのです。
 
 
 
★こも/楽山日記3さんがリツイートしました
「自己責任」という言葉は、自分自身に対しての戒めや、「投資は自己責任で」等の注意喚起のときに使う言葉であって、人に向けてぶっ放す言葉ではない。
統一教会界隈では、連日この言葉が飛び交っているが、心情を蹂躙したツケは必ず自分に回ってくる。
私もそうならない様に気を付けねば。
 2022年12月21日
 
楽山の責任逃れの、他者を発言を引用するだけの、婉曲的な詭弁です。無責任な人には無責任と言うしかありません。自己責任でしか言論は出来ません。誰かのせいにすることも出来ません。そういう世界に、肯定し否定したから責任はない、などというプラマイゼロの計算は成り立ちません。
 
責任を負う気のない人が完全撤退しないならば、批判して責任を追及し続けるしかなのです。身の程を知らず自分を見ることの出来ないために、楽山は、他者の心を、誘導や詭弁で、蹂躙してきます。いずれ、必ず、その "つけ" が、楽山に回ってくるということです。
 
 
 
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  キリストと人々
 
 
神の性質として言われていることがあります。全知、全能、絶対、完全、永遠、不変、など。
 
信仰者が知るべき人の性質があります。全知ではない、全能ではない、絶対ではない、完全ではない、永遠ではない、不変ではない、ということです。
 
信仰において、人間が知るべきことは、神の性質を求めることではなく、神の性質から、人間が不完全であることを知ることです。それが、罪深さの自覚になり、敬虔の自覚につながります。
 
 
あるカルトは言っていました。信仰によって完全になるのだと。カルトたるゆえんであります。信仰は完全になるためにあるのではなく、完全ではない自分を知ることです。完全になれないゆえに、罪の赦しと救いが必要なのです。それが人間らしさなのです。
 
 
自分はダメだなあ・・と思うとき、ダメでない人格的存在を想っています。聖書を読んで、ダメでない、完全な存在を想います。それが神であります。しかし、神について、あれこれ考えても、ダメでない存在、完全な存在を理解することは出来ず、そういうあり方を得ることはできません。
 
ゆえに、そのような御方がいることを、分からないけれど、導いておられることを、願い、信じ、仰ぐ、それが、神への、祈りの信仰であります。ここにおいて、大事なことは、神の意志と行為と計画を、人が知ることはできないということです。
 
信仰は、物品のように、書物のように、受け取るものではありません。この地上で、与えられる、絶対の神と相対の人の関係性であります。その関係が信仰であり、きっと関係を持ってくださると信じて、希望とします。希望だから、慢心する何ものもなく、祈りに終始します。
 
 
キリストに救われた人たちは、正直であり、正直に言い、正直に答えた人であります。それ以外の、いかなる飾りも持っていない人たちでした。これを、心貧しい、というのです。
 
正直な告白と祈りが大切だということです。嘘や飾りを神に捧げられるでしょうか、否です。嘘や飾りを神に向かって言う人ということになるだけです。社交とは違うのです。福音書でも、欠点や障害や罪を隠さず表した人が救われています。
 
神の前においてだけは、心を裸にするべきです。隠したり、飾ったり、嘘を言うことは、自ら、信仰を軽視する態度です。神に対して、社交と同じように、世辞を言い、嘘を吐くことは、固定すれば、嘘の祈りが常態化すれば、赦されない罪になります。
 
ゆえに、祈りで、嘘を吐いたことに気づいたら、別の機会をもって、その罪を告白し、訂正するべきです。そうすれば、正直な信仰に戻ることになります。神は、寛容であり、いつも、正直な祈りを待っておられるのです。
 
 
信仰とカルトの違い:
 
信仰は、心の共感により、本質的には箇条書きできない感性によって、心に生まれます。
 
カルトは、決めつけの豪語から始まることが多く、その内容は、超常現象に彩られています。
 
 
神を決めつけるのはキリスト教系カルトです。
 
神の不在を決めつけるのは無神教カルトです。
 
キリスト信仰は、個人の、唯一の希望の同伴として、神に祈り、キリストを愛することです。
 
 
教条やイデオロギーは、何度も繰り返されるから、感動を呼ぶことはなく、理解の不細工な仮面となって、人間を、雑句雑句と靴音を立てる行列にしてしまいます。集団を同じ顔にしてしまい、嘆きの声から悲しみを消して、笑いと怒号のプラカードにしてしまいます。
 
 
 
キリストと救われた人々の出会い
 
キリストが出会って救いの宣べ伝えた人々は、キリストが選んだ人々であり、人前に、神の前に、誇るような能力を持っていない自覚のある人々であり、かつ、理解できるかどうかよりも、聞く耳を持ち、余計な先入観を持たない、即ち、心の貧しさを持っている人々であります。
 
パリサイ人や律法学者
 
人の前に尊大であり、神の前に、人よりも優れていることを誇るような人々であり、神を喜ばせるよりも、自尊を誇り、常に、教える立場にいるつもりで、優越感と自己満悦感に満たされて、ゆえに、救い主さえも殺すような者たちです。(一部に例外があります)
 
 
 
新共同訳において
聖書を安い道徳におとしめた罪:
 
マタイ5:28(口語訳)
しかし、わたしはあなたがたに言う。だれでも、情欲をいだいて女を見る者は、心の中ですでに姦淫をしたのである。 
 
女 (口語訳)→ 人の妻(新共同訳):
 
 マタイ5:28は、道徳ではなく、
 神レベルの戒律であり、
 人には、誰も守れないゆえに、悔い改めが必要
 という、キリスト教の根幹となる教えです。
 
 神レベルの守れない教えを、
 不倫禁止だけの安い道徳に書き換えて、
 これなら守れるでしょ・・と得意がる罪。悪魔性とさえ感じる。
 
神を恐れる→神を畏れる。
 恐るべき神の前には瞬時に滅びても不思議のない人間の在り方を
 神の前に畏まる社交のエチケットに変質させる
 神と悪魔の区別もしばしば間違える人間の罪です。
 
いずれも
神と人の関係が何も分かっていない者の所業。決して小さくない罪です。
 
 
 
キリスト者の正しさは、言動の正しさではありません。
 
キリスト者の正しさは、
祈りと赦しが必要なほど切実な告白の正直さにあります。
 
すなわち、神の前に、キリストの御名によって、独りで祈る心得は、
正しさではなく正直さであります。
 
神に背くような、人間としての弁えの鈍い者たちは、
やたらと正しい立場を売りに出していますが、
 
私たち信仰者は、既に、自らが正しくないことを認めた、
神の下にある罪人であります。
 
そのような人間が、救いを求めるためには、
豪語ではなく、礼儀ではなく、美辞麗句ではなく、世辞ではなく、思い込みではなく、
正しさでもなく、
ただ神に対してのみ、一途に正直であろうとすることが大切です。
 
その一点においてのみ、救われる信仰者がいて、救い主がいるのです。
 
 
尽きることのない希望を信じ仰ぐ姿勢

尽きることのない希望を信じ仰ぐ姿勢
 
 
(2022年10月17日)
 
 
 
  夢 Ⅱ
 
狭い道を歩いていた
古びた石の壁、細い溝に沿って
井戸があった
誰もいない家があった
一人か二人出会ったが
知らない人だった
入り組んだ路地を通り抜けると
また同じ道に出てしまう
何度も同じ道に。
誰かに会いたかったのだろう
愛しさに熱く泣きたかった
乾いた石の中で
のどが渇いた
 
水際の岩場で
人が撮ってくれた写真に
友人と私、
私と友人が写っていた
二組も三組も同じ写真に写っていた
さわやかな顔をしていた
どちらかの体が傾いて立っていた
懐かしかった
でも懐かしむほどの友人はいない
 
テーブルの上に
絵本が積み重ねられていた
今できたばかりと
作者が宣伝していた
瞬く間に売れていった
漫画のような絵本
コミカルな線が人を描いていた
曲線の巧みなデフォルメ
折れ線の細い危うさ
それらに囲まれた
白い未来 空白の飢餓
 
質素な食卓で食べた果実は
禁断の果実ではなかったか
苛立つ頭を巻き込んで
胸がやけ
後頭部に響く強い酸が上がってきた
塊が糸を引いて連なり
充血した眼で唾液を引きずり
胃の底まで吐き出してしまった
赤い実は溶けかかっていたが
子供の頃から知っているような気がした
森の中で見つけて眺めていた
今、火の内臓にしみこんでいく
血の流れを黒く染めながら
絶え入るばかりの罪の流れだった
聖なる嘔吐に清められたかった
暗い床の凹凸に伏していた
動物のように邪気もなく
信じられるものを求めていた
 
 
  排泄
 
折れた骨は
変形して固まっている
血も内部で冷えていく
わずかに臓器を残して
排泄する
老いてゆく自画像の裏で
手が動く
綴られなかった一日
読まれなかった行間見られなかった空間
排泄するために
欠けていく勾配
 
 
  基督像
 
誰も助けてはくれない
誰にもおろしてもらえない
痩せた項(うなじ)は地にうなだれ
蒼白の瞳はかすかに見開かれながら
ずり下がる手足の痛みに耐えていなければならない
 
どれほど多くの乾いた唇が
彼の名前を掠めていったことだろう
どれほど多くの黄色い視線が
彼を横目に見たことだろう
そして頁をめくるような夥しい粗い舌が
彼を指して唱えたのだ
「ユダヤの王」あるいは
「わが救い主」と
 
彼はなぜ耐えているのか
彼は何を待っているのか
それでも扉は開かれている
どこに向かって あるいは誰に
 
 
息を切らして
開かれた扉から
駆け込んできたのは一人の少年である
熱く紅潮した顔が彼を見上げる
少年の汗まみれの手に
握られているのは一冊の聖書だ
 
「主よ 私です
 私は来ました」
 
信仰告白は
上気した額の上で
まるで天国を見たかのように
見知らぬ夢に向かって語られていた
少年はまだ信じている
本当は基督よりも自分の元気を
少年はまだ知らない
彼の聖書(テキスト)が答えない
多くの悲劇について
 
 *
 
礼拝堂から街へ
宿命のように降りている階段を
少年も今しがた降りていった

人のいない礼拝堂の中で
去っていった少年の面影を
まだ見おろしている
基督像
 
たとえその動かぬ指先に
ふるえる朝の歌がよみがえったとしても
目に見える何が
それを少年に伝えるだろう
 
何も変わってはいない
誰も見送りはしない
くずれ去っていくもの
新たに生まれる何か そして
彼をとどめる絆のために
基督の歌が歌われるのは
このときであるから
 
 
 
楽山の害毒メモ:
今までに表れてきたこと。これは、楽山に限らず、聖書においてキリストの敵となった宗教指導者や、世に数多いる偽善者の特徴でもあります。この世で最も迷惑な人の特徴です。楽山は無責任です。決して信用しないでください。
 
楽山は、1つのことを書いて、別の時には、それに反することを平気で書いてきます。そこで、反省、修正、というステップを書かず、あたかも最初から思っていたことのように書いてきます。自分に誤りを認めない自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)だからです。
 
偽善者の特徴でもあります。
 
人格:
自己愛が強く自己中である。
笑いと怒りしかなく、悲しみの情がない。
共感がなく、罪悪感がなく、反省しない。
自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)と思われる。
平気で嘘を吐く。様々な詭弁を弄して、柔和に見せかける。
深い情感がなく、共感性がない。相手が疲れるのを見て快感を得る。
後悔、反省、修正ができない。学習による成長がない。
罪悪感、羞恥心が見られない。サイコパスと思われる。
アドラー心理学の宣伝をしていた。自己中心である。
中身や実質のない形骸的精神機能しか持たない。
 
単細胞。
 
議論:
議論や交流が、表面的で、整わないし、できないし、元々する気もない。
相手の意見を受け取っていないので、反論、弁明が成り立っていない。
理路が常識的にも浅く、基本的に訂正不能である。理解力がない。
自分なりの堅実な理路を組み立てられない。
読書自慢。感想は平板で、独創性や深みがない。
様々な気取り。読書家気取り、評論家気取り、インテリ気取りなど。
分かっているという我執から離れられない。
非を指摘されると、逆に、こちらに当てはめて被害者面をする。
人を批判~誹謗中傷するが、その言葉で自分が斬られるブーメラン現象。
真面目に応答~議論すればするほど、病的な徒労感と疲労のみをもたらす。
ボンヤリ言語:語尾を濁し曖昧で婉曲的な言い方で、印象を刷り込もうとする。
トホホ言語:謙虚で弱いと思わせて悪意を隠すための嘘の芝居。
しばしば、自身への同意を期待して、見え透いた世辞を言う。
「反省。とほほ」などと書くが、不自然であり、前後で何も変わらないので嘘です。
騙して、言い分を詭弁や嘘で通そうとする、通っていると思い込む。
 
偏執。
 
宗教:
反キリスト、反宗教。聖書およびキリスト信仰を、貶めてくる。
キリスト教とキリスト信仰を字面だけで云々し、理解していると思い込む。
HSを脱会したと言っているが、真実かどうか、疑わしい。
霊能者のつもりだが、それに見合う直観的洞察は皆無である。
 
形骸。
 
楽山の書いた文章を、3年数か月のあいだ見てきた結果ですから、大きく変わることはないでしょう。これらについては、新しい情報によって、必要なら加筆し、繰り返し載せることになるでしょう。
 
 
 
 楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
 
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
反省を「難しいんだよなあ」「人間の性なんでしょうかね」などという人間離れの詭弁で正当化しても、罪は罪として、地上でも、神の前でも、履歴が積み重なってゆきます。神の全能において、訂正不能に、神聖を侮り否定して悔いない罪は、救いが永遠であるように、裁きも永遠なのです。
 
 
 
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  超常と日常3
 
 
聖書に書いてある超常現象、つまり、処女懐妊、物や肉体の奇跡、肉体の復活について、信じていると言うことは空しいと言わざるを得ません。何故なら、超常現象の奇跡を信じても、そういう奇跡は、少なくとも、人間には理解できないことであり、かつ、現代、めったに起きていないからです。
 
つまりそれらの超常現象を信じることで、もたらされるものが殆どないからです。
 
信仰は魔法やご利益信仰ではないのだから、超常の奇跡を信仰の中心にしてはいけません。神の超常は
神に任されることです。
 
さらに、人が超常にこだわることは、日常を疎かにすることです。
 
 
物や肉体の奇跡は、神のみのわざです。神のみに任されることです。人が自分の都合で、神のわざを信じ込むのは、神のわざを決めつけることであり、不遜というものです。
 
一方、心の奇跡は悔い改めであり、神と人との関係において起こることです。心の奇跡には人が関わっているところが違うのです。人に分かる奇跡は心の奇跡です。
 
 
物や肉体の超常現象としての奇跡を信じますと言っても、信じると何が起きるというのでしょう。処女のまま妊娠しますか。何か超常現象を起こせるようになりますか。死んでも肉体が蘇りますか。誰も知りません。
 
それら奇跡が起こったら、そんなに素晴らしいですか。むしろ日常が混乱してしまうのではないでしょうか。地道に努力することがバカバカしくならないでしょうか。その夢を描いてばかりでは問題からの逃避にならないでしょうか。
 
何が起こるか、私たちは知りません。信じたら超常の奇跡が起こると言われても、実際に起こったら不気味なだけではないでしょうか。病気になってもすぐ治るのでは、病気を甘く見て健康を疎かにすることにつながりそうです。
 
超常に執着することで生じる鈍感さは、日常に及んで人間は怠慢になるだけでしょう。超常の奇跡に頼ってしまえば、人間にとって良いことは起こらないでしょう。
 
元々、奇跡は滅多に起こらないから、奇跡と呼ばれるのです。
 
奇跡が起こるかどうかは、神の御心に任されていることです。
 
信仰は、信じれば奇跡が起こるという交換条件のような取引ではないのです。
心の無い信仰に陥ってはいけません。
 
奇跡の夢ばかり見る超常信仰は、怠慢や失敗が魔法で解決されることばかり思い込んでいるような、
怠け者の欲望をベースに置いていることがあります。
 
超常にこだわり始めると、もっと考えるべき日常のこと、人間としての節操や、愛と共感そして真実の追求など、人間として考えるべきことを疎かにする恐れがあります。
 
超常に住んでいない私たちが超常現象を信じることは、思考と感情をゆがめてゆくのです。大事なことから目を逸らしてゆく恐れがあるのです。
 
もし奇跡が起こったら驚きを持って見るでしょう。それで命が助かったら感謝もするでしょう。しかし、それはその時の驚きと感謝以上にはなりません。そういう奇跡で人は成長しません。私たちは私たちにとって実になることに集中するべきです。
 
奇跡に頼って
過去に奇跡が起こったかのように思い込んだ者がいますが、
その者は、結局、思考停止と感情鈍麻に陥り、
理解も洞察も気配りも共感も出来なくなっています。
ただ一途に、奇跡を待つ姿勢に安穏とし、
その上にあぐらをかいて、
もはや人間とすら思えない状態になっています。
この人のどこが救われた人なのでしょう。
滅びゆく人にしか見えないのです。
 
このように超常信仰は、超常だけを信じて待つ怠慢と鈍麻のカルトになりやすいのです。私たちは、私たちに与えられている良きもの、つまり、愛と共感性と思慮深さを養うべきです。
 
聖書において、それら人間の情緒を豊かに持っている人たちが救われています。多くは、傷ついて、悲しみ、救いを求める境遇が、キリストに対して正直な思いをまっすぐに述べさせたからです。彼らには、心の、魂の奇跡が起こりました。
 
聖書において
教条と戒律主義に陥った者たちは
儀式の形式を守ることで
良心の実質を疎かにして
守っている、知っている、分かっているという傲慢を表し
彼らは、物や肉体の奇跡と儀式への信仰?によって
選ばれた者という自覚に思い上がり
そしてキリストを殺す者となり
神の怒りを買いました。
 
信仰は共感の可能な心によってのみ受け取られ、悲しみを知るゆえに温もりを知る心に生まれます。
 
信仰は決して超常を知る魔法でも霊能力でもありません。
 
信仰は、人間らしい心を育てます。どんな人でも、神の前の正直さに努める人は、神のごとくであることを求めない敬虔によって、代わりに人間らしい心を与えられ、育てられ、成長して、豊かな人間性によって、人間世界を生きてゆくでしょう。
 
このように、不完全な人が救われるためには、神の完全との違いを弁えていくしかないのです。
 
"神様が助けてくださいます" というような、やさしい神を語るときには、自らを神聖としないために、気をつけるべきことであります。
 
また、教理や教義を語るときには、必ず、超常なる神聖のことは、人には分からない神秘であることを伝えなければ、超常趣味で信仰を語ったつもりになるような人間離れが生まれる、ということを考えなければいけないと思います。
 
 
信仰者であっても、私たち人間の善悪の判断など、神に対しては全く通用しません。何故なら、人が、善悪の判断を振りかざして祈るとき、絶対の神の善悪の判断は既に下されているからです。そして、それは、時空の限られた人間には決して分からないことです。
 
誰が、自分の言動の影響を果てまで追えるでしょう。それは、神のみがなさることです。ゆえに、全知全能と言われています。それを知らない者が、愚かしくも、神の辻褄?をいじくって、なぜ悲劇を救わないのか、神はいない、などと言っているだけなのです。
 
神の辻褄を、神でない人間は、決して負えません。
ゆえに、私たち、キリスト信仰者は、いくら善悪にこだわっても理解することはなく、
神の前に、ただ、正直な告白以外、まるで祈りになっていないことを肝に銘じるべきなのです。
 
神についての、不可知論は、大方、無神論です。可知論は、大方、理屈倒れの半端な哲学です。信仰を理屈で語るのは、大方、邪道です。神学や哲学の知識を誇る者を警戒してください。私たち信仰者は、キリストの愛と共感が忘れられなくて、キリストへの愛と共感に生きる者であります。
 
人の辻褄さえ、ろくに語れない者が、どうして神の辻褄を語れるでしょう。インテリ気取りの坊ちゃん哲学など、俎上にも、机上にも、乗る価値はないのです。神もキリストも、幼稚な概念でしか語れない半端者~病人を相手にしないでください。
 
 
超常と日常

超常と日常
 
 
(2020年)(2021年)
(2022年07月21日、再録+加筆)
 
 
 
  狭く細い道
 
近づくことはあっても
交わることはないかもしれない
ときに休み
ときに耐える
狭く細く長い道
 
素朴な不信仰
本気の弱音
本音の泣き言
ときに痛いほど
薄い胸に落ちて
抉(えぐ)るように沁みてくる
 
辿(たど)る経緯は違っても
それぞれの細い道
苦難の果てに見出した
薄明かりの細道を
証明がないからといって
どうして否むことができようか
 
日々の糧(かて)のように
あたかも等しく
水のように注がれる
弱々しさを抱えて
 
どうして希望を捨てられようか
いつかそれらが総て
広い広い一つ所に通じていて
温もりに包まれるという希望を
 
 
 
 大川隆法の直筆原稿
 2021年07月13日
 幸福の科学とは何だろう?ブログ by 楽山
 ブログ記事でも
 ツイッターでも
 宣伝しています。
 
 
楽山の因業は、何を言われても、何事もなかったかのように無視して書いてくることです。書くことの恥ずかしさを検証するだけの良心がないことを表しています。こういう人が捏造する偏見によって、宗教と信仰は、健康で文化的で賢明な伝道を妨げられることになります。
 
そのように、嘘と詭弁で、真実を妨げることで、楽山のような者は、かえって、悦に入る輩なのです。その卑しさと、幼稚さと、あざとさと、白々しさと、狡猾さと、卑怯さと、無反省、無神経、無責任、無理解のために、継続的に批判しなければならなくなります。
 
 
*直筆原稿のコピー発見
蔵書の整理をしていたら、大川隆法の直筆原稿のコピーを見つけた。90~91年頃、支部で頂いたものである。
『ユートピアの原理』まえがき(省略)
*三原則
内容を確認してみると、論点はおよそ三つだ。
大きな危機が迫っていると脅す
大川隆法を信じれば救われると希望を示す
「救世のために伝道をせよ!」と使命感を煽る
 
まるで、偉人の直筆資料が見つかった!・・かのように書いていますが、何が言いたいのでしょう。かっこいい・・とでも言いたいのでしょうか。愛しているのでしょうか。楽山の記事本文が貧弱です。存命の教祖の原稿が、どう重要性を持つと言うのでしょうか。
 
 
*相変わらず
こうしてみると、「大きな危機」の中身についてはその時々によって、世紀末の天変地異、北のミサイル、中国の覇権主義などと変化はしていても、上の三原則は今も昔も変わっていないのがよく分かる。
 
褒めているのでしょうか。言いたいことが見えてきません。宣伝するほど価値のある情報とも思えません。教祖の言うことは、あちこちに出ているでしょうし、直筆原稿の写真(省略)は、多く、偉人ならば価値があるのでしょうが、楽山は、何を、はしゃいでいるのでしょう。
 
 
*反省
聞くところによれば、最近の信者は笛吹けど踊らずとばかりに、大川隆法総裁が危機をうったえても、使命感を煽っても動かない人が増えているそうだけども、会員時代の自分はまだ若くて世間知らずだったので、上のような文章には簡単に感動してしまうクチであった。この点は本当に失敗だったし、いくら反省してもしたりないくらいである。…とほほ。
 
楽山は、ORの文章に感動してしまうそうです。それを失敗だったと書いています。「反省」は嘘だと思います。恥ずかしいだけでしょう。「とほほ」は大嘘だと思います。楽山の言葉の中で、いちばん信用性のない言葉です。しばしば書いてきた「反省」「とほほ」などは、もはや、楽山の嘘の典型です。
 
反省、とほほ、については、嘘であると、今まで何度も書いてきましたが、それでも、平気で書いてくるところが、楽山の病質であり、自覚がないか、または、嫌がられることを重ねるサディストぶりを証明するだけです。根腐れの進行であり、文章が、ますます無明の世界に行きつつあるようです。
 
楽山は、「感動し」たことはないと思います。ふるえるだけの心を持っていないと思います。「感動してしまうクチ」・・楽山は、「感動」と言ってしまう口だけの人です。楽山にとって、感動とは、自分の意見に空想の辻褄が合うということでしょう。
 
「失敗だったし」「反省してもしたりない」・・反省は振り返ることですが、楽山は、ますます、嘘に凝り固まる人です。失敗の認識もないでしょうし、反省もしていないと思います。だから、「とほほ」という、ふつう、文章には書かない台詞でごまかすのです。
 
楽山は、何度批判されても、なお、自分は整っていると言い張りたくて、図々しく不躾な文章を書いてきます。浅ましい言葉だと全く気づかずに、言えばいいと思うだけで、また書くわけですから、そのたびに、不自然な言葉遣いを含めて違和感だらけだと知れてゆくことになるのです。
 
 
 
  遭遇
 
前にも言ったような
がデジャブではなく
物忘れの繰り言になるとき
言うのをやめる
ことを覚えるだろうか
 
記憶を
とりわけ記銘(きめい)を失うことは
日常をそっくり
超常の異土に変えてしまうが
 
経過の道のりが
日常であるか超常であるかは
経過させるものに任されており
 
足元から世界までをジャメブの
底知れぬ不安と不穏に落とし入れる喪失も
 
遭遇から終焉に至るまで
出会(でくわ)す有象無象と有情非情によっては
穢土(えど)から冥土(めいど)への旅も
安堵から浄土までの邂逅(かいこう)である
 
 
  超常現象
 
リンゴが落ちる
引力の法則に従って
しかし引力の法則が
明日も成り立つことを
今日のうちに証明できる人はいない
 
物理現象には法則があり
それはあらゆる時空において成立する
という証明できない前提の上に
物理学が成り立つように
 
リンゴが明日は逆さまに落ちる
と思う人がいないように
明日は必ずやってくる
 
法則の成立しない時空が部分的に
あるともないとも証明できないように
明日の中に自らが含まれることは
常に超常だ
 
 
  秘密と定め
 
二十年後殺人鬼になる幼児は
やはり幼気(いたいけ)であどけないだろう
鵜飼いの鵜(う)は
呑むことを許されないのに
食うために生きているように
養鶏場には首が並び
忙(せわ)しく騒がしく急(せ)くように
卵と肉
食われるために生きている
知られた秘密が
もはや秘密ではないように
羽ばたくペンギンは
水中を飛ぶ
 
 
 
  楽山の偽善性まとめメモ
 
楽山の害毒メモ:
今までに表れてきたこと。これは、聖書においてキリストの敵となった宗教指導者や、偽善者の特徴でもあります。この世で最も迷惑な人の特徴です。
 
人格:
自己愛が強く自己中である。
自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)と思われる。
平気で嘘を吐く。様々な詭弁を弄して、柔和に見せかける。
深い情感がなく、共感性がない。不感不応。
後悔、反省、修正ができない。学習による成長がない。
罪悪感、羞恥心が見られない。
アドラー心理学の宣伝をしていた。その影響が抜けていないと思われる。
中身や実質のない形骸的精神機能しか持たない。
 
議論:
議論や交流が、表面的で、整わない、できないし、する気がない。
相手の意見を受け取っていないので、反論、弁明が成り立っていない。
理路が常識的にも浅く、基本的に訂正不能である。理解力がない。
自分なりの堅実な理路を組み立てられない。
読書自慢。感想は平板で、独創性や深みがない。
様々な気取り。読書家気取り、評論家気取り、インテリ気取り、など。
分かっているという我執から離れられない。
非を指摘されると、逆に、こちらに当てはめて被害者面をする。
人を批判~誹謗中傷するが、その言葉で自分が斬られるブーメラン現象。
真面目に応答~議論すればするほど、病的な徒労感と疲労のみをもたらす。
ボンヤリ言語:語尾を濁し曖昧で婉曲的な言い方で、印象を刷り込もうとする。
トホホ言語:謙虚で弱いと思わせて悪意を隠すための嘘の芝居。
しばしば、自身への同意を期待して、見え透いた世辞を言う。
「反省。とほほ」などと書くが、不自然であり、前後で何も変わらないので嘘です。
 
宗教:
反キリスト、反宗教。聖書およびキリスト信仰を、貶めてくる。
キリスト教とキリスト信仰を字面だけで云々し、理解していると思い込む。
HSを脱会したと言っているが、真実かどうか、疑わしい。
霊能者のつもりだが、それに見合う直観的洞察は皆無である。
 
楽山の書いた文章を、3年数か月のあいだ見てきた結果ですから、大きく変わることはないでしょう。これらについては、新しい情報によって、必要なら加筆し、繰り返し載せることになるでしょう。
 
 
 
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  楽山の独り芝居(2)3
 
 神についての対話 2 
 楽山日記(LD) 2020年06月21日
  を改めて批判。
 
 
楽山が悪意の人であることが表れています。信仰が分からないから、信仰について、文句が言いたいのでしょう。そして、終わりに、小説から、ふざけたことを言って、楽山の大好きな三文芝居で、自分で自分を褒めて、神を笑う気持ち悪さなのです。
 
努力している信仰者も非信仰者も、たくさんいるでしょうに、楽山は、反キリストとして、自覚もなく、努力もせず、教祖願望的な、霊が分かるっぽい特別の地位を欲して主張しているのだろうと思います。
 
神を、いないだの、そして、人を、決めつけだのと、崩れた理屈に納めたつもりの楽山が、いちばん決めつけと自己満悦の権化でありながら、決めつけはよくないと書いても、何の説得力もないのです。楽山の、自己愛こそ、自己中こそ、無反省こそ、楽山が決めつけた自分信仰です。
 
楽山は、対話形式にして、工夫をしたつもりで、ますます、演技的になって、芝居がかってる、わざとらしい、などと思われることを予想しなかったのでしょうか。
 
自分に酔う者は、芝居の度合いを増すことで、ますます、いい気になり、観客つまり読者がどう思うかが分からなくなるようです。まさに、自己顕示欲が、自らを滅ぼしてゆく楽山の独り芝居です。
 
 
*神のイメージの幅
若者 「えぇっと、ちょっと待ってください。いま、お話を聞きながら、妙なことを考えてしまったのですが…」
老人 「妙なこと? どんなことだい?」
若者 「い、いえ、やっぱりいいです。すごくバカバカしいことなんです」
 
とても気持ちの悪い謙虚芝居です。このような対話形式でなくても、「とほほ」など、楽山は、同情を誘いたいのか、この手の作為の白々しい芝居をしてきます。舌打ちをして耐えるしかありません。
 
 
老人 「ひらめきや思い付きには、あまり自己検閲をかけすぎない方がいいと思うよ」
若者 「そうですか。では言いますけど、あなたの意見は、人には神のことは分からないのだから、『神は~である』とは断言できないし、『神が××であるなら~だろう』と仮定として話すか、『私には神は~と思える』と感想を話すくらいしかできず、誰かが抱く神のイメージについて確信をもって正しいとも、間違っているとも言えないということですよね」
 
楽山が、神を、自分の理屈で云々している時点で、否定し揶揄するためだと分かりますし、人と違う神の存在について安易な思い込みの中の神?をいじくっているだけということが明らかであり、人が神の正邪を云々するという見当外れもいいとこです。
 
楽山は、自らの不良品の倉庫で、自らの出来損ないの堂々巡りをしているだけで、直観的な洞察が皆無のために、自分の小理屈で神を語るという、むしろ、いちばん的外れなことをしており、楽山だけが、無益な精神作業だと分からない亡者となっています。
 
神を、表現だけ「だろう」の推測で語っても、楽山には、神などいるもんかという否定を刷り込むための、誘い水であるに過ぎず、そのことが、楽山の我執の唯我独尊の有頂天世界には、いかなる共感もないことを表して、人間の崩れ方を見せる結果になります。
 
 
老人 「そうだ。他人が抱いている神のイメージについては、共感したりしなかったりはできるが、どういうイメージが正解であるかは分からないのだから、正しいとか、間違っているとかは言えない」
若者 「そこで僕は思ったのです。それでは、もし『神は残酷であり、邪悪である』というイメージを語る人がいても、それを否定できないのではありませんか? これはおかしくありませんか?」
老人 「神は残酷だということについては、私の記憶では、たしか、スティーヴン・キングの『デスぺレーション』にそういう表現があったね。主人公の少年は、親友が交通事故で意識不明の重体になったことを切っ掛けにして、牧師の下に通い、信仰に目覚め、その後は多大な犠牲を払いながらも、邪悪な存在と闘い、その活動を阻止するという物語なんだ。少年は自分には邪悪な存在の活動を防ぐ使命があり、その使命を果たすために自分が霊的なことに目覚める必要があり、そのきっかけとして友人が事故に遭うことが計画されていたことに気づき、神は残酷だと呟いていた。運命論的な考え方、すべては神の摂理によって支配されているという考え方からゆけば、悲劇は神によって予定されていたことになるわけだし、そういう感想を持つのは致し方ない面はあるだろうし、そこに真理は少しも含まれていないということはないだろうな」
 
「『神は残酷であり、邪悪である』というイメージを語る人」・・これこそ、楽山なのです。自分で若者に疑問を言わせ、自分で老人に説明をさせています。条件法で、神を語る楽山は、同じやり方の詭弁でしか答えることが出来ません。神は、条件の対象にはなりません。神は、信じ仰ぐ対象です。
 
本当に、楽山は、神が嫌いで信じないのなら、何も書かなければよいのに、・・ならば・・、という言い方の対象に、神をおとしめて、摂理の使命・・的な話のネタにしています。何処にも、糧になるものがないのが、楽山の、捏造フィクションの、それこそ、運命なのです。
 
楽山のように、神を、登場人物として、自身の貧弱な辻褄合わせで語れると思う者は、神について、キリストについて、人についても、何か良きものを、感じることも、受け取ることもないでしょう。
 
「真理は少しも含まれていないということはないだろうな」・・楽山の、二重否定です。大事なところで、確証がないのか、ごまかしたいのか、曖昧な表現が表れます。とても気色の悪い婉曲表現、まるで祟りのように楽山の内部を巡る因業のボンヤリ言語です。
 
こういう人と遣り取りすると、絶望的な疲労を受け取ることになると知ったので、私は、批判記事だけにして、コメントの遣り取りをやめました。長々と、愚にもつかぬ表面的な理屈、即ち、屁理屈を並べて、疲労させてゆくのが、実感というものを持ち得ない楽山の手口なのです。
 
楽山の書く思い付きの文章の邪悪さは、神を否定しながら、他に、救いも、救いにつながるヒントも書けないことにあります。自己愛が強いからでしょう。文句だけ言って、責任を負わない楽山は、他者も、自分の言ったことさえも、不感不応で気にしない体質なのです。
 
 
信仰者は、いかなる悲劇があっても、キリストの愛を忘れることの出来ない人間です。臆病や疑いのために、キリストのもとを離れる人もいるでしょう。また戻ってくる人もいるでしょう。信仰は、一度で決定することではなく、正直でありうるなら、神の愛の寛容によって、いつでも、やり直せるのです。
 
信仰は洗礼を受ければ後は心配ないという信仰ではなく、様々な疑惑という経緯があって離れても、主のもとに帰る道があります。ゆえに、少なくとも、楽山のような者の意見を真に受けるよりは、はるかにマシだと言えます。楽山は、無益な言葉によって他者の人格を破壊する方向だけなのです。
 
キリスト信仰は、境地の固定ではなく、成長するための道です。楽山は、常同的で非生産的なことを繰り返して、言い得たと思うわけですから、成長できない、そして、成長しないでいいと思っているようです。これは、人間を生かす思想ではなく、徒労の反復妄想です。
 
そういう腐敗に腐敗を重ねるような人生は、楽山やシャロームなどの限られた厚顔無恥の異常者にとどめるために、私は書いています。彼らに、誰も、近づかないでください。
 
 
若者 「神は邪悪であるというイメージについてはどうですか」
老人 「『神は善であろう』と仮定すれば、神のイメージは善から外れるものは認められないことになるけれども、『神はすべてであろう』としたらそのイメージは必ずしも善に限定さなければならないというわけではなくなるだろうね。『神は善悪を超越しているだろう』としても、そのイメージは善に限定されるものではなくなる」
 
学者みたいな書き方をしていますが、邪悪なことも起こして、放置しているから、神は邪悪だぁ・・という妄想の刷り込みです。元々、人が、神の善悪を云々することが傲慢であります。信仰者は、既に、生きるための幸いを受け取っているからです。
 
楽山の言い分は、自分が正しく視野が広い、という妄想の土台から言っているだけです。限定されない神のイメージを、楽山の、字面の善と悪と善悪、という言葉で書いて満悦しているのです。"善悪を超越" という言葉を安易に使う楽山は、何も分からないまま、反キリストの策略の泡を吹いています。
 
人は、神の正しさが分かるから信仰者になるのではありません。それも、私のブログに書いてきました。信仰は、神の義と善に従うためにあるのではありません。それは、人間には出来ないのです。そんなことも分からないで、いちゃもんで誘導する楽山は、呆れた幼稚としか言いようがありません。
 
不完全で罪深い人間が、神に対して出来るのは、祈りにおいて、精いっぱい正直であることだけです。それが、信仰なのです。神は、人間に完全な義のないことを承知の上で、正直だけで、信仰の義を与える御方です。人間の側からは、そうとしか、神について考えようがないのです。
 
楽山は、都合の悪いことは無視して、自己顕示欲を小細工で論理的に見せかけて、自身をインテリっぽく見せかけるために、中庸みたいなことを、前から書いていますが、実際は、通念的字面に終始して、何も言えなくなる虚無へ誘っているだけの悪魔性です。
 
楽山は、信仰の救いについて、体験がないために、何も理解していません。さらに、分からないのだからという謙虚さもないために、書くことを控えることもせず、反キリストらしく、無秩序に、いちゃもんをつけてきます。
 
楽山は、自らの混乱を伝染しようとしているだけです。恐らく、よほど、お仲間以外の、誰からも相手にされなかったのだろうと思います。実際、混乱を招いて、共感も責任感もない楽山は、けっして相手にしてはいけない相手なのです。
 
 
若者 「神は善であると言い切れないのだとすると、なんだか辛いですね。僕はやっぱり神は善だと信じたいです」
老人 「宗教のなかには、神のことを善神と悪神に分けているものもある。住民に虐殺命令を下したり、さほどの落ち度もない人物を不幸のどん底に突き落としてその反応を見てみようという悪魔の提案を受け入れる神もいる。また世界の神話には、現代的視点から見たら、とても善なる存在とは思えぬ神々が描かれている。神は善であるとは限らないという考え方は、そう珍しいものではないよ」
若者 「うーん、確かにそうですね」
 
今度は、神を虐殺魔に仕立て上げたいようです。仕立てあげる文章を書いた時点で、虐殺魔の心を持っているのは、書いた人、つまり、楽山だと自分で言っているようなものです。楽山の、敬虔とは逆の、破壊的放言は、楽山自身の何らかの不遇に対する復讐なのでしょうか。
 
「神は善であると言い切れない」・・ひどい虚言~妄想です。人は神の絶対の善を知りえないということです。楽山は、自分の善悪の判断に、どれほど舞い上がっているのでしょう。むしろ、楽山こそが、神に対する善悪の判断はもちろん、人の善悪の判断も出来ない厚顔無恥なのです。
 
「神のことを善神と悪神に分けている」・・それは、キリスト信仰とは何の関係もありません。悪魔のことなら、それを、神とは呼びません。
 
神の与える救いは、地上と御国を含んでいるので、楽山のように、現世が不服で、神に文句を言って、神を否定するのは、自己中の極みでしょう。キリスト信仰は、分からないことをも、神にお任せする信仰です。だらだらと、愚にもつかず、疲労しか与えない楽山の独り芝居とは違うのです。
 
楽山は、まるで、聖書の話を、これをやったから神はおかしい、という、けなし方ですが、神を机上の対象にしている時点で、分からない楽山の不感と、それに見合わない高慢が明らかになるのです。神を仰ぐのではなく、神?を頭の中に概念として捏造して、幼稚な云々遊びをしているのが楽山です。
 
楽山が言ったことに、「うーん、確かにそうですね」と、楽山が答える。笑止のインチキ芝居の自己顕示であります。時と場合を弁えない楽山、"自分が何をしているか分からずにいるのです" という聖句を思い出します。
 
私は、楽山のボンヤリ言語で、楽山のようなボンヤリ人間が増えるのを、できる範囲で防ぎたいと、切に願っています。それこそ、悪魔のように、訂正不能に何度も屁理屈をこねてくる楽山に、決して、近づかないでください。
 
楽山は、人間らしい活性と生産性がないために、同じことを言ってくるのです。問答形式にしたところで無駄なのです。中身は、知らない世界まで知ったことにしないと気の済まない自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)という病的ナルシストの常習的な醜い生業です。
 
 
老人 「善悪の基準は、時代、地域などによって変化するものだ。だから古代人が善なる神をイメージしたとしても、それは現代人からみればとても善とは思えず、理解不能なものになることもありえる。今きみが精一杯に善なる神をイメージしたとしても、それは未来の人々と共有できる善なる神とは限らないし、どちらかといえば理解されない可能性の方が高いのではないだろうか」
若者 「そうかもしれません」
 
楽山の捏造神?概念は、世界中を網羅して、様々な神の像を空想で書いてきます。そのことが、既に、楽山には信じるに値する神がいない、そして、自らを、神と同等に書いてくる傲慢だということを表しているのです。
 
人は、精いっぱい善なる神をイメージして信じるのではありません。神の正しさは、不可知の神の、不可知の善として、人は、祈りにおいて、反省し、黙想し、正直に告白するのが信仰です。それ以上は、人には出来ません。それが絶対孤独から逃れる信仰の道なのです。
 
楽山の、信仰についての勘違いは、殆ど妄想化しているので、交流や議論は無意味であり、批判をせざるを得ないのです。この妄想的確信ゆえに、楽山は、人間らしい良心の感受と気づきをもって信仰を理解する、ということができないのです。
 
また、それゆえに、楽山は、自身が信仰を理解できないものだから、手段を選ばず自分を高めたくて、手段を選ばず敵意を表して、神も人も貶めてきます。対話形式だから、分かりやすくなるような要素は、楽山の主張にはありません。姑息な楽山の独り芝居です。
 
 
老人 「そうであれば、きみが神は善であると考え、イメージしたとしても、それはあくまで個人的なイメージにすぎず、それに賛同しない人が現れて、『この若者は、到底、善とは思えぬ邪悪な存在を神だとしている。これは神に対する冒涜だ!』と噛みついてくることもあるかもしれない」
若者 「世の中には、いろいろな人がいますからね。まさかとは思いますが、ひょっとすると、そんなことも起こり得るかもしれません。少なくとも絶対ないとは言い切れないですね」
老人 「人には、絶対なんてことは言えないからね」
 
楽山にも絶対はないのです。老人も若者も楽山です。ともに、邪悪な神を刷り込んでいます。楽山の語る神は、楽山の神であり、邪悪な存在であり、楽山自身なのです。
 
楽山は、結局、楽山の言うような、幼稚で、無反省で、無責任で、乱暴で、訂正不能の、反キリスト思想を、自己正当化し、自画自賛して、馬脚をあらわしているだけなのです。人間の原罪による不完全性も理解できず、赦されて救われることもなく、どこまでも自己満悦妄想を語っているだけです。
 
神の善は、地上では、人のものとはならないことを、人は判断しているに過ぎないことを弁えるべきことも、私は書いてきました。しかし、楽山の言は、おとしめるためだけに、キリスト教を信じるとこうなりますよ的なことを捏造しながら書いてくる裏の闇の印象操作です。
 
「絶対ないとは言い切れない」、これは、だから注意するべきだ、という意味ですが、楽山は、自身の文章と思想に溢れている偽りに、全く、意を注がず、こちらに向けてきます。そういう人が、言っている、ということを忘れないでください。
 
楽山は、キリスト信仰への、いちゃもんを否定されることを、迫害であるかのように言って、真実の殉教者であるかのような書き方をしています。安い詭弁です。むしろ、楽山は、生まれて今まで嘘吐きの悪魔性だと、絶対ないとは言い切れない、楽山に近づかないように・・ということになるでしょう。
 
 
*宗教批判について 
若者 「これまでお話をうかがって、前よりずっと、あなたの考えを理解できてきたように思います」
老人 「それはよかった」
若者 「でも、あの……」
老人 「どうしたんだい?」
若者 「すいません。また疑問がわいてきてしまったんです」
老人 「どんな疑問かな?」
若者 「ええっと、ですね…あなたの考え方は、神は不可知であって、人には分からないものだということでしたね」
老人 「そうだ」
若者 「だから、人には『神は~である』と断定的には言えないと」
老人 「そうだ」
若者 「神について語るときは、『神は××とすると、~であろう』と限定的に言うか、『私には神は~と感じられる』というように感想を言うくらいしかできないと」
老人 「そうだ」
若者 「神については確かなことは知り得ないのだから、他の人が語る神について、それがどういうものであっても、それについて正しいとも、間違っているとも断言できないとも」
老人 「そうだ」
 
楽山が、楽山に、良かった、良かった、と言う独り芝居です。人の言うことを無視するだけの楽山が、感想を言うくらいに重みがないなら、書かないことです。空しい惑わしであり、悪質な刷り込みであり、かつ、実際に、楽山は、発言の責任をいっさい負わない人です。
 
楽山の卑怯さが全開です。神について、楽山が好きなように言うのを、正しいとも間違っているとも言うな!・・と言いたいようです。ですから、言います。楽山は、邪悪で、間違っています。否定される宗教思想は、このまま、多くの人が信じたら、社会悪に結ぶ付くものです。
 
楽山の、自己中、無反省、無視、訂正不能、虚言、無理解、などの体質は、社会悪やサイコパスに、そのまま当てはまるでしょう。宗教を、自己愛や自己中で語れないことは明らかであり、反省しなければ、いつか、犯罪に結びつく恐れが大であるからです。野放しにして、宣伝させてはいけません。
 
楽山は、明らかに間違っているのです。しかも、故意なのです。ゆえに、反キリストなのです。違法行為がないと逮捕は出来ませんが、批判は、言論の自由だから、いつでも出来るのです。その批判に対して、見苦しい愚痴と嘘と詭弁と三文芝居を返してくるのが楽山なのです。
 
 
若者 「そこで一つ疑問があるのです。あなたの考え方からゆくと、間違った宗教を批判することはできなくなるのではありませんか。世界には、反社会的なカルト宗教というものがあります。神を自称する教祖もいます。人には神のことは分からなず、他の人が語る神について断固否定することはできないのだとすると、そのようなカルト宗教や教祖を批判することはできなくなってしまうのではありませんか。これはおかしいです」
 
楽山の宗教批判が、あまりに低劣な嫌がらせだから、批判しています。知識もなく、思考も詭弁だらけで、かつ、共感性が皆無の楽山は、正当な議論など出来ない人です。キリスト教とカルトをごっちゃにして、批判にもならない、いちゃもんだけの楽山です。芝居を書いても無駄なのです。
 
 
老人 「たしかに、きみの言う通りだ。でもそれは宗教的な見地からは有効な批判はできないというだけのことで、他の面からはいくらでも批判はできるんだよ」
若者 「はあ…、それはどういうことですか」
老人 「人には神について確かなことは分からないのだから、カルト教団が語る神について、それは正しいとも、間違っているとも断言できないし、その教祖が神であるかどうかも確実なことは言えないけれども、その教団および教祖が、違法行為や人権侵害行為をしているならばそれを指摘することは可能だ。教祖の言行不一致や奇行についても指摘できる。教義に論理的矛盾があればそれも指摘できる」
 
楽山は、カルトの定義を、違法行為の有無だと言いました。今も言っています。既に、私は、それに対して、カルトは、犯罪に及ぶ前日はカルトではないのか、と書きました。
 
上のことは、カルトの定義ではなく、逮捕できるかどうかの基準に過ぎません。特にネットの時代においては、カルトを早期に発見して、何よりも批判をすることが必要だとも書きました。
 
まさに、カルトに対しても、キリスト教に対しても、訂正不能と無反省と無視を貫いて自己中と不整な自説を広めようとしている楽山は、カルトと同質の批判対象なのです。矛盾がどうこう以前に、楽山の言は、何も整っていないのです。
 
しかも、結果としてではなく、故意なのです。都合の悪いことを総て無視して、同じことを、手を変え品を変えて、今回は、独り言で恐ろしく長い対話を捏造して、また、言ってくるのです。
 
 
若者 「つまり宗教的な見地からは確実なことは言えないとしても、人権、法律、道徳、倫理、論理などの見地からは意見が言えるということですか」
老人 「そうだ。しかしその宗教において、神は、人権、法律、道徳、倫理、論理などは超越し、何らの束縛もうけないとしており、信者たちがそれを信じているならば、それらに基づく批判はさほど有効なものではなくなるだろう」
若者 「うーん。そういう宗教や教祖が間違っていることを証明するのは無理なんでしょうか。それができないなんて納得できないし、すごく悔しいです」
老人 「それをするためには、神とは何かという問題を解決しなければならないし、それができない以上は、どうにも仕方ないことだね」
若者 「そうですか…」
 
神とは何かという問題を解決しなければと言っています。神とは何か、分かるなら、その神?は、人知を超えた神ではなく、信仰にもなりえないと思います。宗教の基本的な見方が、楽山には出来ていないようで、とても、幼稚です。
 
楽山の扱い方で、神とは何か、分かると言うなら、それは、楽山の、真っ赤な嘘です。いちばん信仰に大切なことが、自己愛・自己中ゆえに、楽山は分からないまま、いちゃもんだけを言っています。あたかも、議論しているかのような小細工を弄して。
 
独り芝居の楽山は、問うたつもりで、主張しており、不可知と言いながら、ならば、解決しなければと言い、かつ、「どうにも仕方ない」 と言う始末です。信頼度ゼロのペテン師です。
 
 
*到底、神とは思えない神
老人 「タイトルは失念したが、ずいぶん前に、酒場に入りびたる天使が出てくる小説を読んだことがあるよ」
若者 「天使が酒場に入りびたってるんですか?」
老人 「そうだよ。小説の主人公のところに、ある人物が訪ねてきて、自分は天使だというんだ。でもその人物は酒場に出入りしていて、とても天使には見えない。だから主人公は、『酒場に入りびたる天使なんかいるわけがない。あいつが天使であるはずがない。でももし本当に天使であったとしたら、それを信じなかった自分はいったいどうなるんだ? 不信仰の罪を犯すことになるのか?』と悩むんだ」
若者 「結末はどうなるんですか」
老人 「主人公は、信じることを選択するんだよ。そして実際、その者は本当に天使だったんだ」
若者 「酒場の天使ですか…どうにもイメージできません」
老人 「私もきみと同じだよ。でも神は全能であり、なんにでもなることができるとしたら、酒場で泥酔している姿で現れないとも限らないだろう。それだったら神が何らかの目的をもって、カルト教祖として現れないとも限らないだろう。場合によっては、空飛ぶスパゲッティモンスターとして現れることもあるかもしれない」
若者 「ははは。それは冗談でしょう。もし冗談でなければ、いくら何でも極論過ぎてついていけません(苦笑)」
老人 「まあ、なんにしろ、神とは何であるかは分からないのだから、神はこうである、こうであるはずだという風に、決めつけるのは止めた方がいいだろうね。せいぜい自分には神はこうであると思われるという程度にしておいた方がいい」
 
楽山の「神はこうであると思われる」は、暴言と言ってよいほどの悪性です。命題ではなく、印象操作だからです。邪悪で半端な知能犯は、このように、一見理屈であるなのような詭弁を弄してくるということです。語尾を曖昧にしても、悪意の決めつけは、その執拗さによって、表れてくるのです。
 
フィクションである小説に出てきた神?を、真顔で、神の前提として話を進めている楽山の詭弁に気づいてほしいと思います。「(苦笑)」は、その軽さを表しているのです。楽山は、卑怯で汚い男です。
 
酒場で泥酔、カルト教祖、空飛ぶスパゲッティモンスター、という神、・・これは、明らかに、楽山の悪意による侮辱です。酒びたりの天使の、宗教的発言・行為を書かず、酒びたりというイメージだけで、あざ笑いの対象としています。これも詭弁でしょう。
 
そして、「なんにしろ、神とは何であるかは分からないのだから、神はこうである、こうであるはずだという風に、決めつけるのは止めた方がいい」と言っています。印象操作や刷り込みは、婉曲の分、いっそう、悪質な決めつけです。議論のあり方を自己中で破壊する楽山に近づかないでください。
 
聖書に表された神は、全知全能・絶対完全・永遠不変という人間の手に負えない御方です。キリストは、人に共感する救い主です。ゆえに、キリスト・イエスを、神と人の間の仲保者という言い方もあります。楽山のような矮小な病質者に語れることは何もありません。
 
聖書についても信仰についても短絡した意見しか持ちえない楽山は、その一方的な思想から、神を、雲か霞のような、薄ぼんやりとした存在感のないものという印象を吹き込みたいようです。楽山は、固定観念で云々しますが、神とキリストは、人が固定できる存在ではないのです。
 
楽山にとって、神という存在は、ボンヤリした存在に過ぎないのでしょう。そこが、字面だけで考える楽山の宗教観の限界であり、即ち、神について語る心の資質を、楽山は持っていないということが、楽山によって、示されているのです。
 
にもかかわらず、神を、机上で決めつけて、神がいるならなぜ悪があるのか、などと、けなしてきたのは、楽山であります。つまり、楽山は、神を、楽山の字面だけの理屈の中で決めつけてきたのです。楽山のような偽善者がいるから、むしろ信仰は必要であり、批判しないと社会悪になるでしょう。
 
私は、何度も、神とその意志と行為を決めつけてはいけない、と書いてきました。決めつけないことが、私の信仰観の中心の一つだからです。決めつけてはいけないと言いながら悪い印象を吹き込んでゆくのが、楽山という狡猾な偽善者なのです。
 
こちらの言い分を、無視するのが、楽山という先入観の形骸のような人です。それは、読書にも表れてきました。学者や評論家と肩を並べるかのように、都合の良いところだけ引用して、自身の軽率で拙劣な理路の中に置いて利用し満悦するのが楽山です。
 
今回も、ふざけて、満悦し、神を、高みから見下ろして、神を冗談のネタにして笑う楽山です。まさに、楽山が、今、野放しになっていることが、神様どうしてですか、という祈りにつながると言えるでしょう。書くたびに、書いた文章に斬られてゆく楽山を、暴露してゆきます。
 
楽山の独り芝居の詭弁と悪意に対しては、私が書けるあいだ、改めて批判を書いて、何度でも投稿また再投稿してゆくしかありません。楽山は、反キリストの偽善者の典型です。
 
 
詭弁が招くのは末路

詭弁が招くのは末路
 
 
(2020年)(2021年)
(2022年06月26日、再録+加筆)
 
 
 
  今日の穴
 
今日の野原には
幾つもの穴が空いていて
何かのバイパスのようでもあるが
広くて滑りやすい入口からは
思いのほか真っ直ぐで
 
公園で砂を崩す子供が
 
ほつれを千切った縫い目の糸を追いかけて
青年の初めて着た背広姿が
 
いつも歩く散歩道の一歩一歩
死を弄(もてあそ)べる老人が
 
落ちたら戻れそうにないのに
なぜか幾度も幾度も滑り込んでゆく
 
さらに滑り込んだ先が
儀式の形骸であるのか
冒険であるのかさえ垣間見る前に
もう明日の人になってしまって
 
深遠に立つことも沈むことも出来ないまま
仕方なく虚無が生まれては打ち消される
 
 
  点滅信号
 
いつまで繰り返すのだろう
不在と存在の
今夜も独り芝居
丸く浮かんだ眼は
フロントガラスに一瞬
するりと映りはするのだが
目指す先はいつも違っていて
差し伸べる小さい光は
バックミラーからも逸れて
すでに次の光の道程へ
車の喘ぐような
吐息が遠ざかる
 
 
 
  徒
 
徒な出会いであったかもしれぬ
片隅に腰掛けて
俯(うつむ)いていた小さな影
あるいは老婆か
生きるための祈りであったか
死にゆくための祈りであったか
別のことであったかもしれぬ
 
ああ誠に徒なる
かの人が出会い
私が出会ったのは
 
私が無駄な時も位置も捨て去りたいとき
この世で最も無為な徒労へと引き戻す
墓穴が欲しければ
それを指で掘り
それを再び指で埋めよと
 
そして小さな影の
かの人を思い出す
大きな雲の
空を見上げるように
 
「徒」は、信徒の徒と、徒(いたずら)のつもりです。
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
楽山は、恐らく、小中学校の頃から自己中であったろうと思われます。自慢をするが、実体のない人なのでしょう。それで、受けのよい体裁だけを身につけてきたのだろうと思います。ふつう、足らざるを思えば努力するものですが、怠慢のため、嘘に走り、気取りだけを覚えたのだろうと思います。
 
そういう気取りで、その場を凌げることもあり、褒められることもあったのでしょう。大人になってからも、続けている人だと思います。しかし、その総決算は、気が付けばだれもいないという末路において顕著となるでしょう。まだ、ずっと、同じことを続けている楽山です。
 
 
 
私の「ウソの国ー詩と宗教」ブログ:
 
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