逆説2
 
 
ある事柄について神の御心を思います。
悪のほうに従ってはいけないと思えば
善のほうを選ぶはずです。
しかしそれは完璧でしょうか。
 
先ず、人に、善悪の判断が、
神と同様に正しく出来るでしょうか。
否であります。
 
既に完璧な正しさについては不可であると
何度も書いてきました。
 
人の語る正しくて人生肯定的なことが
神の御心とは限らないということです。
 
かといって否定したら正しい
というわけでもないのは明らかです。
 
では、少なくとも成長するために
どう学習すればよいでしょう。
 
世の中には逆説というものがあります。
多くの格言が
そして何より聖書の言葉が
逆説に溢れています。
 
否定には闇の部分が含まれ
闇の部分を知る者は
闇によって、
その逆である光を知るのでしょう。
 
さらに人の言葉は
飼いならされたかのように月並みになり
人を裏切ることがあります。
 
逆もまた真なりとも言いますが
人の言葉では
逆のほうが真と思えることもあるということです。
 
逆説は、必然の光なのです。
 
罪を犯さない人が救われるのではなく
罪人だからこそ救われるとは
 
罪を犯すから救われるということではなく
罪を犯す人間という自覚があるから救われる
という説明が可能な逆説なのです。
 
人はみな罪人であるのに
信仰によって罪はなくなると言う者は
信仰を理解してはいない。
 
詳しくは知らないが
仏教に似たような教えがあるのを
知っている人は少なくないでしょう。
 
善人なおもって往生を遂ぐ いわんや悪人をや
(歎異抄 by 親鸞)
 
他力を頼むことで往生を遂げる教えだと書いてありました。
https://1kara.tulip-k.jp/wakaru/2016111279.html
 
キリスト者において他力とは
神の赦しと導きと救い、すなわち、神の力に他なりません。
 
それほど、人の頼りなさを知っている人の言葉なのでしょう。
 
キリストも、また、いかに人が頼りないか、いかに罪深いか、
いかに闇が多くを支配しているか、ということを知っている御方であったと
聖書を読めば分かるはずです。
 
親鸞については
高校のとき通っていた教会の牧師さんが
親鸞の言うことはキリスト教に似ていると言いました。
不思議なことだと思って
大学の時に「歎異抄」(たんにしょう)の小さい文庫本を読みました。
問答の部分は、私の性分でしょうか、私には分かりにくいものでしたが
他力という言葉が心に残りました。
私自身が、自力について、絶望に近かったからです。
 
多くの私の記事にも表れている通り
キリストについて書くのと違って
私が自分発信で書く私個人のことは
失望、落胆、絶望、自虐に溢れているのです。
それは、今も、多くそのままであり、
それゆえに、赦しと癒しと救いを必要としています。
 
罪を犯したり災難に出会うのはつらいことですし、
加害であっても被害であっても、
信仰が育つから良いことだなどと言いたいわけではありません。
 
ただ、そういう機会には、誰もが出くわす可能性があり、
そういうときに、"過剰に" 被害的・他罰的にならないために、
また、そういう体験が尾を引いて後の人生を損なうことのないように、
信仰は、世の中や個人の思惑に左右されるよりも、
より大きな心によってコントロールされる生き方がある
という福音でもあるのでしょう。
 
嘘と詭弁で人を操ろうとするカルトの主張に惑わされることなく、リップサービスや、豪語や、飾り言葉や、電飾や、お祭り騒ぎに呑みこまれることなく、この地上の闇に目を向けることを忘れないことが、光を求めるために必要だと思っています。闇を知ることで、人は、光を知るからです。
 
 
私は、キリスト信仰のことを書いてきましたし、これからも、生きて書けるあいだ、キリスト信仰について書いてゆくつもりです。
 
キリスト教内外のカルトは、大きいこと、めでたいこと、救われること、恵まれること、ありがたいこと、安心することばかりを、これからも語って、人を惑わしてくるでしょう。
 
彼らは、戒める神と懲らしめる神を無視しています。にもかかわらず、恣意的に聖句を引用しては、大仰に、神を讃えます。讃美すれば熱心な信仰だと、高をくくる連中をキリスト者として認めないために、私は、ずっと批判を書いています。
 
彼らカルトは、罪を認めたくないがために、神を誉めておけばよいと思っているのです。それも、人を欺(あざむ)くためであり、本気で讃美する信仰など欠片(かけら)もないのです。そのような、讃美が偽りであり、罪を認めない者たちに、神が、信仰の義を与えることはなく、不法の者として処することは明らかであります。
 
 
  信じて信じて
 
一見あの世を信じ
この世を諦めているように見える信仰も
あの世の天国に望みを託しているのは
あの世の幸いのためだけではなく何よりも
今のこの世を生きるためにそう信じている
 
したがって
いかなる知恵と知識に満ちた信仰も
例えば
山上の垂訓から
神の前に
身の程が情ないものだと気づいて
死ねば天国へ行けると単純に信じて
信じて信じてそれだけを
望みとしている信仰に優るものではない
 
 
  神とキリスト
 
この世から見れば神の正しさは
分からないのが正常です
 
神様は不公平です
神様は不平等です
神様の計画は理解できません
神様は不平等に才能と運を与え
神様は不公平に貧富を作ります
神様の御心はわかりません
 
これらを感じないで
神を讃えるのは信仰ではありません
 
神は全能だから
人の正直な気持ちを既にご存知です
 
理解を超えた全知全能に
耐えられないから
全知全能の父なる神
お近づきに
なりたくありません
 
もし神様が来られたなら
恐れおののき
あわてふためき
逃げられないと知りながら
逃げ惑うでしょう
 
けれどキリストが来られたなら
列の一番後ろでもいい
岩陰からでも木の陰からでも
覗(のぞ)くだけでもいい
ついていきたいと思うのです
 
主イエス・キリストは言われました
「今悲しむ者は幸いである」
そして悲しい生と死を歩まれました
 
全知全能には耐えられないから
我が主はイエス・キリストです
神様への祈りも
神との和解も
神の愛も
キリストにおいてしかなく
だから人間としては
共感の救い主キリスト以外の
神を知らない
 
 
(ずっと昔+)
 
 
逆説

逆説
 
 
(2020年04月01日、同日一部修正)
(2021年04月07日、再録+)
 
 
 楽山に筆致が似ている人ですが
 
raku
@rakusyo34
·2時間
ひとの人生にどうのこうの言える資格はないと思った。
その人にはその人の景色しか見えないと思ったから。
木しか見えていない人に、森全体が見えている人が、あなたおかしいよと言っても伝わらないことと一緒。
午前0:57 · 2021年4月4日·Twitter for iPhone
 
楽山は、人の人生に大きな影響を与えることのある宗教について、特にキリスト教について、否定して、どうのこうの言ってきました。楽山には、楽山の欲望しか見えていないと思います。
 
我欲しか見えていない人に向かって、おかしいということは、誰も、おかしな人に、これ以上近づいてほしくないことを、できるだけ多くの一般の人々に伝えるためです。
 
森全体が見えている自覚で物を言っているのは、楽山ですが、それは妄想で、実際には、森全体が見えている人などいないと思います。
 
皆、限られた視野しか見えていないから、情報交換も、他者の見識も、必要になります。そこに、しゃしゃり出てきて、整わない余計なことを言って、疲れさせたり、混乱させたりしているのが楽山です。
 
楽山は、倒錯した邪悪な思惑によって、真実の追求のための言論や交流を邪魔して、幼稚に偏ったことばかり言い、真剣味もなく、「(笑)」や「ハハハ」などのように、勝ったつもりで、ほくそ笑みと、あざ笑いと、高笑いを向けてくるのです。いつ見ても、現実離れした言い分が、とても醜いです。
 
 
(2021年04月07日)
 
 
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