ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

タグ:神と人

 
  矛盾の信仰3
 
 
神は人知を超えた御方だから、神は人知を超えた奇跡を起こされるのだと、なぜか、神の奇跡とその意味を得々と語る人がいます。神は人知を超えているのに、なぜ神の奇跡を人知が説明できるというのでしょう。そのような説明は不可であり、それが確信ならば、その確信は信仰ではありません。
 
人は考える動物だから、人と、神という超常の主との違いも弁えているはずなのに、もし、人が、自らの確信を、超常からのお告げのように、信仰として神の御心として語るなら、神を恐れない身の程知らずであります。神の意志と行為を、希望することはあっても、決めつけてはいけません。
 
その最悪の例は、楽山のように自らの狭い概念の中に納まるような軽薄な神概念を真の神の共通概念と勘違いして、否定して、信仰を否定することです。分からない、知らない、ということを弁えることのない自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)の悍(おぞま)しい有り様なのです。
 
聖書は神の言葉でも、人の解釈を通さずに読まれることはなく、人は聖書の言葉を人の言葉として生かす思慮が必要なのに、しばしば聖書を解釈した自分の言葉を神の言葉として語ることで満足してしまうのは、明らかに、神に対する越権行為であり、背教であります。
 
一方、信仰者には、神を信じようとする確信の意気の強さだけで理想化された偶像として人に作られてゆく神概念ということが起こる危険があります。このように、自らの信仰は原初において自分の理想化という過ちによれば、既に矛盾しているのです。
 
その矛盾を省みず、神について聖書について、誤解や間違いや思い込みの可能性を考えず、確信として押し通せば、楽山と同様の救いがたい妄想となって、もはや信仰ではないのです。
 
そういう矛盾を超克する手段は、呆れるほどシンプルです。そのシンプルさゆえに、全ての人に信仰を語る伝道が成立しています。
 
それは、神に対しては、嘘を吐かず、飾ることなく、正直に祈ることです。
 
それだけが、人間が、神に対して出来る最大の真実だからです。
 
人間において、矛盾の原罪は避けることが出来ません。それが、思い描く神はどこにもいない、思い込むのは信仰ではない、また、聖書を人の言葉の能力で読んでいる、ということの理由であり、人の罪性に直接に執拗に関わってくるのです。ここに気づいている人は、驚くほど少ないでしょう。
 
矛盾は信ずるに値しないと思うのは誤っています。矛盾や疑問が何もないならば、信じる必要はないからです。その場合、完全に理解できないなら信仰は捨てたほうがよいのではなく、矛盾や疑問があっても、キリストに繋がってしまった者においては、祈るしかない、ということの理由となるのです。
 
動物よりもマシに生まれて、寸足らずの思慮を持って、矛盾があることを認めても、正直に祈ることをやめられないならば、それが理屈抜きの信仰であり、尾ひれの付かない信仰であり、原初からの信仰の流れが続いている信仰の経過であります。
 
神が人知を超えた御方というのは、人知を超えている神を確信することではなく、神を思えば思うほど、神について自分の確信をもって語ることは出来なくなるという、神への恐れ、敬虔なのです。
 
神の立場はもちろん人にはなく、人の立場においても、場合によっては、達し得たと思うとき既に足元は崩れつつあるという常態があります。ゆえに信仰の言動において、柔和でバランスの取れた口数の少ない「敬虔なクリスチャン」は社会通念のイメージに過ぎません。
 
神を "正しく" 信じるのが正当なら、救われるクリスチャンは、私を含めて一人もいません。自分が正しくないことを認めたところから信仰は始まって、その罪が信仰によって赦されることはあっても、信仰によって正しさが担保されることはないのです。
 
神を恐れる人は、矛盾の信仰に身を置いている自らを知る人であり、それでも離れられない信仰について謙虚でしかありえない人です。しかし、うわべだけ「神への畏れ」を語る者は多くても、本当に「神への恐れ」を知る人は極めて少ないでしょう。
 
神のみに希望を寄せる者は、この地上では、孤立しており、倒れており、這っており、狂っており、狂っていると見なされて、ときに悲鳴のように呼ばわるが、その声を聞く人が殆どいないという現実に返され、うちのめされているでしょう。
 
そういう状況でも、神の与える希望が絶えることはなく、キリストの目に見えない臨在も絶えることがなく、信仰者は、キリストの共感によって生きているのであります。信仰者は祈り、乏しい信仰の心のうちに讃美するでしょう。 ホサナ(救いたまえ) そして ハレルヤ
 
 人からの白目の視野に生きて雪
 
 
矛盾を超える絆(きずな)とは

矛盾を超える絆(きずな)とは
 
 
(2012年)(2020年)(2021年)
(2022年04月08日、再録+加筆)
 
 
 
  祈り(抜粋)
 
父なる神よ
私はここにいます
あなたに恥ずかしく
隠れようとして隠せず
あきらめようとしても未だ救いを求めているのです
 
一体どこで
いつ私は裁かれるでしょう
いつ私は召されるでしょう
恐れる心を隠せないのです
隠す知恵もなく
隠してもあなたは見通されるからです
 
父なる神よ
いつまで待てばいいのでしょうか
何か私にできることがあるのでしょうか
あなたがお望みなら
それが御心ならば
私のこの世の欲に構うことなく
私の苦しみに構うことなく
御心を成就させてください
 
私がどんなにあがいても抗っても
すべてが御心のままになることを知っています
すべてが御心のままになることを教えてください
 
いつ死んでもよく
いつ生きてもよいと
私が言えますように
そして行なえますように
私の恐れを取り去ってください
私という矛盾があなたの手の中にありますように
主の御名によって祈ります。アーメン。
 
 
(ただ私は、人の悪意から遠ざかれたとしても自らの悪意からは遠ざかれるものではなく、そのために罪に打ちひしがれ「私は打ちひしがれるために生まれたのですか」という裸の嘆きのあるがままの姿で、限りある命の終わりを迎える前に「自分で自由にやっていく」ことの不自由さを体験したのだから、それを福音として受けとめるほかはなく、永遠の同伴者・永遠の友・主イエスキリストによって表わされた父なる神の愛にこの魂を委ねるほかはないのである。)
 
私という矛盾があなたの手の中にありますように
私というウソがあなたの手の中にありますように
あなたの真実が私の中に与えられますように
私の病気があなたの手の中にありますように
私の健康があなたの手の中にありますように
私の命があなたの手の中にありますように
私の寿命があなたの手の中にありますように
私の生も死もあなたの手の中にありますように
私におとずれる幸いも災いもすべて
あなたから与えられますように
私の不幸と幸福があなたの手の中にありますように
私の喜びも悲しみもすべてあなたの手の中にありますように
あなたのお叱りと救いが私とともにありますように
私の信仰と希望と愛があなたによって導かれますように
私の受けるべき盃が
たとえ苦くても甘くても
あなたから与えられますように
いつの日かあなたの御手にいだかれて
眠ることができますように
わが魂を御手にゆだねます
主の御名によって、アーメン。
 
 
  マイナス
 
マイナスの贈り物が
喜ばれないことは知っている
受け取ってさえもらえないことも
 
それは後ろ向きの霧の眼差し
踏み付けた霜柱に眠る
後味の悪い生き物だから
 
しかめっ面の鼻先で飛ばされるか
このようにはなりたくない
とさえ言われるものだ
 
出口のない迷路から
屈折して飛び出した矛盾だ
でもその成行きに生まれ育って
生きている以上
いまさら
プラスのプラグを差し込んで
充電することなどできはしない
 
急に残された世界で神妙になったり
子供のように従順になって
笑って見せたりすることには
昔から失敗してきたから
 
美しいと呼ばれる朝と朝が来るときにも
沈んでいった夕暮れの足跡を
足音を求めるばかり
 
腹を空かした犬に
パンのかけらをくれてやっても
犬の暮らしを知ることはない
 
名残惜しい我が身の一日と一日
そうやって生死の悔いの狭間で
沈んだ日々が朝の中で
割られた薄氷のように
覚めてゆく
 
 
 
 楽山のツイッターです
 
心機一転★こも楽山
@komo266
優秀な人に対しては、たいていの人は「すごい」と称賛するか、「よし、自分も頑張ろう」と励みにするかであって、劣等感の虜になって自分を全否定したり、嫉妬の炎を燃やす人はそんなに多くないのではなかろうか?🤔
午後8:50 · 2021年3月31日·Twitter Web App
 
不遇の体験から、信仰に目覚めるのではなく、勘違いの逆恨みで、神は何もしてくれない!と、激しく憎み、それが、持続する怨念となって、神を否定し続けて、人を恨み、宗教について、人を騙すことだけに専念している者もいます。
 
神が、勝手に、自分の都合に合う存在でないと気が済まず、その、矛盾と思い込んだことを克服できず、単純に、怒り、憎しみ、恨み、その陰性の感情を隠して、丁寧語で、神不在を宣伝するものとなっています。
 
その報いであるかのように、単純で浅い思慮と鈍い感性によって、ますます、聖書や本のみならず、人の言葉すらも理解できなくなり、むごたらしい有り様となっています。自分信仰に走って、反省も後悔もしなくなったからです。
 
自分なりに頑張ろうとは思わず、それこそ、神に対しても、人に対しても、「劣等感の虜になって自分を全否定したり、嫉妬の炎を燃やす人」即ち、ルサンチマンの人になって、痛めつけることばかり考えているのです。近づくと危険な人になって黒い道をふらついています。
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
1のコメントが、楽山ブログを今まで見てきたかぎりでは、一番まともなコメントだと思います。楽山の書く文章は、いつも、自己中と、語尾の曖昧さと、評論家気取りが、臭くて臭くて、とても読めたものではないです。ゆえに、毎回、このコメント1と、楽山のふざけたレスを載せています。
 
 
 
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  人間に分かる宗教(キリスト教について)
 
 
「神の前に何を捧げられるというのか。」
「感謝と讃美を。それだけを。」
「いつから、神を褒めるような理解者となったというのか。」
「神の前に恥ずかしくない言葉を。」
「神の前に恥ずかしくないほど罪のない汝がどこにいるというのか。」
「では、どういう祈りが相応しいのでしょう。」
「ただただ、正直であろうと努めること。それ以外に何があるだろう。」
 
 
百人のキリスト者、クリスチャンがいれば百種類のキリスト教があるというのが、人の世なのでしょう。キリスト者とはキリストの教えを守る者ではありません。守ろうと努める人であり、守れないことを心の底から最もよく知る人のことだと思います。
 
そうでなければどうして罪を知りえましょう。どうして救いを知りえましょう。キリスト者はキリスト者たりえないことを知ることによって初めてキリスト者たりうるのだと思います。非力ゆえに不可能が身にしみて、ようやく、人は、神の存在に気づくのです。
 
イエスキリストは神であり神の子として信じています。そして神は聖書により、またその人個人の人生において人を癒し慰め励まし導かれます。そのことを否定しようとは思いません。個人的に否定できないからです。
 
ではいったい人は何者なのでしょう。感じることも考えることも人の自由です。しかし神の導きを知りうるものではありません。聖なるもの、例えば神の導き・聖霊・神のお告げ・預言などは、人があれはそうである、あるいはそうであったと決められるものではない。
 
喜怒哀楽・思想・行為がいかに信仰に始まるものであっても、それらはすべて不完全な人間としてのものであることを弁えるかぎりにおいて、人に許されている自由であります。そういう人生を過ごせるように、祈りの信仰があります。
 
いかなる修道も信仰生活も伝道も、人が聖なるものに近づくためにあるのではなく、また人が聖なるものとして高められるためにあるのでもなく、信仰は、ただ、人間が人間であり、人間として成長するためであります。
 
何よりも神の前に正直であることが必要です。疑いをもったならば、それを正直に告白し祈るべきです。背教の念をいだいたならば、それをいだいたと正直に告白するべきです。神などいないと言いたくなったら、そう言いたいわけを正直に告白するべきです。
 
キリスト者はそのために祈りという、温もりと潤いに満ちた時と所が、情緒的で人間的な手段が、与えられています。すべてを見抜かれる神の前に、人もまた何事も隠さず告白する権利を与えられており、またその義務を知るべきである。
 
嘘のない、飾らない祈りを、好み、人にそれだけを求め、待っておられ、聞いておられるのは神であります。隠す必要がなく、正直に、伝え、祈り願う同伴を得ること、それが信仰であります。
 
真実を祈り求めることと、奇跡を探して見つけようとすることとは違います。後者はすでに神のわざが人間の目の届くところに人間の手の届くところに人間の知恵の及ぶところにあるという思い上がりです。
 
さらにそれを見たあるいは得たと思い込むことは、かえって目に見えない奇跡をそこなうことになるでしょう。そしてそのようなところに悪魔は好んで隠れ住もうとするのです。
 
魔術を捨てるべきです。悪魔に住みかを与えてはなりません。神秘の思い込みから離れるべきです。日常を疎かにして聖なる答えを探してはいけません。聖なる答えを口に出来ると思ってはいけません。聖なるものを自らに擬するのをやめるべきです。それらは神の持ち物です。
 
人間は生きている限りどこまで行っても、どれだけ修道しても、人間であり、それ以上でもそれ以下でもない。それが人間の誇り、キリスト者の誇りであり、救われる民である証しなのです。
 
 
御前(みまえ)に

御前(みまえ)に
 
 
(2021年10月30日、再録+)
 
 
 
  欠落の矛盾
 
茶色に変色し
いびつに変形して
またひとつ
脳細胞が死ぬ準備を始めている
脳が最も豊かな
神経細胞を有していた間に
それらすべてを使ったことがあったのだろうか
脳細胞の死によって
精神機能に欠落があっても
気づかずに過ごしている
脳の欠落が
欠落した脳に分かるだろうか
残された神経のネットワークが
補ってくれるのだけが頼りだと
探し始めている
細胞はともかく
どこか欠けたところ
こころこころと
堂々めぐりしている
 
 
  無意味の意味
 
すべての人はそれぞれに
生まれてきた意味がある
使命さえある
私はそれに気づいていない
気づいていない以上
それは神様だけが知っている
ということだから今
私は考える動物として
生きる意味など持とうとせず
生きることは死なずにいること
くらいの無意味で充分だ
守らねばならぬ節というものがある
それがどんなに空しく
負の人生であろうとも
私はその虚無を愛さねばならない
 
 
 
 
楽山日記のコメント再録です。誰のコメントかは不明です。
コメント欄から抜粋引用しておきます。
 
「 
 
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら 誤ったら 素直に詫びて
 自分 正さなくちゃいけない」
「それが出来て 初めて人間だと
 それ出来ないなら 人ではないと」
「嘘ばかり 重ねる君よ
 保身だけの 卑怯者の君よ
 そんな君は 魅力の欠片もないのに」
「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は
 最大限の償いと 最大限の反省と共に
 開いた出店を 畳むしかないんだよ」
「人間で在り続けるのなら
 人で在り続けるのなら」
 
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、
これを実践するのは難しいんだよなあ。
恥ずかしながら、自分もそんな風です。
これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 」
 
2019年だから、それほど古いコメントではありません。
 
楽山は、自分ではなく「人間の性」のせいにしています。誰でもあることみたいに、一般化されては、たまりません。
 
楽山は、人間であり続けることを、拒み続けています。
 
また、軽口の出まかせを書いてくるかもしれません。自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)は、治癒するということはなく、効く薬もなく、言動と生活の範囲を限定して存(ながら)えるしかないのです。
 
 
 
 
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  超常の神、日常の人 2
 
 
人には手に負えないところの
全知全能・絶対完全・永遠不変
という神の性質は
人が神を恐れるためにあります。
 
人がそれらを身につけるためでもないし
理解するためでもありません。
 
人は、神の性質・意志・行為を
推測したり想像したり
行動するために判断したりすることはありますが
それは経過と結果を神の前に祈りとして捧げて
人が人として反省し成長するためであります。
 
全知全能ではない人は
限られたこの地上で
人に限られた能力しか持たないのだから
全知全能の神を理解することはないのです。
 
神は、こんなだ、すごいだろ
と言うのが伝道ではありません。
神のすごさを理解できる人はいないのです。
 
また
神のすごさを信じ込んで
人は何を受け取るのでしょう。
 
すごい神が味方だとでも思って
強くなりたいのでしょうか。
これは
強い自分を誇ることであって
神を恐れる態度ではありません。
 
愛と寛容の神は
妬む神でもあります。
金の偶像を否定するだけではありません。
神を思い込む心の偶像をも妬まれるでしょう。
 
神を恐れる態度は
愛と寛容の神だけを信じることだけではなく
戒める神と懲らしめる神を恐れる態度です。
神の妬みを買わないように生きるのが信仰の道です。
 
戒める神と懲らしめる神の妬みを恐れることは
神のごとく完全になる欲望ではなく
神のごとく完全になれないことを弁えるためなのです。
 
道徳を守ったからと
施しをしたからと
誰かを助けたからと
罪深い自分を忘れるくらいなら
 
道徳を守れない意志の弱さを
施しのできない貧しさを
誰も助けることのできない臆病を
そのまま祈り、神に捧げるほうが
まだマシな信仰なのです。
 
 (マタイによる福音書、口語訳)18:9
もしあなたの片目が罪を犯させるなら、それを抜き出して捨てなさい。両眼がそろったままで地獄の火に投げ入れられるよりは、片目になって命に入る方がよい。
 (マタイ18:9、新約聖書)
 
 (ヨハネによる福音書、口語訳)9:41
イエスは彼らに言われた、「もしあなたがたが盲人であったなら、罪はなかったであろう。しかし、今あなたがたが『見える』と言い張るところに、あなたがたの罪がある。
 (ヨハネ書9:41、新約聖書)
 
神について、信仰について、
見える、知っている、分かっている、と思い上がることは、
罪であり、傲慢であり、信仰に反します。
 
揺るがない信仰、そして、
固く信じる、ということは
信仰の忍耐強さを表しています。
思い込みを固くすることではありません。
 
信仰の忍耐強さを支えるのは
キリストの同伴という共感であり、
キリストの愛であり、キリストへの愛に他なりません。
 
 
       きずな・共感

               絆(きずな)は共感
 
 
(2020年05月10日)
(2021年05月12日、再録+)
 
 
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  私の青春は
 
かみ合わなかった歯車
 
倒れるときの独楽(こま)
 
誰もいない部屋で
まわり続けたレコード
 
最後までからみもせず
ほどけもしなかった
君と 僕の いと
 
気の抜けた苦ビール
 
ふためと見られぬ顔をしていた
酔いつぶれた翌朝の
鏡の中の気分のように
 
電線にかかった凧(たこ)の糸
ちぎれて 汚れて
それと気づかれることもなく
今は春風に揺れている
 
 
  きぼう
 
 
そらを みれば
 
そらに すわれ
 
こなごなに なって
 
きえて しまいそうで
 
 
ひとを みれば
 
ひとみの おくに すわれ
 
すきとおる こどくの なかで
 
いきが たえて しまいそうで
 
 
いつのまにか
 
うすい いのちに さく
 
はなの あいだに
 
ただよう かおり まつみの
 
ほのかな
 
ぬくもりのかげに にている
 
 
(90年代か)
 
 
※ いい気持で結びたかったのに、性懲りのない楽山のツイッターで、また、汚れてしまいますが、
 
心機一転★こも楽山
@komo266
·1時間
もう一つ、付け足してはどうだろう。
④ ①②③を理解しない相手には近づかない事
引用ツイート
Testosterone
@badassceo
 · 3時間
①自分が間違ってるかもしれないと常に自分を疑う事
②世の中には絶対的に正しい意見なんてないと認識する事 
③立場が変われば正義も正解も変わると意識しておく事
視野が狭い人、偏見や思い込みが激しい人、他人とよくモメてしまう人はこの3点を覚えておくだけでだいぶ改善するのではないでしょうか
 」
午後9:29 · 2021年5月11日·Twitter Web App
 
⑤ 視野が広く偏見も思い込みもなく他人とうまくやってるつもりだけの楽山には、近づかない事。
 
楽山は、訂正不能の自己愛のために、自分の間違いに気づかず、視野狭小にて理解力がなく、正義も正解も固着した偏見のままで、深く考えることができず、どこまでも、笑いながら、人を不快にしてしまうのです。まるで自覚と自省がないのです。舞い上がり方が、とても陰険です。
 
楽山は、人間の心と理路が育っていない自己愛性人格障害なので、どこまでも、人のせいにして、気づかない人です。因業とでもいうか、芝居をするしかない変質者で、反省せず、どんなに恥ずかしいことになっても、書くことをやめないのです。舞い上がり方が、とても陰険です。
 
楽山が、他者を悪く言うとき、その悪口は、ことごとく、楽山に当てはまります。それでも、楽山は、書かずにはおれないのです。わざわざ、自身の醜さを、自分で、あらわにしてゆく、という、恐らく不治の、体質的な病です。のぼせ方が、さらに、舞い上がり方が、とても陰険です。
 
本性がバレてしまって、それでも、書いて、楽しいのでしょうか、楽山の保身と他罰のリピートについては、理解不能です。未熟と不足と欠損のまま、修正不能だから、人間としての、どん底の評価が変わることもなかったし、今後も続くのですが、舞い上がり方が、とても陰険です。
 
 
(2021年05月12日)
 
 
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  当てにならない2
 
 
私たちは
実に当てにならない世界に住んでいる。
実際は
当てにならないのは私たち人間の心であり内部である。
 
入力は総て感覚器を通している。
内部処理は総て脳が行っている。
いずれも寿命が尽きればなくなるものであり
これらは
寿命がある間は維持されるけれど
本当に変わらないで維持されているかどうか
厳密な検証は不可能である。
 
当てにならない世界を
当てにならない知情意をもって
断定できる何があろうか。
 
しかしながら私たちは
当てにならない世界において
当てにならない知情意をもって
判断し実行するしかないのである。
 
それが人間の不完全性そして相対性である。
 
神が絶対でも
あるいは
たとえ絶対がどこかにあっても
私たちには絶対はない。
それを知ることが信仰の始めである。
 
絶対とは不変に正しいこと。
非絶対即ち相対とは可変で
ときに当てにならないこと
そして変わりうること。
 
当てにならない知情意をもって
絶対を目指したり思い込んだりすることは
当てにならない感覚・知性・感性をもって生きてゆくのに
全く向いていない。
 
神の属性である不変は
変わることなく成り立つということであり
神義すなわち神の正しさとして真理の働きを持つ。
 
しかし
人間の正しさは不変ではなく
より正しいことによって
また状況によって
否定されないとは限らないことである。
 
これを人間の相対性と呼ぶ。
信仰をもっても
この相対性は変わらない。
 
むしろ人間の
相対性・非絶対性・不完全性を自覚することが信仰である。
 
人間に成り立つ絶対性は
絶対は絶対にないという循環論法にしかならない。
 
人の絶対は慢心し訂正不能を好むが
人の相対は努力して成長することを求めるだろう。
 
 
しかし
人は絶対を求めやすい。
絶対を盾にして強くなったつもりになりやすい。
 
だから絶対の存在を確定しようとするか
あるいは確定したつもりの言動を
神の御心だと言って神聖化しやすい。
 
それを信仰と呼び使命と呼び確定して
感じることと考えることを疑いだと
退けてしまいやすい。
 
絶対は神のもので
人は決して絶対を確定できないのに。
気安く正邪を神の立場で決めつけやすい。
 
神とは違う人としての身の程を弁えることが
信仰の始めであるのに
味方としてだけ顕れる神しか欲しがらない信仰は
戒める神と懲らしめる神を
そっくり除外して揺るがない信仰だと思いやすい。
 
これらもまた相対的で不完全な人間の罪性である。
 
 
この人の罪性ゆえ
キリストは十字架の道を歩まれる。
今も、これからも・・である。
 
 
あらゆる悲劇は信仰者にも起こりうる。
その理由は神の秘密ということがある。
神は、いつも分かりやすく恵むわけではない。
神の考えることを人がいつも理解できるわけではない。
 
なぜ、こんな悲劇が・・?、と思う人は、
私たちの狭い見識と視野と能力では
神の無限をつかむほどの広い見識と視野と能力
すなわち全能を理解できないことを考えるべきである。
ゆえに、信仰は、この地上では忍耐を必要とする。
 
私たちは、この地上での短い人生の幸福を願っている。
神は、総ての世界を導いておられ、私たち人間についても、
地上のみならず、総ての世界での幸福を計画しておられる。
 
人が、神を総て理解してから信じようというのは信仰ではない。
理解できたら、信じる必要はないからだ。
 
 
人は絶対は慢心し訂正不能を好み
人の相対は努力して成長することを求める。
 
人の相対の信仰に敵対するのは
いつも
人の絶対を確信し保証するカルトである。
 
人の相対性は
信仰とカルトを見分ける決め手ともなるだろう。
 
 
Q&Aを試みてみる。
 
Q1:
相対、相対、と言うが、では、
1+1=2 という等式は絶対に正しい、ではないのか。
A:
1+1=2 という数と記号の概念を共有するところで成り立つ。
 
Q2:
悪は正しくない、善は正しい、はどうなのか。
A:
ほとんど定義を語っているだけ。また、偽善と偽悪の問題もあります。
 
Q3:
イエス・キリストは正しい、はどうなのか。
A:
イエス・キリストは、人の罪深さ=不完全=相対性では語れないところの、優れた洞察と共感を誰にでも示しておられる、というだけで、神聖と信じています。
奇跡等の超常については、神のわざとして、人が関知するところではなく、つまり、分からない、というのが、人にとっての真実だと思います。
 
ゆえに、地上の現世において、いつも奇跡で守られていると言える信仰は、人が語れる信仰の言葉としては、大いに誤解を招く言葉です。神の救いは、神の意志と計画に沿うのであって、人の思惑に沿うとは限らない。
むしろ「イエス・キリストは正しい」という言葉で人が表すことが、怪しくなる可能性を考えるべできであり、それは、まさに、カルトにおいて著しいのである。
 
だから軽々に「イエス・キリストは正しい」と言うのは、しかも、それを己の意見の根拠とすることは、むしろ、信仰からは、離れる方向だと思っておいたほうがよい。
 
このQ3のような、神の義に関することは、キリストを利用するカルトが人をだますのに使われやすく、また、反キリストが、神がいるなら何ゆえ悪があるのか・・などと、いちゃもんによって神を否定するのに使われやすい。神の義は、神のものであり、神秘であり、人に分かるわけはないのである。
 
私たち信仰者は、神が正しいと分かったから信じるのではなく、主によって愛され救われた者として、主を忘れられないゆえに信じている。
 
Q4:
信仰は正しい、ではないのか。
A:
真の信仰であれば正しいはずですが絶対の正しさではありません。また、実際には、口で信仰といっているだけの偽善者もいます。聖書のパリサイ人がそうでしょう。
 
Q:
相対、相対、絶対ではない、不完全、などと言っていたら、決心が鈍るではないか。
A:
それは間違っています。絶対ではないゆえに、限られた時間で、できるだけのことを考えて判断し、勇気をもって実行して、反省して、神に祈るのです。相対で不完全な人間は、信仰によって、神に正直に告白して赦しを求める祈りという機会が、いつも与えられています。
 
Q:
では、キリスト者だけが赦されるというのか。
A:
ここは議論のあるところかもしれませんが、私は、特に教会の利益を代表する必要はないので、申し上げると、教会での洗礼に信仰の有無やキリスト者であることの証明という神秘的な意義を求めるには、キリスト教の歴史は、人によって汚され過ぎています。
 
もはや、信仰は、信じる者が祈って告白するならば、洗礼の有無には、こだわる必要はないのかもしれません。神が、偽善者でも芝居できるような儀式の有無によって、救いについて差別するとは、考えにくいです。
 
信仰者でも、求道者でも、異教徒でも、無宗教でも、真面目に生きている人を、神は差別するでしょうか、そうは思えません。神は、総てを見ておられ知っておられるのですから、人の言動の実を見抜いたうえで、良心の発露を決して軽しめられることはなく、心に留めて、顧(かえり)みられるだろうと思います。
 
さらに、神が、宗教や信仰を通さずに、人を選んで何からの使命や役割を与える可能性は否定できません。また、そのことを、いちいち、人に説明することは、為さらないでしょう。
 
 
つまり
私たちは基本的に
神に対しては
教理よりも讃美よりも
正直のみを用意するべきであり
人に対しては
その"神の前の正直のみをもって備える"ことが大切なのです。
 
 
人の相対性

人の相対性
 
 
 楽山のリツイートですが
 
楽山の経歴も怪しいと思います。楽山は自己中促進のアドラー心理学の宣伝をしていました。また、ネトウヨだと思われますし、右翼のA級戦犯を褒めていました。読書は、都合のよい文言だけを漁って、箔をつけるために引用するだけで、勘違いや嘘が多いです。有名人や学者の名前に惑わされないでください。
 
心機一転★こも楽山さんがリツイート
ろば
@robamimi0314
#幸福の科学
根拠も証拠もなく、他人を
誹謗中傷、侮辱、罵倒、脅迫する言動が多い。それを「教え」としている。
〈例〉
・自殺は罪、永遠に苦しむ。
・ガンになるのは感謝が足りないから
・鬱になる人は周りへの感謝が足りない
・教祖を神と崇めないと地獄に落ちる
午前9:36 · 2021年4月29日·Twitter for Android
 
楽山は、根拠も証拠もなく、他人を誹謗中傷、侮辱、罵倒、強迫する言動が多いです。それを、一人前の "批評家気取り" で書いてきます。最悪なのは、まともに見せかけるために、丁寧語で、婉曲的に書くことです。また、わざとらしい芝居によって、反省、卑下、などを書いてきます。楽山は、よく読まないと楽山の悪意に気づかないような書き方をするペテン師です。
 
楽山を、批判の仲間だと思っていたら、とんでもない間違いであり、徒労と疲労と人間不信をもたらされるでしょう。楽山との交流を継続すると、楽山の体質であるところの、自己中、無反省、無視、無責任に染まって、楽山と似たような攻撃性だけの鈍い人格になる危険があります。
 
楽山は、リツイートや、ブログ記事によって、やさしそうに、一人前気取りで、誘ってきますが、決して相手にしないでください。楽山は、いかなる人の味方にもなれない自己愛性人格障害です。決して、頼りにしてはいけない人で、誰の仲間にもなれない人です。
 
楽山には、執念深い恨みの感情と、小学校レベルの理屈はあっても、悔いる、悲しむ、反省する、自分の欠点を自覚する、訂正して学習する、人の意見を受け取って考えるなど、深くて高等な思慮と感受性が欠けているのです。
 
 
(2020年04月02日)
(2021年05月01日、再録+)
 
 
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  守る教えではない
 
 
先ず、何度も書いてきた情欲の聖句ですが、
 
 (マタイによる福音書、口語訳)
5:27
『姦淫するな』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。 
5:28
しかし、わたしはあなたがたに言う。だれでも、情欲をいだいて女を見る者は、心の中ですでに姦淫をしたのである。
 (マタイ5:27、新約聖書)
 
情欲の聖句については、今までも書いてきましたが、情欲をいだいて女を見たら姦淫だということを、どう受け取るかというのは、罪というものの全体に及ぶほどの、大きな問題です。
 
守れるかと言えば、守れはしません。情欲は湧いてくるのですから。「女」を「人の妻」と言い換えて、これなら守れるでしょうと言われても、湧いてくるものは湧いてくるでしょう。その時点で罪なのです。それに、信仰は、救いであって、道徳ではありません。
 
守れという教えではない、守れないことを承知の上で、キリストは言っていると受け取るべきであります。守ろうとすれば、守れない、ならば、祈って赦しを乞うしかない、という意味だと思います。
 
 (マタイによる福音書、口語訳)
5:29
もしあなたの右の目が罪を犯させるなら、それを抜き出して捨てなさい。五体の一部を失っても、全身が地獄に投げ入れられない方が、あなたにとって益である。 
5:30
もしあなたの右の手が罪を犯させるなら、それを切って捨てなさい。五体の一部を失っても、全身が地獄に落ち込まない方が、あなたにとって益である。 
5:31
また『妻を出す者は離縁状を渡せ』と言われている。 
5:32
しかし、わたしはあなたがたに言う。だれでも、不品行以外の理由で自分の妻を出す者は、姦淫を行わせるのである。また出された女をめとる者も、姦淫を行うのである。
 (マタイ5:29-32、新約聖書)
 
引き続くこの聖句も、守れない教えであります。ゆるい道徳にして守ったと思ってしまうと、ゆゆしき罪そして偽善になるでしょう。
 
罪の性質を避けられない人間の不完全さと、人間の罪の深さを伝えることによって、神の赦しと救いの偉大さを説いていると思います。守れ、ではなく、守れないことが重要な聖句であります。
 
キリストは、いつも、神と人の関係を説いてきました。
 
聖書は、教えのマニュアルではない。守れないなら、できるだけ・・せめて不倫はしないように・・みたいな、ゆるい道徳を説くために、キリストは来られたのではないと思います。
 
神は赦し救う御方、徹底して、人は赦され救われる立場、これは、ゆるぎないキリストの教えの一貫したところであります。それらに、いちばん背いていたのが、パリサイ人たちでした。
 
前にも書きましたが、罪なき者はいない、ゆえに、総ての人は、赦しを乞うことが必要という教えだと思います。赦されるための道を、キリストは、一貫して、説いているのです。
 
神が赦すことを伝えている聖句を、いい加減に守ったことにして正しくありましょう、という、キリストの教えを腐らせる教えで満足するような勘違いだけはしないようにしてください。
 
信仰の心があるなら、心は教条を超えるはずです。洞察も直観もないような退屈な宗教なら、誰も信じないばかりか、バカにされるだけで終わってしまいます。無理を、ゆるい解釈で筋が通ったつもりで、言葉で整合性を図っているだけの解釈には、何の魅力もありません。
 
道徳話に堕ちるのは、堕ちた人間のすることです。直観がないなら、解釈せず、古い意味の解釈か疑問のままにして、直観の道を妨げないために、保留する姿勢が大事です。
 
 
※ 
 
さらに、「かみをおそれる」を、「神を恐れる」から「神を畏れる」にしてしまうのは、神についての知識に慢心している証拠です。聖書によれば、神は、嵐と雷とともに顕れる恐るべき御方です。
 
やさしい神様だから、恐(こわ)がらずに、畏(かしこ)まって、祈りましょう、・・ではないのです。仮に面と向かえばふるえるほどに、恐れるべき御方であります。人間が、やさしいなどと決めていい存在ではない、親しめる相手ではないのです。
 
神は、人間の、いかなる思い込みも通用しないほど、理解を超えていることを弁えるべきです。恐怖するべき神を、人が、畏敬という言葉に代えても、恐れを取り除くことは決して出来ませんし、してはいけないことです。親しむ相手ではないのです。
 
 
だらく

だらく
 
 
※ 
 
新型コロナに罹ったら、状況と距離によって、人に伝染してしまう。ゾンビ映画みたいになりませんように。感情的に差別する人や、腹いせで、うつす人がいませんように。
 
新型コロナは、罹って死なない可能性も高いのだが、私のような持病持ちの年寄りは、生存は難しいようだ。そろそろ、さよならムードか。老健施設にいる97歳の母も、百歳の大台は無理か。
 
経済重視のアメリカでは感染者数2000万を超え、死亡者数36万人になっている。大雑把な人口比から、3で割っても、感染者数660万、死亡者数12万。日本の、実際の感染者数26万人、死亡者数3600人とは、大きな開きがある。破綻しつつある医療のおかげか。まさか、隠してないだろうな・・。
 
 
(2021年01月09日)
 
 
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