理解すること3
 
 
神は全能。人間は不完全。
ここから信仰を考える必要があります。
 
聖書は神の言葉であるが
私たちは人の言葉しか持っていない。
さらに
神の言葉だからと聖書を持ち出すとき
その解釈に人の言葉を使っている。
 
理解を目指す心の作業において
心が連動しているかどうかが重要である。
 
理解することは辻褄を合わせることではない。
辻褄合わせは多く自分に納得を強いて
分かったという思い込みに至っている。
恐ろしいことに、それを自慢することさえある。
 
理解は辻褄を超えたところにあり
共感という情緒的解放感を伴うゆえに
そこから活力と説得力が生まれる。
 
同じ言葉を言っても聞いても
心にあるものも受け取るものも
人と時と状況によって
特に学習と経験によって違ってくる。
 
ゆえに
理解するために説明するために
同じ言葉を繰り返せばいい
ということはあり得ない。
 
あるとき感動しても
次に同じものを受けたときは
感動したという記憶の知識になっていることが多い。
 
理解は心を揺さぶられる
という情緒的反応を伴う。
当たり前ではなく
気安く再現できることでもなく
辻褄合わせでもない。
 
知情意は分けられない。
分からない複雑な心を
便宜上、言葉で分けているだけだ。
 
多くの場合
辻褄が合うと分かったという。
数学ならそれでもいいように思われるが
初歩的な数学でも
整合性が分かっただけで嬉しいことがあるのは
そこから広がる世界があるからだ。
つまり数学においても
解放されて世界が広がることを理解と言う。
 
理解しなければ問題と答えを覚えるだけになる。
最悪なのはそれで理解を装うことである。
 
数学でなくても
理解は解放感という情緒的反応を伴う。
 
 
無自覚の無理解は辻褄だけにこだわり
同じ言葉を繰り返し
感動、理解、驚き、分かった、よかった
などと言うだけで
反省、トホホ、などと卑下して見せることもあるが
文脈の中の言葉の無味乾燥に気づかないで
殆ど呪文を自慢している。
そして負けないために
だます手口だけを覚えてゆく。
 
 
私の場合
数学は3次元以上が無理で学者になれず
国語は読書障害の傾向があって読書家になれず
絵画は遠近感覚が乏しく
音楽は楽譜の読み書きが全く出来ず
さらに寄る年波で健忘が激しくなり
対人関係が苦手で鬱も統合失調も怖くて
狭い部屋の中で独り言の多い私はどうしたらいいのか。
 
無理解を自覚するしかない。
出来ないことは出来ない。
知らないことは知らない。
分からないことは分からない。
 
死ぬまでは生きているのだから
理解しているつもりの
理解していなければならないはずの
ただ一つのことを求めて
細く細く感じて
狭く狭く考えている
という不完全の自覚のうちに生きる。
 
これも一つのワールドで
病と傷と欠点の多い心で出来ることをしている。
 
 
 (ルカによる福音書、口語訳)10:38-42
一同が旅を続けているうちに、イエスがある村へはいられた。するとマルタという名の女がイエスを家に迎え入れた。 
この女にマリヤという妹がいたが、主の足もとにすわって、御言に聞き入っていた。 
ところが、マルタは接待のことで忙がしくて心をとりみだし、イエスのところにきて言った、「主よ、妹がわたしだけに接待をさせているのを、なんともお思いになりませんか。わたしの手伝いをするように妹におっしゃってください」。
主は答えて言われた、「マルタよ、マルタよ、あなたは多くのことに心を配って思いわずらっている。
しかし、無くてならぬものは多くはない。いや、一つだけである。マリヤはその良い方を選んだのだ。そしてそれは、彼女から取り去ってはならないものである」。
 (ルカ10:38-42、新約聖書)
 
妹のマリヤはキリストにベッタリで、キリストをもてなす家事を手伝わないものだから、姉のマルタは、何とかしてくださいみたいに、キリストに言います。その時の言葉ですが、マリヤを褒めるためではなく、マルタのために言っているのです。
 
キリストが来ているのだから、マリヤのようにキリストにベッタリくっついていることが信仰だ、と言っているわけではありません。それぞれに、性格の違いがあり、求めるものの違いもあり、人によって違うところを、キリストは見抜いて認めているのです。
 
マリヤは一途にキリストのそばにいる、それでいい、マルタはキリストを持て成そうと努めている。キリストは、それを承知の上で、それでいいけど、ご自身のもてなしのために、そんなに思い煩わなくていいと言っているのでしょう。
 
家事を手伝わず、キリストのそばにくっついていることが、信仰に反するなら、キリストご自身が、マリヤに注意するはずです。マルタは、思いわずらい、心をいためているので、そこに気づかないでいるから、責めたのではなく、キリストは、諭したのです。
 
思いわずらうことなく、できることをするのが、信仰だと思います。私にとっては、できることの範囲が、とても狭くなっています。
 
 
聖書をを理解するということは、人の言うことを信じ込むことではなく、単なる意味でもなく、自分の人生に解放感と活性を与えてくれる言葉の "心" に出会うことです。
 
御心を成就するのが信仰ではありません。
御心に叶うかどうを、不完全な人は、完全には判断できません。
不完全な自分の言動に、完全なる神の御心を当てはめてはいけません。
 
できる限りの言動に努め、神に、正直に告白し祈る自覚こそが信仰です。
完全ではない人が、寛容なる神の赦しを得て暮らす日々が、信仰生活です。
 
 
 
神の全知全能は、人が全知でも全能でもない不完全な存在であることを知るための、節操の理路となり、心の弁えとなるでしょう。人は、神の全知全能の詳細など分かってはいません。しかし、聖書を通じて、個々の場合において、神聖を想うことは出来るでしょう。
 
神は全知全能だから、既に、一人一人が、何を思い、何を悩み、どういう罪を犯したか、既に、ご存知のはずです。罪を犯さないように守ってくださるという信条は、人の心情であって、現実によって肯定されるばかりではないことを知るでしょう。信仰を得ても、私たちは、皆、罪人であります。
 
誰もが、失敗し、うなだれ、罪を抱えてしまうのです。そこに信仰の恵みとして、祈る機会として、救いがあると思います。ゆえに、全知全能の神は、人が、正直に祈ることのみを待っておられると思います。神を裏切らないということは、罪を犯さないことではなく、正直な祈りを捧げることです。
 
 
理解と解放

理解と解放
 
 
(2020年)(2021年)
(2022年10月12日、再録+加筆)
 
 
 
  求めよ
 
求めよ、さらば与えられん
・・・・・
あまりにも有名な聖書の言葉
しかしいったい何が与えられるのでしょうか。
 
言うまでもないことだが、求めればいつでも
欲しいものが与えられることではないわけで
むしろ苦難の時の霊的な賜物というべきか
勇気や安らぎに似たものか
こころゆくまで苦悩を表現したときに感じる
昇華作用のようなものがあるかもしれません。
 
精神的効用と言ってしまえばそれまでだし
表現する相手によっては損をしたような気色にもなります。
 
しかし相手が神様となると事情は違うでしょう。
はかない独り言のように思えても
限りない包容といつくしみを
忘れかけている者にとって
祈り求めることは違った働きを持ちます。
 
無限といっても有限といっても
奇跡といっても気休めといっても
霊的といっても心理的といっても
心の底の底、奥の奥まで
人にわかるはずもなく
またそこまで理解する必要もありません。
 
祈り求めることは
生きた働きをもって返されれば充分です。
 
偽りのない
正直な祈りは
告白を伴って受けとめられ
信仰がまさに絶えんとするきわに
神と人との契約
基督と個人とのきずなによって約束された
閉じた目のぬくもりを身近に目覚めさせるでしょう。
 
 
  霊
 
霊は魂のうちに語らない
ただ思いのうちに留まるのみだ
私の思いは私のもの
私の体は私のものと
私が幾度それらを捨てようとも
霊は魂のうちに語らない
ただ思いのうちに留まる
捨てれば捨てる思いのうちに
空しければ空しい思いのうちに
私が思う
時が短くても長くても
そのあいだ私のすべては
私のものではないかのように
 
 
  なくてもいい時間
 
なくてもいい時間を過ごしている
約三億匹の精子の中から
ただ一匹だけが卵子と結ばれ
私が生まれたのに
なくてもいい時間を過ごしている
何となく残され死んだ
約三億(マイナス一匹)匹の精子から
恨めしそうに睨まれているような・・・
素っ気無く答えてみる
何なら譲ってあげてもよかったんだよ
でも私に生(な)る卵子も精子も
そのとき意識も意志も無かったのだから
しようがないじゃないか
私がいてもいなくても世界は変わらない
などという大袈裟な話を持ち出さなくても
(もちろん変わらないさ)
なくてもいい時間を過ごしている
誰も自分の必要性を
理解して生まれてきたわけじゃない
生まれた覚えはない
だがそれは生まれたときのことだ
もう大人だ必要も必然も
理解していていいはずだ
なくてもいい時間
お返ししますと言って返せるものでもない
これからもやって来るに違いない
しかしでは私にとって
なくてはならない時間とは
なくてはならなかった時間とは
なくてはならないであろう時間とは
精子から世界まで
なくてはならない時間とは
なくてもいい時間とは
また考えあぐねて過ごしている
なくてもいい時間
あってはいけないか
 
 
  喪失の部屋
 
孤独の人が私に賑わいを与える
虚無の人が私に癒しを与える
不信仰の人が私に喜びを与える
しかし依然として私は
疑いの中にしか生き得ない
賑わいに和むことはない
癒しに治癒を得ることはない
不信仰にも信仰にも
信仰を理解することはない
得るもののために落下するとき
失うもののために落下するとき
私は落下する私を失うだろう
そして何も残りはしないだろう
歌い尽くせなかった悔いさえも
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
 
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
事実や言葉の合理性に、執拗に、こだわっても、共感のない辻褄合わせだけの場合があります。なんとなく分かったような気がするだけです。楽山は、そこから結論に至り、訂正不能となってます。楽山は、そういう妄想?で、人の意見を裁こうとします。よって、無知と無恥を生むだけなのです。
 
 
 
私の「ウソの国ー詩と宗教」ブログ:
 
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