ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

タグ:神の国

 
  神の国は2
 
 2018年11月22日
 私の記事「神の国はいつどこに」に加筆して再録
 再録+
 
 
信仰者の中には
神は、キリストは、聖霊はと
聖三位のことばかり語ろうとする人がいます。
信仰のことといったら奇跡のことばかり語り
物や肉体に起こる奇跡を信じることが信仰だ
と思っている人もいるようです。
 
神聖の仕組みを知ること語ることが信仰でしょうか。
信仰について、大真面目に、現実離れしてはいないでしょうか。
得々と、お伽噺を語ってはいないでしょうか。救いは現実のものなのですが。
 
 (ルカによる福音書、口語訳)
17:20
神の国はいつ来るのかと、パリサイ人が尋ねたので、イエスは答えて言われた、「神の国は、見られるかたちで来るものではない。
17:21
また『見よ、ここにある』『あそこにある』などとも言えない。神の国は、実にあなたがたのただ中にあるのだ」。
 (ルカ17:20-21、新約聖書)
 
神の国について、キリストは、人々の中にある、と言っています。神聖の救いの仕組みを知ること語ることが信仰でしょうか。信仰は超常を思い込むためにあるのではなく、信仰は、人間が、人間と人生を考えるためにあります。
 
神が人を救うということを知らせることは福音ですが、人間が信仰者になることは、どうして起こるのでしょうか。神が人を救うと言うだけで救いを信じるでしょうか。そうではなく、聖書によって、キリストと人の交わりを知るからこそ、人は救いを求めるのだと思います。
 
なぜなら、そこに人は、心が、いろいろな執着から解放され、人間に救いが与えられることに実感が持てるからです。さらに、救われたとさえ感じられるからです。そのとき、神の国は、いつどこに?という問いは、救われたと感じる人にとって無意味になります。既に垣間見ているからです。
 
何故なら、人は、救いの仕組みのような、あるいは、記録映画のような視聴覚ではなく、お伽噺でもなく、知識や理屈としてでもなく、人間として既に誕生し生きて人生を体験し続けているからです。神の側の話をいくら聞かされても、それは、人の側とは、かけ離れた神聖の世界の話です。
 
さらに、人を救うと言われて奇跡を信じる人、つまり、救われるという話だけで夢中になる人は、救われるにふさわしい成長をする気になりません。そういう人は、全て、奇跡だから救われるのだと、自動的に救われることを信じてしまいます。
 
 最悪の場合、救われる立場から
 神の恵みなのだと言うだけで、
 自分を例にして自慢して讃美するだけになり
 救いを求める心に答える話が出来なくなるかもしれません。
 そこには愛という言葉はあっても
 愛そのものは、ないのです。
 
なぜ、キリストと人が関わった話に、人は胸を打たれるのでしょう。それは、キリストが、救いのために犠牲になったという役割でなく、その言行において、教えだけでなく、キリストと、低さを知るしかない人間たちとの交わりが、溢れるばかりの共感を与えてくれるからです。
 
キリストと本当に交わったら、人間の心には忘れられないものが残るのです。それは、聖書を読むことからも生まれ得るほどの、人生において大きな体験なので、物や肉体の魔法のような奇跡ではなく、人間の心に響く "魂の奇跡"、あるいは "心の奇跡" と呼んでもいいでしょう。
 
その大切なものが、弟子たちを使徒に変え、人をクリスチャンとして成長させるのです。奇跡が分かり、奇跡に守られるようになる・・などと、思っているなら、それは、超常願望に過ぎません。神は、人の願望や欲望を成就して讃美されるためではなく、救うために信仰を与えるのです。
 
 
恵みだけを語る者を、つまり、恵みなのです、恵みなのです、ということばかりを繰り返す者を警戒してください。そういう者には、信仰の芯について、まだ知らない人と、勘違いしている人と、知ろうとしない人がいます。
 
上の人は、キリスト信仰者ではありません。まだ、神と人の、憐れみも愛も知らないのです。だから神もキリストも、救いの仕組みの皮だけの知識だけしか知らない者です。そこには血も涙もありません。人間らしい温もりも潤いもありません。そこにあるのは、机上の辻褄合わせだけなのです。
 
キリスト信仰者ではない偽者者は、神の仲間になったかのように思い上がっており、全て知っているという慢心から、学ぼうとしないために成長がなく、むしろ鈍くなり、やがて自他を破壊してゆくのです。そういう者は、世辞の丁寧さによって、見かけの憐れみと敬虔を装っています。
 
そういう者の傲慢が、言葉や振る舞いに直ぐには見えないことがあります。しかし、突っ込んで質問すれば答えられず、しかも分からないとは言わず、それが一回ではなく重なると、最後には質問者を無視し拒否してくることで分かります。それが偽善者なのです。
 
偽善者は、キリストを殺した者たちと同じ体質を持っています。しかもその不感不応で悔いることのない体質を、不動の信仰だと思い込んでいます。
 
 (マタイによる福音書、口語訳)
9:12
イエスはこれを聞いて言われた、「丈夫な人には医者はいらない。いるのは病人である。
9:13
『わたしが好むのは、あわれみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、学んできなさい。わたしがきたのは、義人を招くためではなく、罪人を招くためである」。
 (マタイ9:12-13、新約聖書)
 
キリストが引用した言葉は旧約聖書ホセア書のようです。
 
 (ホセア書、口語訳)6:6
わたしはいつくしみを喜び、犠牲を喜ばない。
燔祭よりもむしろ神を知ることを喜ぶ。
 (ホセア6:6、旧約聖書)
 
したがって、神を知るというのは、神の憐れみを知るということなのでしょう。決して、神の辻褄を知ることではありません。神の憐れみを知るために必要なのは、奇跡を信じることでもなく、教理を鵜呑みにすることでもなく、人間に分かる愛に共感できることです。
 
聖書ではそれがキリストを動かし、聖書を読んで学ぼうと努める私たちは、キリストが施す愛に共感するゆえに、キリストを信じるに至ります。上の例外的な偽善者を除いて、殆どの人は共感できる心を持っています。
 
儀式的信仰の習慣や言葉中心の教条や、たとえ奇跡体験があったとしても、解釈に詳しくなったとしても、人間の潤いに満ちた温かい共感を捨てて損なうならば、全ては無意味です。それが、人間の中にある信仰であり、人間が知りうる神の国に他ならないからです。
 
 
キリスト信仰は、良いことをしたから救われるという行為義認ではありません。信仰によって救われる信仰義認ですが、信仰、つまり、神を信じることは、いったい何を意味しているのでしょう。神を造り主、キリストを救い主と信じる者の信仰とは何でしょう。救われる唯一の条件とは何でしょう。
 
それは、
自分の罪を認めるがゆえに祈り
神の前に罪深い自分を正直に差し出すことです。
 
聖書の罪人たちは、それが出来たから救われました。
それが救われる唯一の条件ですし、
信仰そのものであると言ってもよいのです。
 
 (詩篇、口語訳)51:17
神の受けられるいけにえは砕けた魂です。
神よ、あなたは砕けた悔いた心を
かろしめられません。
 (詩篇、旧約聖書)
 
神の憐れみと共感を示す聖句です。
 
 
神と人の共感

神と人の共感
 
 
(2018年11月22日アップ)
(2020年11月25日、加筆して再録)
 
(2021年12月03日、再録+)
 
神の業(かみのわざ)
溢れる(あふれる)
 
 
 
  個と種
 
違う遺伝子を持ち
違う学習を経た
個はあくまで個であるから
完全に理解し合えることはないだろう
 
同じ遺伝子と学習経過を
一部に持っている種は
あくまで種であるから
他の種との協力よりは親密に
協力し合うことはあり得るだろう
 
誤解を許容した上での話で
他の種との共存を肯定した上での話で
はるかにヒトより永い淘汰の歴史を持ち
一途(いちず)に子孫を残すことだけのために
強化された遺伝子を持っている他の種に
無謀な戦いを挑もうとしなければの話だが
 
 
  色褪(あ)せる死
 
よほど悲惨な死に方は別として
近づいてくる当たり前の死
年を取れば取るほどに
死は近づいてくるのだが
年を取れば取るほどに
死は悲しまれなくなり
死の色合いは薄れてゆく
よほど特殊な事情は別として
同世代の高齢者が
畳の上で死んだとき
号泣(ごうきゅう)する友人は少ない
先に逝っちまったか
次は自分か
そのうち自分も
みたいな共有される平板の上を
ひとりひとりの褪色(たいしょく)が包んでゆく
年を経れば経るほどに
誰もが忘れる頃
ある日ふと
いないんだった
もういないんだ
な・・・
どこかの深い深い洞穴(どうけつ)から
短すぎて呼べない季節のように
少しだけ身に迫る
冷気の蒼(あお)い風のひととき
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら 誤ったら 素直に詫びて 自分 正さなくちゃいけない」「それが出来て 初めて人間だと それ出来ないなら 人ではないと」「嘘ばかり 重ねる君よ 保身だけの 卑怯者の君よ そんな君は 魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと 最大限の反省と共に 開いた出店を 畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
誰かが注意しても、聞く耳を持たない楽山は、反省も謝罪もしておらず、邪悪な性根の根深さが治りません。「人間の性」「自分もそんな風です」などと言って、人間一般のように、醜い詭弁の言い訳をしていますが、成り立ちません。人間離れの楽山固有の悪と罪と偽善です。
 
 
楽山は、HS問題について、ツイッターで議論を続けているつもりのようです。高級霊、次元構造、波長同通、憑依など、皆、超常の言葉ばかりで、人間について何も語れない反動と貧相をあらわにしています。
 
楽山は、自身の問題を、全く自覚できない人です。だから、平気で、傍観者として、アドバイザーであるかのように、他者のことばかり言っています。他者のことを、"トンデモ発言" などと言っている楽山こそ、トンデモな正体を隠しているのです。
 
無反省、無責任で、自分のもたらす害を、全て人のせいにするような、冷血の自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)を隠そうとする楽山は、議論をする資格も能力もないのに、ただ、人間離れした超常を、理屈めいた言葉で語って、自己満悦しているだけなのです。
 
楽山の言は、言論ではなく、生殖器のようなものです。そこから詭弁を放出して、人が騙されて受け容れるのを見て、快感を得るのが、楽山の生き甲斐なのでしょう。楽山の人生には、真善美がなく、正義もなく、怠慢ゆえに、努力も学習もしない結末の、ゴミ問題となってゆくのです。
 
 
 
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  知らないこと(改)2
 
 
神と神の国、私は、よく知らないです。聖書を読んで、知らない自分を弁えて、キリストを好きになることが信仰です。私にとって希望がそこにしかないからです。
 
人に、ひょいひょいと分かるような神なら、私は疑い深いので、信じなかったでしょう。
 
キリストについて、人が分かることというのは、キリストが、その最高の洞察力と共感力で、人間と交わったことだけです。
 
キリストが、二千年前そうであったように、今も、人間と神の仲保者として、同伴していることを、生きるために否定できなくなった人が、信仰者となります。
 
感動することで、止まっている人間は動き出します。それが、人間にとって、いちばん大切なことです。いつもいつも感動しているわけではありませんが、感じて、受け取り、考えて、わが身を省みて、祈る日々に、何かを学んでゆくことが、その人なりの人生と信仰の成長であります。
 
それは今も、地上の人間にとって、折々の成長として、もたらされるものであり、一気に悟るものではないので、人間において完成することはありませんが、生きる "道" となっています。
 
私たち人間は、生涯のうちに、未完成の自分と、未完成のまま地上で学んだことと為し得たことを、そのまま神に見せて、祈り、捧げて、その懐に生き、いつの日か、帰るのです。
 
 
今までに見たところの
神を知ってるつもりの偽善者とカルトの間違い~大嘘~反信仰:
 
「罪は、悔い改めなくても救われるから、気にしなくていい」と言う。実際、いかなる不祥事にも、罪を認めない。また「悔い改めは神が与える」とも言うのだが、
 
これは、悔い改めないことの言い訳の詭弁。これらは、反信仰、反キリストの偽善者の暴言である。
 
神は悔い改めを与えるにあたって、人を操り人形みたいに変身させて、他動的に悔い改めさせたりはしない。そのような記事は聖書にはない。神秘体験は、人間としての感動体験に他ならない。
 
カルトは、信条だけでなく、不都合に際しても、自分に都合の良い魔法をでっちあげる。決して本当の反省をせず、総ての不都合を、他者のせいにする。
 
 
悔い改めるのは、誰なのか、人である。人は、その人格の自由意志において、自ら悔い改めるのが信仰である。
 
「アブラハムは、神に義とされたから、どこまでも正しい」・・信仰の義と神の義の混同。
「女ではなく、他人の妻だから、情欲の教えを守れる」・・自己正当化・無罪化は反信仰。
「教えを守って完全になれる」・・パリサイ人と同じ完全欲の偽信仰。
 
これらは、キリスト教の初歩において、人間というものを、また、神と人の関係を、まるで学んでいないがゆえの誤解が、曲解から信条にまでなっているカルトの例である。
 
アブラハムだけでなく、ダビデも、キリストの弟子たちも、罪を犯したのち、悔い改めて、祖となり、王となり、あるいは、使徒となった人々です。
 
 (マタイによる福音書、口語訳)5:28
しかし、わたしはあなたがたに言う。だれでも、情欲をいだいて女を見る者は、心の中ですでに姦淫をしたのである。
 (マタイ5:28、新約聖書)
   ↓
 (マタイによる福音書/ 05章 28節、新共同訳)
しかし、わたしは言っておく。みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも、既に心の中でその女を犯したのである。
 
新共同訳は嫌いです。女 → 他人の妻、という書き換えは、キリストの教えを、守りやすい道徳に変質させる邪悪な意図を感じます。信仰は、道徳ではありません。キリストが、守れないことを承知で言っていることを忘れてはなりません。
 
それに、「女」を「他人の妻」に言い換えても、情欲は湧いてくる欲望であって、情欲を湧かせないようにすることはできない。つまり、教えを守れる人はいない。
 
ゆえに、罪なき人は、一人もいない。だから、正直な悔い改めの祈りが必要なのです。
 
これなら守れるでしょうと、易い行為義認に走れば、著しく心の問題を疎かにするだろう。
 
守れる、完全になれる、という方向性に走っては、前に、完全欲のカルトが、勝ち誇ったかのように喜んでいました。これは、神への冒涜であり、背教です。
 
完全なのは、ただ神お一方のみです。
 
 
キリストは、人間の肉体を持ち、神性と人間性を兼ね備えた御方であり、
 
私たちは、キリストの神性の表れとしての、処女懐妊、物や肉体への奇跡、復活、について、何かを理解しているとは到底言えない。私たちが人間だからだ。
 
これらの超常の奇跡に、人間の真実の心はふるえない。分かっていないし、現代では滅多に起こらないし、驚きはあっても、それは、理解できないことへの驚きであり、人間らしい感動ではなく、人間を人間として成長させることはないからだ。
 
これらについては、否定する必要はないが、史実性は不明として保留するべきである。
 
私たちが理解でき共感できるのは、キリストの人間性への共感力である。二千年前に、現代も悪の本質である偽善を見抜いて赦さなかったイエス・キリストの、人間性への慈しみに溢れた共感力である。
 
キリストは、人の敬虔の本質の有無を洞察し、罪深さを知っている人々に共感し寄り添ったのである。
 
そして、キリストは、誰もご自身を本当には理解していない状況を承知の上で、命をささげた。心ある人々は、それがどんなに孤独で、どんなに苦痛であったかに、共感して信仰に至る。
 
共感とは、悲しみと愛の情感を共にすること。真善美は、そこから生まれる。
 
 
キリストは、偽善を見抜き、神の真実のために、理解者ゼロの境遇にもかかわらず、命をささげたから、私たち信仰者は、キリストの愛と共感を忘れられず、キリストから離れられないのである。
 
キリストの犠牲から、当時の心ある人々を動かして、贖罪の教理が生まれたが、教理は信仰にとって、糧に過ぎない。何故なら、信仰と希望と愛は、その言葉自体だけを語っても、教理的な概念以外、何も表したことにはならないからである。
 
キリストの死を、罪を背負って死んでくれてありがとう、などという、軽はずみの感謝の言葉にするのは、贖罪の教理が字面の理屈になり、理屈のうわべを辻褄合わせで滑っているだけの、心無い鈍感である。教条は心の面倒を見ない・・ということの表れた弊害である。
 
 
キリストの共感力に、次は、人間が共感して、言葉を紡ぐ努力が必要である。私たち信仰者は、アガペー(神の愛)を与えることは出来ないが、キリストの死によって、そして、キリストの同伴という希望によって、アガペーを既に受けている。
 
信仰者の努力は、少なくない失敗を経て、反省し、そのたびに正直な祈りによって告白し悔い改めて新しくなることで、学習し、少しずつ成長する生き方である。
 
キリスト教は、その成立から今に至るまで、政治などによって、迫害され、利用され、また、カルトの宣伝にさえ利用されてきたけれども、
 
一方で、聖書を通して、また、心あるキリスト者を通して、言葉で表せない一番大切なことを、信仰者に、そして、非信仰者にも、キリストは、今も伝え続けている。
 
 
言葉だけで分かったつもりの教条主義、信条を捏造しているカルトや、平気で嘘を吐き、それを社交の世辞と預言者気取りで糊塗して隠蔽している厚顔な偽善者に、決して騙されてはいけません。
 
これらの者たちは、神を、本当には、信じてなどいないし、恐れてもいない。また、キリストを、本当には愛してなどいない。人を騙し、人よりも上に立つためのツールとしているのです。
 
彼らは、命をすてても・・みたいな大仰な言い方をすることもありますが、本当に命を懸けている人は、そういうことを人前で言うことについて、神への恐れのために控えるはずです。真に受けないでください。
 
彼ら反キリストたちは、もっともらしい言葉?の字面のみを武器に、超常の物語の辻褄だけにこだわり、人間の心を疎かにして、人間ならば分かるはずの理路と共感を捨ててしまった者たちです。
 
つまり人間らしさを持たず、むしろ人間を嫌っていると思われます。世辞の優しそうな言葉を使うが、共通して、敬虔、謙虚、謙遜が、実質として見られず、かつ、尊大であり、無反省で自己中心の訂正不能であることを特徴としています。
 
 
(2019年06月04日、同日一部修正)
(2020年06月06日、修正再録、同日一部修正)
(2021年06月08日、再録+) 
 
 
知らないということを知るべきなのに

知らないということを知るべきなのに
 
 
 
  無能の面
 
計算される数式の値として作表される
片隅の一つのセルのように
あまりにも危うく日々に過ぎて
収まっては壊されやすい
脆い仮面であるのかもしれない
 
歩みを止め足を踏む木彫りの面
古びた皺と凹凸は罅(ひび)と剥離を伴い
熱を押し殺し秘めた息を舞う
計算も予測も不能な傷の
責め際に割れかけて
なお私を離れぬ面
紐で括るか
内側で噛みつくか
 
 
  今は今
 
記憶は澱(おり)の底から上ってきて
臭ってくる
匂ってくる
聞こえてくる
見えてくる
触れてさえくる
ときに鮮やかな
生々しくも今は幻
記憶を再び実行することはない
今は今
されど記憶に頼らず
実行できるものは何もない
 
 
(90年代か)
 
 
 
楽山の記事
救い、悔い改め、予定について(『聖なるもの』オットー著)
2021年06月04日 楽山日記(LD) 
に対する批判について補足。
 
恵みの体験について、楽山は、
「この感覚については自分にも多少の経験はあるし、前に記事にも書いたことがあるのでよく納得できる。」
と言っていました。
 
神からの恵みの感覚は、「多少の」で修飾できるものではありません。原体験としての宗教体験であり、信仰の原初となる有無の体験です。だから、楽山は、謙虚のつもりで書いて、結果、大嘘を吐いていることがバレるわけです。分かるのではなく、分かったようなふりをすることの崩れ方です。
 
楽山が「多少の経験はある」と書いているのは、楽山のホラー超常気分の空想で、何やら神秘的な気持ちになったことを言っているに過ぎないと思います。それは、気分次第の一時的なもので、宗教的な恵みの体験ではありません。その証拠に、楽山は、変わらず、今も、反キリストです。
 
楽山は、何でも、経験している、分かっている、自分の視野に納まる、という立場で書いて、受け入れの器を演じているのです。しかし、その自己顕示と不正直によって、楽山は、さらなる不祥事を加え、こともあろうに、それを自慢する結果となっている醜いピエロなのです。
 
分かってるふうを装い、知識人を装い、他者を言いくるめようとする楽山の企みは、このように、言葉の端々に、破綻が表れ、そのみすぼらしい安っぽさが、あらわになります。命果てるまで、嘘を吐き続け、一生が虚偽になり、共感せず、共感されないペテン師、楽山の因業が表れています。
 
神からの恵みは、楽山の言うような超常体験でも神秘体験でもありません。「多少」あるとか無いとかではありません。神秘は、神の秘密であり、人が知ることは出来ません。
 
神からの恵みは、人間としての感動体験です。支えを失った者が、支えを与えられる、という、絶対孤独からの解放とでも言うべき体験なのです。
 
(2021年06月08日)
 
 
 
(古い記事は載っていません)
 
http://st5402jp.livedoor.blog/
(古い記事もインポート済み)
 
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(ここは、ブログ記事をリンク・抜粋)
 
 
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