ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

タグ:神の言葉

 
  理解すること3
 
 
神は全能。人間は不完全。
ここから信仰を考える必要があります。
 
聖書は神の言葉であるが
私たちは人の言葉しか持っていない。
さらに
神の言葉だからと聖書を持ち出すとき
その解釈に人の言葉を使っている。
 
理解を目指す心の作業において
心が連動しているかどうかが重要である。
 
理解することは辻褄を合わせることではない。
辻褄合わせは多く自分に納得を強いて
分かったという思い込みに至っている。
恐ろしいことに、それを自慢することさえある。
 
理解は辻褄を超えたところにあり
共感という情緒的解放感を伴うゆえに
そこから活力と説得力が生まれる。
 
同じ言葉を言っても聞いても
心にあるものも受け取るものも
人と時と状況によって
特に学習と経験によって違ってくる。
 
ゆえに
理解するために説明するために
同じ言葉を繰り返せばいい
ということはあり得ない。
 
あるとき感動しても
次に同じものを受けたときは
感動したという記憶の知識になっていることが多い。
 
理解は心を揺さぶられる
という情緒的反応を伴う。
当たり前ではなく
気安く再現できることでもなく
辻褄合わせでもない。
 
知情意は分けられない。
分からない複雑な心を
便宜上、言葉で分けているだけだ。
 
多くの場合
辻褄が合うと分かったという。
数学ならそれでもいいように思われるが
初歩的な数学でも
整合性が分かっただけで嬉しいことがあるのは
そこから広がる世界があるからだ。
つまり数学においても
解放されて世界が広がることを理解と言う。
 
理解しなければ問題と答えを覚えるだけになる。
最悪なのはそれで理解を装うことである。
 
数学でなくても
理解は解放感という情緒的反応を伴う。
 
 
無自覚の無理解は辻褄だけにこだわり
同じ言葉を繰り返し
感動、理解、驚き、分かった、よかった
などと言うだけで
反省、トホホ、などと卑下して見せることもあるが
文脈の中の言葉の無味乾燥に気づかないで
殆ど呪文を自慢している。
そして負けないために
だます手口だけを覚えてゆく。
 
 
私の場合
数学は3次元以上が無理で学者になれず
国語は読書障害の傾向があって読書家になれず
絵画は遠近感覚が乏しく
音楽は楽譜の読み書きが全く出来ず
さらに寄る年波で健忘が激しくなり
対人関係が苦手で鬱も統合失調も怖くて
狭い部屋の中で独り言の多い私はどうしたらいいのか。
 
無理解を自覚するしかない。
出来ないことは出来ない。
知らないことは知らない。
分からないことは分からない。
 
死ぬまでは生きているのだから
理解しているつもりの
理解していなければならないはずの
ただ一つのことを求めて
細く細く感じて
狭く狭く考えている
という不完全の自覚のうちに生きる。
 
これも一つのワールドで
病と傷と欠点の多い心で出来ることをしている。
 
 
 (ルカによる福音書、口語訳)10:38-42
一同が旅を続けているうちに、イエスがある村へはいられた。するとマルタという名の女がイエスを家に迎え入れた。 
この女にマリヤという妹がいたが、主の足もとにすわって、御言に聞き入っていた。 
ところが、マルタは接待のことで忙がしくて心をとりみだし、イエスのところにきて言った、「主よ、妹がわたしだけに接待をさせているのを、なんともお思いになりませんか。わたしの手伝いをするように妹におっしゃってください」。
主は答えて言われた、「マルタよ、マルタよ、あなたは多くのことに心を配って思いわずらっている。
しかし、無くてならぬものは多くはない。いや、一つだけである。マリヤはその良い方を選んだのだ。そしてそれは、彼女から取り去ってはならないものである」。
 (ルカ10:38-42、新約聖書)
 
妹のマリヤはキリストにベッタリで、キリストをもてなす家事を手伝わないものだから、姉のマルタは、何とかしてくださいみたいに、キリストに言います。その時の言葉ですが、マリヤを褒めるためではなく、マルタのために言っているのです。
 
キリストが来ているのだから、マリヤのようにキリストにベッタリくっついていることが信仰だ、と言っているわけではありません。それぞれに、性格の違いがあり、求めるものの違いもあり、人によって違うところを、キリストは見抜いて認めているのです。
 
マリヤは一途にキリストのそばにいる、それでいい、マルタはキリストを持て成そうと努めている。キリストは、それを承知の上で、それでいいけど、ご自身のもてなしのために、そんなに思い煩わなくていいと言っているのでしょう。
 
家事を手伝わず、キリストのそばにくっついていることが、信仰に反するなら、キリストご自身が、マリヤに注意するはずです。マルタは、思いわずらい、心をいためているので、そこに気づかないでいるから、責めたのではなく、キリストは、諭したのです。
 
思いわずらうことなく、できることをするのが、信仰だと思います。私にとっては、できることの範囲が、とても狭くなっています。
 
 
聖書をを理解するということは、人の言うことを信じ込むことではなく、単なる意味でもなく、自分の人生に解放感と活性を与えてくれる言葉の "心" に出会うことです。
 
御心を成就するのが信仰ではありません。
御心に叶うかどうを、不完全な人は、完全には判断できません。
不完全な自分の言動に、完全なる神の御心を当てはめてはいけません。
 
できる限りの言動に努め、神に、正直に告白し祈る自覚こそが信仰です。
完全ではない人が、寛容なる神の赦しを得て暮らす日々が、信仰生活です。
 
 
 
神の全知全能は、人が全知でも全能でもない不完全な存在であることを知るための、節操の理路となり、心の弁えとなるでしょう。人は、神の全知全能の詳細など分かってはいません。しかし、聖書を通じて、個々の場合において、神聖を想うことは出来るでしょう。
 
神は全知全能だから、既に、一人一人が、何を思い、何を悩み、どういう罪を犯したか、既に、ご存知のはずです。罪を犯さないように守ってくださるという信条は、人の心情であって、現実によって肯定されるばかりではないことを知るでしょう。信仰を得ても、私たちは、皆、罪人であります。
 
誰もが、失敗し、うなだれ、罪を抱えてしまうのです。そこに信仰の恵みとして、祈る機会として、救いがあると思います。ゆえに、全知全能の神は、人が、正直に祈ることのみを待っておられると思います。神を裏切らないということは、罪を犯さないことではなく、正直な祈りを捧げることです。
 
 
理解と解放

理解と解放
 
 
(2020年)(2021年)
(2022年10月12日、再録+加筆)
 
 
 
  求めよ
 
求めよ、さらば与えられん
・・・・・
あまりにも有名な聖書の言葉
しかしいったい何が与えられるのでしょうか。
 
言うまでもないことだが、求めればいつでも
欲しいものが与えられることではないわけで
むしろ苦難の時の霊的な賜物というべきか
勇気や安らぎに似たものか
こころゆくまで苦悩を表現したときに感じる
昇華作用のようなものがあるかもしれません。
 
精神的効用と言ってしまえばそれまでだし
表現する相手によっては損をしたような気色にもなります。
 
しかし相手が神様となると事情は違うでしょう。
はかない独り言のように思えても
限りない包容といつくしみを
忘れかけている者にとって
祈り求めることは違った働きを持ちます。
 
無限といっても有限といっても
奇跡といっても気休めといっても
霊的といっても心理的といっても
心の底の底、奥の奥まで
人にわかるはずもなく
またそこまで理解する必要もありません。
 
祈り求めることは
生きた働きをもって返されれば充分です。
 
偽りのない
正直な祈りは
告白を伴って受けとめられ
信仰がまさに絶えんとするきわに
神と人との契約
基督と個人とのきずなによって約束された
閉じた目のぬくもりを身近に目覚めさせるでしょう。
 
 
  霊
 
霊は魂のうちに語らない
ただ思いのうちに留まるのみだ
私の思いは私のもの
私の体は私のものと
私が幾度それらを捨てようとも
霊は魂のうちに語らない
ただ思いのうちに留まる
捨てれば捨てる思いのうちに
空しければ空しい思いのうちに
私が思う
時が短くても長くても
そのあいだ私のすべては
私のものではないかのように
 
 
  なくてもいい時間
 
なくてもいい時間を過ごしている
約三億匹の精子の中から
ただ一匹だけが卵子と結ばれ
私が生まれたのに
なくてもいい時間を過ごしている
何となく残され死んだ
約三億(マイナス一匹)匹の精子から
恨めしそうに睨まれているような・・・
素っ気無く答えてみる
何なら譲ってあげてもよかったんだよ
でも私に生(な)る卵子も精子も
そのとき意識も意志も無かったのだから
しようがないじゃないか
私がいてもいなくても世界は変わらない
などという大袈裟な話を持ち出さなくても
(もちろん変わらないさ)
なくてもいい時間を過ごしている
誰も自分の必要性を
理解して生まれてきたわけじゃない
生まれた覚えはない
だがそれは生まれたときのことだ
もう大人だ必要も必然も
理解していていいはずだ
なくてもいい時間
お返ししますと言って返せるものでもない
これからもやって来るに違いない
しかしでは私にとって
なくてはならない時間とは
なくてはならなかった時間とは
なくてはならないであろう時間とは
精子から世界まで
なくてはならない時間とは
なくてもいい時間とは
また考えあぐねて過ごしている
なくてもいい時間
あってはいけないか
 
 
  喪失の部屋
 
孤独の人が私に賑わいを与える
虚無の人が私に癒しを与える
不信仰の人が私に喜びを与える
しかし依然として私は
疑いの中にしか生き得ない
賑わいに和むことはない
癒しに治癒を得ることはない
不信仰にも信仰にも
信仰を理解することはない
得るもののために落下するとき
失うもののために落下するとき
私は落下する私を失うだろう
そして何も残りはしないだろう
歌い尽くせなかった悔いさえも
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
 
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
事実や言葉の合理性に、執拗に、こだわっても、共感のない辻褄合わせだけの場合があります。なんとなく分かったような気がするだけです。楽山は、そこから結論に至り、訂正不能となってます。楽山は、そういう妄想?で、人の意見を裁こうとします。よって、無知と無恥を生むだけなのです。
 
 
 
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  雑感まとめ2
 
前に「雑感」として書いた記事を、再録+します。
 
 
  障害と人格
 
 
障害を否認し障害に卑屈になれば
障害を補う努力を怠り
障害を隠そうとして
人格が嘘吐きになります。
 
健常者に恨みをいだくなら
健常者をだますようになり
健常者以上の振りをして
人格がますます大嘘吐きになってゆきます。
 
 
障害を認め障害に折れなければ
障害を補う努力をするようになり
人格が障害を克服します。
 
 
私は、小1の時に発症したリウマチ熱による大動脈弁逆流という心臓弁膜症と、対人緊張と、鬱と、自業自得の喫煙による慢性気管支炎が、現症です。最近、不整脈も出るようになりました。耳は遠くなり、目は薄くなり、筋肉は衰えました。
 
今さら、どうしようもないので、予後を含めて、神様にお任せするしかありません。
68年も生かしてもらいましたから、今は、それほど、長生きしたいとは思っていません。
 
 
  詭弁
 
美辞麗句は、実行性が具体的にあるかどうかを判断してください。
美辞麗句だけ並べるのは、詭弁です。
 
聞くに麗しいことばかり言われて、いい気持にならないでください。
実行と実質が伴わなければ、ただの嘘です。
 
やさしい顔・態度・言葉は、やってきたことと一致するかどうかを判断してください。
やさしいふりだけなら、詐欺師や独裁者も見せてきました。
 
似て非なるものを並べて同一のように話を進めるのは詭弁です。
 
大きくて曖昧な道理によって、個別を語るのは詭弁です。
 
個別の事柄をもって、全体を語るのは詭弁です。
 
 
 愛
 
昔読んだ現代詩の中で
とりわけ印象深い詩句があります。
 
 愛の歌には
 なぜか愛のことだけが書かれていない
 
 
本当の愛という感情、また、深い情緒は、必ず悲しみを経ていると思います。
 
だから、愛を讃え、愛を謳歌して、盛り上げようとするだけの歌に愛はないし、それはお祭り騒ぎに過ぎないし、派手な供え物に過ぎないと思っています。人間が、愛を本当に知り、愛に感動するのは、悲しみを知っているからだろうと思っています。
 
愛だけではなく、多くのよさそうな言葉、正義、善、義、というものは、愛を知らない者が使えば、虚言、悪、偽、であるかもしれません。
 
本当の愛は、温もりと潤いを知っており、癒しと涙を知っており、すなわち、共感と悲哀を知っています。それが一番大切なことであり、信仰のいちばん重要なところでもあるのでしょう。
 
 
 神の言葉、人の言葉
 
聖書は神の言葉と言われます。しかし、この表現が、誤解され、多くの躓きとなっていることを憂慮します。
 
日本では、聖書は日本語の聖書が読まれています。日本語って、一般に言葉って、そんなに正確なものでしょうか。一つの言葉が、人によって違う意味で使われていたり、一人の人によっても、ときによって意味が変わることがあります。また、元々二つ以上の意味を持つ言葉もあります。
 
人間の使う言葉は、それほど褒められるような完全なものではないのです。言い換えれば、人の言葉は頼りない出来であると言ってもよいと思います。
 
神の言葉は絶対です。しかし、人間は絶対の言葉を持たないのです。また信仰は言葉ではありません。言い換えれば、聖書の言葉を、人が受け取って、絶対化することは、信仰に反します。言葉を繰り返し唱えておれば、聖書の言葉を繰り返しておれば、信仰になるでしょうか。否であります。
 
そこを勘違いすると、聖書を勝手に解釈してそれを信じ込むというカルトになるでしょう。
 
信仰は心にあり
心に働き
心を働かせる賜物です。
 
信仰の心を、いつも正確に表せる言葉はありません。こう言っとけば大丈夫などと思っていたら、いつのまにか、心を動かさない言葉になっていることもあるのです。
 
大切なのは心であって、言葉は心を伝える手段なのですから、手段として大切にして、聖書を読む必要があるのであって、聖書の言葉は絶対だから安心などと思うと、いつのまにか心を動かさないものが信仰?と呼ばれることになってしまいます。
 
これが、人間の不完全性
そして罪の性質であります。
 
偽善者は言葉でごまかそうとします。
聖書の言葉を悪用します。
都合の良いところだけを取り出して
聖書に書いてあると知ったかぶりをします。
 
人の言葉は絶対ではなく
人間の心においては相対的なものです。
時と場合によって、一つの言葉でも、もたらす働きは、日常的に変わります。
 
神の言葉は絶対でも、それが記された聖書を読む私たちは、人の言葉しか知りません。つまり、聖書の言葉は、人においては、決して絶対ではないのです。私たちにとって、信仰は聖書を読めば何でも分かるというような万能の辞書ではないのです。人間において万能はあり得ません。
 
信仰が私たちに担保するのは、いつでも聖書を読むことが出来て、いつでも学習し直せるということです。信仰は学びの道であります。そして、いつでも正直に祈ることが出来るという恵みがあります。
 
学びを疎かにして慢心するところには
思いこみの繰り返しが信仰を、無意味に分厚くして、無味にするだけでしょう。
 
私たちは、この地上の苦難に接して、聖書を読んで受け取ったことと、経験から受け取ることと、受け取って考えることをもって、生きてゆく存在であり、神とは違う相対的な存在です。
 
生き方についても、言葉についても、聖書についても、私たちは学ぶ務めと意識を持つことが、信仰には大切なことです。そして、正直な祈りだけが、信仰の義に結びつきます。
 
まさに信仰について、正直な祈りに支えられて、聖書と体験によって学ぶという修道は、間違いだらけの信仰者が成長するための、唯一の生き方であり、信仰生活の日常なのです。
 
 
弱くても、成長し得る心の器が、信仰には最も適した器です。それは、聖書において、"心貧しさ" と、また、"土の器" と呼ばれています。つまり、余計な先入観がなく、知恵も情も入れやすく、また、地味だが、ものを入れやすく、馴染みやすい、心の器であります。
 
 
今 ここで 永遠

今 ここで 永遠
 
 
(2020年)
(2021年)
(2022年09月23日、再録+加筆)
 
 
 
  初恋の頃
 
(あんな若い時代があったと懐かしめればいいのだが何故か
  歳をとった今の自分があることが不思議に思えてならぬ)
 
再びめぐり会うことはないと
気づかれもせぬままに
与えられた一つの笑顔さえ
もうはっきりとは思い出せないほど
遠く走り過ぎたような気がする
 
すれ違うバイクに
ピースサインを投げられた
さりげなく手を上げてみせる
ピースサインは出会いの挨拶
そしてまた別れの挨拶
 
出会うことが別れだったあの日
見知らぬ土地のピースサインのように
私もまた笑みを返した
秋の街をとぼとぼと帰った
 
あの頃 バイクを知らなかった
パソコンもなかった
詩も読まなかった
だが人を愛することだけは知りたかった
遠く過ぎ去った面影に
言葉をかけるすべはない
かわりに吹き抜ける風の中で
私は小さな詩(うた)をよみたい
君は今
どんな顔をして生きているのだろう
 
まぶたを閉じれば浮かんでくる
あの教会
あの下宿
およそ二年の歳月が
そこには遠くまどろんでいる
 
 
  逃避
 
命には限りがある
出会いにも限りがある
愛にも限りがある
なのに別れだけは永遠だ
いつまでバイクに乗っていられる
いつまで生きていられる
すべてを変えてしまった時の長さに
深く刻まれた沈黙の中を
捧げるあてもない命
運んで俺のバイクは
永遠を噛みしめながら
走り続ける
かすかな記憶の
さいはてに向かって
 
 
 
 楽山のツイッターですが
 
心機一転★こも楽山
@komo266
遠江さんは、批判したら面倒なことになりそうな相手でも、見て見ぬ振りせず、きちんと声を上げる人なんだ。
真理に忠実なのか、単に空気を読めないだけか分からんけど、どちらにしても貴重な人材だな。
午前7:03 · 2021年9月21日
 
「見てみぬふりをせず」に書いてくる批判を、平気で無視するのが楽山です。不感不応の訂正不能で、書き続ける言論失格者です。そうすることで余計に面倒なことになります。もはや、楽山を、直接には相手にせず、徹底した批判を貼りつけてゆくしかありません。
 
楽山は、文脈を、理路を、流れを、情感を、人の心を、空気を、状況を、全く読めない人です。言論において、貴重どころか、邪魔であり、有害であり、病害因子であるところの、うっとうしいカビ~寄生虫~ばい菌のような存在です。
 
楽山の、丁寧語に、曖昧なボンヤリ言語に、同情を引こうとするトホホ言語に、嘘に、詭弁に、学者気取り・インテリ気取りなどの気取りだけなので、だまされないようにしてください。真に受けると、無思考、高等感情鈍麻、自己中心、という、人間離れのペテンの世界に染まってしまいます。
 
忠実になるべき対象の真理を分かりもしないのに「真理に忠実」と言っています。実は、これ、大言壮語なのです。誰も真理を知りません。ゆえに、何が忠実であるかも知りません。こういうところに、自己愛性人格障害の慢心は表れてくるのです。ゆえに、空気も読めない軽佻浮薄の楽山です。
 
(ネットより)
軽佻浮薄(けいちょうふはく):かるはずみで言動がしっかりしていない様子。
 
 
 
楽山の害毒メモ:
今までに表れてきたこと。これは、楽山に限らず、聖書においてキリストの敵となった宗教指導者や、世に数多いる偽善者の特徴でもあります。この世で最も迷惑な人の特徴です。楽山は無責任です。決して信用しないでください。
 
楽山は、1つのことを書いて、別の時には、それに反することを平気で書いてきます。そこで、反省、修正、というステップを書かず、あたかも最初から思っていたことのように書いてきます。自分に誤りを認めない自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)だからです。
 
人格:
自己愛が強く自己中である。
笑いと怒りしかなく、悲しみの情がない。
共感がなく、罪悪感がなく、反省しない。
自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)と思われる。
平気で嘘を吐く。様々な詭弁を弄して、柔和に見せかける。
深い情感がなく、共感性がない。相手が疲れるのを見て快感を得る。
後悔、反省、修正ができない。学習による成長がない。
罪悪感、羞恥心が見られない。サイコパスと思われる。
アドラー心理学の宣伝をしていた。自己中心である。
中身や実質のない形骸的精神機能しか持たない。
 
単細胞。
 
議論:
議論や交流が、表面的で、整わないし、できないし、元々する気もない。
相手の意見を受け取っていないので、反論、弁明が成り立っていない。
理路が常識的にも浅く、基本的に訂正不能である。理解力がない。
自分なりの堅実な理路を組み立てられない。
読書自慢。感想は平板で、独創性や深みがない。
様々な気取り。読書家気取り、評論家気取り、インテリ気取りなど。
分かっているという我執から離れられない。
非を指摘されると、逆に、こちらに当てはめて被害者面をする。
人を批判~誹謗中傷するが、その言葉で自分が斬られるブーメラン現象。
真面目に応答~議論すればするほど、病的な徒労感と疲労のみをもたらす。
ボンヤリ言語:語尾を濁し曖昧で婉曲的な言い方で、印象を刷り込もうとする。
トホホ言語:謙虚で弱いと思わせて悪意を隠すための嘘の芝居。
しばしば、自身への同意を期待して、見え透いた世辞を言う。
「反省。とほほ」などと書くが、不自然であり、前後で何も変わらないので嘘です。
騙して、言い分を詭弁や嘘で通そうとする、通っていると思い込む。
 
偏執。
 
宗教:
反キリスト、反宗教。聖書およびキリスト信仰を、貶めてくる。
キリスト教とキリスト信仰を字面だけで云々し、理解していると思い込む。
HSを脱会したと言っているが、真実かどうか、疑わしい。
霊能者のつもりだが、それに見合う直観的洞察は皆無である。
 
形骸。
 
楽山の書いた文章を、3年数か月のあいだ見てきた結果ですから、大きく変わることはないでしょう。これらについては、新しい情報によって、必要なら加筆し、繰り返し載せることになるでしょう。
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
 
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
心無い楽山は、永遠という言葉を、時間の長さと、無限という言葉を、ものの長さや大きさと認識するだけなのでしょう。神を、超常の王様と、救いを、何らかの利益としか理解しないでしょう。そのような、単純な辻褄で理解しているつもりになる慢心からは、信仰は生まれません。
 
 
信仰というのは、まず、自分の理解できない大いなるものの存在に気づく心の器が受け皿です。それは、能力ではなく、力ではなく、むしろ、無力、とても乏しい自己、それゆえに、受けて、学ぶことを、年齢や才能によらず、成長することを、希望する人が、信仰には向いています。楽山は論外です。
 
 
 
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  神と人と言葉3
 
 
私が、"理路" という言葉を使い、"論理" という言葉をあまり使わない理由については、前にも述べたことがあると思います。論理という言葉が、いかにも理屈だけという印象があるからです。
 
数学や物理学なら、理屈だけでよいのかもしれません。情の入る余地はないからです。
 
しかし、信仰と人間について書くときには、人間の心や共感という人間性を抜きには語れないので、論理という言葉を避けています。理路という言葉で、表せているかどうかも疑問ではありますが。
 
 
信仰において、理路が必要となるのは、私の考える信仰が、人間の心や納得や共感性を抜きにしては語れないからであります。
 
信仰が、何でも叶えられるようなご利益信仰や、超常の心性の仕組みを真理として前提とするカルトなどは、人間性については、むしろ邪魔なのでしょう。
 
ある凶悪な偽牧師は、私の信仰を、人間信仰だと揶揄しました。しかし、人間一般や特定の人間を絶対正義として崇めるなど出来ないのは明らかですし、偽牧師のように都合のよい神?を信じるというのもまた、人間の思想を信仰するというカルトであります。
 
その凶悪な偽キリスト教のカルトは、人間の心の、どこを探しても信仰はないと言いました。恐らく、聖書に書いてあり信仰を受け取るための "土の器" なるものが、心とは違ったところにあると言いたいのでしょう。カルトらしい受け取り方でした。
 
しかし、"土の器" は、人間にとって、比喩以上の意味を持ち得ません。金の器のように輝くわけでもなく、地味で、かつ、壊れやすい、土の器 ・・人間の心を表しているように感じました。
 
ゆえに、信仰は、心に与えられ、心以外のところにはありません。このように、心の無いカルトは、理解も出来ないところの超常を、自ら捏造して特別に見せかけるのが大好きです。ついでに、自分も特別だと言いたいのでしょう。
 
心で信仰を受け取らなくて、どこで受け取るのでしょう。心以外の別のもので受け取るというのは、明らかな空想の捏造であります。カルトは、自分は人とは違うというところを見せたがります。
 
信仰は、良心が働くところ、即ち、心で受け取るしかありません。
 
そして、人間は、神に比べて、不完全な存在である、ということが、人間に理解できるところの真実なのです。それを、前提として、話を進めなければいけません。不完全な存在である人間に、完全なる神を理解することは不可能であります。
 
 
人間は、なぜ、神を必要とし、神を信じるようになるのでしょう。それは、完全な真理である神が理解できるからなどという、カルトが言いそうな理由ではありません。
 
人間は、生きていて、必ずと言ってよいほど、苦難に遭遇します。その苦難を、自分で克服できるとは限りません。そこで悩んでいるばかりでは、生きることが苦しくなるばかり、ということがあるわけです。
 
そういう時に、人間を、ほいほいと救ってくれる神?でははなく、祈祷だけによってご利益をくれる神?でもなく、都合の良いことが起こるからという都合のいい話を、生きる縁(よすが)として頼みにすることは出来ません。
 
思案の末に、はっきりと分からなくても、人間の世界を、大きく包み込むような神聖なる御方を、恐らく、古代の宗教発祥の時代に、考えないではおれない人々がいたのではないかと思います。苦難の時に、最も耐えがたいのは、どこにも寄る辺のない絶対孤独であります。
 
彼ら思慮深い人々は、そのような完全な存在を想い、そういう御方でなければ救えないほどの大きな苦難に遭った人々なのだろうと思います。その神の同伴のもとで、生から死への悲しみを耐え忍ぶことに救いを求めるしかなかったのだろうと思います。
 
絶対孤独からの解放が信仰です。
 
つまり、神を想う人々は、どうしようもない苦難に対して、全知全能の神、たとえ、今は、背後にいて、見えない存在だとしても、そういう神が存在するのでなければ、生きられない、というほどの実感があったのだろうと思います。
 
言い換えれば、神?が完全だと分かるから信じる、というのはカルトであり、その神?は、人を救える神ではない、ということです。そういう捏造の神?を信じようとする向きは、大方、自己中心で自己顕示欲の強い者たちだろうと思います。
 
神を想う思慮深い人々の願いは、たとえ自分が苦難のうちに死に絶えても、残してゆく家族や次の世代に希望をつなぎたい、という切実な思いもあったかもしれません。だから、キリストも、預言者も、世々の聖徒たちも、迫害によって死ぬことを辞さなかったのかもしれません。
 
即ち、神がいるから、神が分かるから、ちょうどよくて信じるのではなく、信仰者は、信仰や宗教よりも先に、苦難に耐えがたい悲しみをいだくゆえに、最後の希望を、神に託す人々であります。
 
 
聖書は神の言葉と言われます。しかし、私たちは、人の言葉で表された聖書を、人の頭の理路と心の共感力で受け取るしかありません。そこには、人間の不完全性、即ち、罪深さによるリスクが伴います。
 
聖霊の導きによって、神の言葉が分かるなどと言う人には注意してください。聖霊という神格が降りているかどうか分かるような能力は人にはないのです。超常を引き寄せたいという欲望は、空想と欲望の産物であるカルトの特徴です。
 
そういう、欲望が空けた隙間のような欲求に、入ってくるのは、悪魔の誘惑、自己顕示欲からの超常願望、あるいは、有頂天の陶酔気分、そして、カルトの悪意、といったものだけなのです。
 
言葉は、伝達のための暗号です。そして、一つの言葉が、必ずしも、いつも、一つの心の動きに対応するとは限りません。数学や物理学と違って、心は揺れ動くものです。経験によっても変わるものです。
 
また、人によっても、異なるものです。心の動きは、感じることはあっても、どう動いているか、はっきりとモニターできるものではありません。信仰を伝えるにあたっては、そういう人間の心の不完全と不安定を弁えておく必要があります。
 
あるとき感動を覚えた対象に、次の時にも、同じ感動を覚えるとは限らず、むしろ、感動したという記憶を想起するだけのこともあるかもしれません。それほど、言葉と心の関係は、相対的で不安定で流動的なものです。
 
ただ、後になって、あれは、あのとき、あの聖句を読んでいたのは神の導きであったのかもしれない、あの成り行きは神の導きであったかもしれない、ということを思ったり感じたりすることはあるでしょう。私たち人間に許されるのは、そういう推測にとどまるべきなのです。
 
 
したがって、信仰を伝えるときに、同じ言葉を言って、同じ伝道が出来たと思うことは、人に対しても、神に対しても、不遜なことであります。また、ここでも、聖霊の導きが、神の恵みが、などと決めつけないようにしてください。人間は不完全だから、伝わらないことはあるのです。
 
もちろん、伝えるということは、信仰については、どんなに努力しても易しいことではなく、どう努力すればよいのか、とさえ思ってしまうものです。信仰は、聖書の言葉は、神聖の導きは、それを分かって不動にするためではなく、また、決して生命保険のような保証でもないのです。
 
信仰は、悲しむ心を癒やし、努めることをやめない忍耐力のためにあります。何よりも、福音伝道を支えるのは、聖書から受け取るところの、キリストの共感の愛であり、キリストへ共感のの愛であります。そこが、キリスト信仰の中心であり、つまるところ、総てであるかもしれません。
 
 
 
※ 記事とは関係ない、ある日の愚痴です・・
 
言葉だけ丁寧で、書類と話してるみたいで、ペラペラペラペラペラ、温もりも潤いもなくて、反応も単調で、鬱とか病歴とか個人のこと話しても、水害と天気とか話しても、言っただけ損した気分になるだけで、自分の都合しか言わないし、言葉だけ丁寧野郎で、何日までとか、脅迫めいた文言を、同じ口調で言ってくるし、甘えるなとか煩わしいとか思っていそうな、それで仕事してるつもりの、手続き的な事務連絡か録音見本みたいな、しかも、早く済ませたい感じの早口で、ペラペラペラペラ、言葉だけ丁寧野郎の、結論を急がせる台詞だけで、露骨に責めてくる人より気分を滅入らせる、うす笑いの圧力の、冷たい顔と声のまま固まって動かない、典型的に鬱の増悪因子の、そういう人と、私は話したくない。
 
書類かかえて、他にないような説明をし、あとは電話で数回、電話しましたか、行きましたか、行ってないですか、明日は行きますか、行きましたか、入院は来週末までです、抑揚のない声の調子、ケースワーカーの説明じゃない、口答えできない事務の声、いつか、ぶん殴りたいと感じる対応、それで相談の仕事してるつもりか、・・なのに何も言えない、・・雨にも負ける、風にも負ける、・・
 
 
前にも引用しましたが、
三島由紀夫原作映画「午後の曳航」の中の台詞の字幕。
 
「殴られるより悪いことがある」
 
 
神と人の言葉

神と人の言葉
 
 
(2020年)
(2021年)
(2022年07月29日、再録+加筆)
 
 
 
  送り・過ごし
 
いったい幾度の別れを
幾人の死を
送別・告別の礼を見過ごしながら
見送るのだろう
名も無き送り
名も無き過ごし
尊い人々
私の死を見送る者はいない
私は死にながら
生きながらにして見過ごされるのだ
無名と無礼とウソに
日々を年月を送り過ごして
過ちという過ちに送り出されて
 
 
  よいしょ
 
よいしょ
で担ぐものは
もちろん物だけではない
立つとき座るとき
動き出すとき休むとき
よいしょ
よっこらしょ
で担ぐものは
片付けた何か?
整理してしまいたい何か?
済んだことにしたい何か?
景気付け・元気付け
で軽くしたいもの? それとも
生きてきた年月であろうか
背負ってゆく年月であろうか
自分自身であろうか
 
よいしょで出世する奴もいれば
よいしょも言えず難渋する人もいる
と言えるだけ仕合せというもの
まだ生きているということだ
自らの測れない軽さ・重さを背負って
私も立ち上がる
うんこ
 らしょっ・・・と
 
 
  置き忘れ

君の気持ちを置き忘れ
君の面影を置き忘れ
あの言葉を置き忘れ置き忘れたことに気づいても
取りに行けないものが多すぎて
長い長い
永い永い
知らない町に住んでいた
上手な明日をこねようとして
下手な朝をこぼして
昼から夕へころんで
みずぼらしい夜に流れていった
思えばあっという間だったと
言うそばから歩きだすウソ
恐らくは余命の尽きるまで
人には失せた他人の首に過ぎなく
おろおろと探している
頭のないその頭
見なかったはずだと背を向けて
数えきれない影も声も
物忘れの箱に
無理に押し込めようとして
きしんだ老化
置き忘れられて久しく
まだ育ってもいないのに
窓をそめてゆく光のなかで
またひとつ
そこなわれてゆく夕暮れ時
 
 
  秘められた目
 
そらした視線の奥に
とじられた来歴
見知らぬ人
途切れた眼差しの向こうに
 
乾いた涙腺にかくされた思い出
小さな花々よ
雑草の中で揺れて
 
眉間に集まる怒りをなだめて
波打つ草原のかなたに
ひそかに落ちていく果実たち
 
まぶたの裏に
哀しい幻を見る瞳
小さな窓から
見渡せる
限られた風景
 
力なく落とした肩が
物語る姿なき恐れ
はるかに続く道
その先は町並みの明かり
あるいは森の火か
行ってみなければ
見えてはこない
 
苛立ちを耐えている
ふるえる唇
伝える言葉は乏しく
伝わるものはもっと少なく
海岸線を眺めている
その足元で
海の音を宿している
拾われなかった無数の貝殻
それぞれの
ひとりきり
 
今日は何をしましたか
ただ生きれるように生きてみました
だから今は
数々の今日に重なる
明日を待ちます
 
 
  命のほとり
 
いのちの
ほとりで
あそぼ
 
いのちの
のこり火に
手をかざそ
 
投げられた
ちいさな つぶて
ひとつひとつに
ていねい過ぎるほど
苦しんで
 
たかぶる神経
その線の果て
 
なにもかも
むだ
だったのでしょうか
失うものばかり
だったでしょうか
わからないことにさえ
苦しんで
 
あきらめの
ふちで
こころおきなく
なけるなら
言ってみたい
ことばがあります
 
もういつ死んでもいいです
もういつ生きてもいいです
 
いのちのほとりで
あそぼ
 
 
 
楽山の害毒メモ:
今までに表れてきたこと。これは、楽山に限らず、聖書においてキリストの敵となった宗教指導者や、偽善者の特徴でもあります。この世で最も迷惑な人の特徴です。
 
人格:
自己愛が強く自己中である。
笑いと怒りしかなく、反省と共感がない。
自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)と思われる。
平気で嘘を吐く。様々な詭弁を弄して、柔和に見せかける。
深い情感がなく、共感性がない。不感不応。
後悔、反省、修正ができない。学習による成長がない。
罪悪感、羞恥心が見られない。サイコパスと思われる。
アドラー心理学の宣伝をしていた。自己中心である。
中身や実質のない形骸的精神機能しか持たない。
 
議論:
議論や交流が、表面的で、整わない、できないし、する気がない。
相手の意見を受け取っていないので、反論、弁明が成り立っていない。
理路が常識的にも浅く、基本的に訂正不能である。理解力がない。
自分なりの堅実な理路を組み立てられない。
読書自慢。感想は平板で、独創性や深みがない。
様々な気取り。読書家気取り、評論家気取り、インテリ気取り、など。
分かっているという我執から離れられない。
非を指摘されると、逆に、こちらに当てはめて被害者面をする。
人を批判~誹謗中傷するが、その言葉で自分が斬られるブーメラン現象。
真面目に応答~議論すればするほど、病的な徒労感と疲労のみをもたらす。
ボンヤリ言語:語尾を濁し曖昧で婉曲的な言い方で、印象を刷り込もうとする。
トホホ言語:謙虚で弱いと思わせて悪意を隠すための嘘の芝居。
しばしば、自身への同意を期待して、見え透いた世辞を言う。
「反省。とほほ」などと書くが、不自然であり、前後で何も変わらないので嘘です。
 
宗教:
反キリスト、反宗教。聖書およびキリスト信仰を、貶めてくる。
キリスト教とキリスト信仰を字面だけで云々し、理解していると思い込む。
HSを脱会したと言っているが、真実かどうか、疑わしい。
霊能者のつもりだが、それに見合う直観的洞察は皆無である。
 
楽山の書いた文章を、3年数か月のあいだ見てきた結果ですから、大きく変わることはないでしょう。これらについては、新しい情報によって、必要なら加筆し、繰り返し載せることになるでしょう。
 
 
 
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  祈る心3
 
   「祈り、でもでも」修正、加筆。
 
 
祈りたい気持ちがあって
祈りたいことがあるから
まだ信じているのだろう
実際には
毎日のように祈っているが
殆ど、そのときの心境の吐露
 
でも祈ったからといって
何か変わるのかどうか
変わるとして
それは目に見えるのかどうか
人に分かるのかどうかといえば
どちらも人には
はっきりとは分からない
 
信仰が全知全能の神に従うことなら
不完全な人の信仰は
完全ではありえない
 
つまり分かっていると思うことは
御心か人間の勝手かどうかさえ分からないのに
分かったことにしやすいという自覚
 
神が云々・・ではなく
自分がどうなのかが信仰の祈りである
 
つまるところ
反省もせず分かったつもりになり
かつ分からないと言わなくなったら
もはや信仰ではない
 
祈りたくなるのは何故だろう
委ねたくなるのはなぜだろう
そうさせているのが信仰だ
そして神だ
 
どうしても人には分からないことがあるからだ
 
神のなさることは分からない
 
人によっては
完全を気取った祈りが
実は自慢だったり呪いだったりする
 
いくつもの祈りの結果が総て益でしたなんて
あらかじめ感謝と讃美が前提として
固定した教条の鉄則になっている人の
正直を押し殺した多幸の強迫観念だ
 
祈るとき鰯の頭を仰いではいないが
弱いから何かに頼りたい気持ちはいつもある
 
叶う叶わないにかかわらず
打ち明けて任せる相手を求める立場から出発しているからだ
 
でも本当の神を想いで信じ込むのは背教であり
何も整ってはいなくて
むしろ整うことも壊れることも不完全なのである
 
正しく信じていない自分
信仰の薄い自分
 
いつも
そこから始まっている
 
不完全、欠点だらけ
いたたまれなくて
祈り
 
 
 
人の言葉の不完全さ・不十分さを
書いたり読んだりするたびに思います。
そのたびに修正するとしても、
修正が必要であると感じること自体が既に不完全を示しています。
人の信仰は完全にはなりません。
 
前にも書いたけど、揺るがない信仰は、忍耐強いのであって、
信仰の固定と訂正不能は、もはや信仰ではありません。
 
自分の信仰を固定するのは自分信仰です。
それはまた唯一の絶対・永遠・不変の神
という飼い主である神を無視する行為です。
神以外に完全はありません。
 
神を仰ぐのであって
神を理解したから信じるのではありません。
 
神のもとに
そして誰よりも
キリストの元にあるのは
理解ではなく
むしろ共感に近いものです。
ゆえに愛に近いものです。
 
神の導きは、どのようにあるか、事前に人は分かりません。
事後にも、完全には分かりません。
次に連なるのが、恵みか、試練か、人は確定できません。
 
信仰によって生きてゆく意志を与えられることはありますが、
信仰によって生活が便利や有利になるわけではありません。
 
恵みと試練は同一なのかもしれないと前に書いたことがあります。
自分の思いは様々あっても
自分の気持ちだけから、恵みだ、試練だ、と確定してはいけないのです。
 
修正ばかりしていると、なんだか、不安定で、
いい加減のような気もするけれど、
その時その時は、一所懸命に書いてきたつもりなので、
自分の判断はその程度なんだ、という自覚は、結局、必要になります。
 
それは不完全である自覚
  =罪の自覚でもあります。
 
人の言葉は、伝達のための暗号です。
 
神の言葉が完全でも
聖書を読む人の言葉は不完全です。
 
人間の表現の、目に見える手立て、
すなわち、言葉、態度、行為、サイン、筆致、
全て伝達手段として
広い意味で、言葉と言ってよいでしょう。
そういう人間の言葉は、当てになりませんが、
その時その時は、当てにしているのです。
他に、人間は、表す言葉を持ちませんから。
 
神の言葉であるという聖書も、
私たちは、人間の言葉によって、
自分の言葉の世界において受け取っています。
 
神の言葉だから正しいと
持論の聖書の解釈を主張するのは甚だしい間違いです。
受け取って伝えているのは不完全な人間です。
 
聖句の一つ一つに魔法を期待してはいけません。
聖書の言葉は、誤解によって、人によっては、
躓(つまず)きの石ともなり得ます。
聖句をいつも正確に受け取っているわけではない人間が使うからです。
 
自分の心に起こる動きを、正確に対象とすることは難しく、
心を動かされたことも、恐らく、自分で言葉化してゆくのでしょうから、
信仰には、一時的には、不可避に、自分信仰の部分があります。
 
しかし、それを信仰だからと確信する方向には、
神と同一そして一体感という恐ろしいカルト信仰が待っています。
 
ゆえに、反省による学習によって成長できる信仰であることが必要です。
難しいことではなく、その最も大切な時と所が、祈りであると思っています。
 
祈りだけは、信仰の心が全くなければ、することはないでしょう。
祈るのは、信仰の心が、ちょっぴり以上あるからなのです。
 
正直に祈りたいという気持ちが、まず、第一に、信仰の、最も確かな恵みなのです。
 
 
祈る心 信仰

祈る心 信仰
 
 
(2020年)(2021年)
(2022年06月14日、再録+加筆)
 
 
 
  聖なるあした
 
明くる日は
あした
また来る朝も
あした
未知なる希望
消え入るごとく
ささやかに
 
聖なるもの
聖なるものよ
その道に至るまでに
怒りのパン種を懐に隠した
旅人が幾度つまずいたのですか
鶏が鳴く前に
何度
泣かなければならないのでしょうか
 
 
  ある朝
 
浅い眠りののち
終わろうとしている秋の
まだ暗い朝に目覚める
昨日のことを
「だったようだ」という
思い出し方をする
頭の中にもやのように
場所も定まらず
迷う悔い
何か言い損ねた
言葉でもあったのか
メモ帳に小さく書き留める
今日の予定
すでに果たされなかった夢の色
うつして小さなバラ色だ
空が白む頃には
今日の命たちの
また喜びと悲しみが始まる
捨てかねている命に幸いを
昔の歌を口ずさみながら
泣けてくる心に別れを告げて
朝の祈りをこめて
昨日にさようなら
もう少し眠れていたら
見たかもしれない夢に
さようなら
 
 
  不眠症と祈り
 
何もかも呑み込んで夜が来る
のみ込まれて黙り込む
静けさに目を閉じる
さまざまな夜の形を打ち消して
最後に犬が吠える
眠れない人が闇に驚く
 
 祈りは夜とともにあった
 言葉は夜であった
 光は夜のかたすみに
 あやうい形で揺れていた
 祈りは涙と親しく
 いつしかお互いに拒んでいた
 涙は形にならなかった
 祈りはさまざまに否みながら
 光となって揺れていた
 光は言葉であった
 それらすべてを包み込む
 形は夜であった
 
何もかも解き放って朝が来る
沈んだ眼の水平線が離れる
あらゆる隙間から光が射し込む
数々の挨拶を抱えて出かける人々
さまざまな光の形に打ち抜かれて
眠れない人は黙り込む
 
昼となり夕となった
それがいつも一日目の終わりであり
終わりの日の始めである
 
 
  悪魔
 
悪魔とは何か。
それは今、私の中に満ちているものである。
と考えてみる必要があろう。
他人について魔女狩りをする前に、
自らの中に潜んでいる悪魔狩りをしてみるべきである。
それが到底できないことに気づくであろう。
私はさびしく語るほかはない。
他人を見る心において
私はしばしば悪と親しく、
絶望のふちにおいて
私は魔と友人である。
私は人をむさぼり
自らをむさぼり
むしばまれてゆくだけなのか。
父なる神はどこにおられるのか、
わが救い主はどこにおられるのか。
皿に盛られた料理を汚く残したまま
私はかつて笑いの中で主の盃に加わり、
今は嘆きの中で顔をそむける。
そむけた顔の後ろに、忘れようとして
忘れることのできない言葉のまなざしに
主よ、あなたの御名によって・・・
私という名の悪魔が
父の手によって裁かれますように。
私はさびしくつぶやき
不遜の祈りを語り続けるだろう。
 
 
   人間離れ
 
宗教がそして信仰が人間離れしていくとき、それは宗教が最も危険な状態に陥ろうとするときです。そしてそれは宗教が宗教であるがゆえに最も日常的に直面しやすい問題でもあります。
 
偶然のように突然起こった不幸を無理やり神の意志・計画として辻褄を合わせようとする心の働き、飲めないものを無理に飲み込もうとして力んで平静を装おうとする姿は、何らかの信仰を持つ者にしか起こりえないでしょう。
 
それは耐える姿ではない。人間離れした力をわが身に強制するカルトの姿に近いのです。人間離れしたものを立派なものとして求めようとする恐怖に駆り立てられた行動なのです。
 
悲しみを悲しみとして受けとめれば、嘆き、怒り、時には背教の念さえ抱くことがあります。そういう裸のありのままの姿の自分を見て、神の前にさらけ出し認め自覚することによって、隠さず正直に神に告白して祈り、無力を認め力を求めることで、初めて耐えるという忍耐の行為が生まれるのであります。
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
祈る心も、悔いる心も、癒され癒す心も、反省する心も、持っていない楽山です。我欲を貪るために、マルチに成りすまして人を誘導します。アンチカルトなどと思わないでください。人を自分より低く見て、人を傷つけて、優越感を貪るのが楽山です。柔和の装いに騙されないでください。
 
 
 
 楽山の過去のツイッターですが
 
心機一転★こも楽山さんがリツイート
パスタファリアン
@FShinnja
普段、幸福の科学の盲信者を見ていると、ああこれなんだなと思うことがあくつも。
ただ、我が身もふりかえり、気を付けなくてはいけないとも思う。
午前0:32 · 2021年6月9日·Twitter for Android
https://twitter.com/FShinnja/status/1402287337535459331
 
引用元ではなく、引用した楽山を批判しています。
 
楽山は、いつも、卑怯で、狡猾で、企みますが、大人の人格に成りえていないので、心は、ネズミ花火のようなものです。人を盲目にして、自らの盲目に気づかないのが、楽山です。恐ろしく知性も感性も劣化して、責任ある言動が出来ないのです。
 
「ああこれなんだな」と、いつも、他者を嘲笑っているのが楽山です。さらに、楽山は、「我が身もふりかえり、気を付けなくてはいけない」などとは思っていません。楽山は、だまされる側ではなく、自家製の詭弁によって、いつも、だます側の自覚だからです。
 
したがって、賛同したつもりでも、共感のつもりでも、自己愛性人格障害の楽山には、正常人の真似はできません。楽山には、共感も、誰かを真に尊敬することもありません。よって「我が身もふりかえ」ることなど出来ませんし「気を付け」ることもしません。だまされないでください。
 
楽山は、自分カルトですから、我が身を振り返ることもなく、慢心して、充実しているつもりで、人に意見が言えると思っており、かつ、その意見は客観的な卓見だという自覚があるのでしょう。自分のみすぼらしさを感知する能力がないので、自分の言ってることの下劣さに気づきません。
 
 
 楽山かもしれない筆致の過去のツイッターですが
 
raku
@rakusyo34
自分のやったことはブーメランで自分に返ってきますね(・_・;
午前9:03 · 2021年6月9日·Twitter for iPhone
https://twitter.com/rakusyo34/status/1402416024557813760
 
最初、こちらにブーメランと言ったのは楽山のほうです。しかし、今までに、こちらが、楽山について、ブーメランという指摘をすることが、つまり自爆のようなことが、どれほどあったでしょう。書けば、おかしなことにしかならない、因果の、因が楽山で、果が楽山、という繰り返しです。
 
楽山は、こちら、または、キリスト信仰を、批判・否定・攻撃して自己正当化をしたつもりで、ひっぱたかれるのは、いつも、楽山のほうなのです。こちらは、楽山が書くたびに、楽山の文章から、楽山批判の題材を受け取っているという成り行きです。
 
 
心機一転★こも楽山さんがリツイート
Testosterone
@badassceo
断定口調で話す奴や偉そうな奴は信じるな。賢くなればなるほど自分がいかに何も知らないか気付いて断定口調で話さなくなるし、偉くなればなるほど偉そうに振る舞う必要がなくなり腰が低くなる。断定口調で話す奴は100%ただのバカだし、偉そうな奴は120%実際は偉くない小物。お前ら、これメモっとけよ?
午後6:34 · 2021年6月9日·Twitter for iPhone
https://twitter.com/badassceo/status/1402559816610967554
 
引用元ではなく、楽山を批判しています。
 
断定口調でなければ大丈夫と言うことはありません。その最悪の例が、楽山ブログとツイッターであります。断定口調を避けることは、断定できるほどの責任を負えない楽山であったり、柔和を装う楽山であったり、刷り込むための楽山の丁寧語であったりします。
 
断定しているから受け取るのではなく、断定していないから安心するのでもなく、冷静に理路と心の共感を追う姿勢が大切です。楽山は、冷静に、冷酷に、邪悪な詭弁の理路を捏造し、理解と共感のなさを、とっつきやすそうな言葉の体裁で繕う婉曲表現が手口なのです。
 
 
 
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  雑感まとめ
 
前に、「雑感」として書いた記事を、再録+します。
 
 
  障害と人格
 
 
障害を否認し障害に卑屈になれば
障害を補う努力を怠り
障害を隠そうとして
人格が嘘吐きになります。
 
健常者に恨みをいだくなら
健常者をだますようになり
健常者以上の振りをして
人格がますます大嘘吐きになってゆきます。
 
 
障害を認め障害に折れなければ
障害を補う努力をするようになり
人格が障害を克服します。
 
 
私は、小1の時に発症したリウマチ熱による大動脈弁逆流という心臓弁膜症と、対人緊張と、鬱と、自業自得の喫煙による慢性気管支炎が、現症です。最近、不整脈も出るようになりました。耳は遠くなり、目は薄くなり、筋肉は衰えました。
 
今さら、どうしようもないので、予後を含めて、神様にお任せするしかありません。
67年も生かしてもらいましたから、今は、それほど、長生きしたいとは思っていません。
 
 
  詭弁
 
美辞麗句は、実行性が具体的にあるかどうかを判断してください。
美辞麗句だけ並べるのは、詭弁です。
 
聞くに麗しいことばかり言われて、いい気持にならないでください。
実行と実質が伴わなければ、ただの嘘です。
 
やさしい顔・態度・言葉は、やってきたことと一致するかどうかを判断してください。
やさしいふりだけなら、独裁者も見せてきました。
 
似て非なるものを並べて同一のように話を進めるのは詭弁です。
 
大きくて曖昧な道理によって、個別を語るのは詭弁です。
 
個別の事柄をもって、全体を語るのは詭弁です。
 
 
 愛
 
昔読んだ現代詩の中で
とりわけ印象深い詩句があります。
 
 愛の歌には
 なぜか愛のことだけが書かれていない
 
  (※仮名遣いが不正確かもしれません)
 
愛という感情そして深い情緒は、必ず深い悲しみを経ていると思います
 
だから、愛を讃え、愛を謳歌して、盛り上げようとするだけの歌に愛はないし、それはお祭り騒ぎに過ぎないし、派手な供え物に過ぎないと思っています。人間が、愛を本当に知り、愛に感動するのは、悲しみを知っているからだろうと思っています。
 
愛だけではなく、多くのよさそうな言葉、正義、善、義、というものは、愛を知らない者が使えば、虚言、悪、偽、であるかもしれません。
 
本当の愛は、温もりと潤いを知っており、癒しと涙を知っており、すなわち、共感と悲哀を知っています。それが一番大切なことであり、信仰のいちばん重要なところでもあるのでしょう。
 
 
 神の言葉、人の言葉
 
聖書は神の言葉と言われます。しかし、この表現が、誤解され、多くの躓きとなっていることを憂慮します。
 
日本では、聖書は日本語の聖書が読まれています。日本語って、言葉って、そんなに正確なものでしょうか。一つの言葉が、人によって違う意味で使われていたり、一人の人によっても、ときによって意味が変わることがあります。また、元々二つ以上の意味を持つ言葉もあります。
 
人間の使う言葉は、それほど褒められるような完全なものではないのです。言い換えれば、人の言葉は頼りない出来であると言ってもよいと思います。
 
神の言葉は絶対です。しかし、人間は絶対の言葉を持たないのです。また信仰は言葉ではありません。言い換えれば、聖書の言葉を、人が受け取って、絶対化することは、信仰に反します。言葉を繰り返し唱えておれば、聖書の言葉を繰り返しておれば信仰になるでしょうか。否であります。
 
そこを勘違いすると、聖書を勝手に解釈してそれを信じ込むというカルトになるでしょう。
 
信仰は心にあり
心に働き
心を働かせる賜物です。
 
信仰の心を、いつも正確に表せる言葉はありません。こう言っとけば大丈夫などと思っていたら、いつのまにか、心を動かさない言葉になっていることもあるのです。
 
大切なのは心であって、言葉は心を伝える手段なのですから、手段として大切にして、聖書を読む必要があるのであって、聖書の言葉は絶対だから安心などと思うと、いつのまにか心を動かさないものが信仰?と呼ばれることになってしまいます。
 
これが、人間の不完全性
そして罪の性質であります。
 
 偽善者は言葉でごまかそうとします。
 聖書の言葉を悪用します。
 都合の良いところだけを取り出して
 聖書に書いてあると知ったかぶりをします。
 
言葉は絶対ではなく
人間の心においては相対的なものです。
 
神の言葉は絶対です。しかし、それが記された聖書を読み取るための私たちは、人の言葉しか使え前戦。つまり、聖書の言葉は、人においては、決して絶対ではないのです。信仰は聖書を読めば何でも分かるというような安穏の境地ではないのです。
 
信仰が私たちに担保するのは、いつでも聖書を読むことが出来て、いつでも学習し直せるということです。信仰は学びの道であります。そして、いつでも正直に祈ることが出来るという恵みがあります。
 
 学びを疎かにして慢心するところには
 思いこみの繰り返しが信仰を損なってゆくでしょう。
 
私たちは、この地上の苦難に接して、聖書を読んで受け取ったことと、これから受け取ることと、受け取って考えることをもって、生きてゆく存在であり、神とは違う相対的な存在です。
 
生き方についても、言葉についても、聖書についても、私たちは学ぶ務めと意識を持つことが、信仰には大切なことです。そして、正直な祈りだけが、信仰の義に結びつきます。
 
まさに信仰について、正直な祈りに支えられて、聖書と体験によって学ぶという修道は、間違いだらけの信仰者が成長するための、唯一の生き方であり、信仰生活の日常なのです。
 
 
幾年月 幸い

幾年月 幸い
 
 
(2020年09月15日)
(2021年09月22日、再録+)
 
 
 
    初恋の頃
 
 (あんな若い時代があったと懐かしめればいいのだが何故か
  歳をとった今の自分があることが不思議に思えてならぬ)
 
再びめぐり会うことはないと
気づかれもせぬままに
与えられた一つの笑顔さえ
もうはっきりとは思い出せないほど
遠く走り過ぎたような気がする
 
 すれ違うバイクに
 ピースサインを投げられた
 さりげなく手を上げてみせる
 ピースサインは出会いの挨拶
 そしてまた別れの挨拶
 
出会うことが別れだったあの日
見知らぬ土地のピースサインのように
私もまた笑みを返した
秋の街をとぼとぼと帰った
 
あの頃 バイクを知らなかった
パソコンもなかった
詩も読まなかった
だが人を愛することだけは知りたかった
遠く過ぎ去った面影に
言葉をかけるすべはない
かわりに吹き抜ける風の中で
私は小さな詩(うた)をよみたい
君は今
どんな顔をして生きているのだろう
 
 まぶたを閉じれば浮かんでくる
 あの教会
 あの下宿
 およそ二年の歳月が
 そこには遠くまどろんでいる
 
 
  逃避
 
命には限りがある
出会いにも限りがある
愛にも限りがある
なのに別れだけは永遠だ
いつまでバイクに乗っていられる
いつまで生きていられる
すべてを変えてしまった時の長さに
深く刻まれた沈黙の中を
捧げるあてもない命
運んで俺のバイクは
永遠を噛みしめながら
走り続ける
かすかな記憶の
さいはてに向かって
 
 
(大昔・・)
 
 
 
 楽山のツイッターですが
 
心機一転★こも楽山
@komo266
遠江さんは、批判したら面倒なことになりそうな相手でも、見て見ぬ振りせず、きちんと声を上げる人なんだ。
真理に忠実なのか、単に空気を読めないだけか分からんけど、どちらにしても貴重な人材だな。
午前7:03 · 2021年9月21日
 
「見てみぬふりをせず」に書いてくる批判を、平気で無視するのが楽山です。不感不応の訂正不能で、書き続ける言論失格者です。そうすることで余計に面倒なことになります。もはや、楽山を、直接には相手にせず、徹底した批判を貼りつけてゆくしかありません。
 
楽山は、文脈を、理路を、流れを、情感を、人の心を、空気を、状況を、全く読めない人です。言論において、貴重どころか、邪魔であり、有害であり、病害因子であるところの、うっとうしいカビ~寄生虫~ばい菌のような存在です。
 
楽山の、丁寧語に、曖昧なボンヤリ言語に、同情を引こうとするトホホ言語に、嘘に、詭弁に、学者気取り・インテリ気取りなどの気取りだけなので、だまされないようにしてください。真に受けると、無思考、高等感情鈍麻、自己中心、という、人間離れのペテンの世界に染まってしまいます。
 
忠実になるべき対象の真理を分かりもしないのに「真理に忠実」と言っています。実は、これ、大言壮語なのです。誰も真理を知りません。ゆえに、何が忠実であるかも知りません。こういうところに、自己愛性人格障害の慢心は表れてくるのです。ゆえに、空気も読めない軽佻浮薄の楽山です。
 
(ネットより)
軽佻浮薄(けいちょうふはく):かるはずみで言動がしっかりしていない様子。
 
 
 
私の「ウソの国ー詩と宗教」ブログ:
 
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http://st5402jp.livedoor.blog/
(古い記事もインポート済み)
 
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