ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

タグ:神秘体験

 
  人のことばかり語る楽山2
 
 神秘体験の影響力
 (『宗教的経験の諸相(下)』W・ジェイムズ著)
 2021年07月13日 楽山日記(LD)
 
 
本を読んだつもりで書いて、自分を高めたつもりになって、自分の非だけは認めず、宗教と信仰を短絡した空想の理屈で語ってきて、誰の役にも立っていないことも、迷惑になっていることも無視してゆく根拠を、神秘や心霊に求めても無駄だということが、楽山が何か書けば表れてくるのです。
 
楽山のように自分の罪と偽善を棚に上げて、他者のことを批判することは、偽善者の罪業であり、どんなに、もっともらしいことを書いても、もっともらしい文言の分、むしろ詐欺性は増すのであります。悪を悔い改めないまま、善を上塗りしても、際立つのは、偽善性という最悪だけなのです。
 
 
*神秘体験の影響力(本人)
神秘体験の本人に与える影響について、『宗教的経験の諸相』には次のように書いてあった。
神秘的状態は、それが十分に発達した場合には、普通、その状態になった個人に対しては絶対的に権威をもち、そして権威をもつ権利がある。
(『宗教的経験の諸相(下)』W・ジェイムズ著、桝田啓三郎訳、岩波書店、2015年、p.249)
 」
さらに著者は、体験者本人に対して合理主義によって「どんな不平を唱えても無駄である」し、
 
霊が分かるっぽい楽山の霊能者気取りに対して、何を言っても無駄であることは、約3年間批判してきても不感不応である楽山に表れています。実際には、楽山は、気取りだけで、何の洞察もなく思考の糧にもならない人です。
 
自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)と言わざるを得ませんが、楽山の学者気取りと、訂正不能の反キリストぶりは、理路もなく、良心もなく、いつも自分のほうが上という自覚から、反省も後悔もなく、放たれ続ける毒矢であります。
 
それが、楽山が、体質的な病的ナルシスト、即ち、自己愛性パーソナリティ障害者であることを示しているのです。楽山は、不平を言っても無駄だから、何を言ってもいい、何を言っても正しいと言いたいのでしょうか。楽山は、不平を言われているのではなく、否定されているのです。
 
 
仮に「その人を監獄や精神病院へ投げ込」んだとしても、その者の「心を変えることはできない」どころか、むしろ「彼の信念をますます頑固にするばかり」であり、結局のところその者を「私たちが好もうと好むまいと、そっとその信条を享受させておくほかない」のだという。
 
だから、楽山は、精神病院に入れても治らないし、楽山が信じこむこと自体は、変えることは出来ないでしょう。その成れの果てとして、慢心し、傲慢になり、訂正不能になって、人間離れしてゆく楽山の有り様を、楽山自身が、詭弁で正当化する間、症状が表れてくる成り行きなのです。
 
 
これはよく分かる話だ。恥ずかしながら自分は、とある新興宗教を「これは本物だ!」という神秘的直感によって信じてしまい、他からどんなに意見されても判断を変えなかった過去がある。この時の自分の心を思い出せば上の話に首肯せずにはいられない。神秘体験なり、神秘的確信によって特定の宗教または信条を信じ込んでしまっている人の心は、どれほど合理的な反対意見であっても、それを否定する客観的な事実を提示したとしてもそう簡単には変えさせることはできないものだ。
 
何が「よく分かる話」なのでしょう。楽山は、仏様の気持ちが分からない家族に驚いたという記事を書いています。冗談だろうと思っていたら、何を考えるにも、霊とかの超常のことを書いたり、霊言なるものを引用したり、神を否定したりなど、傲慢だけが表れてきたのです。
 
それで「変えさせることはできない」から好きにさせろとでも言うのでしょうか。楽山を変えることは、とうに諦めています。批判によって楽山の詭弁や嘘を指摘して否定すること自体が、楽山に対して為すべきこととなっているわけで、そういうことも書いてきたのに、まるで理解できない楽山です。
 
霊能にこだわらなくても、はっとさせられたり、洞察や共感があれば、優れていると分かりますが、そういう目を覚まさせる発言内容は、楽山には、皆無であります。楽山は、新しい何かを語れる人ではなく、ただ、自己顕示欲だけの超常霊能フェチの退屈な人です。
 
超常にこだわり、その方向に思考が流れて、宗教も信仰も、人間の問題として考えることのできない人です。だから、いかなる問題も、解決の方向には向かず、ああでもないこうでもない曖昧な話になり、ボンヤリ言語と、トホホ言語の謙虚芝居でごまかしてきたのです。
 
楽山は、宗教を語れる人ではなく、宗教を批判できる人でもなく、オタク的趣味に生きるしかない人だから、非合理で、理路を組み立てることが出来ず、結局、神秘気取りの妄想で、無反省に、無責任に、雑言の一方通行で、人心を煩わせる経過にしかなっていません。
 
 
*神秘体験の影響力(第三者)
同書には、神秘体験の第三者に対する影響力についてはこうある。
神秘的状態の啓示を、その局外者に対して無批判的に受け容れることを義務付けるような権威は、そこからはけっして出てこない。
(同上、p.249)
 」
著者はこれとは別な言い方で、神秘体験をした者がそうでない者に対して、その者が「召命を感じて」自ら受け容れる場合を除いては「その独特な経験について伝えるところを受け容れよ」と要求する権利はないともいう。
 
神と宗教と信仰を、人間には分からないはずの神秘体験で語れると思っていること自体が、楽山の最初から今に至るまでの、理路と直感の貧困というべきでしょう。宗教が必要ないなら、分かりもしないのに宗教を、安い先入観で語るべきではないのです。
 
楽山の無反省で無責任な発言は、いかに神秘と絡めても、受け入れてはいけないし、受け入れる価値はないし、批判され、否定され、雑巾のように捨てられるべき経過しか待ってはおらず、楽山の自己満足に付き合うことは、誰にとっても、人生の大切な時間を無駄にすることに他なりません。
 
 
これも確かにその通りだ。たとえばある者が神の声を聞くという神秘体験をしたとして、万人にこれを信じなければならぬという義務が発生するはずもないし、そもそもそれは不可能なことでもある。
 
ならば、霊が分かるっぽい楽山の言も、伝わることもなく、何の価値もないわけで、楽山は、自分の無価値を主張したいのでしょうか。ならば、宗教と信仰について、信じてもいないのだから、何も言わないでほしいと思います。自己中のために、いたるところで矛盾してくる楽山の言です。
 
宗教的に偉大な存在というのは、人間にとって、知らなかったことを知らせ、感じなかったことを感じさせ、新しい目覚めを促す存在でありますが、楽山には、そのような賜物はありません。楽山は、宗教にも信仰にも、全く縁のない、煩わしいだけの病質者なのです。
 
 
大袈裟なたとえ話をするならば、もしある宗教がこの道理をわきまえず、教団の内側に向かってだけでなく外部に向かっても教祖の語る神秘体験を信じなければならない、これえを疑ってはならない、そのまますべてを信じなければならないと主張したとしても、それは外部には説得力はもたないし、場合によっては偏狭なカルト集団とみなされ強く反発されることにもなりかねず、そういう当然の結果に教団が不満を述べても仕方がないということでもある。
 
当たり前のことです。人間に神秘が分かるはずはないのです。人間は、何からの恩恵を感謝して、神秘の存在を仰ぐだけなのです。また、宗教も信仰も、決して強制されないものであり、また、楽山のように嘘と詭弁で刷り込んでくる者は、最初に、除外されるべきなのです。
 
霊がらみの楽山の発言は、もっと、質(たち)が悪くて、はっとさせる何ものも含まれておらず、信じるに値しない惑わしに過ぎなくて、いかに執拗に楽山が語っても、もたらされるのは疲労と妄想的な害毒だけなのです。これほど、徒労と疲労を与えてくるだけの人物も珍しいです。
 
 
*神秘体験とその後
著者は本書において、すべては一つであると感得する神秘体験について触れつつ、その一方で上のように神秘体験を経験した者とそうでない者との意思の疎通は極めて困難であることをも説明しているが、もし神秘体験によってすべては一つであると悟ったがために、その経験のない者と分断され、争いが生じる結果になるとしたらなんとも皮肉な話である。
 
楽山には関係のないことです。楽山が物を言えば、神秘体験どころか、混乱要素にしかなりません。楽山こそ「意思の疎通は極めて困難」な人です。なにせ、人の言うことを聞いていないのですから、どうしようもありません。「争いが生じる結果」にならないために、楽山は黙るべきです。
 
 
しかし考えようによっては、これを乗り越えられるかどうか、乗り越えるとしたらどのように乗り越えるかということが、その神秘体験の正統性を推し量る材料となるのかもしれぬし、
 
「乗り越える」という安易な言い方にだまされないでください。こういう気安い言葉の企みが、楽山の特徴です。人間らしい知恵の欠乏しているところを、詭弁の悪知恵でごまかして、それこそ、「乗り越え」て?人をだまそうとしてくるのです。
 
結局、霊が分かるっぽい自覚の楽山は、結局、神秘体験を受け入れて、自分がそうだと言いたいのでしょう。孤独なヒーローを、三文芝居で、演じているのでしょう。神秘体験を「乗り越える」前に、楽山の妄想刷り込みを、受け入れることなく、廃物として、乗り越えるべきです。
 
楽山は、どう「乗り越える」と言うのでしょう。中身のない楽山が、中身のないキレイごとを言っても、何の足しにもならないのに、言葉だけ、もっともらしく付けて、柔和な自分、分かっている自分、許容力のある自分を、捏造アピールしてきます。幼稚な騙し文句です。
 
そして「神秘体験の正統性を推し量る材料となるのかもしれぬ」・・何も言わないよりマシと思うのでしょうか、否、楽山は、何も言わないのと同じです。何か言い得たことにしたいだけなのです。この、楽山の、ごまかしこそが、楽山が異常な疲労を与える重い不治の要素なのです。
 
 
もしそうであれば、神秘体験とは神秘体験そのもの以上に、その後その人物がどのように変わるか、またはどのような道を選択するかということこそが重要だということにもなりそうだ。結局、神秘体験の本当の意義はここにあるのかもしれない。
 
霊が分かるっぽい?楽山は、どう変わったのでしょう。知性が無知になり、感性が不感になって、嘘を吐き、妄想を振り回して、詭弁を弄するようになって、こともあろうに、人間の、最も醜い有り様を、恥も知らずに、ずっと、見せびらかし続けているのです。
 
「神秘体験の本当の意義」だそうです。やっぱり信じているのですね・・ということです。だまされないでください。楽山は、恐らく自らの神秘性を認めて「人物がどのように変わるか」「どのような道を選択するか」が本当の意義だと言っています。つまり、受け入れ前提の発言です。
 
分からないと言えない病質者の成り行きを見ています。つまり、罪の意識がなく、ゆえに、反省の必要性も感じず、キレイごとを並べて言い得た気分に浸る悪癖は、楽山自身の人格を、結局、病理に沿うて低く低く、ぬめりながら、崩壊に導いてゆくでしょう。
 
結局こういうことになるから、楽山の毒性は、その詭弁と刷り込みによって、病気を伝染することになるのです。これは、偽善者の、そして、体質的病質者の、必然であります。実に、楽山は、まわりくどくて否定しにくい筆致で、かつ、執拗に、刷り込んでくるのです。
 
人の言うことが理解できないで、自分の言っていることが人に理解されるべきだと訂正不能に思い込んでいる人、自分の非を認めないで、人の非を当然のように云々する人、あらゆる悪と不義を人に向けて、自分に向けず、お山の上から駄弁と詭弁を弄する人、それが楽山です。
 
楽山の言を否定する根拠は、楽山の今までのブログなどでの発言です。だから、また、否応なしに、これから言うであろうことが、新たな根拠となってゆくでしょう。楽山は、恐らく、いつまでも、どこまでも、敬虔と謙虚と真実の言論から、はてしなく遠ざかって、持病を見せてくるのでしょう。
 
楽山のような人は、他者を利用するだけで、無反省だから学習せず、無責任だから何もはっきり言えず、一生を煙の中で過ごして、主観においてだけ、断定していないからバランスが取れているつもりでいるのでしょう。・・はっきり言って、良心と責任感のある自立した人間とは逆の方向です。
 
そう言えばそうかな・・なんて思ったら楽山の思うつぼです。誠意の代わりに作為、善意の代わりに悪意、真実の代わりに嘘、説明の代わりに詭弁、謙虚の代わりに丁寧語、魅力の代わりに誘導、それが、楽山です。決して、関わらないようにしてほしいと思います。
 
 
血だまりが塒(ねぐら)

血だまりが塒(ねぐら)
 
 
(2021年)
(2022年07月20日、再録+加筆)
 
 
 
  ヨブ記とお叱り
 
ヨブ記などを読んでみますと、
神様に叱られているような気がします。
一人称を用いるので恐縮ですが
「お前(人間)は私(神)の造ったものだ。
私のものだ。
私のものを壊し塵に帰すのに
いちいちお前の考えに沿って説明し納得させ
了承を得る必要がどこにあるか!」
という具合に。
 
被造物である私は泥の中に
ひれ伏すしかありません。
ヨブ記では神様が言葉をかけてくださる。
今の世においては神様の声を聞くこともできない。
異言も止(や)み、預言も廃(すた)れた。
しかし、いや、だからこそ
代わりにヨブ記も福音書も含む聖書がある。
 
 
  祈り・恐れてはならないもの
 
生も死も恐れている
それ以上に神を恐れている
同じくらい主を頼みとしている
 
♪迷わば訪ねて曳(ひ)き返りませ
 
この先たとい人を世界をこの国を
いかなる艱難(かんなん)が襲って来ようとも
 
♪世の友われらを捨て去るときも
 
たとい死の陰の谷を歩むとも
わざわいを恐れません
と言えますように
 
 
  塒(ねぐら)
 
見てわかる星座は三つだけ
オリオンと
玄関先から
晴れた夜には
北斗七星かカシオペアか
どちらかが見える
やあ見える
北極星だ
便利な星座を覚えたものだ
ということは
我が家は北向きだ
田舎
という理由だけではなかったか
他の団地より安かった
 
最初案内された所は
もっと安かった
片方が崖
それを言ったら
家は道路寄りに建てますから・・・
遠慮しといた
 
この家だって
私にとっては塒に過ぎなくなったが
住む人が住めば立派なマイホーム
私は塒の方を選んだはずだ
 
学生時代のアパートを思い出す
狭い路地の行き止まり
ベニヤ板の壁に
ナメクジが這い上がってくる部屋
高い窓を開ければ墓場だった
この立派な塒が望みだったはずだ
 
 
  虚々・日々
 
何者でもなくなる
という事実だけが残る虚無へと
志向するかのように老いてゆきながら
実は虚数のような実があり
肉体と空腹は生きていて
日々は流れ
風通しを拒みながらも
ときに遊びさえする
 
実益や価値とは無縁なことばかり
何かやっている日はまだ増しなうち
に宿る時間は
自分のものであるべきだろうか
肉体よ
この日お前を外へ駆り立てたのは
流れ費(つい)える日々の惰性か
それともお前に残された情性か
 
暑い・・
 
異常な陽気に
汗を滲(にじ)ませ
濡れた額を何故か恥じて
絡み付いてくる前髪を
手を以(もっ)て汗ごと撥ね上げても
肉体よ
濡れた手で拭える実体があろうか
 
取って返すように虚しく
塒(ねぐら)へ向かえば
肉体を微かに掠めて過ぎる風の時
 
 
 
楽山の害毒メモ:
今までに表れてきたこと。これは、聖書においてキリストの敵となった宗教指導者や、偽善者の特徴でもあります。この世で最も迷惑な人の特徴です。
 
人格:
自己愛が強く自己中である。
自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)と思われる。
平気で嘘を吐く。様々な詭弁を弄して、柔和に見せかける。
深い情感がなく、共感性がない。不感不応。
後悔、反省、修正ができない。学習による成長がない。
罪悪感、羞恥心が見られない。
アドラー心理学の宣伝をしていた。その影響が抜けていないと思われる。
中身や実質のない形骸的精神機能しか持たない。
 
議論:
議論や交流が、表面的で、整わない、できないし、する気がない。
相手の意見を受け取っていないので、反論、弁明が成り立っていない。
理路が常識的にも浅く、基本的に訂正不能である。理解力がない。
自分なりの堅実な理路を組み立てられない。
読書自慢。感想は平板で、独創性や深みがない。
様々な気取り。読書家気取り、評論家気取り、インテリ気取り、など。
分かっているという我執から離れられない。
非を指摘されると、逆に、こちらに当てはめて被害者面をする。
人を批判~誹謗中傷するが、その言葉で自分が斬られるブーメラン現象。
真面目に応答~議論すればするほど、病的な徒労感と疲労のみをもたらす。
ボンヤリ言語:語尾を濁し曖昧で婉曲的な言い方で、印象を刷り込もうとする。
トホホ言語:謙虚で弱いと思わせて悪意を隠すための嘘の芝居。
しばしば、自身への同意を期待して、見え透いた世辞を言う。
「反省。とほほ」などと書くが、不自然であり、前後で何も変わらないので嘘です。
 
宗教:
反キリスト、反宗教。聖書およびキリスト信仰を、貶めてくる。
キリスト教とキリスト信仰を字面だけで云々し、理解していると思い込む。
HSを脱会したと言っているが、真実かどうか、疑わしい。
霊能者のつもりだが、それに見合う直観的洞察は皆無である。
 
楽山の書いた文章を、3年数か月のあいだ見てきた結果ですから、大きく変わることはないでしょう。これらについては、新しい情報によって、必要なら加筆し、繰り返し載せることになるでしょう。
 
巨悪は、大方、偽善を伴います。隠蔽偽装を謀るからです。ゆえに、偽善こそが最悪であります。
 
 
 
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  楽山の人間離れ進行2
 
 神秘体験の初歩段階
 (『宗教的経験の諸相(下)』W・ジェイムズ著)
 2021年07月10日 楽山日記(LD)
  を批判。
 
 
ジェイムスの本は、何度も取り上げて書いてくる楽山です。批判に対して、不感不応で、何も気にせずにいられて、あざ笑うように書いてこれる楽山の意地の悪さは、まさに、サディストの所業であります。人間らしい感じ方や表し方を失ってゆくプロセスでしょう。
 
ちょっとした不思議なことを、心霊と結びつけるのは、子供には、よくあることですが、いい年した大人が拘泥するのは、成長していないからでしょう。そういう生き方は、人間の繊細な心を損なってゆきます。その典型的な症例となる楽山です。
 
 
*気づき
『宗教的経験の諸相』を読んでいたら、神秘体験の入口について書いてあったのでメモしておきたい。
神秘的経験のもっとも単純な階梯は、ある格言とか文章とかのもっている深い意味が、何かのはずみにいっそう深い意味を帯びて突然にパッとひらめく、という場合であるのが普通である。
(『宗教的経験の諸相(下)』W・ジェイムズ著、桝田啓三郎訳、岩波書店、2015年、p.186)
 」
これはいわゆる「気づき」という感覚だろうか。「気づき」は、ものを考える人であれば誰でも経験はあるだろうし、これを神秘体験というのは大袈裟な気がしないでもない。
でもよく考えてみれば、これは口ではうまく説明できない不思議な感覚であるし、神秘体験と言われれば確かにその通りかもしれぬ。
ちなみにここでは、「神秘的経験」とは「神秘体験」のことだろうと解釈して読んでます、
 
自分を神秘体験者と言いたい自己顕示欲の強さが表れています。だから、気づきさえも、神秘だと言いたいのでしょう。霊能者気取りの安っぽい合理化・自己正当化です。宗教を、人間としての必要性から求めず、人生の問題として考えない者の、超常夢想の習性~性癖~症状でしょう。
 
このような性癖で、宗教も信仰も考えておれば、魔術的で、一気に何でも単純に解決できるのが、宗教だ、信仰だ、そうならないキリスト教の神はいない、とでも言うつもりでしょうか。いったい、どれだけ、日常を、疎かにして、人間をやめてきたのだろうと思います。
 
「「神秘的経験」とは「神秘体験」のことだろうと解釈して読んでます」・・"的" が付くのと、付かないとの違いは、遠慮か、不確定かもしれませんが、楽山は、強迫的で、お気楽な偏見から、こだわっています。神秘とか霊とかいう言葉への盲信~依存症~中毒でしょう。
 
神秘からは、どう見ても、嫌われるだけだろうと思われる、身勝手な楽山が、自分こそと言いたげに、神秘を振り回しています。自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)になると、ここまで醜い人格の変質~破壊に至るのでしょうか。
 
 
*既視感
同書では、デジャヴについても書いてあった。
神秘的経験の階梯のもう一歩進んだ段階は、きわめてしばしば見られる現象のうちに見いだされる。つまり、「前にここにいたことがある」という、ときどき私たちを襲ってくる突然の感情であって、いつか、遠い遠い昔、ちょうどこの同じ場所で、この同じ人々と一緒に、まったく同じことを話したことがある、という感じである。
(同上、p.188)
 
デジャブを、不思議だね・・で済ませずに、証拠であるかのように、不思議化して、神秘化してしまう者は、ついには、あらゆる現象に、神秘的な意味を付け加えるようになるでしょう。もはや、そこは、条件反射を繰り返す鉄格子の中かもしれません。
 
遠い遠い昔が身に迫ってくるとか、におってくるとかの、既視感デジャブというのは、精神症状としても書いてあることで、ゆえに精神病とまでは行かなくても、そういう感覚に神経を集中してゆくと、だんだん、正常な心から離れてゆく可能性はあるでしょう。楽山は、既に離れているのでしょうか。
 
こういう考えに囚われるときには、気分転換が必要です。でないと、のめりこむように、異常心理と精神病理に嵌っていって、楽山みたいになってしまいます。そうなってしまったら、今、楽山に表れているように、人間として、おしまいになります。おぞましいことです。
 
 
これは誰もが知っている感覚だろうと思う。だからこそ、「既視感」という言葉もあるのだろう。
こうしてみると、神秘体験というものは、少なくともその初歩的な段階のものは、特別な人にしか経験できないものというわけではなく、誰もが経験し得るもの、またはすでに経験済みのものなのだろう。
 
正常人にも、たまに、人によってはある、という既視感デジャブ、という精神症状です。ということは、精神疾患には、多いのかもしれません。私も、たまに、経験することはあります。あまり、そこに、集中しないほうがよい、という感想を持っています。
 
そこに、神秘的な意味を貼りつけて、神秘、神秘、というほどのことかどうか、誰にも分かりません。楽山のように、決めつけて、我こそは、神秘体験者なり、特別なり・・と、書いてしまうのは、情けないほど、貧乏くさいことです。余裕のない、欲望の卑しさを感じます。
 
楽山は、自分は神秘の人、という印象を吹き込みたいのです。「初歩的な段階」を想定しているようです。このことからも、楽山は、いってしまった人なのでしょう。「誰もが経験し得るもの」から、神秘の世界、実際は、精神症状の世界に、楽山という病人が、どっぷり浸かって、仲間を求めています。
 
 
またもし神秘体験は一部の人に独占されるものではなく、多くの人々が経験し、または経験し得るものだとすれば、それを経験したからといってその者が霊的に特別な存在であるということを証明することにはならないものなのだろう。
 
既視感から、ここでは、霊的に特別ということを否定しているようですが、楽山は、子供のときから "霊が分かるっぽい" と書いていましたから、さらに、自分は、上を行っているということが言いたいのでしょうか。今の楽山の、擦り切れたような精神が、それを全否定しているのに。
 
恐らく、楽山は、自らの神秘体験が、いくらなんでも貧弱なために、神秘をもっと身近なものにして、楽山が扱いやすいものにしたいのでしょう。特別じゃないが、楽山が自分も体験者ということで、結局、教祖にでもなりたいのでしょうか。
 
 
自分はいまだに神秘体験と霊性の優劣を関連付けてしまう悪癖から抜けきれていないので注意したいと思う。
 
関連付けてしまう悪癖に注意しているなら、上のようなことは書かないはずです。楽山の意図は、真逆だと思います。心霊をネタにしたペテンらしくなってきました。客観的な注意力は、楽山にはないと思います。そのために、視野狭窄となり、あらゆる面での理解力を失っているのです。
 
 
*猛将パットン
蛇足ながら、思い出したことがあるので一言。
パットン将軍は自分は前世でも軍人だったと信じており、初来訪の土地であるにも関わらず、前世で来たことがあるのでよく知っているとして目的地までの道を間違わなかったという逸話をもっているが、ひょっとしたらこれも既視感の一種であり、その発展型なのだろうか。
 
やはり、楽山は、既視感も含めて、有名人の神秘体験という方向に誘導して、霊が分かるっぽい体験をひけらかしたいのでしょう。自分を誇大化して、霊的リーダーにでもなりたいのでしょうか。もしそうなら、心霊どころか、汚い汚い欲望の下種だということです。
 
心霊をネタにしたペテン師は、このように、既に死んで、詳しい体験を知りようのない人を、しかも有名人を、好きなように利用して、同類であるかのように扱い、褒め讃え、宣伝してゆくのです。その先には、誘導から洗脳が待っているかもしれません。注意、警戒してください。
 
 
さらにはパットン将軍は第二次大戦が終わってほどなく、交通事故に遭い、あっけなく世を去っている。それほどの大事故ではなく、他の当事者たちはみな無傷であったのに、パットン将軍だけが打ち所が悪く重症を負い亡くなったのである。まるで軍人として戦うために生まれ、その役目が済んだらすぐに天国に還ったでもいうように。
思えば、パットン将軍という人物とその生涯は不思議であり、実に神秘的である。
 
このように、死んだ人を、どこまでも、神秘のほうに、話を引っ張ってゆきます。有名人であろうとなかろうと、事故で亡くなったことへの哀悼の共感より、神秘的な不思議話のほうを優先する人は、いずれ、死体の前で哀悼の意を表するのではなく、死体に愛着するようになるかもしれません。
 
楽山の書く文章が、楽山を表します。そして、楽山は、進行しているのです。楽山こそが、神秘的な人、不思議な人・・と言われたいのでしょう。このことのほうが、よっぽど、怖いと思います。キリスト教の天国とも、信仰者の人生とも、何の関係もないオカルト話です。
 
楽山は、今まで、宗教と信仰の言葉を、好きなように超常ホラー言葉の数々で、けがしてきました。概念が、すべて、人間からも、人間の宗教と信仰からも、ズレている人です。しかも、そのことに気づかない高等感情鈍麻であります。超常趣味というより超常依存~中毒です。
 
短い人生を、地上の人間として生きずに、いつも、超常世界の話をして、その分、人間性が壊れてゆきます。病識がありません。善悪・正邪の区別がつきません。罪とか恥とかが分かっていません。無視と忍耐を混同して、記事を書き続けています。どんどん的を外れてゆくのです。
 
気をつけてください。楽山を受け入れると、学習と成長が止まります。知性と感性の鈍麻と、先入観と偏見の固着が進行します。私は、楽山は柔和だと勘違いして、コメントの遣り取りをしていた数か月間、ボンヤリ疲労感を感じたことがあります。その反省から、楽山批判を続けています。
 
楽山は、子供じみた変質者に過ぎません。もはや誰もだまされてはいけません。よく読めば、理解力も読解力も共感性も鈍く壊れていて、安っぽいペテン話しか出来ない人です。楽山の詭弁は、奇弁であり、危弁であり、危便であり、鬼便であります。どうか近寄らないでください。
 
 
偏執の変質の末路が行く

偏執の変質の末路が行く
 
 
(2021年)
(2022年07月16日、再録+加筆)
 
 
 
  正気への警告
 
夜見る夢も昼見る夢も
ただれた眼で見ている
おぼろげな幻想に過ぎないが
よい夢も悪い夢もあるのに
目覚めてみれば
現実も幻想に満ちている
夢とは違って
幻滅という必然が待っているから
よい幻想はほとんどない
さらなる幻想に逃げようとすれば
死は幻想を保証しないのだから
正気を失うしかない
 
耐え難い重荷が限度を超えたとき
正気を失うということが
肉体を守るための
防衛反応に思えてならないことがある
 
例えば鏡に映る顔が
生き生きした何ものもなくて
気持ちと全然一致していないとき
心神は残る力を振り絞って
限界に注意を喚起し警告を発している
鬱(うつ)による意欲低下は
これ以上の無理は無理と
心身を休ませるため
さらに感情の麻痺や鈍麻は
重さを感じなくて済むように?
 
それがわずかに残された
正気の辺縁をめぐる
ただれた眼の日常となって久しい
 
 
  太陽に抜かれて
 
見なければ抜かれることはなかったのに
じかに目を合わせて 見てしまった
あわてて瞳孔をしぼっても
もう遅い
 
見てしまった
形の 秘密を 守るために
見なければ抜かれることはなかった
剣の 一つが
瞳をつらぬいて
焼き付けた残像が
視界をさえぎり
やがて 頭痛を呼んできた
 
見たものは
抜かれた魂の幻と
めまいと
歪んだ形から
まるで不治の病のように
守りようもなく残されて
脈を打って光る
暗点
 
直接 見ては
ならないものがあるらしい
 
 
  虫の音
 
物音は
集まれば集まるほど
耳に障る
気にすればするほど
大きくなる
集団の声は苛つく
人の声も 雑踏も
独り聞いた夏の蝉の声も
蛙の声も
耳鳴りも
恐らく幻聴も?
 
波のように
あたり一面
姿のない虫の声
遠くか近くか
どれほどの数か知らぬが
ただ一匹だけ
窓近く
チロチロと
鳴いているのがいる
不思議と耳に障らず
寂しく泣いて
訴えているようにさえ聞こえる
 
眠れない夜を殺し
耳鳴り騒ぐ
眠れない夜を死なせ
秋の虫 なく
 
 
  口笛の頃
 
もしそんなところがあったら
耳鳴りの今を去って
口笛の頃へ帰りたい
目に写る
錆びた刃物の
耳鳴りの
闇の
ざわめきを去って
 
口笛の
その吹かれたところから
小川を渡り
水音も風音も
野原と空の
ゆるやかな
うつりになって
音がしないほどの
肌に触れないほどの
気の流れ
草の揺れ
口笛の
音色の消えていく
少し先
空に召されていく
口笛が
口笛でなくなる
あらゆる見えないものと
いっしょになるあたり
 
いっしょに遊んだ
幻の少年が
消えていった
名前を与えられ
こめられたものたちすべて
名前を失い
解き放たれるところ
 
広い
ひろい
ひろ・・・
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
結局、楽山が目指してきたものは、真実の追求とは全然違って、思いつきの心霊~超常話を、趣味的な空想だけで、自分を飾る具材にしてきただけのようです。超常に拘(こだわ)る者は、日常を疎かにする典型となり、もはや、人間の大切なものなど、何も分からなくなっているのでしょう。
 
 
 
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  手の付けられない楽山
 
 神秘体験は経験的方法によって判断すべきこと
 (『宗教的経験の諸相(下)』W・ジェイムズ著)
 2021年07月18日 楽山日記(LD)
 
 
楽山は、批判と反対のことを書けばいいと思っているのでしょうか。楽山の体質は、勘違い→妄想と自己中→しばしば狼狽して相手を妄信者と言う生業です。楽山が言う妄信には根拠がなく、私が楽山のことを自己愛性人格障害NPDと言う精神病質については、根拠を示しています。
 
その根拠を、病識のない楽山は、読解できないために、こちらを妄信と呼んでいるのでしょう。妄信は、自分信仰の楽山のことです。そういうことしか書けない楽山だから、ネットの言論を乱すだけなのです。楽山は、混乱に乗じて、読者に自説を刷り込もうとしているのでしょうか。
 
反省と書いて反省しない、共感と書いて共感を表していない、分かったと書いて詭弁を続ける、とほほと書いておいて、今また、反省もせず、引用元の言葉を自己満悦のために引用~悪用する、否定と思えば肯定、どちらも断定していないからと、一切、責任を負わない、それが、楽山です。
 
神秘体験を主張するのは、一部の人たちでしょう。そこには、楽山のような霊が分かるっぽいなどと言う偽者もいるでしょう。一般化できないことなのに、「経験的方法によって判断」など出来るわけがないのです。書けば書くほど、おかしさが増してくる悪魔性の病者が楽山です。
 
*経験的方法による判断
『宗教的経験の諸相』の著者ジェイムズは、神秘体験は「天使と蛇」が住まう潜在意識から生じるものであるから無批判に受け入れてよいものではなく、天使と蛇どちらによるものなのかを慎重に判断すべきとしている。
すなわち、「天使と蛇」とがそこには並んで住んでいる。この領域から出て来ているということは絶対に確実な信任状ではない。そこから出て来ているものも、外の感覚世界から来ているものとまったく同じように、ふるい分けられ、吟味され、経験全体との対決という試練を経なければならない。私たち自身が神秘家でないかぎり、神秘主義の価値は、経験的方法によって確かめられなければならないのである。
(『宗教的経験の諸相(下)』W・ジェイムズ著、桝田啓三郎訳、岩波書店、2015年、p.255)
 」
神秘はこの世の原理では判断できないとするのではなく、経験的方法(科学的合理的な方法?)によって判断でき、確かめなければならないとしているところは興味深いところである。
 
楽山は、狂ったのでしょうか、・・まあ、前からですね。神秘体験は「天使と蛇」というのは、まだ、お伽噺でしょう。楽山には天使の要素がなく、蛇の要素または悪魔性だけがある人です。神秘を、「経験的方法(科学的合理的な方法?)」よって確かめるのだそうです。正気ではない。
 
科学的合理的なら、それこそ、とっくに、どこかで議論され、どこかで紹介され、多くの本やTVなどメディアで取り上げられているはずです。誰からも見向きもされない楽山が、我を張るために、確かめられるんじゃ!・・と、孤独な部屋の中で、布団に顔をうずめて叫んでいるイメージです。
 
*霊言の真偽についての判断方法
ここで思い出すのは、佐倉哲氏による「霊言の真偽についての判断方法」である。
霊能者は、だれも知ることのできない「死後の世界」とか「霊界」とか「未来の世界」などについてのみ語っていれば、どんなデタラメを語っても、それがウソであることはだれにも証明できません。しかし、霊能者も人間であって、ついつい、地上の世界について喋ってしまうことがあるようです。地上の世界についての話なら、わたしたちは、それがウソか真実か調べてみることができます。幸福の科学の教祖大川隆法さんは、その著『内村鑑三霊示集』のなかで、内村鑑三の霊として、霊界のことだけでなく、つい、地上の世界(イエスの生誕や聖書)についても語られています。そのために、キリスト教の歴史やユダヤ地方の気候や聖書の内容についての無知が暴露し、その霊示のウソがばれてしまっているのです。
・大川隆法の霊示『内村鑑三霊示集』のウソ - 佐倉哲エッセイ集
 」
こうしてみると神秘現象はこの世の原理では分からないとは言い切れず、現実に関連した部分については十分に経験的科学的に判断可能であるといえる。
 
「地上の世界についての話なら、わたしたちは、それがウソか真実か調べてみることができます」ならば、嘘吐きの楽山は、霊能者として全く成り立たない人ということになります。自分が、本に斬られていることに、やはり楽山は気づかないようです。だいたい、こういうことが楽山の常です。
  
現実に関連した部分に限られるわけです。神秘が結果として人間に表れる部分だけです。詭弁に惑わされないようにしてください。つまり、神秘体験の中心や理路などは、謎のままです。無条件に自分を霊能者だと認めてほしいがゆえの、でっちあげであり、本態は、楽山の詭弁の誘導です。
 
神秘が本物か偽者かは、神秘が及ぼした地上の人間の有り様からも、ある程度、判断できるということに過ぎないです。つまり現象からの推測に過ぎません。楽山は、無反省、無責任、無神経、無理解の凝固した人物であり、ゆえに、楽山の語る神秘は、ペテンであり、偽物であります。
 
霊言を信じる側からは、この世のことを間違ったからと言って、その霊言は偽物だとか、下等なものだとは断定できないという反論もありそうだが、この地上の事実関係ですら間違うのであれば、この地上を遥かに超えた高次元のことを間違わずに語ることができる可能性は低いとみるのが穏当な結論ではあろう。
 
事実関係、理路、節操、共感性、いずれも、楽山は詭弁以外、何も持ちません。まさに、楽山が、偽物を語る偽者だということです。自分が掘った穴に落ちてゆく楽山が、当たり前に、表してくる発言から、嘘と詭弁を指摘して、批判してきたのです。
 
つまり、「この地上の事実関係」において、間違いというより、故意の悪意の悪魔性の、妄想的自己愛の結論を訂正不能に刷り込もうとしているのが楽山であり、ここでも、ブーメランのダメ出しを食らって整わない楽山自身が「高次元を」語るに値しないことを表しているのです。
 
*信仰の義務はない!?
『宗教的経験の諸相』の著者ジェイムズは、重ねてこう断言している。
私はもう一度くり返して言う。非神秘主義者が、神秘的状態を、優越した権威を本質的に授与されているものと認めるべき義務はないのである、と。
(『宗教的経験の諸相(下)』W・ジェイムズ著、桝田啓三郎訳、岩波書店、2015年、p.255)
 」
熱心な宗教信者、神秘主義者のなかには、誰に対しても神秘の権威を主張し、ひたすら信じよ、信じよといって信仰を強要しようとする者もいるが、非神秘主義者にはそれに従わなければならぬ義務はないのである。
 
何を言っているのでしょう。霊が分かるっぽい自覚の楽山ですから、楽山こそ神秘主義者です。この記事は、神秘、あるいは、非神秘、どちらを言っているのでしょう。何よりも、愚劣な楽山に対しては、いかなる神秘も霊能も認めることはないのです。決して従ってはいけないのが楽山です。
 
神秘の権威を、遠回しに、いつも、言っているのは、楽山です。私は、ひたすら信じよ、とは言っていませんし、言っている人が他にいたとしても、楽山は、答えるすべがないのです。楽山は、自らの霊能から自己正当化という神秘?というより矛盾を、この2年間余り、振り回してきたからです。
 
これは当たり前のことだが、一部の妄信者はこの当たり前のことを理解しないのだから残念である。著者もこういう事例を承知しているから、この種のことを繰り返し書いているのだろう。
 
このように、自分が言われそうなことを、「理解しないのだから残念」と、相手に当てはめる詭弁です。自分は大丈夫という根拠を、ずっと、欠片も証明していないのです。代わりに、嘘と詭弁の卑怯な粘性のゴミをブログという丼いっぱいにネチネチさせて食わそうとしてきたのが、楽山です。
 
 
 高級な神秘体験とそれ以外の神秘体験、およびその見分け方
 (『宗教的経験の諸相(下)』W・ジェイムズ著)
  2021年07月18日 楽山日記(LD)
 
 
楽山の、多量の放屁が、臭いです。
 
2年余りの批判を受け取らずに、考えずに、無視して、書いて来れることが、既に、良心のない証拠であり、人を人とも思わないで、意地の悪いことをして快感を覚えるというサディストであり、精神病質サイコパスであることの証しなのです。
 
神秘を人が理解することは出来ないのに、分かっているふうを装い、その分別めいたことまで語ろうとする楽山は、演技的な悪魔性のサディストです。理解力も共感もない者が、背伸びして、学者気取りで語ると、実に、みっともないという症例です。
 
*高級とはいえない神秘体験の特徴
『宗教的経験の諸相』を読んでいたら、神秘体験には高級とはいえないものもあるとしてその特徴について書かれていた。ここにメモしておきたい。
妄想的な精神病を教科書ではときどき偏執病と呼んでいるが、これは一種の転倒した宗教的神秘主義で、悪魔的な神秘主義と言えよう。ごく些細な出来事を言いようもないほど重要なことと感じたり、聖句や言葉が突然に新しい意味を帯びてきたり、声なき声を聞くとか、幻を見るとか、指導力や使命を感ずるとかしたり、外部のちからによって支配されたりするとかする点では、さきの神秘主義と少しも変わりがない。ただ今度の場合には、感情が悲観的なのである。すなわり、慰めの代わりに私たちはやるせなさを感ずるのである、啓示の意味するものが恐ろしいものであり、力は生命の敵なのである。
(『宗教的経験の諸相(下)』W・ジェイムズ著、桝田啓三郎訳、岩波書店、2015年、pp.254-255)
 」
この基準に従うならば、負の感情を抱かせるような啓示、神秘体験には注意した方がよさそうではある。
 
楽山の霊能と神秘の話は、まさに、「注意」が必要というより、決して受け取ってはいけない悪魔性のものと言えるでしょう。嘘吐き楽山は、断末魔的に、いっそう凶暴になってきたようです。もっともっと、孤立してゆくように、誰も相手にしないことが大事です。
 
高級な神秘体験があるなら、低級な神秘体験もあると言うのでしょうか。低級なものを、神秘体験に入れているのでしょうか。詭弁臭いです。中には、楽山の霊が分かるっぽい体験のように、まるっきり嘘吐きの見栄っ張りもあるのだから、偽りの神秘と呼ぶべきでしょう。
 
*高級な神秘体験
では高級な神秘体験についてはどうかといえば、著者は次のように簡潔に述べている。

高級な神秘的状態は至上の理想を、広大さを、合一を、安全を、そして至上の休息を教えている。
(同上、p.258)
 」
どうやら高級な神秘体験は人の心に安らぎを与え、幸福にするものであるらしい。
 
人の心に安らぎを与える神秘は、安らぎの源として感じられて信仰の可能性があります。決して、楽山のような、孤独な神秘オタクや、無責任に無反省に災いの妄想屋のように、神秘、神秘と吹聴する必要はないのです。
 
神秘は、神秘を理解できない人間には、秘密のうちに働きかけます。ゆえに、神秘、神秘○○、などと吹聴する楽山は、その時点で、真っ赤な偽者であり、書けば書いただけ、インチキ宣伝だということ自ら証明し続けてゆくでしょう。
 
楽山は、自らの人間としての尊厳ある命を、反キリストとカルトの病質的精神で、嘘と詭弁のペテンの技に置き換えてしまった人です。楽山の記事を読むたびに、元には戻れそうにないと感じます。楽山が書いて、それを読むたびに、進歩も成長もない訂正不能で不治の病質の災いを感じます。
 
もはや、バレているのに、苦し紛れに、2つも記事を書いても、いっしょです。楽山は、インチキ神秘気取りでしかないのです。楽山から、安らぎも幸福も生まれません。この2年余りで幸いの予兆さえ全く見られず、代わりに、人格破壊の病原となることが明らかになっています。
 
楽山は、偉そうな様々の気取りを表してきました。それらにおいて、いつも、偽者でした。つまり、偽評論家、偽読書家、偽学者、偽インテリ、偽アンチカルト、偽宗教家、偽言論者、偽政治思想家、偽スピリチュアル、偽霊能者、・・と言ってよいでしょう。
 
*応用
 
楽山は、神秘を応用できるのだそうです。神秘、神の秘密に対して、何の恐れも感じていない、心ではなく、毛の生えた心臓の絶対性不整脈となっています。言葉で交わろうとすること自体が無理かつ無意味というものであり、楽山の言葉は、人を安らぎから遠ざけるヌルヌルの汚物です。
 
これらは神秘体験の分類法としてはもっとも簡便であろうし、神秘体験のみならず宗教の見分け方にも使えそうではある。高級な宗教は他との一体感と安らぎを与え、そうでない宗教はやるせなさ、恐怖などの負の感情を強く抱かせるなど。
 
楽山の語る神秘も宗教も、破壊的な疲労を与えるだけです。楽山が病質者である証明はそれだけで十分でしょう。いつまでもネットにブログにツイッターにしがみついて離れない執念は、自己愛性パーソナリティ障害から来ていて、安らぎを与えることのない惨劇であります。
 
神秘・宗教の正邪について、自分の情感だけで断定してしまうのはいささか安易にすぎるきらいもあろうが、それでもこれは一つの目安としては有効ではないかと思う。
 
情感のない楽山が言っています。楽山は、知情意が一体となっていることも知らないのでしょう。当然、思考も整わず、思いつきを語る以外なくなっている楽山です。今回、多量の放屁です。真実の追求においては、「目安」どころか、邪魔でしかありません。
 
ゆえに、安易な思い付きしかない幼稚な楽山は、個人の愚痴か秘密として、秘密のノートに書いて、死ぬまで独り笑いで満悦してください。今回、多量の放屁です。真摯な信仰者にとっては、惑わしとなる悪性によって、非常に迷惑です。
 
 
 
キリストは、処女懐妊とか、数々の物や肉体の奇跡とか、復活とかの、超常物語の主人公ではありません。それだけなら、心に響くことも、共感できることもなかったろうし、人の心に神の愛を伝えることも出来なかったでしょう。つまり、新興宗教に過ぎなかったでしょう。
 
キリストは、知る限り、最高の、人を見抜く洞察力、人に対する共感を持ち、そして、神の愛について最高の理解を知っておられました。そのことを抜きにして、キリストを語ることは、決して出来ないのであります。
 
決して、楽山ごとき半端者に、云々されるような御方ではないのです。
 
 
偽者が狂い出す

偽者が狂い出す
 
 
(2021年07月19日)
 
 
 
  奔流
 
警鐘は朝霧の森の中に吸い込まれてゆく
鳴らす者は余計な波風を立てて
小舟に乗って沈むために
人気のない入り江から漕ぎ出でる
 
しばしば逆流する川の上流には
歳を偽って村人を名乗る者たちがいて
沼の味覚にのめり込んでは
鏡を震わせ抜いて
しきりに白髪を流す
薄くなった髪を洗うそばから
流れ出すのは顔の方だ
 
うら若い髪の血痕を
拭うことのできないスナイパーとテロリストが
礼拝堂で出くわしてしまう
兄弟よ このようなベルトの上では
手も足も不要だ
 
未来の神話を語りながら
白々しくも欺いて殺し合えずに
拳銃を実は十字架をポケットの中に握り締め
耳を切り裂く沈黙の中に
谷間の街のしがらみに向かって
夥しく浮き沈む白い眼(まなこ)の
奔流の中へ再び身を投じる
 
 
  油断
 
ユーモアがペーソスを孕んで
並木道をふわふわ舞っている
そんな空気にのんびり
吸われながら歩いていると
いきなりビュッと
残酷なギャグが切っていく
切られたものが見当たらない
 
見えないところで切られて
見られないまま消えたのか
まぶしいのに曇っている
目の上にピッ
何かが撥ねた
一滴だけの雨?
ひやっとする
あるいは血かと
 
ふと笑いすぎて昔
微笑むことを忘れたひととき
を思い出す
 
額に残る一筋の感覚
目を狙って
放たれた鋭いもの
少しく外れて
皮肉にも生き残る
 
 
(90年代か)
 
 
 
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  人のことばかり語る楽山
 
 神秘体験の影響力
 (『宗教的経験の諸相(下)』W・ジェイムズ著)
 2021年07月13日 楽山日記(LD)
 
 
本を読んだつもりで書いて、自分を高めたつもりになって、自分の非だけは認めず、宗教と信仰を空想の理屈で語ってきて、誰の役にも立っていないことも、迷惑になっていることも無視してゆく根拠を、神秘や心霊に求めても無駄だということが、楽山が何か書けば表れてくるのです。
 
*神秘体験の影響力(本人)
神秘体験の本人に与える影響について、『宗教的経験の諸相』には次のように書いてあった。
神秘的状態は、それが十分に発達した場合には、普通、その状態になった個人に対しては絶対的に権威をもち、そして権威をもつ権利がある。
(『宗教的経験の諸相(下)』W・ジェイムズ著、桝田啓三郎訳、岩波書店、2015年、p.249)
 」
さらに著者は、体験者本人に対して合理主義によって「どんな不平を唱えても無駄である」し、
 
霊が分かるっぽい楽山の霊能者気取りに対して、何を言っても無駄であることは、約2年間批判してきても不感不応である楽山に表れています。実際には、楽山は、気取りだけで、何の洞察もなく思考の糧にもならない人です。
 
それが、楽山が、体質的な病的ナルシスト、即ち、自己愛性パーソナリティ障害者であることを示しているのです。楽山は、不平を言っても無駄だから、何を言ってもいい、何を言っても正しいと言いたいのでしょうか。楽山は、不平を言われているのではなく、否定されているのです。
 
仮に「その人を監獄や精神病院へ投げ込」んだとしても、その者の「心を変えることはできない」どころか、むしろ「彼の信念をますます頑固にするばかり」であり、結局のところその者を「私たちが好もうと好むまいと、そっとその信条を享受させておくほかない」のだという。
 
だから、楽山は、精神病院に入れても治らないし、楽山が信じこむこと自体は、変えることは出来ないでしょう。その成れの果てとして、慢心し、傲慢になり、訂正不能になって、人間離れしてゆく楽山の有り様を、楽山自身が説明していることになります。
 
これはよく分かる話だ。恥ずかしながら自分は、とある新興宗教を「これは本物だ!」という神秘的直感によって信じてしまい、他からどんなに意見されても判断を変えなかった過去がある。この時の自分の心を思い出せば上の話に首肯せずにはいられない。神秘体験なり、神秘的確信によって特定の宗教または信条を信じ込んでしまっている人の心は、どれほど合理的な反対意見であっても、それを否定する客観的な事実を提示したとしてもそう簡単には変えさせることはできないものだ。
 
何が「よく分かる話」なのでしょう。楽山は、仏様の気持ちが分からない家族に驚いたという記事を書いています。冗談だろうと思っていたら、何を考えるにも、霊とかの超常のことを書いたり、霊言なるものを引用したり、神を否定したりなど、傲慢だけが表れてきたのです。
 
霊能にこだわらなくても、はっとさせられたり、洞察や共感があれば、優れていると分かりますが、そういう目を覚まさせる発言内容は、楽山には、皆無であります。楽山は、新しい何かを語れる人ではなく、ただ、自己顕示欲だけの超常フェチの退屈な人です。
 
超常にこだわり、その方向に思考が流れて、宗教も信仰も、人間の問題として考えることのできない人です。だから、いかなる問題も、解決の方向には向かず、ああでもないこうでもない曖昧な話になり、ボンヤリ言語と、トホホ言語の謙虚芝居でごまかしてきたのです。
 
楽山は、宗教を語れる人ではなく、宗教を批判できる人でもなく、オタク的趣味に生きるしかない人だから、非合理で、理路を組み立てることが出来ず、結局、神秘気取りの妄想で、無反省に、無責任に、雑言の一方通行で、人心を煩わせる経過にしかなっていません。
 
*神秘体験の影響力(第三者)
同書には、神秘体験の第三者に対する影響力についてはこうある。
神秘的状態の啓示を、その局外者に対して無批判的に受け容れることを義務付けるような権威は、そこからはけっして出てこない。
(同上、p.249)
 」
著者はこれとは別な言い方で、神秘体験をした者がそうでない者に対して、その者が「召命を感じて」自ら受け容れる場合を除いては「その独特な経験について伝えるところを受け容れよ」と要求する権利はないともいう。
 
楽山の無反省で無責任な発言は、いかに神秘と絡めても、受け入れてはいけないし、受け入れる価値はないし、批判され、否定され、雑巾のように干されて捨てられてゆく経過しか待ってはおらず、楽山の自己満足に付き合うことは、人生の大切な時間を無駄にすることに他なりません。
 
これも確かにその通りだ。たとえばある者が神の声を聞くという神秘体験をしたとして、万人にこれを信じなければならぬという義務が発生するはずもないし、そもそもそれは不可能なことでもある。
 
ならば、霊が分かるっぽい楽山の言も、何の価値もないわけで、楽山は、自分の無価値を主張したいのでしょうか。ならば、宗教と信仰について、信じてもいないのだから、何も言わないでほしいと思います。
 
宗教的に偉大な存在というのは、人間にとって、知らなかったことを知らせ、感じなかったことを感じさせ、新しい目覚めを促す存在でありますが、楽山には、そのような賜物はありません。楽山は、宗教にも信仰にも、全く縁のない、煩わしいだけの人なのです。
 
大袈裟なたとえ話をするならば、もしある宗教がこの道理をわきまえず、教団の内側に向かってだけでなく外部に向かっても教祖の語る神秘体験を信じなければならない、これえを疑ってはならない、そのまますべてを信じなければならないと主張したとしても、それは外部には説得力はもたないし、場合によっては偏狭なカルト集団とみなされ強く反発されることにもなりかねず、そういう当然の結果に教団が不満を述べても仕方がないということでもある。
 
当たり前のことです。人間に神秘が分かるはずはないのです。人間は、何からの恩恵を感謝して、神秘の存在を仰ぐだけなのです。また、宗教も信仰も、決して強制されないものであり、また、楽山のように嘘と詭弁で刷り込んでくる者は、最初に、除外されるべきなのです。
 
霊がらみの楽山の発言は、もっと、質(たち)が悪くて、はっとさせる何ものも含まれておらず、信じるに値しない惑わしに過ぎなくて、いかに執拗に楽山が語っても、もたらされるのは疲労と妄想的な害毒だけなのです。これほど、徒労と疲労を与えてくるだけの人物も珍しいです。
 
*神秘体験とその後
著者は本書において、すべては一つであると感得する神秘体験について触れつつ、その一方で上のように神秘体験を経験した者とそうでない者との意思の疎通は極めて困難であることをも説明しているが、もし神秘体験によってすべては一つであると悟ったがために、その経験のない者と分断され、争いが生じる結果になるとしたらなんとも皮肉な話である。
 
楽山には関係のないことです。楽山が物を言えば、混乱要素にしかなりません。楽山こそ「意思の疎通は極めて困難」な人です。なにせ、人の言うことを聞いていないのですから、どうしようもありません。「争いが生じる結果」にならないために、楽山は黙るべきです。
 
しかし考えようによっては、これを乗り越えられるかどうか、乗り越えるとしたらどのように乗り越えるかということが、その神秘体験の正統性を推し量る材料となるのかもしれぬし、
 
「乗り越える」という言い方にだまされないでください。こういう企みが、楽山の特徴です。人間らしい知恵の欠乏しているところを、詭弁の悪知恵でごまかして、それこそ、「乗り越え」ようとするのです。
 
結局、霊が分かるっぽい自覚の楽山は、結局、神秘体験を受け入れて、自分がそうだと言いたいのでしょう。孤独なヒーローを、三文芝居で、演じているのでしょう。神秘体験を「乗り越える」前に、楽山の妄想刷り込みを、受け入れることなく、廃物として、乗り越えるべきです。
 
どう「乗り越える」というのでしょう。中身のない楽山が、中身のないキレイごとを言っても、何の足しにもならないのに、言葉だけ、もっともらしく付けて、分かっている自分、許容力のある自分を、捏造アピールしてきます。
 
そして「神秘体験の正統性を推し量る材料となるのかもしれぬ」・・何も言わないよりマシと思うのでしょうか、否、楽山は、何も言わないのと同じです。何か言い得たことにしたいだけなのです。この、楽山の、ごまかしこそが、楽山が異常な疲労を与える大きな要素なのです。
 
もしそうであれば、神秘体験とは神秘体験そのもの以上に、その後その人物がどのように変わるか、またはどのような道を選択するかということこそが重要だということにもなりそうだ。結局、神秘体験の本当の意義はここにあるのかもしれない。
 
霊が分かるっぽい楽山は、どう変わったのでしょう。知性が無知性になり、感性が不感性になって、嘘を吐き、妄想を振り回して、詭弁を弄するようになって、こともあろうに、人間の、最も醜い有り様を、恥も知らずに、ずっと、見せびらかし続けているのです。
 
「神秘体験の本当の意義」だそうです。やっぱり信じているのですね・・ということです。だまされないでください。楽山は、恐らく自らの神秘性を認めて「人物がどのように変わるか」「どのような道を選択するか」が本当の意義だと言っています。つまり、受け入れ前提の発言です。
 
結局こういうことになるから、楽山の毒性は、その詭弁と刷り込みによって、病気を伝染することになるのです。これは、偽善者の、そして、体質的病質者の、必然であります。実に、楽山は、まわりくどくて否定しにくく、かつ、執拗に、刷り込んでくるのです。
 
人の言うことが理解できないで、自分の言っていることが人に理解されるべきだと訂正不能に思い込んでいる人、自分の非を認めないで、人の非を当然のように云々する人、あらゆる悪と不義を人に向けて、自分に向けず、お山の上から駄弁と詭弁を弄する人、それが楽山です。
 
楽山の言を否定する根拠は、楽山の今までのブログなどの発言です。だから、また、否応なしに、これから言うであろうことが、新たな根拠となってゆくでしょう。楽山は、恐らく、いつまでも、どこまでも、敬虔と謙虚から、真実の言論から、はてしなく遠ざかってゆくでしょう。
 
楽山のような人は、恐らく、無反省だから何も学習せず、無責任だから何もはっきり言わず、一生を煙の中で過ごして、主観においてだけ、断定していないから自分はバランスが取れているつもりでいるのでしょう。・・はっきり言って、人間ではないです。
 
そう言えばそうかな・・なんて思ったら楽山の思うつぼです。誠意の代わりに作為、善意の代わりに悪意、説明の代わりに詭弁、謙虚の代わりに丁寧語、魅力の代わりに誘導、それが、楽山です。決して、関わらないようにしてほしいと思います。
 
 
聖的独り言

聖的独り言
 
 
(2021年07月14日)
 
 
 
  ヨブ記とお叱り
 
ヨブ記などを読んでみますと、
神様に叱られているような気がします。
一人称を用いるので恐縮ですが
「お前(人間)は私(神)の造ったものだ。
私のものだ。
私のものを壊し塵に帰すのに
いちいちお前の考えに沿って説明し納得させ
了承を得る必要がどこにあるか!」
という具合に。
 
被造物である私は泥の中に
ひれ伏すしかありません。
ヨブ記では神様が言葉をかけてくださる。
今の世においては神様の声を聞くこともできない。
異言も止(や)み、預言も廃(すた)れた。
しかし、いや、だからこそ
代わりにヨブ記も福音書も含む聖書がある。
 
 
  祈り・恐れてはならないもの
 
生も死も恐れている
それ以上に神を恐れている
同じくらい主を頼みとしている
 
♪迷わば訪ねて曳(ひ)き返りませ
 
この先たとい人を世界をこの国を
いかなる艱難(かんなん)が襲って来ようとも
 
♪世の友われらを捨て去るときも
 
たとい死の陰の谷を歩むとも
わざわいを恐れません
と言えますように
 
(2000年代か)
 
 
 
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  楽山の人間離れ進行
 
 神秘体験の初歩段階
 (『宗教的経験の諸相(下)』W・ジェイムズ著)
 2021年07月10日 楽山日記(LD)
  を批判。
 
 
ジェイムスの本は、何度も取り上げて書いてくる楽山です。批判に対して、不感不応で、何も気にせずにいられて、あざ笑うように書いてこれる楽山の意地の悪さは、まさに、サディストの所業であります。人間らしい感じ方や表し方を失ってゆくプロセスでしょう。
 
ちょっとした不思議なことを、心霊と結びつけるのは、子供には、よくあることですが、いい年した大人が拘泥するのは、成長していないからでしょう。そういう生き方は、人間の繊細な心を損なってゆきます。その典型的な症例となる楽山です。
 
*気づき
『宗教的経験の諸相』を読んでいたら、神秘体験の入口について書いてあったのでメモしておきたい。
神秘的経験のもっとも単純な階梯は、ある格言とか文章とかのもっている深い意味が、何かのはずみにいっそう深い意味を帯びて突然にパッとひらめく、という場合であるのが普通である。
(『宗教的経験の諸相(下)』W・ジェイムズ著、桝田啓三郎訳、岩波書店、2015年、p.186)
 」
これはいわゆる「気づき」という感覚だろうか。「気づき」は、ものを考える人であれば誰でも経験はあるだろうし、これを神秘体験というのは大袈裟な気がしないでもない。
でもよく考えてみれば、これは口ではうまく説明できない不思議な感覚であるし、神秘体験と言われれば確かにその通りかもしれぬ。
ちなみにここでは、「神秘的経験」とは「神秘体験」のことだろうと解釈して読んでます、
 
自分を神秘体験者と言いたい自己顕示欲の強さが表れています。だから、気づきさえも、神秘だと言いたいのでしょう。霊能者気取りの安っぽい合理化・自己正当化です。宗教を、人間としての必要性から求めず、人生の問題として考えない者の習性~性癖~症状でしょう。
 
このような性癖で、宗教も信仰も考えておれば、魔術的で、一気に何でも単純に解決できるのが、宗教だ、信仰だ、そうならないキリスト教の神はいない、とでも言うつもりでしょうか。いったい、どれだけ、日常を、疎かにして、人間をやめてきたのだろうと思います。
 
「「神秘的経験」とは「神秘体験」のことだろうと解釈して読んでます」・・"的" が付くのと、付かないとの違いは、遠慮か、不確定かもしれませんが、楽山は、強迫的で、お気楽な偏見から、こだわっています。神秘とか霊とかいう言葉への盲信~依存症~中毒でしょう。
 
*既視感
同書では、デジャヴについても書いてあった。
神秘的経験の階梯のもう一歩進んだ段階は、きわめてしばしば見られる現象のうちに見いだされる。つまり、「前にここにいたことがある」という、ときどき私たちを襲ってくる突然の感情であって、いつか、遠い遠い昔、ちょうどこの同じ場所で、この同じ人々と一緒に、まったく同じことを話したことがある、という感じである。
(同上、p.188)
 
デジャブを、不思議だね・・で済ませずに、証拠であるかのように、不思議化して、神秘化してしまう者は、ついには、あらゆる現象に、神秘的な意味を付け加えるようになるでしょう。ただ、そこは、鉄格子の中かもしれません。
 
遠い遠い昔が身に迫ってくるとか、におってくるとかの、既視感デジャブというのは、精神症状としても書いてあることで、ゆえに精神病とまでは行かなくても、そういう感覚に神経を集中してゆくと、だんだん、正常な心から離れてゆく可能性はあるでしょう。
 
こういう考えに囚われるときには、気分転換が必要です。でないと、のめりこむように、異常心理と精神病理に嵌っていって、楽山みたいになってしまいます。そうなってしまったら、今、表れているように、人間として、おしまいになります。
 
これは誰もが知っている感覚だろうと思う。だからこそ、「既視感」という言葉もあるのだろう。
こうしてみると、神秘体験というものは、少なくともその初歩的な段階のものは、特別な人にしか経験できないものというわけではなく、誰もが経験し得るもの、またはすでに経験済みのものなのだろう。
 
正常人にも、たまに、人によってはある、という既視感デジャブ、という精神症状です。ということは、精神疾患には、多いのかもしれません。私も、たまに、経験することはあります。あまり、そこに、集中しないほうがよい、という感想を持っています。
 
そこに、神秘的な意味を貼りつけて、神秘、神秘、というほどのことかどうか、誰にも分かりません。楽山のように、決めつけて、我こそは、神秘体験者なり、特別なり・・と、書いてしまうのは、情けないほど、貧乏くさいことです。余裕のない、欲望の卑しさを感じます。
 
楽山は、自分は神秘の人、という印象を吹き込みたいのです。「初歩的な段階」を想定しているようです。このことからも、楽山は、いってしまった人なのでしょう。「誰もが経験し得るもの」から、神秘の世界、実際は、精神症状の世界に、楽山という病人が、仲間を求めています。
 
またもし神秘体験は一部の人に独占されるものではなく、多くの人々が経験し、または経験し得るものだとすれば、それを経験したからといってその者が霊的に特別な存在であるということを証明することにはならないものなのだろう。
 
既視感から、ここでは、霊的に特別ということを否定しているようですが、楽山は、子供のときから "霊が分かるっぽい" と書いていましたから、さらに、自分は、上を行っているということが言いたいのでしょうか。今の楽山の、擦り切れたような精神が、それを全否定しているのに。
 
自分はいまだに神秘体験と霊性の優劣を関連付けてしまう悪癖から抜けきれていないので注意したいと思う。
 
関連付けてしまう悪癖に注意しているなら、上のようなことは書かないはずです。楽山の意図は、真逆だと思います。心霊をネタにしたペテンらしくなってきました。客観的な注意力は、楽山にはないと思います。そのために、視野狭窄となり、あらゆる面での理解力を失っているのです。
 
*猛将パットン
蛇足ながら、思い出したことがあるので一言。
パットン将軍は自分は前世でも軍人だったと信じており、初来訪の土地であるにも関わらず、前世で来たことがあるのでよく知っているとして目的地までの道を間違わなかったという逸話をもっているが、ひょっとしたらこれも既視感の一種であり、その発展型なのだろうか。
 
心霊をネタにしたペテン師は、このように、既に死んで、詳しい体験を知りようのない人を、しかも有名人を、好きなように利用して、同類であるかのように扱い、褒め讃え、宣伝してゆくのです。その先には、誘導から洗脳が待っているかもしれません。注意、警戒してください。
 
さらにはパットン将軍は第二次大戦が終わってほどなく、交通事故に遭い、あっけなく世を去っている。それほどの大事故ではなく、他の当事者たちはみな無傷であったのに、パットン将軍だけが打ち所が悪く重症を負い亡くなったのである。まるで軍人として戦うために生まれ、その役目が済んだらすぐに天国に還ったでもいうように。
思えば、パットン将軍という人物とその生涯は不思議であり、実に神秘的である。
 
このように、どこまでも、神秘のほうに、話を進めてゆきます。有名人であろうとなかろうと、事故で亡くなったことへの共感より、神秘的な不思議話のほうを優先する人は、いずれ、死体の前で哀悼の意を表するのではなく、死体に愛着するようになるかもしれません。
 
楽山の書く文章が、楽山を表します。そして、楽山は、進行してゆくのです。楽山こそが、神秘的な人、不思議な人・・と言われたいのでしょう。このことのほうが、よっぽど、怖いと思います。キリスト教の天国とも、信仰者の人生とも、何の関係もないオカルト話です。
 
楽山は、今まで、宗教と信仰の言葉を、好きなように超常ホラー言葉の数々で、けがしてきました。概念が、すべて、人間からも、人間の宗教と信仰からも、ズレている人です。しかも、そのことに気づかない鈍感でもあります。高等感情鈍麻と言います。超常趣味というより超常中毒です。
 
短い人生を、地上の人間として生きずに、いつも、超常世界の話をしますが、その分、人間性が壊れてゆきます。病識がありません。善悪・正邪の区別がつきません。罪とか恥とかが分かっていません。無視と忍耐を混同して、記事を書き続けています。どんどん的を外れてゆくのです。
 
気をつけてください。楽山を受け入れると、学習と成長が止まります。知性と感性の鈍麻と、先入観と偏見の固着が進行します。私は、楽山は柔和だと勘違いして、コメントの遣り取りをしていた数か月間、そうでした。子供じみた変質者に過ぎません。もはや誰もだまされてはいけません。
 
 
変質の足跡

変質の足跡
 
 
(2021年07月11日)
 
 
 
  正気への警告
 
夜見る夢も昼見る夢も
ただれた眼で見ている
おぼろげな幻想に過ぎないが
よい夢も悪い夢もあるのに
目覚めてみれば
現実も幻想に満ちている
夢とは違って
幻滅という必然が待っているから
よい幻想はほとんどない
さらなる幻想に逃げようとすれば
死は幻想を保証しないのだから
正気を失うしかない
 
耐え難い重荷が限度を超えたとき
正気を失うということが
肉体を守るための
防衛反応に思えてならないことがある
 
例えば鏡に映る顔が
生き生きした何ものもなくて
気持ちと全然一致していないとき
心神は残る力を振り絞って
限界に注意を喚起し警告を発している
鬱(うつ)による意欲低下は
これ以上の無理は無理と
心身を休ませるため
さらに感情の麻痺や鈍麻は
重さを感じなくて済むように?
 
それがわずかに残された
正気の辺縁をめぐる
ただれた眼の日常となって久しい
 
(90年代か?)
 
※ 記事と、詩のようなものは、年代からも分かるように、直接の関連はありません。ただ、少しばかりテーマの類似を考えて、詩のようなもののほうを過去作から選んではいますが、参考にもなるかどうか分かりません。
 
 
 
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