ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

タグ:神聖

 
  反面の偽善者3
 
 
洗礼だけなら信仰ではない。
儀式の過去は信仰を保証しない。
 
善の意識だけなら信仰ではない。
できるだけ、では、安い道徳に過ぎない。
 
全能の神聖に向かって
守っていますなんて通用しない。
 
人に対して
ほどほど善い人になるのが信仰ではない。
 
それは信仰の目的でもない。
それは信仰の達成でもない。
 
信仰は道徳ではない。
信仰は戒律でもない。
信仰は保険でもない。
 
信仰の義は
知っていることではない。
分かっていることではない。
守っていることではない。
それらは神の前で
人間には成り立たない。 
 
 
そこを外せば信仰ではなく
そこを弁えれば信仰となるのは
 
神聖に対する正直さだけだ。
神聖に対してだけはは正直しか通用しない。
それだけでよいゆえに万人の救いとなる。
 
 
神聖の前で嘘を吐いてはいけません。すべて見抜かれているのだから。
神聖を恐れるなら、キリストを愛するなら、人に弁えられるのは、御前での正直さだけです。
 
神聖なるわざを整えるのは神の仕事。評価するのは神の仕事。裁くのは神の仕事。
 
 
人の善などはことごとく神の前では成立しない。なぜ自分で体裁を整えようとするのだろう。それは神の仕事です。だから人が、神に対して捧げられるのは、善ではない。
 
※ できるだけ頑張っているのだけど・・通用するのかなあ・・などとあいまいな考えで、神を侮るものになってはいけません。こういうのは、反キリストの偽善者のすること。
 
私たち人間は、神の前に捧げられるような、いかなる善も持ち合わせてはいない。人に出来て、神の御前に出せるもの、正直以外に何があろう。罪を犯しても、神の前に正直であるなら赦される。
 
人に善人と言われ、熱心な信仰者と言われても、神の前に飾る祈りは聞かれない。神に対して偽る祈りは退けられる。神を偽りの讃美で包む者は、偽りの赦しに包まれている。
 
人は騙せても、神は騙せない。既に総て見抜かれているからだ。ゆえに、信じるに値する。
 
正直な祈りだけが赦され救われるための唯一の条件である。
 
背いた者が、主のもとに戻る道もそこにあり、そこにしかしかない。神に対して、人の道徳など通用しない。いかなる功績も、自慢も、誇りも、通用しない。神の前に、人の道徳など成立しない。
 
神が総てを見抜かれる有り様を、人は地上で知り得ない。だから正直以外の捧げものはないのである。
 
 
  反面の者
 
神の啓示と聖霊の導きが根拠ですから
議論の対象になりませんね・・などと言う者がいる。
 
ああでもない、こうでもない、ていうか
それが信仰というものなのかなあ・・などと言う者がいる。
 
説明も解説も弁明も反論も反省もできない者たちだ。
代わりに社交の世辞や曖昧な言い方をしてくるだろう。
 
ずっと神聖に向かって
立小便をしている者たちだ。
真実を排泄物に変えてゆくく者たちだ。
 
こうなってはいけない
というモデルとなるために生まれたのだろうか。
 
罪の門口に行って
やがて来たるものを待つためだろうか。
 
反面教師、即ち、悪い見本がいて、しきりに教えたがる。
 
 
御心は測りがたいが、偽善者の謀ることは御心ではない。神の前では総てが明らかにされ、反省しなかった者には弁明の余地はない。
 
私たち信仰者にも、御心は測りがたいが、折に触れて反省はいくらでもできるのが、神の賜物である。
 
信仰者は正直な告白と悔い改め。
 
偽善者は虚偽と詭弁と不感不応。
 
 
神の啓示と聖霊の導きについては、人は、これがそうだとは言う能力も資格もない。
 
 
神の啓示と聖霊の導きを根拠にする者は
感じることと考えることを怠っているのであり、
既に信仰者ではない。
 
幼稚で滑稽な詭弁を
さも重要であるかのように
言葉の組み合わせだけ振り回す偽善者は
滅びを自覚できない。
 
彼らは
自覚しないまま
人間としての能力全般が鈍くなり壊れてゆくのを
平安と呼び、恵みと呼び、信仰と呼んでいる。
彼らの褒め合い笑い合うに任せるしかない。
 
信仰者は
信仰にとって破壊者となる偽善者に近づいてはいけない。
彼らは見え透いた冗談のように虚しい。
 
偽善者を知ることは、ある意味、重要である。
その対極に信仰があるからだ。
 
 
信仰者は、神聖を根拠にはできないことを知っている者です。神の啓示と聖霊の導きについて、不完全な罪深い人間は、これがそうだとは言えない存在だということを知るのが信仰であります。
信仰者は、神聖に対して、神聖の真理を知らなくても、救いの希望として、信じ仰ぎ祈るのです。
 
精いっぱいの人知をもって判断し行動する。そして精いっぱいの正直さで神に捧げる。そういう祈りだけが信仰生活を支えてゆくのです。できることを精いっぱいする、知らないことは知らないと言う、それが、キリスト信仰者です。
 
それを超えることは神に任せられるべきことであり、
人は、神を恐れるならば、神の領分について多くを語れると思ってはいけない。
 
 
偽善の色

偽善の色
 
 
(2019年)
(2021年)
(2022年10月31日、再録+加筆)
 
 
 
  いい
 
いい
もういい
まあいい
いいんだこれで
いい加減の
いい?
思い切れぬまま
何かを受け容れ
何かを得て
何かを失い
何かを切り捨てる
それはいい
とは違う
分別され過ぎた
いい
 
 
  スイッチ
 
今死に果てれば未来が見えぬ
生き果(おお)せる間は過去が消えぬ
身を捨てて苦楽の時を消すか
身に沁みて苦悩の時を見るか
独りの 時は本当に消せるのだろうか
独りの 時は見られることがあっただろうか
いずれいかなる時も消え失せるとしても
自分で触らない限り
スイッチは「生」のまま
今はまだ召される時を待っている時
時に踊り
時に沈む
時の果(はか)に任せて
 
----------------------------
※ 「果(はか)」は、
「はかどり」「進み具合」といった意味で使ってみたつもりです。
 
 
  祈り・エレジー
 
捧げまつるひとつの哀歌
紡いでは千切れ
織っては破れ
綴っては綻(ほころ)びる
 
狂おしげに病める韻律
あまりに私(わたくし)に過ぎた形
が私を拒み形を拒む
 
他には何も編めませんでしたと
細い手に乗せて差し上げ
一日の糧(かて)を求めてはなりませんか
 
あなた様だけには物乞いをしたいのです
すすんで切に切に求めたいのです
糧がもはや不要と尽きるまで
事切れるその日までは
私には肉体があります
だから肉欲のように祈り求めます
 
 
 
楽山日記、誰なのか分からないコメント。
コメント欄から引用
 
「間違ったら 誤ったら 素直に詫びて
 自分 正さなくちゃいけない」
 
「それが出来て 初めて人間だと
 それ出来ないなら 人ではないと」
 
「嘘ばかり 重ねる君よ
 保身だけの 卑怯者の君よ
 そんな君は 魅力の欠片もないのに」
 
「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は
 最大限の償いと 最大限の反省と共に
 開いた出店を 畳むしかないんだよ」
 
「人間で在り続けるのなら
 人で在り続けるのなら」
 
楽山は、人間であり続けることを、拒み続けています。
 
 
 
楽山の害毒メモ:
 
今までに表れてきたこと。これは、楽山に限らず、聖書においてキリストの敵となった宗教指導者や、世に数多いる偽善者の特徴でもあります。この世で最も迷惑な人の特徴です。楽山は無責任です。決して信用しないでください。
 
楽山は、1つのことを書いて、別の時には、それに反することを平気で書いてきます。そこで、反省、修正、というステップを書かず、あたかも最初から思っていたことのように書いてきます。自分に誤りを認めない自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)だからです。
 
偽善者の特徴でもあります。
 
人格:
自己愛が強く自己中である。
笑いと怒りしかなく、悲しみの情がない。
共感がなく、罪悪感がなく、反省しない。
自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)と思われる。
平気で嘘を吐く。様々な詭弁を弄して、柔和に見せかける。
深い情感がなく、共感性がない。相手が疲れるのを見て快感を得る。
後悔、反省、修正ができない。学習による成長がない。
罪悪感、羞恥心が見られない。サイコパスと思われる。
アドラー心理学の宣伝をしていた。自己中心である。
中身や実質のない形骸的精神機能しか持たない。
 
奇怪な単細胞。
 
議論:
議論や交流が、表面的で、整わないし、できないし、元々する気もない。
相手の意見を受け取っていないので、反論、弁明が成り立っていない。
理路が常識的にも浅く、基本的に訂正不能である。理解力がない。
自分なりの堅実な理路を組み立てられない。
読書自慢。感想は平板で、独創性や深みがない。
様々な気取り。読書家気取り、評論家気取り、インテリ気取りなど。
分かっているという我執から離れられない。
非を指摘されると、逆に、こちらに当てはめて被害者面をする。
人を批判~誹謗中傷するが、その言葉で自分が斬られるブーメラン現象。
真面目に応答~議論すればするほど、病的な徒労感と疲労のみをもたらす。
ボンヤリ言語:語尾を濁し曖昧で婉曲的な言い方で、印象を刷り込もうとする。
トホホ言語:謙虚で弱いと思わせて悪意を隠すための嘘の芝居。
しばしば、自身への同意を期待して、見え透いた世辞を言う。
「反省。とほほ」などと書くが、不自然であり、前後で何も変わらないので嘘です。
騙して、言い分を詭弁や嘘で通そうとする、通っていると思い込む。
 
訂正不能の偏執。
 
宗教:
反キリスト、反宗教。聖書およびキリスト信仰を、貶めてくる。
キリスト教とキリスト信仰を字面だけで云々し、理解していると思い込む。
HSを脱会したと言っているが、真実かどうか、疑わしい。
霊能者のつもりだが、それに見合う直観的洞察は皆無である。
 
慢心して中身の無い形骸。
 
楽山の書いた文章を、3年数か月のあいだ見てきた結果ですから、大きく変わることはないでしょう。これらについては、新しい情報によって、必要なら加筆し、繰り返し載せることになるでしょう。
 
 
 
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  聖霊
 
 
父・子・御霊(みたま)、神・イエスキリスト・聖霊、という三位一体の三位について、私が、いちばん不可解なのは、聖霊であります。何をやっても、聖霊の導きなら正しい、ということになりますが、聖霊の導きかどうか、どうして、三位でもない人間に分かるのでしょう。
 
「昨夜も聖霊と話しました」などという話をネットで読んだことがあります。正直言って、超常神秘信仰からの自分信仰の始まりではないかと思っています。
 
(ヨハネによる福音書)3:34
神がおつかわしになったかたは、神の言葉を語る。神は聖霊を限りなく賜うからである。
 
自分は聖霊によって神の言葉を語る・・などという者が出てきたら、語る中身によって見分けるほかはないということです。実に気楽に、聖霊について語る者もいました。その者は、結局、罪は悔い改めなくても赦されるから気にしなくていいと言って墓穴を掘りました。
 
しかも、その者は、悔い改めは神が与える、などと言い逃れをしてきました。シャロームshalom という偽牧師ですが、芝居好きの楽山の成りすましではないかとも疑っています。
 
(マタイによる福音書)
12:31
だから、あなたがたに言っておく。人には、その犯すすべての罪も神を汚す言葉も、ゆるされる。しかし、聖霊を汚す言葉は、ゆるされることはない。 
12:32
また人の子に対して言い逆らう者は、ゆるされるであろう。しかし、聖霊に対して言い逆らう者は、この世でも、きたるべき世でも、ゆるされることはない。
 
聖霊を語るのではなく、聖霊を騙(かた)る者、即ち、聖霊を汚す者は、また、同様に、ゆるされることはないのです。このように、神秘は、人間離れしているようですが、人間としての信仰を持つ者への恵みであります。便利だからと、だますのに使えば、人間離れがバレるのです。
 
(ヨハネによる福音書)14:26
しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってつかわされる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、またわたしが話しておいたことを、ことごとく思い起させるであろう。
 
これは、はっきり言って、信仰があれば・・ということです。聖霊が、聖霊が、という向きには、便利でしょうけれど、その言の浅はかさは自明になるということを含む導きという前提なのです。
 
(ルカによる福音書)
11:12
卵を求めるのに、さそりを与えるだろうか。 
11:13
このように、あなたがたは悪い者であっても、自分の子供には、良い贈り物をすることを知っているとすれば、天の父はなおさら、求めて来る者に聖霊を下さらないことがあろうか」。
 
12節は、極端な比喩です。極端に言わないと印象に残らない時代の話であります。キリストが説教している相手は、特に知恵が豊かでもない民衆だったからです。それに比べて、子に対する親の愛を説いている13節は、今の時代でも理解は困難ではないと思います。
 
つまり、私たちは、罪人、悪い子、なのです。キリスト者になったら、完全になれる、いい子になれる、正しくなる、・・などという信仰ではありません。信仰は、悪い子が赦されるために、与えられるものです。悪い子とは、悪い子であること自覚する者という意味です。
 
(ルカによる福音書)
12:11
あなたがたが会堂や役人や高官の前へひっぱられて行った場合には、何をどう弁明しようか、何を言おうかと心配しないがよい。 
12:12
言うべきことは、聖霊がその時に教えてくださるからである」。
 
試練、迫害、受難、殉教という、地上での試みが語られています。問い詰められても恐れることはない、という教えであります。努めて出来ることをしている人間に対して、何よりも、聖三位は、執り成しの聖三位であるということです。
 
殉教の死を恐れないでいられるかは、中心課題ですが、何も恐れずに死に臨める人はいないでしょう。だから、キリストも、弟子たちの「肉体が弱い」ことに共感し、思いやっておられます。
 
 (マタイによる福音書、口語訳)
26:37
そしてペテロとゼベダイの子ふたりとを連れて行かれたが、悲しみを催しまた悩みはじめられた。 26:38
そのとき、彼らに言われた、「わたしは悲しみのあまり死ぬほどである。ここに待っていて、わたしと一緒に目をさましていなさい」。 
26:39
そして少し進んで行き、うつぶしになり、祈って言われた、「わが父よ、もしできることでしたらどうか、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの思いのままにではなく、みこころのままになさって下さい」。 
26:40
それから、弟子たちの所にきてごらんになると、彼らが眠っていたので、ペテロに言われた、「あなたがたはそんなに、ひと時もわたしと一緒に目をさましていることが、できなかったのか。 
26:41
誘惑に陥らないように、目をさまして祈っていなさい。心は熱しているが、肉体が弱いのである」。 (マタイ26:37-41、新約聖書)
 
キリストの「悲しみ」は、弟子たちと別れる十字架の時が迫っているからでしょうか。それとも、弟子たちや私たちと同様に、肉体が殺されるだろうという恐怖でしょうか。私としては、はっきりしなくてもいいです。
 
 
神聖への恐れ

神聖への恐れ
 
 
(2021年11月05日)
 
 
 
 聖書抜粋
 
詩篇56:8より
あなたはわたしのさすらいを数えられました。
わたしの涙をあなたの皮袋(かわぶくろ)にたくわえてください。
 
詩篇88:11-13より
あなたのいつくしみは墓のなかに、
あなたのまことは滅びのなかに
宣(の)べ伝えられるでしょうか。
あなたの奇跡は暗やみに、
あなたの義は忘れの国に知られるでしょうか。
しかし主よ、わたしはあなたに呼ばわります。
 
詩篇119:123
わが目はあなたの救いと、
あなたの正しい約束とを待ち望んで衰えます。
同141
わたしは取るにたらない者で、人に侮(あなど)られるけれども、
なお、あなたのさとしを忘れません。
 
伝道の書7:14-17
順境の日には楽しめ。逆境の日には考えよ。神は人に将来どういう事があるかを、知らせないために、彼とこれとを等しく造られたのである。
わたしはこのむなしい人生において、もろもろの事を見た。そこには義人がその義によって滅びることがあり、悪人がその悪によって長生きすることがある。あなたは義に過ぎてはならない。また賢きに過ぎてはならない。あなたはどうして自分を滅ぼしてよかろうか。悪に過ぎてはならない。また愚かであってはならない。あなたはどうして、自分の時のこないのに、死んでよかろうか。
 
 
 
悪意が止まず、精神の崩壊の続いている楽山は、また、成り立たない記事を書きました。これが、自己愛性人格障害の訂正不能の症状なのでしょう。嘘がバレて、他に何も出来ないときに、嘘と詭弁を積み重ねることしかできない楽山です。
 
私たち信仰者が、信仰について何かを語っても、それは、楽山には、何の関係もありません。また、楽山が、何かを語っても、それは、信仰とは、何の関係もありません。
 
 
楽山ブログに見つけたコメントの再録です。誰のコメントかは不明です。
コメント欄から抜粋引用しておきます。
 
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら 誤ったら 素直に詫びて
 自分 正さなくちゃいけない」
「それが出来て 初めて人間だと
 それ出来ないなら 人ではないと」
「嘘ばかり 重ねる君よ
 保身だけの 卑怯者の君よ
 そんな君は 魅力の欠片もないのに」
「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は
 最大限の償いと 最大限の反省と共に
 開いた出店を 畳むしかないんだよ」
「人間で在り続けるのなら
 人で在り続けるのなら」
 
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、
これを実践するのは難しいんだよなあ。
恥ずかしながら、自分もそんな風です。
これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
2019年だから、それほど古いコメントではありません。
 
楽山は、自分ではなく「人間の性」のせいにしています。一般化されては、たまりません。
 
楽山は、人間であり続けることを、拒み続けています。ふつうのことが、出来ないのです。
 
自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)は、治癒するということはなく、効く薬もなく、言動と生活の範囲を自由に決めても、その責任を負わないならば、どうして人間であり続けられるというのでしょう。
 
その報いのように、書けば書くほど、くずれてゆく楽山です。それもそのはずで、ふつうなら、恥ずかしくなって、やめるところを、何も気にしないで、続けるわけですから、何も良くならないまま、無秩序の闇に向かうのは当然のことなのです。
 
 
感情を語ることと、感情的になることは、真逆といっていいほど違います。感情的になると、感情が主体となり、感情を対象に出来なくなって、そこから語ることが全て感情によって歪められたものになり、冷静な意見を語れなくなります。
 
人間の反省と思考を促進するのは、しんみりとした悲しみです。そこで、人間は、自他について、否応もなく、悩むけれども、悲しみの同伴によって、深く考えるのです。悲しみを糧(かて)としないで、悪いものとばかり思う向きは、恐らく、浮かれた喜びだけを求めるようになるでしょう。
 
 
楽山は、恐らく、悲しみの情がなく、笑いと憎しみの感情しか育ててこなかったのだろうと思います。丁寧語で飾って、言い得たつもりでも、言ってることの中身が、高慢に上から見下ろし、相手が弱るのを悦ぶという満悦に生きています。世辞の丁寧語があってもなくても同じです。
 
楽山は、広がりのない思考と深みのない感情に漫然と生存して、努力を怠り、分かっているという慢心からの短絡で主張し、まともに動くことも出来ないまま、中空を偏平足で右往左往しているに過ぎません。だから、事態を把握できず、恐れを知らずにいられるのです。
 
 
 
 
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