ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

タグ:神

 
  神と偶像3
 
 
祈るときに
祈っている相手が神であるか否かは
神と呼ぶかどうかではなく
祈る弁えによると思います。
 
実に神の名を盛んに唱えながら
自尊と自己中の独り合点で
神を口で讃美しているだけの者や
やたら神について語る者がいます。
 
神について語っても
それが
心の中の飼い犬つまり偶像であったり
おとぎ話の超常の主人公であったり
自分の辻褄の中の要素に過ぎなかったり
有頂天の陶酔気分であったり
神という言葉の乱用しか出来ない者がいます。
 
異教の神ということではなく
聖書を根拠としていても
解釈が与える神のことだけになっていて
自分の正当化のための神?になっている人がいます。
戒める神や懲らしめる神を考えないのでしょうか。
神に、愛される、愛されていることだけになっているのです。
聖書に表された神は、そのような神ではありません。
 
ひどいのになると
悔い改めさえも神が与えると言って
罪を認めず悔い改めない者もいます。
そして平気で嘘を吐きます。
これは、さすがに極端な偽善と詭弁の例です。
 
神の愛は寛容ですが
それは人が自ら悔い改めるためであります。
ゆえに神は、常に、
正直な告白の祈りを待っておられるのです。
 
行為義認ではないですが
救われるのは
信仰を神の前に表すことですから
信仰は行いと無縁ではないのです。
 
つまり行いとして必要不可欠なのは
正直に祈るということです。
 
罪人としての正直な告白と
赦し、癒し、慰め、導きを願い
祈るのが信仰です。
 
神に正直に祈る人は
神に対しても人に対しても
だますために悪意で嘘を吐くことはなくなるでしょう。
つまり、善行は結果の一部に過ぎないのです。
 
しばしば私たちは
神に逆らっているのですから
祈りの回数ではなく
とりわけ讃美の回数や強さではなく
 
神の前の正直さだけが信仰を表します。
 
神は寛容であって
人を見捨てることはしません。
 
偽善も罪として告白すれば
本心から告白すれば
罪として赦されるでしょう。
何故なら
偽善を正直に告白したとき
偽善は、もはや偽善ではなく
一つの罪となって
その人は赦される対象となるからです。
 
告白されない偽善は
いつまでも
神の前に罪を認めず
つまり嘘を吐くわけですから
神に対して
偽りを続けているのです。
 
キリストは
ご自身の前に正直な人を救いました。
キリストは
罪をお赦しになりますが
罪を認めず善に見せかける偽善を
自由意志の悪意によって神を騙そうとする行いとして
決して赦さなかったのです。
 
キリストの父なる神以外を神?とすることを
偶像崇拝と言います。
 
偶像は、教えを守れないでいる自分の罪を
神の前に隠すために用いられます。
物としての像だけでなく心の中の偶像もあります。
むしろ後者の方が大きな問題となります。
 
偶像崇拝は偽善であり
また、神に対する、神の前での直接の背きになるのです。
 
神の前に
先ず正直であることを第一義に考えてください。
 
罪を悔い改めると言いますが
私たちは
自分の罪の総てを知りえません。
したがって
今は罪はないと思うことも罪なのです。
 
罪は悪魔の誘惑ですから
あれとこれが罪というふうに
人間に分かりやすいはずはないのです。
 
ゆえに、私たち人間が、
見えている、分かっている、知っている、守っている
と言うことも、思うことも、罪なのです。
 
私たちは、神の御前で、生きているのです。
隠れているものも、隠したものも
神は既にご存じなのです。
 
気づかない罪にまみれている私たちが
神の前に出来るのは
たかだか精いっぱいの
正直さを表すことだけなのです。
 
 
全能者との違いを自覚して
執り成しの救い主を覚えて
神の寛容とキリストの愛に対して
少しでも正直な告白をする気になれる人は
洗礼の有無にかかわらず信仰者だと思います。
 
何故なら
父なる神の子主イエスは
誰であれ
ご自身に正直な人の告白を無視されるような御方ではないと
聖書は明確に伝えているからです。
 
 
(2020年02月03日)
(2021年02月16日、再録+)
(2022年02月18日、再録+)
 
 
偶像の飼葉

偶像の飼葉(かいば)
 
 
 
  序
 
自らの信仰を暴き
すなわち十字架を倒し
墓を掘り起こし
死地を招き
振り返ったものすべてを否定し
背教の命題と
血の反証を繰り返し
繰り返し
我に問い
かかる実験の後にも
否むことのできない像
拒むことのできない絆
それだけを
信仰と呼ぶ
 
 
 
※ 
 
 楽山のツイートですが
 
心機一転★こも楽山
@komo266
手元にある新共同訳を確認してみたら、〔〕でくくってありました。
ネットで検索しても、あとで挿入されたものだという話が出てますね。
 
「(引用ツイート)
(聖書)ヨハネによる福音書に収録されている「姦淫の女」のはなしは、イエスにまつわる美しい話として特に有名なものであるが、これは後世に付加されたことが明らかになっている。聖書のよっては、ちゃんと括弧にくくられている
 」
 
楽山の目的が、聖書にケチを付けることにのみある、ということが、よく分かります。聖書の姦淫の罪を犯した女についての記事ですが、
 
 (ヨハネによる福音書、口語訳)
8:2
朝早くまた宮にはいられると、人々が皆みもとに集まってきたので、イエスはすわって彼らを教えておられた。 
8:3-5
すると、律法学者たちやパリサイ人たちが、姦淫をしている時につかまえられた女をひっぱってきて、中に立たせた上、イエスに言った、 「先生、この女は姦淫の場でつかまえられました。 モーセは律法の中で、こういう女を石で打ち殺せと命じましたが、あなたはどう思いますか」。 
8:6-8
彼らがそう言ったのは、イエスをためして、訴える口実を得るためであった。しかし、イエスは身をかがめて、指で地面に何か書いておられた。 彼らが問い続けるので、イエスは身を起して彼らに言われた、「あなたがたの中で罪のない者が、まずこの女に石を投げつけるがよい」。 そしてまた身をかがめて、地面に物を書きつづけられた。 
8:9
これを聞くと、彼らは年寄から始めて、ひとりびとり出て行き、ついに、イエスだけになり、女は中にいたまま残された。 
8:10-11
そこでイエスは身を起して女に言われた、「女よ、みんなはどこにいるか。あなたを罰する者はなかったのか」。 女は言った、「主よ、だれもございません」。イエスは言われた、「わたしもあなたを罰しない。お帰りなさい。今後はもう罪を犯さないように」。〕
 (ヨハネ書8:2-11、新約聖書)
 
キリストにまつわる「美しい話」というだけでなく、キリストが、どのような人を救ったかということ、即ち、信仰によって救われるとはどういうことか、ということを表している重要な話の一つなのです。楽山が病質によって救いから除外されているとしか思えない根拠でもあります。
 
楽山は、「姦淫の女」の話を、軽薄にも、後世に付加されたことをもって、否定したいのでしょうか。この話が伝えている中身には、一切触れることが出来ず、理解も出来ないのに、「あとで挿入されたもの」ということだけを取り上げています。信仰は、聖書から心の癒しと救いを受け取ることです。
 
楽山は、何も受け取れないことで、逆恨みをして、おかしいだろと、いちゃもんをつけてきます。つまり、楽山は、中身を読み取れない代わりに、それを聖書のせいにして、あとで付け加えたのなら作り話じゃろ・・という短絡で、否定してしまう人だということです。
 
聖書を読むに値しない人がいるとしたら、この楽山のような、自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD、サイコパス(精神病質))の人でしょう。楽山は、宗教を否定するためにだけに聖書を取り上げています。哀れですが、こういう者が、キリストの敵、反キリストになるのです。
 
楽山の、こういう読み方は、聖書に込められたインスピレーションを受け取る器を持たず、ゆえに、理解しようともせず、おとしめたいだけの憎しみからの偏見~妄想のゆえだと思います。インテリを気取っても、チクリと刺してくる蚊のような根性だから、パチンと叩かれるだけなのです。
 
この聖句を、揶揄の材料にして、ケチを付けるだけ、否定するだけ、けなすだけ、ということは、楽山のような人には、聖書を読むために必要な良心の感受性がない、即ち、聖書全体についても、楽山が、救いも癒しも何も受け取っていないということです。
 
ケチをつけ、文句を言っているだけの野次馬には、聖書が説くところの、狭き門から真実への道が、救いとして開かれることはないでしょう。楽山が、その見本となっているということです。聖書を読めない愚か者が、あらかじめ定められているのでしょうか。それは分かりません。
 
楽山が、いかに聖句をバカにしているかが表れています。楽山は、愚か者であるにとどまらず、その愚見を自分で言いふらすことで信仰そのものを、けなして侮辱してくるのだから、その他害性は明らかであり、反キリストが自分は反キリストだと自己顕示していることになります。
 
ケチをつけたつもりの楽山が、結果として、逆に、自らにケチをつけて、信仰とは縁のない自分を表しています。聖書の大事なところを理解しようともせず、キリスト信仰をおとしめたいだけの楽山の体質です。まるで、どこにも進めないものだから、石を投げて、ペッペッと唾を吐いているようなものです。
 
 
あとからの加筆を、しれっと、楽山もしているようです。
 
心機一転★こも楽山
@komo266
·7時間
〔〕は、「新約聖書においては、後代の加筆と見られているが年代的に古く重要である箇所を示す」とのことです。
 
楽山は、中身の重要性の中身について書いていません。文献として記事を引用しても、その中身の重要性について、楽山は理解できないのです。付け加えると、私は、新共同訳を信頼していないので、新共同訳に書いてあるなら、訳者のこじつけか言い訳に過ぎない可能性もあります。
 
信仰が、神を信じて完全な善人になって救われることではない、ということです。完全な善は、神のものであり、人の手に負えるものではありません。キリストは、姦淫した女性が、自分を飾れる立場ではなく、即ち、ご自身の前に正直であるしかなかったから、救いを与えのでしょう。
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
こちらの記事で批判してきたように、いちゃもんだけを書いてきた楽山ですが、ここ2~3日は目立った動きがないと思っていたら、ツイッターのほうに、当てつけがましいツイートやリツイートを載せてきます。自己顕示欲、教祖願望、インテリ気取りが、抜けることはないようです。
 
教祖願望から、悲劇のヒーローのつもりでしょうか。楽山は、いかなるヒーローにもなれない嘘吐きです。被害者のつもりでしょうか。楽山は加害者です。インテリ評論家でしょうか。インテリジェンスのないケダモノです。理論家ではなく詭弁屋です。詩人ではなく鈍麻した受けねらいです。
 
悪い奴だということが分かりにくいように丁寧語や曖昧な語尾で書いてきます。いい人そう、という安易さで関わると、疲労と徒労から鈍感な人格になり、最悪の場合、奴隷になるでしょう。私は、ヤフー時代に、数か月、楽山の害を体験した被害者であり、とんでもないと反発して、批判を続けています。
 
 
 
 楽山のコメント欄ですが
 
>(第三者らしい)
2022年02月08日 10:52
https://twitter.com/st5402jp
君のストーカー(笑)
それにしても、へのへの爺ぃはしつこいよな。
 
いつのまにか、私は「へのへの」と呼ばれているようです。
面白がり屋の楽山は、私のHNを出してきます。↓
 
5. 楽山2022年02月08日 21:20
そのアカウントは、stさんですね。キリスト教系の方です。
やっぱ、ぽん吉さんからみても、ストーカーに見えるんだね。
へのへのさんのことは、この間、ツイッターで話題になってました。みなが、へのへのさんのことをどう思ってるか分かって面白かったです。
 
楽山は、自分を批判する人を「ストーカー」と決めつけ、意味を拡大して「みなが、へのへのさんのことをどう思ってるか分かって面白かったです。」と、皆が、私をストーカーと思っているという印象操作をして「面白」がっています。自己中サディストの、根拠のない卑怯な筆致です。
 
楽山は、他者を批判に巻き込みたいようですが、私は、このような卑怯者である楽山を批判する動機を新たにするのです。真っ当な返しが出来ない荒らし根性だから、陰で、他者を利用して当てつけてくる卑しさが、楽山の常習そして性癖です。
 
私からの批判の内容に触れずに、侮辱して憂さ晴らしを謀るような、丁寧語の、吐き気のするような筆致が、楽山の特徴です。楽山は害だけで、何の魅力もない人です。決して関わらないように近づかないように注意・警戒してください。表面的に丁寧でも、楽山の心の中は、真っ黒な闇です。
 
私は、楽山をストークしているのではありません。サイコパスで精神が貧困で詭弁屋の楽山には、何も惹かれるものはないです。近づくと大けがする恐れのある楽山に誰も関わることのないように、楽山の欠陥と不正を、多くの人に知ってもらいたいから批判記事を書き続けています。
 
 
 
私の「ウソの国ー詩と宗教」ブログ:
 
(古い記事は載っていません)
 
http://st5402jp.livedoor.blog/
(古い記事もインポート済み)
 
ツイッター:
(ここは、ブログ記事をリンク・抜粋)
 
 
ブログ村ランキングリング:INポイントが付かない。
にほんブログ村 ポエムブログ 暗い詩へ(文字をクリック)]
にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ(文字をクリック)]
 
ブログランキング
 
 
 

 
  昔書いた詩
 
昔載せた、さらに昔の、詩のようなもの
 
 
 
  きっと恥
 
引きつって声にもならず
みすぼらしい人格を残したまま
端から端へ滑って転んで
探し物でもしてるふり
山に入るか川に潜るか
きっと答えは街の中
こだまして泣いてこぶだらけ
 
 
  きっと夜の部屋
 
換えたばかりの蛍光灯
これでパッカパッカと黒ずんだ
口を開けたり閉じたりを
当分は見なくてすむのだが
昼間より明るいわけはなく
後ずさりの気配の後
スイッチ切って
ドアを閉めた途端
闇という闇は押し寄せて
大きな大きな目を開けて
この夜は一体だれのもの
きっと朝までにらめっこ
 
 
  挨拶したので
 
「やあ」
「おう」と
手を上げたまではよかったが
そのときパリッと欠けてしまったので
とりあえず型だけ取って帰った
大きくも小さくもない
部屋のすみで
ほこりをかぶって
ひびわれたそいつの
名前をまだ思い出せないでいる
 
 
  流れ星みたので
 
またひとり
この世の果てのような
草も木もない崖っぷちに立って
靴を脱ぎ
手を合わせ
誰かにあやまって
ひょいと飛び降りたとき
飛んできた花火が
ぐさあと首の後ろに突き刺さって
しばらく噴射しつづけたので
うっかり軌道に乗ってしまって
落ちつづけてる奴がいる
 
 
  まずい味噌汁のんで
 
足元をすくわれたと思って
ポンと辞表を置いて
「くそくらえ」とでも言ってから
帰ってきた腐った脳みその
脳だけ置き忘れてきたので
俺の椅子に誰かがすわり
俺の机に知らない本が積まれ
ガヤガヤと会話が音になり始める
今朝を日常だと思ってしまう
 
 
 
  信じること
 
信ずるに足るものなど
何もない世にあっても
信じなければ生きてはいけまい
疑いながら助かっている
疑われながら助けてはいない
疑心のうちに
僅かの優しさを持ちうるなら
暗鬼のうちに
人は人を許せるだろうか
許せるだろうか
老人が首と胴体を自由にして倒れ
走る少年がふらふらと目的地を忘れ
遠くで逃げ水が
歩む足を消してゆく猛暑の
ある夏の日
部屋の隅に横たわっている体が
生体であっても死体であっても
許せるだろうか
信じなくても
死ぬことはできようものを
肉体だけが
無価値に存(ながら)えること
許せるだろうか
急に声をかけられたように慌てて
調子外れに「はいぁ・・・?」と
答えたつもりで
眠った肉体を残して去ってゆくこと
許せるだろうか
ひとりひとりが「らしさ」
という虚像を追いかけ
虚を衝(つ)き実を取る世にあって
衝くことも取ることもできないまま
ある夏の日
じっとり熱と汗に塗(まみ)れて
生きながら腐ってゆくような
肉を掴(つか)んで確かめるもの
許せるだろうか
許されるだろうか
ゆっくり体を起こして
渇いた咽喉(のど)から溜息を吐き
儘(まま)ならぬ不意の眠りから
信じているのかいないのか
また目覚めている
 
 
 
  神という存在
 
神は、
存在であり本質であり真理であるが、
存在者(≒概念化できる既知のもの、譬えれば、見えるもの)ではない。
 
神は他のものを必要としないという意味では
自立存在のような気もしますが
そういう存在だとしても、人の立場で考えるとき、
神は、人にとっては、
人が関わられることの中でしか、
その一部さえ、知り得ない御方であり、
神からの、人との関係で、自らを顕す御方であって、
人から論理的に、こういうものだというふうには、
神との関係も存在も、概念のようには、
説明することは出来ないと思っています。
説明できたら、それは神ではなく存在者に過ぎないのです、
 
神から顕されたことによって
人は、人の言葉で、ある程度は神について語れるが、
人の言葉で神を語り尽くすことは出来ないと思っています。
そしてその追究されるべき未知の最大値「ある程度」が
人にとっては、とても大事であり不可欠ともなりうるような気がします。
 
 
 
天上の知恵

天上の知恵
 
(2022年02月13日)
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
楽山は、どんどん恥ずかしい人になってゆきます。楽山が何か書けば、そこに、楽山の履歴として体質として、悪意、芝居、自慢、自己中、嘘、詭弁、などが、必ず表れてくるのです。それを、その人の筆致と呼んでいます。書き癖と言ってもよいでしょう。筆致は、その人の人生を表すことになります。
 
責任を負うこと・・「難しいんだよなあ」・・人間なら、責任を負うのは当たり前のことなのです。「人間の性なんでしょうかね」・・違います。まともな人間ならしないことを楽山はしているのです。人間一般ではなく、自分の失敗は自分の責任です。
 
 
 
私の「ウソの国ー詩と宗教」ブログ:
 
(古い記事は載っていません)
 
http://st5402jp.livedoor.blog/
(古い記事もインポート済み)
 
ツイッター:
(ブログ記事をコピペすることあり)
 
 
ブログ村ランキングリング:INポイントが付かない。
にほんブログ村 ポエムブログ 暗い詩へ(文字をクリック)]
にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ(文字をクリック)]
 
ブログランキング
 
 
 

 
  無常の価値2
 
 
人間が死にたくなるのは、絶対孤独になって、周りに人間がいなくなるか、周りにいる人が人間と思えなくなって絶望するからです。人間が生きるのは、周りに人間らしい人や関係があって、人間味の共感を味わっていられるからです。
 
人間味の中に尊い愛があり、即ち、心があり、共感があり、思いやりがあり、それゆえにこそ泣いたり笑ったりが生まれるのです。人間にとって、最も大事なことは、超常ではなく、日常の中にあるのです。そこを疎かにする宗教はカルトといってよいでしょう。
 
なのに、処女懐妊に、奇跡に、肉体の復活にと、超常の不明を、批判不可として信じ込めば、いろいろな不明を次から次に信じ込んで、心は超常に迷い込んで、神明も不明も分からなくなり、人間性の最も大事なる現実の関わりに鈍感になり、超常の言葉を唱え続けることになるのです。
 
人間にとって大事なことは、無常なる現実世界に、たくさんの糧(かて)があると知ることです。無常こそ大事であり、無常であるからこそ大切にするのであり、いずれ過ぎ去ってゆく身としては、常世に至る前に、この地上で大切にするべきことがあるでしょう。無常が現実だからです。
 
神は恒常であり永遠不変です。そのような御方として信じるわけです。神だから常世に住めるのでしょう。神は、人間に共感するが、超常も地上も支配する御方であります。人は、神に対して、祈ることしかできません。つまり、完全なる神を信じるのは、人が完全ではないことを肝に銘じて、祈るためです。
 
神は、人が恒常不変になるから憐れむのではない。憐れんだら恒常不変になるから憐れむのでもない。何よりも人は地上で恒常不変にはなれません。信仰は地上を生きるためにあります。超常の奇跡話に陶酔するのは、現実逃避につながります。そういう時は、しんみり祈るべき時であります。
 
神は、人の不完全を既にご存知であります。人がご自身とは異なり、無常で儚く弱いからこそ憐れんで成長を願っておられると思います。何ゆえに神を真似て、永遠不変の超常を、地上で真似ようとするのでしょう。感謝や讃美が、超常を理解したかのような信仰自慢にならないように願っています。
 
何ゆえ無常の現実を疎かにして、恒常が手に負えると思う人がいるのでしょう。何ゆえ成長を疎かにして
不変を欲しがる人がいるのでしょう。何ゆえ人の愛を疎かにして、神の愛を説こうとする人がいるのでしょう。
 
何ゆえに人の理屈で、神を証明しようとするのでしょう。また逆に、何ゆえに人の理屈で神を否定できると思うのでしょう。何ゆえに霊が分かるっぽいという思い込みで人間離れの超常の世界へ人を誘導するのでしょう。おぞましいことです。
 
 
 
人間にとって一番大事なことは、自分の不完全を知り、共感を養うことです。信仰は、そのためにあるのです。信仰は共感性を捨てて超常に向かうことではありません。そういう過ちは、キリストの意図を理解する前の弟子たちにもありました。
 
 (ルカによる福音書、口語訳)
9:46
弟子たちの間に、彼らのうちでだれがいちばん偉いだろうかということで、議論がはじまった。 
(ルカ9:46、新約聖書)
22:24
それから、自分たちの中でだれがいちばん偉いだろうかと言って、争論が彼らの間に、起った。
(ルカ22:24、新約聖書)
 
 
 
無常 曲折

無常 曲折
 
 
(2018年01月)
(2021年01月22日、加筆して再録)
(2022年02月11日、再録+)
 
懐妊(かいにん)
常世(とこよ)
恒常(こうじょう)
儚い(はかない)
疎か(おろそか)
 
 
 
  なれの果て
 
またも果てである
いつか果てである
目処(めど)が立っても立たなくても
耐えても進んでも
黙っていても
必ず果てである
 
止まれば土か
流れれば海か
飛べば空か
だから一つの
忘れやすい夢である
 
夢の属性に救われて
来るという保証のない
明日の目覚めを
願うことなく信じていた間
同じように忘れていた
見えない闇の果て
 
いつか手に
ショッピングバッグをぶら下げて
街頭に立ち
錆びた街灯に触れて
すりきれた外套の
衰えた視力の
細い明かりと
冷たい引っかかりと
見えない剥離と
輪郭の縁(へり)と
影をゆっくりなぞっている
見えない光の果てである
 
 
  初恋
 
風邪でも引いていたときだったか
同じ高校
同じ下宿の狭い廊下
若い娘の小さな手のひらが
若い私の額に触れた
それは何気ない行為だったが
急なときめきに
熱くなった胸と裏腹に
私は不意を打たれたように動けなくなって
しばらくぼうっと立っていた
 
あの狭い廊下
あれから幾つの廊下や
板張りもない場所を彷徨ったのだろう
私の眼も胸も泥濘に落ちて
こんなに濁ってしまったよ
下水のようなトンネルを抜けて
ときおり触れてくる
あのときの温もりは
まだこの額に残っているけれど
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
3年前でも、何年前でも、発言の責任は、本人が間違いを認めて反省しない限り、現在の罪として責任は発言者に残ります。無反省や無責任は「人間の性」ではありません。楽山という異常者に特有の病質として、何度でも責任を問われることになります。継続する自己中は、常に、害悪だからです。
 
楽山などの無神教カルトは、史実と論理で分からない神は存在しないという考え方です。こちらは、信仰は史実や論理を根拠としてはいないと言っています。つまり、無神教カルトは、聖書と体験から共感するという心の感性を持っていないから、分からない神を存在しないと決めつけているのです。
 
共感性というのは、端的に言えば、愛のことです。しかし、愛という言葉は言い古されていて、さらに、楽山が、恋愛についての実に幼稚な芝居の例示で、愛させてくれなければとか、理想化して好むとかの、臭い話を持ち込んでくるので、私は、共感性という言葉を使っているのです。
 
 
 
私の「ウソの国ー詩と宗教」ブログ:
 
(古い記事は載っていません)
 
http://st5402jp.livedoor.blog/
(古い記事もインポート済み)
 
(ここは、たまにブログ記事をリンク)
 
 
にほんブログ村 ポエムブログ 暗い詩へ(文字をクリック)]
にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ(文字をクリック)]
 
ブログランキング
 
 
 

 
  神と信仰メモ2
 
 
なぜ、神の存在を信じる人がいるのでしょう。
 
この地上には、どうあがいても、自分の思い通りにならない悲惨なことがあるからです。しかも、いつどこで、生まれても生きても同じだろう、と思うに至った者がいる、あるいは、いたからだろうと思います。
 
そうして、今は、どうしようもない地上の汚れのうちにいる人の目には隠れて見えないが、悲劇の背後には、総てを統べる摂理を含む存在がいるのだろう。その御方は、人間に共感する御方であることが、聖書に書かれています。
 
そして、その御方、即ち、神は、今は隠れているけれども、完全なる真・善・美を携えて、同伴して見ておられるのだろう。私たち人間を無視してはおられないが、その御方には、われわれとは別の、我々が今考えても分からないような、計画があるのだろうと思うに至るのでしょう。
 
信じる人は、決して、いちゃもんのような、自分勝手な欲望に都合よく当てはめて決めつけたのではなく、生きるために悩み苦しんだ結果として、絶対者として、その御方を必要とし、望んだのだろうと思います。その凄みが、神という存在を、今に伝えているのでしょう。
 
そこから、人を理解しながら、人を超えている存在として、全知全能・絶対完全・永遠不変の存在を、固有の「神」という名で呼ぶようになったのではないかと思われます。即ち、神は、その名で、人が呼んだとき既に、人に解明できたり、存在や不在を証明できるような、安い存在ではないということです。
 
その存在を知ることは、不思議が起こらなければ直ぐ離れてもいいような物や肉体の奇跡ゆえではなく、人間の心の深みに残る、人間にとって、いちばん大切な、共感の同伴というあり方をもって、人の心に消えようもなく残ったゆえに、人々は、信仰の救いと呼ぶようになったのでしょう。
 
神という存在を、人間が自らの限られた有限の存在世界から、自らの持ち合わせた人間の安易な理屈と知識だけで、超常のホラーのような物語におとしめて、机上の辻褄合わせで、神?は良いとか悪いとか、存在とか不在とか、決めつけることが、いかに、的外れであるかを分かってほしいと思います。
 
信仰は、善悪を判断する道徳ではありません。美醜を判断する美学でもありません。正邪を判断する正義の軸でもありません。全能者が、全能者のあり方で、神の前に正直な人を救うために、人を愛するために、存在する摂理を知ることです。
 
真善美が一体となる完全なる神が、寛容と慈愛と共感をこめて人に与えるのは、人間には届かない完全な真善美ではなく、完全なる神の義でもなく、ただ、神の前で、精いっぱい正直な祈りの告白だけで、不完全な人が、そのまま善しとされて生きるための信仰の義であります。
 
 

無明に注ぐ光
無明(むみょう)に注ぐ光
 
 
※ 
 
宗教にも無宗教にも非宗教にも反宗教にも、実に、嘘の、詭弁の、誘導の、印象操作の、鼻の曲がりそうなインチキの安い屁理屈で、神に、いちゃもんをつけて、人間の良心から神の存在に気づく直感の道を妨害しようとしている者がいます。
 
彼らは、神という存在を、そして、信仰を、安っぽい理屈で、揶揄したり、おとしめたり、侮辱したりしますが、彼ら自身には、何を解決する力量も、誰を救う力量もないのです。文句だけが執拗な彼らこそ、この地上のホラーであります。
 
信仰者は、神からのお告げかどうかを知らされることはなく、信仰者が安穏に暮らせるとは限らない地上で、人間として正直に反省し成長する意志をもって努めることで、いかなる妨害にも屈しない時間だけ、命があれば、何かすることはあるでしょう。
 
 
(2021年01月18日、同日一部修正)
(2022年01月20日、加筆修正)
 
 
 
 『易(えき)入門』黄小娥著
 2022年01月19日 楽山日記(LD)
 
 
やはり、楽山は、努力より、占いが当たることを望むのでしょう。短い記事ですが、さらに、褒めるだけの文章ですから、空疎としか言えない干からびた感想で、何のアドバイスにもなっていません。こういう文章を書いてくる厚顔が楽山の持ち味としか言いようがなく、ネットの屑となっています。
 
何年か前に易経に興味を持ち、いくつかの関連書籍を集めてはみたものの、どれも難しくてずっと積読状態になっていたのであるが、先日思い立って、それらの中でもっとも初心者向きらしい本書を開いてみた。
 
初心者に向けて、こういう本を読むとよい・・みたいな書き方をするのは、読解力のあるする専門家のすることです。楽山に、読書の勧めを書く資格はありません。あらゆる本を曲解して、キリスト教と信仰について、度外れた偏見を持つに至った楽山です。
 
一読して、本書が易の入門書として高く評価されている理由がわかった気がする。まず文章は平易で分かりやすいし、六十四卦の説明では冒頭に卦の意味を一言で提示してあって有り難い。実占のエピソードは、初版は昭和36年なのでいささか時代を感じさせるところはあるが、どれも印象的で記憶に残るものばかりである。おかげ様で未済まで興味を失うことなく読み進めることができた。
 
「易の入門書として高く評価されている理由がわかった」といって、専門用語の説明もせず、難しい書に見せかけても、「平易」「説明」「有り難い」と、「印象的」「記憶に残る」「興味を失うことなく」など、具体性のない褒め言葉だらけです。いい加減な読書感想文の典型でしょう。
 
恥ずかしながら自分は、易経を読もうとして乾の途中で挫折したくちである。こんな自分でも最後まで通読できる入門書を執筆してくださった著者にはただただ感謝である。
『易(えき)入門』黄小娥著、裏
ちなみに、こちらは裏カバーである↑
著者紹介を読むと、著者は本当にすごい人のようだ。
 
楽山の記事に付き合うのは、時間の浪費です。それこそ、人生の貴重な時間を、どぶに捨てるようなものだと思います。批判以上では、楽山に関わらないでください。「ただただ感謝」「すごい人」・・読書感想文になっていません。感想を問われて「よかった」と言って、先生に怒られる小学生みたいです。
 
楽山は、故意なのです。一生懸命書いても、足らざれば、見せるのを控えるか、発表しないで置くか、むしろ、足らざる自分について考えるべきですが、楽山は、自己顕示欲から、人のためになるかのような、教えるような筆致で書いて、拙く短い文章では書けないテーマということに、気づかないのです。
 
 
 
 
  呪いの丘
 
晴れた日の光をいっぱいに浴びて
洗礼を受けたばかりの若者が
翌日落雷に打たれて死んだ
しばらくは指が動いていたという
つり上がった目が空をにらんでいたという
 
彼が死んだその丘は
その後長きにわたって呪いの丘とされ
ある者は悪魔を恐れるように神を恐れ
ある者は笑いながら
あるいは泣きながら歩み去った
 
人々は
その事件について口にするのをはばかり
最初たてられた十字架は
何者かによって倒された
 
誰も訪れることのない
その丘に
血まみれのキリストだけが
息もたえだえに祈りを捧げている
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
反省と学習は、人間に必須のことです。それが出来ないならば、人間ではないと言ってもいいようなことなのです。なのに、楽山は、「難しいんだよなあ」「人間の性なんでしょうかね」などという、まるで実感のない、ふざけたことを言っています。できることさえ、しないで、笑う人です。
 
 
 
私の「ウソの国ー詩と宗教」ブログ:
 
(古い記事は載っていません)
 
http://st5402jp.livedoor.blog/
(古い記事もインポート済み)
 
(ここは、たまにブログ記事をリンク)
 
 
にほんブログ村 ポエムブログ 暗い詩へ(文字をクリック)]
にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ(文字をクリック)]
 
ブログランキング
 
 
 

 
  超常と信仰
 
 
神・キリスト、聖霊の聖三位は、いずれも、超常の御方であります。人間は、超常に住んではいないし、超常を解釈する立場でもありません。人間が神聖に関わるのは、あくまで、人間として、仰ぎ、希望として生きる縁(よすが)とするためであります。
 
超常の神聖なる世界を、人間が、推測したり想像したり、説を述べたりすることは、人間の知的な営みとして是とされますが、それを決めつけて信じ込むことは、背教に他なりません。超常を考えるより大切なことは、地上の日常、即ち、人間の生き方を考えることです。
 
神聖を語るに、神聖の用語を語っても、人には理解できません。理解したかのように振り回すのは、とても醜いことです。自分という人間に、神聖は、どのように影響しているかを語るべきであります。そのヒントは、他でもない、聖書にあります。
 
旧約聖書には、神と人の違いが、多く語られています。人は有限であり、神は、全知・全能、絶対・完全、永遠・不変の存在として語られています。この6つの性質は、いずれも、人にはないものであり、神聖なる御方だけの性質であります。
 
新約聖書には、キリストの、この上ない洞察力と共感性が語られています。数々の物や肉体への奇跡、超常奇跡については、現代において、殆ど起こっていないので、人間には理解を超えた神聖の力であり、そこに、不完全な人間の信仰は成り立ちません。生きる縁にならないからです。
 
キリストは、傷ついた人、病の人、取税人、姦淫を犯した女性、犯罪人、などを、選んで、救いました。その人々は、正直に告白する以外、何も持っていなかった人々です。一方、分かっている、守っている、知っている、見える、という人々には、信仰の義を与えず、多く、敵としました。
 
聖書を読んで、不完全な性質、即ち、罪深さを常態として持っている人間が、何を受け取るべきか、そして、何を考えるべきかが、そこに、表れています。超常の神聖の理解は、終末まで、保留するべきであります。ゆえに、神秘と言われます。
 
私たちは、祈りにおいて、何が語れるでしょう。正しい絶対の完全な真理、救いの具体的な仕組み、終末まで、私たちは知りません。人間を見て洞察するキリストの共感に、私たちも、共感を覚えたゆえに、キリストを好きになり、祈るようになっただけなのです。
 
ですから、祈りにおいて、語れるのは、正直な、罪の告白と、癒しと救いの希望だけなのです。それを学ぶために、聖書があり、ヒントとしての教義があり信条があるのです。分かっているから信じるのではありません。信じていないと生きられないから、祈るのが、信仰です。
 
 
信じ仰ぐ

信じ仰ぐ
 
 
(2021年12月15日)
 
 
 
超常の神の辻褄を、日常の人の辻褄で、推し量ることは出来ません。肯定することも、否定することも、できないこと知るべきであります。それよりも、もっと、自分が、何ゆえ、キリスト者になったのか、自分が、何ゆえ、聖書を読み求道しているのかを、人間として考えるべきだと思います。
 
キリストの深い共感に呼応して、私たちは、キリストに共感できるから、キリスト者になり、あるいは、求道を続けています。人間の共感性を失うようになって、教理の言葉を並べるだけになったら、もはや、人間を生かす信仰ではありません。
 
昔、「愛の唄にはなぜか、愛のことだけが書かれていない」という詩を読んだことがあり、愛よりも、共感という双方向の言葉が好きです。共感は、愛につながると言ってもよいでしょう。愛の行いは、人を生かしますが、一方、よかれと思って傷つけることもあります。人間は不完全です。
 
 
 
  宗教は
 
いるともいないとも証明されない
神様を信ずるのだから
宗教は
無神論と同じくらい
あやしげなものである
 
しかもそれを
人の筆でつづり
人の口で語ろうというのだから
宗教は
無関心と同じくらい
あやうげなものである
 
 
  信仰告白
 
人間がなしうる
最も良質な
精一杯の信仰告白は
不信仰告白である
 
 
※ 
 
正直な告白と願い以外は、神には通用しないと思います。
 
絶対の神に対して、真善美の大仰な讃美だけは、しないほうがよいと思います。
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら 誤ったら 素直に詫びて 自分 正さなくちゃいけない」「それが出来て 初めて人間だと それ出来ないなら 人ではないと」「嘘ばかり 重ねる君よ 保身だけの 卑怯者の君よ そんな君は 魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと 最大限の反省と共に 開いた出店を 畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
楽山は、小学生の興味本位の謎解きのようなことを書いていました。神がいるなら酷い悲劇は起こらないはずだから、悲劇が起こっているということは、神はいない・・という主張ですが、神の辻褄を、自分の辻褄で語れると思うこと自体が、既に、神を少しも知らないということです。
 
酷い悲劇が起こる地上だから、生きるための縁(よすが)が必要なのです。楽山は、自己愛・自己中を生きる縁として、自分のほうが上だという優越感だけを求めて、自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)の醜さを表すようになっている反キリストです。
 
 
 
 楽山のツイッターですが
 
★こも/楽山日記3
@komo266
訂正!
× Pさんにとっても神は、逆らおうと思える存在なんですな。
○ Pさんにとっての神は、逆らおうと思える存在なんですな。
引用ツイート
★こも/楽山日記3
@komo266
返信先: @vincent20200110さん
神に対するアンチなんて
やろうと思えば誰でもやれる
 」
Pさんにとっても神は、逆らおうと思える存在なんですな。
私は、神には誰も逆らえないと思うけどね。
たとえば臨死体験で、光の存在と会って、深い愛を感じ、癒やされ、改心した話はあっても、逆らった話なんて聞いたことないもんね。
午後9:47 · 2021年12月14日
 
「神には誰も逆らえないと思うけどね」・・神を知らないし、信じてもいない楽山が言っています。口から出まかせとは、このことでしょう。このように、知りもしない存在を、分かっているかのように、いけしゃあしゃあと書いてくるのが、自己愛性人格障害の特徴でしょう。
 
「臨死体験で、光の存在と会って、深い愛を感じ、癒やされ、改心した話」・・楽山の夢想~妄想する神?は、「臨死体験」とかでないと、ぴんと来ないのでしょう。それを、「光の存在」「深い愛」「癒され」「改心」などと精いっぱい飾ってきました。
 
楽山レベルの、アンチというのは、大嘘なので、無知で無恥な分、誰でもやれるだろうと思います。楽山のインテリ宗教家気取りは、止みません。楽山は、神を、そして、深い愛を、文章に表せたことがなく、全く知らないのです。言葉だけをいじくる楽山の企みは、空しいばかりです。
 
楽山の、マンガ的な落書きの世界で、"神"という言葉は、言葉だけで、何の意味も持ちません。そして、楽山は、自分の物差しで測れる神?を、せっせと貶めてきたのです。真摯な態度というのが、全くないのが、自己愛性パーソナリティ障害NPDの、転落中の、楽山の特徴です。
 
楽山は、全てが分かっていないと気の済まない男なので、平気で、"神" と言い、それを自身の安っぽい概念の箱に納めてしまうのです。そこは偏見の溜まり場であって、信仰の欠片も芽生えも、ありません。埒(らち)もない暗く陰湿な魔道を、楽山は、ずっと、徘徊しているのです。
 
 
 
私の「ウソの国ー詩と宗教」ブログ:
 
(古い記事は載っていません)
 
http://st5402jp.livedoor.blog/
(古い記事もインポート済み)
 
ツイッター:
(ここにブログ記事をコピペすることあり)
 
 
ブログ村ランキングリング:INポイントが付かない。
にほんブログ村 ポエムブログ 暗い詩へ(文字をクリック)]
にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ(文字をクリック)]
 
ブログランキング
 
 
 

このページのトップヘ